Ukṣan§
Ukṣan. Go を見よ。
Ukṣan. Go を見よ。
Ugra-sena は Śatapatha Brāhmaṇa(xiii. 5, 4, 3)に、またそこに引かれる Gāthā に言及されており、Bhīmasena および Śrutasena とともに Pārikṣitīya であり Janamejaya の兄弟であるとされる。この兄弟たちは馬祀によって罪より浄められた。
Uccaiḥ-śravas Kaupayeya は Jaiminīya Upaniṣad Brāhmaṇa(iii. 29, 1-3)において Kuru 族の王として、また Keśin の母方の伯父として現れる。彼と Kuru 族との関係は、Upamaśravas が Kuruśravaṇa の子であったという事実によって裏づけられる。両名は著しく類似しているからである。
Uttara Kuru. ── 叙事詩および後代の文献において神話的な役割を演ずる Uttara Kuru 族は、Aitareya Brāhmaṇa1 においてはなお歴史的な民族であり、そこでは Himālaya の彼方(pareṇa Himavantam)に位置づけられている。しかし別の箇所2 においては、Uttara Kuru の地は Vāsiṣṭha Sātyahavya によって神々の地(deva-kṣetra)であると述べられている。だが Jānaṃtapi Atyarāti はこれを征服しようと切望していたのであるから、それはなお全面的に神話的なわけではない。北方の Kuru 族が Kaśmīr に定住していたという Zimmer の見解を容れるのは道理にかなう。とりわけ Kurukṣetra は、Kaśmīr から進出した諸部族が自然に見出されうる地域だからである。Cf. Udīcyas.
Udag-ayana. Sūrya を見よ。
Ud-aṅka Śaulbāyana. ── Brahman についての彼の見解 ── 彼はそれを生気(prāṇa)と同一視した ── が Bṛhadāraṇyaka Upaniṣad(iv. 1, 3)に言及されている。したがって彼は Videha の Janaka と同時代の人であったことになる。彼はまた Taittirīya Saṃhitā(vii. 5, 4, 2)においても、Daśarātra の儀礼が Sattra(「祭会」)の繁栄ないし最良の部分であると主張した者として言及されている。
Udamaya Ātreya は Aitareya Brāhmaṇa(viii. 22)において Aṅga Vairocana の Purohita すなわち家門の祭官として言及されている。
Udala は Vaiśvāmitra の一人であり、Pañcaviṃśa Brāhmaṇa(xiv. 11, 33)において或る Sāman の作者たる聖仙として言及されている。
Udāna は、五つの生気(Prāṇa)が数え上げられる場合、通常はその第五である。1 時には2 第二として現れ、Prāṇa に続き、Vyāna ないし Samāna がこれに続く。また3 単に Prāṇa と対置されることもあれば、単に Prāṇa と Apāna に続くこともある。4 Śatapatha Brāhmaṇa5 においては食物を消化する息として扱われ、この観念は後代の Upaniṣad6 にも辿りうる。他方それはまた、喉を通って昇る風とみなされ7、死に際して霊魂を導き出すものともされる。8
Ud-īcyas. ── 北方の地のバラモンたちが Śatapatha Brāhmaṇa1 において、Svaidāyana Śaunaka を代弁者として Kurupañcāla のバラモン Uddālaka Āruṇi と論争し、彼を打ち負かした者として言及されている。彼らと Kurupañcāla 族との関係は、
同じ Brāhmaṇa2 において北方の言語が Kurupañcāla のそれと類似していると言及されていることからも窺われる。北方人の言語はまたその純粋さによって名高かった。それゆえ Kauṣītaki Brāhmaṇa3 によれば、バラモンたちは学習の目的で北方へ赴くのを常とした。また仏教文献においては、Takṣaśilā(Gandhāra における)の学派が学生の集う地として名高い。4 おそらくまた、Franke5 の示唆するように、サンスクリットは Kaśmīr において特に発展したのであろう。Kuru をも見よ。
Udumbara. ── Ficus glomerata を指すこの名は Ṛgveda には現れないが、Atharvaveda1 以降しばしば見出される。あらゆる種類の儀礼的目的のために、その材が絶えず用いられた。祭柱(yūpa)2 と祭祀用の匙3 はこれで作られ、Udumbara の護符も言及されている。4 その材は、Aśvattha、Nyagrodha、Plakṣa といった他の無花果類の材と同じく、祭祀における使用に適したものとみなされた。5 その実の甘美さは Aitareya Brāhmaṇa6 に言及されており、そこではそれが Madhu と同列に置かれている。同書ではまた、年に三度実を結ぶとも語られている。7 Udumbara の森が Pañcaviṃśa Brāhmaṇa8 に言及されている。
Uddālaka Āruṇi. ── Aruṇa の子 Uddālaka は、ヴェーダ期の最も傑出した師の一人である。Śatapatha Brāhmaṇa1 によれば、彼は Kurupañcāla のバラモンであった。この記述は、彼が Kauśāmbī の Proti Kausurubindi の師であったこと2、また彼の子
Śvetaketu が Pañcāla 族の間で論争しているのが見出されること3 によって裏づけられる。彼は父 Aruṇa の弟子であり4、また Madra 国の Patañcala Kāpya5 の弟子でもあった。他方、彼は名高い Yājñavalkya6 Vājasaneya および Kauṣītaki7 の師であったが、前者は他の箇所8 においては彼を沈黙させた者として描かれている。彼は Prācīnayogya Śauceya9 を論争において打ち負かし、また明らかに Bhadrasena Ājātaśatrava10 をも打ち負かした。もっとも、ここでの本文はその名を Āraṇi と読んでいるように見える。彼は Gautama であり11、しばしばそのように言及される。儀礼および哲学の問題における権威として、彼は父称 Āruṇi の名で Śatapatha Brāhmaṇa12、Bṛhadāraṇyaka Upaniṣad13、Chāndogya Upaniṣad14 において繰り返し言及され、また時に Aitareya15、Kauṣītaki16、Ṣaḍviṃśa17 の諸 Brāhmaṇa、ならびに Kauṣītaki Upaniṣad18 においても言及されている。Geldner19 によれば、Maitrāyaṇī Saṃhitā においては彼は言及されず、ただ父 Aruṇa のみが言及される。Weber20 によれば、彼の名は Pañcaviṃśa Brāhmaṇa には現れない。しかし Kāṭhaka Saṃhitā21 においては、彼は Āruṇi として Divodāsa Bhaimaseni と同時代の人として知られており、Jaiminīya Upaniṣad Brāhmaṇa22 においては Vāsiṣṭha Caikitāneya に仕える者として言及されている。Taittirīya の伝承においては彼はほとんど現れない。Taittirīya Saṃhitā23 には Kusurubinda Auddālaki への言及があり、また Taittirīya Brāhmaṇa24 によれば Naciketas は Vājaśravasa Gautama の子であって、
この者は Sāyaṇa25 によって Uddālaka であるとされている。しかし Naciketas の挿話はいささか非現実的であるから、血縁関係を証するうえで歴史的価値を有するものとはみなしえない。Aruṇa は Taittirīya Saṃhitā に知られている。Uddālaka の実の子は名高い Śvetaketu であり、Āpastamba26 は彼が自らの時代においては Avara すなわち後代の権威であったと明示的に報じている。これは Āruṇi の年代にとって重要な記述である。
Uddālakāyana は Bṛhadāraṇyaka Upaniṣad の Kāṇva 伝本に含まれる第二の Vaṃśa(師の一覧)(iv. 6, 2)において Jābālāyana の弟子として言及されている。
Upa-ketu は Kāṭhaka Saṃhitā(xiii. 1)に言及される人物の名である。
Upa-kosala Kāmalāyana は Chāndogya Upaniṣad(iv. 10, 1; 14, 1)において師として、また Satyakāma Jābāla の弟子として言及されている。
Upa-kvasa は Atharvaveda(vi. 50, 2)における、種子を害する有害な昆虫の名である。しかし Sāyaṇa はこの語を複数形の形容詞(a-pakvasaḥ = a-dagdhāḥ)と読む。ただし Paippalāda 伝本は upakvasaḥ の形を支持する。
(訳注:原書は a-dagdāḥ と印刷するが、a-dagdhāḥ の誤植と判断して訂正した。)
Upa-gu Sauśravasa は Pañcaviṃśa Brāhmaṇa(xiv. 6, 8)において Kutsa Aurava の Purohita として言及されており、Indra に敬礼を捧げたがゆえに Kutsa によって殺された。
Upa-jihvikā, Upa-jīkā, Upa-dīkā はいずれも一種の蟻を指す同一語の異形である。1 Atharvaveda2 においては、これらの蟻に治癒の効能を有する水に達する力が帰されている。それゆえこれらは毒に対するあらゆる種類の呪法に用いられた。その治癒力への信仰は疑いなく、蟻塚の土がその水を含むという周知の性質に由来するものであった。
Upa-dhāna は Atharvaveda(xiv. 2, 65)において座席(Āsandī)の「褥」を指す。これは他の文献における Upabarhaṇa に対応する。
Upa-dhi は Ṛgveda1 および Atharvaveda2 にそれぞれ一度ずつ、Pradhi とともに現れ、戦車の車輪の一部を指す。いかなる部分が意味されているかを正確に決することは不可能である。Roth3、Zimmer4、Bloomfield5 はこの語が輻(や)を総称するものと考える点で一致している。Whitney6 はこれをありそうにないと考え、そこに無輻の一枚板の車輪の呼称を見ることを選び、Pradhi がおそらく輪縁で、Upadhi がその余の部分であるとする。他の可能性7 としては、Upadhi が輞(わ)の下の縁であるか、あるいは輪帯(通常は Pavi)と対比された輞そのものであるかである。
Upa-niṣad は Brāhmaṇa 文献1 においては通常、何らかの語ないし本文の「秘められた意味」を指し、時には遊行者の「秘められた規則」を指す。しかし Bṛhadāraṇyaka Upaniṣad2 においては、すでに複数形で一群の著作の呼称として用いられており、それは疑いなく実際に存在し、主題とその扱いの性質において Upaniṣad 類に類似するものであった。同様に Taittirīya Upaniṣad の諸節は ity upaniṣad という語で終わる。Aitareya Āraṇyaka3 はその第三部を「Saṃhitā の Upaniṣad」という標題をもって始めており、この標題は Śāṅkhāyana Āraṇyaka4 にも現れる。この語の正確な原義は不確かである。Max Müller5 によって採られ以後通例となった自然な語源解釈は、この語がまず弟子の座会を意味し、そこから秘教的教説を、次いで秘教的教説についての著作の標題を意味するとする。しかし Oldenberg6 は、この語の用法を
「崇拝」というより古い意味に遡らせる(upāsana と比較せよ)。Deussen7 は原義が「秘められた語」であり、次いで「秘められた本文」、そして「秘められた意義」であったと考えるが、この意味の順序はありそうにない。Hopkins8 は Upaniṣad が補助的な論書を指すと示唆するが、この意味は「秘められた意味」という一般的な用法 ── 他のいかなる用法よりもはるかに頻繁である ── を自然に説明しない。
Upama-śravas は Ṛgveda の一讃歌1 において Kuruśravaṇa の子、Medhātithi の孫として言及されている。しかしそこでの彼への言及の正確な意味合いは不確かである。Bṛhaddevatā2 によれば ── Ludwig3 および Lanman4 もこれに従う ── 詩人はこの讃歌において、祖父 Medhātithi の死について Upamaśravas を慰めている。他方 Geldner5 は、詩人 ── Kavaṣa Ailūṣa であった ── が庇護者の子 Upamaśravas によって虐待され、溝ないし井戸に投げ込まれ、そこで嘆きと憐れみを乞う訴えを発したのだと考える。しかしこれについては十分な証拠がなく、Bṛhaddevatā の伝承のほうが堅実であるように思われる。
Upala-prakṣiṇī は Ṛgveda1 に一度現れ、そこでは或る女性の生業を指し、詩人(kāru)である彼女の子の生業、および医師(bhiṣaj)である彼女の子の父の生業と対比されている。Yāska2 はこの語を「挽き割り粉を作る女」(saktu-kārikā)と訳し、Roth3、Grassmann4、Zimmer5 その他もこれを穀物を挽く作業と結びつける。しかし Pischel6 は、穀物が二つの石の間で挽かれたのではなく、石の上で杵(dṛṣad)によって搗かれたことを指摘し、Upala-prakṣiṇī が Soma を搾るのを助けた女性を指すと考える(cf. Upara)。von Schroeder7 は、upala を穀物が入れられて杵で搗かれた臼とみなすことに何ら支障がないとより正しく指摘し、この語を字義通りに「(下の)石に(穀物を)満たす者」と訳す。
Upa-veśi は Bṛhadāraṇyaka Upaniṣad の Vaṃśa(師の一覧)(vi. 5, 3、両伝本において)において Kuśri の弟子として言及されている。Aupaveśi をも見よ。
Upa-śrī, Upa-śraya は同一語の二つの読みである。前者は Kauṣītaki Upaniṣad1 の一伝本に見出され、他方後者はおそらく同 Upaniṣad の別伝本2 の読みであり、また Atharvaveda の一箇所3 における読みであることは確実である。もっともその本文は apaśrayaḥ とし、Roth4 はこれを可能な読みとして容れている。いずれの場合においても、この語は明らかに寝台(Atharvaveda においては Āsandī、Kauṣītaki Upaniṣad においては Paryaṅka)に関わる何かを意味する。Aufrecht5、Roth6、Max Müller7 はこれを「掛布」ないし「褥」と訳すが、Whitney8 がそれは「支え」ないしそれに類するものを意味するに違いないと主張するのは、明らかに正しいと思われる。
Upa-sti は Ṛgveda1 においても Atharvaveda2 においても「従属者」を指す。それは後代の叙事詩3 において、Vaiśya の上位二階級への従属が動詞 upa-sthā「下に立つ」「支える」によって表されるのと同様である。この語はまた同じ意味で Sti の形でも現れるが、Ṛgveda4 においてのみである。この語が含意する従属の正確な性質はまったく不確かである。Zimmer5 は、この「従属者」がギリシア人・ローマ人・ゲルマン人におけると同じく、王の被護民となった敗れたアーリヤ諸部族の成員であったと推測し、この語がおそらく賭博によって自由を失った者をも含んでいたと考える。6 Atharvaveda7 の証拠は、Upasti のうちに戦車作り(ratha-kāra)、鍛冶(takṣan)、御者(sūta)、隊長(grāma-ṇī)が含まれていたことを示す。他方 Ṛgveda の諸箇所は、「臣民」(sti)が民全体であるという可能性を否定する。それゆえ、彼らが王の本来の被護民であり、隷属的ではないが、通常の住民と対比して王に特別の関係で結びつけられていたと想定するのは妥当である。彼らのうちには Zimmer の示唆する諸階層のみならず、他の氏族からの亡命者や、王への奉仕によって立身を求める野心ある者といった、より高い要素も十分に含まれていたであろう。実際 Sūta と Grāmaṇī とは、そのようなものとして王家の官職者であり、Atharvaveda8 に記述されるように、王を作る者であって自ら王ではなかった。Taittirīya Saṃhitā9、Taittirīya Brāhmaṇa10、Kāṭhaka11 におけるこの語の用法は純粋に比喩的であり、それが現れる Ṛgveda の一箇所においても同様である。Atharvaveda の Paippalāda 伝本12 においては、Vaiśya、Śūdra、Ārya が Upasti として言及されており、おそらくは「臣民」という一般的な意味においてであろう。
Upāvi Jāna-śruteya は Aitareya Brāhmaṇa(i. 25, 15)において Upasad(一種の Soma 儀礼)に関する権威として言及されている。
Upoditi Gaupāleya は Pañcaviṃśa Brāhmaṇa(xii. 13, 11)において Sāman の作者たる聖仙として言及されている。
Ubhayā-dant、「上下両顎に門歯を有する」は、家畜のうち馬・驢馬等を
山羊・羊・牛から区別するのに用いられる表現である。この区別は Ṛgveda の後期の一讃歌1 に現れ、後期の諸 Saṃhitā2 および Brāhmaṇa3 に数度言及されている。Taittirīya Saṃhitā の一箇所4 においては、人が馬とともに ubhayā-dant に分類されている。その反対は anyato-dant、「一方の顎にのみ門歯を有する」であり、これは牛に常に適用される語である。5 事実、牛の八本の門歯は下顎に限られている。驢馬は Atharvaveda6 において ubhayā-dant と称される。しかし Atharvaveda の一箇所7 においては、この形容辞が牡羊に適用されている。だがここでの意味は、Ṛgveda8 において牡羊が牝獅子を滅ぼすのと同様、驚異が生ずるということである。Bloomfield9 は Atharvaveda の当該箇所について、「馬」を意味することとなる別の読みを示唆する。動物の平行的な区分としては、Taittirīya10 および Vājasaneyi11 両 Saṃhitā における「単蹄の」(eka-śapha)と「小さき」(kṣudra)という区分がある。
Zimmer12 はギリシア語の ἀμφώδοντα13 およびラテン語の ambidens14 から、印欧語族が五種の犠牲獣を、一方に人と馬、他方に牛・羊・山羊という二つの類に区分することに親しんでいたことを示そうとする。しかしこの想定は必要ではない。
Uru-kṣaya. ── Agni の歌い手にして崇拝者である Urukṣaya 族が、Ṛgveda の一讃歌(x. 118, 8. 9)に言及されている。
Uruñjirā は Nirukta(ix. 26)において Vipāś 川(現在の Beäs)の名の一つとして挙げられている。
Urvarā は Kṣetra とともに、Ṛgveda1 以降「耕地」(ἄρουρα)を表す通常の語である。肥沃な(apnasvatī)田2 についても、荒れた田(ārtanā)3 についても語られる。灌漑による集約的耕作は Ṛgveda4 においても Atharvaveda5 においても明瞭に言及されており、また肥料の使用にも言及がある。6 Ṛgveda7 によれば、田(kṣetra)は注意深く測量された。この事実は、耕地における個人所有を明瞭に指し示す。この結論は、Ṛgveda の一讃歌8 において Apālā が父の田(urvarā)に言及し、それを彼の頭髪と同列の個人的所有物として置いていることによって支持される。これと合致するのが「田を得る」(urvarā-sā, urvarā-jit, kṣetra-sā)という形容辞である。9 他方、神について用いられる「田の主」10 は、おそらく人間の形容辞(urvarā-pati)の転用である。さらに田は子らと
同じ文脈において語られ11、また田の征服(kṣetrāṇi saṃ-ji)が諸 Saṃhitā12 にしばしば言及されている。Pischel13 の示唆するように、耕地はおそらく草地(おそらく Khila、Khilya によって表される)によって境されており、この草地は他所の財産との類比からして、まず間違いなく共有財産であったであろう。ヴェーダ文献には、いかなる種類の共同体による所有という意味においても共有財産の痕跡はなく14、また共同耕作への言及もない。土地の個人所有は後代においても前提とされていると思われる。Chāndogya Upaniṣad15 においては、富の例として挙げられるもののうちに田と家屋(āyatanāni)が含まれている。ギリシア側の証言16 もまた個人所有を指し示す。もちろん、所有の精確な性質は「個人所有」という表現によって決定されるわけではない。家長とその成員との法的関係はいずこにも説明されておらず、ただ推測しうるのみである(Pitṛ を見よ)。しばしば一家族は土地における持分を分割せぬまま共に生活したのであろう。土地財産の相続に関する規定は Sūtra 文献17 以前には現れない。Śatapatha Brāhmaṇa18 においては土地を祭官への報酬として与えることが言及されているが、それは非難を伴っている。土地は疑いなく当時においてすでに、軽々しく与えたり手放したりすべきでない、きわめて特別な種類の財産であった。19
土地所有者と王その他との関係については Grāma を、その耕作については Kṛṣi を見よ。
Ula Vārṣṇi-vṛddha は Kauṣītaki Brāhmaṇa(vii. 4)において師として言及されている。
Ulukya Jāna-śruteya は Jaiminīya Upaniṣad Brāhmaṇa(i. 6, 3)において師として言及されている。
Uśanas Kāvya は古の聖仙であり、Ṛgveda1 においてすでに半ば神話的な人物であって、しばしば言及され、とりわけ Kutsa および Indra と結びつけられる。後代2 には彼は神々との抗争における Asura たちの Purohita となる。彼の名の異形は Kavi Uśanas である。3 彼は Brāhmaṇa 文献においては師としても現れる。4
Uśanā は Śatapatha Brāhmaṇa(iii. 4, 3, 13; iv. 2, 5, 15)において、Soma が調製された植物の名として現れる。
Uśīnara. ── Aitareya Brāhmaṇa1 においては、Kuru-Pañcāla 族が Vaśa 族および Uśīnara 族とともに「中つ国」に住むものとして言及されている。Kauṣītaki Upaniṣad2 においても Uśīnara 族は Kuru-Pañcāla 族および Vaśa 族と結びつけられているが、Gopatha Brāhmaṇa3 においては Uśīnara 族と Vaśa 族は北方人とみなされている。Ṛgveda4 においては、この民は一箇所でその王妃 Uśīnarāṇī への言及によって仄めかされている。Zimmer5 は Uśīnara 族がより早くはより北西方に住んでいたと考えるが、これについて明確な証拠はない。彼の説は単に、Ṛgveda の Anukramaṇī(索引)が或る讃歌6 を Śibi Auśīnara に帰していること、および Śibi 族が Alexandros の随行者たちに Σίβοι として7、Indus 川と Akesines 川(Chenab)との間に住む者として知られていたことに基づいている。しかしこれは決して決定的ではない。というのも Śibi 族は、少なくとも叙事詩の時代においては8 Kurukṣetra の北方の地を占めていたのであり、ヴェーダ期において Uśīnara 族が「中つ国」より西方にいたことを示す理由は何もないからである。
Uṣa、「塩の地」は、Maitrāyaṇī Saṃhitā(i. 6, 3)において Ūṣa の異形として現れる。
Uṣasta Cākrāyaṇa は Bṛhadāraṇyaka(iii. 5, 1)および Chāndogya(i. 10, 1; 11, 1)の両 Upaniṣad において師として言及されており、後者においてはその名が Uṣasti として現れる。
Uṣṭi, Uṣṭra. ── この二語のうち前者はきわめて稀であるが1、いずれも同じ意味を持つに違いない。Roth2 と Aufrecht3 は、Ṛgveda4 および Brāhmaṇa 文献5 における意味が「瘤牛」ないし「水牛」であると主張するが、前者は Vājasaneyi Saṃhitā6 においては意味が疑わしく、「駱駝」が意味されているかもしれないと考える。Hopkins7 はあらゆる場合において「駱駝」の意であるとの見解を明確に採る。この動物は四頭ずつ繋がれて駄獣として用いられた。8
Usra(男性)、Usrā(女性)、Usrika(男性)、Usriya(男性)、Usriyā(女性)。これらの語はいずれも「牡牛」ないし「牝牛」を指し、Ṛgveda1 にしばしば、また後代にも時に現れるが2、通常は朝の光への何らかの関連を伴う。若干の箇所では意味が疑わしい。Go を見よ。