Tの部
Takman§
Takman は Atharvaveda に繰り返し言及される疾病であるが、後代にはこの名では知られない。それは Atharvaveda の五讃歌1 の主題であり、他の箇所にもしばしば言及される。2 Weber3 が最初にこれを「熱病」と同定し、Grohmann4 はあらゆる症状がこの疾患を指し示すことを示した。5 患者の熱と悪寒の交互の発作6、熱病に伴う黄疸の黄色7、およびその特異な周期性に言及がなされている。その種類を記述するのに用いられる語は anye-dyuḥ8、ubhaya-dyuḥ9、tṛtīyaka10、vi-tṛtīya11、sadaṃ-di12 であり、これらの語の大部分の正確な意味はいささか不確かである。第一の形容辞が
quotidianus として知られる熱病、すなわち毎日同じ時刻に再発するものを指すことは一致して認められている。13 もっともこの語は奇異である(字義通りには「他の ── すなわち翌 ── 日に」)。ubhaya-dyuḥ(「両日に」)の類は、二日続けて再発し三日目が休みとなる疾病を意味すると思われる。これは rhythmus quartanus complicatus に相当する。14 しかし Sāyaṇa はそれが三日目に再発する熱病、すなわち「三日熱」を意味すると考える。ただし tṛtīyaka こそが「三日熱」であるに違いない。15 もっとも Zimmer16 は、それが第三の発作において致命的となる熱病を意味するかもしれないと示唆する。Grohmann17 は vi-tṛtīyaka を tertiana duplicata に相当するものとみなす。これは南方諸国において一般的な形態であり、熱病は毎日起こるが、一日おきに時刻ないし発作の激しさにおいて対応を示すものである。Bloomfield18 はそれが ubhaya-dyuḥ の類と同一であると示唆する。sadaṃ-di19 の類は、後に saṃtata-jvara(「持続熱」)として知られる種類であると思われる。これは数日にわたる発作があり、間隔をおいて再び新たな発作の期間が続くものである。熱病は種々の季節に生じ、秋に(śārada)、暑季に(graiṣma)、雨季に(vārṣika)20 生じたが、とりわけ秋に流行したことは、viśva-śārada、「毎秋生ずる」という形容辞によって示される。21
この疾病は Agni が水に入るときに生ずると言われる。22 このことから Weber23 は、それが暑熱に続く冷えの結果、あるいは湿地への暑熱の影響の結果とみなされていたと推論した。Grohmann24 は、疾病の起源を Agni が水に入ること25 と結びつけるこの説明のうちに、熱病が雨季 ── Agni が稲妻として雨とともに地に降る時 ── に生ずるという事実への暗示を見ることを選んだ。Zimmer26 はこの見解を容れ、さらに
Terai 地方における熱病の流行に言及し、Atharvaveda27 に見出される熱病の形容辞 vanya を「森から生じた」の意に解し、熱病が西 Himālaya の二つの山地部族 Mūjavant 族と Mahāvṛṣa 族の間に流行するものとして言及されていることを指摘する。28 熱病が、淀んだ水に発生する anopheles 蚊の刺咬によって惹き起こされると観察された痕跡はない。この説が古典期インド医学に知られていたとする主張は根拠を欠く。29
Takman の症状、あるいはそれに伴う合併症のうちには、「疥癬」(Pāman)、「頭痛」(śīrṣa-śoka)30、「咳」(Kāsikā)、および「癆瘵」ないしおそらく或る種の疥癬(Balāsa)が挙げられている。
Takman が Atharvaveda に至るまで現れないことは、おそらく意義深い。ヴェーダのアーリヤ人がインドに最初に定住したときにはこの疾病を知らず、それが風土病となり危険なものとして認識されるには数世代を要したということも十分にありうる。彼らがそれに対していかなる治療を用いたかはまったく不確かである。というのも Atharvaveda は呪文と Kuṣṭha のみを挙げるが、これはたとえ後代においてもなお用いられたとはいえ、効果的な治療でありえたとは考えがたいからである。熱病は Atharvan の時代においてすら多くの犠牲者を出したに違いない。さもなくばこれほど顕著に言及されることはなかったであろう。
(訳注:底本の脚注25は頁数を欠いたまま印刷されている。)
- 1i. 25; v. 22; vi. 20; vii. 116; xix. 39(cf. v. 4)。
- 2Av. iv. 9, 8; v. 4, 1. 9; 30, 16; ix. 8, 6; xi. 2, 22. 26 等。
- 3Indische Studien, 4, 119. Roth, Zur Litteratur und Geschichte des Weda, 39 は、Kuṣṭha が治療薬として用いられることから、これを「癩」を指すものとみなし、Pictet, Kuhn の Zeitschrift 5, 337 もこれに従った。Muir, Sanskrit Texts, 4, 280 は「癆瘵」が意味されていると考えた。
- 4Indische Studien, 9, 381 et seq.
- 5また Bloomfield, Hymns of the Atharvaveda, 451 et seq.; Zimmer, Altindisches Leben, 379-385 を見よ。また古典医学の jvara(ヴェーダ語ではない語)と比較せよ。Wise, Hindu System of Medicine, 219 et seq.; Jolly, Medicin, 70-72. Kauśika Sūtra の注釈者 Dārila と Keśava は、いたるところで takman と jvara とを等置する。
- 6Av. i. 25, 2-4; v. 22, 2. 7. 10; vi. 20, 3; vii. 116, 1.
- 7Av. i. 25, 2; v. 22, 2; vi. 20, 3.
- 8Av. i. 25, 4; vii. 116, 2.
- 9Ibid.
- 10Av. i. 25, 4; v. 22, 13; xix. 39, 10.
- 11Av. v. 22, 13.
- 12Av. v. 22, 13; xix. 39, 10.
- 13Grohmann, op. cit., 387; Zimmer, op. cit., 382; Bloomfield, op. cit., 274.
- 14Grohmann, 388; Zimmer, 382; Bloomfield, 274. それはあるいは Cāturthaka Viparyaya(Wise, op. cit., 232)と称される形態かもしれない。これは発作が四日ごとに起こり、二日間続くものである。
- 15Av. i. 25, 4 への Sāyaṇa の注; Bloomfield, 451. それは Suśruta(2, 404, 7)の jvara tṛtīyaka である。
- 16Op. cit., 383。Hügel, Kashmir, 1, 133 を引く。
- 17Op. cit., 388.
- 18Op. cit., 451.
- 19語源は疑わしい。「常に断つもの」(Av. xix. 39, 10 への Sāyaṇa の注を cf.)か、「常に取り憑くもの」(Roth, St. Petersburg Dictionary, s.v.)か、あるいは「日ごとに属する」= sadaṃ-dina(Zimmer, 383, n.; Bloomfield, 452)。
- 20Av. v. 22, 13.
- 21Av. ix. 8, 6; xix. 34, 10.
- 22Av. i. 25, 1.
- 23Indische Studien, 4, 119.
- 24Ibid., 9, 493.
- 25Macdonell, Vedic Mythology, p. 〔頁数を欠く〕。
- 26Op. cit., 384.
- 27Av. vi. 20, 4.
- 28Av. v. 22, 5.
- 29Jolly, Journal of the Royal Asiatic Society, 1906, 222.
- 30Av. xix. 39, 10. インドにおけるこの疾病の現在の状況については、cf. 1909年の Simla 会議報告書。
Takvan§
Takṣaka Vaiśāleya§
Takṣan 1§
1. Takṣan、「大工」は、Ṛgveda1 に、また後代にもしばしば2 言及される。彼は木材に関するあらゆる種類の仕事、例えば戦車(Ratha)や荷車(Anas)の製作に従事した。より精巧な彫刻の仕事もまた彼の役目であったと思われる。3 斧(kuliśa4、paraśu5)がその道具の一つとして言及され、またおそらく Bhurij も ── ただしこの語は意味において不確かである。Ṛgveda の一箇所6 においては、大工が仕事に屈み込むことの苦痛への言及があると思われる。大工が低いカーストであったとか、民の中の別個の階層をなしていたとかいうことは、ヴェーダ時代については確実に真ではない。7
- 1ix. 112, 1.
- 2Av. x. 6, 3; Kāṭhaka Saṃhitā, xii. 10; xviii. 13; Maitrāyaṇī Saṃhitā, ii. 9, 5; Vājasaneyi Saṃhitā, xvi. 27; xxx. 6; Taittirīya Brāhmaṇa, iii. 4, 2, 1; Śatapatha Brāhmaṇa, i. 1, 3, 12; iii. 6, 4, 4 等。
- 3Rv. x. 86, 5; Av. xix. 49, 8. Cf. Rv. i. 161, 9; iii. 60, 2.
- 4Rv. iii. 2, 1.
- 5Kāṭhaka Saṃhitā, xii. 10.
- 6Rv. i. 105, 18. Cf. Roth, Nirukta, Erläuterungen, 67; Oldenberg, Ṛgveda-Noten, 1, 100.
- 7Fick, Die sociale Gliederung, 210, n. 1. Cf. Zimmer, Altindisches Leben, 245, 253.
Takṣan 2§
Takṣan 3§
3. Takṣan. Bṛbu を見よ。
Taṇḍula§
Taṇḍula、「穀粒」、とりわけ「米粒」は、Atharvaveda1 および後代2 にきわめてしばしば言及されるが、Ṛgveda には言及されない。これは、Ṛgveda において米の栽培がほとんど知られていないと思われる事実と一致する。3 籾を除いた(karṇa)米と除かない(akarṇa)米が Taittirīya Saṃhitā4 に言及されている。
- 1x. 9, 26; xi. 1, 18; xii. 3, 18. 29. 30.
- 2Maitrāyaṇī Saṃhitā, ii. 6, 6; Kāṭhaka Saṃhitā, x. 1 等; Aitareya Brāhmaṇa, i. 1; Śatapatha Brāhmaṇa, i. 1, 4, 3; ii. 5, 3, 4; v. 2, 3, 2; vi. 6, 1, 8 等。śyāmāka-taṇḍula、「稗の粒」、ibid., x. 6, 3, 2; Chāndogya Upaniṣad, iii. 14, 3。apāmārga-taṇḍula、「Achyranthes aspera の粒」、v. 2, 4, 15 等。
- 3Zimmer, Altindisches Leben, 239. Vrīhi を見よ。
- 4i. 8, 9, 3. Pischel, Vedische Studien, 1, 190 を見よ。
Tata§
Tatāmaha§
Tanaya§
Tanaya(中性)は Ṛgveda1 において「子孫」「後裔」を指し、同書ではまたしばしば Toka とともに形容詞的に用いられる。2 toka が「息子ら」「子ら」を、tanaya が「孫ら」を意味するという見解3 には根拠がないと思われる。
- 1i. 96, 4; 183, 3; 184, 5; ii. 23, 19; vii. 1, 21 等。tokaṃ ca tanayaṃ ca, i. 92, 13; ix. 74, 5. Cf. vi. 25, 4; 31, 1; 66, 8。また Pischel, Vedische Studien, 3, 193 の説明する i. 31, 12 も。
- 2Rv. i. 64, 14; 114, 6; 147, 1; 189, 2; ii. 30, 5 等; Aitareya Brāhmaṇa, ii. 7.
- 3Nirukta, x. 7; xii. 6. Cf. St. Petersburg Dictionary, s.v. Tan, tana, tanas は Tanaya と同じ意味を有する。Rv. vi. 46, 12; 49, 13; vii. 104, 10; viii. 68, 12 等(tan); viii. 25, 2(tana); v. 70, 4(tanas)を見よ。
Tanti§
Tantu§
Tantu は本来「糸」を意味し、とりわけ織物の「経(たていと)」を意味すると思われ、「緯(よこいと)」たる Otu と対比される。両方の意味が Atharvaveda1 に見出される。Śatapatha Brāhmaṇa2 においては「経」が anuchāda、「緯」が paryāsa と呼ばれ、tantavaḥ が「糸」である。他方 Taittirīya Saṃhitā3 においては
「経」が prācīna-tāna、「緯」が otu である。玉座(Paryaṅka)の糸ないし綱が Kauṣītaki Upaniṣad4 に言及されている。
Ṛgveda においてはこの語は比喩的にのみ用いられ、これは Brāhmaṇa 文献においてすらその最も頻繁な用法である。5 Vāṇa をも見よ。
- 1xiv. 2, 51(otu と対置される); xv. 3, 6(Vrātya の玉座〔Āsandī〕の prāñcaḥ および tiryañcaḥ の糸ないし綱)。
- 2iii. 1, 2, 18; Eggeling, Sacred Books of the East, 26, 8, 9.
- 3vi. 1, 1, 4.
- 4i. 5; Keith, Śāṅkhāyana Āraṇyaka, 20, n. 2.
- 5St. Petersburg Dictionary, s.v. それは Rv. x. 134, 5 において植物の繊維に、Bṛhadāraṇyaka Upaniṣad, ii. 1, 23 において蜘蛛の巣に適用される。
Tantra§
Tapas, Tapasya§
Tapas, Tapasya. Māsa を見よ。
Tapo-nitya Pauru-śiṣṭi§
Tapo-nitya(「苦行に常なる」)Pauru-śiṣṭi(「Puruśiṣṭa の後裔」)は、Taittirīya Upaniṣad(i. 9, 1)における師の名であり、苦行(tapas)の価値を信じた者である。
Tayādara§
Tarakṣu§
Taranta§
Taranta は Ṛgveda1 において Purumīḍha とともに Śyāvāśva の庇護者として現れる。Pañcaviṃśa Brāhmaṇa2 その他の Brāhmaṇa3 においては、彼は Purumīḍha とともに Dhvasra および Puruṣanti から贈物を受ける者として記述されている。しかし贈物を受けることは Kṣatriya には禁じられていたから、彼らはその場かぎり Ṛṣi となり、贈与者を讃える一節を作った。4 彼は Purumīḍha と同じく Vaidadaśvi、すなわち Vidadaśva の子であった。5
(訳注:底本ではこの項の脚注4が二度重複して現れる。一つに整理した。)
- 1v. 61, 10.
- 2xiii. 7, 12.
- 3Jaiminīya Brāhmaṇa, iii. 139; Rv. ix. 38, 3 = Sāmaveda, ii. 410 への Sāyaṇa の注に引かれる Śāṭyāyanaka。
- 4Rv. ix. 58, 3.
- 5Cf. Rv. v. 61, 10; 注2および3。これは単に Rv. の誤解にすぎない。Cf. Oertel, Journal of the American Oriental Society, 18, 39; Sieg, Die Sagenstoffe des Ṛgveda, 50 et seq.; 62, 63; Oldenberg, Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, 42, 232, n. 1; Ṛgveda-Noten, 1, 353, 354。同氏はそこで、Brāhmaṇa の伝承および Bṛhaddevatā(v. 50-81、Macdonell の注とともに)の伝承が、Ṛgveda の真の説明としては容れられないことを指摘する。
Taru§
Tarukṣa§
Tarku§
Tarku、「紡錘」は、ヴェーダ文献においては Yāska の Nirukta(ii. 1)における言及によってのみ知られる。そこでは文字の転位の例として挙げられており、この語は彼によれば語根 kart、「紡ぐ」から派生する。
Tarda§
Tardman§
Tarya§
Talāśa§
Talpa§
Talava§
Taṣṭṛ§
Tasara§
Taskara§
Taskara は Ṛgveda1 に、また後代にもしばしば2 現れ、「盗人」ないし「強盗」を指す。それは Stena と実際上同義であると思われ、しばしばこれと関連して言及される。3 Stena と Taskara は Vājasaneyi Saṃhitā4 において Malimlu と対比されている。Malimlu は押し込みないし家宅侵入者であるのに対し、彼らは追い剥ぎであり、Ṛgveda5 の言うところでは「森に潜み身命を賭す者ども」(tanū-tyajā vanargū)である。しかし Ṛgveda の別の箇所6 においては、犬が Taskara ないし Stena に吠えかかるよう命ぜられており、これは明らかに家宅侵入の企てを指し示す。盗人は夜に徘徊し7、犠牲者を襲う道を知っている。8 Ṛgveda の一箇所9 においては縄の使用が言及されているが、捕らえた盗人を縛るためか、
犠牲者を縛るためかは明らかでない。10 Atharvaveda11 は Stena および Taskara を牛と馬の盗人として言及する。12
Tāyu は盗人のもう一つの名であり、おそらく追い剥ぎに比してより身分低く、より家内的な性格の者であった。というのも彼は牛泥棒として言及される13 一方で、衣服を盗む者(vastra-mathi)14 としても、また債務者15 としても仄めかされるからである。一箇所においては、Tāyu たちが暁の到来とともに天の星々(nakṣatra)のごとく消え去ると言われる(暁は他の箇所において yāvayad-dveṣas、「敵意ある者を追い払うもの」、また ṛta-pā、「秩序の守護者」と呼ばれる)。16
Vājasaneyi Saṃhitā17 の Śatarudriya の連禱においては、Rudra が襲撃者(ā-vyādhin)、盗人(stena)、強盗(taskara)、掏摸(stāyu)、窃取者(muṣṇant)、切り取る者(vi-kṛnta)の主と呼ばれる。また明らかに盗賊の詐欺師(gṛtsa)や群れ(gaṇa, vrāta)の呼称も言及されている。18 それゆえ、Ṛgveda19 が家においてであれ道においてであれ安全を求める祈願を多く含むこと、また Atharvaveda が夜に捧げるいくつかの讃歌20 を、主として盗人や強盗の悪行に対する保護のために充てていることは驚くに当たらない。
Pischel21 は、Ṛgveda の一箇所22 において Vasiṣṭha が家宅侵入者として描かれていると示唆するが、彼は、Vasiṣṭha が父 Varuṇa の家を襲っていたのであるから、自らのものとみなしうるものを得ようとしたにすぎないことを認める。しかしこの讃歌の解釈は確実でない。23
Ṛgveda の一箇所24 についての Sāyaṇa の説明 ── すなわち Panjab の Khoji のごとき
職業的な牛の追跡者に関わるとするもの ── はまったく蓋然的と思われる。25
盗人の処罰は第一義的には盗まれた者の行動に委ねられていたと思われる。彼らを枷に繋ぐ慣行26 が明らかに言及されている。しかし後代においては ── またおそらくは他の国におけると同じく、より早い時代においても ── より厳しい刑罰が科されえ、王によって死刑が行われえた。27 ヴェーダ文献には有罪認定の方法についての示唆はない。火の神判は Atharvaveda に知られておらず28、また Chāndogya Upaniṣad29 に知られる神判も、窃盗の場合に用いられるとは言われていない。疑いなく盗まれた財は、盗まれた者がそれを得られる場合には取り戻された。財が実際の盗人の手を離れて他人の所有に移った場合に何が起こったかについては、何も知られていない。
(訳注:底本の電子テキストは本項を Taskara と Tāyu の二項に分割しているが、脚注番号が13以降連続することからも明らかなように、原書では一続きの記事である。ここでは一項として訳出した。なお Tāyu には別に独立の項目がある(本回末尾)。)
- 1i. 191, 5; vi. 27, 3; vii. 55, 3; viii. 29, 6.
- 2Av. iv. 3, 2; xix. 47, 7; 50, 5; Vājasaneyi Saṃhitā, xi. 77-78; xii. 62; xvi. 21 等; Nirukta, iii. 14.
- 3Rv. vii. 55, 3; Av. xix. 47, 7; 50, 5; Vājasaneyi Saṃhitā, xi. 79; xvi. 21 等。
- 4xi. 79(Malimlu は janeṣu、「人々の間に」。他の者は vane、「森に」)。Malimlu については Cf. Taittirīya Saṃhitā, vi. 3, 2, 6; Atharvaveda, xix. 49, 10.
- 5x. 4, 6.
- 6vii. 55, 3.
- 7Rv. i. 191, 5.
- 8Rv. viii. 29, 6.
- 9x. 4, 6.
- 10Zimmer, Altindisches Leben, 178, n.
- 11xix. 50, 5. Cf. Rv. x. 97, 10(stena)。
- 12Whitney, Translation of the Atharvaveda, 984.
- 13Rv. i. 65, 1; vii. 86, 5.
- 14Rv. iv. 38, 5.
- 15Rv. vi. 12, 5. 疑いなくこの窃盗は負債にある絶望の結果であり、それは自由の喪失に至りうる(Ṛṇa)。
- 16Rv. i. 50, 2. Cf. Macdonell, Vedic Mythology, p. 47.
- 17xvi. 20, 21. Cf. Taittirīya Saṃhitā, iv. 5, 4, 1; Kāṭhaka Saṃhitā, xvii. 13; Maitrāyaṇī Saṃhitā, ii. 9, 4.
- 18xvi. 25.
- 19i. 129, 9; ii. 23, 16; vi. 24, 10; 41, 5; 51, 15; x. 63, 16.
- 20Av. xix. 47-50.
- 21Vedische Studien, 2, 55, 56. 1, 106 と対照せよ。
- 22Rv. vii. 55.
- 23Cf. Aufrecht, Indische Studien, 4, 337 et seq.; Lanman, Sanskrit Reader, 370; Zimmer, Altindisches Leben, 308; Bṛhaddevatā, vii. 11 et seq.、Macdonell の注とともに。
- 24vi. 54, 1.
- 25Zimmer, op. cit., 182, 183。Elliot, Memoirs, 1, 276; Jolly, Recht und Sitte, 123 を引く。
- 26Cf. Rv. i. 24, 13, 15; vii. 86, 5; Av. vi. 63, 3 = 84, 4; 115, 2. 3; 121; xix. 47, 9; 50, 1。これらの箇所はすべて、この慣行を証するために Zimmer, 181, 182 に引かれている。しかし注意すべきは、Rv. vii. 86, 5 のみでは決して決定的な証拠でないことである。もっとも Av. xix. 47, 9; 50, 1(drupade āhan)はおそらく同じことを意味する。Whitney, Translation of the Atharvaveda, 976, 983 はこれらの箇所を、盗人を罠に投げ入れることに関わるものと訳す。また Pischel, Vedische Studien, 1, 106 は Rv. vii. 86, 5 を、牛泥棒(paśu-tṛp)が盗もうとする仔牛から縄を取り去ることに関わるものとする。Rv. x. 4, 6 については上記注10を見よ。Zimmer, 182, n. の引くゲルマンおよびスラヴの平行例は彼の見解を支持する。負債の場合の同様の刑罰については Ṛṇa をも見よ。
- 27Gautama Dharma Sūtra, xii. 43-45; Āpastamba Dharma Sūtra, i. 9, 25, 4. 5; Jolly, op. cit., 124.
- 28Av. ii. 12 は Schlagintweit, Die Gottesurtheile der Inder, 9 et seq.(1866); Weber, Indische Studien, 13, 164 et seq.; Ludwig, Translation of the Rigveda, 3, 445; Zimmer, 183 et seq. によってかく解された。しかし Bloomfield, American Journal of Philology, 11, 330 et seq.; Hymns of the Atharvaveda, 294-296; Whitney, Translation of the Atharvaveda, 54; Grill, Hundert Lieder,² 47, 85; Jolly, op. cit., 146 を見よ。
- 29vi. 16; Jolly, loc. cit.
Tastuva§
Tājad-bhaṅga§
Tāṇḍa§
Tāṇḍa-vinda§
Tāṇḍi§
Tāṇḍya§
Tāṇḍya は Śatapatha Brāhmaṇa1 における師の名であり、Agniciti すなわち聖火の積累に関わる一点について引用されている。彼はまた Vaṃśa Brāhmaṇa2 にも言及されている。Sāmaveda の Tāṇḍya Mahābrāhmaṇa すなわち Pañcaviṃśa Brāhmaṇa3 は Tāṇḍin 派を代表する。
- 1vi. 1, 2, 25. Cf. Lévi, La Doctrine du Sacrifice, 140.
- 2Weber, Indische Studien, 4, 373, 384.
- 3Bibliotheca Indica 叢書, 1869-74 に校訂刊行。Weber, Indian Literature, 66 et seq., 74, 133; Macdonell, Sanskrit Literature, 203, 210; Hopkins, Transactions of the Connecticut Academy of Arts and Sciences, 15, 23 et seq. を見よ。
Tāta§
Tādurī§
Tānva 1§
Tānva 2§
Tāpasa 1§
Tāpasa 2§
2. Tāpasa は、Pañcaviṃśa Brāhmaṇa(xxv. 15)に記述される蛇の祝祭において Hotṛ 祭官であった Datta の名である。
Tābuva§
Tāyādara§
Tāyādara、「Tayādara に属する」(Av. vi. 72, 2)。
Tāyu§
Tārakā§
Tārukṣya§
Tārkṣya§
Tārkṣya は Ṛgveda1 において神なる駿馬として言及されており、明らかに馬として捉えられた太陽である。2 しかし Foy3 は、この名から判断して ── それは明らかに Tṛkṣi の父称であり、Tṛkṣi は Ṛgveda4 以降 Trasadasyu の後裔として知られる ── Tṛkṣi の所有する実在の駿馬が意味されていると考える。しかしこれはあまり蓋然的でない。5 Tārukṣya をも見よ。
- 1i. 89, 6; x. 178.
- 2Macdonell, Vedic Mythology, p. 149.
- 3Kuhn の Zeitschrift, 11, 366, 367.
- 4viii. 22, 7.
- 5Khila, ii. 4, 1 においては Tārkṣya が鳥(vāyasa)として表されており、これもまた太陽の象徴である。Vājasaneyi Saṃhitā, xv. 18 においては、彼は Ariṣṭanemi ── 本来は彼の形容辞(Rv. i. 89, 6; x. 178, 1)── とともに一個の人物として言及され、また Śatapatha Brāhmaṇa, xiii. 4, 3, 13 においては Vaipaśyata(Āśvalāyana Śrauta Sūtra, x. 7 においては Vaipaścita)として、鳥の王として現れる(cf. Eggeling, Sacred Books of the East, 44, 369)。
Tārpya§
Tārpya は Atharvaveda1 および後代2 において、材質の不明な或る素材で作られた衣服を指す。Kātyāyana Śrauta Sūtra および Śatapatha Brāhmaṇa3 への注釈者たちは、亜麻布の衣服、あるいは酥に三度浸した衣服、あるいは tṛpā または triparṇa の植物から作られた衣服が意味されていると示唆する。この意味が Brāhmaṇa の著者自身にすら知られていたかは疑わしい。Goldstücker4 のこの語の訳は「絹の衣服」であり、Eggeling5 はこれを容れる傾きにある。6
(訳注:底本は本文に脚注6の指示を付しながら、当該の脚注を欠いたまま印刷している。)
- 1xviii. 4, 31.
- 2Taittirīya Saṃhitā, ii. 4, 11, 6; Taittirīya Brāhmaṇa, i. 3, 7, 1; 7, 6, 4; Pañcaviṃśa Brāhmaṇa, xxi. 1; Śatapatha Brāhmaṇa, v. 3, 5, 20; Kātyāyana Śrauta Sūtra, xv. 5, 7 et seq.; Śāṅkhāyana Śrauta Sūtra, xvi. 12, 19.
- 3v. 3, 5, 20. Cf. Kātyāyana, loc. cit.; Av., loc. cit. への Sāyaṇa の注; Whitney, Translation of the Atharvaveda, 879.
- 4Dictionary, s.v. abhiṣecanīya.
- 5Sacred Books of the East, 41, 85, n. 1.
- 6〔典拠の記載を欠く。〕
Tārṣṭāgha§
Titaü§
Tittira, Tittiri§
Tittira, Tittiri は後期の諸 Saṃhitā1 および Brāhmaṇa2 における鷓鴣(シャコ)の名であり、おそらく擬音的な形成である。この鳥は斑の羽毛を有する(bahu-rūpa)と記述される。それは通常 Kapiñjala および Kalaviṅka と結びつけられる。
- 1Taittirīya Saṃhitā, ii. 5, 1, 2; v. 5, 16, 1; Maitrāyaṇī Saṃhitā, ii. 4, 1; Kāṭhaka Saṃhitā, xii. 10; Vājasaneyi Saṃhitā, xxiv. 30, 36. Tittira の形は Maitrāyaṇī Saṃhitā, iii. 14, 1 に現れる。
- 2Śatapatha Brāhmaṇa, i. 6, 3, 5; v. 5, 4, 6; Jaiminīya Brāhmaṇa, ii. 154, 6(Oertel, Transactions of the Connecticut Academy of Arts and Sciences, 15, 181)。 Cf. Zimmer, Altindisches Leben, 91; Schrader, Prehistoric Antiquities, 251.
Tithi§
Timirgha Daure-śruta§
Tiraśca§
Tiraśca-rāji§
Tiraśca-rāji1、Tiraści-rāji2、Tiraścīna-rāji3 は、「蛇」を表す名(字義通りには「横に縞のある」)の異形であり、後期の諸 Saṃhitā に見出される。
- 1Taittirīya Saṃhitā, v. 5, 10, 2. Zimmer, Altindisches Leben, 94, 95 はこの形を Av. から報告するが、本文および Roth(St. Petersburg Dictionary, s.v.)は同箇所を tiraści-rāji と読む。
- 2Av. iii. 27, 2; vi. 56, 2; vii. 56, 1; x. 4, 13; xii. 3, 56.
- 3Maitrāyaṇī Saṃhitā, ii. 13, 21; Śāṅkhāyana Āraṇyaka, xii. 27. Cf. Bloomfield, Hymns of the Atharvaveda, 488, 553; Keith, Śāṅkhāyana Āraṇyaka, 68, n. 2; Weber, Indische Studien, 17, 295-297.
Tiraścī§
Tiraścīna-vaṃśa§
Tirindira§
Tirindira は Ṛgveda1 の Dānastuti すなわち「贈与の讃」において、Parśu とともに歌い手に贈物を授けた者として言及されている。Śāṅkhāyana Śrauta Sūtra2 においてはこの記述が、Kaṇva 族の Vatsa が Tirindira Pāraśavya から贈物を得たという話によって表されており、この異伝においては Tirindira と Parśu が一人同一の人物として扱われている。Ludwig3 は Ṛgveda の当該箇所に、Yadu 族が Tirindira に勝利し、戦利品の一部を歌い手に与えた証拠を見る。しかしこの解釈の正しさを示す証拠は何もなく、Zimmer4 はそれがきわめてありそうにないことを示している。Tirindira と
Parśu によっては Yadu 族の王侯が意味されているに違いないが、Weber5 は歌い手のほうが Yadu 族であって王侯はそうでないと考える。彼は後者をイラン人であったとみなし(cf. Τιρίβαζος、また Parśu を見よ)、そこにインドとイランとの間の絶えざる密接な関係の証拠があると考える。これはまったくありうることであるが、その証拠はいささか薄弱である。6
(訳注:底本ではこの項の脚注6が本文と脚注群の間に孤立して置かれている。番号順に整えた。)
- 1viii. 6, 46-48.
- 2xvi. 11, 20.
- 3Translation of the Rigveda, 3, 160, 161; 5, 142.
- 4Altindisches Leben, 136, 137.
- 5Indische Studien, 4, 356, n.; Indian Literature, 3, 4; Episches im vedischen Ritual, 37, 38.
- 6Boghaz-köi において見出されたイラン系の名をめぐる近年の論争については、cf. Jacobi, Journal of the Royal Asiatic Society, 1909, 721 et seq.; Oldenberg, ibid., 1095-1100; Keith, ibid., 1100-1106; Sayce, ibid., 1106, 1107; Kennedy, ibid., 1107-1119. Hillebrandt, Vedische Mythologie, 1, 94 et seq. は、Arachosia におけるイラン人とインド人の早期の結びつきを支持して論じ、そこに Ṛgveda の行動の一部を置く。Hopkins, Journal of the American Oriental Society, 17, 16, 277 は、イランとの結びつきの痕跡が後代の年代の徴証であると主張する。Arnold, ibid., 18, 205 et seq. はこの見解に反対する。
Tirīṭa§
Tirya§
Tirya は Atharvaveda1 において Karambha、「粥」の形容辞として現れる。それはおそらく tilya、「胡麻から作られた」に等しく、Roth2 および Whitney3 はそのように訳す。しかし Roth4 は Rāja-nighaṇṭu において tiriya を一種の米として読む。
- 1iv. 7, 3.
- 2St. Petersburg Dictionary, s.v.
- 3Translation of the Atharvaveda, 155.
- 4Whitney, loc. cit. を Lanman の補注とともに見よ。Bloomfield, Hymns of the Atharvaveda, 377 はこの形容詞を viṣam にかけ、「横の方向から来る毒」と訳す(cf. tiryañc)。Grill, Hundert Lieder,² 121 は atiriya、「溢れる」に修正する。 Cf. Zimmer, Altindisches Leben, 270; Ludwig, Translation of the Rigveda, 3, 201.
Tiryañc Āṅgirasa§
Tila§
Tila は Atharvaveda1 および後代2 において胡麻の植物を、とりわけその実を指し、そこから豊かな油(Taila)が採られた。それはしばしば3 Māṣa、「隠元豆」と関連して言及される。Taittirīya Saṃhitā4 は豆と胡麻を冬(hemanta)と寒季(śiśira)に帰する。胡麻の茎(tila-piñjī5、til-piñja6)は薪として用いられ、実は粥(tilaudana7)の形に煮て食された。
- 1ii. 8, 3; vi. 140, 2; xviii. 3, 69; 4, 32.
- 2Taittirīya Saṃhitā, vii. 2, 10, 2; Maitrāyaṇī Saṃhitā, iv. 3, 2; Vājasaneyi Saṃhitā, xviii. 12; Śatapatha Brāhmaṇa, ix. 1, 1, 3 等。
- 3Av. vi. 140, 2; Vājasaneyi Saṃhitā, loc. cit.; Bṛhadāraṇyaka Upaniṣad, vi. 3, 22; Chāndogya Upaniṣad, v. 10, 6 等。
- 4Loc. cit.
- 5Av. ii. 8, 3.
- 6Av. xii. 2, 54.
- 7Bṛhadāraṇyaka Upaniṣad, vi. 4, 16; Śāṅkhāyana Āraṇyaka, xii. 8. Cf. Zimmer, Altindisches Leben, 240.
Tilvaka§
Tiṣya§
Tisṛ-dhanva§
Tugra§
Tugrya§
Tugrya は Ṛgveda において Bhujyu の父称として現れるが1、また Bhujyu への言及が意図されているとは思われない一箇所2 にも現れ、そこでは「Tugra の家の者」を意味しうる。同様の意味が Ṛgveda3 の女性複数処格にも現れると思われ、そこでは(vikṣu を補って)意味は「Tugra 族の間で」であるに違いない。この説明はまた Indra4 ないし Soma5 の形容辞 tugryā-vṛdh、「Tugra 族の間で喜ぶ者」にも適用しうるかもしれない。
- 1彼はまた Tugrasya sūnu とも呼ばれる。Rv. vi. 62, 6. Cf. Vṛddhi を伴わない父称的意味における Pajriya、またおそらく Kṛṣṇiya の用法。
- 2viii. 32, 20.
- 3i. 33, 15. Cf. Griffith, Hymns of the Rigveda, 1, 47.
- 4viii. 45, 29; 99, 7.
- 5viii. 1, 15。ただし同箇所について Roth, St. Petersburg Dictionary, s.v. は、Indra に関わるものとするための改変を示唆する。 Cf. Zimmer, Altindisches Leben, 128.
Tuc§
Tuji§
Tumiñja Aupoditi§
Tumiñja Aupoditi は Taittirīya Saṃhitā(i. 7, 2, 1)において、Sattra すなわち「祭会」における Hotṛ 祭官として、また Suśravas と議論を交わした者として言及されている。
Tura Kāvaṣeya§
Tura Kāvaṣeya は Śatapatha Brāhmaṇa 第10巻末尾の Vaṃśa(師の一覧)1 において、同巻に説かれる教説の源として、また師の継承において Yajñavacas および Kuśri によって Śāṇḍilya から隔てられた者として言及されている。同じ Brāhmaṇa2 においては、彼は Kārotī において火壇を築いた者として Śāṇḍilya に引かれている。Aitareya Brāhmaṇa3 においては、Janamejaya Pārikṣita の Purohita すなわち「家門の祭官」として現れ、彼に王としての灌頂を施した。Bṛhadāraṇyaka Upaniṣad4 および或る Khila5 においては古の聖仙として現れる。Oldenberg6 は疑いなく正しく、彼をヴェーダ期の終わりに位置づける。彼はおそらく7、Pañcaviṃśa Brāhmaṇa8 に言及される deva-muni、「神々の聖者」たる Tura と同一である。
- 1x. 6, 5, 9.
- 2ix. 5, 2, 15.
- 3iv. 27; vii. 34; viii. 21.
- 4vi. 5, 4(Kāṇva 伝本。Mādhyaṃdina 伝本にはない)。
- 5i. 9, 6; Scheftelowitz, Die Apokryphen des Ṛgveda, 65, 190.
- 6Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, 42, 239.
- 7St. Petersburg Dictionary, s.v. はかく解する。
- 8xxv. 14, 5. Hopkins, Transactions of the Connecticut Academy of Arts and Sciences, 15, 68 を見よ。 Cf. Weber, Indische Studien, 1, 203, n.; Indian Literature, 120, 131; Eggeling, Sacred Books of the East, 43, xviii.
Tura-śravas§
Turya-vāh§
Turva§
Turva は Ṛgveda(x. 62, 10)に一度のみ現れ、疑いなく Turvaśa 族ないしその王の名としてである。
Turvaśa§
Turvaśa は Ṛgveda において人ないし民族の名としてしばしば現れ、通常は Yadu と関連して現れる。1 この二語は通例、接続の助詞なしに単数形で現れ、Turvaśa Yadu ないし Yadu Turvaśa となる。2 複数形において Turvaśa の名は一度 Yadu 族とともに現れ3、また一度は単独で4、すでに単数形が用いられている讃歌において現れる。一箇所5 においては実際に双数形 Turvaśā-Yadū が現れ、また別の箇所6 においては Yadus Turvaś ca、「Yadu と Turva」が現れる。他の箇所7 においては Turvaśa が単独で現れ、他方一箇所8 においては Turvaśa と Yādva が現れる。
これらの事実から Hopkins9 は通説10、すなわち Turvaśa が部族の名であって単数形は王を指すという見解の誤りを導き、Turvaśa を Yadu 族の王の名とみなす。しかしこの証拠は決定的でない。Ṛgveda の「五部族」が Anu、Druhyu、Turvaśa、Yadu、Pūru の諸族であるという説11 に基づく議論に重きを置かずとも、Turvaśa 族と Yadu 族が二つの別個の、しかし密接に同盟した部族であったと主張することはまったく道理にかなう。双数形で Turvaśā-Yadū に言及し Yadus Turvaś ca と語る讃歌の作者たちにとって、彼らは明らかにそのようなものであった。この説明はまた、Ṛgveda の二つの讃歌における Turvaśa の複数形の用法をも最もよく説明する。
Ṛgveda において Turvaśa の主要な功業は、Sudās に対する戦への参加であり、彼はそこで敗れた。12 Hopkins13 は、彼が戦からの疾き(tura)脱出のゆえに Turvaśa と名づけられたのかもしれないと示唆する。
その脱出は Indra によって助けられたのかもしれない。というのも若干の箇所14 において Indra の Turvaśa(と)Yadu への援助が言及されているからである。また、Anu 族の王、および明らかに Druhyu 族の王が敗戦において溺死したものとして言及されるのに、Turvaśa と Yadu の王はそうでないこと、そして Turvaśa が Ṛgveda 第8巻において、溺死した者の後継者と推定される Anu 族の王侯とともに Indra の崇拝者として現れることも意義深い。15 しかし Griffith16 は、これらの箇所を Sarayu 川における Turvaśa と Yadu による Arṇa と Citraratha の敗北17 に帰することを提案する。しかしこれについての証拠はまったく不十分である。
Ṛgveda の二箇所18 は、Turvaśa と Yadu による Divodāsa ── Sudās の父 ── への攻撃に関わると思われる。これが両民族による Divodāsa への攻撃であったと想定するのは道理にかなう。というのも、子たる Sudās への攻撃に加わった Turvaśa への言及であるとするのは蓋然性が低いからである。
Zimmer19 は Turvaśa 族が Vṛcīvant 族とも呼ばれたと考える。この見解は或る讃歌20 に基づく。同讃歌には、Daivarāta を助けて Yavyāvatī 川および Hariyūpīyā 川において Vṛcīvant 族が敗れたこと、および Sṛñjaya を助けて Turvaśa が敗れたことに言及があり、後者は他の箇所21 において明らかに Devarāta の子である。しかし Turvaśa 族と Vṛcīvant 族との同定についてのこの証拠は明瞭でないから、彼らが同盟者であったと想定すれば足りると思われる。22
後代、Śatapatha Brāhmaṇa23 においては、Turvaśa 族が Pañcāla 族の同盟者として現れ、三十三頭の Taurvaśa の馬と六千人の武装した者が言及されている。24 しかしそれ以外にこの名は消滅する。このことは
Turvaśa 族が Pañcāla 族に融合したという Oldenberg の推測25 に蓋然性を与える。Hopkins26 は、Śatapatha の当該箇所において馬が単に Turvaśa の家系に因んで名づけられたにすぎないと考える。しかしこの見解は、人への言及に含まれる困難を無視するものであるから、蓋然性がより低い。
Sudās との抗争の時期における Turvaśa 族の本拠については確言できない。彼らは明らかに Paruṣṇī 川を渡ったが27、いずれの側からかは争われている。Pischel28 と Geldner29 の見解、すなわち彼らが西から Bharata 族のいた東へ向かって進んだ(Kuru を見よ)とする見解のほうが蓋然性が高い。
(訳注:底本は脚注7の第一の典拠を「i. 4, 77」と印刷するが、Ṛgveda 第1巻第4讃歌は10詩節しかないので不可能である。「i. 47, 7」の誤植と判断して訂正した。また底本ではこの項の脚注1が本文と脚注群の間に孤立して置かれているため、番号順に整えた。脚注29の末尾は底本において語句が乱れているので、文意に従って復元した。)
- 1i. 36, 18; 54, 6; 174, 9; vi. 20, 12; 45, 1; viii. 4, 7; 7, 18; 9, 14; 45, 27; x. 49, 8. vii. 18, 6 においては Turvaśa が Yakṣu と結ばれているが、これは明らかに Yadu の軽蔑的な異形である(Hopkins, Journal of the American Oriental Society, 15, 261)。Cf. Tṛtsu.
- 2v. 31, 8.
- 3i. 108, 8.
- 4viii. 4, 18。viii. 4, 1 においては Ānava とともに単数形。
- 5iv. 30, 17.
- 6x. 62, 10. Cf. Ludwig, Translation of the Rigveda, 3, 166; Oldenberg, Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, 42, 220, n. 1.
- 7i. 47, 7; vi. 27, 7. Cf. viii. 4, 1.
- 8vii. 19, 8.
- 9Op. cit., 258 et seq.
- 10Zimmer, Altindisches Leben, 122, 124; Oldenberg, Buddha, 404; Ludwig, op. cit., 153; Macdonell, Vedic Mythology, p. 64; Sanskrit Literature, 153 et seq. 等。
- 11Zimmer, 122, 124; Macdonell, 153, 154.
- 12vii. 18, 6.
- 13Op. cit., 264.
- 14Rv. i. 174, 9; iv. 30, 17; v. 31, 8; viii. 4, 7.
- 15Hopkins, 265.
- 16Hymns of the Rigveda, 1, 433, n.
- 17この讃歌は後期のものであり、Arṇa と Citraratha が言及される第18詩節の連関は不明瞭である。Cf. Hopkins, 259.
- 18vi. 45, 1; ix. 61, 2(Divodāsa が言及される); vii. 19, 8(彼が Atithigva として現れる)。
- 19Op. cit., 124.
- 20vi. 27, 5-7.
- 21iv. 15, 4.
- 22Oldenberg, Buddha, 404, n. Cf. Hillebrandt, Vedische Mythologie, 1, 105.
- 23xiii. 5, 4, 16.
- 24意味は不明瞭である。St. Petersburg 辞典は明らかにこれを(武装した戦士の)6,033頭の馬と解する。Eggeling, Sacred Books of the East, 44, 400 は33頭の馬と6,000人の兵と解することを選ぶ。Oldenberg, loc. cit. は6,033人の戦士と解する。Eggeling の引く Harisvāmin の注釈は不明瞭である。
- 25Buddha, 404.
- 26Op. cit., 258, n. Cf. Weber, Indische Studien, 1, 220.
- 27Rv. vii. 18.
- 28Vedische Studien, 2, 218. Cf. Zimmer, Altindisches Leben, 126.
- 29Vedische Studien, 3, 152. Rv. viii. 20, 24 において Ludwig とともに tūrvatha に代えて turvaśa と読むならば、彼らは Sindhu 川と結びつけられる。 Cf. Oldenberg, Religion des Veda, 167; Muir, Sanskrit Texts, 5, 286; Bergaigne, Religion Védique, 2, 354 et seq.
Turvīti§
Tulā§
Tuṣa§
Tūṇava§
Tūtuji§
Tūtuji. Tuji を見よ。
Tūpara§
Tūrghna§
Tūrṇāśa§
Tūrvayāṇa§
Tūrvayāṇa は Ṛgveda に言及される王侯の名である。彼は二箇所1 に名を挙げて現れ、また第三の箇所2 においては明らかに Atithigva、Āyu、Kutsa の敵として仄めかされている。これと合致するのが、十王の戦において Paktha 族が Tṛtsu 族に対立したこと3、および Tūrvayāṇa が Ṛgveda の別の箇所4 によって Paktha 族の王侯であったことが示されることである。彼はそこで Indra の庇護を受けた者として表され、Indra は Cyavāna とその守護者たる Marut 神群に対して彼を助けた。彼が Suśravas5 と同一である蓋然性は高くない。
Tūṣa§
Tṛkṣi§
Tṛṇa§
Tṛṇa-jalāyuka§
Tṛṇa-jalāyuka、「毛虫」は、Bṛhadāraṇyaka Upaniṣad(iv. 2, 4)に言及される。
Tṛṇa-skanda§
Tṛtīyaka§
Tṛtīyaka、「三日熱」は、Atharvaveda(i. 25, 4; v. 22, 13; xix. 39, 10)に言及される。Takman を見よ。
Tṛtsu§
Tṛtsu は Ṛgveda に、一度は単数形で1、また数度は複数形で2、固有名詞として現れる。Tṛtsu 族は明らかに、十王に対する大戦において Sudās の助力者であった。十王とは Śimyu、Turvaśa、Druhyu、Kavaṣa、Pūru、Anu、Bheda、Śambara、二人の Vaikarṇa、そしておそらく Yadu であり、彼らは同盟者として3 Matsya、Paktha、Bhalāna、Alina、Viṣāṇin、Śiva、Aja、Śigru、そしておそらく Yakṣu の諸族を率いていた。4 十王の敗北は Ṛgveda の一讃歌5 に讃えられ、
また他の二讃歌6 に明らかに仄めかされている。大戦は Paruṣṇī 川において起こったが、Yamunā 川においても Bheda、Aja 族、Śigru 族、Yakṣu 族との戦いがあった。Yamunā 川と Paruṣṇī 川とは Tṛtsu 族の領域の相対する両端を表すから(というのも我々は Hopkins7 とともに両河川を安全に同定しえないからである)、十王がいかにして連合しえたかを正確に見て取ることは困難である。しかし注意すべきは、十王への言及が二つの後代の讃歌6 に現れるのであって、戦そのものを記述する讃歌5 にではないことである。加えて、数の絶対的な正確さを主張することはできない。
Tṛtsu 族の性格を正確に定めることは困難であり、とりわけ Bharata 族との関係においてそうである。Bharata 族は Viśvāmitra の導きのもとに繁栄し、Vipāś 川および Śutudrī 川へ進んだものとして表される。8 Roth は巧みにこれを、Sudās による敵の敗北 ── Vasiṣṭha 家に帰される Ṛgveda 第7巻に讃えられる ── と結びつけ、一詩節9 のうちに Sudās による Bharata 族の敗北への言及があると考えた。しかしこの詩節が誤訳されていること、および Bharata 族が実際には Sudās とともに勝者として表されていることは確実と思われる。10 それゆえ Ludwig11 は Tṛtsu 族と Bharata 族とを同一視する。Oldenberg12 は初めこの見解を容れたが13、後に Tṛtsu 族が Bharata 族の祭官であり、したがって Vasiṣṭha 族と同一であるという意見を表明した。この見解は、一箇所14 において Tṛtsu 族が Vasiṣṭha 族に特有の仕方で髪を結うものとして明瞭に記述されている15 という事実によって支持され、その箇所において彼らは Vasiṣṭha 族を表すと思われる。
しかし Geldner16 は、一度単数形で言及される17 Tṛtsu が Tṛtsu 族の王 ── すなわち Sudās ── を意味するときわめて蓋然性高く示唆した。18 この説明のみが、Bharata 族を Tṛtsūnāṃ viśaḥ20、「Tṛtsu 族の臣民」と記述すること19 を正当化する。ここでの Tṛtsu は Tṛtsu の Gotra すなわち家系を意味するのであって、民が祭官の一団の臣民であると言われることはありえないからである。Vasiṣṭha 族は、この民の王家との密接な結びつきのゆえに Tṛtsu と呼ばれえたであろう。逆の過程もまったくありうるが、Pratṛd 族が Vasiṣṭha を迎える者として言及されている21 という事実によって蓋然性が低くなる。Tṛtsu 王朝のこの名は、Sudās の時代における Vasiṣṭha との結びつきよりおそらく古い。この結論は、Sudās の祖先たる Divodāsa の後裔として後代に言及される Pratardana の名22 によって支持される。それゆえ Tṛtsu 王朝が Vasiṣṭha 族と呼ばれえたとはほとんど考えられない。この王朝のその後の歴史、および Vasiṣṭha・Viśvāmitra との関係については Sudās を見よ。
Tṛtsu 族とその臣民たる Bharata 族が、Ṛgveda 期において Paruṣṇī 川と Yamunā 川の間の領域の両側の諸部族と戦っていたのであれば、後に彼らが Pūru 族、そしておそらくそれらの部族の他のものと合体して Kuru 族を形成したことは明らかである。23 すでに Ṛgveda24 において Tṛtsu 族は Sṛñjaya 族と同盟しており、Śatapatha Brāhmaṇa25 においては一人の Purohita が Kuru 族と Sṛñjaya 族の双方に仕えている。
Hillebrandt26 は、Tṛtsu 族が Bharata 族と同一視されえないが、Sudās と Bharata 族が侵入する一団を表し、しかし Tṛtsu 族および Vasiṣṭha の祭官たちと同盟するに至ったと考える。彼はまた、Ṛgveda が、Sudās の祖父ないし祖先たる Divodāsa が Arachosia の Sarasvatī 河畔に住み、Paṇi 族 ── 彼はこれを Parni 族と同定する ── と戦っていた時代を明らかにすると考える。しかしこの推測27 は蓋然的とはみなしえない。Sarasvatī28 においては、Tṛtsu 族の境域内を流れた中つ国の後代の Sarasvatī 川以外の河川を見る必要はない。また、Turvaśa Yadu と Atithigva すなわち Divodāsa との抗争への言及があること29 も意義深い。かくして Divodāsa と Bharata 族がイランではなく中つ国にいたことを疑う理由はない。
(訳注:底本ではこの項の脚注5・6がそれぞれ二度重複して印刷されている。一組に整理した。また脚注15は脚注14と同一の括弧内容を伴って印刷されているが、詩節番号を欠いている。原書の乱れをそのまま示した。)
- 1vii. 18, 13.
- 2vii. 18, 7. 15. 19; 33, 5. 6; 83, 4. 6. 8.
- 3彼らは Roth, Zur Litteratur und Geschichte des Weda, 95 および Zimmer, op. cit., 126 によって諸王の敵とみなされた。しかし後者は見解を改めており(pp. 430, 431 を見よ。Hopkins, op. cit., 260 はこれを見落としている)、後の意見が正しいことに疑いはない。Cf. また Ludwig, Translation of the Rigveda, 3, 173; Hopkins, 260, 261. これらの部族のうち Paktha、Alina、Bhalāna、Viṣāṇin、Śiva の諸族はおそらく北西、Indus 川の西方および Kabul 川の周辺に定住していた。Anu、Pūru、Turvaśa、Yadu、Druhyu の諸族はおそらく Panjab の部族であった。Aja、Śigru、Yakṣu の諸族は Bheda のもとにある東方の部族であった。Śambara もまた東方の出身であったかもしれない。Śimyu と Kavaṣa は不確かである。二人の Vaikarṇa はおそらく北西に属した。
- 4これは不確かである。Ṛgveda vii. 18, 6 の本文は Yakṣu とし、同じ語が第19詩節にも再び現れる。他方、Turvaśa が言及されているから、第6詩節には Yadu という語が自然に予期されるところである。Zimmer, Altindisches Leben, 122 は Yadu が vii. 18 に現れると言うが、p. 126 では両箇所に Yakṣu を引いており、明らかに見落としである。Hopkins, Journal of the American Oriental Society, 15, 261, n. は、「Yakṣu たる Turvaśa」が「Yadu たる Turvaśa」に代わる皮肉な表現であり、Yadu 族の王と彼のみなす Turvaśa を、取るに足らぬ民族の一員として滑稽ならしめ、また彼を犠牲獣としても仄めかす(いわば yaṣṭavya、「供せらるべき」。第6詩節の puroḍāś、「供犠の菓子」を、purogās、「先導者」への地口として cf.)ものと考える。Yakṣu が Yadu に代わる軽蔑的な語であるか否かはともあれ、Yadu 族が指されていることを信じないのは困難と思われる。
- 5vii. 18.
- 6vii. 33 および 83.
- 7India, Old and New, 52. Journal of the American Oriental Society, 15, 259 et seq. においては、彼はそのような推測をしていない。
- 8Rv. iii. 33; 53, 9-12.
- 9vii. 33, 6. Roth, op. cit., 90, 121; Muir, Sanskrit Texts, 1², 320; Macdonell, Sanskrit Literature, 154, 155; von Schroeder, Indiens Literatur und Cultur, 35, 36; Hillebrandt, Vedische Mythologie, 1, 110, 111; Bloomfield, Journal of the American Oriental Society, 16, 41 を見よ。
- 10Oldenberg, Buddha, 406; Weber, Episches im vedischen Ritual, 34.
- 11Translation of the Rigveda, 3, 175.
- 12Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, 42, 207. Cf. Bergaigne, Religion Védique, 2, 362.
- 13Buddha, 405, 406.
- 14Rv. vii. 33, 1(śvityañco dakṣiṇataskapardāḥ)。
- 15Rv. vii. 83〔詩節番号を欠く〕。
- 16Vedische Studien, 2, 136; Ṛgveda-Glossar, 74.
- 17Rv. vii. 18, 13.
- 18Cf. Rv. vii. 18, 24. 第13詩節と第24詩節の並行性はまったく疑いを容れない。さらに、Sudās と Bharata 族への讃美が Rv. iii. 53, 9. 12. 24 において結びついて見出され、また Rv. vi. 16, 4, 5 においては Divodāsa が Bharata 族と、Divodāsa が Bharata 族の一人であったことを抗いがたく示唆する仕方で結びつけられている。
- 19Rv. vii. 33, 6.
- 20これが viśaḥ の意味であることはほぼ確実である。Geldner, Vedische Studien, loc. cit. を見よ。Zimmer, Altindisches Leben, 159 および Hillebrandt, Vedische Mythologie, 1, 111 はこれを「州」と訳すが、Viś を見よ。
- 21Rv. vii. 33, 14. Geldner(op. cit., 138, 139)は巧みに、Vasiṣṭha が奇跡的に生まれたがゆえに Gotra を必要とし、かくして Tṛtsu となったと示唆する。
- 22Pratardana は Kauṣītaki Brāhmaṇa, xxvi. 5 において Daivodāsi、「Divodāsa の後裔」として言及される。
- 23Cf. Oldenberg, Buddha, 406 et seq.、また Kuru を見よ。
- 24Rv. vi. 47 を見よ。同箇所では Divodāsa と Sṛñjaya がともに讃えられている。vi. 27, 5 においては Turvaśa 族が Sṛñjaya 族に対立し、vii. 18, 6; 19, 8 においては Tṛtsu 族が Turvaśa 族に対立する。
- 25ii. 4, 4, 5.
- 26Vedische Mythologie, 1, 98 et seq.
- 27Cf. また Grierson, Journal of the Royal Asiatic Society, 1908, 837 et seq.
- 28Rv. vi. 61, 3. Brunnhofer, Iran und Turan, 127 はこの河川を Oxus 川と同定するが、Hillebrandt はこれを Haraqaiti 川と同定する。
- 29Rv. ix. 61, 2. Cf. vi. 45, 1; Zimmer, op. cit., 124. Cf. Max Müller, Sacred Books of the East, 32, 424.
Tṛṣṭa§
Tṛṣṭāmā§
Tejana§
Tejana は Ṛgveda1 において田を測るのに用いられる葦の竿ないし棒を指す。Atharvaveda においては「竹」の意が二度見出され2、第二の箇所においては竹が「春の」(vāsantika)と限定されている。
より特には、それは矢の柄を指し3、この意味は後期のヴェーダ文献にしばしば見出される。4
- 1i. 110, 5.
- 2i. 2, 4; xx. 136, 3(= Khila, v. 22, 3)。Cf. Kāṭhaka Saṃhitā, xxi. 10 における形容詞としての taijana。
- 3Av. vi. 49, 1(Whitney, Translation of the Atharvaveda, 317)。iṣu eka-tejanā、「一本の柄を有する矢」、vi. 57, 1.
- 4Aitareya Brāhmaṇa, i. 25; iii. 26; Kāṭhaka Saṃhitā, xxv. 1(śṛṅga および śalya とともに矢の三部分として。Maitrāyaṇī Saṃhitā, iii. 8, 1 においては kulmala が tejana に代わる。cf. ibid., 2)。Taittirīya Saṃhitā, vi. 3, 3, 1 は anīka, śalya, tejana とする。Cf. Iṣu.
Tejanī§
Tejas§
Taittirīya§
Taittirīya は黒 Yajurveda の一分派の名であるが、Sūtra 期に至るまでこのように記述されることはない。1 この学派は Saṃhitā2、Brāhmaṇa3、Āraṇyaka4 によって代表され、そのほかに Āraṇyaka の一部をなす Upaniṣad5 がある。
- 1Anupada Sūtra, ii. 6; vii. 7. 10 等。Weber, Indian Literature, 87 et seq.; Macdonell, Sanskrit Literature, 175 et seq.; von Schroeder, Maitrāyaṇī Saṃhitā, 1, x et seq. を見よ。
- 2Weber 校訂、Indische Studien, xi, xii、および Bibliotheca Indica, 1854-1899.
- 3Bibliotheca Indica, 1855-1870、および Ānandāśrama 叢書, 1898 に校訂刊行。
- 4Bibliotheca Indica, 1864-1872、および Ānandāśrama 叢書, 1898 に校訂刊行。
- 5Roer 校訂, 1850、および Ānandāśrama 叢書, 1889.
Taimāta§
Taila§
Toka§
Tokman§
Tottra§
Tottra、牛を駆るための「刺し棒」は、Śatapatha Brāhmaṇa(xii. 4, 1, 10)に言及される。
Toda§
Taugrya§
Taudī§
Taurvaśa§
Taurvaśa. Turvaśa を見よ。
Taula§
Taula は Atharvaveda(i. 7, 2)の本文の読みであるが、他に知られぬ語形であって満足に説明しえないから、疑いなく Taila を意図したものであるに違いない。
Tauvilikā§
Trapu§
Trapu は Atharvaveda1 および後代2 において「錫」を指す。それが容易に熔けるという性質は、Roth3 がこの名(語根 trap、「恥じる」からの派生として)によって示されると考えるものであるが、Atharvaveda の当該箇所において明瞭に仄めかされている。
- 1xi. 3, 8.
- 2Kāṭhaka Saṃhitā, xviii. 10; Maitrāyaṇī Saṃhitā, ii. 11, 5; Vājasaneyi Saṃhitā, xviii. 13(いずれも金属の列挙において); Taittirīya Brāhmaṇa, iii. 12, 6, 5; Jaiminīya Upaniṣad Brāhmaṇa, iii. 17, 3; Chāndogya Upaniṣad, iv. 17, 7. Taittirīya Saṃhitā, iv. 7, 5, 1 においては形が trapus である。
- 3St. Petersburg Dictionary, s.v. Cf. Zimmer, Altindisches Leben, 53.
Trasa-dasyu§
Trasa-dasyu、Purukutsa1 の子は、Ṛgveda において Pūru 族の王として言及される。2 彼は Purukutsa がその妻 Purukutsānī によって、大いなる苦難の時にもうけた子であった。3 これは Sāyaṇa によれば Purukutsa の捕囚に関わる。おそらく実際にはその死が意味されている。Trasadasyu はまた Girikṣit の後裔であり4、Purukutsa は Durgaha の後裔であった。それゆえ系譜は Durgaha、Girikṣit、Purukutsa、Trasadasyu と思われる。Trasadasyu は Tṛkṣi5 の祖先であり、Ludwig6 によれば Hiraṇin という子を有した。Trasadasyu の年代上の位置は、その父 Purukutsa が Sudās の同時代人であって、敵として7 あるいは友として8 現れるという事実によって定まる。Purukutsa が Sudās の敵であったことのほうが蓋然性が高い。というのも Sudās の先行者 Divodāsa は明らかに9 Pūru 族と敵対しており、また十王の戦において Pūru 族は Sudās および Tṛtsu 族に対して並んだからである。Trasadasyu 自身は精力的な王であったと思われる。その民たる Pūru 族は Sarasvatī 川10 のほとりに定住していたが、これは疑いなく中つ国の河川であった。この所在地は、Pūru 族が後にその地に住む Kuru 族と合体したこととよく合致する。この合体は Kuruśravaṇa の人において例証される。彼は Ṛgveda11 において Trāsadasyava、「Trasadasyu の後裔」と呼ばれ、その父は Mitrātithi、その子は Upamaśravas であった。Mitrātithi と Tṛkṣi との関係は明らかでない。
Trasadasyu のもう一人の後裔は Tryaruṇa Traivṛṣṇa であり、彼は Ṛgveda の一讃歌12 において単に Trasadasyu と呼ばれている。
彼は「Trivṛṣan の後裔」であるのみならず、Pañcaviṃśa Brāhmaṇa13 によれば Traidhātva、「Tridhātu の後裔」でもあった。Tryaruṇa のこれら二人の先行者の順序は、ヴェーダ文献からはいかなる仕方によっても定めえない。後代の伝承14 によれば、Tridhanvan という王侯が継承において Tryaruṇa に先行した。ヴェーダの伝承はさらに、Trasadasyu が Trivṛṣan ないし Tryaruṇa といかなる正確な関係に立ったかを示さない。
Trasadasyu Paurukutsa は数種の Brāhmaṇa15 において、Para Āṭṇāra、Vītahavya Śrāyasa、Kakṣīvant Auśija とともに古の名高い祭主として現れる。これらの者は Jaiminīya Upaniṣad Brāhmaṇa16 において「古の大王たち」(pūrve mahārājāḥ)と呼ばれている。
- 1Rv. v. 33, 8; vii. 19, 3; viii. 19, 36; iv. 42, 8 et seq.
- 2Rv. iv. 38, 1 et seq.; vii. 19, 3. 彼は i. 63, 7; 112, 4; viii. 8, 21; 36, 7; 37, 7; 49, 10 において単に仄めかされるのみである。
- 3Rv. iv. 42, 8 et seq.
- 4Rv. v. 33, 8.
- 5Rv. viii. 22, 7. 彼は Pūru 族の王であった。vi. 46, 8 を見よ。
- 6Translation of the Rigveda, 3, 155。Rv. v. 33, 7 et seq. に関して。
- 7Ludwig, 3, 174 はかく解し、この見解を支持して Rv. i. 63, 7 において Sudāsam を Sudāse に改める。Cf. Oldenberg, Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, 42, 204, 205, 219; Ṛgveda-Noten, 1, 63; Geldner, Vedische Studien, 1, 153; Hillebrandt, Vedische Mythologie, 1, 112, n. 1. Foy, Kuhn の Zeitschrift, 34, 242 は、この箇所の語がそもそも固有名詞であることを否定する。
- 8Cf. Hillebrandt, loc. cit.
- 9Rv. i. 130, 7; Ludwig, 3, 114。ただし Hillebrandt, 1, 113, 114 を見よ。
- 10Rv. vii. 95, 96; Ludwig, 3, 175; Hillebrandt, 1, 115.
- 11x. 33, 4. Cf. Lanman, Sanskrit Reader, 386 et seq.; Geldner, Vedische Studien, 2, 150, 184.
- 12v. 27.
- 13xiii. 3, 12. Sāyaṇa の引く Tāṇḍaka(Sieg, Die Sagenstoffe des Ṛgveda, 67)は、Rv. と同じく Trasadasyu とする。
- 14Harivaṃśa, 714 et seq.。同箇所(716)では名が Tridharman とも誤読されている。Traidhātva を、Sieg, op. cit., 74-76 がそうするように、Tridhanvan からの父称を表すものと解することは道理にかなわない。Trivṛṣan は叙事詩の伝承から完全に姿を消している。それゆえ Trivṛṣan と Tridhanvan のいずれかに相対的な先行性を帰する術はない。
- 15Pañcaviṃśa Brāhmaṇa, xxv. 16; Kāṭhaka Saṃhitā, xxii. 3(Indische Studien, 3, 473); Taittirīya Saṃhitā, v. 6, 5, 3.
- 16ii. 6, 11. Cf. Oldenberg, Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, 42, 217 et seq.; Hillebrandt, Vedische Mythologie, 1, 111-116; 2, 165, n. 4; Weber, Indische Studien, 10, 25; Lanman, Sanskrit Reader, 386.
Trāta Aiṣumata§
Trāyamāṇā§
Trāsadasyava§
Tri-kakud§
Tri-kakud1 ないし Tri-kakubh2、「三つの峰を有する」は、Atharvaveda および後代において Himālaya の山の名として現れ、現代の Trikota である。そこから塗薬(Āñjana)が得られ3、伝承はこれを Vṛtra の眼に由来するものとした。4
- 1Av. iv. 9, 8; Śatapatha Brāhmaṇa, iii. 1, 3, 12.
- 2Maitrāyaṇī Saṃhitā, iii. 6, 3; Kāṭhaka Saṃhitā, xxiii. 1; Vājasaneyi Saṃhitā, xv. 4; Pañcaviṃśa Brāhmaṇa, xxii. 14.
- 3それゆえ Traikakuda と呼ばれる。Av. iv. 9, 9, 10; xix. 44, 6 等。
- 4Śatapatha Brāhmaṇa, loc. cit.; Maitrāyaṇī および Kāṭhaka の両 Saṃhitā, loc. cit. Cf. Ludwig, Translation of the Rigveda, 3, 198; Zimmer, Altindisches Leben, 5, 29, 30; Hillebrandt, Vedische Mythologie, 3, 239, n. 4; Bloomfield, Hymns of the Atharvaveda, 381.
Tri-kadruka§
Tri-kharva§
Tri-kharva は、Pañcaviṃśa Brāhmaṇa(ii. 8, 3)において或る特別の儀礼を成功裡に行う者として言及される祭官の学派の名である。
Trita§
Tri-pura§
Tri-pura、「三重の要害」は、Brāhmaṇa 文献1 において堅固な守りとして仄めかされている。しかしこれらの箇所は神話的であるから、三重の同心の城壁を有する砦の存在の証拠としてこれらに重きを置くことはできない。
- 1Śatapatha Brāhmaṇa, vi. 3, 3, 25; Aitareya Brāhmaṇa, ii. 11; Indische Studien, 2, 310 所収の Kauṣītaki Brāhmaṇa。また Taittirīya Saṃhitā, vi. 2, 3; Kāṭhaka Saṃhitā, xxiv. 10 等、および Lévi, La Doctrine du Sacrifice, 46, n. 1 をも見よ。
Tri-plakṣa§
Triy-avi§
Triy-avi. Tryavi を見よ。
Tri-yuga§
Tri-yuga(中性)は Ṛgveda1 に現れる表現であり、そこでは植物(oṣadhi)が神々より「三つの時代」前に生じた(devebhyas triyugaṃ purā)と言われる。Nirukta2 への注釈者は、ここで意味される時代が後代のインドの年代論における Yuga であり、この箇所の意味は植物が最初の Yuga に生じたということであると考える。Śatapatha Brāhmaṇa3 の著者は、この詩節において三つの季節 ── 春、雨季、秋 ── が意味されていると解し、triyugaṃ purā の二語を別々に「かつて、三つの季節に」と取る。「三つの時代」という漠然とした意味で十分である。このような場合の「三」の使用は民間伝承の好む特徴である。Cf. Yuga.
Tri-vatsa§
Tri-vṛt§
Tri-vṛt、「三重の」は、Atharvaveda(v. 28, 2. 4)における護符の呼称である。
Tri-veda Kṛṣṇa-rāta Lauhitya§
Tri-veda Kṛṣṇa-rāta Lauhitya(「Lohita の後裔」)は、Jaiminīya Upaniṣad Brāhmaṇa(iii. 42, 1)の Vaṃśa(師の一覧)によれば、Śyāmajayanta Lauhitya の弟子たる師の名である。
Tri-śaṅku§
Tri-śoka§
Trai-kakuda§
Trai-kakuda. Trikakud を見よ。
Traitana§
Trai-dhātva§
Trai-dhātva(「Tridhātu の後裔」)は、Pañcaviṃśa Brāhmaṇa(xiii. 3, 12)における Tryaruṇa の父称である。
Trai-pada§
Traivaṇi§
Trai-vṛṣṇa§
Trai-vṛṣṇa、「Trivṛṣan の後裔」は、Ṛgveda(v. 27, 1)における Tryaruṇa の父称である。
Try-aruṇa Trai-vṛṣṇa Trasadasyu§
Try-aruṇa Trai-vṛṣṇa Trasadasyu は、Ṛgveda の一讃歌1 において歌い手への寛大さが讃えられる王侯の名である。Pañcaviṃśa Brāhmaṇa2 においては Tryaruṇa Traidhātva Aikṣvāka として現れ、次の物語の主人公である。彼はその Purohita すなわち家門の祭官 Vṛśa Jāna とともに戦車で外出し、御することの速きに過ぎてバラモンの少年を殺した。この罪は Purohita がその Vārśa Sāman(詠唱)を用いることによって贖われた。Sāyaṇa3 の引く Śāṭyāyana Brāhmaṇa はこの話を敷衍する。Vṛśa が手綱を執っていたので、王と祭官は互いに殺害の責を負わせ合った。相談を受けた Ikṣvāku 族はこの罪の責任を Vṛśa に負わせ、彼はそこで Vārśa Sāman によって少年を蘇生させた。彼らのこの不公平のゆえに ── Kṣatriya である彼らは Kṣatriya に偏ったのである ── Agni の輝きは彼らの家において燃えることをやめた。それを回復させるようにという彼らの訴えに応じて Vṛśa は彼らのもとへ来り、Trasadasyu の妃の姿をしてその輝きを盗んだ Piśācī(女の悪鬼)を見出し、それを Agni に回復させることに成功した。この異伝は若干の異同を伴って Bṛhaddevatā4 にも現れ、同書はこの物語を Ṛgveda の一讃歌5 と結びつける。この讃歌が実際にこの話に関わることを示そうとする Sieg の試み6 は、まったく成功していない。7
ここでの Trasadasyu が「Trasadasyu の後裔」を意味するのであって王 Trasadasyu 自身ではないことは明らかである。彼が呼ばれる父称 Traivṛṣṇa と Traidhātva の相違は、Tryaruṇa の出た Trivṛṣan と Tridhātu(あるいはおそらく Tridhanvan)という二人の王があったと想定することによって最もよく説明される。8 Ikṣvāku 族との結びつきは重要である(Ikṣvāku を見よ)。
- 1v. 27, 1-3.
- 2xiii. 3, 12. Cf. Rv. v. 2 への Sāyaṇa に引かれる Tāṇḍaka 伝本。同書では Trasadasyu が王の名として挙げられている。
- 3Rv., loc. cit. について。また Oertel, Journal of the American Oriental Society, 18, 20 における Jaiminīya Brāhmaṇa の異伝をも見よ。
- 4v. 14 et seq.、Macdonell の注とともに。
- 5v. 2.
- 6Die Sagenstoffe des Ṛgveda, 64-76. Cf. Geldner, Festgruss an Roth, 192.
- 7Oldenberg, Sacred Books of the East, 46, 366 et seq.; Ṛgveda-Noten, 1, 312; Hillebrandt, Göttingische Gelehrte Anzeigen, 1903, 240 et seq. を見よ。
- 8Sieg, op. cit., 74-76 および Trasadasyu を見よ。
Try-avi§
Try-āśir§
Tvac§
Tvac、「皮」「革」。(a)Ṛgveda1 においてはとりわけ、Soma の草から汁を搾り出す工程に用いられる皮を指す。Soma は圧搾板(adhiṣavaṇe phalake)2 の上に敷かれた皮の上で石(adri)によって搗かれた。もっともこの板は Ṛgveda には言及されない。あるいは杵と臼が用いられた場合にも、皮はなお汁の滴を受けるためにその下に置かれたのであって、Pischel3 の考えたようにその上ではない。
(b)Tvac はまた、汁を搾り出した後に残る Soma 草の外皮をも指す。4
(c)比喩的に kṛṣṇā tvac、「黒き皮」という語が、侵入するアーリヤ人の先住民の敵に適用される。5
- 1i. 79, 3; iii. 21, 5; ix. 65, 25; 66, 29; 70, 7; 79, 4; 101, 11, 16 等。
- 2Hillebrandt, Vedische Mythologie, 1, 181-183、および Adhiṣavaṇa。
- 3Vedische Studien, 1, 110.
- 4Rv. ix. 86, 44; Taittirīya Brāhmaṇa, iii. 7, 13, 1; Hillebrandt, op. cit., 52.
- 5Rv. i. 130, 8、またおそらく ix. 41, 1。ただし後者については cf. Hillebrandt, op. cit., 51, n. 2、また Dāsa を見よ。
Tvaṣṭṛ§
Tvāṣṭra§
Tsaru§
Tsaru. ── (a)この語は Ṛgveda の一箇所1 において或る種の這う動物を指すと思われる。
(b)後代の文献においては、この語は杯(Camasa)などの「柄」を意味する。1 この意味においてはまた、Atharvaveda2 および後期の諸 Saṃhitā3 における犂(Lāṅgala)の記述にも現れると思われる。
(a)の脚注
(b)の脚注
(訳注:原書は本項において (a)(b) の各節ごとに脚注番号を振り直している。ここでは節ごとに脚注群を分けて示した。)
- 1vii. 50, 1. Cf. Zimmer, Altindisches Leben, 99.
- 1Pañcaviṃśa Brāhmaṇa, xxv. 4. Cf. Lāṭyāyana Śrauta Sūtra, x. 12, 12 等。
- 2iii. 17, 3。同箇所において通常の本文は soma-satsaru とし(Pada 本文も同様)、Paippalāda 伝本は soma-pitsalam とする。
- 3Taittirīya Saṃhitā, iv. 2, 5, 6 は sumati-tsaru とする。Maitrāyaṇī Saṃhitā, ii. 7, 12; Kāṭhaka Saṃhitā, xvi. 12; Vājasaneyi Saṃhitā, xii. 71; Vasiṣṭha Dharma Sūtra, ii. 34 は somapitsaru とし、Vasiṣṭha はこれを「Soma を飲む者のための柄を備えた」(すなわち somapi-tsaru)と解する。Weber, Indische Studien, 17, 255 は soma-sa-tsaru、「紐(uman、推測による語)と柄(tsaru)を伴う(sa-)」を示唆する。Whitney, Translation of the Atharvaveda, 116 は全体を通じて sumati-tsaru、「よく滑らかにされた柄を伴う」と読むことを選び、matī-kṛ 等に見られる語根から解する。Cf. Zimmer, Altindisches Leben, 236; Bühler, Sacred Books of the East, 14, 13.