Daṃśa§
Daṃśa(字義通りには「噛む者」)、「虻」は、Chāndogya Upaniṣad(vi. 9, 3; 10, 2)に言及される。
Daṃśa(字義通りには「噛む者」)、「虻」は、Chāndogya Upaniṣad(vi. 9, 3; 10, 2)に言及される。
Dakṣa Kātyāyani Ātreya(「Atri の後裔」)は、Jaiminīya Upaniṣad Brāhmaṇa の Vaṃśa(師の一覧)(iii. 41, 1; iv. 17, 1)において Śaṅkha Bābhravya の弟子として言及されている。
Dakṣa Jayanta Lauhitya(「Lohita の後裔」)は、Jaiminīya Upaniṣad Brāhmaṇa(iii. 42, 1)の Vaṃśa(師の一覧)において Kṛṣṇarāta Lauhitya の弟子として言及されている。
Dakṣiṇatas-kaparda は Ṛgveda(vii. 33, 1)における Vasiṣṭha 族の形容辞であり、「髪を右側に編んで結う」その様式に関わる。Kaparda を見よ。
Dakṣiṇā は Ṛgveda1 および後代2 に繰り返し現れ、祭祀において祭官に贈られる贈物の呼称である。それは明らかに、牝牛 ── 多産な(dakṣiṇā)もの ── がそのような機会における通常の「謝礼」3 であったことによる。4 Ṛgveda における後代の Dāna-stuti すなわち「贈与の讃」はこれらの贈物を甚だしく誇張しており、その誇張は Brāhmaṇa 文献において増大する。注目すべきは、これらの贈物の列挙が主として、牛、馬、水牛、駱駝(uṣṭra)、装飾品などの動産のみを含み、土地を含まないことである。5 しかし Śatapatha Brāhmaṇa6 においては土地が Dakṣiṇā として言及されるが、それは非難を伴ってのことであり、おそらく土地が氏族員の同意なしには譲渡しえないものとみなされるに至ったからであろう。7
Dakṣiṇā-praṣṭi は「右側の添え馬」を指す。Śatapatha Brāhmaṇa の二箇所1 からは、時に四頭の馬が戦車に繋がれ、右と左の軛馬(dakṣiṇā-yugya, savyā-yugya)が中央にあり、その両側に一頭ずつが並んだことが知られる。後の二頭はもとより軛にはまったく繋がれず、おそらく軛馬の傍らを引き綱によって繋がれていたのであろう。Ratha を見よ。
Dakṣiṇāyana. Sūrya を見よ。
Dakṣiṇā-yugya、「右側の軛馬」は、Śatapatha Brāhmaṇa(v. 1, 4, 6; 4, 3, 8; ix. 4, 2, 11)に言及される。Ratha を見よ。
Daṇḍa、「杖」。(a)この語はしばしば通常の意味で言及される。例えば牛を駆るのに用いられる場合(go-ajanāsaḥ)1、あるいは武器として2 である。Śatapatha Brāhmaṇa3 によれば、灌頂を受ける者には悪鬼を追い払うために杖が与えられた。杖はまた成年に達した若者の入門式(upanayana)においても役割を果たした。4 転じてこの語は、匙などの道具の柄を指すのにも用いられる。5
(b)刑罰を含意する世俗の権力の象徴としての「杖」は、王によって行使される(rāja-preṣito daṇḍaḥ)。1 現代の言い方をすれば、王は刑法の源であった。そして彼が後代においてすら明らかにこの法の部門を自らの手に保持していたことは明らかである。2 罪なき者(a-daṇḍya)の処罰は、Pañcaviṃśa Brāhmaṇa3 において非バラモン的な Vrātya 族の特徴の一つとして挙げられている。Dharma をも見よ。
(a)の脚注
(b)の脚注
(訳注:原書は本項において (a)(b) の各節ごとに脚注番号を振り直している。ここでは節ごとに脚注群を分けて示した。)
Daṇḍa Aupara(「Upara の後裔」)は、Taittirīya Saṃhitā(vi. 2, 9, 4)および Maitrāyaṇī Saṃhitā(iii. 8, 7)において或る儀礼を執り行った者として言及されている。
Dadhi、「酸乳」は、Ṛgveda1 および後代2 に繰り返し言及される。Śatapatha Brāhmaṇa3 は順に Ghṛta(「澄ましバター」)、Dadhi、Mastu ── Eggeling4 はこれを「乳清」と訳す ── および Āmikṣā、「凝乳」を挙げる。Dadhi はまたしばしば「凝乳」の意をも有する。それは Soma と混ぜるのに用いられた。5
Dadhyañc Ātharvaṇa はまったく神話的な聖仙である。Ṛgveda1 においては明らかに或る種の神格であるが、後期の
諸 Saṃhitā2 および Brāhmaṇa3 においては師に変貌している。Pañcaviṃśa Brāhmaṇa4 においては、手落ちによって Āṅgirasa と呼ばれている。
Dadhy-āśir. Dadhi および Soma を見よ。
Dant, Danta、「歯」は、Ṛgveda 以降しばしば言及される。1 歯を清めること(dhāv)は日常の行為であり、とりわけ祭祀の準備としてなされ、沐浴、頭髪と髭(keśa-śmaśru)の剃り、爪の切除を伴った。2 Atharvaveda の一讃歌3 は幼児の最初の二本の歯の出現を祝うが、その正確な解釈は疑わしい。4 Aitareya Brāhmaṇa5 には子供の乳歯が抜け落ちることへの言及がある。この語は Ṛgveda6 において一度、象の牙を指すと思われる。歯科術が行われたか否かは疑わしい。Aitareya Āraṇyaka7 における Hiraṇya-dant、「黄金の歯を有する」という人名の出現はおそらく意義深く、とりわけ、金による歯の充填が Rome において早くも十二表法の立法の時代に知られていたことが確実であるだけになおさらである。8
Dam-pati は Ṛgveda2 において「家の主人」1 を指すが、より多くは双数形で「主人と女主人」3 を表すのに用いられる。この表現は Ṛgveda の時代における女性の高い地位を示すものと正当にみなしうる。Strī を見よ。
Darvidā、「啄木鳥」は、Yajurveda1 において Aśvamedha すなわち馬祀の犠牲獣として言及される。Cf. Dārvāghāta.
Darśa(「現れ」)は新月の日を指し1、通常は満月の日(pūrṇa-māsa)2 と対比される。この語は darśa-pūrṇa-māsau、「新月と満月」という複合語3 において最も頻繁に現れ、これらは儀礼上とりわけ重要な日である。4 ここでの最初の二語の順序は注目に値する。というのもそれは、月が満月から満月へではなく新月から新月へ数えられたことを、決定的に証明はしないにせよ明瞭に示唆するからである。Māsa を見よ。
Daśan、「十」は、アーリヤ民族一般におけると同じく、ヴェーダ時代のインド人の数体系の基礎をなす。しかしきわめて早い時期にきわめて大きな数の名の長い連なりが見出されることはインドに特徴的であり1、他方アーリヤの知識は千を越えなかった。Vājasaneyi Saṃhitā2 における一覧は、1、10、100、1,000、10,000(ayuta)、100,000(niyuta)、1,000,000(prayuta)、10,000,000(arbuda)、100,000,000(nyarbuda)、1,000,000,000(samudra)、10,000,000,000(madhya)、100,000,000,000(anta)、1,000,000,000,000(parārdha)である。Kāṭhaka Saṃhitā3 における一覧は同じであるが、niyuta と prayuta が位置を交換し、nyarbuda の後に新たな数(badva)が入るため、samudra が 10,000,000,000 に増大し、以下も同様である。Taittirīya Saṃhitā は二箇所4 において Vājasaneyi Saṃhitā とまったく同じ一覧を有する。Maitrāyaṇī Saṃhitā5 は ayuta, prayuta、次いで再び ayuta、arbuda, nyarbuda, samudra, madhya, anta, parārdha という一覧を有する。Pañcaviṃśa Brāhmaṇa6 は nyarbuda までは Vājasaneyi の一覧を有し、次いで nikharvaka, badva, akṣita、そして明らかに go = 1,000,000,000,000 が続く。Jaiminīya Upaniṣad Brāhmaṇa7 の一覧は
nikharvaka を nikharva に、badva を padma に置き換え、akṣitir vyomāntaḥ で終わる。Śāṅkhāyana Śrauta Sūtra8 は nyarbuda の後に nikharvāda, samudra, salila, antya, ananta(= 100億)をもって系列を続ける。
しかし ayuta9 を越えては、これらの数のいずれも生命力を有しない。Badva は確かに Aitareya Brāhmaṇa10 に現れるが、そこでは正確な数的意味を有しえない。11 また後代においては、これらの大きな数の名はきわめて混乱している。
いくらか興味深い等比数列が Pañcaviṃśa Brāhmaṇa12 に見出される。同書には祭祀の贈物の一覧があり、そこでは各々の数が先行するものの倍額となっている。それは dvādaśa-mānaṃ hiraṇyam、「12の価値の黄金」(単位は不確かだが、おそらく Kṛṣṇala13)から始まり、次いで「24、48、96、192、384、768、1,536、3,072 の価値の」と続き、次に dve aṣṭāviṃśati-śata-māne が来る。これは 2×128×24(最後の単位は単一の māna ではなく24 māna の数である)= 6,144 を意味するに違いない。次いで 12,288、24,576、49,152、98,304、196,608、393,216 となる。これらの大きな数とともに、Śatapatha Brāhmaṇa14 に見出される時間の精緻な理論的細分を比較しうる。同書においては一日が15 muhūrta に分たれ、1 muhūrta = 15 kṣipra、1 kṣipra = 15 etarhi、1 etarhi = 15 idāni、1 idāni = 15 prāṇa である。Śāṅkhāyana Śrauta Sūtra15 は一日を15 muhūrta に分かつ十進法の区分を有し、1 muhūrta = 10 nimeṣa、1 nimeṣa = 10 dhvaṃsi である。
ヴェーダ文献には分数はほとんど言及されない。Ardha, pāda, śapha, kalā はそれぞれ 1/2、1/4、1/8、1/16 を指すが、
最初の二つのみが一般的である。Tṛtīya は三分の一を指す。16 Ṛgveda17 においては Indra と Viṣṇu が1,000を3で割ったと言われるが、いかにしてそうしたかは不確かである。Tri-pād は「四分の三」を指す。18
ヴェーダ期のインド人が数字の記号について何らかの知識を有したという明瞭な証拠はないが、それはまったくありうることである。19
Daśa-puruṣaṃ-rājya は Śatapatha Brāhmaṇa1 に現れ、疑いなく2「十代の祖先を通じて受け継がれた主権」を意味し、世襲支配の際立った事例である。Weber3 はかつてこの語を「Daśapuru の王国」4 と訳し、Kālidāsa の Meghadūta5 の Daśapura および「中つ国」の Daśārṇa と比較した。
Daśamī は Atharvaveda1 および Pañcaviṃśa Brāhmaṇa2 において90歳から100歳までの期間を指し、
Ṛgveda3 はこれを daśama yuga、「生の第十段階」と呼ぶ。長寿はヴェーダ時代のインド人の間で稀ではなかったと思われる。というのも「百の秋」(śaradaḥ śatam)を生きたいという願いが絶えず表明されているからである。4 Dīrghatamas は100年生きたと言われ5、Mahidāsa Aitareya は116年とされる。6 Onēsikritos7 は彼らが時に130年生きたと報告しており、この記述には Jātaka8 における120年の生への願いが対応する。おそらくこの数は常に実際のものというより想像上のものであったが、現代インドにおける生の比較的な短さ9 は、Ṛgveda にはほとんど知られていない熱病の累積的な影響によって説明されうるかもしれない。Takman を見よ。
Daśa-vraja は Ṛgveda(viii. 8, 20; 49, 1; 50, 9)における Aśvin 双神の庇護を受けた者の名である。
Dasyu はいささか起源の疑わしい語であり、Ṛgveda の多くの箇所1 において明らかに超人的な敵に適用される。他方、人間の敵、おそらく先住民がこのように呼ばれる箇所も数箇所ある。これは、Dasyu が Āryan と対立させられ、Āryan が神々の助けをもって彼を打ち破る諸箇所において確実とみなしうる。2 Dasyu 族と Āryan との大いなる相違はその宗教であった。前者は「祭祀を行わぬ」「儀礼を欠く」「異なる誓いに耽る」「神々を憎む」等と称される。3 Dāsa に比して、彼らは民族としての性格がより薄い。Dasyu 族の氏族(viśaḥ)は言及されず、また Indra の dasyu-hatya、「Dasyu の殺戮」がしばしば語られるのに対し、dāsa-hatya の対応する用法はない。4 しかし Dasyu 族が実在の人々であったことは、Ṛgveda の一箇所5 において彼らに適用される anās という形容辞によって示される。この語の意味は絶対的に確実ではない。Pada 本文と Sāyaṇa はともにこれを「顔なき」(an-ās)の意に解するが6、もう一つの訳「鼻なき」(a-nās)もまったくありうる。7
またこれは、Dravida 型8 の平たい鼻の先住民とよく合致するであろう。この型の言語は、北西部に見出される Brahui 族の間になお存続している。この解釈は、Vṛtra が「鼻を砕かれた」と呼ばれることによっていくらかの支持を得るであろう。もっともこれが不明瞭な語 rujānās の正しい説明であればのことである。9
Dasyu 族のもう一つの形容辞は mṛdhra-vāc であり、これは anās とともに現れ10、「吃る、あるいは理解しがたい言葉の」と訳されてきた。11 この訳は決して確実ではなく、またこの形容辞は他の箇所12 では Āryan にも適用されるから、その正しい意味はより蓋然的には「敵意ある言葉の」である。
Dasyu はイラン語の daṅhu, daqyu に対応し、これは「州」を指す。Zimmer13 は本来の意味が「敵」であり、そこからイラン人が「敵国」「征服された国」「州」の意味を発展させ、他方インド人は「敵」の意味を保ちつつ、それを悪鬼の敵をも含むように拡張したと考える。Roth14 は、人間の敵という意味が神々と悪鬼の抗争からの転用であるとみなす。
Lassen15 は daqyu : dasyu という対照を daēva : deva のそれと結びつけ、そこに、Haug の説によればイラン人とインド人を分かった宗教的相違の結果を見ようと試みた。この語は本来、侵入の結果としての「荒らされた土地」16 を意味したのかもしれない。そこから「敵の国」、次いで「敵対する民」の意となり、彼らは人間の敵としてはより通常には同根の名 Dāsa で呼ばれた。
個々の Dasyu は Cumuri、Śambara、Śuṣṇa 等である。
Aitareya Brāhmaṇa17 においては、この語は後代18 におけると同じく、一般に未開の民という意味を有する。
(訳注:底本ではこの項の脚注4が本文と脚注群の間に孤立して置かれている。番号順に整えた。)
Dākṣāyaṇa、「Dakṣa の後裔」。Dākṣāyaṇa 族は Atharvaveda および Yajurveda の諸 Saṃhitā1 において、Śatānīka に黄金を与えた者として言及されている。Śatapatha Brāhmaṇa2 においてはこの語が実際に「黄金」を指すのに用いられる。Dākṣāyaṇa 族はそこで3、或る儀礼を行ったがゆえに同 Brāhmaṇa 自身の時代に至るまで栄えた王侯の一族として現れる。
Dādhīca、「Dadhyañc の後裔」は、Pañcaviṃśa Brāhmaṇa(xiv. 6)における Cyavana の父称である。
Dāya は Ṛgveda1 においては労苦(śrama)の「報い」の意でのみ現れるが、後代には「相続財産」── すなわち、父の生前であれ死後であれ、その子らの間で分たれるべき父の財産 ── を意味する。これらの箇所はすべて、家の財産が法的に家族の財産であったという観念を否定する。それが家の長、通常は父の財産であったこと、および家族の他の成員はそれに対して道徳的な要求を有するにすぎず、父はそれを無視しえたこと ── もっとも子らが身体的により強ければ父を強いえたであろうが ── は明らかである。
かくして Manu は Taittirīya Saṃhitā2 において、その財産を子らの間で分けたと言われる。彼は Nābhānediṣṭha を除外したが、
後に彼に Aṅgiras 族を宥め牛を得る方法を教えた。これは、彼が分けた財産が土地(Urvarā)ではなく動産であったことの意義深い徴証である。Aitareya Brāhmaṇa3 においては、分割が Manu の生前にその子らによってなされ、彼らは老いた父のみを Nābhānediṣṭha に残したと言われる。さらに Jaiminīya Brāhmaṇa4 によれば、四人の子が、老いた父 Abhipratārin がなお存命中に相続財産を分けた。もとより Dāya を家族の相続可能な財産を指すものとみなすことは可能であるが、父の発達した patria potestas ── これは Śunaḥśepa の伝説に示されるように早くからきわめて顕著であった ── は、子らが父とともに法的な所有者であったという見解とは相容れない。ただし彼らが実際に財産の分割を主張した場合は別である。5 おそらく ── 決定的な性格の証拠は何もないが ── 土地は初めは分割されなかったが、利用しうる耕地の供給が限られてくるや否や、疑いなくその処分が家畜その他の動産の類推に従い始めたのであろう。
分割の方法については、Taittirīya Saṃhitā6 から、長子が通常優遇されたことが明らかである。おそらく
死後は常にそうであった。父の生前には別の者が優遇されえたことが、Pañcaviṃśa Brāhmaṇa7 の一箇所から知られる。女性は Śatapatha Brāhmaṇa8 および Nirukta9 によれば、分割ないし相続から除外された。彼女らは疑いなく兄弟によって扶養されたが、兄弟がなければ売春に落ちることもありえた。10 相続の詳細な規則は Sūtra 文献11 に現れる。
相続人は Dāyāda12、「相続財産を受ける者(ā-da)」と呼ばれる。
Dārḍha-jayanti、「Dṛḍhajayanta の後裔」は、Jaiminīya Upaniṣad Brāhmaṇa(iii. 42, 1)における Vaipaścita Gupta Lauhitya および Vaipaścita Dṛḍhajayanta Lauhitya の父称である。
Dālbhi、「Dalbha の後裔」は、Kāṭhaka Saṃhitā(x. 6)における Vaka の父称である。
Dālbhya、「Dalbha の後裔」は Dārbhya の異形である。それは(a)Pañcaviṃśa Brāhmaṇa1 における Keśin の、(b)Chāndogya Upaniṣad2 および Jaiminīya Upaniṣad Brāhmaṇa3 における Caikitāyana の、(c)Chāndogya Upaniṣad4 および Kāṭhaka Saṃhitā5 における Vaka の父称である。
Dāśa、「漁夫」は、Yajurveda1 における Puruṣamedha すなわち「人身供犠」の犠牲者の一覧に言及される。Cf. Dhaivara.
Dāsa は Dasyu と同じく、Ṛgveda1 において時に悪鬼的性格の敵を指すが、多くの箇所2 においてはこの語がアーリヤ人の人間の敵に関わる。Dāsa 族は砦(puraḥ)を有するものとして記述され3、その氏族(viśaḥ)が言及される。4「秋の」(śāradīḥ)と呼ばれるこれらの砦5 は神話的なものかもしれないが、そうである必要はない。というのもこの形容辞は、それらが秋の季節に拠り所とされたことに関わるかもしれないからである。Dāsa の色(Varṇa)6 はおそらく先住民の黒い皮膚への言及であり、これは直接にも言及されている。7 先住民は(Dasyu として)anās、「鼻なき」(か)8、および mṛdhra-vāc、「敵意ある言葉の」9 と呼ばれ、またおそらく Ṛgveda10 の男根崇拝者(śiśna-devāḥ、「男根を神とする者」)によって意味されている。
Ārya と Dāsa ないし Dasyu との宗教上の相違に絶えず言及がなされていることは意義深い。11
Dāsa 族は多くの場合奴隷に落とされたので、Dāsa という語は Ṛgveda の数箇所12 において「奴隷」の意を有する。女性形 Dāsī は Atharvaveda13 以降常にこの意味を有する。先住民の女性が疑いなく通常の奴隷であった。というのもその夫が戦で殺されれば、彼女らは自然に下女とされたであろうからである。彼女らはまた時に妾ともなった。かくして Kavaṣa は Aitareya Brāhmaṇa14 において、女奴隷の子(dāsyāḥ putraḥ)であると罵られている。
Ludwig15 は、若干の箇所16 において Dāsa が「敵」の意でアーリヤの敵に適用されると考えるが、これは不確かである。Zimmer17 と Meyer18 は、Dāsa19 が本来一般に「敵」を意味し、後にイランにおいては Caspia の草原の Dahae 族20 の名に、インドにおいては先住民の呼称に発展したと考える。他方 Hillebrandt21 は、Dāsa 族と Paṇi 族がともに言及されている22 から、両者が密接に関連する部族とみなされねばならないと論じ、Paṇi 族を Parni 族と、Ṛgveda の Dāsa 族を Dahae 族と同定する。
この見解はもとより、Dāsa 族が目立つ Ṛgveda の場面、とりわけ Divodāsa ──「天の Dāsa」── が重要な役割を演ずる場面23 を、遥か西方へ移すことを必要とする。Hillebrandt はこれを、Ṛgveda 第6巻の場面が、Sudās、Bharata 族、Vasiṣṭha、Viśvāmitra の現れる第7巻・第3巻の場面とはまったく異なるとみなすことによって正当化する。第6巻の Sarasvatī 川を彼は Arachosia に、第7巻のそれを「中つ国」に置く。しかしこの説が支持されうるかはきわめて疑わしい。Divodāsa が Dāsa でありながら他の Dāsa 族と戦ったというのは、それ自体ありそうにない。とりわけその子 Sudās がアーリヤ文明の主役として現れるだけになおさらである。また Sarasvatī 川を Arachosia に求めるのも道理にかなわぬと思われる。この川は「中つ国」に置くのが自然だからである。
Dāsa 族の富は疑いなく相当なものであったが24、文明において彼らが侵入者に匹敵したと想定する理由はない。25 主だった Dāsa は Ilībiśa、Cumuri と Dhuni、Pipru、Varcin、Śambara である。先住民の部族名については Kirāta、Kīkaṭa、Caṇḍāla、Parṇaka、Śimyu を見よ。
(訳注:底本の脚注2は末尾を「3, 1」と印刷するが、直前が x. 38, 3; 69, 6 と続くことから「83, 1」の誤植と判断して訂正した。)
Dāsya は Bṛhadāraṇyaka Upaniṣad(iv. 2, 30、Mādhyaṃdina 伝本 = 23、Kāṇva 伝本)に一度、「奴隷であること」の意で現れる。
Didhiṣu は Ṛgveda において「求婚者」を指す。それは葬送儀礼において夫の位置を占める親族、おそらく義兄弟に適用され1、この者はヘブライの逆縁婚におけると同じく、子がない場合には兄弟の妻によって子をもうけるべきものとされる。2, 3 Hillebrandt4 と Lanman5 は、この語が本来「求婚者」のみを意味し、Puruṣamedha すなわち「人身供犠」において正妃が死んだ犠牲の傍らに横たわった後、彼女を再び求める王に適用されたと考える。しかしこの見解はほとんど蓋然的でない。6 この語はまた神 Pūṣan7 にも、その母 ── 明らかに Sūryā8 ── の求婚者として適用される。
Didhiṣū-pati は Kāṭhaka1 および Kapiṣṭhala2 の両 Saṃhitā に、また Āpastamba3、Gautama4、Vasiṣṭha5 の
各 Dharma Sūtra に、罪(enas)を犯した者の一覧のうちに現れる。伝統的な訳6 は「再婚した女の夫」である。Manu7 はこの語を、兄弟の死後に子をもうけるために義姉妹と「結婚した」義兄弟が、彼女に対して夫婦の愛情を示す場合(anurajyate kāmataḥ)に適用しているようである。8 この意味はありうるであろう。というのも Didhiṣu は「求婚者」を指し、寡婦は自らの配偶者の選択を左右しうるとき「求婚者」とみなされえたからである。しかし別の伝承9 は、Didhiṣū が妹に先を越されて嫁いだ姉を意味するとする。この見解は Vasiṣṭha Dharma Sūtra10 の一箇所によって、また agre-didhiṣū-pati11 という語 ── これは「姉より先に嫁いだ妹の夫」を意味するに違いない ── の用法によって支持される。この場合にも Didhiṣū は「求婚者」を意味するであろう。姉がそう呼ばれるのは、その親が彼女のために婚姻を取り決めない場合、Viṣṇu12 によれば彼女は自ら夫を選ばねばならない(kuryāt svayaṃvaram)からである。Edidhiṣuḥpati および Daidhiṣavya をも見よ。
Div、「天」。世界は全体として「地」「空」ないし「大気」「天」ないし「空界」(div)の三領域に分たれたものとみなされ1、あるいは代わりに「天地」(dyāvā-pṛthivī)2 に分たれ、この二者が宇宙を成すものとみなされて、大気は天に含められる。稲妻・風・雨は大気に属し、太陽その他
同様の現象は天に属する。若干の箇所3 においては、通常の三組の後、天上の光(svar, jyotis)の前に、天の穹窿(nāka)が加えられる。
宇宙の三分は、三要素 ── 地・空・天 ── 各々の三分に反映される。かくして最高の(uttama4、uttara5、pārya6)天、中間の天、最下の天が特定される。Atharvaveda7 においては三つの天が「水に富む」(udanvatī)、pīlumatī(意味不確か)、および Pitṛ の坐する pradyaus として区別されている。天はしばしば vyoman とも rocana8(本来は天の「輝く空間」)とも呼ばれ、目に見える上界を最高天から隔てる分ける穹窿は、nāka「穹窿」のほかに sānu「頂」、viṣṭap「面」、pṛṣṭha「稜」と呼ばれ、さらには「穹窿の稜」9 ないし「穹窿の頂」10 とも呼ばれる。
同様に三つの大気(rajas)、あるいはより多くは二つが言及されるが11、ここでの区分は単に人為的なものにすぎない。一箇所12 においては六つの rajāṃsi、「領域」に言及があるが、疑いなく諸天と諸地が意味されている。大気の通常の名は antarikṣa である。
三つの地も同様に人為的であり、この三組の起源はおそらく pṛthivī を複数形13 で用いて宇宙の三区分を指すことにある(ちょうど pitarau、「二人の父」が「父と母」を指すのと同様である)。14 地は kṣam, kṣā, gmā と呼ばれ、あるいは mahī「大いなるもの」、pṛthivī ないし urvī「広きもの」、uttānā「広がれるもの」という形容辞によって指され、また常に idam、「この下界」として上界と対比される。15
地の形は Ṛgveda16 において車輪に比され、Śatapatha Brāhmaṇa17 においては明示的に「円い」(pari-maṇḍala)と呼ばれる。地が天と結びつけられるとき、両者は互いに向き合った大きな鉢(camvā)として捉えられる。18 Aitareya Āraṇyaka19 においては両者が卵の半分とみなされている。天の地からの距離は、Atharvaveda20 によれば日の鳥にとって千日の旅路、Aitareya Brāhmaṇa21 によれば馬にとって千日の旅路であり、他方 Pañcaviṃśa Brāhmaṇa22 は奇想天外にも、この距離を千頭の牛が互いの上に立ち重なるのに等しいと見積もる。
Zimmer23 によれば、ヴェーダの詩人たちは大気がその上層においてのみ地の上にあり、下層においては地の下にあると捉えていた。しかし後者の想定についての証拠24 はまったく不十分である。25 Aitareya Brāhmaṇa26 の説では、太陽は夜には単にその明るい面を反転させ、東へ戻る道を辿る間、その光を星々と月に向けるのである。そしてこれがおそらく Ṛgveda の教説でもあることが示されている。25, 27 Sūrya および Candramās をも見よ。惑星についてのヴェーダの知識については Graha を見よ。
ヴェーダ文献には地の地理的区分はない。Jaiminīya Upaniṣad Brāhmaṇa28 は、地の中心が Plakṣa Prāsravaṇā の一拃北方にあり、天の中心が七聖仙の星座、すなわち大熊座であると述べる。方位については Diś を見よ。
(訳注:底本の電子テキストは、本文中「Ṛgveda の教説でもある」の直後に、後段の一句「literature. The Jaiminīya Upaniṣad Brāhmaṇa」を誤って重複挿入している。組版上の乱れと判断して除いた。また脚注4および25がそれぞれ二度印刷されているため、一組に整理した。)
Divodāsa Atithigva は初期ヴェーダ時代の主だった王侯の一人である。彼は Vadhryaśva1 の子であり、Bharata 族のうちの Tṛtsu 家の名高い王 Sudās の父、あるいはより蓋然的には祖父であった。おそらく Pijavana が子で Sudās が孫であった。Divodāsa は当然 Bharata2 であり、Sudās と同じく Turvaśa 族および Yadu 族の敵であった。3 その大いなる敵は Dāsa たる Śambara であり、彼は明らかに山地の民の首長であって4、Divodāsa は繰り返しこれを打ち破った。5 彼はまた、その父 Vadhryaśva6 と同じく火の祭祀の精力的な支持者であったと思われる。というのも Ṛgveda7 において Agni が一度彼の名で呼ばれているからである。他方、彼は Āyu および Kutsa とともに Indra の助けによって敗れた。数箇所において彼は歌い手の家系 Bharadvāja 族と密接に結びついていると思われる。8
Divodāsa が Paṇi 族、Pārāvata 族、Bṛsaya に対して戦ったと言われる一箇所9 から、Hillebrandt10 は彼が Arachosia の諸部族との抗争に従事していたと推論し、この名を「天の Dāsa」11 と解して、彼自身が Dāsa であったと推測する。この結論は蓋然的でない。というのも当該の戦の行われた Sarasvatī 川は、Arachosia の Haraqaiti 川であるとはほとんど考えがたく、自然には後代の Sarasvatī 川を指すであろうし、他方 Pārāvata 族は Pañcaviṃśa Brāhmaṇa12 において東方、Yamunā 川のあたりにあるものとして言及されているからである。Bergaigne の
見解13、すなわち Divodāsa と Atithigva が別人であるとする説は、両者の行為の完全な並行性に鑑みて支持しえない。14 Pratardana をも見よ。
Divodāsa の民が Ṛgveda の一讃歌15 に言及されている。
Divya、「神判」は、後代の文献に至るまで見出されない語であるが、神判の慣行への言及が数箇所ヴェーダ文献に見出されてきた。Schlagintweit2、Weber3、Ludwig4、Zimmer5 その他によって Atharvaveda1 に見出された火の神判は、Grill6、Bloomfield7、Whitney8 によって反証された。しかしそのような神判は Pañcaviṃśa Brāhmaṇa9 に現れ、また灼熱した斧による神判10 が Chāndogya Upaniṣad において窃盗の告発に適用されるものとして現れる。Geldner11 は、この慣行が Ṛgveda12 においてすら言及されていると示唆するが、これはきわめて蓋然性が低い。13 Ludwig14 と Griffith15 は Ṛgveda の別の箇所16 に
Dīrghatamas が火と水の神判に付されたことへの言及を見出すが、この見解は支持しえない。Weber17 によれば「天秤」の神判が Śatapatha Brāhmaṇa18 に言及されているが、Tulā を見よ。
Diś、「方位」は、Ṛgveda および後代1 にきわめてしばしば用いられ、天の一方位を指す。原則として四方位 ── 東、南、西、北 ── が言及される。2 しかし「方位」の数はこの四つに種々のものを加えて時に十まで増やされる。五方位は天頂(ūrdhvā)を含む。3 六方位は天頂と天底(ūrdhvā と avācī)を含む。4 七方位は天頂、人の立つ地(dhruvā)、およびこの二者の間の空(antarikṣa)すなわち vyadhvā を含む。5 八方位は中間の方位(東南・西南・東北・西北)を含む。6 九方位はこれらに天頂を加え7、十方位は天頂と天底を加える。8
五という数は時に、観測者の足下の地(dhruvā)によって満たされ9、六という数はその点(dhruvā)と天頂(ūrdhvā)によって満たされる。10「高きもの」(bṛhatī)11 が時に「垂直のもの」(ūrdhvā)に代わる。
Dīrgha-tamas(「長き闇」)Māmateya(「Mamatā の子」)Aucathya(「Ucatha の子」)は、Ṛgveda の一讃歌1 において歌い手として言及され、また数箇所2 においては母称 Māmateya のみで言及されている。彼は Ṛgveda1 においても Śāṅkhāyana Āraṇyaka3 においても、生の第十の十年に達したと言われる。Aitareya Brāhmaṇa4 においては Bharata の祭官として現れる。Bṛhaddevatā5 は Ṛgveda6 の断片から作り上げた不合理な伝説を含む。それによれば Dīrghatamas は生まれつき盲目であったが視力を回復した。老年に至って僕たちによって川に投げ込まれ、そのうち一人 Traitana が彼を襲ったが、代わりに自ら命を落とした。流れに運ばれて彼は Aṅga の地に打ち上げられ、そこで女奴隷 Uśij を娶り Kakṣīvant をもうけた。ここで結合されている二つの伝説は整合してすらいない。というのも第二のものは Dīrghatamas の視力回復を無視しているからである。Pargiter7 のようにこれらに何らかの史的重要性を付すのは賢明でないと思われる。
(訳注:底本ではこの項の脚注1が二度重複して現れる。一つに整理した。)
Dīrghāyutva、「長寿」は、ヴェーダ時代のインド人の祈願の絶えざる対象であり1、諸 Saṃhitā および Brāhmaṇa において長命が忌まれることは決してない。他方 Atharvaveda2 は生を延ばすことを意図した呪文(āyuṣyāṇi)に満ちている。
Dundubhi は明らかに擬音語であり、戦時にも平時にも用いられる「太鼓」を意味する。Ṛgveda1 以降しばしば言及される。2 特別な種類の太鼓は「地の太鼓」であり、地に穴を掘って皮で覆って作られた。これは Mahāvrata ── 冬至に行われる儀礼 ── において、太陽の帰還に敵対する影響を追い払う目的で用いられた。3「太鼓を打つ者」が Puruṣamedha すなわち「人身供犠」における犠牲者の一覧に含まれている。4
Dur-gaha は Ṛgveda の一讃歌1 に言及され、そこではその孫たちが寛大さのゆえに讃えられている。もっとも Sāyaṇa はこの語を形容詞的に訳す。2 しかし Ṛgveda の別の箇所3 においては、Sāyaṇa は Daurgaha という形容辞のうちに、Durgaha の子としての Purukutsa の記述を見る。この者は敵に捕らえられたか殺されたかしたが、その妻 Purukutsānī はその後、家系を回復するために子 Trasadasyu を得た。彼はまたこの解釈を支持して、Bṛhaddevatā4 には見出されない物語を引く。他方 Śatapatha Brāhmaṇa5 は Daurgaha を馬の意に解しているようである。Sieg6 は、Ṛgveda の当該箇所においても同じ意味を採るべきだと考え、これを、王 Purukutsa が子を得るために Daurgaha という馬を犠牲に供したことに関わるものと解する。彼はまた Pischel7 および Ludwig8 とともに、Dadhikrāvan に実在の馬、すなわち Trasadasyu の軍馬を見る。しかし Śatapatha Brāhmaṇa の Daurgaha の解釈は疑わしく、また Dadhikrāvan の場合から支持を得るものとはみなしえない。この者はおそらく神格であって、実在の馬ではまったくなかったからである。9
Dulā. Nakṣatra(Kṛttikās)を見よ。
Duḥ-ṣanta. Dauḥṣanti を見よ。
Dṛḍha-jayanta. Vipaścit および Vaipaścita を見よ。
1. Dṛti、「液体を入れる革袋」は、Ṛgveda1 および後代2 にしばしば言及される。一箇所3 においてはそれが dhmāta、「膨らんだ」と呼ばれ、水腫に冒された者がそのような袋になぞらえられている。乳(Kṣīra)と酒(Surā)が袋に入れられるものとして言及されている。4
2. Dṛti Aindrota(「Indrota の後裔」)は、Pañcaviṃśa Brāhmaṇa1 において Abhipratārin Kākṣaseni の同時代人として、また Jaiminīya Upaniṣad Brāhmaṇa2 の Vaṃśa(師の一覧)において Indrota Daivāpa の弟子として言及されている。おそらく同じ Dṛti が、Pañcaviṃśa Brāhmaṇa3 に見出される Dṛti-Vātavantau という複合語において意味されている。前者はそこで、Mahāvrata が終わった後も、両者がともに従事していた祭会を続け、その結果その後裔が Vātavata 族より栄えたと言われている。
Dṛpta-bālāki Gārgya(「Garga の後裔」)は、Bṛhadāraṇyaka Upaniṣad(ii. 1, 1)において Kāśi の Ajātaśatru の同時代人として言及される師の名である。
Dṛṣad は Ṛgveda1 および Atharvaveda2 において、挽き臼3 ではなく単に穀物を搗くのに用いられた石を指すと思われ、その石は支えとして別の石の上に置かれた。後代4 に
Upalā と結びつけて用いられる場合には、下の挽き石と上の挽き石、あるいは臼と杵が意味されているかもしれない。しかしこれは確実でない。Eggeling5 はそれらを大小の挽き石と訳す。Upara および Upalā をも見よ。
Dṛṣṭa. Adṛṣṭa を見よ。
Deva-bhāga Śrautarṣa は Śatapatha Brāhmaṇa1 において、
Sṛñjaya 族と Kuru 族の双方の Purohita すなわち「家門の祭官」として言及されている。Aitareya Brāhmaṇa2 においては、彼が Girija Bābhravya に犠牲獣の分割の学(paśor vibhakti)を教えたと言われる。Taittirīya Brāhmaṇa3 においては、Sāvitra Agni についての権威である。
(訳注:底本は脚注2を「vii. x」と印刷するが、Giri-ja Bābhravya の項(本書 p. 228)の引用と照合して「vii. 1」に訂正した。)
Deva-muni、「神なる聖者」は、Pañcaviṃśa Brāhmaṇa(xxv. 14, 5)における Tura の形容辞である。この名は Anukramaṇī において Ṛgveda の一讃歌(x. 146)の作者に与えられている。
Deva-rājan は、Pañcaviṃśa Brāhmaṇa(xviii. 10, 5)における「Devarājan 族の Sāman」という句において、明らかにバラモンの血統の王を指す。Cf. Rājanyarṣi および Varṇa.
Devala は Kāṭhaka Saṃhitā(xxii. 11)において Ṛṣi として言及されている。Daivala をも見よ。
Devavant は Ṛgveda1 の Dānastuti(「贈与の讃」)において Sudās の祖先として、明らかにその祖父として言及されている。あるいは Pijavana を Sudās の父、Divodāsa をその祖父と認めるならば、彼は Sudās の高祖父にして Vadhryaśva の父ということになろう。後者の場合の継承は Devavant、Vadhryaśva、Divodāsa、Pijavana、Sudās となる。
Deva-vidyā、「神々についての学」は、Chāndogya Upaniṣad(vii. 1, 2, 4; 2, 1; 7, 1)に数え上げられる学問の一つである。
Devāpi Ārṣṭiṣeṇa(「Ṛṣṭiṣeṇa の後裔」)は、Ṛgveda の一讃歌1 および Nirukta2 に言及される。後者の典拠によれば、Devāpi と Śantanu という二人の兄弟があり、Kuru 族の王侯であった。兄は Devāpi であったが、Śantanu が自ら王として灌頂を受け、そのため十二年間雨が降らなかった。バラモンたちが旱魃を彼が兄を差し置いたことに帰したので、Śantanu は Devāpi に王国を譲ろうとした。しかし後者はこれを拒み、兄弟のために Purohita すなわち家門の祭官として働き、雨を得た。Bṛhaddevatā3 もほぼ同じ話を語るが、Devāpi が王位から除かれた理由が皮膚病に冒されていたことであったと付け加える。叙事詩および後代の伝説はこの物語をさらに
発展させ、いくらか食い違う二つの説明を示す。一方の異伝4 によれば、Devāpi が飛ばされた理由は癩であり、他方においては若くして苦行に身を捧げたことが弟に位を取らせた原因であった。さらに叙事詩5 は彼を Pratīpa の子として扱い、その兄弟として Bāhlīka6 と Ārṣṭiṣeṇa7 の名を挙げる。後者は Devāpi の父称から新たに発達した人物である。おそらく Sieg8 が、Pratīpa の子たる Devāpi の物語と Ṛṣṭiṣeṇa の子たる Devāpi の物語という二つの話が混同されていると主張するのは正しい。しかしいずれにせよ、そこから歴史を引き出すことは不可能である。9
Ṛgveda の当該讃歌は確かに、Devāpi が Śantanu ── Aulāna10 と呼ばれていると思われる ── のために祭祀を行う者として表しているようである。しかしそこには二人の兄弟関係の痕跡はなく、また Devāpi がバラモンではなく Kṣatriya であったことを示すものも何もない。Sieg11 はこの讃歌を Nirukta によって解釈し、彼が Kṣatriya であったが、この機会には Bṛhaspati の恩寵によって祭官として奉仕することを可能にされたと考え、この讃歌が彼の行為の異例な性格を明瞭に認識していると考える。しかしこの見解はきわめて蓋然性が低いと思われる。
Deśa、「土地」は、Upaniṣad および Sūtra の時代に至るまで用いられない語である。1 ただし Brāhmaṇa 文献2 の最も後期に一度、また Vājasaneyi Saṃhitā3 の大いに論議された一箇所に一度現れる。後者においては Sarasvatī 川が五つの支流を有するものとして言及されている。この箇所は、Sarasvatī が Indus 川の名であったという見解に反する。というのもここでの Deśa の使用は、この詩節の作者が Sarasvatī 川を Madhyadeśa すなわち「中つ国」に置いていたことを示すと思われるからであり4、Yajurveda 諸書のあらゆる地理的資料はそこを指し示すのである。5
Daiyāṃpāti、「Dayāṃpāta の後裔」は、東方の師の名であり、Śatapatha Brāhmaṇa(ix. 5, 1, 14)によれば Śāṇḍilyāyana から火壇の構築の学を授けられた。同じ父称が Dayyāṃpāti の形で、Taittirīya Brāhmaṇa(iii. 10, 9, 3-5)において Atyaṃhas の同時代人 Plakṣa に与えられている。
Daivala、「Devala の後裔」は、Pañcaviṃśa Brāhmaṇa(xiv. 11, 18)における Asita の父称である。
Daiva-vāta、「Devavāta の後裔」は、Ṛgveda における Sṛñjaya、おそらく Sṛñjaya 族の王の父称である。彼は火の祭祀の信奉者として1、また Turvaśa 族の王および Vṛcīvant 族に勝利した者として言及されている。2 Zimmer3 によれば、その名は Abhyāvartin Cāyamāna Pārthava(「Pṛthu の後裔」)であった。しかし Hillebrandt4 はこれを疑わしいものと認めながら、それでもなお Sṛñjaya 族を Divodāsa とともに Indus 川の西方に置く。より重要なのは、この名が Bharata 族の Devavāta との結びつきを示唆することに注意すべき点であり、Kuru 族と Sṛñjaya 族が密接に結びついていた5 ことからすれば、これは意味なしとしない。
Daivāvṛdha、「Devāvṛdha の後裔」は、Aitareya Brāhmaṇa(vii. 34)における Babhru の父称である。
Doha、「搾乳」は、Atharvaveda1 および後代2 に一般的な語である。Sūtra 文献3 においては sāyaṃ-doha、「夕の搾乳」および prātar-doha、「朝の搾乳」に言及がある。Dohana も同じ意味を有する。4 Go をも見よ。
Daure-śravas、「Dūreśravas の後裔」は、Pañcaviṃśa Brāhmaṇa(xxv. 15, 3)に記述される蛇の祭祀に奉仕した祭官 Pṛthuśravas の父称である。
Daure-śruta、「Dūreśruta の後裔」は、Pañcaviṃśa Brāhmaṇa(xxv. 15, 3)に記述される蛇の祭祀に奉仕した祭官 Timirgha の父称である。
Daur-gaha. Durgaha を見よ。
Dauḥ-ṣanti(「Duḥṣanta の後裔」)は、Aitareya(viii. 23)および Śatapatha(xiii. 5, 4, 11)の両 Brāhmaṇa における Bharata の父称である。
Drapsa は Ṛgveda 以降1「滴」を表す一般的な語である。Sāyaṇa2 によれば、それは「小さな滴」たる stoka に対する「濃い滴」である。それゆえ dadhi-drapsa、「凝乳の滴」という表現がしばしば現れる。3 Ṛgveda4 においてはこの語が通常、Soma の濃い滴、あるいは Soma そのものを指す。
二箇所5 において Roth6 は「旗」の意を見出し、これは Oldenberg7 に採られている。他方 Geldner8 は「塵」が意味されていると考えるが、この解釈はあまり蓋然的でない。Max Müller9 はそのうち一箇所においてこの語を「雨滴」と訳す。
Dru-ghaṇa は Ṛgveda の Mudgala 讃歌1 および Atharvaveda2 に見出される。意味は不確かである。Yāska3 はこれを「木で作られた ghana」と訳すが、これはおそらく Roth4 の解するように「木の棍棒」を意味する。Geldner5 は、Mudgala が競走に加わろうとしたとき第二の牡牛の代わりに用いた木製の牡牛であったと考える。しかしこの伝説のこの解釈はきわめて蓋然性が低い。6 Whitney7 は Atharvaveda においてこの語を「樹を打つもの」と訳し、Sāyaṇa を引く。Sāyaṇa はこれを「切る道具」と説明し、樹がそれで打たれるゆえにそう呼ばれるとする。
Druma、「樹」は、後期に至るまで見出されず、Ṣaḍviṃśa Brāhmaṇa(v. 11)および Nirukta(iv. 19; v. 26; ix. 23)に現れる。
Druhyu は Ṛgveda に数度言及される民族の名である。一箇所1 においては複数形で Yadu 族、Turvaśa 族、Anu 族、Pūru 族とともに現れ、これらが Ṛgveda の名高い五部族であることを示唆する。2 また Druhyu 族の王は、Sudās による同盟者たちの敗北を共にし、水中に没したと思われる。3 第二の箇所においては Druhyu、Anu、Turvaśa、Yadu がすべて単数形で言及され4、他方別の箇所では Pūru と Druhyu が現れる。5 部族の組み合わせからすれば、Druhyu 族が北西の民であったことは蓋然的であり6、また叙事詩の後代の伝承は Gāndhāra と Druhyu を結びつけている。7
Droṇa は Ṛgveda1 において「木製の桶」を指し、より特には複数形で Soma を入れるのに用いられる器を指す。2 Soma のための大きな木製の槽は Droṇa-kalaśa と呼ばれる。3 祭壇は時に Droṇa の形に作られた。4
Dvāpara. Akṣa および Yuga を見よ。
Dvār は Ṛgveda1 以降2 しばしば用いられ、家の「扉」を指す。後代の形 Dvāra も同じ意味を有する。3 Cf. Gṛha. 「扉の締め具」は Śatapatha Brāhmaṇa4 において Dvāra-pidhāna と呼ばれる。
Dvāra-pa、「門番」は、比喩的な意味においてのみ見出される。Aitareya Brāhmaṇa(i. 30)においては Viṣṇu が神々の「門番」と呼ばれ、また Chāndogya Upaniṣad(iii. 13, 6)にも見出される。
Dvi-gat Bhārgava(「Bhṛgu の後裔」)は、Pañcaviṃśa Brāhmaṇa(xiv. 9)において或る Sāman すなわち詠唱を感得した者として言及され、それによって彼は二度天界へ赴いたとされる。
Dvi-rāja(中性)、「二人の王の間の抗争」ないし「戦」は、Atharvaveda(v. 20, 9)に言及される。Cf. Dāśarājña.
Dvaita-vana、「Dvitavana の後裔」は、Matsya 族の王 Dhvasan の父称であり、その Aśvamedha すなわち「馬祀」が Śatapatha Brāhmaṇa(xiii. 5, 4, 9)に言及されている。
Dvy-opaśa. Opaśa を見よ。