Nの部
Nakta§
Nakṣatra§
Nakṣatra は起源と派生の不明瞭な語である。インドの注釈者たちはすでに、その原義について大きく見解を異にしている。Śatapatha Brāhmaṇa1 はこれを na-kṣatra(「力なし」)と分解し、伝説によって説明する。Nirukta2 はこれを語根 nakṣ、「得る」に帰し、Taittirīya Brāhmaṇa3 に従う。Aufrecht4 と Weber5 はこれを nakta-tra、「夜の守護者」から導いた。より近年6 には nak-kṣatra、「夜を支配する」からの派生が受け入れられつつあると思われる。それゆえこの語の一般的な意味は「星」であると思われる。
Ṛgveda および後代における星としての Nakṣatra. ── 「星」という意味は、Ṛgveda において Nakṣatra が現れるすべての、あるいはほぼすべての箇所7 に十分と思われる。同じ意味は後代の諸 Saṃhitā にも現れる。太陽と Nakṣatra が併せて言及され8、あるいは太陽・月・Nakṣatra が9、あるいは月と Nakṣatra が10、あるいは Nakṣatra のみが言及される。11
しかしこれらの箇所においてこの語に「月宿」の意を帰する必要はない。
他方、後代の意味における Nakṣatra のうち少なくとも三つの名が Ṛgveda に現れる。しかし Tiṣya12 は月宿として言及されているとは思われない。Aghās(複数)および Arjunī(双数)13 の場合は異なる。これらが後代の月宿 Maghās(複数)および Phalgunī(双数)であることは蓋然的と思われる。これらの名は Ṛgveda において意図的に変えられたと思われ、またそれらが現れる讃歌 ── Sūryā の婚礼の讃歌 ── は大いなる古さを主張しえないことを忘れてはならない。14 Ludwig15 と Zimmer16 は Ṛgveda17 において Nakṣatra が27であることへの他の言及を見出したが、これらはきわめてありそうにないと思われる。また別の讃歌18 における revatī(「富める」)および punarvasū(「富を再びもたらす」)という形容詞も、Nakṣatra に言及するとは思われない。
月宿としての Nakṣatra. ── 後代の諸 Saṃhitā の若干の箇所においては、月と Nakṣatra の結びつきが婚姻の結合として捉えられている。かくして Kāṭhaka19 および Taittirīya20 の両 Saṃhitā においては、Soma が月宿たちと結婚したが Rohiṇī とのみ住んだと明示的に述べられる。他の者たちが怒ったので、彼はついにすべての者と等しく住むことを約束せざるをえなかった。Weber21 はここから Nakṣatra が等しい広がりを有するものとみなされていたと推論したが、これはおおよその等しさという意味においてを除いては、本文を不当に押し込めるものである。この二つの Saṃhitā に語られる物語においては、月宿の数は27とは述べられていない。Taittirīya は33とし、Kāṭhaka は数を挙げない。
しかし27が Taittirīya Saṃhitā22 その他23 に見出される一覧においてその数として現れる。28という数ははるかに証拠が乏しい。Taittirīya Brāhmaṇa の一箇所24 においては Abhijit が実際上新来者として印されているが、後の巻25、Maitrāyaṇī Saṃhitā26、Atharvaveda の一覧27 においては受け入れられている。28がより早い数であって、Abhijit が微光であるため、あるいはあまりに北にあるため、あるいは27がより神秘的な数(3×3×3)であるために脱落したということもまったくありうる。中国の宿(Sieou)およびアラビアの Manāzil が数において28であることは意義深い。28 しかし Weber29 はインドにおいては27がより古い数であると信ずる。
この数の意味は、恒星月が27日と28日の間 ── より正確には前者に近い ── を占めることを想起すれば容易に説明される。そのような月は実際に Lāṭyāyana30 および Nidāna31 の両 Sūtra において27日から成るものとして認められており、12か月で324日の年、すなわち Nakṣatra 年をなし、閏月を加えれば351日の年をなす。Nidāna Sūtra32 は Nakṣatra の算定を360日の民用暦すなわち太陽(sāvana)年に導入しようと試み、太陽が各 Nakṣatra に13 1/3 日留まるとする(13 1/3 × 27 = 360)。しかし27日ないし28日の月はヴェーダの年代計算においてまったく役割を果たさない。33
Nakṣatra の名. ── Ṛgveda に言及される二つに加えて、より早期の Atharvaveda34 は
Jyeṣṭhaghnī35(後代の Jyeṣṭhā)および Vicṛtau36 の名を挙げ、これらは密接な結びつきにあるものとして言及される。また Revatīs(複数)と Kṛttikās37 の名も挙げる。Agnyādhāna すなわち「聖火の設置」の儀礼のありうべき時期に関して、Kāṭhaka Saṃhitā38、Maitrāyaṇī Saṃhitā39、Taittirīya Brāhmaṇa40 は Kṛttikās、Rohiṇī、Phalgunyas、Hasta と呼ばれる Nakṣatra を挙げる。後者の Brāhmaṇa は Punarvasū を加え、また追加の注記41 において Pūrve Phalgunī を除いて Uttare Phalgunī を採る。Śatapatha Brāhmaṇa42 は Mṛgaśīrṣa と Citrā をありうべきものとして加える。他方、Punarvasū はすべての権威43 によって Punarādheya すなわち「聖火の再設置」── これは最初の火がその存在の目的たる祭主の繁栄をもたらすのに失敗した場合に行われる44 ── にふさわしいものとして推奨される。しかし Kāṭhaka Saṃhitā45 は Anurādhās をも許す。
Agnicayana すなわち「火壇の積累」の儀礼においては、煉瓦は Nakṣatra と数において等しいと想定される。煉瓦は756個であり、それらは27の Nakṣatra に27の副次的 Nakṣatra を乗じたもの ──(729ではなく)720と算定される ── に、閏月の長さたる36日を加えたものと等置される。この祭官的な戯言からは有益なものは何も導き出しえない。46 しかしこの儀礼に関連して Yajurveda の諸 Saṃhitā47 は27の
Nakṣatra を列挙しており、これらの一覧48 を次に全文掲げうる。
| Taittirīya Saṃhitā | Maitrāyaṇī Saṃhitā | Kāṭhaka Saṃhitā | |
|---|---|---|---|
| 1 | Kṛttikās(女性複数) | Kṛttikās | Kṛttikās |
| 2 | Rohiṇī | Rohiṇī | Rohiṇī |
| 3 | Mṛgaśīrṣa(中性) | Invagā | Invakā |
| 4 | Ārdrā | Bāhu | Bāhu |
| 5 | Punarvasū(双数) | Punarvasu(単数) | Punarvasu |
| 6 | Tiṣya | Tiṣya | Tiṣya |
| 7 | Āśreṣās(女性複数) | Āśleṣās(複数;Pada は Aśleṣā) | Āśleṣās(あるいは Aśleṣās) |
| 8 | Maghās(女性複数) | Maghās | Maghās |
| 9 | Phalgunī(女性双数) | Phalgunīs(複数) | Phalgunis |
| 10 | Phalgunī(女性双数) | Phalgunīs(複数) | Uttarāḥ Phalgunīs |
| 11 | Hasta | Hasta | Hastau(双数) |
| 12 | Citrā | Citrā | Citrā |
| 13 | Svātī | Niṣṭya(中性) | Niṣṭyā |
| 14 | Viśākhe(女性双数) | Viśākha(中性単数) | Viśākhā(女性単数) |
| 15 | Anūrādhās(複数) | Anūrādhā(Pada は Anurādhā) | Anūrādhās(男性複数) |
| 16 | Rohiṇī | Jyeṣṭhā | Jyeṣṭhā |
| 17 | Vicṛtau | Mūla(中性) | Mūla |
| 18 | Aṣāḍhās(女性複数) | Aṣāḍhās | Aṣāḍhās |
| 19 | Aṣāḍhās(女性複数) | Aṣāḍhās | Uttarā Aṣāḍhās |
| 20 | ── | Abhijit | ── |
| 21 | Śroṇā | Śroṇā | Aśvattha |
| 22 | Śraviṣṭhās(複数) | Śraviṣṭhās | Śraviṣṭhās |
| 23 | Śatabhiṣaj | Śatabhiṣaj | Śatabhiṣaj |
| 24 | Proṣṭhapadās(男性複数) | Proṣṭhapadās | Proṣṭhapadās |
| 25 | Proṣṭhapadās(男性複数) | Proṣṭhapadās | Uttare Proṣṭhapadās |
| 26 | Revatī | Revatī | Revatī |
| 27 | Aśvayujau(双数) | Aśvayujau | Aśvayujau |
| 28 | Apabharaṇīs(女性複数) | Bharaṇīs | Apabharaṇīs |
Taittirīya Brāhmaṇa49 は諸 Saṃhitā の一覧とおおむね一致する Nakṣatra の一覧を有する。それは次のとおりである ── Kṛttikās、Rohiṇī、Invakās、Bāhū(双数)、Tiṣya、Āśleṣās、Maghās、Pūrve Phalgunī、Uttare Phalgunī、Hasta、Citrā、Niṣṭyā、Viśākhe、Anūrādhās、Rohiṇī、Mūlabarhaṇī、Pūrvā Aṣāḍhās、Uttarā Aṣāḍhās、Śroṇā、Śraviṣṭhās、Śatabhiṣaj、Pūrve Proṣṭhapadās、Uttare Proṣṭhapadās、Revatī、Aśvayujau、Apabharaṇīs。しかし後の巻50 においては一覧が28に増え、
第14の後に満月が、第28の後に新月が挿入されて、Nākṣatra(太陰)月を30日の Sāvana(太陽)月と一致させようとする試みがなされている。この第二の一覧における名は、次の例外を除いて諸 Saṃhitā におけるものと同じである。Kṛttikās の七つの星は Ambā、Dulā、Nitatnī、Abhrayantī、Meghayantī、Varṣayantī、Cupuṇīkā と名づけられ、これらの名は Taittirīya51 および Kāṭhaka52 の両 Saṃhitā にも見出される。Mṛgaśīrṣa のほかに Invakās も言及される。53 次いで Ārdrā、Punarvasū、Tiṣya、Āśreṣās、Maghās(そのほかに Anaghās、Agadās、Arundhatīs も言及される)、Phalgunyas(ただし他の箇所では双数 Phalgunyau)54、Phalgunyas、Hasta、Citrā、Niṣṭyā、Viśākhe、Anūrādhās、Jyeṣṭhā、Mūla、Aṣāḍhās、Aṣāḍhās、Abhijit、Śroṇā、Śraviṣṭhās、Śatabhiṣaj、Proṣṭhapadās、Proṣṭhapadās、Revatī、Aśvayujau、Bharaṇyas、ただし Apabharaṇīs も。55 Abhijit は同 Brāhmaṇa のより早い部分56 にも現れるが、おそらく挿入である。しかし Weber57 の議論、すなわち Brāhmaṇa がここで第28の Nakṣatra として言及されているがゆえに Abhijit がこの一覧において場違いであるという議論は、Maitrāyaṇī Saṃhitā58 の一覧が Abhijit を含む28の Nakṣatra を含み、末尾に Brāhmaṇa を別のものとして加えているという事実(もとより彼には知られていなかった)によって、いくらか力を失う。
別の箇所59 において Taittirīya Brāhmaṇa は Nakṣatra を二組に分かち、Deva Nakṣatra と Yama Nakṣatra とし、それぞれ1-14と15-27(Abhijit を除く)とする。この区分は同 Brāhmaṇa 第3巻60 における区分に対応し、そこでは月の明るい半分の日と暗い半分の日が Nakṣatra と等置されている。Brāhmaṇa は前者の系列を南、後者を北として扱う。しかしこれは事実といかなる関係もなく、儀礼上の不合理とみなすほかない。
Atharvaveda の後期の第19巻は Abhijit を含む Nakṣatra の一覧61 を含む。ここに与えられる名は
次のとおりである ── Kṛttikās、Rohiṇī、Mṛgaśiras、Ārdrā、Punarvasū、Puṣya、Āśleṣās、Maghās、Pūrvā Phalgunyau(原文のまま)62、Hasta、Citrā、Svāti(男性)63、Viśākhe、Anurādhā64、Jyeṣṭhā、Mūla、Pūrvā Aṣāḍhās65、Uttarā Aṣāḍhās、Abhijit、Śravaṇa、Śraviṣṭhās、Śatabhiṣaj、Dvayā Proṣṭhapadā、Revatī、Aśvayujau、Bharaṇyas。
Nakṣatra の位置. ── Nakṣatra の大部分の位置に関してヴェーダ文献には確定的なものはないが、後代の天文学はそのすべてを精確に位置づけており、その記述は全体として、より早い諸文献に述べられるところと十分に一致する。もっとも Weber66 はこれを疑う傾きにあった。以下に採る同定は、Whitney67 がその Sūrya Siddhānta への注において与えたものによる。
1. Kṛttikās
Kṛttikās は疑いなく牡牛座 η その他、すなわちプレイアデス星団である。この星座をなす七つの星の名は、上に Yajurveda 諸本から挙げたが68、そのうち三つ ── abhrayantī、「雲を作る」、meghayantī、「曇らせる」、varṣayantī、「雨を降らせる」── は明らかに雨をもたらすプレイアデスに関わる。kṛttikā という語はおそらく、語根 kṛt、「紡ぐ」から「織物」を意味する。
2. Rohiṇī
Rohiṇī、「赤みを帯びた」は、際立って赤い星、牡牛座 α すなわち Aldebaran の名であり、ヒアデス星団、牡牛座 α θ γ δ ε の群を指す。この同定は Aitareya Brāhmaṇa69 における Prajāpati の伝説によって絶対的に確実と思われる。そこで彼は近親相姦の意図をもって娘を追う者として表され、「狩人」(Mṛgavyādha、「Sirius」)によって矢(Iṣu Trikāṇḍā、「Orion の帯」)で射られたとされる。Prajāpati は明らかに Orion である(Mṛgaśiras は Orion の頭部の小さな星群の名である)。
3. Mṛgaśīrṣa
Mṛgaśīrṣa ないし Mṛgaśiras、また Invakā ないし Invagā とも呼ばれるものは、
オリオン座の微光星 λ, φ¹, φ² と思われる。それらは Atharvaveda の Śāntikalpa において Andhakā、「盲」と呼ばれるが、おそらくその微光のゆえである。70
4. Ārdrā
Ārdrā、「湿れる」は、輝ける星オリオン座 α の名である。しかしそれが称される名 ── Śāṅkhāyana Gṛhya Sūtra71 および Nakṣatrakalpa72 における複数形 Ārdrās、Taittirīya Brāhmaṇa73 における双数形 Bāhū ── は、二つ以上の星から成る星座を指し示す。また、対応する中国の宿がオリオンの肩・帯・膝をなす七つの輝星を含むことも注意されうる。74
5. Punarvasū
Punarvasū、「再び富を与える二つのもの」は、Castor と Pollux の頭にある二星、双子座 α と β を指す。この名は疑いなく、Dioscuri に対応する Aśvin 双神の恵み深い性格と結びついている。75
6. Tiṣya
Tiṣya ないし Puṣya は、蟹座の胴体にあるいくらか微かな群、蟹座 γ, δ, θ を含む。単数形はいささか奇異である。第一義的には一つの星が意味されていたと思われるが、この群のいずれも際立ってはいないからである。76
7. Āśreṣās
Āśreṣās ないし Āśleṣās は、若干の文献77 においては確かに Aśreṣās ないし Aśleṣas と読むべきものであるが、うみへび座 δ, ε, η, ρ, σ、またおそらく ζ をも指す。この語は「抱くもの」を意味し、この星座に見事に適合する名である。
8. Maghās
Maghās、「恵み」は、獅子座の「鎌」すなわち α, η, γ, ζ, μ, ε である。Anaghā、「罪なきもの」等の異形は、明らかにこの星座の吉祥な影響に関わる。
9, 10. Phalgunī
Phalgunī, Phalgunyau, Phalgū78、Phalgunīs, Phalgunyas は、実は二重の星座であり、Pūrve、「前の」と Uttare、「後の」に分かれる。前者は獅子座 δ と θ、後者は獅子座 β と 93 番星である。Weber によれば、この語は Ṛgveda79 の異形 Arjunī と同じく、「明るい色の」星座を指す。
11. Hasta
Hasta、「手」は、からす座の五つの目立つ星(δ, γ, ε, α, β)から成り、この数はこの語自身が示唆するものである。Geldner80 によれば、Ṛgveda の「五頭の牡牛」はこの星座である。
12. Citrā
Citrā、「輝ける」は、美しい星おとめ座 α である。それは Taittirīya Brāhmaṇa81 における Indra の伝説において、また Śatapatha Brāhmaṇa82 における「二匹の神なる犬」(divyau śvānau)の伝説において言及される。
13. Svātī
Svātī ないし Niṣṭyā は、後代には明らかに輝星 Arcturus すなわち牛飼座 α であり、その北方における位置は Śāntikalpa83 の記述 ── そこでは「常に北の道を行く」(nityam uttara-mārgagam)と言われる ── によって確かめられる。しかし Taittirīya Brāhmaṇa84 は星宿からなる Prajāpati を構成し、Citrā(おとめ座 α)を頭、Hasta(からす座)を手、Viśākhe(てんびん座 α と β)を腿、Anurādhās(さそり座 β, δ, π)を立つ所とし、Niṣṭyā を心臓とする。しかし Arcturus は30度外れているのでこの形を損なう。他方、アラビアと中国の体系はそれぞれ Arcturus の代わりにおとめ座 ι, κ, λ、およびおとめ座 κ を有し、これらは Prajāpati の形によく適合するであろう。しかしこの Weber の議論85 の力にもかかわらず、Whitney86 は Niṣṭyā がここでおとめ座の星を意味せねばならぬとは確信せず、Niṣṭyā、「除け者」という名がこの Nakṣatra の他のものからの分離を示唆すると指摘する。
14. Viśākhe
Viśākhe はてんびん座 α と β の二星である。この月宿は Amarakośa によれば後代 Rādhā と呼ばれる。Atharvaveda87 に rādho Viśākhe、「Viśākhe は繁栄である」という表現が現れるのは奇異である。しかしおそらく Rādhā は、次の Nakṣatra の名 Anurādhā を「Rādhā の後に来るもの」を意味すると誤って捉えたことによる単なる案出にすぎない。88
15. Anūrādhās
Anūrādhās ないし Anurādhā、「吉祥な」は、さそり座 β, δ, π(おそらく ρ をも)である。
16. Rohiṇī
Rohiṇī、「赤みを帯びた」、Jyeṣṭhaghnī、「最年長者を殺す」、あるいは Jyeṣṭhā、「最年長の」は、さそり座 σ, α, τ の星座の名であり、その中心の星 α は輝く赤色の Antares(すなわち Cor Scorpionis)である。
17. Vicṛtau
Vicṛtau、「二つの解き放つもの」、Mūla、「根」、あるいは Mūlabarhaṇī、「根こそぎにする」は、第一義的には蠍の尾の末端の λ と ν を指すが、ε から ν までの九ないし十一の星をも含む。
18, 19. Aṣāḍhās
Aṣāḍhās(「打ち破られざる」)は Pūrvās、「前の」と Uttarās、「後の」に区別され、実は二つの星座である。前者はいて座 γ, δ, ε, η、あるいは δ と ε のみから成り、後者はいて座 θ, σ, τ, ζ、あるいは σ と ζ の二つのみから成る。本来は正方形をなす四つの星のみが全体の星座に含まれるものとして意味されていた蓋然性が高い89 ── すなわち σ と ζ、および δ と ε である。
20. Abhijit
Abhijit は輝星こと座 α と、その二つの伴星 ε および ζ である。北緯60度におけるその位置は、対応するアラビアおよび中国の星宿の位置とまったく食い違う。この事実は Oldenberg90 によって、これが体系への後代の追加であったという見解を支持するものとみなされている。しかし彼の注意していない Maitrāyaṇī Saṃhitā91 ほどの早い時期にそれが現れることは、その見解をいくらか無効にする。92 Taittirīya Brāhmaṇa93 においては Abhijit が「Aṣāḍhās の上、Śroṇā の下」にあると言われ、Weber94 はこれが空間におけるその位置に関わると解し、そこからそのヴェーダにおける位置がアラビアの Manāzil および中国の Sieou のそれ ── すなわちやぎ座 α, β ── に対応すると推論した。しかし Whitney95 は、「上」「下」という語が実は一覧における Abhijit の位置、すなわち Aṣāḍhās の「後」、Śroṇā の「前」に関わると効果的に論ずる。
21. Śroṇā
Śroṇā、「跛の」、あるいは Śravaṇa、「耳」は、明るい星わし座 α と、その下の β、上の γ を指す。Weber96 はまったく不必要にも、
Śravaṇa という名が二つの耳とその間の頭を示唆すると考える。それは Manāzil および Sieou とまったく対応せず、明らかにインドの案出である。97
22. Śraviṣṭhās
Śraviṣṭhās、「最も名高い」、あるいは後代の Dhaniṣṭhās98、「最も富める」は、いるか座の菱形の群 α, β, δ, γ であり、おそらく同じ星座の ζ をも含む。先行する Nakṣatra と同じく、Manāzil および Sieou と調和しない。
23. Śatabhiṣaj
Śatabhiṣaj ないし Śatabhiṣa99、「百人の医者を有する」は、みずがめ座 λ と、その周りの他の星々 ── 漠然と百を数えるものとして捉えられた ── と思われる。
24, 25. Proṣṭha-padās
Proṣṭha-padās(女性複数)、「腰掛の脚」、あるいは後代の Bhadra-padās100、「吉祥な脚」は、正方形をなす二重の星宿であり、前者(pūrva)はペガスス座 α と β から、後者(uttara)はペガスス座 γ とアンドロメダ座 α から成る。
26. Revatī
Revatī、「富める」は、多数の星(後代には32)を指し、そのうちうお座 ζ ── 紀元後570年頃に赤道が黄道と交わった点に近い ── が最南のものとして挙げられる。
27. Aśva-yujau
Aśva-yujau、「二人の馬を軛につなぐ者」は、おひつじ座 β と ζ の星を指す。Aśvinyau101 および Aśvinī102 は後代の名である。
28. Apabharaṇīs
Apabharaṇīs, Bharaṇīs、あるいは Bharaṇyas、「担うもの」は、牡羊の北部にある小さな三角形の名であり、Musca すなわちおひつじ座 35, 39, 41 番星として知られる。
Nakṣatra と月. ── Brāhmaṇa 文献においては Nakṣatra の名が常に日付を表すのに用いられる。これは二通りの仕方でなされる。名は、すでに女性形でなければ女性形に変えられ、pūrṇa-māsa、「満月」と複合されうる。例えば Tiṣyā-pūrṇamāsa、「Nakṣatra Tiṣya における満月」のごとくである。103 しかしはるかに多くの場合、それは派生形容詞に変えられ、paurṇamāsī、「満月(の夜)」あるいは
amāvāsyā、「新月(の夜)」とともに用いられる。例えば Phālgunī paurṇamāsī、「Nakṣatra Phalgunī における満月の夜」のごとくである。104 あるいは Sūtra 文献において通例であるように、Nakṣatra の形容詞のみが満月の夜を表すのに用いられる。月自身は Nakṣatra の名から派生した105 名で呼ばれるが、Brāhmaṇa 文献には Phālguna106、Caitra107、Vaiśākha108、Taiṣya109、Māgha110 のみが現れる。後代の完全な一覧は Phālguna、Caitra、Vaiśākha、Jyaiṣṭha、Āṣāḍha、Śrāvaṇa、Prauṣṭhapada、Āśvayuja、Kārttika、Mārgaśīrṣa、Taiṣya、Māgha である。厳密に言えば、これらは太陰月であるべきであるが、太陰年の使用は明らかにきわめて限られていた。すでに Taittirīya Brāhmaṇa の時代に、太陰月を太陽年をなす三十日の十二の月と等置しようとする傾向があったことを我々は見た(Māsa を見よ)。
Nakṣatra と年代論. ──(1)月の名から、それらの名の体系的な使用が導入された時期を確かめようとする試みがなされてきた。Sir William Jones111 はこの可能性に言及し、Bentley は Śrāvaṇa が常に夏至を画したという根拠なき仮定によって、月の名が紀元前1181年以前には遡らないと結論した。Weber112 はこの手段によって年代を定める可能性があると考えたが、Whitney113 はこれが不可能な業であることを説得的に示し、Thibaut114 もこの見解に同意する。十二が月の数として定まったのは、Brāhmaṇa 文献に明らかな、何とかして太陰時を太陽時と調和させようとする願望のゆえである。しかし二十七の Nakṣatra から十二を満月の夜と結びつくものとして選んだことには、年代論的意義はありえない。というのも満月は
いかなる時期においてもその十二においてのみ起こったのではなく、あらゆる時期において規則的に繰り返す間隔をもって二十七のすべてにおいて起こったからである。
(2)Nakṣatra のあらゆる一覧は Kṛttikās で始まる。この事実には何らかの特別の理由があったと想定するのが公平である。さて後代の Nakṣatra の一覧は Aśvinī で始まるが、これは疑いなく、その採用の時期に春分が Revatī と Aśvinī の境のうお座 ζ と一致したがゆえに115 配列し直されたのである ── 紀元後六世紀の間としてよい。それゆえ Weber116 は Kṛttikās が同様の理由で選ばれたという見解を容れ、その Nakṣatra が春分と一致した年代は紀元前第三千年紀の或る時期と見積もられてきた。117 この見解に対するきわめて重大な異論は、当時月ではなく太陽が Nakṣatra と結びつくものとみなされていたと仮定している点である。Thibaut118 も Oldenberg119 も、分点を Kṛttikās と結びつける考えに対して断固として反対を表明している。Jacobi120 は、Ṛgveda121 において雨季の始まりと夏至が新年の始まりと旧年の終わりを画すること、さらに新年が Phalgunī における夏至とともに始まったことを論じた。彼はまた、太陽と Nakṣatra の結びつきについての彼の見解を支持するものとして、Taittirīya Brāhmaṇa122 における Deva Nakṣatra と Yama Nakṣatra の二組の区別に言及した。しかしこの見解は満足からほど遠い。Ṛgveda の当該箇所は、dvādaśa123 という語を、容認されている解釈「十二の部分から成るもの」すなわち「年」ではなく「第十二の(月)」と訳さないかぎり、要求される意味を与ええない。
また Nakṣatra の区分は、太陽との想定される結びつきによってはまったく満足に説明されない。さらに、Kṛttikās の Nakṣatra が春分との一致のゆえに選ばれたとみなされるとしても、Whitney124 も Thibaut125 も、これを Jyotiṣa の与える日付 ── 冬至を Māgha に置く ── の不注意な異形にすぎぬものとみなす用意があることを付言しうる。
(3)Māgha における冬至は Brāhmaṇa の一文によって確かめられる。Kauṣītaki Brāhmaṇa126 はこれを明示的に Māgha の新月(māghasyāmāvāsyāyām)に置くからである。これを注釈者たち127 とともに、Taiṣa の満月の翌日から始まる月の中間の新月と解するか、あるいははるかに蓋然的に、月を始めて Māgha の満月に先行する新月と解するかは、さほど重要でない。この与件は次の仕方で或る時期を定める可能性を与える。もし Revatī の終わりが或る時期に春分を画したのであれば、分点の歳差によって、春分がいつ Māgha における冬至に対応する位置にあったか ── 至点の時圏が Śraviṣṭhās の始まりで黄道を切るとき ── を計算しうるであろう。これは厳密な理論では Bharaṇī の第三四分点、すなわち Śraviṣṭhās から 6 3/4 星宿隔たった点となり、それと Aśvinī の始まりとの差は
1 3/4 星宿 = 23 1/3 度である(27星宿 = 360度として)。Varāha Mihira の確かな時期たる紀元後499年を出発点として、Jones128 は Māgha における冬至に対応する春分の年代として紀元前1181年に到達した ── すなわち歳差を1度 = 72年とする基礎に立ってである。Pratt129 はまったく同じ年代に到達したが、同じ歳差率を採り、Siddhānta において確かめられた Maghā の合点星130、獅子座 α すなわち Regulus の位置を基礎とした。Davis131 と Colebrooke132 は異なる年代、紀元前1391年に到達したが、これは計算の基礎として Citrā の合点星を採ったためであり、この星の位置はたまたま不確かで、種々の教本において3度もの差がある。しかし十二世紀が Jyotiṣa における観測の時期として或る程度通用してきたとはいえ133、その価値はきわめて疑わしい。Whitney が指摘するように、より早い星宿が、各13 1/3 度の広がりを有する後代の星宿と位置において一致したとは言いえない。それらは等しい区分としてではなく、月と合をなす星の群として選ばれたのである。そしてそれらを後に厳密に等しい区分としたことの結果は、後代の群の主要星をまったくその星宿の外へ放り出すことであった。134 また、うお座 ζ が早くから Revatī の東の境界をなしたとも言いえない。それはおそらくその星宿にまったく入っていなかったかもしれない。というのもそれは Revatī に対応する中国およびアラビアの星宿から遠く隔たっているからである。これらすべてに加えて、また出発点の不確かさ ── 紀元後582年、560年、491年が異説である135 ── に加えて、分点の位置が単なる観測によって精確に決定しうる事柄でないという事実、およびヴェーダ期のヒンドゥーの天文学者がきわめて精確な観測者であったとはみなしえないという事実がある。彼らは
一年の日数の精確な決定をなさず、Jyotiṣa においてすら366日としか定めていない。また Sūrya Siddhānta136 ですら分点の歳差を知らない。それゆえありうべき誤差として千年を見込むのが公平であり137、Kauṣītaki Brāhmaṇa の与件から引き出しうる唯一の蓋然的な結論は、それが紀元前数世紀になされたに違いない観測を記録していたということである。これはそれ自体、Brāhmaṇa 文献の蓋然的な年代 ── 紀元前800年から600年としてよい ── とまったく調和する結果である。138
(4)もう一つの年代論的議論は、Phālguna が年の始まりとみなされていたことについて相当量の証拠があるという事実から導かれてきた。Phalgunī における満月がしばしば年の「口」(mukham)と記述されるからである。139 Jacobi140 は
これが、年が冬至から数えられたことによると考える。冬至は紀元前4000年頃に Phālguna の月と一致したであろう。他方 Oldenberg141 と Thibaut142 は、Phālguna が年の「口」として選ばれたのはそれが春の最初の月であったためであると主張する。この見解は、Phālguna と春の始まりとの対応について明瞭な証拠がある143 という事実によって支持される。上に Kauṣītaki Brāhmaṇa において見たように、Māgha における新月は冬至に置かれ144、これによって Phalgunī の満月は冬至の一か月半後、すなわち二月の第一週に置かれる。これはそれ自体、紀元前800年頃としてありそうにない日付ではなく、ローマ暦における veris initium の二月七日に対応する。この事実は、年を各四か月の三つの期間に分かつ唯一の自然な区分と一致する。雨季は六月七日から十日まで続き十月七日から十日に至るからであり、第二の四か月の組が雨季の始まりから数えられることは確実である(Cāturmāsya を見よ)。他方 Tilak145 は、冬至が Taittirīya Saṃhitā の時代(紀元前2350年)には Māghī の満月と一致し、より早い時期 ── すなわち紀元前4000年から2500年、および紀元前6000年から4000年 ── には Phālgunī および Caitrī と一致したと主張する。
(5)Phālguna における満月を年の始まりとして扱う Taittirīya Saṃhitā146 および Pañcaviṃśa Brāhmaṇa147 の箇所は、代替として Caitra における満月を挙げる。おそらく後者の月が選ばれたのは、初日が春の季節の内に十分収まることを確保するためであり148、Jacobi の信ずるように
冬至が Caitra に対応した時代の遺物ではない。もう一つの代替は Ekāṣṭakā であり、注釈者たちはこれを Maghās における満月の後の第八日と解する。この時期は旧年の欠けゆく半分の最後の四半にあたるものとして、年の終わりを表すものとみなされてよかろう。第四の代替は満月の四日前である。意味される満月は Āpastamba が引く Ālekhana の説くように Caitra のそれでなければならず、Āśmarathya、Laugākṣi、Mīmāṃsā 学者たちが信じ、また Tilak が信ずるような Māgha のそれではない。149
(6)また他の者たちは Gṛhya の儀礼に従って、Mārgaśīrṣa の月をもって年を始めた。これはその別名 Āgrahāyaṇa150(「年の始まりに属する」)によって示される。Jacobi と Tilak151 は、これが Mṛgaśiras における秋分 ── Phalgunī における冬至に対応する ── を指したと考える。しかし Thibaut152 が明瞭に示すように、それは秋をもって始まるものとされた年の始まりとして選ばれたのであり、ちょうど或る者たちが春を Phālguna ではなく Caitra から始まるものとしたのと同様である。153
(7)Jacobi はまた、Bühler の支持154 を得て、Gṛhya Sūtra においてヴェーダ学習の開始について与えられる時期から論じた。その原理は、学習が(仏教の vassā におけるように)夏至を画する雨季とともに始まったというものである。彼は、Bhādrapada が若干の文献において学習開始の日付として現れるならば、それは或る時期に Proṣṭhapadās(Bhadrapadās の初期の名)が夏至と一致したがゆえにそう定められたのであり、これは冬至が Phālguna にあった場合であると結論する。しかし Whitney155 は、この議論がまったく不当であることを指摘した。雨と学問との間に何らかの必然的な結びつきがあったとは言いえず ── Śrāvaṇa のごとき月が Śravaṇa、「耳」という語との結びつきのゆえに選ばれたのかもしれない ──
また分点の歳差に鑑みて、Bhādrapada が実際には雨季の始まりと一致しなくなった後も、伝統的な一致のゆえに保たれたと想定せねばならない。156
Nakṣatra の起源. ── 我々が見てきたように、Nakṣatra がインドにおいて生じたかもしれない過程を示す証拠はない。
それらは Ṛgveda のより早い部分においては星としてのみ言及され、次いでそのうち三つの名が同 Saṃhitā の最も後期の部分に見出され、最後に後期の Atharvaveda および Yajurveda の諸 Saṃhitā において完全な一覧が現れる。またヴェーダ時代のインド人が他の天文現象について著しく僅かな知識しか示さないこと(Graha を見よ)も注意されうる。それゆえ彼らによる27の月宿の系列の発見はいささか驚くべきことであろう。他方、そのような作業の性質はさほど複雑ではない。それは単に、月が合をなす星ないし星群を選ぶことに存する。それゆえヴェーダ時代のインド人が自ら太陰黄道帯を案出しえたことを a priori に否定することは不可能である。157
しかしこの問題は、アラビアと中国に28の星ないし星群からなる二つの類似の組 ── Manāzil と Sieou ── が存在するという事実によって複雑になる。アラビアにおける Manāzil の使用は一貫して効果的であり、暦はそれらによって規制され、星宿の位置は太陰黄道帯に要求される位置に最もよく対応する。それゆえインド人はこの体系をアラビアから借りたのかもしれないが、それは単なる可能性にすぎない。というのも Manāzil の存在の証拠は Nakṣatra の存在の証拠よりはるかに後代であり、他方また旧約聖書158 の Mazzaroth ないし Mazzaloth が実は月宿であるかもしれないからである。159 他方、Burgess160 の主張したように、アラビアの体系がインドから借りられたということはまったく蓋然的でない。
高名な中国学者 Biot は、1839年から1861年の間に公にした一連の論文161 において、
中国の Sieou からの Nakṣatra の派生を証明しようと試みた。彼は後者を起源においてまったく月宿とはみなさなかった。彼はそれらが赤道上の星であって、近代天文学におけるように、その近傍に観測される惑星その他の星を参照する基準として用いられたと考えた。それらは、そのうち24については、赤道に近接すること、および中国の観測者の注意を引いた或る周極星と同じ赤経を有することのゆえに、紀元前2357年頃に選ばれた。さらに四つが当時の分点と至点を画するために紀元前1100年に加えられた。彼は星の一覧が Mao(= Kṛttikās)── 紀元前2357年に春分にあった ── で始まると主張した。Weber162 は1860年の精緻な論考においてこの説に異を唱え、Sieou についての中国側の文献的証拠が後代であって紀元前三世紀より遡らないことを示そうと努めた。最後の点は正しくないと思われる163 が、Biot の説の基礎に対する彼の異論は Whitney164 によって補強された。Whitney は、Sieou が究極的に月宿の体系から派生したのではないという Biot の想定が支持しがたいと主張した。これは中国からの借用という仮説の最新の擁護者 Léopold de Saussure165 によって認められているが、インドの月宿の中国起源を支持する彼の議論は Oldenberg166 によって反駁された。Oldenberg はまた、この系列が Mao(= Kṛttikās)で始まるのではないことをも指摘している。167
残るのは、三つの組すべて ── Nakṣatra、Manāzil、Sieou ── の共通の源がバビロニアに見出されうるという可能性のみである。Hommel168 は、近年の研究がバビロニアにおいて
プレイアデス(= Kṛttikās)を首とする24の成員からなる太陰黄道帯の存在を確立したことを示そうと努めた。しかし Thibaut の研究169 はこの主張に有利でない。他方、Weber170、Whitney171、Zimmer172、Oldenberg173 はすべて、バビロニアにこの体系の起源が見出されるべきであるという見解に傾いており、これは当面最も蓋然的な見解とみなさねばならない。というのもヴェーダ文献にはバビロニアの影響の他の痕跡があるからである。例えば洪水の伝説、おそらく Āditya 神群174、そしておそらく Manā という語である。
(訳注:底本ではこの項の脚注121が二度重複して印刷されている。一つに整理した。)
- 1ii. 1, 2, 18. 19. Cf. Nirukta, iii. 20 における引用。
- 2Loc. cit.、また St. Petersburg Dictionary, s.v. を cf.
- 3i. 5, 2, 5.
- 4Kuhn の Zeitschrift, 8, 71, 72. Eggeling, Sacred Books of the East, 12, 288, n. 2 も同様。
- 5Naxatra, 2, 268.
- 6Macdonell, Vedic Grammar, p. 74, 8行目。
- 7i. 50, 2; vii. 86, 1; x. 68, 11; 111, 7 を見よ。太陽自身について用いられるのは vi. 67, 6(男性として); vii. 81, 2; x. 88, 13。太陽はそれらと結ばれる、iii. 54, 19。Nakṣatra-śavas、「星の多さに等しい」は x. 21, 10 において形容辞として用いられる。x. 85, 2 においてすら、Nakṣatra の膝の上の Soma が言及されるところでは「星」で足りる。しかしこの讃歌は後代の Nakṣatra の二つに言及するから、「月宿」が意味されているかもしれない。
- 8Av. vi. 10, 3; Vājasaneyi Saṃhitā, xxiii. 43; Pañcaviṃśa Brāhmaṇa, x. 1, 1; Taittirīya Āraṇyaka, iv. 10, 12.
- 9Av. vi. 128, 3; xv. 6, 2; Taittirīya Saṃhitā, i. 8, 13, 3; Vājasaneyi Saṃhitā, xxii. 29 等。
- 10Av. v. 24, 10; vi. 86, 2; Taittirīya Saṃhitā, iii. 4, 5, 1; Kāṭhaka Saṃhitā, xxxv. 15; xxxvii. 12; Vājasaneyi Saṃhitā, xxx. 21; xxxix. 2 等。
- 11Taittirīya Saṃhitā, i. 2, 2, 2; ii. 6, 2, 6 等; Vājasaneyi Saṃhitā, xxx. 21 等; Kāṭhaka Saṃhitā, Aśvamedha, v. 5、その他きわめてしばしば。
- 12Rv. v. 59, 13; x. 64, 8; Weber, 2, 290.
- 13x. 85, 13; Weber, 364-367、また Aghā および Arjunī の項の下の典拠を見よ。
- 14Cf. Arnold, Vedic Metre, 322.
- 15Translation of the Rigveda, 3, 184 et seq.
- 16Altindisches Leben, 354. Cf. Tilak, Orion, 158.
- 17i. 162, 18(馬の34の肋骨 = 月・太陽・5惑星・27 Nakṣatra); x. 55, 3(34の光)。
- 18x. 19, 1.
- 19xi. 3(Indische Studien, 3, 467)。
- 20ii. 3, 5, 1-3. Cf. また iii. 4, 7, 1; Kāṭhaka Saṃhitā, xviii. 14; Vājasaneyi Saṃhitā, xviii. 40; Śatapatha Brāhmaṇa, ix. 4, 1, 9; Ṣaḍviṃśa Brāhmaṇa, iii. 12。月が Nakṣatra に住むことは Śatapatha Brāhmaṇa, x. 5, 4, 17; Nirukta, v. 21; Kauśika Sūtra, 135 における Mantra; Taittirīya Āraṇyaka, i. 11, 6; v. 12, 1 等に言及される。
- 21Op. cit., 277. Cf. Siddhānta の後代の体系、Whitney, Oriental and Linguistic Studies, 2, 372、また Tilak, Orion, 33 et seq. を見よ。
- 22iv. 4, 10, 1-3.
- 23Kāṭhaka Saṃhitā, xxxix. 13。ただし Maitrāyaṇī Saṃhitā, ii. 13, 20 は28を有する。Taittirīya Brāhmaṇa, i. 5, 1, 1-5、Nakṣatra の一覧において。また Vājasaneyi Saṃhitā, ix. 7; Śatapatha Brāhmaṇa, x. 5, 4, 5; Pañcaviṃśa Brāhmaṇa, xxiii. 23; Kauṣītaki Brāhmaṇa, v. 1; Śāṅkhāyana Āraṇyaka, ii. 16; Taittirīya Saṃhitā, vii. 1, 2, 2; Jyotiṣa, 18, 20(第34詩節は28を有するが挿入である); Śāṅkhāyana Śrauta Sūtra, xiv. 78 等を見よ。
- 24i. 5, 2, 3. Cf. Weber, 1, 360, n.
- 25iii. 1, 2, 6.
- 26ii. 13, 20.
- 27xix. 7, 1; 8, 1 = Nakṣatrakalpa, 10, 26. Śāṅkhāyana Gṛhya Sūtra, i. 26 も同様。
- 28Whitney, op. cit., 409-411; Journal of the American Oriental Society, 8, 390.
- 29Op. cit., 2, 280; Indische Studien, 9, 446; 10, 223, 224, 226, 227.
- 30iv. 8, 1 et seq.
- 31v. 11, 12. Weber, 2, 281-288 を見よ。
- 32Thibaut, Astronomie, Astrologie und Mathematik, 7.
- 33Māsa を見よ。
- 34すなわち第1巻から第16巻。
- 35vi. 110, 2. この星座、「最年長者を殺すもの」は、明らかに凶兆であった。Cf. Taittirīya Brāhmaṇa, i. 5, 2, 8. Whitney, Translation of the Atharvaveda, 361 はこれを Antares すなわち Cor Scorpionis と、さそり座の σ, τ を含めてあるいは含めずに等置する(Jyaiṣṭhaghnī は Whitney and Roth 校訂本における誤読である)。
- 36vi. 110, 2. それはまた ii. 8, 1; iii. 7, 4; vi. 121, 3 にも言及される。注釈者たちはこれを Mūla、「根」── 蠍の尾の刺をなすさそり座 λ と υ の二星 ── と同定する。Whitney, op. cit., 48.
- 37ix. 7, 3.
- 38viii. 1.
- 39i. 6, 9.
- 40i. 1, 2, 1-6.
- 41i. 1, 2, 8.
- 42ii. 1, 2, 1.
- 43Taittirīya Saṃhitā, i. 5, 1, 4; Maitrāyaṇī Saṃhitā, i. 7, 2; Kāṭhaka Saṃhitā, viii. 15; Śatapatha Brāhmaṇa, ii. 1, 2, 10; Kauṣītaki Brāhmaṇa, i. 3.
- 44Hillebrandt, Rituallitteratur, 109.
- 45viii. 15; Maitrāyaṇī Saṃhitā, i. 7, 2.
- 46Śatapatha Brāhmaṇa, x. 5, 4, 5. Weber, 2, 298 を見よ。Eggeling, Sacred Books of the East, 42, 383, n. 1 もこれに同意する。奇矯な思弁については Shamasastry, Gavām ayana, 122 et seq. を見よ。
- 47Taittirīya Saṃhitā, iv. 4, 10, 1-3; Maitrāyaṇī Saṃhitā, ii. 13, 20; Kāṭhaka Saṃhitā, xxxix. 13.
- 48語形と性は Weber, 2, 300 が容れるところに従って与える。後者は若干の場合、他の箇所における Nakṣatra の名への言及に依る ── 例えば Kāṭhaka, viii. 15 における Anūrādheṣu は、その Saṃhitā においてこの名が男性であることを示す。
- 49i. 5, 1.
- 50iii. 1, 4, 1 et seq. Cf. iii. 1, 1-2.
- 51iv. 4, 5, 1.
- 52xl. 4.
- 53iii. 1, 4, 3.
- 54iii. 1, 4, 9.
- 55iii. 1, 5, 14.
- 56i. 5, 2, 3.
- 57Op. cit., 305, 306.
- 58ii. 13, 20.
- 59i. 5, 2, 7. Cf. Tilak, Orion, 41 et seq.
- 60iii. 1, 2. Cf. Kauṣītaki Brāhmaṇa, iv. 12、Vināyaka の注とともに。
- 61xix. 7, 1 et seq. 数は xix. 7, 1(訂正されたものとして)および 8, 2 において28とされる。Cf. Whitney の訳 906, 907 における前者の讃歌への Lanman の序注。
- 62Pūrvā Phalgunyau という読みは誤りであるに違いない。おそらく Dvaye(第5詩節を cf.)あるいは Pūrve と読むべきである。Whitney, Translation of the Atharvaveda, 908 における Lanman を見よ。Uttare Phalgunyau は省かれている。
- 63Svātī と読むべきことは疑いない。しかしすべての写本(Saṃhitā および Pada)の Svāti(原文のまま)については、Aitareya Āraṇyaka, ii. 3, 6 の navasrakti を Keith の注とともに cf.
- 64Whitney, 908 における Lanman を見よ。
- 65Lanman, ibid., 909 は Pūrvā Aṣāḍhā および Uttarā Aṣāḍhā と読む。Whitney は Pūrvā および Uttarā Aṣāḍhās と読む。写本は Pūrvā および Uttare とするが、これは成り立ちえない。
- 66Op. cit., 2, 367 et seq.
- 67Oriental and Linguistic Essays, 2, 350 et seq.
- 68Taittirīya Saṃhitā, iv. 4, 5, 1; Kāṭhaka Saṃhitā, xl. 4; Taittirīya Brāhmaṇa, iii. 1, 4, 1.
- 69iii. 33. Cf. Śatapatha Brāhmaṇa, ii. 1, 2, 8; Tilak, Orion, 98 et seq.
- 70Whitney, op. cit., 401. Cf. Tilak, 102 et seq.
- 71i. 26.
- 7210.
- 73i. 5, 1.
- 74Whitney, op. cit., 352, 401, n. 1.
- 75Oldenberg, Religion des Veda, 212; Macdonell, Vedic Mythology, p. 53.
- 76Whitney, op. cit., 403, n. 1.
- 77Aśreṣās:Śāṅkhāyana Gṛhya Sūtra, i. 26; Śāntikalpa; Nakṣatrakalpa。Aśleṣās:Śāntikalpa, 2; Nakṣatrakalpa, 4, 48.
- 78Kauṣītaki Brāhmaṇa, v. 1.
- 79x. 85, 13.
- 80Vedische Studien, 3, 177; Rv. i. 105, 10. Cf. 下記 p. 427, n. 156.
- 81Taittirīya Brāhmaṇa, i. 1, 2, 4-6.
- 82ii. 1, 2, 13-17.
- 833.
- 84i. 5, 2. Cf. Tilak, Orion, 204.
- 85Op. cit., 2, 307, 308.
- 86Op. cit., 409.
- 87xix. 7.
- 88Whitney の Atharvaveda 訳 908 における Lanman。Cf. Thibaut, Journal of the Asiatic Society of Bengal, 63, 156.
- 89Cf. Thibaut, Journal of the Asiatic Society of Bengal, 63, 156.
- 90Nachrichten der königl. Gesellschaft der Wissenschaften zu Göttingen, 1909, 551, 552.
- 91ii. 13, 20.
- 92同時に、Abhijit が Taittirīya Saṃhitā および Kāṭhaka Saṃhitā の一覧のいずれにも欠けていることに注意すべきである。
- 93i. 5, 2, 3.
- 94Op. cit., 1, 320, 321; 2, 307; Indische Studien, 10, 224 et seq.
- 95Journal of the American Oriental Society, 8, 393.
- 96Op. cit., 2, 382。ただし Whitney, 404 を見よ。
- 97Oldenberg, loc. cit.
- 98Śāṅkhāyana Gṛhya Sūtra, i. 26; Śāntikalpa, 13;Dhaniṣṭhā は ibid., 5.
- 99Maitrāyaṇī Saṃhitā, ii. 13, 20 においておそらくそうである。同箇所については von Schroeder の校訂上の注を見よ。Śāntikalpa, 5 および Nakṣatrakalpa, 2 は Śatabhiṣā とし、後者の 1 は Śatabhiṣa(男性)とする。
- 100Śāntikalpa, 5 等。
- 101Śāṅkhāyana Gṛhya Sūtra, i. 26; Nakṣatrakalpa, 9, 30.
- 102Nakṣatrakalpa, 4, 45; Śāntikalpa, 5, 11.
- 103Taittirīya Saṃhitā, ii. 2, 10, 1. Cf. vii. 4, 8, 1. 2; Pañcaviṃśa Brāhmaṇa, v. 9, 1.
- 104Śatapatha Brāhmaṇa, ii. 6, 3, 11 et seq.; vi. 2, 2, 18; xiii. 4, 1, 4; Kauṣītaki Brāhmaṇa, i. 3; iv. 4; v. 1. また Caland, Über das rituelle Sūtra des Baudhāyana, 36, 37、および Māsa を見よ。
- 105第一義的には形容詞であり、māsa を補うべきである ── 例えば Phālguna、「Nakṣatra Phalgunī に連なる(月)」。
- 106Pañcaviṃśa Brāhmaṇa, v. 9, 8.
- 107Kauṣītaki Brāhmaṇa, xix. 3.
- 108Śatapatha Brāhmaṇa, xi. 1, 1, 7.
- 109Kauṣītaki Brāhmaṇa, xix. 2. 3.
- 110Ibid.; Śatapatha Brāhmaṇa, xiii. 8, 1, 4. 後代の一覧については Weber, Naxatra, 2, 327, 328 を見よ。
- 111Asiatic Researches, 2, 296.
- 112Op. cit., 2, 347, 348; Indische Studien, 9, 455; 10, 230, 231.
- 113Journal of the American Oriental Society, 6, 413; 8, 85 et seq.
- 114Astronomie, Astrologie und Mathematik, 16.
- 115Cf. Colebrooke, Essays, 2, 264; Weber, Indische Studien, 10, 234.
- 116Naxatra, 2, 362-364; Indische Studien, 10, 234; Indian Literature, 2, n. 2 等。
- 117Weber, loc. cit.; Bühler, Indian Antiquary, 23, 245, n. 20; Tilak, Orion, 40 et seq. を見よ。
- 118Indian Antiquary, 24, 96.
- 119Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, 48, 631; 49, 473; 50, 451, 452; Nachrichten der königl. Gesellschaft der Wissenschaften zu Göttingen, 1909, 564; Keith, Journal of the Royal Asiatic Society, 1909, 1103.
- 120Festgruss an Roth, 68 et seq. = Indian Antiquary, 23, 154 et seq.; Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, 49, 218 et seq.; 50, 83; Journal of the Royal Asiatic Society, 1910, 463.
- 121vii. 103(「蛙」の讃歌); x. 85(「婚礼」の讃歌)。
- 122i. 5, 2, 8.
- 123Rv. vii. 103, 9.
- 124Oriental and Linguistic Essays, 2, 383.
- 125Indian Antiquary, 24, 97. Cf. Keith, Journal of the Royal Asiatic Society, 1910, 464, n. 4.
- 126xix. 3. これは最初に Weber, Naxatra, 2, 345 et seq. によって注意され、彼はそれが Jyotiṣa の与件と関係することを指摘した。Jyotiṣa と同じ日付が、Shamasastry, Gavām Ayana, 137 に引かれる Baudhāyana Śrauta Sūtra の一節に見出される(māghe māse dhaniṣṭhābhir uttareṇaiti bhānumān, ardhāśleṣasya śrāvaṇasya dakṣiṇenopanivartate、「Māgha の月に太陽は星宿 Dhaniṣṭhās とともに北へ行き、Śrāvaṇa の月に星宿 Āśleṣa の中間で南へ帰る」。意味は明瞭であるが本文は乱れている)。この箇所は明らかに Caland の写本にはないと思われる。さもなくば彼はその論考 Über das rituelle Sūtra des Baudhāyana, 36, 37 において言及したであろう。それゆえその年代と価値はまったく確実ではない。
- 127Kauṣītaki Brāhmaṇa, loc. cit. への Vināyaka; Śāṅkhāyana Śrauta Sūtra, xiii. 19, 1 への Ānartīya; Weber, Naxatra, 2, 345. 注釈者たちの仮定は、彼らの考えでは月が新月(amānta)ないし満月(pūrṇimānta)で終わらねばならぬという事実によると思われる。しかしヴェーダ時代に月が新月から始まらなかったと言う理由はない。Kauṣītaki の箇所はかくしてまったく満足に説明されるであろう。
- 128Asiatic Researches, 2, 393.
- 129Journal of the Asiatic Society of Bengal, 31, 49.
- 130Cf. Whitney, Oriental and Linguistic Essays, 2, 373.
- 131Asiatic Researches, 2, 268; 5, 288.
- 132Essays, 1, 109, 110. Sir T. Colebrooke, Journal of the Royal Asiatic Society, 1, 335 et seq.; Whitney, op. cit., 2, 381, 382 を見よ。
- 133例えば Lassen, Indische Alterthumskunde, 1², 606, 607, 976、また Cf. Thibaut, Astronomie, Astrologie und Mathematik, 17, 18; Tilak, Orion, 38, 39.
- 134Whitney, op. cit., 2, 375.
- 135Cf. Whitney, op. cit., 377, 379; Weber, op. cit., 2, 363, 364。同箇所で彼は紀元後582年を採る。
- 136Sūrya Siddhānta, iii. 12 への Whitney の注を見よ。op. cit., 2, 369, n. 1; 374, n. 1. Cf. Tilak, Orion, 18.
- 137Whitney, 384、これに Thibaut, Indian Antiquary, 24, 98; Astronomie, Astrologie und Mathematik, 18 が従う。また Weber, Indische Studien, 10, 236; Indian Literature, 2, n. 2; Whitney, Journal of the Royal Asiatic Society, 1, 313 et seq.; Colebrooke の Essays, 1², 120 et seq. 所収のものを見よ。Max Müller もその Ṛgveda 校訂本 iv², xxx et seq. においてこの年代をきわめて不確かとみなす傾きにあった。ただその通俗的著作(Chips, 1, 113 等)においてのみ紀元前1181年、あるいはむしろ Pratt の計算から Main が再計算した紀元前1186年を容れた。Shamasastry の Jyotiṣa 擁護, Gavām Ayana, 122 et seq. は、なされた批判への誤解を示している。Keith, Journal of the Royal Asiatic Society, 1910, 466, n. 5 を見よ。
- 138Cf. Macdonell, Sanskrit Literature, 12, 202; Keith, Aitareya Āraṇyaka, 20 et seq. これはより早く置かれてきた。Thibaut, Astronomie 等, 18; Bühler, Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, 55, 544 を見よ。また Cf. Bühler, Sacred Books of the East, 2, xl et seq.; Indian Antiquary, 23, 247; von Schroeder, Indiens Literatur und Cultur, 45 et seq. また Jolly, Recht und Sitte, 3; Hillebrandt, Rituallitteratur, 31 を見よ。彼らは Āpastamba Sūtra について早い年代、紀元前四ないし五世紀を容れる傾きにあり、そこから Brāhmaṇa 文献についてさらに早い年代が認められねばならない。しかし Eggeling が Āpastamba Sūtra を紀元前三世紀に置くほうがおそらく正しい。Sacred Books of the East, 12, xl を見よ。ヴェーダ文献の年代を不当に押し戻すのは賢明でないと思われる。注目すべきは、叙事詩においてなお至点が Māgha にあることである(Mahābhārata, xiii. 168, 6. 28)。しかし Śravaṇa で始まる Nakṣatra への言及があり(ibid., i. 71, 34)、最初の月は Mārgaśīrṣa である(Hopkins, Journal of the American Oriental Society, 24, 21 et seq. を見よ)。Cf. また Tilak, Orion, 37, 216.
- 139Taittirīya Saṃhitā, vii. 4, 8, 1. 2; Pañcaviṃśa Brāhmaṇa, v. 9, 9. Cf. Kauṣītaki Brāhmaṇa, iv. 4; v. 1; Taittirīya Brāhmaṇa, i. 1, 2, 8; Śatapatha Brāhmaṇa, vi. 2, 2, 18; Āśvalāyana Śrauta Sūtra, v. 3, 16. Taittirīya および Kauṣītaki の両 Brāhmaṇa によれば、始まりは双子の星宿の中間に落ちる。
- 140Indian Antiquary, 23, 156 et seq.; Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, 49, 223 et seq.; 50, 72-81. Tilak, Orion, 53 et seq.; 198 et seq. を見よ。
- 141Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, 48, 630 et seq.; 49, 475, 476; 50, 453-457. Cf. Whitney, Journal of the American Oriental Society, 16, lxxxvii.
- 142Indian Antiquary, 24, 86 et seq.
- 143Weber, Naxatra, 2, 329 et seq. を見よ。また Cf. Śatapatha Brāhmaṇa, i. 6, 3, 36; Kauṣītaki Brāhmaṇa, v. 1; Kātyāyana Śrauta Sūtra, i. 2, 13 への注釈における Śruti の一節; Baudhāyana Dharma Sūtra, ii. 2, 4, 23、とりわけ Śatapatha Brāhmaṇa, xiii. 4, 1, 2. 4. かくして Phālguna の満月は Kāṭhaka Saṃhitā, viii. 1; Maitrāyaṇī Saṃhitā, i. 6, 9 において「諸季節の口」(ṛtūnāṃ mukham)と呼ばれる。
- 144xix. 2. 3.
- 145Orion, 53 et seq.; 198 et seq.
- 146vii. 4, 8, 1.
- 147v. 9. Weber, op. cit., 2, 341-344; Thibaut, Indian Antiquary, 24, 85 et seq. を、Tilak, Orion, 43 et seq. の提起する諸点の詳細な議論として見よ。
- 148Thibaut, Indian Antiquary, 24, 93. 反対には Tilak, 198 et seq.
- 149Thibaut, op. cit., 94; Tilak, 51 et seq. Cf. また Kātyāyana Śrauta Sūtra, xiii. 1, 8-10; Weber, 2, 343, n. 2, 344.
- 150Thibaut, op. cit., 94, 95. Cf. Weber, 2, 332-334.
- 151Tilak の見解は Orion, 62 et seq. に与えられる。それは主として Amara(i. 2, 23)の Mṛgaśiras の同義語としての āgra-hāyaṇa、および或る神話(第5-7章)に基づく。彼は(221 et seq.)Āgrayaṇa と Orion とを等置する(!)。
- 152Op. cit., 94, 95.
- 153対応する Kārttika 年は初期のものではない。Thibaut, op. cit., 96. Cf. Weber, op. cit., 2, 334.
- 154Indian Antiquary, 23, 242 et seq.
- 155Journal of the American Oriental Society, 16, lxxxiv et seq.
- 156ここで次の諸点に言及すべきである。(1)Dhruva という語、すなわち婚礼の儀礼において花嫁に示される星の名からの Jacobi の議論。この語は Gṛhya Sūtra 以前の文献には現れず、この慣行が古いか否かは未決の問題として残らざるをえない。Jacobi は Dhruva が「定まった」を意味し、本来は真に不動の極星に言及したに違いないと主張し、そのような星は紀元前第三千年紀にのみ見出されうると考える。Whitney と Oldenberg は明確にこの見解を斥け、その根拠は、民間伝承の一片から多くを引き出してはならぬこと、および婚礼の儀礼の要求はおおよそ極に近い或る程度の光度の星であれば満たされるということである。この結論は説得的と思われる。Cf. Keith, Journal of the Royal Asiatic Society, 1909, 1102; 1910, 465;反対には Jacobi, ibid., 1909, 726 et seq.; 1910, 464.(2)Śatapatha Brāhmaṇa, ii. 1, 2, 3 は、Kṛttikās が他のものと違って東の方位から動かないと主張する。この主張には(Jacobi, Journal of the Royal Asiatic Society, 1910, 463, 464 によって)Śatapatha の観測に紀元前第三千年紀という年代を与えるものとして力点が置かれてきた。しかしこの記述はそのような結果を支持するにまったく不十分であり、年代論的指針としてのその信頼しがたさは、Baudhāyana Śrauta Sūtra, xviii. 5 が同様の記述を、Barth によれば紀元後六世紀の或る時期以後にのみ真となるであろう別の記述 ── 分点が Citrā と Svātī の間に置かれるが、初期にはこの両者は赤道のはるか北にあった ── と併せて有するという事実によって増大する(Caland, Über das rituelle Sūtra des Baudhāyana, 37-39 を見よ)。Śatapatha Brāhmaṇa, ii. 1, 2, 2 の同じ箇所は Mādhyaṃdina 伝本において、Kṛttikās の数が他のいずれの Nakṣatra ── 一、二、三、四の星から成る、あるいは Kāṇva 伝本によれば(Eggeling, Sacred Books of the East, 12, 282, n. 2 を見よ)四つの星を有する ── の星の数よりも多いと述べる。この主張に多くの信を置くことはできない。というのも Hasta は後代には五つの星を有し、その名は(指に関して)五を示唆し(cf. Weber, Naxatra, 2, 368, 381)、その数はおそらく Ṛgveda(i. 105, 10)に言及されているからである。Geldner, Vedische Studien, 3, 177 を見よ。(3)Nakṣatra の名を一覧におけるその位置を表すものとみなす試みがなされてきた。かくして Bentley, Historical View, 2 は、Viśākhā がそう呼ばれるのは分点の時圏が紀元前1426年頃に赤道を分かったからであると考えた。これは Tilak, Orion, 57 et seq. によって反駁されている。Jyeṣṭhaghnī は「最年長者を殺す」── すなわち旧年に終わりをもたらすことによって新年を画する ── と解されてきた。Tilak, 90 は、Mūla がそう呼ばれたのは、春分が Mṛgaśiras の近くにあったとき、その日没時の出が年の始まりを画したからであると示唆する。より蓋然的なのは Whitney の見解(Sūrya Siddhānta, 194)であり、それが最も南にあり、いわば星宿の基礎であったとする。
- 157Max Müller, Rigveda, 4², xliv et seq. はこの体系のインド起源を主張する。Thibaut, Astronomie, Astrologie und Mathematik, 14, 15 はこれを可能と認め、Whitney, Oriental and Linguistic Essays, 2, 418 も同様である。
- 158列王記下 23章5節;ヨブ記 38章32節。
- 159Weber, Naxatra, 1, 317, 318; Whitney, op. cit., 359.
- 160Journal of the American Oriental Society, 8, 309-334. Whitney, 413 et seq. によればこれは Weber の見解でもあったが、Weber 自身はこれを否認した(Indische Studien, 9, 425, 426; 10, 246, 247 を見よ)。他方 Sédillot, Matériaux pour servir à l'histoire comparée des Sciences Mathématiques par les Grecs et les Orientaux(Paris, 1845-1849)は、アラビアからインドへの影響を支持した。
- 161彼の二著、Recherches sur l'ancienne astronomie Chinoise および Études sur l'astronomie Indienne et l'astronomie Chinoise に要約されている。
- 162Naxatra, 1, 284 et seq.(1860)。
- 163Oldenberg, Nachrichten der königl. Gesellschaft der Wissenschaften zu Göttingen, 1909, 566, 567 に引かれる Chavannes を見よ。
- 164Journal of the American Oriental Society, 8, 1 et seq.; Oriental and Linguistic Essays, 2, 385 et seq. Weber との論争については Weber, Indische Studien, 9, 424 et seq.; 10, 213 et seq.; Whitney, Journal of the American Oriental Society, 8, 384 et seq. を見よ。
- 165T'oung Pao, 1909, 121 et seq.; 255 et seq.
- 166Nachrichten, 1909, 544-572.
- 167Ibid., 548, n. 9.
- 168Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, 45, 592 et seq.
- 169Journal of the Asiatic Society of Bengal, 63, 144-163. Cf. Astronomie 等, 15; Oldenberg, op. cit., 572.
- 170Naxatra, 1, 316 et seq.; Indische Studien, 10, 246、その他。Weber, Naxatra, 2, 362, 400 は、Jyotiṣa, 8 が最長日と最短日の差を六 muhūrta とすることに大きな力点を置いた。これは最長日を14時間24分とする。そして彼はバビロニアの14時間25分の日、および中国の14時間24分の日と比較した。しかし Whitney, Oriental and Linguistic Essays, 2, 417, 418 は、対応がおおよそのものにすぎず、バビロニアと中国の観測の緯度がほぼ同じであるから、この議論に力点を置きえないことを示す。
- 171Op. cit., 2, 418-420 を見よ。
- 172Altindisches Leben, 356, 357。同箇所で彼は Nakṣatra のセム起源をまったく確信している。
- 173Op. cit., 572.
- 174洪水については Zimmer, op. cit., 101, 357 を見よ。彼は、この物語が古いアーリヤの伝承と、Himālaya の彼方のインド人の故郷の記憶を保存しているという Weber の見解(Indische Studien, 1, 160; Indische Streifen, 1, 11)に反対する(cf. Muir, Sanskrit Texts, 1², 190; 2², 323, n. 96; Lassen, Indische Alterthumskunde, 1², 638、また cf. Oldenberg, Religion des Veda, 276, n. 3)。Āditya 神群については Oldenberg, Religion des Veda, 185 et seq.; Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, 50, 43 et seq. を見よ。彼の見解は Macdonell, Vedic Mythology, p. 44; Bloomfield, Religion of the Veda, 133 によって容れられていない。さらに疑わしいのは、Zimmer(Altindisches Leben, 363, 364)の昼夜を三十の部分に分かつ区分についての見解であり、彼はこれを Rv. i. 123, 8 に見出し、同じ時間の六十分の一へのバビロニアの区分に基づくと考える。Cf. また V. Smith, Indian Antiquary, 34, 230。同氏は決定的でないながら、鉄の使用がバビロニアから導入されたと論ずる。 Nakṣatra についての事実は(Maitrāyaṇī Saṃhitā および Baudhāyana Śrauta Sūtra からの与件を除いて)Weber の第二の論考 Die vedischen Nachrichten von den Naxatra, 1861 に集められている。第一の論考(1860年)は起源の問題を扱う。また Indische Studien, 9, 424 et seq.; 10, 213 et seq. における彼の議論を見よ。Whitney の業績は、一部はその Sūrya Siddhānta の校訂と訳(Journal of the American Oriental Society, 6)における後代の Nakṣatra の科学的決定(多くの箇所で Colebrooke の発見を訂正する)にあり、一部は起源の問題についての議論(Journal of the American Oriental Society, 8)、Oriental and Linguistic Essays, 2, 341-421(星図を付す)、および Jacobi と Tilak の Orion に対する年代の問題についての議論(Journal of the American Oriental Society, 16, lxxxii et seq.)にある。Max Müller の見解はその Rigveda, 4², xxxiv et seq. に見出される。Nakṣatra から推論しうる年代についての近代の議論は、Jacobi(1893年)が Festgruss an Roth, 68-74(Indian Antiquary, 23 に訳出)において開始した。また Nachrichten der königl. Gesellschaft der Wissenschaften zu Göttingen, 1894, 110 et seq.; Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, 49, 218 et seq.; 50, 70 et seq.; Journal of the Royal Asiatic Society, 1909, 721-727 における彼の論説を見よ。独立に Tilak がその Orion において同様の見解を展開したが、その特殊な点の大部分は上に引いた Whitney の書評によって処理されている。Oldenberg は Jacobi の議論を Zeitschrift, 48, 629 et seq.; 49, 470 et seq.; 50, 450 et seq.; Journal of the Royal Asiatic Society, 1909, 1090 et seq. において論じ反駁した。Thibaut もまた Indian Antiquary, 24, 85 et seq. の論説において Jacobi の見解を斥けた。また彼の Astronomie, Astrologie und Mathematik, 17-19 を見よ。Nakṣatra の起源についての近年の文献は Thibaut, Journal of the Asiatic Society of Bengal, 63, 144 et seq.; Saussure, T'oung Pao, 1909, 121 et seq.; 255 et seq.; Oldenberg, Nachrichten der königl. Gesellschaft der Wissenschaften zu Göttingen, 1909, 544 et seq. の論説から成る。叙事詩における Nakṣatra は Hopkins, Journal of the American Oriental Society, 24, 29-36 が扱う。Ludwig の見解はその Translation of the Rigveda, 3, 183 et seq. に与えられる。
Nakṣatra-darśa§
Nakṣatra-vidyā§
Nakṣatra-vidyā、「月宿の学」すなわち「天文学」は、Chāndogya Upaniṣad(vii. 1, 2. 4; 2, 1; 7, 1)において他の諸学とともに言及される。
Nakha§
Na-ga§
Na-ga(「動かぬもの」)、「山」は、Atharvaveda の後期の一巻(xix. 8, 1)にのみ、次いで Sūtra 文献に現れる語である。
Nagara§
Nagara は初期のヴェーダ文献においては、固有名詞として用いられる派生形容詞 Nagarin においてのみ見出されるが、Taittirīya Āraṇyaka(i. 11, 18; 31, 4)において「町」の意で現れ、また後代の言語にしばしば現れる。
Nagarin Jāna-śruteya§
Nagarin Jāna-śruteya(「Janaśruti の後裔」)は、Aitareya Brāhmaṇa(v. 30)において祭官として、また Jaiminīya Upaniṣad Brāhmaṇa(iii. 40, 2)において Nagarin Jānaśruteya Kāṇḍviya として言及されている。
Nagna-jit§
Nagnā§
Nagnā. Dharma を見よ。
Nagha-māra§
Nagha-māra および Naghā-riṣa. 1. Kuṣṭha を見よ。
Na-ciketas§
Naḍa 1§
Naḍa Naiṣadha 2§
Naḍvalā§
Naḍvalā、「葦の茂み」は、Vājasaneyi Saṃhitā(xxx. 16)および Taittirīya Brāhmaṇa(iii. 4, 12, 1)に言及される。
Nada§
Nada は Ṛgveda の数箇所1 に見出されるが、その意味はなお不明瞭である。Pischel2 はこれを Naḍa と同一視し、一箇所3 においては葦の舟 ── 割かれ、その上を水が越えてゆく ── と説明し、別の箇所4 においては葦の鞭 ── その鋭い先端(karṇa)が馬を駆り立てるのに用いられる ── と説明し、また他の箇所5 においては比喩的に陰茎を指すものと説明する。Roth6 はあらゆる箇所において意味を「牡牛」(字義通りにであれ比喩的にであれ)と解する。
少なくとも一箇所7 においては、Indra の馬に関して「嘶くもの」(語根 nad、「音を立てる」から)が意味されていると思われる。nadasya karṇaiḥ8 という句における意味は、おそらく「(添え)馬の耳によって」(すなわち命令の言葉を聞く用意があることによって)であり、Marut 神群がその車の「疾き駿馬とともに急ぐ」(turayanta āśubhiḥ)というのである。
(訳注:底本は本文に脚注8の指示を付しながら、当該の脚注を欠いたまま印刷している。)
- 1i. 32, 8; 179, 4; ii. 34, 3; viii. 69, 2; x. 11, 2; 105, 4. Cf. Nirukta, v. 2.
- 2Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, 35, 717 et seq.; Vedische Studien, 1, 183 et seq.
- 3i. 32, 8. ここで Caland and Henry, L'Agniṣṭoma, 312, n. は naḷam と読むであろう。また Wackernagel, Altindische Grammatik, 1, 173 を見よ。
- 4ii. 34, 3。これに Max Müller, Sacred Books of the East, 32, 301 が従う(ただし彼は Pischel が Vedische Studien, 1, 190 でするようには āśubhiḥ、「鋭い」を karṇaiḥ にかけない)。彼は x. 11, 2 においても「葦」を見るが、x. 105, 4 においては「馬」を見る。
- 5i. 179, 4; viii. 69, 2.
- 6St. Petersburg Dictionary, s.v. 「牡牛」の意は viii. 89, 2 において不可欠と思われる。i. 179, 4 においては「牡牛」が人を指しうるので容認され、x. 11, 2 においても、またおそらく i. 32, 8 においても容認されるが、後者では「葦」のほうがはるかに蓋然的と思われる。
- 7x. 105, 4、また x. 11, 2 においても。後者の箇所は、結局そこでは「川」が意味であるかもしれないことを示唆する。
- 8〔典拠の記載を欠く。〕 Cf. Oldenberg, Ṛgveda-Noten, 1, 32, 178, 215.
Nadī§
Nanā§
Nanāndṛ§
Napāt§
Napāt はヴェーダ文献において、明らかに「後裔」というより広い意味1 と、諸 Saṃhitā における「孫」という狭い意味2 の双方を有する。Brāhmaṇa 文献においてはこの語は「後裔」の意をほとんど有さないと思われ、他方「孫」3 のみならず、「子・孫・曾孫」(putrān, pautrān, naptṝn)という連なりにおいて「曾孫」をも指す。4「孫」はまた Atharvaveda および後代5 において Pautra(「子の子」)によっても表される。他方「曾孫」の意は、早くも Ṛgveda6 において、「孫」を意味する Napāt と並んで用いられる Pra-ṇapāt によって精確に伝えられる。女性形 Naptī は実際上諸 Saṃhitā に限られ7、「娘」を指す。ヴェーダにおける用法はこの語の本来の用法に何ら光を投げない。8
- 1apāṃ napāt、「水の子」のごとき多くの神話的形容辞においては「子」に等しい。
- 2Rv. x. 10, 1 は明らかに「子」。vi. 20, 11 は「孫」でありうる。大部分の箇所、vi. 50, 15; vii. 18, 22; viii. 65, 12; 102, 7; Vājasaneyi Saṃhitā, xxi. 61; Kāṭhaka Saṃhitā, xxii. 2 は「後裔」を要求する。
- 3Aitareya Brāhmaṇa, iii. 48 におけるごとく ── putra-naptāraḥ、「子と孫」。Cf. Nirukta, viii. 5.
- 4Aitareya Brāhmaṇa, vii. 10, 3; Āpastamba Śrauta Sūtra, x. 11, 5.
- 5Av. ix. 5, 30; xi. 7, 16; Aitareya Brāhmaṇa, vii. 10, 3; Taittirīya Brāhmaṇa, ii. 1, 8, 3.
- 6Rv. viii. 17, 13、napāt とともに。
- 7Rv. iii. 31, 1(Nirukta, iii. 4); viii. 2, 42. Cf. i. 50, 9; ix. 9, 1; 14, 5; 69, 3; Av. i. 28, 4; ii. 14, 1; vii. 82, 6.
- 8Delbrück, Die indogermanischen Verwandtschaftsnamen, 403-405; Lanman, Festgruss an Böhtlingk, 77.
Naptrī§
Naptrī は Napāt の女性形として、Sāmaveda の Āraṇya(v. 13)に見出される。
Nabha(s) Nabhasya§
Nabha(s) Nabhasya. Māsa を見よ。
Nabhāka§
Nabhya§
Namī Sāpya§
Namī Sāpya は Ṛgveda1 における人の名である。Weber2 は彼が祭官として言及されていると考えるが、諸箇所は王のほうによく適合し、Pañcaviṃśa Brāhmaṇa3 においては彼が Namī Sāpya, Vaideho rājā、「Videha の王」として現れる。一箇所4 においては Namuci に対する戦いに従事する者として表されている。
- 1vi. 20, 6; x. 48, 9. 単に Namī として i. 53, 7 に。
- 2Indische Studien, 1, 231, 232.
- 3xxv. 10, 17.
- 4Rv. i. 53, 7. Cf. Ludwig, Translation of the Rigveda, 3, 149; Macdonell, Vedic Mythology, p. 161; Hopkins, Transactions of the Connecticut Academy of Arts and Sciences, 15, 49. Sāpya は Sāyya と読みうるが、Sāyaṇa は p を認める。Oldenberg, Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, 55, 328.
Nara, Nṛ§
Nara, Nṛ. ── Ṛgveda1 および後代2 における「人」の一般的な名は Nṛ であり、他方 Nara3 は後代の諸 Saṃhitā および Brāhmaṇa4 に時折見出される。
- 1i. 25, 5; 167, 20; 178, 3; ii. 34, 6; iii. 16, 4 等。
- 2Av. ii. 9, 2; ix. 1, 3; xiv. 2, 9; Aitareya Brāhmaṇa, iii. 34; vi. 27. 32 等。
- 3ヴェーダ以後の言語に一般的なこの語形は二次的なものであり、naram のごとき格が nara-m と解されたことに由来する。しかしその起源は印・イラン期に遡る。Brugmann, Grundriss, 2, 106 を見よ。Cf. Macdonell, Vedic Grammar, 318, a 5.
- 4Taittirīya Saṃhitā, vii. 1, 12, 1; Śatapatha Brāhmaṇa, ix. 3, 1, 3; Nirukta, v. 1 等。
Narācī§
Narya§
Narya(「男らしい」)は、Ṛgveda の二箇所(i. 54, 6; 112, 9)において、注釈者 Sāyaṇa によって人の固有名詞と解されている。Nārya をも見よ。
Nalada§
Navaka§
Navaka は Jaiminīya Brāhmaṇa1 において、Vibhindukīya 族の Sattra において妻を望んだ者として言及される。
Nava-gva§
Nava-nīta§
Nava-vāstva§
Nah§
Nahus§
Nahus は Ṛgveda に数度現れるが、精確な意味は確実でない。Ludwig1 は Nahus のうちに、Sindhu(Indus)川2 ないし Sarasvatī 川3 のほとりにあって馬に富み4、Bharata 族および Śimyu 族と同盟し5、Kakṣīvant および Vārṣāgira 族と結びつき6、Maśarśāra および Āyavasa を王とする7 部族を見る。他方 Roth8 は Nahus のうちに、自らの民(Viś)の成員に対立する「隣人」という一般的な意味を見る。この解釈は nahuṣo nahuṣṭara9、「隣人よりも近い」という句の出現によって支持される。Nahuṣa は Ṛgveda の二箇所10 において Nahus と同じ意味を有するが、
一箇所においては人の固有名詞として意図されていると思われる。11 おそらく Nahus は本来 Manu のごとき人であったのであろう。12
- 1Translation of the Rigveda, 3, 206.
- 2Rv. i. 31, 11; vi. 22, 10; 46, 7; x. 80, 6.
- 3Rv. vii. 95, 2. Cf. ix. 88, 2; 91, 2.
- 4Rv. viii. 6, 24.
- 5Rv. i. 100, 18; vii. 18, 5.
- 6Rv. i. 100, 16. 17.
- 7Rv. i. 122, 15. Cf. また nahuṣo viśaḥ、Rv. vii. 6, 5; x. 49, 8; 99, 7 等。
- 8St. Petersburg Dictionary, s.v.
- 9Rv. x. 49, 8. Cf. また viii. 8, 3.
- 10i. 31, 11; v. 12, 6.
- 11Rv. viii. 46, 27.
- 12Oldenberg, Sacred Books of the East, 46, 28; Bergaigne, Religion Védique, 2, 324. しかし Nahus が本来神話的な祖先の名であったとしても、それはあらゆる部族に認められた祖先の名ではありえない。というのもそれが万人に適用される箇所はないからである。Geldner, Ṛgveda, Glossar, 92 は Nahus を部族、Nahuṣa を王とみなす。Zimmer, Altindisches Leben, 128 は問題を未決のままにする。Cf. Muir, Sanskrit Texts, 1², 165, n. 7; 179 et seq.; 307 et seq.
Nāka 1§
1. Nāka は Ṛgveda1 および後代2 において「天穹」を指す。それはしばしば「最高の」(uttama)3 あるいは「第三の」(tṛtīya)4 という形容辞を伴って用いられ、地・大気・天(Div)の三分に並行する天の三分に関わる。Nāka は天の輝く空間(rocana)の上、第三の稜(pṛṣṭha)にあると言われる。5 他の箇所6 においては、地・大気・天、そして天穹(nāka)・天界(svar)・天の光(jyotis)という系列が現れる。nāka という語は Brāhmaṇa 文献7 において na、「ない」と aka、「苦」から派生するものと説明される。そこへ行く者は憂いを免れるからである。
- 1i. 60, 10; 125, 5; iii. 2, 12; iv. 13, 5; vii. 86, 1; 99, 2; viii. 103, 2; ix. 73, 4 等。
- 2Av. vii. 18, 1; xviii. 2, 47; xiii. 1, 7; Vājasaneyi Saṃhitā, xv. 10; Pañcaviṃśa Brāhmaṇa, xviii. 7, 10; Śatapatha Brāhmaṇa, viii. 5, 3, 4 等。
- 3Av. iv. 14, 6; xi. 1, 4; Vājasaneyi Saṃhitā, ix. 10; xii. 63.
- 4Av. vi. 122, 4; ix. 5, 1. 4; xviii. 4, 3.
- 5Vājasaneyi Saṃhitā, xv. 50.
- 6Av. iv. 14, 3; Vājasaneyi Saṃhitā, xvii. 67. Rv. x. 121, 5 においては、地と天(dyauḥ)、天界(svar)、天穹(nāka)がすべて言及される。
- 7Pañcaviṃśa Brāhmaṇa, x. 1, 18; Śatapatha Brāhmaṇa, viii. 4, 1, 24; Nirukta, ii. 14。また cf. Chāndogya Upaniṣad, ii. 10, 5. Cf. Macdonell, Vedic Mythology, p. 9; Max Müller, Sacred Books of the East, 32, 50, 56, 57.
Nāka 2§
Nākra§
Nāga§
Nāgna-jita§
Nāgna-jita、「Nagnajit の後裔」は、Śatapatha Brāhmaṇa(viii. 1, 4, 10)における Svarjit の父称である。
Nāciketa§
Nāḍa-pit§
Nāḍī 1§
Nāḍī 2§
Nāḍī 3§
Nāḍīkā§
Nātha§
Nāpita§
Nābhāka§
Nābhā-nediṣṭha Mānava§
Nābhā-nediṣṭha(「出自において最も近い」)Mānava(「Manu の後裔」)は、後代の諸 Saṃhitā および Brāhmaṇa1 において、その父 Manu がその財産を子らの間で分けたとき ── あるいは子らがこれを分けたとき ── に彼が受けた扱いによって名高い。Nābhānediṣṭha は除外されたが、父の助言を通じて Aṅgiras 族から牛を得ることによって慰められた。この功は Śāṅkhāyana Śrauta Sūtra2 において、讃歌をもって庇護者を讃えた他の見者たちの功業と同列のものとみなされ、また Ṛgveda x. 62 の讃歌を生んだものとされる。Nābhānediṣṭha の讃歌は Brāhmaṇa 文献3 に繰り返し言及されるが、その作者たることを超えては彼について何も記されていない。Saṃhitā4 そのものにおいては、一箇所で彼が詩人として語られていると思われるが、その箇所はまったく意味の不確かなものである。
Nābhānediṣṭha は十中八九、Avesta の Nabānazdiṣta と語源的に結びついている。これは paoiryō-ṭkaēsha の Fravaṣi および Nabānazdiṣta の Fravaṣi に言及するものである。Lassen5 はこの伝説のうちに印・イラン分裂の記憶を見た。しかし Roth6 はこれが不可能であること、および Nābhānediṣṭha が単に「出生において最も近い」を意味することを決定的に示した。
また Weber7 は、この語の結びつきがいずれの側からの借用でもなく、Avesta においては「最も近い親族」という本来の意味を保ち、他方 Ṛgveda においては固有名詞となったのであることを認める。
Nābhi 1§
Nābhi 2§
Nāma-dheya§
Nāman§
Nāman、「名」は、Ṛgveda 以降の一般的な語である。Gṛhya Sūtra1 は子の名の形成について精緻な規則を与えるが、より重要なのは秘密の(guhya)名と通常の名との区別である。もっとも秘密の名についての規則はまったく一貫していない。秘密の名はすでに Ṛgveda2 に認められ、Brāhmaṇa 文献3 にも言及される。一つの秘密の名、すなわち Indra の Arjuna という名が Śatapatha Brāhmaṇa4 に与えられている。注意すべきは、
Nakṣatra(月宿)の呼称を秘密の名として、あるいは別の仕方で与えるという規則が、Brāhmaṇa 文献に記録される師の名の一つによっても例証されないことである。5
Śatapatha Brāhmaṇa6 は数度、成功を確保する目的で第二の名を採ることに言及し、また区別の目的で別の名を採ることにも言及する。7
実際の慣行においては Brāhmaṇa 文献に通常二つの名が見出され、第二のものは父称ないし母称である。例えば Kakṣīvant Auśija8(その母たる女奴隷 Uśij の物語が正しければ)、あるいは Bṛhaduktha Vāmneya9、「Vāmnī の子」のごとくである。もっとも関係はもとより直接の親子ではなく、より遠い出自であることもありうる。10 三つの名はより稀である ── 例えば Kūśāmba Svāyava Lātavya11、「Svāyu の子、Lātavya(Latu の子)の家系の者」、あるいは Devataras Śyāvasāyana Kāśyapa12 のごとくであり、そこでは父称と Gotra 名の双方が見出される。他の場合には名はおそらく地域的な関わりを有する ── 例えば Kauśāmbeya および Gāṅgya。しばしば父称のみが与えられ、Bhārgava、Maudgalya 等のごとくであり、あるいは二つの父称が用いられる。単純な名がしばしば父称の代わりに用いられる ── 例えば Trasadasyu。13 若干の場合には妻の名が夫の名から形成される14 ── Uśīnarāṇī、Purukutsānī、Mudgalānī のごとくである。
- 1Weber, Naxatra, 2, 316 et seq.; Hillebrandt, Rituallitteratur, 46, 47; Jolly, Recht und Sitte, 152.
- 2Cf. x. 55, 2; 71, 1、Aitareya Āraṇyaka, i. 3, 3 に説明されるように。
- 3Śatapatha Brāhmaṇa, vi. 1, 3, 9(名は出生時に子に与えられる); Bṛhadāraṇyaka Upaniṣad, vi. 4, 25.
- 4ii. 1, 2, 11; v. 4, 3, 7; Weber, 2, 317, n. 3.
- 5Weber, 2, 318, 319. Aṣāḍha、Rauhiṇa、Rauhiṇāyana を見よ。
- 6iii. 6, 2, 24; v. 3, 3, 14; ix. 4, 3, 3。同箇所は、名が当の人物によって行われた祭宴から導かれるべきことを指示する。また Kāṭhaka Saṃhitā, xxvi. 4; Taittirīya Brāhmaṇa, ii. 7, 17 を見よ。
- 7Śatapatha Brāhmaṇa, ii. 4, 4, 4. Cf. vi. 1, 3, 9.
- 8Pañcaviṃśa Brāhmaṇa, xiv. 11, 17.
- 9Ibid., xiv. 9, 38.
- 10Pargiter, Journal of the Royal Asiatic Society, 1910, 14; Hopkins, Transactions of the Connecticut Academy of Arts and Sciences, 15, 55, n. 2.
- 11Pañcaviṃśa Brāhmaṇa, viii. 6, 8.
- 12Jaiminīya Upaniṣad Brāhmaṇa, iii. 40, 2.
- 13Śatapatha Brāhmaṇa, vi. 1, 2, 13; Hopkins, Religions of India, 201, n. 2.
- 14Cf. Macdonell, Vedic Grammar, p. 135. Cf. Weber, op. cit., 2, 316-320; Hopkins, loc. cit.
Nāmba§
Nāya§
Nārada§
Nārāśaṃsī§
Nārāśaṃsī(すなわち Ṛc)、「人を讃える(詩節)」は、早くも Ṛgveda1 に言及され、後代の文献の多くの箇所2 において Gāthā から区別される。Kāṭhaka Saṃhitā3 は両者を区別しつつ、双方が偽り(anṛtam)であると主張する。両者がまったく別個のものであったことはほとんど蓋然的でない。というのも Taittirīya Brāhmaṇa4 は「人を讃える Gāthā」(nārāśaṃsī)という句を有するからである。そのような詩節がいかなるものであったかは Śāṅkhāyana Śrauta Sūtra5 から知られうる。同書は Puruṣamedha すなわち「人身供犠」における Nārāśaṃsāni を列挙している。
それらは正当に叙事詩の源泉の一つに数えうる。6
Nārāśaṃsī という語は若干の箇所7 において Atharvaveda8 の特定の三詩節の群に限定されるが、Oldenberg9 がこの限定された意味を Ṛgveda10 に読み込むべきではないと主張するのは正しいに違いない。Taittirīya Saṃhitā11 においてすら術語的な意味は確実でなく、Bṛhaddevatā12 はこの語に一般的な適用を与えている。
- 1x. 85, 6.
- 2Av. xv. 6, 4; Taittirīya Saṃhitā, vii. 5, 11, 2; Aitareya Brāhmaṇa, vi. 32; Kauṣītaki Brāhmaṇa, xxx. 5; Kāṭhaka Saṃhitā, v. 5, 2; Taittirīya Āraṇyaka, ii. 10 等; Weber, Indische Studien, 5, 78. Śatapatha Brāhmaṇa, xi. 5, 6, 8 の箇所は不確かである。Eggeling, Sacred Books of the East, 44, 98, n. 5 を見よ。
- 3xiv. 5; Weber, Indische Streifen, 1, 98.
- 4i. 3, 2, 6.
- 5xvi. 11, 1 et seq.; Weber, Episches im vedischen Ritual, 10 et seq.
- 6Hopkins, Journal of the American Oriental Society, 15, 264, n. Bloomfield, Atharvaveda, 100(cf. Hymns of the Atharvaveda, 688, 689)は、むしろ贈与者への単なる頌讃としてのその性格に力点を置く。疑いなくそれはその一面であった。しかし他の要素は、祭官の伝承が示すよりも実際には顕著であったかもしれない。
- 7Aitareya Brāhmaṇa, vi. 32; Kauṣītaki Brāhmaṇa, xxx. 5. おそらく注2に挙げた他の箇所においても Atharvaveda の詩節への言及でありうるが、これはまったくありそうにない。
- 8xx. 127, 1-3 = Śāṅkhāyana Śrauta Sūtra, xii. 14, 1-3. Cf. Scheftelowitz, Die Apokryphen des Ṛgveda, 155.
- 9Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, 42, 238.
- 10x. 85, 6.
- 11vii. 5, 11, 2.
- 12iii. 154. Cf. Weber, Episches im vedischen Ritual, 4 et seq.
Nārī§
Nārī、「女」は、Ṛgveda1 および後代2 に現れる。この語は Ṛgveda においては妻としての女に対する明確な言及を有すると思われる。というのもそれは婚姻関係への明確な言及を伴って数箇所に現れるからであり3、また後代のヴェーダ文献 ── そこでは一般的でない ── においても時にその意を有する。4 しかし Delbrück5 は、それが婚姻関係を示すのではなく、単に男の性的補完としての女を示すにすぎないと考える。
(訳注:底本ではこの項の脚注3が二度重複して印刷されている。一つに整理した。)
- 1vii. 20, 5; 55, 8; viii. 77, 8; x. 18, 7; 86, 10. 11.
- 2Av. xiv. 2, 13; Vājasaneyi Saṃhitā, xxiii. 36; Aitareya Brāhmaṇa, iii. 34.
- 3i. 73, 3(pati-juṣṭā、「夫に愛される」); vii. 20, 5; x. 18, 7(avidhavāḥ supatnīḥ、「寡婦ならず、良き夫を有する」)等。
- 4Gautama Dharma Sūtra, ix. 28.
- 5Die indogermanischen Verwandtschaftsnamen, 417, 439.
Nārmara§
Nārmiṇī§
Nārya§
Nārṣada§
Nāva-prabhraṃśana§
Nāva-prabhraṃśana、「船の滑り降り」は、Whitney および Roth の Atharvaveda 本文1 における読みであり、Weber2 その他3 によって Manor Avasarpaṇa ── Śatapatha Brāhmaṇa4 において洪水が引いたとき Manu の船が留まった北の山の名 ── と結びつけられてきた。しかし Bloomfield5 も Whitney6 も、この解釈がきわめて蓋然性が低いことを指摘しており、この見解は
Macdonell7 によって容れられている。この表現は Pada 本文と注釈者のいずれによっても na ava-prabhraṃśana と分析されており、また他の箇所において舟ないし船の降下に関して見出されることは決してない。8
Nāvā§
Nāvā、「船」は、Ṛgveda(i. 97, 8)に一度現れる。Nau を見よ。
Nāvāja§
Nāvāja(「船を進める者」)、「船頭」は、Śatapatha Brāhmaṇa(ii. 3, 3, 5)に言及される。
Nāvyā§
Nāhuṣa§
Nikothaka Bhāya-jātya§
Nigada Pārṇa-valki§
Ni-gut§
Nigustha§
Nigustha は意味の不明な語であり、Śāṅkhāyana Śrauta Sūtra(xvi. 29, 6)において Kāśi、Videha、Kosala の諸民族に適用される。
Ni-tatnī 1§
Ni-tatnī 2§
2. Ni-tatnī は Taittirīya Brāhmaṇa(iii. 1, 4, 1)における七つの Kṛttikā の一つの名である。Nakṣatra を見よ。
Ni-tāna Māruta§
Ni-tāna Māruta は Kāṭhaka Saṃhitā(xxv. 10)における人の名である。
Ni-dāgha§
Ni-dāgha(「焼き下ろす」)、「夏」は、Śatapatha Brāhmaṇa(xiii. 8, 1, 4)における季節の一つの名である。Naidāgha を見よ。
Ni-dāna§
Ni-dhā§
Ni-dhi§
Ni-dhi は第一義的に「(蓄えの)場所」「貯え」を意味し1、次いで一般に「宝」を意味する。2 Chāndogya Upaniṣad3 においては Nidhi が或る種の学を指す。
- 1Rv. i. 183, 4; v. 43, 8; vii. 67, 7; 69, 3 等。
- 2Rv. ii. 24, 6; viii. 29, 6; x. 68, 6; Av. x. 7, 23 等。
- 3vii. 1, 2. 4; 2, 1; 7, 1. St. Petersburg 辞典 s.v. および Böhtlingk はその校訂本において daivo nidhiḥ を一つの表現と解する。Daiva を見よ。Sāyaṇa は各々を別個のものと解し、Nidhi を mahākālādinidhiśāstram と訳す。おそらく或る種の年代学を意味するのであろう。 Cf. Nidhi を「宝」とすることについては Jolly, Recht und Sitte, 103, 104.
Ni-nāhya§
Ninditāśva§
Ni-pāda§
Ni-pāda は Ṛgveda(v. 83, 7)において「低地」「谷」を指し、「丘」(udvat)に対立する。Cf. Nivat.
Ni-mruc§
Nir-aṣṭa§
Nir-āla§
Nirukta§
Nirukta、語ないし箇所の「解釈」は、Chāndogya Upaniṣad(viii. 3, 3)に見出されるが、後代の Upaniṣad 以前には書名としては現れない。しかし Yāska の Nirukta が仏教の勃興より後のものでないことは蓋然的である。Cf. Nirvacana.
- Cf. Weber, Indische Studien, 1, 13, 17; 3, 260 et seq.; Indian Literature, 25, 26, 41, 42 等; Macdonell, Sanskrit Literature, 269, 270; Keith, Aitareya Āraṇyaka, 24, 25; Roth, Nirukta, xv et seq.
Nir-yāsa§
Nir-yāsa は樹木の「滲出液」を指す。Taittirīya Saṃhitā(ii. 1, 5, 4)においては、その赤い色のゆえに食物として忌まれている。
Nir-vacana§
Ni-vat§
Nivānya-vatsā§
Ni-vid§
Ni-vid は、神を讃える典礼において招かれる神格への短い呼びかけを指す。Brāhmaṇa 文献1 は Śastra(朗誦)に挿入されるものとして Nivid を繰り返し言及し、Ṛgveda の Khila 集2 はそのうちに一群の Nivid を保存している。しかし、そのような短い定句を用いる慣行 ── Nivid は通常 Pada すなわち四分の一詩節を超える長さではない ── が Ṛgveda に知られていたかは疑わしい。3 もっともそれはそこにすら見出されてきたし4、また Nivid という語は同 Saṃhitā に数度見出される5 が、Brāhmaṇa 文献の術語的な意味においてではほとんどない。後代の諸 Saṃhitā6 においては術語的な意味が一般的である。
- 1Aitareya Brāhmaṇa, ii. 33. 34; iii. 10. 11; vi. 33. 35; Kauṣītaki Brāhmaṇa, xiv. 1; Śatapatha Brāhmaṇa, iii. 9, 3, 28; xiii. 5, 1, 9 等; Aitareya Āraṇyaka, i. 5, 2; Śāṅkhāyana Āraṇyaka, i. 3 等。
- 2Scheftelowitz, Die Apokryphen des Ṛgveda, 137-143 を見よ。
- 3Nivid の古さは Haug, Aitareya Brāhmaṇa, 1, 26 et seq. によって主張され、以後しばしば主張された。例えば Tilak, Orion, 206; Scheftelowitz, op. cit., 3 によって。これは Weber, Indische Studien, 9, 265, 355、および Oldenberg, Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, 42, 242 et seq.; Göttingische Gelehrte Anzeigen, 1907, 232, 233 によってきわめて蓋然性が低いことが示されている。
- 4i. 86, 4; Bezzenberger の Beiträge, 9, 192. かくして Oldenberg, Sacred Books of the East, 46, 119, 122 は Rv. i. 96, 2 を術語的な意味における Nivid に言及するものと解するが、保存されているままの Nivid にではない。
- 5i. 89, 3; 96, 2; 175, 6; ii. 36, 6; iv. 18, 7; vi. 67, 10.
- 6Av. v. 26, 4; xi. 7, 19; Vājasaneyi Saṃhitā, xix. 25 等。 Cf. Hillebrandt, Rituallitteratur, 102; Oldenberg, Religion des Veda, 387, n. 2; Muir, Sanskrit Texts, 1², 241.
Nivid-dhāna§
Ni-veśana§
Ni-ṣaṅgathi§
Ni-ṣaṅgin§
Ni-ṣaṅgin は Ṛgveda1 に三度見出される。一箇所2 において sudhanvāna iṣumanto、「良き弓と矢を有する」という語に続くゆえに、niṣaṅginaḥ の意味は「箙を有する」でまったく確実と思われる。Vājasaneyi Saṃhitā3 においては注釈者 Mahīdhara によって「剣を有する」の意に解され、この意味はそこにおいても、またそれが現れる他の箇所4 においてもまったくありうる。しかしこの語ははるかに蓋然的に「箙を有する」を意味する。というのもヴェーダの武器は弓であって剣(Asi)ではないからである。
- 1iii. 30, 15; v. 57, 2; x. 103, 3.
- 2v. 57, 2.
- 3xvi. 20. Cf. Kātyāyana Śrauta Sūtra, xx. 2, 11、注釈者とともに。
- 4Sāmaveda, ii. 1199; Kāṭhaka Saṃhitā, xvii. 12; xxxvii. 11; Maitrāyaṇī Saṃhitā, ii. 9, 3; Taittirīya Saṃhitā, iv. 5, 3, 1; Śatapatha Brāhmaṇa, xiii. 4, 2, 5. Cf. Hopkins, Journal of the American Oriental Society, 13, 274.
Ni-ṣāda§
Ni-ṣāda は後代の諸 Saṃhitā および Brāhmaṇa1 に見出される。この語は特定の部族を指すというよりむしろ、Śūdra のようにアーリヤの統制下になかった非アーリヤ諸部族の一般的な呼称であると思われる。というのも Aupamanyava2 は五部族(pañca janāḥ)を四つのカースト(catvāro varṇāḥ)
と Niṣāda であると解し、また注釈者 Mahīdhara は、Vājasaneyi Saṃhitā3 にこの語が現れる箇所において、これを Bhilla すなわち Bhīl 族の意に説明するからである。Niṣāda の村が Lāṭyāyana Śrauta Sūtra4 に言及され、また Niṣāda の Sthapati、すなわち或る種の首長が Kātyāyana Śrauta Sūtra5 および同箇所への注釈者に引かれる或る Brāhmaṇa に言及される。Weber6 は Niṣāda が定住した先住民であったと考える(ni、「下に」および sad、「定住する」から)。この見解は、Viśvajit 祭の儀礼7 が Niṣāda との一時的な同居を要求するという事実によって支持される。というのもアーリヤ人が一時的に自らのうちに住むことを許したであろう Niṣāda は、部分的にアーリヤの影響を受け容れる者であったに違いないからである。しかしこの名は、アーリヤの組織の外にある先住民の全体に容易に適用されえたであろう。von Schroeder8 は、Niṣāda がおそらく Nysa 人 ── ギリシアの記述によれば、Alexandros が Aśvaka 族の領域にあったとき使節を送った者たち ── と同一であると考えるが、この同定は疑わしい。
- 1Taittirīya Saṃhitā, iv. 5, 4, 2; Kāṭhaka Saṃhitā, xvii. 13; Maitrāyaṇī Saṃhitā, ii. 9, 5; Vājasaneyi Saṃhitā, xvi. 27; Aitareya Brāhmaṇa, viii. 11; Pañcaviṃśa Brāhmaṇa, xvi. 6, 8 等。
- 2Yāska, Nirukta, iii. 8 において。
- 3xvi. 27. Cf. xxx. 8.
- 4viii. 2, 8.
- 5i. 1, 12; Weber, Indische Studien, 10, 13.
- 6Indische Studien, 9, 340. Cf. 10, 13, 16.
- 7Kauṣītaki Brāhmaṇa, xxv. 15; Lāṭyāyana, loc. cit.; Pañcaviṃśa Brāhmaṇa, loc. cit. を見よ。
- 8Indiens Literatur und Cultur, 366. Cf. Zimmer, Altindisches Leben, 39, 119. 後代の体系(Manu, x. 8)においては Niṣāda はバラモンと Śūdra の女との子であり、他方 Varāhamihira の Bṛhatsaṃhitā(xiv. 10)は Madhyadeśa の南東に Niṣāda の王国(rāṣṭra)を認める。Pāli 文献(Fick, Die sociale Gliederung, 12, 160, 206 et seq.)においては彼らは野生の狩人・漁夫である。Cf. また Muir, Sanskrit Texts, 1², 301, 303, 366, n. 164, 403, 481.
Niṣka§
Niṣka は Ṛgveda1 および後代2 にしばしば見出され、首に着ける黄金の装飾を指す。これは niṣka-kaṇṭha3 および niṣka-grīva4、「首に黄金の装飾を有する」という二つの形容辞によって示される。銀の Niṣka が Pañcaviṃśa Brāhmaṇa5 に言及される。早くも Ṛgveda6 において
Niṣka を一種の通貨として用いた痕跡が見られる。というのも或る歌い手が百の Niṣka と百頭の駿馬を受けたことを讃えているからである。彼が単に身の装飾のためだけに Niṣka を必要としたとはほとんど考えられない。後代には Niṣka の通貨としての使用はまったく明瞭である。7 Kṛṣṇala をも Cf.
- 1ii. 33, 10; viii. 47, 15 等。
- 2Av. v. 14, 3; vii. 99, 1; xx. 131, 8; Chāndogya Upaniṣad, iv. 2, 1. 2; v. 13, 2; Jaiminīya Upaniṣad Brāhmaṇa, i. 36, 7. 8; Śatapatha Brāhmaṇa, xiii. 4, 1, 7. 11 等。
- 3Aitareya Brāhmaṇa, viii. 22.
- 4Rv. v. 19, 3; Av. v. 17, 14.
- 5xvii. 1, 14、Vrātya が着けるものとして。Cf. Av. xv. 3.
- 6i. 126, 2.
- 7Av. xx. 127, 3; Lāṭyāyana Śrauta Sūtra, ix. 9, 20 等。Śatapatha Brāhmaṇa, xi. 4, 1, 1. 8; Gopatha Brāhmaṇa, i. 3, 6 においては、「貨幣」の意が Eggeling, Sacred Books of the East, 44, 50, 51 および Geldner, Vedische Studien, 2, 185 によって見出されている。 Cf. Zimmer, Altindisches Leben, 51, 259, 263; Geldner, op. cit., 1, 268, n. 2; Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, 40, 127.
Niṣkirīya§
Niṣṭya§
Nihākā§
Nīkṣaṇa§
Nīkṣaṇa. Nekṣaṇa を見よ。
Nīcya§
Nīcya(「下方に住む」)は、西方の或る民族の呼称である。Nīcya 族は Aitareya Brāhmaṇa(viii. 14)において Madhyadeśa の民から区別されるものとして言及され、疑いなく Indus 川および Panjab 地方の住民を意味する。
Nītha§
Nīnāha§
Nīnāha は Atharvaveda(xix. 57, 4)に一度現れる語であり、動詞 nah、「締める」から派生するものとして「帯」ないしそれに類するものを指すと思われる。
Nīpātithi§
Nīlaṅgu§
Nīla-śīrṣṇī§
Nīlāgalasāla§
Nīvāra§
Nīvi§
Nīhāra§
Nṛ§
Nṛ. Nara を見よ。
Nṛti§
Nṛtū§
Nṛ-pati§
Nṛ-medha§
Nṛ-ṣad§
Nṛ-ṣad、「人の間に坐する」は、Ṛgveda(x. 31, 11)における Kaṇva の父の名である。Cf. Nārṣada.
Nekṣaṇa§
Nemi§
Neṣṭṛ§
Naicā-śākha§
Naicu-dāra§
Naitandhava§
Nai-dāgha§
Nai-dāna§
Nai-dhruvi§
Naimiśi§
Naimiśīya§
Naimiśīya1、Naimiṣīya2 は、Naimiśa の森の住人を指す。彼らは Kāṭhaka Saṃhitā および Brāhmaṇa 文献2 に言及され、明らかに特別の神聖さを有する。それゆえ叙事詩においては、Mahābhārata が Naimiṣa の森に住む Ṛṣi たちに語られたとされる。3
(訳注:底本ではこの項の脚注2が三度重複して印刷されている。一つに整理した。)
- 1Pañcaviṃśa Brāhmaṇa, xxv. 6, 4; Jaiminīya Brāhmaṇa, i. 363(Journal of the American Oriental Society, 26, 192)。
- 2Kauṣītaki Brāhmaṇa, xxvi. 5; xxviii. 4; Chāndogya Upaniṣad, i. 2, 13;Naimiṣya は Kāṭhaka Saṃhitā, x. 6(Indische Studien, 3, 469)。後代には反舌音が普通であると思われる。
- 3Weber, Indian Literature, 34, 45, 54, 68, 70, 185.
Nair-ukta§
Nai-ṣāda§
Nai-ṣāda、「Niṣāda の者」は、Kauṣītaki Brāhmaṇa(xxv. 15)および Vājasaneyi Saṃhitā(xxx. 8)に言及される。
Naiṣidha§
Naiṣidha は Śatapatha Brāhmaṇa(ii. 3, 2, 1. 2)における、南方の王 Naḍa の形容辞の読みである。この名の後代の形は Naiṣadha である。St. Petersburg 辞典は、その本来の形が Naiḥṣidha であったと示唆する。
Nodhas§
Nodhas は Ṛgveda1 に言及される詩人の名であり、同書の若干の讃歌が彼に帰されている。2 Pañcaviṃśa Brāhmaṇa3 においては彼は Kākṣīvata、「Kakṣīvant の後裔」と呼ばれる。Ludwig4 は彼を Purukutsa の敗北と同時代の人とみなす。彼は Gotama であった。5
- 1i. 61, 14; 62, 13; 64, 1、および Nirukta, iv. 16 によれば 124, 4.
- 2Aitareya Brāhmaṇa, vi. 18; Rv. i. 58-64 が Anukramaṇī(索引)において彼に帰されている。
- 3vii. 10, 10; xxi. 9, 12. Cf. Aitareya Brāhmaṇa, iv. 27; viii. 12. 17; Av. xv. 2, 4; 4, 4.
- 4Translation of the Rigveda, 3, 110.
- 5Rv. i. 62, 13; Max Müller, Sacred Books of the East, 32, 125. Rv. i. 124, 4 の意味をめぐる論争については Oldenberg, Ṛgveda-Noten, 1, 137 を見よ。Cf. Hopkins, Transactions of the Connecticut Academy of Arts and Sciences, 15, 33.
Nau§
Nau は Ṛgveda1 および後代2 において「舟」ないし「船」を表す通常の語である。大多数の場合、船は単に川を渡るための舟であった。もっとも Panjab の広い河川の多く、また Yamunā 川や Gaṅgā 川を渡るには疑いなく大きな舟が必要であった。しばしば疑いなく Nau は単なる刳り舟(dāru)であった。3 ヴェーダ時代に広範な海上交易が存在したという説4 に対しては、櫂(Aritra)を除いて帆柱や帆のごとき船の部分がまったく言及されないことが確かに不利である。しかしそれでも、川を渡るのに用いられる舟が含意するよりも広範な交易を指し示す若干の言及がある。Atharvaveda5 は、バラモンが虐げられる王国の破滅を、水漏れする(bhinnā)船の
沈没に喩える。ここで用いられる言葉は、船が刳り舟にすぎなかったという説に合うように解しうるとはいえ、自然にそう解しうるものではない。さらに Ṛgveda6 においては、利を求めて(saniṣyavaḥ)大洋(Samudra)へ行く人々への言及がある。そのような言及を Zimmer7 とともに、Panjab の支流と合流した後の Indus 川の広い流れに限定するのは、まったく満足なことではない。Ṛgveda8 においてはまた、Aśvin 双神が百の櫂を有する船(śatāritra)をもって大洋において Bhujyu を救ったと言われる。ここに、海の航海に用いられる多くの櫂を有するより大きな船の存在を認めることを拒むのは容易でない。いずれにせよ Baudhāyana Dharma Sūtra9 は明らかに海上航行に言及している。Samudra をも見よ。
- 1i. 131, 2; ii. 39, 4; viii. 42, 3; 83, 3 等。
- 2Av. ii. 36, 5; v. 19, 8; Taittirīya Saṃhitā, v. 3, 10, 1; Vājasaneyi Saṃhitā, x. 19; Aitareya Brāhmaṇa, iv. 13; vi. 6. 21; Śatapatha Brāhmaṇa, i. 8, 1, 4; iv. 2, 5, 10 等。
- 3Rv. x. 155, 3.
- 4Wilson, Rigveda, 1, xli.
- 5v. 19, 8. Cf. Hopkins, American Journal of Philology, 19, 139. おそらく Rv. i. 32, 8 の nadaṃ na bhinnam という箇所も船に言及する。Naḍa を見よ。
- 6Rv. i. 56, 2; iv. 55, 6.
- 7Altindisches Leben, 22, 23.
- 8i. 116, 3 et seq.
- 9i. 2, 4; ii. 2, 2. ただしそれはさほど早い年代のものではない。 Cf. Zimmer, op. cit., 255-257.
Nyag-rodha§
Nyag-rodha、「下方へ生長する」は、Ficus indica(ベンガル菩提樹)の名である。この樹は枝から繊維を垂らし、それが根づいて新たな幹をなすことで注目に値する。この樹は Ṛgveda に名を挙げて言及されていないが、知られていたと思われる。それは Pischel1 が、その特徴が認められる一讃歌2 から示したとおりである。Atharvaveda3 および後代の文献4 にしばしば言及される。祭祀の杯(Camasa)はその材から作られた。5 それは現代におけると同じく、ヴェーダの村にとって疑いなくきわめて重要であった。姉妹樹たる Aśvattha(Ficus religiosa)はすでに Ṛgveda に現れる。
- 1Vedische Studien, 1, 113, 114.
- 2i. 24, 7。同箇所では stūpa が主幹の上の樹冠を指すと思われる。
- 3iv. 37, 4; v. 5, 5.
- 4Aitareya Brāhmaṇa, vii. 30. 31; Śatapatha Brāhmaṇa, v. 3, 5, 13; xiii. 2, 7, 3; Chāndogya Upaniṣad, vi. 12, 1 等。
- 5Taittirīya Saṃhitā, vii. 4, 12, 1; Vājasaneyi Saṃhitā, xxiii. 13. Cf. Zimmer, Altindisches Leben, 58.
Ny-aṅka§
Nyaṅku§
Nyaṅku は、Yajurveda の諸 Saṃhitā1 における Aśvamedha すなわち「馬祀」の犠牲獣の一覧に現れる動物の名である。一種の「羚羊」が意味されていることは明らかと思われるが、Taittirīya Saṃhitā への注釈は「熊」(ṛkṣa)を代替の訳として示唆する。
(訳注:底本ではこの項の脚注1が二度重複して印刷されている。一つに整理した。)
- 1Taittirīya Saṃhitā, v. 5, 17, 1; Maitrāyaṇī Saṃhitā, iii. 14, 9; Vājasaneyi Saṃhitā, xxiv. 27. 32. Cf. Zimmer, Altindisches Leben, 83. nyaṅku-sāriṇī、「羚羊の歩みを有する」という韻律名は、すでに Ṛgveda Prātiśākhya, xvi. 31; Chandas, 5; Nidāna Sūtra, i. 2 に言及されている。
Ny-astikā§
Ny-ocanī§
Ny-ocanī は Ṛgveda の婚礼讃歌(x. 85, 6)に見出され、そこでは女性が着ける或る種の装飾が意味されていると思われる。注釈者 Sāyaṇa はこれを「女奴隷」と解する。