Garrettインド古典辞典

S第二部 英語その他の見出しsacrifice … syamantaka gem

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sacrifice(供犠) 供犠はつねに Hindu の宗教の祭式の重要な部分であった(fire-sacrificial の項を参照)。かくも多くの伝説の主題である大いなる馬の供犠の記述は、aśvamedha の項に見られる。牝牛の供犠すなわち gomedha もまた、Hindu の祭式の最初期においては一般的であったようである。Wilson は言う。「供犠は現実のものではなく象徴的なものであり、犠牲獣に対しては供犠の形式のみが行われ、その後それは解放されたと考えられてきた。しかし(Meghadūta の)この一節の本文はそのような観念に不利である。牝牛の血が河へと変身することは、確かに血が流されたことを含意するからである。原文の表現は、字義どおりに訳せば『Surabhi の娘たち、すなわち牝牛の血から生じた』である。Surabhi は乳海攪拌の際に生み出された名高い牝牛である。『Surabhi の娘』は牝牛を表すのに普通に現れる表現である。」

Manu は、まず一部を神々に捧げなければならないという条件で、一年のあらゆる季節に動物の食物を消費することを認めている。黒 Yajurveda の Brāhmaṇa においてもまた、その執行に牝牛の肉が必要とされた多数の儀式が言及されており、特定の神格を満足させるために用いられるべき家畜の種類に関して指示が与えられている。Taittirīya Brāhmaṇa は、馬、雄牛、牝牛、山羊、鹿を含む、供犠にふさわしい百八十の動物を列挙しており、多数の家畜が犠牲に捧げられた儀式に言及している。* pañca śāradīya sava および śāla gava の項を参照。

* Friend of India, 1872年12月5日.

sahtuva Nahtuva(その項を参照)と同じ。

sandracottus candragupta の項を参照。

seorī Bhar、Cherū、Kol、Kharwār その他の土着の種族と並んで存在してきた原住民の部族。彼らはヨーロッパの Gipsy に似ている。軽くて容易に作れる小屋に住み、酒にふける。彼らは女児を誘拐することによって若者のための妻を手に入れ、主として奇術、偽金造り、窃盗によって生活する。— SHERRING.

serpents(蛇) これらは Viṣṇu Purāṇa において Kadrū の子孫として表され、強大で多頭のものとして描かれ、あるものは猛々しく毒がある。主なものは名を挙げられている。

shanārs Tinnevelly にきわめて多い低い caste。その世襲の職業は Palmyra 椰子を栽培し登ることであり、その汁を煮て粗糖にする。これは Hindu の慣習によって特定の caste の成員に限られる職業の一つである。Shanār の大多数は自らの種族に割り当てられた辛く疲れる労働に自らを限っているが、かなりの数が地主あるいは農民として土地の耕作者となり、あるいは商業に従事している。彼らは一般に、下層階級の最上の区分、あるいは中産階級の最下層に属すると言ってよい。貧しいが極貧ではなく、粗野で無学であるが、未開の状態からは何段階も隔たっている。悪鬼崇拝すなわち悪魔崇拝が、Shanār の宗教を正確に描写しうる唯一の語である。彼ら自身とその祖先によって崇拝される悪鬼は、混じりけのない悪意の存在 ── bona fide(正真正銘の)悪鬼 ── であり、それらはもっぱら悪意あるがゆえにのみ崇拝される必要があると考えられている。— CALDWELL.

soma-plant Veda の祭式に絶えず言及される植物で、Zendavesta の Homa に相当する。しかしこの名によって本来どの植物が意図されていたかは定かでない。「それは『暗い色の、酸い、葉のない、外側が乳状で多肉の蔓草で、痰と嘔吐を引き起こし、山羊の好む食物である』と描写されている。Müller, Zeitschr. d. D. M. G. ix を参照。それは北方から来て、野蛮な部族から買われると言われる。しかし『Veda』の soma はもはやインドでは知られていない。Haug 博士は言う。『Dekkhan の供犠の祭官によって現在用いられている植物は Veda の soma ではないが、同じ目に属するようである。それは Poona の近隣の丘に約四ないし五フィートの高さに生え、一種の茂みを成し、すべて同じ根から出る一定数の芽から成る。その茎は木のように固く、樹皮は灰色がかり、葉はなく、樹液は白っぽく見え、きわめて渋い味がし、苦いが酸くはない。それはきわめてひどい飲み物であるが、いくらか酔わせる効果がある。』(AitBra, Vol. II, p. 489)「儀式の著作家たちは、植物 pūtika、すなわち Guilandina Bonduc を soma の代用として用いることを認めている。Bombay の Parsee は、Persia から乾燥した状態で得られる特定の木の枝を用いる。」*

Ṛgveda においては、soma 草は一羽の隼によって地上にもたらされたと言われている。別の一節では、それが雨の神 Parjanya によって養われていた場所から太陽の娘によってもたらされ、そのとき gandharva がそれを取り、その中に樹液を注ぎ込んだと宣言されている。[Supplement より→]Soma 草の植物学名は Asclepias Acida である。

* Quarterly Review, 1870年7月.

sonargir 山 Caityakā(その項を参照)の近代の名。

sonārs 金細工師、銀細工師、宝石商の caste。sonār の起源が何であれ、彼らは今では社会的に vaiśya より高い身分ではなく、製造者かつ商人として本来その大家族に属する。— SHERRING.

śūdra dynasty(śūdra 王朝) これは西暦紀元前4世紀の前半に Candragupta によって創始された。この王朝は百三十七年続いた。Candragupta は Sandracottus と同一人物であり、Justin によれば、Alexander の総督たちが殺された後にインドの王座を奪った。Seleucus は、Babylon の奪取と Bactria 人の征服の後にインドへ進んだとき、彼をインドの主権者として見出した。しかし Seleucus は Sandracottus を征服せず、彼と同盟を結んだ後、Antigonus と戦争をするために進軍した。

sun(太陽) Viṣṇu Purāṇa は、太陽の車と馬、その日々の運行、その北と南の赤緯、Mandeha(その項を参照)によって日々その破滅が企てられる仕方についての長い記述を含んでいる。それはまた太陽が蒸発によって雨の原因であることを示している。太陽の機能の神秘的な記述が与えられ、その妻と子供たちが列挙されている。それから、その強烈さを減ずるために、Viśvakarman が発光体を轆轤に載せてその光輝のいくらかを削り落とし、このようにして八分の一を減じたと述べられている。太陽は Dakṣa の娘 Aditi の子として、また太陽王朝の創始者 Vaivasvata の父として表されている。彼は白 Yajus を Yājñavalkya に啓示し、syamantaka 宝珠を Satrājit に与えたと言われる。世界の終わりに、彼は七つの太陽に膨張し、宇宙に火を放つであろう。

surgery(外科) Wilson 教授は、外科がかつて Hindu によって広く修められ高く評価されていたと信じた。* もっとも、ヨーロッパの技量と学識による治療術の成功した修養は、Hindu の著作家から学ぶべきものをわれわれに何も残していないが。外科の技量は医学の知識に先立った。Celsus が、Homer の Podalirius と Machaon の記述について注釈するときに主張したように。彼の言うところでは、彼らは、規則的に矢を抜き傷を癒すために雇われていたにもかかわらず、Greek の陣営の疫病の間には相談を受けなかった。同じ立場は Hindu の著作家によって、平易な言葉でも伝説的な言葉でも保たれている。

ある典拠によれば、Aśvin が Indra を教え、Indra が Dhanvantari の師であった。しかし他の典拠は、Ātreya、Bharadvāja、Caraka を後者より前に置く。その名で呼ばれる Caraka の著作は現存している。Dhanvantari はまた Kāśirāja、すなわち Benares の王子とも称される。その弟子は Viśvāmitra の子 Suśruta であり、したがって Rāma の同時代人であった。その著作もまた存在し、現在われわれの主要な手引きである。それはおそらく、Caraka のそれを除いて、Hindu が所有するこの主題に関する最古の著作である。それは六つの部分に分かれ、そのすべてが一般医学ではなく外科を扱っている。

Āyurveda は八つの下位区分に分配され、あらゆる時代と場所の医師の現実的なまた空想的なすべての営みを含んでいる。しかし Suśruta は自らの著作を śalya と śālākya の部類、すなわち外科に限っている。もっとも、われわれ自身の著作家にも珍しくない配列によって、彼はそれらが関係する主題を論ずるとき、時に一般的な病気の治療と、女性と子供の扱いとを導入している。しかし純粋な外科こそが彼の目的である。「医学の第一にして最良のもの。他のいかなるものよりも推測的・推論的な実践の誤謬に陥りにくく、それ自体純粋であり、その適用において永続的であり、天のふさわしい産物であり、名声の確実な源泉である。」*

* WILSON, Works, III, 276.

suttee(寡婦殉死) 「(サンスクリットの sati『貞節な妻』の英語での訛り)妻が、夫の遺体とともに、あるいは夫が遠方で死んだ場合には別々に、火葬の薪の上で自らを焼く、インドに行われた慣行を意味する。

Suttee の慣行は、正統な Hindu によって彼らの śāstra すなわち聖典の命令に基づくものとされている。そしてその Purāṇa(その項を参照)と法典の種々の章句が、その功徳と効力についての彼らの信仰を支持していることは疑いない。こうして Brahma Purāṇa は言う。『夫の死後、貞節な女には他の道は知られていない。夫の別個の火葬は(あらゆる宗教的意図において)失われるであろう。もしその主が他国で死んだならば、忠実な妻はその履物を胸に置き、清らかなまま火に入れ。忠実な寡婦は、Ṛgveda の誦された本文によって自殺者ではないと宣言される。』あるいは Vyāsa の法典。『夫が他の地域で死んで焼かれたことを知って、速やかに火に身を投ずるあの寡婦の力を知れ』等。あるいは Aṅgiras の法典。『夫の死に際して、彼とともに同じ燃える薪に昇る女は、(Vasiṣṭha の妻)Arundhatī と徳において等しい者として天に高められる。(別の世界へ)夫に従う女は、人間の身体の毛の数、すなわち三千五百万年の間、喜びの領域に住むであろう。蛇使いが蛇を穴から力ずくで引き出すように、このように主を(責苦の領域から)引き出して、彼女は彼とともに喜びを享受する。夫に従って薪に向かう女は、乙女として与えられたその家族の父方と母方の三世代の罪を贖う……。主の死後いかなる時においても、貞節な女にとって、同じ火に身を投ずること以外に効力ある義務は知られていない。女が(その相次ぐ輪廻において)、忠実な妻のように亡き主と同じ火で自らを焼くことを拒むかぎり、彼女は何らかの雌の動物の身体のうちに再び生まれることを免れないであろう。主が天に達する定めの時に去ったとき、その貞節な行いと思いとが夫に捧げられ、別離の危険を恐れる女にとって、同じ火に入ること以外の道は知られていない。』しかしこれらおよび同様の章句が、妻が亡き夫とともに自らを焼くことをいかに強調して勧めていようとも、まず第一に、古代インドの立法者の中で第一の位置を占める Manu には、この残酷な慣行を命じる、あるいは支持するように見える言葉さえ含まれていないことに注意すべきである。そして第二に、いかなる宗教的著作の命令も、それが啓示された書物すなわち Veda から採られ、あるいはそれに基づいていることを示しえないかぎり、正統な Hindu によって権威あるものとして認められないことに注意すべきである。近年 Rājā Radhakant Deb によって、黒 Yajurveda の特定の学派に属する本文の中に、suttee の慣行を正当化するような一節が実際にあることを示そうとする試みがなされた。しかしこの主題について彼と故 H. H. Wilson 教授との間に続いて起こった論争において、学識ある Rājā が引用した本文は決して疑いない正典性をもつものではないことが明らかになった。さらに、Ṛgveda には、正しく読めば、寡婦に自らを焼くのではなく、夫の葬儀に参列した後に家に帰り、家庭の義務を果たすよう命じる詩句があることが明らかになった。そして同時に、Ṛgveda のこの詩句のただ一語の誤読から、ついにはその結果においてかくも悲惨な信仰と命令とに導いた解釈が生じたようである。最古の Veda の本文のこの誤った解釈の犠牲となった寡婦が膨大な数にのぼることは、あまりにも真実である。しかし約三十年前、East India Company は、あらゆる人間の感情にとって忌まわしいものとみなすことが完全に正当であり、また Veda の宗教の精神に反するものとみなす資格も同様にあった慣行を抑圧するために、精力的な措置を講じた。この慣行は今や首尾よく止められたと言ってよい。というのは、習慣と迷信から、今日でも suttee の事例は起こるものの、それはきわめてまれであり、すべての報告は、おそらくある藩王国を除いて、至るところで開明的な土着民が過ぎ去った時代のこの悪を抑圧する政府の行動を支持していることで一致しているからである。」— Chambers' Encyclopaedia.

syamantaka gem 大いなる名声をもつ宝石で、その所有者が善人であれば、安全、繁栄、幸福を保証した。それは太陽によって Satrājit に贈られ、彼はそれを首に着け、それによって太陽自身のように輝いた。Satrājit は Kṛṣṇa がその宝石を求めるのではないかと恐れて、それを兄弟 Prasena に譲った。そして Prasena の性格は悪かったので、それは彼の死を引き起こした。彼は狩りの最中に獅子に殺されたのである。獅子は宝石を口にくわえて去ろうとしたとき、熊の王 Jāmbavat に殺され、Jāmbavat は宝珠を洞窟に持ち去り、息子 Sukumāra に遊び道具として与えた。Kṛṣṇa は宝石を手に入れるために Prasena を殺したと疑われた。身の潔白を証すために、Kṛṣṇa は宝石を熊の洞窟まで辿り、二十一日続いた Jāmbavat との争いの後、宝石を取り戻した。Jāmbavat はそこで Kṛṣṇa の神性を認め、娘 Jāmbavatī を彼に嫁がせた。宝石は再び Satrājit に返されたが、彼はそのために Śatadhanvan に殺された。Kṛṣṇa は Śatadhanvan にその獲物を手放させることを決意し、彼を追い、死に至らしめたが、宝石は見つからなかった。それは保管のために Akrūra に与えられていたからである。Balabhadra は Kṛṣṇa が自分を欺いていると思い、そのことで弟と争った。

Akrūra はその貴い宝石を五十二年間保持し、その結果あらゆる種類の禍からの免除を享受し、国全体がその恩恵にあずかった。このことから Kṛṣṇa は、Akrūra が宝珠を所有していると推測した。そして全員の集会において Akrūra はそれを認め、Kṛṣṇa に差し出した。しかしそれは Akrūra のもとにとどまるべきであると決定され、彼はその後ずっとそれを光の花輪として公然と身に着けた。— VP.

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