Garrettインド古典辞典

m第一部 サンスクリット語・パーリ語の見出しmahāmagha … mādhavācārya

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mahāmagha 星宿 Maghā の中あるいはその近くでの満月の出現、およびその他の天文学的な出来事。十二年に一度起こり、その時は沐浴に吉祥である。Khumbhakōṇam には大きな貯水池があり、その水は上記の機会に十二年に一度盛り上がると考えられている。そしてそのとき、人々は遠方から大勢集まり、沐浴して罪の赦しを得る。

mahāmāyā pātāla の七つの領域の第一である Atala の王。

mahāmoha 「極度の迷妄」。感覚の享楽への耽溺を引き起こす。霊魂の解脱に対する五種の障害の一つ。あるいは Pātañjala 哲学において呼ばれるところの五つの煩悩の一つ ── Viṣṇu Purāṇa の「五重の無知」である。

mahāyajña-s(五大供犠) 大供犠、大義務、あるいは Sir W. Jones が秘蹟と称するものは、ただ五つである。すなわち、

1. Brahma-yajña、聖なる学習。

2. Pitṛ-yajña、祖霊への灌奠。

3. Deva-yajña、神々への燔祭。

4. Bali-yajña、すべての被造物への供物。

5. Nṛ-yajña、もてなし。

Prajāpati-yajña すなわち子孫の繁殖と、Satyajña すなわち真実の遵守は、どうやら後代の付加である。— WILSON, VP への注.

mahāyuga 四つの yuga すなわち時代の総体。すなわち、

Kṛta yuga4000
Sandhyā400
Sandhyāṃśa400
4800
Tretā yuga3000
Sandhyā300
Sandhyāṃśa300
3600
Dvāpara yuga2000
Sandhyā200
Sandhyāṃśa200
2400
Kali yuga1000
Sandhyā100
Sandhyāṃśa100
1200

人間の一年が神々の一日であるので、これらの神の年に360を掛けて人間の年に換算すると、人間の yuga がそれぞれ成るとされる年数が得られる。

4800 × 360= 1,728,000
3600 × 360= 1,296,000
2400 × 360= 864,000
1200 × 360= 432,000
一 mahāyuga= 4,320,000

それゆえこれらの期間はきわめて単純な要素に還元される。すなわち、4、3、2、1 のような降順の等差数列によって表される、堕落していく系列の四つの時代という観念。単位の千への換算。そしてこれらが神の年であり、それぞれが人間の360年から成るという神話的虚構である。

この考案を何らかの天文学的計算や、実際の年代を表そうとする何らかの試みに帰する必要はないように思われる。— WILSON, VP への注.

mahārāja-s Vallabhācārya 派の首長たちが名乗る称号。この尊大な呼称のほかに、Vallabha Kula、Guru 等の他の識別的な称号をもつ。この宗派の成員は西インドと中央インドに広く散らばっている。この宗派の観念における奇妙な特徴として、Gosāin すなわち首長たちが受ける崇敬はもっぱらその血統に払われ、その神聖さや学識の観念とは結びついていないこと、そして彼らはしばしば個人的な品位へのあらゆる資格を欠いているにもかかわらず、追随者たちの無制限の敬意を享受していることが指摘されてきた。

guru すなわち mahārāj は Kṛṣṇa 自身の化身であり、神と guru とは必ず崇拝されねばならず、信徒は彼に「自らの身体、感覚器官、生命、心、その他の能力、そして妻、家、家族、財産を、自分自身とともに」捧げる義務を負うという教義は、多くの悪をもたらした。この教義の甚だしい濫用は、1861年に Bombay の最高法院で起こった注目すべき裁判、いわゆる mahārāj 名誉毀損事件において明らかになり、当時の Bombay におけるこの宗派の mahārāja の何人かの放埒を暴露した。名誉毀損で訴えられた被告は、この宗派のきわめて尊敬される傑出した成員 Karsandas Mulji 氏であり、彼は土着の新聞において、mahārāja たちに改革し古の Hindu の信仰に戻るよう呼びかける勇気をもっていた。

mahārāṣṭra Mahratta 地方の Purāṇa における名。

mahāroman Mithilā の王の一人で、Kṛtarāta の子。

mahāvanso Pāli 語で書かれた著作。Weber 教授はそれが Kirke の島における Odysseus とその仲間の冒険に類似していると考えている。彼は物語の次の梗概を提供している。Vijaya は、その傲慢のゆえに父である Lāla の王 Sīhabāhu によって追放され、航海の疲れに消耗した700人の仲間とともに Laṅkā に上陸すると、ただちに島の守護神である神 Upaplavanna(Viṣṇu)に出会った。神は、彼らを迎え魔法に対する対抗の呪物を与えるために、帰依者の姿で木の根もとに座っていた。彼らの問いに答えて神は島の名を告げ、水差しの水を彼らに振りかけ、彼らの腕に呪文をかけた糸を結び、姿を消した。その直後、犬の姿をした yakṣa の女の従者が彼らの前に現れた。王子はそうしないよう警告したが、男たちの一人は「犬を見るところには村が期待できる」と独りごちて彼女の後を追った。そしてやがて彼は、その女主人である yakṣiṇī Kuvenī の前に出た。彼女は池の近くの木の下に座って糸を紡いでいた。この池とそのそばに座る女隠者を見ると、彼はそこで沐浴して水を飲み、食べられる根と蓮の花を浮かべた水とを集めた。すると彼女は立ち上がって言った。「汝はわが獲物である。」そこで彼は呪縛されて立ちすくんだ。しかし呪文をかけた糸が彼の手にあったので、彼女は彼を喰らうことができなかった。彼女は糸をくれるよう彼に乞うたが、彼は与えようとしなかった。そこで彼女は彼をつかみ、大声でわめく彼を(Od. X. 241)地下の洞窟に投げ込んだ。そして同様に王子の700人の仲間全員が、次々に一人ずつ捕らえられて洞窟に閉じ込められた。誰も戻って来ないのを見て Vijaya は不安になり、彼らの後を追って、やはりその池に着いた。そこで彼は、出て来た者の足跡が一つもないことを見たが、女隠者を見て彼女に尋ねた。「わが従者たちを見なかったか。」彼女は言った。「王子よ、あなたの従者が私に何の関わりがありましょう。飲んで沐浴なさい。」そこで彼は彼女が yakṣiṇī であることを悟り、跳びかかって彼女をつかみ、言った。「奴隷め、わが従者たちを引き渡せ。さもなくば汝を殺す。」恐怖に打たれて彼女は命乞いをした。「主よ、命をお助けください。あなたに王国を差し上げます。妻としてお仕えし、お望みのことは何でもいたします。」同様の危険が繰り返される危険を避けるために、彼は彼女に誓いを立てさせた(Od. X. 299, 343)。ただちに彼女は彼に従者たちを返し、彼ら全員に豊富な食物等を与えた。彼女はその後十六歳の乙女の姿に変わって王子と結婚した。しかしやがて、Madhurā の Pāṇḍya 王の娘に、自分と同等の位の王妃を得る機会が訪れると、彼は再び彼女を退けた。そして yakṣiṇī は、その裏切りに怒った yakṣa の親族の一人の手にかかって死んだ。*

* Indian Antiquary, 1872年6月.

mahāviṣuva 太陽が Vaiśākha[ママ]の第三度にあり、月が Kṛttikā の頭にあるときの大分点。この時、神々と祖霊に供物が捧げられるべきであり、真摯な人々によって Brāhmaṇa に贈り物がなされるべきである。分点における寛大さは、つねに施主にとって有益である。— VP, p. 225.

mahāvīci 大地の下の naraka の一つの名。

mahāvīra

1. Bhāgavata による Priyavrata の息子の一人。Krauñcadvīpa を割り当てられた者。2. 第七の dvīpa の王 Savana の子。3. Puṣkaradvīpa の一区分の名。

mahāvīra Jaina の第二十四の tīrthaṃkara。彼の最初の誕生は無限に遠い時代に起こり、Vijaya の国のある村の頭領 Nayasāra としてであった。その敬虔さと人間愛は彼を次に Saudharma と呼ばれる天に高め、そこで彼は幾大洋年もの間幸福を享受した。彼は次に最初の tīrthaṃkara Ṛṣabha の孫 Marīci として生まれ、そこから Brahmaloka へ移され、そこから世俗的で官能的な brāhmaṇa として地上に戻った。その結果として彼は同じ caste に繰り返し生まれ、各誕生は Jaina の天の一つで過ごされる期間によって隔てられ、各生涯は幾十万年にも及んだ。それから彼は Rājagṛha の王子 Viśvabhūta となり、次いで Tripṛṣṭha(その項を参照)という名の Vāsudeva となり、次いで cakravartī Priyamatira(その項を参照)となり、次いで帰依の生活を送る Nandana となった。

Nandana の霊が地上に戻ると、それはまず brāhmaṇa の妻の胎を生気づけた。しかし Mahendra はその容器を低い caste として認めず、それを Bharatakṣetra の Rāvaṇa[ママ]の王子で Ikṣvāku の家系に属する Siddhārtha の妻 Triśalā の胎へ移した。Mahāvīra は Caitra 月の白分の第十三日に生まれた。宇宙の五十六人のニンフがその誕生を助け、その聖別は Śakra と他の六十三人の Indra によって行われた。父の与えた名は、富と繁栄の増大をもたらすことから Vardhamāna であったが、Śakra は彼に、人間と神々に対するその力と至上権を意味する Mahāvīra の呼称をも与えた。

Mahāvīra は王子 Samaravīra の娘 Yaśodā を娶った。彼女によって娘 Priyadarśanā をもうけ、彼女は聖者の弟子の一人で分派の創始者である王子 Jamāli に嫁いだ。Siddhārtha とその妻は息子が二十八歳のときに死に、そこで Mahāvīra は苦行の生活を選び、政権は兄 Nandivarddhana に移った。家での十年の禁欲と克己の後、彼は遍歴の生活と Jina の位の達成とを始めた。

その遍歴の最初の六年の間、Mahāvīra は数か月に及ぶ断食を頻繁に守り、そのそれぞれの間、眼を鼻の先に据え、絶えざる沈黙を保った。彼には Siddhārtha という名の Yakṣa が目に見えずに付き添い、Indra の命によってその身の安全を見守り、言葉が必要なところでは代弁者を務めた。旅の間に、彼は Gośāla という名の奇妙な追随者を得た。低い caste の男で、一種の道化役を務めた。

Jaina の苦行者の義務は自らに責苦を加えることではない。その苦行の行程は克己、断食、沈黙のそれである。そして苦痛は、その忍耐がいかに功徳あるものであっても、自分によってではなく他人によって加えられねばならない。Mahāvīra は自ら進んで種々の野蛮な部族の手による虐待に身をさらし、何の抵抗もせず、むしろその苦しみを喜んだ。第九年の終わりに、彼は Gośāla の発した問いに答えて沈黙を破ったが、禁欲の実践と遍歴の生活に従事し続けた。

十二年と六か月の間に彼は kevala、すなわち唯一の知識に達した。これは Ṛjupalikā の北岸の sāl 樹の下で起こった。Indra はただちに幾千の神々を伴ってその場に急ぎ、彼らはみな聖者に礼拝した。彼は神々がその目的のために設けた壇の上で教えを始めた。その模型は Jaina の寺院にしばしば表されている。以下は、その伝記作者によって Mahāvīra に帰せられる最初の講話である。

「世界は恐るべき大洋のように果てがない。その原因は行為(karma)であり、それは樹の種子のようなものである。身体を具えながら判断を欠く存在(jīva)は、その行う行為によって、井戸を掘る者のようにつねに下へと進む。一方、清浄に達した身体化された存在は、自らの行為によって、宮殿を建てる者のようにつねに上へと進む。行為の束縛に縛られている間、誰も生命を傷つけてはならない。むしろ他者の生命を自らのそれと同様に熱心に慈しめ。誰も決して虚偽を語ってはならず、つねに真実を語れ。身体の形をもつ者はみな、自分自身にと同様に他者に苦痛を与えることを避けよ。誰も与えられていない財を取ってはならない。富は人の外的な生命のようなものであり、そのような富を奪う者はいわば殺人を犯すのである。女と交わるな。それは生命の破壊であるから。賢者は禁欲を守れ。それは彼らを至高者に結びつける。家族を背負うな。それが伴う心配によって、そこから離れた者は荷を重く負いすぎた牛のように倒れるから。もし生命のこれらのより微細な破壊者を避けることが自らの力に及ばないならば、そう望む者は、少なくともすべての粗大な罪を犯すことを避けよ。」

Mahāvīra の名声が広く行き渡り始めると、それは Magadha の brāhmaṇa たちの注意を引き、彼らの最も傑出した師の何人かが彼の教義を論駁することを企てた。しかし彼らはその目的を果たす代わりに改宗者となり、Mahāvīra の弟子であり、口頭と文書の両方による彼の教義の教師である、彼の gaṇadhara すなわち学派の長を成した。

解脱の時が来ると、Mahāvīra は息を引き取り、その身体は Śakra その他の神々によって焼かれた。神々は、歯と骨のように炎に焼き尽くされなかった部分を自分たちの間で分け、遺物として保存した。火葬の薪の灰は参列者の間で分けられた。神々はその場に壮麗な記念碑を建て、それからそれぞれの天に帰った。— WILSON, Works, Vol. I, p. 304.

mahāvīrya

1. Mithilā の王の一人である Bṛhaduktha の子である王子。2. Bharata の子孫 Bhavanmanyu の子。

mahāsvāt Rāma の子孫 Amarṣa の子である王子。

mahika-s, or mahiṣa-s Mysore の住民の古名と考えられている。

mahiṣaka-s Mysore の人々の古名。

mahiṣāsura 悪鬼の長。すべての神々を打ち負かし、楽園から追放した。こうして人間のように地上をさまようことを強いられた神々は、Brahmā、Viṣṇu、Śiva に頼った。三神は悪鬼の大胆さに最大の憤りに満たされた。このような激怒の状態にあるとき、彼らの顔から火の光が発した。同様の光すなわち力が、同時に他のすべての神々からも発した。すべての神々の身体から流出したこの前代未聞の力は、集中によって一人の女性を生み出し、彼女はその輝きで三界を満たした。これが Durgā すなわち Devī であった。神々は彼女に武器を与えた。こうして生み出され装備されると、彼女は獅子に乗って悪鬼を攻撃した。悪鬼は怒り狂って進み出て、種々の姿をとり、あるときは象に、あるときは水牛になった。女神は獅子の助けを借りて彼と戦い、短い争いの後にその首を切り落とした。

女神と Mahiṣāsura とのこの争いは、Bengal において Durgā-Pūjā と呼ばれる祭りで毎年記念されている。*

* Mārkaṇḍeya Purāṇa, Rev. K. M. BANNERJEA 著.

mahī 西 Mālwā の Mahy 河。

mahīdhara Devadatta(その項を参照)の子。

mahīnasa 十一 Rudra の一人。

mahendra

1. Bhārata の七つの主要な山脈の一つ。Mahendra は Orissa と北 Circars から Goṇḍvānā に延びる丘陵の連なりであり、その一部は Gañjam の近くで今なお Mahendra Malei、すなわち Mahendra の丘と呼ばれている。2. 天の海豚の尾にある星の名。3. Purāṇa に言及される河の名。

mahendrī and māheśvarī Śakti、すなわちそう称される八人の女神のうちの二人。酒と血の供物によって宥められる恐るべき破壊の神格 Bhairava として Śiva が現れるとき、彼に侍る。

maheya-s Mahī 河の近くに住む人々。

maheśvara Śiva の名。「大いなる主」。

mahodaga Triśaṅku のために Viśvāmitra によって布告された aśvamedha に出席することを拒んだ隠者。その結果、苦しみの光景にも動じず生命を滅ぼすことを楽しむ猛々しい猟師に変えられた。— Iliad of the East, p. 67.

mahodara Rāvaṇa の顧問の一人で、智慧によって際立っていた。Rāvaṇa の助けに来るよう Kumbhakarṇa を促したのは彼であった。

mahyuttara-s Mahī 河の北の民。

māgha 中央 avasthāna の Āśarbhī における月宿。

māgha 12月に相当する太陰月の一つの名。

māṇḍakarṇi Rāmāyaṇa に言及される敬虔な聖仙。その大いなる長く続いた苦行によって、ほとんど神々の間の地位にまで自らを高めていた。しかし神々は五人の「最も愛らしいニンフ」を遣わし、

「誘いて、
大いなる隠者をその厳しき誓いより引き離さしめぬ。
地と天の学を知りたれど、
隠者は彼女らによりてその務めより引き出され、
大いなる苦行者は、神々を救わんがために、
征服する愛の奴隷とされぬ。
天の五人のそれぞれは
聖者に結ばれ、その妻となりぬ。」*

(pañcāpsaras の項を参照)

* GRIFFITHS, Rāmāyaṇa. Vol. III.

māṇḍavī 王 Janaka の第三の娘。Daśaratha の第三子で Rāma の弟である者[ママ]に嫁いだ。

māṇḍūkeya Ṛgveda の教師で、Indrapramati の子。Indrapramati は自らの Saṃhitā を息子に授け、それはそこから相次ぐ世代と弟子たちを通じて伝わった。

mātaṅga

1. Daśakumāra に言及される brāhmaṇa。別の brāhmaṇa の命を守ろうとして殺された。霊魂の都に着くと、Yama は Citragupta に言った。「この男の時はまだ来ていない。彼は brāhmaṇa を守って死んだ。その一つの徳ある行為が彼の以前のすべての罪を消す。悪人に支払われる罰を見せてから、彼を元の身体に戻せ。」生き返ると、彼の冒険はさらに注目すべきものであった。森で出会った王子に助けられて、彼は pātāla への道を突き進んだ。都の近くに着くと、彼は自ら用意した火の炎に身を投じ、天使の姿で再び立ち上がった。豪華に装い多くの従者を伴った一人の乙女が来て、自分の名は Kālindī、asura の王の娘であり、会議の同意を得て、王国と自分自身とを双子の妻[原文 twin wives、ママ]として彼の妻に差し出すために来たと言った。Mātaṅga は彼女を娶り、pātāla の王となった。— WILSON, Works, Vol. IV, p. 174. 2. Ṛṣyamūka の森に住んだ聖仙。猿の王 Bāli を呪い、死の罰をもって二度とその森に入らないよう命じた。Bāli が巨人 Dundubhi を殺した後その死骸をそこに投げ込み、その血が聖仙の庵を汚したからである。それゆえ Sugrīva はこの森を住まいとした。そこでは兄 Bāli の怒りから安全であると知っていたからである。

mātali Indra の御者。Indra が Yayāti を天に招いたとき、彼を運ぶために遣わされたのは彼であった。Padma Purāṇa は王と Mātali との間に交わされた哲学的な会話を語っており、そこではすべての身体的存在の不完全さと、生のあらゆる状態の不完全な幸福とが論じられている。これらの属性は神々自身にさえ属すると言われる。というのは、彼らは病に冒され、死を免れず、欲望と怒りの情念によって辱められ、それゆえ不完全と不幸の例だからである。次いで悪徳の種々の段階が記述され、その防止あるいは贖罪は Śiva あるいは Viṣṇu の崇拝であると宣言される。両者の間には何の違いもなく、彼らはただ一つであり、実に Brahmā もまたそうである。というのは「Brahmā、Viṣṇu、Maheśvara は三神ではあるが一つの形である。三者の間には何の違いもない。違いは属性のみのそれである」からである。yayāti の項を参照。[Supplement より→]Mātali は、Rāvaṇa との最後の戦いの前に、Indra の勝利の車とともに Rāma のもとへ遣わされる天の御者である。悪鬼の頭ではなく心臓を狙うよう Rāma に告げ、こうしてその破滅をもたらしたのは Mātali であった。

mādrī Pāṇḍu の妻の一人で、天の双子の息子 Aśvinī による Nakula と Sahadeva の母。

mādhava Kṛṣṇa の名。その祖先の中に挙げられる Matha からの父称として派生したか、あるいは「Madhu を殺す者」Madhusūdana と同等とみなされうる。

mādhava-s Vṛṣa の子 Madhu の子孫である部族の名。

mādhava-madhu Veda に現れ、今では廃れた体系に属する二つの月の名。太陰月 Māgha と Phālguna、すなわち12月と1月[ママ]に相当する。

mādhavācārya Brahma Sūtra における Vyāsa の体系、および Bhagavad Gītā の最後の部分に含まれる体系に反対する哲学学派の創始者。神的存在と人間の霊魂(paramātmā と jīvātmā)とは二つであり、別個で異なると主張した。それゆえ彼の体系は dvaita(二元論)として語られる。それは Rāmānujācārya によって復興され、今日ではすべての大きな共同体にある程度行き渡っていることが見出される Sātvata と称される体系によく似ている。sātvata の項を参照。[Supplement より→]14世紀の初めに生きた。Vijayanagar の最初期の首長の一人の大臣であった。その Digvijaya は高い文学的・論争的な抱負をもつ作品であるが、伝記的価値は同等に高くはない。— WILSON, Works, I, p. 198.[以上二項の内容には Madhva と Mādhava(Vidyāraṇya)の混同がある、ママ]

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