manmatha インドの Cupid の名。Viṣṇu の子で、Kāma(その項を参照)とも呼ばれる。彼は人間と天上の者の双方における、とりわけ女性における官能的な愛の原因として表される。一方その妻 Rati は男性において火を燃え立たせる ── 古の Venus のように。
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manmatha インドの Cupid の名。Viṣṇu の子で、Kāma(その項を参照)とも呼ばれる。彼は人間と天上の者の双方における、とりわけ女性における官能的な愛の原因として表される。一方その妻 Rati は男性において火を燃え立たせる ── 古の Venus のように。
manvantara 四 yuga に含まれる年数の七十一倍に、いくらかの付加年を加えたものに等しい期間。これが Manu、(随伴する)神々その他の存続期間であり、付加期間を除いて神の年の852,000年、すなわち人間の年の306,720,000年に等しい。この期間の十四倍が Brahmā の一日、すなわち Brahmā の昼、あるいは一 kalpa を成す。
maya 強大な dānava。Vajrakarna と Mahodarī の父としていくらか知られている。
mayodaya Kanauj(その項を参照)の都の古名。
marīci
1. Prajāpati の一人で、九人の brahmarṣi すなわち Brahmā の心から生まれた息子の一人。Dakṣa の娘の一人 Sambhūti(適合)を娶った。その子 Kaśyapa は広大な子孫をもった。2. Marut すなわち人格化された風の長。
marīcigarbha-s 第九 manvantara に属する神々の一部類。
marīcipa-s or māṣa-s 隠者の生活を送る「神的な種の」超自然的存在の二つの部類。
maru
1. Rāma の子孫 Śīghra の子。Viṣṇu Purāṇa によれば、Maru は帰依(Yoga)の力によって Kalāpa と呼ばれる村に今なお生きており、未来の時代に太陽王朝における kṣatriya 種族の再興者となるであろう。2. Mithilā の王 Haryaśva の子の名。
marut-s(風神群) 風。Diti の息子たち。Diti は子供たちを失うと、Indra を滅ぼすであろう抗しがたい武勇の息子を祈り求めた。muni Kaśyapa は妻が求めた大いなる恩恵を授けたが、一つの条件を付けた。すなわち彼女は百年の間身ごもり、その全期間にわたってすべての宗教儀礼の厳格な遵守を保たねばならない、と。Indra は彼女の意図を挫く機会を窺い、その百年の最後の年に機会が訪れた。Diti はある夜、定められた足の沐浴を行わずに床に就いて眠り込んだ。そこで Indra は彼女の胎内の胎児を七つに分けた。このように切り刻まれた子はひどく泣いた。Indra はそれを黙らせることができず、七つの部分のそれぞれを再び七つに分け、こうして Marut(風)と呼ばれる速く動く神々を形成した。彼らは、Indra が彼らに語りかけた言葉(mā rodīḥ、泣くな)からこの呼称を得て、雷電を振るう者の仲間である四十九の従属神となった。— VP. Wilson 教授によれば、この伝説は Kaśyapa の家系の記述が語られるすべての Purāṇa に現れる。Viṣṇu Purāṇa は別の箇所で、風は Marutvatī の子供たちであると言う。Marut は Bharata に Bharadvāja(その項を参照)という名の息子を与えたと言われる。下位の神々の中で、公然と Indra に従属する一群が崇拝の重要な分け前を享受している。それは明白な寓意を含み、蒼穹と自然に結びつけられる Marut すなわち風である。実際われわれには Vāyu という風の神がいるが、彼についてはほとんど語られず、それも主として Indra と結びついてであり、Veda の注釈者たちは彼を Indra と同一視している。それに反して Marut は、Indra の従者かつ同盟者として、Vṛtra との戦いにおいて彼と連合し、その奮闘を助け励ます者としてしばしば呼びかけられる。彼らは Pṛśni すなわち大地の息子たち、また Rudra すなわち Rudra の息子たちとも呼ばれる。その親子関係の意味はあまり明らかでないが、疑いなく寓意的である。彼らはまた時に Agni とも結びつけられる。これは火に対する風の作用を表す明白な比喩である。彼らはもともと死すべきものであったが、Agni を崇拝した結果不死となったともほのめかされている。これもまた説明は容易である。雨の産出における彼らの分担と、その猛々しく性急な本性とは、物理的現象の比喩的表現である。— WILSON.
marutta
1. Avikṣit の子で、名高い Cakravartī すなわち世界帝王。あるサンスクリットの詩句はその事業の壮麗さを次のように述べている。「Marutta の供犠に等しい供犠は、地上でかつて見られたことがない。すべての道具と器具は金で作られていた。Indra は soma の汁の灌奠に酔い、brāhmaṇa たちは受けた壮麗な施しに恍惚となった。天の風は護衛として儀礼を取り巻き、集まった神々はそれを見るために参列した。」Mārkaṇḍeya Purāṇa によれば、Marutta は85,000年統治した。2. Turvasa の子孫 Karandhama の子。
marut-loka 風と vaiśya の天。
marutvatī Dharma に嫁いだ Dakṣa の娘の一人。
marudeva Ikṣvāku の子孫 Supratītha の子である王子。
marubhauma-s Marubhūmi すなわち砂漠の住民。Sindh の砂漠を占める原住部族。
marka asura の祭官の一人。通常 Śaṇḍa(その項を参照)と結びつけられる。
marttikavata-s Mṛttikāvatī の王子たち。
marṣṭi, marṣṭimat Vasudeva の家系の Śaraṇa の息子のうちの二人。
malada-s, malaja-s, mala-s Purāṇa に列挙される民族。ただし満足のいくようには同定されていない。
malaya Bhārata の七つの主要な山脈の一つ。西 Ghāṭs の南部。
malaya-s 南 Ghāṭs の原住部族。
malina Puru の子孫 Tansu の子。
malla-s Bhīma の digvijaya(四方征服)においては、この名の民が二つ見られ、いずれも東方にある。一方は Himālaya の麓に沿い、他方はさらに南にある。
mallarāṣṭra Purāṇa において Mahratta 地方に与えられた名。
mahat(大) 知性。pradhāna の最初の産物であり、単なる人間の器官にではないが神的な器官には知覚しうるもので、Sāṃkhya と Purāṇa の教説の双方によれば、mahat、字義どおりには「大いなるもの」と呼ばれる原理である。「諸性質の顕現の産出」と説明される。mahat すなわち大いなる原理は、創造された原理の最初のものであり、その広がりが他よりも大きいことからそう称される。Mahat はまた、万物に対して至上権をふるうことから Īśvara とも呼ばれる。Purāṇa は一般に創造の行為を mahat すなわち知性に帰する。それゆえ Mahat は創造的働きにおける神的な心であり、Anaxagoras の νοῦς ὁ διακοσμῶν τε πάντων αἴτιος、すなわち万物の原因である秩序づけ配置する心である。WILSON, VP への注, p. 15 を参照。
mahantu Dhīmat の子である王子。Svāyambhuva manvantara の間に生きた。
maharloka 天の霊の天、聖者たちの領域。Dhruva の上一千万リーグの距離に位置する。その住人は一 kalpa すなわち Brahmā の一日の間そこに住む。敬虔で際立つ者は、解体の時に、pitṛ、Manu、七 ṛṣi、天の霊の種々の位階、神々とともに maharloka にとどまる。それから kalpa の終わりに、世界を滅ぼす炎の熱が maharloka に達すると、住人は微細な姿で janaloka へ赴く。彼らは、次の kalpa の始めに世界が新たにされるとき、以前と同様の資格で再び身体を得るよう定められている。これは Brahmā の生涯を通じて続く。彼の生涯が満了すると、すべては滅ぼされる。しかしこのように霊において至高者と自らを同一化することによって Brahmaloka の住まいを得た者は、最後には唯一存在する Brahmā へと溶解される。WILSON, VP への注, p. 633 を参照。
mahājvāla naraka の一つの名で、近親相姦の罪が罰せられるところ。
mahātala pātāla の七つの区分の第五。砂の土壌をもち、壮麗な宮殿で飾られ、そこには多数の dānava、daitya、yakṣa、大蛇神が住む。
mahādeva (Rudra の一人)。Rudra の第八の顕現の名。Wilson によれば、この記述はどうやら Śaiva あるいは Yogī の神秘主義に基づいている。2. Śiva の名。
mahān 十一 Rudra の一人。
mahānadā Orissa の河。
mahānandī Magadha の十人の Śaiśunāga 王の一人で、Nandivardhana の子。
mahānābha 大いなる武勇の daitya で、Hiraṇyākṣa の息子の一人。
mahānīla 強大な多頭の蛇。Kadrū の子孫の一つ。
mahāpadma
1. Mahānanda の子である王子。その名は Nanda であったが、著しく貪欲であった。彼は śūdra の女から生まれ、彼の後、地上の王はすべて śūdra となるべきであった。Paraśurāma と同様に、彼は kṣatriya の種族を絶滅させようと努め、全地を一つの傘の下にもたらした。彼とその子孫は九 Nanda と称され、百年間君臨した。その時、王朝は brāhmaṇa Kauṭilya(Cāṇakya および Cāṇaki とも呼ばれる)によって覆され、彼は Candragupta を王座に即けた。(Mudrā-Rākṣasa; Hindu Theatre, Vol. II を参照。)2. Kadrū の子孫の一つである強大な多頭の蛇の名。3. 大地を支える四頭の象の一頭。通常、南方の度量広き Mahāpadma と称される。virūpākṣa の項を参照。
mahāpuruṣa 偉大なあるいは至高の霊。puruṣa は身体のうちにとどまる、あるいは静止しているもの、すなわち身体化された霊を意味する。それは Viṣṇu に用いられる名であり、Viṣṇu は種々の哲学体系によって認められるいかなる形態の霊的存在でもある。彼は Vedānta の Brahmā、Pātañjala の Īśvara、Sāṃkhya 学派の puruṣa である。
mahābali Bali の名。その項を参照。
mahābhadra その水が神々にあずかられる四つの大湖の一つ。Bhāgavata はそれを蜜の湖と呼ぶ。
mahābhārata この巨大な叙事詩は、おそらく Rāmāyaṇa よりも年代が新しく、約220,000の長い行から成り、単一の主題をもつ詩というよりもむしろ Hindu の神話、伝説的歴史、哲学の百科全書である。それは十八巻に分かれ、そのほとんどすべてが一冊の大部の書を成すであろう。そして全体は国民的伝説の広大な宝庫であり、Vyāsa(Veda と Purāṇa の編纂者と想定される者)によって集められ配列されたと言われる。その名は「合わせる」あるいは「配列する」を意味するサンスクリットの動詞に由来する。
以下は主筋の概略である。もっともこれは作品全体の五分の一をわずかに超えるにすぎず、あらゆる種類の主題に関する数多くの挿話と脱線が詩全体を通じて散りばめられている。
インドの伝説的歴史によれば、北方にはもともと二つの王朝が支配していた ── 太陽王朝と月王朝と呼ばれ、その下で多くの小君主が権力を保持し、これらに忠誠を誓っていた。Ikṣvāku に始まり Oude に君臨した太陽の家系の最も名高い者は、Rāmāyaṇa の Rāma であった。この王朝のもとで、Brāhmaṇa の体系は、より北の地方の月の王たちのもとにおけるよりも速やかかつ完全に優位を得た。北の地方では、武勇の部族の新たな到来が、すでにそこに定住していた住民の間に独立の気風を保たせたのである。
Hastināpura すなわち古の Delhi に君臨した月の種族の最も名高い者は Bharata であった。その権威はインドの大部分に及んだと言われ、彼にちなんで、インドは今日に至るまで土着民によって Bhāratavarṣa(Bharata の国すなわち領土)と呼ばれている。この Bharata は Kuru の祖先であり、Kuru から二十三代目の子孫が brāhmaṇa Kṛṣṇa Dvaipāyana Vyāsa(Mahābhārata の作者と想定される者)であった。彼には二人の息子、Dhṛtarāṣṭra と Pāṇḍu があった。前者は盲目であったが、弟 Pāṇḍu が政権を退いたときにそれを引き受けることに同意し、自分の百人の息子とともに、弟の息子とされる五人を教育することを引き受けた。これら五人の息子は、第一に Yudhiṣṭhira(すなわち「戦いに堅固な」)、第二に Bhīma(すなわち「恐るべき」)、第三に Arjuna(すなわち「まっすぐな」)、第四に Nakula(すなわち「マングース」)、第五に Sahadeva(すなわち「絡みつく植物」[ママ])であった。
最初の三人は Pāṇḍu の妻 Pṛthā すなわち Kuntī から生まれたが、実は三柱の神、すなわちそれぞれ Dharma、Vāyu、Indra による彼女の子であった。後の二人は彼の妻 Mādrī の、Aśvinī-Kumāra すなわち太陽の「双子の息子」による子であった。しかし Pāṇḍu がこれらの王子を自分の息子と認めたので、その誕生への異議は彼の範例によって退けられた。Pāṇḍu(すなわち「青白い者」)はおそらく癩者であり、それゆえ継承の資格がなかった。
系譜をより明確にするために、M. Williams 教授が作成した表の形で示しうる。
五人の Pāṇḍava の性格は大いなる芸術的繊細さをもって描かれ、詩全体を通じて一貫して保たれている。長兄 Yudhiṣṭhira は正義、誠実、騎士的な名誉と堅固さの鑑である。Bhīma は獣的な勇気と力の典型であり、巨大な背丈で、性急で怒りっぽい。しかし彼は温かく無私の愛を抱くことができ、母と兄弟たちに献身的な情愛を示す。この詩の主要な英雄である Arjuna は、不屈の勇気をもつ人物として、同時に寛大で、慎み深く、心優しい人物として表されている。そのうえ超人的な力をもち、武器と体技において比類がない。Nakula と Sahadeva は愛想がよく、心高貴で、気概がある。五人はみな、一般に Kuru の王子たちすなわち Kaurava と呼ばれる Dhṛtarāṣṭra の百人の息子とはおよそ似ても似つかない。後者は卑しく、意地悪く、不名誉で、邪悪なものとして表されている。従兄弟たちは性格がかくも相容れないにもかかわらず、Hastināpura で Droṇa という名の brāhmaṇa によって共に教育された。Droṇa は Pāṇḍu の王子たちのうちに有能な弟子を見出した。教育が終わると盛大な武芸大会が催され、そこで従兄弟たちは弓術、車と馬の扱い等における技量を披露する。とりわけ Arjuna は力と技の驚異によって際立つ。しかし突然 Karṇa という名の見知らぬ者が競技場に入り、同じ芸を演じた後、Arjuna に一騎打ちを挑む。しかし各闘士は自らの名と系譜を告げねばならず、Karṇa の親は疑わしかった(彼は実は Pṛthā の Sūrya(太陽)による庶子であり、したがって Arjuna の異父兄であった)ので、彼は闘技場から不名誉に退かざるをえない。こうして公に辱められた Karṇa は彼らの敵である Kuru の党派に加わり、彼らに重要な奉仕をなす。この競技の結果に激怒した Kuru は、Pāṇḍava の家に火を放つことによって彼らを滅ぼそうと努める。しかし彼らはその意図を警告されて、地下道を通って森へ逃れる。まもなく、托鉢の brāhmaṇa に変装して、彼らは Pāñcāla の王 Drupada の娘 Draupadī の svayaṃvara に赴く。Arjuna は体技の技量を示すことによって愛らしい王女の寵を得、王女は彼の花嫁となる。Drupada の同盟によって強化され、Pāṇḍu の王子たちは変装を脱ぎ捨て、王 Dhṛtarāṣṭra は、王国を彼らと自らの息子たち Kuru との間で分割することによってすべての相違を解決するよう説き伏せられる。しかし Yudhiṣṭhira はその後、骰子によって全領土を賭けて失う。そこで兄弟たちは十二年間変装して森で過ごし、その後戦争が再開される。Guzerat の Dvārakā の王 Kṛṣṇa(Viṣṇu の化身)が、Arjuna の御者として Pāṇḍava に加わる。敵対する両軍は Delhi 近くで相まみえる。十八日間続く戦いは Pāṇḍava の勝利に終わり、彼らはその所領を回復し、長兄は王座に昇る。Duryodhana とすべての Kuru は争いの中で殺される。
こうして分割されていない Hastināpura の王国は Pāṇḍu の息子たちの所有となった。しかし彼らは自らの野心が引き起こした恐ろしい殺戮をいたく悲しんだので、その権力を退いた。彼らの名高い同盟者 Kṛṣṇa ── Dvārakā の都を建てる以前に、一族の座である Mathurā(Muttra)から追放されていた ── は茂みの中で誤って殺され、その息子たちは父祖の所領から追われて Indus の彼方に避難所を求めた。* bhagavad gītā、pāṇḍavas、arjuna 等の項を参照。[Supplement より→]Mahābhārata は三重の側面のもとにみなしうる。歴史的性格の出来事を語る作品として。神話的・伝説的伝承の記録として。そしてとりわけ武士の caste が、この世におけるその福祉と来世におけるその至福とに関わるあらゆる事柄についての教えを得るべき源泉として。
Mahābhārata は Hindu の歴史の初期の時代の伝承的記録である。しかしそれは Brāhmaṇa caste の傑出した人々によって編纂され、彼ら自身の特別の目的、すなわち kṣatriya すなわち武士の caste に彼ら自身の法を課すという目的に適うよう彼らによって形づくられたものである。この大叙事詩の建造物は一度に築かれたのではない。異なる時代がそれに異なる材料を供給し、その目的の重要性とともに、その仕事の大きさも増した。
Mahābhārata に語られるすべての伝承のうち、一見して Draupadī の五人の夫との婚姻ほど Brāhmaṇa の宗教の精神に反するものはない。一妻多夫は Brāhmaṇa の法典にも、われわれがその文献から知るかぎりの Hindu の習慣にも、決して場所を見出さなかった。そしてそのまったくの不快さにもかかわらず、それがほかならぬ古代叙事詩の英雄たちに帰せられたのであれば、それが真の歴史の一片であることを認める以外に選択肢はなかったように思われる。
しかしもし Draupadī のこの婚姻が実際の出来事であるならば、それはただちに Pāṇḍava の生涯を Hindu の古代のきわめて遠い時期へと投げ入れ、Hindu 法の最古の代表者である Manu のみならず、インドの古代法の基礎となっている Āśvalāyana その他の Veda の著作さえも後に置き去りにする。この戦争の歴史に記録された他の事実で、同様にこの法と食い違いながら、Mahābhārata の編纂者たちによって抑えられなかった、あるいは抑えることのできなかったものがないかどうかは、なお見られるべきである。もしあるならば、それらはわれわれの引き出した結論をいっそう強く裏づけ、記録そのものの年代と歴史的信頼性を検証する基準を示すであろう。
そのような事実のいくつかを挙げてよかろう。caste の制度は、Muir 氏がその優れた著作において証明したように、最初期の Veda 時代には存在しなかった。しかしそれは Manu の法典が作られた時代には完全に確立され、厳格な規則によって囲まれていた。Veda 時代には、たとえば Viśvāmitra のような戦士が brāhmaṇa の職業を志すことができ、Vasiṣṭha あるいは Jamadagni の子のような brāhmaṇa が軍事に従事することができた。Manu の時代には、正統な Hindu の言うところのそのような職業の混同はもはや許されず、それは Hindu 教の最も後の時代にのみ再び現れる。しかし大戦の歴史においては、brāhmaṇa の Droṇa が Kaurava と Pāṇḍava の軍事教官であるのみならず、Drupada に対する戦争に積極的に従事しているのが見られる。また彼が Pāñcāla 王国の半分の王であり、最後には Kaurava の総大将の一人であるのも見られる。
caste の確立の後にはきわめて好ましからぬものであったにちがいないが、叙事詩から除去することのできなかったもう一つの事実は、Pāṇḍava の変装である。「より高い caste を偽って誇ること」は、Manu がきわめて重大とみなし、brāhmaṇa の殺害と同列に置く罪である。そして偽称者の成功の可能性ほど caste の保持にとって大きな危険はありえなかったであろう。しかしすでに見たように、大叙事詩の主要人物である Pāṇḍava は、kṣatriya でありながら brāhmaṇa の性格を装い、Drupada の武芸大会においてさえそれを保っている。また Yudhiṣṭhira は、王 Virāṭa に仕えることを申し出るときに、二度目に同じ「より高い caste を偽って誇ること」に訴えている。もしそのような危険な先例を抑えることが可能であったならば、国民的伝承の Brāhmaṇa の配列者たちが、kṣatriya に教え込もうと決意していた法の、首尾よき違反者として自らの軍事英雄を掲げることはなかったであろうことはほとんど疑いない。
婚姻と相続の法に関わる出来事は、Mahābhārata の章句のもう一つの部類を成し、描かれた出来事が歴史的であり Hindu 社会の古典的状態より以前のものであったにちがいないことを力強く証明している。またそれらの章句に述べられた出来事が Manu と立法者たちによる革新であると想定することもできない。事実はその反対である。それらを批判し、その権威を退けるのは Manu である。Vicitravīrya の例、および亡き親族のために子をもうけるために採られた方法においてそうである。Manu はその慣行が存在したことを認めるが、それを強く非難している。
Manu によって述べられた婚姻法と、Mahābhārata のいくつかの章句に言及されたそれとの比較は、同様の推論へと導く。Manu は、少女が自ら夫を選ぶ権利を、父がしかるべき時に彼女を嫁がせなかったという条件に限っている。叙事詩においては、少女はしばしば父が彼女を嫁がせる前に夫を選ぶ。この様式は svayaṃvara すなわち自選と呼ばれた。それは Pāṇḍu と Pṛthā、Nala と Damayantī 等の婚姻において守られているのが見られ、Draupadī が Arjuna を選ぶときにはその完全な描写がある。女性のこのより大きな自由は、いくつかの Veda の讃歌から判断すれば Veda 時代に彼女たちが社会において占めていたにちがいない地位とは一致するが、Manu の時代には無縁である。svayaṃvara のような特権は Manu の法典には言及されていない。
Mahābhārata には ── そのかなりの部分を占める ── Manu の法典より以前の Hindu 社会の状態が描かれた部分があることを示すには、以上で十分である。そしてそれらの部分を調査すれば、この社会は、この古代の法典に映し出された社会と、実定法に関してのみならず、慣習と道徳においても異なることが示されるであろう。*
* Williams, Indian Epic Poetry.
* GOLDSTÜCKER, on Hindu Epic Poetry, Westminster Review, 1868年4月より要約。
mahābhoja Sātvata の子である敬虔な王子。その名は時に Mahābhāga と読まれる。