d第一部 サンスクリット語・パーリ語の見出しdakṣa … damodas
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dakṣa Brahmā の親指から生まれた名高い Prajāpati。族祖たちの長であった。妻 Prasūti との間に二十四人の娘があり、さらに二十七人の娘があって、彼女たちは後に月宿として星に化せられた。Vāyu Purāṇa には、Dakṣa が捧げた大供犠の完全な記述がある。その娘の一人 Satī は Śiva に嫁いだ。しかし Dakṣa はその少し前に Śiva に腹を立てていたので、彼女もその夫も供犠に招かれなかった。それでも Satī は出席し、侮辱を受けると供犠の炎に身を投じて死んだ。*
* それゆえ近代において、夫の遺体とともに縛られることに同意する寡婦は satī と呼ばれる。一般的な語 suttee は、焼くという行為ではなく、焼かれる女を指す。
Śiva は激怒し、髪の一房を引き抜いて激しく地に投げつけた。それは千の手をもつ Vīra Bhadra の姿となって跳び上がり、Śiva は彼を供犠を破壊するために遣わした。彼はそれを行い、ある記述によれば Dakṣa の首を切り落とした。Viṣṇu Purāṇa によれば、Vīra Bhadra は Śiva の口から造られた、運命の火のような存在であり、千の頭、千の足等をもつ神的存在であった。しかし Satī が火に身を投ずるとするのは Kāśī Khaṇḍa のみであり、Wilson 教授はこれを後代を示す改変と考えている。他の伝説では、彼女は父との口論のゆえに自害したとされている。Vīra Bhadra が供犠に干渉してそれを破壊した振る舞いは、居合わせた神々の不興を買い、彼らはそれを Brahmā に訴えた。そこで Brahmā は彼らとともに Śiva のもとへ赴き、Dakṣa のためにとりなした。Śiva はそこで自ら騒乱の場に赴き、Dakṣa を蘇生させた。その首は見つからなかったので、雄羊の首で置き換えた。この折の Rudra たちの所業は、Kūrma および Bhāgavata Purāṇa に詳しく特記されている。Indra は打ち倒されて踏みつけられ、Yama は杖を折られ、Sarasvatī と Mātṛ たちは鼻を切り落とされる。Mitra あるいは Bhaga は眼をえぐり出され、Pūṣa は歯を喉へ打ち込まれ、Candra は殴りつけられ、Vāhini は手を切り落とされ、Bhṛgu は鬚を失い、brāhmaṇa たちは石を投げつけられ、Prajāpati たちは打たれ、神々と半神たちは剣で貫かれ、あるいは矢を突き立てられる。他の記述では、Dakṣa 自身が三叉戟を持つ強大な神 Maheśvara の心を和らげたとされている。」— VP.
「Dakṣa の供犠は、その歴史的・考古学的関連から、いくらか興味深い伝説である。それは明らかに、Śiva の崇拝者と Viṣṇu の崇拝者との間の抗争を示唆することを意図しており、その抗争において初めは後者が、しかし最後には前者が優位を得た。それはまた、少なくとも Śaiva 派の Hindu にとっては Hindu 彫刻の好んだ主題であり、Elephanta と Ellora の両方において目立った姿を見せている。前者における Vīra Bhadra による神々と聖仙の追い散らしと切断の表現が、Archaeologia, VII, 326 に公にされており、そこではそれが Solomon の裁き[ママ]として記述されている。Vīra Bhadra の像は Niebuhr, Vol. II, tab. 10 に、群像全体は Bombay Transactions, Vol. I, p. 220 に掲げられている。それゆえ Dakṣa の伝説は、これらの石窟寺院が開鑿された時代に流布していたのである。」— VP.
Mrs. Manning は言う。「Dakṣa は影の薄い神である。」彼は Āditya として Aditi の息子の一人である。
「Dakṣa は Aditi から生まれ、Aditi は Dakṣa から生まれた。Ṛgveda においては、Mitra と Varuṇa が Dakṣa の息子として讃えられている。
「Muir 氏は、これらの箇所のいくつかにおいては Dakṣa の語が比喩的に力の意味で用いられたのかもしれないと示唆することによって、この神秘的な Dakṣa に関するわれわれの困惑のいくらかを和らげてくれる。」— A&MI.
dakṣa-sāvarṇi 第九 manvantara の Manu の名。Vāyu においては、Dakṣa の娘の一人が、Dakṣa 自身と、彼が Meru 山上で彼女を差し出した三神 Brahmā、Dharma、Rudra とによってもうけた、心から生まれた息子の一人として記述されている。
dakṣi 名高いサンスクリット文法家 Pāṇini の母の名。
dakṣiṇa 家の火および献供の火の南に置かれる供犠のための火。Hindu の聖火はもともと一つであったが、Purūravas によって三つにされたと言われる。fire-sacrificial の項を参照。
dakṣiṇā Ruci と Ākūti の双子の娘の一人。最初の夫婦のこれらの子孫は明らかに寓意的である。すなわち Yajña(もう一人の双子の名)は「供犠」であり、dakṣiṇā は brāhmaṇa への「布施」である。VP, Chap. VIII を参照。
dakṣiṇācāri-s Śākta 派の主要な一区分で、右手の祭式の追随者。一般にしばしば右手 caste と呼ばれる。左手の祭式の追随者は Vāmācāri と称される。
daṇḍa Dharma と Kriyā の息子の名。また Ikṣvāku の百人の息子の一人の名でもある。Wilson 教授は、これら Ikṣvāku の息子たちとは、インドの種々の地方における植民地あるいは入植者を指すと解すべきであると考えている。Padma Purāṇa と Rāmāyaṇa の Uttara Kāṇḍa には Daṇḍa についての詳細な物語がある。彼の国は、彼が娘を凌辱した Bhārgava の呪詛によって荒廃させられた。その結果、彼の王国は Daṇḍaka の森となった。Harivaṃśa は、Daṇḍa は Sudyumna に殺されたと述べている。
daṇḍa 時の単位。六十 vikalā。六十 daṇḍa で一恒星日となる。
daṇḍaka Godāvarī 河の近くの広大な森。Rāma の流浪の舞台として Rāmāyaṇa にしばしば言及される。Rāvaṇa が Sītā をさらったとき、Rāma はこの森の庵に住んでいた。不幸な Sītā の愛した河は Godāvarī の支流であり、Bombay の北にあって Orissa の方へ広がる、いまだ完全には探査されていない鬱蒼たる森と荒涼たる地域を貫いて流れている。Godāvarī の明るい水に浴する水鳥の水音がこの情景の最も快活な特色である。しかし Gogra とは異なり、それは海のように輝く丘と閃く奔流に縁取られているものの、「道なき Daṇḍaka」の倦み疲れる森に囲まれている。そこでは、枝から枝へと垂れ下がり、よじ登る絡み合った蔓草だけが「森の陰鬱」を和らげている。この地方は今なお「道なき Daṇḍaka」であると言われる。— A&MI, Vol II, p. 22.
daṇḍaka 「サンスクリットの韻律の一部類で、詩行の法外な長さを許すもの。詩行は二十七から九百九十九までの任意の数の音節から成ることができ、それに応じて特定の名が変わる。この韻律の構成は、最初の六音節が短く、詩行の残りが cretic 脚あるいは bacchius 脚から成ることを要する。これら二種の韻律は異なる名によって区別される。上述の制限内で任意の数の anapaest から成る詩行もこの総称に含まれ、もっぱら iambus あるいは trochee から成る同様の長さの詩行も同様である。それらには固有の名称がある。」
daṇḍanīti 政略。王の学の四部門の一つ。もとは Maurya 王の用のために、Viṣṇugupta によって六千の詩節で書かれた。
daṇḍi-s Hindu の間の Vaiṣṇava あるいは Śaiva の宗派の一つ。第四の āśrama すなわち托鉢生活の正統な代表者である。Hindu は、学生、家長、隠者という先行する段階を経た後にこの托鉢生活に入ると信じられている。しかし brāhmaṇa は先行する段階を経る必要はなく、ただちに第四の住期に入ることを許される。Daṇḍi は、いくつかの突起のある小さな daṇḍa すなわち杖を携えることによって区別される。それには赤い黄土で染めた布切れが付けられ、その中に Brāhmaṇa の紐が納められていると考えられている。彼は髪と鬚を剃り、腰の周りの布だけをまとい、日に一度だけ brāhmaṇa の家から調理済みの食物を得て暮らし、それをつねに携える小さな土器の壺に入れる。彼は独りで、都の近くに、しかし都の中ではなく住むべきである。しかしこの規則はめったに守られず、一般に Daṇḍi は都の中に、他の托鉢者と同様に maṭh(僧院)に集まって見られる。Daṇḍi には特定の礼拝の時も様式もなく、主として瞑想と Vedānta の著作の研究に従事する。彼は Hindu の三神一体の他の成員よりも Śiva とその化身を崇敬し、それゆえ daṇḍi は Śaiva の中に数えられる。彼らは額に Śiva の印を帯び、tripuṇḍra、すなわち焼いた牛糞で作った火の灰によって形づくられる三本の横線をそこに塗る。この印は、両眉の間から始めてその端まで引かれ、中指と薬指の間に反らせた親指によって描かれる。しかし真の Daṇḍi は、必ずしも Śiva その他いずれかの宗派に属するわけではなく、その施設においては通常、nirguṇa すなわち nirañjana、属性も情念もない神格を崇拝しているのが見られる。Daṇḍi は通常、北インドの Śiva 派の brāhmaṇa の間で大いなる影響力と権威をもち、南インドにおいては brāhmaṇa の Smārta 派の saṃnyāsī すなわち出家の部分である。
Śiva の崇拝者であるのは、思弁的な Daṇḍi よりもむしろ実践的な Daṇḍi であり、彼らが崇拝する Śiva の形態は Bhairava(その項を参照)、すなわち恐怖の主のそれである。このように Śiva を崇拝する者の場合、入門の儀式の一部は、膝の内側に小さな切り傷をつけ、神への喜ばしい供物として新参者の血を流すことから成る。あらゆる種類の Daṇḍi は、死者の扱いにおいて Hindu の大衆と異なり、死者を棺に入れて埋葬するか、可能な場合には聖なる流れに投じる。あらゆる caste の Hindu が、時に Daṇḍi の住期の生活と標章を身に帯びるのが見られる。いかなる共同体とも結びつかずに、この部類の托鉢者の性格を帯びる brāhmaṇa さえいる。しかし daśanāmī(その項を参照)と称される Daṇḍi の一派があり、それは brāhmaṇa のみをその住期に受け入れる。— WILSON.
dattātreya 苦行者。族祖 Atri とその妻 Anasūyā の三人の罪なき息子の一人[atri の項を参照]。
dattdi 前の manvantara における Agastya の名。
dadhikrā Ṛgveda において神的な馬に与えられた名。まっすぐに進む者、優雅に動く者、輝く者、速き者、英雄的な王子のように敵を滅ぼす者として描かれる。第二の讃歌において ṛṣi は言う。「暁の開けるときに火が点じられたとき、駿馬 Dadhikrā の礼拝を行った者を、Mitra および Varuṇa と心を合わせた Aditi が罪から免れしめんことを。」
dadhividarcas, daha-s Viṣṇu Purāṇa に言及される二つの民族。同定されていない。
dadhīca 名高い聖仙。Dakṣa の大供犠の折に彼を咎めて言った。「崇拝すべきでないものを崇拝し、あるいは崇敬を払うべきところに敬意を払わない者は、重い罪を犯している。」[Supplement より→]彼は供犠に招かれなかった Śiva の信奉者であった。Mahābhārata の伝説には、dānava すなわち Titan を滅ぼすために、Indra の雷電が Dadhīca の骨から造られたと述べられている。
dadhīca 讃歌の作者である十九 Bhṛgu の一人。— OST, Vol. I, p. 279.
dadhyañc 古の大聖仙の一人で、Atharvan の子。
danu Rāma によって元に戻された堕ちた半神。Danu は Lakṣmī の子であったが、呪いによって悪鬼の状態に陥り、Indra の武器によって首のない胴体にされた。しかし Rāma に出会うと、その奇蹟的な回復はたちまちであったと言われる。Danu はそれから Rāma とその弟に Ṛṣyamūka へ行くよう勧めた。「そこには Sugrīva という傑出した猿が住んでおり、汝らの愛らしい Sītā の消息を伝えてくれるであろう」と彼は言った。Danu は以前、Rāma を破滅させるために森を荒らすよう Mālyavān に雇われていた。
danu Dakṣa の娘で、dānava の母。
danu Indra に殺された Vṛtra の母。彼女は息子とともに殺され、殺されたとき、雌牛が子牛の上に横たわるように彼の上に横たわった。— OST, Vol. V, p. 95.
danu-s Danu の息子たちである dānava の別名。
danuṣa 狙いを外さぬ弓。Viṣṇu の第二の avatāra すなわち kūrma avatāra において、乳海攪拌の際に得られた十四の宝の一つ。
danta Vidarbha の Rājā Bhīma の三人の息子の末子で、Damayantī の兄弟。
dantavaktra 王子 Vṛddhaśarman の子である猛々しい asura。
danstrina-s Krodhavaśā の子孫。肉食の獣、鳥、魚 ── すべて鋭い歯をもつ怪物たち。
dabhaśayana Rāmeśvara と Cape Comorin の間の地。Rāma はここで聖なる草の臥床に横たわり、渡る道を求めて海に祈った。
dabhīti Ṛgveda に言及される王。asura すなわち dasyu に連れ去られようとしたところを Indra に救われた。「Indra は彼らの武器のすべてを燃え立つ火の中で焼き、彼らの牛、馬、車をもって Dabhīti を富ませた。」
dama Nariṣyanta の子である王子。その父 Marutta は Cakravartī すなわち世界帝王であった。Mārkaṇḍeya には Dama について次の奇妙な物語がある。彼の花嫁 Sumanā は王 Daśārha の娘であり、彼によって競争者たちから救い出された。そのうちの一人 Vapuṣmat が、後に、王冠を息子に譲って森に隠棲していた Marutta を殺した。Dama は報復として Vapuṣmat を殺し、その肉をもって父に piṇḍa すなわち葬送の供物を捧げた。残りをもって彼は rākṣasa 出自の brāhmaṇa たちを養った。太陽種族の王たちとはかくのごときものであった。Viṣṇu Purāṇa, Book IV を参照。
dama Vidarbha の王 Bhīma の長子で、Damayantī の兄弟。
damaghoṣa Cedi の Rājā で、Śiśupāla の父。Śiśupāla の項を参照。
damana Vidarbha の王 Bhīma の三人の息子の一人で、Damayantī の兄弟。
damana Vidarbha の王 Bhīma の宮廷を訪れた大聖仙。子のない王とその妃にきわめて親切に手厚くもてなされたので、彼らに恩恵を授けた ── 子供が授かるという恩恵を。彼らが久しく子供を待ち焦がれていたことを知っていたからである。やがて約束は果たされ、幸福な両親に次の子らが生まれた。
「乙女らの真珠なる一人の愛らしき娘と、三人の美しく高貴なる息子、
Damayantī、Dama、Danta、そして名高き Damana。
あらゆる徳に豊かに恵まれ、強く、その力は恐るべきもの。
Damayantī はその美しさにより、その輝き、明るさ、優雅さにより、
諸世界を通じて比類なき栄光を得たり、細腰の乙女は。」*
四人の子はみな、恩恵を授けた聖仙を称えて名づけられた。
* Milman による Nala と Damayantī の物語の訳。
damanaka Pañcatantra に登場する山犬の一匹の名。
damayantī Vidarbha の Rājā Bhīma の娘。その名は、Milman 博士による物語の韻文訳「Nala and Damayantī」と、数年前に Fraser's Magazine に掲載された Chas. Bruce 氏の無韻詩訳とによって、すでに多くの英語の読者に親しまれている。物語そのものは Hindu の歴史の Veda 期に帰せられる。Damayantī は、その輝く魅力と並外れた優雅さによって、すべての Rājā の間に名高かった。Niṣadha の Rājā Nala は、乙女らの真珠 Damayantī のたとえようもない愛らしさをあまりにしばしば聞いていたので、見ないうちから恋い焦がれていた。そして魂を揺さぶる Damayantī も同様に、英雄 Nala の神のような美貌と徳をあまりにしばしば聞かされていたので、ひそかに彼の花嫁になりたいと願っていた。ある日 Nala が森をさまよっていると、黄金の羽をもつ白鳥を捕らえた。鳥は叫んだ。「優しい Rājā よ、私を殺さないでください。そうすれば私は Damayantī にあなたを讃え、彼女があなたのほかには誰のことも考えないようにいたします。」そこで Nala はそれを放した。鳥は仲間とともに飛び去り、Rājā Bhīma の庭に入った。鳥は折を見て Damayantī に言った。「おお Damayantī よ、あなたは乙女のうちで最も愛らしく、Nala は英雄のうちで最も美しい。比類なき者が比類なき者と結ばれるならば、その結びつきはいかに幸福であろうか。」すると王家の乙女はささやいた。「同じ言葉を Nala に言っておくれ。」鳥は Niṣadha へ飛び去り、すべてを Nala に告げた。
その間、美しい乙女は青ざめ、ふさぎ込んだ。眠ることができず、しばしば泣き、宴にも会話にも喜びを見出さなかった。父は彼女を結婚させねばならないと見て取り、その svayaṃvara が布告されると、すべての Rājā が集まった。Nala は求婚者として Vidarbha へ赴く。しかし Indra と他の三神も同じ目的で受肉し、途上で Nala に出会って、自分たちの愛の言伝ての運び手となってくれるよう彼に頼む。彼は抗議するが、ついに同意する。彼はそれを伝えるが、Damayantī は、たとえ神々の面前であっても高貴な Nala を選ぶと宣言する。集会が開かれ、王家の求婚者たちがみな居並ぶ。しかし Damayantī は狼狽して、五人の Nala を見出す。神々のそれぞれが Niṣadha の王の姿、顔立ち、衣装をとっていたのである。彼女は、自らの選択の真の対象を明かしてくれるよう神々に嘆願の祈りを捧げる。神々は憐れみに動かされて正体を現す。その霊的な身体は、影を落とさず、地に触れない等のことによって、人間の英雄の身体から区別される。Damayantī は選択のしるしとして、真の Nala の首に花輪を掛ける。集会は神々の喝采と失望した求婚者たちの嘆きのうちに散会する。婚礼が祝われ、Nala とその花嫁は二人の愛らしい子供に恵まれる。
徳と敬虔と学識の鑑である Nala は、ついにインドの信仰の極致である aśvamedha すなわち馬の供犠を行う。しかし時がたつと、Nala は悪霊に唆されて兄弟 Puṣkara と骰子遊びをし、王国も、富も、衣服さえも失う。ただ一つの賭け物、すなわち Damayantī 自身が残る。Puṣkara はこれを提案するが、Nala は拒む。不運な二人はほとんど裸で共に荒野へ追われる。Nala は妻に自分のもとを去って父の宮廷に帰るよう説得するが、彼女は彼を見捨てようとしない。しかし狂乱した男は、彼女が眠っている間に彼女を見捨てる決意をする。彼はそうする。それぞれが一連の奇妙で波乱に満ちた冒険を経て、Nala は Ayodhyā(Oude)の王の主馬頭となり、Damayantī は父の家に戻る。しばらくして Damayantī は、Nala の隠れ家を突き止めるために、Manu の法によって禁じられているにもかかわらず、再び svayaṃvara を開いて再婚する意図を布告する。Oude の王 Ṛtuparṇa は求婚者となることを決意し、その御者 ── 変装した Nala ── とともに出発する。彼らが Bhīma の都に入るとき、Damayantī は夫の駿馬の蹄の音を聞き分ける。彼の御し方を彼女の耳が聞き違えるはずはなかった。彼女は夫を見出すためにあらゆる策を用いる。彼女は御者を怪しみ、その食物の一部を手に入れて、夫の料理の味を認める。彼女は子供たちを彼のもとに遣わす。Nala はもはや身を隠すことができない。しかし妻が二人目の夫を迎えようとしていたという嫉妬の思いが心に疼き、彼は厳しく彼女を咎める。Damayantī はそのような意図はまったくなかったと厳粛に否定し、夫を取り戻すために策を用いたにすぎないと宣言する。Nala は本来の姿と性格を取り戻し、妻と、無節操な兄弟に失ったすべてのものを取り戻し、父祖の王座に再び昇って、敬虔と正義と幸福の治世を再開する。— MRS. MANNING, A&MI.
damalipta-s, or tamalipta-s Ganges の西の河口、Medinipur と Tamluk の人々。Tāmraliptī は4世紀に名高い港であり、9世紀と12世紀にもその性格を保っていた。
damin-s Kuśa-dvīpa における brāhmaṇa の名。
damodas Atharvaveda の九つの区分の一つの名。