Garrettインド古典辞典

d第一部 サンスクリット語・パーリ語の見出しdambha … divodāsa

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dambha 偽善。Adharma(悪徳)と Hiṃsā(暴力)の子。

darada-s Himālaya の上方、Indus がインドへ下る直前の流れに沿う地方の住民。これは Strabo と Ptolemy の時代、そして VP の時代に彼らが占めていた地域である。彼らは今なおそこに住み、今日 Dards と呼ばれている。

darpa (「高慢」)。Dharma の息子の一人。

darvan Anu の子孫の一人 Uśīnara の子。

darśana-s Hindu 哲学の六つの体系に与えられた名。

I. Kapila の Sāṃkhya 体系。これに付随して

II. Patañjali の Yoga 体系。

III. Gautama の Nyāya 体系。これに付随して

IV. Kaṇāda の Vaiśeṣika 体系。

V. Jaimini による Pūrva Mīmāṃsā 体系。

VI. Veda Vyāsa による Uttara Mīmāṃsā すなわち Vedānta。—A&MI

darśapūrṇamāsa 新月と満月に行われる小祭。「darśapūrṇamāsa 供犠の始めに、Adhvaryu 祭官は牝牛と子牛を呼び集めた後、枝で子牛に触れて言う、『汝らは風のごとし』と。」— MAX MÜLLER.

darśapaurṇamāsa 五大供犠儀礼の一つ。すなわち新月と満月の祭で、四人の祭官が司式するもの。

dala Rāma の子孫で、Kuśa の子である王子。

dalaki Śākapūrṇi の四人の弟子の一人で、Ṛgveda の教師。

daśakandara Laṅkā の十の頭をもつ主権者 Rāvaṇa の名。

daśakumāra 十人の王子の冒険を含む、人気のある物語集の名。「それらは日常生活の物語であり、いわば気晴らしのために殺し、欺き、盗む陽気な一群の人々の冒険を語る ── 実に今なおヨーロッパで人気のあるパントマイムや笑劇にいくらか似た趣向である。」— MRS. MANNING. これらの物語からの抜粋については、Works of Professor Wilson, Vol. IV を参照。

daśagrīva 「十の首をもつ者」を意味する Rāvaṇa の名。

daśa-daṇḍu 仏教の僧が修練期の間に学ぶよう命じられる十の禁止事項。Hardy 氏はその Eastern Monachismにおいてそれを次のように記述している。「(1)正午以後に食物を食べること。(2)舞踊を見、あるいは音楽や歌を聞くこと。(3)装身具あるいは香料を用いること。(4)高さ一キュビトを超える座あるいは寝台を用いること。(5)金、銀、あるいは金銭を受け取ること。(6)他の僧がその受けるべきものを受けるのを妨げるために何らかの欺瞞を行うこと。(7)他の僧を害し、あるいは危険に陥れるために何らかの欺瞞を行うこと。(8)僧を教団から追放させるために何らかの欺瞞を行うこと。(9)他の僧の悪口を言うこと。(10)同じ教団の僧の間に不和を起こすために中傷を口にすること。これらの罪のうち最初の五つは、僧が砂を運んで vihāra の中庭に撒けば赦されうる。後の五つは一時的な追放の後に赦されうる。」

daśa-bala(十力) buddha のもつ十の力すなわち智慧の様態。仏教徒の原理と儀礼に関するわれわれの情報をその優れた著作に負っている Spence Hardy 氏は、その Manual of Buddhism において daśabala を次のように列挙している。「(1)いかなる状況においても、特定の義務を正しく果たすためにいかなる知識が必要であるかを理解する智慧。(2)karma すなわち道徳的行為の結果あるいは帰結を知るもの。(3)nirvāṇa すなわち消滅の達成への道を知るもの。(4)種々の sakwala すなわち世界の体系を見るもの。(5)他の存在の思いを知るもの。(6)感官が自己ではないことを知るもの。(7)dhyāna すなわち抽象的瞑想の修行によって生ずる清浄を知るもの。(8)誰もがその前世のすべてにおいてどこに生まれたかを知るもの。(9)誰もが来世のすべてにおいてどこに生まれるかを知るもの。(10)karma すなわち道徳的行為から生ずる結果をいかにして克服しうるかを知るもの。」

daśaratha Aja の子で、Rāma の父。Ayodhyā すなわち Oude の主権者であり、その車は彼を宇宙の十方、すなわち羅針盤の八方位と天頂と天底へと運んだ。彼は Sūrya の子孫であり、その祖先の一人 Raghu は七つの dvīpa すなわち全地を征服していた。

「尊き名をもつ王が君臨せり、
国にも町にも慕われし王、
善く賢き大いなる Daśaratha、
聖典の聖なる頁に通じ、
王国の安寧に心を傾け、
力強く勇ましく先見の明あり。
高き思いと正しき行いにおいて
古き Ikṣvāku の裔の誇りたり。
徳の名高さにおいて聖者らに並び、
敵を屈し情念を制せしにおいて然り。
数えきれぬ富においては
Indra と黄金の主とに競う者。
王の第一なる Manu のごとく君臨し、
その地位をふさわしく保てり。
堅く公正にして常に真実、
愛と義務と利得とを心に留め、
富み栄え自由なるその都を治めぬ、
Indra の Amarāvatī のごとくに。」— GRIFFITHS, Rāmāyaṇa

もう一人の Daśaratha は Mūlaka の子であり、第三は Navaratha の子、第四は Suyaśas の子であった。Piyadasi の碑文と同様の古い字体で記された Daśaratha の名が、Gayā で仏教の遺跡の中から見つかっており、それらと同様に Prinsep 氏によって解読された。— VP.

daśa-rūpaka 十種の劇的上演。WILSON, Hindu Theatre, Vol. I を参照。[Supplement より→]戯曲文学に関する古く価値ある論書。それは十種の演劇的作品の記述であり、rūpaka(形をもつもの)の語がその固有の呼称である。本書は本文と注釈とから成り、例を伴う。本文は Viṣṇu の子 Dhanañjaya の作であり、彼は Muñja を自らの保護者と称しているので、11世紀に書いたことになる。注釈は本文と同じ手によるものと考えられるかもしれない。著者は Viṣṇu の子 Dhanika であり、父称が一致し、名もほとんど違わないからである。しかし注釈の年代は、疑いなくある程度古いものではあるが、定まっていない。— WILSON.

daśa-sīla(十戒) Daśaṅkha、Daśā-parājī、Daśa-nāśanu、Daśa-daṇḍu、Daśa-sīla は、仏教の僧を拘束する十の義務である。すなわち、殺生、盗み、性交、虚偽、酒、正午以後の食事、舞踊、香料、贅沢、金銀の受領を慎むこと。他の Daśa は若干の修正を伴った同じ規則に関わる。Daśa-daṇḍu は他の僧を欺き、あるいはその悪口を言うことを禁ずる。

daśaharā 北インドでは Durgā Pūjā と呼ばれる年祭。Hindu の祭りのうち最も人気があり、壮麗で、費用のかかるものであり、Āśvina 月(9月の終わりあるいは10月の初め)に行われる。予備の儀式は、三日間の礼拝に先立って数日を費やす。「この期間全体にわたって、国の多くの地方ではすべての業務が停止され、娯楽と祝宴が行き渡る。……職人と労働者は、日々の仕事に用いる道具と器具に供物を捧げる。労働者は犂、鍬その他の器具を持って来て積み重ね、香、花、果物、米、その他類似の品から成る供物をそれらに捧げる。その後それらの前に平伏し、それからそれらを元の場所に戻す。石工は鏝、定規その他の器具に同じ礼拝と供物を捧げる。大工も斧、手斧、鉋に関して劣らず敬虔である。床屋もまた剃刀を一山に集め、同様の儀礼をもってそれらを崇拝する。習字の師あるいは写字生は、書くのに用いる鉄の筆すなわち尖筆に、仕立屋は針に、織工は機に、肉屋は肉切り包丁に供物を捧げる。女たちも同時に、籠、米の挽き臼、米を搗く木の円筒、その他の家庭用具を積み重ね、上述の供物を捧げた後、それらの前にひれ伏す。要するに、誰もが生計を立てるのに主として用いる器具あるいは道具を崇拝するのである。道具は今や数多くの神格とみなされる。人々はそれらに、引き続き好意を示し、なお生計の手段を供給してくれるよう嘆願を捧げる。祭りは、各村に穀物の練り粉で作った形のない像を立てることで締めくくられる。それは女神 Pārvatī を表すことを意図しており、一種の天蓋の下に置かれて担ぎ回され、礼拝を捧げるために群がる住民の礼拝を受ける。」

この祭りには、国の種々の地方において他の多くの慣習が行われる。Mahratta の間では、羊と水牛が犠牲に捧げられる。首長たちはしばしば兵士に金を与えて供犠を行うための羊を買えるようにする。それは兵士たちに美味い食事を供するので、多くの者によって Daśaharā の最も本質的な儀式とみなされている。軍に属する大砲は据えられ、讃えられ、呼びかけられ、数種の供物によって宥められる。Sir John Malcolm によれば、第十日の朝、Peśava はそのすべての将校と兵士とともに都の近隣の陣営へ出向くのを常とした。各人は最良の馬に乗り、最上の衣服をまとい、武器を磨き上げていた。馬、象、駱駝はみな最も華やかな馬具で飾られ、各部隊は最もけばけばしい旗と幟を広げた。首都の全住民が、演者としてであれ見物人としてであれ、この盛大な行列に加わり、行列は崇拝の対象である聖なる樹へと向かった。供物と祈りの後、Peśava がその樹の葉を何枚か摘むと、すべての大砲と小銃が発砲を始めた。それから Peśava は、この機会のために購入された畑から jowri(モロコシ)の茎を一本摘み、そのとたん群衆全体が武器あるいは短い矢を放ち、畑に殺到してすべての茎を引き抜き、各人が戦利品の分け前を確保して喜んで家に持ち帰った。

daśārṇa Purāṇa に言及される河。Bundelkhaṇḍ の Dhosaun と同定されている。

daśārṇa Kālidāsa の Cloud Messenger(Meghadūta)に言及される地。「Daśārṇa の野は来たる驟雨を待つ。」F. E. Hall 博士によれば、それは Chandeyru の東に位置していた。Vidiśā がその地域の首都として記述されている。Daśārṇa は daśa(十)と、ṛṇa(砦すなわち Durgā、半島の Droog)に由来すると言われ、「十の城塞の地域」を意味する。— WILSON.

daśārha Nirvṛti の子である王子。Liṅga Purāṇa においては、Daśārha は銅の(顔をした)敵の軍勢の破壊者であったと言われる。

daśnāmī daṇḍi-s Daṇḍi の住期の原初の成員。彼らはその起源を、Hindustan の宗教史において目立った役割を演じた注目すべき人物 śaṅkarācārya に帰すると言われる。daśnāmī の語は「十の名をもつ」を意味する。この注目すべき人物から出た托鉢者には十の部類があるが、そのうち Śaṅkara の Daṇḍi と呼ばれる資格を与えるほどにその純粋さを保っているのは三つだけである。これらは数が多く、とりわけ Benāres とその周辺に多い。主要な Vedānta の著作家はこの宗派に属する。Wilson 教授から知るところでは、最も図太い乞食はこの住期の成員である。もっとも、彼らの取り立ては特に Brāhmaṇa 階級に課される。brāhmaṇa に饗応が催されるときはいつでも、この種の Daṇḍi が招かれざる客として現れ、料理の分け前を与えることによってしか追い払うことができないからである。彼らの多くは yoga を実践し、奇蹟を行うと称する。'Dabistan' の著者は、三時間息を止めておくことができ、血管から乳を出し、髪の毛で骨を切り、卵を割らずに口の狭い瓶に入れることのできた者について語っている。

Daśnāmī 部類の残りの成員は、本来の Daṇḍi に必要な実践の純粋さからは堕落しているものの、なお宗教的人物である。ただし彼らは杖すなわち棒を捨て、衣服、金銭、装身具を用い[ママ]、自ら食物を調え、Hindu のいかなる住期からも成員を受け入れる。しばしば Atīt と呼ばれるこれらの者は、Daṇḍi と同様にしばしば maṭh に集まっているが、世間の業務に自由に交わる。彼らは商売を営み、しばしば財産を蓄え、中には結婚生活にさえ入る者もあり、その場合 Saṃyogi の名を受ける。」— WILSON, Vol. I, p. 204.

daśra 後代の文献において、二人の Aśvin の一方の名。

dasyu-s 最初の Ārya の入植者たちがインドの原住民に与えた名。この名は Ṛgveda にしばしば現れ、そこでは殺されるべき敵として描かれている。[Supplement より→]「Ṛgveda の多くの箇所において、dasyu および dāsa の語が種々の位の悪鬼あるいは鬼(asura、rākṣasa 等)に用いられていることは疑いない。しかし事柄の性質上、すべての、あるいは少なくとも大部分の本文において、これらの語によってインドの野蛮な原住部族が意図されていると解すべきことは、かなり明らかである。このことは、Aitareya Brāhmaṇa、Manu、Mahābhārata において dasyu の語が用いられる意味(すなわち悪鬼ではなく人間について)によって、いっそう明確に立証される。」— MUIR, II, 68.

Roth 教授はその辞書において dasyu を次のように定義している。(1)「神々と人間の双方に悪意を抱き、とりわけ Indra と Agni によって打ち負かされる超人的存在の一部類。(2)この語は、敵対的な、邪悪な、あるいは野蛮な人間を罵って呼ぶ呼称である。」Müller 教授は言う。「Dasyu は単に敵を意味する。たとえば Indra が dasyu を滅ぼし Ārya の色を守ったゆえに讃えられるときがそうである。」Muir 博士は、dasyu が怪物として語られているいくつかの箇所を引用している。

dahana Matsya Purāṇa の列挙による十一 Rudra の一人の名。

dahrāgni 聖仙 Agastya の名。

dākṣāyaṇa 女神 Pārvatī の名の一つ。また月宿一般の名でもある。Saṃgraha の著者である文法家 Vyāḍi は、時に Dākṣāyaṇa と呼ばれる。

dānava-s 神々の敵。「堅実さに欠け、野心に駆られて、神々に対してその力を振るった。彼らは Kaśyapa とその妻 Danu の子孫であり、それゆえこの名がある。彼らは神話上の巨人の一部類であった。叙事詩期においてはおそらくインドの原住民の人格化であり、Purāṇa 期においては pātāla の住人かつ神々の敵とみなされる。」daitya-s の項を参照。— THOMSON.

dāyabhāga Hindu 相続法に関する名高いサンスクリットの論書。Colebrooke 氏が1810年にこの書の翻訳を初めて出版した。1865年には、Whitley Stokes 氏によって価値ある注を付した新版が出版された。

dāruka Kṛṣṇa の御者。Kṛṣṇa が身体を去り、「自らの清浄にして霊的、尽きることなく不滅で普遍的な霊と合一し ── あらゆる性質を欠いた nirguṇa となろう」としていたとき、その迫り来る最期を Arjuna に知らせるために遣わされた。

dāruṇa Purāṇa に記述される naraka すなわち地獄の一つの名。

digambara(空衣派) 裸の苦行者、すなわち gymnosophist(裸行者)。Jaina は二つの主要な区分、すなわち Digambara と Śvetāmbara とに分かれる。前者のほうが古さを主張するより良い根拠をもち、より広く行き渡っていたようである。両者を区別する差異はこれらの語に含意されている。前者は空をまとう者、すなわち裸を意味し、後者は白衣をまとう者を意味する。師たちがそのように装っているからである。しかし今日では Digambara の苦行者は裸で歩くことはなく、色のある衣を着ている。彼らは衣服を用いないことを食事の時間に限り、弟子たちから与えられる食物を受けるときに被り物を脱ぎ捨てる。— WILSON.

diti Dakṣa の娘で、Kaśyapa の妻の一人となり、daitya(その項を参照)の母となった。Titan と悪意ある存在の総母と称される。Diti は子供たちを失うと Kaśyapa の心を和らげ、苦行者の最良の者は彼女に恩恵を約束した。そこで彼女は、Indra を滅ぼすであろう抗しがたい武勇の息子を祈り求めた。muni は一つの条件で妻にその賜物を与えた。「汝は息子を産むであろう」と彼は言った。「もし汝が、まったく敬虔な思いと、まったく清らかな身をもって、百年の間胎内に子を宿すならば。」Diti は同意し、懐胎の間、心と身の清浄の規則を守った。何が起こっているかを知った Indra はそれを妨げようとし、その百年の最後の年に機会が訪れた。Diti はある夜、定められた足の沐浴を行わずに床に就き、眠り込んだ。そこで雷神は彼女の胎内の胎児を七つに分けた。このように切り刻まれた子はひどく泣いた。Indra はそれを慰めて泣き止ませることができず、七つの部分のそれぞれをさらに七つに分けた。こうして Marut(風)と呼ばれる速く動く神々が形成された。「Indra がその雷電によって Diti の生まれざる果実を滅ぼし、後にそこから Marut すなわち風と嵐の神々が生じたというこの神話においては、地質学的現象が神話的な像のもとに表されているようである。神々の大いなる母においては、おそらく乾いた大地が象徴されている。雷の神 Indra がそれを引き裂き、その裂けた胸から Marut すなわち大地の発散物が出るのである。しかしこのような古代の神話を絶対の確かさをもって解釈することは困難である。」— GORRESIO.

dina-cariyāva 仏教の僧の日々の勤め。これはきわめて多く、細部に至るまで規定されている。結びに、僧は善い振る舞いの行程を保たねばならず、成熟した智慧をもって五感を抑え、身・口・意のいずれにおいても高慢であってはならないと言われる。

dilīpa Aṃśumat の子で、Gaṅgā を地上にもたらした Bhagīratha の父。

Aṃśumat の子、名高き Dilīpa は
Bhagīratha と名づくる子をもうけ、
彼より大いなる Kakutstha が出で、
彼より敵に恐れられし Raghu が出でたり。

Dilīpa は Raghuvaṃśa において、王かくあるべしという壮大な理想として描かれている。

「丈高く肩広く、逞しく四肢強く、
勇気の化身がその座を彼のうちに据えたり。
美しさと英雄の力において比類なく、
その高き背丈は Meru のごとく聳ゆ。
その神のごとき姿にふさわしく、その高貴なる心は
若き日よりふさわしき学びへと傾きぬ。
そこより大いなる企てがその寛き魂を鼓舞し、
力強き行いが栄光もて全体を飾りたり。」

この君主は臣民の喜びであり、臣民は彼を導き手として従い、それによって Manu の法に従った。

「そして彼らはよく知りたり、喜んで納むる税の
自らの利益のために国に課せられしことを。
恵み深き太陽は湖を飲むことを喜ぶも、
取りし富を万倍にして与う。」

大地と水、火と虚空が、善き創造者によって全人類の利益のために与えられたのとちょうど同じように、王 Dilīpa は臣民を祝福し、他者の幸福のうちに自らの幸福を見出すために遣わされた。その領土では盗みは知られておらず、

「彼は対抗する王笏なく地を治めぬ、
海に囲まれし一つの広大なる都のごとく。」

しかしただ一つの恵みが欠けていた。彼には愛らしい王妃があったが、息子がなかった。

「おお、子なき王はいかに見たいと願いしことか、
王妃の膝に微笑む王家の嬰児を、
愛しき母の眼と神々しき顔をもつ、
わが家系を飾るもう一人の自分を。」

* Mrs. Manning, A&MI.

この恵みを得ることを望んで、彼は聖なる導き手、名高い Vasiṣṭha を訪ねる決意をする。Vasiṣṭha は今や遠く離れた人里離れた庵に住んでいた。王妃も彼とともに出かけ、二人は「鈴の音楽によってその到来を告げる」車に乗って旅をする。

「頬に新鮮に柔らかき風は優しく吹き、
森の薔薇の香りを運ぶ。
掠められし花々の塵に重く、
マンゴーの木陰の若枝は揺るる。
彼らは孔雀の喜ばしき叫びを聞く、その頭は
駿馬の足音に驚きて持ち上げられたり。
彼らは鶴が歓喜の軍勢をなして飛ぶを見る、
花のごとく天の門を飾りつつ。
道の傍らの陰深き茂みより、鹿は
車の近づくとき驚きの眼差しを投ぐ。
* * * * * *
彼らは町々を過ぎ、また多くの美しき村を過ぐ、
王の心遣いによりて築かれ慈しまれし所を。」

農夫たちが凝乳と乳を彼らに持って来る。……王は森の情景の多様な美しさに注意を促す。そして喜びに我を忘れ、彼らはまったく思いがけず旅路の終わりに達する。

「夕べは来たり、道に倦みて、
馬らは聖者らの住処の前に憩う。」

この庵は、Kālidāsa の戯曲 Śakuntalā に描かれたそれを思い起こさせる。近隣の森の隠者たちが草と薪を取りに来ており、戯れる子鹿が米を与えられるのを待ち、若い娘たちが木々の根に水をやっている、等。

王と王妃はきわめて親切に迎えられる。

「食事と休息」の後、聖仙は王にその願いを尋ね、

「涙にも祈りにも動かされぬ母なる大地は、
なお情けなく、息子を拒む」

こと、そして「父祖の霊が衰え悩む」こと、葬送の供物の望みが見えないゆえにそうであることを聞くと、……大いなる Vasiṣṭha は深い瞑想に入り、数分の後、不幸の原因を告げる。王 Dilīpa はかつて、Ganges の滝の近くの天の樹の下に伏していた「聖なる牝牛」に、不注意から無意識のうちに敬意を払うことを怠ったのである。……それゆえ贖罪として、彼と王妃は近くの聖なる森で Nandinī という名の牝牛の世話をしなければならない。そして侮辱されたその牝牛の子孫の愛を得たとき、呪いは取り除かれるであろう。奉仕は忠実に行われる。王妃は牝牛の周りを巡り穀粒を撒いて牝牛を崇拝し、王は幻影によってさえ、預かったものを見捨てるよう説き伏せられることはない。彼は王妃のもとへ急ぐ。

「彼女はただちにその表情を正しく読みたれど、
彼は新たなる喜びもてすべてを再び語りぬ。
それより聖者の命によりて、彼は
Nandinī の清き乳の貴き一飲みを飲み干しぬ、
あたかも魂より湧く渇きもて、
杯より永遠の栄光を飲むかのごとく。」

夜明けに、

「熱心なる馬らは家路へと速やかに跳ね、
車は草地の上に音楽を奏づ。
彼らは都に至る、そこには民が、
君主に会わんと焦がれて門に待つ。
その眼はかすみ、その頬は青ざめ、その額は
なお倦み疲れし誓いの深き跡を留む。」

やがて息子が生まれた。

「嬰児の頭の周りには栄光ありき。
灯されぬ松明さえも、
絵の中のごとく、かの神々しき光もて輝くかに見えたり。」

そしてすべての儀礼がしかるべく執り行われると、──

「なおいっそう大いなる栄光が Dilīpa の子を飾りぬ。」
—A&MI, Vol. II, pp. 99-101.

Kālidāsa は Raghuvaṃśa において Raghu を Dilīpa の子、Rāma の曾祖父としている。

divaratha Aṇu の子孫 Para の子である王子。

divaspati 第十三 manvantara の Indra。

divākara Ikṣvāku(その項を参照)の家系に属する、Prativyoman の子である王子。

divijata Matsya の表による Purūravas の息子の一人。

divodāsa

1. Ṛgveda に言及される王。黒い肌の Śambara の百の難攻不落の城の一つを欲した。Indra は Śambara を山から投げ落とし、九十九の城を破壊し、百番目を Divodāsa に与えた。2. Kāśī(Benāres)の王で、Bhīmaratha の子。この王子にまつわるいくつかの奇妙な伝説がある。Śiva と Pārvatī は Divodāsa の所有する Kāśī を占めたいと望み、Nikumbha という名の師を遣わして王子に仏教の教義を受け入れさせた。その結果、彼は聖都から追放され、Gomatī 河の岸に別の都を建てたと言われる。あるいは他の記述によれば、彼はその河畔の都を Bhadraśreṇya の一族から奪った。Bhadraśreṇya の子 Durdama がその地を取り戻し、Divodāsa の子 Pratardana が後にその子孫からそれを征服したという。

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