Garrettインド古典辞典

a第一部 サンスクリット語・パーリ語の見出しambā … allama prabhu

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ambā Kāśī の Rājā の長女。Bhīṣma が svayaṃvara から彼女たちを Rājā Vicitravīrya の妻とするために連れ去ったとき、二人の妹とともに連れて行かれた。しかし婚礼が行われることになっていた日、Ambā は、父がすでに自分を Śālva の Rājā と婚約させていたと言い、そのもとへ送ってほしいと願った。そこで Bhīṣma は彼女を護衛付きで Śālva の Rājā のもとへ送った。Ambā は、自分がいかにして連れ去られたか、そして今婚約を果たすために来たことを語った。しかし Śālva の Rājā は「お前は見知らぬ男の住まいに入った。私はお前を妻とはしない」と言い、従者に命じて彼女を都から追い出させた。彼女は密林に入り、惨めに死んだ(Mahābhārata)。別の伝説によれば、彼女は Śikhaṇḍin という男として生まれ変わり、自らのすべての不幸の元凶である Bhīṣma を殺したという。

ambā and ambikā Śiva の śakti である Pārvatī の名。

ambi and ambālikā Ambā の妹たち。Vicitravīrya の二人の寡婦となり、muni Vyāsa は彼女たちによって Dhṛtarāṣṭra と Pāṇḍu をもうけた。vyāsa の項を参照。

ambea Kuru 族の母。Kuru 族は Pāṇḍu 族に縁ある英雄あるいは半神の種族である。

ambha matha Jaina の女神。今なおインドの種々の地方で崇拝されている。彼女のために建てられた多くの美しい寺院の廃墟が、Marwar の高い丘陵に見られる。

ambhāṃsi 神々、悪鬼、人間、pitṛ の四部類の存在を表す秘儀的な語。字義どおりには「水」を意味する。

ayatayama 馬の姿をとった太陽によって Yājñavalkya に啓示された Yajurveda の本文。このように授けられた本文は Vaiśampāyana の知らないものであった。

ayana 六か月の期間。二つの ayana で一年となる。南の ayana は神々の夜、北の ayana は神々の昼である。このような日から成る神の年の一万二千年が、四 yuga すなわち四時代の期間を成す。この語はまた半球の意味でも用いられる。uttarāyaṇa は北方の宮を通る太陽の見かけの運行であり、dakṣiṇāyana は南方への運行である。それゆえ北半球と南半球は二つの ayana に対応するように見える。

ayutāyus Kuru の王子たちの子孫。また Magadha の王でもある。VP, p. 465 に列挙される Magadha の未来の王の一人の名。

ayouija 「女から生まれざる者」。桶の中で生まれたという伝説にちなむ Droṇa の名。

ayodhyā 「近代の Oude。Delhi の南東約350マイル、Sarayū 河すなわち近代の Gogra 河の畔にある。今日では Ayodhyā の都は消え失せ、Gogra 河の南岸に沿って広がる、形をなさない廃墟の堆積、瓦礫と密林の塊のほかには、古の跡地にはほとんど何も見られない。しかし昔、この都は Hindustan で最も大きく壮麗な都の一つであり、その記憶は今なおインド半島の隅々に保たれている。その地理的位置は、二つの大きな時代、すなわち Bhārata の戦争の時代と Rāma の誕生の時代との間の Ārya の侵入の進展を示すうえで、きわめて意味深い。Mahābhārata においては、Ārya は南東へ向けて Delhi の近辺より先には進んでいなかったらしい。しかし Rāmāyaṇa においては、彼らは Hindustan のまさに中心に大きく堅固な Rāj(王国)を確立し、インドの古代史において永遠に名高いにちがいない首都を建設したように見える。」— WHEELER.

Rāmāyaṇa は Ayodhyā について次のような描写を与えている。

「Ayodhyā の都は人に満ち、誰もが健やかで幸福であり、誰もが最上の米で十分に養われていた。その都のあらゆる商人は、地上のあらゆる地方からの宝石で満ちた倉をもっていた。brāhmaṇa たちは絶えず祭火を保ち、Veda と Vedāṅga に深く通じ、あらゆる優れた資質を授けられていた。彼らは惜しみなく寛大で、真実と熱意と慈悲に満ち、大聖仙たちに等しく、その心と情念は完全に制御されていた。これらの brāhmaṇa の聖仙たちはみな三種の弟子をもっていた。第一に、召使いが主人に仕えるように彼らに仕える若者たち。次に教えを受けている学生たち。そして施しを集めることによって自らと師とを養う brahmacārī たちである。brāhmaṇa に次ぐのは kṣatriya であり、彼らはみな戦士であり、mahārāja の面前で絶えず武技の修練に励んでいた。その後に vaiśya すなわち商人がおり、彼らはあらゆる種類の品物を売り、地上のあらゆる隅から来ていた。最後に śūdra がおり、彼らはつねに神々への帰依と brāhmaṇa への奉仕に従事していた。これらのほかに、宝石細工師と工匠、歌い手の男と踊り手の女、御者と歩兵、陶工と鍛冶屋、画工と油売り、花売りと betel の実売りがいた。よく養われた幸福な人々のその都全体において、学のない者、自らの家系あるいは caste に属さない職業を営む者、卑しい住まいに住む者、親族のない者は一人もいなかった。吝嗇家も、嘘つきも、盗人も、告げ口屋も、詐欺師も、自慢屋もいなかった。傲慢な者、悪意ある者、卑しい者、他人の費えで暮らす者もいなかった。子宝に恵まれない者、千年に満たずに死ぬ者もいなかった。」

ayomukha Kaśyapa と Danu の息子の一人。それゆえ dānava と呼ばれる。

ayomukhī 「鉄の顔をもつ者」。Krauñca の森で Lakṣmaṇa に傷つけられた、巨大で醜い姿の巨女。

araga 太陽。Viṣṇu が破壊者 Rudra の性格をとり、すべての被造物を自らと再び合一させるために降るとき、彼は七つの光線に入り、それが七つの太陽へと膨張する。その第一のものの名が Araga である。

araṇyānī 森の孤独の女神。Ṛg- および Atharva-veda のいくつかの讃歌がこの女神に捧げられている。OST, V, 423 を参照。

ariṣṭa

1. 獰猛な雄牛の姿をとった悪鬼。ある夕べ、Kṛṣṇa と gopī(牧女)たちが共に踊っている場所に来た。その色は雨を含んだ雲の色であり、巨大な角をもち、眼は二つの燃える太陽のようで、尾は立ち、喉袋は低く垂れ下がり、牛の群れにとって恐怖の的であった。牧人たちとその女たちはひどく怯え、大声で Kṛṣṇa を呼んだ。Kṛṣṇa は少しも恐れずに助けに来た。彼は雄牛が間近に迫るのを待ち、その角をつかみ、膝でその脇腹を締めつけた。角の一本をもぎ取ると、それで猛き悪鬼を打ち据え、悪鬼は口から血を吐いて死んだ。そこで牧人たちは Kṛṣṇa を讃えた。2. Dakṣa の娘で、Kāśyapa の妻。— VP.

ariṣṭanemi 1. Dakṣa の四人の娘を娶った Prajāpati。2. Kaśyapa の名。その娘 Keśinī は Sagara の妻となった。

aruṇa Kaśyapa と Vinatā の名高い子で、蛇の破壊者 Garuḍa の兄弟。[Appendix より→]「赤らむ者」。族祖 Kaśyapa とその妻 Vinatā の子であり、Viṣṇu の乗り物たる鳥 Garuḍa の弟である。この神格は古典期において、Veda の信仰における暁の人格化 Uṣas の地位を占めるに至った。

arundhatī Kardama の娘で、Vasiṣṭha の妻。明らかに宗教儀礼の寓意的人格化である。「Pleiades の一つで、一般に妻の鑑とみなされている」。それは Ursa Major(大熊座)の尾の中央の星に近い小さな星であり、Vasiṣṭha の妻であったと言われる。brāhmaṇa の間では、新婚の夫婦は purohita すなわち占星術師にこの星を指し示され、これに礼拝するよう指示される。

aruṣi Manu の娘で、大聖仙 Cyavana の妻。— OST, Vol. I, p. 124.

argha 果物と花、あるいは乳と蜜のような、大いなる敬意を示す贈り物。偶像、brāhmaṇa、あるいは婚礼の日の花婿に捧げられる。

arciś (「炎」)。Kṛśāśva の妻で、Dhūmaketu(彗星)の母。

arjuna Pāṇḍu とその妻 Kuntī すなわち Pṛthā との五人の息子の第三子。ただし Kuntī は Dharma, Vāyu, Indra の神々の愛の訪れを受けたので、これらの英雄に神的な出自を与えるために、これらの神々が Yudhiṣṭhira, Bhīma, Arjuna の真の父として示されている。それゆえ Arjuna は Indra の子と呼ばれる。彼は Droṇa から弓の使い方を教わり、その最愛の弟子であった。これが従兄弟 Duryodhana の嫉妬をかき立て、ついには Pāṇḍava 兄弟の宮廷からの追放に至った。Arjuna は Hastināpura における武芸の披露に出場し、弓術、剣術、cakra(円盤)の旋回、投げ縄において驚くべき妙技を示した。Draupadī の svayaṃvara において、Arjuna は brāhmaṇa に変装し、すべての rājā が失敗した後に、金の魚を射当てることに成功した。* 彼はただちに Draupadī によって勝者と認められた。彼女は花輪を彼の首に掛け、svayaṃvara の規則に従って彼が自分を連れ去ることを許した。Draupadī は五人の兄弟の妻となった。各人はそれぞれ自分の家と庭をもち、Draupadī は一度に二日ずつ順に各人のもとに住んだ。そして兄弟の間には、Draupadī がある兄弟の家に住んでいる間に別の兄弟がその家に入ったならば、その者は都を去り、十二年間流浪しなければならないという定めがあった。たまたまこの定めが Arjuna によって不注意から破られ、その結果彼は流浪の旅に出た。多くの brāhmaṇa が彼に同行し、彼は多くの聖地を訪れた。Haridvār において、Nāga の rāja である Vāsuki の娘で Ulūpī という名の乙女が Arjuna を見て、自分を娶ってくれるよう懇願した。彼は多くの日々を彼女とともに過ごした。

* 「Mahābhārata は次のように述べようとしているらしい。すなわち、可動の的が空中に吊るされ、軸の上で急速に回転させられる。その的が描く円の平面と同じ高さに、その一方の側に輪あるいは環が固定される。そして的がその輪の正面に来たとき、五本の矢を同時にその輪を通して射なければならない。この妙技は Arjuna にふさわしいものであった。Robin Hood でさえ途方に暮れたかもしれない。しかしながら競争者たちには誰一人勝ち目がない。Penelope の求婚者たちと同様に、彼らは弓を引き絞ることさえできないのである。

— οὐδ' ἐδύναντο

Ἐντανῦσαι, πολλὸν δὲ βίης ἐπιδευεες ἦσαν.

[彼らは(弦を)張ることができなかった。力が大いに足りなかったからである。]

きわめて強靭な bambu(竹)で作られ、鉄の鎖あるいは鉄板を付けた紐を弦とした弓を引き絞ることは、今なお Hindu の好む鍛錬である。その目的を達するには並々ならぬ筋力を要する。」F. JOHNSON, SM, p. 39.

その後、彼は南方の国々を訪れ、Mahendra 山で Paraśurāma に会い、彼から優れた武器のいくつかを得た。Maṇipura の都において、その rāja の娘 Citrāṅgadā が Arjuna を見て、彼を夫にと望んだ。二人は、彼女が産むかもしれない息子は Maṇipura の rāja(王位)を継ぐためにとどまるという条件で結婚した。彼女は息子を産み、その子は Babhru-vāhana と名づけられた。そこに三年住んだ後、Arjuna は妻子に別れを告げて旅を続けた。

次に彼が赴いたのは Dvārakā 近くの Prabhāsa であった。ここで Kṛṣṇa が彼を迎え、Dvārakā の都を花と旗とあらゆる歓喜のしるしで飾るよう命じた。Kṛṣṇa は美しい Raivataka の丘で、すべての首長とその夫人たちのために盛大な宴を催した。Arjuna は Kṛṣṇa の妹 Subhadrā の魅力に心を奪われた。数日のうちに、Kṛṣṇa の計らいによって二人は結婚した。十二年の流浪が満了すると、Arjuna は妻 Subhadrā とともに Indraprastha の都へ向かった。兄弟たちは喜んで彼を迎え、Draupadī もやがて Subhadrā と和解した。

Arjuna の兄である rāja Yudhiṣṭhira は、rājasūya(即位灌頂祭)と呼ばれる大供犠を行うことを決意した。これは首尾よく成し遂げられたが、Kaurava と Pāṇḍava との古い確執を再燃させた。Duryodhana は親族を賭博の勝負に招き、裏の手段によって Yudhiṣṭhira からその rājā(王国)を奪おうとした。—[yudhiṣṭhira の項を参照]

Pāṇḍava の第二の流浪の間に、Arjuna は「神話上の祖父 Vyāsa の助言に従い、神々の心を和らげ、Duryodhana と Kaurava に対する勝利を確実にする天上の武器を授けてもらうよう神々を動かすような苦行を行うために(旅立った)。Mandāra 山に達すると、空から彼に止まるよう呼びかける声が聞こえた。そして Indra がその栄光のすべてをもって現れ、もし Śiva 神の心を和らげることに成功するならば、神的な武器を与えようと約束した。そこで Arjuna はきわめて厳しい苦行の行程に入ったので、Śiva はすっかり満足した。しかし Śiva は山の民の姿をとって Arjuna と一騎打ちを交えることにより、崇拝者の武勇を試した。Arjuna は敵に何の打撃も与えることができず、ついに神であることを見破り、Śiva の足下に平伏した。すると Śiva は彼に、自らの最も強力な武器の一つを与えた。その後、宇宙の四方の神々、すなわち Indra, Yama, Varuṇa, Kubera が Arjuna の前に現れ、それぞれ自らの固有の武器を彼に授けた。それから Arjuna は Indra の戦車で Indra の天である Amarāvatī の都へ運ばれた。そこで彼は多年にわたって武器の使用を修練し、ついに Indra によって海の daitya と戦うために遣わされた。

Arjuna の海の daitya との戦いに関する神話的な記述も、たとえ想像力の産物としてのみであっても注目に値する。空を飛ぶ戦車に乗って海岸に近づくと、Arjuna は海が巨大な山のように盛り上がるのを見、紅玉を満載した船や、山ほども大きな魚や亀を見た。彼が法螺貝を吹くと daitya たちは恐怖に震えたが、彼らは返礼として太鼓とラッパを高らかに鳴らしたので、深海の怪物たちは波の上に躍り上がった。幾千の daitya が彼に襲いかかったが、彼は矢を放ちながら強力な mantra を唱え、彼らすべてを寄せつけなかった。彼らは火と水と山々を彼の上に雨と降らせたが、彼は最後には勝利し、彼らをことごとく殺した。すると女たちが鶴のように叫びながら出て来たが、Arjuna は彼女たちを通り過ぎて都に入った。そこで彼は、孔雀の色をした千頭の馬の牽く戦車を見た。その間、女たちは彼の戦車の轟きに怯えて家々に逃げ込んだ。その装身具の音は、山に石が落ちる音に似ていた。この勝利の後、Arjuna は Indra のもとに帰り、大いなる賞賛をもって報いられた。神々の主権者は彼に金の鎖と冠、そして雷のように鳴り響く法螺貝を贈った。」

これらの奇抜な神話の後、Arjuna は十三年の流浪が満了するまで、音楽と舞踊の教師として Rājā Virāṭa に仕えたと言われる。Pāṇḍava の復権のための交渉が行われたとき、Arjuna は Kṛṣṇa を味方につけることに尽力した。Kṛṣṇa は、続いて起こる戦争において彼の戦車の御者を務めることを約束した。かの名高い対話 Bhagavat Gītā が行われたのはこの時である。戦争の初日、Arjuna は Bhīṣma と戦った。翌日には、Bhīṣma に撃退された Pāṇḍava 軍を立て直した。Bhīṣma は不本意ながら彼と再び戦った。彼はまた息子 Abhimanyu を Duryodhana から救い出した。Bhīṣma との別の凄まじい戦いにおいて、Bhīṣma は致命傷を負った。その後 Arjuna は Suśarmā とその四人の兄弟から挑戦を受けた。Yudhiṣṭhira の助言に反して彼は挑戦を受け、Suśarmā とその兄弟を打ち破った。別の場所で再び Suśarmā と戦ったが、彼の不在の間に、息子 Abhimanyu が六人の Kaurava の首長によって殺された。これを聞いた Arjuna は悲嘆に打ちのめされ、翌日の日没までに Jayadratha の命を奪うと誓った。彼はこれを成し遂げ、ほどなくして三日月形の矢で Karṇa を殺した。両軍は戦いを止め、神々は Arjuna と Karṇa との戦いを見届けるために天から降りて来た。

Mahābhārata は次に、Yudhiṣṭhira が行うことを決意した大 aśvamedha(馬祀祭)に先立って、捕らえられ一年間放たれた馬にまつわる Arjuna の冒険を語る。これらの冒険は、馬がさまよったとされる国々に関わる十二の伝説を成す。その第七において、Arjuna は Maṇipura の都で自らの息子 Babhruvāhana に殺され首を刎ねられるが、地下の蛇の都からもたらされた宝珠を当てることによって蘇生する。Prabhāsa における殺戮の後、Arjuna は Kṛṣṇa によって Dvārakā に呼び寄せられ、到着すると残った人々に都を去るよう指示した。今や彼の力は彼を去った。彼は Vyāsa から世俗の事を捨てるよう助言され、他の Pāṇḍava 兄弟とともに Himālaya 山中で死んだ。その孫 Parīkṣit(Abhimanyu の子)が Hastināpura の rājā(王位)を継いだ。

arthaneśvarī Śiva の一形態で、左半身は Pārvatī である。これは疑いなく、能動的な神格と受動的な物質との結合、そしてそこから生ずる創造という観念を、貞潔な形で伝えるための初期の象徴的表現である。

artha brāhmaṇa-s Kerala Ulpatti によれば、Paraśurāma が Malayalam 海岸において大洋から広い帯状の領土を取り戻したとき、彼は一部の漁師を他の人々に対して brāhmaṇa として奉仕させるために選び出し、彼らの呼びかけに応じて来ることを約束した。しかし彼らは彼の不興を買うような振る舞いをした。そこで彼は彼らの資格を剥奪し、Hai Kṣetram から純粋な brāhmaṇa の移住者を呼び寄せ、祭式と儀礼の事柄において人々の管理を彼らに委ねた。漁師たちは「brāhmaṇa」の称号をもっていた。— TAYLOR

arthaśāstra 知識の十八の主要部門の一つ。すなわち、最初に Bṛhaspati によって定められた統治の学。

arthasādhak rājā Daśaratha の財務大臣。

arbuda Ṛgveda に言及される強大な dasyu。Indra に打ち負かされ、足下に踏みにじられた。

arbuda-s Guzerat の Abu 山周辺の人々。Purāṇa においては Arbuda と呼ばれる。

aryaka サンスクリット戯曲 Toy-cart(Mṛcchakaṭika)に登場する牛飼い。当時 Ananti すなわち Ougein(Ujjayinī)で王位にあった弱く人望のない王に対して謀反を企てた。Aryaka は「象のような腕、巨大な牙、獅子のように逞しい胸と肩、赤銅色の眼」をもつ男として描かれる。彼は王位を手に入れることに成功した。

aryabhicita Śālivāhana 紀元16世紀に Agrahāra に住んだ名高い Draviḍa の brāhmaṇa。同時代の人々は、Śiva への帰依とその大いなる学識のゆえに、彼を Śiva の流出とみなした。神学、修辞学、哲学に関する84冊の書の著者と言われる。九十歳で Chillumbrum において没した。

aryaman Vaivasvata の manvantara における十二 Ādityas の一つ。

arvāvasu 七つの主要な太陽光線の一つ。木星に熱を供給するもの。

arhat

1. Ṛṣabha によって改宗させられた南 Karnataka の王。2. Jaina の間で神格化された聖者の名。3. Jaina あるいは仏教徒の間における完全な聖者。悪しき欲望が完全に滅ぼされた者。神々と人間の礼拝を受けるに値する者。

arhata-s Jaina に用いられる名。jaina-s の項を参照。

alaṃkāra 装飾、飾り。Alaṃkāra は、日々守るべき儀礼の一つとしてしばしば言及され、その場合は装身具を身に着けることを意味する。Alaṃkāra Śāstrī は修辞学を意味する。この主題については種々の論書が存在するが、本質的価値のあるものはない。

alaka 六万六千年の間地上を統べた王。この長寿は Lopāmudrā の恩寵によって享受されたものである。Kāśī にかけられた呪いが終わる時まで生きた彼は、Divodāsa に放棄された後この都を占拠していた rākṣasa Kṣemaka を殺し、都に再び人が住むようにした。

alakanandā Ganges 河の四大支流の一つ。Śiva が百年の間頭上に戴いた河であり、Sagara の罪深い息子たちの遺灰を洗って彼らを天に昇らせた河である。

alakā 富の神 Kubera の Himālaya における住処。'Cloud Messenger'(Meghadūta)において至福者の都と呼ばれ、比類なく愛らしい乙女たちの住む所として描かれている。乙女たちは、自らに最もふさわしい花を選ぶことを学ぶ。

春の輝かしき栄光なる不凋花、
夏の水より摘まれし蓮、
額のまわりにまとうことを教えられしアカシア、
髪にちりばむ jasmine の香しき白、
そして汝の雨に綻ぶ若き Kadamba の蕾。*

* Griffith の訳。

allama prabhu Vīra Śaiva の間で、Śiva の小化身あるいは一形態とされる者。彼は Brahman(brāhmaṇa)であったらしく、年長の Bāsava と緊密に協力して行動した。それが主たる扇動者としてであったのか、後の共犯者としてであったのかは明らかでない。しかし彼は Bāsava の guru すなわち霊的指導者となり、その資格において、王 Bijala が殺され新しい宗教が確立された Kalyāṇapuri の変革に関与した。Prabhu linga līlā は Telugu 語の通俗的な詩であり、Śiva の一形態としての Allama Prabhu の偉大な美徳、とりわけその貞潔を称揚するために特に作られたものである。その貞潔は、Pārvatī の tāmasa guṇa すなわち悪しき部分のあらゆる誘惑に抗した。その悪しき部分は、彼を誘惑するために、Māyā あるいは Frans という女として化身したのである。「Bāsava Purāṇam においては、Allama Prabhu は各地を、とりわけ Telingana の Śrī Śailam を遍歴し、種々の奇蹟を行い、不死身の身体をもっていたと述べられている。その死の様子については、何の記録も見出されていない。」—(TAYLOR)Prabhu-linga līlā の優れた梗概が、C. P. Brown によって Catalogue Raisonné, vol. 2, p. 838 に載せられている。

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