jātaka(本生譚) 誕生。存在の状態。仏教徒の聖典の一つの題名。550の異なる誕生における Gautama Buddha の記述を含む。
↑ ↓ または j / k で項目を移動
jātaka(本生譚) 誕生。存在の状態。仏教徒の聖典の一つの題名。550の異なる誕生における Gautama Buddha の記述を含む。
jābāla-s 白 Yajus である Vājasaneyi の一分派の学生。
jābālā Satyakāma の母。彼女は息子に、その父が誰で、彼がどの gotra に属するかを告げることができなかった。それゆえ息子は brahmacārin となる許しを得ることにきわめて大きな困難を味わった。satyakāma の項を参照[本書に該当項目なし]。
jāmbavat 熊の王。syamantaka 宝珠の所有者 Prasena を殺した獅子を殺した。獅子は Jāmbavat に殺されたとき宝珠を口にくわえていた。Jāmbavat は宝珠を持ち去って洞窟に退き、それを息子 Sukumāra に与えて遊ばせた。Prasena の殺害が Kṛṣṇa に帰せられたので、彼は宝珠を取り戻すことを決意し、Jāmbavat の洞窟を見つけると、輝く宝石が乳母の手にあるのを見た。乳母は大声で助けを呼んだ。その叫びを聞いて Jāmbavat が洞窟に入って来て、彼と Kṛṣṇa との間に争いが起こり、それは二十一日間続いた。ついに Jāmbavat は打ち負かされ、Kṛṣṇa の神性を認めた。Kṛṣṇa はそれから熊が戦いで受けた身体の苦痛を和らげた。Jāmbavat は平伏し、syamantaka 宝珠とともに娘 Jāmbavatī を差し出した。Jāmbavat は Laṅkā の攻囲において Rāma の軍の将軍の一人であった。彼は Indrajit の魔法の武器によって重傷を負ったが、なお意識があり、Himālaya 山脈の Kailāsa に生える四つの薬草の存在を Hanumān に知らせた。その薬草の力によって死者と負傷者はみな回復しうるのであった。Hanumān はただちにその地へ飛び、山頂とその内容物すべてを陣営に持ち帰った。そして Jāmbavat は他の首長たちとともにまもなく回復した。
jāmbavatī 前項[ママ]に語られるようにして得られた Kṛṣṇa の妻の一人。
jāmbunada Jambu 河の岸の土は、Jambu の汁を吸い込み、穏やかなそよ風によって乾かされて、Jāmbunada と称される金となる。siddha の装身具はこれから作られる。
jāvāli 名高い論理学者。Citrakūṭa において、Bharata 自らが rāj(王位)を差し出したのであるからそれを受けることが Rāma の義務であると説き伏せようとした。Rāma は彼の議論を無神論的で、亡き父 Mahārāja への敬意に欠けるものとみなした。Jāvāli は最後に前言を撤回する。Wheeler 氏はこの出来事を、仏教と無神論を反駁するためにそれらを持ち出す挿入とみなしている。
jāhnavī 上に語られたように Jahnu の娘としての Gaṅgā の名。
jimala 名うての盗賊。彼については次の伝説が語られている。ある日、彼は虎に不意を襲われ、恐怖のあまり「おお Hari よ、Hari よ」という言葉を口走った。神はただちに助けを送り、Jimala をその危険から救った。盗賊は神の介入にいたく感謝して、その場所に祠を建て、苦行者となった。
jillika-s VP に言及される原住部族すなわち非 Ārya 部族の一つ。
jīmūta Jyāmagha の子孫 Vyoman の子である王子。
jīmūtaketu 仏教神話における Vidyādhara すなわち天の楽人の王。Hindu 教の gandharva に相当する。
jīmūtavāhana Jīmūtaketu の子で、Vidyādhara の王子。Nāgānanda(その項を参照)の主人公である。
jīva(個我) 霊魂。「霊は変化することができない。知性は知識をもたない。霊魂(jīva)は事物を過剰に知って幻影に服し、『私は行う、私は見る』と言う。もし霊が、人が縄を蛇と思い込むように、個別の霊魂 jīva を自分自身であると思い込む誤りに陥るならば、それは怯える。しかし『私は jīva ではなく至高の霊(paramātman)である』と悟るや、それはあらゆる恐れから解放される。」— Ātma Bodha、A&MI, Vol. I, p. 212 に引用。
jīvaṭa 人の個別の霊。「生命の霊(すなわち人の個別の霊 jīvaṭa)を至高の霊に帰することは、柱を人と取り違えるのと同様に誤りである。ひとたび jīvaṭa の真の本性が認識されれば、jīvaṭa そのものは消え失せる。」— Ātma Bodha、A&MI, p. 214 に引用。
jṛmbhaka 眠気を引き起こす天上のあるいは魔法の武器。これらの武器はきわめて理解し難い性格のものである。そのあるものは時に飛び道具として振るわれるが、一般には個人が行使する神秘的な力であるように見える。たとえば敵を麻痺させる力、その感覚を眠りに固く閉じ込める力、あるいは天から嵐と雨と火を呼び降ろす力などである。Rāmāyaṇa の第一巻には、これらの武器の百の一覧が掲げられている。— WILSON, XI, 297.
jṛmbhikā 「あくび」。Brahmā の一形態すなわち顕現。— VP, 40.
jaitra Kṛṣṇa の車の名。
jaina-s(Jaina 教徒) Jaina は西暦紀元の8世紀と9世紀にきわめて数多く重要な宗派であった。その体系の創始者は Hindu の Ṛṣabhadeva であったが、体系そのものは仏教の分枝あるいは後の成長であり、多くの主要な教義を仏教と共有しているが、万物の神的・人格的な支配者を認めることと、Brāhmaṇa 教への政治的傾斜とによって仏教から区別される。Jaina は、Deccan の種々の地方、およびその体系の揺籃と称されてきた Mewar と Marwar の州に建てた見事な寺院において、その技と力の多くの記念物を残している。Jaina の文献はきわめて広範であり、彼ら自身の Purāṇa のほかに、文法、天文学、数学等の種々の著作を含む。彼らは Canarese 語を初めて文字に記し、それを高度の完成にまで洗練した。Tamil 語の最良の叙事詩 Cintāmaṇi は Jaina の作である。
「Jaina の主要な教義、そして彼らを他の Hindu から主として区別するものは、第一に、Veda の神的起源と無謬の権威の否認、第二に、自己否定と禁欲の実践によって神々よりも優れた地位を得た、今日 tīrthaṃkara すなわち聖者と称されるある聖なる人間たちへの崇敬、第三に、動物の生命に対する極端な、滑稽なまでの優しさである。
Jaina は今なお上 Hindustān の大部分の州、Ganges 沿いの都、Calcutta に見られるが、とりわけ西方に多い。彼らはまた Gujarat、Malabar 海岸の上部に数多く、半島全体に散在している。彼らは今なおインドの人口の大きく重要な一区分を成している。この宗派の名は Jina の追随者を意味し、Jina は彼らの神格化された聖者の呼称の一つである。そしてこれらの聖者のもう一つの名が arhat であるので、Jaina は arhatta とも呼ばれる。」— WILSON.
以下の Jaina 教の記述は、Munshi Śāstram Aiyar によって Tamil 語で書かれたものである。*
「Jaina は、まことに、自らの体系のみが世界の原初の体系であったと信じている。他のすべての体系はそれから派生したこと。彼らの体系の学識ある教授のある者たちが、その生きた時代の欠陥によって種々の他の体系を形成したこと。mokṣa[至福]はこの体系においてのみ得ることができ、他のいかなる体系においても得られないこと。これのみが真の体系であること。そして他のすべての体系は虚偽を真理と信じていること ── を信じている。
「Jaina は、世界は永遠の昔から存在し、破壊されることなく永遠に存在し続けるであろうこと、そしてそれは神によっても他のいかなる者によっても創造されたのではないことを、断固として主張する。彼らはさらに、この世界は三つの部分、すなわち下の世界、中の世界、上の世界に分けられていると主張する。この世界の下には adhogati[深淵、最下の地獄]と呼ばれる世界があり、その上に七つの地獄界がある。さらにその上に十の pavanaloka、浄化の世界[煉獄]があり、その上にこの地上の世界がある。その上にさらに jotiloka、光の世界[星の世界]がある。そしてこのわれわれの地上の世界には二つの世界、すなわち vyantraloka、悪鬼の世界と、vidyādharaloka、半神の世界とが含まれる。そしてさらにその上に十六種の devaloka、神々の世界があり、その上に ahamindraloka、Indra の世界がある。そしてさらにその上に mokṣaloka、至福の世界がある。そこには、これらすべての世界の主、anādi-citta-parameṣṭhi[永遠にして知的な天上の住者]と呼ばれる至高存在が住む。
「彼らは、この大地は高さ十六縄、幅七縄であると信じている。しかしこの測定は人間の理解の内にはなく、賢者にのみ知られている。地上に位置する海と島々は、人間の悟性によって知覚し見積もることはできない。彼らは、大地の中央に大山 Meru があり、その南に Bhārata 地域、北に Airāvata 地域、東と西に Videha 地域があると主張する。彼らはまた、Meru 山の両側に三種の Bhogabhūmi、すなわち豊穣あるいは至福の地域があり、これらの地域の住民は大いなる年齢と大きさに達すること、彼らは場所を交換できないこと、一方の地で昼であるときもう一方では夜であることを主張する。Videha の人々もまた大いなる年齢と背丈に達する。
「Jaina は Arugan を主要な神とみなし、彼を崇拝する。この神の通称は Jinan であり、Jaina の呼称はこれに由来する。この神には千八の聖なる名が帰せられる。その偉大さはかくのごとく、三界が彼を崇拝し崇める。その知識はかくも大きく、有情と非情のすべてのもの、すでに考えられたものとこれから考えられるもの、諸世界と世界なき空間とに同時に及ぶ。彼は、心、言葉、身体の助けなしに、あらゆる種類の生き物に、それぞれの言語で同時に自らの教義の知識を授けることができる。そしてこれを彼は純粋な恩寵からなし、いかなる利己的な動機からもなさない。彼は何ものかを創造する力[行為]も、何ものかを保持する力ももたない。彼は誕生にも死にも服さない。彼はすべての有情に大いなる恩寵と愛と慈悲を示す。彼は無限の智慧、無限の知性、無限の力、無限の至福をもつ。初めに、すべての生き物に幸福をもたらすことを目的として、十二の原初の Veda を知らしめたのは彼である。彼は三重の傘をもつ者である。彼は始めもなく終わりもない。彼は正義の三つの輪をもつ者である。彼は四つの聖なる顔をもち、asoka 樹の陰に座るものとして表される。彼は生の百四十八の行為を捨てた。彼は、Veda、世界、時、霊魂、行為、徳が、彼自身と同様に不滅にして永遠の対象であると宣言した。
「神 Arugan は、自分のほかに神はないこと、自分を崇拝し崇める者はみな至福を得、自分を崇拝しない者は至福を得ないこと、すべての生き物はその善あるいは悪の行為の果実を享受すること、悪の優勢によって霊魂は地獄に入り、善の優勢によって神々の世界に入ること、しかし善と悪とが等しく釣り合うときには人間として生まれ、悪のみが存在するときには理性なき動物として生まれ、善と悪の双方が滅ぼされるときには解脱することを宣言した。Arugan がこれらのことを宣言したので、Jaina はそれらを真の教義であると固く信じている。そして他のすべての体系はある人々によって中途で導入されたものであるから、彼らはそれらをすべて偽りの体系であると断言する。
「時は永遠であるとみなされているので、その本性において不滅であり、二種、すなわち utsarpiṇī の時と avasarpiṇī の時とに分けられる。avasarpiṇī の時は六つの段階、すなわち善善の時、善の時、善悪の時、悪善の時、悪の時、悪悪の時をもつ。同様に utsarpiṇī の時も六つの段階をもつが、それは表の最下の悪悪の時から始まって逆向きに進む。悪悪の時から始まる utsarpiṇī の時においては、人間の年齢と背丈は満ちていく月のように増大する。しかし善善の時から始まる avasarpiṇī の時においては、人間の年齢と背丈は満ちていく月[ママ]のように減少する。背丈の増減は六千 vil[弓]までと、一キュビトまでである。年齢の増減は三 pallam から十五年までである。pallam の数え方は人間には理解されない。上に特定した時の六つの区分のうち、第一は四千万の千万倍の大洋年から成る。第二は三千万の千万倍の大洋年から成る。第三は二千万の千万倍の大洋年から成る。第四は四万二千年を除く一千万の千万倍の大洋年から成る。第五は二万年から成る。第六もまた二万年から成る。この大洋の数え方は人間には理解されない。われわれが今生きている段階は第五、すなわち悪の時である。二種の時、すなわち utsarpiṇī と avasarpiṇī の時が尽きると、それを一 yugam と言う。Utsarpiṇī は増大の時代を、avasarpiṇī は減少の時代を意味する。
「現在は avasarpiṇī の時であるから、三つの善い時の段階はすでに過ぎ去り、Bhārata 地域と Airāvata 地域はともに Bhagabhūmi、すなわち豊穣の地であったと推論せねばならない。その時代の人々は、前述のように、その時にふさわしい身体の背丈と年齢の長さをもっていた。その時代の人々は、生後四十五日で完全な人間となり、あらゆる学問に精通し、単にその時の形成力によって、自らあらゆる知識に達した。さらにこれら三つの時の段階においては、太陽の光も月の光もなく、昼と夜は kalpaka 樹の反射と非反射とから形成された。その人々は死ぬと神々の世界に入り、地獄には行かなかった。また彼らは、病や身体の排泄等に関わる通常の身体的な禍に服さなかった。
「こうして Bhogabhūmi の存続の後、第三段階においてなお時の八分の一が残っていたとき、十四人の Manu が生まれた。太陽と月、星と雲が現れたのは、これらの Manu の時代であった。年と月への時の区分、分点あるいは至点の運行、太陰の半月すなわち二週間、六つの季節、二十四時間の一日、夜と区別される昼が定められた。野獣から生ずる禍を防ぐ手段が発見された。河、貯水池、溜池、山々、そして種々の生計の手段が用いられるようになった。上述の Manu のうち、第十四は Nābhi Mahārājaḥ であったと言われる。この Manu の治世には、人々が臍の緒をつけて生まれたので、Nābhi(臍)の名が与えられた。その治世に雲が現れ、雨が降った。それから木々と種々の穀物が現れた。この Manu によって、人々は果実と穀物を食べることと、食物を調える方法とを教えられた。彼はまた綿から布を織りそれを着る方法を示し、身を飾るために花、花輪、香料、装身具を用いることが流行するようになった。
「この Nābhi Mahārājaḥ は、ある者によれば Brahmā であると言われる。その妃は Murudeviammal であった。その治世に、Vṛṣabha tīrthaṃkara という名の最初の化身の人物が生まれた。彼の後に、彼と等しい二十三人の tīrthaṃkara が生まれた。彼らの時代に、十二人の Cakravarti、九人の Baladeva、九人の Vasudeva、九人の Prativasudeva が、みな第四段階において生まれた。これら六十三人は śalākā puruṣa、すなわち神的人物と呼ばれた。
「二十四人の tīrthaṃkara は、guru の教えなしに諸学の全範囲に通じ、五つの Kalyāṇa すなわち神々の儀式を知り、四部類の神々によって崇拝され、まさに誕生の時に三種の知識を授けられていた。彼らはまた第四の種類の知識をもち、その行使によってすべての生き物の思いを知った。そしてまた kevalajñānam[霊的知識]と呼ばれる第五の種類の知識をもち、それによってすべての世界でなされるすべてのことを瞬時に知った。彼らは、Devendra たちによって建てられた Sambhavasaraṇam と呼ばれる寺院において、玉座の上に高く座した。彼らは三重の傘と aśoka 樹とを所有する者であった。彼らは、神々の上なる神として、全知者として、三界の主として、罪を除き天の至福を授ける者として、すべての生き物に讃えられる者として、神的な属性をもつ者として、千八の神的な呼称を帯びる者として、その聖なる身体に千八の神的なしるしをもつ者として、すべての生き物に豊かな恩寵と愛と慈悲を示す者として信じられた。そして天上と地上の世界の住人、nāgaloka、vaiyantriloka、jotiloka の住人、さらには理性なき動物にまで、それぞれの言語で教えを授けることにおいて卓越し、十二の Veda に定められた殺さないこと等の徳を教え込んだ。これら二十四人の tīrthaṃkara は智慧の化身であり、世界に現れて天の至福の享受に達した神的人物であるから、Jaina は彼らを、この avasarpiṇī の時に存在する神的本性の Arugan に等しい svāmī とみなす。それゆえ彼らはこれらの tīrthaṃkara を称えて寺院を建て、石、木、金、宝石で彼らに似た像を作り、これらの偶像を神 Arugan その人とみなして、日々のまた特別の pūjā[礼拝]を行い、断食を守り、彼らを称えて祭りを祝う。
彼らはさらに、Vṛṣabha tīrthaṃkara の時代、最初の Cakravartī である Baradeśvara の治世に、四つの caste、すなわち brāhmaṇa、kṣatriya、vaiśya、śūdra がこの体系に関連して定められたと言う。
彼らはさらに、最初の tīrthaṃkara である Vṛṣabha Svāmī の時代に Śaiva の体系が初めて導入され、ほぼ同じ時期に、時の欠陥によって、Prajāpati[族祖]である Marīci によって百六の異端の宗派が確立されたこと、そして第十三の tīrthaṃkara である Vimalasvāmī の時代から Vaiṣṇava の体系が導入されたこと、そして第二十の tīrthaṃkara である Pārśvanātha[ママ]の時代に Mahomedan 教が確立されたことを主張する。彼らはまた、三百三十六の偽りの宗教体系があると言う。
彼らはさらに、第二十の tīrthaṃkara の時代に、時の欠陥によって、yāgam すなわち動物の供犠が Mahākālesuran という名の asura によって初めて導入され、これらの yāgam の導入の後に Śiva と Viṣṇu のための寺院が建てられたと断言する。
さらに、Jaina の Veda において、種々の Hindu の宗派によって崇拝されるすべての神々、すなわち Śiva、Brahmā、Viṣṇu、Gaṇapati、Subrāmaniyan その他は、上述の tīrthaṃkara の熱心な信奉者であったと宣言されているので、Jaina は彼らを崇拝に値しないものとはみなさない。しかし彼らは Arugan の僕であるから、Jaina は彼らを自らの体系の神格とみなし、それゆえ彼らを称えてある種の pūjā を行い、彼らをも崇拝する。
Jaina の寺院と偶像はすべての村と国に、場所によっては地下にさえ見られるのであるから、Jaina の体系は、その Veda に宣言されているとおり、Hindu の原初の体系であったことは明らかである。さらに、Jaina の Veda を注意深く調べれば、その中に人類を益するよう意図された多くのことが見出されるであろうこと。Jaina の偶像はすべての国に見られること。他の者たちが崇拝する神格は Arugan の帰依者であると信じられていること。Arugan の教えのすべてはすべての有情にとって善いことのみを指し示していること。そして、いかなる有情も、たとえ一本の木であっても滅ぼされてはならないという偉大な教義によって。またこの体系には人間の理解の及ばない、いかなる手段によっても理解しえない多くのことがあること。そして他のすべての体系が時の欠陥によって、誤解によって、その他種々の原因によって彼ら自身の間から生じたことが、その Veda からも経験からも明らかであること。これらのゆえに、この体系が原初のものであったことは明らかである。
Jaina は二つの党派、Śvetāmbara と Digambara に分かれる。両派は同じ Veda をもつが、いくつかの事柄において意見を異にする。Śvetāmbara には多くの内部の区分があり、Digambara にもいくつかの内部の区分があるようである。
Jaina は北方に広く行われている。その教義と行事は次のとおりである。彼らは、いかなる有情をも殺さないことが最大の徳であると信ずる。嘘をつかないこと、他人の財を盗まないこと、他人の妻を欲しないこと、そして金銭、利得、家、庭、土地、乗り物、衣服等のものを節度をもって欲すること。これら四つの戒律を、彼らは殺すなかれという命令と同等に重要であるとみなす。
さらに、夜に食べないこと、濾した水を飲むことが高い徳とされる。そして椰子酒、蜜、arrack(蒸留酒)を飲まないことも重要な命令であると信じられている。彼らはまた、無花果、banian(榕樹)の実、peepul(インドボダイジュ)の実、koli と jujube(棗)の実、ならびに snake-vegetable(ヘビウリ)、calabaś(ヒョウタン)、gunjah(bhāng)、阿片、玉葱、阿魏、大蒜、大根、茸等を食べることを禁じられている。こうした品々、および種を多く含む他の品々を、彼らは、それを控えれば死が差し迫るような緊急の場合でさえ食べることを考えさえしない。そしていかなる種類の肉も、うっかり手で触れることさえしない。
これらおよび同様の行事は家庭の状態に生きる者に命じられている。それらについて詳しく書けば多くの書物が必要となるであろうから、われわれが言うべきことは要約しよう。実際彼らには守るべき一万二千の命令がある。しかし苦行の状態に生きる者に関しては、書くにも読むにも多くの時間を要するであろうから、あえて記述しなかった。しかしながら、彼らが、家庭の状態には究極の解脱[至福]はなく、苦行の状態にのみあること、また解脱は女、理性なき動物、śūdra、天上の存在、地獄の存在によっては達成されないことを固く信じていることを知っておく必要がある。そして彼らはさらに、時の第五と第六の段階の間は誰にも解脱はないという主張をあえてなし、時のみがこの禍の原因であることを示す。彼らはまた、地上にはつねに九千万に三人足りない muni[苦行者]がいると断言する。
Jaina は、神的存在の働き[行為、業]はすべての生き物に愛と慈悲を施し、彼らに Veda を啓示して、彼らがそこに命じられた戒律に従って歩むようにすることであり、すべての生き物の働き[行為、業]は善か悪かをなし、その行いの果実を享受することであると考える。そして天あるいは地獄を得ることもまた彼ら自身の行為であり、罪を捨てて功徳を得ることは彼ら自身の力のうちにあると考える。これを彼らは真の教義とみなす。」
Max Müller によれば、仏教徒の nirvāṇa は絶対的かつ全面的な消滅である。しかし Jaina は確かにその語にそのような意味を付していない。彼らにとってそれは、Hindu の mokṣa よりもいっそう明確に規定された存在の状態である。「Jaina はそのような状態があると主張するのみならず、解脱した霊魂の大きさ、彼らの住む場所、その触知しうる性質、その存在の存続期間、互いの距離、その部分、本性、数を規定する。この nirvāṇa、この行為の消滅、この究極の解脱に達した者は世俗の状態に戻らず、その至福には途切れがない。彼らは完全な視力と知識をもち、業に依存しない。」(REV. J. STEVENSON, The Kalpa Sūtra.)
* Rev. H. Bower, Cintāmaṇi(Madras, 1868)より。[原文ではこの脚注は次の段落の後に置かれている]
上に掲げた Munśī Śāstram からの抜粋で述べられているように、Jaina は二つの主要な区分、Digambara と Śvetāmbara とに分かれる。前者の語は「空をまとう者」すなわち裸を意味するが、今日ではこの区分の苦行者は色のある衣を着て、衣服を用いないことを食事の時間に限っている。Śvetāmbara は「白い衣をまとう者」を意味する。しかしこれら二つの区分の間の相違点は、決して衣服のそれに限られない。それは七百の論点の一覧を含むと言われ、そのうち八十四が最も重要とみなされている。後者の中には、Śvetāmbara が聖者の像を金と宝石の耳飾り、首飾り、腕輪、冠で飾る慣行が挙げられる。一方 Digambara は像を装飾なしに置く。また Śvetāmbara は十二の天と六十四の Indra があると主張するのに対し、Digambara は十六の天と百の Indra があると主張する。南インドでは Jaina は二つの caste に分かれ、上 Hindustān では彼らはみな一つの caste である。しかし注目すべきことに、彼らは自らの間に、互いに通婚することのできない多くの家系を認めている。そしてこの点においてもまた、宗教法典において同様の制限を設けた古代の Brāhmaṇa 系 Hindu に似ている。
Jaina の信条の神々の体系については、それは Brāhmaṇa 系の諸宗派のそれよりもいっそう空想的である。それは大部分そこから借りられているが、Veda 時代の神々に内在する詩的・哲学的な興趣を何らもたない。四つの部類と種々の下位区分に分けられる神的存在の無数の群れの中で、彼らは最高の位を神格化された聖者に与える。彼らはこれを Jina、arhat、tīrthaṃkara、その他種々の総称で呼ぶ。Jaina は、過去の時代の二十四人の tīrthaṃkara、現在の時代の二十四人、来たるべき時代の二十四人を数え、これらの聖なる人物に、最も途方もない性格の三十六の超人的属性を付与する。これらの属性は同一であるにもかかわらず、彼らは現在の時代の二十四人の Jina を、色、背丈、寿命によって互いに区別する。そのうち二人は赤く、二人は白く、二人は青く、二人は黒く、残りは金色あるいは黄褐色である。他の二つの特色も同様の精密さをもって、また漸減の体系に従って定められている。すなわち、背丈五百 pole で、8,400,000の大年を生きた最初の Jina である Ṛṣabha から、人間の大きさにまで退化し、地上にわずか四十年しかいなかった第二十四の Mahāvīra に至る。その先行者 Pārśvanātha の寿命は百年を超えなかった。現在の礼拝はほとんど最後の二人の tīrthaṃkara に限られている。そしてこれらの人物の背丈と年数には合理的な可能性があるので、H. T. Colebrooke は、彼らのみが歴史上の人物とみなされるべきであると推論した。さらに、Mahāvīra の弟子の中に Gautama と呼ばれる Indrabhūti という者がおり、Gautama は仏教の創始者の名でもあるので、この傑出した学者は、もしこれらの名の同一性を想定しうるならば、両宗派が同じ幹の分枝であるというさらなる推測に導くであろうと結論した。しかし、Jaina の宗教に紀元前543年 ── Gautama Buddha の神格化に一般に帰せられる年代 ── よりもさらに高い古さを割り当てることになるこの見解に対して、Wilson 教授はいくつかの理由を挙げている。しかしながら、Jaina 信仰の起源の真の年代については、同じ学者が正当に述べているように、それは Hindu の間のあらゆる遠い歴史を包む同じ闇に沈んでいる。われわれは、現存する Jaina の文献とそれが教え込む教義とから、それが仏教より後に存在するに至ったと推論しうるのみである。
jaimini Vyāsa の弟子で、Sāmaveda の教師。また13世紀頃に生きた南インドの名高い著作家の名でもある。彼は馬の供犠を詳述する Mahābhārata の Aśvamedhika Parva をサンスクリットから自由に翻訳した。この作品はすべての宗派によって、現存する Canarese 詩の最も優れた見本と認められている。「彼は Jaimini を読んだ」というのは「彼は教養ある人である」に相当することわざである。
jaughira Bhagalpur と Monghyr の間にある、興味深く絵のような巡礼地。河の中ほどに、Śiva に捧げられた寺院を頂く趣のある岩がある。一方本土の小さな町の近くには同じ種類のもう一つの丘があり、その上に寺院が建てられている。そのいくつかはきわめて古い。この地は長く、Mussalman と Hindu の双方の聖なる帰依者の住まいとしての名声を享受してきた。
jñāna(智) 「智慧」。Yoga 哲学においてそれに用いられる種々の形容語は、それが「修行を要しない」「抽象的観想の実践なしに」「教えられえない」「命じられえない」「内に遍満する」等というものである。「あらゆる手段のうち、知識のみが解脱をもたらしうる。火なしに調理がありえないように、jñāna すなわち知なしには究極の救済はありえない。」— Ātma Bodha, A&MI, Vol. I, p. 210.
jyāmagha 妻への献身で名高い王。「妻に従順なすべての夫のうち、過去にいた者、未来にいるであろう者の中で最も傑出しているのは、王 Jyāmagha である。彼は石女である Śaivyā の夫であったが、Jyāmagha は彼女をひどく恐れていたので、他の妻を娶らなかった。ある時、王は象と騎兵との必死の戦いの後、強大な敵を打ち破った。その敵は、妻、子、親族、軍、財宝、領土を捨てて逃げた。敵が敗走させられると、Jyāmagha は一人取り残された愛らしい王女を見た。彼女は大きな眼を恐怖に狂おしく回しながら、『お助けください、お父さま。お助けください、お兄さま』と叫んでいた。王は彼女の美しさに打たれ、彼女への情愛に貫かれて、心の中で言った。『これは幸運だ。私には子がなく、不毛の花嫁の夫である。この乙女は子孫を育てるために私の手に落ちたのだ。私は彼女を娶ろう。しかしまず彼女を車に乗せて宮殿へ運ぼう。そこで私はこの婚礼に王妃の同意を求めねばならない。』そこで彼は王女を車に乗せ、自らの首都に帰った。
Jyāmagha の接近が告げられると、Śaivyā は大臣、廷臣、市民を従えて宮殿の門に来て、勝利した君主を迎えた。しかし彼女は王の左手に立つ乙女を見ると、唇は膨れ、憤りにかすかに震え、Jyāmagha に言った。『あなたと車に乗っているこの浮ついた娘は誰ですか。』王は返答の用意がなく、王妃への恐れから慌てて答えた。『これは私の嫁だ。』Śaivyā は言い返した。『私は息子をもったことがありません。そしてあなたには他に子はありません。それならこの娘はあなたのどの息子の妻なのですか。』王は Śaivyā の言葉に表れた嫉妬と怒りに当惑し、さらなる争いを防ぐために彼女にこう答えた。『彼女は、汝が産むであろう未来の息子の若い花嫁なのだ。』これを聞いて Śaivyā は優しく微笑み、『そうなりますように』と言った。そして王はその大宮殿に入った。」— VP.
jyeṣṭha 5月に相当する太陰月。
jyeṣṭha 不運の女神。Padma Purāṇa の Uttara Khaṇḍa の列挙によれば、乳海攪拌の際に生じた。— また中央 avasthāna の Jāradgavi における月宿の名でもある。
jyotiratha Purāṇa に言及される河の名。ただし同定されていない。
jyotiṣa(天文学) 「天文学」。Veda の aṅga すなわち補助部分。「新月の祭りと満月の祭りは初期の Hindu の崇拝の不可欠な要素であり、各 Veda は Jyotiṣa と呼ばれる暦をもっていたらしい。しかしこれらの暦の原本が今なお存在するかどうかは疑わしいようである。それらはもっぱら宗教儀式の規制を目的として作られたものではあるが、天文学における段階として興味深い。
天文学に関するサンスクリットの著作のうち最も重要なものの一つである Sūrya Siddhānta は、有能なヨーロッパの学者たちによって攻撃され、擁護され、説明されてきた。」
「M. Biot は、Hindu はその nakṣatra すなわち月の宿の体系を Chinese から得たと信じた。そして Whitney 教授は、Hindu の nakṣatra が Chinese の siew と同じものを意味しないことを示している。Siew は単一の星を意味するが、nakṣatra は一般に星の群れ、あるいはむしろ星の天のある部分を表す。……Arab の manāzil と月の黄道帯の宮は、Hindu の nakṣatra と著しい類似を示している。それらは黄道をほぼ等しい十二の区分に分ける星の群れである。Whitney 教授が述べるように、このような体系は、器具の助けなしに月の公転の日々の段階を定めようとする民族にとって、考案しうるいかなるものにも劣らず適している。
月の道は実際、Hindu の観測者によって等距離と信じられた二十七の宿によって区切られていた。しかし『新たなより精密な天文学が西方からもたらされた』とき、月は意義において『惑星の一部類の一つ』へと縮小された。『そのすべての運動は予測可能であり、任意の時点における位置は決定可能であり、その合は精緻な規則の体系によって計算可能であった。そのとき初めてより小さな惑星が Hindu の天文学者によって言及され、そのとき初めて接合星の助けによる観測がなされ、それが信頼しうる年代をもたらした。』それが西暦500年から遠くない時期であったにちがいないことは、Whitney 教授の考えによれば証明されている。
二度と繰り返されず、二度と匹敵されることのなかったこの一つの大いなる努力の成果は、世紀から世紀へと、後続のすべての著者によって、時折わずかな説明のない修正を伴いつつ記録されている。その年代は Hindu の天文学者 Āryabhaṭa のそれと一致する。そして Āryabhaṭa は、われわれの理解するところでは、『Greeks(とりわけ Hipparchus)が天文学においてなした進歩を大いに利用し』、そして『彼らの新しい理論と発明を改良したのみならず、自らの独自の研究の成果をも付け加えた』。
それゆえ6世紀の初めは、インドにおける天文学の歴史の重要な時代として際立っている。そして Āryabhaṭa とその著作に関するあらゆる断片的な情報が特別の重要性を帯びる。大地の丸さについての彼の観念は次のように表現されている。
地と水と火と風から成る地の球は、まったく丸く、
帯(赤道)に囲まれ、空中に、
星の天球の中心に立つ。nauclea kadamba の花から成る毬が
四方を小花に囲まれているように、地の球も
陸と水のあらゆる被造物に囲まれている。
そしてこの球は日々回転すると彼は信じた。Kern 博士は言う。『Āryabhaṭa は、われわれの知るかぎり、地球の自転を主張した彼の同国人の中で最初の、そしてほとんど唯一の天文学者であり続けた。』彼は Āryabhaṭa の著作の一つから次の引用を挙げている。
船に乗って前へ進む人が、動かぬ物が
後ろへ動くのを見るように、
星々も、動かぬものであるにもかかわらず、
日々動くかに見える。
こうして、動くのは星ではなく地球であることを示している。
「別の折に Āryabhaṭa は言う。『星の天球は静止している。そして地球が回転することによって、星と惑星の日々の出没を生じさせる。』
Colebrooke 氏は次のように述べている。『Āryabhaṭa は地球の自転を主張した。』彼はそれを風すなわち空気の流体の流れによって説明した。その広がりは、彼がそれに割り当てた軌道によれば、地表からわずか百マイル余りの高さに相当する。彼は月食と日食の真の理論を所有し、神話家と占星術師の想像上の暗い惑星を顧みず、月と一次惑星(さらには星々までも)は本質的に暗く、太陽によってのみ照らされると主張した。
しかしこの卓越に達した後、インドの天文学は科学から逸れていったようである。というのは、極の経度と緯度の第二の正確な決定は記録されていないからである。Āryabhaṭa より後の著作家はみな、天文学を占星術と混同している。」* bhāskarācārya、varāhamihira 等の項を参照。
今日に至るまで通俗の観念では、食は悪鬼 Rāhu が太陽あるいは月の一部を喰らおうとすることによって引き起こされるとされている。rāhu の項を参照。
* Mrs. Manning, A&MI, Vol. I, p. 367.
jyotiṣṭoma 大供犠の一つ。そこではとりわけ soma 草の汁が、svarga すなわち天を得る目的で捧げられる。
jyotiṣmat Priyavrata の十人の息子の末子。父によって Kuśadvīpa の王に就けられた。Jyotiṣmat には七人の息子があり、その名にちなんでこの島の七つの部分すなわち varṣa が名づけられた。万物の終わりに、七つの太陽光線は七つの太陽に膨張し、その一つは Jyotiṣmat と称される。— Viṣṇu Purāṇa.
jyotsnā 「暁」── Brahmā の一形態すなわち顕現。