Garrettインド古典辞典

K第二部 英語その他の見出しkabīr … kurumbas

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kabīr Hindu の改革者 Rāmānand の弟子のうち最も名高い者。彼は民衆の信仰の状態に大きな影響を与えた。偶像崇拝の体系全体を攻撃し、paṇḍit の学識と śāstra の教義を、同国人の気質にとりわけふさわしい文体で嘲笑した。Kabīr は15世紀の初めに生きた。Bhakta Mālā はその誕生と生涯の記述を与えている。Kabīr の教えた教義は Sukh Nidāna に含まれており、Vaiṣṇava のそれとあまり違わない。その道徳律は短いが、道徳を重んじている。— WILSON, Works, Vol. I, p. 153.

kabīr panthīs 14世紀末頃に生きたと考えられる Kabīr によって創始された宗派の呼称。その生涯に関わる事情はすべて奇蹟的なものとして語られ、その歴史について確かなことは何も知られていない。この宗派の教義によれば、神はただ一人、世界の創造者である。しかし Vedānta(その項を参照)に反して、彼らは、神が物質の五元素から形成された身体と、三つの guṇa すなわち性質を授けられた心とをもつと主張する。彼は言い表しえない清らかさと抗しがたい力をもち、永遠であり、人間の本性の欠陥を免れているが、その他の点では人間と異ならない。清らかな人は彼の生きた似姿であり、死後は彼と対等の仲間となる。それゆえ神と人とは同じであるのみならず、両者は同様にすべての存在するものである。72の時代の間、神は独りであった。それから彼は世界を新たにしたいという欲望を感じ、その欲望は女の姿をとった。そしてこの姿が māyā(その項を参照)すなわち幻影であり、彼はそれとともに三神一体 Brahmā、Viṣṇu、Śiva をもうけた。それから彼は姿を消し、māyā は宇宙を形づくるために子孫に近づいた。Viṣṇu は彼女と交わることをためらい、それゆえ Kabīr Panthī によって三神一体の他の二神よりも尊ばれる。しかし後者は彼女に怯え、その屈服の結果、Sarasvatī、Lakṣmī、Umā が生まれ、彼女は世界を生み出すために彼女たちを三神に嫁がせた。それゆえ māyā の虚偽を理解することが人間の主要な目的である。そして生命の源泉について無知であるかぎり、人は輪廻(その項を参照)を宣告されている。この宗派の信仰によれば、輪廻は惑星にも及ぶ。たとえば流れ星あるいは流星は、それが新たな変化を受けている証拠である。Kabīr Panthī の道徳律は、多くの点で彼らの名誉となるものである。生命は神の賜物であるから、その被造物によって侵されてはならないと彼らは教える。人間愛と真実は彼らの主要な徳の二つである。世を離れることは望ましいとみなされ、guru すなわち霊的な師への、言葉と行為と思考における絶対的な帰依は至高の義務である。しかし後者の点に関しては、弟子がまず師の教義と行為を吟味し、師が自称するとおりの賢者であることに納得してから、その支配に身を委ねるよう命じられていることが特徴的である。いかなる神格をも崇拝し、Hindu のいかなる儀式や儀礼をも守ることは彼らの信仰の一部ではない。しかし外面的には部族と caste のすべての慣習に従うよう勧められており、ある者は通常の神々を崇拝するふりさえする。もっともこれは正当とはみなされていない。*

* WILSON, Works, I, 68 以下.

kāliyāl 農夫 Ladurlad の美しい娘。Rājā Kehama の子 Arvalan が彼女を辱めようとした。その結果 Arvalan は Ladurlad に殺され、Ladurlad の上には後に、Southey の詩に題名を与える宣告が下された。Kāliyāl はその後父に加わり、Kehama の呪いの枯らす影響のもとにある彼をしばしば慰めた。そして Ladurlad はしばしば、火と洪水の大いなる危険から娘を救い出すことができる。

kameri インドのカッコウ、すなわち Kāma の鳥。その標章は特にふさわしく、決して棘の潜まない薔薇と素馨その他の花から成る弓と矢である。Tod 大佐は言う。「Kameri は、夕日の最後の色合いが周囲の森の暗い色調を照らす美しい情景の静けさの只中で、木陰深い peepul から、単調ではあるが心地よい調べを注ぎ出した。」

kanauj Sone 河[ママ]の岸にある都。Rāmāyaṇa はその建設について驚くべき伝説を含んでいる。Rājā Kuśanābha には百人の美しい娘があり、風の神 Vāyu が彼女たちに恋の申し出をしたが、彼女たちは父が与えるであろう夫しか受け入れないと宣言してそれを退けた。そこで Vāyu は彼女たちを背の曲がった者にした。その後、彼女たちはみな若い Rājā Brahmadatta に嫁ぎ、彼は一触れで彼女たちを癒した。そして彼女たちの住んだ都は以後 Kānyakubja、すなわち「背の曲がった(乙女たちの都)」と呼ばれ、今なお Kanauj の名で通っている。ghṛtācī、kuśanābha の項を参照。

kañjar kañjar と naṭ の部族は、Spain、England その他ヨーロッパの諸地方の Gipsy 部族と同じものであると考えられている。kañjar は縄、敷物、kaskas(クスクス草)の tatty(簾)を作る。彼らはまた綿と麻を撚って糸にし、綿糸を清掃するための大きな刷毛を製造する。

karaṇe 巨大な角笛。まったくまっすぐで、長さ五フィートを超え、きわめて重いので、人はそれを時折やっと持ち上げて雷のような一吹きを轟かせることができるだけで、すぐにまた下ろさざるをえない。Mysore の主要な寺院のいくつかの付属品であり、高名な訪問者を迎えるために用いられる。

karli Poona と Bombay のほぼ中間に位置し、その洞窟にある Pāli 語の多数の碑文で名高い。その年代は紀元前543年から西暦176年と推定されている。言及される宗教、神格、聖者は仏教のものであり、祈願は三宝に向けられている。それは疑いなく Buddha、Dharma、Saṅga を意味する。言及される王あるいは王子は、Wilson 博士によれば Vijara であるが、Stevenson 博士によれば、インドの主 Arodhana、そして Śaka の支配者 Garga である。Karli の石窟寺院の多数の仏教碑文については、Wilson 博士と Stevenson 博士とはその読みについてまったく一致しているわけではない。「Śaka(Buddha の部族 Śākya)の支配者」Garga が言及されている。

南インドの石窟寺院は、Fergusson 氏によって次のように分類されている。(a)vihāra すなわち僧院窟。これは(1)自然の洞窟、あるいは技術によってわずかに改良された洞窟から成る。これらは最も古く、Bihār あるいは Cuttack で宗教的目的に充てられているのが見られる。次に(2)ベランダで、奥に祭官の住まいのための小室が開いているもの。Cuttack と Ajantā の最古の vihāra に見られる。第三(3)は柱に支えられた拡大された広間をもつ。これらの洞窟のうち最も壮麗なものは Ajantā のそれである。もっとも Ellorā の Dhervarra も見事であり、Salsette と Junir にもいくつかの良い見本がある。

(b)第二の部類を成す仏教の caitya 窟。これらはこの系列の寺院すなわち教会であり、そのうち一つ以上が西インドのあらゆる洞窟群に付属しているが、東側には一つも存在しない。vihāra とは異なり、これらの洞窟はすべて同じ平面と配置をもち、Karli の洞窟はインドで最も完全なものである。これらはすべて、外側の玄関すなわち楽人の回廊、入口の上の内側の回廊、簡素な半円筒形の穹窿に覆われた身廊と呼びうる中央の通路、そして身廊の終わりの半ドームから成り、その中央の下にはつねに Dāgoba すなわち caitya が立っている。最古の寺院においては、Dāgoba は簡素な中央の円筒の上に半球形のドームが載り、その頂を一本の樹が飾り、その樹が木あるいは石の国家の傘を支えている。

これら二つの部類がインドのすべての仏教窟を含む。

第三の部類は、本来の意味での Brāhmaṇa 窟から成る。その最も見事な見本は Ellorā と Elephanṭā にあるが、Salsette 島と Mahābalipur にもいくつかの良いものがある。

形においては、その多くは仏教の vihāra の模倣であり、それによく似ている。しかし柱の配置と聖所の位置が異なるので、それらは仏教徒から奪い取られたものではない。

第四の部類は、構造的な Brāhmaṇa 寺院の岩窟の模型から成る。この部類には Ellorā の名高い Kylas、Doomnar の Śaiva 寺院、Mahābalipur の Ruth が属する。最後のものは孤立した花崗岩の塊から切り出されているが、他は穴の中に立っている。

第五の、すなわち真の Jaina 窟は、Cuttack の Khaṇḍagiri とインドの南部に見られるが、数は少なく取るに足りない。Gwalior 城の岩にあるものには、tīrthaṃkara の一人の高さ30から40フィートの粗い巨像が多数岩に刻まれており、あるものは座り、あるものは立っている。

Ajantā は、Brāhmaṇa 教のいかなる混入もない、インドで最も完全な仏教窟の系列であり、他のすべての型を含んでいる。それらは Tāptī の南の ghāṭ の峡谷すなわち小さな谷にある。Tāptī の谷の北側の ghāṭ の峡谷すなわち小さな谷にある Baug には、三つの古い仏教窟がある。

Salsette 島の Salsette すなわち Kannari 窟もまた純粋に仏教的であるが、前者よりはるかに劣る。Kannari 窟は、広大な森林地帯の只中に位置する丘に掘られており、Fergusson 氏はその年代を西暦9世紀あるいは10世紀頃と推定している。

Neemuch の南東約40マイル、Chundwassa のすぐ近くにある Dhumnar には、仏教窟があり、その背後に Brāhmaṇa の岩窟寺院がある。

Ellorā 窟は斑状の緑色岩すなわち杏仁岩に掘られている。

Elephanṭā 窟は Ellorā のそれよりも硬い岩に刻まれている。

Dhumnar と Ellorā のものは Brāhmaṇa 教の強い混入を含み、Elephanṭā のものは、おそらく Ellorā のものと同じ時代のものであろうが、まったく Brāhmaṇa 的である。— BALFOUR, Cyclopaedia.

kāṭhak Kāṭhak は職業的な楽師である。彼らは「生まれながらにその道の者」であり、別個の部族かつ caste を成す。音楽の才能すなわち霊感はこの部族において世襲である。もっとも彼らは、音楽、舞踊、歌唱に身を捧げる Hindu のいくつかの部族の一つにすぎない。その女たちは通常、公の場には見られず、Zenāna(婦人部屋)に引きこもって暮らす。Kāṭhak は踊り子に歌唱等を教え、教授の報酬としてこれらの女の稼ぎの半分を受け取る。彼らはしばしば一緒に雇われ、Kāṭhak は楽器を奏で、女たちは踊り歌う。— SHERRING.

kāttān grāma-devatā の一つ。brāhmaṇa の妻の不義の子であった。母に捨てられ、pariah に拾われて育てられた。成長すると降霊術師として評判を得た。彼は自ら命を絶ち、それから、すべての自殺者を Māriammā のもとへ運ぶために彼女の奉仕に迎え入れられたとして神格化された。彼は恐れの対象であり、多くの山羊と雄鶏が彼に犠牲として捧げられる。

kaumāra creation(童子創造) Brahmā による、Śiva の一形態である Rudra すなわち Nīlalohita の創造、および Sanatkumāra 等と称される Brahmā の心から生まれたある息子たちの創造。彼らは子孫を創造することを辞退し、その名が含意するとおり、つねに少年すなわち kumāra、つまりつねに清浄で無垢のままであった。それゆえ彼らの創造は Kaumāra と呼ばれる。Sanatkumāra とその兄弟たちは Śaiva Purāṇa において yogin として描かれている。Liṅga Purāṇa には次のようにある。「生まれたときのままにつねにあるので、彼は若者と呼ばれる。それゆえ彼の名は Sanatkumāra(永遠の若者)としてよく知られている。」

kāyasth 書記の caste。śūdra の筆頭に、あるいは彼らと vaiśya との間に位置する。その起源について決定的なことは何も知られていない。Kāyasth 自身は、父方の共通の祖先は brāhmaṇa であったと主張する。Wilson は、彼らは kṣatriya の父と vaiśya の母から生じたと述べている。教育、知性、進取の気性の点で、この caste は当然ながら高い地位を占めている。しかし彼らは飲酒と賭博の性向、そして婚礼の機会に費やすきわめて多額の金銭とで悪名高い。*

* SHERRING, TCI.

kehama Southey の詩「The Curse of Kehama」の主要人物である神話上の Rājā の名。長い苦行と禁欲の行程によって彼は世界に対する至上の力を得、神々自身にその独立を危ぶませた。その権力と邪悪さのすべての後継者である息子 Arvalan は、娘を辱めようとしていた農夫によって杭で殺された。激怒した Rājā は農夫 Ladurlad に、詩の題名となった宣告を下した。

khākīs 近代に起源をもつ Hindu の Vaiṣṇava の宗派の一つ。その多くはほとんど裸で歩き、身体に灰と土を塗る。彼らは Viṣṇu の崇拝に Hanumān の崇拝を加えている。

kharwar or kairwar Mirzapur 地区の南にある Barhar、Agori Bijaigarh、Singrauli その他の pargana(郡)に住む原住部族。Gothani と Agori の砦にはいくつかの寺院がある。近隣の丘の大部分にも廃墟が見られる。その砦は幾世代もの間この部族の Baland の Rājā たちの住処であり、その記憶は今なお丘と村々の間に残っている。その地域に見られるすべての大建築物は Baland に帰せられており、彼らは進取の気性に富む勤勉な民を統治したと信じられている。注目すべきことに、彼らは雇い入れていた Asūrya の建築家たちの労働によってその建物を建てたと言われる。— SHERRING.

khonds Orissa の非 Ārya 部族すなわち原住部族。その状態は多くの点で特異である。彼らは他の大部分の非 Ārya 部族よりも文明と接触することが少なく、より大きな粗野さを振る舞いに示している。「その宗教はきわめて特異であり、そのすべての特徴において Hindu 教とまったく別個である。その至高神は光の神 Bura-Pennou と呼ばれ、彼は自らのために妃、すなわち世界における悪の源である Tari-Pennou と呼ばれる大地の女神を創造した。光の神は物理的な悪の作用を止めたが、人間には道徳的な悪を拒むか受け入れるかの完全な自由を残した。それを拒んだ者は神格化され、一方それを受け入れた人類の大多数は、死を伴うあらゆる種類の物理的苦しみを宣告され、そのうえ創造者の直接の配慮を奪われ、道徳的堕落の最低の状態に定められた。その間 Bura-Pennou とその妃は優位を争い、こうして善と悪の要素は、人間の心においても周囲の世界においても絶えず衝突するようになった。この点で Khond は二つの宗派に分かれる。それは Asiatic Society で読まれその Journal に掲載された興味深い論文において、Macpherson 少佐によって次のように描かれている。「一方の宗派は」と彼は言う。「光の神は大地の女神を完全に征服し、なお悪の能動的原理である彼女を、自らの道徳的統治の道具として用いていると考える。彼は、人間が地上において節度ある享楽の状態に達し、死後に創造者との交わりに部分的に回復しうるようにすることによって、悪の導入の帰結に部分的な救済を与えることを決意した。そしてこの目的を果たすために、彼は下位の神々の部類を創造し、彼らに次の職務を割り当てた。第一に、人間が彼らにしかるべき崇拝を払うことを条件に、人間に生活の技術を教え、人間の用のために自然の力を規制すること。第二に、応報的正義の体系を執行すること。それに服することによって、また地上の相次ぐ生涯において徳を実践することによって、人間の霊魂は至福に達しうるのである。他方の宗派は、それに反して、大地の女神は征服されずにいると考える。光の神は彼女の意志に反して人間の現世の運命に関する目的を実行することができなかった。それゆえ人間は、悪を受け入れることによって陥った物理的苦しみの状態からの向上を、恵みを授ける彼女の力の直接の行使に、あるいは光の神から下位の神々を通じて、それらを崇拝するすべての者に流れる善を受けることを彼女が許すことに負っている。死後の人間の運命に関しては、彼らは光の神がその目的を実行したと信じている。そして彼らは、人身御供による大地の女神の崇拝が、これらの恵みが与えられ、その継続が望まれうる不可欠の条件であると信じている。その儀礼の効力は、それを行う者のためではなく、全人類のために役立つのである。

「Tari の怒りを鎮め、農業のために彼女の好意を得るために今なお毎年捧げられ続けているこれらの人身御供に加えて、Khond の民の間には恐るべき数の嬰児殺しがある。それは Boora の宗派のいくつかの部族においてきわめて広く行われており、女の最初の子が女である場合を除いて、女の嬰児は一人も助けられない。そして百戸を含む村に女の子が一人もいないのを見ることができる。」

人身御供と女児殺しというおぞましい儀礼は、これらの野蛮な民の間で太古から行われてきた。しかし British 政府は、幸いにもこれらの血なまぐさい儀礼をほぼ完全に廃止することに成功した。親から盗まれ、犠牲として Khond に売られた多くの子供たちが残酷な死から救い出され、Christian の教育と訓練のための施設に入れられた。Khond によっておぞましい人身御供が行われた仕方は、犠牲の刃から多くの者を救い出した政府代理人 Fry 氏によって次のように描写されている。「犠牲者は」と彼はわれわれに告げる。「半ば酔った Khond の群衆に囲まれ、ある空き地の周りを引きずり回される。すると野蛮人たちは大きな叫び声を上げて犠牲者に殺到し、生きた肉を骨から一片ずつ切り取り、ついには頭と腸のほかに何も残らなくなる。頭と腸には手がつけられない。この時までに、死が不幸な犠牲者をその責苦から解放している。頭と腸は焼かれ、その灰は穀物に混ぜられる。」このように呼ばれる Meriah 供犠は、ほとんど廃止されている。

koḍagu 「険しい山々」。英語化されて Coorg となった国の名。西 Ghats の頂と東斜面によって形成される国であり、長さ約60マイル、幅40マイルである。1,585平方マイルを含み、森に覆われているが、ここかしこでコーヒー農園や ragi(シコクビエ)畑の開墾地、あるいは美しい緑の芝と多様な葉をもつ公園のような開けた林間の空き地が、景観に魅力的な変化を与えている。Koḍagu すなわち Coorg は Draviḍa 語族に属すると考えられており、ある者が論じたように Pāṇḍava の子孫ではない。後者については何の証拠も挙げられていない。Coorg はおそらく、西暦紀元前5世紀頃に南インドに栄えた Pāṇḍya 王国と関係があった。しかし Mahābhārata の Pāṇḍava はこの Pāṇḍya 王国とは何の関係もない。その支配者は kṣatriya ではなく、農耕階級に属していたからである。— RICHTER, Manual of Coorg, 1870.

kol 年ごとに密林を伐採し、その材木を Benares その他の場所へ運んで売ることに雇われる低い caste すなわち部族。Kol はまた水運び人であり漁師でもある。英語化されて cooly となった koli の語はこの人々に由来する。— SHERRING.

kolaria インドの古名。インドの近代の地図には、Burmah から Malabar に至るあらゆる州に同じ名の痕跡が見られる。すなわち中央インドの Kol、Katwar の Kola 等である。この見解の十分な確証については、W. Hunter 氏の Dictionary of Non-Aryan Languages の論文に述べられているように、Keith Johnson 博士の Royal Atlas のインド地図の索引を参照。

kolikoḍ Calicut の古今の土着の名。

kumbararu 陶工の caste。家庭用にせよ一般用にせよ、あらゆる種類の土器を製造する。これらは手で作られ、しばしばかなりの巧みさを示す。大きな車輪が、地面に堅く据えつけられ、よく油を差された小さな軸の上に水平に置かれる。軸の上の車輪の中央に、調製された粘土が一定量置かれる。それから棒によって車輪はきわめて速く回転させられ、数分間回転し続けるのに十分な勢いが与えられる。陶工は車輪の前の地面に座り、腕を伸ばして、回転する粘土を意図する形に整える。それが済むと、紐によってそれを残りの粘土から切り離し、同じ作業を再び始める。車輪の上には一ダース以上の器を作るのに十分な粘土がある。車輪の速度が落ちると、彼は棒を輻の一本の近くの穴に差し込み、数回力強く回して、元の速さに戻す。作られた器は窯で焼かれる。

kuṇḍoba 牧人たちの神格化された英雄。牧畜部族の間では他のすべての民衆の偶像に取って代わっている。

kural 大いに名高い Tamil の詩。「その文句は、Jews にとっての十戒と同様に拘束力あるものとみなされている。その言葉そのものが文学的卓越の範となっている。それが Tamil 文学において重要であり、Tamil の精神に影響を与えていることは、Dante の大作が Italy の言語と思想に対してそうであるのと同様であると言っても誇張ではない。」Kural は三部に分かれ、各十詩節から成る百三十三の pathigam すなわち章を含む。それが最初から得た民衆の崇敬がその保存を確実にしており、われわれはそれをほとんど変化のないまま所有していると思われる。最初の詩は Gaṇeśa や Sarasvatī ではなく「永遠の神」に呼びかける。次は雨の讃美であり、それから徳と道徳的卓越について、次いで夫、妻、子の義務についての歌が続き、それから愛、もてなし、感謝、忍耐、陰口、慈悲等について歌われる。すべてが最も高貴な情感に満ち、格言はあたかも Christian の聖典から採られたかのようである。Gover の Folk Songs of Southern India には、Kural の詩の優れた訳がいくつか見られる。tiruvallava の項を参照。

kurmis Rājputa と Jāt の南にいる半原住の耕作者。

kurumbas South Kanara の原住の耕作者。

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