Garrettインド古典辞典

B第二部 英語その他の見出しbadagas … byroba

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badagas Nilgiris の丘陵諸部族のうち最も数の多いもの。ヨーロッパ人の眼には Badaga の一人と他の一人とを区別するものは何もないが、彼ら自身の間では十八の異なる部類を認めており、それぞれに固有の特徴がある。Badaga は Śiva の崇拝者であり、その寺院の多くは mahāliṅga、すなわち liṅgam の形をした長く粗い石を祀っている。この神格の祠はほとんどつねに円錐形に村の外に建てられ、入口には Bāsava(Nandi の牛)が置かれている。

baheliyā or badhak 猟師、猟番、鳥刺しの部族。鳥を捕らえる技にきわめて長けており、多年の修練によって驚くべき手さばきの能力を得ている。鳥は長い竿によって捕らえられる。竿の一端には時に鋭い釘が付けられ、時に Maddār の木から採った鳥黐が付けられる。竿は、穀粒をついばみながら跳ね回っている鳥の群れの中に差し入れられ、蛇のような動きでゆっくりと動かされ、鳥の一羽に近づいたところで突然ぐいと引かれる。鳥は場合に応じて釘あるいは鳥黐によって捕らえられる。— SHERRING, TCI, p. 352.

baibhār Mahābhārata において Vaihāra と呼ばれる山の近代名。Vaihāra の項を参照。

bairāgī Vaiṣṇava 派の托鉢者。— WILSON. bairāgī の語は一般に、多くの帰依者の宗派に対する総称として用いられる。Sherring 氏によれば、純粋な bairāgī の帰依者は、名高い Hindu の宗派の創始者 Rāmānand と、その名高い弟子 Rāmānuja[ママ]の追随者を自任している。彼らは大部分が śūdra の諸 caste から出ている。

bari 小さな木の釘を差し込んで大きな葉を縫い合わせることを特有の職業とする caste。事実上、Hindu の食器の製造者である。これらの葉の皿や器は、食物を盛るのに用いられ、相応の家庭の日々の出費のかなりの部分を占める。祝いの折には、葉の大皿が大量に用いられる。

bāsava Canarese 語および Telugu 語における雄牛の名。Śiva の乗り物である Nandi に用いられる。

bāsava Liṅgāyata 派の創始者。もとは ārādhya brāhmaṇa であり、明らかに大いなる独立心をもち、大いなる道徳的勇気を具えた人物であった。11世紀の中頃、Kalladighee の徴税区(Collectorate)の Bijāpurā の東にある村に生まれた。「当時大洋から大洋へと広がっていた大帝国の首都 Kalyāṇa の宮廷で宰相となると、彼は次第に新しい宗派の創設に成功した。その宗派は、信奉者が linga を身に着けることから Liṅgāyata と呼ばれた。彼らはそれを、創造する神的な力の真の象徴とみなしている。この大いなる成功は、二つ、あるいはおそらく三つの原因に帰しうる。Bāsava はその高い地位のゆえに、大いなる権力、人望、影響力をもっていた。Jaina 教から Liṅgāyata 派への改宗者は不当に優遇された。もっとも Bāsava の主君である王 Bajal は依然として Jaina であった。Bāsava は、王が美しい妹と交わるのを黙認したと言われ、王に対して大いなる権力をもっていた。民衆に説いて回る宗派の遍歴祭官たちには、金銭的援助が大いに与えられた。Bāsava の成功の第二の原因は、彼が主として下層階級に呼びかけたことである。彼らは、新しい宗教を奉ずれば社会的地位が向上するという見込みに心をくすぐられた。そして実際、linga を受けて Liṅgāyata となることは、Hindu の観念によれば一歩前進であった。というのは、この聖なる象徴を身体に着ける大いなる特権は、それまでもっぱら brāhmaṇa に限られていたからである。事実、Bāsava は当初、彼自身の属する ārādhya brāhmaṇa の間で行われていた特有の linga 崇拝を、śūdra の種々の階級の間に導入したにすぎなかった。

「この宗派の広がりは広く速やかであったので、隣接する Telugu および Tamil の地方においてさえ多くの者が Bāsava の崇拝者となり、彼を称えて、聖典とみなされる書物がそれらの言語で書かれ、今なお現存している。しかし王はこの大きな変化を快く思わなかった。彼は Liṅgāyata を憎み、迫害した。これが、二人の狂信的な Liṅgāyata による王自身の宮殿での暗殺を招いた。この二人は Bāsava に唆されたと言われる。それから内乱が勃発し、Kalyāṇa の帝国は瓦解した。こうして Bāsava は Deccan における大きな変革の原因となった。このような人物が、しばらくの時を経た後に信じやすい人々によって神格化され、その歴史の真の事実が伝説の堆積によって覆い隠されることは、予想されることであった。」— WÖRTH.

bāsava purāṇa Jaṅgama 派の創始者あるいは再興者である Bāsava の生涯を語る Purāṇa。H. H. Wilson 教授は、それが記録する出来事の年代を11世紀前半に置いている。

Bāsava の両親はともに Śiva の敬虔な崇拝者であった。その敬虔さへの報いとして、Śiva の牛 Nandī が彼らの子として地上に生まれた。Nandī は、Śiva が Nārada から Śaiva 信仰の衰退と他のより正統的でない宗教体系の隆盛とを聞き知ったとき、Śiva の命によって化身したのである。子は神の牛 Basva すなわち Bāsava にちなんで名づけられた。聖紐を受ける年齢に達すると、彼は brāhmaṇa が通常身に着ける紐を身に着けることを拒み、Īśvara すなわち Śiva のほかにはいかなる guru をも認めなかった。それから彼は Bijala すなわち Vijala Rāya の都 Kalyāṇa の町へ去り、Daṇḍanāyaka すなわち警察大臣の娘 Gaṅgāmbā を娶った。そこから Saṅgameśvara に赴き、Saṅgameśvara Svāmī から Vīra Śaiva 信仰の教義の入門を受けた。彼はこの地から呼び戻され、岳父の死に際してその職を継いだ。

Kalyāṇa に戻った後、彼の最初の弟子の一人であった妹が男子 Cenna Bāsava を産んだ。この子はしばしば叔父と混同され、また、おそらくはより正しく、宗派の創始者とみなされる。

これらの出来事を記録した後、本書は Bāsava と彼の弟子数人が行った種々の驚くべき行い、すなわち穀粒を真珠に変えること、隠された宝を見つけること、群衆を養うこと、病人を癒し死者を蘇らせることなどを列挙する。以下は Purāṇa に語られる逸話の若干である。

Bāsava は Jaṅgama たちに惜しみなく施しを与えることで目立つようになり、その目的のために王の宝庫から勝手に取り出していた。そこで他の大臣たちが彼の振る舞いを Bijala に報告した。Bijala は、彼の管理下にある金について説明するよう彼に求めた。Bāsava は微笑み、宝庫の鍵を王に渡して、それを調べてくれるよう求めた。調べてみると、額はまったく減っていなかった。そこで Bijala は、Bāsava を中傷する者は舌を切り取られると布告させた。

踊り子と同棲していたある Jaṅgama が、米の割当を受け取るために奴隷を Bāsava の家へ遣わした。使者はそこで Bāsava の妻を見て、帰ると踊り子にその衣装の豪華さを報告した。Jaṅgama の情婦は同じような衣装を切望し、Jaṅgama は他に彼女の望みを満たす手段がなかったので、Bāsava のもとへ行き、その妻の衣を乞うた。Bāsava はただちに妻 Gaṅgāmbā の衣を剥いだが、彼女の身体から別の衣が次々と生じたので、彼はそれらをすべて Jaṅgama に与えた。

Ekāmreśvara の像を定期的に崇拝していた Kanapa という名の者は、神の眼が病んでいると思い込み、自らの眼をえぐり出して像の眼窩に嵌めた。Śiva はその帰依を喜び、崇拝者に眼を返した。

すべての Jaṅgama の洗濯を引き受けた Mahādevala Machāya という名の敬虔な Śaiva が、ある子供を殺したので、Rājā は Bāsava に彼を捕らえて罰するよう命じた。しかし Bāsava は、Śiva の崇拝者に危害を加えようとしても無駄であるとして、その任務を引き受けることを断った。Bijala はなおも固執し、家臣を遣わして彼を捕らえ象の脚に縛りつけさせようとした。しかし Machāya は象の鼻をつかみ、象とその従者たちを粉々に打ち砕いた。それから彼は Rājā を攻撃しに向かった。Rājā は恐れて Bāsava に助けを求め、その助言に従って、怒れる Jaṅgama の前にへりくだった。Bāsava もまた彼の怒りを和らげるよう嘆願したので、Machāya は宥められて王を赦し、象と衛兵たちを蘇らせた。

ある貧しい Jaṅgama が、Bāsava の主要な弟子の一人である Kinnarāya に施しを乞うと、Kinnarāya は杖で周囲の石に触れて金に変え、Jaṅgama に好きなだけ取るよう言った。

本書はまた多くの箇所で、Jaṅgama の聖者の何人かと Jaina 信徒との対話の形で Jaina に向けて語られている。そこでは前者が後者に、Śaiva の宗教の優越と Jaina 信仰の虚偽の実例を語る。Jaina 信仰は Bijala Rāya と Kalyāṇa の住民の大部分の信仰であったらしい。彼らを改宗させるために、Bāsava の弟子の一人 Ekānta Ramāya は、彼らの面前で自らの首を切り落とし、それから五日間、厳粛な行列をなして都の中と周囲を行進し、五日目に首を肩の上に戻した。それを受けて、Jaina の寺院(Pagodas)は Jaṅgama によって破壊されたと言われる。しかしながら、王が改宗させられたとも、大臣の原則と行動を是認したとも思われない。それどころか、王は Vīra Śaiva の信仰の拡大を抑えようとしたために死を招いたようである。種々の典拠は、Bijala が滅ぼされた仕方については一致しないものの、その事実を述べる点では一致している。以下の事件の記述は Bāsava Purāṇa からのものである。

「Kalyāṇa の都に、Allaya と Madhuvaya という名の二人の敬虔な Śiva の崇拝者がいた。彼らは崇める神格に信仰を固く据え、霊的な師を熱心に敬い、Bāsava がどこへ行こうとも彼に付き従った。王 Bijala は彼らの徳をよく知っていたが、その優越に目を閉ざし、彼らの敵の中傷的な告発に耳を傾けて、Allaya と Madhuvaya の眼をえぐり出すよう命じた。Bāsava の弟子たちも Bāsava 自身も、これら聖なる人々への残酷な仕打ちに大いに憤激し、Bijala を死に至らしめる任務を Jagaddeva に委ね、都に呪詛を宣して Kalyāṇa を去った。Bāsava は Saṅgameśvara に住居を定めた。

Machāya, Bommidevaya, Kinnara, Kannatha, Bommadeva, Kakaya, Masanaya, Kolakila Bommadeva, Kesirajaya, Mathirajaya その他の者たちは、不吉な前兆によって示されるとおり、Bijala の運が尽きたことを人々に告げた。はたして、烏は夜に鳴き、山犬は昼に吠え、日食が起こり、暴風雨が来り、大地は揺れ、闇が天を覆った。Kalyāṇa の住民は恐怖に満たされた。

Jagaddeva が家に戻ると、母が彼を迎え、Śaiva 信仰の弟子に何らかの危害が加えられたときには、その同胞は彼の仇を討つか死ぬかすべきであると告げた。Dakṣa が Śiva を侮辱したとき、Pārvatī は炎の中に身を投じた。それゆえ、聖者たちに加えられた不正のもとで、彼は満足して座していてはならない、と。こう言って、彼女は邸の戸口で彼に食物を与えた。そこへ他の二人の聖者 Mallaya と Bommaya も来て、Jagaddeva の食事にあずかった。それから彼らは身体に聖灰を塗り、槍と剣と盾を取って、共に Bijala に向かって進んだ。その途上に一頭の雄牛が現れた。彼らはそれが Bāsava の一形態であると知った。雄牛は彼らを助けに来たのであり、王の宮廷に至るまで先に立って進み、行く手に現れる者を誰でも角で突き、彼らのために道を開いた。こうして彼らは宮廷に達し、全廷臣の只中で Bijala を死に至らしめ、それから踊り、王を死に至らしめた理由を宣言した。Jagaddeva は帰る途中、母の言葉を思い起こして自らを刺した。それから都に内紛が起こり、人々は互いに戦い、馬は馬と、象は象と戦った。ついに、Bāsava とその弟子たちが宣した呪詛のとおり、Kalyāṇa は完全に滅ぼされた。

Bāsava は Saṅgameśvara に住み続け、弟子たちと語らい、神的本質と交わった。そして彼は Śiva に訴えて言った。『汝の命によって、私と汝の従者の一行は地上に来た。そして汝は、われらの務めが果たされたとき、われらを汝のもとに呼び戻すと約束した。』すると Śiva と Pārvatī が Saṅgameśvara の Liṅgam から出て来て、Bāsava の目に見えるようになった。Bāsava は彼らの前に地に伏した。二神は彼を起こして聖所へ導き、三者はみな弟子たちの見ている前で姿を消した。弟子たちは師を讃え、花が空から降った。それから弟子たちは各地に散り、Bāsava が Śiva の象徴に吸収されたことを広く知らせた。」— MACKENZIE, Collect., Vol. 2; HĀLAKANARA MSS.[pp. 3-12]; WILSON, Works, Vol. I, p. 225.

bawarya Mirzāpura 県の南の密林に住む、きわめて未開な部族。原始的な習慣をもち、不安定な生活を送っている。作物を育てる彼らのやり方は独特である。雨季が始まる前に森の木材を伐り倒し、焼いて灰にする。種を播くとき、その灰を種とともに地面に撒く。刈り取られる穀物の収穫は、部族を数か月養うにすぎない。残りの期間、彼らは動物の肉と木の根に頼っている。— SHERRING, TCI.

benāres Hindu の聖都。Kāśī、Vārāṇasī、Atimukta と呼ばれる。かつて Kṛṣṇa の円盤によって破壊された。「神々にとって近寄りがたかった都の全体が、Hari の円盤によって炎に包まれ、完全に破壊された。」— VP, Chap. XXXIV. 「Kāśī という語は、都ではないにしても、ある民族とその首長たちを表すものとして、最高の古さをもつもの以外のあらゆるサンスクリット著作に繰り返し現れる。……Kāśī の王国とその支配者たちは、彼らへの言及の頻繁さが示すとおり、遠い昔から多かれ少なかれ名声を享受していた。そしてこれが、Hindu の記録がわれわれに教えることの実質のすべてである。Purāṇa は Kāśī の王の王朝をただ一つ特定している。それらの著作のうち最も権威あるものにおいては Kāsa の子に始まる、かなりの数の王名表である。Kāsa には、おそらく二世紀ほどを経て Divodāsa が継いだ。その治世においては、仏教はなお攻勢に出ていたようである。この同時性には何ら見てとれる不合理はない。そしてある程度の蓋然性をもって、それは歴史的事実を体現している。Viṣṇu の円盤による Vārāṇasī の焼亡の物語にも、同様に実際の出来事の反映があるのかもしれない。」— HALL.

ben bans Allāhābād 近辺の山地民の一部族の呼称。Mirzāpura 県の南にある Singrauli の現 Rājā は Kharwār であるが、自らを Ben Bans と称している。

bhar Rajbhar, Bharat, Bharpatwa, Bhar の名で知られる、きわめて人口の多い原住民の部族。かつては北インドの Gorakhpur から中央インドの Saugor に至る広い地域に住んでいた。Ganges と Jumnā の畔にある彼らの砦は Bhar-dih と呼ばれ、そのいくつかは巨大で、きわめて数が多い。またすべての深い貯水池を掘ったのは彼らであるとされている。Mirzāpura 近くの Hindu の僧院で、特異な頭飾りと長く尖った顎鬚をもって注目すべき彫刻がいくつか見つかっている。これらは Bhar の像であることが示されており、その位置と姿勢から、彼らがかつて支配的な種族ではないにしても重要な民であったことがわかる。Bhar が部分的に文明化されていたことは、彼らが遺した数多くの巧みな工作物によって十分に証明されている。

その巨大な砦は彼らの好戦的な性向を物語っている。敵に対して自らを守る際に示したのと同じ精力と才能を、彼らはより平和な営みにおいても発揮した。他の多くの原住部族の状態よりはるかに高い位置に彼らを置いたその文明を、彼らがどこから得たのかを言うのは困難である。その文明が彼ら自身のうちに起源をもつと考えるのでないかぎりは。— SHERRING, TCI.

bhāṭ 遠い昔、婚礼の祝宴その他の大きな機会に即興で詩を作る技を修めたことで際立っていた吟遊詩人の部族。今なお、その才能と詩の朗誦の技を発揮するために求められている。Rājpūtānā においては、Bhāṭ は民衆に大きな影響力をふるっている。Malcolm によれば、彼らは高慢で無知な首長たちの系譜家として位置づけられる。そして寵を得た者は、しばしばその職に顧問の地位を兼ね、主君の心に対して優位を確立する。その優位は、神秘的な畏怖の感情に基づいているがゆえにいっそう強い。最も高慢な Rājpūt が逆境において慰めを、順境においていっそうの喜びと歓喜を求めるのは、彼らに対してなのである。

bhils 今なお Rājputāna と中央インドの丘陵地帯を占め、古代にもほぼ同じ地域に住んでいたらしい原住民の部族。自らの Rājā すなわち首長をもちながら、kṣatriya の宗主権を認め、あるいは恐れていた。Mahābhārata においては Jumnā 河の南、Bharata の rāj のすぐ近隣に現れる。一方 Rāmāyaṇa においては、さらに東、Jumnā と Ganges の合流点近くに現れる。彼らは今日に至るまでその粗野な習慣を保っており、牛泥棒、盗賊、Nimrod や Esau のような狩人として知られ、ほとんどいかなる暴挙もなしうるが、それでいてその外面的性格と奇妙な対照をなす真実と名誉の感覚が染み込んでいる。同時に彼らは、British の行政官の個人的影響と、British 文明の押し寄せる潮とに、目に見えて従いつつある。— WHEELER, Vol. I, p. 83.

bijala rāja Kalyāṇapura すなわち Śilpagiri の Jaina 王。名高い Bāsava を国務大臣としていた。Bāsava は、Śaiva 宗教の新しい形態の信奉者を自らの周囲に集めるために国庫の資金を浪費したとして告発された。説明を求められると、彼は見かけ上不足分を補った。しかしその後まもなく、三人の男に命じて王をその宮殿において暗殺させた。それを受けて Jaina は虐殺された。正確な年代は知られていないが、Wilson 教授はこれを11世紀前半に置いている。bāsava の項を参照。

birappa Mysore における Kurubaru すなわち羊飼いの caste の悪鬼神。この神の年祭においては、祭官が眼を閉じ、剃った頭を差し出し、腰の周りの布を除いて裸で、偶像の前に両手両膝をついて座るのが習わしである。四人の男が祭官の近くに立ち、長老たちが人々の持参した椰子の実を彼らに手渡す。それらは祭官のむき出しの頭の上で割られる。祭官は、両側に椰子の実の破片の山が積み上がるまで、一言も発せずに座っている。

birbhūm 正しくは Vīr-bhūmi、「英雄の地」。中央インドの高い台地と Ganges の谷との間、下 Bengal の辺境にある。この地はインド史の原初の抗争の一つの舞台であった。それは下 Bengal の西にあってサンスクリット種族の前哨として立ち、Ārya 文明と原住民の間に優勢であったより粗野な類型との激しい衝突に耐えねばならなかった。三千年の間、その住民には高地と Ganges の谷との間の峠を守る務めが課せられた。今日に至るまで、彼らは平地の同族よりも男らしい種族である。そして歴史の始めから、二つの王国の一つは Malla-bhūmi すなわち「力士の国」の名を、もう一つは Vīr-bhūmi すなわち「英雄の地」の呼称を帯びてきた。— HUNTER, Rural Bengal.

biśeśvar Śiva の名。その像は liṅga、すなわち立てられた簡素な円錐形の石である。Biśeśvar は Benares の君臨する神であり、人々の考えでは、他のすべての神々、ならびにすべての住民の上に王の地位を占めている。

brāhma marriage(brāhma 婚) Manu の列挙する八種の婚姻形式の第一。その手続きは次のとおりである。両親は、Veda に通じ品行の良い男を自ら招き、両者に衣を着せ、装身具等をもって敬意を表した後、娘を彼に与える。

brinjaries 多くの習慣においてヨーロッパの Gipsies に相当する放浪民の部族。彼らは器用さの芸、手品、占いなどによってのみ暮らしているのではなく、穀物の商人であり、道路がないために荷車を用いることのできない地方で、穀物を牛の背に載せて運ぶ。Sir Arthur Wellesley はその Dispatches において、穀物の運搬者としての彼らの価値に言及している。しかし彼らはまた、機会があればいつでも村や旅人を略奪することにふけった。

bura pennou Khoṇḍ が崇拝する神格。光の神、善の源と呼ばれる。一方、その妃 Tari-Pennou は世界における悪の源である。

byroba 牧人たちの半神。牧畜部族が少数でも定住しているところならどこでも崇拝される。

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