divya Sātvata の息子の一人。
↑ ↓ または j / k で項目を移動
divya Sātvata の息子の一人。
diś 空間。Bhāgavata によれば耳を司る神格である。Diś はまた Viṣṇu Purāṇa に見える河の名でもある。
diśā 八 Rudra の一人 Bhīma の妻。
diṣṭa 天の発光体の子 Manu Vaivasvata の息子の一人。
dīkṣaṇīya iṣṭi 奇妙な供犠儀式。明らかに「原罪の信仰にきわめて近い感情」によって示唆されたものである。「神々、とりわけ Viṣṇu と Agni が、dīkṣā をもって供物に来るよう呼びかけられる。『供犠に dīkṣā を授けよ。』火としての Agni と、太陽としての Viṣṇu が、その光線の結合によって供犠者をあらゆる粗大で物質的な滓から清めるよう呼び求められる。それから崇拝者は布で覆われ、その外側に黒羚羊の皮が置かれる。一定の時間が経過し、定められた祈りが唱えられた後、覆いが取り除かれ、新たな誕生が成し遂げられたとみなされ、再生した人は沐浴するために降りる。」*
* Mrs. Manning, A&MI.
dīkṣā 供犠に先立つある種の儀式。また新たな誕生、および入門の儀礼をも意味する。
dīkṣā 八 Rudra すなわち Brahmā の顕現の一つである Ugra の妻。あるいは Bhāgavata によれば、別の Rudra である Vāmadeva の妻。
dīpaka 「照明」。詩的修辞の文彩で、「詩人の絵の彩色に生き生きとした光の一条を投げかける。その力は配列一般、とりわけ単一の動詞の結合に負っており、その動詞が(注釈者の表現を用いれば)描写の全体を照らし出すのである。」— COLEBROOKE.
dīpakarṇi 古の君主。その命よりも大切な妻 Śaktimatī が、庭の亭で憩っていたとき蛇に咬まれて死んだ。王はその死の悲しみに打ちひしがれ、永遠の禁欲を守るという誓いを立てた。王国を継ぐ息子がないことは深い苦悩の種であったが、彼はその誓いを厳格に守った。このように苦悩していると、彼は夢の中で Śiva に、亡き妻への貞節を破ることなく息子かつ後継者を得る方法を指示された。伝説の残りについては śātavāhana の項を参照。
dīptimat Kṛṣṇa と Rohiṇī の息子の一人。Viṣṇu Purāṇa によれば、Kṛṣṇa には十八万人の息子がいたが、名が挙げられているのはわずか数人である。
dīrghatamas Kāśirāja の子で、Dhanvantari の父。もう一人の Dīrghatamas は Utathya の子であり、いくつかの Purāṇa にはその誕生に伴う状況についての愚かな話がある。
dīrghabāhu Khaṭvāṅga の子である王子。
dīrghamukha Pañcatantra に登場する鶴。その名は「長い嘴」を意味する。
duḥkha 苦。Naraka と Vedanā の子。
duḥśalā Mahārāja Dhṛtarāṣṭra の娘。Sindhu の Rājā Jayadratha に嫁いだ。
duḥśāsana Dhṛtarāṣṭra の百人の息子の主な者の一人。大戦に参加した。Draupadī の髪をつかんで賭博の館に引きずり込み、集会の前で彼女を辱めたのは彼であった。Bhīma は彼の血を飲むと誓った。そして大戦の第十六日、死闘の末に Bhīma は Duḥśāsana を殺し、その誓いを果たした。
dundubhi Bāli に殺された巨大な巨人。Sugrīva が Bāli を滅ぼしてくれるよう Rāma に望んだとき、後者の大いなる力を Rāma に納得させるために、Dundubhi の死骸を Rāma に見せた。──
「山ほどの大きさの伏したる骸も
英雄の眼には無きに等しく見えたり。
彼は横たわるそれを軽く蹴りて、
二十リーグの彼方へ投げやりぬ。」
durga-s(砦) 砦。四種ある。そのうち三種は、山中、水中、その他近づき難い場所にあるという立地による自然のものであり、第四は村落あるいは都の人工の防御である。
durgama Durmada とともに、Vasudeva とその妻 Rohiṇī の二人の息子。
durgā 神 Śiva の Śakti すなわち妻で、破壊の女神。姿は恐ろしく、気性は怒りっぽいものとして描かれる。雪山の主権者 Himālaya の娘であった。Durgā はしばしば Kālī と呼ばれる。その優しい姿においては Bhavānī と称される。「Kālī すなわち Durgā の崇拝は、しかしとりわけ Bengal に広く行われており、他の大部分の地方ではほとんど知られていない慣行をもって行われている。その大祭 Daśaharā は、インドの西部ではとりたてて特別の栄誉をもって祝われないが、Bengal ではその祝いが十日間の放縦な出費を費やす。この祭り Durgā Pūjā は、Calcutta 近くの広大で人気のある施設、すなわち Kālī Ghāṭ の Kālī 寺院と同様に、今ではヨーロッパ人によく知られている。」
「Śiva と Durgā の暗い形態への人身御供が後代に時折行われたことを、われわれは種々の原典から、とりわけ戯曲 Mādhava and Mālatī のあのきわめて効果的な場面から知っている。そこでは Aghoraghaṇṭa が Mālatī を Cāmuṇḍā に犠牲として捧げようとしているところを、彼女は恋人によって救い出される。しかしわれわれの知るかぎり、そのような神格、すなわち Śiva も Durgā も、ましてやそれらの恐ろしい形態のいずれも、Veda においては名を挙げられてさえいない。それゆえこれらの著作は、その血なまぐさい崇拝の典拠とはなりえない。この慣行が、Hindu 信仰のこの分派に結びついた Tantra およびいくつかの Purāṇa によって特定の機会に命じられていることは疑いなく真実である。しかしこれらははるかに後代の著作である。」*
「Durgā は Minerva、Pallas、Juno の特徴を兼ね備えている。その本来の名は Pārvatī であったが、並外れた武勇を示して Durgā という名の巨人を打ち負かしたので、それ以後、征服した敵の名をもって尊ばれた。ある者はこの怪物を悪徳の人格化、Durgā を美徳の人格化とみなし、その争いは世界における善と悪の作用と反作用を象徴すると考える。」— G. SMALL.(aparṇā、devī、kālī、karālī、pārvatī、satī、yoganidrā の項を参照。)
* H.H. Wilson, Works, Vol. II.
durgā Vindhya から流れ出る河の名。
durgādāsa Vopadeva のサンスクリット文法に対する傑出した注釈者。
durjayanta Viṣṇu Purāṇa に見える山。いまだ同定されていない。
durdama Bhadraśreṇya の子。父の王国を Divodāsa(その項を参照)から取り戻した。
durdharṣa Hanumān に向けて遣わされた Rāvaṇa の五人の名高い戦士の一人。彼は不屈の猿の首に当たる矢を放ち、それから馬に鞭打ってさらに近づいた。しかし彼が戸口に迫ったとき、Hanumān は突然叫び声を上げて車の上に身を落とした。車は粉々に砕け、rākṣasa はそこから投げ出されて息絶えた。— IE, 232.
duryaman Druhyu の子孫 Dhṛta の子である王子。
duryodhana 「戦い難き者」。Kuru の長兄。Dhṛtarāṣṭra の百人の息子の長子で、大戦における Kaurava 側の主要な行為者の一人。……Pāṇḍu は Dhṛtarāṣṭra の弟であったが、その長子 Yudhiṣṭhira は Duryodhana より先に生まれ、当時の慣習によってその結果 Hastināpura の王位に対する優先権をもっていた。これが Yuvarāja の地位をめぐる Yudhiṣṭhira と Duryodhana との絶え間ない競争を招いた。五人の Pāṇḍava は、Pāṇḍu の死に際して伯父 Dhṛtarāṣṭra の後見下に入ったので、従兄弟たちは Hastināpura の古い宮殿で共に育てられた。Mahābhārata には次のように述べられている。「この頃、Kaurava の長兄 Duryodhana は Bhīma の強さをひどく妬むようになり、彼に害をなすことを決意した。彼は毒によって彼の命を奪い、その効き目で朦朧としているところを湖に投げ込もうとした。しかし Bhīma は殺されず、再び現れて彼らの生涯の争いにおいて重要な役割を演じた。」
「Kuru の Pāṇḍava に対する嫉妬と憎しみは、彼らがみな成人するにつれて増した。Kuru の父は盲目であったので、副王すなわち Yuvarāja、つまり「小 Rājā」を必要とした。この職に Yudhiṣṭhira が就けられた。彼は亡き王 Pāṇḍu の長子としてその資格があったからである。しかし Duryodhana はこの取り決めにひどく不満を抱き、ついに盲目の父を説き伏せて、Pāṇḍava を Vārṇāvata(近代の Allahabad)の都に送り出させた。ここに彼らのために壮麗な家が用意されたが、内部には麻、樹脂その他の燃えやすい物が隠されていた。邪悪な Duryodhana は、その家に火を放ち、五人の Pāṇḍava とその母を焼き殺そうと企んだのである。しかしこれら狙われた犠牲者たちには、Hastināpura を発つ前に警告が与えられていた。そして壮麗な新居に入ると、彼らは地下道を掘らせ、予期された火事が起こったとき、それによって全員が逃れた。」
Kuntī がもてなしていた貧しい人々の中に、五人の息子をもつ Bhil の女がいた。彼らはその部族の慣わしに従って強い酒をしたたか飲み、それから横になって深く眠った。翌朝、彼らの遺体が火災の廃墟の中から見つかった。そして Hastināpura では Pāṇḍava が死んだと信じられ、Duryodhana は彼らの死を悼むふりをした。
Pāṇḍava(その項を参照)がその不運を克服した後、「彼らの成功の輝きそのものが、Duryodhana の暗い嫉妬を再燃させた。というのは、彼とその兄弟 Duḥśāsana、そして一、二の他の者が、新たに即位した王からその領土を奪おうと企むからである。彼らはまず、名うての博打打ちである Śakuni という名の親族の協力を確保し、それから盲目の老 Mahārāja を説き伏せて、Pāṇḍava を Hastināpura での賭博の祝宴に招かせる。Yudhiṣṭhira はひそかな危惧を抱きつつ招待を受ける。というのは「彼は骰子を投げるのにあまり巧みではなかった」し、「Śakuni が Hastināpura に住んでいる」ことを知っているからである。Śakuni については、「彼は骰子を投げること、そして細工した骰子で遊ぶことにきわめて巧みであり、それゆえ彼が遊ぶときはいつも勝負に勝った」と言われている。それにもかかわらず、Yudhiṣṭhira は行かざるをえないと感じる。「真の kṣatriya は戦いあるいは遊びへの挑戦を拒むことはできない」からである。彼らが行った遊戯はバックギャモンに似ていたらしく、「盤上の駒が骰子の投げによって動かされる」ものであった。ある種の種子あるいは木の実が骰子として用いられ、この種の骰子は宗教的供犠の一部の指針として用いられた。それゆえ骰子を投げることは咎められるべきこととはみなされず、情熱となったとき、あるいは賭けが度を越したときにのみ悪徳とされた。もちろん、Yudhiṣṭhira が自らの所有するすべてを賭けて失うように仕組まれていた。*
* A&MI.
Pāṇḍava が第二の流謫から帰ったとき、大戦が戦われたのは主として Duryodhana のせいであった。Bhīṣma と Droṇa も、また年老いた父も、彼がそれを受け入れることを切望したにもかかわらず、彼は Kṛṣṇa の和平の提案をすべて拒んだ。……戦争が始まった。
「その手に委ねられし Kuru の軍勢を、
Bharadvāja の子は整列させぬ。まず
Sindhu の首長らと Kaliṅga の王を、
若き王子 Vikarṇa とともに右翼に
配し、Gāndhāra の武勇の騎士らをもてせり。
輝く槍もて武装し、その君主の子
Śakuni に率いられて、彼らは支えたり。左翼には
Duḥśāsana と他の名ある首長らが
陣を指揮し、その周りには
Kāmboja の騎兵、Śaka と Yavana が、
速き駿馬に乗りて、戦場に強く駆けたり。
北と東と南の国々が
その主力の大隊を成し、後衛には
君主が安らかに進み、一方前衛には
勇ましき Karṇa がその忠実なる一隊を率いたり。
彼らはその君主の堂々たる姿に歓喜せり、
戦の象の上に高く掲げられ、
昇る太陽のごとく華やかに輝くを。
その戦士らは、Indra を先頭とする神々さえも
その武勇を阻むには弱しと思い、
互いに思いを明かしつつ、
勝利を確信して敵に向かい進みぬ。」*
* Wilson, Works, Vol. III, p. 291.
戦争の最終日、Bhīma は Duryodhana と棍棒で一騎打ちを交え、彼を殺した。そのとき彼は、Duryodhana が Draupadī に加えた侮辱に報いるために立てた誓いを果たしたと言われる。
durvāsas Hindu の大犬儒者。名高い聖仙で、Atri と Anasūyā の子であり、Śiva の一部の化身である。彼が地上をさまよっていると、空のニンフの手に花輪があるのを見て、その香りに恍惚となった。優雅なニンフはそれを聖仙に贈り、聖仙はその花冠を額に載せて旅を続けた。まもなく彼は、三界の支配者 Indra が猛り狂う象 Airāvata に乗り、神々を従えて近づいて来るのを見た。聖仙は花輪を神々の王に投げ与え、王はそれを Airāvata の額に掛けた。象は鼻で花輪をつかみ、地に投げ捨てた。聖仙の長 Durvāsas は自らの贈り物へのこの扱いにひどく憤り、不死なる者たちの主権者にこう語りかけた。「私が与えた花輪を尊ばぬとは、汝は愚か者だ。……三界に対する汝の主権は覆されるであろう、云々。」Indra は象から降りて罪なき Durvāsas を宥めようと努めたが、効果はなかった。それ以来、三界はその活力を失い、衰退と荒廃に陥った。神々はそこで dānava に圧迫され、Viṣṇu に頼り、大洋を攪拌するよう指示された。Durvāsas は Cirañjīvī、すなわち一つの時代に限られない不死の人であった。戯曲 Śakuntalā においては、彼女が彼のために戸を開けるのがわずかに遅れたことに対する彼の呪いが、この若い女に悲しみと恥辱をもたらした。同様に、Hindu 文学の全領域を通じて、Durvāsas の呪いは、あらゆる不都合、災難、不運を説明するために手近に控えている。— A&MI.
duṣyanta Anila の長子で、帝王 Bharata の父。Mahābhārata はこの王について次の伝説を語る。「昔、勇敢な Rājā Duṣyanta が森で狩りをしていると、聖仙 Kaṇva の養女である美しい Śakuntalā を見た。そして彼は乙女を説き伏せて gāndharva 婚によって自分の妻とし、誓いのしるしとして自分の指輪を彼女に与えた。それから Duṣyanta は自分の都に帰り、Śakuntalā は父の庵にとどまった。その後、聖仙 Durvāsas が Kaṇva の庵を訪れたが、Śakuntalā の思いは夫に向けられていて、聖仙の近づくのが聞こえなかった。そこで Durvāsas は、乙女が愛する男に忘れられるよう呪った。しかししばらくして彼は和らぎ、Duṣyanta が指輪を見ればすぐに呪いは取り除かれると約束した。Śakuntalā は自分が身ごもっていることを知ると、夫の宮殿へ出かけた。しかし途中で聖なる池で沐浴すると、指輪が指から落ちて水の下に失われた。彼女が Rājā の宮殿に着くと、彼の記憶は失われており、彼は彼女を妻と認めようとしなかった。そこで彼女の母が来て彼女を密林へ連れ去り、彼女はそこで男子を産み、その子は Bharata と名づけられた。たまたま一人の漁師が大きな魚を捕らえ、その魚の腹から Duṣyanta の指輪が見つかり、Rājā のもとへ運ばれた。Duṣyanta は指輪を見て、gāndharva 婚によって自分の妻となった美しい Śakuntalā を思い出した。Rājā は密林へ行き、少年 Bharata が若い獅子たちと戯れ、それらに乳を与える雌獅子をものともしないのを見た。彼の心はその若者に燃え立った。やがて彼は悲嘆に暮れる Śakuntalā を見た。そして彼は Śakuntalā が自分の妻であり、Bharata が自分の息子であることを知った。そこで Rājā Duṣyanta は Śakuntalā と Bharata を自分の都へ連れて行き、Śakuntalā を第一の Rāṇī とし、Bharata を rāj(王位)の後継者に任じた。」Śakuntalā の物語は、Kālidāsa の美しい戯曲「失われた指輪」の主題である。
dūta-s 使者。gaṇanāta[ママ]すなわち dūta は三つの部類に分けられる。
(1)Śiva-dūta。赤く、背が低く、bhūta のようにずんぐりした姿で表される。その髪の房は撚り合わされて帽子のように頭に載り、口からは二本の大きな獅子の牙が突き出ている。四本の手をもち、それぞれに蛇、縄、三叉戟、酒壺を持つ。その身体は種々の装身具で飾られている。これらの使者によって、Īśvara は帰依者の死に際してその霊魂を、Kailāsa と呼ばれる自らの至福の座へ、puṣpakavimāna すなわち自走する車に乗せて迎え取る。
(2)Viṣṇu-dūta。Śiva-dūta と同様に髪を結い、同様に獅子の牙をもつが、その他の点では Viṣṇu に似ており、青い色で、額、腕、胸に tirunāma(Vaiṣṇava の額印)を着け、首には tulasīmaṇi(tulasī の数珠)を掛けている。四本の手にはそれぞれ śaṅkha(法螺貝)、cakra、戦斧、棍棒を持つ。これらの使者によって、Viṣṇu は忠実な帰依者の霊魂を vaikuṇṭha と呼ばれる自らの至福の住処へ迎え取る。
(3)Yama-dūta。死と地獄の王 Yama の使者であり、悪鬼のように真っ黒に、恐ろしい顔と大きな歯をもって描かれる。四本の手には三叉戟、棍棒、多くの縄を持ち、帯には短剣を差している。その務めは悪人の霊魂を naraka すなわち地獄へ運ぶことにある。しかし彼らは、定められた寿命が尽きる前には誰をも捕らえることは許されず、敬虔な者の霊魂にはまったく触れることができない。しかし徳ある者でも邪悪な者でもない者が死ぬときには、Yama の使者と Śiva あるいは Viṣṇu の使者とが互いに衝突し、それぞれの側がその中間の霊魂を自分のものと主張することが起こる。」
dūradarśin 「遠くを見る者」。Pañcatantra に登場する禿鷲の名。孔雀の王 Citravarṇa の首席大臣であった。
dūṣaṇa Daṇḍaka の森で Rāma に殺された巨人。[Supplement より→]Laṅkā の大巨人 Rāvaṇa の兄弟であった。
dṛḍhadhanus Hastin の家系に属する Senajit の子である王子。
dṛḍhanetra Viśvāmitra の四人の息子の末子。Viśvāmitra が苦行を行うために南の密林に退いたときに生まれた。
そしてかの寂しき地にて、
王は四人の徳ある息子をもうけぬ、
供物にちなみて名づけられし Haviṣyand、
甘美さにて名高き Madhuṣyand、
戦いにて車より生まれし Mahārath、
そして視力強き Dṛḍhanetra を。」— GRIFFITHS.
dṛḍhayas Matsya の表による Purūravas の息子の一人。
dṛḍhasona Susam の子である Magadha の王。48年統治した。
dṛḍhāśva 悪鬼 Dhundhu との争いから逃れた Kuvalayāśva の三人の息子の一人。
dṛṣadvatī Hindu の歴史においてかなり重要な河。ただしその古い名の痕跡は残っていない。— VP, p. 181.
この河は Himavat とも呼ばれ、Prasenajit の母であると言われる。
dṛṣṭānta 例証、例、あるいは身近な事例。Gautama の Nyāya 体系においては、論争において両論者が同意する論点、すなわち「それに関して、普通の知性の人と優れた知性の人とが同じ意見を抱くもの」である。
deva(神) 地上に住むにせよ deva-loka に住むにせよ、神的存在。Deva はまた種々に用いられる神的な形容語でもあるが、単独で上位の神格に用いられることはまれである。Mahādeva は時に見られる。この語の最も頻繁な用法は複数においてであり、「天上の者たち」と訳しうる。Hindu の書物によれば、彼らは三十三 crore、すなわち三億三千万いるという。しかしこれはおそらく、大きな数を表す比喩的な表現にすぎない。彼らは、これまで言われてきたような半神、すなわち神格化された人間の英雄ではない。Rāma や Kṛṣṇa は彼らの一人ではなく、より高い位にある。devatā は Viṣṇu の楽園に住むが、とりわけ Indra の楽園である svarga に属する。彼らは通常八つの区分に配され、各区分の頭には指導者として一人の vasu がいる。