Garrettインド古典辞典

k第一部 サンスクリット語・パーリ語の見出しkṛti … koṭikāsya

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kṛti

1. Bahulāśva の子で、Mithilā の最後の王。彼において Janaka の家系は絶えた。

kṛtirāta Mithilā の王の一人で、Mahādhṛti の子。

kṛttikā 北の avasthāna の Nāgavīthī における月宿。太陽が月宿 Kṛttikā の第一度にあり、月が Viśākhā の第四度にあるとき、それが大分点、すなわち聖なる分点の季節である。

kṛtvī Hastin の子孫の一人 Anaha の妻。

kṛpa and kṛpī 兵学に熟達した Satyadhṛti の息子と娘。彼はニンフ Urvaśī に恋して、男と女の二人の子の親となった。Rājā Śāntanu は狩りの途中、これらの子が長い śara 草の茂みに捨てられているのを見つけ、その境遇を憐れんで彼らを引き取り育てた。彼らは憐れみ(kṛpā)によって養われたので、Kṛpa と Kṛpī と呼ばれた。彼らの誕生の伝説は、その名の起源を説明するための Purāṇa の創作と考えられている。後者は Droṇa の妻となり、Aśvatthāman の母となった。Kṛpa は Kuru の将軍の一人であった。彼は Arjuna と武器を交えたがる Karṇa を咎め、Pāṇḍava と条約を結ぶよう Duryodhana に助言した。Duryodhana が致命傷を負ったとき、Kṛpa は急いで彼のもとへ行き、水を運び、Aśvatthāman を将軍に就けた。Kṛpa はまた Śāradvata とも呼ばれる。

kṛmibhojana, kṛmiśa pātāla の下の地獄すなわち naraka の区分のうち二つの名。それぞれの特定の罰は Viṣṇu Purāṇa, pp. 207-9 に記述されている。

kṛśānu Ṛgveda に言及される射手。

kṛśāśva

1. Ayodhyā の王で、Vārhadaśva の子、Prasenajit の父。しかし太陽王朝の系譜はすべてが一致しているわけではなく、VP は Kṛśāśva を省いている。2. Viśālā の主権者で、Saṃyama の子、Somadatta の父。Buchanan は Ayodhyā の王子を西暦紀元前18世紀に、Viśālā の主権者を14世紀に置いている。それゆえ後者は、彼によって15世紀に栄えたと考えられている Rāma よりも後にされている。

kṛṣṇa インドの Hercules と Apollo を合わせたもの。インド神話の最も名高い半神であり、インド史の最も名高い英雄であって、Viṣṇu の第八の avatāra すなわち化身である。「Viṣṇu は、圧制的な君主であり、事実、神々の本来の敵である受肉した daitya すなわち Titan である Kaṃsa を滅ぼすために、Kṛṣṇa として生まれた。Kaṃsa は自らの運命を予告され、自分を滅ぼす者の先手を打とうとする。しかし Kṛṣṇa は Kaṃsa の首都 Mathurā からひそかに連れ出され、Mathurā 近くの牧畜地帯 Vṛndāvan で牛飼いの子として育てられる。彼が崇拝の対象に高められたのは、このような境遇にあった間のことであり、幼子、少年、若者のいたずらな愚行が民衆の喜びと驚嘆の主題となっている。彼の若い日の物語においては、男の仲間たちはあまり目立たない。しかし女たち、神格化された乳搾り娘たちはこの劇においてより重要な役割を演ずる。その中で最も目立つのは Rādhā であり、彼女は Kṛṣṇa 自身にほとんど劣らない普遍的な崇敬を受けている。」*

Kṛṣṇa は真に叙事詩期に属するとは言えず、ほとんどもっぱら Purāṇa 期に属する。その生涯の物語から驚異的なものを取り除くならば、彼は歴史上の人物であったことがわかるであろう。それは、Ārya 種族が半島の北西の隅を離れ、漸次的な征服によって内陸と東方へと進み始めた時代に属する。彼が攻撃し屈服させる敵は内陸の原住民であり、英雄の栄光を高めるために、巨人と悪鬼、daitya と dānava と呼ばれている。Ārya はなお遊牧の民であり、Himālaya 山脈の麓と Panjāb の平原で家畜の群れを放牧していた。そしてこの伝説はさらに、原始的な元素崇拝が今や Brāhmaṇa 教のより体系的な宗教と caste の制度に席を譲ったことを信じさせるであろう。彼の Viṣṇu との同一視は、かくも名高い君主かつ戦士の自然な神格化として続いたであろう。しかし伝説そのものは、Purāṇa に与えられている形においてさえ、Brahmā、Viṣṇu、Śiva の神話的三神一体がまだ夢想されるよりはるか以前に彼が存在したことを示しているように思われる。以下は、一部は Purāṇa から、一部は Monier-Williams の Eng.-Sanskrit Dictionary から借りた、その誕生と行為の短縮された記述である。

daitya すなわち原住民の王 Āhuka には二人の息子、Devaka と Ugrasena があった。前者には Devakī という名の娘が、後者には Kaṃsa と呼ばれる息子があった。Devakī は、Yadu の子孫 Śūra の子である Vasudeva(あるいは Ānakadundubhi)という名の Ārya 種族の貴人に嫁ぎ、彼によって八人の息子をもった。Vasudeva にはまた Rohiṇī という名のもう一人の妻があった。Devakī の従兄弟 Kaṃsa は、聖者かつ予言者 Nārada から、従姉妹が息子を産み、その子が彼を殺してその王国を覆すであろうと告げられた。Kaṃsa は Mathurā の王であり、彼は Vasudeva とその妻 Devakī を捕らえ、自らの宮殿に幽閉して見張りを置き、Devakī がすでに産んでいた六人の子供を殺した。彼女は今や第七子を産もうとしていた。それは Kṛṣṇa の遊び仲間であり、彼と同様に Viṣṇu の化身と考えられる Balarāma であった(rāma の項を参照)。しかし神の働きによって、子は誕生前に、なお自由の身であった Vasudeva のもう一人の妻 Rohiṇī の胎へ移され、こうして救われた。彼女の第八子が Kṛṣṇa であった。彼は真夜中に、きわめて黒い肌(Kṛṣṇa という名は形容詞として「黒い」を意味する)で、胸に Saint Andrew の十字架に似た śrīvatsa と呼ばれる特異な巻き毛をもって生まれた。神々は今や、この恵まれた嬰児の命を Kaṃsa の警戒から守るために介入し、それに従って宮殿の見張りを yoga-nidrā すなわち神秘的な眠りによって眠らせた。嬰児を抱いて、その父 Vasudeva は見つからずに Yamunā すなわち Jumna 河までひそかに抜け出した。この河は Ārya と原住民との境界であったらしい。彼はこれを渡り、対岸で Nanda と呼ばれる遊牧の Ārya の牛飼いの車と畜群を見つけた。その妻 Yaśodā は、奇妙な偶然にも、ちょうど女の子を産んだところであった。Vasudeva は神の諭しによってこれを告げられ、ひそかに彼女の寝床のそばへ行き、Kṛṣṇa を彼女の傍らに置いて、再び河を渡り、Yaśodā の女の嬰児を腕に抱いて宮殿に再び入り、こうしてそれを自分の息子と取り替えた。Kaṃsa はこの欺瞞を発見すると、しばらくはこの件をあきらめて囚人たちを解放したが、すべての男児を死刑にするよう命じた。Vasudeva はそこで Kṛṣṇa を牛飼い Nanda の世話に委ね、Nanda は彼を Gokula すなわち Vraja の村へ連れて行き、そこで育てた。

ここで Kṛṣṇa と、彼に加わった兄 Balarāma とは、子供として共にさまよい歩き、驚くべき力の多くの手に負えないいたずらによって、その神的な性格を示した。たとえば Nanda とその家族の乗り物かつ住まいとなっていた車を蹴り倒すなどである。女の daitya Pūtanā が彼に乳を飲ませるために遣わされたが、手に負えない嬰児はその企みを見抜き、彼女を殺すことによってその感謝を示した。後に彼は Yamunā(Jumna)河の中ほどで蛇 Kāliya を打ち負かした。悪鬼 Ariṣṭa は雄牛の姿をとり、もう一人の Keśin は馬の姿をとり、第三の Kālanemi も、みな少年を滅ぼそうとしたが、それぞれ彼の超人的な力の犠牲となった。Kṛṣṇa は今や Nanda と牛飼いたちを促して Indra の崇拝を捨てさせ、彼らを養う牝牛と、彼らに牧草地を与える山々の崇拝を採用させた。Indra は供物を失ったことに激怒し、全種族の上に天の門を開き、彼らを水浸しにしようとした。もしわれらの英雄が Govardhana 山を引き抜いてそれを堅固な傘として地の上に差し掲げなかったならば、そうなったであろう。彼はまもなく労苦から休み、gopī すなわち牧女たちと戯れた。彼はそのうち七、八人を娶り、その中で Rādhā が寵愛を受けた。彼は彼女たちに rāsa すなわち maṇḍala-nṛtyam と呼ばれる輪舞を教えた。その間、Kaṃsa は Nārada の予言を忘れていなかった。彼は二人の少年 Kṛṣṇa と Balarāma を Mathurā に滞在するよう招いた。彼らは受け入れて出かけた。門のところで Kaṃsa の洗濯人が Kṛṣṇa を侮辱し、Kṛṣṇa は彼を殺してその黄色い衣を身にまとった。彼はその後 Kaṃsa 自身を殺し、その父 Ugrasena を王座に就けた。Kālayavana(Indo-Scythia)種族の外国の王がまもなく Yadu すなわち Ārya の領土に侵入した。そこで Kṛṣṇa は Guzerat に Dvārakā の町を建てて要塞化し、そこへ Mathurā の住民を移した。彼はその後 Satrājit の娘 Satyabhāmā を娶り、Bhīṣmaka の娘 Rukmiṇī を連れ去った。彼のハーレムは六万人の妻を数えたが、その子孫は一万八千人の息子に限られた。その後 Indra の天を訪れた折、彼は妻 Satyabhāmā の説得によって、乳海攪拌の際に生み出され当時 Indra の庭で茂っていた名高い pārijāta 樹を盗むという、客としてはきわめてふさわしからぬ振る舞いをした。争いが起こり、Kṛṣṇa は神々を打ち負かして聖なる樹を持ち去った。別の時、Bāṇa の娘である女の daitya Uṣā が Kṛṣṇa の孫 Aniruddha を連れ去った。祖父は Rāma を伴って救出に赴き、Bāṇa は Śiva と Skanda に守られていたにもかかわらず勝利を収めた。Vasudeva の一族の一人 Pauṇḍraka は、後に Benares の王に支持されて彼の称号と標章を名乗った。Kṛṣṇa は燃える円盤(cakra)をこの都に投げつけ、こうしてそれを滅ぼした。彼はその後、自らの部族 Yādava を絶滅させた。彼自身は猟師の流れ矢によって殺された。彼は黒い巻き毛をもち、棍棒すなわち鎚矛、剣、燃える円盤、宝石、法螺貝、花輪を身に帯びるものとして描かれる。その御者は Sātyaki、その都は Dvārakā、その天は Goloka である。」(THOMSON)

Kṛṣṇa は Bhagavad Gītā の主要な語り手であり、そこで彼は Arjuna に Sāṃkhya 哲学の体系を説く。大戦において彼は Pāṇḍava の側に加わり、反対党が打ち負かされたのは主として彼の強力な援助によるものであった。

Kṛṣṇa は Mahābhārata において次の名で知られている。Vāsudeva、Keśava、Govinda、Janārdana、Dāmodara、Dāśārha、Nārāyaṇa、Hṛṣīkeśa、Puruṣottama、Mādhava、Madhusūdana、Acyuta。

* Wilson, Works, Vol. II, pp. 66, 67.

kṛṣṇa Ṛgveda に言及される asura すなわち dasyu。その子孫が一人も生き残らないよう、妻たちとともに殺された。「Kṛṣṇa は黒を意味し、Wilson 教授は、この場合その名は浅黒い肌の原住民を暗示するのかもしれないと考えている。しかし Ṛgveda の中にさえもう一人の Kṛṣṇa がおり、彼とその子 Viśvaka は Aṅgirasa 家の成員である。この家は、良き古い家系の Ṛgveda の貴族と呼びうるものであり、父子ともに讃歌の ṛṣi の中に現れる。」— MRS. MANNING, A&MI, Vol. I, p. 65.

kṛṣṇa

1. Pṛthu の子孫 Havirdhāna の息子の一人。2. 10年統治した Āndhra 王の一人。

kṛṣṇa

1. 欺瞞等によって生きる者が罰せられる naraka の一つの名。2. 「黒い河」を意味する、Dakhin の Kṛṣṇaveṇā 河の名。

kṛṣṇa miśra Prabodha-Candrodaya、すなわち「目覚めた知性の月の出」の作者。これは神学的・哲学的な戯曲であり、Vedānta の教義を確立することを目的として、12世紀頃に書かれたと考えられている。他の者が理性と議論によって攻撃したものを、Kṛṣṇa Miśra は嘲笑によって打ち負かす。その作品は Lassen 教授によって讃えられており、彼はそれを特にインド的であり、他国の文学のいかなるものとも似ていないと言う。— MRS. MANNING.

kṛṣṇaveṇī 今日 Kṛṣṇā あるいは Kistnā と呼ばれる河。

kekaya Panjāb にあったと考えられる古代都市。王 Aśvapati(馬の主)は Rājā Daśaratha の妻 Kaikeyī の父であった。

ketu 九つの惑星の一つ。あるいは Siṃhikā の息子たち。その車は、ラックあるいは燃える藁の煙のような黒ずんだ赤色の八頭の馬に牽かれる。

ketumata

1. 西方の守護者で Rajas の子である Lokapāla。2. Dhanvantari の子の名。

ketumatī 大 rākṣasa の首長 Sumāli の妻。

ketumāla 王 Āgnīdhra の息子の一人で、Gandhamādana の主権者。また varṣa すなわち国の名でもある。

kerari 恐ろしい形態の Pārvatī を崇拝し、人身御供を捧げるのを常とした宗派。彼らは自らに身体的な責苦を加え、鉤等で自らの肉を刺すのを常とした。このようなことは今では刑事犯罪とされている。

kerala 本来の Malabar の古名。住民は Kerala と呼ばれる。

kevala

1. Nara の子である王子。2. Purāṇa に見える国の一つの名。

keśidhvaja Kṛtadhvaja の名高い子。彼には Khāṇḍikya という名の従兄弟があり、Khāṇḍikya は宗教儀礼とそれに付した重要性で名高かった。一方 Keśidhvaja は霊的な知識を追求の大いなる対象とみなしていた。争いがきわめて深刻になったので、Khāṇḍikya は Keśidhvaja によって領土から追放された。後者は大いなる困惑の折に、顧問たちから、自分の得たい情報を与えうるのは敵 Khāṇḍikya をおいて他にないと告げられた。望みの会見が行われ、Keśidhvaja の困難はすべて取り除かれた。彼は師に報いたいと望み、彼自身に最も喜ばしいであろう報酬を名指すよう望んだ。友人たちは彼に、全王国の返還を求めるよう勧めた。しかし Khāṇḍikya は Keśidhvaja に語りかけて言った。「あなたが霊魂の教説を教える霊的な学に通じていることは知られているので、その知識を私に伝えてくだされば、あなたは負債を果たしたことになろう。人間の苦悩を和らげるのにいかなる行為が効力をもつかを私に明かしたまえ。」そこで Keśidhvaja は無知の本性と Yoga すなわち観想的帰依の利益について講話を行った。— VP, pp. 649-59 を参照。

keśin 強大な悪鬼で、Kṛṣṇa を滅ぼすよう Kaṃsa に命じられた。彼は馬の姿をとり、「蹄で大地を蹴り、たてがみで雲を散らし、その歩みにおいて太陽と月の軌道を越えて跳躍した」。しかし恐るべき悪鬼はまもなく「Kṛṣṇa の腕によって口を裂かれ、雷に打たれた木のように引き裂かれて倒れた。こうして彼は二つの部分に分かれて横たわり、それぞれが二本の脚、半分の背、半分の尾、一つの耳、一つの眼、一つの鼻孔をもっていた。」Kṛṣṇa はこの偉業を称えて、後に Keśava と呼ばれた。— VP, p. 540.

keśinī

1. Sagara の妻の一人。子がなかったので聖仙 Aurva の助けを求め、muni は「一人の妻は一人の息子を産み、もう一人は六万人を産むであろう」という恩恵を宣し、選択を彼女たちに任せた。Keśinī は一人の息子をもつことを選んだ。2. Viśravas の妻の名。

keśinī 1.[ママ]Damayantī の美しい髪の侍女。Nala への伝言を携えて遣わされ、会見において彼の神的な力を認め、それに従って Damayantī に報告した。

kesaramat Bhārata の varṣa の九つの区分の一つ。

kaikasī Sumāli と Ketumatī の娘の一人。Sumāli はその家族とともに長く pātāla に住んでいた。ある時たまたま地上を訪れた彼は、娘 Kaikasī に Viśravas のもとへ行って求愛するよう望んだ。Viśravas は彼女を快く迎え、彼女は恐るべき Rāvaṇa、巨大な Kumbhakarṇa、そして二人の弟の母となった。彼らはみな森で育った。

kaikeya Śivi の四人の息子の一人。インド北西部の州と民族にその名を与えている。

kaikeya-s Kaikeya の Rājā Dhṛṣṭaketu の五人の息子が Kaikeya と称される。

kaikeyī Mahārāja Daśaratha の王妃の一人で、Bharata の母。王妃 Kauśalyā の子 Rāma を王位継承者に就けることが提案されたとき、Kaikeyī は喜び、知らせをもたらした奴婢 Mantharā に褒美を与えて言った。

私は喜ぶ、Rāma が王座を得ることを。
Kauśalyā の子は私自身の子と同じ。

しかし Rāma を嫌っていた老婆 Mantharā は、Bharata と彼女自身に降りかかるであろう屈辱と破滅を述べ立てて、Kaikeyī の嫉妬をかき立てた。

ひとたび Rāma の手が
Ayodhyā の国を治め始めたならば。

これが彼女を行動に駆り立て、彼女はふくれっ面で怒って不興の部屋へ駆け込んだ。Mahārāja は後に彼女を探し、彼女がこのように苦悩しているのを見て、愛と情愛を誓ったが、彼女は黙っていた。ついに決定的な瞬間に彼女は彼から約束を引き出し、それから「女の頑固さで彼にその言葉を守らせた」。「彼は約束をしたのであり、彼女はその履行を主張した。彼が説きうるすべてに対して、彼女の答えはただ一つであった。『Rāma が追放され Bharata が即位しないかぎり、あなたは嘘つきの烙印を押されるでしょう。そして私は毒を飲みます。』」

君主は、Kaikeyī が残酷なる言葉もて
その当然の要求を迫りしとき、
しばし思いに沈みて立ちぬ、
その胸のうちに苦悶の働く間。」

その結果が Rāma の追放であった。そして自分の息子 Bharata が Girivraja から帰ると、彼は母のしたことを強く非難した。しかし彼女は生き長らえて、Rāma の王国への帰還を喜んだ。

kaiṭabha 恐るべき悪鬼。仲間の Madhu とともに、kalpa の終わりに Viṣṇu が観想の眠り(yoganidrā)に沈んでいたとき、その耳から生じた。悪鬼たちが Brahmā を殺そうとしたとき、後者は Viṣṇu が眠っているのを見て、彼を起こす目的で yoganidrā を讃え始めた。— OST, Vol. IV, p. 371.

kailakila yavana-s Greek の王子たち、あるいはその Indo-Scythia の後継者たちが Indus の流れに従って半島の西海岸の上部に広がった時代に生きた王の種族。西暦1058年の日付をもつ発見された碑文から、Kīlakila、あるいはそこで称されるところの Kīlagila は、Koṅkaṇ の王 Marasiṃha Deva の首都と呼ばれている。

kailāsa Meru と同様に Himālaya の北の高地に位置し、インドの伝承と神話において名高い山。「Meru と Kailāsa はインドの二つの Olympus である。おそらくそれらがかくも崇められたのは、サンスクリットを話すインド人が、Indus と Ganges の間に広がる広大な平原を占めるために下ってくる以前に、その語族の他の原始的な諸民族とともに住んでいた古の故郷を記憶していたからであろう。」— GORRESIO.

Purāṇa においては、Kailāsa は Meru の西にある幅数 yojana の伝説上の山である。Kailāsa は純銀の、まばゆく白い山として、また Śiva の住処として描かれる。昔の時代にはすべての山が翼をもっていたと言われる。しかしその飛行があまりに多くの害と危険をもたらしたので、Indra は雷電によってその翼を打ち落とし、山々を現在の位置に固定した。Kailāsa は Rāmāyaṇa にしばしば、Himālaya の北の高地近く、聖なる湖の地域にあるものとして言及されている。

kaivalya(独存) Yoga Sūtra の第四章で、霊魂の恍惚たる抽象すなわち孤立に関する論考。生きている間にさえ得られうる解脱の状態であり、jīvanmukti と称される。それは霊魂が実際に至高存在に再吸収される以前の Yoga の最高の状態である。身体はなお存在し、もちろん霊魂はその内に存在する。しかし身体とのその結びつきは完全に断たれていると考えられ、それゆえ霊魂は身体を離れては再び入り、望むところへ望むままにさまようことができる。— J. C. THOMSON.

kaiśika Vidarbha(その項を参照)の息子の一人で、Jyāmagha の孫。

koutsya 神話上の聖仙で、maharṣi Varatanta の弟子。師のもとで修めた十四の学問の部門に対して、師に十四 crore の rupee をもって報いた。その金がいかにして得られたかについては raghu の項を参照。

kokanaka-s, kokaraka-s Viṣṇu Purāṇa に列挙される原住部族の名。

koṭavī Rudrāṇī の八分の一の部分であり、呪文から成る daitya の守護女神。Viṣṇu Purāṇa によれば、Kṛṣṇa が Bāṇa を殺すために円盤を投げようとしていたとき、神秘的な女神 Koṭavī、すなわち悪鬼の魔術の伝承が、それを妨げるために彼の前に裸で立った。

koṭikāsya Mahābhārata の短い記述以外には何も知られていない王子。Śaiva[ママ]族の Rājā Suratha の子で、Jayadratha の友かつ追随者であった。Draupadī が彼と友好的な会話を交わしたとき、彼女は手に持っていた kadamba 樹の枝を脇に置いた。そこから、そのような枝が侵入者を退ける合図として用いられたと推論される。Koṭikāsya は Śivi の長と称される。Śivi は Alexander のインド征服の歴史家たちによって言及される部族である。

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