Garrettインド古典辞典

k第一部 サンスクリット語・パーリ語の見出しkosala … kṣemadhanvan

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kosala Rāmāyaṇa は Kosala について次のような描写を含んでいる。「昔、Kosala という名の大きな国があった。その国は幸福で喜ばしく、家畜と穀物と富に富んでいた。そしてその国の Sarayū 河の岸に、Ayodhyā という名の名高い都があった。そこではすべての家が大きく美しく配置され、通りはつねに水が撒かれ、豊かに飾られたきわめて多くの寺院と、山頂のような円屋根をもつ堂々たる宮殿があり、鳥と花に満ちた心地よい庭園と、美味な果実をたわわにつけた木々の木陰深い林があった。そして何よりも、神々の聖なる輝く車があった。その都の貯水池はあらゆる描写を超えて壮麗であり、白い蓮に覆われていた。蜂は蜜に渇き、風は、慎みが恥じらう花嫁を夫から追いやるように、白い蓮を蜂から追いやった。鴨とガチョウは池の水面を泳ぎ、あるいは澄んだ水の下に潜った。そして輝くカワセミは、明るい波に映る自らの姿を見て怒り、魚を捕るふりをして翼で水を打った。池の周りのバナナの木は、師の足もとにひれ伏す恭しい弟子のように、果実の重みで身をかがめていた。都全体は宝石で飾られ、宝石の鉱山に似ており、Indra の都 Amarāvatī のようであった。それは花と香で香り、華麗な旗で飾られていた。そしてそれはつねに、音楽の甘い音、弓の鋭い弦音、Veda の讃歌の聖なる詠唱に満ちていた。都は周囲をきわめて高い城壁で囲まれ、それには種々の色の宝石がはめ込まれていた。城壁の周り一面には、深く渡ることのできない水を満たした濠があった。都の門は堅く閂をかけられ、門の柱廊と城壁の塔は弓兵で満たされ、あらゆる種類の武器が蓄えられていた。都のあらゆる区域は、宇宙の八方を統べる八神のように強く、下界の入口を見張る多頭の蛇のように油断のない強大な英雄たちによって守られていた。」

「Sarju の広々たる岸の上に、
幸いなる Kosal の国は横たわる。
美しき平野の肥沃なる広がりと、
羊と牛の群れと穀物の富とをもて。
そこに、古き名声に名高く、
王の都 Ayodhyā* は立つ。
過ぎし時代に、聖なる Manu の
王侯の手によりて築かれ設計されしもの。
帝国の座!その城壁は
端から端まで十二リーグに及び、
幅は横に三リーグ、
広場と宮殿もて美しく飾らる。
その門は等しき間隔に立ち、
その広き道は賢く設計されたり。
まことに栄えあるはその王の通り、
流れが塵と暑さを和らぐる所。
平らなる一つの地に整然と並びて、
その家々は見事なる姿もてそびゆ。
露台と宮殿、アーチと門とが、
女王のごとき都を飾る。
その城壁は高く、強く広大にして、
等しき間隔にて道に貫かれ、
深く広き取り巻く濠と、
武器の蓄えとによりて固めらる。」— GRIFFITHS.

* 「Rāma と太陽の子らの古の首都の廃墟は、Fyzabad 近くの今日の Ajudhya に今なお辿ることができる。Ajudhya は Hindu の Jerusalem あるいは Mecca である。」— GRIFFITHS.

Kosala の名は種々に適用される。その最も早く最も名高い適用は上に述べたもの、すなわち Sarayū の岸の国、Ayodhyā を首都とする Rāma の王国である。Mahābhārata においては、東に一つの Kosala、南にもう一つの Kosala があり、そのほかに東と北に Prak-kosala と Uttara-kosala がある。Purāṇa は Kosala を Vindhya の背後に置いている。そして Vāyu からは、Rāma の子 Kuśa が王国をより中央の位置へ移したらしいことがわかる。彼は Vindhya の断崖の上に建てられた首都 Kuśasthalī すなわち Kuśavatī において Kosala を統治した。後代には Kosala の国は Oude の南にあった。Ratnāvalī においては、Vatsa の将軍が Vindhya 山中で Kosala の王を包囲するからである。Ptolemy は南に Kauta Kosala をもっており、おそらく Hindu の Kosala の一つである。WILSON, Viṣṇu Purāṇa への注および Hindu Theatre, Vol. II.

kaukundaka-s, kaukattaka-s, kauṅkaṇa-s Koṅkaṇ とその近辺の山岳地帯に住む原住部族。

kauṭilya brāhmaṇa Cāṇakya の名。その働きによって Nanda は滅ぼされ、Candragupta が Palibothra の王座に昇らされた。

kaumārabhṛtya 医学の八部門の一つで、産科と子供の扱いを含む。— Viṣṇu Purāṇa, p. 407.

kaumārī Śiva がその恐るべき破壊的な Bhairava の形態をとるときに侍る、Śakti と称される八人の醜怪な女神の一人。

kaurava-s Mahārāja Dhṛtarāṣṭra とその妻 Gāndhārī の息子たち。早くから彼らは、父の宮廷で共に育てられた従兄弟の Pāṇḍava を妬むようになった。Kaurava の長兄 Duryodhana は従兄弟の Bhīma の命を奪おうとした。彼らの生涯の主な出来事は、それぞれの名の下に語られている。それぞれの項を参照。

kauśaravi VP を語って聞かせた Parāśara の弟子 Maitreya の名。

kauśalyā Mahārāja Daśaratha の王妃の一人で、Rāma の母。彼女は Rāma をこの上なく愛していた。彼が王位継承者に就けられることが決まったとき彼女は大いに喜び、そして Rāma 自身が、自分は追放され Bharata が yuvarāja にされることになったと告げたとき、「彼女は樵の斧に切り落とされた sāl 樹の枝のように地に倒れた」。彼女は Rāma に、政権を掌握し Mahārāja を殺すよう促した。彼女は後に自らの過ちを認めた。Bharata は彼女に、Rāma への忠実な愛着を表明した。

kauśāmbī Hindustān の古代都市で、Vatsa の首都として現れる。Rāmāyaṇa によれば、それは Rāma の子孫 Kuśa の子 Kuśāmba によって建てられた。Buchanan は Bhāgavata を典拠として、その創建を Arjuna の子孫 Cakra に帰している。しかし Bhāgavata も Viṣṇu Purāṇa も Nimicakra が Kauśāmbī を建てたとは述べていない。それらはただ、Hastināpura が Ganges に押し流されるとき、Nimicakra は Kauśāmbī に住むであろうと言うのみである。そこから、Kauśāmbī は Hastināpura が破壊された時にすでに存在していたと推論すべきである。Buchanan は Kauśāmbī の跡地を Hastināpura に帰せられる廃墟のそれであったと推測しているが、それはおそらく Doab のもっと下流、一方は Magadha に、他方は Kosala に接するところにあった。Hindu の戯曲 Ratnāvalī においては、場面は Kauśāmbī の王 Vatsa の宮殿に置かれている。— WILSON, HT.

kauśika Vasudeva とその妻 Vaiśālī の息子の一人で、Kṛṣṇa の異母兄弟。

kauśika-s Viśvāmitra の子孫。Kauśika brāhmaṇa の gotra すなわち家系あるいは部族は VP(p. 405)に与えられており、Viśvāmitra と同様にもとは王族の caste であったが、彼と同様に帰依によって brāhmaṇa の位を得た他の部族との通婚によって増えたと言われる。これらの gotra は、師と弟子とが通婚によって一つの家族となる教義の学派としての性格をより多く帯びていたので、それは宗教的教授と著作に関する Brāhmaṇa の独占に対する kṣatriya caste の干渉を示している。

kauśikī Hindu の戯曲 Agnimitra and Mālavikā の登場人物。Rājā の大臣 Sumati の妹。ある時、兄が王女 Mālavikā を護送しなければならなかったとき、彼女は彼らに同行した。Vindhya 山中を通る途中、彼らは森の民に襲われ、その乱闘の中で Sumati は殺され、Mālavikā は行方知れずになった。一人残された Kauśikī は兄の遺体を炎に委ね、旅を再開した。Kauśikī はまもなく Mālavikā を見つけたが、王女はある期間の隷属を経た後にふさわしい縁に巡り会うであろうと予言した聖仙の予言を信じて、名乗り出ることを控えた。

kauśikī 夫に従って死んだために Satyavatī が変えられた河の名。今では Kosī と呼ばれ、Nepal に源を発し、Puranīya を通って Rajamahal のほぼ対岸で Ganges に注ぐ。

kaustubha Viṣṇu の身に着ける宝石で、乳海攪拌の際に生じた品の一つ。

「そして宝石の最良なる Kaustubha、
生ける光もて燃え、
主 Viṣṇu の胸の上に。」
「そして宝石 Kaustubha、
その絶えず輝く光輝は
Viṣṇu の冠に照り映ゆ。」

kratu

1. Prajāpati、すなわち Brahmā の心から生まれた息子の一人で、宇宙全体に光を撒き散らしつつ太陽の球に住む七人の栄光ある霊の一人。Dakṣa の娘 Sannati を娶った。2. Dhruva の種族の Uru の子。

kratusthala Caitra 月の間、太陽の車の七人の守護者の一人としてそこに住む天のニンフ。

kratha Vidarbha の子で、Jyāmagha(その項を参照)の孫。

krātha Mahābhārata に言及される王子の名。特に何も知られていない。

krāśva

1. Dakṣa の娘のうち二人を娶った聖仙。神格化された神々の武器は Krāśva の子孫であった。これらはまた śastra devatā、すなわち神的な武器の神々とも呼ばれる。Rāmāyaṇa には百が列挙されており、そこでは Prajāpati すなわち Dakṣa の娘である Jayā と Vijayā による Krāśva の息子たちと称されている。2. Sahadeva の子。3. Santratasva の子。

kriyā 「帰依」。Dharma に嫁いだ Dakṣa の娘。宗教儀礼の寓意的な人格化であり、Hindu の法典の同様に寓意的な表現、すなわち道徳的・宗教的義務である Dharma に嫁いでいる。Wilson, VP への注, p. 55. 2. 魔法による創造物。Viṣṇu Purāṇa においては、南の火から跳び出した巨大で恐るべき女性として表され、赤い光に燃え、その髪の間から火の光輝が流れ出ている。

krodha 1.「激情」。Brahmā の子として表される。Brahmā の子孫の表の中の「徳と悪徳」の系列に現れる寓意的人物の一人。2.「怒り」。Mṛḍha[ママ]の子で、Viṣṇu Purāṇa において苦悩を加える者と呼ばれ、悪徳の子孫の一人。また、この世界の破壊の原因として働く Viṣṇu の恐ろしい形態としても。

krodhaghara 不興の部屋。Hindu の家庭で今なお行われている制度であり、妻たちは夫に不満を抱いたり怒ったりしたときにそこに引きこもる。

krodhavaśā Kaśyapa に嫁いだ Dakṣa の娘。

kroṣṭu Kṛṣṇa の生まれた家系である Yadu の子。

krauñca

1. 七つの大きな島状大陸すなわち dvīpa の第五。この dvīpa の王は Dyutimān であった。それには七つの境界の山があり、それぞれが順に先のものの二倍の高さであった。住民はそこで恐れなく暮らし、神々の群れと交わった。brāhmaṇa は puṣkara、kṣatriya は puṣkala、vaiśya は dhanya、śūdra は triṣya と呼ばれた[ママ]。

krauñcī Tāmrā の五人の娘の一人で、鶴と梟の母。

kleśa(煩悩) Pātañjala 哲学において kleśa は、霊魂の五つの苦悩、すなわち無知、我執、愛着、憎悪、現世の苦しみへの恐れを表すのに用いられる語である。

kleśa-s 仏教神学において kleśa は十の悪徳であり、次のように分けられる。身の三つ、すなわち殺生、偸盗、邪淫。口の四つ、すなわち妄語、中傷、悪口、無益な談話。意の三つ、すなわち貪欲、悪意、懐疑。Yoga 哲学においては五つあり、無知、我執、欲望、憎悪、生存への執着である。— BOYD.*

* Nāgānanda, or the Joy of the Snake World; a Buddhist Drama. PALMER BOYD, B.A. 著, 1872.

kṣaṇa(刹那) 時の単位。Viṣṇu Purāṇa によれば三十 kalā に等しい。しばしばきわめて微小な時の部分、瞬間、一瞬を表すのに用いられる。

kṣaṇadācara 夜歩く者。すなわち夜に森を歩く悪しき霊であり、種々の姿をとることができるので恐れの対象である。

kṣatrañjas Magadha の王で、Kṣemadharman の子。

kṣatradharman Rāji の子孫 Saṃskṛti の子である王子。

kṣatravṛddha Ayus の五人の息子の一人で、その家系から多くの名高い名が出た。

kṣatriya-s(kṣatriyaたち) 四 caste の第二。Brahmā の胸、ある典拠によれば腕から生み出されたと言われる。その義務は大地、家畜、brāhmaṇa を守ることである。王、総督、そして民事と軍事を委ねられたすべての者は、一般に kṣatriya caste に属する。Paraśurāma は kṣatriya の種族全体を根絶すると誓い、Viṣṇu Purāṇa によれば、彼は三七度、すなわち二十一度、大地から彼らを一掃した。Wilson 教授によれば、この伝説はインドにおける支配権をめぐる brāhmaṇa と kṣatriya との間の激しく長引いた抗争を示唆している。

kṣamā 「忍耐」。muni Pulaha に嫁いだ Dakṣa の娘の一人。

kṣudraka Ikṣvāku の家系に属する Prasenajit の子である王子。

kṣetrajña 「身体を具えた霊」、すなわち kṣetra「身体」を知るもの。Viṣṇu の一形態であり、創造の目的のための霊と形すなわち物質との結合を含意する。

kṣema 「繁栄」。Dharma とその妻 Śānti の子。

kṣemaka Puru の種族の最後の王子。「brāhmaṇa と kṣatriya の起源となり、王仙たちによって浄められた種族は、kali の時代に Kṣemaka をもって終わった。」

kṣemadhanvan Kuśa の子孫 Puṇḍarīka の子である王子。

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