Garrettインド古典辞典

m第一部 サンスクリット語・パーリ語の見出しmakandi … mandodarī

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makandi 南 Pāñcāla の首都。南 Pāñcāla は Ganges の北[ママ]、Cambal に至るまでの地方である。

makara 巨大な水陸両棲の怪物。通常は鮫あるいは鰐と解されるが、黄道十二宮においては羚羊の頭と前脚、魚の胴体と尾をもつものとして描かれる。それは愛の神の旗印である。海の神 Varuṇa はそれに乗って波を渡り、それが何らかの魚であったことを示している。今ではインドの多くの地方で鮫の名である。

magadha 近代の Bihār。Purāṇa において名高い国であり、Purāṇa はそれを統治した王の表を提供している。

magadha Hindu の吟遊詩人かつ伝令。あらゆる身分ある人の宮廷に付属し、その讃美を歌い、その行いを讃え、その祖先を記念する。(WILSON)。伝令の名で、Pṛthu の誕生に際して Brahmā の行った供犠において生み出された吟遊詩人。

maṅgala 火の身体をもつ火星。Rudra Śārva とその妻 Vikeśī の子。

mañca 床と屋根をもち、梯子で昇る高い台。— VP, 553.

maṇi 強大な蛇で、Kadrū の子孫の一つ。

maṇidhaṅga Vindhya 山脈近くの地域の王。

mati 理解。霊魂による享受に先立って対象を識別し区別するもの。しばしば心、知性、知識、智慧を意味するのに用いられる。

matinara Ṛkṣa の子で、Puru から十五代目の子孫。— VP.

matsya

1. 小さな dvīpa の一つの名。2. Ṛgveda の教師で、Vedamitra の弟子。

matsya, or fish avatāra(魚の化身) Viṣṇu の十の avatāra の第一。Bhāgavata Purāṇa の語るところでは、前の世界時代の終わりに、Trimūrti の第一の神 Brahmā が眠りに落ちていたとき、強大な悪鬼 Hayagrīva が、Brahmā の口から出てその傍らに置かれていた Veda を盗んだ。その頃、王仙 Satyavrata は苦行によって Manu の位に達していた。そして Hayagrīva の行為を目撃しこれを殺そうと意図した Viṣṇu は、その目的のためにごく小さな魚の姿をとり、聖者が河で日々の沐浴をしているときにその手の中へ滑り込んだ。Manu が小さな魚を放そうとすると、魚は彼に語りかけ、河の大きな魚から生ずるかもしれない危険に自分をさらさず、水瓶に入れてくれるよう求めた。聖者はその願いに従った。しかし一夜のうちに魚はあまりに大きくなったので、その求めに応じて彼はそれを池に移さねばならなかった。しかしまもなくその池も魚を収めるのに足りなくなり、Manu はその住処としてより大きな池を選ばねばならなかった。そして相次ぐ他の移し替えの後、彼はそれを大洋へ運んだ。Satyavrata は今や、その魚が Nārāyaṇa すなわち Viṣṇu にほかならないことを悟り、神に礼拝を捧げた後、神は彼に、世界を滅ぼすであろう洪水が迫っていることを明かし、大きな船が彼の前に現れるであろうから、七 ṛṣi とともにそれに乗り込み、すべての植物と被造物のすべての種子を携えて行くよう告げた。Manu は神の命令に従った。そして水が地の表面を覆うと、Viṣṇu は再び、長さ10,000マイルの一本の角をもつ黄金の魚の姿で彼の前に現れた。Manu は、Viṣṇu の蛇を綱として用いて、この角に船を結びつけた。こうして船に浮かんでいる間、Manu は魚の神から哲学の教義と至高の霊の学とを教えられた。そして洪水が引いた後、魚の神は Hayagrīva を殺し、Veda を Brahmā に返し、それを Manu Satyavrata に教えた。Satyavrata は現在の世界時代において、Vivasvat の子として Śrāddhadeva の名のもとに生まれた。この avatāra のより詳しい記述は Matsya Purāṇa に与えられており、そこでは魚の神によって Manu に授けられた教えは、Purāṇa(その項を参照)に含まれる通常の詳細のすべて、すなわち創造、族祖、祖霊、王朝、種々の住期の義務等に関するものを含んでいる。同じ伝説が現れる Mahābhārata においては、Hayagrīva に関する部分も魚によって授けられた教えもないが、細かな相違のほかに、その物語と Purāṇa のそれとの間に重要な違いがある。すなわち魚は Viṣṇu ではなく Brahmā の人格化であり、洪水は現在の世界時代において、Vivasvat の子である Manu 自身の治世のもとに起こるのである。この avatāra の起源はおそらく、白 Yajurveda の Śatapatha Brāhmaṇa に現れる同系の伝説である。しかしそこでは魚は何ら特別の神格を表さず、伝説そのものの目的は単にある供犠の儀式の執行を説明することにある。— MANU[ママ].

matsya-s Dinajpur、Rangpur、Cooch Behar の人々。しかし二つの Matsya があり、Yantra Samrāṭ によれば、その一方は Jaypur と同定しうる。Nakula の Digvijaya においては、Matsya はより西方、すなわち Guzerat に置かれている。

matsya purāṇa この Purāṇa は、Sūta と ṛṣi たちの通常の序の後、Viṣṇu の matsya すなわち「魚」の avatāra の記述で始まる。そこで彼は、pralaya の時に世界を覆う氾濫の水から、Manu という名の王を万物の種子とともに箱舟に乗せて守る。箱舟が魚(Viṣṇu)に結びつけられて浮かんでいる間、Manu は彼と会話を交わし、その問いと Viṣṇu の答えとがこの編纂物の主要な内容を成す。最初の主題は創造であり、それは Brahmā と族祖たちのそれである。次に王朝が記述され、それから種々の住期の義務等に関する章が続く。宇宙の記述は通常の調子で与えられる。Śaiva の伝説が続く。たとえば Tripurāsura の破壊、Tāraka および daitya との神々の戦争とその結果としての Kārttikeya の誕生、Umā の誕生と婚姻の種々の事情、Kāmadeva の焼却、asura Maya と Andhaka の破壊などであり、その間に化身に関する Vaiṣṇava の伝説が挟まれている。また法と道徳に関する章や、家の建築と像の制作の指示を与える章もある。Viṣṇu Purāṇa, Preface を参照。

mathurā Śatrughna(Rāma の弟)によって建てられた聖都。Yamunā 河の岸に位置し、かつてそこには Madhu という名の悪鬼が住んでいた。その子の rākṣasa Lavaṇa は Śatrughna に殺され、Śatrughna はその後、あらゆる罪を浄めるものとして名声を得た祠を建てた。Dhruva の苦行が行われたのはこの地においてであった。

mada 狂気。Brahmā の子孫の一人。— Viṣṇu Purāṇa, p. 50.

mada 聖仙 Cyavana によって造られた悪鬼で、酩酊の人格化。神々は彼と聖者の力とを恐れて、Aśvinī Kumāra が神的な栄誉にあずかることに同意した。Mada はその後分割され、骰子と女と酒とに分配された。— WILSON, XI, 263.

mada 発情期に象のこめかみから滲み出る液。Wilson によれば、この液が Megasthenes に基づいて Strabo によって言及されているにもかかわらず、Cuvier の時代まで近代の博物学の著作家に気づかれなかったことはいささか異常である。この液の滲出と香りはサンスクリットの詩にしばしば言及される。その香りは普通最も甘い花の香りにたとえられ、蜂を欺き引き寄せると考えられている。象のこめかみの両側には、ピンの頭ほどの大きさの開口部があり、そこから液が滲み出る。Meghadūta には次のようにある。

「野の象が、その頭より香しく滲み出づる
液を流すを喜ぶ所。」— I. 132.

そして Wilson が引用する Ṛtusaṃhāra には ──

「愛に燃えて野の象は吼え、
その深き音は上より響き返す。
その広き額は豊かなる蓮のごとく見え、
そこには蜂が戯れ、香しき湿りが流る。」— II. 15.

madayantī Rājā Saudāsa の妻。その項を参照。

madirā Vasudeva の妻の一人。

madra

1. Śivi の四人の息子の一人。インド北部の州と部族にその名を与えた。2. Vindhya 山脈に源を発する河の名。

madra-s Panjāb の民。その首都は Śākala であり、どうやら Alexander によって破壊された Sangala である。Duryodhana の党派の主要な指導者かつ戦士の一人である Śalya は、Madra の王であった。

madrabhujiṅga-s, madra-s, mādreyaś Purāṇa に言及される民族。ただしいまだ満足のいくようには同定されていない。

madhu

1. Kārttavīrya の息子の一人。2. Vṛṣa の子。3. Devakṣatra の子。上記のすべては Kṛṣṇa の属した Yādava の家系、Yadu の種族に属する。4. 大悪鬼と称される恐るべき rākṣasa の首長の名。おそらく原住民の一人で、Kṛṣṇa に殺された。

madhuvana 上述の悪鬼 Madhu の森。その死後、Śatrughna はその地に都を建て、それは Mathurā と呼ばれた。これは聖なる祠として名高くなり、Dhruva が苦行を行ったのはここであった。

madhvācārya 名高い Vaiṣṇava の師。Wilson 教授は彼を13世紀に置いている。

manas(意) 心。行為のすべての被造物への帰結を考え、その幸福に備えるもの。時に mahat の同義語として用いられる。

manasā

1. Raivatamanvantara において、Abhūtarajasas の神々とともに Sambhūti から生まれたときの Viṣṇu の一形態。2. その水が神々にあずかられる四つの大湖の一つ。

manasya Mahanta の子である王子で、第一すなわち Svāyambhuva manvantara においてインドを統治した。

manasvinī 大 muni Mṛkaṇḍu の妻。

manu manvantara と称される広大な期間の長すなわち支配者。各 kalpa すなわち世界の創造は十四の manvantara すなわち期間に分けられ、そのそれぞれを一人の Manu が統べる。これらの期間のうち六つが過ぎた。最初の Manu は Svāyambhuva、第二は Svārociṣa、第三は Auttamī、第四は Tamasa、第五は Raivata、第六は Cākṣuṣa であった。これら六人の Manu は過ぎ去った。現在の期間である第七を統べる Manu は Vaivasvata であり、太陽の子であり、葬儀の賢き主である。Viṣṇu Purāṇa は来たるべき manvantara と、それぞれを統べるであろう Manu の名の記述を含んでいる。Jaina もまた十四人の Manu をもち、Hindu の Purāṇa のそれとは異なる名を与えている。

manu Hindu の Noah。Śatapatha Brāhmaṇa は洪水の重要な伝説を含んでいるが、Manu を単に語り、Vaivasvata のような父称を彼に割り当てていないので、どの Manu が指されているのかは定かでない。— OST, Vol. I, p. 217. Monier-Williams は彼を第七の Manu、すなわち現在の期間の Manu で Vaivasvata と呼ばれ、人類の祖の一人とみなされる者として記している。彼は普遍的な堕落の時代に至高者の寵を得たものとして表されている。Muir 博士はその Orig. Sanskrit Texts, Vol. I, p. 182 にこの伝説の翻訳を掲げ、Max Müller 教授もその An. Sans. Lit., p. 425 にそれを訳している。以下の翻訳は M. Williams 教授の Indian Epic Poetry からのものである。

「ある朝、いつものように彼らは手を洗うための水を Manu に運んで来た。洗っていると、一匹の魚が彼の手に入って来た。それは彼にこう語った。『私を世話してくれ。そうすれば私は汝を守ろう。』Manu は尋ねた。『何から私を守るのか。』魚は答えた。『洪水がすべての生き物を押し流すであろう。私はそれから汝を救おう。』彼は言った。『汝の保護はいかにして成し遂げられるのか。』魚は答えた。『われらが小さい間は、絶えず滅ぼされる危険にさらされ、魚が別の魚を喰らうことさえある。汝はまず私を土の器に入れて守らねばならない。私がそれに収まらないほど大きくなったら、溝を掘ってそこで私を飼え。私がそれにも収まらないほど大きくなったら、汝は私を大洋へ運ばねばならない。そうすれば私は滅ぼされる危険を越えるであろう。』こう言うと、それは速やかに大きな魚となり、なおますます大きくなった。それから言った。『しかじかの年の後に洪水が起こるであろう。そのとき船を造り、私に礼拝せよ。そして水が上がったら、船に乗れ。そうすれば私は汝を救い出そう。』そこで Manu は指示されたとおりに魚を守った後、それを大洋へ運んだ。そして魚が告げたまさにその時に、彼は船を造り、魚に礼拝した。洪水が上がると、彼は船に乗り込み、魚は彼の方へ泳いで来た。彼は船の綱をその角に結びつけた。その助けによって彼はこの北の山の彼方へ渡った。魚はそれから言った。『私は汝を守った。今や汝は船を木に結びつけよ。しかし汝が山の上にいる間、水を汝の下から引かせてはならない。水が引くに従って、汝もそれとともに降りよ。』そこで彼はそのように降りた。そしてこれが北の山からの Manu の下降の次第であった。洪水はすべての生き物を押し流していた。Manu ただ一人が残された。子孫を望んで、彼は熱心に供犠を行った。一年の後、一人の女が生み出された。彼女は Manu のもとへ来た。彼は彼女に言った。『汝は誰か。』彼女は答えた。『あなたの娘です。』彼は尋ねた。『婦人よ、いかにして汝は私の娘なのか。』彼女は答えた。『あなたが水の中に捧げた供物、すなわち澄ましバター、濃い乳、乳清、凝乳。これらからあなたは私をもうけたのです。私は祝福を授けることができます。』彼女とともに、彼は子供を望んで、骨折って別の供犠を行った。彼女によって彼は子孫をもち、それは Manu の子孫と呼ばれた。そして彼が祈ったいかなる祝福もすべて彼に授けられた。」

「この興味深い伝説から、その作者の信仰によれば、Manu は、後のある記述が考えたような人類の創造者ではなく、彼自身、描かれた洪水によってまったく滅ぼされたより早い生き物の種族に属していたことがわかる。伝説は彼をその世代の代表とみなしている。彼は何らかの理由、おそらくはそのより優れた智慧、神聖さ、あるいは地位のゆえに、迫り来る破滅から救われるべく、普通の人間の群れの中から選ばれたのである。彼が単なる人間とみなされ、より上位の存在とはみなされていなかったことは、彼が自らを守るためにより高い力の助けを必要とした事実によって示されている。荒れ狂う水の只中で完全に安全で寛いでいられる生き物の姿をとったと考えられた、どうやら何らかの神的な人物である超自然的な魚が、彼を救い出すことを引き受け、乗るよう指示された船をあらゆる危険を通じてその定められた港へと導いた。Manu のほかには誰も船に避難しなかった。物語がはっきりと記録しているように、彼ただ一人が守られ、他のすべての生き物は呑み込まれたからである。水が引いたとき自らが唯一の生存者であることを知り、彼は子孫を望むようになった。そして激しい帰依をもって、その効力によって望みを実現することを願ってある宗教儀礼を行った。その供物の結果として、それらが投じられた水から一人の女が立ち上がった。今や男と女が存在し、彼らは、その結合から生じた新しい人類の定められた両親となった ── その結合の実り豊かさは、彼らの聖なる儀式の熱心な実践によって保証された。Manu と Iḍā から、Manu の種族、すなわち人類として知られる種族が生み出されたと、はっきりと告げられている。伝説は、この種族がもともと caste の何らかの区別によって特徴づけられていたことについても、brāhmaṇa、kṣatriya、vaiśya、śūdra の祖である四人の息子が Manu と Iḍā に生まれたことについても、何ら語っていない。それゆえわれわれは、伝説の作者は、その子孫の職業と社会的地位がその後いかに異なるものになったとしても、人類の初期の種族、あるいは少なくとも Bhāratavarṣa の最初の住民を、caste の本来の多様性なしに一人の共通の祖から出たものとして表そうとしていると考えねばならない。したがってわれわれは、Śatapatha Brāhmaṇa のこの伝説を、brāhmaṇa、kṣatriya、vaiśya、śūdra の別個の起源についての通常の寓話と食い違うものとみなす権利がある。」— MUIR, O.S.T., Vol. I, p. 185.

manu 紀元前800年頃に生きた Hindu の大立法者。Manu の法典、すなわち今なお現存する法の典は、時に最初の Manu である Svāyambhuva に帰せられる。現在の期間の Manu は、時にその名を帯びる法典 Dharmaśāstra の作者とみなされる。「この名は叙事詩期と Purāṇa 期に属する。前者においては、われわれはそこに、Prometheus のように、その子孫の祖であり、あるいは創造者でさえあり、また立法者である最初の人間の伝承の残存を辿ることができる。その歴史的価値は、あらゆる国民が誇りうるような何らかの伝説的人物への言及であると考えるべきであろう。すなわち同国人を野蛮と未開の生活から最初に目覚めさせ、文明と組織的統治の光へと導いた者である。」— THOMSON. Manu は「立法者かつ聖者であり、Brahmā の子、あるいは Brahmā 自身の人格化であり、世界の創造者かつ人類の祖である。『考える』を意味する語根 man に由来し、この語はもともと人、考える者を意味し、Ṛgveda にはこの意味で見られる。

「立法者としての Manu は Crete の Minos と同一視され、人類の祖としては Germany の Mannus と同一視される。『Celebrant carminibus antiquis, quod unum apud illos memoriae et annalium genus est, Tuisconem deum terra editum, et filium Mannum, originem gentis conditoresque.(彼らの間で記憶と年代記の唯一の形である古い歌において、彼らは大地から生まれた神 Tuisco と、その子 Mannus とを、民族の起源かつ創始者として讃えている。)』TACITUS, Germania, Cap. II.」— GRIFFITHS.

manu

1. Bhāgavata による十一 Rudra の一人の名。2. Kṛśāśva と Dhiṣaṇā の子である聖仙。

manojava

1. Rudra Īśāna の子。2.(Hanumān)。Vasu Anila(風)の子。Manojava は「思考のように速い」を意味する。3. 第六 manvantara の Indra は Manojava と呼ばれた。

mantra(真言) サンスクリット語の祈願の讃歌あるいは祈りの形式。mantra はあらゆる宗教儀礼の執行において用いられる。それらは種々の種類があり、祈願のもの、喚起のもの、祓いのもの、保護のものがある。それらは有益なもの、有害なもの、健康によいもの、破滅的なものである。それらによって大いなる種々の効果を生み出しうると信じられている。あるものは悪霊を追い出すためのものであり、あるものは愛あるいは憎しみを吹き込むため、病を治しあるいは引き起こすため、死をもたらしあるいは避けるためのものである。あるものは他のものと反対の性質をもち、その効果を打ち消す。強いものが弱いものの影響に打ち勝つ。あるものは全軍の破滅を引き起こすほど強力であると言われ、一方、神々自身も従わざるをえないものもある。

すべての Hindu の purohita すなわち家庭付き司祭が、それらを最もよく理解している。それらは彼らが司る職務である儀式に伴うのに欠かすことができない。しかし brāhmaṇa は一般にこれらの定式に通じている。そして、誇るその効力と力をまったく失っている彼らの mantra の現状についてからかわれると、彼らは、このその影響力の喪失は kali yuga、すなわちわれわれが今生きている世界の時代、鉄の時代、すべてが堕落した悪と不運の時代に帰せられるべきであると答える。DUBOIS を参照。

mandahāra 小さな dvīpa。Bhāgavata と Padma はこのような島を八つ挙げており、大部分は mleccha が住んでいるが、彼らは Hindu の神々を崇拝している。

mandākinī Bundelkhaṇḍ の Citrakūṭa の丘の近くの河。Rāma、Lakṣmaṇa、Sītā がその近辺に住んだことのゆえに、一種の聖なる流れとみなされている。Rāma はこのように河の美しさのいくつかを Sītā に指し示す。

麗しき Ayodhyā の町でのわが暮らしも、
これほど甘くはなかりき、
この愛らしき流れと、
かの栄えある丘と、汝とを眺むるほどには。
穏やかなる流れに浴せよ、
親しき愛もて彼女のもとへ赴き、
戯れつつその百合を摘み、
汝の髪に編み込めよ。
野の生き物すべてを宿すこの山を
Ayodhyā の都とみなし、
この美しき河を
われらが Sarjū の流れと見よ。
おお Sītā よ、われは喜びに狂わんばかり、
かくも稀なる運命の我がものなれば、
忠実なる弟の心遣いに励まされ、
汝のごとき愛に愛されて。
— GRIFFITHS, Scenes from the Rāmāyaṇa

[Supplement より→]Rāmāyaṇa にしばしば言及される聖なる流れ。聖仙 Sutīkṣṇa の森の住まいの近くにあった。

mandāra 乳海攪拌の際に神々が攪拌棒として用いた山。

mandodarī Rāvaṇa の寵愛する妻。美しい女たちの中の金剛石。Rāvaṇa が倒れると、彼女は遺体のそばに立ち、かつて何よりも自分を愛した彼が Sītā のために自分を捨てたことへの非難を述べた後、自らも夫の遺体のそばに息絶えて倒れた。

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