j第一部 サンスクリット語・パーリ語の見出しjagannātha* … jājali
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jagannātha* これはおそらく Kṛṣṇa の最も名高い形態である。その像には脚がなく、腕は切り株のようなものだけである。頭と脚[ママ]はきわめて大きい。祭りの際には、brāhmaṇa たちが銀あるいは金の手でそれを飾る。
Kṛṣṇa は猟師 Jarā によって誤って殺され、その身体を木の下に朽ちるにまかせた。しかし何人かの敬虔な人々が Kṛṣṇa の骨を集め、箱に納めた。それらは、王 Indradyumna(偉大な苦行者)が Viṣṇu から Jagannātha の像を造り、その腹にこれら Kṛṣṇa の骨を納めるよう指示されるまで、そこにとどまっていた。Viśvakarmā(神々の工匠)は、完成するまで邪魔されないという条件でそれを造ることを引き受けた。しかし待ちきれなくなった王は十五日の後にその場所へ行った。そこで Viśvakarmā は仕事をやめ、神を手も足もないまま残した。王はひどく当惑したが、Brahmā に祈ると、Brahmā はその像を現在の姿のままで名高いものにすると約束した。Indradyumna はそれからすべての神々をこの像の建立に立ち会うよう招いた。Brahmā 自らが大祭官を務め、神に眼と霊魂を与えた。それによって Jagannātha の名声は完全に確立された。この像は、Orissa の Puri の町の近く、Jagannātha-kṣetra(すなわち Jagannāth の地)の名高い寺院の近くの池に横たわっていると言われる。その寺院は英国人に普通 Juggernāth's Pagoda と呼ばれている。
Orissa の寺院のほかにも、Bengal その他インドの諸地方には Jagannātha の寺院が多くある。富裕な人々が功徳の業として建て、土地、村、金銭を寄進したもので、毎朝毎夕この神の礼拝が行われる。
この神を称える年に二度の大祭がある。すなわち Jyeṣṭha 月(5月、6月)の Snān-yātrā と、続く Āṣāḍha 月の Rath-yātrā である。これらはどこでもきわめて多くの参詣者を集めるが、とりわけ Puri の大寺院で祝われるものがそうである。そこへはインドの最も遠い隅々から巡礼者が群がり、聖なる祠に礼拝を捧げる。この寺院への年ごとの巡礼において、二千から三千人が命を落とすのが常であったと算定されており、祭りには20万人を下らない崇拝者が参集し、brāhmaṇa はそこから莫大な収入を得た。しかしインドの British 政府がごく最近まで Orissa の寺院に与えていた多額の年次補助金が撤回されて以来、これらの祭りに参集する人数は大いに減少している。「Pagoda」の周囲二十マイル以内のすべての土地は神聖とみなされている。しかし最も神聖な場所は約六百五十フィート四方の区域であり、そこには五十の寺院がある。その中で最も目立つのは高さ約百八十四フィート、内部約二十八フィート四方の高い塔であり、そこに偶像がその兄 Balarāma および妹 Subhadrā とともに安置されている。隣接して二つの角錐形の建物がある。一方は約四十フィート四方で、そこで偶像が礼拝され、他方では巡礼者のために調理された食物が配られる。これらの建物は西暦1198年に建てられた。壁は彫像に覆われ、その多くはきわめて猥褻な姿勢をとっている。正面入口は東側にあり、外壁のすぐそばに、高さ三十五フィートの優雅な石柱が立っている。その柱身は十六面をもつ玄武岩の一枚岩から成る。台座は豊かに装飾されている。柱の上にはRāmāyaṇa の猿の首長 Hanumān の見事に彫刻された像がある。寺院に属する祭官その他の者の組織は三千九百家族から成ると述べられており、彼らのための日々の食料は莫大である。聖なる食物は一日三度偶像に供えられる。その食事は約一時間続き、その間、寺院に属する踊り子すなわち devadāsī が隣接する建物でその職業の技を披露する。「Snān-yātrā(すなわち沐浴祭)においては、呪文が読まれる間、神の頭に水を注いで神を沐浴させる。Rath-yātrā(すなわち山車祭)においては、三体の像を載せた車(十六の車輪と二頭の木の馬をもつ)が、帰依者たちによって太綱で一定の距離引かれる。この機会に、多くの者が重い車輪の下に身を投げて押し潰されて死ぬ。」— Small, HSL, p. 157.
* 俗に「Juggernath」。すなわち「世界の主」。
jaṅgama-s, or liṅgāyata-s liṅga 崇拝が現れる形態の一つは、Liṅgāyata、Liṅgavant、あるいは Jaṅgama のそれであり、その本質的な特徴は、衣服あるいは身体のどこかにその標章を着けることである。その標章は小さなもので、銅あるいは銀で作られ、普通は容器に入れて首から吊るすか、時にはターバンに結びつけて着ける。Śaiva 一般と同様に、Jaṅgama は額に vibhūti(灰)を塗り、首飾りを着け、rudrākṣa の種で作った数珠を携える。この宗派の聖職の成員は通常、衣を赤い黄土で染める。彼らは上インドでは数が多くなく、托鉢者として、Śiva の牛 Nandi の生きた型である雄牛を引き回しているところ以外ではめったに出会わない。その雄牛は種々の色の飾り布と kauḍi 貝の連で飾られている。引き手は手に鈴を持ち、こうして付き従われて所から所へと歩き回り、施しによって暮らす。南インドでは Liṅgāyata はきわめて数が多く、Śaiva の祠の司式祭官は普通この宗派の者であり、その場合 ārādhya と paṇḍāram の称号を帯びる。この宗派はそこではまた Vīra Śaiva の名でも知られている。この信仰の創始者ではないにしても再興者は Bāsava であり、その歴史は Bāsava Purāṇa(その項を参照)に与えられている。— H. H. WILSON, Vol. I, p. 224.
jaṭāyu Śyenī と Aruṇa の子。半ば神的な鳥で、Rāma の友であり、Sītā を守って戦った。彼は Rāvaṇa の車の中の彼女の叫びを聞き、車を止めて恐るべき巨人と必死に戦ったが、致命傷を負い、Sītā の運命を Rāma に知らせるまでだけ生きた。この禿鷲の長の葬儀は Rāma と Lakṣmaṇa によって丁重に執り行われた。
jaṭhara 南北に走り、Niṣadha と Nīla の二つの山脈をつなぐ山脈。
jaṭhara-s Jaṭhara と称される山脈に住む原住部族。
jaṭharāgni 前世における muni Agastya の名。
janaka Mithilā(近代の Tirhut)の Rājā で、Nimi の後継者。祖先なしに生まれたことから Janaka と呼ばれる。Sīradhvaja とも呼ばれる同名の Mithilā の別の Rājā は、Sītā の父としていっそう名高い。
彼は聖仙 Viśvāmitra を Rāma と Lakṣmaṇa とともに迎え、Śiva の大弓を彼らに見せ、娘 Sītā はこの弓を曲げることのできる Rājā に約束されていると告げた。Rāma はそこで彼らの面前で弓を曲げ、その褒賞を求めた。Rājā は Daśaratha を婚礼に招き、自分の二人の娘を Rāma と Lakṣmaṇa に、二人の姪を Bharata と Śatrughna に嫁がせることを提案した。聖仙たちは四人の乙女と Daśaratha の四人の息子との婚礼を是認した。後者は亡き祖先の霊に大 śrāddha を捧げ、子牛を伴う牝牛四十万頭、すなわち息子一人につき十万頭を brāhmaṇa に与えた。各牝牛は純金の角で飾られていた。それから婚礼の儀式が大いなる華麗さと圧倒的な壮麗さのうちに執り行われた。— Rāmāyaṇa. Janaka はまた Magadha の王の名でもあり、Mithilā の王たちの一般的な称号であったらしい。
janamejaya
1. Vaiśālī の王。その父 Somadatta は馬の供犠を十度行った。また Anu の子孫 Purañjaya の子でもある。Kuru の子 Parīkṣit にも Janamejaya という名の子があり、Abhimanyu の子であるもう一人の Parīkṣit にも Janamejaya という名の子があった。2. Ana の子孫 Purañjaya の子。3. Kuru の子 Parīkṣit の子。4. Arjuna の孫である Parīkṣit の子。その治世とともに、Kṛṣṇa の死の直後に kali-yuga が始まった。Mysore の Anantapura Tāluq の Govja Agarhār に属する銅板の施与文書が今なお現存しており、それはこの王の治世に作成されたものである。言語はサンスクリットと Canarese の混合である。それは次のように始まる。「全宇宙の避難所、大地の主、王の中の王、支配者たちの Parameśvara、大いなる Mahārāja、都の華 Hastināpura の主権者、Aroha と Bhagadatta の敵対する王たちの妻に寡婦の身を授けた者、Pāṇḍava 族の蓮の子、戦いに最も長けた者、その弓は Kaliṅga の蛇に似る者、援けなき英雄、戦いにおいて恐れなき者、Aśvapatirāya、Diśāpata、Gajapatirāya を殺した者、Narapatirāya の頭を打った者、最も熟達した騎手、Koṅkaṇa、Rekha Revanta、Sāmanta、Mṛgacāmara 等の十四国の恐怖、つねに輝く者、他人の妻たちの子[ママ]、黄金の野猪の紋章の旗を掲げる者、Rājā の中で最も栄光ある者、飾られたる者、大いなる月の種族の子孫、帝王 Parīkṣit の子なる帝王 Janamejaya は、幸いなる歴史的娯楽によって(慰められつつ)Hastināpura に君臨していた。」
jana-loka 聖者たちの天。Sanandana その他の Brahmā の心清らかな息子たちが住み、Dhruva の上二千万リーグに位置する。kalpa の終わりの pralaya すなわち万物の全面的大火の間、Jana-loka はすべてを喰らう炎の届かないところにある。そして Mahar-loka に住む聖者たちは、世界を滅ぼす炎の熱を感じると、薄く微細な姿で Jana-loka へ赴く。彼らは、次の kalpa の始めに世界が新たにされるとき、以前と同様の資格で再び身体を得ることに定められている。— VP.
janaśruti Chāndogya Upaniṣad に言及される王。慈善を好み、多大な施しをなし、多くの食物を用意する者として描かれる。四方から人々が来てそこで饗応を受けられるよう、至るところに家を建てた。
janasthān rākṣasa が住む広大な森。
Janasthan については語るまでもなし、
そこには Śūrpaṇakhā と Khara が住み、
力ある腕もつ Dūṣaṇa と、
戦いに猛き Triśiras がいる。
人の肉と血を食らう者。
そしてさらに多くの高貴なる巨人ら、
夜半の闇の中、森を巡り歩く、
勇ましく強く忠実なる者ら。
わが命によりて彼らは安らかに暮らし、
聖者と帰依者とを屠る。*
* GRIFFITHS, Rāmāyaṇa, Vol. III, p. 165.
janārdana 唯一の神としての Viṣṇu の名。jana「人々」と ardhana「崇拝」に由来し、人類の崇拝の対象を意味する。
jantu Somaka の百人の息子の長子。また Sudhanvan の子の名でもある。
janma 誕生。存在の状態。誕生。Bṛhat-Saṃhitā に含まれる研究の部門の一つ。
jamadagni 現在の期間である第七 manvantara の七 ṛṣi すなわち大聖仙の一人。
jamadagni Ṛcīka の子で、敬虔な聖仙。聖なる学習に従事する間、その帰依の熱によって Veda を完全に会得した。王 Prasenajit のもとへ行って、その娘 Reṇukā を妻に求め、王は彼女を彼に与えた。Bhṛgu の子孫は王女を庵へ連れて行き、彼女とともにそこに住んだ。そして彼女はその苦行の生活にあずかることに満足した。二人には四人の息子があり、それから第五子があった。それが Jāmadagnya(Rāma)であり、兄弟のうち最後ではあるが決して最小ではなかった。ある時、息子たちがみな食物とする果実を集めに出かけていたとき、すべての義務をきちんと果たす Reṇukā は沐浴に出かけた。流れへ行く途中、彼女は Mṛttikāvatī の王子 Citraratha が首に蓮の花輪を掛け、王妃と水の中で戯れているのを見て、その幸福を妬ましく思った。ふさわしからぬ思いに汚され、流れに濡れはしたが清められずに、彼女は心乱れて庵に戻り、夫はその動揺に気づいた。彼女が完全さから堕ち、その神聖さの輝きを奪われたのを見て、Jamadagni は彼女を咎め、ひどく怒った。そこへ息子たちが森から帰って来た。まず長子 Rumanvat、次いで Suṣeṇa、次いで Vasu、次いで Viśvāvasu であった。そして各人が入って来るたびに、順に父から母を殺すよう命じられた。しかし驚き、自然の情愛に動かされて、誰も何も答えなかった。それゆえ Jamadagni は怒って彼らを呪い、彼らは白痴のようになり、すべての理解力を失い、獣や鳥のようになった。最後に Rāma が庵に帰ると、強大で聖なる Jamadagni は彼に言った。「罪を犯した汝の母を殺せ。息子よ、ためらわずにそれをなせ。」そこで Rāma は斧を取り、母の首を打ち落とした。すると高名で強大な Jamadagni の怒りは和らぎ、彼は息子に満足して言った。「汝はわが命令に従い、なし難いことをなしたのであるから、望むかぎりの恵みを私に求めよ。汝の望みはことごとく満たされるであろう。」そこで Rāma は父にこれらの恩恵を乞うた。母が殺されたことを忘れた状態での蘇生と、あらゆる汚れからの浄化。兄弟たちの本来の状態への復帰。そして自分自身には一騎打ちにおける不敗と長寿。父はこれらすべてを授けた。
「ある時、ṛṣi の息子たちの留守中に、強大な君主 Kārttavīrya、すなわち Haihaya 族の主権者で、Dattātreya の恩寵によって千の腕と、望むところどこへでも行く黄金の車とを授けられた者が、Jamadagni の庵に来た。聖仙の妻はしかるべき敬意をもって彼を迎えた。武勇の誇りに膨れ上がった王は、そのもてなしに何も報いず、聖なる供物の乳牛の子牛を力ずくで連れ去り、庵を取り巻く高い木々を倒した。Rāma が帰ると、父は起こったことを彼に告げた。彼は牝牛が苦しんでいるのを見て、怒りに満たされた。敵の英雄を殺す者 Bhārgava は輝く弓を取り、今や死の力に服することになった Kārttavīrya を襲い、戦いにおいて彼を打ち倒した。鋭い矢をもって Rāma は彼の千の腕を切り落とし、王は滅んだ。Kārttavīrya の息子たちは、その死の仇を討つために、Rāma の留守中に Jamadagni の庵を襲い、敬虔で抵抗しない聖仙を殺した。聖仙は勇敢な息子の名を何度も呼んだが、空しかった。それから彼らは去った。Rāma が茂みから薪を携えて帰ると、父が息絶えているのを見出した。」— VP. rāma の項を参照。
jambu Meru 山の南の支壁である Gandhamādana 山上のフトモモ(rose-apple)の木の名。島状大陸 Jambudvīpa はこの jambu 樹からその呼称を得ている。その実は象ほどの大きさであると言われる。— VP.
jambudvīpa 七つの大きな島状大陸の中心のもの。それらは七つの海とともに交互に同心円を成すと考えられている。Jambudvīpa の中心には黄金の山 Meru がある。
jambumāli rākṣasa の総大将の子。Rāvaṇa によって Hanumān に向けて遣わされ、その血に飢えた猿を殺すまで帰ってはならないと命じられた。しかし Hanumān は大木を取り上げて敵の頭に投げつけ、その後柱を取り上げて Jambumāli に投げつけ、彼とその車を粉々に砕いた。
jambumālin Prahasta の子である恐るべき rākṣasa。Rāvaṇa によって Hanumān に向けて遣わされ、その大言壮語の猿を殺すまで帰ってはならないと命じられた。Hanumān が頬と胸に傷を負った激しい戦いの後、彼は大理石の柱をつかんで、戦士の中の虎である Jambumālin の上に打ち下ろし、巨大な rākṣasa を形のない塊に押し潰した。— IE, 230.
jaya
1. Mithilā の王の一人で、Gusruta の子。2. Arjuna の名。大胆な換喩であり、単に勝者ではなく勝利そのものを意味する。
jaya-s kalpa の初めに、Jaya と名づけられた十二の神々が、創造における代理者かつ補佐者として Brahmā によって造られた。彼らは瞑想に没入してその命令を怠った。そこで Brahmā は、彼らが第七の manvantara に至るまで各 manvantara に繰り返し生まれるよう宣告した。それに従って彼らは、相次ぐ種々の manvantara において、Ajita、Treṣita、Satya、Hari、Vaikuṇṭha、Sadya、Āditya であった。
jayati Sāmaveda、saptadaśa と称される讃歌集、atirātra 供犠とともに Brahmā の西の口から造られた韻律。
jayadratha Ṛtu の子孫で、Bṛhanmanas の子。また Hastin の子孫 Bṛhatkarman の子の名でもある。
jayadratha
1. Sindhu の Rājā。主として次の出来事に関連して知られる。Pāṇḍava の王子たちが従兄弟たちの提示した条件を受け入れて流謫に入り、その十二年をインドの森で過ごしていたとき、ある日彼らが狩りに出かけ、妻が家庭祭官とともに家に残されていると、王 Jayadratha が大勢の従者を伴って森を通りかかった。彼は南へ向かう途中で、Cedi の王女を妻に得るためにそこへ行くところであった。しかし Draupadī を見て、その美しさにひどく心を打たれ、ただちに彼女をわがものにしたいという欲望を抱いた。そこで彼は使者を彼女の庵に遣わしてその名と系譜を確かめさせ、客として彼女に引き合わせてもらおうとした。Draupadī は自らを脅かす危険に気づかず、その宗教の法に従って、また彼の中に遠い親族を認めたのでなおさら、彼を手厚くもてなした。しかし Jayadratha はまもなくその不実な意図を明かし、Draupadī が憤然としてそれを退けると、彼女を力ずくで連れ去った。まもなく Pāṇḍu の王子たちが狩りの遠出から帰り、自分たちになされた暴挙を知ると、Jayadratha の追跡に出発した。彼はすぐに追いつかれ、その軍は敗走させられた。Draupadī は解放され、空しい戦いの後、Jayadratha 自身が捕虜とされた。しかし最後に Draupadī は、彼らの親族関係を顧みて夫たちに彼のためにとりなし、彼は自国へ去ることを許された。彼は最後に、Abhimanyu の死を助け唆したかどで、大戦において Arjuna に殺された。
jayadratha
2. Sindhu-Sauvira の Rājā。時に Sindhu すなわち Saindhava の Rājā と称される。Indus の住民と同じものか近縁の部族かはともかく、ほぼ同じ領域 ── Panjab の西部と南部 ── を占めていたにちがいない。Jayadratha は六人の兄弟と多くの従者を伴って、大戦の前に Pāṇḍava に加わった[ママ]。Mahābhārata には、彼らがある折に朝食として五百頭の鹿等を食べたと述べられている。Draupadī はこのご馳走のすべてをどこから調達したのか。この謎は Vana Parva の初めの一節を参照することで説明される。Pāṇḍava が森へ赴いたとき、彼らの側に付いた多くの brāhmaṇa が後に従った。Yudhiṣṭhira は、彼らを養うことは不可能であり、彼らが飢えれば自分が罪を負うことになると言って、彼らを説き伏せて帰らせようと努めた。彼らが目的を固持したので、Yudhiṣṭhira は Dhaumya から、あらゆる糧の源としての太陽に頼るよう勧められた。そこで彼は Sūrya を崇拝した。Sūrya は彼の前に現れ、銅の大釜を与え、Pāṇḍava の流謫が終わるまで、食物が必要なときにはいつでもそれが果実、根、野菜、さらには調理済みの肉で満たされるであろうと王子に告げた。このような尽きることのない食料庫をもっていたので、Draupadī は Jayadratha の従者たちをもてなすことができたのである。— WILSON.
jayadhvaja Avanti の王。Kārttavīrya の百人の息子の主な者の一人。
jayanta Rudra の一人に用いられた名。Purāṇa の作者たちは Rudra たちに、共通の原型の種々の呼称、すなわち Rudra と Śiva の千八の名から無作為に選んだ同義語を用いている。
jayantpura Gautama の āśrama の近くに Nimi によって建てられた都。
jayasena Kuru の子孫の一人 Adina の子。Sārvabhauma にも Jayasena という名の子があった。
jaratkāru 第二十七の dvāpara の Vyāsa。
jaradgava 惑星の天球、すなわち月宿の間の太陽と惑星の軌道の南の部分すなわち avasthāna。
jaradgavī 中央すなわち Vaiśvānara avasthāna に現れる月宿の区分。
jarā 「老い」「衰え」を意味する寓意的人物。Viṣṇu Purāṇa において Kṛṣṇa を殺した猟師の名として言及される。彼は Kṛṣṇa の足を鹿の一部と見誤り、矢を射てそれを脇腹に突き立てた。それから彼は言った。「私を憐れんでください。知らずにこれをしてしまいました。」Kṛṣṇa は彼を赦し、自らの車で彼を天へ送った。Jarā はまた、Jarāsandha の二つの部分を結び合わせた女悪鬼の名でもあった。
jarāsandha Bṛhadratha の子。二つの部分に分かれて生まれ、女悪鬼 Jarā によって合わされた。成長すると Magadha の王となり、Kṛṣṇa が娘婿を殺したと聞くと、大軍を集めて Mathurā を包囲した。彼は敗れたが、十八度攻撃を繰り返して成功しなかった。Yudhiṣṭhira が rājasūya を行おうとしていたとき、Kṛṣṇa は彼に、大供犠を始める前にまだ征服すべき Rājā が一人いる、それは Magadha の Rājā Jarāsandha であると告げた。Kṛṣṇa、Arjuna、Bhīma はそこで brāhmaṇa に変装して Magadha の都へ旅し、Bhīma が Jarāsandha に一騎打ちを挑んだ。挑戦は受け入れられ、激しい戦いの後に Rājā は殺された。この物語は Mahābhārata にきわめて長く語られているが、その細部は純粋に神話的である。
jarudhi 西側において Meru 山の基部から突き出る山稜の一つ。
jaleyu Puru の子孫 Raudrāśva の十人の息子の一人。
jahnu Suhotra の子。この王子が供犠を行っていると、その場所全体が Ganges の水に浸されるのを見た。この侵入にひどく腹を立てた彼は、その帰依の力によって供犠の霊を自らと合一させ、河を飲み干した。これを受けて神々と聖仙たちが彼のもとに来て憤りを和らげ、彼の娘という資格で Gaṅgā を彼から再び得た。
「たまたま大いにして善き Jahnu は、
聖なる供物を捧げて立ちてありき。
河はその波を周りに広げ、
彼の祭場を浸しぬ。
聖者は怒りてその高慢を見とがめ、
ただ一息にその流れを飲み干しぬ。
そこで神と聖仙と詩人とは恐れて、
高貴なる高き魂の Jahnu に祈り、
かの聖なる流れを
彼自身の愛し子とみなしたまえと乞いぬ。
その願いに動かされ、彼は彼らの恐れを和らげ、
その耳より彼女の水を放ちぬ。
それゆえ Gaṅgā は世界を通じて
Jāhnavī とも Jahnu の子とも呼ばる。」— GRIFFITHS.
Jahnu はまた Kuru の子の名でもある。— VP.
jāṅgala-s 原住部族の一つで、茂みと密林の住民。原住民の多くは Ārya の侵入者によって森へ追いやられた。
jājali Pathya の弟子で、Atharvaveda の教師。