Garrettインド古典辞典

g第一部 サンスクリット語・パーリ語の見出しgāṇḍīva … goṇikā

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gāṇḍīva Arjuna が火の神 Agni から贈り物として受けた奇蹟の弓の名。

gāthin Gādhi と同じ。その項を参照。

gādhi Rājā Kuśāmba の子として生まれた Indra の化身。Kuśāmba は息子を望み、Indra に等しい者を得るために熱心な苦行に従事した。その帰依の激しさを見て、Indra は自分と同じような力をもつ王子が生まれることを恐れ、それゆえ自ら Kuśāmba の子の性格をとることに決めた。Gādhi は Viśvāmitra の父である。

gāndinī Kāśīrāja の娘。その誕生について VP には次の伝説が語られている。「出産の時が来ても、子は胎から出て来なかった。十二年が過ぎても、なお娘は生まれなかった。そこで Kāśīrāja は子に語りかけた。『娘よ、なぜそなたの誕生はこのように遅れるのか。出ておいで。私はそなたを見たい。なぜそなたは母にこの長引く苦しみを負わせるのか。』このように語りかけられて、嬰児は答えた。『父上、もしあなたが毎日一頭の牝牛を brāhmaṇa に贈ってくださるならば、私はさらに三年の終わりに生まれましょう。』そこで王は毎日一頭の牝牛を brāhmaṇa に贈り、三年の終わりに乙女はこの世に生まれた。父は彼女を Gāndinī と呼び、後に Svaphalka が宮殿に来たとき彼女を彼に与えた。Gāndinī は生きている間、毎日一頭の牝牛を brāhmaṇa に与えた。」

gāndhārī Gandhāra の Rājā の娘で、Mahārāja Dhṛtarāṣṭra に嫁いだ。彼が盲目であると聞いて、自ら目隠しをした。Kaurava の母であり、優れた性格と能力をもつ女性として表されている。長子 Duryodhana の頑なさを克服しようとして会議に呼ばれた。Mahābhārata は、大戦における息子たちの殺戮の後に彼女が Kṛṣṇa と行った感動的な会見を語っている。[Supplement より→]Mahārāja Dhṛtarāṣṭra の妻で、同名の州の王 Gandhāra の娘。その国は Herodotus の Gāndhārī の国であり、Indus に接し、西は Kandahar に至る。その名のうちにはおそらく古い名を辿ることができる。夫が盲目であったので、彼女はつねに眼の上に布を当てており、そのため何が起こっているかを告げてもらう必要があった。

gāyatrī Brahmā の東の口から造られた韻律。gāyatrī はまた Veda の最も神聖な詩句であり、汚れた耳に向けて唱えてはならない。それは至高者と同一視される太陽への短い祈りであり、Ṛgveda の Saṃhitā の第三 aṣṭaka の第四節の第十讃歌に現れる。

「われらは神なる太陽のかの優れたる光を瞑想す。彼がわれらの心を照らさんことを。」この本文を汚すことへの恐れはきわめて大きく、Veda の写字生は Saṃhitā においても Bhāṣya においても、しばしばそれを書き写すことを控える。敬虔な brāhmaṇa は毎朝日の出に、神秘的な oṃkāra によって清められ gāyatrī によって聖別された水を撒く。そしてこの水によって、雷電によるかのように、汚れた悪鬼たちは追い散らされる。

gārgya Bāṣkali の弟子で、Ṛgveda の教師。また、十二年の間鉄の砂を食べて生きるという厳しい苦行によって、英雄 Kālayavana の父となった brāhmaṇa でもある。

gārgya サンスクリット文学において大いに名声のある語源学者かつ文法家。

gārgya-s Gārgya の子孫。生まれにおいては kṣatriya であったが brāhmaṇa となった。Wilson 教授は、すべての典拠がこの言明において一致していると言う。こうして一つの caste が他の caste から生じるもう一つの例を提供している。

gārhapatya 家の常火。つねに燃えていなければならず、消えた場合には、ある聖別された棒を摩擦によって点火することによってのみ再びおこすことができる。家の火は決して家庭用あるいは調理用に用いられてはならない。それは清らかな聖火であり、永遠の光の象徴であって、もっぱら宗教的な勤めのために保持される。fire-sacrificial の項を参照。

gālava 馬の姿をとった太陽によって授けられた Yajurveda の一分派である白 Yajus の教師。

gālava いくらか名のある聖者で、Mahābhārata の長い伝説の主人公。そこでは彼は Viśvāmitra の弟子として現れる。学業を終えると、彼は師にどんな贈り物をすべきかを教えてくれるようせがんだ。Viśvāmitra は不機嫌になり、ついに、それぞれ白い色で片耳だけ黒い馬を八百頭持って来るよう望んだ。Gālava は困り果てて親友の Garuḍa に頼み、彼とともに Pratiṣṭhāna の王 Yayāti のもとへ赴いた。Yayāti は聖仙の望みに応じることができなかったので、娘 Mādhavī を彼に贈った。Gālava は彼女を、Ayodhyā の王 Haryaśva、Kāśī の王 Divodāsa、Bhoja の王 Uśīnara に次々に嫁がせ、彼女によって息子が生まれるたびに、それぞれから探していた馬を二百頭ずつ受け取った。これらの馬はもともと千頭であった。聖者 Ṛcīka が Kānyakubja の主権者 Gādhi の娘を妻に求めたとき、その王子は縁組を避けるために、しかし断ることを恐れて、見返りの贈り物として問題の馬を求めた。Ṛcīka は大洋の神 Varuṇa からそれらを得て、岳父に譲った。その子孫によって六百頭が種々の王子に売られ、残りは brāhmaṇa に与えられた。Gālava は王たちの所有していた馬を手に入れると、それらと、恩恵の力によってなお処女であった乙女とを連れて行き、両者を共に Viśvāmitra に贈った。聖仙はそれらを受け取り、彼女によって息子 Aṣṭaka をもうけ、彼に庵と馬を譲って森に隠棲した。その地はそれゆえ Aṣṭakapura と呼ばれた。この後、婦人は Gālava によって父のもとへ連れ戻され、彼は師に倣って残りの日々を孤独な帰依のうちに過ごした。— WILSON, XI, p. 225.

giri Svaphalka とその妻 Gāndinī の息子の一人。

girigahvara-s 洞窟に住んだ種族。おそらく Cabul と Bamian の間に住んでいたが、その洞窟住居は満足のいくようには同定されていない。

girijā 「山から生まれた者」。Pārvatī の名。彼女はもと Dakṣa の娘 Satī であったが、山 Himālaya の娘として再び生まれ、再び Śiva に嫁いだ。この第二の誕生から、彼女は Pārvatī すなわち山の女、あるいは Girijā すなわち山から生まれた者と呼ばれる。

girivraja Dharmāraṇya の森の近く、Magadha の山岳部にある都。

girivraja Bharata と Śatrughna が送られた Rājā Aśvapati の都。この Rājā は若い王子たちの祖父であり、彼らは、Ayodhyā で Rāma を Yuvarāja に任ずることが決められたとき、邪魔にならないように彼のもとへ送られたのである。

gīta-govinda Kṛṣṇa の歌。また Jayadeva による、Kṛṣṇa を讃えるサンスクリットの牧歌的・神話的な劇詩の題名でもある。そこでは Rādhā は Lakṣmī と同一視されている。— SIR W. JONES.

gīta-govinda 「神なる牧人の歌」。美しく小さな牧歌劇であり、かの神秘的あるいは象徴的な神学、すなわち「信仰の熱情、あるいは被造の霊たちがその慈悲深い創造者に対して抱く熱烈な愛を表す、あの比喩的な様式であって、アジアにおいて太古から行われてきたもの」の見本を提供している。*

Grecian の Apollo のように家畜の群れの間に住み、Kṛṣṇa の名のもとにある受肉した神格が、美しい牧女 Rādhā と愛し合い、争い、和解するという姿のもとに、それは人間の霊魂と、神的な美、善、知識との間に存する相互の愛着を暗示している。Kṛṣṇa が一時不実となり、他のすべての愛の空しさを悟って、悲しみと憧れをもって自らの愛しい Rādhā のもとに帰るように、人間の霊魂も、感覚の対象への束の間の狂おしい愛着の後に、自らがそこから来た神へと帰ることを切望する ──「その本来の本能から、それは自らの中心としての彼へと傾き、彼の上に定まるまでは安らぐことができない。……彼は最も甘美な感化と最も慰めに満ちた抱擁によってわれらの愛を慈しみ励ます」。そして「われらが彼に固く寄り添い、いわば彼の内に挿し入れられる、かの霊の神秘的な合一において、……われらはきわめて快い恍惚を感ぜずにはいられない」。**

作品の成立年代については確かなことは何も知られていないが、作者 Jayadeva は少なくともわれわれの紀元の12世紀まで下って活躍したと、今では一般に信じられているようである。」上記をその Specimens of Old Indian Poetry から採った GRIFFITH 氏は、若干の詩節を訳しているが、「詩の絶妙な旋律は、原典を味わうことのできる者によってのみ鑑賞されうる」と言う。

* Sir W. Jones, On the Mystical Poetry of the Hindus.

** これらの章句は、Sir W. Jones がその Essay on the Mystical Poetry of the Hindus において引用した Barrow の説教の一つから抜粋したものである。—SOIP.

guḍākeśa Arjuna の名。

guṇa(性質) 性質、徳、優秀さ。すべての被造物の属性。三つが特に挙げられる。

1. Sattva、真実あるいは存在の原理。

2. Rajas、激情あるいは汚れ。

3. Tamas、闇あるいは無知。

guṇāḍhya Mālyavān が人間の本性の弱さへ戻るよう罰せられたときの人間としての名。Śālivāhana の首都 Pratiṣṭhāna に生まれた。Pratiṣṭhāna は Godāvarī 河畔の Pattan あるいは Pyetan と同じであると考えられている。— WILSON.

gudara-s 托鉢者の一部類。施しを受ける者の家で香木を焚くための火を入れた金属の鍋を持ち歩くことに、その名が由来する。彼らは直接施しを乞うことはせず、神格の言い表しえない本性を表す「目に見えない」を意味する alakh の語を繰り返す。

gupta Viṣṇu Purāṇa によれば vaiśya と śūdra にふさわしい名[ママ]。

gupta-s(Gupta 朝) Magadha に君臨した王の種族。彼らは vaiśya caste の Rājā であった。Gupta の存在と権力については、近年、Allahabad の石柱の Candragupta と Samudragupta 等の碑文と貨幣から豊富な証拠が得られている。そのすべてにおいて銘文は近代の Devanāgarī の使用に先立つ字体で書かれており、それはおそらくわれわれの紀元の5世紀頃に通用していたものである。Viṣṇu Purāṇa, p. 480 を参照。

guru(師) 「霊的な師であり、ある程度、中世の聴罪司祭の地位を占める。彼は神的な力の代表者かつ媒体とみなされ、それゆえ弟子たちから最も絶対的な服従を受ける資格がある。guru は、一種の家庭付き司祭で結婚していなければならない purohita とは注意深く区別されるべき祭官の一部類である。guru は一般に独身で暮らすが、結婚している者もいる。各 caste と宗派にはそれぞれ特定の guru があり、それは brāhmaṇa であっても śūdra であってもよく、大きな権威と影響力をふるう。彼はその管轄下にある者を監督し、宗派の規則と慣習の遵守を強いる。彼は caste から追放することができ、ある guru は追放された者を復帰させることができる。すべての guru が等しい権威をもつわけではない。彼らの間には等級があり、下位の guru はしばしばその権力を上位の guru から得ており、時にその者たちによって退けられ、他の者が任じられる。

人々は guru の前に出ると Sāṣṭāṅga、すなわち八つの肢体の平伏を行う。そしてこれに guru の āśīrvāda、すなわち祝福が続くと、すべての罪の赦しに効力がある。guru の一瞥でさえ同じ効力をもつ。prasāda、すなわち guru が弟子たちに授ける賜物は、他の点ではほとんど価値のない物から成る。たとえば額を飾るための牛糞の灰の一部、以前に偶像に捧げられた花、その食事のパン屑、あるいはその足を洗った水であり、それは保存され、受け取った者によって時に飲まれる。これらおよび同様の性質の他の物は、彼らの聖なる手から来たものであるがゆえに、身体と霊魂をあらゆる不浄から清める効力をもつ。

しかし、guru の祝福と、彼が弟子たちに授けるその他の寵愛のささやかなしるしが、民衆の尊敬と崇敬を引きつけることにおいてかくも驚くべき影響力をもつとすれば、彼の呪いも劣らず強力であると考えられ、人々を恐怖と畏れで満たす。Hindu は、それが正当に招かれたにせよ不当に招かれたにせよ、決して効力を発しないことはないと確信している。彼らの書物は、まさにこの信仰を吹き込むという明白な目的のために考案されたかに見える物語に満ちている。そしてそれにいっそうの力を加えるために、詐欺師の企みの成功に利害をもつ guru の従者たちは、彼に関する多くの驚くべき話を語ることを怠らず、自分たちはその目撃者であったと称する。そして露見のいかなる可能性をも避けるために、奇蹟の舞台をどこか遠い国に置く。

guru は一般に、社会の第一かつ最も傑出した階級として位置づけられる。この大いなる位に高められた者は、大部分の場合、神々自身にさえほとんど捧げられないような崇敬、いやむしろ崇拝のしるしを受ける。しかし、神々を統御する力が一般に彼らに帰せられており、それによって神々が授けうるものは何でも得る手段をもつと考えられていることを理解すれば、これは驚くに当たらない。

原則として、guru は maṭa と名づけられる一種の僧院あるいは孤立した庵に住む。主要な guru の住居は普通 siṃhāsana すなわち玉座と呼ばれ、下位の者のそれは pīṭha すなわち座と呼ばれる。

大 guru は大いなる華麗さを伴わずに公の場に現れることは決してない。しかし彼らがそのすべての壮麗さに囲まれて見られるのは、その管区の巡察に赴くときである。彼らは普通、象の背に乗るか、豪華な轎に座って行列をなす。ある者は騎馬の護衛をもち、槍その他の武器で武装した騎兵と歩兵の部隊に囲まれる。いくつもの楽隊が、その国のあらゆる楽器を奏でながら彼らの先を行く。神々の絵で飾られたあらゆる色の旗が彼らの周りに翻る。その役人の何人かが先導し、彼を讃える頌歌を歌い、あるいは見物人に、強大な guru が近づくときに彼にふさわしい栄誉と崇敬を払う用意をするよう諭す。香その他の香料がふんだんに焚かれ、新しい衣が道の上で彼の前に広げられる。凱旋門を成す木の枝が、彼の通る道の多くの場所に張り渡される。若い女たちの一団、すなわち寺院の踊り子たちが入れ替わり立ち替わり行列についていき、卑猥な歌と淫らな踊りでそれを活気づける。

巡察の間、彼らの主要な目的は金を蓄えることである。犯罪あるいは caste や宗派の儀式の違反を犯した者から徴収される罰金に加えて、彼らはしばしば信奉者からその資力の限りまで貢納を厳しく取り立てる。これは pada-kanika、すなわち足への捧げ物と呼ばれる。能力がないためにせよ、気が進まないためにせよ、割り当てられた額を差し出さない弟子に対して、guru が加えることを辞さない侮辱や屈辱はない。そして最後の手段として、彼らは呪いを加えると脅す。Hindu の軽信はかくのごとくであり、guru の呪詛から生ずると彼の考える禍への恐れはかくのごとくであるので、この極端な宣告が支払いを取り立てるのに失敗することはめったにない。

guru の位は、結婚している者の間では父から子へと伝わる。しかし独身で暮らした者が死ぬと、大 guru の誰かによって後継者が任じられ、その者はこの権力を行使するにあたって、一般に自らの配下の一人を指名する。」—ABBÉ DUBOIS.

guha Kosala 王国と Bhil の国との境の町 Śṛṅgavera で Rāma を迎えた Bhil の Rājā。Rāma を大いに惜しみなくもてなした後、Rājā は装備の整った舟を用意し、高貴な客はそれに乗って Ganges を渡った。彼はまた、Rāma を探して Bharadvāja の庵へ向かう Bharata にも大きな助けを与えた。

guha-s Kaliṅga と Mahendra の王たち。Orissa と Berar のいくつかの部分。

guhya-s 富の神 Kubera に侍る半神の一部類の名。その都は Alakāpurī である。

gṛtsamada Suhotra の子で、四 caste の区別を最初に確立した Śaunaka の父。— VP 406.

gṛtsamada 讃えることを喜んだので、Indra によって muni Śaunahotra に与えられた名。彼の讃歌は indrasya indriyam、すなわち Indra の力と称された。彼は Bhṛgu の種族において Śaunaka として再び生まれ、Ṛgveda の第二 Maṇḍala を、讃歌 Sajaniya 等とともに、それが自らに啓示されたように見た。—ASL, 231.

gṛdhrikā Kaśyapa とその妻 Tāmrā の娘で、禿鷲の祖。

gṛha-devatā(家神) 家の神々。いかなる家も守護神をもたないことはないと考えられているが、この性格に付された観念は今ではむしろ漠然としている。kula-devatā(氏族神)はつねに Hindu 神話の主要な人物の一人であるが、gṛha-devatā はめったに明確な呼び名をもたない。Bengal では、家の神は時に śālagrāma 石であり、時に tulasī の植物であり、時に少しの米を載せた籠であり、時に水瓶である。そのいずれかに、多くは一家の女たちによって、短い礼拝が捧げられる。時には Lakṣmī あるいは Caṇḍī の小さな像がその役を果たし、あるいは蛇が現れれば、それは住まいの守護者として崇敬される。しかし一般に、昔は家の神々は、あらゆる場所の周りを漂い、ある特定の場所を自分のものと主張する、目に見えない悪しき霊、幽霊や鬼とみなされていた。すべての儀式の終わりに、彼らの機嫌を損ねないように、短い定式とともに少しの米を撒くことによって、戸外で彼らに供物が捧げられた。この観点から、家の神々は古代の lares あるいは penates よりも、genii locorum(土地の霊)によりよく対応する。— WILSON, Works, XI, p. 21.

gṛhastha(家長) 家長。その義務は Viṣṇu Purāṇa において次のように定められている。「学生にふさわしい聖典の学習を終え、guru から暇を与えられたならば、再生族の者は家長の住期に入れ。そして合法の儀式をもって家と妻と財とを得て、その地位の義務をできるかぎり果たせ。葬送の餅をもって祖霊を、供物をもって神々を、もてなしをもって客を、聖なる学習をもって聖仙を、子孫をもって人類の祖を、供物の残りをもって霊たちを、真実の言葉をもって全世界を満足させよ。家長はこれらの義務を忠実に果たすことによって天を確保する。家を保った期間の終わりに、施しによって生き、放浪する克己の生活を送る者たちがいる。彼らは大地を見るために世界をさまよい、聖なる祠において Veda に命じられた儀礼をもって沐浴を行う。家もなく、食物もなく、夕べに着いた住まいで夜を休む。家長は彼らにとってつねなる避難所であり親である。彼らを歓迎し、優しく話しかけ、彼らが家に来るたびに寝床と座と食物を与えることが彼の義務である。家長に失望させられ、その戸口から追い返された客は、自らのすべての悪行を家長に移し、その宗教的功徳を持ち去る。善き人の家においては、侮辱、傲慢、偽善、不平、反論、暴力は消滅する。そしてもてなしというこの主要な義務を十分に果たす家長は、あらゆる種類の束縛から解放され、死後に最高の地位を得る。」

gethu 甘露の盗みにおける Rāhu の仲間。また星座の一つでもある。

gokarṇa Malabar 海岸近くの名高く崇敬される地域。Rājā Bhagīrath の苦行の舞台として名高い。

「善き Bhagīrath、王なる聖者には、
その老いを慰むる麗しき息子なかりき。
栄光大きく、意志清き彼は、
息子を切望しつつもなお子なかりき。
そこでただ一つの願い、ただ一つの思いに心を傾け、
天の流れの降下を企て、
国の務めと重荷とを
大臣らに委ねて、
遠き Gokarṇa に住まいつつ、
彼は長き苦行に従事せり。」

gokula Kṛṣṇa と Balarāma が Kaṃsa の復讐を逃れるために自分の子として育てるよう託されたとき、牛飼い Nanda が住んでいた村。女悪鬼 Pūtanā が乳房を吸わせることによって幼子 Kṛṣṇa の命を奪おうとしたのは Gokula においてであった。幼子 Kṛṣṇa はそれをきわめて激しく吸ったので、その命を吸い尽くし、彼女は息絶えた。

gokulāṣṭamī Kṛṣṇa の誕生日を祝う祭り。南インドでは、すべての brāhmaṇa が真夜中まで断食し、それから礼拝の後に食事をとるのが慣わしである。

goghuāta-s かつて Goa 周辺の Koṅkaṇ の一部である Gumanta に住んでいた民。

goṇikā 文法家 Patañjali の母。

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