kākavarṇa Magadha の王の一人で、三十六年間統治した。Śiśunāga の子であった。
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kākavarṇa Magadha の王の一人で、三十六年間統治した。Śiśunāga の子であった。
kātyāyana Pāṇini の時代およびその後に生き、この大文法家の sūtra に対する批評を公にしたサンスクリットの著作家。Max Müller は彼を紀元前4世紀の後半に置いている。Kātyāyana は大いなる才能と並外れた記憶力をもつ少年であったと言われる。彼は劇場で一度聞いただけの戯曲全体を母に繰り返して聞かせることができた。そして入門する前でさえ、Vyāḍi から聞いた Prātiśākhya を繰り返すことができた。彼は、われわれが今日所有しているような Pāṇini の Grammar を完成し訂正した。Kātyāyana は、Śaunaka の教説の編纂者である Vararuci(その項を参照)と同定されている。— ASL.[Appendix より→]インドの文学史においてきわめて名高い名。それはおそらく、Brāhmaṇa 系 Hindu の文法と祭式の文献への寄与で名高い何人かの人物に属する。しかしそれはまた、Buddha Śākyamuni の主要な弟子の名の中にも見られる。しかしこの名の最も名高い人物は、大文法家 Pāṇini の批評者 Kātyāyana である。そして彼はおそらく、白 Yajurveda(その項を参照)の Prātiśākhya と呼ばれる文法論書を書いた Kātyāyana と同一人物である。Goldstücker 教授はその Pāṇini, &c., his Place in Sanscrit Literature(London, 1861)において、彼が一般に想定されていたように Pāṇini の同時代人ではありえなかったことを示した。そして最近 Royal Asiatic Society で読まれた論文(1863年2月)において、この Kātyāyana が大文法家 Patañjali と同時代に生きたことを証明した。Patañjali の年代を彼は先に西暦紀元前140年から120年の間に定めていた。patañjali の項を参照。— Chambers' Encyclopædia.
kāntā or śāntā 王 Lomapāda の愛らしい娘で、Ṛṣyaśṛṅga(その項を参照)の妻となった。
kānyakubja 背の曲がった乙女たちの都。近代の Kanauj である。
kāpardin Ṛgveda において rudra に用いられる形容語。rudra は風の父として描かれ、明らかに Agni あるいは Indra のいずれかの一形態である。Kāpardin は彼の頭が放射する炎に囲まれていることを暗示するのかもしれず、あるいはこの語は挿入であるのかもしれない。同じ形容語 Kāpardin は Pūṣan にも用いられる。時には単に「編んだ髪の」と訳される。— MUIR.
kāpālika(髑髏派) Kāpālika の次の描写は、Ānandagiri の Śaṅkara Vijaya からのものである。
「その身体は火葬の薪の灰で塗られ、首の周りには人間の頭蓋骨の連が掛かり、額には黒い線が引かれ、髪は縺れた辮髪に編まれ、腰は虎の皮で覆われ、左手には(杯として)中空の頭蓋骨があり、右手には鈴を持ち、それを絶え間なく鳴らしながら大声で叫ぶ。『ほう、Śambhu、Bhairava ── ほう、Kālī の主よ。』」
kāmagama-s 第十一 manvantara の神々の一部類。
kāmadeva(愛神) Hindu の Cupid すなわち Eros、愛の神。Hindu の虚構の最も好ましい創造物の一つとみなされる。Viṣṇu すなわち Kṛṣṇa と Lakṣmī の子であり、その際 Lakṣmī は Māyā あるいは Rukmiṇī と呼ばれる。別の記述によれば、彼は最初 Brahmā の心臓において生み出され、美しい女の姿で出て来て、Brahmā に恋情をもって見られた。彼は通常美しい若者として表され、時には庭園と寺院の只中で母および妃と語らい、時には月光の下で鸚鵡あるいはヒインコに乗り、ニンフたちを従えている。そのうちの一人は赤地に魚を描いた彼の旗を掲げている。Śiva に妻 Pārvatī への愛の情熱を起こさせようとして、彼は Śiva に矢を放った。しかし Śiva はその企てに激怒し、中央の眼から放った火の光線によって彼を灰に、あるいはある者の言うところでは単なる心的本質に帰した。その後、心を和らげた神は、彼が Kṛṣṇa と Māyā すなわち Rukmiṇī との子 Pradyumna の姿で再び生まれるであろうと宣言した。Kāmadeva の弓は花で作られ、弦は蜂から成り、その五本の矢にはそれぞれ花の蕾がつけられている。その花は一つの感官に捧げられ、それを司ると考えられている。彼は apsaras の主である。Kāmadeva には多くの名が用いられる。彼は欲望の神、心を乱す者、狂わせる者、燃え立たせる者、帰依の静寂を破壊する者と呼ばれる。
Greek 神話が、愛の神 Eros を宇宙の創造と結びつけたことはよく知られている。それは、Ṛgveda X.129 において Kāma が創造と結びつけられているのといくらか同じ仕方である(Smith 博士の辞典の Eros の項を参照)。Atharvaveda の別の讃歌においては、Kāma は Greeks の Eros や Latins の Cupid と同様に、性愛の神として描かれている。「苦痛を羽とし、憧れを鏃とし、欲望を矢柄とする矢をよく狙い定めて、Kāma が汝の心臓を射抜かんことを。」等。— OST, Vol. V, p. 407.
kāmadhenu(如意牛) muni Jamadagni の聖なる牝牛。Rājā Kārttavīrya に盗まれ、後に muni の子 Paraśurāma によって取り戻された。Paraśurāma は盗賊の王を殺した。
kāmarūpa Bhāratavarṣa の東部に与えられた名。また Assam の巡礼地の名でもあり、前項に言及された寺院がそこに建てられている。
kāmākhyā, kāmākṣī Bengal 北東部における Durgā の一形態の名。Assam には、この形態の女神に捧げられたいくつかの名高い寺院がある。
kāmpilya Haryaśva の五人の息子の一人。父は「これらわが五人(pañca)の息子は国々を守ることができる(alam)」と言った。それゆえ彼らは Pāñcāla と呼ばれた。Pāñcāla は初め Delhi の北と西、Himālaya の麓と Cambal との間の地方であった。後に Ganges によって隔てられた北 Pāñcāla と南 Pāñcāla とに分けられた。Kāmpilya はまたこの地方の一部に与えられた名でもあり、初期の Mahommedan の侵入者によって Kampil と呼ばれた。Kāmpilya は Rājā Drupada の都であった。
kāmyaka Sarasvatī 河の岸の広大な森。Pāṇḍava は第二の流謫の折にここに退いた。
kāmyā Priyavrata に嫁いだ Kardama の娘。
kārūṣa Manu Vaivasvata の息子の一人。Paripātra すなわち Vindhya 山脈に住んだ、Kārūṣa と称される名高い戦士たちはこの人から出た。
kārttavīrya Kṛtavīrya の子で、Haihaya 族の主権者。Laṅkā に侵入し、Rāvaṇa を捕虜にしたと言われる。Viṣṇu Purāṇa によれば、聖仙 Dattātreya の心を和らげて彼は次の恩恵を得た。千の腕。決して不正に行わないこと。正義によって世界を屈服させ、公正にそれを守ること。敵に対する勝利。そして宇宙の三つの領域に名高い者の手による死。これらの手段をもって彼は力と正義によって大地を統治し、一万の供犠を捧げた。その長い治世(八万五千年)の満了に際し、Jamadagni の項に語られたように、彼は Paraśurāma に殺された。
kārttika 太陰月の一つの名。10月に相当する。
kārttikeya(軍神) Hindu の Mars すなわち戦いの神。Agni すなわち火の中に投じられた Śiva の生命力の原理から生まれた。Agni はそれを保つことができず、Gaṅgā すなわち Ganges に投じた。この河の岸に美しい少年が生まれた。彼は神々の軍を率い、苦行によって神々と人間の双方を驚かせ宇宙の支配権を得た悪鬼 Tāraka と Sūra を滅ぼす者となるべく定められていた。生まれると、Kārttikeya は Kṛttikā すなわち Pleiades と呼ばれる六人のニンフに養われた。彼女たちはそれぞれ彼を自分の息子と呼んで乳房を差し出したので、子は六つの口をもつようになり、それぞれから養いを受けた。彼は、Śiva と Pārvatī の長子とされる Gaṇeśa の兄弟とみなされている。彼は孔雀に乗った姿で表され、時には一つの顔で、時には六つの顔と十二の腕で表される。その誕生の一つの記述は次のとおりである。Śiva は眼から火花を放ち、それが Saravaṇa 湖に投げ込まれると六人の嬰児となった。彼らは、空に Pleiades として見られる ṛṣi たちの妻たちによって養われた。Pārvatī はその子供たちを見ると、その美しさにすっかり心を奪われ、彼ら全員をあまりに強く一度に抱きしめたので、その六つの身体は一つになり、六つの頭と十二の腕だけが残った。Kārttikeya は南インドでは Subrahmaṇya としてよりよく知られており、火曜日がその帰依者の週ごとの日である。Skanda Purāṇa は Subrahmaṇya の最も詳しい記述を与えており、Sūra との戦いを含み、また彼が Dakṣa の供犠を挫くために父によって遣わされ、後者の唆しによって、歌と音楽で彼をもてなす美しい乙女たちによって途中で引き留められたことを語っている。それゆえ今なお、寺院に仕える踊り子は彼と婚約し結婚するのが慣わしであり、その後は人間の男と結婚することを許されないが、身を売ることはありうる。
kāla Viṣṇu Purāṇa においては、月の表面は十六の kalā すなわち相に分けられると言われる。月はまた甘露の容器として十五の kalā すなわち分に配分され、十五の太陰日に対応する。欠けていく間のそのうちの十四日に神々が amṛta を飲み、第十五日に pitṛ が残りの部分を飲み尽くす。Wilson 教授はこの記述の不明瞭さについて述べているが、他の Purāṇa のどれもそれをより明確にはしていないと述べている。Warren 大佐は、kāla[ママ]をその意味の一つにおいて「Hindu が十六を数える月の相」と説明している。
kāla(時) 時。Viṣṇu の一形態。「時としての神格は始めがなく、その終わりは知られない。そして彼から、創造、存続、解体の回転が絶え間なく続く。というのは、後者の時期において諸性質の均衡(pradhāna)が存在し、霊(pumān)が物質から切り離されるとき、そのとき時である Viṣṇu の形態がとどまるからである。」— VP, p. 12.
「このような次第であるので、物質と霊とが分離している間それらを支え、あるいは創造を新たにするようにそれらの結合を更新するものは何か、と問われる。答えは、他のすべてが存在しないときに存在するもの、そして一定の間隔の終わりに物質すなわち pradhāna と puruṣa とを結合させて創造を生み出すもの、すなわち時である。この種の観念は明らかに Orpheus の三一体、すなわち創造におけるそのような三つの原理の協働という古代の観念のうちに含まれている。すなわち Hindu の霊すなわち puruṣa である Phanes あるいは Eros、物質すなわち pradhāna である Chaos、そして kāla すなわち時である Chronos である。」(PROFESSOR WILSON)。Kāla はまた Hindu の Pluto である Yama の名でもある。「Ṛgveda の二つの注目すべき讃歌[原文 Ṛgveda、ママ]において、われわれはまったく新しい教説を見出す。そこでは kāla すなわち時が万物の源泉かつ支配者として描かれている。」— OST, Vol. V, p. 407.
kāla 三十 kāṣṭhā で一 kāla となり、眼の瞬き十五で一 kāṣṭhā となる。Kāla すなわち時は次のように算定される。
15 nimiṣa = 1 kāṣṭhā
30 kāṣṭhā = 1 kāla
30 kāla = 1 kṣaṇa
12 kṣaṇa = 1 muhūrta
30 muhūrta = 1 昼夜
kāla Bhāgavata による十一 Rudra の一人の名。Vasu Dhruva の子は Kāla と名づけられた。Kaśyapa に嫁いだ Dakṣa の娘の一人も Kāla と名づけられた。
kālakā Kaśyapa に嫁いだ Dakṣa の娘の一人。
kālañjara 伝説上の山。Purāṇa においては Meru の北に置かれている。
kālanemi Rāvaṇa の叔父。後者は、Hanumān を殺せば王国の半分を与えると彼に約束した。そこで Kālanemi は帰依者の姿をとり、Gandhamādana 山に魔法の庵を造った。Hanumān が山に着き、Kālanemi が首に種々の数珠を掛けて鹿皮の上に帰依者のように座り、瞑想に没入しているらしいのを認めると、彼は敬虔な聖仙が liṅga を崇拝しているのを見ているのだと思った。やがて Kālanemi は Hanumān を見て、客として彼を歓迎した。しかし Hanumān は食物と飲み物を断り、近くの池で沐浴することだけを望んだ。彼が足を水に浸すと、それは鰐につかまれたが、彼はまもなくそれを殺した。すると死骸から美しい apsaras が立ち上がり、自分は聖仙 Dakṣa の怒りに触れ、Hanumān によって解放されるまで鰐となるよう呪われていたのだと Hanumān に語った。それから彼女は解放を感謝し、Kālanemi に用心するよう彼に命じた。その間、Hanumān の死を確信した Kālanemi は Laṅkā の rāj の分配について思いめぐらしていた。そこへ Hanumān が突然彼の前に現れて言った。「おお偽りの隠者よ、私はお前が何者かを知っている。」そして彼の足をつかんで振り回し、突然手を放した。彼は空中を飛んで Laṅkā へ至り、Rāvaṇa とその顧問たちをすっかり驚かせた。Wheeler 氏は言う。「Kālanemi は Hindu の Alnaschar(取らぬ狸の皮算用をする男)である。彼は、Hanumān がなお生きているかもしれないことを考えずに、rāj の半分を手に入れるときに享受するであろう楽しみを当てにする。今日に至るまで、Hindu が確実に得られるかどうかわからない将来の利益を考えるとき、しばしば Kālanemi にたとえられる。」
kālayavana Gārgya の子。蜂のように黒く、それゆえ Kālayavana(黒い Yavana)と呼ばれた。彼は Yavana の王であり、mleccha と蛮族の大軍を集めて、性急に Mathurā と Yādava に向かって進軍した。Kṛṣṇa の介入によって、Kālayavana は Mucukunda が眠っている洞窟に入るよう導かれ、そこで滅ぼされた。Wilson 教授は、この物語は Greek-Bactria の王子たち、あるいはその Scythia の後継者たちの権力と位置についての何らかの知識に、最初の Mahommedan の侵略への言及が混じり合ったものに起源をもつのかもしれないと考えている。
kālayavi Bāṣkali の弟子で、Ṛgveda の教師。
kālikā Vaiśvānara の娘の一人で、Kaśyapa の妻、猛々しく残酷な dānava の母。
kālikā purāṇa この書は九十八章に約九千の詩節を含み、この系列の中で、Girijā、Devī、Bhadrakālī、Kālī、Mahāmāyā としての多様な形態のいずれかにおける Śiva の花嫁の崇拝を勧めることに捧げられた唯一の書である。それゆえそれは、Hindu 信仰の Śākta 的変容、すなわち神々の女性の力の崇拝に属する。この崇拝の影響は、Brahmā の娘 Sandhyā への近親相姦的な情欲を、Vāyu、Liṅga、Śiva Purāṇa には何ら類似するもののない調子で語るこの書のまさに最初の頁に現れている。
Śiva と Pārvatī の婚姻は、Dakṣa の供犠と Satī の死とともに、早くに記述される主題である。そしてこの書は、Śiva がその死体を担いで世界を巡ったこと、および Pīṭhasthāna、すなわちその種々の部分が撒き散らされ、それゆえ liṅga が建てられた場所の起源の典拠である。Bhairava と Vetāla の誕生の伝説が続き、Devī の種々の形態への彼らの帰依が、彼女の崇拝を成す儀礼と定式とをきわめて詳細に記述する機会を提供している。そこには Asiatic Researches に訳された血の供犠に関する章も含まれる。— WILSON
kālikāmukha 傑出した rākṣasa の首長で、Sumāli と Ketumatī の子。大巨人 Rāvaṇa の叔父であり、神々との神話的な戦いに参加した。
kālidāsa インドの最大の劇作家であり、最も名高い詩人の一人。ヨーロッパの文学界には、とりわけその戯曲 Śakuntalam を通じて知られている。この戯曲は Sir William Jones によって初めて西洋世界の注目に供され(1789年)、ヨーロッパ中にきわめて大きな反響を呼び起こしたので、England と Germany においてサンスクリット研究が早くに得た成功は、サンスクリット文学のこの傑作に負うものとみなしてよい。同じ詩人のもう一つの戯曲で、名声において Śakuntalam に次ぐのは Vikramorvaśīyam、すなわち英雄とニンフである。これらの作品のほかに、Hindu の伝承は第三の戯曲といくつかの詩を彼の作に帰しているが、ヨーロッパのいかなる批評家も、それらが Kālidāsa のような精神から生まれえたとは信じないであろう。Lassen 教授は Indische Alterthumskunde において、この詩人について次のような判断を下している。「Kālidāsa は、Hindu の技巧詩の天空における最も明るい星とみなしてよい。彼がこの賞讃に値するのは、言語を操る熟達のゆえであり、扱う主題の要求に応じて、後代の詩人の技巧的な語法に陥ることも良い趣味の限界を踏み越えることもなく、言語により素朴なあるいはより技巧的な形を与える完璧な機転のゆえである。その創造の多様さ、巧妙な着想、主題の巧みな選択のゆえであり、そしてそれに劣らず、彼がその詩的目的を達成する完全な仕方、その語りの美しさ、その情感の繊細さ、その想像力の豊かさのゆえである。」しかし彼の作品によってこの詩人の真価を評価することはできても、われわれはその個人的経歴についてはほとんど知らない。彼が Ujjayinī すなわち Oujein に住み、「Vikramāditya の宮廷の九宝の一人」であったということが、彼に関して語られることのすべてである。しかし Ujjayinī には何人もの Vikramāditya がいたので、その年代はインド古代史のいかなる人物のそれとも同じほど不確かである。Bhāo Dāji 博士は、学識ある巧妙な論文「サンスクリット詩人 Kālidāsa について」(Journal of the Bombay Branch of the Royal As. Soc., 1860年10月)において、Kālidāsa の同時代人 Vikramāditya を Harṣa Vikramāditya と同定しようと努めた。そうであれば、この大詩人は西暦6世紀の中頃に生きたことになる。— GOLDSTÜCKER.
kālindī
1. Kṛṣṇa の妻の一人で、太陽の娘。Kṛṣṇa が Indraprastha を訪れた折の一つに彼女に出会い、彼女は苦行の報いとして彼を求めた。2. Jumna の女神。3. 王 Asit の寡婦の一人で、Sagara の母。
もう一人の寡婦の王妃が来たりぬ、
蓮の眼と美しき容姿もて、
高貴なる息子を産まんと願いて、
熱き祈りもて聖者に乞い求めぬ。
かくて最も美しき婦人 Kālindī が
恭しき嘆願もて来たりしとき、
聖なる賢者は彼女に答えぬ。
『汝の脇腹の毒とともに生まれて、
おお幸いなる王妃よ、やがて生まれ出でん、
幸運にして強き嬰児が。
さればもはや泣くなかれ、溜息を抑えよ、
蓮の眼もつ優しき婦人よ。』
— GRIFFITHS, Rāmāyaṇa
4. asura の王の娘。父の死後、自らの王国と自分自身とを双子の妻[原文 twin wives、ママ]として Mataṅga(その項を参照)に差し出した。Mataṅga は快く同意して乙女を娶り、pātāla の王となった。
kāliya 蛇の王。Kṛṣṇa は少年の頃、その湖に跳び込み、ひどく咬まれた。Kṛṣṇa はそこで天上の活力を発揮するよう励まされ、まもなく毒をもつ強大な蛇の頭を打ち砕いた。Kāliya はそれから慈悲を乞うて言った。「見よ、私は今や力もなく毒もない。汝によって両方を奪われた。命を助けたまえ。」蛇の王はそれから解放され、海へ送られた。
kālī インド神話の Moloch。Kālī あるいは Mahākālī と呼ばれる Pārvatī の一形態で、破壊する性格すなわち時としての Śiva の妃である。そのようなものとして、彼女は黒あるいは濃い青の肌の色で描かれる。Calcutta では、その像は普通後者の色で見られる。図版では、彼女は(永遠の人格化として)Śiva(時)の身体を踏みつけている姿で示される。一方の手に彼女は絶滅の剣を、別の手に人間の首を持つ。第三の手は下を指し、ある者によれば彼女を取り巻く破壊を示し、残りの手は上に挙げられ、新たな創造による自然の再生の象徴を暗示している。しかし Ward 氏は、他の神々についても表明している意見であるが、ここで時そのものを絶滅させている Kālī の性格とは大いに食い違うと思われる意見、すなわち後の二本の手のうち一方は祝福を授け、他方は恐れを禁じているという意見である。その身振りが何を意味するにせよ、この女神の像はまことに恐ろしく、彼女を称えて行われる礼拝の儀式もそうである。足まで届く乱れた荒々しい髪、人間の首の首飾り、その顔の荒々しさ、歪んだ口から突き出た舌、血に染まった手の腰帯、そして Śiva の身体の上のその姿勢は、すべて合わさって、彼女が表そうとする暗い性格のきわめて強力な人格化を伝えている。それゆえ、彼らの趣味についてわれわれがどう考えようとも、Hindu がきわめて並外れた豊かな想像力をもつことを全面的に認めないわけにはいかない。この女神のある模型では、身体は濃い青で、手のひらの内側は赤く、腰の周りの手の環もそうである。首飾りを成す首は凄惨な様相をしている。舌は口から突き出し、口の両側には血の跡がある。頭飾りその他の装身具は、種々の宝石で華麗に飾られている。Śiva の身体は白い。Kālī はまた墓地の女神とも呼ばれ、その姿においては、墓地の死者の間で、幽霊と鬼たち(同じく踊っている)に囲まれ、幼い Śiva を腕に抱いて踊っているさまが描かれる。少し前に Calcutta の新聞に掲載された一節によれば、この姿の彼女の像は、今ではコレラの破壊的な猛威に対する宥めとして Hindu に崇拝されているという。この獰猛な女神には血の供犠が捧げられる。Kālikā Purāṇa は、犠牲に捧げられるべき動物の種々の種類と、それぞれによってこの飽くことを知らない女神が満足し機嫌よく保たれる期間とを、正しい順序で、きわめて精密に詳述しており、一人の人間(あるいは一頭の獅子)は千年の間彼女を喜ばせるが、三人の人間の犠牲によって、彼女は恵み深くも十万年の間喜ぶことを承知すると定めている。供犠者は Kālī の名を繰り返し、次のように言って彼女に敬意を表さねばならない。「Hraṅg、hriṅg、Kālī、Kālī。おお恐ろしい歯をもつ女神よ。悪しき者すべてを食らえ、切れ、滅ぼせ。この斧で切れ。縛れ、縛れ、捕らえよ、捕らえよ、血を飲め、跳べ、確保せよ、確保せよ。Kālī に礼拝あれ。」この恐るべき神格の崇拝には、毎年莫大な金額が費やされる。Calcutta の近隣、すなわち Kālī の都の Kālīghāṭ には彼女に捧げられた名高い寺院があり、そこには不浄な供犠が捧げられる。そして Kālī の祭りの際には、彼女の寺院は文字どおり血の海となる。その場面と、その場の処刑人その他の従者たちの恐ろしくおぞましい様相を十分に描写することはほとんど不可能である。— COLEMAN, Myth. Hind. p. 94.
kāverī Coorg に源を発し、南インドを流れて Bengal 湾に注ぐ河。つねに同じ呼称を帯びてきたらしく、Ptolemy の Chaberis である。
kāvya-s
1. brāhmaṇa の一種族としての Kavi の子孫に与えられた名。2. pitṛ すなわち祖霊の部類の一つで、周期年と同一視される。
kāvya-prakāśa 修辞的作品一般に関する著作で、大いに名声のある権威。作者は Kaśmīr の人 Mammaṭa Bhaṭṭa であった。それは戯曲と他の詩とに共通する戯曲作品に関する詳細を含み、名高い詩からの抜粋によって例証されている。ただしその詩は、この書においても同種の他の多くの書においても、決して名を挙げられない。— WILSON.
kāvyādarśa 詩作に関する論書。Daśa Kumāra の作者 Daṇḍin によるもので、Bhoja と同時代と考えられている。
kāśirāja Kāśī の王の一人で、Kāsa の子。Pāṇḍava の同盟者。
kāśī, or vārāṇasī Benares。その項を参照。Hindu の聖都であり、彼らはそれがもともと神々から降って来たと信じている。