karārī 恐ろしい形態の Devī の崇拝者。aghora ghaṇṭa と kāpālika の代表者であり、わずか七、八世紀前まで、Kālī、Cāmuṇḍā、その他 Śiva の Śakti の醜怪な人格化に人身御供を捧げていたと推測する理由がある。— WILSON, Works, Vol. I, p. 264.
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karārī 恐ろしい形態の Devī の崇拝者。aghora ghaṇṭa と kāpālika の代表者であり、わずか七、八世紀前まで、Kālī、Cāmuṇḍā、その他 Śiva の Śakti の醜怪な人格化に人身御供を捧げていたと推測する理由がある。— WILSON, Works, Vol. I, p. 264.
karālī 「恐るべき者」。Śiva の妃の多くの名の一つ。— OST, Vol. IV, p. 364.
kariṣaka-s, karīti-s Purāṇa に列挙される原住部族。
karundhaka Śūra の十人の息子の一人で、Kṛṣṇa の生まれた家系の Vasudeva の兄弟。
karkoṭaka 主要な nāga の一人。nāga は人間の顔と蛇の尾をもち、地下の領域に住む半神的存在である。この Nāga は燃える茂みから Nala によって救い出され、その奉仕の返礼として、Karkoṭaka は Nala を Kali の力から解放することを約束した。そこで彼は Nala を矮小な御者に変えたが、それを着ればいつでも本来の姿を取り戻すことのできる魔法の衣を彼に与えた。Nala はこうして腕の短い Vāhuka に変えられ、Ayodhyā の王 Ṛtuparṇa に仕えた。
karkkoṭṭa Kadrū の子孫である蛇の王の一人。
karṇa Pṛthā すなわち Kuntī と、Hindu 神話の Phoebus との子。Pṛthā は Yādava の王子 Sūra の子であり、Sūra は彼女を子のない従兄弟 Kuntibhoja に与え、彼女はその世話のもとで育てられた。ある日、結婚前に、彼女は父の家の客であった大聖仙 Durvāsas にきわめて大きな敬意と心遣いを払ったので、聖仙は彼女に呪物を与え、呪文を教えた。その力によって、彼女は呼び求めたいと思ういかなる神によっても子をもつことができた。彼女はこの力を眠らせておかず、太陽を呼び求め、彼によって子をもうけた。その子は Minerva のように戦場への装備を整えて生まれ、奇蹟の胸甲と槍で武装していた。Pṛthā は親族の非難を恐れて子を見捨て、Jumna に置き去りにした。子は Dhṛtarāṣṭra の御者 Adhiratha に見つけられ、その妻 Rādhā に養われた。それゆえ子は後に Rādheya と呼ばれたが、養父母によって Vasuṣeṇa と名づけられた。成長すると、Indra は brāhmaṇa に変装してその寛大さに訴え、彼から鎧を騙し取った。Indra はその返礼として彼に莫大な力を授け、その名を Karṇa に改めた。— MONIER WILLIAMS, IEP, p. 94.
Karṇa は実際には五人の Pāṇḍava の王子の異父兄であったが、その従兄弟である Kuru とより親しい関係にあり、Pāṇḍu を滅ぼすための種々の企てにおいて Duryodhana と Śakuni に加わった。大戦において彼は Kuru 軍の将軍となった。五日の間、彼は全軍の指揮権をもっていた。彼は Arjuna を殺すことを引き受け、後者が彼に対する最後の戦いに出撃したとき、両軍は戦いを止め、神々は天から降りて来た。彼は最後に三日月形の矢によって Arjuna に殺された。その寡婦、子供、従者たちは Arjuna と Yudhiṣṭhira によって大いなる親切をもって扱われた。Karṇa の Pāṇḍu との関係はその時 Arjuna に知られておらず、その死は後にすべての兄弟によって悼まれた。
「Karṇa の誕生は秘密であり、Yamunā 河に浮かんでいるところを見つけられたので、実際は Pṛthā と太陽との子であるにもかかわらず、Dhṛtarāṣṭra の御者 Nandana[ママ]の子と見なされた。彼は天上の甲冑と輝く耳飾りとを身に帯びて生まれた。それゆえ彼の最初の呼び名は Vasuṣeṇa、すなわち富に満ちた者であった。Indra は brāhmaṇa に変装し、自分の息子 Arjuna のためにそれを得ようとして、彼にその神的な鎖帷子を乞うた。そしてそれを切る、すなわち身体から引き離すというその行為から、王子は Karṇa と名づけられた。彼はまた太陽 Vikarttana から Vaikarttana とも称される。Indra は鎧の返礼として、神であれ人間であれ悪鬼であれ、一人の個人の確実な死を担った投槍を Karṇa に贈った。Karṇa はそれを Bhīma の rākṣasa の子 Ghaṭotkaca に投げつけ、それは彼を滅ぼした。しかしそれによって、その所有者は Arjuna の攻撃と防御の魔法の武器に対して無力となり、Karṇa はついにその手にかかって斃れた。」— WILSON, Works, Vol. III, p. 333.
karṇapravaraṇa-s Purāṇa において原住部族のいくつかに用いられるあだ名で、「自分の耳にくるまる者たち」を意味する。
karṇāṭaka-s Canarese の人々。半島の中央、本来の Karṇāṭaka すなわち Carnatic の住民。
kardama Prajāpati の一人。Dakṣa の娘の一人である Devahūti を娶った[ママ]。彼らの娘たちに与えられた名は、彼女たちが知性と徳と宗教儀礼の寓意的な人格化であることを示している。2. Pulaha の子。
karma(業) 仏教の教義によれば、宇宙を統御する力は karma、字義どおりには行為であり、kusala と akusala、すなわち功徳と罪過とから成る。非物質的な霊のような単子は存在しない。しかし何らかの存在が死ぬと、その功徳と罪過の総計が他の何らかの存在に移される。その新しい存在は先の存在の karma によって生じ、その karma から存在のすべての境遇を受ける。こうして、karma が善ければ境遇は好ましく幸福を生み、悪ければ好ましくなく不幸を生む。
存在が最初にどのようにして始まったかは、今では確かめることができない。存在の継続の原因は無知であり、そこから功徳と罪過が生じ、そこから意識が、次いで身体と心が、その後に六つの感官が生ずる。さらに、感官から接触が、接触から欲求が、欲求から感覚が、感覚から存在する対象への執着が、この執着から再生が、再生から病と衰えと死が生ずる。こうして車輪の回転のように、死と誕生の規則正しい継起があり、その道徳的原因は存在する対象への執着であり、一方その手段的原因は karma である。それゆえ、相次ぐ誕生の悲しみから解放されようとするすべての存在の大いなる目的は、継続的存在の道徳的原因、すなわち存在する対象への執着、言い換えれば悪しき欲望の破壊を求めることである。定められた修行の行程に励むことによって、この破壊を成し遂げることは可能である。その修行は四つの道のいずれかへの入り口とその果報とに至り、それらは種々の仕方で nirvāṇa の達成へと導く。悪しき欲望がまったく滅ぼされた者は arhat と呼ばれる。悪しき欲望からの自由は奇蹟的な力の所有を保証する。死に際して、arhat はつねに nirvāṇa に達する、すなわち存在をやめる。— SPENCE HARDY.
karmoṣa 族祖 Pulaha の長子。Bhāgavata においては Karmaśreṣṭha と称される。
kalakā-s, kalakañja-s, kālakeya-s 強力で、猛々しく、残酷な dānava の一部類に用いられる名。
kalajośaka-s Purāṇa に言及される原住種族の一つ。
kalava-s Purāṇa に言及される原住種族の一つ。
kalasūtra Viṣṇu Purāṇa に列挙される naraka すなわち地獄の一つ。拷問の道具によって恐ろしい、Yama の王国の恐るべき領域の一つとして描かれる。
kalā mūla prakṛti(根本原質)の段階すなわち顕現。主要な kalā は Svāhā、Svadhā、Dakṣiṇā、Svasti、Puṣṭi、Tuṣṭi その他であり、その大部分は寓意的な人格化である。たとえば Dhṛti すなわち不屈、Pratiṣṭhā すなわち名声、Adharma すなわち邪悪(Mṛtyu すなわち死の花嫁)である。神々の母 Aditi と悪鬼の母 Diti もまた prakṛti の kalā である。この表はすべての二次的な女神を含む。— WILSON, Works, Vol. I, p. 246.
kalāṃśa より重要な kalā、すなわち prakṛti の顕現の下位区分。kalāṃśa はすべて女性であり、彼女たちが、sattva、rajas、tamas の guṇa、すなわち善、激情、悪徳の性質が優勢であるその偉大な原型の部分のいずれから存在を得るかに応じて、善、中、悪として区別される。
kalānara Aṇu の子孫の一人 Sabhānara の子である王子。
kalāpa Kuśa の子孫である Maru が、未来の時代に太陽王朝における kṣatriya 種族の再興者となるために、帰依の力によって長い期間住んできた伝説上の村の名。— VP.
kali kali の時代、すなわち世界が今通過しつつある第四にして最後の時代の男性の人格化。彼は Damayantī を妻に得たいと望み、彼女が Nala を選んだことを知るとひどく激怒し、復讐を決意した。ある夕べ、Nala が何らかの儀礼の作法を怠ったとき、Kali はその機会を捉えてただちに彼の中に入り込み、その最奥の魂を支配した。Nala には Puṣkara という名の兄弟があり、Kali は Puṣkara に言った。「行って Nala と骰子を遊べ。私がお前を彼の rāj の勝者にしてやろう。」Puṣkara は Nala に骰子の勝負を挑み、二人は Damayantī の面前で座って遊んだ。彼らは金と宝石と衣服、車と馬を賭けて遊んだが、Nala は投げるたびに負けた。dvāpara が骰子に宿り、Kali が身も魂も彼を支配していたからである。そこで Nala の忠実な友人たちはもう投げないよう彼に祈ったが、彼は遊びへの愛に狂い、彼らの言うことすべてに耳を閉ざした。彼は rāj と身にまとう衣服とを賭け、すべてを Puṣkara に失った。それから彼の流謫が続いた。nala の項を参照。Kali はこの後、密林で Damayantī を見捨てるよう Nala を唆し、これによってその復讐を完成した。
kaliṅga Bali の五人の息子の一人。Kaliṅga は Ganges の河口の西の海岸と、Coromandel 海岸の上部との名である。住民は Kaliṅga と呼ばれる。
kaliṅga Wilson によれば、通常、Orissa から Draviḍa すなわち Madras 以南まで、Southern Sircars の海岸に及ぶと記述される。しかしそれは Ganges のデルタであるらしい。それは東インド諸島の土着民に Kling の名で親しまれており、古代人には Regio Calingarum として知られていた。「それは Kaliṅga の名のもとに、サンスクリットの著作に頻繁に再生産される国々の表に、一般に一つの決まった順序で現れる。下 Bengal のすぐ後に、あたかもそれに隣接するかのように来るのであり、それは Bengal の下部諸州がつねに北部諸州の後に置かれるのと同じ仕方である。それは古代インドの五つの辺境王国*の一つを成し、その首都は海岸のほぼ中ほどに位置し、今日の Kaliṅgapatanam の都に今なお残っている。」
* Aṅga、Baṅga、Kaliṅga、Sumha、Puṇḍra。
kalinda Jumna の女神 Kālindī の父。
kalinda-s brāhmaṇa を見なくなったことによって追放者となった kṣatriya の部族の一つ。— OST, Vol. I, p. 482.
kaliyuga 最後の時代。それは神々の1,200年から成る。人間の一年が神々の一日であるので、これらの神の年は360を掛けることによって人間の年に換算でき、それによって kaliyuga の存続期間は432,000年となる。その始まりの年代は、Viṣṇu が Kṛṣṇa としての化身の後に天に帰った紀元前13世紀あるいは14世紀に定められている。この時代の間、すべてのものは衰え、人類の堕落は全般的となるであろう。Veda は顧みられなくなるであろう。人々の心はまったく富の獲得に占められ、富はもっぱら利己的な満足に費やされるであろう。女は自らの好みに従い、快楽を好むであろう。あらゆる身分の男が自らを brāhmaṇa と同等とみなすであろう。牝牛は乳を供するかぎりにおいてのみ尊ばれるであろう。これらは、Viṣṇu Purāṇa に含まれる長い目録から選んだ、kali の時代に行き渡るであろう禍のいくつかである。しかしこの時代のいくつかの償いとなる性質も挙げられている。Viṣṇu への帰依の効力はより顕著に現れる。この時代においては最小の道徳的功徳が最大の報いを得、それはすべての階級によって最も容易に示される。kali yuga の後には kṛta yuga が続くであろう。
kalki kali の時代の終わり近くに生まれるであろう Viṣṇu の avatāra。そのとき、心を不正に捧げるすべての者は滅ぼされ、地上に正義が確立されるであろう。そして kali の時代の終わりに生きる者たちの心は目覚め、水晶のように透明になるであろう。
kalpa(劫) 時の期間。大いなる世界の時代。Brahmā の一日。kalpa の最も単純な計算は、それが1,000の大時代すなわち神々の時代であるということである。すなわち、4,320,000年すなわち一つの神の時代に1,000を掛けると4,320,000,000年となり、それが Brahmā の一日あるいは一夜である。
人間の一年は神々の一日に等しい。12,000の神の年は四 yuga の期間に等しく、それは次のように成り立つ。
Kṛta yuga(その朝と夕べを含む)、神の年4,800年。
Tretā yuga、同、3,600年。
Dvāpara yuga、2,400年。
Kali yuga、1,200年。
合計12,000の神の年。
神々の一日は人間の一年に等しいので、この四 yuga の大期間における人間の年数を得るには、12,000の神の年に、一年の日数と想定される360を掛けねばならない。すなわち、12,000神年 × 360 = 4,320,000人間年。この12,000神年すなわち4,320,000人間年の期間の1,000、すなわち4,320,000,000人間年が Brahmā の一日に等しく、その夜も同じ長さである。Brahmā の一日のその期間内に14人の Manu が統治し、それゆえ manvantara すなわち Manu の期間は Brahmā の一日の14分の1に等しい。現在の kalpa(= Brahmā の一日)においては、Svāyambhuva を最初とする六人の Manu がすでに過ぎ去り、現在の Manu は Vaivasvata である。各 manvantara において、七 ṛṣi、ある神々、一人の Indra、一人の Manu、そしてその息子たる王たちが創造され、滅びる。前に説明したように、四 yuga の体系の千が、これら14の manvantara と同時に起こる。それゆえ各 manvantara の間に四 yuga の体系が約71経過し、その期間の Manu と神々の寿命を測る。Brahmā のこの一日の終わりに宇宙の崩壊が起こり、それは Brahmā の一夜、すなわちその昼と等しい長さの間続く。その期間中、三界は一つの大洋に変えられ、そのとき蓮から生まれた神は、宇宙を呑み込んで膨らみ、Janaloka の yogin と神々に観想されつつ、蛇 Śeṣa の上に眠る。その夜の終わりに彼は目覚め、新たに創造する。— WILSON.
kalpa Dhruva の子の名。また Veda の aṅga の一つで、祭式を含むもの。Atharvaveda の儀式は五つの kalpa と呼ばれる。
kalpa-sūtra-s(劫波経・祭事経) Veda によって命じられた供犠の執行に関する格言。人間の著者によって書かれたものであり、それゆえ Śruti すなわち啓示とはみなされないが、きわめて高い権威をもつものとみなされている。
kalmāṣapāda Saudāsa とも呼ばれる王子。Kalmāṣapāda は狩りをしている間、森で Vasiṣṭha の子 Śakti に出会い、彼が道を譲ることを拒むと、聖仙を鞭で打った。Śakti は王が食人鬼となるよう呪った。そして Vasiṣṭha と争っていた Viśvāmitra はこの機会を捉えて、rākṣasa に王に取り憑くよう指図し、王が競争相手の聖者の一族を滅ぼす道具となるようにした。このように影響を受けている間に、brāhmaṇa の Mitrasaha が Kalmāṣapāda に食物を求めた。王は料理人に人肉を調理させてその brāhmaṇa に与えるよう命じた。brāhmaṇa はそれが何であるかを知って、王が食人鬼となるようにという Śakti の呪いを繰り返した。その呪いは二重の力をもって効力を発し、Kalmāṣapāda は人を食い始めた。その最初の犠牲者の一人は Śakti であり、彼は彼を殺して食べた。それから Viśvāmitra の悪鬼のひそかな衝動のもとに、Vasiṣṭha の他の息子たちをもすべて殺して喰らった。しかし Vasiṣṭha は彼に取り憑いていた rākṣasa から彼を解放し、彼を本来の性格に戻した。— VP. この伝説のいくらか異なる版については OST, Vol. I, p. 414 を参照。
kavaṣa Ilūṣa と奴婢の娘との子。ṛṣi たちは Sarasvatī の岸で供犠の会を開いていたとき、Kavaṣa を彼らの soma 供犠から追い出して言った。「奴婢の子で、博打打ちで、brāhmaṇa でない者が、どうしてわれらの間にとどまれようか。」そこで彼らは、彼が Sarasvatī の水を飲めないように彼を砂漠へ追いやった。しかし彼に一つの祈りが啓示され、それによって彼は水の恵みを得て、Sarasvatī は四方から彼を取り囲んだ。ṛṣi たちはこれを見て言った。「神々は彼を知っている。彼を呼び戻そう。」— HAUG, Ait. Bra.
kavi
1. Manu Cākṣuṣa の息子の一人。2. Bhāgavata による Priyavrata の息子の一人の名。3. kṣatriya Urukṣaya の子で、後に brāhmaṇa となった。
kavirāja Rāghava Pāṇḍavīya と題する奇妙な詩の作者。この詩は「意図された曖昧さ」の注目すべき見本であり、読者の選択によって、Rāma と Daśaratha の他の子孫の歴史を語るものとしても、Yudhiṣṭhira と Pāṇḍu の他の息子たちの歴史を語るものとしても解釈しうる。— COLEBROOKE.
kaśyata ṛṣi の一人に嫁いだ Dakṣa の娘の一人の子孫 Paurṇamāsa の子。
kaśyapa 聖仙で、Brahmā の子 Marīci の子。Prajāpati すなわち被造物の祖の一人。Dakṣa の娘のうち十三人を娶った。彼女たちから、十二 Āditya、月宿のニンフ、daitya と dānava、多くの部類の動物等々が出た。こうして彼の創造における分担は決して重要でないものではなかった。彼は神々と悪鬼、人間、獣、爬虫類の父であったからである。Kaśyapa は Vivasvat の父であり、Vivasvat はまた Manu の父であった。「一つの種族がその上に築かれたこの賢き Manu は正しかった。それゆえこの人間の家系は Manu の種族として知られるようになった。brāhmaṇa、kṣatriya、その他の人々はこの Manu から生じた。」(OST, Vol. I, p. 125)「Chāndogya Upaniṣad[ママ]は、Manu を brāhmaṇa ならびに他の caste の祖と認める点で、Mahābhārata からの上記の一節と一致している。」(p. 196)「亀の姿をとって Prajāpati は子孫を創造した。彼が創造したもの、それを彼は作った。それゆえ kūrmaの語がある。Kaśyapa は亀を意味する。それゆえ人々は、すべての被造物は Kaśyapa の子孫であると言う。この亀は Āditya と同じである。」(Vol. IV, p. 23)
Mahābhārata は述べる。「Marīci の子である Kaśyapa から神々と asura が生み出された。そして彼はすべての存在がそこから生じた源であった。Aditi には Śakra を始めとする十二人の息子があった。その末子が Viṣṇu であり、諸世界は彼の上に支えられている。」「Aṃśa、Bhaga、Mitra、水の主 Varuṇa、Dhātṛ、Aryaman、Jayanta、Bhāskara、Tvaṣṭṛ、Pūṣan、Indra、そして第十二と呼ばれる Viṣṇu。これらが、伝承(あるいは Veda、śruti)によれば、Kaśyapa の息子である十二 Āditya である。」別の一節では、Jayanta と Bhāskara の代わりに Vivasvat と Savitṛ が現れ、Tvaṣṭṛ が順序の第十一に置かれ、そして付け加えている。「第十二は Viṣṇu と呼ばれる。彼は最も遅く生まれたが、その属性においてすべての Āditya を凌ぐ。」(Vol. IV, pp. 103, 104.)
Rāmāyaṇa には次の一節がある。Viśvāmitra が語る。「おお Rāma よ、この時、火のように輝き、いわば光輝に燃える神なる Kaśyapa は、女神 Aditi を伴い、神々の千年にわたって続いた苦行を終えて、恩恵を授ける Madhusūdana の讃美をこのように唱えた。『激しい苦行によって、私は汝を、苦行をその本質とし、苦行の集まりであり、苦行の化身であり、苦行をその富とする至高の霊として見る。主よ、汝の身体のうちに私はこの全宇宙を見る。汝は始めなく、言い表しえない。私は汝を避難所として頼った。』すると罪の汚れを払われた Hari は満足して言った。『恩恵を求めよ。汝に善きことあれ。汝は私によって恩恵に値する者とみなされる。』彼のこれらの言葉を聞いて、Marīci の子 Kaśyapa は答えた。『罪なき主よ、Aditi と私の子となりたまえ。asura を殺す者よ、Śakra(Indra)の弟となりたまえ。汝は悲しみに打ちひしがれた神々を救うべきである。』大いなる力をもつ Viṣṇu はそれに従って Aditi から生まれた。傘に覆われ、托鉢者の姿で、飲み物の瓢箪と頭頂の髪の房によって輝いていた。」(Ibid., p. 116.)
Kaśyapa は、近代のある著作家によって、中央アジアの山脈に避難した洪水以前の種族の残存の人格化であると考えられている。その山脈には、Koh-i-Kas すなわち Caucasus、Kaspian、Kashmir のように、彼の名の痕跡がきわめて豊富に残っている。brāhmaṇa の十三の gotra すなわち家系は、その名にちなんで呼ばれる同数の神的な聖仙にその起源を負うと主張されている。Kaśyapa はその一人である。Ṛgveda の Āśvalāyana Sūtra は gotra とその下位区分の列挙を含んでいるが、きわめて込み入った理解し難い文体においてである。しかしそれらの通俗の列挙は、今ではまったく南インドに限られている。そこにはこれらの部族の代表とされる者が何人か今なお存在し、とりわけ Gooty と Gondavir の周辺にいる。Nandavaram は、インドの主権者 Nanda によって kali 暦980年に十三の gotra に与えられた施与地であると言われる。しかしその施与に何らかの根拠があるとすれば、それははるかに新しい年代のものである。Nanda は西暦紀元前4世紀に生きたからである。— Hind. Theatre, Vol. II, p. 11.
kasiṇa(遍処) 仏教徒の間の苦行の儀礼。それによって奇蹟的な力を受けることができると考えられている。この儀礼には十種の記述がある。
1. Pṛthivī 地
2. Āpo 水
3. Tejo 火
4. Vāyu 風
5. Nīla 青
6. Pīta 黄金色
7. Lohita 血のような赤
8. Odata 白
9. Alaka 光
10. Ākāśa 空間
これらの種々の Kasiṇa を行うために種々の儀式が定められており、そのいずれかの形態の実践から、仏教の僧は多くの利益を得ることを期待する。HARDY, Manual of Buddhism を参照。
kahlānabha Hiraṇyākṣa の多くの息子の一人。また Vipracitti の子の名でもある。
kāka-s Indus が山地を出るあたりの岸に住む原住部族。
kākamukha-s 「鴉の顔をした者」を意味するあだ名あるいは嘲りの語。原住部族のいくつかを指すのに用いられる。