Monier Monier-Williams, A Sanskrit-English Dictionary, New Edition, Oxford, 1899, pp. v–x.
凡例:原書のページ区切りは 〔p. v〕のように示す。原注は各ページの末尾に、原書と同じ番号を付して訳出する。サンスクリット語は IAST により、人名・書名はローマ字のまま示す。
本辞典の初版は、Oxford 大学出版局理事会(the Delegates of the Oxford University Press)によって、インド担当国務大臣(the Secretary of State for India in Council)の支援のもとに刊行されるという恩恵に浴した。今回の、大幅に増補され改良された本書も、同じ特典を享受している。初版が世に出たのは 1872 年の夏である。それが、二人の卓越したドイツのサンスクリット学者 Otto Böhtlingk と Rudolf Roth とが、Berlin の A. Weber 教授をはじめとする多くの高名な学者たちの助力を得て編纂した、かの偉大な全七巻のサンスクリット・ドイツ語大辞典——当時はなお व v の字の冒頭までしか完成していなかった——に対してどれほどの負債を負うているかは、私が序文において十分に認めたところである。
しかしながら、私自身の著作の 構想(plan) が全く独創的なものであることに鑑み、私はあえてこれを、かの偉大なサンスクリット・ドイツ語辞典(Wörterbuch)に基づくものと称することはしなかった。その構想については、私はただ独りその責を負うものであると主張した。その細部のすべては私自身の頭のなかで考え抜かれたものであり、そして著作全体は、五人の相次ぐ助手たち——その名は然るべく記録されている——の協力を得て、私が Oxford 大学の Boden 講座教授に選任された日から約十二年のうちに、私の手で完成へと導かれたのである。
辞典に収められた語とその語義とが、編者たちの専有に属するものであることは、ほとんど証明しえない。辞典が独創的な著作と呼ばれる最も正当な根拠を与えるのは、語と語義との単なる集積ではなく、それらを扱い、配列する方法なのである。
こう述べることによって、私は自分の方法が、かの二人の偉大なドイツのサンスクリット学者の方法に優越すると主張しているのではない——彼らの方法にはもちろん、それ自身の長所がある。また、その仕事に体現された産業と学識との巨大な記念碑に対して、私および他の辞書編纂者たちが常に捧げたいと願っている賛嘆の献辞を、いささかも減じようとするものでもない。私はただ、全く独自の構想に立つサンスクリット・英語辞典を作り上げたという私の主張——その構想の有用性は、いまや経験によって証明された——を繰り返しているにすぎない。
私の書物の初版は、千部を超えて刷ることは望ましくないと考えられた。それが——出版価格が必然的に高かったにもかかわらず——数年で売り切れてしまった。そこで、辞典に対する持続的な需要をいかにして満たすべきかが問題となり、理事会は、写真石版法(photo-lithographic process)によって製作される補足的な複製版によってこれに応ずることを決定した。この方法で印刷された本は、その後今日に至るまで入手可能である。もとより私は、こうして与えられた、私の辞典の〔p. vi〕実際的有用性についての事実上の証拠に大いに満足した。しかも、多くの賛辞に満ちた書評や紹介とともに、とりわけドイツのサンスクリット学者たちの手によって、いささかの不利な批評をも受けたことを思えば、なおさらである。
そのような批評が私を落胆させたわけではない。それどころか、自分の書物が絶版になりそうだと気づくやいなや、私は、まさに同じ一般的構想に立ちつつも、しかし当を得たと思われる批判的非難の光に照らして原著を改善しようという真摯な決意をもって、新版の準備にとりかかったのである。そしてここで直ちに認めておかねばならないが、この努力において私は、この新たな企ての初期段階における私の最初の協力者であった Strassburg 大学の Ernst Leumann 教授から、貴重な示唆を受けた(p. xxxi 参照)。しかしながら、記録にとどめておくべきは、Leumann 教授の協力以前にすでに私が次のことを発見していたということである。すなわち、初版刊行以来、印刷されたサンスクリット文献およびサンスクリット学に関わる著作の数が大幅に増加したため、私が旧著の単なる「温め直し(réchauffé)」を——たとえ私自身の間挿本(interleaved copy)や同学のサンスクリット学者たちの寄与から、どれほど多くの追加を加えたにせよ——作り出すという考えは、全く成り立たなくなっていた、ということである。それは全体を初めから終わりまで書き直すことを必要とするものであり、全く新しい辞典の製作に等しい、恐るべき仕事であった。この仕事に私が独りで着手したのは、少なくとも二十年前のことであり、そしてこの著作が、その庇護のもとに開始され、その援助のもとに印刷されたのは、ひとえに India Office 当局のおかげであるから、私はその刊行が予期せず遅延した原因を説明しておかねばならない。
正直のところ、私は告白せざるをえない。私が第三の辞書編纂者としての生涯に踏み出したとき、私はいささか壮大にすぎる大胆さと、いささか浮ついた楽観とを抱いていたのであり、しかもそれは、私の精力が、サンスクリット講義という通常の職務によってのみならず、他の付随的な諸活動によっても、ひどく試されていた時期のことであった。
後者のうちには、次のことを挙げてよいであろう。すなわち私は、Boden 講座教授としての資格において行なうことを義務と感じていた大学での一連の公開講義のために、インドの諸宗教および諸哲学の研究に身を捧げていた。そして、インドの学識ある人々の精神と、彼ら自身の国において直接に接触することによって、私自身の心に「第一次的(first-hand)」な主題の知識を獲得していなかったならば、私はこれらの研究を遂行すること——ましてやそれを信頼に足るものとして種々の書物に印刷すること1——などとうていできなかったであろう。
こうした理由およびその他の同種の理由から2——相次ぐ二人の副総長(Vice-Chancellor)の同意と賛同を得て、しかも自費をもって——私は三度にわたってインドへの航海を企てた(1875–6 年、1876–7 年、1883–4 年)。そして私の旅は Bombay から Calcutta およびチベットとの境界にまで、また Cashmere から Madras および最南端に至るまで、さらには Ceylon 島における仏教の主要な本拠地をも含めて、広がったのである。
1 これらの書物のいくつかは本辞典中で言及されている。たとえば『ヒンドゥー教(Hindūism)』(S. P. C. K. 刊、第13版)、『バラモン教(Brāhmanism)』等——『インドにおける宗教思想と生活(Religious Thought and Life in India)』とも呼ばれる——(Albemarle Street の J. Murray 氏刊、第4版、RTL. と略称)、『インドの叡知(Indian Wisdom)』(Great Russell Street の Luzac 商会刊、第4版、IW. と略称)、『仏教(Buddhism)』(同じく Murray 氏刊、第2版、MWB. と略称)がそれである。
2 そのうちの一つは、私自身の大学である Oxford において、インド研究の振興のためのインド学院(Indian Institute)を創設したことである。もう一つは、有能なインド人が我が大学で学業を修めることを可能にするための六つの政府奨学金を設立するよう、インド政府に働きかけたことである。
いずれの機会にも、私は当時の総督および現地諸政庁から心からの援助を受けた1。またいずれの機会にも、広大な地域の各地に散在して、私のかつての同窓生や教え子たちが巨大な州を統治しており、私の調査に喜んで協力してくれるのを見出した。そしていずれの機会にも、私は驚いたことに、学識と思慮に富む現地の人々に——都市や町においてのみならず、辺鄙な村落においてさえも——出会った。彼らは自らの土語のみならずサンスクリットによっても私と会話することができ、またそれを望み、彼らの言語・文学・宗教・哲学における難解な点を説明してくれたのである。
これらのインド旅行が、私自身の知識の視野を広げ、辞典を改善する力を増大させるうえで大いに価値のあったことは、十分に信じてよいであろう。しかし同時に、それが辞典の継続的な遂行を中断させたことも、告白せねばならない。
そして実際のところ、私の最後の辞書編纂者としての生涯がこのように断続的な性格を帯びていたために、生前にそれを完成することはほとんど絶望的であったにちがいない。もし私が、相次ぐ助手たちおよび協力者たちの有能な援助を得ていなかったならば。彼らの協力に対しては、後に(p. xxxi)感謝をもって謝意を表するが、そのうち C. Cappeller 教授の協力は、この仕事のはるかに大きな部分に及んでいる。
そして、私の外見上の遅延を弁明するために述べるべきことは、これだけではない。さらに一層避けがたい遅延の原因は、予期しなかったほどの労力の量であった。これについては序説において十分に説明されている(p. xvi 参照)が、ここで簡単に述べておけば、それは、初版の推定語数である約 120,000 語に約 60,000 のサンスクリット語を追加すること、新資料を同一の語源学的構想に従って旧資料のなかに嵌め込むこと、新旧の語義を検証すること、文献および典拠への参照を挿入することによってそれらを裏づけること、通常アクセントが付されるほとんどすべてのサンスクリット語にアクセントを付すこと、印刷校正刷りを校訂し再校訂すること——こうした作業から成っていたのであり、かくしてついに、原本の刊行から四半世紀以上を経て、事実上新しい辞典が世に送り出されるに至ったのである。
もとより、我々の共同の努力の結果に完全性を求めるのは、無理というものであろう。誤りを犯すという人間の性向についての法則は、いかなる種類のものであれ新しい方法の展開にとりわけよく当てはまる。また、本書の不完全さが、どれほど眼光鋭い批評家たちにとってであれ、編者たち自身にとってよりもよく知られるということは、およそありそうにないことである。
ある有名な辞典の著者について、次のように言われている。批評家たちがそこに見出した誤りの数は、彼にとっては苛立ちの種というよりはむしろ満足の源であった、と。著作が大きければ大きいほど、誤りを含む可能性は高い、と彼は断言した。そして、そうした誤りに対する酷評は、しばしば、偉大な業績の全体としての価値を捉えることのできない狭量さの徴候である、と。
Chidrānveṣin(粗探しをする者)の類の批評家をやりこめるこの便利な手段に訴えることなく、また本辞典の
1 三人の副王(Viceroy)は Lord Northbrook、故 Lord Lytton、および Lord Ripon である。1883–4 年に Calcutta の総督官邸(Government House)において私を客として迎えてくださった Lord Ripon に対し、また 1875–6 年の Prince of Wales 訪印の折に Belvedere の総督官邸において私を迎えてくださった Sir Richard Temple に対し、さらに 1884 年に Bombay の総督官邸において私を迎えてくださった Sir James Fergusson に対し、私は深い感謝の念を負うている。
全般的な信頼性についての正当な自信を一分たりとも減ずることなく、しかもなお、その編者たちは、本書が徹底して人間的な性格をもつことを鋭く自覚しうるのである。
私自身について言えば、長きにわたる企てが完成に至るのを見ることを得させてくれた長寿への感謝の念と混じり合って、私が自らを無謬と見なしうるほど若くはないという深い自覚がある、と申し上げてよい。実際、真の学者たるものすべてにとって、年を重ねるにつれてますます自らを教師ではなく学徒であると告白せざるをえなくなり、また自らが学徒の誤りを犯しやすいことをますます病的に意識するようになるということは、喜びであると同時に悲しみでもある。
真の学者たちすべてからの批判を、私は恐れるのではなく、むしろ求めるものである。そうした批評家たちは、責任の感覚が年齢とともにいかに増大し、著者を自らの業績に対する自惚れから引き離し、ますます強度を増す不可能な完全性への渇望をもって彼を満たすものであるかを、理解してくれるであろう。彼らは、これほど多くの密に印刷された頁——しばしば途切れることのない密集した活字の欄が幾欄も続き、数えきれぬ点や区別符号に満ちている——を製作するにあたっての困難に対して、正当な斟酌をしてくれるであろう。また、幾年にもわたって続けられた努力を表わす著作において、遂行の出来映えに時として不揃いがあることに驚きもしないであろう。また、時折の気の散り、健康上の苦難、精神の疲労が、長期にわたる企ての責任ある長にとってのみならず、その数人の助手たちにとっても不可避的に付随するものであることを、彼らに思い起こさせる必要もないであろう。実際、これほど多くの異なった個性の協働の結果である編纂物が、それぞれに固有の特異性や弱点を、ある程度反映せざるをえないことを認めることは、この著作の細部に寄与した人々に対して何ら不名誉となるものではない。
しかしながら、こうした事情に然るべき重みが与えられることを望みつつも、次のような確信をもった期待を表明することを、私はお許しいただけるであろう。すなわち、いまサンスクリットおよび比較言語学の学徒たちに提供される本書は、彼らに、これまでに作られたもののなかで最も完全かつ有用な一巻本のサンスクリット・英語辞典を提供するものであり、しかもその辞典は、その漸進的な進捗のうちに、その時々の知識と学問の進展に歩調を合わせてきたものと信ずる、ということである。
いずれにせよ、私は、協力者たちのためにも、また私自身のためにも、次のことを断言してよいと確信する。すなわち我々は、この新しい一巻本に、旧版におけるよりも一層、四つの主要な特質を確保しようと真剣に努めたということである。それは次のとおりである。——1. 学問的正確さ。2. 実用的有用性。3. 配列の明晰さ。これは、この言語の語源的構造と、それがヨーロッパの同系諸言語の構造に対してもつ関連とを、可能なかぎり明瞭に提示することを目指したものである。4. 完全性と包括性。少なくともサンスクリット研究の最新の状態において到達しうる最大限まで、また一巻への凝縮と圧縮とに両立しうる極限まで。
そしてここで、助手たちに対しても私自身に対しても公平を期するために、次のことを申し述べておくのが私の務めである。すなわち、構想についてのみならず、辞典全体の一般的性格についても、第一義的な責任を負うべきは私である、と。このことは、私が最初から両版の細部にわたって厳密な監督を行なってきたと述べれば、理解されるであろう。すなわち、原稿を注意深く監督したのみならず、新しい語を追加し、語義を修正あるいは敷衍し、私自身の文献ノート——インドの主要な学問の中心地に滞在中に作成したもの——から説明を付加し、すべての校正刷りを検討し再検討したのである。
しかしながら、時折の病の襲来のあいだには、私は〔p. ix〕他の時よりも協力者たちに多くを委ねざるをえなかったことを述べておくべきである1。また「追補(Additions)」に関しても例外を設けねばならない。その分量の多さは、その多くがごく最近に刊行された文献や書物から採られているという事情によって正当化される。というのも、補遺の頁に収められたすべての語と語義との手稿リストは私の承認を得るために提出され、リスト中の多くの語は私によって削除され、他方また他の語は私自身のノートから追加されたのであるが、しかし最も厳しい冬の数か月を南方の気候のもとで過ごす必要があったために、私が残存を許した追加項目のすべてを検証するのに必要なあらゆる新刊書を手もとに置いておくことは、不可能であったからである。
私が長年にわたり何も言わずに甘受してきた、ある厳密に個人的な批判に関しては、いまや私の生涯の終わりに近づいた以上、簡単な説明をしておくのが得策であろう。私の批評家たちの幾人か、また率直な友人の幾人かは、私が Boden 講座教授としての長い在任期間の多くを、辞典や文法書を書くという乾いた、味気ない、感謝されることのない苦役に、またインドの現地における Pandit たちのあいだでの実際的研究に捧げ、これまで校訂も翻訳もされたことのない難解なサンスクリット文献を校訂ないし翻訳することによって、私の学識の深さと高い教授職を占めるにふさわしいことを証明する務めを果たさなかったことに、驚きを表明してきた2。
これを説明するために、私が Boden 講座の第二代目の占有者にすぎないこと、そしてその創設者である Boden 大佐が、その遺言(1811 年 8 月 15 日付)において、彼の寛大な遺贈の特別の目的は聖書のサンスクリットへの翻訳を促進することにあり、それは「自らの同胞がインドの現地人をキリスト教に改宗させる仕事を進めうるようにするため」であると、きわめて明確に述べていたこと3 に注意を促さねばならない。
私の傑出した先任者にして師でもあった H. H. Wilson 教授が 1832 年にこの講座の候補者となったとき、彼の辞書編纂上の業績がその選任に対する主要な資格として掲げられたのは、まさにこの理由によるものであった。
されば、私が敬愛する師の足跡に従って、我らの聖なる聖書のサンスクリットへの翻訳のための便宜を提供すること4、そして
1 辞典がこの原因によって大きく損なわれたとは、私にはとうてい考えられない。ただ、故 Dr. Schönberg の協力の期間についてだけは、あるいはそう言えるかもしれない。彼の能力の急速な衰えに私は初めのうち気づかず、そのために私の側でより一層の警戒が必要であることを悟らなかったのである(p. xxxi 参照)。
2 私の理解するところでは、アルプス登山者が登山家としての名声を確立するためには、比較的取るに足りないものであれ、これまで誰も登ったことのない何らかの頂を極めねばならない、とされているらしい。しかしそうした原理を今日において適用することは、ギリシア語やラテン語におけると同様、サンスクリットにおいてももはや通用しない。いずれにせよ、そのことのみを根拠として卓越した学識の名声を主張する者は、インドの Pandit たちと彼ら自身の国において交わってみるがよい。そうすれば、そこでは自らの知識と学殖について、はるかに厳しい証明が求められることを知るであろう。
3 Bombay 現地人歩兵隊の Boden 陸軍中佐は、1807 年に英国へ帰還し、1811 年 11 月 21 日に Lisbon で死去した。その娘は 1827 年 8 月 24 日に死去し、それによって彼の遺贈は Oxford 大学に移ったが、講座への最初の選任は、私には分からない何らかの理由により、1832 年まで行なわれなかった。
4 Boden 講座選挙人団に対して自らの選任を提案する演説において、H. H. Wilson 教授は、「聖書の用語をサンスクリット語に移すこと」のために自分が成し遂げたことを強調した。彼が選任された後、私に英語・サンスクリット辞典——それまで誰も試みたことのない仕事——の編纂を強く勧めたのは、疑いなくこの理由によるものであった。私はこの仕事に約七年間従事した。そしてその成果(1851 年に East India Company 理事会によって一巻の厚い書物として刊行された)は、遺憾ながら今日の必要を満たすものとは言えないであろうが、しかしそれが 開拓的な仕事(pioneering work) であったことは銘記されるべきである。またそれが無用であったとも言えない。というのも、その刊行から七年後、聖書のサンスクリット訳者にして Dr. Yates のサンスクリット辞〔p. x 下段:注 4 の続き〕典の編者である Rev. J. Wenger 師から、その有用性についての次のような証言が自発的に寄せられたからである。——「私は Monier Williams 教授の英語・サンスクリット辞典を、旧約聖書の一部のサンスクリット訳に着手しようとしていた時期に受け取った。私はこの七年間、日々それを用いてきたが、参照すればするほど、それが優れたものであることを知った。彼は、何が実現しそうかについての私の従来の考えを超えたのみならず、現在において何が実行可能かについての考えをも超えて、成功を収めたと言わざるをえない。私が雇っている Pandit たちも同様に、その書物が示す労苦と博識に対して、無条件の賛嘆を表明している。Benares の Rev. J. Parsons 師は、ここ数年新約聖書のヒンディー語新訳の準備に従事しているが、同じく M. W. 教授の著作から実質的な助力を得ている。インドの宣教師たちは概して、彼に大きな恩義を負うている。」——付け加えておきたいのは、本サンスクリット・英語辞典が、半世紀以上前に私が編纂に着手したものよりもはるかに満足すべき英語・サンスクリット辞典の編纂のための材料を、いずれかの若い学者に提供することを、私が希望しているということである。
インドの諸宗教および習俗についてのより良き知識を促進すること——これこそが、我らの偉大な東方属領の宗教的必要を知るための最良の鍵である——を、私の教授としての生涯の主要な目的としてきたとしても、驚くべきことと考えられる必要はないであろう。1860 年の選任後に私が行なった最初の公開講義は、「インドにおける宣教事業との関連におけるサンスクリット研究(The Study of Sanskrit in Relation to Missionary Work in India)」と題するものであった(1861 年刊)。
その他の点については、本辞典がインド諸政庁の支援から得た恩恵にはすでに触れたが、ここで感謝をもって認めておくべきは、相次ぐ国務大臣たちによって与えられた助成金なくしては、本書が現在提供されている価格で公衆に販売されえなかったであろう、ということである。Oxford 大学出版局に関しては、本書がその効率性と資源の豊かさとを示す数えきれぬ証拠の一つを加えるものである、と言えば十分であろう。しかし、Pembrey 氏という比類なき東洋学の校正係を擁するというその幸運について、理事会および総監(Controller)に祝意を表することは、私に許されてよいであろう。四十年以上にわたり、彼は私のすべての書物の最終校正を読んできた。そして私は自らの経験から、誇張なしに断言することができる。著者と印刷者との双方の不注意に由来する誤りを見出す技術を彼が到達させた完璧さにおいて、彼を凌ぐ者があるとは思われない、と。
最後に付け加えるべきことはただ一つ、原辞典の構想の独自性については私が単独で責任を負っていたので、初版には序論的説明のいくつかの節を冠しておくことが望ましいと考えた、ということである。同様に、この新しい著作の製作における私の主導的地位は、新たな一連の説明を執筆する責任を私が負うことを必要とする。そこにおいて私は、従来の方法の主要な線に沿って進み、有益に保持しうる旧来の記述のいかなる部分をも捨てないことが望ましいと考えた。
Indian Institute, Oxford, 1899. MONIER MONIER-WILLIAMS.
私の父が長年の労苦を捧げたこの辞典は、1899 年 4 月 11 日、南フランスの Cannes において訪れたその死の数日前に、父の手によって完成された。父は、英国への帰国後まもなくこの著作が刊行されるのを見ることを希望していた。この願いは叶えられなかったけれども、最終校正が父の最後の訂正を受けていたこと、そしてこの書物が父の死後数週間のうちに大学出版局から刊行されるであろうことを知りえたのは、父にとって満足であった。
M. F. MONIER-WILLIAMS.
1899 年 5 月 4 日