← 研究資料に戻る

Monier梵英和辞典

Sir Monier Monier-Williams: A Sanskrit-English Dictionary (Oxford 1899) 和訳付

← 検索ページに戻る 目次 序文 序説

序説

Monier Monier-Williams, A Sanskrit-English Dictionary, New Edition, Oxford, 1899, pp. xi–xxxvi.

INTRODUCTION.(序説)

SECTION I.(第一節)

1872 年の Monier-Williams サンスクリット・英語辞典において初めて導入された独特のサンスクリット辞書編纂法に至った経緯についての陳述。

本書の構想が次第に形成されていった経緯を明瞭に説明するためには、その最も初期の起源にまで遡り、初版の序文で私が述べたことを繰り返さねばならない。すなわち、Boden 講座における私の先任者 H. H. Wilson 教授は、かつて、この言語のすべての語を約 2,000 の語根のもとに学問的に配列したサンスクリット辞典を編纂しようと意図し、その計画の遂行にあたって実際にいくらかの進捗を見ていた、ということである。言語のかかる学問的配列は、疑いなく最高級の学者たちによって十分に評価されたことであろう。しかし結局のところ、彼は自らその遂行を果たしえないことを悟り、それを、旧 East India College(Haileybury)におけるサンスクリット教授としての在任中、私が余暇に取り組むにふさわしい対象として私に託したのである。さらに彼は、彼の新しい辞書の草稿と、彼自身の著作を豊かにするために意図して(彼の指示のもとに Calcutta の Pandit たちによって作成された)用例と引用の豊富な選集を収めた大部の手稿本とを、寛大にも私に譲り渡してくれた1。私が自らの英語・サンスクリット辞典(1851 年刊)を完成するやいなや、こうして私に委ねられた仕事に喜んで着手し、他の企ての合間を縫って、1858 年 1 月 1 日の旧 Haileybury College の廃止に至るまで、実際にしばらくのあいだそれを続けたのは、こうした事情によるのである。

私の先任者が語根配列の辞書という彼の計画を私に譲り渡すに至った一つの考慮は、Boden 講座に選任された以上、そのような著作の精緻な仕上げは、Boden 講座がそのために創設された実際的な目的とは両立しない、と彼が感じたことにあった2

かくして彼は、彼の最初の辞典の第二版の増補3 に注意を向けることを選び——そして私の考えでは、それは賢明な選択であった——、その遂行の仕事を、彼は結局、著名なサンスクリット学者である故 Goldstücker 教授に委ねた。あいにく、この卓越した東洋学者はその発想のいくつかの点で著しく非実際的であり、Wilson の辞典を増補する代わりに、それをあらゆる種類の論考や論争的議論を含むサンスクリット学の広大な百科事典へと変えはじめた。彼は自らの著作の 480 頁の印刷を終え、それは ariṃ-dama の語(本書 p. 87)にまで達したところで、早すぎる死が彼の辞書編纂の労苦を断ち切った。

私自身の歩みについて言えば、1860 年に彼の後を継いで Boden 講座に選任されたとき、同じ考慮が私の場合にも働いた。

私はまた、全面的に語根配列による辞典という理論的には完全な理想を、合理的な範囲内に圧縮しうる、より実際的な仕上がりのために放棄せざるをえないと感じた——とりわけ、Böhtlingk と Roth のかの偉大なサンスクリット・ドイツ語大辞典が、英語圏の普通のサンスクリット学徒には手の届かないほどの規模に膨れ上がりつつあることを、久しく知るようになってからは。

それにもかかわらず私は、Oxford における私の古典学の訓練が私の心に強く刻み込んだ一つの考えを、全く放棄することはできなかった。すなわち、サンスクリット辞典の第一の目的は、明晰な語源的配列によって、ある言語の構造を示すことにあるべきだ、という考えである。その言語は、周知のようにギリシア語の姉にあたるのみならず、ギリシア語の構造の、さらには Ārya すなわち印欧語族の他のあらゆる成員の構造の、最良の手引きでもある——要するに、比較言語学という学問の、まさに要石をなす言語なのである。これこそが実際、私がこれから示そうとする、そして最終的に実行に移した構想を決定する主要な要因であった。


1 これは、私が Indian Institute, Oxford に寄贈した図書室に見出されるであろう。

2 その主目的は実際には宣教的なものであった。このことは、本書の序文(p. ix)において、また私が A. Constable 商会刊の『旧 Haileybury College 回想録(Reminiscences of Old Haileybury College)』に付した H. H. Wilson の伝記において示したとおりである。

3 彼の最初の辞典は 1819 年に刊行され、第二の辞典は、彼が Boden 講座教授の候補者であった 1832 年に刊行された。



原本 p. xii

そしてこの関連で私が述べようとすることをより明瞭にするためには、まず冒頭において次の事実に注意を促しておくのがよいであろう。すなわち、Hindū 人は、ギリシア人を除けば、言語の展開を支配する一般法則を独立に、しかも真に学問的な仕方で探究したおそらく唯一の民族である、ということである。

それらの法則の作用において働く総合的過程は、saṃskaraṇa「組み合わせること」と名づけてよいであろう。これによって私が意味するのは、最高の型に属する言語(Saṃskṛta と呼ばれる1)におけるあらゆる単語は、まず第一次的な Dhātu——通常「語根(Root)」と訳されるサンスクリットの術語であるが、語であれ岩石であれ生物であれ、あらゆる原初的構成実体に適用しうる語——から展開し、しかるのちに、そのように展開したうえで、他の基本的構成要素との結合による「組み合わせ」の過程を経る、ということである。

さらに、「組み合わせ」の過程は、当然、その逆の過程、すなわち vyākaraṇa の可能性を含意する。これによって私が意味するのは「解きほぐすこと」あるいは「分解」であり、換言すれば、語根から展開したあらゆる語をその構成要素へと還元することである。したがって、これらの総合と分析の過程を提示しようと努めるにあたって、我々はあたかも化学者のごとく、基本的物質を結合して固体形態を作り、また再びそれらの形態をその構成成分へと解体する作業に従事しているように見える。

それゆえ私には次のように思われた。語根展開の法則、およびそれに伴うあらゆる語の総合と分析の過程——これらはサンスクリットという言語のかくも顕著な特質をなしている——を解明するのに最も適した辞書編纂の体系を決定するにあたっては、サンスクリットの語根に固有の性格を常に念頭に置いておくことが重要である、と。この固有性は、サンスクリットに連なるいわゆる Ārya 語族の全体を通じて辿ることができ、通常 Semitic と呼ばれるもう一つの偉大な語族から、それらを鋭い一線をもって画するものである2

さてここで、Ārya という名のもとにいかなる諸言語が含まれるべきかという問いを発せられるならば——本辞典は、1872 年に最初に刊行された際、Ārya 語族の主要な成員のあいだの比較を導入しようと試みた、英国人学者による最初のこの種の著作であったのだから、この問いは当然、冒頭において(in limine)答えられるべきである——私はこう答える。Ārya 諸語(そのうちサンスクリットは最年長の姉3、英語は最も若い妹の一つである)は、共通ではあるが名を知られぬ未知の親から生じたのであり、その親の故郷は中央アジアのどこかにあるが、絶対の確実さをもってその場所を定めることはできない。ただ推測としては、Bactria(Balkh)および Sogdiana の地方、あるいは Bokhara および Oxus 川の最初の流路から遠からぬあたりに置いてよいであろう4。この中心から、それが広がるにつれて、八つの主要な言語の系統が放射状に分かれ、それぞれ独自の道を辿り、独自の仕方で展開した。すなわち 二つのアジア系統——(A) インド系。サンスクリット、種々の古代 Prākṛit(碑文の Prākṛit を含む)、仏教聖典の Pāli5、Jaina 教徒の Ardha-Māgadhī、および Hindū 人の近代 Prākṛit すなわち土語、たとえば Hindī, Marāṭhī, Gujarātī, Bengālī, Oriya 等を含む。(B) イラン系。通常 Zand あるいは Zend と呼ばれる Avesta 語、古代ペルシア語すなわち Akhæmenian 語、Pahlavī、近代ペルシア語、およびこれらに関連して Armenian と Pushtu を含む6。——ならびに 六つのヨーロッパ系統——(A) Keltic、(B) Hellenic、(C) Italic、(D) Teutonic、(E) Slavonic、(F) Lithuanian。それぞれが、現在のヨーロッパ諸語に見られるように、さらに種々の下位系統に分岐する。Ārya 諸語のこのアジア的およびヨーロッパ的分岐こそが、それらが Indo-European と呼ばれるに至った所以である。

さてここで第二の問い、すなわちこれらすべての言語を Semitic 諸語から区別する最も顕著な特徴は何かと問われるならば、私の答えはこうである。主たる区別は、その語根


1 Sanskrit という語は、本辞典で採用された転写体系に従って書かれるべき仕方——すなわち Saṃskṛta——で書くことを許さぬほど、いまや英語化してしまっている。

2 Semitic あるいは Shemitic という名は、Assyrian, Hebrew, Aramaic(Aramæan), Arabic, Himyaritic に対して用いられる。それは『創世記』第十章において、Shem がこれらの言語を話す原初の諸民族の父として表わされているからである。すなわち Assur(Assyria)、Aram(Syria)、および Arphaxad——Eber の祖父にして、Eber から Hebrew 人すなわち Trans-Euphrates 系の種族が出た。Hebrew という名は עבר に由来し、本来「(河の)彼方に住む者」を意味する——、ならびに Joktan——南 Arabia に住む多くの部族の父である。また通例、Semitic 諸種族のうちに Abyssinia の人々を数える。彼らの聖なる文語は Ethiopic すなわち Ge'ez であり、話される方言は、北および北東では Tigré、中部および南部では Amharic であって、いずれも南 Arabia(Yaman)の古代 Himyaritic Arabic との親近性を示す。ゆえに概していえば、Semitic 諸語は次の二項に分類しうる。——1.「北 Semitic」——Assyrian, Hebrew, Aramaic を含む。2.「南 Semitic」——Arabic, Himyaritic, Ethiopic を含む。

3 ただし年下の姉妹たちが、時としてより古い形を保存していることもある。

4 一部のドイツの理論家によれば、Ārya 人の揺籃の地は南ロシアの草原にあったという。他の者はそれを空想的にも北ヨーロッパに置いた。しかし大多数の学者は「中央アジアのどこか」という旧来の考えを保持しており、おそらくは Bactria(Balkh)および Sogdiana の地方であろうとする。ただし移住の第二の中心が存在した可能性もある。私自身は、Balkh がかつて Ārya 文明の主要な古代の本拠地の一つであったと固く信じている。その廃墟は二十マイルにわたって広がっていると言われる。

5 Pāli および碑文の Prākṛit については p. xxv, 注 3 を見よ。

6 Avesta——通常 Zend(より正確には Zand)と呼ばれる——については、これは東 Īrān の古語であり、Zoroaster 教徒の聖典、通常 Zend-Avesta と呼ばれる書物が書かれている言語である。これらの書物は Pārsī 教徒——ペルシアからの亡命者であって、インド各地に散在し、いまや我らのインド人同胞臣民のうち最も精力的かつ忠実な部類に属する人々——の聖書にして祈祷書をなすものである。


原本 p. xiii

すなわち語根音の性格にある、と。というのも、Ārya 系と Semitic 系の言語形態はいずれも「屈折的(inflective)」と呼ばれるけれども1、両者における語根の屈折性は、全く異なる二つの過程を含意するのだということを、よく理解しておかねばならないからである。

たとえばアラビア語の語根は、一般に一種の堅固な三子音の枠組であり、三本の直立した、しかし不変の柱に似た三つの子音から成る。その柱は前後に可動であって、その両側に、同じく不変の補助文字を受け入れ、それによって長い派生語の連鎖が形成される。これらの介在的・従属的な文字は、語根の観念に多様な色合いを与えるうえできわめて重要であり、その働きの完璧な精確さは注目に値するが、しかし語根の堅固な枠の内外におけるそれらの存在は、いわば、常に際立って不変の子音の骨格によって、ほとんど圧倒されてしまっている。その例証として、アラビア語の三子音語根 KTB「書く」を取り上げ、不変の三語根子音を大文字で示すことにしよう。三人称単数過去は KaTaBa「彼は書いた」であり、同じ三子音から、一定の補助文字によって、固定した厳格な規則性をもって長い派生形の系列が展開する。その見本を挙げれば——KaTB および KiTāBat「書くこと」、KāTiB「書く者」、maKTūB「書かれた」、taKTīB「書くことを教えること」、muKāTaBat および taKāTuB「互いに書き合うこと」、mutaKāTiB「文通に従事する者」、iKTāB「口述すること」、maKTaB「書く場所、書き方の学校」、KiTāB「書物」、KiTBat「書き写すこと」。

これに対して、サンスクリットの語根は一般に単一の単音節であり2、一個ないし複数の子音が母音と結合したもの、あるいは時には単一の母音のみから成る。この単音節の語根要素は、先に述べたアラビア語の三子音語根のような鋳鉄のごとき固さの性格をもたない。なるほど通常、一つの固定した不変の頭文字をもってはいるが、しかしその一般的性格においては、むしろ可鍛性の物質にたとえられよう。すなわち、打ち延ばされ、あるいは鋳型に入れられて、無数の変化に富む形態となることができ、しばしば元の語根文字の一つないし他を失うほどである。新しい形態は、いわば原初の単音節の鉱石から打ち出され、それらの形態がさらに接頭辞・接尾辞によって拡張され3、それらがさらに別の接頭辞・接尾辞によって拡張され、そのすべてが前置詞によって増強され、さらに他の語との複合によって、また複合語の複合によって拡張され、ついにはほとんど際限のない派生語の連鎖が展開するに至る。そしてこの独特の拡張可能性は、一つには、母音があらゆるサンスクリット語根の独立した構成要素として認められ、その本質の一部をなし、あるいは時には単独で語根そのものをなすという事情から生ずるのである。

たとえば bhū「ある」あるいは「存在する」という語根を取ってみよう。これから、いわば打ち出されて、膨大な派生語の連鎖が生ずる。その若干の例を挙げれば——bhava あるいは bhavana「あること」、bhāva「存在」、bhāvana「あらしめること」、bhāvin「存在する」、bhuvana「世界」、bhū あるいは bhūmi「大地」、bhū-dhara「大地を支えるもの、山」、bhū-dhara-ja「山に生まれたもの、樹」、bhū-pa「大地の守護者、王」、bhūpa-putra「王の子、王子」等々、ud-bhū「立ち昇る」、praty-ā-bhū「手近にある」、prôdbhūta「現われ出た」等4

されば、古い Indo-European の形態の忠実な守護者たるサンスクリットは、これらの顕著な特性を Ārya 語族のいかなる他の成員よりもよく示している。そして決定されるべき決定的な問題は、私の辞典の構想を、それらを最も容易に理解しうるようにするには、いかに配列すべきか、ということであった。

一方において、私は次のことを念頭に置かねばならなかった。すなわち、サンスクリット語の全体が約 2,000 の語根ないし親語幹に還元しうると仮定して5、語根ごとに取り上げ、いわば二千の親の伝記を、その多数の子孫の副次的伝記とともに、その成長と展開の順序に従って書くという構想は、美しい文献学的夢に現実性を与えるものではあろうが、しかしその夢は、辞典を、普通の学生の必要には適さぬ学問的完全性の水準にまで引き上げることなしには、実際的な形をとりえない、ということである。

他方において私は、通常の構想に従ってサンスクリット辞典を編纂すること、すなわち


1 中国語のように不変で「単音節的」な言語、また南インドの Drāviḍa 語や、トルコ語その他の膨大な部類の言語——そこではいわゆる「屈折」はなく、単に接頭辞・接尾辞が語根や語幹に「糊づけ」されているにすぎず、それと密接に融合しておらず、容易に分離しうるので、いわば屈折している——のように「膠着的」な言語に対する区別としての謂である。

2 もちろんサンスクリットに一定数の二音節語根が存することはよく知られている。しかし私はここで Semitic と Ārya の語根を 一般的に 対比しているにすぎない。

3 語根の vikaraṇa は「接頭辞(affix)」と呼んでよく、動詞語尾等は「接尾辞(suffix)」と呼んでよい。

4 この事実の他の例証としては、1. kṛi(p. 300)、1. śru(p. 1100)、1. sthā(p. 1262)を見よ。

5 若干の集成において挙げられている Dhātu すなわち語根形態の数は 1,750 であるが、同じ音をもつ多くの形態が異なる意味をもち、また異なる活用をするため、それらは別々の語根とみなされ、その数は 2,490 にまで膨れ上がる。またこれらの Dhātu の多くは、より単純な要素の変形ないし展開であり、本辞典は、二つ、三つ、あるいはそれ以上の語根のうちどれが最も単純であるかを常に決定してはいないが、語根が同系である場合にはその関連を指示している。おそらくサンスクリットにおける基本的語根要素の真の数は、比較的小さな目録に——ある人々が考えるように、約 120 の原始語根を超えない一覧に——還元しうるであろう。多くのサンスクリット語根は代替的な Prākṛit 形態をもち、あるいはその逆であって、両形態が並存することを許されている。たとえば bhanbhaṇdhandhaṇnṛitnaṭ のごとくである。また、頭に有気音をもつものは有気子音であり、他の有気子音へ移行したか、あるいは有気音のみを保持したものである。bhṛi, dhṛi, dhvṛi, hvṛi, hṛi 等がそれである。さらに、svad のような語根は、おそらく su と語根 ad との複合にほかならず、また stubh, stumbh, stambh のような語根は、明らかに互いの単なる変形にすぎない。


原本 p. xiv

各語を、別個の独立した説明を要する別個の独立した実体として扱うという方式では、サンスクリットのごとき言語の構造、その特徴的な総合と分析の過程、およびそれが Indo-European 語族全体——サンスクリットはその最も古い現存成員である——の構造に光を投ずるうえでもつ重要性について、満足すべき観念を与えるには確かに失敗するであろう、ということをも熟慮せねばならなかった。

それゆえ私は、この困難の最良の解決は何らかの中庸の道——それによって二つの辞書編纂法がいわば織り合わされるような何らかの妥協——にある、という結論に達した。

残るは、この妥協の正確な性質を説明することである。そして私は、本書を用いる前に、これから述べる説明の予備的研究にいささかの時間を割いて道を開く人であれば、誰でも本書の構想を容易に理解しうるであろうと確信する。

SECTION II.(第二節)

本書の構想と配列、および本版に導入された改良についての説明。

まず冒頭において次のことを告知しておく。本辞典には、相互に関連するサンスクリット語の四つの系列がある。——(1) Nāgarī 活字による主系列。Indo-Italic 活字による相当形を伴う1。(2) (Nāgarī の下の)従属系列。太い Indo-Romanic 活字による1。(3) 分枝系列。これも太い Indo-Romanic 活字によるもので、第一ないし第二の系列から分枝し、複合語を一つの見出しのもとに纏める目的をもつ。(4) 分枝系列。Indo-Italic 活字により、主要複合語から分枝し、それらの複合語のさらなる複合語を纏める目的をもつ。もちろん四系列はいずれも通常のサンスクリット辞典のアルファベット順に従う(p. xxxvi 参照)。

第一すなわち主系列、あるいは「Nāgarī 系列」と呼びうるものは、辞典を引く際に眼がまず向かうべきサンスクリット語の主要な系列をなす。それはこの言語のすべての語根(真正のものは 大きな Nāgarī 活字による)、および多くの主要語(小さな Nāgarī による)、ならびに多くの孤立した語(これも小さな Nāgarī による)を含む。後者のうち、あるものは括弧内に語源が示され、あるものはハイフンによって派生が指示されている。

第二すなわち従属系列、太い Indo-Romanic 活字によるものは、二つの目的のために用いられる。——(a) 各語根から生ずる派生語の連続的系列を、あらゆる語根のもとに規則的順序で明瞭に眼に示すため。(b) 参照の便を図るために、語根そのものの下にではなく、一定の 主要 語(小さな Nāgarī による)の下に置かれる同系語の系列を示すため。

第三すなわち分枝系列、太い Indo-Romanic 活字によるものは、一つの主要語のもとに、その主要語と複合するすべての語を纏めるために用いられる。

第四の分枝 Indo-Italic 系列は、一つの主要複合語のもとに、その複合語と複合するすべての語を纏めるために用いられる。

第一は例証を要しない。第二は、क 1. kṛi(p. 300)のもとの、1. kṛit(p. 301, 第3欄)に始まる語の系列、および कर 1. kará(p. 253)のもとの、1. Kāraka(p. 254, 第1欄)に始まる系列によって例証される。第三は、कर 1. kará(p. 253, 第1欄)のもとの複合語の系列、および Kāraṇa(p. 254, 第1欄)によって。第四は、-vīra(p. 253, 第3欄)のもとの複合語の系列によって例証される。

そしてこの四重の配列が当惑を招くおそれはまずあるまい。というのも、本辞典を用いる者は、四つの系列すなわちサンスクリット語の連なりが、それぞれ独自のアルファベット順に従いながらも、頻繁な前後の相互参照によって混乱なく互いに嵌め合わされていることに、すぐ気づくであろうからである。実際、一見して分かるように、全配列を支配する目的は、第一に語根からの語の展開を最も明瞭な仕方で示すこと、第二に、そのように展開した語群が、共通の源から出た一家族の成員としてもつ相互連関を示すことにある。それゆえ、この言語の真正の語根はすべて、大きな Nāgarī 活字によって際立って眼前に置かれ、他方これらの語根から、親語幹からのごとくに展開する語の系列は、太い Romanic 活字で印刷され、語根の下に、あるいは共通の起源という絆によって同じ家族に連なる何らかの主要語の下に、規則正しい継起をもって置かれることによって指示される。またこうした主要語(常に Nāgarī 活字による)の場合、その語源——括弧内に示される——は、その下に置かれた同系語の family 全体に及び、Nāgarī 活字による 新しい語根ないし新しい主要語によって新しい系列が導入されるまで有効である。このようにして語源の重複はすべて避けられ、Nāgarī 活字はきわめて有用な目的に役立たしめられている。

また、意味は異なるが形は同一に見える語が、互いに


1「Indo-Romanic」および「Indo-Italic」という表現は、区別点や区別符号を用いることによってサンスクリットその他インド諸語の表記に適合させた、拡張された Roman および Italic のアルファベットを指すために私が用いるものである。本書で用いられた太い Indo-Romanic 活字は Oxford Clarendon Press の製品であり、それゆえ Clarendon 活字と名づけられている。


原本 p. xv

区別されるのは、Indo-Romanic ないし Indo-Italic の転写形の前に置かれた 1, 2, 3 等の数字によることも分かるであろう。たとえば अशील 1. a-śīla、अशीत 2. aśīta(p. 113)1、1. Āpya、आप्य 2. āpya、आप्य 3. āpya(pp. 142, 144)、बृह 1. bṛih、बृह 2. bṛih、बृह 3. bṛih(p. 735)を見よ。

この言語の語根に関しては、本書においては——意味の点でも、また時制・分詞・そこから展開した動詞形の提示の点でも——これまでのいかなる辞典におけるよりも徹底的かつ網羅的に扱われていることが認められるであろう2

さらに、前置詞を伴って語根から作られるすべての動詞(たとえば अनुकृ anu-√kṛi, p. 31、समभिव्याहृ sam-abhi-vy-ā-√hṛi, p. 1156)は、ギリシア語・ラテン語の辞典で採られている方式に従って配列されている。すなわち、すべての動詞はそれ自身のアルファベット順の位置に求められるべきであって、語根 kṛi, hṛi の下にではない。この方式から生ずる実際上の便宜、およびあらゆる動詞とその意味を派生語と関連づけて示すという大きな利点は、私の考えでは、とりわけギリシア語・ラテン語と同様にサンスクリットを学ぶ学生にとって計り知れぬ益をなし、Indo-European 語族の他の成員の研究への手引きともなる。いずれにせよ、それは本書の独自の特徴の一つをなし、本書に固有の個性を刻印し、他のすべてのサンスクリット辞典から本書を区別するものである。前置詞にかくも富む言語において動詞をこのように再配列する過程——必然的に全く 開拓的な過程 である——に伴う労苦は、それを経験した者にしか理解しえない。

意味の分離については、次の点に注意されたい。先行する意味の単なる敷衍にすぎないものはコンマで区切られ、他方、互いに明瞭に連続しないものはセミコロンで区切られている。したがってコンマは、括弧内の注記に現われる場合を除いて、常に 意味の異なる色合い を標示するものと解さねばならない。

しかしながら、ある語群に属する語の意味が、その群の他の成員から明らかに推し量りうる場合には、必ずしも十分には与えられていないことに注意されたい。これは特に分詞および分詞的形成に当てはまる。

また、意味に関する注記、および記述的・説明的な陳述はすべて ( ) のあいだに、注記中の注記および他言語との比較はすべて [ ] のあいだに与えられていることにも注意されたい。

初版の刊行後まもなく、ある好意的な批評家から、意味と同義語が不必要に増やされていると言われたことがある。しかし文献の諸分野に対する反復的かつ拡張的な適用によって書物が十分に検証されたとき、一見余分に見える同義語がしばしば、特定の文章に適合する精確な意味を与えることが判明した。本版では——紙幅を節約するため——単なる余剰と思われる若干の同義語は削除された。そして、これらの削除のあるものを是認するにあたって、私は時として行きすぎたのではないかと危惧する。というのも、辞典の実際的有用性は、意味の過多によるよりも過少によるほうが損なわれるということを、経験が証明しているからである。

また、以下の頁を一瞥すれば、1872 年版で導入され、本版でも修正を加えつつ続けられた、主要語のもとへの複合語の配列が、全く新しいものであることが分かるであろう。

これらの複合語が多すぎるという異議が唱えられるかもしれない。しかし再び言うが、サンスクリット辞典はこの点で通常の法によって裁かれてはならない。というのも、サンスクリットは、ギリシア語・ドイツ語その他いかなる Ārya 語よりも、複合語を形成する能力を発達させたからである。複合への愛好は、実にサンスクリットの最も特徴的な特色の一つである。サンスクリット辞典から複合語を排除することは、いわばそれを「脱サンスクリット化する」ことになろう。サンスクリットに全く固有の一定の複合語が存するのみならず、文法においては複合がほとんど統語法の位置を占め、種々の複合語の類は、世界の他のいかなる既知の言語におけるよりも精妙かつ詳細に分類され定義されている。学生が Indra-śatru のごとき複合語を Bahuvrīhi として訳すべきか Tatpuruṣa として訳すべきか迷うとき、辞典は当然その困惑を解く助けとならねばならない。それでもなお、紙幅の必要から、有用な複合語の多くが犠牲にされたことは遺憾である。しかしそれらの意味は、構成要素の意味から容易に推し量りうる。たとえば saṃyuktākṣara「複合ないし結合文字」のごとき語がそれである。

本辞典のもう一つの際立った特色は、その頁の到るところに散りばめられた神話・文学・宗教・哲学に関する記事にある。種々の典拠から、とりわけ三度のインド旅行中に作成し、本書の序文(p. vi およびその注参照)に挙げた書物に公刊した私自身のノートの集成は、これまでサンスクリット辞典で扱われたことのない多くの主題について、有益な情報を学生に提供することを可能にした。


1 この第一の場合には、転写形に用いられたハイフンによって二つの形を互いに区別するのに疑いなく十分である。それゆえ紙幅を節約するため、本書の終わりに近づくにつれて数字は時として省略されている(samānā, Sa-māna, p. 1160 を見よ)。

2 しかしながらここで、「Westergaard's Radices」に対する私の当初からの負債を改めて認めておかねばならない。また Whitney の貴重な『語根・動詞形・第一次派生語索引(Index of Roots, Verb-forms and Primary Derivatives)』への言及も欠かしてはならない。


原本 p. xvi

そしてまた、インドの Pandit たちや、彼ら自身の大学で教育を受けた人々との個人的接触、また彼ら自身の町や村におけるあらゆる階層・境遇の Hindū 人との接触から私の得た知識が、本辞典にとって明白な利点であったことも、確かに認められるであろう。それによって私は、他の著作には見られぬ多くの有益な情報を与え、またインドを書物によってしか知らぬサンスクリット学者たちの犯した多くの誤りを避けることができた。

さらに独特の特色は、多数の人名・地名を導入したことである。これは辞典の範囲と限界を不必要に拡張するものとして異議を唱えられるかもしれない。弁明として私は、この点でサンスクリット辞典には、ギリシア語・ラテン語の辞典よりも大きな自由が許されるべきだと主張する。なぜなら東洋のアルファベットには、そうした名前を普通名詞から区別しうる大文字が存在しないからである。

次に、同じく異例なほど多く収められている著作名に関しては、サンスクリット文献はきわめて広大であるから、たとえ——私の見解では——校訂に値するものはほとんど残っていないとしても、ヨーロッパやインドの図書館に写本として存在することが確認された未知の論書や、著名な著作への注釈に注意を促すことは、大いに重要でありうる。

植物および樹木については、植物の名を修飾する形容詞も、また植物そのものの名も、植物学の規則に従って時として頭文字を大文字にすべきである。しかし非植物学者にとっては、正しい用法を判断することがしばしば困難である。それゆえ新版では、名詞にも形容詞にも大文字を用いるほうがよいと考えられ、特に紙幅を節約するため「plant(植物)」という語は省略されている。したがって第二の大文字は、しばしば適切でないとはいえ、その形容辞が植物のものであることを示す記号として役立つ。

同系諸語からの比較が本書の特別な特色をなすことについては、改めて注意を促すまでもあるまい。多くの疑わしい比較は本版から削除された。若干の疑問の余地あるものが残存し、あるいは軽率に挿入されたのではないかと危惧されるが、それらは容易に見出されるであろう(たとえば Ayāsya, p. 85 のもと)。

ヨーロッパ的な礼節の観念に反する、不作法な語や意味の不必要な増加と思われるかもしれぬ点については、それらを挿入せざるをえなかったことを遺憾に思う。というのも、実のところサンスクリットは、すべての東洋語と同様、そうした性格の語に富んでおり、しかもその程度は甚だしく、それらを省略すればこの言語の大きな百分率を切り捨てることになったであろうからである。ある潔癖な婦人が Dr. Johnson に、彼の英語辞典からすべての悪しき語を省いたことを賞讃したところ、彼はこう答えたという。——「奥様、確かに私はそういたしました。しかしあなたはそれらをお探しになっていたようですな。」実際のところ、サンスクリット文献の学生は、時としてそうした語を探さざるをえない。また私は、稀な場合を除いては、そうしなければ人目につかずに済んだであろうものにかえって注意を惹くようなラテン語訳によって、その意味を覆い隠すこともしなかった。

弁明として正当に言いうるのは、インドにおいては両性間の関係は神聖な神秘とみなされ、不適切ないし猥褻な観念を暗示するものとは決して考えられていない、ということである。

以上、本書の全般的構想を説明したので、次に本版に導入されたより注目すべき変更と改良のいくつかを述べておきたい。

まず直ちに言っておくが、Böhtlingk と Roth の偉大な Wörterbuch および前者の後の Wörterbuch で扱われているよりもさらに多くのサンスクリット語の説明を与えることが意図され、しかも、一巻のコンパクトな書物という限界を越えて膨張することを防ぐため、新版の頁数は 150 を大きく上回るほど増やしてはならないと決定されたので、絶えず増加する語——作業が我々の手のもとで進むにつれて、ますます強く採録を迫ってきた語——のための場所を作る方法を考案することは、困難な問題となった。

されば、本版における略記の工夫に厳しい判断を下したいと感ずる批評家があれば、その編者たちが陥った困難がいかなるものであったかを、しばし考えてみられたい。実際の事実——初版におけるよりも約半分だけ多くのサンスクリット語を、単純語も複合語も、扱わねばならぬという驚くべき事実——が明らかになったのは、ただ次第にであった。すなわち、初版におけるサンスクリット語——単純および複合——の数が約 120,000 に達していたと私が計算していたことからすると、新版で扱うべき数は 180,000 を下らぬことが、作業の進行につれて明らかになったのである。それはあたかも、自分の建てた建物の一つを改修するために雇われた建築業者が、もともと 1,200 人しか収容できないように造られた部屋に 1,800 人を詰め込むよう命ぜられたようなものであった。

あるいは、この困難は次のように説明したほうがよいかもしれない。——ある旅行者が世界一周の航海を終えたのち、しばらくして第二の同様の旅に出発する。乗船する船の規則では、


原本 p. xvii

船室に持ち込める荷物の量が限られているだけなので、当然彼の最初の考えは、最初の折に携えたのと同じ箱を持って行くことである。彼はまずその中に持ち物を詰めはじめる。おそらくは以前よりいくらか強く圧縮しながら。しかし彼はすぐに気づく。時の経過が彼の所持品を増やしており、どんなに詰め込んでもそれらを収める余地はできないと。ではどうすべきか。彼は自分の箱をいくらか長く深くすることを許される。しかしそれでもなお十分な余地がない。彼に残された唯一の手段は、あらゆる隙間を埋め、種々の巧妙な工夫によって一つの品を他の品に嵌め込むことによって、この唯一の容器により多くを収めることである。

これは、新版の範囲内に収めねばならなかった膨大な新資料を圧縮する過程で遭遇した困難の一つの例証である。新版の頁は約 1 インチ長くすることができたので、各欄はいまや初版より八行ないし九行多く含み、また書物は厚さにおいて 100 頁分以上(Addenda を加えれば 147 頁分)増した。これらの拡張は相当の追加的空間を与えたが、しかし必要とされたほどには到底及ばなかった。それゆえ、あらゆる種類の収縮・省略・略記の工夫を採用して、著作の完全性を損なうことなく最大限の空間の節約を確保せねばならなかった。この事情は、限られた範囲内でより大きな包括性への必要が次第に強く迫ってきたときに、我々に否応なく強いられた統一性の時折の破れに対する、正当な弁明となることを願う。

こうした手段の必要は、本書の追加資料がいかなる典拠に由来するかをここで列挙すれば、より良く理解されるかもしれない。

第一に(Imprimis)、二人の偉大なドイツの辞書編纂者による全七巻の Wörterbuch の、व v の字に始まる後半部分の全体。次に、Geheimrath von Böhtlingk の後の編纂物における追加のすべて、とりわけその Nachträge。次に、私の初版の間挿本における私自身の手稿 Addenda のすべて1。そして最後に、近年印刷刊行された多くの重要な純粋サンスクリットおよび仏教サンスクリットの著作からの語のほとんどすべて。その大部分は後に名を挙げる。

されば、この新辞典を特徴づける改良を述べるにあたって、第一に挙げるべきは、そこに導入された膨大な新資料であろう。私はやや大まかな計算ののち、それが 60,000 に迫るサンスクリット語とその意味の追加に相当すると、あえて断言する。

さらなる増加は、典拠への参照、および辞典に記録された語と意味が現われる文献箇所への参照を導入したことから生じた。初版で数個の参照以上を控えた理由として私が挙げたのは、豊富な引用が、しばしば前に言及した全七巻の Thesaurus に見出されるのであり、私の辞典を用いる者は誰でもそれを参照する手段を容易に得られる、ということであった。しかし実際には、私の書物の初版の前半部分では少なからぬ語と意味が H. H. Wilson 教授の権威に基づいて収められ、また中ほどから終わりにかけては、私自身が独立に調査した典拠から挿入され、Thesaurus に与えられた引用のいずれにも支持されていないものが、はるかに多かった。その結果として当然のことながら、1872 年の初版刊行後まもなく、私自身の独立した参照がほとんど全く欠けていることが、好意的な批評家によってすら遺憾をもって非難された。

それゆえ当然、私は多数の参照と引用を新版に導入することによって、明白な欠陥を是正しようと決意した。そしてこの決意が実行の過程で成長し強化されたことも驚くにあたらない。実際その程度は甚だしく、60 頁を印刷したのちには、Leumann 教授の協力を得て、その用法についての何らかの典拠を引用するか、あるいはそれが現われる特定の書物ないし文献箇所に言及することなしには、いかなる語も、いかなる意味の系列も与えないことに決したほどである。

さらに、あらゆる場合に、単に特定の書物のみならず、各語が見出される章と行までを参照によって指示し、時には全文章を引用すべきではないか、という問題が生じた。実際これは、後に見られるように、時として行なわれてきた。しかしすぐに明らかになったのは、サンスクリット文献の膨大な豊富さ——ギリシア語・ラテン語をはるかに凌ぐ豊富さ——が、かくも望ましい目的を完全に、あるいは偉大な St. Petersburg Thesaurus におけるほどにも遂行することを妨げる、ということであった——もし私の新辞典を、一巻のコンパクトな書物の限界を越える点にまで拡張しないとすれば。いな、紙幅の必要から、ある語が現われるすべての著作を単に列挙することさえ不可能であることが、すぐに明らかとなった。結局のところ、&c. という記号を用いることが、完全な列挙のすべての目的にかなうことが判明したのである。


1 遺憾ながら、挿入すべき語を書き留める際、私はその出典を引くことを省略した。当時私は、参照を追加することによって新版を改良することを企図していなかったからである。


原本 p. xviii

されば、RV.1 等々は、ある語が Ṛig-veda に始まる全文献——Vedic および Post-Vedic の双方——に現われることを示し、他方 Mn. 等々は、その語の使用が Manu に始まる後代の文献に限られることを意味する、と理解されねばならない。

また、ある語が刊行された文学作品にはまだ見出されず、土着の辞書にのみ見出される場合には、これを文字 L. によって示すことが決定された。

私の権威に基づいて与えられ MW. と標示された語と意味については、その多くを私は注釈書から、あるいは彼ら自身の国において学識ある Pandit たちと交わした会話ののちに作成したノートから採った。というのも、サンスクリット辞典は時として、インドの近代的教育を受けたサンスクリット学者たちによって用いられる重要な近代語と意味をも与えるべきだと、私には思われるからである。たとえば prāṇa-pratiṣṭhā の意味のごとくである2(Additions の Prāṇa, p. 1330 を見よ)。

本版における第三の改良は、真の学者なら誰しも認めるであろうが、アクセントを付した文献に現われる語のアクセント表示である。ただし遺憾ながら、時として偶発的な脱落があり、また相互参照においてはアクセントがしばしば意図的に落とされていることが見出されるであろう。また Pāṇini および Phiṭ-sūtra からのみ知られる多くのアクセントも、意図的に省略された。

アクセントが 標示 されているのは最古の Vedic 文献においてのみであり、後代においては——少なくとも 話される アクセントに関するかぎり——大きな変化を経たにちがいないことは、認められている。そしてこのことから私は、かくも多くの複雑な区別符号を用いる実用的辞典を作るにあたっては、アクセント記号を加えて複雑さを増さぬほうがよいと判断した。それゆえ初版ではアクセント表示はすべて意図的に省略された。しかし、Boden 講座を実際に占めていた期間(1860–1888 年)、上級講義のために Pāṇini の文法を注意深く研究せざるをえなかったことが、私に次の確信を強いた。すなわち、かの偉大なインドの文法家——Vedic および古典文法の双方における主要な権威——がその驚嘆すべき体系を作り上げた時代には、サンスクリットのあらゆる語は、日常語においても Veda においても等しくアクセントをもっていた3 のであり、アクセントの知識はサンスクリットにおける語の意味の正しい理解に不可欠である、と。

そして実のところ、Pāṇini の文法全体は、語とその意味の正しい知識にとってアクセントが重要であるという支配的観念によって、隅々まで浸透されているのである。

たとえば Pāṇ. vi, 1, 201 から我々は、kshaya が「住居」を意味するのに対し、最後の音節にアクセントをもつ kshayá は「破壊」を意味することを学ぶ。また Pāṇ. vi, 1, 205 から、過去分詞としては第二音節にアクセントをもつ datta「与えられた」(dattá)が、固有名詞として用いられる場合には第一音節にアクセントを置く(すなわち dátta と発音される)ことを学ぶ。他方 Pāṇ. vi, 1, 206 により、dhṛíshṭa は、分詞としてであれ名としてであれ、第一音節にアクセントをもつ(p. 519 の dhṛishṭá ではない)。

さらに Pāṇ. vi, 1, 223 および vi, 2, 1 により、すべての複合語はアクセントの位置に応じて異なる意味をもつ。ゆえに Indra-śatru は、アクセントが複合語の後項にあるか前項にあるかに応じて、「Indra の敵」または「Indra を敵とする者」のいずれをも意味する(Indra-śatrú または Índra-śatru。Additions, p. 1321 を見よ)。これらの例をもって、意味に影響を及ぼすうえでのアクセントの重要性を示すには十分であろう。

これがすべての言語に当てはまることは、近代英語辞典においてアクセントが注意深く標示されていることによっても示される。実際、アクセントを一音節から他の音節へ移すことが、しばしば意味に重要な変化をもたらすことは、'gállant' と 'gallánt'、'récord' と 'recórd'、'présent' と 'presént'、'aúgust' と 'augúst'、'désert' と 'desért' といった語に見られるとおりであるから、それ以外でありえようか。またサンスクリットのアクセントが比較言語学に対してもつ意義は、ギリシア語とサンスクリットのアクセントの一致に注目した者には明らかであろう。

されば明らかに、この増補改良された著作においてアクセント表示をすべて省略していたならば、弁解の余地はなかったであろう4。しかしながら、アクセントの付与が本書の全頁にわたって厳密に統一的に扱われてはいないことは認めねばならない。

Pāṇini の体系においては、よく知られているように、アクセントの位置は一般に、彼が接頭辞・接尾辞——動詞および動詞派生語の語尾を含む——に与えた術語名に付された何らかの指示文字によって示される。


1 Ṛig-Veda はいまや英語化した語となっており、簡略のため本辞典では R の下の点は省略されている。

2 遺憾ながら告白せねばならぬが、私はかつてサンスクリットの無味乾燥さについて誤った観念を抱いていたため、時として prāṇa-pratiṣṭhā のごとき重要な近代語の意味を辞典本文で与えることを省いてしまった。

3 アクセントの欠如は、遠方にいる人を呼ぶ場合にのみ許された。Pāṇ. i, 2, 33.

4 言語における正しいアクセントと抑揚の重要性、およびサンスクリットのアクセントがギリシア語のそれに対してもつ意義は、私に強い印象を与えていたので、1881 年にインド政府から Berlin 国際東洋学者会議への代表として派遣された折、私は Pandit Śyāmajī Kṛiṣhṇa-varmā(彼も政府代表であった)に、Vedic 讃歌を正しいアクセントをもって朗誦することにより、Vedic アクセントに関する私の論文を例証してくれるよう依頼した。この Pandit の例証は大いに賞讃されたのみならず、当時の高名な議長 A. Weber 教授および列席の他のサンスクリット学者たちから感謝の言葉をもって受け入れられた。しかしそれは聴衆の一人——著名かつ最も精力的な Royal Asiatic Society の名誉幹事——によって誤解された。この人物は、Pandit の例証的な補足を、Calcutta Review, No. CLXI(1885)に発表され、近年再刊された「東洋学者会議」に関する彼の論文における異常な批評の対象とした。近年私が A. Weber 教授から受け取り、昨年 Asiatic Quarterly Review に印刷された書簡は、その論文中の陳述に我々二人がともに感じた驚愕を表明している。


原本 p. xix

(pratyaya と呼ばれる)。かくして Pāṇ. vi, 1, 163 により、接尾辞に付加された文字 c(ghurac, Pāṇ. iii, 2, 161 のごとく)は、その接尾辞によって形成された派生語 bhaṅgura最後の 音節にアクセントをもつことを示す(たとえば bhaṅgurá)。

Nāgarī 文字で印刷された Vedic 文献においては、アクセントは文字の上下に置かれた一定の短い線によって示される。しかし本辞典では、Nāgarī で印刷された語にアクセントを付す必要はないと考え、Romanic および Italic 活字によるその相当形にのみ付した。通常の Udātta すなわち鋭アクセントは ´ で、より稀な Svarita は ` で標示されている。

またこの関連で述べておくべきは、長母音を示すために長音の韻律記号( ˉ )を用いること(たとえば ā)には、明らかに一つの利点があるということである。それによって、アクセントがそうした母音の上に落ちる場合(たとえば ā́)、その位置をより明瞭に示すことができるのである。

こうして説明した三つの主要な改良に次いで挙げるべきは、複雑かつ密に印刷された頁における語の検索を容易にするために眼に与えられた、機械的補助の増加であろう。これらの補助のうち最も顕著なのは、前版のイタリック体に代えて、語根のもとおよび主要語のもとの派生語、ならびにそうした語のもとの複合語に対して、太い「Clarendon」活字(p. xiv, 注 1 参照)を用いたことである。それによってイタリック体は、複合語の複合語のために留保されうることとなった。

同種のもう一つの改良は、主要語に属する複合語を、それらの語の末尾における連声上の変化に応じて、二つ、三つ、あるいはそれ以上の別々の見出しのもとに分配したことによって達成された。かくして初版では、主要語 Bahis に属するすべての複合語は Bahis(= Vahis)という一語のもとに配列されていた。しかし本版では、これらの複合語は Bahis, Bahiḥ, Bahir, Bahiś, Bahish の五つの見出しのもとに分離されることによって、はるかに容易に見出される(pp. 726, 727 を見よ)。

さらに、有益な変更のうちに数えるべきは、第一項がその主要語から形成されるすべての複合語群において、主要語に代えて短く太い線(必ずしもハイフンを表わすとはかぎらない1)を用いたことである。たとえば pp. 5, 6 の主要語 Agni のごとき項目を取ってみよ。その語から形成される複合語において Agni を絶えず反復することが不必要であったことは容易に分かる。ゆえにいまや Agni-kaṇa, Agni-karman 等に代えて -kaṇa, -karman 等が用いられている。pp. 794–802 の Mahā のごとき項目を参照すれば、この単純な工夫によって節約された空間の程度が窺われよう。

そしてここで認めておかねばならぬが、若干の変更はおそらく疑わしい改良とみなされうるかもしれない。しかし実際のところ、それらが我々に強いられたのは、かの 60,000 の追加サンスクリット語とその意味のための場所を見出す必要からであって、それらを辞典の頁に収めることは——すでに述べたように——至上の義務となったのである。

たとえば、作業の終わりに近づくにつれて、紙幅の必要から、我々はハイフン付きのイタリック体を用いざるをえなくなった。それは下位複合語の場合のみならず(たとえば p. 386, 第3欄の candra-kānta のもとの -maṇi-mayacandrakānta-maṇi-maya を表わす)、前置詞と結合した語のもとに入る複合語の場合にも及ぶ(たとえば p. 977 の 2. Vi-budha, Vi-bhāga のごとき語のもと)。

同じ紙幅の必要から、3. vi(p. 949 を見よ)および 7. sa(p. 1123 の sa-kaṅkaṭa 等のもとを見よ)と複合するすべての語を一括せざるをえなかった。

同じ考慮からまた、我々は小円 ° の使用を英語の語にまで拡張するという新機軸を採らざるをえなかった。もちろんその通常の用法は、サンスクリット語の前半部または後半部が補われるべきことを示すことである。かくして p. 919 の 1. Vapanīya のもとの keśa-v° のごとき語は keśa-vapanīya を表わし、他方 p. 400 の codati のあとの °da, °data, °dasvacoda, codata, codasva を表わす。同様に p. 680 の Pra-dyota のもとの °dyotanaPra-dyotana を表わす。

この便法を英語の語に適用したことにより、大きな節約を行なうことができた。この略記法は、長い項目全体を貫く主要な意味、あるいは 近接して並置された 英語の語にのみ適用されることを理解されたい。たとえば項目 1. rátha(p. 865)の主要な意味である 'chariot' は、その項目の残りでは 'ch°' と短縮され、また一行における 'clarified butter' は次行では 'cl° b°' と短縮される。p. 1195 の sahasra のごとき項目を参照すれば、これによっていかなる空間の利得が達成されたかが分かるであろう。

kalā(p. 261)のもとの -°ṃsa のような場合、° は -°ṃsaa の前置なしには完全な語でないことを示す。その a が与えられていないのは、主要語 kalā の末尾の ā と融合してしまっているからである。

また、短母音と長母音の融合を示すために記号 ⌃ ⌃ ⌃ ⌃(Leumann 教授の示唆により採用)を適用したことによっても、大きな利得が得られた[註:Monierは4種のaccent circonflexe(細い^,右が太い^,左が太い^,太い^)を区別するが,デジタル化できないため,この区別はデジタル化されていない]。かくして一方の記号は二つの短母音の融合を示し(a + aā となるがごとく)、他方の記号は短母音と長母音の融合を(a + āā となるがごとく)、また他方は長母音と短母音の融合を(ā + aā となるがごとく)、さらに他方は二つの長母音の融合を示す(ā + āā となるがごとく)。他の母音についても同様であり、たとえば ea + i に対して、oa + u に対して、aua + ū に対して用いられる(例として p. 303 の kṛitâgni(kṛita + agni)、kṛitôdaka(kṛita + udaka)を見よ)。


1 語全体 に付加されると想定される Taddhita 接尾辞によって形成される若干の複合語は、厳密にはハイフンをもつべきではない。


原本 p. xx

さらなる節約は、語根を表わすために記号 √ を用いたことによって達成された。

またこの新版では、語の素の語幹のあとに置かれた文字 'mfn.' が、すべての形容詞・分詞・実詞の主格形に代えて一般的に用いられている(少なくとも最初の 100 頁以降は)。そうした主格形は性から容易に推測されるからである。しかし ā および ī に終わるほとんどすべての女性語幹もまた主格形であることを念頭に置かねばならない。形容詞が女性形を ī で作る場合には、前版と同様、一般にそれが指示されている。また時として、中性主格形(am)が、一つの性から他の性への変化を標示するうえで眼の助けとなるように与えられている。

略記のための他の工夫はほとんど説明を要しない。たとえば 'name(名)' を表わす 'N.' は名前のみならず形容辞にも適用され、また一連の複数の人物ないし事物に適用される場合には、最初のものを除いてすべて省略される。たとえば 'N. of an author, RV.; of a king, MBh.' のごとくである。

また、数字 1, 2, 3 等は場合によっては落とされ(注 1, p. xv 参照)、また cl. 8 の表示は、よくある語根 kṛi のあとではしばしば省略されている。

最後に、神話に関する記事のいくつかを短縮し、ヨーロッパの同系諸語とのより疑わしい比較のいくつかを省略することが賢明であろうと考えた。

SECTION III.(第三節)

本版に含まれるサンスクリット文献の範囲。

本書の初版の序文——1872 年に書かれた——において私は、ヨーロッパの古典的学識のすべてに通じた人々から、サンスクリットに文献と呼びうるものがあるのか、と時として問われたことがあると述べた。幸いにもその後、インド研究とインドについての知識の普及において大きな前進が達成された。ほとんどあらゆる国の有能な東洋学者の努力と研究がこの結果に寄与したのであり、私は Oxford Indian Institute とその教授・指導教員団が、これをもたらすうえで大きな役割を果たしたと主張したい。

それにもかかわらず、教育あるイングランド語話者のあいだでさえ、サンスクリット文献がインドにおいて占める正確な位置——それとインドの話される土語との関係、およびヨーロッパの文献と比較した場合のその範囲の広大さ——については、なお多くの無知が支配している。それゆえ私は、「サンスクリット文献」という語のもとに何が含まれるべきかを説明する前に、「サンスクリット」という語について私がすでに述べたことを再説することを許されたい。

サンスクリットとは、インドの学識ある言語——その文化ある住民の言語、その宗教・文学・科学の言語——を意味する。それは決して死語ではなく、いまなお国内のあらゆる地方において、Cashmere から Cape Comorin まで、Bombay から Calcutta および Madras まで、教育ある人々によって話され書かれている言語である1。要するにサンスクリットは、私の考えでは、偉大な Ārya 種族のインド支派によってインドにもたらされた言語の学識ある形態を表わす。というのも、実際のところ、インドにおける言語発展の経過は、その歴史の事情が類似していた他の諸国における Ārya 諸語の経過に似ているからである。

移住してきた Ārya 種族の言語は原住民の言語に打ち勝ったが、しかしそうするうちに二つの系統に分かれた。一つは教育ある学識階級が採った系統、他は無学の者たちが採った系統であり、後者はさらに種々の地方的下位系統に分かれた2。疑いなくインドにおいては、教育ある少数者のより強い排他性と、知識の鍵を自らの手に保とうとする誇り高き祭司階級の願望とから、学識階級の言語はきわめて高度に彫琢され、その結果 Saṃskṛta すなわち「完全に構成された言葉」(p. xii 参照)という名を受けるに至った。それは、共通の方言(これに対比して Prākṛta と呼ばれる)に対するその優越を示すとともに、その宗教的・文学的目的へのより排他的な献身を示すものである。とはいえ、インドの土語がもっぱら話される言語であって自らの文学をもたぬというのではない。そのうちのいくつか(たとえば Hindī, Hindūstānī, および Drāviḍa 語族に属し Ārya 語族に属さぬ Tamil)は、価値ある文学作品を生み出している。ただしその主題はしばしばサンスクリットから借りられたものではあるが。

次に、本書のごとくできるかぎりの完全性を目指す辞典が包含すべきサンスクリット文献の種々の部門については、これらは私の著書『Indian Wisdom』(その最近版は Luzac 商会から刊行された)において詳しく扱われている。ゆえにここでは、


1 Pandit Śyāmajī Kṛiṣhṇa-varmā による「インドにおける生きた言語としてのサンスクリット」に関する論文が、1881 年の Berlin 東洋学者会議において彼自身によって朗読され、大きな関心を惹き起こした。彼は、「Pāṇini の Aṣṭādhyāyī において定着せしめられたサンスクリットは、かの偉大な文法家が活躍した当時、話される土語であった」と力強く論じている。同じ論文で彼は、サンスクリットが Prākṛit の源であったと主張し、Vararuci の Prākṛta-prakāśa xii, 2(Prakṛtiḥ saṃskṛtam「サンスクリットが源である」)を引用する。もちろん地方的な Prākṛit は——私の信ずるところ、学識ある言語から直接に派生したのではなく、独立に発展したものであるが——それがかく彫琢されたのちに、サンスクリットから大幅に借用したのである。

2 近年、ロシア語は方言への通常の分岐に例外をなすと印刷物で述べられたが、Mr. Morfill は私に、それが Ārya 諸語のすべての特徴をもち、まず大ロシア語と小ロシア語に、次いで他の方言に分かれると教えてくれる。


原本 p. xxi

サンスクリット文献が Vedic と Post-Vedic の二つの明確な時期から成ると述べれば足りるであろう。前者は古い形のサンスクリットで書かれた著作から成り、それは後代の形に対して、Chaucer の言語が後代の英語に対するのと同じ関係に立つ。

Vedic 文献は Ṛig-veda(おそらく紀元前 1200 年ないし 1300 年ごろに遡る)に始まり、他の三 Veda(すなわち Yajur, Sāma, Atharva-veda)を経て、それらの Brāhmaṇa, Upaniṣad, Sūtra に及び、原初の Ārya 語に最も近い形を示すものとして文献学者にとって最も価値が高い。Post-Vedic 文献は Manu 法典(その 最古の形 においては、おそらく紀元前 500 年ごろに遡る)に始まり、その後の法典の連なりを経て、六つの哲学体系、膨大な文法文献、巨大な叙事詩1、抒情詩・恋愛詩・教訓詩、道徳説話と箴言を含む Nīti-śāstra、戯曲、数学・修辞学・韻律学・音楽・医学等に関する種々の論書に及び、ついには十八の Purāṇa とそれに続く Upa-purāṇa、およびより新しい Tantra に至る。Tantra の多くは、近代インドの神話と民衆的信条の宝庫として研究に値する。実際、限られた心身の力しかもたぬ一個人が、これほど広大な範囲——その範囲のうちに名を挙げうる主題としては、ただ歴史記述のみが例外であって、それを除けば古代世界のいかなる言語よりも多くの文献と注釈、あるいは注釈の注釈を供している——のうちの一部門ないし二部門以上を修得することを望みうるものではない。このことを納得するには、本辞典の頁を一瞥し、そこに挙げられた多数の著作に注目すればよい。それらは、目録が完全であったならば、おそらくインドの Pandit たちが数え上げうると言われる 10,000 という総数から遠からぬ数に達したであろう。

我々を驚かせるのは、その数だけではない。ヨーロッパ諸国のものと比較したインドの文学作品のあるものの長さには、我々は愕然とする。たとえば Virgil の『Æneis』は 9,000 行、Homer の『Ilias』は 12,000 行、『Odysseia』は 15,000 行から成ると言われるのに対し、Mahā-bhārata と呼ばれるサンスクリットの叙事詩は、Hari-vaṃśa と呼ばれる補遺を数えずして少なくとも 200,000 行を含む2。またある主題においては、とりわけ自然と家庭的情愛の詩的描写において、インドの作品はギリシア・ローマの最良の作品と比較しても遜色がなく、他方その道徳的箴言の叡知・深さ・鋭さにおいては比類がない。

それのみならず、Hindū 人は天文学・代数学・算術・植物学・医学において相当の進歩を遂げており、文法における彼らの優越は言うまでもない。それはヨーロッパの最も古い諸民族によってこれらの学問が培われるはるか以前のことである。それゆえ、本辞典の進行中、サンスクリットの辞書編纂者は一種の準全知を目指すべきである、と痛切に思い知らされることとなった。またいかなる従来の大学教育も、少なくとも私の若年時に通例であった程度のものでは、これらの学問的表現——時にはギリシア人から借りられたものではあるが——を正しく説明することを可能にはしない。それらは特別の説明を要するのである。

されば、本辞典にはサンスクリット文献のいかなる範囲が含まれるのか、という問いに答えて、私はこう応ずる。それはあらゆる部門を、少なくとも現在までに校訂された各部門の部分を含むことを目指している、と。

そしてここで、私の確信を率直に記しておかねばならない。すなわち、サンスクリット文献の膨大な範囲にもかかわらず、そのうち校訂ないし翻訳に値する最も重要な部分のほとんどすべては——Vedic であれ Post-Vedic であれ——すでに印刷され、世界の主要な公共図書館において利用可能となっている3

疑いなくインドの哲学文献の広大な領域は、いまだ網羅的に探査されてはいない。しかしその最も重要な論書はインドまたはヨーロッパにおいて刊行されている。イングランドにおいては、我らの著名な学者 Colebrooke、故 Dr. Ballantyne の著作、より最近では E. B. Cowell, A. E. Gough, Colonel Jacob らの著作を満足をもって挙げうる。彼らはみな、この最も困難な、しかし最も興味深い研究部門の解明に寄与した。他方、大陸の学者のうちでは Deussen, Garbe, Thibaut の名が最も傑出している。


1 叙事詩については『Indian Wisdom』の諸章、Clarendon Press から刊行された私の校訂による『Story of Nala』、および私の小著『Indian Epic Poetry』(現在は稀覯)を見よ。

2 故 Bühler 教授は、紀元後 500 年ごろの碑文が Mahā-bhārata を引用し、それを 100,000 頌 を含むものと記していることを示した。

3 この所見を仏教文献に適用するつもりはない。それはきわめて広範であり、一部はサンスクリットで書かれ、多くがなお未校訂・未翻訳である。E. B. Cowell 教授および Mr. Neil によって校訂された Divyāvadāna はその一例である。それはサンスクリット、あるいはむしろ一種のサンスクリット化された Pāli、すなわちサンスクリットの装いをまとった Pāli で書かれている。サンスクリットの装いで書かれた他の仏教文献は、現在、著名なチベット旅行者 Rai Śarat Candra Dās, Bahādur, C. I. E. によって有能に校訂されつつある。私は Darjeeling とその近郊における研究において彼に大いに助けられた。Jaina の哲学文献もまた、多くが未校訂であるが、注目に値する研究分野であり、本辞典では時折しか言及されていない。それは Ardha-Māgadhī Prākṛit およびサンスクリットで書かれており、その解明のために Leumann 教授が優れた仕事をしている。実際、Jaina 哲学文献のサンスクリット形態(現在 Mr. Vīracand Ghāndhī によって Chicago で有能に説かれつつある)は、なおほとんど未探査の研究領域を提供している。さらに、場合によっては純粋サンスクリット文献のより良い校訂本が必要であることも認めねばならない。たとえば Calcutta 版や Bombay 版よりも良い Mahā-bhārata の批判的校訂は一つの desideratum である。かの巨大な著作の南方系統本は、Indian Institute の司書 Dr. Lüders の関心を惹いていると思う。


原本 p. xxii

またいわゆる金石文すなわち碑文の文献においても、なすべきことが多く残されている。この分野では Dr. Fleet、Dr. E. Hultzsch、および F. Kielhorn 教授が実に効果的に労苦している。そして以下の頁において、我々が時折彼らの労苦を活用させていただいたことを申し述べるのは喜ばしい。

Tantra もまた、ヨーロッパの学者によってほとんど全く踏み込まれていない研究分野を提供しており、これらの書物はかつて大きな好奇心を惹き、開拓の有望な鉱脈と思われた。それゆえ私は、インド旅行中、最も普及した Tantra の良質な写本を到るところで探し求めた。それらの最良の見本を、良い印刷版と翻訳によってヨーロッパにおいてより広く知らしめる目的からである。到るところで私は、Rudra-yāmala Tantra が最も高く評価されていると聞かされた1。しかしその内容を注意深く検討したのち、私はそれが校訂にも翻訳にも値しないと判断した(私の『Brāhmanism and Hindūism』pp. 205–208 を見よ)。

翻訳に関しては、『Sacred Books of the East』の長い一連の書物は、翻訳に値するサンスクリット著作の貯水池全体を汲み尽くしたと考えてよさそうに思われる。サンスクリット文献の全範囲が多かれ少なかれ聖なるものとみなされていることを認めるとしてもである。しかしその叢書はなお不完全である2

この点に関する私の意見が正しいと仮定すれば、本辞典については、現在の事情が可能ならしめ、あるいは望ましいとする程度の包括性を備えていると、正当に主張しうると考える。もちろん本書の前半部は、後半部より不完全たらざるをえない。またあらゆる文献部門を等しく徹底的に扱っているとも言えない。しかしその欠陥は、巻末の豊富な Additions によって、かなりの程度是正されていることを願う。

SECTION IV.(第四節)

サンスクリットの表記にローマ字を適用する理由、および本辞典で用いられた転写方式の説明。

本辞典がインドの学識ある人々に受け入れられることを望んでいるがゆえに、私は、他のいかなるサンスクリット辞書編纂者よりも自由にローマ字すなわちラテン文字をサンスクリットの表記に適用した理由を、いささか詳細に述べるにあたって、ヨーロッパの学者諸氏に私の冗長さをお許し願わねばならない。

というのも、Hindū 学者の最も厳格な宗派に属するすべての人々が、彼ら自身の「神聖な Nāgarī」以外のいかなるアルファベットの衣をまとって彼らの神聖なサンスクリットが眼に示されることをも、当然のこととして断固否定するであろうことを、私はよく知っているからである。Na hi pūtaṃ syād go-kṣīraṃ śva-dṛtau dhṛtam「牛の乳が犬の皮袋に入れられて清浄でありえようか」と彼らは叫ぶであろう。我らの神聖な言語の驚嘆すべき構造と、その聖なる音の微妙な区別とが、近代ヨーロッパのアルファベットのごとき、徹底して人間的な、全く非東洋的な文字体系によって正しく表わされうるはずがあろうか、と。

さればまず第一に、ギリシア人・ローマ人および近代ヨーロッパ諸国民によって採用されたいわゆるヨーロッパのアルファベットが、その起源において実はアジア的であって、ヨーロッパ的ではないことを指摘したい。第二に、それが、Brāhmaṇ たちのいわゆる神聖な Nāgarī アルファベットと結びつく一定の特徴をもつことを示そう。いな、それは彼らの尊ぶサンスクリットの表記によく適していること、さらにはその多数の補助的装置、種々の種類と大きさの活字、大文字と小文字、ハイフン、括弧、句読点等によって、来たるべき世紀——それは、新しい秩序、ほとんど新しい世界、新しい種類の生き物が現われるであろうほどの、広大な物質的・道徳的・知的変化を目撃するであろう世紀である——の言語的要求に応ずるうえで、他のいかなる文字体系よりも適していることを示そう。その新しい世界においては、いま国民を国民から隔てている最も根深い偏見と特異性のいくつかは消え去り、あらゆる国民は——兄弟の関係のうちにもたらされて——その親近性と連帯を認めるであろう。

現世紀のあいだにすら、西洋を東洋から隔てる大きな淵は部分的に架橋された。蒸気と電気は、緯度と経度の相違の意味をほとんど破壊した。かつては実際にも比喩的にも互いの対蹠点にあると信じられていた諸国民は、単なる距離の考慮が個人的交際の相互的な交換の障害ではなく、また互いの習慣と思考様式のうち最良のものを採り入れることの妨げでもないと感ずるに至った。

そしてさらに注目すべき出来事が起こった。ヨーロッパは、東洋の諸種族に


1 その一部は Calcutta で印刷されている。

2 この叢書の若干のものの利用については p. xxxii で感謝をもって認めているが、しかし驚くべきことに、49 巻の厚い八折本の長い連なりが、インドの最も神聖な書物である Ṛig-veda の完訳を含んでいない。第 xxxii 巻および第 xlvi 巻に翻訳されているのは 1017 讃歌のうち約 180 にすぎない。全讃歌の連続的英訳が一巻で与えられていたならばよかったであろうに。また第 xlii 巻が Atharva-veda 讃歌の約三分の一しか与えていないこと、および近代 Hindū 教の聖書ともいうべき Bhāgavata-purāṇa が目録に含まれていないことも遺憾である。他方いくつかの巻は、はるかに重要性の低い著作の翻訳を与えており、またあるものは優れた学者によってすでに翻訳された著作の再翻訳を与えている。


原本 p. xxiii

その近代文明の恩恵の若干を分かち与えるにあたって、過ぎし時代にアジアの叡知が彼女に授けた教えに対する正当な返礼をしているにすぎない、ということを認めるに至ったのである。

というのも、ヨーロッパはその聖書とその宗教を東洋の民から受け取ったのではないか。十二進法と六十進法による計数の体系は Babylonia から彼女に来たのではないか。またその貴重な数字記号と十進法の記数法は、Arab 人を通じてインドから来たのではないか。その言語すらも共通の東洋の親に起源をもつのではないか。されば、これらの言語を文字記号によって表わす方法もまた東洋の源から来たとしても、驚くにはあたらない。

なるほど我々は、相次ぐ波となって広がった——アジアではサンスクリットに、ヨーロッパでは Keltic に始まり、両大陸の大部分に及んだ——かの壮大な言語の流れの源泉が湧き出た正確な地点を、絶対の確実さをもって局在化することはできない。また、最初に知られた純粋に表音的なアルファベットの発生地を、疑問の余地なく定めることもできない。しかし、そうしたアルファベットが、紀元前九世紀の中葉に属することが知られている Mesha 王の石碑の Moabite 碑文と同じくらい古い年代の Phœnicia の記念物に刻まれて見出されると主張するとき、我々は確かな地盤に立っている1

もちろん先験的に(a priori)、Phœnicia——古代における交易の主要な中心の一つであり、東西両世界の主要な連絡路であった——が、他国民との商業的取引を遂行するために何らかの文字記号を用いざるをえなかったことは予期されるところであり、また単なる表意文字の体系では彼女の必要には全く適さなかったであろうと推測してよい。しかしこのことは、Phœnicia の碑文における表音記号が、それ以前に流布していた表意文字の原型との連絡なしに、一挙に発明されたことを証明するものではない。そして確かに注目すべきは、Tel-el-Amarna における、古代の Jerusalem 王からの、初期 Babylonia の楔形文字で書板に書かれた書簡の発見2 が、紀元前十五世紀という早い時代に Babylonia 的な形態の表意文字が Palestine および Phœnicia の近隣に存在したことを証明していることである。

しかしながら、Phœnicia の表音文字が Babylonia の楔形記号から発展したと推測する人々は、その仮説を文献的にも金石文的にも満足すべき証拠によって支持しているとは言えない。

また、南 Semitic すなわち Himyaritic の文字3 を Phœnicia 文字の先駆かつ原型とする理論も、十分に明確な証拠に基づいているとは思われない。

他方、エジプトの聖刻文字による表意文字の展開を探究するならば、それらが一定数の表音文字が次第に導入されたいわゆる「神官文字(hieratic)」へと移行したことは確実である。そして Phœnicia が、その海岸にかくも近い国との商業的交際において、あるいはそこに実際に建設された植民地を通じて、きわめて早い時代にこのエジプトの神官文字を知るに至ったことは、大いにありそうなことである。

さらに、『Encyclopædia Britannica』の最新版に印刷された精緻な表、および Oxford の『Helps to the Study of the Bible』——エジプトと Phœnicia の記号を並べて示す——を注意深く比較すれば、Phœnicia 文字とそれに対応するエジプト文字のうち五、六個のあいだに形の一定の類似があることが疑いなく示される。

しかしながら、この比較は決して、すべての Phœnicia 文字がエジプトの原型に由来することを明らかにするものではなく4、また、現存する金石文的証拠が、Phœnicia を世界の進歩における最も重要な要因——純粋に表音的なアルファベット——の事実上の発明者とみなすことに有利であるという事実を無効にするものでもない。

しかしここで、インドの学識ある人が次のように言うのが聞こえるように思われる。——Phœnicia の碑文が、これまでインドで発見されたものより年代的に先行することは真かもしれない。しかし、我々が神からの賜物と信ずるインドの見事に完全な Deva-nāgarī アルファベット5 が、Phœnicia 人のような単なる金儲けの商人の民族の不完全なアルファベットから借用されたのだと、あなたは本当に言おうとするのか。文明と啓蒙の最初の要素は常に東洋に起こり、東から西へ広がったのであって、西から東へではないというのが実情ではないか。そしてもし、一般に認められているように、文字と同じく世界の進歩にとって不可欠であった数の記号がインドに起こり、


1 Phœnicia の碑文は、Phœnicia 語が Hebrew 語と同族であったにちがいないと想定することによって解読されてきた。その年代を絶対の確実さをもって確定することはできないが、それらのあるものが、Jerusalem の少し北東、Heshbon の南の Dibon で発見された Mesha 王の同族の Moabite 碑文よりも古いと信ずべき十分な理由がある。

2 これらの書板のあるものは、Palestine を経て Babylonia とエジプトのあいだに外交的通信が交わされていたことを示す。実際「Babylonia 語」は当時、かつてヨーロッパにおけるフランス語がそうであったように、外交の言語であった。Babylonia の楔形文字による他の書板は、Jerusalem 王が、その宗主権に服していたと思われるエジプトの君主に宛てて書いた書簡であることが判明している。

3 Himyaritic 碑文には二種類、すなわち Sabæan と Minæan がある。

4 Abbé Van Drival がその巧妙かつ興味深い論考『l'origine de l'écriture』において与えた精緻な証明にもかかわらず。

5 p. xxvi, 注 2 を見よ。


原本 p. xxiv

Semitic 諸国を経てヨーロッパに伝わったのであれば、アルファベットも同じ起源と同じ経路をもったとしてなぜ悪いのか。Hindū 人は自ら、自分たちの文法、自分たちの言語学、自分たちの哲学・論理学・代数学・音楽の体系を発明したではないか。これらの主題およびその他の主題について、少なくとも紀元前 600 年には書き記されていたにちがいない膨大な文献をもっているではないか。そしてこの文献の中に、きわめて古い時代のインドにおける文字の存在への言及はないのか。たとえば後期 Vedic 期の Vāsiṣṭha Dharma-sūtraManu 法典1、紀元前 400 年ごろに生きた Pāṇini2、仏教徒の Pāli 聖典——それは書写の学校と書写材料に言及する3——において。さらにまた、紀元前三世紀の Aśoka 王の実際の碑文は、驚くほど完成されたアルファベット記号の体系と、インドの諸地方における多くの変異形を示しており、それに先行する数世紀の発展を前提とするのではないか。そしてもし Aśoka の治世より早い年代のインドの金石文がまだ発見されていないとすれば、それは、石や金属に文字を刻む技術が、その帝国が勅令や下賜文を発する必要を生ずるほど広大であった偉大な Hindū 王たちの出現とともに初めて用いられるようになった、という事情によるのではないか。これらすべてを念頭に置くならば、アルファベットの事柄において何らかの剽窃があったとすれば、その借用は Hindū 人 による ものではなく、Hindū 人 からの ものであったと主張しえないであろうか、と。

こうした問いはしばしば学識ある Pandit たちから私に向けられてきたのであり、それらが決して考慮に値せぬものとして退けられるべきではないことは、告白せねばならない。むしろ全く逆である。そこには、異議を差し挟みえない多くの陳述が含まれている。しかし私の目下の目的は、インドのアルファベットが Phœnicia の源に由来することの争いえぬ証明を提供することではない。むしろ、Hindū のアルファベットが土着起源であると主張する十分な根拠があることを(若干の高名な権威とともに)認めたうえでもなお、それらを構成する文字の多くが Phœnicia のそれとの接点と親近性を示し、したがって Greece・Rome および近代ヨーロッパのそれとの接点をも示していることを、インドの学者たちに指摘することにある。

そしてまず率直に認めておかねばならないのは、古代 Phœnicia の記念物に見出される最初の表音的アルファベットが、決して完全なアルファベット体系ではなかったことである。それは疑いなく表意的段階を越えて進み、ある程度は音節的段階をも越えていた。しかしその表音記号は数において二十二にすぎず、主として子音を表わした。それは、母音記号が子音と同等の地位に高められ、単なる二次的な付加物ではなく対等のものとして扱われるアルファベットの水準には達していなかった。そして今日に至るまで、Phœnicia に連なる Semitic 諸アルファベット——すなわち Hebrew, Aramæan, Arabian——は、ほとんど同様に不完全であり、いわば母音のみが与えうる生き血を欠いた子音の骨格に毛の生えたものにすぎない。

実際、Phœnicia の文字体系の不完全さは、次の事実によってよく示される。すなわち、誰もが認めるように、その初歩的な子音的書法を Phœnicia 人に負うたギリシア人は、それを受け取るや否や(おそらく紀元前 800 年という早い時期に)、その欠陥を是正しはじめ、そこから次第に彼ら自身の真のアルファベット的方法を発展させ、それは結局、Semitic の方法とは逆に、左から右へ流れるものとなったのである。

同様にローマ人も、ギリシア人から Phœnicia の文字記号を受け入れたとき、それを改良する必要を認め、ついにはそこからさらに実際的なアルファベット体系を発展させた。

されば確かに、これら二つの事実に訴えることによって、次のことはありそうにないことではないと言えよう。すなわち、Brāhmaṇ たちと同じ Ārya の血統から出た二つの高度に知的な種族であるギリシア人とローマ人が、Phœnicia 人から若干の初歩的表音記号を受け入れ、それを自国語の表記に適したアルファベットへと拡張することを潔しとしたのであれば、Brāhmaṇ たちもまた、外国のアルファベットを採用することまではしないとしても、少なくとも Semitic 諸種族との接触によってもたらされた修正によって自らの文字体系を改良することを、潔しとしたかもしれない、と。

また忘れてはならないのは、後の時代に Hindū 人が、彼らの土語 Hindī の表記のために、実際に Arabia から Semitic のアルファベットを借用したという事実である5

疑いなく認めねばならぬのは、文字記号の一般的使用の必要についての何らかの圧倒的な確信が早い時代に Hindū 人の心を捉えていたならば、インドはその書写の形式における改良についてすら他国に負うことを承知しなかったであろう、ということである。

しかしインドの最も愛国的な愛国者ですら、Hindū 人が常に文書による伝達よりも口頭による伝達を好んだことは認めねばならない。実際、サンスクリットには膨大な文献が存在するにもかかわらず、我々の英語の 'literature' という語に正確に対応する語は存在しない6。そしてたとえそうした語があったとしても、真の


1 第八巻において、168 の書かれた法的文書が言及されている。

2 彼はその規則の一つ(iii, 2, 21)において lipi および libi の語を挙げている。

3 Bhoj(すなわち樺)の樹皮と椰子の葉が、Muhammad 教徒による紙の導入以前に Hindū 人が用いた主要な材料をなしていたと思われる。エジプトのパピルスやヨーロッパの羊皮紙のような耐久性ある材料——後者はその不浄のゆえに禁じられた——は用いられなかったようである。

4 p. xxv, 注 3 を見よ。

5 このように転写された Hindī は Hindūstānī あるいは Urdū と呼ばれる。

6 Litera「文字」は lino「塗る」に由来し、サンスクリットの lipilip に由来するのと同様である。もし対応する語をサンスクリットで用いるとすれば、lipi-śāstra となるであろう。文字を表わすサンスクリットの語 akṣara は、本来「消えぬもの」を意味し、この意味は、初期における石や金属への碑文のための文字の使用を指し示すように思われる。同様に lekha の第一義は「鋭い先端で引っ掻くこと」である。


原本 p. xxv

インドの Pandit たちは、彼らの聖典の膨大な連なりを指すのに、むしろ Veda あるいは Vidyā(vid「知る」より)、Śruti(śru「聞く」より)、Śāstra(śās「教える」より)、Smṛti(smṛ「憶える」より)のごとき語を用いることを好むであろう。その理由は、Hierapolis の司教 Papias(Dean Farrar によればその年代は紀元後 140 年)と同様、彼らが「書物から出た事柄は、生きた常住の声から出た事柄ほど有益ではない」と考えるからである。またインドの気候が、古代に存在したような書写材料の保存に不利であったことも忘れてはならない。

さらにまた、次のように推測してもよいのではあるまいか。すなわち、アルファベット的書法の発明と一般的普及は、驚異的な記憶力に恵まれ、労苦して獲得した知識の蓄えを備えたインドの学識ある人々にとって、ヨーロッパの手工業者にとっての機械の発明と一般的使用と同じようなものであった、と。それは彼らから、その技を行使する利点と特権を奪うもののように思われたのである。それは黙認されざるをえず、疑いなくキリスト紀元以前の数世紀にわたって行なわれていたが、しかし実際にはあまり奨励されなかった。そして今日に至るまでインドにおいては、その学識を自らの記憶のうちに蓄えた人のほうが、はるかに大きな学殖をもちながらその知識が全面的ないし部分的に書物に由来し、他者への伝達をその助けに依存する人よりも、尊敬されるのである1

それゆえ、次のように想定するのは不合理ではないと思われる。すなわち、アルファベット記号を発明する必要という観念が Semitic 諸種族の心に印象づけられはじめたとき、インドの住民のあいだではそれは、何らかの一つの固定した書写体系の発明ないし一般的採用に至るほど深く根を下ろしてはいなかった、と。実際、かの国の学識ある人々は、書写の技術をあまりに無関心に見ていたので、外国の源からのアルファベット的観念の導入に抵抗することができなかった、というほうがありそうである。

いずれにせよ、ドイツのサンスクリット学者たちが提唱した理論、すなわち表音記号の初期の伝播が、Phœnicia の中心から東方に向かって Mesopotamia およびインドへと、ちょうどそれらが西方に向かってヨーロッパへ伝わったのとほぼ同じ時期、すなわち紀元前 800 年ごろに起こったという理論には、先験的な不可能性は全くない。

それらが伝えられた正確な経路が満足に証明されたと主張されているわけではない。ある人々は——そして私にはそれが大いにありそうに思われるが——それらがギリシア人との接触を通じて導入されたと考える2。おそらくより蓋然性の高い推測は、ペルシア湾を遡った Hindū の商人たちが、Mesopotamia の Aramæan 商人たちと商業的取引をもち、彼らの文字法を知るに至って、その表音記号の若干の知識と使用をインドに輸入した、というものであろう。

この見解は最初、Berlin の学識ある A. Weber 教授の著作において提唱され、近年、故 Vienna の Bühler 教授による『Indische Palæographie』(1896 年刊)の著作において有能に支持された。インドの Pandit たちがこの最も興味深い標準的著作を参照するならば、そこに、既知の最古の Phœnicia 文字を、Mesha 王の Moabite 碑文——前に示唆したように紀元前 850 年ごろと同じくらい古いことが知られている——に用いられた同族の記号と並べて示す表を見出すであろう。また並行する欄には、および一連の他の優れた表には、中央・北インドの到るところに散在する Aśoka 王の多数の碑文からの対応する表音記号が与えられている3

これらの碑文アルファベットには二つの主要な種類がある。——

第一の種類はいまや Kharoṣṭhī(すなわち「驢馬の唇」の形の書法。lipi が補われて理解される)と呼ばれる4。これは Panjāb の北西隅および東 Afghānistān に属する。それは Aśoka 王がその岩石・石碑の碑文の若干に用いたものであり、その原型はおそらく紀元前 500 年ごろにペルシアに導入され、ペルシアの支配者たちによって


1 Pandit Śyāmajī はその第二の論文——Leyden 会議で朗読されたもの——において、こう述べた。——「インドにおいては、我々は現在ですら、精神を成熟させ力を発達させるうえで、口頭による教授が書物による学習にはるかに優ると信じている。」

2 確かに私の考えでは、書写の方向の変化はギリシアの影響によるものかもしれない。紀元前 400 年ごろに生きたと思われる Pāṇini は、女性名詞の例として Yavanānī という語を挙げ、Kātyāyana はこれを「ギリシアのアルファベット」の意と解釈する。また我々は、北西インドで発掘されたギリシアの貨幣およびその模造品が、Alexander 大王以前にかの地にそのアルファベットが存在したことを証明することを知っている。ギリシアの影響に対する Hindū の受容性は、本辞典の頁に散在する、ギリシア人から直接に派生した天文用語の数によって例証される。

3 Aśoka は自らを Priya-darśin と称し、Candra-gupta の孫であって、Constantinus がキリスト教のためになしたことを仏教のためになした。すなわちそれを自らの信条として採用することによってである。仏教はその後 Magadha 王国全体の宗教となり、したがってインドの大部分の宗教となった。そして岩石と石柱に刻まれた Aśoka の勅令(紀元前三世紀の中葉ごろ)は、インドの歴史における最初の真正な記録を提供する。しかしこれらの碑文の言語は、いわゆる Māgadhī Prākṛit とも、仏教聖典の Pāli とも厳密に同一とは言えない。ただしそれらの形態の Prākṛit は、緩やかに Māgadhī または Pāli と呼ばれてよい。また Pāli という名は本来、仏教聖典の 言語 に適用されたのではなく、むしろテキストを構成する 一連の文章 に適用されたのである(tantra の用法を参照)。Oldenberg 教授によれば、テキストの Vinaya 部門は紀元前 400 年という早い時期に現在の形で存在した。後代の仏教文献はその後まもなく書き下ろされ、注釈はそれ以来 Pāli および Ceylon・Siam・Burma の諸語で編纂されてきた。Ceylon の Pāli は Kaliṅga(Orissa)との交流の影響を受けている。

4 この Kharoṣṭhī については Bühler 教授の書物に十分に記述されている。それに与えられた最初の名は Ariano-Pāli, Bactro-Pāli, Indo-Bactrian, North Aśoka 等であった。Sir A. Cunningham はそれを Gāndhārian と呼んだ。Pandit Gaurī-Śaṃkar は、Hindī で書かれたその興味深い著作『Prācīna-lipi-mālā』において、それを Gāndhāra-lipi と呼ぶ。Kharoṣṭhī は発明者の名に由来すると考える者もある。


原本 p. xxvi

紀元前四世紀に北インドにもたらされた。いずれにせよ、Akhæmenian 期のペルシアの君主たちが Aramæan の書記を用いたこと、および Kharoṣṭhī 文字が、たとえ本来インド的であったにせよ(Sir A. Cunningham らによれば)、彼らの手のもとで明らかに Aramaic 的な性格を帯び、すべての Semitic 文字と同様に右から左へ流れるようになったことは、よく知られている。しかしおそらく、私に思われるところでは、ギリシアの影響(それは Alexander の時代以前にインドに浸透していた)が、この初期の北西インドの文字を Phœnicia 型へ同化させるうえで部分的に働いたのかもしれない。それは我々の目下の探究からは除外してよい。というのも、それはインドにおいて一般に通用するに至らず、印刷に適した形にまで発展することもなかったからである。

古代インドの文字の第二の種類は Brāhma(あるいは Brāhmī lipi)と呼ばれる。これは疑いなく二つの主要形態のうち古いものである1。そのより大きな古さは、Brāhmaṇ たちによって与えられた Brāhma という名によって証明される。というのも、彼らの主張によれば、それは彼らの神 Brahmā によって発明されたからである2——この主張は、その起源が何であれ、それが現在の形に鋳直されたのは Brāhmaṇ たちによる、ということを示すものと解してよい。

そして疑いなく、この Brāhma の書法(Brāhmī lipi)こそが、真のインド Brāhmaṇ 的文字と呼ばれる最良の権利をもつ。それは、サンスクリット文献が書き下ろされはじめたとき(おそらく紀元前六世紀)に用いられた最初の種類の書法であったにちがいなく、また中央・北インドの——さらには北西インドの——Aśoka 碑文の文字である。北西インドではそれが Kharoṣṭhī と並んで見出される。それは仏教徒の諸王の Prākṛit 方言3 を表わすために用いられ、その後の発展形である Nāgarī と同様、左から右へ流れた。現存する碑文における最初の出現は——少なくとも現在までに発見されたかぎりでは——紀元前三世紀のこれらの王たちの年代より古くに置くことはできない。

しかし注意すべき重要な点は、インドにおける Brāhmī lipi の存在は、それがかつて Kharoṣṭhī と同様に右から左へ流れていたことを許すほど十分に早い時期——おそらく紀元前六世紀という早い時期——にまで遡らせねばならない、ということである。これは、Sir A. Cunningham が Eran4——記念碑的遺跡で名高い中央諸州の一地——で発見した古代の貨幣における文字の方向によって明らかにされる。現在の Nāgarī における短い ि i の位置が、元の書写方向の名残であるという示唆5 は、真剣には受け入れがたい。

されば、偏見のない Hindū 学者が Bühler 教授の書物の表を注意深く検討するならば、インドの Brāhma 文字が古代 Phœnicia の文字と、したがってギリシア・ローマの文字と結びつく一定の特徴をもつことを認めざるをえないと、私は考える。

しかしながら忘れてはならないのは、Phœnicia の文字と Brāhma の碑文文字とのあいだには七世紀近い間隔が横たわっていること、および両アルファベットの親近性をより明瞭にするためには、傍系および中間的な Semitic 文字が与える傍証を考慮に入れるべきであること6、である。また、Hindū 人が、ギリシア人と同様、その書写の方向を変えたとき、若干の記号が回転させられ、あるいはその形が反転させられ、あるいは種々の仕方で閉じられ、または開かれたことも忘れてはならない。

Brāhma の記号が近代の Deva-nāgarī およびその同系文字7 へとさらに発展した経過は、容易に辿ることができる。しかし念頭に置くべきは、後代の Pandit たちが、古代の文字記号をできるかぎり直立させて置き、また文字が垂れ下がる線として水平の横線を引くことによって、それらを改良しようと試み、かくして直線的な書写の体系——これは Hindūstānī およびペルシアの書法にはしばしば著しく欠けている——を確保したことである8

ここに七欄から成る表を付す。そこでは、Phœnicia のアルファベットが紀元前 800 年ごろにまず西方の Greece・Italy に向かって、次いで東方のインドに向かって広がったという見解を例証するように、文字を配列した。

1 と記された欄は十個の Phœnicia 文字を与える。1 の左の 2 と記された欄は対応する十個のギリシア文字を、3 と記された欄は対応するローマ文字を、4 と記された欄は対応する英語の文字を与える。次に 1 の右の 2 と記された欄は対応する十個の Brāhma 文字を、3 と記された欄は種々の碑文に示された Brāhma 記号の漸次的発展を、4 と記された欄は近代 Nāgarī における対応する文字を与える9


1 その変種で Bhaṭṭiprolu と呼ばれるものが Bühler によって記述されている。

2 同様に、偉大な Arabia の教師 Muhammad は、Kurān の第一 Sura において(Rodwell 版 p. 2、Sale 版 p. 450 とその注による)、「神が筆の使用を教えた」と宣言した。キリスト教徒のうちにも、思想表現の道具としての書写の能力が——世界史の初期の時代を通じて休眠していたとはいえ——言語と同じく神の賜物である、と考える点で、Hindū 人および Muhammad 教徒に同意することを厭わぬ者があるかもしれない。しかし Muhammad の見解は、書写の神的起源が、Kurān が天から書かれたままの形で下ったと宣言することに存する、というものであった。

3 碑文の言語については p. xxv, 注 3 を見よ。

4 これらの文字は Bühler 教授の表に示されている。

5 我らの貴重な十進法の記数法は確かにインドから来たものであり、記数の方向において Semitic の方法に適合すると言ってよい。というのも、単位は右に置かれ、十と百は左に置かれるからである。

6 Bühler 教授のインド古文書学に関する著作の第一表は、傍系および中間的な Semitic 形態の例を挙げていたならば、より説得力をもったであろう。

7 Bengālī, Marāṭhī, Gujarātī 等がそれであり、そのいくつかは、古代 Brāhma 文字により近い形を示すものとして有益に研究されうる。

8 同様の線が、直線的書写の補助として、英語の習字帳や便箋にしばしば引かれるが、しかし常に文字の であって、上ではない。

9 Indian Institute の Dr. Lüders が、碑文文字のいくつかを正しく形作るにあたって親切に助けてくださった。若干のものの粗さは、それらが原拓の写真から採られたことによる。


原本 p. xxvii

この表を研究すれば、誰しも、それが Phœnicia の文字と最古のインドすなわち Brāhma の文字とのあいだの根源的な連関ないし家族的類似を示していること、また同時に、Brāhmaṇ たちの可塑的な手が、原初の萌芽を大きく修正し拡張しながらも、Phœnicia との連関の明白な徴候を消し去ってはいないという事実を例証していることを、認めざるをえないと私は考える。

Phœnicia 文字・古体ギリシア文字・古体ローマ文字と Brāhma 文字およびその発展形、近代 Nāgarī の対照表
七欄から成る対照表。左から右へ、「対応する英語」「古体ローマ」「古体ギリシア」「Phœnicia」「Brāhma」「Brāhma の発展形」「近代 Nāgarī」。掲げられる十行は A / K / G / T / TH / D / P / B / Y / V の各文字に対応し、近代 Nāgarī では अ, क, ग, त, थ, द, प, ब, य, व がそれぞれ対応する。
画像をクリックすると原寸で開きます。

表の注:

* これはギリシア語の theta に対するものであり、本辞典では現在の慣用に従い th によって表わされる。ただし t または のほうがより学問的な記号であろう。

§ Bühler 教授によれば、Brāhma の 𝖣 が Nāgarī の ध dh となり、そこから द d が展開した。

そして実際、Phœnicia 人・ギリシア人・ローマ人——彼らにとって書写の発明は、純粋に人間的な目的を達成するための単なる人間的工夫にすぎなかった——を満足させた二十二文字という慎ましい装備は、自らの言語を神的起源をもつものとみなし、それゆえ等しく神的な記号の完全な体系によらねば表わされえぬと考えた敬虔な Hindū 人を、到底満足させえなかったであろう。Aśoka 王の勅令の民衆的 Prākṛit ですら、四十に近い記号を必要としたように思われる1。そして


1 碑文のいくつかは母音記号の完全な備えをもたなかった。実際、若干の碑文では全部で三十五文字の一覧しか見出されないのに対し、他のものでは三十六、さらに他のものでは三十九である。Bühler 教授は(1898 年刊行の最新の著作 p. 82 において)、通常の Brāhma アルファベットは最古の碑文(Bhaṭṭiprolu を含む)に辿りうる四十四文字をもち、これに au(o から派生)を加えれば四十五、Kushana 碑文に「初めて現われる」Visarga の記号を加えれば四十六となる、と述べている。土着の学校で教えられる母音の通常の数え方では、十二にすぎない。


原本 p. xxviii

当時のサンスクリットに用いられた完全な Brāhmī lipi に必要な数は、五十を下らなかったであろう(ai, au, ṛ, ṝ, ḷ, ḹ, および ḻa の記号を含めるならば)。

次に、Brāhma のアルファベットをその最終的発展形、すなわち Nāgarī と呼ばれるものにおいて見るならば、それが「一つの音に一つの記号」という学問的音声学の原理に基づいていることが一目で分かる。すなわち、あらゆる子音音は一つの不変の記号によって表わされ、母音音のあらゆる色合い——短音・長音・延長音——は一つの不変の記号をもつ(英語において be における e の音が十六の異なる仕方で表わされうるのとは異なる)。ゆえに、完全に構成されたサンスクリット語の表記のためには十六の母音記号(aṃ および aḥ を含み、延長母音形を除く)と三十五の単純子音があり、それは本書 p. xxxvi に示すとおりである。

もちろん、かくも高度に彫琢された書写体系は、次第にのみ完成されたのであり1、それが意図された目的に見事に適合していることは疑いない。しかし注目すべきは、本辞典で用いられているその最新の発展形においてすら、Semitic の書写法——その専ら子音的な性格からして不完全であることが認められている——との根源的連関を示唆する特徴をもつことである。

というのも Pandit たちは、ギリシア人・ローマ人と異なり、私の意見では、すべての母音記号に別個の独立した位置を与える真のアルファベット的理論を十分に採用したとは言えないからである。そう考える理由は、彼らが最も普通の母音——すなわち短い a2——をあらゆる孤立した子音に内在するものとし、他の母音記号の若干については子音の上または下に従属的な位置を与えていることにある。そして彼らの子音記号のこの部分的に音節的な性格は、彼らに膨大な複雑な結合子音の系列——そのいくつかは非常に込み入っている——を構成することを強いた。その必要は、英語の 'strength' という語の文字が Nāgarī 文字であったと仮定して、सतरेनगथ と書かれるであろうことによって例証しうる。これは、str および ngth を表わすために子音記号の結合が用いられ、かつ Virāma「停止」と呼ばれる記号が最後の子音に付加されないかぎり、satarenagatha と発音されねばならないであろう。かくして、単純子音はわずか三十三でありながら、複雑な結合子音の数はほとんど不定であるため、印刷用の完全なサンスクリット活字を備えるのに必要な異なる活字の数は 500 を超える。

されば確かに、相互伝達の便宜のためのあらゆる装置が備わったこの時代において、いかなる言語であれ、いったん習得すればいかに見事なものであれ、かくも複雑な文字記号の集合の背後に閉じこもることが正当化されるとは、誰も主張しないであろう。いずれにせよ、そうした体系が、我らと同じ語族に属し、しかも大英帝国の不可分の一部をなす国における言語の表記を独占すべきではない。実際サンスクリット語は、Hindū のすべての土語の知識への鍵であり、さらには連合王国の住民とそのインド人同胞臣民とのあいだの共感と同胞感情の一種の言語的絆として研究されるべきである。そしてこの目的のためには、その習得のためのあらゆる便宜が与えられるべきである。

そしてもし、我々が示そうと努めたように、Brāhmī lipi、Nāgarī、およびギリシア・ローマのアルファベットが——少なくとも同じ原初的源から派生し、あるいはそれと結びついているかぎりにおいて——四つとも互いに関連しているのであれば、Nāgarī と Romanic の双方のアルファベットが等しくサンスクリットの表記に適用され、双方がその習得を容易にするために協働すべきだということは、事の適否に反するはずがない。

また忘れてはならないのは、今日インド中に英語の使用が広がりつつあり、それがすでにサンスクリットと並んで、教育ある人々のあいだの一種の lingua franca すなわち伝達手段として共存していることである。それはかつてラテン語がギリシア語と共存したのと同様である。実にその程度は甚だしく、英語の普及と時を同じくして、大英帝国のすべての英語話者の住民によって採用されたローマの文字体系が、Pandit たちの好むと好まざるとにかかわらず、彼らの言語表記の一つの媒体としてすでに受け入れを迫っているほどである。それはちょうど数世紀前に、Arabia およびペルシアの文字が、Hindī の表記のために Muhammad 教徒の征服者によって彼らに強いられたのと同様である。

こうした次第で、本辞典で用いられたヨーロッパ的転写法を「Indo-Romanic アルファベット」の語をもって呼ぶことが正当化されると、私は感ずるのである。

そしてまた、Romanic アルファベットのかかる受容が、何ら非学問的な


1 サンスクリットで書かれた既知の最古の碑文は、Kāthiāwār の Junā-garh の岩石にある。それは Rudra-dāman 碑文と呼ばれ、紀元後二世紀に遡る。それは Nāgarī ではなく古い碑文文字によるものである。紀元後 400 年ごろの Bower 写本は Nāgarī への大きな前進を示し、他方 750 年ごろの Danti-durga の碑文は、現在用いられている Nāgarī によく似た記号の完全な備えを示す。しかし注目すべきは、真に近代的な Nāgarī による最初の 写本 は、紀元後十一世紀より古くないことである。

2 この a は、我らの語 'vocal organ'(vocul orgun と発音される)における a である。サンスクリットは我らの 'man' における a の音も、'on' における o の音ももたない。子音は母音なしには発音されえないから、Brāhmaṇ たちは、あらゆる子音を発音可能ならしめるという重要な任務のために、母音のうち最も普通のものを選んだのである。ゆえにあらゆる子音は a を伴って発音することによって名づけられる(たとえば ka, kha, ga 等)。おそらく同様の理由から、我々も多くの英語の文字を名づけるのに共通の母音記号 e を用いているのであろう。


原本 p. xxix

適応を含まぬことを理解されたい。それは、我々が英語の表記のためにそれを混沌と適応させているようなものでも、土着の著述家自身が彼ら自身のインドの語を転写する際の不正確な使用のようなものでもない1。全く逆である。ローマ字は区別点と区別符号の使用による拡張にきわめて容易に適合するので、あらゆるインドの音を——そしておそらく世界のあらゆる言語のほとんどあらゆる音を——正確に表現するための徹底して学問的な道具とみなしうる。そして私は確信をもって予言してよいと思うが、二十世紀が終わる前に、絶えず増大する文献の産出に圧倒された人類の視力は、世界の最良の書物の読解を容易にするために、最も普遍的に適用可能で最も容易に理解しうる文字体系の採用を、否応なく要求するであろう。しかし、ローマの記号が、世界の未来の普遍的アルファベットを構築する最良の基礎として、他の競合する体系に優先して最終的に選ばれるかどうかは、もちろん誰も同じ確信をもって予言することはできない。

一つのことは確かだと私は主張する。本書を参照するいかなる普通の学者も、本書が、Romanic 活字においては可能であり Nāgarī においては不可能な、一見些細ではあるが実は重要な一定の工夫から、その印刷上の明瞭さの多くを引き出していることを、直ちに認めるであろう。その一つはもちろん、サンスクリットの用例における語と語のあいだに空白を残しうるという能力である。確かに sādhu-mitrāṇy akuśalād vārayanti のごとき文は、sādhumitrāṇyakuśalādvārayanti よりも明瞭である。また、'smith' と 'Smith'、'brown' と 'Brown'、'bath' と 'Bath' のごとき語を区別しうることから生ずる明瞭さの利得を、誰が否定しえよう。イタリック体その他のヨーロッパ的活字形態を用いうる力については言うまでもない。そして疑いなく、単純語よりも複合語が優勢な言語において、長い複合語を分離するためにハイフンを用いること2 は、すべての人に評価されるであろう。私はただこう言いうる。この最も有用な小さな符号なくしては、本書は明瞭さにおいて多くを失い、しかもなお簡潔さにおいても損なわれたにちがいない、と。というのも、su-tapasuta-pa のごとき複合語の相違を示しうるという明白な利点——これは Nāgarī 活字では不可能であったろう——のほかに、sad-asad-viveka, sv-alpa-keśin のごとき最も単純な複合語ですら、その使用なくしてはその分析を説明するために一行を余分に要したであろうことは明白だからである3

しかし公平を期すためには、本書で採用された Indo-Romanic 転写体系の明白な欠陥の若干を認めておかねばならない。一定の場合には、それが学問的厳密さに反することは告白される。またそれは、あらゆる単純母音音は単一の記号によって表わされるべきだという規則を、常に一貫して守っているわけでもない。たとえばサンスクリットの母音 ऋ および ॠ は、本辞典では、若干のドイツ人学者の慣行に従い——Geneva 転写委員会が採用した慣行でもあるが—— および の記号によって表わされておらず、ṛi および ṝī によって表わされている。その理由は、英文法において r は半母音とはみなされないから、 および は母音音の代表として不適切だということである。さらにこれらは、r の下の点が偶然に落ちたり欠けたりした場合——印刷において、とりわけインドにおいてはしばしば起こることである——、r のあとに i が続く場合よりも結果が悪くなる、という異議にもさらされている。たとえば KrshṇaKrishṇa より確かに悪い。

同様に有気子音の場合も、有気性はそれに付された第二の文字によって表わされるべきである。実際、Sir W. Jones が口蓋音 च に対して用いた ch、および छ に対して用いた chh の場合、その不便はきわめて大きかったので、本版では私は(他の多くのサンスクリット学者と同様)च に対して単純な c を採用した。その発音はイタリア語の dolce における c、あるいは 'church' における ch と同じであり、後者はサンスクリット語であれば curc と書かれるであろう。同様に छ に対しては ch が採用された4

口蓋歯擦音 श の転写については、初版で用いた ś よりも ś を好んだ〔訳注:原文は初版の ś に代えて ś とあり、いずれもドイツ・フランス式の ç に対する選好を述べる〕。そして私は、ドイツ・フランス式の ç の使用よりもそれをはるかに好む。経験の示すところ、セディーユはしばしば印刷において折れるか、不注意から落とされるかし、その結果 Aśoka のごとき重要な語がいまや Acoka と誤って印刷され発音されている。

同様に、そり舌歯擦音に対しては記号 を好んだであろうが、本版では sh を保持するのが望ましいと感じた。 には、上に述べた と同じ異議がある。この


1 たとえば、ある土着の人による最近の小冊子における次の転写語を見よ。——Devi, puja, Durga, Purana, ashtami, Krshna, Savitri, Acoka, Civa 等。私はまた Hindūstānī の kharāb「悪い」に対して crab と書かれているのを見たことがある。

2 Forster は 152 音節から成る一複合語の例を挙げている。これは Campū 文体と呼ばれるものから採られたさらに長い見本によって凌がれるかもしれない。

3 少なくとも我々は、より複雑な語——たとえば Dr. Muir の Texts から無作為に採った vaidikamanvādipraṇītasmṛitivāt, karmaphalarūpataīradhārijīvanirmitatvābhāvamātreṇa——のより良い理解のために、ハイフンがサンスクリットに対して拒まれないであろうという希望を抱いてよい。我々はさらに、ドイツの学者その他のヨーロッパ人——彼らは Ārya 語のうち、複合を等しく愛好する形態を話すのだが——が、彼ら自身の Sesquipedalia Verba のいくつかに対して、より頻繁にハイフンを用いることを潔しとし、かくして議会用の複合語、たとえば Habeas-corpus-suspension-act-continuance-Ireland-bill のごときにおいて実際的なイギリス人を見習うことを、希望として表明してよいであろう。

4 Berlin 国際会議で朗読した転写に関する論文において、私は有気子音を表わすために一種の抑音符を提案した。たとえば k̀, p̀ のごとくである。(p. xxxvi のように)有気の k または pinkhorn における khuphill における ph のようだと言うのは、ある程度誤解を招く。それは単に、アイルランドで発音されるように、強い呼気を伴って発音される k または p にすぎない。


原本 p. xxx

ことは、重要な語 Ṛishi をドイツの学者が書くとおりに、すなわち R̥ṣi と書き、次いで点を省いて Rsi としてみれば明らかとなろう。

鼻音に関しては、本版では ङ に対して 、ञ に対して ñ を採用した。これらの変更において、私は Geneva 転写委員会と一致していることを喜ばしく思う。

イタリック体の k, kh を क, ख に対して、またイタリック体の g, gh を ग, घ に対して用いる方法——『Sacred Books of the East』で採用され、これによって喉音と口蓋音の交替の音声学的真実を示すことによって得られると考えられた文献学的利点——については、実際の発音において異なる音を類似の記号で表わすという不利によって、完全に相殺されると私には思われる。たとえば 'chinna' のごとき普通の語を 'khinna' で、'jaina' を 'gaina' で表わすことは、'China' を 'Khina'、'Japan' を 'Gapan' と書くのと同じくらい異議のあることに思われる。イタリック体を用いる方式は何の保証にもならない。というのも、通俗的な書物や新聞の印刷においては、同一語中で Roman 体と Italic 体を混ぜるという慣行は決して守られていないから、いまや重要なインドの宗派 Jains が 'Gains' と印刷され発音されているのを見ることも珍しくないのである1

本辞典が印刷されている形式のゆえに、サンスクリットのより一般的な涵養に対しても、また我らの東方帝国における知識の普及に対しても最重要な事柄について詳しく述べる義務を感じたので、ここで、インド諸語のローマ字化された文字への転写という主張が、かつて故 Sir Charles Trevelyan の手によって受けた大きな援助について、私の思いを繰り返しておかねばならない。彼は(1834 年 1 月 Calcutta 付の彼の優れた覚書において2)、この問題を混乱させていた観念の錯綜を一掃した最初の人であった。また彼は、約四十二年前にイングランド全土でこの問題への関心を喚起した最初の人でもある。彼の議論は私にこの運動に参加することを促し、この問題に関する我々の書簡は『Times』紙に掲載され、同紙の支持を得た。それ以来、Sir W. Jones の Indo-Romanic 体系と実質的に一致する方式で印刷された多くの東洋学の書物が刊行されてきた3。さらに私は一度ならず Royal Asiatic Society4、Church Missionary Society5、および Bible Society の注意をこの重要な主題に向けさせ、1881 年 9 月に Berlin で開かれた東洋学者会議において論文を朗読し、共通の転写方式の確定を目指す協調的な国際的行動の提案を提出した。それに続く討論は、共通の国際的転写体系を定めるための最初の委員会の任命につながった。そして、かく始動され、かくも長年にわたって続けられた運動が、1894 年 9 月に Geneva 東洋学会議の転写委員会によって公表された国際的方式の提案をもたらした主要な要因の一つであったと考えて、まず差し支えあるまい。

SECTION V.(第五節)

受けた援助についての謝辞。

初版の序文において私は、初版の刊行が着手された当時 Oxford 大学出版局理事会の一員であった一人の卓越した学者の名に特に言及した。すなわち Dr. Robert Scott、かつての Balliol 学寮長、のちの Rochester 首席司祭、そして著名なギリシア語辞典における Dr. Liddell の共著者である。彼は、私が Balliol での学部生時代、インド文官職への任命を受けた際に助言を求めて訪れた日以来、私の最も親切な友人の一人、最も賢明な助言者の一人であった。本辞典がその発端において彼の支持と励ましに負うものについて、私の思いを繰り返す必要はほとんどあるまい。

また、Boden 講座における私の先任者 H. H. Wilson 教授に対する恩義の念を繰り返す必要もない。彼はおよそ六十年前(1839 年)に私をサンスクリットの研究に導き、サンスクリット辞書編纂の全く新しい体系のための最初の材料を私に提供してくれた(p. xi 参照)。本書の以下の頁で W. と標示されたすべての語と意味は、彼の権威に基づくものである。


1 確かに我々は、英語の正しい発音を学ぼうと熱心なインド人同胞臣民のことを考えるべきである。彼らは、pinch, catch, chin, much, jump, jest のごとき由緒ある英語の語が pink, katk, kin, muk, gump, gest と書かれるべきだと言われたら、大いに混乱するであろう。

2 これは、私が 1859 年に編纂した『Original Papers illustrating the History of the Application of the Roman Alphabet to the Languages of India』の p. 3 に見出される。

3 数えきれぬ他の刊行物のうち、Aufrecht 教授校訂の Ṛig-veda 自体のきわめて正確な一版が Roman 文字で印刷され、Weber 教授の『Indische Studien』の二巻に収められている。

4 特に 1890 年 4 月 21 日、R. A. S. で朗読した私の論文を見よ。

5 1858 年、私は Rev. Henry Venn に強い調子の書簡を書き、当時 C. M. S. が採用していた転写体系に反対した。それは近年、Geneva 会議報告の線に沿って改められた。


原本 p. xxxi

しかしながら誠実さは、私に次のことを告白することを義務づける。すなわち、長い文筆の生涯のあいだ、私の精神は一種の苦痛に満ちた鍛錬を経ねばならなかった。それは、同胞たちの信頼性に対する信仰の漸次的な弱まりを伴うものであり、私の最初の敬愛する師とてその例外ではなかった。私は実際、ほとんど無謬の導き手として頼りうる一人の人物が存在するという考えに大いなる自信を抱いて研究を始めた。しかし少しく賢くなり、誤りに対する感受性が鋭くなるにつれて、私は驚いたことに、彼の教えの多くを疑わしいものとして退けざるをえないことを発見した。いな、告白せざるをえないが、知識の道をさらに進むにつれて、私の師を含む他者に対する信頼は、次第に一連の不快で予期せぬ衝撃を経験した。そしていまや、旅路のほぼ終わりに到達して、私は人間一般——確かに私自身をも除かず——の正確さに対する私の信仰が、いささか痛ましいほどに揺らいだままであることを見出す。こうした苦痛に満ちた感情は、私の場合には、長い生涯のあいだの批判能力の漸次的かつ不可避的な成長から生ずるのであり、協力者たちから受けた有効な援助——それなくしては私はこの仕事を完結しえなかったであろう——に対する感謝の念と、十分に両立するものである。

私の初版の序文において私は、初版の編纂において私を助けてくれた学者たちすべてに感謝を表した。その名を、彼らの奉仕の年代順に挙げれば次のとおりである。——

Calcutta の Baptist Mission の故 Rev. J. Wenger 師。Dr. Franz Kielhorn——のちに Poona の Deccan College におけるサンスクリット研究主任、現在は Göttingen 大学のサンスクリット教授。Dr. Hermann Brunnhofer。Mr. A. E. Gough, M.A.、Lincoln College, Oxford 出身、かつて Benares・Allāhābād・Calcutta の官立学寮教授。そして最後に、Mr. E. L. Hogarth, M.A.、Brasenose College 出身、かつて Calicut の官立州立学校校長。

いまや、この大幅に増補改良された著作の製作において私と協力してくれた、有能かつ勤勉な助手たちに対する感謝の義務を果たさねばならない。

同様の労苦に参加した者以外には、小さな辞書編纂上の細部の日々の作業に伴う退屈な労苦——味気ない苦役と言ってもよい——の量を、およそ理解しえまい。すなわち、参照と意味の検証、語の索引と一覧の作成、絶えず増加する材料の分類と選別、旧稿の改訂、新稿の配列と再配列、「原稿」の執筆・再執筆・行間書き入れ、校正刷りの訂正と再訂正——それは五種類の込み入った活字で印刷され、無数のアクセントと区別点が林立し、著者・協力者・植字工・校正係の視力・忍耐・気質を厳しい試練にさらすのである。これらのことを述べるのは、私自身の労苦を誇張するためではなく、他者の有能な協力なしにはこれを遂行しえなかったことを示すためである。

私の新しい助手たちの名を年代順に挙げれば次のとおりである。——

第一に、Dr. Ernst Leumann(Switzerland 出身)。彼は 1882 年 10 月 3 日から 1884 年 4 月 15 日まで Oxford で私とともに働き、その後 Switzerland の Frauenfeld の Kantonsschule の教職を受けた。彼に対する私の恩義はすでに述べたとおりである。

彼の後を継いだのは故 Dr. Schönberg(故 Bühler 教授の弟子)であった。彼はきわめて衰弱した状態で私のもとに来、その援助は 1884 年 5 月 20 日から 1885 年 7 月 19 日まで及んだにすぎず、その後私のもとを去って世を去った。彼は良き学者、良き働き手であったが、監督されることを厭い、私の警戒にもかかわらず、その能力の急速な衰えによる若干の脱落と誤りを防ぐことは不可能であった。

その後、援助の源があまりに断続的で記録しえぬ期間が続いた。

1886 年 9 月、その間に Strassburg 大学のサンスクリット教授に任ぜられていた Dr. Leumann が協力を再開したが、それは断続的な仕方にとどまり、しかもなおドイツに在住したままであった。あいにく他の職務の圧力のため、彼は 1890 年 9 月に、教授職以外のすべての仕事から手を引かざるをえなくなった。彼は p. 474 に至るまで学問的な仕方で私とともに労苦したが、その協力は 355 頁を超えなかった。というのも、Dr. Schönberg の協力期間に相当する pp. 137–256 には彼は関与していないからである。

1890 年 12 月に至って初めて、Jena 大学のサンスクリット教授 Dr. Carl Cappeller がその勤勉な協力を開始し、語 Dāda(p. 474)から始めて、辞典の完成に至るまで忍耐強くそれを遂行した。そして記録にとどめておくべきは、彼の協力が Jena における職務の遂行と同時並行的に行なわれねばならず——それは郵便による絶えざる通信の交換を必要とした——にもかかわらず、1891 年 3 月から 1898 年 7 月までのあいだに 834 頁の完成をもたらしたということである。また記録すべきは、प p の字の初めから、彼が Berlin の Dr. Blau という周到な助手を得たことである。Dr. Blau はまた時折校正刷りを読み、Addenda のために一定数の語を寄せてくれた。

さらに、Göttingen 大学サンスクリット教授 Herr Geheimrath Franz Kielhorn, C. I. E., Ph.D. に感謝を表さねばならない。彼は初版の開始後まもなく私の助手となった人であるが、およそ 1886 年以降、本版の文法的部分を自由かつ寛大に監督してくれた。また、Poona の官立学寮でサンスクリット研究主任として長年労苦するあいだに得た経験を、快く私の自由に委ねてくれた。


原本 p. xxxii

最後に、本辞典の編纂において私の協力者および私自身が用い、また参照した主要な著作の価値に対する感謝の念を記しておかねばならない。それらのうちいくつか、および若干の重要な文法書——Mahā-bhāṣya(Kielhorn 教授の優れた校訂本)、Siddhānta-kaumudī 等——は、他の多くの文献、たとえば Manu、Bṛhat-saṃhitā 等とともに、二人のドイツの辞書編纂者による偉大な Thesaurus が編纂されていた当時には、良質の批判的校訂本としては存在していなかった。

Ernst Leumann 教授は、その協力期間中、次の諸書に大いに助けられたと私に伝えている。——Grassmann の Ṛig-veda、Whitney の Atharva-veda 刊本に対する Index Verborum、Stenzler の Āśvalāyana・Pāraskara・Śāṅkhāyana・Gobhila の Gṛhya-sūtra および Gautama の Dharma-śāstra に対する索引、Aufrecht 校訂の Aitareya Brāhmaṇa に付された語彙、Bühler の Āpastamba Dharma-sūtra、Garbe の Vaitāna-sūtra、Hillebrandt の Śāṅkhāyana Śrauta-sūtra 等。彼は、自らの担当部分においては、新しく検証不能な資料を追加するよりも、むしろ Petersburg 辞典に与えられた語と意味を検証し改訂することを目的としたと述べている。引用に関しては、『Journal of the German Oriental Society』第 xlii 巻 pp. 161–198 を参照されたいとしている。

C. Cappeller 教授は、上に挙げた書物に加えて、まず第一に Böhtlingk の Upaniṣad、その Pāṇini(第2版)および Kāvyādarśa、ならびにこの尊敬すべきサンスクリット学の長老が種々の雑誌に発表した、多数のテキストに関する貴重な批判的所見を挙げたいと述べている。さらに H. Oertel 校訂の Jaiminīya Upaniṣad Brāhmaṇa、および F. Knauer, M. Winternitz, J. Kirste, W. Caland による索引付きの種々の Sūtra 文献。Drāhyāyaṇa Śrauta-sūtra からの若干の追加については、Helsingfors の Dr. J. N. Reuter に負うている。彼はまた次の諸書を用いた。——Yādava-prakāśa の Vaijayantī(G. Oppert 校訂、London, 1893)、Hemacandra の Uṇādigaṇa-sūtra(J. Kirste 校訂、Vienna, 1895)、Apte(Poona, 1890)・A. A. Macdonell(London, 1893)・C. Cappeller(Strassburg, 1891)の諸辞典、Whitney の『Roots, Verb-forms, and Primary Derivatives of the Sanskrit Language』(Leipzig, 1885)、Lanman の『Noun-inflection in the Veda』(New Haven, 1880)、Jacob Wackernagel の『Altindische Grammatik』(Göttingen, 1896)、Delbrück の『Altindische Syntax』(Halle, 1888)、Regnaud の『Rhétorique Sanskrite』(Paris, 1884)、Lévi の『Théâtre Indien』(Paris, 1890)、Macdonell の『Vedic Mythology』(Strassburg, 1897)等。

Veda 解釈については Roth と Grassmann が主要な典拠であったが、Sāyaṇa も、また『Vedische Studien』(Stuttgart, 1889–1897)における Pischel と Geldner のごとき近代の解釈者も、Atharva-veda に関する Bloomfield(S. B. E. 第 xlii 巻)も、閑却されてはいないことが分かるであろう。

本辞典の仏教関係部分は、主として次の諸書によって豊かにされた。——Aśvaghoṣa の Buddha-carita(Cambridge の E. B. Cowell 教授による校訂と翻訳)、Divyāvadāna(Cowell および Neil 校訂、1886)、Jātaka-mālā(H. Kern 校訂、Boston, 1891)、二つの Sukhāvatī-vyūha(S. B. E. 第 xlix 巻)、および Dharma-saṃgraha(Anecdota Oxoniensia, 1885)。新しく完全な Pāli および Prākṛit の辞典が刊行されるまでは、仏教徒および Jaina 教徒、ならびに若干の碑文の作者が用いた慣用的サンスクリットを満足に扱いえないことは明白である。

もちろん『Indische Studien』(Berlin の A. Weber 教授校訂)の多くの部分が参照され、また『Sacred Books of the East』に収められた翻訳のいくつかから、さらに p. xxxiii の「著作・著者一覧」に名を見出しうる他の多くの著作から、貴重な助力を得た。

私自身が用いた書物については、もちろんその多くは上に挙げたものと同一である。他のものは初版で名を挙げてあり、ここで再び言及する必要はない。しかしながら、本版で MW. と標示された語のいくつかが、Rādhā-kānta-deva の Śabda-kalpa-druma(Calcutta にて Bengālī 文字で八巻本として刊行)の権威に基づくことは、繰り返しておくべきであろう。また私はもちろん、私自身の著書——『Brāhmanism and Hindūism』『Buddhism』『Indian Wisdom』(本書序文 p. vi の注 1 を見よ)、私のサンスクリット文法および Nalôpākhyānam(語彙付き、Oxford 大学出版局理事会刊)、Śakuntalā のテキスト(索引と注付き、同刊)——から採られた若干の語と意味、ならびに私の Śakuntalā 英訳(Harmsworth 商会が Sir John Lubbock の「世界の百名著」中に刊行)に付した注から採られたものについても、責任を負うものである。

MONIER MONIER-WILLIAMS.

Indian Institute, Oxford.


原本 pp. xxxiii–xxxiv

LIST OF WORKS AND AUTHORS.(著作・著者一覧)

〔頭注〕配列は英語アルファベットの順による。括弧の外の文字は、参照において用いられる略号形を表わす。

原本 p. xxxiii
原本 p. xxxiv

原本 p. xxxiv 下部

SYMBOLS.(記号)


原本 p. xxxv

ABBREVIATIONS.(略号)

〔頭注〕多年にわたる著作の進行においては、略号および記号の使用において絶対的な統一を保つことはほとんど不可能であることが判明した。しかし不統一の大部分は以下の表において注記されていることを願う。

以下、原書の配列(英語アルファベット順)に従い、略号=原語(その日本語訳)の形で示す。


原本 p. xxxvi

Nāgarī 文字の辞典配列順

——その Indo-Romanic 相当形、および英語の語によって例示された発音とともに

母音(頭形・中間形・相当形と発音)

अ / — / a ——'mica, rural' における a

आ / ा / ā ——'tar, father'(tār, fāther)における a

इ / ि / i ——'fill, lily'

ई / ी / ī ——'police'(polīce)

उ / ु / u ——'full, bush'

ऊ / ू / ū ——'rude'(rūde)

ऋ / ृ / ṛi ——'merrily'(merṛily)

ॠ / ॄ / ṝī ——'marine'(marṝīne)

ऌ / ॢ / ḷri ——'revelry'(revelṛi)

ॡ / ॣ / ḹrī ——上記の延長形

ए / े / e ——'prey, there'

ऐ / ै / ai ——'aisle'

ओ / ो / o ——'go, stone'

औ / ौ / au ——'Haus'(ドイツ語における)

・ / または ——真の Anusvāra 、あるいは任意の鼻音の記号

ः / ——Visarga と呼ばれる記号

子音(相当形と発音)

〔表下の注〕

* झ は時として झ の別形で印刷される。p. 174, 第3欄を見よ。

・結合子音はあまりに多いため上に示しえないが、その最も普通のものは、Clarendon Press 刊 Monier-Williams 著『A Practical Sanskrit Grammar』第4版の末尾に見出されるであろう。

・真の有気子音 kh, ch, ṭh, th, ph 等の正しい発音については、前掲序説 p. xxix, 注 4 を見よ。

は、語中において歯擦音および h の前では任意の鼻音の記号となることが多い(aṃśa, aṃsa, aṃhati のごとく)。また語末においても、dānaṃ ca のごとく見出されるが、語末の m に初頭の半母音・歯擦音・h が続く場合、および前置詞 sam を伴って形成された語(sam-veśa, sam-śaya, sam-hata のごとく)においては、Anusvāra を表わすこともある。Sanskrit という語は、いまや英語化しすぎていて Saṃskṛta と書くわけにはいかない。

・語末の s の代替としての Visarga は、明瞭に聞こえる帯気音であり、devaḥ のごとき語の末尾の は明瞭に発音されねばならない。

Indo-Romanic 文字の辞典配列順(Nāgarī 相当形を伴わないもの)

a, ā; i, ī; u, ū; ṛi, ṝī; ḷri, ḹrī; e, ai; o, au; または ṃ, ḥ;k, kh; g, gh; ṅ;c, ch; j, jh; ñ;ṭ, ṭh; ḍ, ḍh; ṇ;t, th; d, dh; n;p, ph; b, bh; m;y, r, l, ḷ, ḷh, v;ś, sh, s;h.


← 検索ページに戻る 目次 序文 序説