nyāya 論理学。Hindu の哲学の六つの学派すなわち体系の一つ。
Nyāya の体系はもともと Gautama によって教えられたが、その個人的経歴についてはほとんど知られていない。Rāmāyaṇa と Purāṇa から、われわれは、彼が Rāma とほぼ同時代に、すなわち tretā yuga(すなわち世界の第二の時代)の初めに Himālaya に生まれたこと、Brahmā の娘 Ahalyā(その項を参照)を娶ったことを知る。彼はきわめて厳しい苦行者として、まず Prayāga(今の Allahabad)に、次いで Mithilā(Muttra[ママ])の森に、そして後には(妻を離縁した後に)Himālaya 山中に住んだと言われる。その子 Śatānanda は、Rāma の妻 Sītā の父である Mithilā の王 Janaka の祭官であった。上述の言明から、Purāṇa の歴史的真実性にいかにわずかしか信を置けないかがわかるであろう。これらの著作は、Gautama は第二すなわち銀の時代に生きたにもかかわらず Brahmā の娘を娶ったとわれわれに保証する。しかしそれらは、すべての聖仙は四つの yuga(satya、tretā、dvāpara、kali)を通じて生きると断言することによってこの時代錯誤に対処している。Hindu は世界の存在の全行程をこの四つに分けている。
「Nyāya は Hindu 哲学の感覚論的側面を提示する。こう言うことによって意味されるのは、Nyāya が情緒と知性とを除外して感覚に自らを限っているということでも、他の体系が感覚の事実を無視しているということでもない。そうではなく、この体系の配列が他のものよりも五感の事実をより鋭く顧慮し、外的なものをより率直に堅固な実在として扱っているということである。
「nyāya の語は『適正すなわち適合』を意味し、この体系は真理の知識に到達する適正な方法を宣言することを企てる。その知識の果実が人間の主要な目的であると、それは約束する。この名はまた、より限定された適用において、議論を提示する適正な方法を指すのにも用いられる。このことから Nyāya を『Hindu の論理学』と呼ぶ慣行が生じたが、この名はこの体系の範囲についてきわめて不十分な観念を示唆する。Nyāya の体系は Gautama によって一組の格言として伝えられた。それはきわめて簡潔であるので、最初から口頭のあるいは書かれた注釈を伴っていたにちがいない。実際、Hindu の種々の体系の格言は、特定の学派の教義を伝えることよりも、その教義をすでに伝えられた者の記憶を可能なかぎり簡潔な示唆によって助けることを意図しているように見える。この目的のためにそれらは一般に見事に適合している。たとえば、Gautama の五つの講の第一を成す六十の格言は、体系全体の方法的な要約を提示し、またその六十の最初の格言は、これら六十の要約を提示している。最初の格言は次のとおりである。証拠、確かめうるもの、疑い、動機、例、教義、論駁、確定、論究、論争、詭弁、誤謬、曲解、無益な反論、そして非難の機会 ── これらに関する真理の知識から、summum-bonum の達成がある。
「次の格言においては、知識がいかにしてこの結果を生み出すのに媒介的に働くかが宣言されている。『苦、生、活動、過失、誤った観念 ── これらが順次に去ることによって、その先行するものが去るので、至福がある。』すなわち、真理の知識に達すると『誤った観念』が去る。その去ることによって、何らかの外的対象に関心をもつという『過失』がやむ。それによって悟った賢者は『行為する』ことをやめる。そうすれば報いも罰も要求する行為がないので、彼の死後、報いあるいは罰を受けるために再び生まれる機会がない。そして再び生まれず、それゆえ苦に服することがないので、『苦』の余地はない。そして苦の不在が summum-bonum の Nyāya の観念である。」
真理の知識の獲得に適した道具について、Gautama は「証明」すなわち(正しい知識の道具)は「感官、しるしの認識、類似の認識、そして言葉(すなわち証言)である」と教える。
適切な道具によって正しい知識を得なければならない対象を、彼は次のように列挙する。「霊魂、身体、感官、感官の対象、知識、心、活動、過失、輪廻、果報、苦、至福 ── これらがそれに関して正しい知識を求めるべき対象である。」ここで、霊魂が心とまったく異なる実体として語られていることに注意深く気づくべきである。Dugald Stewart は、心は一度に一つの思考にしか注意を向けることができないとわれわれに告げる。Gautama は同じ事実を認めつつ、知る者をつねに霊魂として語り、問題の事実を、心と称される道具すなわち内的器官があり、それを通じてのみ知識は霊魂に達しうると想定することによって説明する。そしてそれは一度に一つの思考しか受け入れないので、Naiyāyika はそれが原子より大きくないにちがいないと推論した。
「快、苦、欲求、嫌悪、意志、知識が、それによってわれわれが(ātman)を認識するものである」と Gautama は言う。またさらに、「心(manas)の」(その存在をそれによって推論する)「しるしは、(霊魂において)認識が同時に生じないことである。」こうして霊魂は実際上、思考する原理に対応し、心(manas)は一度に一つの、ただ一つのものに注意を向ける能力に対応するとみなしてよい。さらに、Naiyāyika は心を能力ではなく実体とみなしていることを記憶に留めておくべきである。
「正しい知識を得るべき対象の表において、心の次は活動である。これは『声の[発話]、悟性の[認識]、身体の[身振り]を起こすもの』と定義される。この活動を、第二格言のもとで見たように、Gautama は悪しき眼で見る。それは誕生の原因であり、誕生は苦の原因であり、苦を永久に取り除くことが summum-bonum だからである。
彼はさらに、われわれが活動するのはわれわれ自身の『過失』によるのであると考え、過失(すなわち欠陥)は『活動』を引き起こすという特徴をもつとわれわれに告げる。これらの過失は、愛着、嫌悪、そして愚鈍すなわち迷妄の項目のもとに分類される。彼はそのそれぞれを過失すなわち欠陥とみなす。それが行為に導き、その報いは、善であれ悪であれ、何らかの誕生、すなわち世俗的存在の状態において受けねばならず、全面的解脱という大いなる目的を延期させるからである。」
「解脱」mokṣa すなわち apavarga への直接の障害、すなわち「輪廻」pretyabhāva を、彼は次に「再び生ずること」punarutpatti と定義する。「苦」duḥkha を彼は「不安によって特徴づけられるもの」と定義し、そこからの絶対的な解放が「解脱」である。この summum-bonum は、善悪を問わずすべての行為の放棄によって得られるべきである。」— SMALL, HSL.