Böhtlingk縮約梵独和辞典(Schmidtによる補遺付)

Otto Böhtlingk: Sanskrit-Wörterbuch in kürzerer Fassung, 1879. Richard Schmidt: Nachträge zum Sanskrit-Wörterbuch, 1928. 両書に和訳を付す(2026年9月2日版)

原著の序文および文献一覧の全訳。人名・地名はローマ字のまま、サンスクリットは IAST で表記した。

Böhtlingk 序文(1879)

Sanskrit-Wörterbuch in kürzerer Fassung, bearbeitet von Otto Böhtlingk. Erster Theil: Die Vocale. St. Petersburg: Buchdruckerei der Kaiserlichen Akademie der Wissenschaften, 1879.


数年前に完成した、いわゆる Petersburg 辞典全七巻に加えて、初学者や、そこに備えられた装置があまりに豊富に過ぎるという利用者の求めに応じた、より簡潔な版を作ることが適当と思われた。これは同時に、辞典そのものに対して、現時点で可能な補足と訂正を施す機会でもあった。署名者がこの意図を友人 Roth, Kern, Stenzler, Weber に告げたところ、彼らはこれを励ましてくれたばかりでなく、新たな事業をあらゆる仕方で助力したいとの確約を与えてくれた。この約束を彼らは見事に果たし、私が期待し得た、また期待してよかった以上に多くを訂正し、新たなものを加えてくれた。訂正については誰ひとり欠けることがなかったが、新たな寄与をもっとも多く与えてくれたのは Roth と Kern である。しかし他の学者たちもまた、大小の寄稿を急ぎ届けてくれた。C. Cappeller, B. Delbrück, R. Garbe, K. Geldner, J. Jolly, A. Leskien, J. Muir, R. Pischel, A. Schiefner, Leopold Schröder, W. O. E. Windisch の諸氏に感謝をもって思いを致す。しかし最大の謝意は、常に、最初に挙げた四人の友人に帰せられるべきである。

したがって新しい辞典は旧い辞典に取って代わるべきものではなく、これに多かれ少なかれ依存する関係において現れるべきものである。訂正すべきところは訂正し、欠けるところは補い、しかし他方で、旧辞典に与えられた引用と典拠箇所をすべて省くことによって、大辞典が主たる源泉であり続けねばならないことを常に想起させるべきである。簡潔な方の著作で足りるか、あるいは詳しい方にも手を伸ばさねばならないかは、誰もがやがて自ら気づくであろう。しかし大辞典を持つ者も、もう一方を手放そうとはしないであろう。なぜなら、先に述べたように、それは訂正し補うものであり、諸処に散在するものを一つに合わせるものであり、そして最後に、使用に際してはるかに手軽であるからである。

アクセントを付したのは、アクセント付きの文献に現れる語のみである。アクセント付きの文献に現れる語であっても、そこでは呼格でのみ現れるためにアクセントが決定できない場合には、その語が最初に現れる書を常に挙げた。これまで文法家または辞書家によってのみ挙げられている語、語義、構文、あるいは性には、* を付した。ただし文法家または辞書家が、単に伝承するのでなく、あるいはおそらく彼が場当たり的に案出した語や文全体を我々に示すのでもなく、独立した著者として一つの語を用いている場合には、そのような語は文献に典拠のあるものと見なした。ところどころで引用される Bhaṭṭikāvya は、Pāṇini の文法の単なる例示にすぎず、独立した文学作品の名を要求する資格を持たない。以前に挙げた引用は、原則として、それが語の別の意味のもとに置かれたか、あるいは訂正された場合にのみ、繰り返して見出されるであろう。ところどころに、より良い版あるいはより入手しやすい書がその箇所に置き換えられたという限りで、見かけ上のみ新しい引用がある。しかし原則としてこれは、疑念がある箇所の再検討を促した場合にのみ行われている。しばしば再検証が行われたことは、やがて確信できるであろう。しかしすべての箇所がもう一度見直されたわけではないことは、言うまでもあるまい。完全な索引を備える書については、数字は必要のない限り付加しなかった。とくに後の方の折丁においてそうである。新たに採録した複合語について欠けている典拠は、大辞典において第一語または第二語のもとに見出されるであろう。vb、あるいは ś, , s が交替する語は、より古い、あるいはより確かな典拠のある綴りでのみ挙げた。

補遺がかくも大部になったことは、大部分、この人あの人が寄稿を私に送るのが遅すぎたこと、ある書がしかるべき時に手元になかったこと、そして最後に、植字工に対して稼いだ先行の余裕が、それまでまったく顧慮されずにいた、あるいは十分に活用されていなかった著作を辞典のために利用するよう私を誘ったことから説明される。

終わりに、この第一部で引用した著作の一覧を掲げる。書名を伴わない二つの数字は、私の Chrestomathie 第二版を指す。書名の末尾に括弧で示した名は、当該の書からこの辞典への寄稿を全部または大部分提供した学者を示す。

引用文献一覧

Jena, 1879 年 5 月 1 日

O. Böhtlingk


Schmidt 補遺 序文(1928)

Nachträge zum Sanskrit-Wörterbuch in kürzerer Fassung von Otto Böhtlingk, bearbeitet von Richard Schmidt. Leipzig: Otto Harrassowitz, 1928.


これまでに発表した二篇の寄稿——WZKM 29, 259 ff. および ZDMG 71, 1 ff.——において『サンスクリット辞典』の増補を試みたが、本語彙集はそれらに加えて、主として Yaśastilakacampū から得た収穫を収めるものである。その豊かさは手に取るように明らかであって、それだけでも印刷に付する理由として十分であろう。もっとも、作者自身が作品の末尾(II, 418, 20/21)で、語彙の面での実り多さに次のように注意を促している。

abhidhānanidhāne 'smin Yaśastilakanāmani
Yaśodharamahārājacarite stān matiḥ satām.

それだけに、Somadevasūri のこの作品を確信をもって最後まで読み通せなかったことは、私にとって残念でならない。註釈は遺憾ながら第二巻 243 頁 8 行で途切れており、この心得た案内人なくしては、この原生林の中を確かな足取りで進むことは不可能なのである。1 註釈のある部分でさえ、なお多くが暗く、少なくとも疑わしいままである。

pw にまったく欠けている語、あるいは語義、あるいはそのような性については、これまでどおり ° をもって示した。他方 * は、当該のものが pw に未だ典拠を挙げられていないことを意味する。さらに私の一覧には、これらの印を持たない語もいくらか含まれている。それは Böhtlingk の総索引(Generalindex)で補われた語であって、新たな典拠として私の一覧に欠けるべきでないものである。出典箇所の指示は意図的に網羅していない。とくに頻出する語については、ときに「etc」をもってその旨を示した。引用は巻・頁・行による。v. u. は「下から」(von unten)を意味し、その際、註を含む行は数えていない。二行の詩節には a, b を、四行の詩節には a, b, c, d を用いた。これらはすべて他の文献についても同様である。

私の一覧において Galanos が再び名誉を回復することは、とくに強調しておきたい。antika, kakubha, kāraṭaka, prajava をその証左として書き留めてある。また Yaśastilakacampū の註釈を余すところなく利用したことは、いわば当然のことである。Śrutadevasūri は辞書学にきわめて通じた人物であって、本文中の稀な語をしばしば少なくとも同じくらい稀な二つの表現で註し2、あるいは śvan のようなごくありふれた語を、通用しない語(この場合 saramāsuta: I, 126, 15)で説明する。それゆえ彼は我々の十分な注意に値する。彼の註釈から得た知見には (Ko.) を付して識別できるようにした。

この版が相当数の誤植を含むという事実は、言わずに済ますわけにはいかない。私の一覧を評価する際には、ところどころでそのことを考慮する必要があろう。しかしそれを功労ある編者たちに対してあまり重く責めるべきではない。彼らは次の言葉を正当にも想起させてくれるのであり、私はこの言葉が私自身の仕事についても言われるものと承知しているのである。

gacchataḥ skhalanaṃ kvāpi bhavaty eva pramādataḥ;
hasanti durjanās tatra, samādadhati sajjanāḥ.

さて、私は当初、Yaśastilaka からの拾遺を単独で刊行するつもりでいた。1921 年 3 月 7 日、私は印刷準備の整った原稿の表紙に、かつて Aufrecht がそうしたように、安堵の溜息を書きつけた——Augiae stabulis purgatis plaudite, amici——そのとき、pw のヘリオプラン複製(Helioplan-Neudruck)によって私の計画はまったく新しい方向へ転じたのである。すなわち出版者が私に、これに補遺を付けてほしい、そして何よりも同学の士の支援を得るために呼びかけを出してほしいと求めてきた。呼びかけは LZ の 1923 年 8 月 1 日号に掲載されたが、残念ながらほとんど顧みられず、名乗り出たのは Geldner, Jolly, Zachariae、および cand. E. Baer(Zürich)だけであった。奇妙な、まことに奇妙なことである。しかし少なくとも同じくらい奇妙であったのは、Markert & Petters 社が私に伝えたところによれば、Leipzig の種々の「専門家」〔??〕たちが、pw への補遺を転写(ローマ字)で出しても成功しないだろうと考えていたことである!!! 私はこの種の賢明さにはまったく理解を持ち合わせないので、ただちに交渉を打ち切り、Orient-Buchhandlung と契約を結んだ。その店主 Heinz Lafaire 氏は当初から並々ならぬ好意と理解を示してくださったので、このことを公に、心からの感謝をもって認めるのが私の義務であると考える。氏はまた直ちに私と同じ考えを抱いた。すなわち、我々の刊行物が真に役立つものとなるべきであるならば、Böhtlingk の補遺を余さず私の一覧に組み入れねばならない、ということである。ただし時間は、Böhtlingk の引用を検証するには、ましてやそれをより望ましいことであるが最新の諸版に合わせるには、遠く及ばなかった。私はすべてをそのまま受け入れ、ときおり外形上の小さな手直しを加えたに過ぎない。それ以外の点では、個々の場合にどちらの所有に属するかを即座に確定するのは容易であろう。* または ° で足りない場合には、引用ないしその形式が決定的に物語る。なお、私に由来する項目を Böhtlingk に帰する人がいたとしても、私は少しも気を悪くしない。私は pw に込められた業績に対してきわめて高い敬意を抱いており、私自身にもなお相当な部分が残るのである。謙遜を損なうことなく言えば、Böhtlingk の補遺のおよそ 14450 項目に対して、私は約 12000 の新たな、すなわち自身の項目を対置し得ると確認してよかろう。それらは以下の文献に由来する。

典拠文献


二人の助力者 Zachariae と Baer には格別の感謝をもって思いを致す。前者からは多くの新たな典拠と参照が寄せられ、後者は Kaśm(īr) Śiv(a 派) の文献から 100 を超える新語ないし新語義を提供してくださった。両氏の知見はそれぞれ [Z.] および [B.] によって識別できるようにした。

また植字工にも感謝をもって思いを致す。彼は私の原稿を的確に処理してくれた。それは決して容易ではなかった。原稿の大部分が、紙不足がきわまり、あるいは筆記用紙として買ったものがペンともインクとも馴染もうとしなかった時期に書き散らされたからである。そのため私は、すでに二度、いや三度も他の仕事に使われた紙片を用いざるを得ず、それらは結局のところ一部あまりに混沌として色とりどりの様相を呈し、熟練の眼だけが正しい道を見分けることができたのである。

最後にひとこと付け加えておく。これを言わずにおくことは私の最も深い確信に反するからである。私は pw の新版というものをまったく別のものとして思い描いていた。1889 年以降に現れた新資料の全体をもって Böhtlingk の仕事を補うべき時が、まさに来ていたはずである。その収穫がどれほど豊かであったかは、私が読んだ bhāṇa において特に痛感した。それらのいくつかは、分量の乏しさにもかかわらず数百の新語をもたらしたのである。しかしむろん、徹底した仕事を成し遂げようとするならば、世界中のインド学者が集わなければならない。それが速やかに実現することが、私の心からの願いである。

Münster W., 1924 年 9 月 26 日

Richard Schmidt


1 新たな踏査を 1922 年 4 月 10 日に始め、5 月 28 日に、豊かな収穫を携えて終えた。

2 kolikasya tantuvāyasya kuvindasya I, 126, 10 v. u. のような例も参照されたい。