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河口慧海『漢藏對照國譯維摩經 全』
[#入力者記:未校正です。原著は漢文からの譯と西藏語(チベット語)からの譯の二段組ですが、西藏語からの譯のみを入力致しました。私は漢文からの譯を入力する予定はありませんので、入力して頂ける方が居りましたら歓迎いたします。]

[經名]

[西藏譯典]

アールヤ・ヰ゛マラ・キールティ・ニルデーシャ

ナーマ・マハーヤーナ・スートラム
−−梵文−−

パクパ・チマ・メッパル・タクペェ

テンパ・セー・チャワィ・テクパ・チェン・ポィ・ドー

−−西藏語−−

聖無垢稱所説と名づくる大乘經

[詳名]

聖無垢稱説示和合自性寂靜明瞭成就不可思議完全解脱經

−−日本文−−

2佛と菩薩と聲聞と獨覺との過去現在未來の總てに禮拜し奉る。

3[缺][佛國土完全清淨章第一(章尾にあるも便宜上かゝぐ)]

4このやうに私は聞ゐた。

ある時、世尊は、吠舍離市にあるアムラ守護の園で、八千の比丘の大僧伽と一座に居られた。

5彼らはみな阿羅漢であつて、漏は盡きて煩惱なく、力を具え、心は全く解脱し、慧は全く解脱し、何事も知り、大象となり、爲すべきことは既に爲し、爲さねばならぬことも既に爲し、重荷を捨て、事故の目的を獲て一切の有結を全く盡し、完全の智によつて心は全く解脱し、心の力は一切の正しい悟りの岸に逹した者のみであつた。

6また三萬二千の菩薩も同座にあつた。彼等は皆神通に通じた菩薩、大薩であつて大神通を完全に修め、その奧を究め、佛陀の加持によつて加持せられ、法城を守り正法を全く持ち、獅子吼すれば、その聲十方に好く傳わる。他より請はれざるも一切衆生の善友となり、三寶の種族を絶えないやうに盡力して、惡魔の跳梁《てうりやう》を降伏した。他より暴虐な者が出でても、その總てが彼等を屈從せしめることは出來ぬ。

7記憶と・推理と・了解と・三昧と・總持と、辯才とは、皆完全であつて、總て起つた覆障から離れ、無覆障の完全解脱に住し、辯才は相續不斷であつて、布施と・教誡と・不變と・完全結制と・戒律と・忍辱と・精進と・智慧と・方便に巧妙なことと・願と力と智の岸に逹したので、確實に出離してゐる。無欲であつて無生活の忍智を具え、不退轉の法輪を轉じ、無性の寶印を印し、一切衆生の機根を知ることが巧みで、一切の集會によつて威壓せられない。無畏を以て、他を完全に威壓し、幅と・智の大聚をあつめ相好と種好の總てを以て、身をよく莊嚴し、正身を持ち、相續を離れ、妙高山頂の高きが如く、その名譽は明かに神聖で、その超絶した思想は、金剛の如く堅いので、以て佛法僧に不斷の信を得て、法寶の光明から甘露の雨をよく降らし、一切衆生の談話と言語と、音調の支分と、發音につゐては全く正しき音調を具え、微細の法である因縁生に入つて、極端と無極端の見餘習的作用を全く斷つて、獅子の如くに畏れなく、明かに言語を發し、大法の雷聲を轟かし、同と不同との法から完全に拔け出て、法寶の慧と、福聚を完全に成就した大導師であつて、清凉で寂靜に微妙で柔和に見ること難く、了解し難い法の理趣を巧みに知つて、衆生等の來ると行くと、衆生の思想の動く所を、最もよく知る智の境を具へ、不等と平等の佛智に灌頂せられ、十力と、無畏と、佛の不共法を接し、惡趣の畏れと、惡道の邪見に墮つる一切の恐怖の煩惱から出で、思ふやうに世界の衆生に生を示し、大醫王となり、また一切衆生を教誡する方法に巧みで、一切衆生の煩惱病を完全に了解し、よく相應した所の法藥を最もよく調合して、無邊功徳の生所を具へ、無邊諸佛國土の功徳莊嚴を以てよく莊嚴し、彼を見るも聞くも共に結果がある。歩行さへも結果がある。無量百千萬億劫のあひだ、功徳を全く説ゐても、その功徳の大河が無邊なことは、説き盡し難い。此等の菩薩方の名は以下の如くである。

8 (1)平等觀菩薩、(2)等不等觀菩薩、(3)完全神變三昧王菩薩、(4)法自在、(5)法頂、(6)光頂、(7)光莊嚴、(8)寶莊嚴、(9)大莊嚴、(10)辯積、(11)寶積、(12)寶手、(13)常印寶、(14)常伸手、(15)常擧手、(16)常痛、(17)常樂莊嚴自在、(18)最勝喜王、(19)天王、(20)入願施、(21)別別完全最勝明成就、(22)虚空藏、(23)寶燈持、(24)寶勇、(25)寶喜、(26)寶吉祥、(27)幻化、(28)網光、(29)無想定、(30)慧積、(31)寶施、(32)降伏魔、(33)電天、(34)完全幻化王、(35)名積完全超絶、(36)獅子吼聲音、(37)諸山頂降伏王、(38)香象、(39)香牛象、(40)常精進、(41)精神不捨、(42)最勝解、(43)美生、(44)蓮華徳心、(45)蓮華莊嚴、(46)觀自在、(47)大勢至、(48)梵網、(49)白寶座、(50)勝魔、(51)等上莊嚴、(52)寶珠傘、(53)頂金、(54)頂珠、(55)彌勒菩薩、(56)文殊師利童子と其等の三萬二千の菩薩であつた。

9 無憂世界の四大州から、屍棄梵天等の一萬の梵天は世尊に遇つて、禮拜し、恭敬し法を聽く爲めに集つて、その集會に入つた。四大州の一々からも、一萬二千の因陀羅が集つて彼等もまた集會に入つた。このやうに他にまた大自在と名づける梵天と・因陀羅と・護世者と・神と・龍と・夜叉と・乾逹婆と・阿修羅と・伽樓羅と、緊那羅と・摩訶羅伽などもその集會に入つた。竝びに四衆の比丘と比丘尼と・信男と信女等もまたそれに集まつた。

10 その時、世尊は徳藏の獅子座に坐せられ全く多數百千の集會に取圍まれ、御前を御覽になつて、御法をお説きになつて居られた、そのありさまは恰も海の名から、山王妙高山が巍然として表はれ給へるやうに總ての集會を威壓して巍々堂々赫々晃々として徳藏の獅子座に坐して居られた。

11 その時梨車蔑族の菩薩寶生童子は、梨車蔑族の五百の青年とともに七寶の傘を持ちて、吠舍離の大城市から出て、アムラ守護園に行つて世尊の居らるゝ所に着ゐた。さうして世尊の御足元で、頭を地につけて禮拜し、世尊を七度繞つて、彼等が持つてゐる寶傘を以て、世尊を全く明らかに覆い奉つて、或方に坐した。

12 それ等の寶傘を世尊に奉ると、直ちにその時に佛陀の力によつて、それらの寶傘が一になつて、その寶傘によつて、三千大千世界の總てを覆つた。さうしてその大寶傘の中には、三千大千世界に在る山王妙高山等と、雪山と、ムチリンダ山と、大ムチリンダ山と、香山と、寶山と、黒山と、集會と・大集會と・それ等總てもまた、その大寶傘の中に現れた。この三千大千世界にある大海の總てと・湖と・池と・沼と・瀧と・川と・泉等の總ても、またその大寶傘の中に現はれた。この三千大千世界にある日と月の宮殿と・星の相と神の住所と・龍の住所と・夜叉と・乾逹婆と・阿修羅と・伽樓羅と・緊那羅と・大蛇の住所等と・四天王の住所と・市と・城市と・村落と・國家と・王宮の眷屬など、そこにある程のそれら總てもまた、一大寶傘のその中に現はれた。十方の世界に於て、佛世尊等が説法し給ふ總てもまた、一大寶傘から出た妙音があつた。

13 次に世尊からこのやうな大神通を見せられた一切集會の人々は、皆驚嘆し、歡喜し、勇躍して最も歡喜し、最も安穩の意を起し如來を禮拜してその眼は瞬きもせずに見て居つた。

14 さうして梨車蔑童子の寶生は、世尊からこのやうな大神通を見て、右の膝を地につけて、世尊に向つて合掌し禮拜して、世尊に次のやうな頌を以て明かに讚歎した。

(ア)清淨微妙で蓮の花辯のやうな輕妙な御眼と御思ひが清淨で寂靜最勝の到彼岸を得給ふた。徳行を積聚められた功徳は廣大であつて量ることが出來ない。徳行寂滅の道に導き給はるゝ世尊に禮拜する。

(イ)最勝丈夫導師の神通ある世尊《あなた》よ見給へ。善逝の最勝最妙なる國土のすべても存在する。世尊の法命を受けた廣大不死の衆生である。彼等はすべて虚空の中に居る。

(ウ)世尊《あなた》は法の最勝王國のこの法王であらせらる。勝者は衆生等に法財を與えられた諸法を開説するに最も巧みであつて眞諦を示し給ふた。法自在者である法王に頭を以て禮拜する。

(エ)有るでもなくまた無いでもない。この一切の法はみな印に縁つて生ずる。これには我もなく受くるものもなく作すものもない。善惡の業何れに對しても疑なく言語を以て示された。

(オ)牟尼自在のあなたは有力な魔群を完全に降伏して、最勝菩提最深寂靜不死の樂を得られた。それは心に受もなくまた意の動くこともなひ。外道邪惡の衆等にはそれが解らない。

(カ)超絶した法王は天と人とに對して明らかに三度唱へて轉じた諸種の法輪は、誠に寂靜の自性でまた完全清淨なものであつた。その時三寶等もまた世に示された。

(キ)世尊《あなた》が法寶を以てよく教化せられたところの、彼等は常に妄想がなくて全く寂靜である。世尊は生老病死の究竟に到逹せられた醫師の最勝である。量ることのできない功徳海に頭を以て禮拜する。

(ク)善き相好を具えて妙高山のやうに不動にあらせらる。持戒者と犯戒者とを等しく愍れむ所の平等に入られて御心もまた虚空に等しい。この稀な勝れた方に衆生として誰が供養せずにゐられやう。

(ケ)缺

(コ)缺

(サ)大牟尼さま此等集會の人々は、世尊の御顏を全く最勝の心を以て見てゐる。またみなジーナ(勝者)御自身の御前を見てゐる。それはジーナの不共なる佛の善相である。

(シ)薄伽梵は一音を以てよく説かれるけれども、集會のもの等は一音におゐて別々に解する。衆生等は自分の意義に隨つて解する。それは勝者の不共なる佛の善相である。

(ス)缺

(セ)一音を以てよく宣言せられたそれによつて、或者は餘習を雜へ或者は妄想をなし疑を起す者等を導師は全く除滅し給ふ。それは勝者の不共なる佛の善相である。

(ソ)十力導師の御徳を持つ世尊に禮拜する。畏れをもたず畏れと離れられた世尊に禮拜する。不共の諸法を確實によく悟られ、一切衆生を導き給ふ世尊に禮拜する。

(タ)すべての結縛を立たれた世尊に禮拜する。彼等に逹し救世に入られた世尊に禮拜する。苦患の衆生を救はるゝ世尊に禮拜する。輪廻の衆生界に住まざる世尊に禮拜する。

(チ)衆生等と共に住み總てを友とし給へども一切衆生から完全に解脱せられた御意は蓮華の水より生れて水に染まないやうで牟尼が蓮華を以て確に空性を觀ぜられた。

(ツ)諸相をあまねく全く明かにせられ、世尊は何をも欲し給ふことなく、諸佛の大力なる不可思議があつて、虚空のやうに止まり給はざる世尊に私は禮拜する。

15 その時、薄伽梵は梨車蔑族の青年寶生がこれ等の頌を以て明かに讚歎して、次のやうに申上げた。

16 「薄伽梵樣、梨車蔑族の青年五百人程のものが、總てまた無上完全圓滿の菩提に全く入つて、また諸菩薩が佛土を完全清淨にすることの如何であるかを知らうと願ふてゐる。されば薄伽梵如來樣は、かの菩薩に對して佛國土を完全清淨にすることを、よく説明せられんことを願ふ」と。

17 そこで薄伽梵は梨車蔑族の青年寶生に「善いことである」と言はれて、また「善い事である善い事である。青年よ、お前が佛國土を完全清淨にすることに就ゐて、如來に尋ねたことは、よいことである。されば青年よ、お前はよく聞ゐて完全に記憶せよ。菩薩等が佛國土を完全清淨にすることにつゐて、乃公《わし》はお前に説明しやう」と。

18 「はい薄伽梵樣」と寶生は申上げた。さうして梨車蔑の青年寶生と、梨車蔑の青年五百の者等は、薄伽梵の仰せを一心になつて聽ゐた。そこで薄伽梵は彼等に次の樣に仰せられた。

19 「紳士よ、衆生の國土は菩薩の佛國土である。何故かと言ふに、菩薩が何程か衆生等を利益するに從つて、それだけ佛國土を全く持《たも》つのである。衆生等がどの樣に教化されるかに從つて、その樣に佛國土を全く持つのである。佛國土に入るにどのやうなことを以て、衆生等をして佛智に入らしめられるか、それに從つて、それだけの佛國土を全く持つのである。佛國土に入るにどのやうに衆生等をして、聖人の如き機根を生ぜしめるかに從つて、その樣に佛國土を全く持つのである。それは何故かと云ふに、紳士よ、菩薩等の佛國土は衆生の利益から生じるゆゑである。

20 「寶生よ、この通りに恰も虚空の樣で、そのゆちに爲さんと願ふものは、それに從つて爲し得るけれども、虚空そのものには爲さるゝこともなく、莊嚴せらるゝこともなひ。

21 「その樣に、寶生よ、諸法は虚空と等しいと知つて、菩薩は衆生を全く熟せられる故に、佛國土はどの樣に爲さんと願ふ者の樣に、佛國土を爲し得るけれども、佛國土である虚空は、爲さるゝこともなく莊嚴せらるゝこともなひ。

22 「寶生よ、然しながら觀想の國土は菩薩の佛國土であつて、彼が菩提成就の佛國土には、衆生の詐欺なき者と虚榮なき者等が生まるゝのである。紳士よ、超絶觀想の國土は菩薩の佛國土であつて、彼が菩提成就の佛國土には、徳の根本と諸徳を輯めた衆生等が生れるのである。

23 「修行の國土は菩薩の佛國土であつて、彼が菩提成就の佛國土には、總ての道徳法に住する衆生等が生まるゝ事となるのである。

24 「菩薩の廣大なる發菩提心は、佛國土であつて、彼が菩提成就の佛國土には、全く大乘に入つた衆生が生るゝこととなるのである。

25 「布施の國土は菩薩の佛國土であつて、彼が菩提成就の佛國土には、總てのあらゆる財産を全く施す所の衆生等が生るゝこととなるのである。

26 「戒律の國土は菩薩の佛國土であつて、彼が菩提成就の佛國土には、總ての思惟を持ち十善業道を全く護る衆生が生るゝこととなるのである。

27 「忍辱の國土は菩薩の佛國土であつて、彼が菩提成就の佛國土には、三十二相を以て莊嚴し、忍辱と・教化と・正寂靜處の彼岸に至りたる衆生等が生るゝこととなるのである。

28 「精進の國土は菩薩の佛國土であつて、彼が菩提成就の佛國土には、一切の道徳法に精進努力する衆生等が生るゝこととなるのである。

29 「禪定の國土は菩薩の佛國土であつて、彼が菩提成就の佛國土には、記憶と知覺とを以て平等に入定する衆生等が生るゝこととなるのである。

30 「最勝智の國土は菩薩の佛國土であつて、彼が菩提成就の佛國土には、完全に確定したる衆生等が生るゝこととなるのである。

31 「四無量心等は菩薩の佛國土であつて、彼が菩提成就の佛國土には、慈愛と・悲愍《ひみん》と歡喜と・平等に住する衆生等が生るゝこととなるのである。

32 「四攝の事實等は菩薩の佛國土であつて、彼が菩提成就の佛國土には、完全解脱の一切を以て全く憶持する衆生等が生るゝこととなるのである。

33 「方便に巧妙なることは、菩薩の佛國土であつて、彼が菩提成就の佛國土には、一切の方便と行事に巧妙なる衆生等が生るゝこととなるのである。

34 「三十七助道分の法等は、菩薩の佛國土であつて、彼が菩提成就の佛國土には、(四)念處と・四正勤と・神通足と・五根と・五力と・七覺支と・八聖道成就を知るところの衆生等が生るゝこととなるのである。

35 「完全に囘向する心は菩薩の佛國土であつて、彼が菩提成就の佛國土には、一切功徳の莊嚴等が現はるゝこととなるのである。

36 「八難處を全く除くことを教ふるは、菩薩の佛國土であつて、彼が菩提成就の佛國土には、一切惡趣を切斷して八難處は無いのである。

37 「自分は學處の基礎等に住して、他方の墮罪を説かざることは、菩薩の佛國土であつて、彼が菩提成就の佛國土には、墮罪の聲も傳わらないのである。
38 「十善業道の全く清淨なることは、菩薩の佛國土であつて、彼が菩提成就の佛國土には、長壽にして財産大に、貞操清淨に行ひ、眞實に隨入する言語を以て莊嚴し、柔軟なる言葉と、衆と和合する言葉と、調和よき言葉に巧みなると、羨望の心を離れて他を害する心なく、正しき見方を具へたる衆生等が生るゝこととなるのである。

39 「紳士よ、されば菩薩の菩提心を生ずることの如何やうなるかに從つて、觀想もまたそのやうである。觀想の如何やうなるかに從つて、修行もまたそのやうである。修行が如何ほどなるかに從つて超絶の觀想もまたそれ程である。超絶の觀想が如何ほどなるかに從つて、確定觀念もまたそれ程である。成就の如何ほどなるかに從つて、完全囘向もまたそれ程である。方便等が如何ほどなるかに從つて、國土の完全清淨もまたそれ程であつて、國土の完全清淨の如何樣なるかに從つて、衆生の完全清淨もまたそのやうである。

40 「衆生が如何樣に完全清淨なるかに從つて、智の完全清淨なることもその樣である。智の完全清淨なることの如何樣なるかに從つて、教法の完全清淨なることもその樣である。教法の完全清淨であることの如何樣なるかに從つて、智成就の完全清淨なることもその樣である。智成就の完全清淨の如何樣なるかに從つて、自心の完全清淨なることもその樣である。

41 「紳士よ、その故に菩薩が佛國土を完全清淨にすることを願ふが故に、自ら心を完全に修むることに努力せねばならぬ。それは何故かと言ふに、どの樣に菩薩の心が完全清淨なるかに從つて、そのやうに佛國土が完全清淨となるのである。

42 その時、佛の力によつて長老舍利子は、かう思つた。「もしいかほど心が完全清淨であるかに從つて、それほどに菩薩の佛國土が完全清淨となるならば、薄伽梵釋迦牟尼樣が菩薩の修行をせられた時、心が全く不清淨であつたであらうか。何故にこの佛國土がこのやうに全く不清淨であるか。」

43 その時、薄伽梵は長老舍利子の心の思ひを御心に知られて、仰せになつた。「舍利子よ、これを如何に思ふ、日と・月とは・全く不清淨となるか。何故に生盲者は見ないのであるか」と。舍利子は申上げた。「薄伽梵樣、さうではない。それは盲者の罪であつて、日と・月との罪ではない」と。

44 世尊は仰せられた。「舍利子よ、そのやうに或衆生は如來の佛國土の功徳莊嚴の羅列したのを見ない。それは衆生等が無知の故に見ないのであつて、如來が見せないのではない。舍利子よ、如來の佛國土は完全清淨であるも、お前がそれを見ないのだ。」

45 その時、屍棄梵天が尊者舍利子に言つた。「尊者舍利子よ、如來の佛國土が全く不清淨であるなど言ひ給ふな。薄伽梵の佛國土の全く清淨なることは譬へば、他化自在天の諸神の住所の莊嚴のやうである。薄伽梵釋迦牟尼の佛國土の莊嚴もまた、私はそれと同じと見る。」

46 その時、舍利子が告げた。「梵天王よ、私はこの大地を高低と・荊棘《けいきょく》と・險處と・山頂と・斷崖と・泥溝とを以て全く充ちてゐると見る。」

47 梵天王は言つた。「このやうな佛國土をそのやうに全く不清淨に見ることは、尊者舍利子の心に高低があつて、佛智に對して觀ずることの全く不清淨なことは確かである。誰でも尊者舍利子よ、一切衆生に對して心平等であつて、佛智を觀想すること完全清淨なる者等は、この佛國土を完全清淨であると見てゐる。」

48 その時、薄伽梵はこの三千大千世界を御足の拇指をもつて押された。押すや否や、この世界は多くの寶を積んで、諸種百千の寶物が集り、諸種百千の寶物が別々に莊嚴することとなつたことは、譬へば寶莊嚴如來の無邊功徳世界の莊嚴のやうにこの、世界もまた、それと同じく現はれた。その時、そこに集まつてゐた總ての者は、非常に驚ゐて自分等もまた寶蓮華座の上に坐してゐると思つた。

49 その時、薄伽梵は仰せられた。「舍利子よ、お前はこの佛國土の功徳莊嚴を見たか」と。舍利子は申上げた。「薄伽梵樣、見た。嘗《かつ》て見たことも、聞ゐたこともなひ莊嚴であつた。」

50 薄伽梵は仰せられた。「舍利子よ、この佛國土は常にこの樣であるが、劣つてゐる衆生等を全く熟せしむる爲に、如來は佛國土をあのやうに多くの害惡あることを示現して、舍利子よ、譬へていふと、神の子等は同一の容噐で食物を食ふけれども、彼等各自が福を如何に積んだかの差別に從つて神の食物即ち甘露を攝取するやうに、舍利子よ、一の佛國土に於て、同じくうまれた衆生等でも、心が何程に完全清淨なるかに從つて、諸佛の佛國土の功徳莊嚴を見る。」

51 佛國土の功徳莊嚴の羅列の現はれたこの事によつて、八萬四千の衆生等が、無上完全圓滿の菩提に心を起した。梨車蔑の青年寶生と共に集つた梨車蔑の青年五百人の者等も、またそれに一致した忍智を得た。その時、薄伽梵は、それ等の神通變化を收められたので、またその佛國土はそれがために前の自然になつて現はれた。

52 それで聲聞乘の神と人等がかういふことを思つた。「あゝ此等一切の者は無常である」と。それで三萬二千の衆生等も、諸法に於て法眼が塵なく垢を離れて完全清淨となつた。八千の比丘は取ることなしに諸々の漏から心を全く解脱した。

53 廣大なる佛國土を願ふ所の衆生八萬四千人も、また諸法は完全に成就するが故に禪定の自性であると知つて、無上完全圓滿の菩提に心を起した。

佛國土完全清淨、即ち、序の章で、第一である。

[缺][方便巧妙不可思議章第二]

54 その時、また吠舍離大城市に於て、梨車蔑族の無垢稱(維摩羅詰底、略して維摩)と名づくる方が居られた。彼は昔のジーナ[佛]に非常なる修行を致して善根を植ゑた。また多くの佛に恭敬《くぎやう》して、忍智を得、辯才を得、大神通を以て全く遊戲し、總持を得、無畏を得、惡魔と敵を降伏し、深遠なる法の理趣に深く入り、最勝智の覺岸に逹して、確實に出離し、方便を巧妙に解することを心に入れ、辯才を具へ、衆生の思想と・行状とを知り、衆生の機根の最勝と、・最勝でないものとを確實に知るが故に、別々に相應した法を示し、この大乘に努力して、確實に行ひ、實に悟りて、業を行ひ、佛の行道に住し、正解は海の如き中に入り、諸佛に讚歎せられ、恭敬せられ、全く稱讚せられ、因陀羅と、梵天と・護世の總てに禮拜せられた。

55 彼は衆生を完全に熟するために、方便に巧妙である。されば維摩は吠舍離大城市に住して、衆生の主なきものと、貧民等を救助する爲に、財産の盡きることを知らず、衆生の犯戒者等を收むる爲に戒律は全く清淨にして、衆生の怒るものと、最も怒るものと、害心を持つものと、犯戒のものと、忿怒の衆生等を治むる爲に、忍辱と・教化とを得て居られた。怠惰の衆生を治むる爲に、熱心に精進し、心の混亂する衆生等を治むる爲に、禪定と・記憶と・三昧に住し、衆生|奸邪《かんぢや》の智慧ある者等を治むる爲に、最勝智を完全確實に得られた。白衣を着ながら沙門の行道を完全に行ひ、在家の住所に住して、欲界・色界・と無色界とに雜染せず、子供と・妻と・家族等を示すけれども、常に清淨に行ひ、奴婢によつて完全に圍繞せられるけれども、常に、寂靜處に行ひ、飾りを以て飾るけれども、常に相好を具ふ。

56 飮食物を飮食するけれども、常に禪悦食を食ひ、藝妓と幇間《はうかん》の總てに現はるゝけれども、藝妓と幇間に執着する、衆生等を完全に熟せしめて、常に意義あることを行ひ、總ての驚嘆するものを求めても、佛に對して、破れざる觀想を具へ、世間と出世の祕密眞言と・論書の種類とを知つてゐるけれども常に法の歡喜を歡喜し、雜踏の盛なる中に現れても、總ての中に於て主として供養せられ、世間と一致して行ふため、老人と・中年と・青年の友となつて、法の如くに語り總ての經濟の利を知れども、得ることと・財産に望みなく、一切の衆生を教化する爲に四辻と、三辻の總てにも現れる。

57 衆生等を守る爲に王の所作等にも通じ小乘を喜ぶ者を導ゐて、衆生等を大乘に完全に守る爲に、法を聞くこととと、正しく云ふものの總てにも現れる。兒童等を全く熟せしめんが爲に、總ての學校にも行き、愛欲の害を示さんが爲に、娼妓の家にも普く入り、憶念を正しく置くことの爲に總ての酒賣る家にも入る。

58 法の最勝を示すために、商將の中に於ても商將として總てに敬われ、一切の執着を全く斷つことのために、長者の中に於ても長者として總てに敬われ、忍辱と・勇健と・力とを最も善く莊嚴するが故に、王族の中に於ても王族として總てに敬われ、我慢と・尊大と驕傲を全く降伏するが故に、婆羅門の中に於ても、總ての婆羅門に敬われ、王の總ての所作を法と一致することに導くが故に、大臣の中に於ても大臣として總てに敬われ、王の財産と權力とに執着することに反對するが故に、青年の中に於ても青年の總てに敬われ、青年女子をして完全に熟せしむる爲に、婦人の集會の中に於ても宦官として敬われ、凡夫の福が特に勝れてゐることを思はしめる爲に、凡夫とも一致することに入り、自在の主人なることを示す爲に、因陀羅の中におゐても因陀羅として總てに敬われ、智の特別なることを示す爲に、梵天の中に於ても梵天として總てに敬われ、一切衆生を全く熟せしめる爲に、護世の中に於ても護世として總てに敬われる。

59 その樣に梨車蔑維摩は、無量の方便に巧みなる智を具えて、吠舍離の大城市に住んでゐる。彼は方便に巧みであるから、自分を病氣の樣に示した。

60 次で彼に對して病氣見舞の爲に、吠舍離の大城市から、王と・大臣と・官憲と・青年の集會と・婆羅門と・長者と・商主と・町人と・國人と、その他多數の百千の衆生が來て、そこに集まつた。

61 彼等に梨車蔑維摩は、四大元素に於けるこの身を始めとして法を説ゐた。「盟友等よ、好みはこの樣に無常で、この樣に不定で、この樣に信用するに適しない。この樣に貧弱で、この樣に精髄《せうずい》なく、この樣に壞《やぶ》れ、この樣に時短く、この樣に苦痛で、この樣に病多く、この樣に變化する法を持つてゐる。

62 「盟友等よ、この樣にこの身は多くの病氣の噐にして、賢者はそれに住することをしない。盟友等よ、この身は何にも堪へざるもので、泡の膨脹した樣である。この身は長く止まらないこと、水の聚沫の樣である。この身は煩惱宇野存在から出來た蜃氣樓の樣である。この身は精髄なきこと、芭蕉の幹のやうである。あゝ、この身は骨を連絡したこと、幻化輪のやうである。この身は顛倒から生じたので幻の樣である。この身は完全でないことを見れば、夢の樣である。この身は前世の業の影の現れたので、影のやうである。この身は縁によるが故に、反響のやうである。この身は心が亂れて裂ける自性で、雲の樣である。この身は一瞬に破れて止まらないこと、電光の樣である。この身は種々の縁から出來たので、主が無い。この身は地と同じで、作者がない。この身は水と同じで、我が無い。この身は火と同じで、生命がない。この身は風と同じで、人がない。

63 「この身は虚空と同じで、自性が無い。この身は大元素等の住所で、完全でない。この身は我と・我所がないので、空である。この身は草と・木と・壁と・土塊と・眼翳の如くで、破れ衣である。この身は風の化輪を具えて生じたので、感覺が無い。この身は膿と・不淨を輯めた集團である。この身は常に汚されると・揉まれると・破れると・裂ける法を有つ海綿である。この身は四百四病に害せられる。尾の身は常に老衰によつて壓せられて、古井戸と同じである。この身は死の終極で、究竟に住しない。遂に終り迄止らない。この身は積聚と・界と・入とによつて全く持たれて、屠者と・毒蛇と・空宅の樣である。

64 「故にお前等はその樣な身を厭ひ、厭離の心を發して、如來の御身を願ふ心を起せよ。盟友等よ、如來の御身は法身で、智から生じた。如來の御身は、福から生じ、布施から生じ、戒律から生じ、完全解脱から生じ、完全解脱智見から生じ、慈愛・悲愍・歡喜・公平から生じ、布施・教化・完全結制から生じ、十善業道から生じ、忍辱・勇健から生じ、精進確定の徳の根から生じ、禪定・完全解脱・三昧・平等に入ることから生じ、聽聞・最勝智・方便から生じ三十七助道品から生じ、寂靜と・超絶見から生じ、彼岸に逹した總てから生じ、神通と明(科學)から生じ、總ての不善法を捨てることから生じ、總ての善法を完全に攝することから生じ、眞實から生じ、完全より生じ、注意から生ずる。

65 「盟友等よ、如來の御身は無量の徳業から生ずる。されば君等はその樣な御身を願ふ心を起さねばならぬ。一切衆生の煩惱の病を全く棄てしめんがために、無上完全圓滿の菩提に心を起さねばならぬ」と。

66 その樣に梨車蔑維摩は、病氣見舞ひに集まつた者等に、かうして多數百千の衆生等を無上完全圓滿の菩提に生ぜしめるやうに、それぞれに法を説かれたのであつた。

方便巧妙不可思議章と名づけて、第二である。

弟子品第三

[缺][聲聞菩薩受命辯辭章第三]

67 その時、梨車蔑の維摩はこのやうに考へた。「私は病んで不安で床上にゐるのであるが、如來降伏敵者完全圓滿の佛陀は、私をお考へにならないので、御心に憐愍する爲に、病氣見舞を誰かに送られないのであらうか」と。

68 その時、薄伽梵は梨車蔑維摩の心のその樣な思をお知りになつて、長者舍利子に仰せになつた。「舍利子よ、お前、梨車蔑維摩の病氣見舞に行けよ」と。すると長老舍利子は薄伽梵にかう申上げた。「薄伽梵樣、私は梨車蔑維摩の御病氣見舞に行くことを願ゐませぬ。何故かと申せば、薄伽梵樣、私が明かに思出すと、或時私が一樹の前に於て内完全に坐した。

69 「時に梨車蔑維摩がまたその樹の前に來て私に申した。『尊者舍利子よ、ちやうど君が内完全に坐してゐる。そのやうな内完全座に坐してはならない。全く三界に於て身と・心を現さない樣な内完全に坐せよ。このやうに寂滅よりも起たないで、一切の行道に現はるゝ樣な内完全に坐せよ。このやうに獲得《ぎやくとく》の自性も失はずに、凡夫の自性に現はるゝ樣な内完全に坐せよ。』

70 『このやうに君が心は内にもなく、外にもない、そのやうに内完全に坐せよ。このやうに一切の主義にも動かず、三十七助道分にも現れる、そのやうな内完全に坐せよ。このやうに輪廻に行はれる諸煩惱も棄てずに完全に涅槃に入るやうになる。そのやうな内完全に坐せよ。尊者舍利子よ、誰でもそのやうに内完全座に於て、内完全に入らば、彼等に對して、薄伽梵は内完全に入つた者だと仰せ給ふたのである』と。

71 「薄伽梵樣、私はその法を聞ゐて、それに對して答へを發することが出來ず、何事も言ふことが出來なかつた。故に私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ。」

72 その時、薄伽梵は長老大目連に仰せられた。「目連子よ、お前、梨車蔑の維摩の病氣見舞に行けよ」と。 目連は申上げた。「薄伽梵樣、私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ。

73 「それは何故かと申せば、薄伽梵樣、私が明らかに思ひ出すち、或時、私が吠舍離大城市の或家の門で長者等に説法して居つた。

74 「その時、梨車蔑維摩が來て、私にかう言つた。『尊者目連子よ、かく教示したやうに在家白衣の衆に、そのやうに法を説ゐてはならぬ。尊者目連子よ、法はその實相のやうに法を説くべきである。尊者、目連子よ、法には衆生がない。衆生の塵と離れ、我もなく、貪欲の塵とも離れ、生命もなく、生と死とも離れ、人もなく、過去の極と未來の極とを全く縛らず、寂靜と接する寂靜の相であつて、貪欲と離れ、妄想なくして行き、文字もなく、一切の言葉も離れて、言ふことなく、總ての動搖をも離れ、總てに一致して虚空と等しく、色も、性相も・形状もなく、總ての行動と離れて、我がものなく、我がものと執することもなく、全く知ることもなくして、心・意・識を離れて、同類がないから等しいものなく、因とも一致しないで、縁と名づくるものもなく、法界に完全に攝してゐるから、諸法を平等に置き、隨行しない方法によつて、眞如に隨行し、全く不動の故に究竟の極に住し、六境によらないから動かない。本來住しないから何れにも從來なく、完全に空性に攝し、無相によつて最善に分たれ、無願の自性を悟つて、動くこともなく、散ずることもなく、住することもなく、生・滅なく、總基なく、眼・耳・鼻・舌・身・意の道より完全に超絶し、誇ることなく、屈することなく、住して動かず、總ての行動と離れるのである。

75 『尊者大目連子よ、このやうな法を示すことは、どのやうなものであるか。尊者大目連子よ、法を示すと言ふことも、また假りに名づけた語であつつて、誰かゞ聞くとふそれらも、また假りに名づけたことを聞くのである。尊者目連子よ、何かに假りに名づけた言葉がない、そこには法を示すこともなひので、聞くこともなく、また知ることもなひ。

76 『このやうに譬へて言ふと、幻化の人が幻化の人等に法を説くやうなものである。そのやうに心が住することを以て法を説かねばならぬ。君は衆生の機根を知らねばならぬ。最勝智の眼を以てよく見ると、大悲を明らかにすると、大乘の讚歎を説くと、佛に恩を報ゆることと、觀想を清淨にすると、法の確實なる語の完全なる智とを以て、三寶の族を斷えざらしむる爲に君は法を説かねばならぬ』と。

77 「薄伽梵樣、そのやうに彼は説法したので長者等のその集會から八百の長者は、無上完全圓滿の菩提心を起した。私はまた言ふことが無くなつた。薄伽梵樣、それで私はかの聖人の御病氣見舞に行くとこを願ゐませぬ。」

78 その時、世尊は長者摩訶迦葉波に仰せられた。「迦葉波よ、お前、梨車蔑維摩に病氣見舞に行けよ」と。 摩訶迦葉波が申上げた。「薄伽梵樣、私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ゐませぬ。その次第は私が明らかに思ひ出すと、或時、私が貧民の村に乞食に行くと、梨車蔑の維摩がそこに來て、私にかう申した。

79 『このやうに大衆生の家を棄てゝ、貧民の家に行くことは、尊者摩訶迦葉波の慈愛が一方に偏してゐるのである。尊者摩訶迦葉波よ、平等法に住せねばならぬ。一切時に於て、一切衆生を思ふて乞食に行き食なきに食を求めねばならぬ。他の者が團食に執着するを除く爲に、君は乞食に行かねばならぬ。

80 『町を空に、加持して君は城市に入らねばならぬ。男子と・女子とを全く熟する爲に君は城市に入らねばならぬ。佛の種族を以て、君は俗舍に行き、不受を以て、食を受けねばならぬ。生育と等しく諸相を見る。反響と等しく諸の聲を聞く。風と等しく諸の香を嗅ぐ。無識を持つて諸の味を味はう。智に觸れることなきを以て、諸の觸に觸れねばならぬ。幻化の人間の識を以て諸法を知らねばならぬ。何れにしても我のものも・他のものもない。それは欲の燃え出さないものである。燃え出さないものは寂靜とならない。

81 『尊者摩訶迦葉波よ。もし八邪見から出でないで、八解脱にも平等に入り、邪見の平等に入つて、一施食でもそれを一切衆生に施し、また諸佛と・諸聖にも供養し、供養して自分が食ふに當つては、そのやうに煩惱も伴はぬ。また煩惱とも離れず、そのやうに食ふ。禪定に入てゐるのでもなく、起つのでもなしに食ふ。輪廻にも住せずしてまた涅槃にも住しないで食ふ。尊者よ、君に食を施した者等のその結果は大にもならず、小にもならず、佛が行かれた所に正しく入るのであつて、聲聞が行く所には全く入るのではない。尊者大迦葉波よ、そのやうに國土の乞食を意義あるやうに食ふ』と。

82 「薄伽梵樣、私はこの説法を聞ゐて驚嘆し、一切の菩薩に禮拜した。俗家に住する者でも、このやうな雄辯を具へてゐるのであるから、誰か無上完全圓滿の菩提に心を起さないであらうか。さう思ふて以後は私は何れの衆生をも聲聞乘や、獨覺乘には絶えて入れなかつた。薄伽梵樣、それであるから、私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ。」

83 その時、世尊は長老須菩提に仰せられた。「須菩提よ、お前は、梨車蔑維摩の病氣見舞に行けよ」と。 須菩提は申上げた。「薄伽梵樣、私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひません。その次第は、薄伽梵樣、私が明らかに思ひ出すと、或時、私は吠舍離の大城市に於て、梨車蔑維摩の宅に乞食に參つた。すると維摩は私の鐵鉢を求めそれによい食物を滿たして、かう言つた。

84 『尊者須菩提よ、君はもし諸物の平等性を悟つて、諸法の平等性によつて、佛法の平等性を悟つてゐるならば、この食を受けよ。

85 『尊者須菩提よ、君はもし貪欲や瞋恚や、愚癡をも棄てずに、其等と共にも住せず、もしまた破壞する物を見ても動かず、一行の道に行き、君は無明や存在の愛欲をも降伏せず、明と完全解脱をも生ぜず、無間罪惡の平等性と、君が完全解脱と等しく、君は解脱でもなく、結縛でもない。君は四聖諦を見ない。諦を見ないのでもなく、結果を得たのでもなく、凡夫でもなく、凡夫の法にも反しない。君は聖人でもなく、非聖人でもなく、一切の法をも具へて、一切の法の想とも離れた。

86 『君は教主をも見なければ、法をも聞かない、僧にも奉持しないで何れの六師も、彼等は即ち、迦葉波《カーシヤパ》富樓那《プールナ》(護光滿願)・阿伽牟迦《アーガムカ》・拘※[#「貝+餘、68-10]利弗多羅《クシャリープットラ》(普行黒神子)・毘波斯多剛闍夜弗多羅《ビバクシタサンジャヤプットラ》(樂説完全勝子)・迦旃衍那迦久陀弗多羅《カッターヤナカクダプットラ》(文飾拘僂子)・阿耆多翅舍欽婆羅《アジタケーシャカンバラ》(無負髮毛布子)・尼※[#「てへん+建」、68-13]陀若提弗多羅《ニルグランタ、ニヤーテプットラ》(裸形親族子)などは、尊者の教師であつて君は出家し、彼等六師等が何れに行くとも聖須菩提もまた行き、彼等諸見の中に君は入つても、邊と中を得ないのである。

87 『君は八難所に入つても、安穩所を得、君は總ての煩惱と共に平等になつて、完全清淨をもよく覺る。何れにしても一切衆生の煩惱なきことが、即ち尊者の無煩惱である。

88 『君は布施も完全に清淨ならず、尊者よ、君に食を施す所の者等も邪見に落し、君は一切の惡魔をも伴ふて、また一切の煩惱をも君の共とする。煩惱の自性の何であるかゞ即ち尊者の自性のそれである。君は一切衆生をも殺す心を持ちながら、諸佛をも聞かずに、また僧にもよらない。何時でも全く涅槃に入らないでゐるならば、固より君はこの食を受けよ』と。

89 「薄伽梵樣、私は彼からこの教をきゐた。私はそれに對して何と説明し、何と言説しどのやうにしやうかと思ひ惱んで、十方が暗くなつた。それで私はその鐵鉢を捨てゝ家から出て行つた。

90 「するとその時、梨車蔑維摩が言つた。『尊者須菩提よ、文字などを恐れずに、この鐵鉢を取れ。尊者須菩提よ、これをどのやうに考へるか。もし如來の化人がこのやうに言ふならば、それを何と恐るゝであらうか』と。

91 「私は言つた。『紳士よ、さうではない』と。維摩は答へた。『尊者須菩提よ、幻化の自性である一切の法に於て恐怖を抱くな、それはなぜかと云ふに、この言葉等もまた總てそれが幻化の自性であるから、そのやうに聖者等は文字などにも執着しないでまた其等に怖れを生じないのである。それはなぜかと申せば、完全解脱を除ゐては總ての文字は即ち文字がないのである。諸法は完全解脱の自性である』と。

92 「この教へを説明した時に、二百の天子は諸法に對して、法の眼に塵がなく、垢《く》を離れて完全清淨になつた。

93 「五百の天子は、それと一致した忍智を得た。私はまた何も言ふことが無くなつてそれに返答することも出來なかつた。」

94 「薄伽梵樣、それで私はかの聖人の御病氣見舞に行く事を願ひませぬ。」

95 その時、世尊は長老富樓那梅恆暦耶弗多羅《プールナ・マイトレーヤプットラ》に仰せられた。富樓那よ、お前、梨車蔑維摩の病氣見舞に行けよ」と。 すると富樓那は申上げた。「薄伽梵樣、私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ。その次第は、薄伽梵樣、私が明らかに思ひ出すと、或時、私は大林のある地方に於て初心の比丘等に法を説ゐて居つた。その時、梨車蔑の維摩がそこに來て、私にかう言つた。

96 『尊者|富樓那《プールナ》よ、禪定に入り、此等の比丘の心を見て法を説け。大寶の噐に腐敗したる食物を入れるな。此等の比丘の思ひが如何やうにあるかを知つて、瑠璃の寶珠を硝子の玉と同一になすな。貧者富樓那よ、お前は衆生の機根を審察せず、卑小なる機根を以て接してはならぬ。創《きづ》がないのに創を作るな。

97 『大道を行かうと願ふ者を、菟徑に入らしめてはならぬ。大海を牛の蹄跡に入るゝな。妙高山を芥子粒の中に入るゝな。螢火《ほたるび》を以て日光を隱すな。

98 『獅子吼しやうと願ふ者等に、狐の聲を持たしむるな。

99 『尊者富樓那よ、此等の比丘は總て大乘に入つて、後に菩提心を失念した者である。尊者富樓那よ、此等に聲聞乘を示すな。聲聞乘は完全でない。衆生の機根の次第を知つたから、乃公《わし》は此等の聲聞を盲者と等しと思ふ』と。

100「その時、梨車蔑維摩が、恰も比丘等が前生の住處などを、多く思ひ出すこととなるやうな三昧に、平等に入つて、彼等をして全く完全なる菩提のために、五百の佛陀に奉事した所の徳本を具へてゐることや、彼等の菩提心までも明かにならしめたので、彼等はかの聖人の足もとに頭で禮拜して合掌した。

101「彼はまた彼等に無上完全圓滿の菩提から、外に退かざることとなる法を如實に説ゐた。薄伽梵樣、私はかう思つた。『聲聞は他の者の心と思とを見ないで、誰にも法を示してはならぬ。

102『何故かと云へば、聲聞には衆生の機根の最勝のものと、最勝でないものとを知ることが出來ぬし、また恰も如來降伏適者完全圓滿の佛陀のやうに、常に禪定に入ることも出來ないから』と。

103「薄伽梵樣、それで私はかの聖人の御病氣見舞ひに行くことを願ひませぬ。」
104「その時、薄伽梵は長老摩訶迦旃衍那弗多羅《マハー・カッチャーヤナ、プットラ》に仰せられた。「迦旃衍那子よ、お前、梨車蔑維摩の病氣見舞に行けよ」と。迦旃衍那子は申上げた。

105「薄伽梵樣、私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ。その次第は、薄伽梵樣、私が明らかに思ひ出すと、或時薄伽梵樣が、比丘等に教を略してお説きになつた。その經の語を詳解する爲に、私は無常の義・苦の義・無我の義・寂靜の義の法を示すと、梨車蔑維摩がそこに來て、私にかう言つた。

106「尊者摩訶迦旃衍那子よ、動・生・滅とを具えた法を示すな。尊者摩訶迦旃衍那子よ、法に生れなんだ。生れない。生れぬであらう。滅びなんだ。滅びない。滅びぬであらう。それが無常の義である。誰にても五蘊等を空なりと、悟るが故に、不生を悟つたその意義が苦の義である。

107[缺]

108『何れも我と無我とが不二なる、その本性が無我の意義である。恰も自己の自性なく他の自性もない、それは燃えない、何物にも燃えない、それは寂靜不變で、最も寂靜とならない、それが寂靜の義である』と。

109「この教を説かれた説き、其等の比丘は無受にして諸の漏から心が完全に解脱した。薄伽梵樣、それで私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ」と。

110 その時、薄伽梵は長老|阿莵樓駄《アヌルッダハ》に仰せられた。「阿莵樓駄よ、お前、梨車蔑維摩の病氣見舞に行けよ」と。 すると阿莵樓駄は申上げた。「薄伽梵樣、私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ。その次第は、薄伽梵樣、私が明らかに思出すと或時私は或|懺悔式《ざんげしき》に行つた。そこに大梵天徳嚴と名づくる者が、一萬の梵天と共に現はれ、私のゐる所に來て、私の足に頭で禮拜して、一方に立つて私にかう言つた。『尊者阿莵樓駄よ、あなたは薄伽梵樣が天眼を持つ最勝であると仰せられたが、尊者阿莵樓駄の天眼がどれ程まで見えるか』と。

111「阿莵樓駄は答へた。『友人等よ、私が釋迦牟尼佛の國土の三千大千世界を見ることは、譬へば眼をもつてゐる人間が、手の掌に置ゐた酸果《アムラカ》の實のやうに見える』と。

112「すると梨車蔑維摩がそこに來て私の足に頭で禮拜して、私にかう言つた。『尊者阿莵樓駄よ、天眼は明らかに有爲の自性であるか、或は明らかに無爲の自性であるか。それがもし明らかに有爲の自性であるならば、外道の五神通と同じである。卻つて明らかに無爲であるならば、明らかに無爲であるものは、無爲だから見ることが出來ない。さればどうして尊宿はそれを見るか』と。私は何も言ふことが出來ないでゐた。かの梵天もまたかの聖人から、この教を聞ゐて驚き且つ禮拜してかう言つた。『世界の中で天眼を有つものは誰であるか』と。 答へた。『諸佛世尊は、世界で天眼を有《たも》たれる方であつて、彼等は禪定の住處を失はずに、諸佛の國土を見られるによつて、全く隔別となることもなひ』と。

113「その時、梵天の一萬の眷屬は、この説法を聞ゐて、超絶の思想を以て、無上完全圓滿の菩提に心を起した。彼等は私とかの聖人を禮拜し挨拶しながら、その場で消えた。私はまた正しい答をすることが出來なかつた。それで私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ」と。

114「その時、世尊は長老|優波離《ウパリ》に仰せられた。「優波離よ、お前、梨車蔑維摩の病氣見舞に行けよ」と。 すると優波離も申上げた。「薄伽梵樣、私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ。その次第は、私が明らかに思ひ出すと、或時、或る二人の比丘が墮罪を犯して、薄伽梵には恥ぢてその前に行かなかつた。かの二人は私のゐる所に來て私にかう言つた。『尊者|優波離《ウパリ》よ、私共二人は墮罪を犯した。恥ぢて薄伽梵の前には行き得ない。されば尊者優波離よ、あなたが私共二人の疑を解ゐて、私共二人を墮罪から救はれよ』と。

115「薄伽梵樣、私がその二人の比丘に法の言葉を示してゐた。そこに梨車蔑維摩が來て、私にかう言つた。『尊者優波離よ、君はこの二人の比丘の墮罪のために結戒したまふな。穢れた者となさずに、この二人の墮罪の後悔を除きたまへ。

116『尊者優波離よ、墮罪といふ事は内にも止まらず、外にも移らず、二つともなひとも思はない。何故かと云ふに、薄伽梵が仰せられた。「心が總て煩惱であるから衆生は總て煩惱である。心が完全に清淨になれば衆生は完全に清淨となる」と。それで尊者優波離よ、心は内にも外にもなく、また兩方ともなひとも思はない。恰も心そのもののやうに、墮罪もまたそのやうである。墮罪そのもののやうに、諸法もまたそのやうである。即ち眞如より出でない。

117『尊者優波離よ、心の自性そのものと心の自性そのものによつて、尊者の心が完全に解脱する所の心の自性が、何時かまた全く煩惱となるか』と。 答へた。『否』と。

118言つた。『尊者優波離よ、一切衆生の心はそれが自性であつて、尊者優波離よ、妄想することは煩惱であつて、無分別、無妄想は自性である。顛倒はすべて煩惱であつて顛倒しないことは自性である。我と假想することは總て煩惱であつて、無我は自性である。

119『尊者優波離よ、諸法は生じて、滅びて住しないのであつて、幻と・雲と・電光のやうである。諸法は止まらないので、一瞬時間でも止まらないのである。諸法は夢と蜃氣樓と、同じであつて、眞實でないと見る。諸法は水中の月と、影のやうであつて心が妄想することから生じたのである。誰かがこの樣に知る。その人々は戒律を持つものと名づける。この樣に教化せられた人々は善化せられた者である』と。

120「その時かの二人の比丘はかう言つた。『長者よ、これは誠に最勝智を具えたことで、世尊は戒律を持つ者等の最勝だと説かれた。この尊者優波離はそれ程にはない。』

121「私が言つた。『比丘よ、あなたはこの人に對して、長者と思ふ心を起すな、それは何故かと云ふに、如來を除ゐて他に、誰もこの方の雄辯の相續を斷ち得るところの聲聞、または菩薩大薩※[#「土+垂、87-10」]が何れにもない。この方の最勝智の現はれはその通りである。』

122「その時、かの二人の比丘は疑を解ゐてその場に超絶なる思想を以て、無上完全圓滿の菩提に心を起した。そして言つた。『一切衆生に亦あなたのやうな辯才を得せしめよ』と。さういふ次第で、私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ」と。

123その時、薄伽梵は長老羅ゴ羅に仰せられた。「羅ゴ羅よ、お前、梨車蔑維摩の病氣見舞に行けよ」と。 羅ゴ羅もまた申上げた。「薄伽梵樣、私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ。その次第は、薄伽梵樣、私が明らかに思ひ出すと、或時梨車蔑の多くの青年が、私のゐる所に來て、私にかう申した。『尊者羅ゴ羅よ、あなたは薄伽梵の御子であつて、轉輪王の國土を捨てゝ出家せられた。あなたが出家せられた所の功徳と、利益は何であつたか』と。私は彼等に適當した出家の功徳と、利益を示した。

124「その時、梨車蔑維摩が私のゐる所に來て私に禮拜してかう言つた。『尊者羅ゴ羅よ、出家の功徳と・利益とは、恰も尊者が示したやうに示してはならぬ。その次第は、出家の功徳は無いので、利益も無いのである。尊者羅ゴ羅よ、有爲に入つてゐる所の者には功徳も利益もあるけれども、出家は無爲に修行するものであつて、無爲には功徳も利益もないのである。

125『尊者、羅ゴ羅《ラフラ》よ、出家は身あるものでなく、身を離れたものである。始と終の終端を見ることと離れてゐる。涅槃《ねはん》の道である。學者等が讚歎する。聖人等が讚歎する。聖人等が全く持つものである。

126『一切の惡魔を負かし、五種の輪廻《りんね》から脱《まぬか》れる。五眼は完全に清淨である。五力を得る。五根の據處である。他を害しない。罪の法と雜《まじは》らない。外道の者等を全く教化する。命名から全く超絶する。欲の泥水には橋である。貪欲《どんよく》に執着がない。我《われ》のものなく、我《われ》と執することと離れた。取ることはない。混亂がない。混亂を棄てた。自己の心を教化して、他人の心を護る。寂靜處と一致する。總てに於て罪はない。それを出家と名づく。誰でもこのやうに出家した者等はよく出家した者である。

127『青年よ、お前もまたよく説かれたこの法のやうに出家せよ、佛が出られることも得難いものである。聽法可能の人身は得難いものである。人となることは得難いものである』と。

128「かの青年等はかう申した。『長者よ、私共が聞ゐたことには、如來は父母が許さなければ出家を許されない』と。

129「彼は彼等に言つた。『青年よ、お前は無上完全圓滿の菩提に心を起して、努力によつて成就せよ。それがお前の出家得度《しゅつけとくど》である』と。その時、梨車蔑の青年三千二百人は、無上完全圓滿の菩提に心を起した。薄伽梵樣、それで私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ。』

130「その時薄伽梵は、長老阿難陀に仰せられた。「阿難陀よ、お前、梨車蔑維摩の病氣見舞に行けよ」と。 阿難陀もまた申上げた。「薄伽梵樣、私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ。その次第は、薄伽梵樣、私が明らかに思出すと、或時、世尊の御身に御病氣が起つて、それには乳《ちゝ》が必要ゆゑ、私は大|娑羅《さら》樹のやうな婆羅門の門前に鐵鉢《てつぱつ》を持つて行つた。

131「すると梨車蔑維摩がそこに來て、私に禮拜してかう言つた。『尊者阿難陀よ、どういふわけで朝早く鐵鉢をもつてこの俗家の門前にゐらるゝか』と。 私は答へた。『世尊の御身に御病氣が起つて、それに乳が必要なので、それを求むるためである。』と。

132「彼は私にかう言つた。『尊者阿難陀よ、そんなことを云ひ給ふな。如來の御身は金剛の如く堅固で、一切の不善の餘習を捨て一切の道徳を具えられるから、その御身にどうして御病氣が生じやう。心配がどうしてあらう。

133『尊者阿難陀よ、世尊を謗《そし》るやうなことは、何も云はないで歸れ。他に誰にもそんなことは言ひたまふな。大威力ある神の子等と、或佛國土から集まられた菩薩らが聞くかもしれぬ。

134『尊者阿難陀よ、轉輪王は小さい善根を具えても無病である。されば世尊は無量の善根を具えて居られる、その御方に御病氣がどうしてあらう。そのやうな理由はない。尊者阿難陀よ、私に恥をかゝさずに歸れ。他に外道の行者や、普走者や、裸體子や、生養子等が聞かう。彼等は「あゝこれらの教師は自身をすら、病氣から救ふことが出來ないのに、衆生の病ある者等の救手となることが、どうして出來やう」と思はぬとも限らぬ。尊者阿難陀よ、隱れて消えよ。誰かゞ聞くかも知れない。

135『尊者阿難陀よ、如來等は法の御身であつて、食物によつて養ふ身ではない。如來等は世間から出た御身で、世間の一切法に於て完全に超絶して居られる。如來の御身には迫害はないので、總ての漏から全く反して居られる。如來の御身は無爲であつて、一切の有爲と離れて居られる。尊者阿難陀よ、そのやうな御身に病ありと思ふことは、適當でもなく、似たことでもない』と。

136「その時、私は世尊から誤《あやま》つて聞ゐたのではないかと思ひ、全く恥ぢた。

137「その時中空から聞えた聲に、『阿難陀《アーナンダ》よ、長者が示したことは全くその通りである。しかし世尊は五濁の時に出られたので、それが爲に衆生等に劣小で、貧弱なる行を以て、全く教化せられるのだから、阿難陀よ、恥ぢずに乳を持つて歸れ』と。

138「薄伽梵樣、梨車蔑維摩が問答を示したことはかういふ次第で、私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ。」

139その通りに五百人ほどの聲聞は、病氣見舞に行くことを願はぬこととなつた。彼等は自分の説明を薄伽梵に申上げた。誰もまた梨車蔑維摩と、談話したことの總てを薄伽梵に申上げた。

140[前品と合擧す]

141その時、薄伽梵は彌勒菩薩に仰せられた。「彌勒よ、お前、梨車蔑維摩の病氣見舞に行けよ」と。

142彌勒も申上げた。「薄伽梵樣、私はかの聖人の御病氣見舞に行く事を願ひませぬ。その次第は、薄伽梵樣、私が明らかに思出すと、或時、私が神の子完全歡喜等の※[#「りつしんべん+刄」]利天《とうりてん》の子等と共に、このやうに菩薩大薩の不退轉地を始めとして法の問答をした。

143「そこに梨車蔑維摩が來て、私にかう言つた。『彌勒よ、君には薄伽梵が無上完全圓滿の菩提に一生を經てゐると讖言された。彌勒よ、それは何れの生によつての讖言であるか。彌勒よ、過去によつてゞあるか。さうではなく、未來によつてゞあるか。またさうではなく、現在によつてゞあるか。それは何れにしても、過去の生は已に盡きたのであつて、また未來は來ないのである。現在の生には住することもなひのである。

144『世尊が仰せられたやうに、「比丘等よ、君等は一瞬時に生れ、老ゐて、死んで、移つて生れるのである」と。無生は確實位に入ることであつて、無生には讖言することもなく、また無生には明瞭圓滿に成佛することもなひ。

145[缺]

146『されば彌勒よ、君は眞如の生によるのであるか、眞如の滅によるのであるか。如何に讖言の眞如は不生不滅であつて、生れもせず、滅びもしないのである。

147『何れにしても一切衆生の眞如も、一切法の眞如も、一切聖人の眞如も、彌勒よ、君のもまた眞如である。もし君がそのやうに讖言せられるならば、一切衆生もまた讖言せられるのである。それは何故かと言はゞ、眞如は二つによつて、全く分つことが出來ない。差別によつても、全く分つことが出來ないからである。

148『彌勒よ、君は何れの時か菩提に明瞭圓滿に成佛する。その時は、一切衆生もまたそのやうな菩提に明瞭圓滿に成佛するであらう。何故かといふと、一切衆生に就て悟ることは、菩提だからである。

149『彌勒よ、君は何れの時か全く涅槃に入る。その時は、一切衆生もまた全く涅槃に入るであらう。それは何故かといふと、衆生が全く涅槃に入らなければ、如來は涅槃に入らないのである。

150『彌勒よ、それであるから、この神の子等を導き給ふな。欺き給ふな。菩提には誰れも住しない。また去りもしないのである。彌勒よ、この神の子等をして妄想を以て菩提を見ることを散滅せしめよ。菩提は身によつて明瞭圓滿に成佛するのではない。また心によるのでもない。

151『菩提は一切の相を完全に寂滅してゐる。菩提は一切の相によつて名づけられない。菩提は總ての意の作用に對して動くことが無い。菩提は見ることとなつた總てを全く斷つ。菩提は全く妄想する總てと離れてゐる。

152『菩提は欺瞞と・思想と・行爲との總てと離れてゐる。

153『菩提は一切の願欲に入らない。菩提は一切の執着と離れて、無着に入る。菩提は法界の住處によつて住する。菩提は眞如に隨つて悟る。菩提は究竟の極に住する。』

154『菩提は意と・法とがないので無二である。菩提は虚空と等しいから平等である。菩提は生・滅・住と、他に變ずることがないので無爲である。菩提は一切衆生の心・行・思想とを全く知るのである。菩提は處などの門ではない。菩提は一切薫習の間結的煩惱と離れてゐるので無雜である。菩提は住と無住と離れてゐるので、場處に住しない。』

155『また方角にも住しない。菩提は總てから起らない。また眞如にも住しない。菩提は名のみで、その名もまた動かない。菩提は取ることと、失ふことがないので、波瀾はない。菩提は騷擾がないので、自性によつて全く清淨である。菩提は最勝現象で即ち自性完全清淨である。菩提は執着がないので、誠に無想である。菩提は一切法の平等を内に入れてゐるので、差別はない。菩提は譬へて示すことと離れてゐるから譬へがない。

156『菩提は誠に了解し難い故に、微妙である。

157『菩提は虚空の自性であるから、總てに行き渡てゐる。されば身によつて、或は心によつて、明瞭圓滿に成佛することは出來ない。それは何故かと申せば、身は草と・木と・壁と・耳と・眼翳のやうである。心は形相がない、示すこともなひ、依ることもなひ、全く知ることもなひ』

と。

158「薄伽梵樣、維摩がこの教を説かれた時、その集會から二百の神の子が無生の法に忍智を得た。私もまた言ふことが無くなつた。薄伽梵樣、その理由で私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ。」

159その時、薄伽梵は、梨車蔑の青年、光嚴に仰せられた。「光嚴よ、お前、梨車蔑維摩の病氣見舞に行けよ」と。光嚴も申上げた。「薄伽梵樣、私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ。その次第は、薄伽梵樣、私が明らかに思ひ出すと、或時私が吠舍離の大城市から出て行つた。すると梨車蔑維摩が城内に來たのと出會つた。私は彼を敬つて挨拶をし、そして、かう申した。『長者よ、あなたはどちらから來られたか』と。

160「彼は答へた。『菩提道場から來た。』私は尋ねた。『菩提道場とは、どういふものに名づけたのであるか』と。

161「彼は答へた。『紳士よ、菩提道場といふことは、假作《けさく》ではないから、それが觀想の道場である。精進の業を行ふからそれが、修行の道場である。特別に内部に深く入るから、それが超越觀想の道場である。

162『正しく忘れないから、それが菩提心の道場である。報いを望まないから、それが布施の道場である。願を全く成就するからそれが戒律の道場である。一切衆生に對して怒りの心がないから、それが忍辱の道場である。外に退かないから、それが精進の道場である。心が業に適當してゐるから、それが禪定の道場である。現前に見るから、それが最勝智の道場である。

163『一切衆生に心が平等であるから、それが慈愛の道場である。一切の迫害を忍ぶから、それが悲愍の道場である。法の公苑を喜んで願ふから、それが歡喜の道場である。愛欲と忿怒とを捨てるから、それが公平の道場である。

164『六神通を具へてゐるから、それが神通の道場である。無分別であるから、それが完全解脱の道場である。心を全く熟せしめるから、それが方便の道場である。一切衆生を攝するから、それが四攝法の道場である。努力を肝要とするから、それが聽聞の道場である。實の如くに一々を解するから其等が確かに思惟する所の道場である。

165『有爲と・無爲とを捨てるから、それが菩提助道法の道場である。一切世間を欺かないから、それが眞實の道場である。無明の漏洩も亡したから、それが因縁法の道である。

166『完全そのもののやうに、明瞭圓滿に成佛したから、それが一切煩惱寂滅の道場である。總ての衆生は無自性であるから、それが一切衆生の道場である。空性で明瞭圓滿に成佛したから、それが一切法の道場である。不動であるから、それが一切の惡魔を全く降伏する道場である。

167『入ることと離れるから、それが三界の道場である。怖れない、戰慄しないから、それが獅子吼奮迅精進の道場である。總てを罵らないから、それが力と・無畏と・不共と・一切の佛法との道場である。煩惱を殘さないから、それが三明の道場である。

168『一切智智を完全に得るから、それが心の一瞬時に一切法を殘らず、解する所の道場である。紳士よ、そのやうに、菩薩等は彼岸に逹したることを具へ、衆生を全く熟せしむることを具へ、正法に全く熟せしむることを具へ、正法を全く持つことを具へ、善根を具ふる所の行道の歩みの總てもまた菩提道場より來た。即ち佛の諸法より來て佛の諸法に住するのである』と。

169「薄伽梵樣、この教を説明せられた時に、五百程の神と人とが菩提心を起した。私もまたそれで言ふことが無くなつた。薄伽梵樣、このやうな次第で、私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ。」

170その時、薄伽梵は持世菩薩に仰せられた。「持世よ、お前、梨車蔑維摩の病氣見舞に行けよ」と。 持世は申上げた。『薄伽梵樣、私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ。その次第は、薄伽梵樣、私が明らかに思出すと、或時私が私の住所に居つた時、惡魔が一萬二千の天女に全く圍まれて因陀羅の形相で以て、音樂や歌を歌ひひ、私のゐる處に來て、頭で私の足に禮拜して、眷屬と共に私の前で或處に坐した。私は彼を因陀羅天の王であると思つて、彼にかう言つた。

171『※[#「夕+克」]尸迦《カウシカ》よ、何時はよく來た。總て愛欲の娯樂に對して深く注意せよ。身と・生命と・財産等から、純粹なるものを取つて無常を悟れ。』

172「彼は言つた。『聖人よ、此等一萬二千の天女を私に乞ふて、あなたの侍女とせられたい』と。 私は答へた。『※[#「夕+克」]尸迦よ、許されない所の者等を、比丘たる釋迦の子に上げるな。これ等は私には許されてゐない』と。こんな問答をしてゐると、梨車蔑維摩がそこに來て、私に言つた。

173『紳士よ、この物を因陀羅と思ひたまふな。これは惡魔が汝を欺く爲に來たので、因陀羅ではない』と。そして梨車蔑維摩はかの惡魔に對して、かう言つた。『惡魔よ、これ等の天女は沙門なる釋迦の子には許されてゐない。私に施しなさい』と。

174「その時、惡魔は畏れ怖ぢて喜ばずに『梨車蔑維摩は私を欺きに來た。』と思ふて姿を消さうとしたが、出來ないので、總ての神通力を現はしたけれども、遂に消えることが出來なかつた。

175「その時中空から聲が出て、『罪惡者よ、汝はこれ等の天女等をこの聖人に奉れ。然らば自分の住所に行くことが出來やう』と。それで惡魔は畏れ怖ぢて、自分から願はなかつたけれどもそれ等の天女を奉つた。

176「その時、維摩はかの天女等を受けてかう言つた。『惡魔がお前等を私に與えた。それ故、お前等は無常完全圓滿の菩提に心を起せよ』と。

177「彼は彼女らに對して、全く菩提に熟せしむることに、一致した所の説法をしたので、彼女等は菩提心を起した。その時また彼は彼女等に、『汝等は今菩提心を起した。今より以後、汝等は普法樂を樂しんで願はねばならぬ。愛欲を樂み願ふことをしてはならぬ』と命じた。

178「彼女等は言つた。『普法樂を樂むとは何であるか。』 彼は答へた。『不斷に佛を信じて樂むと、法を聽くことを願ふて樂むと、僧として事へることを樂むと、

179『我慢なく上人等に供養することを樂むと、三界より出ることを樂むと。

180『諸境に住せざることを樂むと、諸々の積聚等を屠者の如くに解することを樂むと、界等を毒蛇と同じと解することを樂むと、入等を空屋の如くに寂靜處を樂むと、總てに菩提心を護ることを樂むと、衆生を利益することを樂むと。

181『布施を分配することを樂むと、弛《たゆ》まづに戒律を樂むと、忍辱に忍んで教化することを樂むと、精進にて完全なる徳を輯める事を樂むと、禪定を完全に修行する事を樂むと、最勝智に煩惱の現れなき事を樂むと、

182『菩提を廣大にすることを樂むと、惡魔を根本的に斷ずることを樂むと、諸煩惱を確實に降伏することを樂むと、佛國土を完全に清淨にすることを樂むと。

183『相好と種好とを全く成就するために諸徳を集むることを樂むと、深遠なる法を聽ゐて怖れずに樂むと、完全なる三解脱門を尋ねることを樂むと、涅槃の觀想を樂むと、菩提道場の莊嚴を樂むと、非時に得ることをしないことを樂むと、福分の等しき人によることを樂むと、福分の等しくない者等に起らないで忿怒ないことを樂むと、

184『善知識等によることを樂むと、全く惡友等を捨てることを樂むと、法を願ひ信じて最勝に歡喜することを樂むと、方便に攝する事を樂むと、注意深く菩提の道による事を樂むのである。そのやうにするならば、菩薩が普法樂を樂み願つたのである』と。

185「その時、惡魔はかの天女等に言つた。『今から私等の棲家へ還らう。こちらへ來い』と。

186天女等は言つた。『あなたは、私共をこの長者にお上げになつたから、今は普法樂を樂んで滿足してゐる。欲を樂しみ、或は滿足しない』と。

187「そこで惡魔は言つた。『菩薩大薩は總ての所有物を全く散じて、心に執着せぬものだ。長者よ、此等の天女を放たれよ。』

188「維摩は言つた。『此等は最早や放つてあるのだ。罪惡者よ、眷屬と共に行け、一切衆生に法の僧を完全に成就せしめよ』と。

189「その時天女は維摩に禮拜し、かう言つた『長者よ、どうして、私共は惡魔の住處に留まつて居られやうか』と。

190「維摩は答へた。『姉妹等よ、無盡燈と、名づける法門がある。それに努力せよ。それは何物かと言ふに、このやうであらう。姉妹等よ、一燈から百千を燃やしても、その燈が減らない。そのやうに、姉妹等よ、一菩薩が多數百千の衆生等を菩提に入れてもかの菩薩の心の憶持が少しも減ることとならぬだけでなく、なほその上に完全に指して行く。そのやうに一切の善法も、また如何樣に他の者等に勸めて示しても、そのやうに總ての善法が全く増して行く。これが無盡燈と名づける法門である。

191『お前逹がかの惡魔の住處に住んでゐる時に、數知れない神の男子と・神の娘などに、菩提心を信解させよ。さうすればお前逹は、如來の恩に報ゐたこととなる。一切衆生を育てることにもなる』と。

192「その時、かの天女等は梨車蔑維摩の足に頭を以て禮拜して、惡魔と共に歸つて行つた。薄伽梵樣、私は梨車蔑維摩の完全神變の特別なるものを見た。薄伽梵樣、その理由で、私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ。」

193その時、薄伽梵は、商將の子、善施に仰せられた。「紳士よ、お前、梨車蔑維摩の病氣見舞に行けよ」と。善施は申上げた。「薄伽梵樣、私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ。その次第は、薄伽梵樣、私が明らかに思出すと、或時私が乳の家におゐて大供施を行ふ爲に、總ての僧侶と・婆羅門と・貧民と・苦惱者と・餓者と・困難者と・乞食の總てに施しを行つた。七つの傘のもとに大供施を行つた。梨車蔑維摩がその大供施の地、即ちそれ等の端に在る傘の所に來て、私にかう言つた。『商將の子よ、恰も君が供施をしたやうな供施をし給ふな。君は法の供施をせねばならぬ。雜物の供施をすることは君のために何にもならぬ。』

194「私は彼にかう言つた。『法の供施は、どの樣に施すのであるか。』

195「彼は答へた。『法の供施とは、或者が前後なく一切衆生を全く熟せしめることが法の供施である。それはまた何であるかと言へば、菩提によつて完全に明瞭に成就する所の大慈心と、正法を攝することによつて明らかに成就する所の大悲心と、一切衆生の最勝に喜ぶことを觀ずることによつて明らかに成就する大歡喜と、智を攝することによつて明らかに成就する所の大捨心と、

196『寂靜と教化によつて、明らかに成就する所の布施の彼岸に到ることと、衆生の犯戒者等を全く熟せしむることによつて、明らかに成就する所の戒律の彼岸に到ることと、無我の法によつて、明らかに成就する所の忍辱の彼岸に到ることと、菩提に明瞭なるを以て、明らかに成就する所の精進の彼岸に到ることと、身心を寂定にする爲に明らかに成就する所の禪定の彼岸に到ることと、一切智の智によつて、明らかに成就する所の最勝智の彼岸に到ることと、

197『一切衆生を全く熟せしむるために、明らかに成就する所の空性を思惟することと、有爲を全く捨てるために、明らかに成就する所の無相を思惟することと、意の如くに生れることによつて、明らかに成就する所の無願を思惟することと、正法を全く持つために、明らかに成就する所の勢力による化度と、四攝法によつて、明らかに成就するところの生命の根と、

198『一切衆生の奴僕や弟子になることからして、明らかに成就する所の無我慢と、純精のないものから純精を取ることによつて明らかに成就する所の身と生命と財産を得ることと、六記憶によつて、明かに成就する所の憶念と、正しく喜ぶこととなる法によつて、明かに成就する所の觀想と、正しき努力によつて、明かに成就する所の完全清淨なる生活と、信心と最勝を喜ぶことによつて、明かに成就する所の聖人に供養することと、聖人でない者に對して怒らないことによつて、明かに成就する確實心の思惟と、出家して居るが故に、明かに成就する所の超絶の觀想と、努力によつて、明かに成就する所の聽聞に巧妙なることと、

199『煩惱がない所の法を解する事によつて、明かに成就する所の精舍に住することと、佛智を得ることを行ふことによつて、明かに成就する所の中に正しく入ることと、

200『一切衆生を煩惱から、完全に解脱するところの相應行によつて、明かに成就するところの相應行の地と・相好と・種好と・佛國土の莊嚴と・衆生を全く熟せしめる事によつて、明かに成就するところのものである。福の積聚と、

201一切衆生の心と、行とに入ることの爲に法を示すことによつて、明かに成就するところの智の積聚と、一切法に於て取ることもなく、失ふこともなひ一理趣の智によつて、明かに成就するところの最勝智の積聚と、

202『一切煩惱と、一切覆障とを捨つることによつて、明かに成就する所の一切善根の積聚と、一切智々に深く入る所の善法によつて、明かに成就する所の菩提法の總てが正しく生ずるものは、紳士よ、法の供施である。その法の供施に住する菩薩が、供施を施す。それが誠に供施をなしたものであつて、神と共同であるところの世界の布施處となる』と。

203「薄伽梵樣、その樣にかの長者が説法をした時に、その婆羅門の中から二百の婆羅門が、無上完全圓滿の菩提に心を起した。私もまた信じ、また驚嘆して、かの聖人の足に禮拜して、百千金の値する眞珠の瓔珞《やうらく》を私の首からとつて、彼はその眞珠瓔珞を受けることを肯はないので、私がかう申上げた。『これを受けて何れにか願はれる所に施されたい』と。

204「彼は、眞珠の瓔珞を受けて二つに分つて、一部をその供施の會にゐるもので、一切世間から卑しめられ、また、城市の中で最も貧しい者に與えた。また一部は難勝如來に奉つた。その集會に居つた總ては陽炎世界と、かの難勝如來をも見て、その眞珠瓔珞は難勝如來の頭の上に於て、眞珠の堂が建ち、一見壯麗であつて、四方四柱が同一で、最も完全に開ゐたものが出來たのを見た。彼はそのやうな神變を示して、かう言つた。

205『能施者なる施主よ、恰も如來を布施處と思ふ、そのやうに、この城市の貧民とも區別なく平等にして、大悲の心と果報を望まないことから完全に施すところのそれが、法の供施を完全に成就したものである』と。

206「そこに城市のかの貧民は、その神通を見、またかの説法をきゐて、無上完全圓滿の菩提に心を起した。薄伽梵樣、その理由で、私はかの聖人の御病氣見舞に行くことを願ひませぬ。」

207「そのやうに、菩薩大薩等の總てもまた、何れもかの聖人との因縁談の何かを説ゐて、各自の理由を述べ、行くことを願はなかつた。

聲聞菩薩受命辯辭の章にして、第三なり。

[缺][病氣訪問章第四]

208薄伽梵は文殊法王子に仰せられた。「文殊よ、お前、梨車蔑維摩の病氣見舞に行けよ。」

209文殊も申上げた。「薄伽梵樣、梨車蔑維摩は接待し難い。また深遠の理趣に於ける雄辯には最もよく入つてゐる。圓活寂靜の言語と、完全圓滿の言辭を成ずることに巧妙であつて、雄辯は相續不斷で、一切衆生に怒らない心を有ち、菩薩の一切作法に逹し、一切菩薩と、一切佛陀の祕密處に深く入り、一切惡魔の住所を全く顛覆《てんぷく》することに巧妙であつて、大神通に遊戲し、方便と最勝智から確かに生じたもので、

210「法界無二無別なる行處の最勝聖を獲得し、法界の一莊嚴を諸種無邊の莊嚴に説法すること巧妙で、一切衆生の根を莊嚴することを辯ずることにも巧妙であつて、巧妙方便を解することに深く入つてゐる。尋ねに對して正しい答へを與ふることを得るものである。

211「彼には小なる甲冑を以て、應答することは出來ないけれども、佛陀のかじによつて彼處に行つて、どのやうにも正當なる力の如何樣なるかに隨つて、説明しやうと思ふ」と。

212その時、その會に居つた菩薩等は、かの大聲聞等と・因陀羅と・梵天と・かの護世等と・かの神の子等と・神の娘等とは、かう思つた。「文殊法王子と、かの聖人が談話するならば、必ずそこには法を宣揚する大議論が起るであらう」と。

213それで、八千の菩薩と・五百餘の聲聞と・因陀羅と・梵天と・甚だ多くの護世と・百千の神の子等と・甚だ多くの者等が法を聞く爲に文殊法王子に從つて行つた。

214その時、文殊法王子は、それ等の菩薩と・それ等の聲聞と・因陀羅と・梵天と・かの護世等と、すべての神の子らによつて、全く圍まれて進んで吠舍離の大城市に入つた。

215その時、維摩は、「文殊法王子が多くの集會と共に來られる。私のこの家を空に加持しやう」と思つた。彼は考へたやうに、その家を空に加持した。そこには門番もなく維摩が寢てゐる一つの床より他には、何處にも床も、床几も、敷物も、何もない。

216時に文殊は集會と共に、維摩の住所に向かつてその邸に着ゐた。時に門には門番もなく、またその家の内は空であつて、維摩が寢てゐる一の床より他には、床も、床几も敷物もなく、何も見えなかつた。

217その時、梨車蔑維摩は文殊法王子を見て、「文殊よ、よく來られた、誠によく來られた。從來來ない、見ない、聞かないことを見た」と言つた。

218文殊は言つた。「長者よ、いかにも仰せの如く、誰れか來た者は、それは後に來ない。誰れか去つたものは、それは後には行かない。何故かと云へば、來たものには來ると知ることもなく、去つたものにもまた行くと知ることもなく、何れか見たものはそれは後に見らるゝこともなひが故である。

219「聖人よ、君は忍《こら》へるか。養生するか。君は健康を害しないか、君はその病が生じたか。生じないか。

220「薄伽梵樣もまた仰せられた。『君が害は小さいか。惱みは少ないか。病が小さいか。動搖が輕いか。養生と・力と・幸福と・無懺と・安穩とに住するか』と。

221「長者と、君のこの病はどこから來たか。生じてから何程經つか。何程止まり、また何程すれば平癒するか。

222維摩は答へた。「文殊よ、無知と存在の貪愛があるだけ、私のこの病もまたそれだけある。一切衆生の病があるだけ、私の病もまたそれだけある。一切衆生が病と離るゝこととなつたその時、私の病も生じない。

223「何故かと云へば、文殊よ、菩薩のめぐる住所は、衆生であつて、病は輪廻に住する。一切衆生が病と離るゝこととなつたその時、菩薩もまた病がなくなる。

224「文殊よ、このやうで譬へば、商主の一人子《ひとりご》が病氣になると、かの病めるものの兩親もまた病むこととなる。一人子が病のなくなるまで、兩親も苦しむ。文殊よ、そのやうに、菩薩は一切衆生を一人子のやうに愛してゐる。一切衆生が病んでゐるから、彼もまた病む。衆生に病が無くなれば、彼もまた病が無くなる。いかに文殊よ、君がこの病はどこから生じたかと言はれたが、菩薩等の病は大悲から生じた」と。

225文殊は問ふた。「長者よ、君のこの家は空であつて、何故に君には一の僕もないのであるか。」 維摩は答へた。「文殊よ、佛國土の總てもまた空である。」

226 問ふた。

「何故に空であるか。」

答へた。

「空性なれば空である。」

問ふた。

「空性に何の空があるか。」

答へた。

「總てに妄想することが、空性なれば空である。」

227 問ふた。

「空が總てに妄想することが出來るか。」

答へた。

「全く妄想すること、そのことも空であつて、空性は空性を解せぬのである。」

問ふた。

「長者よ、何れに空を求めるか。」

答へた。

「文殊よ、空は六十二見から求める。」

問ふた。

「六十二見はどこから求めるか。」

答へた。

「如來の完全解脱から求める。」

問ふた。

「如來の完全解脱は、どこから求めるか。」

答へた。

「一切衆生の心の最初行から求める。」

229「文殊よ、如何に、君には奴僕もないかと云はれたが、一切の惡魔と敵の總ては私の僕である。何故かと云へば、惡魔等は輪廻の讚歌をいふものであつて、輪廻は菩薩の僕である。敵等は主義者等の讚歎を言ふ者であつて、菩薩は總ての主義に對して疑はないのである。故に總ての惡魔と、總ての敵は、私の僕である。」

230文殊は問ふた。

「長者よ、汝の病はどのやうである。」

答へた。

「形相もなく、示すこともなひ。」

問ふた。

「その病は身と伴ふてゐるか。さうでなくて心と伴ふてゐるか。」

答へた。

「身を遠離してゐるから、身では伴ふては居らぬ。心は幻の法性であるから、心とも伴ふては居らぬ。」

231また問ふた。「長者よ、このやうに地の原素・水の原素・火の原素・風の原素・この四つの原素の中で、どの原素が害してゐるのであるか。」

232答へた。「文殊よ、一切衆生の病の原素がそのやうにある。それで私もまた病んでゐる。」

233文殊は言つた。「如何樣に、菩薩が菩薩の病を慰安すべきであるか。」維摩は答へた。「身が無常の故であつて、厭離の意を生じて貪欲と離るゝがためではない。身は苦であつて、涅槃を樂むが故ではない。身は無我であつて、衆生を熟せしむるからである。身は自性寂靜であるからであつて、甚深寂靜であるからではない。

234「罪惡を懺悔することの總てを示したものであつて、移動のためではない。自分が病むことから、他の衆生の病むことを憐み、

235「過去の無始の苦を憶念すると、衆生の利益をなすことを憶念すると、善根を明かにすると、本來完全清淨なると、存在なきことと、常に精進努力するならば、一切の病氣を無くする所の醫王になるのであると、そのやうに各菩薩は菩薩の病を慰安すべきである。」

236文殊が問ふた。「紳士よ、菩薩は病むときには、如何樣に自己の心を確かに觀想するか。」

237維摩は答へた。「文殊よ、菩薩が病むときには、己の心をこのやうに確實に觀想すべきである。病氣は過去の邊際よりあるのではない。顛倒の業が總てより起つたことから生じた。また完全でない總てに妄想する煩惱から生じたのであつて、眞諦義にはこゝに何の病と名づける法も、何も思ふことはない。

238「何故かと言ふに、この身は四大原素から出來たのであつて、此等の原素には主人も何もないので、また生じたこともなひ。この身には我はないのであつて、我と明かに執着する他に、こゝに眞諦義に於ては、何も病と名づくるものを見ない。

239「それ故に、我には明かに執着することなくして、病の根本が意識に住すとする者は、我と思ふ相續を斷つて、法の想を生ぜねばならぬ。

240「この身は、多くの法を輯めたものであつて、生れても法のみ生れ、滅しても法のみ滅するのであつて、それ等の法は相互に感じもしない。知りもしない。それ等の法は生れても、このやうに我は滅すと思はぬのである。それが法の想で即ち一切を知るために心を生ずる。

241「何れにしても、我によつてこのやうに法を思ふことも、また顛倒であつて、顛倒は大病である。我は病と離るべきであつて最も病を棄てる爲に努力せねばならぬ。

242「かの病を棄てるといふことは、何であると言へば、この樣であつて、我と執することと、我物と執することとを棄てるのである。それ等は何であるかといへば、この樣であつて、二と離れたことである。かの二と離れたことは、何であるかと言へば、この樣であつて、内と・外とに普く行ふことがないのである。それは何かと言へば、このやうであつて、平等より動かない。全く動かない。完全に動かないのである。

242「平等は何かと言へば、我が平等から涅槃平等までゞある。それは何故かと言へばこの樣であつて、我と涅槃の二つとも、また空なるが故である。その二つが何故空であるかと言へば、名に名づけた所の二つはともに空であつて、

244「それ等もまた全く得ない。そのやうに平等を得る者は病は外である。空も外であるとしないので、病は即ち空である。」

245「感ずることは、感ずることなしと知つて、彼は感覺を亡ぼすことも、また現前にしない。佛の法を完全に成ずることに於て感覺は二つとも、棄つるのであるけれども惡趣に生れた一切衆生に對して、大悲心を起さないこともなひ。

246「ちやうどこれ等の衆生を、法の如くに確かに觀するを以て、病を亡ぼすこととなる、そのやうになすべきである。これ等に對しては、何れの法にても攝し修むべきではない。亡ぼすこともしないで、その何れの基礎から生じた病か、全くそれを知らしむる爲に、彼等に法を説明すべきである。

247「その基礎は何であるかと言へば、この通りで餘りに想ふことが基礎である。餘りに想ふ基礎に於て、どれ程か想ふそれだけ病の基礎がある。

248「何をあまりに想かと言ふに、三界をあまりに想ふのである。あまりに想ふ所の基礎を完全に知ることは、何であるかと言へば、この通りであつて、想ふことがないので無想である。如何に無想か、それは超度に想はないことである。我と見ることと他と見ることとを二つと想はない。それを無想と言ふ。

249「文殊よ、そのやうに菩薩は病むのであるから、老・病・死・生とを捨つるがために自己の心を確實に思惟すべきである。文殊よ、菩薩等の病はそのやうであつて、もしそのやうでないと言ふならば、努力は意義ないこととなる。

250「次のやうに喩《たとへ》を擧げて見ると、英雄と名づけるものは、敵對する者を降伏するからである。その如くに、老・病・死の苦痛を消滅するからして、菩薩と名づける。

251「菩薩が病むならば、このやうなことを思ふ。我が病は實なるものではない。また有るものでもない。そのやうに一切衆生の病もまた、實なるものでもなく、また有るものでもないと判斷する。彼はこのやうに知つたので、利益になるといふ見所に墮ちなにで、衆生等に大悲心を起すのである。さうして倏忽《しゅくこつ》煩惱を捨つるために、明らかに、精進する所の大悲心を、衆生等に生ずることは例外である。

252「それは何故かと言へば、利益を見ることに墮ちた所の大悲心を有つ者は、多くの生に於て菩薩が厭はしくなるであらう。利益と見る所の心を有つことと、離れたる大悲心を有つ者は、多くの生に於て菩薩を厭ふこととならない。

253「見が心に起つて總てに現はるゝも不生であつて、彼は心が普く起ることなしに生ずるからして、彼は解脱しながら生れて彼は解脱しながら出る。解脱しながらに生れ、解脱しながら出るから、衆生等を結縛から解脱する所の法を示すことが出來、且つその力がある。

254「この樣であつて、薄伽梵が、『自分が結縛せられて、他の者を結縛から解脱するといふことは出來ない。自分が解脱して他の者を結縛から解脱することは出來る』と仰せられた。されば菩薩は解脱すべきである。結縛すべきでない。

255「それでは結縛は何か、解脱は何であるかと言へば、方便なしに世の衆生に入ることは、解脱である。方便なくして禪定と・三昧と・平等に入る味を味ふことは、解脱である。方便によつて有たない所の最勝智は解脱である。最勝智によつて持たない所の方便は結縛である。最勝智によつて持つ所の方便は、解脱である。

256「それに就ゐて、方便なくして持つ所の最勝智は、結縛であるとは、何をいふかとなれば、このやうであつて、空と無相と・無願とを確實に思惟して、相好と・種好と・佛國土の莊嚴と・衆生を完全に熟することをなすことに、確實に思惟しないことは、方便がなくて持つ所の最勝智であつて、結縛である。それに方便によつて、持つところの最勝智は、解脱であるとは、この樣であつて、相好と種好と・佛國土の莊嚴と・衆生を全く導くことをなすことなしに、心が確實に思惟して、空と・無相と・無願とに伴ふことをなすことは、方便によつて持つ所の最勝智であつて、解脱である。

257「それに最勝智によつて、もたない所の方便は結縛であるとは、このやうであつて、一切の見と・煩惱の心から起ると・餘習あると・貪愛すると・忿怒とに住する所の善根をなす總てを以て、菩提に廻向しないことは、最勝智によつてもたない方便であつて、結縛である。

258「それに最勝智によつてもつ所の方便は、解脱であるとは、このやうであつて、一切の見と、煩惱の心から起ると・餘習と・貪愛と・忿怒を捨つる所の善根をなす總てを以て、全く菩提に廻向してそれにもまた誇らないことは、菩薩が最勝智によつて、もつ所の方便であつて、解脱である。

259「文殊よ、それにつゐて菩薩は、病むが故に、そのやうに、それ等の法を確實に思惟すべきであつて、何れも身・心・病に對して、無常・苦・無我とに解することは彼の最勝智である。

260「何れにしても、身の病を全く捨つるが故に不生であつて、輪廻の相續を斷じないで、衆生の利益を收むることを修行するのは、彼の方便である。

261「他にまた何れも、身・心・諸病とは相互に一つであつて、その一つは新しいのでもなく、また古いのでもないと知ることが、彼の最勝智である。

262「身・心・諸病の何れもみな寂靜で、寂滅で、不生であることは、彼の方便である。

263「文殊よ、そのやうに菩薩は病むが故に、自己の心を確實に思惟するけれども、彼は確に思惟すると、確に思惟しないことをなすべきでない。それは何故かと言へば、もし彼が確に思惟することに住するならば、それは凡夫の法である。然らずして、確かに思惟しないことに住するならば、それは聲聞の法である。それゆゑに、菩薩は確かに思惟することと、思惟しないこととに住することをしない。その何れにも住しないことは、菩薩の行處《ぎやうしょ》である。

264「凡夫の行處でもない、聖人の行處でもないそのことが、菩薩の行處である。輪廻も行處であつて、煩惱も行處でない。それが菩薩の行處である。

265「入涅槃を解することは、行處であるけれども、決定して涅槃に入ることを、行處としない。それが菩薩の行處である。四魔を示すことも、行處であつて、惡魔の境涯から全く出づることをも行處とする、それが菩薩の行處である。

266「一切智を求むることは行處で、非時に智を得ることを行處としない。それが菩薩の行處である。

267「四諦を知ることは、行處であつて、非時に諦を悟ることをなすことを、行處としない。それが菩薩の行處である。

268「内に別々に知ることも行處として、思ひのまゝに世に生るゝことを、全く持つことを行處とする。それが菩薩の行處である。

269「不生を一々に悟ることを行處として確實なることに入ることを行處としない。それが菩薩の行處である。

270「因縁法を行處として、諸見の處をも行處としない。それが菩薩の行處である。

271「一切衆生の雜行を行處として、煩惱の餘習を行處としない。それが菩薩の行處である。

272「聖諦を行處として、身と心とを盡した境涯を、行處としない。それが菩薩の行處である。

273「三界を行處として、法界を差別することを、行處としない。それが菩薩の行處である。

274「空性を行處として、諸種の功徳を求むることをも、行處とする。それが菩薩の行處である。

275「無相を行處として、衆生を完全に解脱することを思ひ、且つ解することをも行處とする。それが菩薩の行處である。

276「無願を行處と思ひながらも、世の衆生に示すことをも行處とする。それが菩薩の行處である。

277「明らかに無行なることを行處として一切の善根を明らかに行ふことの相續を斷たないことをも行處とする[#底本は「行處する」]。それが菩薩の行處である。

278「六の彼岸に到ることを、行處として一切衆生の心と、行の彼岸に行くことをもまた行處とする。それが菩薩の行處である。

279「六つの神通を行處として、漏を盡くすことをも行處としない。それが菩薩の行處である。

280「正法に住することを行處として、惡道を思はないことをも行處とする。それが菩薩の行處である。

281「四無量心をも行處として、梵天世界の生に觸れないことを行處とする。それが菩薩の行處である。

282「六つの憶念を行處として、總ての漏を行處としない。それが菩薩の行處である。

283「禪定と・三昧と・平等に入ることを行處として、三昧と平等に入る力によつて生れないことを行處とする。それが菩薩の行處である。

284「憶念を攝持することをば行處として身と・感覺と・心と・法とを誠に行處としない。それが菩薩の行處である。

285「完全に捨てることを行處として、善と不善とを二つに思ふことを行處としない。それが菩薩の行處である。

286「神通力を得ることを行處として、突然成就する神通力に自在なることをも行處とする。それが菩薩の行處である。

287「五根をも行處として、一切の衆生の最勝根と、最勝ならざるものとを知ることをも行處とする。それが菩薩の行處である。

288「五力に住することを行處として、如來の十力を明らかに喜ぶことをも行處とする。それが菩薩の行處である。

289「七つの覺支を、完全に成ずることを行處として、心が最もよく分つことを知ることに、巧妙なることを行處とする。それが菩薩の行處である。

290「道に住することを行處として、惡道に思はぬことをも行處とする。それが菩薩の行處である。

291「寂靜處と、超絶見の積聚を求むることを行處として、深く寂滅に墮ちないことをも行處とする。それが菩薩の行處である。

292「諸法は無生の性であると解することを行處として、相應[#「相好」の誤りか?]と・種好と・佛の御身と莊嚴とを全く成就することを行處とする。それが菩薩の行處である。

293「聲聞と・獨覺の状を示すことを行處として、佛の法より墮ちないことを行處とする。それが菩薩の行處である。

294「自性を最も完全清淨にする一切の法を修行することを行處として、一切衆生の誰にても、その願ふ處の如何に從つて、行ふ道を示すことをも行處とする。それが菩薩の行處である。

295「一切佛國土に對して誠に破るゝと・成ることなきと・空の自性に解することとを行處として、諸種莊嚴と・多樣に莊嚴する佛國土の功徳莊嚴とを示すことをも行處とする。それが菩薩の行處である。

296「法輪を最もよく轉じて、完全に大涅槃を示すことを行處として、菩薩の行を空しくせざることをも行處とする。それが菩薩の行處である」と。

277この教を説明した時、文殊法王子と共に集まつたかの神の子等より、八千の神の子等は無上完全圓滿の菩提に心を起した。

病氣訪問の章にして、第四である。

[缺][完全解脱不思議章第五]

298その時、長老舍利子はかう思つた。「この家には座などがない、これ等の菩薩と・聲聞はどこに坐するのであらうか」と。その時、梨車蔑維摩が長老舍利子の心の思を知つて長老舍利子にかう言つた。

299「尊者舍利子よ、如何に法を願ふて來られたか、然らずして、座を願ふためか。」

300舍利子は答へた。「私は法を願ふて來た。座を願ふ爲ではない。」

301維摩は言つた。「尊者舍利子よ、然らば、誰にても、法を願ふ者は、自分の身すら欲望しない。どうして座を願ふことが出來やうか。

302「尊者舍利子よ、誰にても法を願ふ者は、形相と・感覺と・想と・行と・識とを願はぬ。積聚と・界と・入とを願はぬ。誰にても法を願ふものは、欲界と・色界・無色界とを願はぬ。

303「誰にても、法を願ふ者は、佛に明かに執着して、願はぬ、法と僧とに明かに執着して願はぬ。

304「尊者、舍利子よ、他にまた法を願ふ者は、苦を完全に知ることを願はぬ。集を捨つることを願はぬ。滅を明かにすることを願はぬ。道を思惟することを願はぬ。何故かと言へば、法は念想もなければ、文字もないものである。もし、我々は苦を知るべきである、集を捨つべきである、滅を證すべきである、道を知るべきである、などと言へば、それは念想することとなつて、法を願ふのではない。

305「それは念想を願ふのである。

306「尊者舍利子よ、法は近く寂靜にして最も寂靜であつて、それには誰かが生ずると・滅することを行ふ。彼等は法を願ふのではない、また寂靜處を願ふのでもない。彼は生るゝことと、滅することとを願ふ。

307「尊者舍利子よ、他にまた法は、塵なく塵と離れてゐる。それは誰かが何の法かに着するならば、假りに涅槃に入ることに着するとも、彼等は法を願ふのではないのであつて、貪欲の塵を願ふ。

308「法は境になひのであつて、誰かが境と思ふ。彼等は法を願ふのではない。境を願ふ。

309「法は取ることもなひ、捨てることもなひ。誰かが何かの法を取り、または捨てる。彼等は法を願ふのではなく、彼等は取ることと・捨てることを願ふ。

310「法は總基(心)が無いのであつて、誰かが心を喜ぶ。彼等は法を願ふのではなく、彼等は心を願ふ。

311「法は無相で、空である。誰かが識の相に從つて入る。彼等は法を願ふのではなく、彼等は相を願ふ。

312「法は共に住所がないのである。誰かが法と共に住すとする。彼等は法を願ふのではない。彼等は住所を願ふ。

313「法は見ると・聞くと・隔別に分つと全く知ることとがない。もし見ると・聞くと隔別に分つと全く知ることとを願ふ。彼等は法を願ふのではない。

314「尊者舍利子よ、法は有爲と・無爲とが無い。誰かが有爲を行處とする。彼等は法を願ふのではない。彼等は有爲をもつことを願ふ。

315「尊者舍利子よ、故に君が法を願ふならば、君は一切の法を願はぬことである。」

316「この法教を説明した時、五百の神の子は諸法に於て法眼が完全清淨になつた。

317その時、梨車蔑維摩が文殊法王子にかう言つた。「文殊よ、君が十方無數百千の佛國土等に行かれた時、何れの佛國土に於て獅子座の總ての最勝功徳を具へたものを見たか。

318文殊は答へた。「紳士よ、こゝから東方に三十二恆河沙數の佛國土を過ぎて、須彌幢《しゅみどう》と名づくる世界があつて、そこに須彌燈王如來と名づくる方が、現在生存して居られる。その如來の御身長は八百四十萬|由旬《ゆじゅん》あつて、その世尊の獅子座の量は六百四十萬由旬である。

319「かの菩薩等の身もまた四百二十萬由旬である。その菩薩等の獅子座もまた、三百四十萬由旬である。紳士よ、須彌燈王如來の佛國土なる須彌幢世界に於ては、獅子座が總ての最勝功徳を具へてゐるのである。

320その時、梨車蔑維摩はこのやうな思ひを起した。そして、このやうな神力を明らかに修めて、かの須彌幢世界に在らせらるゝ世尊須彌燈王如來の三萬二千の獅子座を送つてよこさせた。

321すると彼處にある程の容積ある高さとその程の廣さと、それほどに見て美はしきもので、こゝにゐる菩薩等も・聲聞等も・因陀羅も・梵天も・護世も・また神の子等も未だ曾て見なかつたものが、上空から來て、梨車蔑の家に一々留つた。三萬二千の諸種の獅子座が重ならずに入つた。その家も、またそれ程に廣大に見えた吠舍離の大城市も覆はれることなく、また南瞻部洲《なんせんぶしゅ》と四州も覆われることなく、それらの總てが以前にあつたと同じやうに見えた。

322その時梨車蔑維摩が文殊法王子にかう言つた。「文殊よ、獅子座に相應する身に加持して、此等の菩薩と獅子座につかれよ。

323その時、菩薩の何れも神通力を得た所の者は、自分の身を四百二十萬由旬に加持して獅子座に坐した。何某の菩薩で、初心の者等は、その獅子座に座することが出來なかつた。

324その時、梨車蔑維摩はちやうどかの菩薩等が五神通を得ることとなる事の如くにかの菩薩等に法を説ゐて、彼等をして神通を得せしめて、四百二十萬由旬の身と明かに化してそれらの獅子座に坐した。

325かの大聲聞等もまたそれ等の獅子座につくことが出來なかつた。それで梨車蔑維摩は長老舍利子に言つた。「尊者舍利子よ、獅子座につけ」と。 舍利子は答へた。「聖人《せうにん》よ、此等の獅子座は高くて、大きいから、着くことが出來ない。」

326維摩は言つた。「尊者舍利子よ、世尊須彌燈王如來に禮拜せよ、着座することが出來やう」と。その時、それ等の大聲聞は、世尊須彌燈王如來に禮拜して遂にそれ等の獅子座に着ゐた。

327その時、長老舍利子は言つた。「紳士よ、小さき家の中に、このやうに高く大きい諸種の獅子座をこれ程幾千も入れて、これ等によつて吠舍離の大城市が覆わるゝところともならず、南瞻部洲の村と・町と・國土と・王の眷屬と・四大州もまた少しも覆わるゝこととならず、神・龍・夜叉・乾逹婆・阿修羅・伽樓羅・緊那羅・大蛇の住所なども、また覆はれないで、前にあつたやうに今もその通りに現はれてゐることは、驚くべきである。

328維摩が答へた。「尊者舍利子よ、如來と菩薩等には、その完全解脱不可思議と名づけるものがあつて、その完全解脱不可思議に住する所の菩薩は、妙高山王即ち須彌山程に高く、またそれ程に大きく、それ程に容量あり、それ程に廣大であつても、芥子の中に入れて、芥子そのものもまた増大することもなく、須彌山もまた小さくなつたこともなひ。その作用を示したのである。

329「四天王と、神等と、三十三天の神等もまた、自分等が何れに入つたか知らないでゐる。神通によつて化せられた他の衆生等は、山王須彌が芥子の中に入れられたことを知り、且つ見るのである。それは尊者舍利子よ、菩薩等の完全解脱不可思議の境に入つたものである。

330「尊者舍利子よ、他にまた完全解脱不可思議に住する所の菩薩は、四大海の總ての水などを一毛髮の穴に入れて、魚と・龜と・人を殺す鰐《わに》と・蛙と・水より生じた諸種の生類などを害することもなく、龍と・夜叉と・乾逹婆と・阿修羅等もこのやうに思ふ。我等は何處に入つたかと思ふこともなさずに、その作用が現はれて、かの衆生等を害し、或いは騷がすことともならない。

331「この三千大千世界も、また陶噐師の輪の如くに、右手に取つて廻して、恆河沙數の世界のかなたに投げるとも、衆生等は何處へ行つたか、何處から來たかも知らない。再びまた取つて、元の住所の如くに置ゐても、來ると行くとを知らない。併しその作用を總て現はす。

332「尊者舍利子よ、他にまた、無量輪廻に於て教化した所の衆生等もある。短い輪廻によつて教化したものもあつて、それには完全解脱不可思議に住する菩薩が、無量の輪廻に於て教化する力によつて、七日の中にも劫《カルパ》波の過ぎたることを示す。

333「短かき輪廻によつて、教化する所の衆生等には、劫波もまた七日の間に過ぎたことを示す。それには無量の輪廻によつて教化する衆生等には七日の間に於ても、劫波が過ぎたと思はしめる。何人にても短かき輪廻によつて、教化せられる衆生等には劫波もまた七日によつて過ぎたと知らしめる。

334「そのやうに完全不可思議に住する菩薩は、一切佛國土の一切功徳の功徳莊嚴等を、一の佛國土に示す。

335「一切衆生をまた、右手の掌にのせ、心の急速なる神力によつて、行ひて、一佛國土に示しても、一の佛國土からも動かない。

336「十方の佛世尊に供養したものの有るだけの總てを、一毛髮の穴中に示す。

337「十方に於てあるだけの月と・日と・星との形相の總ても、一毛髮の穴の中に示す。

338「十方に於て現はるゝだけの風輪《ふうりん》の總てを口の中に入れても、その身が破るゝことともならない。それ等佛國土の草や、林などが臥することもなひ。

339「十方の佛國土等を燒く所の劫火《ごふくわ》の積聚を、總て己の腹中に入れるやうな働きをなす。

340「下方に恆河沙數の佛國土を過ぎ、その下の佛國土を上に擧げて、そこより上に恆河沙數の佛國土を過ぎたる上に置くことは、譬へば、大力ある人が、針の端を以て檜の葉に刺して、持ち上げるやうである。

341「その樣に完全解脱不可思議に住する菩薩は、一切衆生を轉輪王の形相に加持する。その如くに護世の形相に加持する。因陀羅の形相に加持する。梵天の形相に加持する。聲聞の形相に加持する。獨覺の形相に加持する。菩薩の形相に加持する。一切衆生を佛の形相に加持する。

342「十方に於ける上中下の總ての衆生の語に發聲したことも、語に名づけたことの何れも、あるだけの總てを、佛の音聲と・佛の言語と・法の言語と・僧の言語とに加持する、その言語からまた無常と・苦と・空と・無我の言語音聲を出す。十方の佛世尊の種々いかやうに、示されるそれだけの法を示すのであつて、それ等すべての言語と音聲から出る。

343「尊者舍利子よ、これは完全解脱不可思議に住する菩薩等の境に入ることを少しばかり示した。尊者舍利子よ、完全解脱不可思議に住する菩薩等の境に入ることを弘く示すならば、劫波より餘れるか、それより過ぎても、私は説明することが出來る。

344「その時、尊者摩訶迦葉波(大護光)が菩薩の完全不可思議を示したことを聞き、驚ゐて、尊者舍利子にこのやうに言つた。「長者舍利子よ、このやうで譬へば、盲者の前に總ての形あるものを示しても、かの盲者は一の形をも見ないその如くに、長老舍利子よ、完全解脱不可思議の門を示したる時に、聲聞と獨覺の總ては、盲者と等しく目が無い、不可思議の一つの原因程も證することとならない。さればこの完全解脱不可思議を聞ゐた賢者は、誰も無上完全圓滿の菩提に心を生じない。根が甚だ衰弱して種は燒けて腐敗したやうに、この大乘に對しては根噐とならない。

345「然らば如何樣になさうかと、聲聞と獨覺の總ては、この法を示すことを聞ゐて哭する聲三千大千世界に聞えた。總ての菩薩は、この完全解脱不可思議を聞ゐて、青春の王子が王冠を受けた樣に最も喜んで頭にうけ、これを信解する力が全く生じた。

346「誰に掌もこの完全解脱不可思議に信解するものならば、一切の惡魔も何としやうぞ」と。

347尊者[#底本には「尊宿」]摩訶迦葉波が、この教を説ゐた時に、三萬二千の神の子等は無上完全圓滿の菩提に心を起した。

348その時、梨車蔑維摩は、尊者[#底本には「尊宿」]摩訶迦葉波にかう言つた。「尊者摩訶迦葉波よ、十方無量の世界に於てあるだけの惡魔等と、魔行をなす所の彼等總ては、また完全解脱不可思議に住する菩薩等が、方便に巧みなるを以て衆生を全く熟せしむる爲に、魔行をする。

349「尊者摩訶迦葉波よ、十方無量の世界に於て、菩薩に乞ふ所のものは、何れか手か・足か・耳か・鼻か・血か・筋か・骨か・目か・上半身か・頭か・四肢か・五體か・王國か・國家か・土地か・妻や・息子や・息女や・奴や・婢や・馬や・象や・車や・乘物や・金や・銀や・玉や・眞珠や・法螺貝や・水晶や・珊瑚《さんご》や・瑠璃《るり》や・寶珠等より、飮み物や・美味や・衣類等でも何でも恐れしめて乞ふ所の彼等の總ても、また大方は完全解脱不可思議に住する菩薩等であつて、方便に巧妙なるが故に超絶したる觀想によつて、此等を示すのであつて、猶豫《ゆふよ》なく菩薩を恐れしむる所の力は凡夫には無い。また凡夫には猶豫なく殺すか、或は乞ふこともできない。

350「尊者迦葉波よ、このやうで譬へば、螢が日輪の光明に厭迫せられて堪へざる如く尊者迦葉波よ、猶豫なく菩薩に向かつて行くか、或は乞ふことも出來ない。

351「尊者摩訶迦葉波よ、このやうに、譬へば、牛と・象と・爭う時は、驢馬《ろば》は堪ふることが出來ない。

352「そのやうに、尊者摩訶迦葉波よ、菩薩でない者が、菩薩を恐れしめることは出來ない。菩薩を恐れしめ、或は菩薩を恐れしめられることは、菩薩の堪へ得る所である。

353「尊者摩訶迦葉波よ、それが完全解脱不可思議に住する菩薩等が、方便を知る力に入るのである」。

完全解脱不思議を現す章で、第五である。

[缺][女神章第六]

354その時、文殊法王子は梨車蔑維摩にかう言つた。「聖人よ、菩薩は一切衆生をそのやうに見るか。」 維摩は答へた。「文殊よ、このやうに譬へば、賢者が水月を見るやうに、菩薩は一切衆生を見る。文殊よ、このやうに譬へば幻術師等が幻術によつて、化《け》したところの人を見るやうに。文殊よ、このやうに譬へば、鏡の面に顏を見るやうに、文殊よ、このやうに譬へば、陽炎を水と見るやうに。文殊よ、このやうに譬へば、反響《こだま》の聲のやうに、文殊よ、譬へば、虚空における雲の集りのやうに。文殊よ、このやうに、譬へば泡が破れる前際《まへぎは》のやうに、菩薩は一切衆生を見るのである。文殊よ、このやうに譬へば、水の聚沫《しゅうまつ》を生ずると破れるやうに菩薩は一切衆生を一々解《げ》する。文殊よ、このやうに譬へば、芭蕉に精髄を見るやうに。文殊よ、このやうに譬へば、電光のうつるやうに、菩薩は一切衆生を一々解する。

355「文殊よ、このやうに譬へば、第六大原素の如く、菩薩は一切衆生を一々解する。文殊よ、このやうに譬へば、第七の入の如く、

356「菩薩は、一切衆生を一々解する。

357「文殊よ、このやうに譬へば無相のもの等が相を現はすやうに。文殊よ、このやうに譬へば、燒けた種子から芽を生ずるやうに、菩薩は一切衆生を一々解する。

358「文殊よ、このやうに譬へば、龜の毛の衣のやうに。文殊よ、このやうに譬へば、臨終の際に於ける歡喜のやうに、菩薩は一切衆生を一々解する。

359「文殊よ、このやうに譬へば、預流果の人の壞集《ゑしふ》(身)を見るやうに。文殊よ、このやうに譬へば、一來果の人の三有に於るやうに、菩薩は一切衆生を一々解する。

360「文殊よ、このやうに譬へば、阿羅漢に貪欲と・瞋恚と・愚癡とのやうに、菩薩は一切衆生を一々解する。

361「文殊よ、このやうに譬へば、忍辱を得た菩薩に對して、吝惜《りんぢやく》と・犯戒と・害心とにて全く生活する心のやうに、菩薩は一切衆生を一々解する。

362「文殊よ、このやうに譬へば、如來に對して餘習のやうに、菩薩は一切衆生を一々解する。

363「文殊よ、このやうに譬へば、盲者が形相を見るやうに、菩薩は一切衆生を一々解する。

364「文殊よ、このやうに譬へば、無餘涅槃に入るものが息にて呼吸するやうに。文殊よ、このやうに譬へば、虚空に鳥跡のやうに、菩薩は一切衆生を一々解する。

365「文殊よ、このやうに譬へば、中性に男根の生じたやうに、菩薩は一切衆生を一々解する。

366「文殊よ、このやうに譬へば、石女の子を孕《はら》むやうに、菩薩は一切衆生を一々解する。

367「文殊よ、このやうに譬へば、如來の化身が煩惱を生じないやうに、菩薩は一切衆生を一々解する。

368「文殊よ、このやうに譬へば、夢に現はれて覺めて見たやうに、菩薩は一切衆生を一々解する。

369「文殊よ、このやうに譬へば、完全な無妄想者に煩惱のやうに、菩薩は一切衆生を一々解する。

370「文殊よ、このやうに譬へば、全く涅槃した者が再生するやうに、菩薩は一切衆生を一々解する。

371「文殊よ、このやうに譬へば、原因なきものから火の生ずるやうに、菩薩は一切衆生を一々解する。

372「文殊よ、このやうに譬へば、そのやうに究竟《くぎやう》して無我であると最も善く解することを以て、菩薩は一切衆生を一々解する」と。

373問ふた。「紳士よ、もし菩薩が一切衆生をそのやうに一々解するならば、いかやうにせば、一切衆生に大慈悲心を生ずるか。」

374答へた。「文殊よ、菩薩がその樣に一々解するならば、その樣に法を全く知つて、この衆生等にも自分は法を示さうと思ふ。されば彼は一切衆生を完全に保護する慈を起こす。

375「さうして取ることがないから、寂靜に接した慈である。煩惱が無いから、惱むことの無い慈である。三時が平等性であるから實相の慈である。總てより起す心がないから、障りなき慈である。

376「内外が雜《まじ》らないから無二の慈である。誠に究竟であるから、不動の慈である。想が金剛の如く破れないから、堅固の慈である。自性によつて完全清淨であるから、完全清淨の慈である。

377「想が平等であるから、平等の慈である。心の敵を降伏したから、阿羅漢の慈である。

378「衆生を全く熟する作用が相續して不斷であるから、菩薩の慈である。また眞如に深く入るから、如來の慈である。衆生が眠りに陷れるを最もよく覺《さ》ましむるから佛の慈である。

379「自ら明瞭圓滿の成佛であるから、自然生の慈である。味が等しいから、菩提の慈である。

380「愛欲と・忿怒とを捨てたから、虚假《こけ》なき慈である。大乘を全く現すから、大悲の慈である。

381「空と・無我とを一々解するから、全く倦厭なき慈である。師として惜法《しやくはう》がないから、法施の慈である。犯戒の衆生を見るから戒律の慈である。

382「我と・他とを守護するから、忍辱の慈である。一切衆生の重荷を運ぶから、精進の慈である。

383「味を味はないから、禪定の慈である。正しい時に得ることをなすから、最勝智の慈である。

384「總てに門を示すから、方便の慈である。想が完全清淨であるから、僞飾《ぎしょく》のない慈である。

385「想が決定してなすから、迷ふことなき慈である。煩惱が無いから、超絶觀想の慈である。虚榮がないから、欺くことの無い慈である。佛の樂を與えるから、安樂の慈である。文殊よ、それが即ち菩薩の大慈である。

386問ふた。「かの大悲とは何であるか。」 答へた。「何でも行ふた所の善根を、一切衆生に與へる。」

387問ふた。「かの大歡喜は何であるか。」 答へた。「何でも與えて、心に喜んで悔ゆることがない。」

388問ふた。「かの公平(捨)とは、何であるか。」 答へた。「何れも兩方の利益になることである。」

389問ふた。「輪廻の恐れを恐るゝ者は、何によるべきであるか。」 答へた。「文殊よ、菩薩が輪廻の恐れを恐るゝ者は、佛の大自性によるべきである。

390問ふた。「佛の大自性に住することを願ふ者は、何に住すべきであるか。」 答へた。「佛の大自性に住することを願ふ者は一切衆生に平等に住すべきである。」

391問ふた。「一切衆生に平等に住することを願ふ者は、何に住すべきであるか。」 答へた。「一切衆生に平等に住することを願ふが故に、一切衆生を最もよく解脱せしむる爲に住すべきである。」

392問ふた。「一切衆生を最もよく解脱させることを願ふ爲には、如何にすべきであるか。」 答へた。「一切衆生を最もよく解脱させることを願ふ爲には、煩惱から最もよく解脱すべきである。」

393問ふた。「煩惱を捨つることを願ふにはどの樣に最もよく修むべきであるか。」答へた。「煩惱を捨つるを願ふ爲には、法の如くに最もよく修むべきであるか。」答へた。煩惱を捨つるを願ふ爲には、法の如くに最もよく行ふべきである。」最もよく修むるは法の如く修るので、不生と不滅を修むれば法の如く最もよく修むるのである。

394問ふた。「如何に生ぜず、如何に滅しないのであるか。」 答へた。「不善などは生じない、善などは滅しない。

395問ふた。「善と不善との本は、何であるか。」答へた。壞集(身)が本である。」

396問ふた。「壞集の本は、貪ることと・愛することとである。」

397問ふた。「貪ることと・愛することとの本は何であるか。」答へた。「貪ることと・愛することの本は、不正に分別する事である。」

398問ふた。「不正に分別する本は、何であるか。」 答へた。「不正に分別する本は、顛倒の想ひ《おもひ》である。

399問ふた。「顛倒の想の根本は、何であるか。」 答へた。「顛倒の想の本は、よる所がないのである。」

400問ふた。「無依の根本は、何であるか。」 答へた。「文殊よ、何れか無依であるものその根本となるものが何もないのであつて、そのやうに一切の法は無依の本に住するのである」と。

401その時、その家にゐる女神が、かの菩薩大薩等の説法を聞ゐて、歡喜勇躍《ぐわんきゆふやく》して自分の身を、そのまゝ現はして、諸種の天華を以て、かの菩薩大薩等と、かの大聲聞等に明らかに散じた。散華すると、菩薩等の身に落ちた華は地に落ちた。大聲聞等の身に落ちた華は、その身に着ゐて地に落ちなかつた。その時、大聲聞等は神通力を以て、それ等の華を落しても落ちなかつた。

402その時、かの女神は長老舍利子にかう言つた。「尊者舍利子よ、これ等の華を落して何とするか。」 答へた。「女神よ、これ等の華は適當でないから、私はこれ等の華を散ずるのである。」

403女神は言つた。「長老舍利子よ、そのやうに云ひ給ふな。何故なら、これ等の華は適當である。それはこのやうにそれ等の華は分別しない。全く分別しない。尊者舍利子よ、御自身で分別して、全く分別した。

404「尊者舍利子よ、何れもよく御説きになつた戒律の法に於て、出家し分別して、全く分別するなどは適當ではない。尊者[#底本の「尊宿」は誤植]は分別し、全く分別するけれども、誰でも無分別が適當である。

405「尊者舍利子よ、このやうに分別すると、全く分別することを捨つるのであるから、菩薩大薩のこれ等の身には、華が着かないことを見よ。

406「このやうに譬へば、恐怖《おそれ》の性質である人には非人等が害をなす機會を得るのである。そのやうに輪廻の恐れを恐るゝ者等には、形相と・聲と・香と・味と・觸れることとが害をなすの便宜を得ることとなる。

407「誰でも、總ての行の煩惱の恐れを離れた者等には、形相と・聲と・香と・味と・觸るゝことが、何もなすことも出來ない。誰でも、餘習を捨てない者等には、華も着くけれども、誰でも餘習を捨てた者等の身には華が着かない。されば餘習を總て捨てた者等の身には華が着かない。

408その時に、長老舍利子は言つた。「女神よ、そなたはこの家の内に入つて、何程經つか。」 女神は答へた。「尊者[#底本の「尊宿」は誤植]が完全解脱に入つてから經つた程の間である。」

409問ふた。「女神よ、そなたはこの家に住して、永く經ないといふことを示しては如何が。」 答へた。「尊者[#底本の「尊宿」は誤植]が完全解脱に入つてからどれ程經つたか。」

410その時、舍利子は何も言はなくなつた。女神は問ふた。「尊者[#底本の「尊宿」は誤植]、大地を具ふる最勝なる者がどうして何も言はないのであるか。今や、善い時であるからお尋ねした。答へられよ。」 答へた。「女神よ、完全解脱は言ふことが無いから、如何にしても言ふことを知らない。」

412問ふた。「尊者[#底本の「尊宿」は誤植]が何とか文字に言ふ所の總ても、また完全解脱の自性である。何故かと言ふに、完全解脱の何であるかは、内にも無く、外にもなく、兩者に無いとも、妄想しない。その樣に、文字もまた内にも無く、外にも無く、兩者にも無いとも、妄想しない。されば尊者舍利子よ、文字を亡ぼして完全解脱を示し給ふな。それは何故かと言ふに、諸法の平等は聖人の完全解脱であるからである。」

413問ふた。「女神よ、貪欲と・瞋恚と・愚癡とを離るゝことを以て、完全解脱としないか。」 女神は答へた。「貪欲と・瞋恚と・愚癡とを離るゝを以て、完全解脱とせられたことは、増上慢の者に示されたことであつて誰にても増上慢の無い者等には、貪欲と・瞋恚と・愚癡の自性が完全解脱である。

413その時、長老舍利子は言つた。「よろしい、よろしい、女神よ、そなたは何を得て、何を證したのでそのやうな大辯辭を具へてゐるか。

414答へた。「尊者舍利子よ、私は何も得たものはない。證したものもない。その故に、私の雄辯はこのやうである。誰にてもこのやうに、私は得た、證したと思ふ者等は、よく説かれた戒律の法に於ては、増上慢の者といふ。

415問ふた。「女神よ、そなたは聲聞乘の者であるか、獨覺乘の者であるか、大乘のものであるか。」

416答へた。「私は聲聞乘を示すから、聲聞乘の者である。私は十二因縁の門から入るから、獨覺乘の者である。私は大悲を放棄しないから、大乘の者である。

417「けれども、尊者舍利子よ、チャンパカ香華の園に入るならば、菎麻子《ヒマシ》花の香をかがぬ。チャンパカの園に入るならば、チャンパカのみの香を嗅ぐやうに、尊者舍利子よ、この家には佛の法の功徳の香を具へてゐる者が住してゐるので、聲聞と・獨覺の香をかゞぬ。

418「尊者舍利子よ、この家には因陀羅・梵天・護世・神・龍・夜叉・乾逹婆・阿修羅・伽樓羅・緊那羅・大蛇、誰にてもこの家に集まる者等は、またこの聖人の法を聞くから、佛の法の功徳の香で菩提心を起して進む。尊者舍利子よ、私がこの家に住んでから、十二年この方、大慈と・大悲を具ふる者と、佛と法の不可思議を具ふるものの外に、聲聞と獨覺である所の言葉を、嘗て聞ゐたことはない。

419「尊者舍利子よ、この家には、驚嘆未曾有の法が八種あつて、常に不斷相續して現はれてゐる。八つは何であるかと言ふにこの家には黄金色の光が常に不斷相續すれば、夜と・晝との區別がない。この家には月と日も明らかでなく、また現はれぬ。それが驚嘆未曾有の第一法である。

420「尊者舍利子よ、他にはまた誰でもこの家に入つた者等は、入るや否や、煩惱の苦しみが無くなる。それが驚嘆未曾有の第二法である。

421「尊者舍利子よ、他にはまたこの家には常に因陀羅・梵天・護世、總ての佛國土より集まれる菩薩等と離れない。それが驚嘆未曾有の第三法である。

422「尊者舍利子よ、この家には、常に不斷相續して法を宣揚することと、六つの彼岸に逹する法を具へてゐる所の言語と、外に退かない法輪の言語と離れぬ。それが驚嘆未曾有の第四法である。

423「尊者舍利子よ、他にまたこの家には常に神と・人の太鼓と・歌の聲と・音樂を發して、それ等の音樂から、無量の佛法を成就する聲が、一切時中出てゐる。それが驚嘆未曾有の第五法である。

424「尊者舍利子よ、他にはまたこの家には一切の寶を以て滿《みた》して、盡滅《じんめつ》することを知らない四大埋藏《まいぞう》がある。その力によつて衆生等の貪にして飢ゑた總てが、持ち去つても盡くることを知らない。それが驚嘆未曾有の第六法である。

425「尊者舍利子よ、他にまたこの家には釋迦如來・無量光・不動・寶徳・放寶光・寶月・寶莊嚴・難勝・一切義成就・多寶・獅子吼・獅子吼如來等十方の無量の如來等を、この聖人が觀ずるや否や、お出でになつて、如來の祕密と名づくる法門に入ることを示してお歸りになる。それが驚嘆未曾有の第七法である。

426「尊者舍利子よ、他にまたこの家には諸神の住所の莊嚴等と、佛國土の功徳莊嚴の總てが現れる。それが驚嘆未曾有の第八法である。尊者舍利子よ、この家にはこれ等の八つの驚嘆未曾有の法が現れて、このやうに不可思議の法を見てゐるから、聲聞の法を誰が願ふこととなるであらう。」

427言つた。「女神よ、そなたが女子の身を變ずるならば、如何にも善いことである。」

428答へた。「私が十二年女身を求めてもなほ得ないのである。尊者舍利子よ、幻術師が作つた女の化身に、この樣に汝は女の身を變ずるならば、何んと善いことであると言つたら、それは何んといふ事になるであらう。

429答へた。「それには正しく全く得ることは、何も無い。」

430問ふた。「尊者舍利子よ、その通りに一切法は、全く得ることが無いのであつて、幻術師によつて化せられたる所の自性であつて見れば、それに對して女の身を變ずるならば、何んとよきことであると、あなたはそれを何と思ふか。」

431「その時、かの女神は、このやうな加持をした。それは尊者[#底本の「尊宿」は誤植]舍利子が、女神のそのやうに現はして、かの女神はまた尊者[#底本の「尊宿」は誤植]舍利子のそれのやうに現はした。その時、女神の舍利子の形相になつた者は、舍利子の女神の形相になつた者に、かう言つた。

432「尊者舍利子よ、女の身から變ずるならば、いかによいことであるか。」すると舍利子の女神の形相になつた者が、このやうに答へた。「私は男子の形相が現はれぬこととなつて、私が女の身に變じたことは、なぜ變じたか知らない。」

433女神は言つた。「もし尊者[#底本の「尊宿」は誤植]が女の形相を變ずることが出來るならば、總ての女もまた女の身から變ずることが出來やう。

434「そのやうに尊者[#底本の「尊宿」は誤植]は女でないのに、女となつて現はれたやうに、總ての女も女の形相に現はれて、女でないのに女の形相と現はれたのである。それをお考へになつて世尊は諸法は女もなく男もないと仰せられた。」

435その時、女神は加持したものを捨てたので、長老舍利子は、また/\自分の形相を具へることとなつた。その時、かの女神は舍利子にかう言つた。

436「尊者舍利子よ、あなたが女の形相になつたそれは、何であるか。」 答へた。「私がなしたのでもなく、變じたのでもない。」

437女神は言つた。「その通りに、一切の法もまたなしたのでもなく、變じたのでもない。何れもなすこともなく、變ずることもなひ。それが佛の仰せである。

438舍利子が女神に問ふた。「女神よ、そなたは此處から死ぬならば、何處に生れる。」 女神は答へた。「如來の化身が何處かに生れらるゝ所に、私もまた生れる。」

439問ふた。「如來の化身は死ぬことも無ければ、生るゝことも無い。」 女神は言つた。「諸法もまたその通りであつて、死ぬこともなく、生るゝこともなひ。」

440舍利子が女神に言つた。「女神よ、そなたは何程すれば菩提に明瞭圓滿に成佛するか。」 女神は答へた。「何れの時か尊者[#底本の「尊宿」は誤植]であるあなたが、凡夫の法を具ふることとならふ。その時、私もまた菩提に明瞭圓滿に成佛する。」

441舍利子が言つた。「女神よ、私が凡夫の法を具ふることとなることはない。」答へた。「尊者舍利子よ、私もまた菩提に明瞭圓滿に成佛する道理はない。何故かと言ふに、菩提は無住に住する。それ故、無住であるものには、誰でも明瞭圓滿に成佛することはない。」

442舍利子が言つた。「如來が仰せられたことに、恆河沙數の如來が明瞭圓滿に成佛した、明瞭圓滿に成佛する、明瞭圓滿に成佛することとならふ」と。

442女神は言つた。「尊者舍利子よ、過去と未來と、現在に出でらるゝ諸佛とは、それは文字に數へた符號に名づけたもので、諸佛には過去とか・未來とか・現在に出でらるゝことはない。菩提はこの三時から完全に超越したものである。尊者[#底本の「尊宿」は誤植]は阿羅漢を得たか。」

444答へた。「無得の因に由つて得た。」 女神は言つた。「その通りに明瞭圓滿に成佛することも、また無得の因に由つて明瞭圓滿に成佛する。」

445その時、梨車蔑維摩が長老尊者[#底本の「尊宿」は誤植]の舍利子にかう言つた。「尊者[#底本の「尊宿」は誤植]舍利子よ、この女神は九十二千萬億々の佛に奉じた者であつて神通智に遊戲し、誓願に由つて完全に生れて忍智を得、不退に完全に入つて、衆生を全く成熟《じやうじゅく》せしむるために、誓願の力によつて、どのやうにでも願ひに隨つて住してゐる。

女神の章にして、第六なり。

[缺][如來族第七]

446その時、文殊法王子は梨車蔑維摩にかう言つた。「紳士よ、どのやうにすれば、菩薩が佛の諸法に行くのであるか。」

447答へた。「文殊よ、何れの時か菩薩は非趣に行く。その時に菩薩が佛の諸法に行くことになる。」

448問ふた。「菩薩が非趣に行くといふのはどんなことであるか。」 答へた。「何れの時五逆の衆生に行つても、害心と、全く惱む心と、最も怒る心にならない。有情地獄の衆生に行つても、煩惱の總ての塵と離れる畜生の衆生に行つても、愚昧な暗黒と離れる。

449「阿修羅の衆生に行つても、我慢と・尊大と・傲慢がない。

450「夜摩の世界の衆生に行つても、福と智の總ての積聚を取る。不動と無形相の衆生に行つても、かの衆生に入ることをしない。

451「貪欲の衆生に行つても貪欲の總ての材料と、貪欲から離れる。怒りの衆生に行つても、一切衆生に對して怒りが無い。愚癡の衆生に行つても、諸法に對して、確かに最勝智で考へる。

452「吝惜の衆生に行つても、身と・生命とを見ないから、内外の物資を完全に施す。犯戒の衆生に行つても、少しの罪の恐怖を見て清淨にする功徳と、總ての清淨に住する。

453「害心の集りと怒りの衆生に行つても、誠に害心なく、慈愛に住する。怠惰の衆生に行つても、精進の實行を不斷相續して、總ての善根を全く求めることに努力する。

454「不具の衆生に行つても、自性によつて平等に住して、禪定に利益《りやく》がある。最勝智を破つた衆生に行つても、最勝智の彼岸に逹した衆生となつて、世間のものと、出世間の總ての論書に博學である。

455「衒學者《げんがくしや》と・口賢《くちがしこ》い衆生に行つても、適當なる語に巧みであつて、巧妙方便の行の根本に逹してゐる。

456「我慢の有情にも教示して、一切世間の橋となり、床几ともなる。煩惱の衆生に行つても、誠に總てから煩惱なく自性によつて完全清淨である。

457[缺]

458「聲聞の衆生に行つても、衆生等には聞かれない所の法を聞かしめる。獨覺の衆生に行つても、一切衆生を全く熟せしめるために大悲から出る。

459「貧窮の衆生に行つても、財産は盡くることを知らない所の寶を、手に持つてゐる。五官が害《そこな》ふてゐる衆生に行つても、善相でもつて、相好をもつて、よく莊嚴してゐる。

460「卑賤の種族に生れたところの衆生に行つても、福と・智の積聚を輯めてゐるから如來の種族に、よく生るることとなる。貧弱であつて色惡く、痩せてゐる衆生に行つても、美麗であつて遍照天のやうな身を得る。

461「一切衆生に老と・病と・不安樂の行とを示すが、また死ぬ恐れから全く超絶して、最も降伏する。財産ある衆生に行つても、總て求むることなく、無常の想に、一々悟ることが多い。

462「菩薩が宴會と・雜踏とを多く示しても、寂靜處に行つて貪欲の泥から渡つてゐる。

463「界と・入との衆生に行つても、總持を得て、諸種の雄辯によつて莊嚴する。

464「外道の衆生に行つても、外道とならない。

465「一切世間の衆生に行つても、一切の衆生から外に出る。涅槃の衆生に行つても輪廻の相續を捨てない。

466「文殊よ、このやうになれば、菩薩は行くことなくして行くのであつて、佛の諸法に行つたものである。」

467その時、梨車蔑維摩は文殊法王子にかう言つた。「文殊よ、諸如來の族は何であるか。」 答へた。「紳士よ、壞集(身)は諸如來の族である。無智と・存在を貪愛することとは族である。貪欲と・瞋恚と・愚癡とは族である。四顛倒は族である。五蓋は族である。六入は族である。七識は族である。八邪見は族である。總てより惱む心の九の實質が族である。十不善業道が族である。紳士よ、これが諸如來の族である。紳士よ、要するに六十二見は、諸如來の族である。

468問ふた。「文殊よ、どの樣に考へて、その樣に言ふか。」 答へた。「紳士よ、無爲を見て、それに入つて確實に住する者は、無上完全圓滿の菩提に心を生ずることが出來ない。

469「煩惱の生所有爲に住する者、即ち諦を見ない者は、無上完全圓滿の菩提に心を生ずることが出來る。

470「紳士よ、この樣に、譬へば、高原陸地に青蓮華と・睡蓮と・紅蓮華と・白蓮華と・最勝香華が生じないのであつて、泥と・池とに於て青蓮華と・睡蓮と・紅蓮華と・白蓮華と・最勝香華等が生ずる。

471「紳士よ、その樣に、無爲を確實に得た衆生等には、佛の諸法は生じない。煩惱の泥と、池とになつた衆生等に、佛の諸法が生ずる。

472「この樣に譬へば、虚空に種は生じない。地に住して生ずる如くに、無爲を確實に得た衆生には、佛の法は生じない。

473「壞集(身)を見ること、妙高山と等しく増長するならば、菩提心は生ずるのであつて、次で佛の諸法が生ずる。紳士よ、この教理によつて一切煩惱は諸如來の族であると知るべきである。

474「紳士よ、このやうに譬へば、大海に入らないで、無價の寶珠は得ることが出來ない。その樣に煩惱の大海に入らないものは、一切智の心を生ずることは出來ない。

475その時、尊者摩訶迦葉波は文殊法王子に、「よろしい」と申して、また「よろしい、よろしい文殊よ、この語は善説であつて、また正しい言葉である。かの煩惱は諸如來の族であるけれども、我等の如きは菩提に心を起すか、佛の法を明瞭圓滿に成佛することはどうして出來やう。五逆を具へた者が菩提心を起すことも出來る。また佛の諸法にも、明瞭圓滿に成佛することも出來る。

476「この樣に譬へば、五官を具へて居らない者には、五欲の功徳が功徳でなく、能力も無いのであつて、その通りに一切の行を總て捨てた所の聲聞には、佛の一切法が功徳もなく、能力もない。それに對して、別に觀想することもできない。

477「文殊よ、それ故に凡夫等は如來に恩を報ずるのである。聲聞等は恩を報ぜぬのである。

478「それは何故かと言ふに、凡夫は佛の功徳を聞く事によつて、三寶の族を不斷相續する爲に、無上完全圓滿の菩提に心を起す。聲聞は何程生きてゐる間に、佛の法と・力と・無爲等を聞ゐても、無上完全圓滿の菩提に心を起す事が出來ぬからである。」

479「その時、菩薩現一切色身と名づける者が、その會《ゑ》に集まつて居つたが、彼は梨車蔑維摩にかう言つた。「長者よ、汝の父母・息子・妻・奴・婢・作業者・雇人等は何處に居るか。親友・近親・書記等は何處に居るか。僕・馬・象・車・歩兵・乘物等は何處にあるか。」

480梨車蔑維摩は、現一切色身菩薩に次の頌を以て答へた。

481菩薩の完全清淨なる

母は般若波羅蜜である。

父は方便に巧妙であつて

諸の導師はそれから生れた。

482法と喜ぶことが妻であつて

慈愛悲愍が娘である

法と二諦とは息子であつて

空の義を思惟することが家である。

483その如く總ての煩惱を何れとも

別離するに自在なことが弟子である

親友は菩提助道分であつて

それが最勝菩提となる。

484彼が友として常に伴ふ者は

六つの彼岸に逹することである

四攝法は女部屋であつて

歌の音を以て諸法を現す。

485諸の形相は彼の花園であつて

菩提助道分の花が榮える

結果は完全解脱智であつて

法の大寶珠は空である。

486完全解脱が浴池であつて

三昧の水でもつて滿ちてゐる

完全清淨の蓮華を以て普く覆ひ

それに洗浴するものは垢がない。

487神通は彼の乘物であつて

大乘であつて上のないものである。

調御することが菩提心であつて

道は八つの寂靜支である。

488彼の飾りは相好などであつて

また八十種好である

觀想は諸徳である彼等の

衣服は慚愧羞恥《ざんぎしゅうち》を知ることである。

489彼等は正法の寶珠を持ち

最もよく實行する法を示し

努力等を以て得る果を大であつても

完全に菩提に廻向する。

490臥具は四つの禪定などであつて

清淨なる生活によつて普く過す

それ等が覺めたる智であつて

常に聞くことを平等に置く。

491彼等の食物は甘露であつて

完全解脱の汁を飮むのである

思は完全清淨で洗ふのであつて

香を塗ることは戒律である。

492煩惱の諸敵を降伏してゐるから

彼等は眞の英雄で負けない

四魔等もまた最もよく化度して

菩提曼陀羅の勝幢《しやうどう》を立てる。

493思ひの如く生れることを示すも

生れることもなく出づることもなひ

總ての國土にも現はれることは

日の照らすやうなものである。

494導師を供養することの總てを以て

千萬の佛陀を供養するけれども

自我と佛陀などに於て

決して住することもしない。

495いかやうにも衆生を利益して

また佛國土等を清淨にするけれども

虚空のやうに國土等を思ふて

衆生に衆生といふ想もない

496衆生すべての形相などと

如何に發する語言にても

恐怖のない所の菩薩等は一瞬時に示すのである。

497惡魔の業などを知つてゐるけれども

惡魔等の後にも入る

方便の彼岸に到つた者等は彼の働きの總てをも現す。

498幻化の法を以て遊戲するので

衆生を全く成熟する爲に

老ゆることと病むこととなり

自己が死ぬことをも確かに示す。

499大地を全く燒くべき

劫火によつて燒かるゝことを示して

衆生が常と思ふものに對して

無常であることを最もよく示す。

500千々萬の衆生等でも一處に客としてもてなす

すべての家にも食物を施して

すべて菩提のために廻向する。

501何程かある眞言と科學と

多くの種類の工學などの

總ての奧義の奧義に逹し

一切衆生に安樂を得せしめる。

502何程かある世界の竒異(諸見)の

それ等の總ての最もよく逹して

異なる主義になつてゐる所の

衆生等を完全に開化する。

503彼は月或は日となつて

因陀羅梵天人の支配者と

水と火にも最もよくなつて

地また風にもなる。

504病劫の時にあたつては

彼は最勝なる藥となつて

彼は衆生を完全に解脱して

病氣なども無くして安樂にする。

505飢餓劫の時にあたつては

彼は食料と飮物とに變じて

飢ゑて渇くものなからしめて

衆生等に法を示すのである。

506戰爭劫の時にあたつては

彼等は慈愛を思惟して

多數百千萬の衆生をして

無害心に入らしめる。

507大戰を交ふる中に於て

彼等は雙方に平等となり

大力ある諸の菩薩は

和合を締結することを喜ぶ。

508あるだけの佛國土に於て

不可思量である地獄に於ても

衆生等を利益するために

想に從つてそこに行く。

509あるだけの畜生の生處の

衆生に最もよく示すことで

總てにも法を示す

それ故に完全導師と名づけられる。

510欲の材料等をも現示し

禪定者には禪定を現示し

惡魔等を最もよく降伏せしめて

彼等に害をする便を得ざらしめる。

511火聚の中から蓮華の如く

全くあり得ないことを示す

その通りに貪欲に禪定をも

全くあり得ないことを示す。

512思ひに從つて娼妓等にもなり

多くの男子を攝する爲に

愛欲の針を以て釣つて

彼等を佛の智に導く。

513衆生等を利益する爲に

町民或は商隊の導師ともなり

侍從ともなり臣下ともなり

大臣とも常になる。

514貧民の衆生等には

盡くること知らない倉となり

何れにも施を施して

彼等に菩提心を起さしめる。

515我慢と驕傲の衆生に對して

彼等は最勝の大相好となつて

總ての我慢も降伏して

無上菩提を求めしめる。

516恐怖の衆生等には

常に彼等の前にゐて

彼等に無畏を與へて

菩提に熟せしめる。

517彼等は五神通を得た

仙人として清淨に行つて

忍辱と柔和と戒律と

結制に衆生を導く

518供養に努力する衆生等は

恐れがないからこれを見るならば

誠に奴とも僕ともなり

弟子ともなつて接近する。

519ありとあらゆる菩提支を以て

衆生が法を喜ぶやうにする

大方便を深く學んで

あらゆる作業を示す。

520彼等は學處は無邊であつて

行處等もまた無邊であつて

智もまた無邊に成就してゐるから

無邊の衆生を解脱する。

521時の劫波も千萬等と

百千萬の劫波に於て

諸佛世尊におかせられても

彼が功徳の終りを説き難い。

522誰にても最勝智がない

卑賤な衆生を除ゐた外の

賢者等はこの法を聞ゐて

誰が最勝菩提を願はずにゐやうぞ。

如來族の章にて、第七である。

[缺][入不二法門章第八]

523その時、梨車蔑維摩がかの菩薩等にかう言つた。「聖人等よ、菩薩の不二法門に入るとは何であるか。説くところあれ。」

524法完全化菩薩《ほふくわんぜんけぼさつ》と名づくる者が、そこに集まつてゐた。彼はかう言つた。「紳士よ、生と・滅とは二であつて、何れにも生れもせず、出でもしないものは、滅することもなひ所の不生の法に忍智を得たもので、それが不二法門に入つたのである。」

525徳蜜《とくみつ》菩薩は言つた。「我と我が物といふことは二つであつて、我と名づくるものがなければ、我が物となるものもないので、何れも名づくるものがない。それが不二法門に入つたのである。」

526徳積《とくしやく》菩薩は言つた。「一切煩惱と完全清淨といふことは、二つであつて、一切煩惱を完全に知れば、完全清淨と自負心とにならずして、一切自負心も皆よく降伏し一致して行く所のその道は、それが不二法門に入つたのである。

527善星《ぜんせう》は言つた。「搖動と自負心とは二つであつて、何れにも搖動なく自負心なく作意なく、超越して作すことなく、超絶して爲すことと離れることは、それが不二法門に入つたのである。」

528善手菩薩は言つた。「菩提心と、聲聞心といふことは、二つであつて、何れをも幻化心と等しく見るものには、菩提心もなければ、聲聞心もないのであつて、どれか心の性と一致したそのものは、それが不二法門に入つたものである。

529眼不瞬菩薩は言つた。「受と、不受とは、二つであつて、何をも受けない者は、それを想はないのであつて、何をも想はないものは、分別することと、滅ぼすこともしない。一切法を行はない。行のない者は、それが不二法門に入つたものである。

530善眼菩薩は言つた。「一性のと無性といふことは、二である。何も分別することをしない、總て分別すること(妄想)をしない、一性ともしない。無性ともしない。どれか性と性との不同なるものを、平等性に入れる事は、それが不二法門に入つたものである。」

531星王菩薩は言つた。「善と・不善といふことは、二であつて、何れも善と・不善とを取らないで、相と・無相とに對して二なしと了解するならば、それが不二法門に入つたのである。」

532獅子菩薩は言つた。「有罪・無罪といふことは、二であつて、誰かによつて、金剛の如くに貫徹したる智を以て、縛らず解かないことは、それが不二法門に入つたのである。」

533獅子解《ししげ》菩薩は言つた。「これは有漏である、これは無漏であるといふことは、二であつて、誰か平等性によつて法を得るがゆゑに、有漏と・無漏の想としない、また無想ともならない。平等には平等を得るといふこともなひ、想の結縛もない、そのやうに誰かが入るものは、それが不二法門に入つたのである。

534樂解《らくげ》菩薩は言つた。「これは樂であるこれは不樂であるといふことは、二であつて誰にても智が深く完全に清淨になるために一切の數と離れて、意が空と等しくなつて執着しない。それが不二法門に入つたのである。

535無欲菩薩は言つた。「これは世間だ、これは出世間だといふことは、二であつて、何れも世間の自性は空である、それには少しも取ることも・入ることも・行くことも・行かないこともなく、何れにも渡らず、入らず、行くこともなく、行かないこともなひ。それが不二法門に入つたのである。

536戒解菩薩は言つた。「輪廻と涅槃といふことは、にであつて、輪廻の自性を見ることによつて、輪廻せずして全く涅槃に入るのであつて、誰かそのやうに解した、それが不二法門に入つたのである。

537證見菩薩は言つた。「盡と・無盡といふことは、二であつて、盡は誠に盡であつて、何か誠に盡きるものは、盡くさるべきものではないのであるから、それ故に無盡と名づける。何れも無盡そのものは一瞬のものであつて、一瞬のものには盡きることがないのである。この樣に最もよく入るものはそれが不二法門に入つたものである。

538不蜜菩薩は言つた。「我と・無我といふことは、二であつて、誰にても我の實體を想はない、それが何れにしても無我となる。それ等の自性を見るがゆゑに不二となる。それが不二法門に入つたのである。

539雷天《らゐてん》菩薩は言つた。「智と・無智といふことは、二であつて、無智の自性の如くに智もまたそのやうであつて、何れか無智であるものは、言葉に示すことも無いもので、數にもなく、數の道からも超絶したものである。誰かこれを證悟するものは、それが不二法門に入つたものである。

540喜見菩薩は言つた。「形相は空であつて、形相が破れたから空になつたのではない。形相の自性が空である。その如くに感覺も・想像も・行意も・識も・空と名づけることは二である。識が空であつて、識が破れたので空となつたのではない。識の自性が空である。これを誰にても、受けた所の五つの積聚(五蘊)に對して、そのやうに知り、そのやうに智によつて知るものは、それが不二法門に入つたのである。

541光頂菩薩は言つた。「四大原素も外であつて、虚空の大原素も外であるといふことは二つであつて、四大原素が虚空の自性である。過去の際も、また虚空の自性である。未來の際も虚空の自性である。その通りに、現在も虚空の自性であつて、誰にてもそのやうに、大原素に入つた智そのものが、それが不二法門に入つたのである。

542最勝解菩薩は言つた。「眼と・相とあるといふことは、二つであつて、誰にても眼が完全に智によつて相に執着しない、怒らない、暗くならないものは、寂靜と名づけられるのである。その樣に耳と・聲・鼻と香《にほひ》・舌と味《あぢはひ》・身と觸・意と法のそれ等は二つである。誰でも意を完全に知つて、法に執着しない、怒らない、暗くならないものは、寂靜と名づけられるのである。その樣に寂靜に住するものは、それが不二法門に入つたのである。」

543無盡意菩薩は言つた。「總ての布施を佛智に完全に廻向することは、二つであつて布施の自性が一切智である。一切智の自性は全く廻向することである。その樣に戒律と・忍辱と・精進と・禪定と・最勝智とを一切智に完全に廻向することは二つである。一切智は最勝智の自性である。完全に廻向することも、一切智の自性である。誰にてもこの一理趣に入るものは、それが不二法門に入つたのである。

544深慧《じんゑ》菩薩は言つた。「空も外であつて無相と・無願も外であるといふことは、二である。何れも空なるものは、それには何も相は無い。相の無いものは願もない。願のないものには、心と・意と・識が働らくことがなく。誰にてもその完全解脱の一門を一切完全解脱の門であると見る者は、それが不二法門に入つたものである。

545寂根菩薩は言つた。「佛と・法と・僧であるといふことは、二つであつて、佛の自性は法である。法の自性は僧である。それ等の總てもまた無爲である。無爲は虚空である。一切法の理趣は虚空と等しくして、誰でもそのやうに隨つて行くものは、それが不二法門に入つたのである。

546無礙眼《むげげん》菩薩は言つた。「壞集と、壞集を滅ぼすといふことは、二つであつて、壞集の性は滅である。それは何故ならば壞集と見ることは、不生でないのであつて、何とか見るその心とは即ち壞集である。或は壞集を滅すことを分別しない、それを分別しない、全く分別しない、誠に分別しないので、それが滅の自性となつて生ぜず、滅せず、それが不二法門に入つたのである」

547誠化《じやうげ》菩薩は言つた。「身と・語と・心の結制といふことは、二つないのである。何故なら、これ等の法は明らかに無爲の自性であつて、身の明らかに無爲なるものは、語の明らかに無爲なるものと同じ自性であふr。意の明らかに無爲なるものもまた同じ自性である。何でも諸法の明らかに無爲であることを知るべくまた悟るべきである。これを明らかに無爲である事を知るものは、それが不二法門に入つたのである。」

548福田《ふくでん》菩薩は言つた。「福と・非福と・不動が明らかに輯められるといふ事は、二つであつて、何れも福と非福と・不動とを明らかに輯めないこととが二でないのである。福と非福と・不動を集むる等の自己の自性は空であつて、それには福もなく、非福もなく、不動もなく、明らかに集むることもなく、何れもそのやうに不得なることは、それが不二法門に入つたのである。

549蓮華莊嚴菩薩は言つた。「我は總てより起る者、(心)から生ずるといふことは、二つであつて、我を全く知るものは、二を取らない。そのやうに不二に住することに於て識がないのである故に、識がない者は、それが不二法門に入つた者である。

550徳心菩薩は言つた。「觀想によつて最も分つことは、二つである。何でも觀想しないそのものは、不二であつて、その故に得ることもなく、失ふこともなひ。それが不二法門に入るのである。」

551月上人《げつじやうにん》菩薩は言つた。「暗と明とであるといふことは、二であつて、暗もなく、明もないのが不二である。それは何故かと言ふに、このやうに滅盡定に入つたものは、暗もなく、明もないのであつて、諸法の自性もまた、その如くである。誰でもこの平等性に入るものは、それが不二法門に入つたのである。」

552寶印手《はういんじゅ》菩薩は言つた。「涅槃を明らかに喜ぶことと、輪廻を厭ふこととは、二つであつて、誰かが涅槃を明らかに喜ぶこともなく、輪廻を厭ふことのないのが不二である。何故ならば、結縛があるから解脱といふことを示すのである。もし心に結縛がないものならば、解脱といふことを何處に求めるか。縛らず解かない所の比丘は喜ぶことと厭ふことも生じない。それが不二法門に入つたのである。

553寶珠積王菩薩は言つた。「道と惡い道であるといふことは、二つであつて、道に入つた者は、惡い道を行はないのである。行はないことに住したものは、道と云う想か或は道でないといふことの想にならぬのである。想を完全に知るものは、二意に入らない。それが不二法門に入つたのである。

554喜實菩薩は言つた。「實《じつ》と虚《こ》といふことは、二であつて、實を見てもその實を完全に直接に見なければ、どうして虚を見ることが出來やう。何故なら肉眼によつて見ることは出來ないけれども、最勝智眼を以て見るのであつて、このやうに見ないならば、全く見えないものをそのやうに見るのである。何にも見ることもなく、全く見ることもなひ。それが不二法門に入つたのである。

555そのやうにそれ等の菩薩は、各々の教を説ゐて、文殊法王子にかう言つた。「文殊よ、菩薩の不二法門に入ることは何であるか。」

556文殊は言つた。「聖人よ、君等はすべてよく説かれたのである。しかし君等が説かれた所の總ては二である。一の教を除ゐていふこともなく、語ることもなく、説明することもなく、宣揚することもなく、示すこともなく、名づくることもなひのに入る者は、それが不二法門に入つたのである。」

557その時、文殊法王子が梨車蔑維摩にかう言つた。「我等は各自の教示を説き終つたから、紳士よ、君もまた不二法門を示すことに雄辯を振ひ給へ。」

558その時、梨車蔑維摩は何も言はずに、居つた。時に文殊法王子は、梨車蔑維摩に「よろしい」と言つて「善いことである、善いことである、紳士よ、これこそ菩薩等の不二法門であつて、それには文字と・言語と・全く知る所の原因とがないのである。」

559この教を説明した時に、五千の菩薩は不二法門に入つて、不生法に忍智を得た。

不二法門に入る章にして、第八である。

[缺][化身受食章第九]

560その時、長老舍利子は心にかう思つた。「も早晝食時になつたけれども、これ等の大菩薩には準備がないが、一體何をお上りになるのだらうか。」

561その時、梨車蔑維摩は長老舍利子のその思ひを心で知つて、かう言つた。「長老舍利子よ、如來がお説きになつた完全八解脱に住することをなせよ。食欲を雜へた心で聞かれるな。長老舍利子よ、少しく待て、未だ嘗て味はない食物を、お上りになるであらうから。」

562その時、梨車蔑維摩はそのやうな三昧に入つて、次のやうな神通を明らかに行つた。四十二恆河沙數の佛國土を過ぎた處に衆香最勝世界と名づける世界がある。その世界をこの會の菩薩と大聲聞等に示した。そこに最勝香積如來と言はれるゝ方が生存して居られる。その世界に十方一切の佛國土の人と・神との香が發する。それらの香よりも勝れた香が、その世界の國土から生ずる。

563その世界に於ては、聲聞・獨覺等の名もなく、菩薩ばかりの集會に對して、最勝香積如來が法を説ゐて居られる。その世界に於ては、あらゆる家も・歩道も・花園も・殿堂もみな香から造られてゐる。

564それらの菩薩が食ふ食物は、その香によつて無量の世界を覆ふ。その時最勝香積如來は、それらの菩薩と一座に晝食を召し上がる爲に坐せられた。そこに香嚴食神子と名づくる大乘に完全に入つた者が、世尊とそれらの菩薩に無事供養すべく勵んでゐた。その時集まつた總ての集會が、その世界に於てかの世尊と、それらの菩薩と晝食を召し上がらうとするのを見た。

565その時、梨車蔑維摩がこの會の菩薩等に言つた。

566「聖人たちよ、あなた等の中から、かの佛國土に食物を受けに行く者が、誰かあるか」と。

567文殊法王子の加持の爲に、誰も願ふことがなかつた。

568時に梨車蔑維摩が文殊法王子に對して言つた。「文殊よ、汝のこの集會の如きは恥づかしくはないか。」 答へた。「紳士よ、如來は不學の者を輕んずるなと仰せにならなかつたか。」

569その時、梨車蔑維摩は床から立たないで、それら菩薩の前に於て、化身の菩薩で、身は黄金の色に、相好と・種好とを以て、よく莊嚴したる者を現はした。それによつてこの集會の總てが暗黒となつた。それ程の形相に現はした。その時梨車蔑維摩はその化身の菩薩にかう言つた。

570「紳士よ、上方に向つて四十二恆河沙數の佛國土を過ぎて、衆香最勝如來と名づくる世界がある。そこには最勝香積如來と名づくる方が、今晝食を召し上がるために居られる。君はそこに行つてかの如來の御足を頂禮して、かう申し上げられたい。

571『梨車蔑維摩は、世尊の御足に百千遍頭を以て禮拜して、世尊に惱みは少いか。煩はしいことは少ないか。擧止輕安《こしきやうあん》であるか。衞生と・力と・安樂であつて、罪惡もなく安處に住まはれるか。』と御機嫌を伺つて、更に申上げられたい。『世尊が召し上がつた餘食を私に與えられたい。それが娑婆世界に於て佛の御働きをなすこととならふ。佛の御名も廣く傳はらふ。』と」

572その時、化身の菩薩は梨車蔑維摩に「よろしい」と言つて、それを聞ゐて、それ等の菩薩の前から顏を上に向けて行つた。然るにそれ等の菩薩は彼が行くことを見なかつた。その時、化身の菩薩は衆香最勝世界に行つて、世尊最勝香積如來の足に頂禮してかう申上げた。

573「薄伽梵樣、無垢稱菩薩が世尊の御足を頂禮して、『世尊の惱みは少ないか、煩はしいことは少ないか、擧止輕安であるか、衞生と・力と・安樂であつて、罪惡も無く、安穩に住まはれるか』と、御機嫌を伺ひ、重ねて世尊に百千遍頂禮してかう申上げた。『世尊が召し上がつた御食の殘餘を私にお與へを願ふ。それがこの娑婆世界に於て、佛の御働きをなすこととならふ。小を喜ぶ衆生等も、廣大なる佛法を信解することとなつて、佛の御名も廣く傳はらう』と。」

574その時、世尊最勝香積如來の佛國土の菩薩が驚ゐて、世尊最勝香積如來にかう申上げた。「薄伽梵樣、このやうな大衆生が何處から來たか、かの娑婆世界といふのはどこにあるか、小を喜ぶといふことは何であるか」と。

575世尊は仰せられた。「紳士よ、下の方に於て、この佛國土から四十二恆河沙數の佛國土を過ぎて、娑婆と名づける世界がある。そこに釋迦牟尼と名づける如來が、五濁の佛國土に於て、小を喜ぶ衆生等に説法せられる。そこには維摩と名づける菩薩で、不可思議の完全解脱に住する者が菩薩等に説法して、彼は我の名を全く宣揚すると、この世界の讚歎を最もよく示して、かの菩薩等の善根を甚だ盛んにするために、化身の菩薩を殘したのだ。」

576菩薩が申上げた。「薄伽梵樣、かの菩薩の大なることは、どれ程なれば、その化身もまた神通と・力と・無畏がこのやうになつたのであらうか。」

577世尊は仰せられた。「かの菩薩の大なることはこのやうであつて、彼が十方の佛國土に化身を放つて、それ等の化身が佛國土の一切衆生に佛陀の働きを以て近く住するであらう。」

578その時、世尊最勝香積如來が一切の香を具へた噐に、一切の香を薫じた食物を入れて、かの化身の菩薩に與へた。それで九百萬の菩薩もまたそこに行くことを願つてかう言つた。

579「薄伽梵樣、我等もまたかの娑婆世界に釋迦牟尼世尊を見て、禮拜し供養して、かの維摩とそれ等の菩薩にも會ふために行かう。」

580世尊は仰せられた。「紳士等よ、ちやうどよい時であるから行かれよ。紳士等よ、かの衆生等は狂して不謹愼になるかも知れない。香等を無くして行かれよ。かの娑婆世界の衆生等が、羨望することとならふ、自らの身を變ぜよ。

581「かの世界に對して惡い考へを生じ、つまらない思をしてはならぬ。何故かと言ふに、紳士よ、佛國土は虚空の土にして、衆生等を全く熟せしめるために、佛陀世尊等は佛國土の總てを示さない。」

582「その時、化身のかの菩薩は、その御食を持つて九百萬の菩薩と一處に佛の力と維摩の加持によつて、一瞬一小時に衆香最勝世界より現れぬこととなつて、梨車蔑維摩の家に坐した。

583その時、梨車蔑維摩は前のやうな獅子座を九百萬加持して、それにそれらの菩薩を招待した。その時かの化身の菩薩は、御食を以て充たした噐を維摩に與えた。すると御食の香で吠舍離大城市が香ひ、一千の世界にまで芳香を嗅ぐこととなつた。

584何れも吠舍離大城市の婆羅門と・長者等と・梨車蔑等の官憲梨車蔑月蓋がその香ひを嗅ひで驚嘆未曾有と思ひ、身と・心とが清涼になつた。八萬四千の梨車蔑と共に梨車蔑維摩の宅に入つた。

585彼等はその宅に於て、菩薩の甚だ高く甚だ廣大に坐するのを見て、最も大なる歡喜を生じ、大聲聞と大衆生に禮拜して一方の場所に坐した。

586地上の神の子等と・欲界に行ふ者と・色界に行ふ神等も、その香を尋ねて、梨車蔑維摩の宅に集まつた。

587その時、梨車蔑維摩は、尊者[#底本の「尊宿」は誤植]舍利子と大聲聞等にかう言つた。「尊者等よ、如來の御食甘露は大悲によつて全く薫ぜられてゐる、これを召上れ。卑小の行に心を置かるゝな。施しが得られぬかも知れない」と。

588聲聞がかう思つた。「僅かこれ程の食物で、この集會がどうして食べることが出來るか」と。

589その時、化身の菩薩が、かの聲聞等にかう言つた。「尊者等よ、君等の最勝智と・福と・如來の最勝智と・福とを比べ給ふな。

590「それは何故かと言ふに、それは譬へば、四大海は盡し得ると考へることが出來ても、この御食物には盡きることが少しもない。一切衆生が、この少しの食物を須彌山程にして一劫中食べても盡きることはない。

591「何故かと言ふに、戒律と・最勝智と・三昧の無盡なることから出た、如來の食噐に餘つたこの食物は、盡くすことが出來ない。」

592その時、その御食物を以て、大衆を滿足させたけれども、その食物は盡きなかつた。菩薩・聲聞・因陀羅・梵天・護世等と、外の衆生等の誰でも、その食物を食べた者等は、恰も一切樂最勝莊嚴世界に在る菩薩等の樂のやうな樂が身に生じた。彼等の毛穴からも、このやうな香が發した。譬へば衆香最勝莊嚴世界の樹花に生ずる香のやうである。

593その時、梨車蔑維摩は知りながらに、世尊最勝香積如來の佛國土から集まつた菩薩等にかう尋ねた。「紳士等よ、最勝香積如來のかの説法は如何やうであるか」と。

594菩薩等は言つた。「かの如來は、文字と言語とによつて法を示さないで菩薩等を化度する。

595「香の樹々の何れの前にも菩薩等が居られる。その樹々からこのやうな香を發する。誰でもその香を嗅ぐと、直ちに一切菩薩功徳生處と名づける三昧を完全に得る。その三昧を得ると、直ちにすべて彼等に菩薩の一切功徳が生ずる。

596その時、かの菩薩等は梨車蔑維摩に尋ねた。「こゝに釋迦牟尼世尊は、どのやうに説法をされるか。」

597維摩は答へた。「聖人等よ、これらの衆生は化し難い、頑強にして化し難い。これ等の衆生には、頑強にして化し難い者を化する所の言語を最もよく示すのである。

598「頑強難化の者等を化するといふことは何か。頑強にして化し難い者を化する言語とは何であるかと言へば、かうである。

599「これは有情地獄である。これは畜生の生處である。これは夜摩の世界である。これは難處である。これは不具の生れである。

600「これは身によつて罪惡を行ふ者である。これは身によれる罪惡業の全き果報である。これは意によつて罪惡を行ふものである。これは語によれる罪惡業の全き果報である。これは意によつて罪惡を行へるものである。これは意によれる罪惡業の全き果報である。

601「これは殺生である。これは與へざるに取るものである。これは愛欲を邪しまに行ふものである。

602「これは虚言を言ふものである。これは兩舌である。これは惡口である。これは猥褻なる語である。

603「これは貪欲の心である。これは瞋害の心である。これは邪しまに見るのである。これはその心である。これはそれ等の果報である。

604「これは慳吝である。これは慳吝の果報である。これは犯戒である。これは忿怒である。これは怠惰である。これは無意義なる慧である。

605「これは別々解脱である。これは爲すべきことである。これは爲すべからざることである。これは相應行である。これは捨つべきである。これは蓋である。これは無蓋である。それは墮罪である。これは墮罪から出たものである。これは道である。これは惡道である。これは善である。これは不善である。これは有罪である。これは無罪である。これは有漏である。これは無漏である。これは世間である。これは出世間である。これは有爲である。これは無爲である。これは總てより煩惱である。これは全く清淨である。これは輪廻である。これは涅槃であると。

606「そのやうな法を種々に説くことを以て、頑強なる馬の如き心を最もよく住せしめるのである。

607「このやうに譬へば、馬或は牛の頑強なるものには、骨に徹する痛苦を與へて、それより馴れるのである。そのやうに衆生の頑強にして化し難い者等も、總ての苦を取る所の言語によつて化度するのである。

608菩薩等は言つた。「このやうに世尊釋迦牟尼佛は、自らの偉大なることを隱して、賤貧《せんおう》惡弱なることをもつて、頑強の衆生等を化度せられることには實に驚嘆した。菩薩もまたこのやうに、廣大なる佛國土に住居せられる彼等の大悲にもまた驚嘆の至りである。」

609維摩は言つた。「聖人等よ、それは仰せの通りである。こゝに生れた菩薩等の大悲は誠に堅固である。彼等はこの世界に於て一生の間に衆生の利益を甚だ多く行ふ。衆香最勝世界に於て、百千劫の間に於ても、衆生の利益をそのやうにすることは出來ぬ。

610「それはなぜかと言ふに、聖人等よ、この娑婆世界に於ては、何れも彼等を全く持つこととなる所の徳を集むる十法がある。それ等は他の佛國土にはない。十とは何であるかと申せば、このやうである。

611「貧民等には施しを以て攝するのである。犯戒者等には戒律を以て攝するのである。忿怒者等には忍辱を以て攝するのである。怠惰者等には精進を以て攝するのである。心の散亂する者等には禪定を以て攝するのである。最勝智を破る者等には最勝智を以て攝するのである。難處になれる者等には八難處より出づることを示すのである。卑小なことを行ふ者等には大乘を示すのである。善根を生じない者等には善根を以て攝するのである。四攝法をもつて常に、不斷相續して衆生を完全に成熟せしぬるために行ふのである。

612「即ち徳を集むる所のこれ等の十法を最もよく持《たも》つこととなつてゐるかの菩薩等は、他の佛國土に於ては無いのである。」

613菩薩等は言つた。「何程の法を具ふるば、菩薩はこの娑婆世界から死んでも、傷つけず害はずに、完全清淨なる佛國土に行くことが出來るか。」

614維摩が答へた。「八法を具ふるならば、菩薩はこの娑婆世界から死んでも、傷つけず害はずに、完全清淨なる佛國土に行くこととなる。

615「八とは何かと言ふと、一切衆生を私が利益して、衆生からは利益を少しも求めないのである。一切衆生の一切の苦を忍びて、彼は一切の善根を一切衆生に與へやうと考へるのである。

616「一切衆生に怒ることがないことと、一切衆生を教主の如くに歡待することと、

617聞ゐたことと、聞かない所の諸法を聞ゐて捨てないことと、他の收穫に對して羨まづ、自己の得たことを以て誇らず、心確かに考へることと、

618「自己の誤りを一々悟つて他の誤りを説かないことと、注意深いことを喜んで、一切の功徳を完全に求むることにて、それ等の八法を具へるなら、

619「菩薩が娑婆世界から死んで、傷つけず害はずに、完全清淨なる佛國土に行くこととなる。

620その時、梨車蔑維摩と、文殊法王子がそのやうに集まつた集會に、法を示したので、このやうな滿十萬の衆生が、無上完全圓滿の菩提に心を起した。一萬の菩薩は無性法に忍智を得た。

化身受食の章にて、第九である。

[缺][盡無盡法恩賜章第十]

621その時、薄伽梵はアムラ守護の園に於て、説法の集會の庭が廣大になつて、その集會もまた黄金の色のやうに現れた。その時、長老阿難陀が、薄伽梵にかやうに申上げた。

622「薄伽梵樣、このやうにアムラ守護園は廣大になり、總ての集會も黄金色になつたのは、一體何の徴候であらうか。」

623世尊は仰せられた。「阿難陀よ、これは梨車蔑維摩と文殊法王子の二人が、多くの集會に圍繞せられて、進んで如來の前に來る徴候である。」

624その時、梨車蔑維摩は文殊法王子にかう申した。「文殊よ、これ等の大衆生も如來に會つて禮拜しやうとする。我等も世尊の御前に行かう。」

625文殊は言つた。「紳士よ、今はちやうどその時であるから行かう。」

626その時、梨車蔑維摩はこのやうな神力を行つて、その神力によつて、一切集會とそれ等の獅子座と共に、それ等を右の手の上にのせて、世尊の居られる所に向かつて行き、それ等を地に置ゐて、世尊の御足を頂禮して、世尊を七度繞つて一方に坐した。

627その時、最勝香積如來の佛國土から集まつた菩薩等も、また獅子座から下つて、世尊の御足に頂禮して、世尊に合掌禮拜して一方に坐した。かの菩薩大薩等と、かの大聲聞等もまた獅子座から下つて、世尊の御足に頂禮して一方に坐した。

628そのやうに因陀羅と・梵天と・護世とそれ等の神の子の總ても、世尊の御足に頂禮して一方に坐した。

629その時、世尊はそれ等の菩薩等に、法語を以て全く喜ばしめ、かう仰せられた。「紳士等よ、各自の獅子座に坐せられよ」と。世尊がそのやうに仰せになつたので、彼等は坐した。その時、世尊は舍利子に仰せになつた。

630「舍利子よ、汝は衆生の最勝なる菩薩等の完全に神化したものを見たか。」 申上げた。「薄伽梵樣、見た」 仰せられた。「それに對して汝の想は如何樣に生じたか。」
631申上げた。「薄伽梵樣、私はそれに對して不可思議なる想を生じた。如何にしても、想ふことも、量ることも、數ふることも出來ない。そのやうに彼等がしたことは不可思議である。」

632「その時、世尊に長老阿難陀は申上げた。「未だ嘗つて嗅いだことのない香があるが、このやうな香は誰の香であるか。」

633世尊は仰せられた。「阿難陀よ、これ等菩薩の身の總ての毛穴から出た香である。」

634舍利子もまた言つた。「長老阿難陀よ、我等の身の毛穴の總てからも、このやうな香が出るのである。

635阿難陀がお尋ねした。「その香はどこから出たか。」 お答へになつた。「梨車蔑維摩が最勝香積如來の佛國土、衆香最勝世界からその食物を受けた。それを食べた者の總ての身からこのやうな香が出る。」

636その時、阿難陀が梨車蔑維摩に言つた。「この香は何程の間香うてゐるか。」 維摩は答へた。「食物が消化するまで香ふ。」

637また尋ねた。「その食物は何程の時間を經たならば、消化するか。」と。 答へた。「七日を經て消化する。

638それからまた七日の間は、彼は光澤が盛んになつて、不消化の害もない。

639「尊者阿難陀よ、比丘の誰かが正位に入らない者が、この食を食ふならば、彼等が正位に入つてから消化する。

640「正位に入つた誰かゞ、この食を食へば、彼等の心が全く解脱するに至るまで消化しない。

641「心に菩提を起さない誰かゞ、この食を食へば、彼等が菩提に心を起してから、それが消化する。

642「このやうに菩提に心を起した誰かが、この食を食へば、忍智を得るに至るまで消化しない。

643「忍智を得た誰かゞ、この食を食へば、彼等が一生補處を得てから消化する。

644「尊者阿難陀よ、そのやうに譬へば、上味と名づくる藥が腹に行けば、腹中の毒がすべてなくなるに至るまで、消化しないで諸毒が消えてから後にその藥が消化するやうに、

645「尊者阿難陀よ、その食物は、一切煩惱の毒がなくなるまで消化しないので、一切の煩惱毒が消えてから後にその食物が遂に消化する。」

646その時、阿難陀は世尊に申上げた。「薄伽梵樣、この食物は佛の御業を行ふ。」 世尊は仰せられた。「阿難陀よ、それはその通りである。阿難陀よ、何れかに於ては、菩薩が佛の御業を行ふ所の佛國土等もある。何れかに於ては、光明を以て佛の御業を行ふ所の佛國土等もある。

647「何れかに於ては、如來の相と御身とを示すことを以て、佛の御業を行ふ所の佛國土等もある。

648[缺]

649「何れかに於ては、法衣を以て、佛の御業を行ふ所の佛國土等もある。その樣に食物を以て佛の御業を行ふことがあり、

650「そのやうに水と・花園と・殿堂と・樓閣とを以て、佛の御業を行ふ等もある。

651「阿難陀よ、何れかに於ては、化身等が佛の御業を行ふ所の佛國土等もある。阿難陀よ、虚空を以て佛の御業を行ふ所の佛國土等もある。

652「その樣に、虚空が清澄に現はるゝなどが、佛の御業を行ふてその樣なことによつて、それ等の衆生を教化することとなる。

653「阿難陀よ、そのやうに、夢と・影と・水月と・反響と・幻化と・陽炎との譬へに示すことによつて、衆生等に佛の御業を行ふ所等もある。

654「何れかに於ては、文字で完全に知らしむることをなすを以て、佛の御業を行ふ佛國土等もある。

655「阿難陀よ、何れかに於ては、言ふこともなく、説くこともなく、示すこともなひと告ぐるのを以て、かの衆生等に佛の御業を行ふやうな完全清淨なる佛國土等もある。」

656「阿難陀よ、佛陀世尊等の行道と、材料と完全行とを以て、衆生等を教化するために、佛が御業をしないことは何も無い。

657「阿難陀よ、かの四魔等と、八萬四千の煩惱とを以て、佛世尊等は佛の御業を行ふのである。阿難陀よ、これは佛の一切法の門に入ると名づくる法門である。

658「この法門に入る所の菩薩は、一切廣大功徳莊嚴を具ふる所の佛國土等に對しても、恥ぢ畏れることもなく、失ふこともなひ。一切廣大功徳莊嚴を具ふる所の佛國土等に對して、喜ぶこともなく、誇ることもなくて、如來等にも最もよく敬ひを生ずる。佛陀世尊即ち一切法平等性を御意に悟らるゝ者等は、衆生を全く成熟する爲に佛國土を種々に示すことは驚くべきである。

659「阿難陀よ、このやうに佛國土等の功徳は、それからそれへと種々に成るけれども、鳥道(虚空)に覆はれたる佛國土と、虚空とには異なることがない。

660「そのやうに、阿難陀よ、如來等の御身は各別になつてゐるけれども、如來等の無着の智は各別がない。

661「阿難陀よ、諸佛の形と・色と・威光と・御身と・御名と・尊貴なる族と・戒律と・三昧と・最勝智と・完全解脱と・完全解脱知見と・諸力と・無畏等と・佛の諸法と・大慈愛と・大悲愍と・利益を思はるゝと・行道と・行と・道と・壽量と・説法と・衆生を全く成熟せしむると・衆生を完全に解脱すると・國土を完全清淨にすると・佛の諸法は完全圓滿の佛と名づける。如來と名づける。佛陀と名づける。

662「阿難陀よ、その三語の意味の廣大なることと、その語を完全に分つことが、如何やうであるかといふことに就ては、汝の壽量が一劫住しても、容易に總てを知ることはし難いのである。

663「三千世界に屬する所の總ての衆生が、阿難陀よ、お前と同じく多聞であつて、記憶を得る者等の中に於て、最勝となることお前と同じい。

664「それ等衆生の總てによつても、完全圓滿の佛陀といふことと、如來といふことと、佛陀といふことの三語の意義を、完全に示すことは、一劫に於ても總てに入ることが出來ない。阿難陀よ、そのやうに、佛の菩提は無量であつて、如來の最勝智と雄辯は不可思議である。」

665「その時、阿難陀は世尊に申上げた。「薄伽梵樣、今日以後私は多聞の最勝であることを以て期待せぬ。

666世尊は仰せられた。「阿難陀よ、お前は怖ぢけた心を起すな、何故かと言ふに、阿難陀よ、お前は聲聞等に對して、多聞最勝であると、私が示したけれども、菩薩の中に於てゞはない。

667「阿難陀よ、菩薩は勿論彼等の中の賢者等でも、量を量るべきでないのであつて、阿難陀よ、總ての海の深さの量をはかることが出來ても、菩薩等の最勝智・智・記憶・總持・雄辯の深さの量をはかることは出來ない。

668「阿難陀よ、菩薩の諸行に對しては、汝は懸念しないが好い。何故なら、阿難陀よ、梨車蔑維摩が一朝に莊嚴して示すことは聲聞と・縁覺の神通を得た總ての福力が、百千千萬と雖も、また彼等の神變と・完全神變の總てを以てしても現すことは出來ない。

669その時、世尊最勝香積如來の佛國土から集まつた、總ての菩薩が合掌して、如來に禮拜してかう申上げた。

670「薄伽梵樣、私共がこのやうに、この佛國土に惡しき思ひを生じて、心に起したことは捨てることを願ふ。

671「その次第は、薄伽梵樣、佛陀世尊の佛國土と、方便巧妙なるととは、不可思議であつて、彼等は一切衆生を全く成熟せしめる爲に、如何樣にも遊ばされて、そのやうに國土の莊嚴を示されるのである。

薄伽梵樣、私共が衆香最勝世界に歸つても、世尊を記憶する所の法の賜を私共に與へられんことを願ふ」と。

672世尊は仰せられた。「菩薩の完全解脱に盡と無盡と名づくることがある。それは何かと言ふに、盡といふことは有爲である。無盡といふことは無爲である。

673「それにつゐて、菩薩は有爲を盡すことをしない。無爲にも住することをしない。それに有爲を盡さないといふことは、このやうであつて大慈愛から衰へない。大悲愍を放たない。

674「超絶の觀想を以て、完全に入る所の一切智の心を忘れない。衆生を全く熟する行に對して不生である。

675「四攝法を放たないのである。正法を全く持つ爲に身と命を捨つるのである。善根等に對して滿足を知らないのである。

676「全く廻向するに巧妙なことに立つのである。法を求むることに怠ることはないのである。法を示すことに教主として法を惜しまないのである。如來を觀ずることと、供養の材料に努力するのである。知りながら生ずることを以て恐れないのである。

677「完全圓滿であるが、病弱なるものに對して誇らず屈しないのである。無學者等を輕んじない學者等を、教主のやうに敬愛することを思ふのである。

678「煩惱の盛んなる者等には、法の如くに攝して行ふのである。自分の樂を求めずして、他の樂を求めるのである。

679「禪定と・三昧と・平等に入ることは無間地獄の如くに思ふのである。

680「輪廻を花園として涅槃の如くに思ふのである。乞食等に對して善知識と思ふのである。總ての所有を全く施して一切智を成就することを思ふのである。

681「犯戒者等を保護しやうと思ふのである。彼岸に到れる者をば父母と思ふのである。菩提助道等に對しては主人と奴僕と思ふのである。

682「善根を集むる總てを以て足ることを知らないで、一切成佛國土の功徳を自己の完成の國土に成ずるのである。相好と種好を完全に滿たすために、無比の供施を完全に發《おこ》すのである。

683「一切の罪惡をなさない故に、身と語と心を莊嚴するのである。身と語が完全清淨であつて、心も完全清淨であるから無數劫に全いのである。

684「心が勇敢であるから、佛の無量の功徳を聞ゐても怖れることがない。

685「煩惱の敵を根絶するが爲に最勝智の劍を持つ。一切衆生の重荷を運ぶのであるから、積聚と・界と・入とを總て知る。

686「惡魔を降伏するために精進に努力する。我慢がないから智を求める。法を説くために貪欲を少くして足ることを知る。

687「一切世間を歡ばしむるために一切の世間法と雜《まじは》らない。

688「世間と一致するやうにするが故に一切の行道から衰へない。

689「一切の作業を完全に示すために、神通を生ずる。一切の聽聞を持つために總持と・憶念と・智とがある。一切衆生の疑ひを斷つために、機根が最勝と・最勝でないものとを知る。

690「法を示す爲に加持に障りがない。雄辯を最もよく得てゐるから、演説に障りがない。十善業道に完全清淨であるから、神と・人との完全圓滿を味ふ。

691「四無量心に最もよく生れたから、清淨道を莊嚴する。法を聞くことを願ふと、隨喜してよろしいといふからして、佛の音聲を完全に得た。

692「身・語・意を制するが故に、特に衆生と・諸法とに於て執着しないから、佛の行道を最もよく得る。

693「菩薩の僧侶を輯めるから、大乘に完全に入る。一切の功徳は無盡であるから、注意深くする。

694「紳士よ、この故に菩薩が法に精進して、菩薩は有爲を盡すことをしない。

695「どのやうに無爲に住しないかと言ふならば、何時でも空を淨修しながら空を證すること灰身滅智の羅漢となることもしない。無相を完全に修めるけれども、無願を證することもしない。

696「明らかに無行を完全に修めるけれども、明らかに無行を證することもしない。無常と別々に悟つてゐるけれども、善根に就ゐては滿足を知らない。

697「苦であると別々に悟つてゐるけれども思ひの如くに生れる。無我であると別々に悟つてゐるけれど、我を全く散ずることもしない。寂靜であると別々に悟つてゐるけれども、深い寂靜をも生じない。

698「寂靜處であると別々に悟つてゐるけれども、白(善)法語の住處捨てることもしない。

699「不生であると別々に悟つてゐるけれども、衆生等の重荷を持つこともする。

無漏であると別々に悟つてゐるけれども、輪廻の相續を擧げることをする。

700「不動であると別々に悟つてゐるけれども、衆生を完全に成熟するために動くこともする。無我であると別々に悟つても衆生に對して大悲愍を失はない。

701「不生であると別々に悟つても聲聞の覺悟にも落ちない。積聚と・泡沫と・無精髄と・無我と・無住とを別々に悟つても、福は集でないことと、智は泡沫でないことと、思想は完全圓滿にして自然智に灌頂し、自然智に精進し、確實の意義ある佛陀族に最もよく住するのである。

702「紳士よ、それ故にそのやうな法を信解する菩薩は、無爲にも住せず、有爲にも盡くすことをしない。

703「紳士よ、他にはまた菩薩は福の集を完全に得るがために、無爲に住しない。智の積聚を完全に得る爲に、有爲を盡くすことをしない。

704「大慈愛を具ふる爲に、無爲に住しない。大悲愍を具ふる爲に、有爲を盡くすことをしない。

705「衆生を全く熟せしむる爲に、無爲に住しない。

706「佛の諸法を信解するために、有爲を盡くすことをしない。

707「佛の相好を全く成就する爲に、無爲に住しない。

708「一切智々を完全に成就する爲に、有爲を盡くすことをしない。方便に巧妙なる爲に、無爲に住しない。

709「最勝智によつて深く悟つてゐるから、有爲を盡くすことをしない。

710「佛土を完全清淨にする爲に、無爲に住しない。佛の加持によるが故に、有爲を盡くすことをしない。

711「衆生の利益を味ふが故に、無爲に住しない。

712「法の意義を完全に示すが故に、有爲を盡くすことをしない。善根を輯める爲に無爲に住しない。

713「善根の餘習の爲に、有爲を盡くすことをしない。願を完全に成就する爲に、無爲に住しない。無願の故に、有爲を盡くすことをしない。

714「相が完全清淨の故に、無爲に住しない。超絶の思想が完全清淨の故に、有爲を盡くすことをしない。

715「五神通を以て、全く精進するが故に、無爲に住しない。佛智の六神通の故に、有爲を盡くすことをしない。

716「彼岸に至る所の集を全く轉ずるが爲に、無爲に住しない。時が全く終らぬ爲に、有爲を盡くすことをしない。

717「法財を普く集むるが故に、無爲に住しない。卑小の法を願はないから、有爲を盡くすことをしない。

718「法藥を普く集むるが故に、無爲に住しない。適當する者に對して法藥を用ふるが故に、有爲を盡くすことをしない。

719「誓願を確實にするが故に、無爲に住しない。誓願の墮落を亡ぼす爲に、有爲を盡くすことをしない。

720「一切の法本を成就するが爲に、無爲に住しない。このやうに、少しの法藥をも用ふるか故に、有爲を盡くすことをしない。

721「紳士よ、そのやうに、菩薩は有爲を盡くすことをしない、また無爲にも住しない。それが菩薩等の完全解脱の盡無盡と名づくるものである。聖人等よ、汝等もまた、それに精進せられよ。

722「その時、かの菩薩等はこの教へを聽ゐて、歡喜勇躍し、最も歡喜する心を生じて世尊に供養すると、それ等の菩薩とこの法教を供養する爲に、この三千大千世界の總てを、粉香と・總ての多くの綫香と・花とを以て、膝に沒する程に覆つて、世尊の集會にも明らかに供養し、世尊の御足を頂禮し、世尊を三度圍繞し讚歎する所の語を發聲して次にこの佛國土から見えなくなつて、一瞬一少時に衆香最勝世界に着ゐた。

盡無盡と名づくる法賜の章にして、第十である。

[缺][受歡喜世界現不動如來章第十一]

724その時、世尊を梨車蔑維摩にかう仰せられた。「紳士よ、汝は曾て如來を見ることを願つた。その時、汝は如來をどのやうに見たのであるか。」

725維摩がかう申上げた。「薄伽梵樣、曾て私が如來を見んと願つたその時、私は如來を不見を以て見た。

726「過去の邊際から生れず、未來の邊際にも行かず、現在時にも生ぜずと見た。

727「それは何故かと言ふに、相(色)が眞如の自性であつて、相(色)ではない、感覺(受)が眞如の自性であつて、感覺でない。想が眞如の自性であつて、感覺でない。行意が眞如の自性であつて、行意ではない。識が眞如の自性であつて、識ではない。

728「四大原素は無住であつて、虚空と等しきものである。六入は不生であつて、眼の道より超絶し、耳の道より超絶し、鼻の超絶し、身の道より超絶し、意の道より超絶し、

729「三界と雜らず、三垢と離れ、三解脱を修行し、三明を得、不得を完全に得る。

730「一切法に着せざる究竟に至つて、完全の邊際にあらざるものが、即ち眞如に最もよく住する。

731「それは相互に離れて、因によつて生じない、縁に屬しない。

732「自性あることなく、自性と共にあることなく、同一自性もあることなく、隔別なる性もあることなく、

733「分別することもなく、分別せないこともなく、かの方にもなく、この方にもなく、中央にもなく、

734[缺]

735「こゝにもなく、かしこにもなく、そこにもなく、他にもなく、識によつて求むることもなく、識に住することもなく、

736「暗にもあることなく、明にもあることなく、名もなく、相もなく、貧弱もなく、力を具ふることもなく、

737[缺]

738「境にも住せず、方角にも住せず、

739「善でもなく、不善でもなく、

740「無爲もなく、それがために、言ふこともなく、

741「施すのでもない、惜しむのでもない、犯戒でもない、忍辱でもない、害心でもない、精進でもない、怠惰でもない、禪定でもない、散亂でもない、最勝智にもいふことがない、壞れた最勝智にもいふことがない、

742「實でもない、虚でもない、確かに至つたものでもない、確かに至らないものでもない。行ふことをなすのでもない、行ふことをなさないのでもない、言ふことと、行ふことの總てを切斷したのである。

743「國土になつたものでもなく、國土にならぬものでもない。布施に適するのでもなく、布施を行はないのでもない。

744「取るのでもなく、觸れることをするのでもない。相もなく、

745「集むることもなく、數と離れて、平等性によつて平等である。法性によつて平等である。

746「等しいこともなひ。精進が等しいものもない。

747「量ることから超絶し、

748「去つたのでもなく、入つたのでもなく、超絶でもなく、見ると聞くと、隔別に分つと全く知ることでもない。總ての結縛あることなく、一切智の智と同一なることを得、諸法平等であつて諸法を差別しないことを得、

749「一切罪あることなく、何もあることなく、濁あることない、分別しない、全く分別しない、作さない、生れない、出さない。

750「出でない、總てより出でない、出づることもなく、出でないこともなひ、

751「恐れもなく、總ての基礎もなく、憂ひもなく、喜びもなく、倦厭もなく、

752[缺]

753「言辭に示した總てをもつて、言ひ現はすことがないのであつて、世尊釋迦如來の御身はこの樣であつて、それに對してその樣に見た。誰でもその樣に見るものは、正しく見たのである。誰でも他に見るものは邪しまに見たのである」と。

754その時、長老舍利子は、世尊に申上げた。「薄伽梵樣、紳士維摩は何れの佛國土から死去して、この佛國土に來たか。

755世尊は仰せられた。「舍利子よ、汝はこの聖人に、あなたは何處で死んで、こゝに生れたかと尋ねよ。」

756その時、長老舍利子は梨車蔑維摩に言つた。「紳士よ、あなたは何處で死んで、ここに生れたか。」

757すると維摩は反問した。「尊者[#底本の「尊宿」は誤植]が法を現證して居られる所のその法に、死或は生といふやうなことが何かあるか。」

758舍利子が答へた。「その法には死或は生といふことはなにもありませぬ。」

759また問ふた。「尊者舍利子よ、その樣に一切法には死なく生もないのに、何故にその樣に、あなたは何處で死んで、こゝに生れたかと思考したか。

760「尊者舍利子よ、かの幻術師が化した所の女子或は男子に、汝はどこで死んで、ここに生れたかと尋ねたならば、それに對してどのやうな答をするだらうか。」

761舍利子が答へた。「紳士よ、化身には死ぬこともなく、生れることもなひ。それがどうして答を發しませう。

762問ふた。「尊者舍利子よ、諸法は化身の自性であると如來の説かれたのを聞ゐたらう。」答へた。「紳士よ、その通りである。」

763そこで維摩は言つた。「尊者舍利子よ、諸法は化身の自性だと言ふ。さうしたならば、それに對して、何故にあなたはどこで死んでこゝに生れたかと思考したか。」

764「尊者舍利子よ、死といふことは明かに集爲(行)の自性である。生といふことは明かに集爲(行)の相續である。

765「それには菩薩の死も善根を明かに集爲することを盡さない。彼は生れても不善の相續を結ぶことをしない。」

766この時、世尊は、舍利子に仰せられた。「舍利子よ、この梨車蔑維摩は、歡喜世界の不動如來の前から、こゝに來たのである。

767舍利子が申上げた。「薄伽梵樣、この聖人はそれ程に完全清淨なる佛國土から來て多くの破壞の害ある佛國土に於て、明かに歡喜して居られることを驚嘆する。」

768その時、梨車蔑維摩が言つた。「舍利子よ、このことを如何樣に思ふか、日の光が闇と一所に伴ふか。」 答へた。「それはない、紳士よ、その二つは倶にあることがなく、日輪が照すと直ぐに總ての闇はなくなる。」

769維摩が言つた。「何故南瞻部洲に太陽が照らすか。」 答へた。「それは明かにすることと闇を亡ぼす爲である。」

770維摩が言つた。「尊者舍利子よ、言はるゝ如く、菩薩等は衆生等を、全く清淨にする爲に、智慧で照す爲に、大なる闇を亡ぼす爲に、思ひのまゝに、全く不淨なる佛國土等に生れて煩惱等と共に居らず、一切衆生の煩惱の闇をも全く滅ぼすのである。

771その時、集會の總ては、その歡喜世界と、かの不動如來と、それ等の菩薩と、それ等の大聲聞とを、見たいと懇望した。

772その時世尊は、その集會の總ての心の中の思ひを御心でお知りになつて、梨車蔑維摩にかう仰せられた。

773「紳士よ、この會《ゑ》はかの歡喜世界と、かの不動如來とを見んことを願ふてゐる。汝これを示せよ」と。

774その時梨車蔑維摩はかう思つた。「我はこの獅子座から立たずして、かの歡喜世界を求めやう。多數百千の菩薩と、神・龍・夜叉・乾逹婆・阿修羅の住する山で繞つたものと、河・池・瀧・湖水・海の大なるものと共に、妙高山と、山・岡と、月・日・星と共に、神・龍・夜叉・乾逹婆の住所と、眷屬と共に、男・女・在家と、菩薩と、聲聞の集會と共に、不動如來の菩提樹と、不動如來もまた大海程の集會の中に居られて説法せらるゝ時、何れも蓮華等が十方の衆生等に佛の御働きをするものと、三の寶梯子が南瞻部洲から三十三天の住所までかゝり、明かに神聖なるその梯子によつて三十三天の神等が不動如來に御會ひすると、禮拜すると、奉事すると、法を聽くために南瞻部洲に下ると、南瞻部洲の人等は三十三天の神等を見るために三十三天に昇る。

775「そのやうな無量の功徳の集まりと、歡喜世界の水の積集を持《たも》つて、有頂天に到るまで、陶噐師の輪の如くに小さく斷つてそれを右の手にうけて、華鬘の如くに持つて、この娑婆世界に入れやう。入れてから、この一切の集會に示すであらう。

776その時、梨車蔑維摩はこのやうな三昧に平等に入つて、このやうな神通を明らかに行ひ表はして、かの歡喜世界を小さく斷ちて、右手にて受けて、この娑婆世界に入れた。そこに聲聞・菩薩・神・人等の天眼と六神通とを得た彼等は、大音にて叫んだ。「薄伽梵樣、我等は願ふ。如來樣、我等は願ふ。如來の保護を與へられよ。」

777教化の利益に於て、世尊は彼等にかう仰せられた。「維摩菩薩が運ぶことは、我が境界ではない。」

778その時、神と人以外の者等は、自分らがどこに運ばれるかを知らず、また見なかつた。かの歡喜世界はこの娑婆世界に入れても、この世界が充ちたとか、減つたとか、狹くして惱むとか、いふことがなかつた。かの歡喜世界も減ることもなく、前にありし通りにもその通りに現はれた。

779その時、世尊釋迦牟尼は、それ等の集會の總てに仰せられた。「おゝ友等よ、歡喜世界と不動如來と、佛國土の莊嚴と菩薩の莊嚴とのこれ等を見よ。」

780彼等は申上げた。「薄伽梵樣、見た。」

781世尊が仰せられた。「このやうな佛國土を持ちたいと願ふ菩薩は、不動如來の菩薩の總ての行ひに隨順して學ぶべきである。」

782そのやうに歡喜世界を表はす神通の神變と、不動如來とを表はしたので、この娑婆世界に於て神と・人と・人類から十四萬人が無常完全圓滿の菩提に心を起した。總てもまたかの歡喜世界に生るゝことを願ふた。

783世尊もまた彼等が、歡喜世界に生るゝことを讖言せられた。

784そのやうに梨車蔑維摩は、この娑婆世界に於て衆生を全く熟せしめ、有る程のそれ等總てを熟せしめて、かの歡喜世界を復びもとの場所の通りに置ゐた。

785その時、世尊は仰せられた。「舍利子よ、汝はかの歡喜世界と不動如來を見たか。」

786申上げた。「薄伽梵樣、見た。願くは一切衆生もまた、佛國土の莊嚴がそのやうにならふことを。一切衆生もまた、紳士梨車蔑維摩の如く神通力を具へんことを。

787「我等もまた、この聖人の如きを見ることを得たのは、獲物をよく得たものであつて、誰もが僅かにても現在の如來か、或は全く涅槃のこの法教を聞く所の衆生等もまた、獲物を最もよく得たこととなるのである。

788「それですから、誰でも聞ゐて喜ぶか・信ずるか・受けるか・持つか・讀むか・解するやうにするか・信じて示すか・最もよく誦《じゅ》するか・他の者等に説明するか・或は思惟する所の相應行を修行する者等には勿論當然なことであらう。

789「この法教を、誰でも少しの注意を以て聞くこととなつた者等はまた、法寶の埋藏を得ることとなる。

790「誰でもこの法教を暗誦する者等はまた、如來の友となる。

791「誰でもこの法を喜ぶ者に供養するか恭敬する者等は、正しい法を守るのである。

792「誰でもこの法教をよく書ゐて持ち恭敬する者等の家に於ては、如來が居らるゝこととなる。

793「誰でもこの法教に隨喜する者等は總ての福を全く持つ。

794「誰でもこの法教から僅かに四句の一偈のみか、或は結制の一語のみにても、外のもの等に示す所の者等は、法の大供施をなしたものである。

795「誰でもこの法教を忍智すると・求めると・解すると・悟ると・見ると・信解する者等は、かの佛が彼等に讖言せられたのである。」

歡喜世界を受けて不動如來を表はす章にて第十一である。

[缺][過去行及正法受決章第十二]

796その時、佛(世尊)に神の王因陀羅はかう申上げた。「薄伽梵樣、私は曾て如來と文殊法王子から、多數百千の法教を聞ゐたけれども、この法教に於てのやうな、完全に化した不可思議の法の理趣に入れることを最もよく示したものを、前には決して聞かなかつた。

797「薄伽梵樣、衆生の前でも、この法教を受けると、持つと・讀むと・總てに入ることをなす所の彼等もまた、疑もなくこのやうな法の噐となる故に。誰でも思惟し、相應行を修行する者等には、勿論當然なことであらう。

798「彼等は總ての惡趣を斷ち、彼等は善趣の總ての道を開き、一切の佛は彼等を御護りになる。彼等は敵對する總てを降伏する。彼等は菩薩の道を完全に修める。彼等は菩提道場に留まる。彼等は如來の行處に正しく入ることとなる。

799「薄伽梵樣、紳士か或は淑女の誰でもこの法教を受くる者等に、私は一切の眷屬を率ゐて供養して、彼等の奴僕となるであらう。

800「村・町・田野・王宮の眷屬の何れかにこの法教を行ふことと・説明することと・最もよく示すその所には、法を聽く爲に、私は眷屬と共に行かう。

801「信じない者等には、信心を生ぜしめやう。信じた者等は法を具へてゐるから、これを守護しやう」と。

802佛世尊はかう仰せられた。「善いことである。善いことである。神の王よ、汝はよく説ゐた。それに對して如來も隨喜する。神の王よ、過去・未來・現在に出られる佛世尊の菩提もこの法教から示す。

803「神の王よ、故に誰でもこの法教を受けると・僅かに書物に書くと・持つと・讀むと・總てに入ることとなす所の紳士或は淑女の彼等は、過去・未來・現在に出られる佛世尊等を供養することとなる。

804「神の王よ、紳士或は淑女の誰でも、この三千大千世界が如來によつて全く滿たさるゝことは、このやうに譬へば、甘蔗園《かんしょゑん》・或は蘆《あし》の池・或は竹の林・胡麻《ごま》の畑・栴檀《せんだん》の林のやうに、最もよく滿ちた方々に、一劫或は過一劫の間、恭敬し奉事して、それらの如來に供養する所の總てと、安樂の材料の總てを以て供養することと。

805「それ等の如來が全く涅槃してからも、一々の如來に對しても、高さ梵天の世界に到るほどの傘蓋と・旗と・塔の中心の柱を立てることによつて、美しく最も麗はしくして、一切如來の塔を一々につゐて、彼はそれに對して、一劫か或は過一劫の間、一切の華と・一切の香と・一切の勝幢と・一切の旗を以て供養して、太鼓と音樂を奏して供養するならば、神の王よ、これを如何に思ふか、かの紳士淑女等はその原因から多くの福が生ずるか。」

806因陀羅は申上げた。「薄伽梵樣、非常に多くあつて、百千千萬劫と雖も、その福聚の説明の終りに逹することは出來ない。」

807佛世尊が仰せられた。「神の王よ、汝は喜ぶべきである。汝は内心に深く置くべきである。誰でも完全解脱の思ひを以て、不動を示したこの法教を持つか、讀むか、總てに入ることをなす所の紳士或は淑女のその福は、まことに多く生ずる。

808「何故ならば、神の王よ、佛世尊等の菩提は法から生じたのであつて、その法を以て供養することが出來るけれども、世財によつてはない。神の王よ、この法教によつてもまたこのやうに知るべきである。

809「神の王よ、かつて過去時に於て、無數劫よりなほ大に廣大無量の無數劫不可思議なるその時に於て、完持劫中、大莊嚴世界に藥王如來降伏敵者完全圓滿の佛陀、智と・行足とを具へらるゝもの、善く逝かれたもの、世間を解せらるゝもの、人を教化する調馭者、無上師、神と人等の教師、佛陀世尊と名づくる方が世に出られた。

810「かの如來降伏敵者完全圓滿の佛陀世尊の壽量は二十中劫であつた。かの聲聞の僧侶は三十六千萬億あつた。菩薩の僧は十二千萬億あつた。

811「神の王よ、その時に寶蓋轉輪聖王といふもので、四州を支配し、七寶を有つ者が世に出た。彼には英雄の子供、即ち強健なる最勝の身支を具へて敵對するもの等を最もよく降伏する力を具へてゐる子供が一千人居つた。

812「かの寶蓋王は世尊藥王如來の集會の總てに、五劫の間、安樂の材料の總ての以て奉事した。神の王と、その五劫が過ぎて寶蓋王は千人の子供に、このやうに言つた。

813『おゝ、お前等が知つてゐる如く、我は如來を供養した。さてお前等もまた如來を供養せよ』と。その時かの王子の青年等は父の寶蓋王に『よろしい』と言つて、それを承知し、彼と共に集まつて、藥王如來をまた五劫の間、安樂の總ての材料を以て奉事《ぶじ》した。

814「彼等の中から王子の月蓋と名づける者が、一人で寂靜に入つて、かう思つた。『この供養より外に、大なる供養と言つても、特に勝れた廣大なるものがあらうか。』と。

815「すると佛の加持によつて、中空から神等がかう言つた。『聖人よ、法の供養は、總ての中に於て最も勝れてゐる』と。

816「彼は問ふた。『法の供養とは何であるか。』 神は言つた。『藥王如來の御前に行つて、法の供養は何であるかと問へ。かの世尊は、あなたお説きにならふ。』

817「直に王子月蓋青年は、世尊藥王如來降伏敵者完全圓滿の佛陀の居らるゝ所に行つた。さうして世尊の御足を頂禮して一方に坐した。月蓋王子は世尊藥王如來にかう申上げた。『薄伽梵樣、法の供養と名づけるその供養は何であるか。』

818「佛世尊は仰せられた。『紳士よ、法の供養といふことは、誰でも如來が説かれた所の經部の微妙深遠を表はしたもの、一切の世間と一致しない、解し難い、證し難い、深くして入り難い、微妙寂靜無想である。

819『菩薩藏の中に屬する總持と、經王の印を以て押されたもの、不退轉の輪を示すもの、

820『六つの彼岸に逹したことから生れたもの、持《たも》つもの等を最もよく護ることと、菩薩の助道法を具へ、菩提支を成就することに屬し、衆生に大悲愍を用ふる、大慈愛を示し、

821『惡魔の見になつたものは總てないので、因縁法を示し、我なく、衆生なく、生命なく、入なく、

822『空であつて、相なく、願なく、明かに無行意であつて、不生不出を具へ、菩提道場を得、法輪を最もよく轉じ、

823『神・龍・夜叉・乾逹婆・阿修羅・伽樓羅・緊那羅・大蛇の王等が、最も善く讚歎するもので、正法の種族を不斷相續するもの、法の藏を持つもの、法の最勝供養の入るもの聖人の總てが全く持つ菩薩行の總てを完全に示し、

824『完全に法義を正分別智に入れ、法經の無常と・苦と・無我と・寂靜から確實に出で、慳吝と・犯戒と・瞋害の心を有つと、怠惰と健忘と、破れたる最勝智を以て愉悦すると、敵對するものと、惡き主義と、妄想に全く執着するすべてを捨てると、一切佛陀が讚歎せられた。

825『輪廻の法を亡ぼすもの、涅槃の樂を正しく示すやうな諸經を、何れも正しく示すことと、持つことと、一々解することと正法を總て攝することとを法の供養と名づける。

826『紳士よ、他にはまた法の供養とは、誰でも法を法と確實に思ひ、法に於て法の如くに努力することと、因縁法に一致し、偏見の總てを離れ、不生不出を知り、無我無衆生に入り、因と縁とに反せず、爭ふことなく、論ずることなく、我がものなく、我と執着することを離れ、

827『意義によつて言語によらない。智によつて識によらない。確實義の經によつて推理が畢竟俗諦となるものを取らない。法に依るけれども、人見の想を持つことに執着しない。

828『佛の法性の如くに深く入り、無心に入り、心を正しく降伏し、

829『無智を完全に寂滅して、老死と・憂ひと・哀哭の言を放つと、苦と・不安と・混亂に至るまで完全に寂滅して、そのやうに十二因縁法に於て、このやうに衆生を見るが故に、盡くることを知らず、明らかに成就するが故に、明かに成就して諸見を見ず、これがまた、紳士よ、無上法の供養と名づくる』と。」

830佛世尊は仰せられた。「神の王よ、そのやうに月蓋王子は、かの世尊に藥王如來から法の供養のそのやうなことを聞ゐて、それに一致する所の法の忍智を得た。着物と飾りに着けてゐたものを、かの世尊に奉つてかう申上げた。

831『世尊よ、如來が全く涅槃に入られても、正法を完全に持つことと、正法を供養するために、私は正法を完全に持つことを願ふ。薄伽梵樣、如何樣にもして私は惡魔や敵對者等を降伏して、世尊の正法を完全にもつこととなるやう、その樣に如來が加持せられんことを願ふ』と。

832「如來はその考へを御知りになり、未來時におゐて、正法を以て城市を守護すると全く持つこととなることを、讖言せられた。

833「神の王よ、その時月蓋王子はかの如來が居られる間に、信じたので家から家なき所に出家した。

834「善法に於て精進努力して住した。彼は精進努力して、善法に最もよく住し他から、永く經ない間に五神通を生じて、總持等を解して深く入ることとなつた。彼は雄辯の不斷相續を得た。

835「世尊藥王如來が全く涅槃に入つてからも、神通と總持の力で以て、世尊藥王如來を法輪を最もよく轉ぜられたやうに十中劫の間轉じた。

836「神の王よ、そのやうに、月蓋比丘は正法を全く持つことに明らかに努力したので、十百千萬の衆生を無上完全圓滿の菩提から外に退かぬことにして、四十億の有情と聲聞と獨覺乘に教化した。無量の衆生等は利天《たうりてん》に生れることとなつた。

837「神の王よ、その時、寶蓋と名づくる轉輪王になつたものは、外の者と思ふか。神の王よ、汝はそのやうに思ふな。その次第は、かの放寶光如來は、その時に於ける寶蓋と名づくる轉輪聖王であつた。

838「かの寶蓋王の千人の子等は、現今の賢劫の佛陀世尊であつて、何れもこの劫に於て千佛とならるゝのである。その中から四人は出られた。餘の方もまた出らるゝ事となる。拘留孫陀《クラクチヤンダ》佛等より明作佛に到るまで即ち終りは明作如來と名づくるのが出る。

839「神の王よ、その時に、世尊藥王如來の正法を全く持つた所の月蓋王子と名づくる者が、他の者であると思ふならば、汝はそのやうに見てはならぬ。

840「何故ならば、神の王よ、我はその時月蓋王子と名づくるものとなつた。

841「神の王よ、この次第によつてもまたこのやうに知るべきであつて、神の王よ、いかやうにても如來を供養する中に於て、法の供養が最勝のものと名づけられる。最勝と・絶妙と・最々勝と・廣大と・上と・無上と名づけられる。

842「神の王よ、その故に我に世財によつて供養せることを以て供養せよ。それには世財によらず、法の供養を以て供養せよ。」

843[前品と合擧す]

844その時、佛世尊は菩薩大薩彌勒に仰せられた。「彌勒よ、我は無上完全圓滿の菩提を、無數千萬劫に於て完全に成就したものを汝に付屬する。

845「何としても、後の時に於てこのやうな法教を、汝が加持して全く持つことを以て、南瞻部洲に布かしめて消滅せぬやうにせよ。

846「その次第は彌勒よ、未來時に於て、紳士と淑女と・神と・龍と・夜叉と・乾逹婆と・阿修羅の善根を生じたものと、無上完全圓滿の菩提に全く入つた者等が、この法教を開かぬかも知れない。

847「このやうな法教を聞ゐて、深く喜び、信心を得ることとなると、頂受することとなる所の、紳士淑女等を、護る爲に彌勒よ、汝はその時にかくの如き經を廣めよ。

848「彌勒よ、菩薩等の印はたゞ二つである。二つとは何かと言へば、諸種の言語を信ずる所の印と、法の深遠なる理趣によつて、恐れずして究竟の眞實に入る所の印であつて、彌勒よ、その二つは菩薩の印である。

849「彌勒よ、それを菩薩の誰かが、語と單語と諸種を信じ、熱心に受くる彼等は、初心のものであつて、清淨に行つて長く經ないものと知らねばならぬ。彌勒よ、誰かが深遠なる經典を研鑽すると、柔和寂靜の心の語と、次第を最もよく分つことをあらはすことと、聞くと喜ぶとを示すことをなす所の菩薩等は、長く清淨に行ふものと知るべきである。

850「彌勒よ、それにつゐて初心の菩薩は二つの原因を以て自己に傷を與へ、深遠なる法を確實に思惟することが出來ない。

851「二つは何であるかと言へば、嘗て聞かない所の深遠なる經を聞ゐて、恐れて疑を起し、隨喜することをしないで、このやうに我等は嘗て聞かないから、それはどこから來たかといふて捨てる。

852「紳士よ、誰でも深遠なる經を持つ者と、深遠なる法の噐となれる者と、深遠なる法を示す所の者等によらず、友とならず、供養しないで、彼等を奉事しないで、時に彼等に對して不名譽なことをも言ふ。

853「その二つの原因によつて、初心の菩薩は、自己に傷を與へて深遠なる法を確實に悟らない。

854「二つの原因によつて、深遠なることを喜ばない菩薩は、自己に傷を與へて、不生の法に於ても、忍智を得ることが出來ない。

855「二つは何かと言へば、初心の行を行つて長く經たない所の菩薩等を輕んじ蔑《ないがしろ》にして、その道を持たしめない。開説もしなければ、教示もしない。

856「何れも微妙を信じないから、修學に從事しないで、世財を施すを以て衆生を利益するけれども、法施を以てしない。

857「彌勒よ、深密を喜ばない菩薩が、この二つによつて自身を害することとなつて、不生法に於ける忍智も速かに得ることとなる。

858時に彌勒菩薩は、世尊にこのやうに申上げた。「驚嘆した。薄伽梵樣、よく説かれた。薄伽梵樣、私は今より以後そのやうな諸害を捨てるやうにもする。如來が無上完全圓滿の菩提を、無數百千萬億劫に於て成就したものを護らう。

859「未來の紳士、或は淑女の噐となれるもの等に、かくの如き經が手に入るやうにする。導師等がかくの如き經を喜ぶものと・受くるものと・持つものと・解するものと・入るものと・尋ぬるものと・他にもまた、廣く説明する所の導師に近づくことを成ずるやうにする。

860「薄伽梵樣、私が彼等を確實にする。薄伽梵樣、その時に於て、このやうな經典を喜ぶと、入る者があるならは、それは薄伽梵樣、彌勒菩薩の加持であると知るべきである。」

861その時、世尊は、彌勒菩薩に「善いことである。」と言はれて、また「善いことである。善いことである。彌勒よ、汝のその語は、よく説ゐたもので、如來もまた汝がよく説ゐたことに隨喜する。」

862その時、それ等の菩薩は、一聲にかう申上げた。「薄伽梵樣、私共もまた、如來が全く涅槃に入られてから、各自の佛國土に行つて、如來のこの佛國土を廣める。それ等の紳士も喜ぶやうにする。それ等の淑女も喜ぶやうにする。」

863その時、世尊に四天王もまた申上げた。「薄伽梵樣、村・城市・町・國土・王宮の眷屬と何處にてもかくの如き法教を行ふと説明すると、全く教示する所の彼等に對して、薄伽梵樣、私等四天王もまた、力と共に、乘物と共に、眷屬と共に、聞く爲に參る。法を説くかの集會を、百由旬の此方から總て守護して、どうしてかの法を説く者に對して、害を與へんとしても害を與へる便を得ないやうにする。

864その時、世尊は長老阿難陀にかう仰せられた。「阿難陀よ、汝はこの法教を持つ。されば、世尊よ、この法教の名を何と名づくべきか。」

865世尊は仰せられた。「阿難陀よ、然らば、この法教を、維摩が示した自性に一致和合した寂靜明瞭成就不可思議の完全解脱經と名づける。この法教を、阿難陀よ、汝は持てよ。」

867梨車蔑維摩・文殊法王子・長老阿難陀・それ等の菩薩・それ等の大聲聞・神・人・阿修羅・乾逹婆等の世界は歡喜勇躍して、世尊が説かれたことを明らかに讚歎した。

過去行及び正法授決の章と名づけて、第十二章である。

868聖維摩所説と名づくる大乘經六千伽陀であつて六卷である。了る。

大校正翻譯官、パンデー・ダルマター・シーラが翻譯して校正し決定したものである。

『漢藏對照國譯維摩經 全』
河口慧海

(昭和三年四月十日發行、世界文庫刊行會)

(入力者:古宇田亮修 koudar@excite.co.jp)

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