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サンスクリット文献学とインド古代学の歴史 E. Windisch 著/日本語全訳
原書頁

サンスクリット文献学とインド古代学の歴史

E. Windisch 著/日本語全訳(原書 pp. 1–460 完訳)

Ernst Windisch, Geschichte der Sanskrit-Philologie und Indischen Altertumskunde
第一部 Berlin 1917/第二部 Berlin und Leipzig 1920
Grundriss der Indo-Arischen Philologie und Altertumskunde
G. Bühler 創始、F. Kielhorn 継続、H. Lüders および J. Wackernagel 編

§凡例

  • 原書のページ区切りは、統合にあたり 【原書 p. N】 の形に統一して本文中に明示した。ページの内容そのもの、およびページの切れ目の位置は原稿のままである。
  • ローマ字表記の側にも揺れがあったもの(Śaṃkara / Śaṅkara、Rigveda・Rig-Veda / Ṛgveda、Prakrit / Prākṛt、Kashmir / Kaschmir 等)は、日本語文脈中に現れる形のみを統一し、書名・引用句など欧文の中に現れる原綴はそのまま保存した。
  • サンスクリット語・Pāli 語は IAST によるローマ字表記とし、カタカナ転写は用いない。原著の古い転写(ç, ṛi, Çakuntalā 等)は現行の IAST に正規化した。
  • 学者名・地名等の固有名詞、および書名・欧文引用句は原綴のまま示す。ドイツ語の引用句は原則として和訳した。
  • 「S.」は原著者の用法どおりドイツ語書物の頁指示として残した。
  • 〔 〕内は訳者による補足。原著者の誤記・疑問箇所は〔ママ〕〔?〕等で注記した。
  • 原著で隔字体(強調)になっている語は 太字 で示した。
  • 原書では第一部が p. 208(補遺 Nachträge の末尾)で終わり、p. 209 から第二部が始まる。本統合稿もこの区分に従い、第二部の扉・版権頁・序文・目次を p. 209 の前に置いた。

§第一部 原書 pp. 1–208

§第 I 章 サンスクリット文献学前史

1498年に初めてインドへの海路を見出した Vasco da Gama は、インドを商業のみならず学問にも開いた。ポルトガル人がインド西岸の Goa においていかにして確固たる足場を築いたかは、K. G. Jayne がその著書 "Vasco da Gama and his Successors 1460—1580"(London 1910)において描いている。ポルトガル人に続いたのはオランダ人、デンマーク人、フランス人、イギリス人であった。彼らがインドで見出したのは、1001年の Ghazna の Sultan Mahmud の征服に始まるムハンマド教徒の宗主権のもとにある国であった。これらムハンマド教徒の征服者の言語は、主としてアラビア語の強く混入したペルシア語であった。この言語が Hindī に浸透することによって Hindustānī が生じた。かくして当時ペルシア語と Hindustānī が北インドにおける公用の交通語となったのである。サンスクリットとその古い文献は、まず発見されねばならなかった。サンスクリットについてのある程度の知識は、すでに16・17世紀のさまざまな国籍の宣教師たちに認められる。しかしサンスクリット文献学の発展は、18世紀末から19世紀初頭にかけて、1599年12月31日の Elisabeth 女王による特許状によって設立された East India Company の Civil Service に属していた、著名なイギリス人たちの業績に結びついている。サンスクリットの言語と文献をヨーロッパ諸民族に真に開いたのは、イギリスの官吏たちであった。彼らはまた自らも Paṇḍita と呼ばれる土着の学者たちから教えを受けた。その知識と写本をもつ Pandit たちこそ、サンスクリット文献学の歴史的背景をなしている。あらゆる分野にわたって彼らは存在していた。しかし古い時代における彼らの名前を我々が知ることは稀であり、1678年に刊行された Hortus Indicus Malabaricus の序文にみられるのがその例である(Journal der R. Asiatic Society 1890, S. 350 参照)。彼らの知識と見解は、当初インドにおけるヨーロッパ人にとって規準となるものであり、サンスクリット文献学の最初の方向を定めた。我々はこれらサンスクリット文献学者たちの静かなる父祖たちに、感謝をもって pitṛyajña を捧げるものである。

ギリシア人・ローマ人の報告が北インドに関わるものであったのに対し、近世においては征服の進行に応じて

〔頁下部の版面表示〕Indo-arische Philologie I. 1 B. — 1

最も早い報せは南インドから、Coromandel および Malabar の海岸からもたらされた。一人のオランダ人、1649年に没した宣教師 Abraham Roger は、1630年から1647年まで Coromandel 海岸の Pulicat(Paliacatta)および Batavia で活動していたが、サンスクリット文献の真の一片、すなわち Bhartṛhari の箴言を翻訳によって知らしめた最初の人であったと思われる。その著書は "De Open-Deure tot het verborgen Heydendom ofte Waerachtigh vertoogh van het leven ende zeden, mitsgaders de Religie ende Godsdienst der Bramines op de Cust Chormandel ende der landen daar ontrent: Door D. Abrahamus Rogerius in sijn leven Bedienaer des H. Evangelii op de selve cust. Leyden 1651" である。この著作は最近 W. Caland によって新たに校訂刊行された(Haag 1915)。その重要性は、これがドイツ語およびフランス語に翻訳されたことからもうかがえる。書は二部に分かれる。第一部は "Chormandel" 海岸およびその隣接諸国における "Bramines" の生活と習俗を整然と論じ、第二部は彼らの信仰と礼拝を論じる。彼の主たる情報提供者であるバラモン "Padmanaba" は実に良く報告している。Bhartṛhari の箴言は末尾の付録にすぎない。p. 217 の "Leven van Barthrouherri" によって導入され、pp. 219—235 に "van den wegh na den hemel"〔天への道について〕を扱う百の箴言が、pp. 235—251 に "van den redelijcken ommegangh onder de Menschen"〔人々の間の理性ある交わりについて〕を扱う百の箴言が続く。Śṛṅgāraśataka は Padmanaba が宣教師に伏せていた。本編の第一部ではバラモンの生活が実地に即してあらゆる面から、Dharma-sūtra および Gṛhya-sūtra の趣旨に沿って描かれているが、これらの文献に言及されることはない。カーストを扱う第I章では、Śūdra の多様な職業も言及され、それによって彼らが多数の細分に分かれることが述べられる。第V章には "Vedam" への最初の言及があり、その学習はバラモンの権利と義務に属するとされる。"Vedam" はこの語の Tamil-Malayāḷam 形である。これについては Burnell がその論文 "On some early references to the Vedas by European Writers"(Ind. Antiquary VIII〔1879〕S. 98—100)で論じている。Roger が四 Veda の内容として挙げるものは、Burnell によれば "based on the contents of the Tamil Vaishṇava hymns which profess to give the contents of the Veda!"〔Veda の内容を伝えると称するタミルの Vaiṣṇava 讃歌の内容に基づく〕である。Roger からこの誤った記述を引き継いだのが "L'Ezour-Vedam" の編者であり、その Observations Préliminaires S. 115 以下に見られる。しかし長く南インドに住んだ Burnell は、Roger の著作を概して称賛し、"which is still, perhaps, the most complete account of S. Indian Hinduism, though by far the earliest"〔遥かに最初期のものでありながら、なお恐らく南インドのヒンドゥー教についての最も完全な記述である〕と述べている。第XX章は寡婦焚死を詳細に扱う。第二部では神々 Wistnou と Esvara が前面に出る。最も重要な伝説のいくつかが正しく語られてここに位置を占めている。Liṅgam の起源、Viṣṇu の avatāra、Garuḍa の誕生、世界の創造などである。特に詳しいのは pagoda と祭礼、およびその舞姫たちの記述である。そこで語られるある物語(第XI章)は、Goethe の詩「神とバヤデーレ」の主題を想起させる。¹⁾ Bramma のためには pagoda は存在しない。Yogin たちの自発的な苦行や、その訪問が罪の赦しに資する聖地についても報告されている。

¹⁾ A. Leitzmann, "Die Quellen von Schillers und Goethes Balladen", Bonn 1911, S. 37 および 50 を参照。そこでは Sonnerat の旅行記が Goethe のバラードの最も近い典拠として推定されているが、詳細な論証はない。Benfey, Or. u. Occ. I 721 は O. Dapper を指示していた。

Gaṅgā の神聖性は Sāgara 伝説によって aśvamedha と結びつけて説明される。最終章は比較的簡潔に、死後の人間の状態、輪廻、天国と地獄について論じる。Christoph Arnold によるドイツ語訳 "Abraham Rogers Offne Thür zu dem verborgenen Heydenthum"(Nürnberg 1663)は、"Chr. Arnolds Auserlesene Zugaben von dem Asiatischen, Africanischen, und Americanischen Heydenthum" と詳細な索引とによって、1000ページを超える書物に膨れ上がっている。Arnold は序文で、インドには空の鳥も海の魚も地の獣も山の草も、すでに詳細に記述されていないものは最早見出されないほどであるが、しかし「これまで誰一人として、彼ら(インド人)の礼拝の根拠と、その宗教の特徴とを、我々にいくらかなりとも開示しようと試みた者はなかった」と述べている。これもまたより大きな規模で最初に行ったのは Roger であった。フランス語訳 "La Porte Ouverte, Pour parvenir à la connoissance du Paganisme caché"(Thomas la Grue 訳, Amsterdam 1670)は、より短い付録として "Extrait de la Chine Illustrée du Reverend Pere A. Kirchere" を収め、これはバラモンの宗教を扱い、また Viṣṇu の受肉についての H. Roth 神父の報告をも含んでいる。この訳者の序文は説教のような趣であるが、彼は "Maistre és Arts, \& Docteur en Medicine" であった。彼はすでに Wilford に先立って、古い時代に福音をインドにもたらしたとされる St. Thomas, Pantaenus, Frumentius に言及している。

ポルトガル人については、ごく最近になってヒンドゥー教に関するいくつかの論考が知られるようになったが、それらは Roger の著作より古いものではない。W. Caland は Th. Zachariae によって、この種の二つの古いポルトガル語報告に注意を向けられた。それらはすでに1812年に印刷されていたが、ほとんど顧みられていなかった。¹⁾ Caland は A. A. Fokker の助力を得てこれをオランダ語訳で刊行し、偶然に発見した第三の報告を加えた。すなわち "Drie oude Portugeesche Verhandelingen over het Hindoeïsme"(Amsterdam アカデミー論集 1915)である。Caland によれば第I報告は1670年、第II報告は1774年に書かれた。第III報告はフランス語訳とオランダ語訳でのみ、1723年および1728年のものが伝わる。これら無名の報告は主として南インドに関わり、その著者は口頭でバラモンから情報を得た宣教師たちであったであろう。バラモンにとっては昔からキリスト教徒に対して、自分たちもまた唯一永遠の最高神を信じるのだと強調するのが自然であった。しかし神性は礼拝のためには三つの位格に分かれる。第I報告では Brama, Visna, Mayessa(Maheśa)、第II報告では Visnu, Brama, Mahes、第III報告では Bruma, Vixnu, Rutrem である。Viṣṇu の礼拝が、その神話と受肉とともに前面に立ち、その傍らにこの異教徒たちの偶像 Rāma(S. 11)と Kṛṣṇa がある。Rāmāyaṇa および Mahābhārata からの方が Purāṇa からよりも多く語られている。Rāma は第II報告では Rogunata と呼ばれる(S. 111 以下)。既述の神々のほか、特に第II報告では他の神々、すなわち Lacximi, Ganes, Parvoti, Saraspoti, Emu(Yama), Indru, Cuber が言及される。神話的あるいは伝説的人物としては Caxiepo(第Iでは Cassepa、すなわち Kāśyapa)と Parisrama に出会う。Pharissu Rama(Paraśurāma)については第I報告の最終章も扱っている。Mahābhārata に含まれる教えは Veyasrosy(Vyāsa ṛṣi)が伝えたとされる。共通の主題はカースト、四つの世界時代であり、第IIIでは

¹⁾ Caland はさらにインドに関する他の古い箇所、書簡、旅行記等を、その注において指示している。例えば Ganeśa については S. 16。

〔頁下部の版面表示〕1*

十四の世界も見出される。第I報告にのみ Jaina およびその他の宗派についての言及、さらに文学史的記述がある。Veda と Purāṇa についてここで述べられていることは甚だ混乱しており、明らかに誤った名称を含む。諸学問については、短い章のなかで、部分的に他の主題によって中断されつつ、Darma-, Zaissa-(Jyotiṣa), Nac-(Nai- すなわち Nyāya- と読むべし), Samsucruta 語による Veacranna-kastra, Saraspaty(詩学), Vaida-kastra(医学)が挙げられる。最後の諸章で論じられる諸民族は Dekhan に属する。第IIでは Bengal 王国が Caxy あるいは Varannessy とともに異教の主要地域と称される。同所ではさらにバラモンの永遠の至福に導く生活の規定、聖紐の着装等が述べられる(S. 138)。第III報告は、Vixnu の伝説に続いて Rutrem の伝説をも語り、次いで楽園 Xoarcam(svarga)、地獄、人間の霊魂と神性との関係を論じ、特にキリスト教を想起させるヒンドゥーの教説を強調する。復活に代わって輪廻が現れているという(S. 197)。

インド滞在に基づいてインドについての著作を著したフランス人のうち、とりわけ有名なのは Bernier と Tavernier であり、両者は同時期にインドにいた。前者は政治的報告において重要であり、後者はむしろ旅路、都市、貨幣制度、産物の記述において重要である。François Bernier は1656年から1668年までインドに滞在し、八年間ムガル皇帝の宮廷で侍医を務めた。彼はそこで Shah Jehan の四人の息子たちの王位をめぐる争いを体験し、そこから Aureng-Zebe が勝者として現れた。これらの戦いについての彼の生き生きとした叙述は、インド近世史の重要な数年間を鮮明に照らし出し、東方の君主たちの性格と背信的政治への洞察を与える。その著作の第1巻は "Histoire de la Derniere Revolution des Etats du Grand Mogol, Dediée au Roy" という表題で刊行され、これに戦後の "Evenements" を叙述する第2巻(Paris 1670)、および "Suite des Memoires du Sr Bernier"(1671)としての第3・第4巻が加わった。この著作は繰り返し刊行され、英語(すでに1671, 1672年)、オランダ語、ドイツ語、イタリア語に翻訳された。これについては Archibald Constable の新しい英語版一巻本 "Travels in the Mogul Empire A. D. 1656—1668"(London 1891)の書誌が案内を与える。迷信、奇習、ヒンドゥーの教説についての彼の報告は、1667年10月4日付の M. Chapelain 宛書簡にあり、editio princeps 第3巻に初めて公刊された。彼は Tavernier と同じく1666年の日食をインドで体験し、Jagannat の有名な寺院で行われた祭を記述し、寡婦焚死、死者の火葬、faquir について語る。Hanscrit——彼は Tavernier と同様にこう綴った——を彼は解さなかったが、親しく交わったある高名な Pendet から Veda の名称、カースト、バラモンの教説の多くを聞き知った。他の Pandit たち、および Henry Lord、Roger、Kircher 神父と Roth 神父にも彼は恩義を認めている。Achar、すなわち「不動なるもの」は永遠の神の名であり、この神が世界のためにまず三つの存在 Brahma, Beschen, Mahahdeu を創造した。Veda のほかに彼は Purane に言及するが詳述はない。六つの哲学体系については聞き知っていたが、そこに含まれる哲学説については一般的に語るにとどまる。医学と天文学からは

いくつかの珍奇な事柄を挙げ、世界像と四つの世界時代、Lenguecherire(liṅgaśarīra)、およびインドの哲学者たちが世界と神性との関係や世界の解体を考えるにあたって用いた表象について語る。Bernier はこれら一切に対してやや嘲弄的な態度をとっていた。

Tavernier は Bernier ほど哲学的な傾向をもたなかった。その著作は次の表題をもつ。"Les six Voyages de Jean Baptiste Tavernier, Ecuyer Baron d'Aubonne, qu'il a fait en Turquie, en Perse, et aux Indes, pendant l'espace de quarante ans, \& par toutes les routes que l'on peut tenir: accompagnez d'observations particulieres sur la qualité, la religion, le gouvernement, les coûtumes \& le commerce de chaque païs; avec les figures, le poids, \& la valeur des monnoyes qui y ont cours. Seconde Partie, où il est parlé des Indes, \& des Isles voisines"(Paris 1677)。古代インドについてはこの著作から多くを知ることはできないが、Anquetil Duperron, Tieffenthaler, Rennell に百年先立って、インドの土地と都市をヨーロッパにより詳しく知らしめた。Tavernier は1665年に Bernier とともに Agra から Bengal への旅を企て、Bernier と同じく Cha-gehan とその息子たちの争い、Aureng-zeb の即位までを語る。それに先立って地理学上重要な第一書があり、Ispahan および Surat から Agra へ、Agra から Patna へ、Surat から Golconda へ、そこから Goa, Maslipatan を経て Carnatic 地方に至るさまざまな旅路を扱う。第三書は住民について、"Gentils ou Idolâtres des Indes" について述べる。カーストの章には、Benares の Bramines が一種の大学をもつという記述があり、"où ils font principalement des exercices dans l'Astrologie, \& où ils ont aussi des Docteurs qui enseignent leur loy"〔そこで彼らは主として占星術の修練を行い、また彼らの律法を教える博士たちをもつ〕(S. 368)。偶像崇拝にもかかわらずバラモンたちは、全能にして全知、天地の創造者たる唯一無限の神を認めており、これをある地方では Permesser、他の地方——Malabar 海岸のように——では Peremaël、Coromandel 海岸では Vvistnou と呼ぶ。彼はさらに彼らの Ram にのみ言及し、これを彼らは偉大な神とみなすと述べ、続いてバラモンから聞いたままに Rāmāyaṇa の物語を語る(S. 373 以下)。インドの faquir、死後の霊魂の運命、死者の火葬、寡婦焚死、Jagrenate, Banarous, Matura, Tripeti の有名な pagoda、日食に際してのバラモンの振舞い、特定の祭礼・婚礼・結婚における習俗などが、簡潔に扱われた事実的主題であり、これらはインドに関する古い文献に繰り返し現れるものである。貨幣の記述に関連して彼はインドの数字を挙げている。

Bernier と Tavernier は、Abbé de Marcy の編纂した Histoire Moderne des Chinois, des Japonnois, des Indiens, des Persans etc. の典拠に属し、その第三巻が Histoire des Indiens を含む(Nouvelle Edition, Paris 1775)。ここに我々は "Banians" という語を見出す。これは本来第三カーストの名称にすぎない(おそらくサンスクリット baṇij から生じた)が、ここではインドの全アーリヤ系住民の呼称として用いられている(S. 221)。Dogmes Théologiques のうちヨーロッパ人が特に関心をもった事柄は、すでにここで Salmon に従って次の六命題に還元されている。I. 唯一永遠の神が存在する。II. 神は世界を創造し、維持し、破壊する力をもつ三つの完全な存在を創造した。III. Brahma がこの世界を創造した。IV. 人間の運命は前生における行為の報いあるいは罰である。V. 罪の赦しは

Gaṅgā の河口の pagoda を訪れ、この河の水を得ることによって獲得される。VI. 殺すこと、偽ること、盗むこと、隣人に不正をなすことは禁じられている。"La Loi des Beths" はさらに、肉と酩酊性の飲料を絶つこと、貧者を愛すること、朝・昼・晩に祈りを行うこと、日に三度、少なくとも食事の前に身を洗うことを規定する(S. 248)。

Max Müller はその著作 "Die Wissenschaft der Sprache"(Leipzig 1892, I 196 以下)において、カトリック宣教師たちのサンスクリット知識を、スペインのバスク人 Franz Xavier、すなわち聖 Franciscus Xaverius にまで遡らせている。彼は1542年に Goa に来て、インドにおけるキリスト教宣教の組織化を開始した。この "Apostle of the Indies" については Jayne, "Vasco da Gama" S. 165, 188 以下が論じている。Anquetil Duperron は Goa の彼の墓を訪れた。M. Müller はさらに他の名、Filippo Sassetti, Roberto de' Nobili(後述参照)を挙げる。Marco della Tomba の書簡からの情報は A. de Gubernatis が彼に伝え、他の筋からは Hanxleden の遺稿目録を得た。インドについてのまとまった知識は、Bernier と Tavernier の後、初めて再び M. V. La Croze——Bibliothécaire \& Antiquaire du Roi de Prusse——の "Histoire du Christianisme des Indes"(A La Haye 1724)が与えた。その第6書 S. 424—519 は "De l'Idolatrie des Indes" という表題をもつ。La Croze は "que les anciens Indiens ont été des Colonies d'Egypte"〔古代インド人はエジプトの植民であった〕という見解をとっていた(S. 427)。宣教師に由来する諸報告を赤い糸のように貫いているのは、インド人は "nonobstant la plus grossiére Idolatrie"〔最も粗野な偶像崇拝にもかかわらず〕、初めから最高・最完全の存在への一神教的信仰をもっていたという思想である(S. 425, 457)。ここでも Brama には祭祀がないという指摘が見られる。La Croze は Abraham Roger(S. 444)、Bernier(S. 453)、Lettres Edifiantes 中のイエズス会士の報告(S. 454)に言及し、Arakan, Pegu, Siam については de la Loubère(S. 449)にも触れるが、Brama, Isuren, Vistnou その他の神々、輪廻、暦法、諸世界、カースト、元素、医学、天文学(黄道十二宮と27の月宿はエジプト起源とされる、S. 484)、算術、Sammanéens, Budu(S. 512)等についての記述は、主として宣教師 Ziegenbalg の Ouvrages Manuscrits(S. 444, 495)から汲んでいる。Ziegenbalg の Tranquebar における活動を彼は詳細に描いている(S. 534 以下)。Bartholomäus Ziegenbalg は1683年に生まれ、早くも1719年に没したが、Halle の August Hermann Francke によって、1621年以来デンマーク領であった Tranquebar での宣教のためにデンマーク王に推薦された人物である。彼は現地で "la Langue Tamule ou Malabare" を習得した(S. 537)。Samscret については La Croze では偶発的に触れられるにすぎず(S. 429)、Vedam についても語るべきことを知らない(S. 427)。サンスクリットの名前は劣悪な綴りで現れる。寺院の巫女についての報告(S. 488)は宣教師に由来するものではない。

次いでフランス人イエズス会士 Calmette, Pons, Coeurdoux らの書簡による報告が続く。これらは18世紀30年代以降、一部は Paris アカデミーの Mémoires de Littérature に、一部は "Lettres Edifiantes et Curieuses, ecrites des Missions Etrangeres, par quelques Missionaires de la Compagnie de Jesus" に印刷された。1735年9月17日付、"Ballapouram" からの Calmette 神父の書簡は、改宗物語を含み、Lettres Edifiantes 第XXIII Recueil S. 105—197 に収められているが、

その内容は主として「教化的」である。教理教師 Paul と王女 Vobalamma の物語(S. 106 以下)はインドの小説のように読める。他の物語はインドの君主たちの敵意と残虐を示す(S. 166 以下)。Veda の内容についての多くの誤った記述と対照的に、ここには Atharvaveda が "de mettre en oeuvre la Magie \& de la dissiper"〔呪術を行いまたそれを解く〕秘密を教えるとの記述がある(S. 136)。"Vedam" について他に述べられていることは、Veda の哲学的部分に関わる。それらは "l'unité de Dieu, les caracteres du vrai Dieu, le salut \& la réprobation"〔神の唯一性、真の神の特徴、救済と断罪〕を教えるという。宣教師たちはこうした教説を、バラモンとの論争において "à les convaincre des vérités fondamentales qui ruinent l'idolâtrie"〔偶像崇拝を覆す根本真理を彼らに納得させる〕のに適したものとして用いた(S. 161)。1737年9月16日付、"Vencatiguiry" からの Calmette の書簡(Lettres Edif. XXIV 437 以下)からは、彼が王室図書館のために Veda 文献を入手する任を負っていたことが知られる。しかしそれらは彼らにとって "des Livres scellés"〔封印された書物〕にとどまった。その言語が "Samscroutam" よりもなお古風であったからである。彼らはより新しい文献に依拠し、そこからバラモンの矛盾を指摘しようとした。Coeurdoux 神父は実際的課題を自らに課し、1742年1月18日付の報告において、インド人がいかにして文様のある織物を製し、特に藍でそれを染めるかを記述している(Lettres Ed. XXVI〔1743〕S. 172 以下)。同書 S. 257 以下では Saignes 神父が同時代の戦乱の情景を描いている。Mahratta 勢がムハンマド教徒の支配に対して蜂起し、ポルトガル領 Goa を脅かした。Goa からは Canara, Maissour, Maduré, Travancor, Ceylon の宣教区が収入を得ていたのである。しかし我々にとって最も重要なのは、1740年11月23日付、"Careical, sur la côte de Tanjaour" からの Pons 神父の、インド人の古代文献についての書簡であり、同じ Recueil の S. 218—256 に収められている。Pons はいくらかサンスクリットを解していたに違いない。明白な誤植を別にすれば、サンスクリット語の綴りの崩れは比較的少ない。彼はおそらく初めて、土着文法学の文法的分析を的確に記述した(S. 222)。彼は18の辞書について語り、そのうち Amarasiṃha のものが最もよく用いられると述べ、Alaṅkāra chāstram に言及する。バラモンたちの保証によれば、北方に伝わる Nāṭak は多くの古い物語を含み(S. 229)、詩作一般が古代の貴重な遺産であって、そのなかにはアッシリア帝国についての報告や、"Yavanaraja" すなわち Alexander の勝利についての報告も含まれるはずだという(S. 230)。しかしバラモンに高い地位を与えているのは何よりも "la science de la Religion, des Mathématiques, \& la Philosophie"〔宗教・数学・哲学の学問〕である(S. 232)。四 Veda は Brahmanes の神学であり、古い "Pouranam" は théologie populaire〔民衆神学〕である。Veda の神々は "à la force intrinséque des Sacrifices \& des Mantram"〔供犠と mantra の内在的力〕に従属している(S. 234)。Dharma- に対しては繰り返し "d'Harmachâstram" と印刷されている。インドに来たあるギリシア人がインド人に惑星と黄道十二宮の記号のギリシア名をもたらし、また hora, kendra のような術語をもたらした(S. 236)。哲学には箴言的な詩句をもつ Nītichâstram も属する。六つの哲学体系——そのほかに彼は "âgamachâstram"(Jaina のもの)と "Bauddamatham" にも言及する——のうち、Nyāya, Vedānta, Sāṃkhya の主要教説をかなり詳しく扱っている。三段論法における煙と火という学派的例証さえここに伝えられ、Māyā の原理による錯覚の説明においては、地に横たわる縄を蛇と見誤る例が挙げられている。もっともこのような知識は当時、ごく少数の人々の頭のなかにしか存在しなかった。

Maffei の理解が不十分であったことが、"Joannis Petri Maffeii Bergomatis e Societate Jesu Historiarum Indicarum Libri XVI"(folio, Wien 1752)がバラモン的インドについて微々たる記述しか含まない原因であったろう。巻末に付された書簡についても同様である。ただ S. 27 以下で彼は、Gamma すなわち Vasco da Gama が Calecutana ora に上陸して Malabar の王と交渉に入ったときに見出した状況について、いくつかの所見を述べている。この王は自国に quatuor ordinum homines〔四階級の人間〕をもっていた。すなわち Caimales と呼ばれる dynastas et satrapas、バラモン、Naires と呼ばれる rei bellicae studiosos e nobilitate、そして第四に opifices と農民である。残余の民衆は大部分がアラビア人、ペルシア人、エジプト人で、ex haeresi Mahometana \& Judaica〔ムハンマド教およびユダヤ教の異端に属する者〕であった。バラモンは "Parabrammam nescio quem Deorum antiquissimum, \& ex eo filios tres: quorum in gratiam terna fila gerunt e collo suspensa"〔何者かは知らぬが神々のうち最も古き Parabramma と、それより生じた三人の子とを崇め、彼らのために三条の糸を首から垂らして着ける〕を崇拝する。キリスト教に改宗したあるバラモンが神父たちに伝えたことのポルトガル語訳が彼の手に渡っていたにもかかわらず、彼はそれを報告する労に値するとは考えなかった(S. 28)。

Voltaire がこの事柄に関心を寄せたことによって、同じく南インドと宣教圏に由来する著作 "L'Ezour-Vedam ou Ancien Commentaire du Vedam, Contenant l'exposition des opinions religieuses \& philosophiques des Indiens. Traduit du Samscretan par un Brame"(2巻, Yverdon 1778)が一般の注目を集めた。Observations Préliminaires の編者にして著者は名を明かさなかったが、後に知られるところとなった。原著はフランス語を解する "grand-prêtre ou archi-brame de la pagode de Cheringham" によって翻訳されたとされる。Voltaire はその翻訳の一本を入手し、1761年にフランス王室図書館に譲渡した。編者はまた、より完全な第二の写本からの Anquetil du Perron の筆写をも利用しえた。両写本はともに Pondichéry に由来する。この著作は Purāṇa と同様に対話の形式をとり、"Biache" と "Chumontou" の間の対話である。Biache すなわち Vyāsa は Purāṇa を代表し、Chumontou すなわち Sumantu は Veda を代表する。Chumontou は Biache を、人々に偽りの神々 Viṣṇu, Śiva, Brahma を、迷信的偶像崇拝と作り話とともに教えたと非難する。Biache はその罪を償うべく、Chumontou の教示を受けて Vedam の教えを人々に伝えるべきものとされる。これらの教えは、四 Veda の Saṃhitā、さらに Brāhmaṇa の実際の内容とはほとんど関わりがない。"L'Ezour Vedam ou Ancien Commentaire du Vedam" という表題は一見不可解である。Chumontou が説く教説と伝説は、大部分が Veda 以後の文献、特に哲学諸体系と叙事詩から採られている。折々に真の神、l'Etre suprême、天地の創造者への祈りが現れ、それはキリスト教的に響く。この書の傾向は、当時支配的であった偶像崇拝、すなわち Vichnou, Chib, Bramma の崇拝を批判し、インド人自身のより古い見解をもってこれを論駁することにある。キリストについてはどこにも言及がない。Kṛṣṇa は甚だしい罪人として Chumontou によって斥けられる。Bhagavadgītā は言及されない。罪は何ものによっても贖われず、ただ神によって赦されるほかない。地獄に堕ちた者は永遠にそこにとどまる。非難と論証の仕方全体は、この著作の著者がインド人ではなくヨーロッパ人であることを

推測させる。しかし Voltaire は、これが Alexander 大王以前に成立したと信じた。というのも、そこにはギリシアの征服者が河川・都市・地方に与えた名称が一つも見出されないからである。そこに含まれる宗教思想と幾多の含蓄ある伝説は、彼に深い印象を与えた。Ezour Vedam S. IX に引用された箇所(Siècle de Louis XIV chap. XXIX. not.)においてのみならず、彼はさらに他の著作の諸箇所でもこれについて述べている。彼は Essai sur les Moeurs(1765年以降)、Oeuvres Complètes ed. Louis Molland, Tome IX, Paris 1878, S. 49—54 で "De l'Inde" を論じ、S. 190—195 で "Des Brachmanes, du Veidam et de l'Ezour-Veidam" を、さらに "La Défense de mon oncle"(1767)Tome XXVI S. 391—394 で "De l'Inde, et du Veidam" を論じている。¹⁾ 自らの手に渡った写本については、第一の箇所 S. 52、第二の箇所 S. 192、第三の箇所 S. 391 で述べており、そこでは "le plus précieux manuscript qui soit dans tout l'Orient"〔全東方に存する最も貴重な写本〕と呼んでいる。Ezour-Veidam は "un rituel de tous les anciens rites des brahmanes, intitulé le Cormo-Veidam"〔Cormo-Veidam と題する、バラモンの古い儀礼すべての儀軌〕(すなわち Karmaveda)を含む。しかし写本はこの Veda 自体ではなく、"un résumé des opinions et des rites contenus dans cette loi"〔この律法に含まれる見解と儀礼の要約〕である。彼に最も強い印象を与えたのは輪廻の教説であった。インド人の生活全体が迷信的規定によって規制されている。あらゆる宗教の始まりは "Dieu unique" への信仰であった(S. 190)。しかしバラモンが最早支配者でなくなったとき、宗教は堕落した。真の教説は哲学者たちが保持した。彼は写本から "Brama" に帰される創造説を引用している(S. 393)。Ezour-Vedam の編者は Roger の "De Open-Deure"、イギリス人 Holwell と Dow の信頼性の乏しい著作、"Bagavadam" の写本訳を利用した。その Observations Préliminaires は "Le Théisme a été la religion primitive du genre humain"〔有神論は人類の原初の宗教であった〕という文で始まる。インド人は西方から来た。バラモンはエジプト人の後裔である(S. 17)。彼らはペルシア人と密接な関係をもっていた(S. 34)。Samanéens はアジア北方、Hyrcania から来た。その長は "Boutta あるいは Budda" であった(S. 48)。Samanéens は山を越えて北アジアに移ったが、それはおそらくバラモンによる迫害を逃れるためであった(S. 69)。彼は "Oudayanâcharya \& Batta" が引き起こしたという horrible massacre について語る(S. 72)。Samscretan を解する者はごく僅かである。四 Veda の内容についての彼の記述は "Zozur-Ved" についてのみいくらか妥当である。"Rick-Ved" は "science de la divination"〔占いの学〕を意味するという(S. 115)。Viassen は Choutres(すなわち śūdra)のために第五の Veda として Baradam を著したという(S. 121)。第二の聖典の類をなすのは十八の Pouranams であり、その名を彼は挙げている(S. 123)。それらについては既述の Bagavadam の写本訳を通じて表象を得ていた。他方 "les Schasters"(S. 138)で何を理解していたかは不明である。この奇妙な書物は "Ezour-Vedam oder der alte Commentar über den Veda" の表題で図書館員 J. Ith によってドイツ語に訳された(Bern 1779)。彼から我々は、Académie des Inscriptions et Belles Lettres の会員で、彼と個人的に親交のあった Baron de Sainte Croix が、フランス語版 Ezour-Veda の編者であったことを知る。Ith は新たに巻末に Bagavadam からの一片を加えたが、それについては

¹⁾ これらの箇所の典拠確認は Birch-Hirschfeld 教授の御教示による。

インドに由来するフランス語訳を S. 33 で報告している。後に Burnouf によって完訳された Bhāgavata Purāṇa は、こうしてすでに早くからフランスに知られていたのである。

"Ezour-Vedam" の起源についていくらか光を投じたのは、1822年の Francis Ellis による "Account of a Discovery of a modern imitation of the Védas, with Remarks of the Genuine Works"(Asiatick Researches 第XIV巻, S. 1—60)であった。原本を発見したのは、Ceylon 島の Chief Justice であった Sir Alexander Johnston(ここでは Johnson と呼ばれる)と、Pondicherry の British resident であった Captain Fraser で、前者が同地を訪れた際に、Pondicherry のカトリック宣教師たちの所有下に見出したのである(S. 55)。奇妙なことに、この Johnston こそ、Upham が刊行した Ceylon の仏教徒の文献に関する編纂物を促した人物である(後述第XV章参照)。しかし彼らが見出したのは "Ezour-Vedam" の原本のみならず、他の Veda についての類似の作品でもあった。いずれも同じ仕方で構成され、ヨーロッパ製の紙に書かれ、疑わしいサンスクリット文が the Roman character〔ローマ字〕で記され、フランス語訳がそれに対置されていた。Ellis はこれらの写本を記述し、Ezour Vedam のみならず "Chamo-Bedo" についてもサンスクリットの見本を与えた。"Ezour Vedam" は写本ではもとは "Jozour Béd" と書かれていた。サンスクリット語の綴り方(v に対する b など)から Ellis は、このサンスクリット文が Bengal で、あるいは Bengal でサンスクリットを学んだ者によって作られたと結論した(S. 12)。一つの写本には1732年と1751年の年記が見出される(S. 27)。それゆえ当時 Pondicherry に存在した、Robertus de Nobilibus 自身が著者であるという伝承は蓋然性を欠く。しかしその傾向からすれば、これらの著作はこの注目すべき人物の周辺から生じたものであろう。Robertus de Nobilibus については Ellis が S. 56 以下で論じている。彼は1620年頃 "Madura mission" を創設し、サンスクリットを学び、タミル語でさまざまな "on polemical theology"〔論争神学について〕の著作を書き(S. 31)、1656年に Madras 近郊の Mayilapur で没した。彼は自らを "Rómaca Bráhmana" と称し、バラモンのように生活し、装った。L'Ezour-Vedam が真正のバラモン起源ではありえないことは早くから認識されており、Sonnerat や Paulinus a St. Bartholomaeo がキリスト教信仰の箇所を指摘した(Syst. Brahm. S. 315 以下)。P. v. Bohlen, Das alte Indien S. 134 以下も参照。しかしこの書を孤立して見てはならない。改宗の目的で作られたにせよ、これは17・18世紀の宣教師たちの間に存在したサンスクリット文献の知識を具体的に示すものであり、それゆえサンスクリット文献学前史のなかに位置を占めるに値する。Ellis が Colebrooke の論考に依拠して1822年に真の Veda について書いたことは、Ezour-Vedam の非 Veda 的性格を特徴づけるには十分であるが、なお完全に問題がないわけではない。

フランス人神父の書簡と同様に、デンマーク人宣教師たちの「異教徒のもとでの職務の働きについて」および「Malabar 異教の性状について」の報告も18世紀に刊行された。すなわち "Der Königl. Dänischen Missionarien aus Ost-Indien eingesandter ausführlichen Berichte Erster Theil"(Halle 1718)であり、"Bartholomaeus Ziegenbalg, Misnensis Saxo, Ecclesiae ex Indis collectae Praepositus" の肖像で飾られている。しかしこれらはほとんど顧みられなかった。1853年に Weber が ZDMG 第VII巻 S. 235—248 で「Yajurveda のいわゆる翻案」という表題のもとに

G. A. Franke 編のこれら「東インドからのデンマーク宣教報告」第四巻(Halle 1742)S. 1251—94 に含まれる注目すべき報告に注意を促すまでは。この報告は「バラモンの四つの律法書の一つ Yadsur-Vedam の主要内容」を扱っている。Tranquebar の Kṛṣṇa という名のバラモンが、宣教師たちの請いに応じ、長い抵抗の後にこの「主要内容」を口頭で伝えたのである。この報告が既述の l'Ezour-Vedam とはまた別の性格をもつとはいえ、ここでもやはり Yajurveda が、その古い内容についての誤った記述とともに我々の前に現れる。Yajurveda という名はここでは、近代バラモン的な世界観・人生観の百科全書的かつ体系的な叙述に対して用いられている(Weber S. 236)。すなわち Meru 山をもつ神話的世界体系、カースト、婚姻を含む「母胎にあるときから Brāhmaṇa において遵守されるべき諸儀礼」、darśapūrṇamāsau のような供犠、さらに rājanīti と daṇḍanīti、天文学的事項、pitṛmedha、身体の脈管、その他である。Yajurveda の名のこうした自由な使用は、それ自体としてはまだ本来の偽作ではない。バラモンはみないずれかの Veda の学派に属していた。南インドではそれは特に Yajurveda であった。Kṛṣṇa の報告のなかには Taittirīya-Saṃhitā への紛れもない暗示が見出される(Weber S. 236)。供犠についての記述は Yajurveda の実際の内容に属する。Kṛṣṇa が "Parāsariam" と呼ばれる書物を用いたとしても、それが Gṛhya- あるいは Dharma-sūtra であれば、やはり Yajurveda に属する。しかし実際上の必要から、Yajurveda の古い主題に、インド人にとって重要となった Purāṇa の素材が結びつけられることになったのである。Weber はさらに、バラモンの生活様式と宗教的見解についてのある Malabar 人通信者の55通の短い書簡を、第一巻 S. 337—504 から取り上げている。それらは1718年のものであり、分別あるバラモンの報告に由来するものであるから、新たに印行されるに値するであろう。名前は南インド形で、著しく崩れている。

インドについての知識はやがて北方からも、イギリス人を介してもたらされた。インドに行ったことのないまま、図書館員 Sinner は "Essai sur les Dogmes de la Metempsychose \& du Purgatoire enseignés par les Bramins de l'Indostan: Suivi d'un Recit abregé des dernieres Revolutions \& de l'Etat present de cet Empire, tiré de l'Anglois"(sic!)(Bern 1771)を著した。著者は図書館のある写本のなかに偶然 "le Purgatoire de St.-Patrice" という断片を見出し、これも伝えている。彼は Pythagoras を想起した。Pythagoras は旅の途上でインドのバラモンのもとに輪廻の教説を見出したのである。しかしこの教説は "un Purgatoire ou un passage \& un Etat d'épreuve, par lequel les anciens Sages de l'Inde enseignoient que Dieu conduisoit les ames à l'Eternité bienheureuse"〔煉獄、すなわち通過と試練の状態であって、これによって神が霊魂を至福の永遠へ導くとインドの古代の賢者たちは教えた〕にほかならないという(S. III)。Sinner は書物の第一部で、インドに行った者たちによる当時著名な著作から彼が知りえた、バラモンの宗教についての事柄を集成した。彼は Bernier から始めるが、その著作については後にさらに詳しく述べる。すでに彼において、Veda の内容として三神 Brahma, Viṣṇu, Śiva の教説が現れている。次いで Kircher の China Illustrata からの数箇所が続く。しかし最も多くを提供したのはイギリス人 Holwell と Dow の著作であった。London 1764年以降に刊行された John Zephaniah Holwell(1711—1798)の著作——彼は

East India Company の勤務で波瀾に富んだ生涯を送り、最後に短期間 "Chef de la Compagnie des Indes" であった——は、彼には1769年刊の翻訳で入手可能であった。すなわち "Evénemens memorables de l'Indostan, avec un Traité sur la Mythologie \& la Cosmogonie de ces Peuples" である。¹⁾ Major Alex. Dow(1779年没)の著作は主として Ferishta の翻訳である。すなわち "The History of Hindostan, from the earliest account of time to the Death of Akbar, translated from the Persian of Mahumud Casim Ferishta, together with a dissertation concerning the Religion and Philosophy of the Bramins"(London 1768)。²⁾ その "Fragment" が Sinner の書物の第二部全体を埋めている。これらの著者によっても、Veda は Brahma, Viṣṇu, Śiva の宗教を含むとされる。Holwell は紀元前約3100年に啓示されたバラモンの聖典を "Chartah Bhade of Bramah"(Sinner S. 44)、"ou les quatre Livres de Bramah"(S. 134)と呼んだ。1000年後にバラモンたちは "Commentaire" を加え、さらに500年後に新しい書物 "Aughtorrah Bhade Shastah, ou les dix-huit Livres de la parole divine" を加えた。これは明らかに Purāṇa である。Dow によれば "Bedas"、また "Bedang Shaster" とも呼ばれるものは特に南インドで通用しており、Bengal の住民はそれより900年後に成立した Goutam の "Neadirsen Shaster"、すなわち Nyāyadarśana に従っていたという(S. 60)。偽作として烙印を押された Ezour-Vedam——その写本について Sinner は報告を得た(S. 128)——は、当時一般に流布していた見解を反映しているにすぎない。Sinner はさらに他の著作や文書、La Croze, Grose, Mignot, de la Flotte のもの、さらにそれまでに刊行された Anquetil Duperron のもの(S. XXVIII)、Lettres Edifiantes からは Pons 神父の書簡のほかに Bouchet 神父のそれをも用いた。Bouchet はインド人の宗教を旧約聖書から導き出そうとし、Brama のうちに族長 Abraham を再発見するという妙案を弄した(S. XVI)。

Sinner の書物と同じ年に、Anquetil Duperron のフランス語訳 Zend-Avesta, Ouvrage de Zoroastre が刊行された。その Tome Premier, Premiere Partie は序説を含み、それは主として "La Relation du Voyage du Traducteur aux Indes Orientales, suivie du Plan de l'Ouvrage; \& un Appendix sur les Monnoyes \& Poids de l'Inde, sur quelques objets d'Histoire Naturelle \& de Commerce, \& sur les Manuscrits Orientaux du Traducteur"(Paris 1771)から成る。Anquetil Duperron はまず旅行者として登場し、しかもきわめて若年においてであった。帰国したときなお30歳であった。帰国の年1762年にすでに旅行の "Relation abregée" を与えていたが、ここでは旅行日誌全体をより完全に公刊した(S. III)。旅行は1754年から1762年にわたる(S. CCCCLXXVIII)。それが彼の生涯の内容を決定したが、Oupnek'hat をそのとき持ち帰ったのではない。それに到達したのは生涯の末期になってからである。Zend-Avesta の刊行が当初の彼の主要な

¹⁾ 原著の表題は "Narrative of the Black Hole. Interesting Historical Events Relative to the Province of Bengal and the Empire of Hindustan" である。Buckland, Dictionary of Indian Biography, London 1906 参照。

²⁾ Dow の著作の四つの版については Lassen, Ind. Altertumsk. III 493 参照。私は第二版(1770—72)の匿名で刊行されたドイツ語訳 "Die Geschichte von Hindostan aus dem Persischen von Alexander Dow, Esq."(3部, Leipzig 1772—74)を閲覧した。古い時代に Veda についての記述がしばしば採られた「インド人の習俗・風習・言語・宗教・哲学についての論考」は、Hindostan の専制についての論考その他の同時代史に関わる論考とともに、同書の第二部に収められている。

意図であった(S. CCCXCV)。それゆえ彼はペルシア語のみを学び、サンスクリットは学ばなかった。彼はたしかにラテン文字で、Malabar 海岸で用いられているという Samskretan のアルファベットを与えているが(S. CLXXII)、当時のヒンドゥーの文献と本質についての記述は取るに足りない。ただし "trois Dictionnaires Samskretans" を筆写させており、そのうちには Amerkosch と Viakkeren がある(S. CCCLXVIII)。さらに "des Sanithas(!)des quatres Vedes" の最初と最後の葉も筆写させた。Sanitah(!)という語は "extrait"〔抄録〕を意味するという。彼は Sam, Ridjou あるいは Djederdjou, Atharvana, Raghou Veda の写本を、その章分けに従って純粋に外形的に記述している(S. CCCLXVI)。バラモンたちは Veda が Khreschnou によって "il y a environ quatre mille ans"〔約四千年前に〕作られたと信じているという(S. CCCLXIV)。ある図版に彼は Keneri の岩窟寺院の碑文の筆写を与えている(S. CCCXCIV 以下)。Keneri の22の碑文を読みうるバラモンを彼は見出せなかった(S. CCCCVIII)。Malabar 海岸で出会った Claude 神父からは、インド人が最高存在 Karta, Bara Vastou を信じ、それが Schiva として人間の姿で現れ、次いでそれが天に退いた後、三神 Roudra(Isvaren), Vischnou, Brouma(Brahma)に変じたということを知った(S. CXXXVIII)。カーストについても Malabar 海岸の状況に従って述べている(S. CXLV)。南インドから出発した彼は Bengal にまで至ったが、求めていたもの、すなわち Zend-Avesta をもつ Parsi たちは、1758年5月1日にその城門前に到着した Surat において初めて見出した。Surat とその歴史、当地の Parsi、および Zend-Avesta の研究については、Relation の第三部で詳細に論じている(S. CCLXII 以下)。11月18日に彼は Surat を発ち、Salsette 島、すなわち岩窟寺院の地域に赴いた。そのうち特に Iloura, Keneri, Elephante の "Pagodes" を詳細に記述している。Anquetil Duperron の Relation はインドの地理学にとって価値をもつ。日誌に従って、旅と放浪において到達したすべての都市と場所を記述しているからである。同時代史にも彼は言及している。イギリス人とフランス人の間の戦争が勃発していた。彼は Tieffenthaler と同じく、イギリス人の高潔な心根を称賛している(S. CCCCXXXI)。日誌的な記録であるから、人間たちが、キリスト教徒も異教徒も、彼が見出したままに、必ずしも最良の側面からではなく描かれることになる。彼自身の振舞いもまた率直に露呈している。彼は饗宴と祭礼、chiroute と hoka の喫煙(S. CCCCXVI)を記述し、遊女を描き、また寡婦焚死も目撃している。病と欠乏と危険を克服した彼の理想主義は驚嘆に値する。この著作は小さな改変を加えて J. G. Purmann によってドイツ語に訳された。"Anquetils Du Perron, Mitglieds der Akademie der schönen Wissenschaften zu Paris, und Königl. Französischen Dollmetschers der morgenländischen Sprachen, Reisen nach Ostindien, nebst einer Beschreibung der bürgerlichen und Religionsgebräuche der Parsen, als eine Einleitung zum Zend-Avesta, dem Gesetzbuch der Parsen durch Zoroaster"(Frankfurt a. M. 1776)。

Anquetil Duperron に、また Bernier, Dow, Grose, Thevenot, Ovington にしばしば言及しているのが、1733年生まれ1815年没の Hannover 人 Carsten Niebuhr のインド報告である。彼は技師としてデンマークの官職に就き、Friedrich V 世の費用で

1761年から1767年にかけて、途上で死亡した同行者たちとともに、主としてアラビア探査のために東方への大旅行を敢行した。インドには1764年に、すなわち Bombay と Surat にいた。それについて彼はその著作 "C. Niebuhrs Reisebeschreibung nach Arabien und andern umliegenden Ländern"(Kopenhagen 1774、第2巻 1778)の第2巻(S. 1—80)で報告している。Bombay は当時すでに Calcutta, Madras と並んでイギリス政庁の主要拠点となっていたから、彼の土地と人々、およびイギリスの統治についての記述は内容豊かな像を与える。Colebrooke らがインドでの経歴を writer の地位から始めたことを思えば、East India Company の商業経営において「書記」がいかなる意義をもっていたかがここから知られる。サンスクリットを彼は解さなかった。インド商人のなかにポルトガル語と英語を話す者が非常に多いことを彼は見出した(S. 22)。ヒンドゥーは Cast と呼ばれる四つの主要種族から成る。「1. Bramanen すなわち聖職者、2. Rasbuten すなわち兵士、3. Banianen すなわち商人、4. 農民」(S. 17)。バラモンは全能・遍在・不可見の唯一の存在のみを崇めるが、愚民のために下位の神々を案出した。最も高貴な三神は Brama, Wistnu, Madeo である(S. 22)。サンスクリット語は嘆かわしく崩れている。彼は四 Veda に言及する(Ruger Wéd 等)。これらから抄録が作られ、Sribahagawant Poram と呼ばれるという。すなわちここでも古い文献全般と同じ表象と Bhāgavata-Purāṇa である。輪廻、Rāma と Kṛṣṇa の物語(S. 28以下)、世界時代、月名、Vikramāditya(S. 26以下)、およびヒンドゥーと Parsi の生と死、彼自身が観察した祭礼と行列についての多くの詳細が言及されている。Tab. II には複数のアルファベットが与えられ、その最初のものは Guzurat 州の Banian のアルファベットである(S. 21)。しかし彼が特に独創的なのは、図版を伴う岩窟寺院の記述においてである。Elephanta 島の寺院を彼は古物愛好家にとってきわめて注目すべきものと考え、三度もそこへ旅した(S. 32)。

古い時代に多く用いられたのは、Tyrol の Bozen 出身のイエズス会士 Joseph Tieffenthaler 神父によるインドの地理的記述である。彼自身は自らの名を Tieffentaller と綴った。1743年に Portugal から Goa へ出帆した。Surat, Agra, Delhi, Mathura, Bombay 等への旅については前置報告で語っている。1756年、必要な生計の欠乏から、長年の居住地 Narvar を去らざるをえなくなり、Bengal へ赴くことを決意した。「その寛大さと、窮乏し困窮せる者への人類愛のゆえに知られる、かの名高きイギリス国民のもとに支援を求めんがために」である。三十年にわたる観察と研究に基づき、ラテン語で書かれた彼の著作は写本のまま Copenhagen に届き、Berlin 学士院会員の天文学者 Johann Bernoulli によって刊行された。すなわち "Des Pater Joseph Tieffenthaler d. G. J. und apostol. Missionarius in Indien historisch-geographische Beschreibung von Hindustan" である。それは「図版付きと図版なしの二種のドイツ語版で」現れ、Berlin 1785年および86年の八つ折版は「イギリスの工兵少佐 Renell 氏による大 Hindustan 図」を備えていた。インドの多くの地方を彼は自ら踏破し、1765年には磁針の助けを借りて Gaṅgā の湾曲を記録した。¹⁾

¹⁾ Bonin, "Une ancienne carte des sources du Gange", Annales de Géographie XX(1911)338—350 参照。

Ayin Akbari その他のペルシア語・インド語の史書から彼は王名表を採ったので、その著作は歴史家にも有用であった。彼は Hindustan の23州を、Kabul, Kandhar, Caschmir に始まり Hederabad, Bezapor に終わるまで、その河川、山岳、都市とその距離、君主とその収入とともに記述している。彼が記述した都市の多くを彼自身が見ていた。18世紀後半のインドの記述として、これほど体系的に構成されたものは他のいかなる古い著作にも含まれていない。刊行にあたって Bernoulli を助けた Anquetil Duperron と、Tieffenthaler は学問的交流をもっていた。この著作の第二部をなす「雑注」(S. 641—708)において、Bernoulli はさまざまな古い著作を指示している。末尾には Rennell の Map of Hindoostan のアルファベット順索引が置かれている。四つ折版は三巻本に膨れ上がった。同じく1785年に出た第一巻は小版の第一主要部に相当する。1788年に出た第二巻は、その第一部に Anquetil Duperron の Recherches Historiques et géographiques sur l'Inde の地理的内容部分のドイツ語訳を、第二部に「Nadir Schah および Pattan 族のインド侵入の記述」ならびに歴史的研究等を含む。両部において Tieffenthaler の労作、すなわち彼が Anquetil Duperron に送った地図と論考とが考慮されている。すでにそれ以前、1787年に出た第三巻は「Calcutta のイギリス官職における元主任技師 Jacob Rennell 氏によるインド総図、および Burramputer 河の流路と Bengal の内陸航行についての図、ならびに関連する諸論考」をドイツ語訳で提供した。Tieffenthaler, Anquetil Duperron, Rennell は、インドの地理学にとって重要な業績をもつ、ほぼ同時代の学者たちの一つの古い群を形成する。しかし Bernoulli の企図によって、Berlin 学士院はすでに Bopp や W. v. Humboldt に先立ってインド研究に関与していたのである。Lassen が Bernoulli の大版の Tieffenthaler を用いたのは、その『インド古代学』第III巻に至ってのことであり、しかも Wilford と並んで主として王朝史のためであった(III 557, 717, 814, 944, 1129, 1161 その他)。

James Rennell は1742年に生まれ1830年に没し、Tieffenthaler より若かったが、その地図のゆえに "the father of Indian geography" と呼ばれる。C. A. Frenzel の Leipzig 学位論文 "Major James Rennell, der Schöpfer der neueren englischen Geographie"(1904)参照。彼は1760年にインドに来て、1764年に Bengal Engineers に職を得、次いで Surveyor General として Bengal で最初の基礎的測量を実施した。1777年にイングランドに帰り、1781年に Atlas of Bengal を、次いで主著を刊行した。主著は1783年から1793年までに五版を重ねた。その表題はしばしば不正確に引用される。私の手許にある本の表題は "Memoir of a Map of Hindostan; or the Mogul Empire: With an Introduction, illustrative of the Geography and Present Division of that Country: And a Map of the Countries situated between the Head of the Indus, and the Caspian Sea. By James Rennell, F. R. S., Late Major of Engineers, and Surveyor General in Bengal ... To which is added, An Appendix, containing an Account of the Ganges and Burrampooter Rivers"(London 1788)であり、第何版かの表示はない。Rennell は繰り返し Anquetil du Perron を引用し、また若干を

Bernoulli 版の "P. Tieffentaller" から採っている(索引参照)。長い序説では、まず古代人のインドについての報告と、ムハンマド教徒の征服以後の Hindustan の歴史を、1670年までは Dow の翻案による Ferishta に従い、次いで R. Orme の Historical Fragments of the Mogul Empire(London 1782)その他の著作に従って論じている。Mahratta の歴史の素描と the Conquests of European Powers——ただしフランス支配についてのみいくらか詳しく論じる——が序説の歴史的部分を締めくくる。より短い地理的部分では、Abul Fazil の "Ayin Acbaree" に従い、Gladwin の翻訳によってインドの地理的区分を示している。本来の Memoir ではインドは七つの "Sections" に分けられる。出発点は Calcutta である。第一の Section は海岸と島嶼(Ceylon)を、第二はガンジス地方の Bengal から西方 Agra までを、第三はインダス地域を、第四は Kistna 河とガンジス・インダス地方の間の中部インドを、第五は Kistna 以南の地を、第六は Hindustan と中国の間の地方を含む。多くの点で Rennell は旅行者による従来の地図に依拠せざるをえなかった。測量は軍事作戦と行軍によって必要となり、また可能となった。彼は地方ごとに個々の都市の位置と相互の距離を、その性状と重要性についての注記とともに与えている。先行者のうちでは、フランスの学者 d'Anville、インドからカスピ海への旅を敢行した G. Forster、フランス人 Bussy——その行軍の地誌こそ Deccan におけるフランス支配の唯一残る記念碑だと彼は言う——にとりわけしばしば言及する。イギリス人の征服によってインドの地図は絶えず改変された。それは後の著作 "Memoir of a Map of the Peninsula of India; from the latest Authorities: exhibiting its Natural, and Political Divisions: the latter conformable to the Treaty of Seringapatam, in March, 1792"(London 1793)に示されている。この Memoir には後により新しい地図が付された。私の手許にある1793年本では、地図は "London April 5th 1800" の日付と、"According to the Treaty of 1792, made by the Marquis Cornwallis; and that of 1799 made by the Marquis Wellesley" の注記を担っている。

Roger, Tieffenthaler, Rennell のような重要な著作は、古い時代には多くない。他の多くの宣教師が有していた多様なインド知識は失われてしまった。このことを痛切に感じたのが A. de Gubernatis で、東洋学史におけるイタリア人の寄与を叙述しようとする愛国的試みにおいてであった。すなわち第3回国際東洋学者会議に献呈された "Matériaux pour servir à l'Histoire des Études Orientales en Italie"(Paris 1876)であり、これに先立って "Storia dei viaggiatori italiani nelle Indie orientali"(Livorno 1875)があった。1583年から1588年までインドに、特に Goa にいた¹⁾ Florence の商人 Filippo Sassetti と、17世紀のイエズス会士 Roberto dei Nobili de Montepulciano——すでに Pons 神父が "habile dans le Samskret"〔サンスクリットに巧みな〕と呼んだ人物(前掲書 S. 231)——を、彼はサンスクリットを学んだ最初のイタリア人と称する。ただし彼らからの著作は我々の手許にはない。しかし de Gubernatis が特に挙げるのは、17世紀半ば頃の Gemignano da Sant' Ottavio 神父

¹⁾ Sassetti については Benfey, Gesch. d. Sprachw. S. 222 参照。

であり、さらに Capuchin 会士 Cassiano Belligatti(1708年生、1791年没)と Marco della Tomba を "trois véritables précurseurs des études indiennes en Europe"〔ヨーロッパにおけるインド研究の三人の真の先駆者〕とする。もし彼らの著作が Rome の図書館に埋もれるのでなく刊行されていたなら、イタリアは18世紀前半からヨーロッパにサンスクリット研究を広めていたかもしれない(S. 322)。長く Rangoon に住んだ Vincente Sangermano 神父(1758年生、1819年没)については、Pāli の初期の知識人として後に触れねばならない。1700年にインドに来て1742年に没したイエズス会士 Costantino Beschi は、1738年に Grammatica latino-tamulica を刊行した。"missionaire hongrois italianisé"(S. 332)たる Paolino da San Bartolomeo 神父に対して、de Gubernatis は十分公正ではない(後述 S. 20 参照)。彼はさらに他の、それほど著名でない名も挙げているが、イタリアがサンスクリット文献学の形成過程に "avec pompe"〔華々しく〕(S. 337)参入したのは、1843年、Gaspare Gorresio によってのことであった。

A. de Gubernatis は後に Marco della Tomba の記録を発見し、Benfey に献呈され第4回国際東洋学者会議に提出された書物 "Gli Scritti del Padre Marco della Tomba"(Firenze 1878)において刊行した。Marco は1757年から1773年まで北インドに滞在し、"Missione del Thibet" に属していた。この宣教団は Nepal の Betia および Patna にも拠点をもっていた。見聞したことを彼は記録した。地理的記述は Nepal と Tibet をも含む。Pratiche ordinarie という表題のもとには、吉凶の日と前兆、主要な罪、埋葬、寡婦焚死についての記述がある。ここでも神々は "Barmah, Bisnù(Bengal 式の B をもつ)e Mahadeo" である。Viṣṇu の崇拝者は "Bisnuas o Ramanandi" と呼ばれる(S. 77)。さまざまな宗教的宗派のうち、特に Kabir の徒である "Cabiristi" が際立っており、これについて de Gubernatis は序説で詳論している。その時代としては注目すべき章 "Libri Indiani"(S. 99—127)において、Marco はまず Veda を扱うが、これは伝聞によるのみで、古い時代の他の例と同様の誤った記述を伴う。Veda から Barmah は六つの "Sastrah" を引き出したとされ、第一には冒頭にサンスクリット文法を置く "Niaisastrah"、次いで "Mansà, Sanghiè, Pantagial Sastrah"、第5番として18の Puran、第6として Giotik Sastrah が挙げられる。Purāṇa の名称は一部のみ正しく与えられている。そのうち第十番目に Ramaen Puran が挙げられ、Rāmāyaṇa 七巻の詳細な内容摘要が付されている。Marco は都を去らねばならなかった Betia の王から、その蔵書、書物を収めた四つの箱を託された。これらの "libri" から Marco は Benares 出身のバラモンの助力を得て、最も重要と思われるものを翻訳した。すなわち "il libro di Lanka"、初めての Rāmāyaṇa の一部で、第5巻の末尾から第6巻の中ほどに及ぶもの、さらに同じくサンスクリットから "un Libro Bed dei Gentili detto Argiun Ghità"、およびこれに Cabiristi の二作品を加え、計四つの翻訳を de Gubernatis が印刷している。サンスクリットの名前の形は、Marco のサンスクリット知識をあまり物語ってはいない。Rāmāyaṇa の研究によって彼は Gorresio の先駆者のように見える。

Marco della Tomba のすぐ後に数年間インドに、ただし再び Deccan のタミル人のもとに滞在したのが、フランスの博物学者 Pierre Sonnerat(1749年生、1814年没、Correspondant de l'Académie des Sciences)である。インドと中国への大旅行についての彼の公式報告は、かつてよく読まれた。"Voyage aux Indes

〔頁下部の版面表示〕Indo-arische Philologie I. 1 B. — 2

orientales et à Chine, fait par ordre du Roi depuis 1774 jusqu'en 1781, avec des observations sur le Cap de Bonne Espérance, les isles de France et de Bourbon, les Maldives, Ceylan, Malacca, les Philippines, les Moluques, etc."(Paris 1782、四つ折二巻、または八つ折三巻、第2版1806年)。ドイツ語訳(前置報告に P. の署名)は "Reise nach Ostindien und China, .. unternommen .. von Herrn Sonnerat"(Zürich 1783)である。二巻のうち第一巻はほぼ全面的に Deccan のインド人の記述に充てられ、その生活・習俗・信仰・神話を、彼は特に Coromandel 海岸で知った(独訳 S. 272)。多数の図版が付され、"P. Sonnerat pinx." の記載を担う。大部分は神々とインドの苦行者を描くが、多様な生活情景、寺院、植物、動物の図もある。Sonnerat が扱う主題は、彼が知っていた Roger の著作とほぼ同じである。序論をなすのは「1763年から Pondichéry 陥落に至るまでインドで生じた国事の変転の概要」であり、次いで Coromandel 海岸、Malabar 海岸、Surat の状況の記述、bayadère たちのこと(S. 34)、および彼が自らの目で見た諸地方の記述が続く。婚礼と葬送について述べるところは Gṛhyasūtra を想起させるが、なお注目すべき細部を多く加えている。彼の記述によれば(S. 73)、Śaiva は死者を埋葬し、Vaiṣṇava は火葬する。同種の指摘として、Guru という名は一般的な名でありながら「Schiwen の奉仕者にのみ」与えられ、Wischenu の奉仕者は Ācārya と呼ばれるという。神々については特に詳細に叙述しており、"Bruma, Schiwen und Wischenu" を筆頭に置き(S. 128)、Roger と同様にその相互関係を定めようとしている。しかしこの神話を伴う多神教の背後には、唯一の最高存在への古い信仰があり(S. 5)、無知な民衆の忌まわしい習俗の背後には純粋な倫理の教えがある(S. 225)。賢明なインド人は偶像崇拝的であるどころではない(S. 5)。Sonnerat は奇妙にも Braman と Brachman を二つの異なる語とみなしていた(S. 162)。後者こそインド人の真正な、堕落していない宗教を代表するという。これを知るためには Wedam の忠実な翻訳をもたねばならないが、それを入手することは全く不可能だと彼はみなす(S. 170)。別の箇所では、インド人は "Wedams" によって古い聖典の注釈のみを理解しており、聖典そのものは失われていると推測している(S. 179)。Atharvaveda だけがそうなのではないという。こうした見解はインドについての古い著作に繰り返し現れる。「インド人の報告によれば」と Sonnerat はインド人の聖典についての章で言う、「Wedams はあらゆる学問を論じる、いや正確に言えば論じていた」(S. 176)。これら "Schastas oder Schastrons"——彼は六つを数え上げ、そのうちには天文学、医学、法学がある——について、彼はより詳しくは知らなかった。しかし別の箇所では、世界の創造、世界時代、時の区分、吉日凶日について、星学に携わるバラモンから伝えられたことを報告し(S. 177, 240以下)、インド人の技芸と手工業についての章では、インド人の疾病と無知な医師によるその原始的治療について、実生活から取った戦慄すべき像を描いている(S. 94)。文献としては Purāṇa がより詳しく知られており、その名をタミル的変形で挙げている(S. 178)。そのうち四つのみがタミル語に訳されているという。すなわち "Saywon, Kandon(Skanda), Kurmon und Baga-

wadon"(S. 179, 169)である。ここでも再び Bhāgavata である。Paris にある Bagawadam の写本は翻訳ではなく単なる抄録だという(S. 171)。この Purāṇa から彼は Gaṅgā の起源の物語(S. 231)、創造の物語(S. 240)を語る。創造の体系は「Kandon による」ものも伝えている(S. 237)が、これからは特に最終章「バラモンの信条」が由来するはずで、そこには最高存在への信仰告白が含まれるという。Sonnerat はこれを「単なる翻訳」と称するが、おそらく彼のバラモンから得た自由な翻案であろう。それは Ezour-Vedam を想起させる。この書について彼はきわめて否定的に述べ、Masulipatam である宣教師によって書かれたものだとする(S. 180)。彼はそれを「学識はあるが狂信的なあるバラモン」に読ませた。それが彼の宗教について教えようとした概念に合致しなかったので、そのバラモンは彼にその秘密を開示する義務を感じたという(S. 6)。この人物がおそらく総じて彼の主要な情報提供者であったろう。いくつかの寓話(Pañcatantra の)も彼は翻訳で与えている。サンスクリットを彼は解さなかったが、タミル語はある程度解した。タミルの音と文字についての章がそれを証している。インド記述における先行者のうち、神話に関しては彼はイギリス人 Dow を挙げている(S. 164、前掲 S. 12 参照)。この著作の豊かな内容のうちから、なお貨幣についての章を指摘しておこう。

宣教師のうち、インドでサンスクリットを学んだ者すべてを我々が知っているわけではない。Friedrich Schlegel はその著作『インド人の言語と英知について』のために、Paris の帝室図書館で、簡略なサンスクリット文法を含む無名の宣教師の写本を用いた。彼は次いでその序文で、イエズス会士 Roth, Hanxleden およびカルメル会士 Paulinus a St. Bartholomaeo に言及している。彼らはそれぞれの流儀で重要な人物であり、Benfey『言語学史』にはより詳しい記述がある。Heinrich Roth 神父は1650年から1660年まで Goa から Agra へ中部インドを旅し、その間にサンスクリットとインドの宗教を研究した。我々が彼について知るのは、インドで彼と知り合った同時代人 Bernier を通じてである。Bernier は彼を Roa と呼び(彼自身も自らをそう呼ぶ)、前掲 S. 4 で言及した版の Chapelain 宛書簡 S. 329 以下で彼について報告している。Roth から、同じくイエズス会士で重きをなした人物 Athanasius Kircher は、その著作 China Illustrata(Amsterdam 1667)の folio 162 と163 の間に見出される五葉のサンスクリット図版を得た。四葉はアルファベットに充てられ、第五葉は主の祈りと Ave Maria の翻訳をラテン語原文とともに与える。こうした事柄が繰り返し学者たちの注意をインドに向けさせたということを別にすれば、これらの珍奇な資料がサンスクリット文献学の発展に直接寄与したところは、Henricum van Rheede tot Drakestein¹⁾ による Hortus Indicus Malabaricus 第I巻(Amsterdam 1678)の Devanāgarī の個々の語や、1694年に刊行された Oxford の東洋学者 Thomas Hyde の Historia Shahiludii のそれ——これらには Zachariae と Macdonell が注意を促している(JRAS 1900 S. 350、1898 S. 136)——と同様、僅かなものであった。同じことは、インド法についての最古の英語著作の序論におけるサンスクリットの見本にも当てはまる。その原

¹⁾ "As long ago as 1676, Henry Van Rheede, the Dutch Governor of Malabar, had made a large collection of Indian plants through the agency of a Brahman"〔早くも1676年に、Malabar のオランダ総督 Henry Van Rheede は、あるバラモンの仲介によってインド植物の大規模な収集を行っていた〕、Baboo P. N. Bose, Cent. Review III 69。

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本は Warren Hastings の発意により Pandit たちによって編纂され、次いでペルシア語訳から英語に訳された。訳者は East India Company の官吏 Nathaniel Brassey Halhed(1751年生、1830年没)であり、書名は "Code of Gentoo Laws"(London 1776)である。179〔ママ〕年6月21日付のある書簡で Colebrooke はこの著作についての判断を述べている(その伝記 S. 84 参照)。Adelung がしばしば引用する Halhed は、Bengali Grammar の著者でもあった。

Benfey は(『言語学史』S. 335)、1699年から1732年(この年に没した)まで Malabar 宣教区で働いたドイツ人イエズス会士 Johannes Ernst Hanxleden を、ラテン語でサンスクリット文法を著した最初のヨーロッパ人と称し、さらに彼は "Dictionarium Malabaricum Samscrdamicum Lusitanum" をも作ったとする。いずれも写本のままにとどまった。にもかかわらず両著作は学問に資することとなった。というのは Fr. Paulinus a Sancto Bartholomaeo, Carmelita excalceatus Malabariae missionarius(Sidharubam の表題にそうある)がこれを利用し、文法書を自らの Sidharubam のために(同書 S. 65 参照)、辞書を Systema Brahmanicum のために(同書 S. 267 参照)用いたからである。生まれはオーストリア人で、出生名を J. Ph. Wesdin という Paulinus¹⁾ は、1776年から1789年まで Malabar にあり、次いで Rome に住んで二つの文法書を刊行した。すなわち "Sidharubam seu Grammatica Samscrdamica"(1790)と "Vyacarana seu locupletissima Samscrdamicae linguae institutio"(1804)である。Rome はヨーロッパにおけるサンスクリット文法書の最初の印刷地である。サンスクリットは南インドの Grantha 文字で印刷されている。S. Congregatio de Propaganda Fide もまた、その印刷所の活字によって功績を得た。活字は "Alphabetum Grandonico-Malabaricum sive Samscrudonicum"(Romae 1772)によって知られるようになった。Paulinus は Sidharubam の第1部をなす学識ある Dissertatio Historico-Critica in Linguam Samscrdamicam において、"magistri universitatis Kasi"〔Kāśī の大学の教師たち〕が用いた alphabetum Vânârense と Devanāgarī、およびその他の南インド文字を論じ、huṃ と oṃ の意味を詳論し(huṃ maṇi padme, oṃ を S. 50 で誤って説明している)、またサンスクリット文献の注目すべき目録を与えた。その筆頭に "tres celeberrimi libri"〔三つの最も名高い書物〕として Mâgha, Bhâgavada, Yudhishtira(sic! S. 65)が立つ。最後のもの、すなわち Mahābhārata については、別の箇所(S. 71)で Yudhishtiravijayaḥ とも記す(Syst. Br. S. 71 参照)。写本を手にしていた Bhâgavadam(S. 70)からは、第10 Skandha 冒頭の数詩節を原文と翻訳で伝えている。ほかにも彼はサンスクリットおよび Malabar の混合語について言語見本を与えている。サンスクリットの知識なしに書かれた旅行者たちの報告については、自らの見解と一致しない場合、きわめて憤慨して評した。文法書ではすべての品詞が簡潔に扱われ、曲用と活用のパラダイムに続いて統語論等が置かれる。連声規則は名詞と動詞の間に置かれている。後に Sir William Jones の有名な言明の後、彼は比較言語学的な著作も書き、それらは Adelung に記載されている。すなわち "Dissertatio de antiquitate et affinitate linguarum Zendicae, Samscritanicae et Germanicae"(Padovae 1798)と "Dissertatio de latini sermonis origine et cum orientalibus connexione"(Romae 1802)である。しかし彼の最も重要な著作は、

¹⁾ Adelung は、出生名 J. Ph. Wesdin なるオーストリアのカルメル会士 Paulinus a S. B. についての E. Th. Hohler の論考(Neues Archiv für Geschichte 等, Wien 1829)に言及している。Rémusat も彼について書いている。補遺参照。

それに先立って刊行された "Systema Brahmanicum Liturgicum mythologicum civile Ex monumentis indicis Musei Borgiani Velitris Dissertationibus Historico-criticis Illustravit Fr. Paullinus a S. Bartholomaeo, Carmelita Discalceatus Malabariae Missionarius Academiae Volscorum Veliternae Socius"(Romae 1792)である。Paulinus は、それまで宣教師や旅行者が報告するのを常としていた同じ主題の叙述を、ヨーロッパにおいて初めて特定の文献作品、すなわち Amarasiṃha の辞書に基づけたのであり、そのことを彼は大いに誇りとした(Sidhar. S. 53以下, 62)。彼は Sidhar. S. 48 で、Angamali の Krshna と Kunhen Ashan という二人のバラモンが、彼とともに Amarasiṃha その他のバラモン文献を読んだと報告している。この辞書を彼は三本所持しており、そのうち一本は Hanxleden 由来のものであった(Sidhar. S. 13)。そして自らの筆記の助けを得てこれを理解しえた。Systema Brahmanicum において、彼は神々やカースト等の叙述を Amarasiṃha の項目から出発させた。彼はその Sectio I de Coelo を三写本に基づき、翌年に刊行さえしている(Romae 1798)。そのほか彼はしばしば他の三著作に依拠し、それらを S. 169 でまとめている。すなわち Bhâgavadam, Yudhishtira, Sambhavam であり、最後のものは彼の記述によればサンスクリットから Malabar 語に訳された Purāṇa 風の作品である(Syst. Br. S. 61)。彼の体系的叙述は Liturgia, Mythologia, Cultus Civilis の三主要部に分かれる。第一部では若干の供犠、そのうち Pidruyagnam と Liṅgam の崇拝¹⁾、四つの āśrama を扱うが、さらに Sambhavam に従って唯一最高の神 Parabrahma と神々の系譜をも扱う。最も大部なのは神話であり、彼はこれを S. 185 でほぼ完全なものと称している。Brahma, Vishnu, Shiva、それらに属する女神たち、および Trimūrti の後に、彼は古風な流儀で "An Brahmanica religio a Scythis descendat"〔バラモンの宗教はスキタイに由来するか〕という問いに答え、これを否定する。次いで Shrirâma, Krshna, Budha、Vishnu の第十の受肉 Calighî(Kalki)、Gaenavadi, Yama, Indra, Kâmadéva, Subrahmaṇya、動物崇拝が続く。彼はいたるところにギリシア人とローマ人の報告、および先行者、とりわけ Sonnerat の報告を引き入れる。いたるところで彼は解釈を試みる。神話全体の根底にあるのは唯一神、日月星辰、および元素の崇拝であるとする(S. 113)。Brahma は大地であると同時に éther でもあり(S. 112)、Vishnu は水(S. 84)、Shiva は火(S. 85)であるという。Budha においては彼のもとで Buddha と惑星 Budha が混同されている。彼の理論の確証となるのは、古い王たちが一部は太陽王朝に、一部は月王朝に属することである(S. 213)。第三主要部では主としてカーストを、それに関連してバラモンの諸宗派、インドの軍隊を扱う。第3・第4カーストをも彼は nobilis と称する。第三カーストに続いて貨幣についての節があり、これは Museum Borgianum の貨幣に触発されたものである。文字の年代については Strabo と Plinius の箇所を引いている(S. 255)。Slogam という語を彼は "breves sententiae"〔短い格言〕の意味で用いる(S. 259)。全叙述は32葉の図版によって示され、その原本を彼は Museum Borgianum に見出した。このような百科全書的で、多くの点で演繹的なインド事象の叙述は、長らく再び現れなかった。というのも文献学的取扱いは帰納的に始まったからである。再び総括を行ったのは v. Bohlen と Lassen の著作に至ってのことである。とりわけ学習の初心者のためには、新しい Systema Brahmanicum があれば大いに適切であろう。Paulinus は前史の

¹⁾ これを彼は "religio pravissima"〔最も邪悪な宗教〕と呼んでいるが、しかしインド人がヨーロッパ人より堕落しているとは考えなかった(Sidhar. S. 62)。

末尾に位置する。彼はすでに Calcuttenses Angli(Wilkins)および Asiatick Researches の第一巻に言及している。この連関は、Riga 1797年に刊行された Fick と Joh. Friedr. Kleuker の翻訳事業にも現れている。最初の三巻は Fick によるドイツ語訳で「Sir William Jones および1784年に Calcutta に設立された学会の他の会員によるアジアの歴史・古代・技芸・学問・文学についての論考」を収め、第四巻は特別の表題のもとに「バラモン教の宗教体系を連関において叙述し、その根本概念から説明したもの。またインドのさまざまな身分について。とりわけ Fr. Paullinus a S. Bartholomaeo の Systema Brahmanicum 等を顧慮して」を与える。Kleuker はその第4巻に Sidharubam からの抄録も収めたが、そこには誤った転写によって多くの誤りが入り込んでおり、それは Paulinus の責に帰すべきものではない。¹⁾

Paulinus を批判することほど容易なことはない。彼はサンスクリットをある程度までしか理解せず、また今日通用する厳密さで一貫して記述してはいない。母音的 ṛ の扱いは異議を招く(Sidhar. S. 15, 78)。Visarga を彼は "signum correptionis"〔短縮の記号〕(S. 90)および "signum interruptionis"〔中断の記号〕(S. 125)とみなした。それにもかかわらず Kleuker が正当に述べたように、Paulinus の文法書からはサンスクリット語を、「これまで(1797年まで)ヨーロッパ人によってそれについて論じられ、時には作り話までされてきた」一切のものからよりも、よく知り、よく判断することを学べるのである(IV 271)。Paulinus の文法書は Heeren にも Frank にも言及されている。Frank はその全体の性格において Paulinus を想起させる。Paulinus をなお本来の文献学者に数えることができないとしても、彼はその先行者の誰よりも文献学者に近づいている。不完全な文献学者には、彼以後の時代にもなお十分しばしば出会うのである。

しかしながら宣教師と旅行者の報告を軽んじてはならない。特定の要点に向けられたそれらの報告は、インドへの気運を作り出し、インドについてのある程度の知識を広め、それによって文献学的作業が刺激され、より広い層においても理解を見出しうるようになったのである。

¹⁾ 私は古い時代からの Kleuker のある予言をここに掲げずにはいられない。「ヨーロッパの異教改宗者も、東インド会社も、諸国を征服する専制者も、この国民を決して高めはしないであろう。前者の努力は、たとえ誠実に意図されたものであっても、海の一滴のごとくに消え去る。第二・第三の者たちが全く別の目的をもつことは周知のとおりである。彼らとともには全く別種の変化が起こらねばならず、そのために摂理は遅かれ早かれ彼らに必要な動機を与えるであろう」(IV 199)。

【原書 p. 22(承前)】

§第 II 章 CH. WILKINS、W. JONES、Calcutta アジア協会の創立

サンスクリット文献学は勃興しつつあり、その前触れは18世紀末に向けていよいよ多く、また重要となった。実り豊かな刺激は、イギリス人が確固たる足場を築いていた Bengal から発した。彼らは Calcutta の Asiatick Society において共同の作業のために結集した。新しい学問を創始した著作をもつ三人のイギリス人がいる。すなわち Charles(後の Sir Charles)Wilkins、

Sir William Jones、Henry Thomas Colebrooke である。A. Barth は Bühler の『インド・アーリヤ文献学・古代学綱要』の書評(Journal des Savants, 1900年2月号)の冒頭で、Wilkins を "le premier Européen peut-être qui ait vraiment su le sanscrit"〔真にサンスクリットを解した恐らく最初のヨーロッパ人〕と呼んでいる。¹⁾ 1750年に生まれ1833年に没した彼は、Colebrooke と同じく "as a writer in the East India Company's Civil Service" としてインドに赴いたが、世紀末に健康上の理由でイングランドへ帰らねばならなかった。帰国後、彼は India House Library の最初の Librarian となった(Centenary Review S. 76)。Benfey『言語学史』S. 345 に列挙されているその著作のうち、最もよく知られているのは Bhagavadgītā の翻訳 "The Bhāgvāt-Gēetā or dialogues of Krēēshnā and Ārjōōn"(London 1785)である。London はヨーロッパにおけるサンスクリットからの翻訳の最初の印刷地である。Mahābhārata からのいくつかの小篇(amṛtamanthana、Duṣyanta と Śakuntalā)——これらはその後も繰り返し学術文献に現れる——のほか、彼は Hitopadeśa の最初の翻訳 "The Hēētōpādēs of Vēēshnōō-Sārmā"(Bath および London 1787、Gildem. Bibl. Sanscr. Nr. 360)をも刊行し、さらに後に Frank, Bopp, Schlegel, Rückert らが用いた文法書と、サンスクリット語根の一覧を出した。

Sir William Jones は1746年9月28日に London に生まれ、1794年4月27日に没した。1783年に "a Puisne Judge of the Supreme Court at Fort William in Bengal" としてインドに来た。この才気ある多才な人物は Calcutta の Asiatick Society の創立者であり、生涯その President を務めた。1784年1月15日の創立総会で議長を務めたのは、Fort William 最高法院の Chief Justice たる Sir Robert Chambers であり、その有名なサンスクリット写本コレクションは現在 Berlin にある。Asiatick Society においてサンスクリット研究は最初の中心を見出した。それはアカデミーのように文献学的分野と自然科学的分野の双方を包括していた。"of Bengal" という付加を得たのは後のことである。Jones は戯曲 Śakuntalā の最初の訳者であった。すなわち "Sacontala²⁾ or the Fatal Ring, an Indian Drama by Calidas"(Calcutta 1789)であり、また Gītagovinda の訳者でもある。サンスクリット文献学に功績のあったイギリス人たちは、ごく一部が本職の教授であったにすぎず、むしろ大部分は裁判官、行政官、将校、医師、宣教師であって、余暇にこれらの研究に従事したのである。³⁾ しかし Fort William の上級裁判官という彼の地位にふさわしく、Jones は Manu の法典をも英訳した。すなわち "Institutes of Hindu Law: or, the Ordinances of Menu, according to the gloss of Cullúca"(Calcutta 1796)である。なお G. Bühler も Sacred Books of the East における Mānava Dharma Śāstra の翻訳にあたって

¹⁾ これと符合するのが、若き Colebrooke の1788年7月28日付書簡における言葉であり、その伝記 S. 28 に伝えられている。"I have never yet seen any book which can be depended on for information concerning the real opinions of the Hindus, except Wilkins' 'Bhagvat-Geeta'. That gentleman was Sanscrit-mad, and has more materials and more general knowledge respecting the Hindus than any other foreigner ever acquired since the days of Pythagoras"〔ヒンドゥーの真の見解についての情報として信頼しうる書物を、Wilkins の『Bhagvat-Geeta』を除いてはいまだ見たことがない。かの人物はサンスクリットに憑かれており、Pythagoras の時代以来いかなる外国人が得たよりも多くの資料とヒンドゥーについての一般的知識をもっている〕。同様に Jones も Wilkins 宛の書簡で述べており、それは Hall が Journal der AOS に伝えている。Proceedings, October 1870, S. LXXXVIII 参照。"You are the first European that ever understood Sanscrit, and will, possibly, be the last"(sic! 1787年10月6日)。同じく Rennell も Memoir 1788年版 S. XX で Wilkins について "This gentleman has the merit of being the first European who acquired the knowledge of the Sanscrit language" と述べている。

²⁾ o で綴られたのは、cunt が英語では猥褻な意味をもつためである。Liebich, Lit. Centralbl. 1916, Sp. 794 参照。

³⁾ Jones および Mohl の所見については E. Thomas, Prinsep's Essays I, S. 5 以下参照。

Jones の翻訳を基礎に据えている。サンスクリット文献はまず翻訳を通じて知られるようになったのであり、そこには Pandit たちの助力があった。もっともサンスクリット諸作品の写本は、早くから私的・公的な図書館に蒐集されてはいた。Jones は写本の最初の蒐集者の一人であるのみならず(Gildem. Bibl. Sanscr. 参照)、サンスクリット活字でサンスクリット原典を刊行した最初のヨーロッパ人でもある。すなわち Ṛtusaṃhāra であり、"The seasons a descriptive poem by Cálidás in the original Sanskrit"(Calcutta 1792、Gildem. 251)である。それゆえ Th. Goldstücker は Kumārila の Jaiminīya Nyāya Mālā Vistara の校訂本序文において、サンスクリット文献学の新時代を Sir William Jones の Ṛtusaṃhāra 刊本から起算している。Jones から多大の刺激が発したことは疑いない。彼の死後わずか数年で、未亡人が翻訳を含む著作全集を刊行させた。"The Works of Sir William Jones, in six Volumes"(London 1799)である。彼の演説と論考の Kleuker によるドイツ語訳については前掲 S. 21 で述べた。Jones は、自分と同志たちとともに新時代が始まったことを十分自覚していた。彼は論考 "On the Literature of the Hindus" の末尾でこう述べている。"Since Europeans are indebted to the Dutch for almost all they know of Arabick, and to the French for all they know of Chinese, let them now receive from our nation the first accurate knowledge of Sanscrit, and of the valuable works composed in it; but, if they wish to form a correct idea of Indian religion and literature, let them begin with forgetting all that has been written on the subject, by ancients or moderns, before the publication of the Gítá"〔ヨーロッパ人はアラビア語について知るところのほぼすべてをオランダ人に、中国語について知るところのすべてをフランス人に負うているのであるから、いまやサンスクリットとそれによって書かれた貴重な作品についての最初の正確な知識を我が国民から受け取るがよい。ただしインドの宗教と文学について正しい観念を得ようとするならば、Gītā の刊行以前に古代人・近代人によってこの主題について書かれた一切を忘れることから始めるがよい〕。

Asiatick Researches 第I巻の論考 "A Dissertation on the Orthography of Asiatick Words in Roman Letters" において、Jones はラテン文字によるサンスクリット字母の転写法を立てた。それは Wilkins のそれより優れており、今日支配的な転写法はこれに連なるものである。1786年2月2日に行った講演において Jones は、サンスクリットから出発して比較言語学の主要思想を言明した。"more perfect than the Greek, more copious than the Latin, and more exquisitely refined than either; yet bearing to both of them a stronger affinity, both in the roots of verbs, and in the forms of grammar, than could possibly have been produced by accident; so strong, indeed, that no philologer could examine them all three without believing them to have sprung from some common source, which perhaps, no longer exists"〔ギリシア語より完全であり、ラテン語より豊かであり、いずれよりも精妙に洗練されている。しかも動詞語根においても文法形式においても、偶然によって生じたとは到底考えられぬほど強い親近性を両者に対してもつ。その親近性は実に強く、いかなる文献学者もこの三者を検して、恐らくは今は存在せぬ何らかの共通の源泉から生じたと信じずにはいられぬほどである〕。Gothick, Celtick, Persian をも彼は同じ語族に数えたいとする。¹⁾ 同じ講演で彼はヒンドゥーの三つの驚嘆すべき発明を挙げている。"the method of instructing by Apologues; the decimal Scale, adopted now by all civilized nations; and the game

¹⁾ Benfey は『言語学史』において、Jones 以前にサンスクリットとヨーロッパ諸言語との連関を指摘した宣教師たちの名を挙げている。すでに16世紀に Sassetti が、イタリア語がサンスクリットと多くを共有し、数詞その他の語が共通であることを書いている(Benfey S. 222)。1725年には Tranquebar の宣教師 Benjamin Schultze がサンスクリットの数詞をラテン語の数詞と40まで比較した(Benf. S. 336 以下)。語の類似の根拠、すなわちインド人・ギリシア人・ラテン人の親族関係を最初に言明したのは Coeurdoux であるらしい(Benf. 341)。Paulinus a S. Bartholomaeo の比較的著作——サンスクリットと Zend、サンスクリットとラテン語、サンスクリットとゲルマン語に関するもの——は、上述の Jones の言明の後に初めて現れた(Adelung, Bibl. Sanscr. S. 62, 72, 76、および前掲 S. 20 参照)。

of Chess."〔寓話による教授法、今やあらゆる文明国民が採用する十進法、そして将棋の遊戯〕。最後のものについては彼は特別の論考を書いている(As. Res. II)。彼は比較神話学者としても登場した。As. Res. 第一巻には彼の長い神話学的論考 "On the Gods of Greece, Italy, and India, written 1784" が収められている。彼は Janus を Gaṇeśa と、Saturn を Manu と、Lakṣmī を Ceres と、Jupiter を Indra と、しかしまた Viṣṇu, Śiva, Brahmā とも、Jupiter Marinus(Neptunus)を Śiva および Varuṇa と、Pārvatī を Juno と、Minerva を Durgā および Sarasvatī と、Rāma を Dionysos と、Kṛṣṇa を Apollo と、Phoebus を Sūrya と、Agni を Vulcanus と、Hecate を Kālī と比較した。Jones 自身はこれらの比較を "superficial" と呼んでいる。彼はインド文化とエジプト文化との連関を信じていた。Osiris と Isis のうちに彼はサンスクリットの Īśvara と Īśī を見た。Jones は "Sanscrit Books" と "conversations with Pandits" を基礎として、自らと他者のために全体の展望を得ようとした(Works I 281)。先行者よりも大きな規模で彼はサンスクリット文献そのものを閲読した。しかし彼にはより深く沈潜する時間が欠けていた。世界時代、avatāra、王の系譜を論じた彼の論考 "On the Chronology of the Hindus" は、その実質的部分において、彼の時代に出た書 "Purāṇārthaprakāśa, or The Purana's Explained"(Rādhākānta Śarman 著)に依拠している(Works I 288)。もう一人のバラモンの典拠は、それほど荒唐無稽なものを含まない論考 "On the Literature of the Hindus, from the Sanscrit, Communicated by Goverdhan Caul, translated, with a short Commentary, by the President"(Works I 349 以下)に現れる。このバラモンは "eighteen Vidyā's, or parts of true Knowledge" を挙げるが、これはすでに古い著作にもしばしばこの数で言及されている。すなわち四 Veda、四 Upaveda(Āyur-, Gāndharva-, Dhanur-, Sthāpatya-veda)、六 Vedāṅga、四 Upāṅga(Purāṇa, Nyāya, Mīmāṃsā, Dharmaśāstra)である。Jones はその Commentary において、これらについて、また Veda についてもいくらか詳しい説明を与え、その際 Colonel Polier が "a complete copy of the four Vedas in eleven large Volumes" を所有していると述べている。Veda, Upaveda, Vedāṅga, Purāṇa, Dharma, Darśana が六大 Śāstra である。これらを Śūdra は学んではならないが、"profane literature" は彼らに開かれているという。医学は Vaidya の事柄であり、彼らについては "they have often more learning, with far less pride, than any of the Brāhmans: they are usually Poets, Grammarians, Rhetoricians, Moralists" と述べている。これが機縁となって Rājanīti, Nītiśāstra, Nāṭaka 等にも言及している。イギリス人学者たちの好んだ主題は当初からインド天文学であった。Jones も "On the antiquity of the Indian Zodiac"(As. Res. II)を書いている。言語の親族関係から彼は、「古きヒンドゥー種族の」他の諸民族にも見られるインドの黄道区分が "by the first progenitors of that race before their dispersion"〔その種族の最初の祖先たちによって、その分散以前に〕案出されたものであろうと推測するに至った。President として行った講演では、彼は順次 On the Arabs, Tartars, Persians, Chinese を論じた。これらはインド人が接触した外国の諸民族である。サンスクリットのほかに彼はアラビア語、とりわけペルシア語に通じていた。1793年2月28日の講演では、ギリシア人の Palibothra がインド人の Pāṭaliputra と、ギリシア人の Sandracottus がインド人の Candragupta と同一であるという発見を公表している。"In a classical Sanscrit book, near 2000 years old" において彼は、ギリシア人が Erannoboas に変形した Hiraṇyabāhu が Soṇa 河の別名にすぎないことを見出したのである

(As. Res. IV、1807年復刻版 S. XXVI)。死が彼を妨げ、これを論考として展開することはできなかった。彼の視野の広さは、彼が "Desiderata" と名づけた学問的課題の一覧に現れている。それは Asiatic Society の President としての後継者 Sir John Shore が、彼の功績を短く顕彰したうえで伝えたものである(As. Res. IV 181 = Works I 1 以下)。インドに関するものは次のとおりである。"I. The Ancient Geography of India, \&c. from the Purānas. II. A Botanical Description of Indian Plants, from the Cóshas, \&c. III. A Grammar of the Sanscrit Language, from Pánini \&c. IV. A Dictionary of the Sanscrit Language, from thirty-two original Vocabularies and Niructi. V. On the Ancient Music of the Indians. VI. On the Medical Substances of India, and the Indian Art of Medicine. VII. On the Philosophy of the Ancient Indians. VIII. A Translation of the Véda. IX. On Ancient Indian Geometry, Astronomy, and Algebra. X. A Translation of the Purānas. XI. Translations of the Mahábhárat (and) Rámáyan. XII. On the Indian Theatre, \&c. \&c. XIII. On the Indian Constellations, with their Mythology, from the Purānas. XIV. The History of India before the Mohammedan Conquest. From the Sanscrit-Cashmír Histories."〔I. Purāṇa 等によるインド古代地理。II. Kośa 等によるインド植物誌。III. Pāṇini 等によるサンスクリット文法。IV. 32の原辞書と Nirukta によるサンスクリット辞典。V. インド人の古代音楽について。VI. インドの薬物とインドの医術について。VII. 古代インド人の哲学について。VIII. Veda の翻訳。IX. 古代インドの幾何学・天文学・代数学について。X. Purāṇa の翻訳。XI. Mahābhārata および Rāmāyaṇa の翻訳。XII. インド演劇等について。XIII. Purāṇa によるインドの星座とその神話について。XIV. ムハンマド教徒の征服以前のインド史。サンスクリット・Kaschmir 史書による〕。これらの要請は当時の関心を映している。そのうちには翻訳はあるが、原典校訂は含まれていない。それは主として Pandit たちに委ねられるべきものと考えられたのであろう。Asiatick Researches においては Jones の提示した課題が着手された。Wilford の Purāṇa からの報告、Samuel Davis と John Bentley の天文学的論考、Jones 自身と Paterson の音楽論考、そしてとりわけ Colebrooke と Wilson の論考によってである。Benfey が『言語学史』S. 383 で Colebrooke を最初のサンスクリット文献学者と呼んだのは正当であり、また Böhtlingk が Pāṇini 文法の翻訳(Leipzig 1887)を「Henry Thomas Colebrooke の霊に」、「インドの言語と文学の深遠にして多面的な知者、サンスクリット文献学の創建者」に献じたのも正当である。

§第 III 章 H. T. COLEBROOKE

Colebrooke の有名な諸論考は Miscellaneous Essays 2巻(London 1837)に集められており、第2版は3巻で、その第1巻に "The Life of H. T. Colebrooke" を含む(London 1873)。Henry Thomas Colebrooke は1765年7月15日に London に生まれた。早くも1782年にインドへ渡り、Bengal の Civil Service における writership をもって現地での経歴を始めた。彼は Tirhoot, Purneah, Mirzapore で、初めは行政官として、次いで裁判官として活動した。Mirzapore から1798年に Lord Wellesley の使節として Berar の首都 Nagpur に赴き、Rājā Raghojee を同盟に引き入れようとした。1801年には Calcutta の Superior Court of Appeal の一員となり、また Fort William College のサンスクリット教授となった。1807年には Lord Minto のもとで Council の一員となった。1814年末にイングランドへ帰り、数年の病臥ののち1837年に没した。Colebrooke の論考は初め大部分が、Calcutta の Asiatic Society が刊行する Asiatick Researches に現れた。いずれも提供される内容の信頼性と、簡潔明晰な叙述によって際立っている。それらは宗教および

ヒンドゥーの最も多様な学問に関わり、サンスクリット文献全体の大部分を記述し、その内容について教え、典拠を挙げるものであって、我々の知識が深まり視野が拡がった今日においても、百年を経てなお読むに値する。第一論考は宣教師や旅行者のもとで繰り返し現れた主題に関わる。すなわち "On the Duties of a Faithful Hindu Widow" であり、Asiatick Researches 第IV巻(1795)に発表された。Colebrooke がここで冒頭に述べていることは、この全系列の序文とも、あるいは彼の綱領ともみなしうる。誤謬は除去され、事実が確定されねばならない。"and this object will no way be more readily attained, than by the communication of detached essays on each topic, as it may present itself to the Orientalist in the progress of his researches"〔この目的は、東洋学者がその研究の進展において各主題に出会うに応じて、個別の論考を発表すること以上に容易に達成される道はない〕。次いで Colebrooke は寡婦焚死に関わる文言を集成して掲げるが、出典の詳細な指示はない。同じ主題と Colebrooke の典拠については Max Müller がその論考(XVI)「比較神話学」(Essays ドイツ語版第II巻, Leipzig 1869, S. 30 以下および S. 317)で論じている。すでに Colebrooke の時代には寡婦焚死はごく稀にしか行われなかったようである。この規定を与えるとされる Veda の箇所、Ṛgveda X 18, 7 を彼はまだ正しい形で知らなかった。本来の yónim ágre が yónim agnéḥ に変えられていたことを初めて指摘したのは Wilson である(Life of H. T. Colebrooke S. 65 参照)。同種の内容のより大きな仕事が三つの論考 "On the Religious Ceremonies of the Hindus, and of the Brāhmans especially" であり、初出は Asiatic Researches 第V巻および第VII巻(Calcutta 1798, 1801)である。Colebrooke は Gṛhyasūtra をまだ詳しくは知らず、まずは当時用いられていた後代の著作、たとえば Halāyudha の Brāhmaṇasarvasva その他から汲んでいた。しかしそれらもまたより古い文献に依拠していたのである。かくしてここには Puruṣasūkta(Ṛgveda X 90)の最初の翻訳が置かれている。

1801年からは論考 "On the Sanscrit and Prācṛit Languages" も出ており、As. Researches 第VII巻に収められ、これをもって論集の第二部が始まる。インドの諸言語の区分においても Colebrooke は土着の権威に依拠した。それらは Sanscṛta, Prācṛta, Paiśāchī, Māgadhī、あるいは Sanscṛta, Prācṛta, Apabhraṃśa, Miśra を区別する。それに応じてこの論考の主要内容をなすのは、サンスクリットの文法文献の概観と、Prākṛt のもとにまとめられるインドの十の主要方言または言語の列挙であり、そのうちには Tāmel その他のドラヴィダ諸言語も含まれる。Māgadhī と Apabhraṃśa については、列挙された Prākṛt と同様に Bhāshā すなわち "speech" と呼ばれるとのみ述べられている。この語はインドの近代土着方言のいずれをも、especially such as are corrupted from the Sanscṛt〔とりわけサンスクリットから崩れたもの〕を指す。民衆が話すこれらの方言はきわめて多数であるという。Colebrooke はこれら民衆方言の見本をも与えようと考え、そのための資料を集めていた。この計画は我々の時代に至って G. Grierson がその壮大な Linguistic Survey of India において実行したものである。Colebrooke はここでサンスクリットという語の語源的意味を "duly formed or regularly inflected"〔正しく形成された、規則的に屈折した〕としているが、これは確かに正しい。saṃskāra は Nirukta において語の文法的に正しい形成を指すからである。サンスクリットと親族関係にある言語のうちに彼はケルト語をも数える。というのもサンスクリットの yuvan とラテン語 juvenis、アングロサクソン語 yeong のみならず、キムリ語の "je-

vangk" をも比較しているからである。Colebrooke はすでに膨大な文法文献の全体を知っていた。Pāṇini, Mahābhāṣya, Kāśikā, 諸 Kaumudī, Dhātupāṭha, Gaṇapāṭha, Uṇādi、さらに Vopadeva 等である。彼は Pāṇini の体系と sūtra の文体について的確な記述を与えているが、後の Benfey が『言語学史』で行ったほど詳細ではない。文法に続けて彼は土着の辞書学の概観を付し、個々の Kośa を簡潔に特徴づけ、"Amera cósha" から始めている。"Grammar of the Sanscrit Language"(Calcutta 1805)の序文と、"Amera cósha" 校訂本(Calcutta 1808)の序文——いずれも Essays に収められている——にも文献の記載が繰り返されている。Colebrooke はその間に Fort William College の Professor of the Sanscṛt Language に任じられていた。とりわけ Kāśikā と Siddhāntakaumudī に依拠したきわめて詳細な二つ折判の文法書が、サンスクリットの初学には適さないことを彼自身も認識していた。彼はこれを未完のまま残し、すでに第1巻の序文で Forster と Carey の文法書を参照するよう指示している。"Amera-cósha" を刊行したのは、それが "Sanscrit dictionary" の基礎となるべきものだったからである。

サンスクリットの習得には読本が必要である。Fort William College のためのそれとなるべきは、Gildemeister Bibl. Skr. Nr. 350 に記載された書物であり、Colebrooke が発意し Carey が刊行した(Serampore 1804)。それは Hitopadeśa、Apyayyamantrin の Daśakumārakathāsāra、および Bhartṛhari の箴言を含む。Colebrooke は Hitopadeśa への序文をもってこれに関与しており、その序文もまた Essays に収められている。この序文で Colebrooke はすでに当時、Pañcatantra の Pehlevi 語・アラビア語・ペルシア語への翻訳の概観を与え、インドの原典との関係をいくつかの点で規定しようと試みている。末尾の節で Colebrooke はこの書物を "first attempt to employ the press in multiplying copies of Sanscṛt books with the Dévanagarí character"〔Devanāgarī 文字によるサンスクリット書籍の複製に印刷術を用いた最初の試み〕と称している。また同所で、全巻が複数の Pandit によって入念に校閲されたと述べている。

Colebrooke が体系的な仕方で文献に向かったのは、その大論考 "On the Vedas, or Sacred Writings of the Hindus"(As. Res. VIII, Calc. 1805)においてである。1874年になおも L. Poley によるドイツ語訳が Leipzig の Teubner 社から出ている。この論考の冒頭の言葉は、それまで Veda について確実なことがいかに僅かしか知られていなかったかを示す。Colebrooke もまた Veda の完全な評価にはまだ達していなかった。彼は末尾で、Veda は完訳するには浩瀚にすぎ、その内容は読者の労にほとんど報いず、まして訳者の労には報いないであろうと述べているからである。古い方言はきわめて難解かつ晦渋であるという。Colebrooke が Ṛgveda の本文により深い研究を捧げなかったとはいえ、彼は明らかに写本に依拠して(Biogr. S. 141 参照)、神々への古い讃歌のこの集成の最初の素描を描いたのであり、それは当時、この不完全さにおいてなお、他のいかなるヨーロッパ人にも与ええなかったものである。彼はまた Yajur-, Sāma-, Atharva-veda をも特徴づけ、ṛṣi、Veda 諸学派、諸注釈、Veda の権威について教えている。Veda 文献の諸層の概観のうちに、我々は初めて Aitareya-, Śāṅkhāyana-, Śatapatha-brāhmaṇa の名を読む。個々の箇所の翻訳がこの文献の内容を

具体的に示している。最も詳しく扱われているのは Upaniṣad であり、彼はすでにかなりの数を知っていた。Nirukta の意義を彼は強調するが、Sūtra 文献には通りすがりに触れるにとどまる。すでにここに彼のインド天文学への特別の関心が示されており、末尾近くで Vedāṅga Jyotiṣa から日月の年周行についての一節を扱っている。真の誤りはめったに見出されず、たとえば Sāmaveda の文献についての記述などがそれであるが、そこでも彼自身が自らの不確かさを認めている。

Veda に通じたバラモンのほかに、インドには古くから、Veda の権威を認めない「宗派」も存在した。それゆえ Colebrooke の次の論考が、今日のインドにおけるこの種の最も重要な宗派である Jaina に充てられているのは偶然ではあるまい。表題は "Observations on the Sect of Jains"(As. Res. IX, Calc. 1807)である。この論考は Major Mackenzie の論説に関連して成立し、Dr. F. Buchanan が Mysore 旅行中につけていた日誌の記録を利用している。三者はいずれも主として "Jaina priests" から情報を得ていた。しかし Colebrooke は二つの Jaina 文献の写本をも用いており、これらは長く Jaina の聖者伝学の主要典拠であり続けた。すなわち Jaina のより古い文献に属する(Bhadrabāhu の)Kalpasūtra と、Jaina 僧 Hemacandra の辞書 Abhidhānacintāmaṇi である。前者は後に Stevenson(London 1848)および Jacobi(Leipzig 1879)によって、後者は Böhtlingk と Rieu(Petersburg 1847)によって刊行された。Colebrooke は、Kalpasūtra が Jaina の他の "religious books" と同様に "Māgadhī" と呼ばれる Prākṛt で書かれていることを指摘し、注においてこれを "Pāli of Ceylon" と比較している。Jaina の最古の文献については Colebrooke はまだ知識をもたなかった。彼は一部はインドについてのギリシアの報告をも援用しつつ、Jaina と Bauddha のバラモンに対する関係を確定しようとしている。バラモンとその Veda が Jaina や Bauddha より古いということは、今日我々に見えるほど当初から自明の事実であったわけではない。

同じ年に Colebrooke の最初の天文学的論考が現れた。天文学と数学において Colebrooke はとりわけ深く事柄に立ち入った。彼はアラビア人・ギリシア人・イタリア人におけるこれらの学問の歴史にも通じていた。インド天文学については当時すでにさまざまな側から書かれていた(Davis, Bentley, Jones)。しかし G. Thibaut は Colebrooke を「この分野において、天文学と数学の確かな知識に堅実なサンスクリット学識を兼ね備えた最初の研究者」と呼んでいる(Astronomie, im Grundriss, S. 2)。論考の表題は "On the Indian and Arabian Divisions of the Zodiac"(As. Res. IX, Calc. 1807)である。彼はここでは Sir William Jones という先行者をもつが(前掲 S. 25 参照)、これに対しては批判的立場をとる。"whether the Indian and Arabian divisions of the zodiac had a common origin"〔インドとアラビアの黄道区分が共通の起源をもつか〕という問いを Jones は否定したが、Colebrooke はまず慎重に、自らの異なる見解を "that it must be the Arabs who adopted (with slight variations) a division of the zodiac familiar to the Hindus"〔ヒンドゥーに親しまれていた黄道区分を(僅かな変更を加えて)採用したのはアラビア人の方に違いない〕と定式化した。Colebrooke は各 nakṣatra の主星を我々の黄道帯に即して定め、インド人の28 nakṣatra をアラビア人の月宿と比較している(Thibaut S. 36 がこれを承認)。インド天文学の起源と、そこに働いた諸影響についての問いは、

サンスクリット文献学の最初期の問題に属し、また最も困難な問題にも属するのであって、Thibaut の論述をもってしても今日なお最終的に解決されてはいない。天文学は、とりわけ初期においては土着学者の助力なしには済まされない分野であった。G. Thibaut でさえ Pañcasiddhāntikā の刊行(Benares 1889)を、表題にも名を掲げた Mahāmahopādhyāya Sudhākara Dvivedī とともに行っている。ところが Colebrooke は論考の冒頭で、彼が問うた土着の天文学者たちが、名を知っている星宿すべてを天空において指し示すことができなかったと報告している。それゆえ彼は主星の位置が示されている文献に遡らねばならなかった。主要典拠として彼は Sūryasiddhānta, Śiromaṇi, Grahalāghava を挙げる。これらが当時の Jyautiṣa の主要権威であった。ここでも我々は、当時の Pandit たちの知識と立場がヨーロッパ学問の出発点をなし、Colebrooke がまずこの知識をヨーロッパの学者たちにもたらしたことを観察するのである。Bhāskara の Siddhāntaśiromaṇi は西暦1151年、Keśava の子 Gaṇeśa の Grahalāghava は1521年の成立である。Sūryasiddhānta は、より古い形では6世紀の Varāhamihira の Pañcasiddhāntikā にすでに存したが、本来の形ではなく近代化された形で伝わっている。Thibaut S. 31 参照。

Colebrooke が最初の論考ですでに、今日 Jacobi が Veda の年代決定に用いた諸点に触れていたとすれば、9年後に出た論考 "On the notion of the Hindu Astronomers concerning the Precession of the Equinoxes and Motions of the Planets"(As. Res. XII, Calc. 1816)ではなおさらである。彼はその間にインド天文学のより古い権威、Āryabhaṭa, Varāhamihira, Brahmagupta をより詳しく知り、その説が Varāhamihira の Pañcasiddhāntikā に叙述されている五 Siddhānta、とりわけ Brahmagupta の Brahmasphuṭasiddhānta の基礎をなす Brahmasiddhānta に特別の注意を向けた。Colebrooke は "that, on the subject of the precession of the equinoxes, the Hindus had a theory, which, though erroneous, was their own"〔分点歳差の主題については、ヒンドゥーは誤ってはいるが彼ら自身の理論をもっていた〕という結論に達する(Essays II 385)。「天文学者よりむしろ神話学者にふさわしい」Sūryasiddhānta の世界像においては、大地は宇宙の中心に不動に静止している(Essays II 398)。しかし彼はまた、星宿の網 bhapañjaraḥ は固定されており、大地がその軸を中心に回転することによって天体の日々の出没が生じるという Āryabhaṭa の説にも言及している(Essays II 392)。インド天文学におけるギリシアの影響を、彼は Romakasiddhānta という表題と、Varāhamihira における Yavana 天文学者への敬意ある言及から推論した。

この第二の天文学論考の一年後に、Colebrooke の数学上の主著 "Algebra, with Arithmetic and Mensuration, from the Sanscṛit of Brahmegupta and Bháscara"(London 1817)が現れた。ここで訳されているのは Brahmagupta の "Brāhmasiddhānta" からの Gaṇitādhyāya と Kuṭṭakādhyāya、および Bhāskara の Siddhāntaśiromaṇi の章である Bījagaṇita と Līlāvatī である。数学はインド人によってとりわけ天文学のために涵養された。翻訳には序論として "Dissertation on the Algebra of the Hindus" が付され、これも同じく Essays に収められている。ここで彼は、一部は

付録 "Notes and Illustrations" において、再び Āryabhaṭa, Brahmagupta, Varāhamihira, Bhāskara、その年代・著作・注釈者に立ち返っている。Pañcasiddhāntikā がなお現存していることを彼は知らなかった(1865年の Kern も同様であった)。彼は、インドの天文学と数学が Alexandria を経てか Bactria を経てか、ヘジラ第2世紀にアラビア人のもとに達したこと、しかもギリシアのそれよりも早くであったことを論証している(Essays II 515)。Tājaka と呼ばれる著作群では逆に、後にインドの占星術がアラビアの影響を受けた。インド天文学におけるギリシアの影響を、彼はさらにギリシア語からの借用語によって、また黄道十二宮によって論証する。インド人はこれを黄道の27ないし28 nakṣatra への区分と並んで採用したのである。後者を彼はインド起源のものとみなし、"suggested evidently by the moon's period in days"〔明らかに月の日数周期から示唆されたもの〕とする(Essays II 447)。紀元の問題にも Colebrooke は触れている。彼は "the Śaka or Sambat of Vikramāditya"(紀元前57年に始まる)と "the Śaka era of Śālivāhana"(紀元後78年に始まる)を知っていた。Āryabhaṭa が Yudhiṣṭhira 紀元(Kaliyuga の始まり、紀元前3102年に等しい)で計算するので、彼は Āryabhaṭa がこの二つの新しい紀元の一般的使用以前に生きたと想定した。また彼は、注釈者たちが Śakendrakāla, Śakakāla という表現の説明を与えている、Varāhamihira(Bṛhatsaṃhitā VIII 20 および 21)と Brahmagupta の箇所を最初に指摘した。彼は Varāhamihira においては Vikramāditya 紀元が、Brahmagupta においては Śālivāhana 紀元が理解されるべきだと考え、Vikramāditya 紀元がその治世の「最も記念すべき出来事」すなわち Śaka 撃退から起算されることを自明とみなした(Essays II 475)。Vikramāditya の宮廷の九つの宝玉についての有名な詩句には彼は言及していない。¹⁾ これらの見解は Lassen『インド古代学』II 50 にも、著しく増補された資料を伴いつつ同様に現れるが、はるか後になって H. Kern が Bṛhatsaṃhitā 校訂本(Calcutta 1865)の序文において、Colebrooke の功績を十分に認めつつ詳細な批判を加えた。Jaina についての論考から知られるように(Essay II 198)、Colebrooke は Kaschmir の年代記 Rājataraṅgiṇī の写本をも入手していたが、その歴史的記述についてはここでは言及していない。しかしここでも我々は、彼が土着の学識と連関していたことを見る。すなわち Dr. William Hunter が Ujjayinī の天文学者たちから得た、古代インド天文学者の年代についての記述を議論に持ち込み、検証しうる限りにおいてそれを信頼に足るものと示したのである(Essays II 461)。Kern もまた Hunter を介して伝えられた記述の信頼性を認めている。インド人の代数を Colebrooke は Āryabhaṭa に遡らせる(Essays II 429)。Āryabhaṭa は西暦476年の生まれである(Kern, Bṛhats. S. 57)。インド人もまた Pythagoras の定理を見出していた。Colebrooke は Bhāskara におけるその形に注意を促している(Essays II 439)。後に G. Bürg は、それがすでに Āpastambin 学派の古い Śulvasūtra に含まれていることを示した。

相互に属するものを引き裂かないために、我々は時代を先取りした。Colebrooke が天文学と

¹⁾ この二行詩はすでに J. Bentley の大論考 "On the Hindu Systems of Astronomy and their connection with History in ancient and modern times"(As. Res. VIII 242)に印刷され翻訳されている。A. W. Schlegel, Ind. Bibl. I 306 参照。

数学に深く沈潜する以前、最初の天文学論考の一年後に、彼はインド人の韻律学と詩文学についての最初の概観を与えた。論考 "On Sanscrit and Prakrit Poetry"(As. Res. X, Calc. 1808)である。彼の意図は、韻律が実際に用いられている詩作品からの実例によって示しつつ、作詩法の法則を叙述することにあった。Ṛgveda の Prātiśākhya に含まれる韻律学を彼は知らなかった。彼は Piṅgala の Chandaḥsūtra を、しかもいわゆる "Prācṛt Piṅgala" を含めて基礎に据え、これに Halāyudha の注釈 "Mṛta saṃjīvinī" を、Prākṛt については Piṅgalavṛtti を加えた。韻律学についての他の著作とその注釈をも彼は挙げている。Weber の二論考「インド人の韻律について」(Indische Studien 第8巻, Berlin 1863。その第二論考は Chandaḥsūtra の本文をも与える)に至るまで、Colebrooke の論考はインド韻律学の最も詳細な記述であった。しかしこれに特別の価値を与えているのは、Colebrooke がここでインドの古典詩作品の多くを引用し、いくつかについては内容摘要と詩例の翻訳を付していることである。すなわち Vālmīki の古い Rāmāyaṇa、六大 Mahākāvya、Kālidāsa の Kumārasambhava と Raghuvaṃśa、Śrīharṣa の Naiṣadhīya、Māgha の Śiśupālavadha、Bhāravi の Kirātārjunīya、Kālidāsa の Meghadūta、さらに Nalodaya と Mahābhārata 中の Nalopākhyāna、Trivikrama Bhaṭṭa の Nalacampū、とりわけ技巧的な作品として Kavirāja の Rāghavapāṇḍavīya と Bhaṭṭi の Bhaṭṭikāvya(彼はこれを Bhartṛhari の作とする)、より小さな作品として Amaruśataka, Ghaṭakarpara, Caurapañcāśikā, Bhāminīvilāsa である。Āryā 韻律は彼に Īśvarakṛṣṇa の Sāṅkhyakārikā に言及する機会を与えており、これは後に彼自身と Wilson によって Gauḍapāda の注釈とともに刊行された。ヒンドゥーの演劇を彼は "the most pleasing part of their polite literature, and the best suited to the European taste"〔彼らの雅文学のうち最も心地よく、ヨーロッパの趣味に最も適した部分〕と呼び、Kālidāsa の Śakuntalā を挙げている。哲学的戯曲 Prabodhacandrodaya からは混合韻律の例として一詩節を引く。論考の末尾では Bhavabhūti の戯曲 Mālatīmādhava の内容を示し、次いで第5幕からとりわけ効果的な一場面を原文と訳で示している(Mādhava が魔術師の手から Mālatī を救う場面)。Prākṛt の詩作品としては、戯曲の Prākṛt のほかに Hāla の Sat saï(Saptaśatī)——後に Weber が刊行した——に言及するが、Prākṛt の韻律については Piṅgalavṛtti の実例によってのみ例証している。サンスクリットの Rāma 詩は彼に、Tulasīdāsa の Rāmāyaṇa と Keśavadāsa の Rāmacandrikā というヒンディー語作品を並置する機縁を与えた。散文作品として最も名高いものとしては、周知の三作、すなわち Daṇḍin の Daśakumāracarita、Bāṇa の Kādambarī、Subandhu の Vāsavadattā を挙げ、第三の作品については内容を示している。これらの作品はいずれも当時、1808年には印刷されていなかった。ただし Amaruśataka と Ghaṭakarpara はまさにこの年に刊行された。これらすべての作品の初版は Gildemeister の Bibliothecae Sanscritae Specimen に記載されている。同書 S. 173 には刊行年順に配列された Index librorum in India editorum がある。Colebrooke はインド文献の諸作品を、名を挙げ簡潔に特徴づけつつ、いわば学界に紹介したのである。それらが次第に印刷されて現れたとき、それらは全く新しい発見という印象を与えなかった。学問の殿堂は、あらかじめ場所を割り当てられていたインド文献の諸作品によって、いつしか満たされていったのである。

サンスクリット文献学の発展に対してより間接的な影響しかもたなかったのは、インド法に関わる Colebrooke の仕事である。それらはさしあたりインドにおける法実務のためのものであった。英訳が当時権威をもっていた Dharmaśāstra の諸作品に取って代わり、裁判官を Pandit から独立させるはずであった。この目的にはすでに Jones の Mānavadharmaśāstra 翻訳も資していた。Jones の発意により Jagannātha Tarkapañcānana がある著作を編纂し、それが Colebrooke の英訳で "A Digest of Hindu Law, on Contracts and Successions, with a Commentary by Jagannatha Terkapanchanana" の表題のもと、初め Calcutta 1797—98 に刊行された。Colebrooke 自身はこの著作を "of little utility" とみなしていた。Colebrooke's Biography 74 以下、およびこの分野にとって重要な Th. Goldstücker の論考 "On the deficiencies in the present administration of Hindu Law"(London 1871)参照。他方、Colebrooke の後年の著作 "Two treatises on the Hindu Law of Inheritance"(Calcutta 1870〔ママ、1810 か〕)は、最近に至って Whitley Stokes 編の Hindu Law Books 叢書に収められた。ここで訳されているのは Jīmūtavāhana の Dāyabhāga と、Yājñavalkya の Dharmaśāstra に対する Vijñāneśvara の注釈 Mitākṣarā の相続法の章である。ここでも翻訳が原典校訂に先行した。Mitākṣarā(Calc. 1812)、Kullūka 注付き Mānavadharmaśāstra および Dāyabhāga(Calc. 1813)が法分野における最初の原典刊本でもあったことは、偶然ではあるまい。Gildemeister がその Index(Bibl. Scr. Spec. S. 173 以下)に記載しているとおりである。相続法と並んで、養子(dattaka)の教説が生活の実務上大きな意義をもっていた。それゆえ Dattakamīmāṃsā と Dattakacandrikā が続き、その翻訳は Sutherland による(Calc. 1814、原典は Calc. 1817)。文献学は古い Dharmasūtra から始まったのではない。もっとも Colebrooke は Gautamadharmasūtra を知っていた(Essays II 318)。

碑文の意義もまた Colebrooke は早くから認識していた。すでに1801年に彼は As. Res. VII において、"on the Pillar at Delhí, called the Lát of Fírúz Sháh" の碑文の一つの本文と翻訳を発表しており、Essays II 232 に再録されている。しかし全く綱領的に語っているのは、より長い論考 "On Ancient Monuments, containing Sanscṛt Inscriptions"(As. Res. IX, Calc. 1807、Essays II 238)の冒頭においてである。計画的な発掘と蒐集は当時まだ始まっていなかった。偶然に個々の碑文に注意が向けられたり、掘削や耕作の際に銅板文書が現れたりしたのである。発見物のすべてが Asiatic Society に引き渡されたわけではない。Colebrooke は、重要な文書の原物が正確に筆写・翻訳されないうちにヨーロッパへ運ばれてしまうことを嘆いている。古く、しばしば損傷した文字を筆写し翻訳することは容易ではなかった。彼は自らと共同研究者たちが Pandit に助言を求めたことを繰り返し述べている。そのうち一人を彼は名を挙げて "Servóru Trivédí" と呼んでいる。碑文はイギリスの官吏や将校の特別の関心を惹いた。そうした人物として彼は、その研究熱意はいくら称賛しても足りないという Major Mackenzie(Essays II 267)、Captain Wilford、Wilkins、Dr. Buchanan Hamilton、Major Tod を挙げている。すでに Colebrooke は、インド人に歴史感覚が欠けていることを語っている。"the Hindu's love of fable, and distaste

for sober narrative, have been as unfriendly to the biography of authors, as to the history of princes"〔ヒンドゥーの寓話愛好と冷静な叙述への嫌悪は、著者の伝記に対しても君主の歴史に対しても等しく不利に働いてきた〕(Essays II 239)。彼は碑文から歴史的な収穫を期待してはいたが、当時は11・12世紀ないしそれ以後の碑文しか知らなかったので、君主の王朝が確証され、戦争の出来事や政治の成果が幾時代にもわたって解明されるという期待は抱きえなかった。「しかし諸時代における習俗の状態と特定の教説の優勢とは、年代の確かな著者たちの著作を入念に探究することによって推論しうる。そして異なる、また遠く隔たった時代についての相異なる結果を対比することは、意見の推移の明瞭な輪郭を提供しうる。かくして描かれるのは、国民の統治の歴史というよりはむしろ国民自身の短い歴史であろう。しかしたとえ大きな政治的事件の記憶を蘇らせることができないとしても、我々は少なくとも、この甚だ古く高度に文明化した民族において、遠い時代に技芸・学問・習俗の状態がいかなるものであったかを知り、才気に富みながら迷信に傾きやすいこの国民のうちに、いかなる宗教的・哲学的教説の継起が優勢であったかを知ることをもって満足しうるのである」(Essays II 238)。これらの言葉が1807年に書かれたことを思えば、Colebrooke の確かな、予言的な眼力を賛嘆せざるをえない。碑文の大量の発見、そしてより古い碑文の発見は、後に次第になされたものである。インドの王朝と政治史については、Colebrooke が当時期待した以上のものを碑文はもたらした。伝記 S. 258 に伝えられるある書簡において、彼自身、ヒンドゥーの真の歴史が "for some centuries preceding and following the Musleman conquests in India"〔インドにおけるムスリム征服の前後数世紀について〕再構成されうるとの希望を表明している。当時彼は Bengal と Tirhoot、Benares と Bundelkhund の王朝について資料を集めており、"Rajpoots of Odeypoor and Jodhpoor" についての情報をも期待していた。

Colebrooke の最後の大論考は同時に彼の最も重要な論考でもある。表題は "Essay on the Philosophy of the Hindus" である。その五部は初め、London の Transactions of the Royal Asiatic Society 最初の二巻(1829年以降)に個別に現れた。第一部(Read April 7th, 1827)は Sāṅkhya と Yoga を、第二部は Nyāya と Vaiśeṣika を、第三部は Jaimini の Mīmāṃsā を、第四部は Uttaramīmāṃsā すなわち Vedānta を、第五部は "Indian Sectaries" を扱った。最後のものには、Jaina と Bauddha、Cārvāka と Lokāyatika、Māheśvara と Pāśupata、Pāñcarātra すなわち Bhāgavata について、六つのバラモン体系の著作およびその他のバラモン典拠、すなわち彼らの論敵において見出したところをまとめている。"A good collection of original works by writers of their own persuasion, whether in the Sanscṛt language or in Prācṛit or Pāli, the language of the Jainas and that of the Bauddhas, is not at hand to be consulted"〔Jaina および Bauddha 自身の信奉者による原典の、サンスクリットであれ Prākṛt であれ Pāli であれ、良好な集成は参照しうる手許にない〕(Essays I 380)。それにもかかわらずこの最終部も今日なお価値をもつ。まさに一定の種類の典拠に依拠しているからである。Bauddha の膨大な原典文献は、北方に伝わるものも南方に伝わるものも、今日ではほぼ完全に印刷され、仏教についての多数の著作において利用されている。Jaina のそれも利用可能である。Colebrooke に接続して後に Cārvāka について論じたのは

J. Muir("Verses from the Sarvadarśana-saṃgraha, the Vishṇu Purāṇa and the Rāmāyaṇa, illustrating the Tenets of the Cārvākas or Indian Materialists", JRAS. XIX)と E. B. Cowell("The Chārvāka System of Philosophy"、Sarvadarś. による、JAS of Bengal 1862、また彼の Sarvadarś. 完訳参照)である。Pāñcarātra は Bibliotheca Indica において K. M. Banerjea により刊行された(Cal. 1865)。Bhāgavata すなわち Pāñcarātra についてさらに詳しい報告を初めて行ったのは、今日のインドの最も重要なサンスクリット文献学者 R. G. Bhandarkar であり、Wien における第VII回国際東洋学者会議での講演においてであった。その議事録(Wien 1886)に印刷されている。しかし主眼はやはり、六大バラモン体系の総括的叙述にあり、そこでも彼は土着学者たちの見解に依拠した。体系の分類に決定的であったのは、Veda に対する関係であるが、これは実に多様である。Colebrooke の方法、すなわち文献についても内容についても事実を記述的に確定するという方法、いかなる美辞もなく、自らの哲学的思想による色づけもない方法は、ここに最も完成した形で現れている。彼自身、自らの叙述法を "description" と呼んでおり、それは記述的自然科学を想起させる。¹⁾ 各体系について彼は、文献の諸層、すなわち sūtra とその注釈である bhāṣya, vārttika, vṛtti, ṭīkā、および sūtra 形式によらないより短い、主として後代の叙述とその注釈の概観を与える。これが可能であったのは、彼自身がこの分野の写本の相当な蒐集を作っていたからである。²⁾ Colebrooke は主として写本から汲んだ。Gildemeister が1845年までに記載しているのは次の刊本だけだからである。Śaṅkara 注付き Vedāntasūtrāṇi(Calc. 1818)、Sāṃkhyapravacanabhāṣya(Seramp. 1821)、Bengal 語注付き Bhāṣāpariccheda(Calc. 1821)、Bhāṣāparicheda および Siddhāntamuktāvalī(Calc. 1827)、Nyāyasūtravṛtti(Calc. 1828)、Vedāntasāra(Calc. 1829)。Colebrooke は Sāṃkhya 体系に一種の偏愛をもっていたらしく、それゆえ最後に H. H. Wilson と共同で "The Sánkhya Káriká, or Memorial Verses on the Sánkhya Philosophy by Íswara Krishna" を原文と翻訳で刊行した(London 1837)。総括的叙述としての Colebrooke の論考が代替されたのは、P. Deussen『哲学一般史』第I巻(Leipzig 1894)および Max Müller の著作 "The six Systems of Indian Philosophy"(London 1899)によってであり、それはその間に、個々の体系と個々の著作に向けられた哲学者・文献学者の仕事が、原典刊行と翻訳によってインド哲学についての我々の知識を堅固で誰にも利用しやすい基礎の上に置き、研究によってこれを構築し高めた後のことであった。

Colebrooke とその最初の同時代人たちが描いた

¹⁾ 伝記から知られるように、Colebrooke は天文学と数学において深い研究を行ったのみならず、"natural history"、とりわけ植物学にも多く従事した。Biogr. S. 136, 266、および S. 92 以下の彼が入手を望んだ書物の一覧参照。

²⁾ 1870年、私が India Office Library のサンスクリット写本目録の作業に参加し、哲学文献を担当することになったとき、Fitz-Edward Hall の Index に記載されたインド哲学文献の作品のいかに多くが、Colebrooke の蒐集に由来する写本によって代表されているかに驚かされた。Catalogue of the Sanskrit Manuscripts in the Library of the India Office, Part IV, London 1894 参照。

〔頁下部の版面表示〕3*

古代インドの文化と文献の像は、完全なものではなかった。なお欠けていた分野、あるいはより手薄にしか扱われなかった分野は、まず Wilson と Burnouf の大部の著作によって、別の様式で補われた。Colebrooke はサンスクリット文献学の発展における自らの功績を十分に自覚していた。A. W. v. Schlegel が折々に発した、イギリス人はインドの古代文化に十分な関心を示さないという非難に対して、彼は1827年12月24日付の Wilson 宛書簡でこう述べている(Biographie S. 356)。"Careless and indifferent as our countrymen are, I think, nevertheless, that you and I may derive some complacent feelings from the reflection that, following the footsteps of Sir W. Jones, we have with so little aid of collaborators, and so little encouragement, opened nearly every avenue, and left it to foreigners, who are taking up the clue we have furnished, to complete the outline of what we have sketched"〔我が同胞がいかに無頓着で無関心であろうとも、しかし貴殿と私とは次の省察からいくらかの満足を引き出しうると思う。すなわち Sir W. Jones の足跡に従い、協力者の助力もほとんどなく、激励もほとんどないままに、我々はほぼすべての道を開き、我々が提供した手がかりを取り上げつつある外国人たちに、我々が素描した輪郭を完成することを委ねたのだ、と〕。

【原書 p. 36(承前)】

§第 IV 章 H. H. WILSON

上述の Colebrooke の言葉は、H. H. Wilson をここに直接続けることを促す。Colebrooke 自身が Wilson を、サンスクリット文献を最初に開示した際の同志と呼んでいる。Schlegel, Bopp, Burnouf の仕事はこの二人に見るべき影響を及ぼさなかったが、逆に Wilson の仕事はこれらの人々やフランス・ドイツの同時代人にしばしば引用されている。Burnouf は1850年10月6日付の書簡で Wilson に "Monsieur et illustre maître"〔尊敬すべき高名の師よ〕と呼びかけている(Choix de Lettres S. 417)。しかしそれよりずっと以前、Wilson の重要な後年の著作がまだ現れていなかった頃、1835年4月12日付の書簡で彼を "réellement célèbre par la variété de ses connaissances, la grandeur et le nombre de ses travaux, son talent de style, et son esprit que je ne connaissais que dans ses livres"〔その知識の多様さ、業績の大きさと数、文体の才、そして私が書物によってのみ知っていた才気のゆえに真に高名な人〕と呼んでいる(S. 197)。この書簡と、その少し後に Oxford から妻に宛てて書かれた第二の書簡は、Wilson 訪問とその晩餐についてユーモアに富んだ像を与える。M. Müller は自伝(『わが生涯より』S. 129 以下)においてもう少し多くの評価を表明しえたであろう。また Wilson がかつて、後年の崇拝者にして後継者となる若き Monier Williams に与えた印象("what a dry old stick!"〔何と干からびた老いぼれか〕)¹⁾ も、彼を本来天才的な人物として現れさせるものではない。彼の心情を特徴づけるのは Viṣṇupurāṇa 訳の Preface の結びの文である。そこで彼はこう希望している。"that the translation of the Vishnu Puráṇa will be of service and of interest to the few, who in these times of utilitarian selfishness, conflicting opinion, party virulence, and political agitation, can find a restingplace for their thoughts in the tranquil contemplation of those yet living pictures of the ancient world which are exhibited by the literature and mythology of the Hindus"〔功利的利己心、対立する意見、党派的悪意、政治的煽動のこの時代にあって、ヒンドゥーの文学と神話が示す、なお生ける古代世界の像を静かに観照することのうちに思索の憩いの場を見出しうる少数の人々にとって、Viṣṇu Purāṇa の翻訳が有益であり関心に値するものとなるように〕。

Horace Hayman Wilson は1784年に生まれ、1808年に East India Company の "Medical Service" としてインドに来た。1816年に Calcutta 造幣局の Assay Master となり、1811年からは Asiatic Society of Bengal の Secretary であって、1833年にイングランドへ帰るまで両職にあった。帰国後、彼は Oxford 大学の最初の Boden Professor of Sanskrit となった。

¹⁾ Proceedings of the Special Centenary Meeting of the Asiatic Society of Bengal(1884)S. 19。

1860年に彼は没した。Wilson は Pandit の学識を自らの学問的計画に役立たせることに高度に長けていた。彼はさまざまな原典をも刊行したが、その強みは主として重要な作品の分析ないし翻訳と、概括的な展望にあった。この点で彼は Eugène Burnouf に似ているが、ただし Burnouf には Pandit の助力がなく、精神と文献学的自立性において Wilson を凌駕していた。

彼の最初の著作は Meghadūta の editio princeps であったが、表題では詩的翻訳が前面に立っている。"The Mégha-dúta; or, Cloud Messenger: a poem in the Sanscrit Language, by Cálidása, translated into English verses with notes and illustrations .. Published under the sanction of the College of Fort William"(Calcutta 1813)。London の reprint 等については Gildemeister, Bibl. Skr. S. 69 参照。

しかしとりわけ Wilson がサンスクリット研究の便宜のために功績があったのは、早くに刊行された辞書 "A Dictionary Sanscrit and English: translated, amended and enlarged from an original compilation prepared by learned natives for the College of Fort William"(Calcutta 1819、大幅に増補された第2版 1832)による。Wilson はこの辞書を印刷中であるとすでに Meghadūta の序文で予告していた。A. W. Schlegel は刊行前にその300ページを見ており、刊行とほぼ同時に『インド文庫』I 13 の最初の論考でかなり鋭く批判したが、その後 S. 295—364 で詳細な書評を与え、当時33歳の著者の業績に対して公正な評価を下した。Wilson の辞書の基礎をなすのは土着の Kośa と Dhātupāṭha である。Kośa の内容は1800年に Pandit たちが Raghumaṇi Bhaṭṭācārya の指導のもと、Calcutta の Fort William College のために辞書へと編纂し始め、1809年に完成した。この編纂物の写しが Wilson の手に入った。彼は自身の将来の利用のためにこれを英語に訳した。Raghumaṇi の編纂は信頼できず、また不完全であった。動詞語根が欠けていたからである。Colebrooke の助言によって Wilson はこれを検証し補うことを決意した。Colebrooke の Amarakośa 訳が彼に確かな拠り所を与え、またその語根一覧も利用しえた。かくして Colebrooke は最初の大サンスクリット辞書の成立にも与っている。全集第I巻に収められた序文において、Wilson は Colebrooke に接続してインドの辞書学の概観を与えた。彼の最初期の仕事には Kaschmir 史 Rājataraṅgiṇī についての論考があり、Asiatic Researches 第15巻に載る(Gildemeister Nr. 241 以下)。Lassen はこれを「最高の関心をもって」読んだと1824年6月20日付の Schlegel 宛書簡で述べている(Briefwechsel S. 45)。

Colebrooke の道を歩んだのは、Wilson が Hitopadeśa の原典たる Pañcatantra についてより詳細な報告を与えたときである。"Analytical Account of the Pancha Tantra, illustrated with occasional Translations" は "Read June 5, 1824" とあるが、刊行は1826年、RAS. Transactions 第I巻 Part II, S. 155—200 であり、"Works" 第I巻に再録されている。個々の注には H. T. C. の署名がある。当然ながら当時インドでは、Nītiśāstra の古典的な新しい作品の方が古い作品よりもはるかに多く読まれていた。Pañcatantra について Gildemeister は Wilson の Account のみを記載し、次いですぐに Kose-

garten の刊本を、Hitopadeśa については長い一連の刊本と翻訳を挙げている(Bibl. Skr. S. 97 以下)。インドの寓話が西方へ移動し、Pehlevi ペルシア語・アラビア語・ヨーロッパ語の寓話の原型となったという認識は、まず Hitopadeśa から得られた。Wilson はこれを Wilkins と Sir William Jones に遡らせる。Colebrooke の原典刊本というのは、おそらく Colebrooke が序文を書いた Carey のもの(Serampore 1804、Gildemeister Nr. 350)を指すのであろう。アラビア語版 "Kalila et Damana" すなわち "Pilpay" の寓話の Silvestre de Sacy 校訂本(Paris 1816)を彼は知っていた。Colebrooke がまず、アラビア語版が Hitopadeśa よりも Pañcatantra に多く一致することを確定した後、Wilson はより詳細に、寓話ごとにこの三作品の比較を行った。インドの寓話が世界文化史にとってもつ意義は当時すでに認められていた。Wilson は主要な仕事は成し遂げられたと考えていた。"The learning and industry of the Baron de Sacy have finally traced the work through all its stages; and there are few subjects of investigation, the history of which has been more succesfully ascertained, than the Bibliographical adventures of the salutary instructions of Vishṇusarmá, or Fables of Pilpay"〔de Sacy 男爵の学識と勤勉はついにこの作品をそのすべての段階にわたって追跡した。Vishṇusarmá の有益な教え、すなわち Pilpay の寓話の書誌的遍歴ほど、その歴史が首尾よく確定された研究主題は少ない〕。Wilson がいかに文献学的立場をとらなかったかは、続く文が示す。"The identity of the two works (Pañc. と Hitop.), for the greater part, renders the translation of both, a work of supererogation"〔両作品はその大部分において同一であるから、その双方を訳すのは余計な仕事となる〕(S. 156)。

Wilson が Colebrooke をより重要な仕方で補ったのは、詩と宗教の分野においてであった。ここで彼は、なおインド滞在中に刊行された第二の主著において、インドの戯曲文献を開示した。"Select Specimens of the Theatre of the Hindus, translated from the original Sanscrit"(Calcutta 1827、3巻)である。第2版は2巻で London 1835、第3版は F.-E. Hall の編で "Works by the late Horace Hayman Wilson"(London 1871)第XI・XII巻に収められた。Wilson がこの著作をもって現れたとき、インドの戯曲について知られていたのは、Sir William Jones による Śākuntala 訳、Dr. Taylor による Prabodhacandrodaya 訳(London 1812)、および Colebrooke の Mālatīmādhava についての報告(前掲 S. 32 参照)だけであった。Wilson はしたがって写本から作業せねばならず、その際 Pandit たちが助力した。Paris では Burnouf と Loiseleur des Longchamps が、また Chézy も、直ちに Wilson の翻訳を検証する作業に取りかかった。写本をめぐる争奪戦は Burnouf の Lassen 宛書簡(1828年4月28日および6月2日)が描いている(Choix de Lettres S. 75 以下)。Burnouf の判定は芳しくない。"J'ai travaillé avec beaucoup d'attention l'Urvashi et le Ratnavali; malgré les difficultés que présente le prakrit du premier de ces drames, j'ai pu me convaincre de l'étonnante infidélité de la traduction de Wilson"〔私は Urvaśī と Ratnāvalī を細心の注意をもって研究した。前者の戯曲の prakrit が呈する困難にもかかわらず、Wilson の翻訳の驚くべき不正確さを確信することができた〕。第1版と第2版の間に、Wilson が訳した戯曲の原典が Calcutta で土着学者たちにより "under the authority of the Committee of Public instruction" 刊行された。Mṛcchakaṭikā 1829、Vikramorvaśīnāma troṭakam 1830、Mālatīmādhavam 1830、Uttaram Rāmacaritram 1831、Mudrārākṣasam 1831、Ratnāvalī 1832 である。これらと Śākuntala のほかに、Gildemeister が1847年までに刊行されたものとして記載しているのは、戯曲 Mālavikāgnimitra(Tullberg 校訂, Bonn 1840)、Prabodhacandrodaya(Brockhaus 校訂, Leipzig 1845、より古い Calcutta 版に基づく)、Mahānāṭaka(Calcutta 1840)、Dhūrtasamāgama(Lassen の Anthologia 所収)のみである。Bibl. Scr. S. 84 以下参照。

付録において Wilson は次の23の戯曲について "short accounts" を与えた。"Mahávíra Cheritra, Vení Samhára, Málavikágnimitra, Viddha Sálábhanjiká or the Statue, Prachanda Pándava, Hanumán Nátaka, Dhananjaya Vijaya, Anergha Rághava, Sáreda Tilaka, Yayáti Cheritra, Dútángada or the Mission of Angada, Mrigánkalekhá, Vidagdha Mádhava, Abhiráma Mani, Madhurániruddha, Kansa Badha, Pradyumna Vijaya, Sri Dáma Cheritra, Dhúrtta Narttaka, Dhúrtta Samágama, Hásyarnava, Kautuka Servaswa, Chitra Yajna"。彼が知りえた戯曲は全体で60篇であり、第2版序論末尾 S. LXX に挙げている。訳出した六篇の戯曲それぞれに、彼は詩人・年代・内容・典拠についての短い Introduction を付した。Mṛcchakaṭikā を彼は現存最古の戯曲とみなした。Kālidāsa がすでに紀元前56年頃、Vikramāditya 王の紀元の始まりに生きたということを彼は疑った。Mudrārākṣasa の序論は、Candragupta と "Sandrocoptos" についての報告を集成した点で注目に値する。しかし著作の冒頭をなすのは論考 "On the Dramatic System of the Hindus" であり、そこで彼は同じく初めて、インドの alaṃkāraśāstra、すなわち戯曲と詩作の理論について案内を与えた。当時これらの著作の刊本はまだ存在しなかった。粗悪な写本、定義の簡潔さと晦渋さ、そして "the little knowledge of the subject which the Pandits generally possess"〔Pandit たちが一般にこの主題についてもつ知識の乏しさ〕が、彼の仕事を大いに困難にした(S. XXIII)。Bharata の "Sútras" については聞き知っていたが、この最古の Nāṭyaśāstra は当時なお失われたものとされていた。1862年に F.-E. Hall が完全な写本を入手し、そこから Daśarūpa 校訂本(Bibliotheca Indica 1865)¹⁾ において戯曲にとって重要な第XVIII・XIX・XX・XXIV(XXXIV ではない)章を刊行するまでは。完全な本文が現れたのは Bombay 1894年の Kāvyamālā においてである。主として戯曲を扱う Dhanaṃjaya の Daśarūpa を Wilson は用いた。その表題は、すでに Bharata が区別している戯曲の十種に由来する。Adhy. XVIII 1: kathayiṣyāmy ahaṃ viprā daśarūpavikalpanam。Wilson が言及する他の二作品、すなわち Bengal の Viśvanātha Kavirāja の Sāhityadarpaṇa と、Kaschmir の Mammaṭa の Kāvyaprakāśa は、Wilson の著作の初版直後に "under the authority of the general Committee of Public Instruction" 印刷された(Calcutta 1828 および 1829、Gildem. Bibl. Scr. Nr. 405, 406)。既述の戯曲と同様、これも確かに Wilson の関与なしではあるまい。彼はさらにこの文献に属するものとして、Bhoja Rāja の Sarasvatīkaṇṭhābharaṇa²⁾ と、歌唱・音楽・舞踊を扱う Kaschmir の Śārṅgadeva の Saṃgītaratnākara を挙げる。一般に "de Arte Poetica" を扱う多数の著作のうちから彼は数点を取り上げ、そのうち最も重要なものとして Daṇḍin の Kāvyādarśa と Vāmana の Kāvyālaṃkāravṛtti を挙げる。Kāvyādarśa の本文は1863年に Bibliotheca Indica において、Calcutta の Sanskrit College の修辞学教授 Premachandra Tarkabāgīśa が刊行し、それに基づいて Böhtlingk がドイツ語訳を付して "Daṇḍins Poetik", Sanskrit und Deutsch を

¹⁾ 英訳はごく最近になって George C. O. Haas によって現れた。"The Daśarūpa, a Treatise on Hindu dramaturgy, by Dhanaṃjaya", New York 1912(Jackson の "Columbia University Indo-Iranian Series" 第VII巻)。

²⁾ 他の二作品とともに Anundoram Borooah により刊行。"Vamana Kavyalaṃkara Sutravṛtti, Vagbhaṭa Alaṃkara und Sarasvatī Kanthabharaṇa", London および Calcutta 1883。

Leipzig 1890 に刊行した。Daṇḍin に劣らず Vāmana も、中期の文学史の主要人物に属する。Kāvyālaṃkāravṛtti はまず C. Cappeller が刊行し("Vāmanas Lehrbuch der Poetik", Jena 1875)、さらに "Vāmanas Stilregeln"(Straßburg und London 1880)は第5 adhikaraṇa の翻案を含む。Candrāloka, Kuvalayānanda, Rasagaṅgādhara, Alaṃkārakaustubha は、彼が名を挙げるこの種の後代の作品である。誤った記載 "Alankára Sarvaswa of Bháma" の背後には、おそらく二つの作品、すなわち Ruyyaka の Alaṃkārasarvasva と Bhāmaha の Alaṃkāraśāstra が隠れている。詩学の個別部分に関わるものとしては、"Rudra Bhaṭṭa" すなわち Rudraṭa の Śṛṅgāratilaka——Pischel の校訂とその序論(もっともそこには誤った見解も含まれる)によって一定の名声を得たもの——と、Bhānudatta の Rasamañjarī および Rasataraṅgiṇī——後者は Regnaud の Rhétorique Sanskrite(Paris 1884)の付録に刊行——がある。彼はまた Bhojaprabandha と、Peterson が Bombay Sanskrit Series で1867年に刊行した Śārṅgadharapaddhati——事項別の観点から編まれた諸詩人の詩句の集成——にも言及している。その後の研究は、個々の著者が Wilson の考えたよりずっと早い時代に置かれるべきことを示した。これらの著作にしばしば引用される戯曲 Ratnāvalī は12世紀ではなく7世紀に属し、Daṇḍin も同様である(Jacobi「Vakrokti および Daṇḍin の年代について」ZDMG. LXIV 130 以下による)。

戯曲論の叙述のために Wilson は主として Sāhityadarpaṇa と Daśarūpa を用いた。彼は戯曲の種類と構成、冒頭の祈願(nāndī)、前口上(prastāvanā)、幕への区分、幕間、筋の展開の諸段階、俳優、主人公と女主人公、および戯曲の性格人物——そのうち大多数の作品に繰り返し現れるのがインド演劇の道化役 vidūṣaka である——について論じている。またインド詩学の心理学的主要教説、すなわち区別しがたい仕方で rasa と bhāva¹⁾ と呼ばれる情調について、その発現と表現手段とともに初めて教示した。インド人は八つのそうした情調を区別する。rati("desire")、hāsa("laughter or mirth")、śoka(悲嘆)、krodha(怒り)、utsāha("high-mindedness")、bhaya(恐怖)、jugupsā(嫌悪)、vismaya(驚嘆)であり、これに第九として śānta(心の静穏)が加わった。インドの戯曲をギリシアのそれと比較しつつ、彼は前者において筋・時・場所の一致がどの程度見出されるかをも論じている。半世紀以上にわたり Wilson の著作は、全体としてインド演劇についての主著であり続けた。P. Regnaud が著書 "La Rhétorique Sanskrite"(Paris 1884)において初めて詩学ないし

¹⁾ この二つの表現について Wilson は Pref. 2d ed. S. LVII でこう述べている。"The Rasas reside in the composition, but are made sensible by their action on the reader or spectator. In the first case, they may be identified with the permanent conditions or Bhávas. It is more usual, however, to regard them as distinct — as the effects of the Bhávas and not of one nature with them. Their due appreciation depends upon the sensitiveness of the critic; but a spectator, who deserves the name, is defined by Bharata to be 'one who is happy when the course of the drama is cheerful, melancholy when it is sorrowful, who rages when it is furious, and trembles when it is fearful', or in a word, who sympathises with what he sees"〔rasa は作品のうちに存するが、読者ないし観客への作用によって感知される。第一の場合には、それは恒常的条件すなわち bhāva と同一視されうる。しかしより通常には、両者は区別され、rasa は bhāva の結果であって bhāva と同一の本性のものではないとみなされる。その正しい享受は批評家の感受性にかかる。しかし名に値する観客とは、Bharata によれば「劇の展開が明るいときには喜び、悲しいときには憂え、激烈なときには猛り、恐ろしいときには戦慄する者」、一言でいえば見るところに共感する者と定義される〕。Max Lindenau の新しい学位論文 "Beiträge zur Altindischen Rasalehre, mit besonderer Berücksichtigung des Nāṭyaśāstra des Bharata Muni"(Leipzig 1913)参照。

修辞学をより詳しく叙述し、その文献の概観を S. 365 以下に与えたが、これもなお完全ではない。Wilson をさらに越えて進んだのは Sylvain Lévi の著書 "Le Théâtre Indien"(Paris 1890)であり、戯曲詩人とその作品についてそれまでに知られたことすべてを集成した。より新しい "Epitome of the whole subject" を与えるのは、"Columbia University Indo-Iranian Series" 第III巻として現れた Montgomery Schuyler の企図 "A Bibliography of the Sanskrit Drama"(New York 1906)の Introduction である。

戯曲の後、Wilson はその研究をインド人の Veda 以後の宗教に向けた。これもある意味で Colebrooke を補うものであった。Colebrooke の論考 "On the Philosophy of the Hindus" は RAS. Transactions 第I・II巻(London 1824—1829)に現れていた。ここでも彼は Pandit を自らの計画に引き入れることに巧みであった。最初のものは大論考 "A Sketch of the Religious Sects of the Hindus" で、Asiatic Researches 第XVI・XVII巻(Calcutta 1828, 1832)に載り、Rost によって "Works" 第I・II巻(London 1862)に新たに刊行された。Wilson の Sketch が、最も精確な事実知識に基づき典拠を付した Sir R. G. Bhandarkar の著作 "Vaiṣṇavism, Śaivism and Minor Religious Systems"(本 Grundriss 所収、Straßburg 1913)によって置き換えられたのは、ごく最近のことである。Wilson にとってこれらの研究は Viṣṇupurāṇa の翻訳において頂点に達した。しかしこの著作の刊行の前に Wilson のイングランド帰国があった。帰国して彼は、Colebrooke が瀕死の病床にあり、予告していた Sāṅkhyakārikā 訳を印刷に付しえない状態にあるのを見出した。この本文は数年前にすでに Lassen が "Gymnosophista sive Indicae Philosophiae Documenta" の表題で刊行・翻訳していたが、その第一分冊 "Isvaracrishnae Sankhya-caricam tenens"(Bonn 1832)で中断していた。Wilson はこの遺された仕事を引き受け、Colebrooke の死後に刊行された。"The Sánkhya Káriká, or Memorial Verses on the Sánkhya Philosophy, by Íswara Krishna; Translated from the Sanscrit by H. Th. Colebrooke, Esqu. Also the Bhashya or Commentary of Gaurapáda; Translated, and illustrated by an original Comment, by H. H. Wilson" 等(Oxford 1837)¹⁾。彼はこれに Kārikā と Bhāṣya のサンスクリット本文をも付した。後者は稀少な作品で、写本は一本しか利用できなかった。校訂は文献学的に精確ではない。翻訳は写本に従ってなされている。

Wilson の Viṣṇupurāṇa 訳は、Burnouf の Bhāgavatapurāṇa 訳と同時に現れた。この一致は、両学者がともに学問に新しい素材を供給しようとした点で、単なる偶然ではない。Purāṇa についてはヨーロッパではまだ多くが知られていなかった。しかしそれらはバラモンの Veda 以後の宗教、大神 Brahmā, Viṣṇu, Śiva の祭祀にとって主要典拠である。そのうえそれらは早くからインド史のためにも援用された。いくつかの Purāṇa がかなりの程度一致して含む王統の vaṃśa のゆえである。Wilson はこの仕事をインドで準備していた。Rājendralāla Mitra は彼についての論説(Centenary Review of the AS. of Bengal I 78)でこう述べている。"As visitor of the Sanskrit College of Calcutta, he super-

¹⁾ この著作は Oriental Translation Fund of Great Britain and Ireland の刊行物 Nr. 48 として現れた。Stenzler の Raghuvansa は Nr. 28、Langlois の Harivansa は Nr. 38 であり、いずれも四つ折である。

intended the publication of a large number of Sanskrit books, and, with the assistance of a native staff, had the bulk of the eighteen Puránas translated into English, from out of which he selected the Vishnu Purána for publication"〔Calcutta の Sanskrit College の visitor として、彼は多数のサンスクリット書籍の刊行を監督し、土着の職員の助力を得て十八 Purāṇa の大部分を英訳させ、そのうちから Vishnu Purána を刊行のために選んだ〕。Wilson 自身この "assistance" に Preface S. XV で言及している。彼はすでに ASB. Journal 第I巻(1832)に Agni(S. 81)、Brahmavaivartta(S. 217)、Viṣṇu(S. 431)、Vāyu(S. 535)の分析を、さらに RAS. Journal 第IX・X巻(1838, 1839)に Brahma および Padmapurāṇa の分析(Gildem. Bibl. Skr. Nr. 203)を与えていたが、その後この大著を "The Vishṇu Purāṇa, A System of Hindu Mythology and Tradition"(London 1840、四つ折)として刊行した。詳細な索引が付され、Böhtlingk も自らの辞書のためにこれを利用した。Preface の主要内容をなすのは S. XVI—LV の18 Purāṇa の記述であり、Matsyapurāṇa Adhy. 53 に挙げられる順序に従う。すなわち 1. Brahma、2. Padma、3. Viṣṇu、4. Vāyu、5. Bhāgavata、6. Nārada、7. Mārkaṇḍeya、8. Agni、9. Bhaviṣya、10. Brahmavaivartta、11. Liṅga、12. Varāha、13. Skanda、14. Vāmana、15. Kūrma、16. Matsya、17. Garuḍa、18. Brahmāṇḍa である。先の分析がここに単純に繰り返されているわけではない。Upapurāṇa については少なくとも名を挙げ、いくつかについては注記を加えている。この概観は今日なお価値をもつ。もっとも Aufrecht が Bodleiana のサンスクリット写本目録に、Eggeling が India Office Library のサンスクリット写本目録に Purāṇa 本文からの抄録を与え、Holtzmann(甥)がその著書『Mahābhārata』でこの叙事詩と Purāṇa の共通点を強調し、Winternitz が文学史においてその直前の先行者たちより詳細に扱ってはいるが。その間にインドでは大部分の Purāṇa の原典刊本も現れた(Jibananda Vidyasagara その他による)。Wilson は Preface の末尾近くで、"not very probable that many of them will be published or translated"〔その多くが刊行あるいは翻訳される見込みは高くない〕と述べていた。Gildemeister は Bibl. Skr. Spec.(すなわち1847年まで)S. 54 以下に、さまざまな Purāṇa の個別部分のほかは Bhāgavata の二つの刊本(Calcutta 1830 と Bombay 1839)しか記載していない。

Purāṇa の性格についての今日支配的な一般的見解は、本質的な点で Wilson に遡る。Preface の冒頭で彼は軽い筆致で宗教の発展を素描し、まず三期を区別する。"marked by the Vedas, Heroic Poems, and Puránas, a fourth may be dated from the influence exercised by the Tantras upon Hindu practice and belief"〔Veda、英雄詩、Purāṇa によって画される三期であり、第四期は Tantra がヒンドゥーの実践と信仰に及ぼした影響から起算されうる〕(注7)。Mahābhārata(すなわち Itihāsa)と Purāṇa はより密接に属し合う。その連関はすでに枠物語に現れており、そこではいずれも ṛṣi たちが Naimiṣa の森に集まり、Loma- ないし Romaharṣaṇa の子 Ugraśravas なる sūta が語り手となっている。sūta の意義については彼はすでに JASB. I 535 以下の Vāyupurāṇa 分析で論じていた。sūta は御者であったが、同時に "the encomiast, the herald or bard of chieftains and princes"〔頌詠者、首長や君主の伝令ないし吟遊詩人〕でもあった(それはおそらく戯曲の vaitālika に生き続けている)。かくして一定の歴史的伝承が形成され、"fanciful and mythological fictions" と混じり合った。後者が優勢となり、系譜は神々あるいは "deified princes"(Rāma と Kṛṣṇa)に結びつけられた。かくして Wilson は Purāṇa の最初の起源を考えた。これに対し Colonel Vans Kennedy は、その著作 "Researches into the nature and affinity of Ancient and Hindu Mythology"(London 1831)で "I cannot discover in them any other object than that of religious instruction"〔私はそこに宗教的教導以外のいかなる目的も見出しえない〕と述べ、vaṃśa を

本来の構成要素に数えなかった(Wilson, Preface S. V)。この基幹に宇宙開闢論・地理・天文学が加わり、それによって purāṇaṃ pañcalakṣaṇam が完成した(JASB. I 536)。Purāṇa の五特徴は一詩節にまとめられ、さまざまな箇所に繰り返し現れる。たとえば Matsya 53, 64: sargaś ca pratisargaś ca vaṃśo manvantarāṇi ca | vaṃśānucaritaṃ caiva purāṇaṃ pañcalakṣaṇam。Wilson はこの表現を Amarakośa I 6, 5 にも見出し、そこでは注釈が説明の詩節をも引用している(異読 vaṃśyānucaritam を伴う)。しかし Amarasiṃha は、別の有名な versus memorialis によれば、Vikramāditya 王の宮廷の九つの宝玉に属したとされる。かつては一般に、この王が彼の名を冠する紀元の初め、すなわち紀元前57年に始まる時期に生きたと想定されていた。Wilson はここから、Purāṇa は当時なお pañcalakṣaṇa であったと結論した。彼はこの本来の Purāṇa を紀元前3世紀、Alexander の時代まで遡らせうると考えた。ギリシア人がインドで見出した Herakles は Balarāma であり、また彼らが Mathurā と Surasenī の地に言及する以上、Kṛṣṇa をも見出していたはずだという(Preface S. VII = 2d ed. I, XII)。論証は説得的ではない。しかし現存する Purāṇa が紀元前1世紀に存在したものでありえないことは確かである。というのも現在の Purāṇa は pañcalakṣaṇa ではないからで、最もそれに近いのが Viṣṇupurāṇa である(S. V)。古い形から新しい形が生じたのは、Purāṇa がますます宗教的目的に供され、諸宗派の聖典となったことによる。それは偉大な "Śaiva reformer" Śaṅkara Ācārya——8ないし9世紀の人——の時代以前ではないという。"Vaishnava teachers" のうち Rāmānuja は12世紀、Madhvācārya は13世紀、Vallabha は16世紀に生きた。かくして Wilson は現在の Purāṇa の成立時期を8世紀から16世紀の間に求めるに至った。多くの古い要素を含む Viṣṇupurāṇa さえ彼は11ないし12世紀に置いた(S. LXXII)。また彼は、Vāyu, Viṣṇu, Bhāgavata, Matsya の各 Purāṇa に予言の形で挙げられる王朝が、我々の紀元の初めよりかなり後の時代を指し示すことを強調した(S. X)。もっとも Gupta 朝は、Wilson がなお想定したように7世紀ではなく(S. LXXII)、すでに4・5世紀に統治していたのであるが。

Wilson のこの見解全体に対して Vans Kennedy は、RAS. Journal の編者宛の一連の書簡において反論し、それらは1840年と1841年に "On Professor Wilson's Theory respecting the Puranas" の表題で同誌に発表され、その間に Wilson の短い返答が挟まれている。Fitz-Edward Hall は "Works" における Wilson の Viṣṇupurāṇa 新版の付録にこの論争を併載し、一部には皮肉な注を付している。Vans Kennedy の異議は主として二つの要点に関わる。彼は現存の Purāṇa がそれほど後代に成立したことを認めようとせず、太古のものとみなした。またそれらが宗教的性格を後になって獲得したこと、宗派的目的のために作られたことをも認めようとしなかった。それらは "pious frauds, written for temporary purposes, in subservience to sectarial imposture"〔宗派的欺瞞に奉仕する、一時的目的のために書かれた敬虔な偽り〕ではありえないという(Appendix S. 266)。彼は Purāṇa のうちに個々の宗派の宗教的見解を認めず、そこに今なお支配的なインドの一般的宗教を見る。それは Veda がより詳しく知られるようになれば Veda にも見出されるであろうという。"But Pro-

fessor Wilson has not yet proved that the Puránas contain sectarian doctrines; and I am convinced that, when the Puránas are more fully examined, and the Vedas more completely known, it will be ascertained that the rites, ceremonies, and doctrines of the Hindu religion, described in the Puránas, are, essentially, the same as those described in the Vedas, and that no essential difference exists between the ritual of the Vedas and the modes of worship prescribed in the Puránas, except the adoration of images ..."〔しかし Wilson 教授は Purāṇa が宗派的教説を含むことをまだ証明していない。私は確信するが、Purāṇa がより十分に検討され、Veda がより完全に知られるならば、Purāṇa に記されたヒンドゥー宗教の祭式・儀礼・教説が本質的に Veda に記されたそれらと同一であり、Veda の儀軌と Purāṇa の規定する礼拝形式との間には、偶像崇拝を除いて本質的相違が存在しないことが確認されるであろう〕(Appendix S. 354)。次いで彼は特に Upaniṣad に依拠している(App. S. 262 参照)。双方に誇張があった。真理は中間にあるであろうが、より Wilson の側に近い。Wilson は常に、近代の Purāṇa にも多くの古い構成要素が見出されることを強調しており、他方 Vans Kennedy も後代の挿入を認めていた。もっとも Wilson は王朝についての記述を本来の構成要素に数えたのに対し、Vans Kennedy はいくつかの Purāṇa にそれが欠けることを理由に "extraneous" とみなした。Vans Kennedy はむしろ同時代のヒンドゥーの立場を代表し、Wilson は Burnouf と同じく批判を開始した。Purāṇa の批判的研究は今日に至るまでなお遂行されていない。しかし Vans Kennedy は、サンスクリット文献学史において支配的権威に対して立ち向かった反抗者たちに属する。Benfey『インド』S. 258 注56 は、Colebrooke に向けられた Vedānta に関する論考(Transact. RAS. III 412)にも注意を促している。

王朝が予言の形で提示されるとすれば、それは確かに叙述の後代の形式である。歴史的構成要素には、Viṣṇupurāṇa III 18, 1 以下の Jaina と Bauddha の出現についての予言も属する。Wilson の写本は第16詩節で乱れており、他にも彼の訳は完全に正確ではなかったが、この箇所で ārhata の名のもとに Jaina が、また本文で名を挙げられない第二の宗派に Bauddha が理解されるべきことを、彼は疑いなく正しく見ていた。Vans Kennedy は ārhata を仏教徒と解し、ここに Jaina を認めようとしなかった。当時は一般に、Jaina が仏教徒の後継者として後代に現れたと考えられていたからである(Appendix S. 322 以下)。

Purāṇa 相互の一致を Vans Kennedy はその起源から説明しようとした。Purāṇa が現在の形で文字に記される前、キリスト紀元の四ないし五世紀前に、"relating to the modes of worship and the doctrine of the Hindu religion"〔ヒンドゥー宗教の礼拝形式と教説に関わる〕多数の伝説と伝承が太古において形成され、まず口頭でのみ伝えられていた。"When, therefore, eighteen different persons, in different parts of India, collected together those legends and traditions, and committed them to writing, the greatest similarity would, necessarily, exist in the eighteen works, and the same legend and tradition would often be selected for insertion, and, consequently, often expressed in the same, or nearly the same, words"〔それゆえ十八人の異なる人物がインドの異なる地方でこれらの伝説と伝承を集め、文字に記したとき、十八の作品の間に必然的に最大の類似が存し、同じ伝説と伝承がしばしば挿入のために選ばれ、結果として同一ないしほぼ同一の言葉で表現されることになったであろう〕(Appendix 329 以下)。

ここで Veda 文献における類似の事情を想起してよいであろう。その場合には Veda 諸学派が問題となる。バラモンと kṣatriya の存したところでは、習俗・法・儀礼・哲学が一致した仕方で形成されていた。Veda 各学派はこの共通の財産に与り、

それを自らの Gṛhya-, Dharma-, Kalpa-sūtra に、また Upaniṣad に、広汎な一致と字句の保持をもって受け継いだ。Purāṇa については Veda 諸学派は問題とならない。Purāṇa は Veda に基づくものではなく、後代の民衆化した宗教の聖典として現れる。Vans Kennedy の言う十八人の異なる人物は、同数の「宗派」の首領である必要はない。多くの土地で生き、多くの人々に担われた共通の宗教と伝承が、各地で宗派的差異の性格を帯びたとは限らないからである。個別に特定の人物が Purāṇa の作者として挙げられることがある。ある伝承は Bhāgavatapurāṇa を Vopadeva に帰しており、Wilson も Burnouf もこれに言及している。しかし通例は、何らかの仕方で新たに編成した古い素材の前に、教師ないし編者は姿を消す。ここに pia fraus〔敬虔な偽り〕を語ることはまだできない。Purāṇa が特殊な古い文学類型を指したことは、すでに複合語 Itihāsapurāṇa から知られる。これは Chāndogya-Upaniṣad VII 1, 2 において第五の Veda と呼ばれている。Itihāsapurāṇam はすでに Śatapathabrāhmaṇa XI 5, 6, 8 に現れる。この箇所への Sāyaṇa は Itihāsa¹⁾ の例として apo ha vā idam agre salilam eva-āsa のような文を挙げ、Purāṇa を Urvaśī と Purūravas の話のような太古の人物の物語(purātanapuruṣavṛttānta)と説明している。すでに Brāhmaṇa の構成部分がこのように特徴づけられていた。しかしそうした断片が Brāhmaṇa に入ったものはごく僅かである。それと並んで早くから、そうした物語と文句の宝庫が存在したに違いない。Itihāsa と Purāṇa の間には当初、鋭い区別はなされなかったようである。Itihāsa は形式から、Purāṇa は内容から取られた表現である。Itihāsa あるいは ākhyāna は、Veda 注釈においては、ある讃歌が関係する物語や伝説をも指す。そして Sāyaṇa が Itihāsa の例として内容的に宇宙開闢論的な文を挙げているとすれば、他方で宇宙開闢論は Purāṇa の特徴的構成要素にも属する。Amarakośa の注釈によれば purāṇaṃ pañcalakṣaṇam は「五つの特徴をもつものが P. と呼ばれる」の意である。この二語が独立の小文をなさないとすれば、「五つの特徴をもつ P.」を意味する。それによって、各 Purāṇa が五特徴のすべてを、しかも同じ分量で備えねばならないとも、Purāṇa がこれら特徴の一つをもつ部分のみを含んでよいとも言われてはいない。いずれにせよこの文学類型の後の発展は、厳密に取られた定義の意味では進まなかった。もし本来は Urvaśī と Purūravas の話のような個々の伝説が Purāṇa と呼ばれえたとすれば、Purāṇa と呼ばれる集成作品が現在の分量と内容を得るまでには、多くの中間段階を想定せざるをえない。Brāhmaṇa も類似の発展を遂げた。この語もまた、一方では個々の言明を、他方では儀礼をはじめ多くの事柄が叙述される大集成作品を指す。Gopathabrāhmaṇa は Śatapathabrāhmaṇa とは全く別の性格をもつ。Purāṇa と呼ばれる集成作品もまた

¹⁾ iti ha āsa から生じたもの。これは、我々が童話を「むかしむかし」と呼ぶようなものである。

一定の目的をもっていたに違いない。その名が言うとおり、それは古い時代、前時代から伝えられたものの集成である。したがって Purāṇa は初めからある意味で歴史的作品であった。神々とその古い行為もこの歴史的性格に適合する。それゆえ Purāṇa の宗教的性格が生じる。ただ神々の名にはもはや Veda 時代は表現されていない。しかし古い伝承に属したのは伝説や物語だけでなく、王の系譜と王朝でもあった。当然ながら古い Purāṇa に Gupta 朝が記されていたはずはない。しかしまさに歴史的性格の集成作品は、続編を促すものであった。その際、全作品が太古に由来するという建前にはそぐわないことになる。ここでこそ pia fraus が現れ、最初の語り手の時代以後に起こったすべてが、彼らの口に予言として置かれたのである。Purāṇa にはある種の百科全書的傾向が認められる。本来の性格に無縁な事柄も取り込まれた。

Wilson と Vans Kennedy は繰り返し紀元前1世紀を強調し、あたかもこの時期については Purāṇa の存在が特に保証されているかのように扱った。紀元前1世紀に Purāṇa が存在したことは一般的理由から大いにありそうである。しかしそのための特別の根拠、すなわちその Kośa に purāṇaṃ pañcalakṣaṇam が言及される Amarasiṃha がこの時代に生きたという根拠は、抹消されねばならない。Hall が Wilson の Viṣṇupurāṇa 新版に付した最も価値ある注の一つは、Vikramāditya 王の宮廷の九つの宝玉についての詩節に関わる。彼はすでに "Benares Magazine for 1852, pp. 274—276" において、これが16世紀の天文学的著作 Jyotirvidābharaṇa に由来することを立証し全箇所を訳出していたが、ここで再びその全文脈のうちに提示した。紀元前1世紀の Vikramāditya 王について我々が何も知らないことを別としても、この年代決定全体は、Amarasiṃha および Kālidāsa とともにこの王の宮廷に生きたとされる Varāhamihira が確実に6世紀の人であることによって、成り立たなくなる。

職務上 Wilson は Calcutta の Assay Master として Prinsep の前任者であったが、学問上は貨幣学と碑文学の分野において彼の後継者であった。それゆえ彼の著作 Ariana Antiqua(1841)と Aśoka 碑文についての論考(1848)は、Prinsep の画期的な解読の後に扱うことができる。1841年に彼は London で "An Introduction to the Grammar of the Sanscrit Language for the use of early students" を刊行した。その第2版(1847)は、Veda に関する付加のゆえに A. Hoefer についての節で再び言及されるであろう。Daśakumāracarita はすでに Colebrooke の発意による Carey の editio princeps(Serampore 1804)があったが、Wilson の刊本 "The Dasa Kumára Charita or adventures of ten princes. A Series of tales in the original Sanscrit by Srí Daṇḍí"(London 1846)によってより入手しやすくなった。本文には有用な内容摘要が付されている。Wilson の最後の主著、Ṛgveda の翻訳(1850年以降)は、Max Müller の Sāyaṇa 注付き Ṛgveda 大刊本と切り離しえない。かくして

Wilson は他の誰よりも、古い時代と新しい時代を、インドの学識とヨーロッパの学識とを結びつけたのである。

§第 V 章 翻訳

§ANQUETIL DUPERRON、GALANOS、RAM MOHUN ROY

§最初の写本蒐集と文法書

この最初の時期にサンスクリット文献をヨーロッパへ移したのは、記述と翻訳であった。Colebrooke と Wilson についてはさしあたり触れない。翻訳は概してサンスクリット原典の刊行に先行し、少なくともそれより早く影響を及ぼした。そして翻訳の翻訳さえ重要な役割を演じた。サンスクリット原典が印刷され、古い言語がより容易に習得されうるようになる以前のことである。この種の作品の一つが G. Forster による戯曲 Śākuntala の翻訳である。"Sakontala oder der entscheidende Ring, ein indisches Schauspiel von Kalidas. Aus den Ursprachen Sanskrit und Prakrit in's Englische und aus diesem in's Deutsche übersetzt .."(Mainz und Leipzig 1791)。この翻訳から Goethe はインドの戯曲を知り、しばしば引用される二つの二行連句に霊感を得た。¹⁾ この古い翻訳文献もまた Gildemeister の Bibliothecae Sanscritae Specimen に記載されている。そこにはサンスクリット文献がドイツに与えた最初の印象が映っている。

Forster の Sakontala と同じ年に、匿名で "Sammlung Asiatischer Original-Schriften" が現れ、その第一巻(そして唯一の巻)が「インドの文書」をドイツ語訳で含んでいる(Zürich 1791)。それ自体は重要な著作ではないが、当時インドについての知識がサンスクリット文献のどの作品からどこまで汲まれえたか、またそのためにどの媒介的著作が問題となったかを、一つの横断面として示している。巻の半ばを占めるのは "Bagavadam"、すなわち同じく匿名で刊行された Bhāgavatapurāṇa 訳のドイツ語訳である。"Bagavadam ou Doctrine divine, ouvrage Indien, Canonique; sur l'Etre suprême, les Dieux, les Géants, les Hommes, les diverses Parties de l'Univers, etc."(Paris 1788)。このフランス語の匿名者は、この翻訳をすでに18世紀半ばにインドで、あるキリスト教徒のヒンドゥーによってタミル

¹⁾ これらの二行連句について G. Witkowski から次の貴重な教示を得た。「最初の印刷は Deutsche Monatsschrift, Berlin 1791, 2. Band, Juli, S. 264 にあり、第二の印刷は Herder の "Zerstreute Blätter" 第4集(Gotha 1792, S. 264、Suphan 版 16, 84)に、論文『ある東方の劇について』のモットーとして現れる。1791年6月1日付 Fr. H. Jacobi 宛書簡の付録たる手稿が Frankfurt a. M. の Freies Deutsches Hochstift にあり、これこそ Goethe が本来書き記した正しい形を伝えるものであろう。通用の異読は、互いにも幾重にも相違しており、改悪された形とみなすべきである。Jacobi 宛書簡における形は次のとおり。 Will ich die Blumen des frühen, die Früchte des späteren Jahres, / Will ich was reizt und entzückt, will ich was sättigt und nährt, / Will ich den Himmel, die Erde mit Einem Namen begreifen, / Nenn ich Sakontala dich und so ist alles gesagt. 〔早春の花を、晩年の果実を求めるならば/心を惹き魅するものを、飽かしめ養うものを求めるならば/天と地とを一つの名で捉えようとするならば/汝を Sakontala と呼ぼう、それですべては言い尽くされる〕」

語訳から作らせていた。¹⁾ その写しは早くも Paris に届き、Voltaire らがこれを閲覧した(前掲 S. 9 参照)。Bhāgavatapurāṇa は、Roger における Bhartṛhari の箴言に次いで、サンスクリット文献の作品としてヨーロッパで入手可能となった最初のものである。当時 Viṣṇu 崇拝にとってこの種の新しい作品として第一位を占めていたから、ヨーロッパ人の注意を惹かずにはいなかった。もっともフランス語の Bagavadam は原典の忠実な翻訳とは程遠い。この論集の次の諸篇は仏教の Vinaya に属し、de La Loubère の Siam についての著作に由来する。仏教的なのは、de Guignes の匈奴・トルコ史から採られた一篇でもある。次いで数篇が1786年刊の Anquetil Duperron "Recherches historiques \& géographiques sur l'Inde" から採られている。すなわち「四つの Upnekhat」——彼が大著 "Oupnekhat" 以前にそこで訳出していたもの——、Abul Fazel のペルシア語訳から訳した Mahābhārata の amṛtamanthanam、同じくペルシア語の典拠から採った「最も主要なインド国家の Raschah の目録」であり、これについてはドイツ語訳者が1785年刊の Joseph Tieffenthaler 神父の Hindustan 歴史地理誌をも利用している。「Ambertkend の書よりの抄録」は、de Guignes が1759年に Mémoires de Littérature de l'Académie des Inscr. et Belles Lettres においてペルシア語訳から公刊したフランス語訳を再現している。原典はまだ現れていないが、Pertsch が『R. Roth 記念論集』において Gotha の写本に基づき「Amṛtakuṇḍa のアラビア語訳」について詳しい説明を与えている。大宇宙と並ぶ小宇宙としての人間から出発して、この作品は世を逃れる Yogin の修練を教える。他の諸篇については出典がより詳しくは示されていないが、「Vedang Schaster よりの抄録」は Dow の著作に由来し、Sinner が Essai S. 80 以下に伝えるのと同じ一篇である。同じ出所から「Dirm Schasters より」(sic!)および「Neadirsen より」(Vaiśeṣika と結びついた Nyāya)の抄録、ならびにインドの神々の名も来ている。表題の奇妙な語がすでに示すように、神話的内容の「Schastah-Bhade よりの抄録」は Holwell の著作から採られている。「Lord のある Schaster よりの抄録」は創造と四カーストの法を扱う。末尾を締めくくるのは、南インドのデンマーク人宣教師の報告である。

これら翻訳の翻訳をもって、我々は時代的にも再び初期へ立ち返った。サンスクリットを解さない人物による最も重要な二次翻訳は、Anquetil Duperron の "Oupnek'hat" であり、2巻で Straßburg 1801年および1802年に現れた。²⁾ このラテン語訳の基礎にあるのは、

¹⁾ "Trad. en franç. par l'Interprète noir du Conseil de Pondichery, publié par M. d'Opsonville"〔Pondichéry 参事会の黒人通訳によるフランス語訳、d'Opsonville 氏刊行〕と A. Duperron, Oupn. I, S. XVIII に言う。

²⁾ "Oupnek'hat (id est, Secretum tegendum): Opus ipsa in India rarissimum, continens antiquam et arcanam, seu theologicam et philosophicam doctrinam, e quatuor sacris Indorum libris, Rak Beid, Djedjr Beid, Sam Beid, Athrban Beid, excerptam; Ad verbum, e Persico idiomate, Samskreticis vocabulis intermixto, in Latinum conversum; Dissertationibus et Annotationibus, difficiliora explanantibus, illustratum: studio et opera Anquetil Duperron, Indicopleustae."〔Oupnek'hat(すなわち秘匿さるべき秘義):インドにおいてさえ極めて稀少なる著作にして、インド人の四聖典 Rak Beid, Djedjr Beid, Sam Beid, Athrban Beid より抜粋された古き秘教的な、すなわち神学的・哲学的教説を含み、サンスクリット語彙の混じるペルシア語から逐語的にラテン語に移され、難解箇所を説明する論考と注記によって解明されたもの。インド航海者 Anquetil Duperron の研鑽と労作による〕。この著作の前史については A. Weber, Ind. Stud. I(1850)253 以下、M. Müller, Hist. of Anc. Skr. Lit.(1859)326、P. Regnaud, Matériaux pour servir à l'histoire de la Philosophie de l'Inde(1876)38 が教えるところである。

Großmogul Schāh Jehān の長子 Mohammed Dārā Schakōh が1656年に Delhi で Benares の Pandit たちに作らせた50 Upaniṣad のペルシア語訳である。それは彼が弟 Aurang Zēb によって殺害される一年前のことであった。Bernier の Travels in the Mogul Empire の時代である(前掲 S. 4 参照)。Dārā は厳格なムスリムではなく、ヒンドゥーの哲学に傾いていた。Constable 版 Bernier's Travels S. 101, 345 参照。サンスクリット作品がペルシア語に訳されたことは他にも起こっている。前掲 S. 20 で述べたインド法についての最古の英語著作は、次の表題をもつ。"A Code of Gentoo Law, or Ordinations of the Pundits. From a Persian translation, made from the original written in the Shanscrit language"。サンスクリットから直接英語に訳しうる者がいなかったので、サンスクリット原典はまず "the official language of India" たるペルシア語に訳されねばならなかった(Colebrooke's Biogr. S. 73, 74)。Benfey はこの英訳のフランス語訳とドイツ語訳にも言及しており、ドイツ語訳は R. E. Raspe による(Hamburg 1778)。ある言語から他の言語への継起的翻訳の最も有名な例は Pañcatantra であるが、その Pehlevi 語への翻訳はすでに紀元6世紀に行われた。二次翻訳は、この場合のように一次翻訳が失われているときには、文献学にとっても意義を得る。

Anquetil Duperron は1731年に Paris に生まれ、1805年に同地で没した。Tieffenthaler との関係と旅行記のゆえにすでに言及したが、彼は Zendavesta をもインドから Paris へもたらした。インドに渡るために彼は、1754年に Pondichéry へ向かうフランスの一連隊に入隊した。現地で彼は新ペルシア語を習得し、Surat であるパールシー司祭を通じて Zendavesta をも知った。フランスとイギリスの戦争は彼にすべてを成し遂げさせなかった。サンスクリットの習得は断念せざるをえなかった。1762年に Paris へ帰った彼は東洋諸言語の通訳の職を得、1771年にフランス語訳 Zend-Avesta, ouvrage de Zoroastre を刊行した。その後にようやく Upaniṣad に向かい、そのペルシア語訳は1775年に友人 Le Gentil——"tunc apud Nabab Soudjaeddaulah, in urbe Faisabad, ministerii Gallici nomine residentis"〔当時 Faisabad 市に、フランス公使の資格で Soudjaeddaulah 太守のもとに駐在していた〕——の好意によって入手した。彼の二つの主著はいずれも、さしあたり検証されえなかった。Anquetil Duperron はさまざまな分野に通じていた。"Oupnekhat" において彼は、インド人の教説をキリスト教教父(Synesius)およびギリシア哲学者の教説と比較した。当時存在したインドについての著作を彼は詳細に研究していた。Emendationes et Annotationes には Dow, Tieffenthaler, Roger がしばしば引用される。Monitum ad Lectorem への長い注では、彼は雑多な順序で Mignot, Knox, Kaempfer、ポルトガル人 Couto(その著作は1612年刊)、Lettres édifiantes 中のイエズス会士の報告、La Croze, Roger、デンマーク人宣教師の報告、Baldaeus(東インドの Malabar・Coromandel 海岸および Zeylan 島の記述, 1672)、Lord、Ezour-Vedam、Bagavadam、Wilkins(Bhag., Hitop.)、Holwell, Dow, Halhed を挙げている。しかしまた Kircher, Bernier, Marco della Tomba, Rennell、さらに Grose, Ovington, Baillie(Traité de l'Astronomie indienne)、Le Gentil(Voyage dans les mers de l'Inde)、Bayer——その著作から彼は I 618 で

インド人の太陽年についての著名な数学者 Euler の所見を採っている——、Sinner(I 642)その他も見出される。Anquetil Duperron は単なる熱狂者ではなく、卓越した知識をもつ真摯な研究者であった。もっとも東方の宗教的英知には強く惹かれていた。¹⁾「処刑斧の支配下で」書いた Oupnekhat 第2巻の序文で、彼は自らの窮乏した生活と、最高存在を渇望しつつ肉体の解体を待つ心境とを描いている。この翻訳のこうした情調は、数十年を経てなお感受性ある心に作用を及ぼした。Schopenhauer はこの著作からインド哲学を知り、『パレルガとパラリポメナ』II 427²⁾ の第XVI章でその感懐を表明している。また医学博士 Fr. Mischel は、ペルシア語訳のラテン語訳をなお1882年にドイツ語へ移した。³⁾ この著作が文献学に引き入れられたのは、A. Weber の「Anquetil du Perron 訳に含まれる Upanishad の分析」が1850年以降『インド研究』の数巻にわたって(I 247—302, II 1—111, IX 1—173)連載されたことによって初めてである。彼はその前置きで、「サンスクリット原典を併せもつあらゆる場合において、Anquetil の著作は実際に全く決定的に注釈の位置を占める」と述べている。主要な Upaniṣad が Bibliotheca Indica に現れた後、Paul Regnaud(élève de l'École des Hautes Études)はその著書 "Matériaux pour servir à l'histoire de la Philosophie de l'Inde"(Paris 1876)において、Weber の仕事を哲学的側面から補い、主要教説を主要箇所によって例証した。この点で彼は John Muir の "Original Sanskrit Texts" の方法に従っている。Regnaud はすべての点で時代の水準にあったわけではなく、Weber がその書評で指摘したとおりである(Ind. Streifen III 563)。哲学者にしてサンスクリット学者でもある Paul Deussen が、その大著『Veda の六十 Upanishad』(Leipzig 1897)によって、Oupnekhat を集成としてもあらゆる点で代替し凌駕した。彼はサンスクリット原典そのものを注釈とともに基礎に据え、訳出した Upaniṣad の数も50から60に増やした。Weber 以前には Anquetil Duperron の著作はほとんど顧みられなかった。Gildemeister, Bibl. Sanscr. Spec. S. 23 は Comte Lanjuinais の分析——初出は1823年 Journal Asiatique——のみを挙げている。

Anquetil Duperron に比しうる存在がギリシア人 Demetrios Galanos であり、彼によってギリシアもサンスクリット文献学の初期に関与している。1760年に Athen に生まれ、1833年に Benares で没した彼は、1786年に Calcutta へ赴き、ギリシア人商人 Pantazes の子弟の教育を引き受けた。

¹⁾ Anquetil Duperron は宗教学史においても役割を演じている。近年これを詳細に扱ったのは N. Söderblom, "Das Werden des Gottesglaubens"(Leipzig 1916)S. 364 以下である。

²⁾ 1891年の Frauenstädt 版による。Anquetil du Perron の Oupnekhat についての美しい一節は次の言葉で結ばれる。「それは(原典を除けば)この世で可能な最も報い豊かで高揚させる読書である。それは私の生の慰めであり、私の死の慰めともなるであろう」。Spranger 教授は Schopenhauer の主著『意志と表象としての世界』からも、インド哲学と仏教への評価を表明した複数の箇所を教示してくれた。I 419, 458, 487, II 186, 371, 583(Nirwana), 695, 716 である。

³⁾ "Das Oupnek'hat, die aus den Veden zusammengefaßte Lehre von dem Brahm", Dresden、C. Heinrich 委託出版・印刷、1882。L. v. Schroeder, Indiens Lit. und Cult., S. 239 以下参照。

六年後に彼は Benares に赴き、そこでバラモンのように生活しつつ、生涯の終わりまで古代インドの文献と神智学の研究に沈潜した。生前に彼自身は翻訳を何一つ公刊しなかったが、遺稿を Athen 大学に遺贈した。それは大部分が G. K. Typaldos と G. Apostolides Kosmetes によって次第に7巻で刊行された。第一巻 Δημητρίου Γαλανοῦ Ἀθηναίου Ἰνδικῶν Μεταφράσεων Πρόδρομος 等(Athen 1845、Gildemeister Bibl. Sanskr. Spec. Nr. 63 参照)には Galanos の生涯も記されており、ギリシア語訳で Bhartṛhari の Nīti- および Vairāgya-śataka、「さまざまな詩人からの」330詩節(12詩節は未訳)を含む。後者のうち110詩節は Klatt によれば他所で Cāṇakya に帰されるものである。さらに Cāṇakya の86詩節(Laghu-Cāṇakya と呼ばれる伝本)、最後に Jagannātha Paṇḍitarāja の Bhāminīvilāsa 第1巻からの98詩節を含む。Bhāminīvilāsa は1862年にインド版によって、次いで Bergaigne 版(Paris 1872)によって初めて完全に知られるようになった。Bhartṛhari については当時すでに v. Bohlen 版(Berlin 1833)があった。Cāṇakya については、最初の紹介として Gildemeister Nr. 299 にギリシア語表題の第二の著作が挙げられている。Nikola Kaiphala の Σύνοψις Γνωμῶν Ἠθικῶν τοῦ Ἰνδοῦ φιλοσόφου Σανακέα 等(Rom 1825)であり、Galanos の存命中に出たものであるが、Galanos の訳とそれへのイタリア語訳を含むにすぎない。Galanos は1823年にその翻訳をサンスクリット原文とともに Nikolaos Kephalas に託し、ギリシア国民議会に提出させようとした。しかし Kephalas はこれに疑わしい種類の付加を加えて自らの名で刊行し、サンスクリット原文はヴァチカン図書館に寄贈してしまった(Prodromos S. 108 参照)。後者は後の1878年に E. Teza が Annali delle Università Toscane 第XVI巻 S. 362 以下、その学識ある論考 "Laghucāṇakyam, Sentenze Indiane" S. 357 以下において公刊した。彼のために Ignazio Guidi が写本から転写したのである。これは Galanos の翻訳の原典として知られるようになった唯一のものである。Vṛddha-Cāṇakya は J. Klatt がその学位論文 De trecentis Cāṇakyae poetae Indici sententiis(Halis Saxonum 1873)で刊行した。それに先立って師 Weber がすでに1864年に論考「Cāṇakya の百箴言について」(Berlin 学士院月報)で Laghu-Cāṇakya を訳出しており、"Indische Streifen" I 253 以下に再録されている。¹⁾

第II巻(1847)は Jaina の Amaracandra の Bālabhārata を含む。1866年に "Paṇḍit" 第IV巻に現れたサンスクリット原文の印刷に基づき、Weber は1873年に ZDMG. 第XXVII巻 S. 170 以下(再録 "Indische Streifen" III 211 以下)で、Galanos の翻訳を参照しつつ、この Mahābhārata の韻文梗概の分析を与えた。第III巻(1848)は Bhagavadgītā を含み、Galanos はこれを Θεσπέσιον Μέλος と名づけた。第IV巻(1850)は Raghuvaṃśa、第V巻(1851)は Itihāsasamuccaya、すなわち Mahābhārata の挿話集成であり、そのサンスクリット原典はまだ公刊されていない。その一部を E. Teza が

¹⁾ 以下の記述の大部分は E. Kuhn の覚書に基づく。彼は1912年に Athen の第16回国際東洋学者会議で行った(未刊行の)Galanos 講演と、その資料を私の自由に供してくれた。同会議の Actes には Galanos の Bhagavadgītā 訳についての Pavolini の所見があり、より詳しくは Giornale della Società Asiatica Italiana 1912 に公表されている。J. Gennadius, "Demetrius Galanos the Greek Indologist"(Transactions of the Third Internat. Congr. for the History of Religion, II 105—113)参照。

〔頁下部の版面表示〕4*

前掲書 S. 386 以下に与えている。第VI巻(1851)の Pañcatantra, Hitopadeśa, Śukasaptati の翻訳は不完全である。Benfey は、Galanos が用いた Pañcatantra の写本が通常本文より寓話一篇を多く含むことを指摘した。Śukasaptati は後に R. Schmidt が DMG. の Abhandlungen において刊行した(Leipzig 1898)。最後に第VII巻(1853)は Δουργᾶ の表題のもと、Mārkaṇḍeyapurāṇa の Devīmāhātmya を含む。これは Poley が刊行・翻訳したものである。Galanos の翻訳は Hoefer, Benfey, Weber, Bergaigne によって認められている。

Galanos が行った選択は、彼個人の精神的傾向を示すのみならず、そもそもサンスクリット文献から最初に取り上げられた作品群の性格にも対応している。それらが当時の Pandit たちに特に尊重されていたためか、あるいはヨーロッパの趣味に特に適うものとしてまずヨーロッパ人にもたらされたためかは別として。Galanos による Bhāgavata Purāṇa の(不完全な)翻訳は、資金不足のため併せ刊行されなかった。そのほか遺稿には、サンスクリット・ギリシア語辞典、あるいはペルシア・サンスクリット・ギリシア語辞典を目指す大部の語彙的労作が数種含まれる。さらに、おそらくその典拠として、Sir W. Jones の発意により Kāśīnātha Paṇḍitendra が編んだ Śabdasandarbhasindhu と、Keśava の Kalpadru の写しがある(Aufrecht, Cat. Cat. 参照)。遺稿全体は Ἰωάννης および Ἀλκιβιάδης Ἰ. Σακκελίων 編の Κατάλογος τῶν χειρογράφων τῆς Ἐθνικῆς Βιβλιοθήκης τῆς Ἑλλάδος(Athen 1892)S. 307 以下、Nr. 1836—1855 に記載されている。

Galanos の生涯の仕事を全体として見れば、翻訳・原典・辞書によって同胞にサンスクリット文献への道を開くというその大計画に欠けているのは、文法書だけである。

インドそのものにおいても、イギリス支配下でまず翻訳が、次いでようやくサンスクリット原典が印刷された。翻訳者にして刊行者として第一位に立つのは、Bengal の神智学者 Ram Mohun Roy であり、彼は当時の宗教生活においても政治生活においても大きな役割を演じた、Brahma-Samāja の創設者である。その人物と活動については最近 Dinesh Chandra Sen が History of Bengali Language and Literature(Calc. 1911)S. 931 以下で詳しく描いている。彼は1774年に Calcutta 近郊の Rādhānagar に生まれた。彼は一切の儀礼を "idolatrous" として斥け、ヒンドゥー・キリスト教徒・ユダヤ教徒・ムハンマド教徒が一致しうるようなインド的色彩の一神教を唱えた。¹⁾ その思想は Upaniṣad と Vedānta に根ざす。"In spirituality he was a Vedantist and in morality he was a follower of Christ"〔霊性においては Vedānta 派であり、道徳においてはキリストの追随者であった〕(前掲書 S. 947)。かくして彼は Kena- および Īśā-Upaniṣad の翻訳(Calc. 1816)、Kaṭha- および Muṇḍaka-Upaniṣad の翻訳(Calc. 1819)、これら四つのサンスクリット原文を Bengal 文字で Śaṅkara の注釈とともに(Calc. 1818)公刊した。これらはまさに、後のこれら原典の刊本、たとえば Bibl. Indica 第VIII巻(1850)でも冒頭に置かれている同じ Upaniṣad である。また彼は Śaṅkara 注付き Vedānta の sūtra の最初の刊本をも促した。Gildemeister Nr. 419 参照。1830年11月に彼は政治的目的でイングランドへ赴き、1831年4月に到着した。現地で大いに敬われ、1833年に Bristol で没した。古いサンスクリット文献とその内容は、初めから文献学的・

¹⁾ Gildemeister Nr. 423 および 424 に記載された著作参照。

言語学的研究の対象であったのみならず、詩人・神学者・哲学者たちも常に最大の注意を寄せてきた。

しかし文献学的・言語学的学問が十分に展開するためには、学者たちがサンスクリットを習得しうるようになり、サンスクリット原典が原語で一般に入手可能となることが不可欠であった。個々の原典刊本は公刊されていたが、なお大部分の、しかも最も重要な作品については写本に依拠せざるをえなかった。時が教えたように、写本はインドの Pandit、僧侶、諸侯の手許に数千点存在した。Pandit たちが自らの śāstra の主要原典の写本を——一部は自ら筆写し、一部は古い伝本として——所持することは、すでに幾世紀にもわたって行われていたであろう。Colebrooke はその研究の一部を、自ら入手したこうした写本に依拠させた。彼は豊かな蒐集をすでに1819年に London の East India Company に寄贈し、それが India Office Library の基幹をなしている。同じくこの図書館に入ったのが "Mackenzie Collection"、すなわち他の東洋語写本をも含む Lieut. Col. Colin Mackenzie の蒐集であり、その目録は H. H. Wilson が刊行した(Calc. 1828)。この重要な目録の資料は主として南インド由来であり、古い時代に多く利用された。Gildemeister S. 161 以下の最古の写本目録の一覧には、他の著名なイギリス人の名も見出される。Sir William Jones——その小規模な蒐集の目録はすでに1798年に Ch. Wilkins が公刊した——、Sir Robert Chambers——その Veda 写本によって名高い蒐集は後に Berlin の王立図書館のために購入された——である。Oxford の Bodleian Library のサンスクリット写本蒐集は、Aufrecht によれば1837年以降に成立したものであるが、そこには H. H. Wilson, W. H. Mill, A. Walker の古い蒐集が入っている。最も早くサンスクリット写本の蒐集が存在したのは Paris であった。ヨーロッパにおけるサンスクリット文献学の最初の出発にとって、これは特別の意義をもった。その目録はすでに1807年に現れている。"Catalogue des manuscrits sanskrits de la bibliothèque impériale, Avec des notices du contenu de la plupart des ouvrages, etc. Par A. Hamilton et L. Langlès"。この蒐集の写本を Fr. Schlegel と Fr. Bopp がサンスクリット研究に用い、また Hamilton-Langlès の目録から Heeren はその文献知識の一部を汲んだ。

サンスクリットの文法的習得の基礎となったのは、イギリス人の文法書、すなわち H. T. Colebrooke(Calcutta 1805)、W. Carey(Serampore 1806)、Ch. Wilkins(London 1808)のもの、および H. P. Forster の "An Essay on the Principles of Sanskrit Grammar Part I"(Calcutta 1810)である。Henry Pitts Forster は1766年頃に生まれ1815年に没し、Bengal Civil Service に属し、最後は Master of the Calcutta Mint であった。彼は Ward, Marshman と同じく、Bengal 語の涵養に大きな功績を残した。William Carey は1761年生、1834年没、宣教師にして "teacher of the Sangskreet, Bengalee and Mahratta Languages in the College of Fort William" であり、Hitopadeśa、Daśakumāracarita("abridged by Apayya")、Bhartṛhari の箴言を含む読本をも刊行し(Serampore 1804)、これには Colebrooke が序文を書いた。また Joshua Marshman とともに Rāmāyaṇa の刊行を開始した(Serampore 1806—1810)。Carey は Marshman, Ward と同じく

Serampore(Śrīrāmapura)の Baptist Mission に属し、Dinesh Chandra Sen, History of Bengali Language and Literature S. 850 以下に詳しく評価されている。¹⁾ これら最初の文法書は土着文法に依拠しており、Colebrooke は Kaumudī の配列による Pāṇini に、その他は主として後代の文法家 Vopadeva に依拠している。Carey を除いてこれらはすべて Bopp が『Sanskrita 語の詳細な体系』(Berlin 1827)のために利用した。Forster について彼は『Sanskrita 語批判文法』(Berlin 1834)の序文でなお「最も内容豊かでしかも甚だ正確」と特徴づけ、Wilkins を「最も明晰であるが、そのパラダイムには文法法則への違反が多い」、Colebrooke を「インドの原型(Kaumudī の配列による Pāṇini)の方法を踏襲する点で最も忠実」と評している。それゆえ Colebrooke の文法書は未完ながら「国民文法の研究への入門としては同じく有益であるが、言語の教科書としては不十分できわめて晦渋である」という。Colebrooke 自身、文法書の序文で Forster と Carey の文法書を参照するよう指示していた。それでも Colebrooke は、自らの著作をインドの文法上の主要権威の上に築いたという点で、学問的に唯一正しいことを行ったのである。Bopp が初めそうしたように Vopadeva に依拠することは、初歩のための便法とみなしうるにすぎない。Colebrooke の依頼に遡るのが、1809年の有名な Calcutta 版 Pāṇini であり、Dharaṇīdhara が始め Kāśīnātha が完成したもので、sūtra の字句の初歩的説明のほかに、Mahābhāṣya, Kāśikā, Kaumudī 等に含まれるより広い注釈からの抄録を備えている。この Calcutta 版が Böhtlingk の Pāṇini 校訂本の底本であった。かくして Colebrooke はここでも、学問が実際に辿った発展に決定的な影響を及ぼしたのである。

ヨーロッパの学者たちは、手許にあるサンスクリット原典から文法を構築する必要をもたなかった。そのような文法はまず甚だ貧弱なものとなったであろう。むしろ

¹⁾ Carey は1794年に Baptist Missionary Society によって最初の宣教師として Bengal へ派遣された。イギリス領内で宣教を興すことを許されなかったので、1799年に当時デンマーク領であった Serampore へ移った。彼と、1799年にともに Bengal へ来た Ward および Marshman によって Serampore の Baptist Mission が成立した。主として Carey の尽力によって同地に設立された印刷所——Ward はそこで実務にも従事した——は、第一義的には聖書の Bengal 語・サンスクリット語その他への翻訳のためのものであった。三人はいずれも熱心な宣教師であったが、とりわけ Ward はヒンドゥーの異教の忌まわしさを強調し、自らや他人が見たことを誇張して、やや散漫な数巻の著作に記した。その著作は古代インド人の宗教・習俗・慣習を、またサンスクリット文献をも扱う。Ward のヒンドゥー教に対する立場については v. Bohlen『古代インド』S. 78 以下が論じている。Colebrooke が Essays を書いたのと同じ時代に出たにもかかわらず、その精神と非学問的性格からすれば、この著作はむしろサンスクリット文献学の前史に属する。その信頼性の乏しさを Colebrooke は Essay on the Philosophy of the Hindus の二つの注で十分に示唆している(Transact. of the RAS. II S. 7 および 9)。初めは "Account of the History, Litterature and Religion of the Hindoos, including translations from their principal works"(Serampore 1811、四つ折4巻)の表題をもち、第2版以降は "A View of the History, Literature, and Mythology of the Hindoos: including a minute description of their manners and customs, and Translations from their principal works" となった。私が用いた第3版は London 1817年および1820年に八つ折で出ている。数版を重ねたのであるから、一定の層では多く読まれたに違いない。Ward はその著作に他の著作からの長い抄録を挿入しており、たとえば IV³ 76 以下の Veda についての部分は Colebrooke の Essay On the Vedas からである。彼自身が原典についていかに知識をもたなかったかは、たとえば IV³ 56 以下の "List of Treatises now extant under the head Vedŭ" から明らかである。

インドではすでに二千年以上前から文法体系が形成されており、その精確さと次第に達成された完全性において世界に比類を見ない。この体系をヨーロッパ人は受け継いだのであり、ただ自らに合うように咀嚼すればよかった。しかしインドの文法家たちは、なお別の方向でもヨーロッパの学問に深く介入している。彼らはまた最初の言語分析者でもあった。彼らはサンスクリットの語と形を、その最も近い有意味な要素すなわち語根(dhātu)と接尾辞(pratyaya)に分解したのみならず、すべての語根を Dhātupāṭha と呼ばれる一覧に集め、接尾辞の機能を、その付加に伴う音的変化とともに規定した。彼らはこうした特徴やその他の造語上の特性を、文法教説において anubandha ないし it と呼ばれる指標文字の付加によって示す。この記憶術的方法もまたその種において賛嘆に値するが、我々の言語学習の仕方からすればこれを保持することはできない。Pāṇini においては言語分析と言語形成が最も密接に結びついている。言語はその要素に分解され、文法はこれらの要素から語と形を再び正しく組み立てることを教える。これは人工的な過程であるが、サンスクリットの正しい形成を一挙に確定した。個々の点で、言語要素の分離と判定において誤りがありうるとしても、インドの文法家は初めて原理的に語根音節と接尾辞音節の相違に注意を向けたのである。Pāṇini は自らの分析に基づいて、サンスクリットの形成に先立って語根と接尾辞がまだサンスクリットの語に融合していない時期があったとか、語根音節が語であった時期があったとかは、どこにも述べていない。言語分析を歴史化したのは近代の言語研究者たちである。もっとも今日では言語発生論的問題は後退し、再構成しうる祖語の類型を越えない現実的方向が支配している。比較文法はサンスクリット文法に根ざしている。ヨーロッパの学問が理念と資料においていかに多くを加えたにせよ、である。Bopp が見出したのは三つのものであった。第一にサンスクリットそのものにおいて、早くに文字に固定されたがゆえにとりわけ古風な言語であり、屈折形と語尾が全体として他の言語より音的に崩れていないものを。第二にこの言語の、土着学者によってすでに完全に遂行された体系的文法を。第三にこの文法において、親族言語の同じ構造への眼を必然的に鋭くさせる完全な言語分析を。Lassen は1830年、Bopp のサンスクリット文法についての批判の末尾近くで、『インド文庫』III 第1分冊 S. 112 にこう述べている。「私はまた率直に次の意見を告白したい。すなわち、インドの文法家たちが自らの言語についてかくも優れた鋭利な体系を我々の前に立てていなかったならば、我々は今日到達しているインド語知識の段階に、なお長く到達しなかったであろう、と」。

【原書 p. 55(承前)】

§第 VI 章 ロマン派

§FRIEDRICH SCHLEGEL、ROBERTSON、HEEREN

ドイツにおいてもまた、まず受容的な土壌に落ちたのはバラモンの宗教的・哲学的教説であった。

それはロマン派の時代であり、人類の一般史を解明しようとする志向の時代であった。中国と並んで、なおよく証拠づけられた古い文化をもつインドが登場した。¹⁾ ここでも翻訳がその作用を及ぼした。繰り返し我々が出会うのは Jones 訳の Manu の法典であり、そのうち二書、すなわち第一書と最終書は神話的・哲学的内容をもつ。Johann Gottfried Herder はその有名な著作『人類史の哲学のための諸理念』(Carlsruhe 1790, 第II巻 S. 373 以下)においてまだインドについて多くを知らず、実際、宣教師と旅行者を通じて当時知られていた以上のものは知らなかった。しかし彼の崇拝者である Jena の私講師 Friedrich Majer(1772—1818)は、それまでに現れた英訳を知っており、これを彼に媒介した。Majer の著作『諸民族の文化史のために』(Leipzig 1798, 2巻)に Herder は序文を寄せ、そこでこう述べている。「人類の文化史にとってより興味深いのは、いかなる有害な技芸の発明者でもなく、いかにも多くの有用な技芸の発明者たるかの温和な国民、ヒンドゥーである。我々をその天空の下に置くものはすべて、我々をより慎み深く、より穏やかにする魔力をもつ。近ごろ現れた Menu の法典(W. Jones の幸いなる勤勉の最後の果実)をも用いた著者の編纂は、我々を穏やかに彼らのもとに留まらせる。そして Sakontala が惜しくもこれまで彼らの完成された精神的作品の唯一の見本にとどまり、それが他の一切に代わるものとして通用せざるをえない以上、たとえすでに知っていようとも、人はそれのもとに喜んで留まるのである。来たるべき時が我々にさらに多くの Sakontala を、諸民族の文化史への最も美しい寄与を与えんことを」。²⁾ Majer が1800年までにインド神話について知っていたところは、「Alwina へ」と題する書簡の形で公表された。Ludwig Tieck の『詩的雑誌』第一年次(Jena 1800)S. 165—216、「インド人の神話的詩について」という表題のもとにである。Goethe の二行連句に接続しつつ Sakontala を熱狂的に賛美した後、彼は序論において Brahma とインドの霊魂論について論じ、次いで Brahma, Wischnu, Schiwa を筆頭とするインドの神々と精霊の世界全体についての短い概観を加えている。彼が自由な仕方で再現する神話的詩は、I.「Bagawadam による創造の物語」(Gildem. S. 56, 注1 参照)、II.「Menu の法典による創造の物語」、III.「Amreeta すなわち不死の飲料と、神々の巨人に対する勝利について」(Gildem. Nr. 135 参照)である。同種のものが、Seckendorf の『1801年 Weimar 復活祭手帖』S. 168—199 における公表、すなわち「インド人の聖典よりの断片」と「インド人の四つの世界時代」である。Wilkins の Bhagavadgītā 訳の彼による翻訳と、Jones の Gītagovinda 訳³⁾ の彼による翻訳は、ともに1802年に現れ、Gildemeister に記載されている。

¹⁾ Majer と Fr. Schlegel についての G. Witkowski の厚意ある教示によれば、Fr. Schlegel はその「神話についての講話」(Athenaeum 第3巻, 1800, S. 103)においてインドに関してこう述べている。「東方においてこそ我々は最高のロマン的なものを求めねばならない。そして我々がまずその源泉から汲みうるようになれば、今スペインの詩において我々にかくも魅力的な南方の灼熱の趣は、おそらく再び西洋的で乏しいものに見えてくるであろう」。

²⁾ Herders Sämtliche Werke, hrsg. von Suphan, 20. Bd., Berlin 1880, S. 343 以下参照。

³⁾ 同じ年に F. H. von Dalberg による Jones に基づく Gītagovinda 訳が現れ、その省略のゆえに Goethe が Schiller 宛書簡(1802年1月22日および2月19日)で批判している。Jones が省いたものは当然 Majer にも欠けている。

サンスクリットとインド古代を扱ったロマン派の最も重要な著作は、Friedrich Schlegel の有名な書『インド人の言語と英知について。古代学の基礎づけのための寄与』(Heidelberg 1808)である。「第一書 言語について」「第二書 哲学について」「第三書 歴史的理念」からなる。第一書において Friedrich Schlegel は Franz Bopp の先駆者として現れる。Delbrück が『言語学入門』の冒頭で示したとおりである。哲学の比較的考察においては、インドの流出説が彼にとって特に重要である。彼はそもそも「人間はその地上の歩みを神なしに始めたのではない」という見解をとる(S. 90、その思想過程の要約は S. 159 参照)。¹⁾ 第三書では、諸民族の最古の移動と「インドの植民地」——彼はこれによって言語的に親族関係にある諸民族を理解する——についての論述が特に注目に値する。しかし Fr. Schlegel がヨーロッパの地におけるサンスクリット文献学のかすかな端緒を画するのは、彼がある程度のサンスクリット知識を身につけ、その書の付録に収めたインドの詩の韻文訳のために Paris の写本を用いたという点においてである。もっともそれらはほとんどすべて、彼以前にすでに訳されていた作品である。すなわち I.「Ramayon の冒頭」、II.「Monu の法典第一書からのインドの宇宙開闢論」、III.「Bhogovotgita より」、IV.「Mohabharot による Sokuntola の物語より」である。Fr. Schlegel はサンスクリットの研究を、後の Bopp と同じく Paris で行った。「1803年春から1804年まで」である。Paris の図書館は当時すでにフランス人宣教師を通じてサンスクリット写本を所有していた。帝室図書館の東洋写本の Conservator は Louis Mathieu Langlès であり、Schlegel はその快い好意を序文で称えている。しかし当時 Paris で真にサンスクリットを解した唯一の人物は、捕虜となっていたイギリス海軍士官 Alexander Hamilton であった。²⁾ 彼が Fr. Schlegel にサンスクリットを教えた。ある報告によれば毎日三時間であったという。³⁾ Friedrich Schlegel 自身、兄 August Wilhelm 宛の1803年5月15日付 Paris からの書簡でこう述べている。⁴⁾「しかしそれ以外は私にとって素晴らしく順調でした。というのも実に多くを学んだからです。ペルシア語で進歩しただけでなく、ついに大きな目標に到達しました。すなわち Samskrit を確実に習得したのです。四か月のうちに Sakontala を原典で読めるようになるでしょう。もっともその際にはなお翻訳を必要とするでしょうが。それには途方もない努力を要しました。大きな複雑さと、独自の推測の方法と労苦とを要したからです。私は入門書なしに初歩を学ばねばならなかったのです。最後に大いに助けとなったのは、イギリス人 Hamilton が、

¹⁾ 奇妙なことに、まさに Othmar Frank が Fr. Schlegel の宗教史的根本見解に反論を唱えている。1835年10月10日付の v. Bohlen 宛の哲学的書簡においてである(v. Bohlen 自伝、第2版 S. 148)。「Fr. Schlegel は周知のように、事物のあらゆる理性的な進行に反して、最高のインド的英知と最も完全な発達とを、ヒンドゥーの原初と事物の始まりに置き、その他の虚構をこれに結びつけた」。

²⁾ Lefmann『Franz Bopp』補遺 S. XXXII 以下参照。A. Hamilton は1762年生、1824年没、1808年からは Haileybury College のサンスクリットおよびヒンドゥー文学の教授であった。Gildemeister は彼を1810年 London 版 Hitopadeśa の刊行者とみなしている。Schlegel の1825年2月28日付 Lassen 宛書簡参照。

³⁾ Helmine von Chézy, "Unvergessenes", Leipzig 1858, I 270 参照。

⁴⁾ Friedrich Schlegels Briefe an seinen Bruder August Wilhelm, hrsg. von Walzel, Berlin 1890, S. 511。

ヨーロッパで Wilkins 以外にこれを知る唯一の人物であり、しかも実に徹底して知っており、少なくとも助言をもって私を助けてくれたことです」。きわめて特徴的な箇所であり、その典拠の教示を私は G. Witkowski に負う。Fr. Schlegel が徹底したサンスクリット知識をもたなかったことは、その書の言語比較の部分に挙げられるサンスクリット語の綴り方からも多く知られる。序文で述べるように、彼は当時の帝室図書館で、Bengal 文字で書かれた無名の宣教師の写本を用いた。それは 1. "Vöpodevo" の "Mugdhobödho"、2. "Omorosinho" の "Omoroköscha"、3. "Kovikolpodruma" を含んでいた。彼はインドのクレストマティーを刊行する願いさえ抱いており、そのために "Bhogovotgita, Ramayon und Monu's Gesetzbuch" からの断片を予定していた。また "Sokuntola" 第一幕の写しと、「初学者に特に適した Hitopadesa」の一部の写しをも所持していた。これらはまさに、当初から前面にあったのと同じ原典である。

サンスクリットの多くの語がラテン語・ギリシア語・ドイツ語・ペルシア語の語と同一であることを見て取るのは、大きな功績ではなかった。Colebrooke はすでにキムリ語をもこの親族関係に引き入れていた(前掲 S. 27 参照)。Fr. Schlegel は言語に充てた第一書の末尾近く(S. 85)で William Jones を、「示された親族関係と、ローマ語・ギリシア語・ドイツ語・ペルシア語のインド語からの由来とによって、初めて言語学に光をもたらした」人物と称している(前掲 S. 24 参照)。Schlegel が的確に強調したのは、これらの言語の類似が多数の語根においてのみならず、最内奥の構造と文法にまで及ぶということである。この後者の点についても彼は、その軽やかに論じる流儀で特別の章において立ち入っている。精確な音韻論の必要性がまだ彼には明らかになっていなかったので、単なる音の類似に基づいて、相互に属さない多くのものをも並置している。Fr. Schlegel が第一章で、上述の諸言語がサンスクリットから「導き出された」と述べているとしても、他の箇所ではより慎重に、インドの言語は他の親族言語よりも古いが、しかしそれらとともになお古い共通の祖語から導き出されうるとも述べている(S. 62, 66)。

Fr. Schlegel の第三章「歴史的理念」よりも、古代インドの本来の歴史についていくらか多くを含んでいたのが、数年前に出たスコットランド人 William Robertson の書 "An historical Disquisition concerning the Knowledge which the Ancients had of India; and the Progress of Trade with that Country prior to the Discovery of the Passage to it by the Cape of Good Hope. With an Appendix, containing Observations on the Civil Policy — the Laws and Judicial Proceedings — the Arts — the Sciences — and Religious Institutions, of the Indians"(Basil: Printed and sold by J. J. Tourneisen, 1792。序文は "May 10th, 1791" の日付。第2版 1794、また "The Works of William Robertson" 1812 および 1824 の第XI巻に再録)である。これはドイツでも Georg Forster の翻訳によって知られるようになった。「Dr. Wilhelm Robertson's, Königlichen Historiographen von Schottland, historische Untersuchung über die Kenntnisse der Alten von Indien, und die Fortschritte des Handels mit diesem Lande vor der Ent-

deckung des Weges dahin um das Vorgebirge der Guten Hoffnung. Nebst einem Anhang」等(Berlin 1792)。A. W. Schlegel は、これこそ彼をサンスクリット習得に決定的に向かわせた二つの書物の一つであると告白している。もう一つは今しがた論じた弟の書である。Robertson 自身は Major Rennell の Memoir によってその著作へと促されたのであった。¹⁾

Robertson が古代インドについて書いた最初の人ではないにせよ、インド古代の総括的取扱いは彼の書とともに始まる。それは Heeren と v. Bohlen においていよいよ内容豊かとなり、Lassen の『インド古代学』において一つの頂点に達する。注によって補われた Robertson の書の主要部をなすのは、古代人のインド知識、陸路と海路によるインドへの道、Vasco da Gama とそれ以後に至るまでの研究であり、とりわけ商業に注意を払っている。これは本来インド古代学への序論にすぎず、古代学そのものへ Robertson が踏み込むのは付録においてである。それはすでに上掲の翻訳の表題からも知られる。彼が簡潔に、ここでも注によって叙述を補いつつ扱う対象は、I カースト、II 国制と統治形態、III 法と裁判、IV 技芸、とりわけ建築、また織物・布地・金属と象牙の細工、美文学、V 学問的知識、とりわけ算術と天文学、VI 宗教である。もっともその典拠はなお甚だ乏しい。彼はサンスクリットに膨大な文献が存在することを知ってはいるが、既知の翻訳による Bhagavadgītā, Śakuntalā, Hitopadeśa と、Halhed の Code of Gentoo Law(前掲 S. 20 参照)しか知らない。他の典拠としては、とりわけ大帝 Akbar とその宰相 Abul Fazel の著作を、記念建造物については Niebuhr の旅行記を重んじる。記念建造物は一部は pagoda、一部は城砦である。すでに Robertson において第一位を占めるのは、Bombay に程近い Elephanta 島の岩窟寺院であり、彼はこれを太古のものとみなす。他の個々の点もまた、彼と Heeren の内的連関を認めさせる。A. W. Schlegel は彼と Heeren に接続しており、v. Bohlen は Heeren の叙述を自らのサンスクリット知識によって補おうとすると明言している。

A. H. L. Heeren の『古代世界の最も主要な諸民族の政治・交通・商業についての諸理念』は、初め二巻で Göttingen 1791年および1796年に現れ、第一部はアフリカ諸民族、第二部はアジア諸民族を扱った。この初版では彼はインドをペルシアの一州としてのみ、古代人の報告に従って扱い(II 300—349)、インド人の文化には立ち入らなかった。この叙述は Robertson の書の主要部と比較しうる。第2版以降はアジアが第一に、アフリカが第二に置かれている。まず第2版として第二部(アフリカ諸民族)が1804年に、次いで第一部が二巻に分けて(ただし通し頁付けで)1805年に出た。第一分冊にはペルシア人が含まれ、そのうちに旧来の章「ペルシア領インド」がある(I 1, 384—439)。これに1812年に第三部第一分冊(ヨーロッパ諸民族、ギリシア人)が加わった。最初の二部の第3版(1815)に至って初めて、第一部第二分冊において

¹⁾ 彼は序文の冒頭でこう述べている。"The perusal of Major Rennell's Memoir for illustrating his Map of Indostan, one of the most valuable geographical treatises that has appeared in any age or country, gave rise to the following work."〔いかなる時代いかなる国にも現れた最も価値ある地理学的論考の一つである、Indostan 図を解説する Rennell 少佐の Memoir を読んだことが、以下の著作を生ましめた〕。

フェニキア人・バビロニア人・スキタイ人の後に、インド人についての特別の章が加えられた(I 2, 291—704)。その長さは一部には彼のやや冗長な文体にもよる。しかし彼が Robertson の書を知っていたとしても、古い著作のみならず、それ以後に現れた新しい研究にも依拠している。一般史家として Heeren は、サンスクリットの知識なしに到達しうるものを活用した。第一章は「インド古代学の批判的展望」という表題をもつ。ここでも「建築の記念物」が大きな役割を演じている(S. 302—381)。彼は Robertson より多くのものを論じる。「Salsette 島と Elephante 島の驚異的施設」その他が加わっている。その典拠は Hodges, Niebuhr, Gough, Lord Valentia, Daniell, Langlès, Anquetil Duperron(「Zend Avesta への前置報告」)、Ch. Ware Malet("Description of the Caves or Excavations, on the mountain, about a mile to the eastward of the town of Ellore" 等、Poonah 1794年12月22日付、Asiatic Researches 第VI巻所収)の諸著作である。彼は pagoda を詳細に記述し、その建造の歴史をさえ試みている。碑文が未知の文字で書かれていることに Heeren は繰り返し注意を促している(S. 328, 331, 388 以下)。解読された碑文については S. 381 以下で論じており、それは Wilkins が扱ったものである。次いで彼は "Deva Nagari" に、そこからサンスクリットに論を進める。サンスクリットの特徴づけのために彼は Paulinus a Sancto Bartholomaeo——彼は "Paullino" と呼ぶ——の文法的著作に依拠し、また Colebrooke の Essay on the Sanskrit and Prakrit Languages と Friedrich Schlegel の『インド人の言語と英知について』をも引用する。Carey の文法書については、その高価さ("eight Guineas")に言及しつつ、表題のみを知っている(S. 396)。現実に向けられた古代研究者にとって、サンスクリットの年代と故郷の問題、それがどの程度民衆の話す言語であったか、また今日のインド諸言語がそれとどう関係するかという問題は身近であった。「この言語の真の故郷」は北インドである(S. 410)。とりわけ彼は Cashmir を念頭に置いていた(S. 404)。彼の Veda 文献の叙述にいかに多くの正しいものが見出されるかは驚くべきである。もっともここでは Colebrooke という確かな導き手があった。しかし彼自身もまた、批判的精神をもって学んだところから重要な点を取り出すことを心得ていた。Upaniṣad こそインド神学の本来の基礎である(S. 421)。Veda をインド宗教の源泉と称するとき(S. 430)、彼はとりわけこれを念頭に置いていた。Anquetil Duperron の Upnekhat に対しては十分に公正ではない。祭司の宗教と民衆の宗教を彼は区別する。後代の民衆的神話——Viṣṇu とその受肉たる Rāma および Kṛṣṇa の崇拝、Śiva と liṅga の崇拝を伴う——の源泉として、彼は叙事詩をみなす。Buddha については、かつてインドの大部分を支配したに違いない宗派の創始者であり、その教えと祭祀はバラモンのそれと矛盾していたため、両者の間に不倶戴天の憎悪が生じ、それが仏教徒のインドからの駆逐に終わったということしか知らない(S. 435)。ここでも彼はその知識を Jones と Colebrooke からのみ得ているようである。しかしいたるところで彼は鋭い線を引く。インド外で仏教が見出されるすべての民族にはカースト区分がない。そこから彼は、Buddha がそれを斥けたと推論する。インド文献のさらなる叙述のために彼は、Veda がインド人において

立法のみならずあらゆる学問的知識の源泉とみなされるという点から出発する。Dharmaśāstra については Jones と Colebrooke に依拠する。後者のインド哲学についての論考は当時まだ出ていなかったが、土着の文法と辞書学については、やはり Colebrooke に従って、乏しくはあるが的確な観念を与えている。他の典拠に従うところでは、それに応じた名前の綴り方が直ちに現れる。これらの典拠には Abul Fazel の "Ayeen Acberi" の翻訳が属し、そこから彼は Rājataraṅgiṇī("Ray Turunghee")について報告している。インドにおける歴史記述を「詩人の歴史」と呼び、同様に「詩人の地理」を語るのは巧みな表現である。Rāmāyaṇa の内容は Carey と Marshman の英訳付き刊本(第I巻 1808)に従って与える。Mahābhārata については、"Ayeen Acberi" からの英訳のドイツ語訳という形で、18 parvan("Purbhs")の内容の短い概観を伝えている。それは Akbar の命によって成立したペルシア語訳 Mahābhārata に由来するものであった(S. 480)。次いで彼が語る Kṛṣṇa と Kaṃsa の物語は Mahābhārata にはなく、Harivaṃśa と Purāṇa にある。神話的なものは Lausanne 出身のスイス人 de Polier——長く East India Company に勤務した——の記録から採っている。"Mythologie des Indous, travaillée par Madame la Chanoinesse de Polier, sur des Manuscrits authentiques apportés de l'Inde par feu Mr. le Colonel de Polier"(1809)である(S. 510)。サンスクリット文献の核心部分の高い年代については、彼は全く Colebrooke と同意見である。彼は繰り返し Bentley(As. Res.)の見解を論駁する。Bentley は主として天文学的理由から Vikramāditya と Kālidāsa 等をきわめて後代に引き下げようとしたのである(S. 407, 459, 531)。個々の Purāṇa についての彼のその他の記述は、Langlès の Catalogue des manuscrits sanskrits de la Bibliothèque Impériale(1807)に遡る。抒情詩と戯曲詩についての論述のためには、とりわけ Jones を引用する。原典そのものとしては、Dalberg 訳の Gītagovinda と、Jones 訳の Śākuntala しか知らなかった。同様に教訓詩については Jones を通じて Hitopadeśa を知っている。第一章の末尾 S. 546 で彼はサンスクリット文献の四時期を立てる。1. Veda の時期、2. 叙事詩の時期、3. Vikramāditya の詩的・学問的時代(文献は宮廷文学の性格を帯びた)、4. 中世の諸世紀であり、この間にとりわけ Purāṇa が現在の形を得た。

「インドのより古い歴史・国制・商業についての断片」という表題をもつ第二章(S. 557)において特に興味深いのは、Heeren が「詩人の歴史」の記述から歴史的基盤を得ようとしている点である。彼はカーストの相違から出発する。バラモンのより明るい肌の色から、そこにアーリヤ系インド人が最も純粋に保たれていると推論する。Śūdra の暗い肌の色は「異族とのより強い混淆」に由来する。Paraśu-Rāma の伝説を彼は、バラモンが宗教によってのみならず戦いによっても kṣatriya に対する優位を得たという意味に解する。より上位のカーストのみが、Jones の言うように「Iran から」導き出しうる。叙事詩においてガンジス地方がインドの主要地方である(Indus が Ṛgveda の主要河川であることを Heeren はまだ知らなかった)。そこから

バラモン的インド人は北から南へ広がった。我々が遡りうる限り、そこにあるのは統一的民族ではなく、多数の部族と諸国である。彼は Rāmāyaṇa を最古のインド叙事詩とみなすので(S. 573)、Kosala 国の Ayodhyā(Oudh)から始める。そこへ Daśaratha は Kāśī(Benares)、Magadha(Bihār)、Sindhu、Surāṣṭra(Surate)、Aṅga、Suvīra の王たちを招く。同じ表象、すなわちインドが多数の独立国に分かれた国であるという表象は、Mahābhārata でも支配的である。主要国はガンジス地方の Kuru-Pañcāla の地であり、「北の山地から Bengal まで」に及ぶ。分割後は Pāṇḍava("Pandos")の首都 Indraprastha(Delhi)と、Kaurava("Coros")¹⁾ の首都 Hāstinapura とに分かれる。Mahābhārata そのものはまだ彼に入手可能となっていなかったので、他の国としては、Ayodhyā が沈んだときに興隆したという Kanyākubja("Canoje")の王にのみ言及する。しかし Ayodhyā 王国と並んで、Magadha が最古の王国の一つであったと彼は考えたようである。ここで彼は Palibothra-Pāṭaliputra——彼はこれを Patna に求める——と、Sandracottus-Candragupta について論じる。後者についてはギリシアの報告とインドの報告の間に、実際以上に大きな相違を見ている。²⁾ Aśoka とその碑文についてまだ何も知らなかったので、Sandracottus 以後インドの歴史は再び闇に沈む(S. 585)。約200年後に Vikramāditya の「輝かしい治世」が来るが、これは今日ではむしろ「詩人の歴史」とみなされている。Jones のある論考から彼は、Purāṇa に含まれる王名表をも知っていた。Dekkhan の文化について Heeren は岩窟寺院に依拠して過度に空想的な像を描く。ここで彼は Ozene(Ujjayinī)と、Periplus から Tagara(サンスクリット Devagiri)、「Ariaca 地方の大首都」を挙げる。その後に述べる文化状態、国制の形態、カースト等の大部分については、「Menu の法典」が主要典拠である(S. 595 以下)。特に興味深いのは、一夫一婦制、王の権力、官吏、都市と共同体の共和制的性格、土地所有についての論述である。インドの商業については、Arrianus に帰される紀元1ないし2世紀の Periplus Maris Erythraei が出発点をなす。慎重に Heeren は、そこからより古い時代についても想定しうるものを規定しようとする。そのうちにはインド商人の海上航行、西方と東方への海外貿易も属する。インドには見るべき金銀鉱山がないので、(Rāmāyaṇa の描写における)金の量は活発な対外貿易を推論させるという。インドの鋳造貨幣の年代については

¹⁾ ここで "Coros" が Kaurava から作られたように、すでにギリシア人によって "Pōros" が Paurava から作られている。

²⁾ ギリシア人の報告については、Heeren はすでに先の巻でペルシア領インドの研究において論じていた。ギリシア人においては Palibothra は Prasii の首都として現れる。これは西方の住民が東方の住民に与えた一般的な呼称にすぎない。実際、西方出身の Pāṇini が prāñcaḥ について語るのと同様である。そこでは一部は東方の諸民族(prācāṃ deśe I 1, 75)、一部はその文法家たちが理解されるべきである(Böhtlingk の索引参照)。——インドの伝承によっても Candragupta は低い出自の人物であった。父方では Nanda であったにせよ、その母 Murā は低いカーストの出であった。戯曲 Mudrārākṣasa では彼自身の大臣が彼を Vṛṣala の名で呼んでいる。

Heeren はまだ確かなことを知らない。インドから持ち帰られたもの、あるいはインド商人が輸出したものは、宝石、真珠、最も多様な織物、香辛料、「薫香」であった。絹と毛皮は中国から来た。産物、稲作、隊商貿易その他については、今日開かれた古い文献が Heeren の予感しえたよりはるかに多くを教える。しかし書かるべき歴史の章の表題を、彼は多くの点で正しく付けたのである。末尾で Heeren はインド人をエジプト人と比較する。建築においても類似があると主張する点は、古い時代については特に強い誤りである。古代エジプトは記念物によって我々に語り、古代インドは忠実に保存された口頭伝承と文献によって語る。Heeren はエジプト文化がインド文化の影響を受けた可能性を開いたままにしている。その逆は正当にも排除している。

§第 VII 章 O. FRANK

インドの古い歴史と文化により深く入るためには、ドイツの学者たちにサンスクリットの習得を容易にする必要があった。二人の南ドイツ人、Othmar Frank と Franz Bopp が、Paris で並行して、自国政府の支援を受けてサンスクリット研究に従事し、次いでほぼ同時にそれぞれサンスクリット文法書を刊行した。Frank は1823年、Bopp は1827年であり、前者はラテン語、後者はドイツ語による。両者は競争者であり、互いに近い関係をもたなかった。すでに壮年に達していた Frank は哲学的方向を追求した。Bopp は purus putus grammaticus〔純粋無雑の文法家〕であった。言語比較を方法的学問へ高め、そこでサンスクリットが重要な地位を占めるようにしたことによって、彼は広い範囲でサンスクリット研究を促した。また彼の Nalus はドイツ人学者によるサンスクリット原典の最初の刊本でもあったが、彼にとって文献は言語資料としてのみ問題であった。Frank も同様に、文法書に先立ってすでにクレストマティーを刊行していた。彼の関心はより文献の内容に向けられていたが、しかし厳密な文献学的訓練を欠いていた。Bopp の文法家としての名声は残ったが、文献学的方向においては Frank も Bopp も、ドイツ・サンスクリット文献学の最初の指導者たる August Wilhelm v. Schlegel と Lassen によってきわめて早く凌駕された。

Othmar Frank は1770年に Bamberg に生まれ、1840年に没した。その著作において我々はまず Bamberg の哲学教授として彼に出会い、次いで Würzburg の Professor Philosophiae ac Philologiae Orientalis, Indicae inprimis ac Persicae となり、1826年からは München の新設大学に移った。生涯の第一期において彼の著作は哲学的・空想的性格をもち、光の国にして原初の光の宗教の国たる Iran に熱狂していた。この「ペルシア主義」を彼は著書『東方よりの光』(Nürnberg und Leipzig 1808)で唱え、これをライン同盟の保護者 Napoleon に、「時代の最も強力な Avatar(バラモンの意味における)」に献じた。この書は「ドイツにおける哲学的ペルシア学院、すなわち

東方とドイツ国民の最古の英知の学会を設立するための」予備的理念を含んでいる。ドイツ語を彼はなお全く非学問的な仕方でペルシア語から導き出していた。彼は Anquetil Duperron と Kleuker に言及する。"Samscredam" については当時、Paulinus a St. Bartholomaeo の文法書 Sidharubam からのみ知っていた。同種のものが彼の著作 "De Persidis Lingua et Genio, Commentationes Phaosophico-Persicae"(Norimbergae 1809)、『物理的緯度の両極としてのペルシアとチリ、および地球の認識のための指標点。侍従 Alexander von Humboldt 氏への書簡において』(Nürnberg 1813)、『ペルシア語・インド語・ドイツ語の言語と神話の比較による動的言語生成の試論断片』(Nürnberg 1813)である。こうした前歴の後では、Bopp のような文法家や Lassen のような文献学者が彼を正当に評価しようとしなかったのも理解できる。もっとも彼は第二期において尊敬に値するサンスクリット知識を身につけていた。この第二期をもたらしたのは、Paris と London における三年間の研究滞在であり、それは王室の援助によって可能となった。Paris では Bopp と同時期であった。彼は Bopp に嫉妬していたという。後年の著作の序文では、Paris よりも London について多く語り、Wilkins と Colebrooke の厚遇を称えている。Würzburg に帰った彼は、München 1817年に石版刷の Conspectus Chrestomathiae Sanskritae を刊行し、次いでその本体を二部に分けて刊行した(München 1820, 1821)。すなわち Yates が Calcutta でその "Sunscrit Grammar" と "Sunscrit Reader" を刊行したのと同じ年である。Frank が Bopp と並んでドイツで最初のサンスクリット原典を、London の写本から刊行したことは認めねばなるまい。それは Mahābhārata、Kullūka 注付き Manu、Śaṅkara の Bṛhadāraṇyaka 注の冒頭と Ānanda の複注、および Bhagavadgītā からの断片であった。Gildemeister, Bibl. Sanskr. Spec. Nr. 53 参照。最初の断片は初学者のために語ごとに分析し、他の原典には翻訳を付した。最初の原典は Devanāgarī とその下に転写を付して与え、合字の説明を加えたが、第I部の他の原典は転写のみ、第II部の原典は Devanāgarī のみである。第II部の末尾には曲用・活用・字母の表がある。予定された語彙集付きの第III部は刊行されなかった。サンスクリット活字が入手できなかったので、彼は石版を用いざるをえなかった。orthoepiae tabula、そもそも文字の形は Wilkins の文法書から採った(S. X)。Schlegel が1821年に "Specimen novae Typographiae Indicae" を与えた後も、Frank はその方法を続け、Würzburg での国王の訪問を "Novum Scripturae Hindorum Specimen, quod adparatu typographico-lithographico, nunc denuo instructo, dandum curavit Othmarus Frank"(Wirceburgi 1823)をもって祝した。同じ年に、typographice et lithographice sumptibus propriis〔活版と石版により自費で〕——石版への転写はある婦人 Theresia Hoyer が行った——、第二の主著 "Vyākaraṇam | Śāstracakṣuṣ | Grammatica | Sanscrita |"(Wirceburgi 1823)が現れた。彼はドイツにおけるこの最初のサンスクリット文法書を Maximilian Joseph 王に献じた。王はクレストマティーと同様、その刊行をさらなる援助によって容易にしたのである。Praefatio では、それまでに現れた文法的著作に言及し、そのうち Colebrooke と Wilkins のものを特に強調している。彼はまたここで

最初のサンスクリットの手ほどきについて A. Hamilton に謝意を表している。文法書そのものは音論・形態論のほかに統語論の章をも含む。誤りがないわけではなく、一部にはインドの文法家が構成した語をパラダイムとして用いており、たとえば sugaṇ などである。しかし四つ折218ページにわたって、言語構造の使用に堪える概観を与えた。Bopp と Bonn の人々は Frank のクレストマティーと文法書について好意的に語らなかった。Bopp は1820年11月14日付の Windischmann 宛書簡で彼について述べている。クレストマティーについての Bopp と Schlegel の評は Lefmann の Bopp 論 I S. 75 以下に挙げられている。ふだんそれほど鋭く判断しない Lassen の、Frank の文法書についての言葉には強い誇張が含まれている。1824年7月30日付の Schlegel 宛書簡である。「……あの書を研究しながらなお平静な気分を保ちうるとすれば、それは実に強靭な頭脳の証拠でありましょう」(Briefwechsel S. 58)。Supplementum において Frank は年代順にさらに文献からの実例を挙げるつもりであった。文献において彼は三つの時代を区別した。Vikramāditya I の saeculum aureum に至る Veda 期、そこから10世紀の Bhojadeva 王——同じく学問の友であった——に至る第二期、そこから近代に至る第三期である。この Supplementum は現れず、同じく Praefatio で予告した Encyclopaedia Sanskrita とインド文献史の著作も現れなかった。後者がどのようなものになったであろうかは、彼が創刊した雑誌『Vyāsa、ヒンドゥーの哲学・神話・文献・言語について』から推測される。その第1分冊は München und Leipzig 1826年に、第II・III分冊は1830年に出た。第一分冊は、彼が招かれた München の Ludwig-Maximilians 大学の開学に際して現れた。彼はその間に Theresia Hoyer 夫人の助力を得てサンスクリット活字を鋳造させており、これはドイツで彫られ鋳造された第二のインド文字だという(S. VIII 以下)。彼は Bonn と Berlin の活字、また Schlegel の『インド文庫』にも言及するが、Schlegel と Bopp の名は挙げていない。序論「Saṃskṛt 文献の学問的内容について」——そこで彼は Govardhana の Āryāsaptaśatī のある箇所に従って18の異なる学問分野を挙げる——と、Saṃskṛt 文法の文献についての第一論説——ただしそこでは文法についての著作を提示するよりも、文法について哲学的に論じている——の後、彼の雑誌はその他ほぼ全面的に、彼の哲学的流儀でインド哲学を扱っている。導き手は Colebrooke であり、その写本蒐集を彼は London 滞在中に閲覧してもいた。彼の長い注 Nr. 2 参照。クレストマティーと文法書が示すように、彼はある程度まで真に確かな言語知識をもった最初の人々の一人であった。もっとも個々の点では誤りを指摘しうる(たとえば garīyas の曲用において)。平易な原典には十分であったが、Śaṅkara の注釈には及ばなかった。冒頭から彼は複合語と文の誤った切り方によって正しい理解に達していない。しかし当時これは、Pandit の助力なしには他の者にも達成しえなかったであろう。Frank は孤立して仕事をし、哲学的語法をまだ十分に知らず、また哲学的原典の深い意味を捉えたと安易に信じ、実際以上に神秘的で不明瞭なものに見せてしまった。インド哲学は

彼を特に惹きつけたものであり、それに第三の主著も充てられている。『ヒンドゥーの哲学。Sadananda の Vaedanta-Sara、初めてサンスクリットとドイツ語で訳出し、Rama-Krishna-Tirtha の注解からの注記と抄録を付す』(München und Leipzig 1835)。ドイツにおいて、特定の原典と翻訳によってインド哲学を具体的に示そうとする最初の試みである。Ballantyne の翻訳は当時まだ現れていなかった。Frank の自立した試みをいかに評価しようとも、この翻訳もまた同時代人に不明瞭という印象を与え、多くの箇所で誤っている(たとえば S. 6 で āropa の意味を捉えていない)。Frank はさらに München 学士院第I部門の論集の最初の数巻に、別の対象に関わる論考を複数発表している。論考「インド Illora の岩窟寺院の一つにおける世界建設者 Viśvakarman の像について」(第I巻 S. 765 以下、1835)は、彼が研究を考古学的領域にも広げていたことを示す。彼はここで Ellora についての Malet、Th. および W. Daniell、Sykes、Erskine、Seely、Melville Grindlay の著作に言及している。それまで Buddha とみなされていたある像を Śiva と解することによって、彼は Śiva の造形的表現とこの神の本質について論じる機会を得る。これを彼はインド哲学と関連づけ、そのためにとりわけ自らの Vedāntasāra 訳を用いる。彼は Śiva が崇拝される liṅga を、Sāṃkhyakārikā の liṅgaśarīra と結びつけさえする(S. 812 以下)。同様の仕方で彼は次に Viṣṇu について論じている。論考「インドの図に基づくインド神話の一記念物について」、同じ München 学士院論集第II巻(1837)S. 301 以下である。「イギリスの Campbell 将軍がインドで現存する記念物に基づきインドの画家に描かせた」図の集成が Wien に来ており、そのなかに Frank は中央に Viṣṇu を置く人物の多い一葉を見出し、詳細に解説した。これに続いてさらに小さな論考「München の王立古物館のいくつかのインドの偶像と、国王陛下の Glyptothek の二つのインドの頭部について」が同書 II S. 381 以下にある。Śiva と Viṣṇu についての箇所を採ったサンスクリット原典の範囲は、さほど大きくない。彼はしばしば Moor の Hindu Pantheon と Raffles の History of Java を引用する。Frank の最後の仕事は「エジプトにおけるインド的親縁、とりわけ神話に関して」という表題をもち、同じ München 学士院論集第III巻 S. 99 以下(1840)にある。Frank はここで Wilson の Purāṇa からの抄録とインドの諸宗派についての論考を称賛し、次いでいささか自負をこめてこう述べる。「インド神話の根本線については、本質的な点で私のさまざまな論考において提供しえたと信ずる」(S. 120)。エジプト文化がインド文化の影響を受けたということは、Heeren も可能とみなしていた。Frank がいかにしてエジプトのうちにインド的なものを求めたかは、エジプトの神々の最初の Amon Hnub にすでに現れている。Svayambhū すなわち非顕現者(avyakta)が世界の顕現のために精神から一切を生み出す manas を高める以前、彼は amanas であった。それが Amon だという。もう一方の名はサンスクリット hnuvat「隠す、秘する」だという。二つの古い民族を比較することは教訓的でありうるが、文化的連関の想定をこうした語源的な思いつきの上に築いてはならない。

この論考においてもまた Frank は、インド哲学から学び知ったところを活用したのである。

【原書 p. 67(承前)】

§第 VIII 章 FR. BOPP

サンスクリットの比較言語学的・言語学的取扱いにおいて、すべての先行者を影に置いたのが Franz Bopp である。1791年に Mainz に生まれ、1867年にプロイセン王立学士院会員かつ Berlin 大学教授として没した。彼は Friedrich Schlegel の書によって触発された。¹⁾ Schlegel と同じく彼も Paris で研究したが、そこで実際にサンスクリットを習得した。サンスクリットの多くの個々の語と形は、Bopp 以前にすでにペルシア語その他の親族言語の対応する語と形と並置されており、この言語の類似は彼以前にすでに親族関係に基づくものと解されていた。しかし歴史においては、ある思想を誰が最初に語ったかよりも、誰が最初にそれを人を燃え立たせるような仕方で語ったかの方が重要である。この点火の作用をもったのが、サンスクリットの活用体系についての Bopp の著作であった。それは、後に印欧諸語の最初の比較文法をも書いた同じ人物の処女作である。比較的考察においては、形の起源についての推測がほとんど必然的に生じる。とりわけこの理論的側面——Bopp 自身が最も重きを置いた側面であるが——において、彼の著作はもはや今日に完全には適合しない。というのも理論は世代ごとに変わるからである。各世代はその真理の一片を残し、また各世代はその誤りにおいて訂正されねばならない。しかし Bopp の見解は、誤りと判明した箇所においてさえ、より良き認識への契機を与えた。サンスクリットの出現以前にも言語の連関についての理論はあり、ヘブライ語が祖語とみなされ、ラテン語はギリシア語のアイオリス方言から導き出そうとされた。透明で形態に富むサンスクリットとの接触によって初めて、印欧諸語の緊密な結合が明らかとなったのである。この認識は、従来どおりセム語その他の言語にも印欧語との関係を発見しようとする試みを妨げはしなかった。

その広汎な書簡集の公刊によって初めて Salomon Lefmann の Bopp 伝²⁾ は高い価値を得たが、それは Bopp の形成過程への洞察を与えるのみならず、1816年以降 Bopp がヨーロッパにおけるサンスクリット研究の主要な推進者としていかに見られていたかをも示す。この書簡集において我々は、19世紀前半にサンスクリット文献学および言語学の歴史に名を残したほとんどすべての学者に出会う。Mainz がフランス領となった後、両親とともに Aschaffenburg に移った彼は、同地のギムナジウムとリツェウムに通い、そこでカトリックの哲学者

¹⁾ 1815年11月20日付の Windischmann 宛 Bopp 書簡、Lefmann, Fr. Bopp I 32* 参照。

²⁾ "Franz Bopp, sein Leben und seine Wissenschaft", 第1分冊 Berlin 1891、第2分冊 1895、補遺(W. von Humboldt との書簡を含む)1897。Bopp の評価については Benfey, Gesch. d. Sprachw. 370 以下参照。追悼文「Franz Bopp」は A. Weber により1867年10月30日付 Haude- und Spenersche Zeitung 第254号に掲載。

Windischmann が師であった。Bopp 自身もカトリックであった。Windischmann は1818年に Bonn に招かれた。Bopp は Berlin 時代に深く入るまで彼と最も友好的な交わりを保ち、教皇制についての Bopp の言葉が鋭く斥けられたこと(1820年1月9日および2月5日付書簡)によっても、それは永続的には損なわれなかった。両者の最後の書簡は1829年11月21日および12月2日付である。1821年5月15日付 Berlin からの書簡でなお彼は、この父のごとき友が門弟たちのうちにより高い見解を呼び覚ましたことを称えている。「貴殿なくしては、私は東方へ向かうことをおそらく品位に欠けたことと考えていたでありましょう」。それに先立って「本来のギリシア学者たち」については、自らの領域に囚われすぎており、視線を他所へ向けることを批判に対する罪と考えている、と述べている。Windischmann はロマン派の意味において東方に関心をもち、Bopp から Brahma その他の哲学的対象についての新しい箇所を得て自らの著作に取り込むことを望んでいた。それによって Bopp は意に反して哲学に引き止められることになったが、1829年11月21日付の最後の書簡では、師の哲学的著作を書評することを断っている。彼はここで特徴的な言葉を書いている。「インドに関わる一切のうち、私にとって最も重要なのは言語であります。そしてその有機体の解剖において、また親族方言に対するその関係と一般的言語世界におけるその意義についての研究においてのみ、私は真の喜びと親密な信頼をもって著述者として現れるのであります」。原典の校訂もまた彼にとっては目的のための手段にすぎない。A. Weber は繰り返し Windischmann の主著『世界史の進行における哲学』に言及しているが、それはこの著作そのもののためというよりは、そこに含まれる Upaniṣad の箇所の翻訳——サンスクリットに通じた息子 Friedrich が提供したもの——のためである。しかし K. J. Windischmann は、Bopp を助けた友情と理解のゆえにも、学問史において顕彰されるに値する。彼は Bopp の処女作のために出版者を世話し、それに序言("Vorerinnerungen")を書いた。また彼の推薦は、Bopp がバイエルン政府と München 学士院から Paris およびのちの London 滞在のための援助を得ることに寄与した(1814年8月 Windischmann 宛)。

Bopp は Paris と London で研究した。Paris では19世紀初頭に Silvestre de Sacy が活動しており、当時最も著名な東洋学者であった。¹⁾ したがって Bopp も1812年に Paris へ来たとき、まず彼のもとでアラビア語を、またペルシア語を学んだ。「ただインドの諸言語だけはここでは読まれず、誰もこれを研究しておりません」と彼は百年前、Windischmann 宛の最初の書簡(1813年1月1日付)で述べている。しかしサンスクリットについては Chézy に期待している。「聞くところでは、ここでこの言語を手がけているのは彼だけです」。Chézy は1773年生、1832年没であり、後になって Collège de France のサンスクリット教授に任じられ、1815年1月に講義を始めた(1815年1月10日付 Bopp の Windischmann 宛書簡)。Bopp は初めから図書館で作業した。彼もまた Langlès の親切な厚遇を称えている。Langlès は Chézy が遅すぎるとして、彼にサンスクリット文法書を書くよう促し、自らの

¹⁾ Hartwig Derenbourg "Silvestre de Sacy"(Techmer's Internat. Zeitschr. für Allgemeine Sprachw. III〔1886〕S. I—XXVIII)参照。

豊かな蔵書から資料を提供した。1816年4月3日付 Bopp の Windischmann 宛書簡、Lefmann I 38*。Bopp は、十年前の Friedrich Schlegel と、同時期に München 学士院の援助で Paris に来ていた Othmar Frank と、また Chézy のもとに登録しながらその講義には出ずすでに4月に Paris を去った August Wilhelm Schlegel と、同じ状況下で研究を始めた(1815年2月24日 Windischmann 宛)。Bopp は Schlegel にサンスクリットを教えた。

サンスクリットへの習熟は困難であった。補助手段もインドの Pandit も欠けていた。1814年7月27日になお Bopp はこう書いている。¹⁾ 翻訳なしにはいかなるインドの写本も訳しえず、Chézy も——サンスクリットに6年長く従事していたにもかかわらず——ほとんど同様である、と。このことから、ヨーロッパの学者たちが繰り返し、インドで印刷されすでに現地で加工された原典に依拠したことが説明される。Bopp は熱心な読書によって自立しようとした。1825年1月30日付の年長の Burnouf 宛書簡によれば、彼は Mahābhārata 全体を通読した(1817年9月25日付 Windischmann 宛書簡参照)。辞書が欠けていた(1815年8月24日 Windischmann 宛)。Wilson の Sanscrit Dictionary は1819年に Calcutta で初めて現れ、しかも甚だ高価であった。

Bopp はすでに1814年8月の Windischmann 宛書簡を次の文で始めている。「私はかねてよりサンスクリットとその娘たちとの比較文法を書く計画をもっております」。その娘のうちに彼は、予備的研究に基づいてアルメニア語をも数えている。この目標を見据えた研究の最初の果実が、既述の書『ギリシア語・ラテン語・ペルシア語・ゲルマン語の活用体系と比較したサンスクリット語の活用体系について。原文からの精確な韻文訳による Ramajan と Mahabharat の挿話、および Veda からのいくつかの章を付す。K. J. Windischmann により刊行され序言を付す。Frankfurt a. M. 1816』である。Veda の讃歌は Colebrooke の Veda 論考に由来し、J. Merkel が英語からドイツ語に訳したものである。Rāmāyaṇa からの一篇も彼以前にすでに訳されていた。Mahābhārata からの諸篇のうち、そのような助けなしにサンスクリットからドイツ語に移したのは Hiḍimbabadha の一篇のみであった(Lefmann, Fr. Bopp I 39 参照)。この著作とその好意的受容については書簡集で多く語られている。しかし文法的に彼にとって主要な点は、書簡中の次の文に表明されている。「言語において一つの全体へと融合した異種の要素を区別するという私の体系は、ここで大きな喝采を得ております」(1817年9月25日 Paris、Windischmann 宛)。当時、少なくともドイツでは Bopp よりサンスクリットをよく解する者はいなかったから、この処女作が含む初歩的なサンスクリットの誤りも好印象を損ないえなかった。Bopp が当時25歳であり、この難しい言語を大した助けもなく四年足らず学んだにすぎないことを考えねばならない。やがて彼には A. W. Schlegel と Lassen という鋭い批判者が現れた。

皇太子、のちのバイエルン王 Ludwig から特別の資金を与えられて、Bopp は1818年に

¹⁾ 1814年8月1日付 Bopp の Windischmann 宛書簡参照。

London へ赴いた。彼はインド旅行さえ計画していた。London で彼は Colebrooke と Wilkins を知った。ロマン派から触発された言語研究者は、Colebrooke が当時のインド人の知識と関心を我々に伝えた記述的方法に対して、ほとんど理解をもたなかった。Colebrooke は前掲 S. 28 に挙げた Veda についての判断によって Bopp の心証を害していた。その判断はおそらく主として Veda の祭儀的部分に関わるものであった。Ṛgvedasaṃhitā, Śatapathabrāhmaṇa その他の類似の著作は、当時の北インドの Pandit たちにとって、宗教的にも文献的にも関心の前面にはなかった。London からの最初の Windischmann 宛書簡(1819年3月1日付)ですでに Bopp は、Colebrooke と知り合ったこと、当地の東洋学者のうちで彼に最も関心をもっていること、その知識のゆえにも、またとりわけそのインド写本の優れた蒐集のゆえにも、と述べている。London からの第二の書簡(1819年8月25日付)では、Colebrooke がその蔵書全体を東インド会社に贈ってしまったので、もはや彼から何も期待できないと報じている。次いでこう続ける。「Wilkins は Colebrooke よりインド文献への感受性をもっています。Colebrooke には、インド人の原初の詩の高い厳粛さ、威厳、愛すべき素朴さがほとんど印象を与えず、彼にはむしろ後代の詩の技巧的な詩句の方が好ましいのです」。さらに一面的なのは、1820年8月26日付の A. W. Schlegel 宛書簡での判断であり、そこで彼は Wilkins が明晰で分かりやすい文法書によって不滅の功績を得たと語りつつ、Colebrooke についてはこう述べる。「この人物は才能と広汎な知識をもつ人には見えますが、精神と天分を欠いております」と。Wilkins による Kāśīnātha の Dhātumañjarī の刊本(Gildem. Bibl. Sanscr. Spec. 399 参照)をも Bopp は「使用に快適」と評した。Wilkins がサンスクリット文献学の初期史において名誉ある言及に値することは確かである。その著作は欠陥にもかかわらず多く用いられたからである。A. W. Schlegel は1829年5月5日付の Bopp 宛書簡で、「善良な Wilkins、我々みなが修業時代に多くの恩義を負う人」と語っている。Lassen が1824年5月4日付書簡で Wilkins についてあまり好意的でない所見を述べたとき、Schlegel は返信で、Lassen が「彼との友好的交わり」を保つよう努めることを望んでいる(Briefwechsel S. 26, 32)。しかし Colebrooke のより大きな学問的意義を評価しえたのは、Bopp よりも Lassen であった(Briefwechsel S. 81)。

Bopp の Mahābhārata 読解の果実が、ラテン語訳付きの Nalopākhyāna 刊本である。Paris の一写本に加えて London でさらに五本の写本を利用しえ、本文を Nāgarī 活字で自費刊行した。Nalus, carmen sanscritum e Mahabharato, London 1819。彼はこうした著作をサンスクリット研究の促進と普及のために不可欠と考え、また採算がとれると信じていた。「ヨーロッパで印刷された唯一のサンスクリット書」たる Wilkins の Hitopadeśa が当時もはや販売されていなかったからである。Nalus の費用は90ポンドに上った。一部は「1ギニーで」売られ、そのうち Treuttel und Würtz から彼が受け取ったのは13シリング6ペンスであった。1819年3月1日および8月25日付の Windischmann 宛書簡参照。O. Frank の Chrestomathia Saṃskṛta 第一部——これも自費刊行——が現れたのは翌年、Monachii 1820 である。しかし Nalopākhyāna は Bopp 以来、初学者に好まれる原典であり続けた。初めは Bopp の校訂本で、後にはクレストマティー

その他の刊本において。Bühler さえこれをその教科書 "Third Book of Sanskrit"(第2版 Bombay 1877)に採り、E. Hultzsch がそのドイツ語語彙集をも刊行した。あまり知られていないのは、同じく London で行われた Bopp の活用体系論の英語版である。それは "Analytical Comparison of the Sanskrit, Greek, Latin and Teutonic Languages, shewing the original identity of their grammatical structure" の表題で、今日稀覯となった雑誌 "Annals of Oriental Litterature"(London 1820)に現れた。Lefmann I 68 および 91* 参照。F. Techmer が Franz Bopp の記憶を顕彰するために、この英語版を自らの編集する『一般言語学国際雑誌』第IV巻 S. 1 以下(1888)に、自身の歴史的序言を付して再刊したのは、思慮に富む着想であった。今日の立場から判断すれば、それは原著と同じく個々の点で多くの誤りと誤った見解を含むが、しかし少なくとも歴史的にはきわめて重要な、言語形式の比較と分析における Bopp の根本思想が、ここでは特に明瞭に現れている。改められた表題がすでにそれを示唆している。Delbrück もまた『言語学入門』における Bopp の根本思想の叙述のために、とりわけこの英語版を用いた。狭義の屈折を Bopp は畳音と音的な語幹階梯のうちにのみ見出し、その他の文法形式は代名詞的要素および助動詞との合成によって生じたとする。¹⁾ きわめて注目に値するのは、当時 Bopp がサンスクリットの a について述べたことである。Techmer 版 S. 18: "I rather think that the sign used for the short a, was put also to express a short e and o"〔短い a に用いられる記号は、短い e と o を表すためにも用いられたと私はむしろ考える〕。この真理はしばらく忘れられていた。この英語版についての W. v. Humboldt の詳細な書簡(1821年1月4日付)——Lefmann にも収められている——を Techmer はこの再刊に付した。Humboldt は「いまや真剣にサンスクリット習得の試みをなす」決意を固めたのである。

Bopp はそれまでドイツのいかなる大学でも学んでいなかった。²⁾ Würzburg への招聘が実現せず、München 学士院への就任もそう早くは望めなかったので、彼は1820年の冬を Göttingen で過ごし、そこでとりわけヘブライ語とアラビア語に従事した。Göttingen の哲学部は彼に名誉博士号を授与した。そこから彼は Berlin へ赴き、W. v. Humboldt と多く交わった。Humboldt はすでに London で Bopp によってサンスクリットに導かれており、サンスクリットの重要性を確信していて、Bopp が30歳で1821年に Berlin 大学に招かれることに本質的に寄与した。そこで彼は、初め員外教授として、1825年からは正教授として、また1822年からは学士院会員として、生涯を終えるまで生き、働いた。1867年10月23日に彼は没した。

Berlin で Bopp はサンスクリット文法書、Glossarium Sanscritum、および比較文法を書いた。Würzburg の Othmar Frank は

¹⁾ W. v. Humboldt は、屈折が「かつて意味をもっていたものの残存ではない」単なる文字の付加によっても生じえたと考えていた。1820年4月7日付 Bopp 宛書簡(Lefmann, Nachtrag 10)。

²⁾ Göttingen からの1820年11月14日付 Windischmann 宛書簡で彼は、Schelling と Schlichtegroll の助言により Göttingen へ来たと述べ、「とりわけ私はドイツのいかなる大学にも在学したことがないからです。Aschaffenburg が大学であったことは誰も知りませんので」と言っている。今日であれば、このような「不規則な」者は、学位審査に受け入れられるだけでもいかなる苦労をしたであろうか。

たしかにすでに1823年に "primum in Germania"〔ドイツにおいて初めて〕Grammatica Sanscrita を刊行していたが、Bopp の文法書に対抗しえなかった。この文法書は三つの異なる形で現れた。まず『Sanskrita 語の詳細な体系』(Berlin 1827)、次いでラテン語で Grammatica critica linguae Sanscritae, Altera emendata editio(1832)、最後に『より簡潔な形の Sanskrita 語批判文法』(1834、第2版 1845、第3版 1863。「通算では第五版」)である。文法書については Gildemeister, Bibl. Sanscr. Spec. S. 1 以下参照。後の諸版には学問の進歩が反映している。Bopp は Pāṇini に、また Veda により多く注意を払いうるようになった。しかし当初は文法的資料を主として Forster と Wilkins の英語文法書から採り、Mahābhārata その他入手しえた原典の読解によってのみ、ある程度独立した言語知識を得ていた。諸形式の言語学的説明と、親族言語の対応形への指示によって、彼はその明晰な叙述にさらに特別の魅力を与えた。Bopp 型の文法書は、ごく最近になって mutatis mutandis に Thumb の文法書によって、また大規模には Wackernagel の文法書によって再び取り上げられた。完全なサンスクリット文法は、インドの文法家の言語教説と、文献における諸形式の出現と、比較言語学とを同時に考慮せねばならないからである。土着文法の意義については前掲 S. 54 参照。

Glossarium Sanscritum(Berolini 1830)によって Bopp は初学者の必要に応えようとしたにすぎない。1840—1847年に現れた増補版では、全語根のほかに Nala と、1824年に Bopp が刊行した Mahābhārata の他の挿話¹⁾、Bhagavadgītā、Hitopadeśa、戯曲 Urvaśī の語彙を含む。もっとも完全ではなく、Gildemeister Bibl. Scr. Spec. Nr. 575 がいくつかの例で示すとおりである。サンスクリット語には親族言語の対応語が付されている。第3版では比較がさらに大きな部分を占める。この書がしばらくの間サンスクリット習得に大いに有用であったことは疑いない。

その主著たる大比較文法——そこに彼の学問的意義は頂点に達する——に、Bopp は個々の対象についての一連の著作を先行させ、それらは Berlin 学士院論集に現れた。これらの論考は他方、活用体系論の続編とみなされねばならない。すでに表題がその言語分析の方向を示している。そのうち五編は「サンスクリットおよびそれと親族関係にある諸言語の比較的解剖」という共通の表題をもつ。I.「第一・第二人称の語根と代名詞について」(1824)、II.「再帰態について」(1825)、III.「指示詞と格標識の起源について」(1826)、IV.「若干の指示詞語幹と、さまざまな前置詞・接続詞とのその連関について」、V.「代名詞が語形成に及ぼす影響について」(1831)である。これに1833年に数詞についての二つの小論考が加わった。比較文法そのものは初め Berlin 1833年以降に、第2版は三巻で1857, 1859, 1861年に、第3版は訂正の挿入と僅かな小加筆によってのみ改められて

¹⁾ Gildemeister Bibl. Scr. Spec. Nr. 154 参照。これに1829年の Diluvium、Sāvitrī 等(Gild. Nr. 167 以下)。

1868, 1870, 1871年に現れた。Bopp の死後、その門弟 Ernst Siecke が A. Kuhn の監修のもとに刊行を担当した。完全な表題は第2版・第3版において『サンスクリット・Zend・アルメニア語・ギリシア語・ラテン語・リトアニア語・古スラヴ語・ゴート語・ドイツ語の比較文法』である。第1版では古スラヴ語が初め欠けていた。Benfey によるこの主著の詳細な分析(Gesch. der Sprachw. 470—509)は第2版に関わり、同じく H. Ebel の書評(Fleckeisen の Jahrbücher für class. Philol. 1859, 1861, 1862)もそうである。ケルト諸語(1838)、古プロイセン語(1833)、アルバニア語(1854)についても Bopp は学士院で講演した。誤っていたのは、マレー・ポリネシア諸語(1840)およびコーカサス諸語(「グルジア語について」1842年講演、1846年次に印刷)をも印欧諸語に加えようとした試みである。Benfey, Gesch. d. Sprachw. 511 参照。その著書『比較アクセント体系、ならびにサンスクリットとギリシア語の文法的一致の簡潔な叙述』(Berlin 1854)は、サンスクリットとギリシア語がいかにしばしばアクセントにおいて一致するかを示すもので、しばらくの間は比較言語学への便利な入門として用いられたが、アクセント理論としては受け入れられなかった。Bopp と A. W. v. Schlegel との関係については第X章参照。

§第 IX 章 A. L. DE CHÉZY、G. C. HAUGHTON

§ŚAKUNTALĀ、MĀNAVA DHARMAŚĀSTRA

19世紀初頭、ドイツとフランスの学者の間には、彼らとイギリスの学者の間よりも多くの接触があった。大陸封鎖が終わった後も、イギリスとインドの書物を入手することは容易ではなかった。そのうえそれらは甚だ高価であった。「Rāmāy. の第一巻はここ(Paris)で160フラン、Carey の文法書は280フラン等します」と Bopp は1814年7月27日に Windischmann に書いている。同じく1817年の聖霊降臨祭月曜日にはこう述べる。「近ごろ Colebrooke がサンスクリットから訳したインド人の代数と幾何が四つ折で現れましたが、80フランもします」。Colebrooke の著作のうち、文法書と Veda 論考のほかを Bopp はさほど顧みなかった。もっとも「Veda における注目すべきもの」を求めて、Asiatic Researches 第V・VII巻の論考 "On the Religious Ceremonies of the Hindus" にも目を通している。1814年2月24日付 Windischmann 宛書簡参照。Colebrooke の著作が十全に評価されえたのは後のことである。

フランスとドイツの学者の個人的関係からすれば、A. L. de Chézy、O. Frank、Bopp、A. W. Schlegel を、次いで再び Burnouf と Lassen を一群としてまとめることは正当である。Antoine Léonard de Chézy が、すでに Friedrich Schlegel の師であったにもかかわらずここで初めて筆頭に置かれるのは、彼が病弱のゆえに¹⁾ その著作を後になって初めて刊行したからである。

¹⁾ 1819年9月18日付の Bopp 宛書簡で彼はこう述べている。"Quant-à-moi je me consume de langueur et ne laisserai bientôt de moi qu'une trace fort légère que le temps aura bientôt effacée."〔私はといえば倦怠のうちに身をすり減らしており、やがて私が残すのは、時がたちまち消し去るであろうごく淡い痕跡にすぎないでしょう〕。

1825年2月13日になお Bopp は Berlin から A. W. v. Schlegel にこう書いている。「Chézy からは多くを期待できません。おそらくその門弟たちの方が多くを成し遂げるでしょう」。同様に E. Burnouf も1825年11月14日付の Bopp 宛書簡でこう述べる。"Mais M. Chézy comme vous devez savoir, dit qu'il publiera tout et ne publie rien"〔しかし Chézy 氏は、ご存じのとおり、すべてを刊行すると言いながら何も刊行しません〕。A. W. v. Schlegel と Lassen の往復書簡 S. 138, 152 でも Lassen が同じ時期の書簡で Chézy の人物評を与えている。彼は他人の仕事に嫉妬深く、自宅に置いていた図書館の写本を快く貸し出さなかった、と。当時の Paris の学者たちの党派分裂においては、Chézy とその門弟 Langlois が一方に、Rémusat と Burnouf が他方に立っていた。Langlès の後任として東洋写本の管理者となったのは Chézy ではなく Rémusat であった。上記の往復書簡における Schlegel と Lassen の書簡 S. 69, 138, 140 参照。しかし彼の著作 "Yajnadattabad'a ou la Mort d'Yajnadatta, épisode extrait du Ramayana, donné avec le texte gravé, une analyse grammaticale très détaillée, une traduction française, et des notes" は翌年に現れた(Paris 1826)。付録には古典文献学者 J. L. Burnouf——E. Burnouf の父——による逐語的ラテン語訳が続く。詳細は Gildemeister, Bibl. Scr. Spec. 118 以下参照。この著作からは、その準備がより古い時代に遡ることが感じられる。¹⁾ それは新しいものをもたらさず、尊敬すべき研究として通用しうるにすぎない。しかし一つの事件であったのは、Chézy による戯曲 Śakuntalā の刊本、すなわち editio princeps である。"Śrīkālidāsaviracitam abhijñānaśakuntalaṃ nāma nāṭakam. La reconnaissance de Sacountala, drame Sanscrit et Pracrit de Calidasa, publié pour la première fois, en original, sur un manuscrit unique de la bibliothèque du Roi" ..(Paris 1830)。翻訳によってこの戯曲はすでに久しく知られていた。ただ一本の写本によって本文を刊行するということは、学問の初期においてのみ考えられることであった。この唯一の写本は Bengal 系のものであった。イギリス人が Calcutta を本拠としていたため、ヨーロッパ人の手に入った最初の写本には Bengal 系のものが特に多かった。²⁾ かくして Chézy によってまず Śakuntalā の Bengal 伝本が文献学に導入された。それは O. Böhtlingk の校訂本では別の伝本に置き換えられたが、R. Pischel はその学位論文と校訂本によって、最も原初的な伝本として最近まで保持している。Chézy の二つの主著は Société Asiatique の費用で刊行された。Chézy のより小さな仕事は Gildemeister に記載されている。

そのわずか数年前に Graves Chamney Haughton は "Mánava-Dherma-Sástra" を刊行しており、Calcutta 版に基づき写本を用いて、第I巻 Sanscrit text、第II巻 English translation(London 1825)としている。翻訳は Sir William Jones のものである。これに続いたのが、本文についても翻訳についても、Auguste Loiseleur Deslongchamps の "Mânavam Dharmaçâstram" であり、本文は Paris 1830、フランス語訳("Manava-Dharma-Sastra")は1833年である。これらの刊本によって Manu のサンスクリット本文はヨーロッパに定着した。Loiseleur の Amarakośa 刊本(Paris 1839 および 1845、Gildemeister Nr. 389)もヨーロッパで最初のものであるが、これはより古いインドの刊本、すなわち Colebrooke のものを基礎としている。もっとも彼は Paris の写本数本をも

¹⁾ Lefmann, Fr. Bopp I 156 参照。

²⁾ A. W. Schlegel は1824年12月22日付の Bopp 宛書簡で、Benares と Bengal を「我々の写本の通常の供給源」と呼んでいる。

対校している。第II巻の索引は Dubeux と Langlois によるもので、後者も同じく名を成した。Chézy は1832年8月18日付の Bopp 宛書簡で Loiseleur を自らの門弟と呼んでいる(Lefmann, Fr. Bopp I 129*)。二人の Burnouf もまた Chézy から出ている。もっとも Eugène Burnouf はその業績の最良のものを自ら独力で得たのであるが。いずれにせよ Chézy は Paris における最初のサンスクリット教授として、サンスクリット研究をヨーロッパに定着させることに本質的に寄与したのである。

【原書 p. 75(承前)】

§第 X 章 A. W. v. SCHLEGEL

August Wilhelm v. Schlegel は弟 Friedrich よりも、また Bopp よりも年長であったが、サンスクリットに向かったのはようやく晩年の Paris 時代であり、そのときすでに Shakespeare 翻訳その他の著作によって著名な人物となっていた。すでに述べたとおり、また彼自身『インド文庫』II 376 以下で記しているとおり、彼をサンスクリット習得へ向かわせたのは主として二つの書物、すなわち1791年に現れたスコットランド人 Robertson の、古代人のインド知識等についての書と、弟の書『インド人の言語と英知について』であった。彼は1767年9月5日に Hannover に生まれ、1815年に Paris へ来て、1818年に当時新設のライン大学の教授となり、1845年5月12日に同地で没した。Bopp が Berlin に招かれたのは1821年であるから、ドイツにおいてサンスクリットが講じられた最初の大学は Bonn である。Bopp とはある種の対照をなして、古典文献学の訓練を受けた Schlegel は、初めからサンスクリット研究の文献学的方向を代表した。彼は Göttingen で学び、『インド文庫』II 5 の注で文献学者 Heyne を敬愛する師と呼んでいる。A. W. v. Schlegel とその門弟 Lassen によって、Bonn はドイツにおけるサンスクリット文献学の最初の拠点となった。Benfey, Gesch. d. Sprachw. 372 は、1815年2月4日付の Genf の友人 Favre 宛の Schlegel 書簡を伝えており、そこで彼はサンスクリット研究の始まりについてこう語っている。"je lis même déjà, avec le secours d'un Allemand, que j'ai trouvé ici, l'Homère de l'Inde, Valmiki"〔私はすでに、ここで見出したあるドイツ人の助けを借りて、インドの Homeros たる Vālmīki を読んでさえいます〕。このドイツ人が Bopp である。Bopp は他の点でも重要な1815年2月24日付の Windischmann 宛書簡でこう述べているからである。「私は彼(Schlegel)にサンスクリットを教えており、彼は Chézy の講義には出ておりません」。Bopp は彼と Rāmāyaṇa を読み、また Bhagavadgītā をも読んだ(1818年5月14日付 Windischmann 宛書簡)。Schlegel 自身、1819年に書いた論考「インド文献学の現状について」において、Paris でしばしば Bopp とともに研究したと告白している(『インド文庫』I 8)。¹⁾ 彼はまた同所で、Collège de France のインド語教授 Chézy 氏の親切な助力に触れ、また Langlès 氏の厚意を称えている。その「アジア全域の文献・歴史・地理にわたって稀な完全さで広がる比類なき蔵書」を利用することを許されたのである。A. W. Schlegel と Bopp の間には、交際上の礼儀にもかかわらず内的な対立が存在した。Schlegel は

¹⁾ 1821年7月4日付の Windischmann の Bopp 宛書簡参照(原書には「1921年」とあるが誤植)。

Bopp の仕事の成功を認めざるをえなかったが、その流儀全体は彼の意に染まなかった。S. de Sacy によるアラビア語・ペルシア語の教授を別とすれば、大学での通常の訓練を経ないまま、Bopp は目標を定めて新しい道に踏み出し、サンスクリットの比較言語学的・言語学的活用を初めから主要課題としており、それに他の一切を従属させた。方法は彼にとって事柄の本性からおのずと生じた。これに対し Schlegel は、同じく専らサンスクリットに身を捧げる以前に、多面的な文献学的研究を背後にもっていた。彼はサンスクリット語に対すると同じだけ、いやそれ以上に、サンスクリット文献に関心をもち、その双方を古典文献学に妥当する原則に従って扱った。彼は Bopp のラテン語を、また「本文批判における推定に臆病すぎる」ことを難じている(1824年8月7日、Schlegel の Bopp 宛)。しかし主として、Schlegel と Lassen が Bopp に対して提起した非難は二つある。それらは一部は書簡に、一部は A. W. Schlegel が1820年に創刊した雑誌『インド文庫』に表明されている。同誌は第一巻 Bonn 1823、第二巻 1827 であり、第三巻は1830年に第一分冊のみが現れ、そこには全く Schlegel の精神による Lassen の論考「Bopp 教授のサンスクリット語文法体系について」が収められている。Schlegel はすでにそれ以前、1829年5月5日付の Bopp 宛書簡において、その著作と方法について原則的に語っていた。原典刊本に関しては、Nalus の選択を「世にも幸いなる選択」と呼んでいる(同様に Ind. Bibl. I 99)。しかし Mahābhārata の他の挿話は彼には断片的にすぎる。「なぜむしろ全体をなすもの、たとえば第一書を我々に与えてくださらないのですか」と彼は問う。「そこからは詩の展開と性格をよりよく知りうるでありましょう」。Bopp は初めから Mahābhārata を研究対象に選んでいた。おそらくこのことが、Schlegel が自らは Rāmāyaṇa に向かった理由であろう。Schlegel は Bopp に求めたことを自ら成し遂げた。その Rāmāyaṇa 刊本は、未完に終わったとはいえ、全作品の大部分を提供しているからである。書簡から知られるように、Bopp は Mahābhārata の全内容の概観を与える意図をもっていたが、この計画は Holtzmann と Jacobi によって初めて実行された。Schlegel は1819年の Nalus に『インド文庫』I 97—128 で書評を捧げている。S. 99 の注で Schlegel は、Bopp の名誉のために、その Nalus が「最も厳密な意味で ineditum〔未刊本〕」であったことを認めている。Schlegel の Rāmāyaṇa 刊本には、すでに William Carey と Joshua Marshman の英訳付きで同じ範囲に及ぶ刊本(Serampore 1806年以降)が先行していた(Gildem. Bibl. Scr. Spec. Nr. 107 および 109 参照)。¹⁾ しかし Schlegel はより短期間で、少なくとも Bopp と同等の言語の知者となっていた。それは彼による Bopp の翻訳の訂正が証している。

A. W. Schlegel と Lassen が Bopp に対して提起した第二の主要な非難は文法に関わる。すなわち彼が文法的資料を土着の文法家に遡ることなく Wilkins と Forster の著作から採ったこと、そしてそもそも彼らを

¹⁾ Schlegel と Lassen はこの刊本を、その折衷的方法と誤りの多さのゆえに甚だ不利に評した。しかし繰り返すが、不十分な予備的仕事といえども後継者には有用であり、あらゆる批判とともにそのことも感謝して認められるべきである。

軽視したことである。この非難は学問的に正当であり、Bopp の方法から多数の重大な誤りが生じていたとすれば、なお一層重く響いたであろう。Schlegel は1829年5月5日付書簡で、Bopp は Wilkins を Forster によって訂正しているが、本来の権威は土着の文法家のみである、と述べている。とはいえ Bopp は、いずれも土着文法から汲まれた二つの英語文法書の入念な比較によって、事実上全体として信頼しうる資料に到達した。また Schlegel は、Bopp が Veda の相異なる語法を顧慮しなかったことに驚きを禁じえない。しかしそれは Wilkins にも Forster にも示されていなかったのであり、アクセントの叙述も同様である。Bopp は1829年5月26日付書簡で、他のさまざまな点にも及ぶ Schlegel の批判に対して、なしうる限り弁明した。彼は「インドの文法家の継続的研究を全く実りなきものとは考えない」とし、最も有能な門弟の何人かにはその体系の注解をインド文献学の desideratum として示してきたとさえ述べる。しかし次いでこう続ける。「私自身はこの仕事を引き受けたいとは思いません。少なくとも、自立した研究と、言語をそれ自身によって把握しその展開する法則を認識しようとする努力とが、私を新しい成果へ導く限りにおいては」。Schlegel が Pāṇini をかくも称賛する以上、彼は Pāṇini を全部読んだのであろうし、したがって『活用体系』や『詳細な体系』で展開された見解がどこまですでに Pāṇini に見出されるかを知っているであろう、と。彼はとりわけ、不定詞語尾 tum を対格と、(kṛtvā の)語尾 tvā を接尾辞語幹 tu の具格と説明した自らの見解を挙げている。Schlegel はこの書簡による議論を続けなかった。見るところ Bopp には、意見の相違が生じるや否や、内密の伝達が歓迎されないからだという(1829年6月14日付 Bopp 宛)。しかしすでに Bopp の Nalus の書評において、Schlegel は tum と tvā の間にかくも近い発生的連関を想定することに疑義を呈していた。語根音節の形成が異なるのみならず、アクセントも異なる。bhávitum に対して bhūtvá、kártum に対して kṛtvá である。tvā と ya をもつ、必ずしも適切とはいえぬ「絶対分詞(Gerundia)」と呼ばれる動詞形の起源は、今日に至るまでなお確実には認識されていない。すでに W. v. Humboldt が、サンスクリットに固有のこれらの形式についてその用法を記述する長い論考を、Schlegel の『インド文庫』I 432—467、II 71—134 に発表しており、Lassen もこれに立ち入って、Veda 形をも援用している。すでに述べたように、Lassen は『インド文庫』第3巻第1分冊をなす Bopp の文法体系批判において、Schlegel が最初に提起した非難をさらに展開し、Bopp が Pāṇini から学びえたはずのことを一連の実例によって示した。また Pāṇini の教えるアクセント法にも注意を促している。Bopp はその文法書の後の改訂において多くを改善し補足し、また知りえた限りで Veda 語をも考慮に入れた。¹⁾

¹⁾ Bopp に対する内心の気分は、1824年11月14日付の Schlegel 宛書簡における Lassen の言葉に現れている。「彼の文法書と比較言語学の著作を私は大いに待ち望んでおります。ヨーロッパの言語で初めて書かれる言語比較において、彼がより深くより繊細な一致を我々他の者から釣り上げてしまってはいまいか、という密かな期待を私はもっております。彼が Veda の方言を顧慮したか否かに多くがかかっており、さもなくば Ulfilas なき Grimm のごときものとなりましょう」(Briefwechsel S. 90 以下)。

A. W. Schlegel が刊行した原典は、すでに知られていたものであった。まず現れたのがラテン語訳付きの Bhagavad-Gītā 刊本(Bonn 1823。第2版は Lassen の校訂で1846年)である。次いで八巻に予定された Rāmāyaṇa 刊本が続いたが、そのうち一巻半しか現れなかった(Bonn 1829 および 1838)。最初の二 kāṇḍa の本文を含み、ラテン語訳は II 20 までである。その間に彼は Lassen とともに "Hitopadeśas id est Institutio salutaris" を刊行した。本文は1829年、Commentarius criticus は1831年であり、標題に予告された Interpretatio latina は現れなかった。これらの刊本において Schlegel は古典文献学の方法と批判をサンスクリット文献学に導入した。その優れたラテン語においても、それらは Vergilius や Horatius の刊本のような趣を我々に与える。同時にそれによってサンスクリット文献の重要な作品がヨーロッパの地に移植され、より入手しやすくなった。Böhtlingk はその辞書においてこれらの刊本に従って引用し、Schlegel の Rāmāyaṇa から一節をそのクレストマティーに採った。もっともこれら Bonn で印刷されたサンスクリット原典もなお十分に高価であった。Rāmāyaṇa 刊本のフランス語およびドイツ語の内容見本によれば、予約者は一巻につき50フランないし14ターラーを支払うべきものとされていた。

写本の異同——その対校には Lassen が助力した——から、Schlegel は Rāmāyaṇa に複数の伝本があることを認識した。彼は三つを区別した。注釈者たちによって確定された北方伝本、Bengal 伝本、そして折衷伝本である。¹⁾ 最初の二つが主要伝本であり、Jacobi はその対照表(『Rāmāyaṇa』S. 220)においてこれを C と B で示した。Schlegel は C の本文を刊行し、Gorresio は B の本文を刊行した。ここでも戯曲 Śakuntalā の場合と同様に、Bengal 伝本の価値の問題が生じる。ここでも Bengal 伝本の特徴は、少なくとも一連の場合において後代に生じたものとみなされている。Lassen は Schlegel の Rāmāyaṇa について注目すべき書評を Zeitschrift f. d. Kunde des Morgenl. III(1840)307—326 に発表し、そこでこれらの伝本について、またより一般的な問題、すなわち Veda・法典・叙事詩に存するより古い文献の、後代の詩文学に対するより大きな重要性について、明晰な眼をもって語っている(S. 309)。Bengal 伝本に対して彼は Schlegel よりもさらに古い独自性を認めなかった(S. 318 以下)。

Devanāgarī 活字の調達は、Bopp の書簡集にしばしば繰り返し現れる主題である。ヨーロッパで最初にサンスクリット活字を自由に使えたのは London の Wilkins であった。²⁾ 彼はこれをまず1808年のサンスクリット文法書のために用いた。同じ活字で1810年の London 版 Hitopadeśa および Bopp の Nalus が印刷されている。A. W. Schlegel の原典刊本には新しいサンスクリット活字が現れるが、これはプロイセン王国政府の援助によって Bonn のために入手したものである。彼がその製作にいかに個人的に関わったかは、ある小冊子の標題から知られる。"Specimen novae Typographiae Indicae ... Litte-

¹⁾ 伝本についての Lassen の所見はすでに1825年8月21日付の Schlegel 宛書簡にある。

²⁾「Wilkins は全く、彼のインド人書記の筆跡を模したにすぎない。その書記は後に J. W. Jones に仕え、酒に溺れてそのために痴愚となった」、1824年12月22日 A. W. Schlegel の Bopp 宛。

rarum figuras ad elegantissimorum codicum Bibliothecae Regiae Parisiensis exemplaria delineavit, caelandas, feriundas, flandas curavit Aug. Guil. Schlegel, ... Lutetiae Parisiorum, ex officina Georgii Crapelet, MDCCCXXI."〔Paris 王立図書館の最も優美な写本の見本に従って文字の形を描き、彫り、打ち、鋳ることを取り計らったのは Aug. Guil. Schlegel……Paris、Georgius Crapelet 工房、1821年〕。Bopp は同じ活字を Berlin 学士院のためにも入手したが、自らはさらに小さな判のものを作らせ、これを Schlegel も Bonn の大学印刷所のために得た(1824年11月2日および12月22日、1826年6月20日、1829年5月5日の Bopp と Schlegel の書簡参照)。Paris の Société Asiatique もこの Berlin の活字を、大小ともに望んだ(1832年2月20日および6月9日付の E. Burnouf の Bopp 宛書簡)。Schlegel は『インド文庫』I 368 および II 34 でサンスクリット印刷術の短い歴史を与えている。¹⁾

原典刊本におけるよりもさらに、Schlegel の資質と意義が認められるのは、『インド文庫』に発表した諸論考においてである。論考「象の歴史のために」(I 129 以下)——そこで彼は Alexander 大王とその後継者たちの遠征に立ち入る——は、彼の広汎な文献学的読書と Realien〔実物的事象〕への関心を示す。植物学の分野の最新の成果を論じるなかで、彼は I 392 で「サンスクリットの知者が植物学者と結びついて……我々ヨーロッパ人にインドの詩人の植物誌を与えてくれるように」と願っている。この願いの実現の端緒となったのは、1910年と1911年の Richard Schmidt の論考「Beiträge zur Flora Sanskritica」(ZDMG. LXIV 325 以下、LXV 729 以下)に至ってのことである。Wilson の辞書の書評において Schlegel は、Wilson の所見を自らのものとしている。すなわち「神話こそインドの詩の基本の織地をなし、したがって詩人を読む際には神話辞典が全く不可欠である」と。これもまた総括的な形ではいまだ存在しない。

『インド文庫』を開くのは Schlegel の論考「インド文献学の現状について」であり、これはすでに Jahrbuch der Preußischen Rhein-Universität 第2分冊に現れており、1819年夏に書かれたものである。数年の研究の後に Schlegel がすでに当時いかなる事実知識といかに的確な判断をもっていたかは驚くべきである。彼は完全なサンスクリット文献を集めるために費用も労も惜しまず、それに属する著作の蒐集を所有しており、これに匹敵するものはおそらくドイツのいかなる公共図書館にも存在しないと述べている(S. 7)。これもまた真の文献学者の徴である。最初の英訳と最初のインド版の欠陥に対して、彼は S. 22 に次の命題を立てる。「インド文献の研究が実を結ぶべきであるならば、古典文献学の原則が、しかも最も学問的な厳密さをもって、これに適用されねばならない」。Colebrooke の仕事に対しては称賛の言葉しかない。

サンスクリット学の進歩についての報告を Schlegel は、『インド文庫』第二巻(1827)冒頭の論考「総覧」において続けた。Wilson の辞書についての彼の判断は、使用によっていっそう好意的になっている。「この無限に有用な著作を所有することによって、事態全体が変わった」。彼はいまや、個々の作品について indices verborum〔語彙索引〕を作ることを勧めている。それは古典文献学に

¹⁾ これについて最近 W. Kirfel, "Die Anfänge des Sanskrit-Druckes in Europa", Zentralblatt für Bibliothekswesen XXXII(1915), S. 274—280。

きわめて有益であった、と。その門弟にして助手たる Christian Lassen——その勤勉・熱意・卓越した言語感覚から、彼はすでに今、学界に実り豊かな成果を約束しうるとする——が、Bhagavadgītā からそうした語彙索引を彼のために作成した。Wilson に見出されない語は500に及ばぬほどである。彼は W. Yates の Grammar of the Sunscrit language(Calcutta 1820)と、既述の Othmar Frank の Chrestomathia Sanscrita とを鋭く批判している。認めるべきは、Frank がその読解篇に London の写本からの未刊本をも採り入れたことであり、Mahābhārata の冒頭のほかに、必ずしも適切な選択とはいえないが Śaṅkara の Bṛhadāraṇyaka 序説を収めている。もっとも彼自身がそれを正確に理解しておらず、初学者に明らかにすることもできなかったのであるが。他方 Schlegel は Haughton の Manu の正確さを称賛している。彼はまたその Bengal 語文法書とクレストマティーにも言及し(S. 25)、そこから Yates が再び提起した問題、すなわちサンスクリットがかつて生きた民衆語であったか否かという問題に論を進める。「言語が文献的・学問的に形成されたところではどこでも」、サンスクリットと Prākṛt のような「類似のものが存在したし、存在する」。彼は Toscana を引き合いに出す。そこでは農民や乞食の言語が君侯や学者の言語ときわめて近い。インドの過半の地域では、古くは上層と下層の語法の間に同様の関係が存したという。Schlegel はここでは連声(sandhi)の自然性さえ擁護している(S. 28)。連声が「決して人工的なものではない」ことは確かであるが、しかしサンスクリットの表記において自然な連声が誇張されたことは認めねばなるまい。自然なインドの連声は、Ṛgveda の讃歌から韻律の助けを借りて認識され、また他方では Pāli と Prākṛt におけるその適用から認識されうる。

A. W. Schlegel のような文献学者にとっては、サンスクリット原典の刊行にラテン語を用い、これをラテン語に訳すことは自然であった。それによって国際的な批評が容易となった。かくして Langlois は Journal Asiatique 第IV・V・VI巻において Schlegel の Bhagavadgītā 訳を詳細に批判した。Langlois が扱った多くの箇所に対して、Colebrooke の論考からインド哲学を知っていた W. v. Humboldt が、一部は攻撃を防ぐ所見を書き、Schlegel はこれを自らの注とともに「Bhagavadgita について」の表題で、同じく『インド文庫』第二巻に発表した。この議論において、yoga, dharma, samādhi, ātman, manas, buddhi, ahaṃkāra, vijñāna といったインド哲学の重要な語が、おそらく初めてより詳しく論じられた。Bhagavadgītā はインド人の最も重要な宗教書の一つとして、初めから思想家と詩人を惹きつけてきた。Bopp は1818年5月14日付の Windischmann 宛書簡で、Bhagavadgītā をなお依然としてインド文献のうち知られている最も重要なものと呼んでいる。我々の時代には R. Garbe(1905)、Deussen が Strauss と共同で(1906)、また L. v. Schroeder(1912)が新たに訳している。

細部を最大の入念さで扱いながらも、Schlegel の普遍的精神は常にインド古代学の全体を視野に収めていた。それが特に現れているのは『インド文庫』第二巻第4分冊であり、これは「Göttingen の Heeren 教授へ」宛てられ、「その『古代世界の最も主要な諸民族の政治・交通・商業についての諸理念』における

インド人の章について」論じている。Schlegel は Heeren のある言葉のうちに、自分が論考「インド文献学の現状について」において Heeren を利用しながらこれに言及しなかった、という当てこすりを見て取ったのである。Heeren を批判する観点は、批判の三部の表題として掲げられている。第一書簡「先行者たち」、第二書簡「言語知識の不可欠性」、第三書簡「神殿の廃墟」である。Heeren の先行者として Schlegel が挙げるのはスコットランド人 Robertson であり、その1791年に現れた書は G. Forster のドイツ語訳によってドイツでも知られるようになった(前掲 S. 58 参照)。Schlegel はここで、これこそ彼をサンスクリット習得へ決定的に向かわせた二つの書物の一つであったと述べている¹⁾(前掲 S. 59 参照)。「インド古代学の批判的展望」がサンスクリットの知識なしには不可能であることを、彼は商業で役割を演じたいくつかの語と、地名によって示す。古い Pāṭaliputra が Śoṇa の Gaṅgā への合流点にあったという、Rennell が最初に唱えた見解を、彼は手許の写しにある「Pāṭaliputra 王 Candragupta の事績についてのインドの戯曲」の一節によって裏づけている(前掲書 395)。²⁾

彼は S. 391 で、土着の歴史記述を欠くなかでインドの前史について我々が知見を得うる手段を数え上げ、S. 403 では先立つ諸例によって将来の地理学者に方法を示している。しかし記念建造物の総体をある程度の完全さをもって把握するために、彼は S. 429 で、後に Archaeological Survey として実現したことを予言している。すでにそれ以前、第二巻の「総覧」S. 47 で、彼は「古い碑文と写本の個々の葉のファクシミリ」のために石版術が有用であることを指摘していた。この方法によれば、すべてを銅版に刻むよりはるかに容易に「古文書学的コデックス」が作成されうる、と。彼の念頭には Corpus Inscriptionum と古文書学的研究の重要性があった。Heeren 宛の第三書簡では、とりわけ Elephanta の石窟寺院と Ellora の洞窟の解釈に従事しており、その際 W. Erskine の "Account of the cave-temple of Elephanta"(Transactions of the literary Society of Bombay 第I巻, London 1819)と、Capt. Sykes の "Account of the caves of Ellora"(同 Transactions 第III巻)を用いている。

かくも多面的に、方法的に、また予言的にインド古代学を語った大学教師は、彼のもとに来るすべての者に決定的な影響を及ぼさずにはいなかった。かくして Christian Lassen の『インド古代学』のうちに、師 A. W. Schlegel が立てた理想的要請の実現を見ることが許されるであろう。

¹⁾ Schlegel は Robertson についてこう称えている。「Warren Hastings、Sir William Jones その他多くの高潔なブリテン人とともに、彼はインドにおいてより秩序ある統治が導入されるよう、また市民的諸関係を土着の法——ギリシア人がインド人をあらゆる人間のうち最も公正な者として称賛するに至らしめたあの古い法——に従って裁くという原則が承認されるよう、尽力した」(前掲書 S. 381)。

²⁾ この箇所は戯曲 Mudrārākṣasa 第4幕のある詩節にある。最後の pāda はこうである。soṇaṃ sindūraśoṇā mama gajapatayaḥ pāsyanti śataśaḥ〔鉛丹のごとく赤き我が象王たちは、百重に Soṇa の水を飲むであろう〕。この詩節は、その軍が Pāṭaliputra に迫る Malayaketu の口に置かれている(Hillebrandt 版 S. 115, 14)。

A. W. Schlegel は弟と同じくロマン派の世界観をもっていた。彼は S. 425 で、人類の原初史への大いなる展望について語っている。「インド人における神性の最古の呼称が、すでにその言語形式からして一切の感性的混入を免れていたとすれば、Veda と Manu の法との比較、これと最古の二大英雄詩との比較、これとさらに後代の Purāṇa との比較、そして最後に今日の神々の礼拝との比較からこれまで明らかとなったことが、言語の証言によっても確証される。すなわち、宗教史の新しい理論家の多くが一般的な進行として示そうとしたような、感性的なものから精神的なものへの進歩はここには生じておらず、むしろその逆であること、多神教と神話のみならず人間形態観もまた後代の付加であったこと、そして未知の原初において、今日しばしば最も放埒な迷信の庇護者たるバラモンたちが、その名の由来する神的存在への最も純粋な崇敬を教えていたこと、である」。Ṛgveda の讃歌の神々は当時なお Schlegel には知られていなかった。それゆえ彼は Upaniṣad の Brahman と Ātman のうちに原初の啓示の残存を見ることができたのである。もっとも Ṛgveda の Varuṇa は、彼をその見解において強めえたであろう。

Schlegel はまたラテン語による大きな比較言語学的著作をも構想しており、Etymologicum novum sive Synopsis Linguarum の表題をもつはずであった。しかしそのうち彼が発表したのは、より古い言語学的観念に接続する序論 "De studio Etymologico"(Ind. Bibl. I 274 以下)のみであり、Bopp への言及はない。同じ巻で彼は S. 400 以下に Sir Thomas Stamford Raffles の著作 "The History of Java"(2巻, London 1817)について報告している。彼はここですでに W. v. Humboldt に先立って Kawi の起源と性格について論じている。ここには S. 414 に、「Buddha の教え、その内的連関、およびバラモン教との対立について明瞭な概念を形成する」ことがそれまで彼には成功していない、という所見も見出される。仏教徒から Jaina の宗派を区別することを彼は知らない(S. 415)。Ṛgveda もまた、A. W. Schlegel の後に初めて Fr. Rosen によって関心の前面に引き出されることとなった。

晩年の Schlegel は Rāmāyaṇa 刊本に従事していた。『インド文庫』は1830年以後さらなる分冊が現れなかった。しかし彼はすでに第二巻 S. 65 以下に、当時それぞれの学会とともに生まれた三つの新雑誌を挙げることができた。Transactions of the Literary Society of Bombay——その第I巻は London 1819年に現れた——、1822年4月1日に Silvestre de Sacy の議長のもと Paris に創立された Société Asiatique の Journal Asiatique、および London の Transactions of the Royal Asiatic Society——その最初の会合は1823年3月19日に Colebrooke の講演によって開かれた——である。Colebrooke の論考 "On the Philosophy of the Hindus" はこの Transactions に初出した。

§第 XI 章 W. v. HUMBOLDT

サンスクリット研究はプロイセンにおいて、大臣 Wilhelm v. Humboldt という影響力ある庇護者にして友を得ていた。彼なくしては

Bopp はかくも速やかに Berlin の教授とはならなかったであろう。学者としての W. v. Humboldt は稀に見る言語通であり、Friedrich August Pott とはまた異なりながら、彼と比較しうる人物であった。Pott が Humboldt の有名な論考「人間の言語構造の相違について」の特別版を、Humboldt と Humboldt 的言語学について彼独特の悠揚たる流儀で述べた序論の一巻を付して刊行したのは(Berlin 1876)、偶然ではない。W. v. Humboldt は理論的・一般的言語学の分野において偉大であり、プロイセン王立学士院の刊行物における一連の重要な論考によってこれを基礎づけた。その功績は Benfey『言語学史』S. 515 以下に詳しく評価されている。1767年に生まれ1835年に没した彼は、国務から退いた後、その言語研究を、Bopp がサンスクリットの著作を刊行し比較文法に取り組んだのと同じ年月のうちに成熟させた。Bopp 宛の書簡からは、彼がいかなる熱意をもって Bopp の文法的著作を、またその原典刊本を、さらに Schlegel のそれをも研究したかが知られる。彼はその言語研究のためにサンスクリットで自らを鍛えた。いかに徹底的にサンスクリットを自らのものとしたかは、たとえば1825年11月16日付の Bopp 宛書簡から知られる(Lefmann, Nachtrag 43)。鋭く刻印された形態の豊かさをもつサンスクリットは、彼にとって屈折語の一つの高い状態を示す。もう一方の極をなすのは、「語からその文法的関係を剥奪した」中国語である。他のすべての言語は、この両極の中間に位置するものとみなしうるという。これらの思想を彼はとりわけ序論第24節、1836年原版 S. CCCXXXVIII 以下に展開した。Benfey, Geschichte S. 545 参照。Bopp の比較言語学を彼は二重の方向で補った。一方では人間の言語一般についての発展史的考察によって、他方ではとりわけ異なる構造をもつ言語——バスク語、アメリカ諸語、とりわけマレー諸語——の構造を比較的に研究することによってである。サンスクリットにおいては、彼は A. W. v. Schlegel と同様に Bopp の門弟と称しうる。Bopp は1821年12月29日付 Berlin からの年長の Burnouf 宛書簡で、Alexander v. Humboldt の兄がいま最大の熱意をもってサンスクリットに従事していると述べている。"je lis souvent avec lui des auteurs sanscrits, ce qui me met en état de juger de ses progrès rapides"〔私はしばしば彼とサンスクリットの著者を読んでおり、それによって彼の急速な進歩を判断しうる立場にあります〕(Lefmann, Fr. Bopp I 137*)。しかし Lefmann が補遺(1897)に伝える W. v. Humboldt の Bopp 宛の多数の書簡からは、Humboldt が真の愛情をもって Bopp の仕事に与ったこと、また他方 Bopp も Humboldt とのこの学問的交わりから、その問いや同意や疑義から多くの示唆を受けたことが知られる。W. v. Humboldt は Windischmann の位置に立ったのである。Bopp の感謝は、1827年および1832年のサンスクリット文法書を W. v. Humboldt に献じたことに現れている。Alexander v. Humboldt は、Kawi 語についての著作に自ら寄せた序言において、Bopp の意義と彼が兄に尽くした奉仕とを温かい言葉で認めている。W. v. Humboldt の徹底したサンスクリット知識を証するのは、すでに前掲 S. 77 で触れた、Schlegel の『インド文庫』に発表された二つの仕事である。これに加えて論考「Bhagavad-Gītā の名で知られる

Mahābhārata の挿話について」があり、プロイセン王立学士院1825年・1826年論集(Berlin 1827)に収められている。そこで彼はこの詩について、「またとりわけそこに述べられた哲学体系について、インド語を解さない読者にも理解しうる仕方で、忠実かつ完全な概念」を与えようとした。しかしバラモン的インドについても、より独創的であるのは Kawi 語についての大著においてである。ここで彼は、より遠い一例によって、インドがさらに東方へ、極東に及ぼした影響を照らし出している。三巻からなるこの著作は『Java 島の Kawi 語について、ならびに人間の言語構造の相違とそれが人類の精神的発展に及ぼす影響についての序論を付す』の表題で現れ、Berlin 学士院1832年論集に属する。

三巻はいずれも Humboldt の死後に現れた。第I巻は Berlin 1836年、Alexander v. Humboldt の序言を付し、他の二巻は当時 Berlin 王立図書館の Custos であった J. C. Eduard Buschmann が印刷用に整え刊行した(Berlin 1838 および 1839)。¹⁾ 大序論を別とすれば、著作全体は三書に分かれる。第一書はなお第I巻にあり、「インドと Java との結びつきについて」を扱う。第二書は第2巻にあり、Kawi 語の分析を含む。第三書は、なお第2巻において、マレー語族一般とその西方分派を扱い、これに第3巻で南洋諸語がマレー語族の東方分派として続く。すでに表題の文言に、マレー諸語についてのこの大著が何らかの仕方で Kawi 語の研究から生じたことが示されている。Kawi 語を Humboldt は、イギリス人 Raffles がその History of Java に与えた言語見本から知った。この著作と Kawi 語に注意を促したのは A. W. v. Schlegel であった(前掲 S. 82 参照)。Kawi 語は Humboldt 以前にすでにヨーロッパの学者の視野に入っていた。Burnouf と Lassen は Essai sur le Pali S. 152 以下で、この言語をサンスクリットから生じたものとしていたが、Humboldt はこの見解を正当にも論駁している(S. 191)。Humboldt は Kawi 語がその構造上 Java 語であることを立証した。それは(Tipiṭaka 注釈のシンハラ語と同様に)文化史的に注目すべき混合語に属する。その基盤は古い Java 語であり、そこへ多数のサンスクリット語が取り入れられている。これはインド人の文献的・政治的優位に対応する。歴史的背景をなすのは、Mahābhārata、Rāmāyaṇa その他のサンスクリット文献の作品をもって Java に定着したバラモン的インド人の移住である。彼らは Java 人に叙事詩の内容を人形劇によって示した。Java の人形劇には R. Pischel もその学長就任講演『人形劇の故郷』(Halle 1900)S. 21 で言及している。こうした翻案のうちに、これらインド人と彼らの影響を受けた Java 人の圏内で、上述の種類の「詩人の言語」が生じ、それが膨大な文献のうちに保存されて

¹⁾ Buschmann は Humboldt の草稿をきわめて恣意的に扱っている。W. v. Humboldt 著作集新版における Leitzmann の指摘 V 477, VII 351 参照。同じく VII 1—344 に Humboldt の草稿に基づく大序論の再刊、S. 345 以下に Alex. v. Humboldt の序言の再刊がある。(J. Wackernagel の指摘による。)

いる。すなわち文学語となったのである。インドの素材に倣って、土着の素材もまた同様に扱われた。サンスクリットの語 kavi「詩人」について言えば、インドでは Rāmāyaṇa の作者 Vālmīki が最初の kavi とされた。戯曲 Mudrārākṣasa 第二幕では蛇使いの Jiṇṇaviso が自らを pāuḍakavi(サンスクリット prākṛtakavi)「Prākṛt 詩人」と称し、次いで技巧的な詩節を吟じる。彼はサンスクリットにも通じている。¹⁾ Raffles が与えた Java の Kawi 語の見本は、詩「Brata Yudha」すなわち Bhāratayuddha の一部であった。これらの見本の言語を Humboldt はその大著の第二書において方法的分析にかけた。彼はここでとりわけ、サンスクリットに由来する借用語がほぼ専ら名詞であることを確認している(S. 62)。動詞は取り入れられていない。他の言語混合の場合にも、まず主として、侵入する異質な要素の優越あるいはそれへの偏愛が現れるのは事物においてである。しかしここでは Java 語の構造における名詞の優勢も考慮に入れられねばなるまい。この最初の試みがいかに不完全であったにせよ、それは Kawi 語の問題に一般の注意を向けさせた。その後の研究は補足と訂正を伴いつつ、さほど大きな反響なしに進行した。Humboldt 自身、Raffles と Crawfurd の著作をいかに高く評価しようとも、そこで不十分な資料に依拠していることを知っていた。上述の Raffles の著作のほかに彼が用いたのは、John Crawfurd の著作 "History of the Indian Archipelago"(3巻, Edinb. 1820)と "Journal of an embassy to the court of Ava in the year 1827"(London 1829)、および Crawfurd が貸与した手稿の Java 語辞書である。同じ著作は第一書における主要典拠でもあり、そこで彼はインド人の移住、インドの名称・伝説・神格、Buddha 像をもつ寺院址——とりわけ Boro-Budur のそれ——、Java におけるバラモン教と仏教について詳細に論じている。その後オランダの学者たちがこれらの事情を新たに研究し、翻訳を付した信頼しうる原典刊本を公刊した。Java からこの文献は Bali 島へもたらされた。これについては John Crawfurd が1820年に論考 "On the existence of the Hindu religion in the island of Bali"(As. Res. XIII 128 以下)で論じている。彼はそこに Śiva と Buddha、とりわけ前者の崇拝を見出した。「Bali 島の Kawi 語およびサンスクリット・Kawi 文献についての R. Friederich の研究」という表題のもと、A. Weber は1853年に『インド研究』第2巻 S. 124 以下でその後の研究についての案内的報告を与えた。Weber はここで、Kawi 語にはサンスクリット語のみが見出され Prākṛt 語は見出されないこと、しかし移住したインド人の日常語は Prākṛt であったに違いないことを強調したが、この謎を解くには至らなかった。Humboldt もこの事実を確認していたが、そこから、最初のインド人移住の時代にはより新しいインド諸語が「まだサンスクリットから分かれていなかった」、サンスクリットは「まだ今日のインドにおけるような単なる学者の言語ではなかった」と結論した(第4節、S. 45)。仏教の教えはすでに紀元前4世紀前半に Ceylon に導入されたのであるから、同様に早い導入が Java においても起こりえたという

¹⁾ そうした kavi が Java に来た可能性がある。

(第46節、S. 304)。しかし最初の移住者はおそらくバラモン教の信奉者であったという(第47節、S. 311)。これに対し Friederich は、最初のインド人移住を紀元後500年以前には遡らせようとせず、Weber はさらに後代であると述べた。Kawi 語の知識はその後とりわけ Heinrich Kern によって促進された。その著作についてはすでに Pott が前掲書 I S. XLV 以下で指摘している。

【原書 p. 86(承前)】

§第 XII 章 P. v. BOHLEN

関心と方法からすれば全く古い時代に属するのが Peter v. Bohlen である。彼はその主著『古代インド、とりわけエジプトを顧慮して』(Königsberg 1830)を A. W. v. Schlegel と Fr. Bopp に献じ、両者を明確に自らの師と称している。その生涯の奇異な経緯は、彼自身が率直な自伝で描いている。『Königsberg 大学東洋語・東洋文学正教授 Dr. Peter v. Bohlen の自伝』、Johannes Voigt 編、Königsberg 1841、第2版 1842(書簡によって増補)である。1796年に Jeverland の農民の子として——ただしかつては貴族であった家系に——生まれ、少年時代に村の好意ある牧師に援けられ、次いで順次、農家の下男、仕立屋の徒弟、フランス人将軍の騎手、Hamburg の艀の船頭、宿屋の玉突き係、商家の帳簿係、Hamburg のギムナジウム生、Halle・Bonn・Berlin の学生となったが、それでもすでに1826年に員外教授、1828年に Königsberg の正教授となり、そこでサンスクリットのほかアラビア語・ペルシア語をも担当した。彼は肺結核により、風土の合わなかった Königsberg を離れて、1840年に Halle で、わずか44歳で没した。東洋学の研究を彼は Bonn の G. W. Freytag のもとでアラビア語から始めた。Bopp が Paris で S. de Sacy のもとで始めたのと同様である。彼は Bonn に二年いた。「しかも Bonn にいながらサンスクリットを学ばぬとは!」(自伝 S. 53)。Freytag の不興にもかかわらず、彼は1824年の復活祭から Schlegel によってサンスクリット研究に導かれた。それはアラビア語研究よりも彼の考古学的傾向に適っていた。もっとも文法は Bopp のもとで初めて学んだと告白しているが、Bopp の「一面的な方向」は彼の意に染まなかった。v. Bohlen 自身が自己批判で述べるように(前掲書 71)、彼は文法への感覚をもたず、「精確な文法知識の欠如」が彼の仕事の弱点をなしている。それゆえ彼はインド古代学のために、当時容易に入手しえたサンスクリット文献の作品のみを用いた。すなわち Manu の法典、Mahābhārata から訳された諸篇、とりわけ Bhagavadgītā、Rāmāyaṇa の冒頭、Meghadūta、Mohamudgara、Amaruśataka、Gītagovinda、Ghaṭakarpara、Hitopadeśa、Śakuntalā、Prabodhacandrodaya である。これらの作品からは、第五にして最終の章「文献と芸術」(II 186 以下)において翻訳見本をも与えている。これら最後の部分は、その構成において L. v. Schroeder の文化史・文学史とある種の類似をもつ。数学・天文学・哲学については v. Bohlen は Colebrooke の Essays を用い、Colebrooke をいくら称賛しても足りないとする。戯曲については Wilson の『ヒンドゥーの演劇』を用いた。この

文学史的部分はそれ自体としては大した印象を与えず、深化を欠いているが、しかし二巻千頁近く、1652の注をもつ著作全体は、総括的叙述としてある種の歴史的価値をもつ。それは Heeren のインドについての大章と同種のものである。v. Bohlen は「Heeren の比類なき叙述」がサンスクリットの知識によっていかに補われうるかを示そうとした。それは所々で達成されているが、彼のサンスクリット知識は十分ではなかった。インドの古い文献が完全に開かれたのは v. Bohlen 以後、時とともにである。もっとも A. W. v. Schlegel のような文献学者はすでに当時、サンスクリットからより多くを得ることを心得ていた。ギリシア人のインドについての報告は、すでに Robertson と Heeren が活用していた。世界史的年代を別とすれば、ギリシア人の報告は時とともにますます、土着の典拠から直接得られるインド文化の明瞭な像の前に後退した。先行者と同じく v. Bohlen も、修道士 Kosmas Indikopleustes、商人 Marco Polo、Akbar 帝時代のムハンマド教徒の著述家(I 74 以下参照)、および新しい旅行者のインド報告を利用した。古代インドが新しいインドに生き続けていることは確かであるが、v. Bohlen は Heeren ほど厳密に時代を分けていない。当時新しかった、今日忘れられた旅行記を引用していることは、その著作の歴史的価値の存する点に属する(たとえば I 77)。

正当にも彼は、狭量なキリスト教的立場から、とりわけ Ward のような宣教師によって下された、インド人の性格についてのしばしば過度に不利な判断を難じている。もっとも彼の Paria の描写(I 43 以下)——そこで彼はジプシーの起源にも触れる——も、同様にそうした誇張を免れてはいまい。v. Bohlen が絶えずインドをエジプトと比較するのは、Heeren よりも明確にインドとエジプトの文化的連関を信じていたことに由来する。¹⁾ 彼はエジプトを受け手の側とみなし、W. Jones と同じく Osiris をサンスクリットの「Īśvara、主」から導き出す(I 211)。そもそも彼の語源的比較はその著作の最も弱い面をなす。たとえばサンスクリット bhūs「大地」をギリシア語 βοῦς と同一視し(I 254)、Ovidius の Anna perenna をサンスクリット annapūrṇā「豊かな食物の女神」から解する(I 201)。彼はその著作を地理的序論から始めるが、これは Lassen が『古代学』でしたのと同様である。乏しい第1章「歴史的概観」——そこでは Porus、Candragupta、Vikramāditya 諸王、仏教徒の血なまぐさい迫害、白匈奴の侵入に短く触れた後、叙述はムハンマド教徒の征服へ飛ぶ——に続いて、より内容豊かな第2章「宗教と祭祀」が来るが、Veda の観念はなおほとんど全く欠けている。彼は I 128 で四 Saṃhitā を挙げてはいるが、Veda について実際に知るところ(I 134)はきわめて僅かである。Indra, Varuṇa, Agni は lokapāla としてのみ現れ、彼が論じる最高神は Brahmā, Viṣṇu, Śiva であり、宗教の始まりはインドにおいても太陽崇拝であるという。供犠については Manu に従って

¹⁾ 同じく研究をきわめて広く及ぼした Kosegarten は、そうした連関を信じなかった。1827年8月17日付の Bohlen 宛書簡、自伝第2版 S. 126 参照。

叙述し(I 269)、その際 Soma にも言及する。エジプトの宗教との比較に加えて、ペルシアの宗教との比較が来る。宇宙開闢論、輪廻、洪水伝説、寡婦焚死が第1巻のさらなる主要対象である。仏教において v. Bohlen は全く二次的典拠に頼らざるをえなかった。彼は Burnouf と Lassen の "Essai sur le Pali" を知ってはいたが、主要点では、当時東モンゴル人・中国人・チベット人・日本人のもとで知られていた後代の仏教についての知識に依拠せざるをえなかった。彼は Petersburg の Isaac Jacob Schmidt が約束した仏教史をまだ刊行していないことを遺憾としている(I 306)。歴史的 Buddha の本来の主要教説はあまり生かされず、むしろ神話的・形而上学的教説が前面に出ている(I 323 以下)。これらの部分を Burnouf の "Introduction à l'histoire du Buddhisme" と比較すれば、原典の研究によって初めて叙述の確かな基礎が得られたことが知られる。第3章「国制と法制」、第4章「市民生活と家庭の古事」、および既述の第5章「文献と芸術」が第二巻をなす。法制については Manu の法典が主要典拠であるが、古今の著作からの多くの個別記述によって補われている。この章の主要対象はカースト、王の宮廷と裁判、軍事である。第4章にはきわめて多様な対象が併せられている。すなわち石窟寺院、Ellora の寺院洞窟、古い城砦、都市建設、村落、街道、農業、紡績業、精緻な絹とモスリンの細工、金属とその加工、貨幣、真珠と宝石、商業である。これらの対象によって我々は Robertson と Heeren を想起させられる。第4章の前半のうち、古代インド文献そのものに由来するものはごく僅かである。多くは短く言及されるにとどまり、古いものと新しいものが雑然と並んでいる。彼は近代インドのうちに古代インドを発見しようとするのであり、その固有の文化はムガル支配以来、この国の外貌と生活関係においてますます色褪せたとする。第4章の後半ではインド人の家族関係、奉仕階級の主人に対する関係、飲食、衣服、娯楽、埋葬が扱われる。ここでは v. Bohlen は自らに利用しうるサンスクリット文献、とりわけ Manu をいくらか多く用いえている。彼自身、これらすべてについてサンスクリット文献からはるかに多くを知りうるという感触をもっている。自伝では自らの著作についてきわめて謙虚に述べている。1830年には、多くの点で彼より深いインド知識をもつ学者が存在したことは確かであるが、しかし総括的叙述においては v. Bohlen はより大きな事実知識によって先行者を凌駕していた。彼は後に、インドの刊本に依拠しつつも写本を用いて、サンスクリット原典を刊行し翻訳してもいる。"Bhartriharis Sententiae et carmen quod Chauri nomine circumfertur eroticum"(Berol. 1833)、『Bhartrihari の箴言、サンスクリットより韻文訳』(Hamburg 1835)、"Ritusanhara id est Tempestatum cyclus, Carmen sanskritum Kâlidâso adscriptum"(Lips. 1840)であり、最後のものは白鳥の歌となった。もっともこれらは、当時なお詩的関心の前面にあった原典ではあれ、v. Bohlen 自身が(I 306)自らの著作を呼んだ「インドの考古学」のためには僅かな収穫しか与えぬものであった。彼はこの著作を34歳のとき、すなわち数年の

準備の後に公刊した。かくのごとき勇気をもちえたのは、良き事柄のために自らの力を賭す熱狂者のみであろう。彼の著作は学問史における価値ある記録であり、そこから当時の知識の水準と学問の進歩を測りうるものではあるが、しかしその刊行の時点ですでに個々の部分において不十分であった(Lefmann, Fr. Bopp I 160 参照)。同時代人もそう判断した。A. W. v. Schlegel はとりわけこれに同意せず、1834年4月14日付の v. Bohlen 宛書簡で率直にそう述べている。W. v. Humboldt の称賛にも批判が含まれている。彼は Bohlen が「かくも不完全な補助手段をもって、インド古代とインド語にかくも深く」入りえたことに驚嘆している。Wilson の辞書さえ執筆時には彼の自由にならず、これを彼は Humboldt を通じて初めて、3ポンド16シリングの価格で入手した。v. Bohlen 宛の W. v. Humboldt の書簡、自伝第2版 130, 134, 143 参照。注目すべきは、Lassen が1830年12月29日付書簡(前掲書 135)で v. Bohlen の書をサンスクリット研究の「きわめて喜ばしい豊饒化」と称していることである。「大部分の見解において」彼はこれに同意し、その批判は概観の欠如(「私は内容目次と索引を何よりも好みます」)、インド生活の始まりについての一般的見解、エジプトの取扱いに向けられている。Bopp はこう述べる。「この著作は、きわめて広汎な読書の計画的かつ批判的な活用によって、すべてのインド文献学者にとって甚だ有用なものとなるであろう」(前掲書 135)。この予言は的中した。若き Benfey はその10年後に現れた大百科事典項目「インド」でこれを大いに利用している。v. Bohlen の人物と研究を評価しえたのは W. v. Humboldt のみならず、プロイセンの大臣 v. Altenstein もであった。それを証するのが、彼が瀕死の v. Bohlen に宛てた美しい書簡である(前掲書 166)。v. Bohlen にはまた、Königsberg で Th. Goldstücker をサンスクリットへ導いた功績も認めてよい(自伝第2版 S. IV)。

§第 XIII 章 RÜCKERT、HOLTZMANN、ROSEN、POLEY およびその他の BOPP の門弟、ADELUNG

ドイツ最古のサンスクリット学者たちのうち独自の存在であったのが、文献学的詩人 Friedrich Rückert である。1788年に Schweinfurt に生まれ、1866年に没した。Edmund Goetze が続刊した Karl Goedeke『ドイツ文学史綱要』第2版第VIII巻(Dresden 1905)S. 142 以下には、その生涯の記述と、255項目からなる年代順の著作目録がある。サンスクリットからの翻訳を含むその本文を容易に利用させてくれるのが、Leopold Hirschberg の『Rückert 拾遺、Friedrich Rückert の散在する詩と翻訳の集成』(2巻, Weimar 1911)である。インドの作品の Rückert による技巧に富む翻案は、サンスクリット文献学のみならずドイツ文学史にも属し、それゆえより広い層にインドの詩の観念を与えることに本質的に寄与した。東洋学一般の歴史において Rückert がより広い位置を占めるのは、彼がアラビア語・ペルシア語の文献

学的知識をももっていたからである。Benfey は『言語学史』S. 413 以下で彼をより詳しく特徴づけている。Rückert はおそらく Friedrich Schlegel の書によって東方に惹きつけられたのであろう。彼自身はサンスクリットにおいて Bopp の門弟と称している。もっとも彼は Bopp より年長であり、またサンスクリットをすでにかなり解するようになってから初めて Bopp と個人的関係に入ったのであるが。1821年頃から彼のペルシア語・アラビア語の分野の仕事が現れ始めた。1827年に Bopp 宛の書簡が始まり、Lefmann, Fr. Bopp II 209* 以下に公刊されている。彼は当時すでに1826年から Erlangen の教授であり、そこでサンスクリットをも講じた。1827年冬学期には7人、1828年冬学期には6人の聴講者があったが、1830年8月12日には、すでに一年前から自分自身が唯一の学生であると書いている。後に1841年から彼は Bopp と並んで Berlin のアラビア語教授となり、1849年に教職を辞した。書簡から我々は、彼がサンスクリットを Wilkins の文法書から学んだことを知る。彼は Bopp の文法書と語彙集を待ち望んでいた。その翻訳のうち最もよく知られているのは『Nal und Damajanti』(Frankfurt 1828、第3版 1845)である。¹⁾ それは同時に Bopp への密接な依拠をも示す。他の仕事はほぼすべて雑誌に発表されており、Gildemeister, Bibl. Skr. Spec. からも知られる。Rückert は新刊書を書評し、その際同時に翻訳見本を、通常は一篇のみ与えることを好んだ。その書評と翻訳はすべて周到な文献学的検討に基づいている。1831年に彼は Nalodaya 第2 canto の翻訳(Hirschberg Nr. 378)を、Benary の1830年 Berlin 刊本の書評において発表した。この刊本を彼は1830年8月12日付の Bopp 宛書簡で大いに称賛している。同じ書簡で彼は Kirātārjunīya の難しさについて語り、これを全訳したと述べている。しかし個々の詩節を除いて刊行されたのは VIII 27—57 の翻訳のみで、これも1831年である(Hirschberg Nr. 379)。書簡から知られるように、こうしたものに出版者を見出すのは容易ではなかった。1833年に彼は Raghuvaṃśa 第8書からの一篇「Ajas und Indumati」を、Stenzler の刊本(London 1832)に依拠して発表した(Hirschberg Nr. 384)。1837年には(『東洋学雑誌』第1巻に)Lassen の刊本(Bonn 1836)に対する言語的所見を付した美しい "Gita-Govinda" の翻訳を(Hirschberg Nr. 457)、さらに同じ1837年に v. Bohlen の刊本(Berlin 1833)に基づく「Bhartrihari よりの翻訳」を発表した(Hirschberg Nr. 450)。すでにそれ以前、1829年に彼は G. M. Dursch の『Ghatakarparam すなわち割れた壺』(Berlin 1828)を書評していた(個々の詩節は Hirschberg Nr. 292)。この仕事の価値と原典そのものの価値について、彼はすでに1828年11月1日付の Bopp 宛書簡で否定的に述べている。しかし彼は自分自身をも容赦せず、1830年12月2日付の Bopp 宛書簡で、Wendt の詩神年鑑1831年版に載せた「Amarusatakam すなわち Amaru の百詩節からのサンスクリット恋愛小唄三十八篇」が

¹⁾ W. v. Humboldt は Bopp の後のドイツ語訳(Berlin 1838)を Rückert のそれより好んだ。後者は彼に「白粉を塗ったような」印象を与えたという。Bopp 宛書簡、Lefmann I 125*。——Rückert は Nala と Damayantī の翻訳にあたり、Erlangen の数学教授 Wilhelm Pfaff と協力した。これについては Agnes Sapper がその著書『Frau Pauline Brater、あるドイツ女性の生涯の像』(第4版, München 1910)の冒頭で牧歌的な情景を描いている。

「大部分誤訳である」と告白している。サンスクリットで再び一歩進んだ今それが分かる、というのである。「それは呪わしい言語であり、この世代はこれを制圧しないでしょう、まだしないでしょう。我々が自らに対しても他人に対してもいかに厳しくあろうとも。それこそ必要なことであり、私は貴殿の仕事の書評においてまさにその例を、願わくば誤解されぬ形で、しかし場合によっては応報を受けるべきものとして示したのです」。彼は Bopp の Glossarium と Schlegel の Rāmāyaṇa を1831年に、Wilson の Theatre of the Hindus、Chézy の Śakuntalā、Lenz の Urvaśī、Lassen の Mālatīmādhava 第1幕刊本、Bernhard Hirzel の戯曲 Śakuntalā 訳を1834年に批評した。批判的所見は書簡にも多く見出され、とりわけ1827年11月14日付の Rosen の「良きサンスクリット語根書」についての書簡と、「1829年聖霊降臨祭」の日付をもつ Bopp の Glossar についての書簡においてである。Böhtlingk はその Abhijñānaśakuntalam 刊本の序論において、Hirzel 訳への批判のゆえに Rückert を「Śakuntalā の理解に本質的に寄与した人々」に数えている。彼による1855年のこの戯曲の翻訳は、死後『Friedrich Rückert の遺稿より』(Leipzig 1867)として現れた。ZDMG. 第XII・XIII巻(1858, 1859)において Rückert は Mārkaṇḍeya Purāṇa からの二篇の翻訳にサンスクリット本文をも付したが、これは Hirschberg Nr. 2033, 2034 の再刊では省かれている。第二篇は Hariścandra 王の伝説に関わる。初め Leipzig 1836—1839 に六分冊で現れた教訓詩『バラモンの英知』は、Rückert がインドの箴言詩の精神にいかに深く入っていたかを示すが、文献学にとってはあまり問題とならない。より自由に扱われているのは『バラモンの物語』(Leipzig 1839)のインドの伝説である。この著作からは Sāvitrī 伝説の翻訳が挙げられるのが常である。Rāmāyaṇa から訳された詩節は Hirschberg Nr. 382 にある。Śakuntalā からの個々の詩節が Nr. 385 に、次いで Vikramorvaśī からのより大きな断片が同じく Nr. 386 にある。

サンスクリットにおいては Othmar Frank の門弟であったにもかかわらず、ここに連なるのが多才な A. Holtzmann である。彼はその全体の見方において古い時代に属し、叙事詩からの翻訳において直接 Bopp と Rückert に接続するからである。彼によってサンスクリット文献学は Baden にも移植された。彼は詩人的資質の人であり、批判がきわめて強く空想に左右されうる人であった。その著作における主観的性格は、『一般ドイツ人名事典』における伝記の筆者 W. Scherer も強調している。Adolph Holtzmann は1810年に Karlsruhe に生まれ、1870年に Heidelberg のドイツ文学およびサンスクリットの教授として没した。¹⁾ 彼は初め神学者であったが、1832年に第二の学業期に国家の援助を得て言語学に転じ、München で Othmar Frank にサンスクリットを聴き、同地で Schmeller の指導のもとゲルマニスティクの分野でも仕事をし、そこから Paris の E. Burnouf のもとへ赴いた。1837年に王子の教育係とならなければ London へも行ったであろう。Heidelberg の教授職を得たのは1852年である。彼のわずか39ページの、一部には的確な

¹⁾ Holtzmann の死後、教授職は分割され、ドイツ語・ロマンス語には K. Bartsch が、比較言語学には E. Windisch が招かれた。それと並んで S. Lefmann がサンスクリットの員外講座をもっていた。

批判を含む著作『インドの獣帯のギリシア起源について』(Karlsruhe 1841)の対象は、当時すでに何度も扱われていた。Gildemeister, Bibl. Skr. Spec. S. 148 以下参照。Weber は繰り返し賛意をもってこれを引用している。Holtzmann は獣帯十二宮のギリシア起源説を、Letronne に接続し、A. W. v. Schlegel に反対して主張した。Schlegel の Mānavadharmaśāstra と Rāmāyaṇa の高い年代についての見解を彼は論駁した。Amarasiṃha の年代についても、またそれと関連して Vikramāditya と Śālivāhana の紀元についても彼は論じている。Nicolo de Conti が前者のもとに Augustus 帝を——しかし Augustus は紀元前63年生まれである——、Wilford が後者のもとに Jesus Christus を——最初のキリスト教徒はその昇天から年を数えたであろうから——理解しようとしたことを、彼は怪しまなかった。Holtzmann が最初に持ち出したのは、Vikramāditya が必ずしもその紀元の始まる年に生きていた必要はないという議論である(S. 19)。しかし彼の主たる研究は叙事詩に、古代インドのそれのみならず古代ゲルマンのそれにも向けられていた。Scherer はまた、彼が Homeros の名をインドの Vyāsa と結びつけようとした "Sam-āsa" という小論にも言及している。Rāmāyaṇa からの翻訳『Walmiki の Ramayana よりの断片』(Karlsruhe 1841)とその第2版『Rama、Walmiki によるインドの詩』(1843)は、すでに Gildemeister に記載されており、同じく Paris の写本からの小さな原典刊本『Indravidschaja、Mahabharata の一挿話』(1841)も記載されている。この分野の主著は『インドの伝説』の表題をもち、三部で Karlsruhe 1845, 1846, 1847、第2版 Stuttgart 1855 である。第一部と第三部は挿話(そのうちには「Nal 王」もある)を、第二部は Mahābhārata の主要物語を大戦の終結まで含む。いずれも原典の圧縮であるが、その際大部分の詩句は原典の詩句の自由な翻訳である。インドの名前を彼はドイツ語風に Panduing, Wasudeving 等と改変した。Holtzmann は自らのドイツ語の詩作のために śloka から独自の韻律を構成しており、これについては第三部の序文で報告している。この序文はその見解についてさらなる情報をも与える。彼の見解によれば、Mahābhārata、すなわち「明らかにさほど古くない作り物」には、古いインドの英雄歌の残骸、その瓦礫しか含まれていない(S. VI)。作品の大きな分量は「詩を十分に長くしたい」という要求によってもたらされた。本来は Duryodhana の側に正義と徳があったのに、後代の解釈は Pāṇḍu の子らと「とりわけ Krischna、あらゆる悪しき奸計の教唆者にして考案者」をあらゆる徳の模範として称揚しようとした。「神々の世界と人間の世界との真に叙事詩的な混淆」の痕跡はわずかしか残っていない。古い神々の排除と、若い神々——Viṣṇu, Śiva, Devī——の混入は、この詩をほぼ完全に破壊した。「Wischnu の礼拝がいたるところに入り込み、この壮麗な叙事詩を、Puranen と呼ばれるあの退屈で不条理な作品の一つにほとんど変えてしまった」。Lassen が Mahābhārata から歴史的資料を得ようとしたのに対し、Holtzmann はこれを詩的観点から見た。彼は本来の詩が、いかなる不明瞭さもない、技巧を凝らさぬ詩の傑作であったという前提から出発し、必要な批判をもって本来の形を大筋において

再構成しうると信じた。第三部の序文で、Nala 詩を例に自らの方法を詳しく述べつつ、彼はこう言う。自分の翻案は、現在の形の原典の逐語訳よりも原型についてより正しい観念を与える、と。Nala の物語が Bopp においてほぼ2000詩句からなるとすれば、彼のもとではわずか1000余である。しかし彼は「詩そのものを短縮したのではなく、ただ醜くする非真正の付加物から清めたにすぎない」と考えている(S. XXVI)。その批判と再構成のきわめて主観的な性格にもかかわらず、Mahābhārata の批判的考察を導入したという功績は彼に残る。その理念に接続したのが甥の Adolf Holtzmann(小)であり、1838年に Karlsruhe に生まれ、1914年に Freiburg のサンスクリット教授として没した。彼は伯父の Calcutta 版とともに Mahābhārata の研究をも受け継いだ。最初の諸論考では伯父に似ていたが、Mahābhārata についてのより大きな著作はより文献学的・記述的性格をもつ。その間に Lassen、Talboys Wheeler、Sörensen、Bühler、Jacobi、Hopkins が Mahābhārata 研究を推し進めた。現在計画されている Mahābhārata の批判的校訂——これには Lüders と Winternitz がすでに価値ある予備的研究を提供している——は、近い将来 Mahābhārata の諸問題を新たに甦らせるであろう。それゆえ Winternitz が、Mahābhārata の主要内容をドイツの詩に導入した Holtzmann の『インドの伝説』を新版(Jena 1913)によって入手しやすくしたのは、時宜を得たことであった。¹⁾

若い頃 Bopp の教えを受けた人々のうち傑出しているのが Friedrich Rosen である。1805年に Hannover に生まれ、早くも1837年に London University のサンスクリット教授として没した。この職には22歳ですでに任命されていた。²⁾ 彼は生涯、師 Bopp に敬虔な愛着を保った。Lefmann I 116、書簡 181* 以下参照。"Radices Sanscritae Illustratas ed. F. Rosen"(Berlin 1827)を Lefmann(S. 122)は Bopp の学派からの最初の著作と呼んでいる。もっともそれに先立って彼の学位論文 "Corporis Radicum Sanscritarum prolusio"(Berol. 1826)があり、これを E. Burnouf が Journal Asiatique で書評した。語根一覧に文献からの用例を付した点で、彼は Westergaard の先駆者であった。Rückert の批判的所見についてはすでに述べた。しかし Rosen の歴史的意義は、彼が実際に Ṛgveda の本文の刊行と解釈を始めたことにある。彼は Colebrooke を自らの導き手と呼んでいる。まず Sāyaṇa なしに Ṛgveda の理解に、構文と形態の理解に入ることがいかに困難であったかは、1830年2月26日付の Bopp 宛書簡に描かれている(Lefmann I 191*)。最初の試みには British Museum の「Polier 写本」を用いた。Colebrooke から与えられた示唆を思い出し、彼はインドの文法家たち、とりわけ Siddhāntakaumudī のうちに「Veda の言語についての多くの解明」を求め、また見出した(1831年5月23日付 Bopp 宛書簡参照、Lefmann I 201*)。すでにその Rig-Vedae Specimen(London 1830)において、Pāṇini のほかに用いた補助手段は "Nighantu"——Yāska を著者とすると伝えられる——と Sāyaṇa の注釈であった。J. Mohl は

¹⁾ Witkowski の雑誌1914年における私の書評参照。

²⁾ 大学における彼の活動については、他の点でも注目すべき友人 v. Bohlen 宛の書簡で述べている。v. Bohlen 自伝第2版 S. 128 参照。

当時 Burnouf に宛てた1830年9月6日付の書簡で、Rosen の意図について "qu'il se fait illusion sur ses moyens"〔彼は自らの手段について幻想を抱いている〕と書いた。主著は彼の死後に初めて "Rigveda-Sanhita, Liber primus, Sanskritè et latinè, ed. Fridericus Rosen"(London 1838, printed for the Oriental Translation Fund of Great Britain and Ireland)の表題で現れた。その間に J. Stevenson が Bombay 1833 に着手した Ṛgveda 刊本の冒頭は、最初の39讃歌のみを含む。Gildemeister Nr. 73 参照。Max Müller と Th. Aufrecht の完成された Ṛgveda 刊本と比べれば、Rosen の第1 aṣṭaka の刊本は確かに不十分な手段で企てられたものと見えざるをえない。彼は写本二本のみを用い、一本を Saṃhitā に、他の一本を Padapāṭha に用い、後者をラテン文字転写で伝えている。アクセント表示は欠けている。さまざまな不正確さと誤りが指摘されうる。しかしその計画は大きかった。"It was the intention of the author to publish the text with a translation, explanatory notes, and an index verborum, and to have prefixed to the whole a comprehensive view of the character and manners of the Hindoos in that early period to which the origin of the Védas is to be referred"〔著者の意図は、本文を翻訳・説明的注記・語彙索引とともに刊行し、全体の冒頭に、Veda の起源が帰されるべき初期時代のヒンドゥーの性格と習俗の包括的概観を置くことであった〕。注は第31讃歌第6詩節まで進んだところで、死が彼を奪った。Rosen のこの著作において、十年余にわたり Ṛgveda が言語研究者たちによって研究されたのである。A. Hoefer, Ztschr. f. d. Wissenschaft der Sprache II 436 以下参照。それ以前にも同じく十年にわたり、大陸においては「彼が助言によって、あるいは資料の提供によって寄与しなかった重要な東洋学的刊行物はなかった」と、彼自身の手にならぬ序文¹⁾ に述べられている。その証拠は Gildemeister に見出される。序文はその学問的堅実さのみならず、高貴な人格をも称えている。特に重んじたのは Stenzler(1807年生)との友情であり、London で一時期をともに過ごした。1830年9月11日付書簡では、Schlegel, Lassen, Freytag が Bonn で彼をきわめて友好的に迎えたことを称えている。Rosen はアラビア語をも解し、Fleischer(1801年生)と親交があり、そのアラビア語・ペルシア語の「熟達」に驚嘆していた。1828年5月4日付 Bopp 宛書簡参照。

1832年3月31日付の年長の Burnouf 宛書簡で、Bopp は "un ancien élève"〔かつての門弟〕として、とりわけ Upaniṣad の仕事で知られる Louis Poley を推薦している。彼は落ち着かぬ生涯を送った。当時彼は数か月を Paris で過ごし、次いで Konstantinopel のプロイセン公使館の職に就こうとしていた。彼は1831年に(Gießen であろうか)Mārkaṇḍeyapurāṇa からの Devīmāhātmya の刊本とラテン語訳によって学位を得た。この著作の書評が、Benfey のサンスクリット文献学の分野における最初の登場であった。ここでもインドの editio princeps が基礎にあり、Poley は写本二本を対校している。すでに Paris で Sāyaṇa 注付きの Kāṭhaka-, Īśā-, Kena-, Muṇḍaka-Upaniṣad の Calcutta 版を石版で複製し、また第一と最後のものをフランス語に訳した後、彼は Bonn 1844 に小さな原典集『Vrihadâraṇyakam, Kâṭhakam, Îça, Kena, Muṇḍakam、すなわち Yagur-, Sâma-, Atharva-Veda よりの五 Upanishad。

¹⁾ Lassen, Ztschr. f. d. K. des Morgenl. III 469 によれば、Poley がこれを執筆した(E. Kuhn)。Poley は Rosen と親交があった。前掲 S. 93 注2 に挙げた v. Bohlen 宛書簡参照。

London の東インド会社図書館の写本に基づく』を刊行し、末尾に乏しい注記を付した。それは最古にして最も重要な Upaniṣad たる Bṛhadāraṇyaka の最初の刊本を含む。B. G. Teubner 社からはより大きな著作『インド人の聖典、あるいはその宗教と哲学の叙述。初めて原典に基づいて論ず』が出るはずであった。そのうち断片のみが現れた。『H. T. Colebrooke のインド人の聖典についての論考。英語より Dr. Ludwig Poley 訳。インド人の最古の宗教詩の断片を付す』(Leipzig 1847)である。S. 85 に始まるこの付録において彼は Ṛgveda の20ほどの讃歌を Rosen の aṣṭaka から訳し、さらに Kāṭhaka-, Īśā-Upaniṣad と Bṛhadāraṇyaka を訳しているが、後者の途中 S. 176 で書は中断している。出版者は序文でこう述べる。「個人的事情により Poley 氏はしばしば居所を変えざるをえず、そのため彼との連絡は甚だ困難となり、ついには全く不可能となって、着手された書は今日まで断片にとどまった」。S. 109 には Upaniṣad の三分類が見出され、Weber の分類を想起させる。

Bopp の他の門弟のうち、より難解なサンスクリットにも通じた良き知者であったのが、Bielefeld のギムナジウム教師 Carl Schütz である。1805年に生まれ、失明して1892年に没した。小さな仕事や内容豊かな書評(Gildemeister Nr. 278 の Bhāminīvilāsa についての彼への言及を参照)を別として、彼はさまざまな翻訳を公刊した。1837年に Bhaṭṭikāvya 五章、1845年に Kirātārjunīya 二書、1859年に Meghadūta(『Kalidasa の雲の使者』、Bopp が彼の自由に供した六つの注釈からの抄録を付す。A. Weber が賛意をもって書評、Ind. Streifen II 150 参照)である。Bopp の門弟にはさらに Ferdinand Benary(1805年生、1880年没)、Agathon Benary(1807年生、1860年没)、および Zürich の牧師 Bernhard Hirzel(1807年生、1847年 Paris で没)が属する。Berlin の Köllnisches Gymnasium 教師 Agathon Benary はより比較言語学者であり、1837年に『ローマ語音論』第一巻を公刊したが、Bopp のサンスクリット文法書、すなわち1827年の『Sanskrita 語の詳細な体系』と1832年の Grammatica critica Sanscriticae linguae とを『学問的批評年報』1833年7月号 S. 17—59 で詳細に論じ、Schlegel と Lassen の攻撃に対して弁護した。¹⁾ Lefmann II 178 以下参照。一部には久しく放棄された見解を代表しており、たとえば augment に否定辞を見るなどであるが、Bopp がサンスクリットによって言語学に新しい精神を与えたことについての彼の論証は歴史的価値をもつ。Ferdinand Benary は1831年から Berlin の神学部員外教授であり、主としてセム語を担当したが、Berlin 1830 に小さな技巧的詩 "Nalodaya" を注釈 Subodhinī とラテン語訳を付して刊行し、これは Rückert に認められた。本文はインドの editio princeps(Khidirapura 1813、Gildemeister Nr. 238 参照)に依拠する。Rosen が彼にその寄与を提供していたが、その扱いについて Rosen は初め甚だ不満であった。Lefmann II 193*, 198* の書簡参照。Bernhard

¹⁾「Berlin 学問的批評協会」の会員名簿には Schlegel と Lassen が欠けており、Benary 兄弟、v. Bohlen、Bopp、Ewald、Gesenius、W. v. Humboldt、Kosegarten、Pott、Rückert が見出される。

Hirzel はスイスにサンスクリット研究を定着させた。¹⁾ 彼は Chézy の刊本に基づく戯曲 Śakuntalā の「サンスクリットと Prākṛt からの」訳者として知られる。『Sakuntala すなわち認識の指輪』(Zürich 1833)である。他の翻訳には『Urwasi und der Held』(Frauenfeld 1838)、『Prabodhatschandrodaya すなわち認識の月の出』(Meghadūta とともに、Zürich 1846)がある。彼はまた Kālidāsa(?)の Śrutabodha をも刊行しようとし、そのために友人 Brockhaus が資料を調達し、また「Kālidāsa 語彙集」を作ろうともしていた。新設の Zürich 大学でサンスクリットの講義も行った。1833年7月19日および9月26日付の Bopp 宛書簡参照(Lefmann I 252* 以下)。そこで彼は、Göttingen で Śrutabodha についての論文により「学位を得た」と述べている。G. M. Dursch——その "Ghatakarparam" のドイツ語訳付き刊本(Berlin 1828)は Rückert に酷評された——は、献辞において自らを de Chézy の門弟と称している。

研究の初期には Stenzler(1807年生)と Böhtlingk(1815年生)も Berlin の Bopp のもとにいた。二人はやがてそこから Bonn へ移った。Stenzler は半年でサンスクリットにきわめて速やかに進歩し、Bopp はこの一学期に彼と Benary とともに、自らの四つの挿話とさらに未訳の一篇を読み通しえたほどであった。1828年3月30日付の Schlegel 宛推薦状にそうある(Lefmann I 104*)。その方向からすれば、Stenzler と Böhtlingk は Bonn 学派に数えられるべきであり、Brockhaus(1806年生)、Gildemeister(1812年生)、スウェーデン人 Tullberg も同様である。Bonn から Stenzler は Paris へ赴き、そこから Chézy は1830年4月26日付で Bopp にこう書いている。"Je suis enchanté de M. Stenzler et j'aurois été bien étonné qu'après vous avoir eu pour maître il ne se fût pas distingué tout-à-la fois et par les qualités du coeur et par celles de l'esprit"〔私は Stenzler 氏に魅了されております。貴殿を師としながら、心の資質においても精神の資質においても抜きん出ていなかったとすれば、私は大いに驚いたでありましょう〕。当時 Paris ではすでに Eugène Burnouf が、Bonn では Christian Lassen が、旧世代と並んでその活動を展開し始めていた。ドイツにおけるサンスクリット文献学の深化と進歩は、Berlin の Bopp よりも、Bonn の A. W. v. Schlegel と Chr. Lassen から発したのである。それを特徴的に示すのが、Nicolaus Delius がその学位論文の Vita において Berlin から Bonn へ戻った理由を述べている箇所である。

これまで扱ってきた学者たちが19世紀30年代までにサンスクリット文献の知識のために成し遂げたところを、ロシア帝国実枢密顧問官 Friedrich Adelung²⁾ が書誌的著作『サンスクリット文献の試論』(St. Petersburg 1830)にまとめた。これは英訳され、『Bibliotheca Sanscrita、サンスクリット語の文献』の表題で1837年に第2版が現れた。この書は、著者が自ら述べるように「サンスクリットの知者でない」まま書かれたのでなければ、なお大きな価値をもったであろう。この欠陥のため、名称や語の綴りに誤りが満ちている。もっともそれ自体としては有用な記述が多く集められてはいる。刊本と翻訳に関する限り、これは Gildemeister の "Bibliothecae

¹⁾ B. Hirzel について J. Wackernagel は次のように注記している。「1839年に Strauss の Zürich 大学招聘が内乱を惹起したとき、彼は Strauss に反対する闘いの喚呼者であった。Gelzer, Die Straußischen Zerwürfnisse in Zürich(1843)S. 376—387 参照」。

²⁾ 1768年に Stettin に生まれ1843年に没した。彼は「Mithridates」の名で知られる一般言語誌の著者 Joh. Christoph Adelung の甥であり、その言語誌は彼の死後 Joh. Severin Vater が完成した。

Sanscritae sive Recensus Librorum Sanskritorum hucusque typis vel lapide exscriptorum Critici Specimen"(Bonn 1847)によって置き換えられた。この書は表題を除けば、非文献学的な先行者の書を時折の引用によって想起させるにすぎない。しかし Adelung なくしては、おそらく Gildemeister もなかったであろう。比較言語学的著作を Gildemeister はその著作に採らず、個々の碑文の取扱いも採らなかったが、最初の写本目録(Librorum manuscriptorum catalogi)は採っている。H. H. Wilson が Calcutta 1828 に刊行した "Mackenzie Collection" について、Adelung(S. 100 以下)は Surveyor-General of India にして Sir Alexander Johnston と関係のあった Lieut. Col. Colin Mackenzie の驚嘆すべき蒐集活動について若干の記述を与えている。特徴的なのは、Adelung がとりわけ多くを、同じく非文献学的な宣教師 Rev. William Ward の著作から採っていることである。それは、インドの著者を含めて724名を挙げる「引用著者一覧」から知られる。Ward は Serampore の宣教師に属し、狭量なキリスト教的立場からインドを見たが、その著作においてサンスクリット文献の作品について詳しく報告してはいる。もっともより深い事実知識に基づくものではない。前掲 S. 54 参照。

【原書 p. 97(下半分より)】

§第 XIV 章 Calcutta のアジア協会

§J. Prinsep と Aśoka 王碑文

インド本国においては、Calcutta の Asiatic Society がインド古代に向けられた諸研究の中心となっていた。それゆえ『Centenary Review of the Asiatic Society of Bengal, from 1784 to 1883』(Calcutta 1885) は、同時にインド古代学の歴史の大きな一部でもある。第I部は Rājendralāla Mitra によるもので、協会の外的な歴史を含んでいる。第II部は Rudolf Hoernle によるもので、協会の機関誌すなわち Asiatick Researches、Journal、Proceedings において、またインド古代の解明のために、さらに Bibliotheca Indica において古文献の印行のためになされた事柄の概観を与えている。第III部は Baboo P. N. Bose によるもので、自然科学的な内容である。「Asiatick Researches」の第1巻は四折判で1788年以降に刊行され、第XX巻すなわち最終巻は1839年に出た。最初の11巻については、London で1808年以降に八折判でなされた再版が多く利用された。Journal は八折判で、1829年に Major Herbert が創刊し Prinsep が引き継いだ雑誌「Gleanings in Science」を改編したものであり、すでに1832年に刊行を開始していたが、協会の所有に移ったのは Prinsep が1838年末にインドを去ったときのことである。Prinsep's Essays, ed. E. Thomas, II 218 を見よ。Proceedings は1865年以来、別個に刊行されている。Cent. Rev. I 53。

Hoernle はその素材を五つの章に分けている。すなわち I Antiquities、II Coins、III Ancient Indian Alphabets、IV History、V Language and Literature である。重点は記念建造物・貨幣・碑文にある。発掘された古代遺物の記述、発見された貨幣の収集と読解、貨幣および碑文における古代文字の解読を通じて、インドにおけるイギリス人たちは、文学作品からは得ることのできなかったインドの古い歴史の基本線を引いたのである。「One of the great merits of the Asiatic〔以下次ページ〕

Society of Bengal is to have laid the foundation for a true history of Ancient India」と、Hoernle はその第四章の冒頭で述べている。Cent. Rev. II 82。すべての協力者の名前および彼らの寄稿の表題は、Centenary Review の編者たちによってさまざまな appendices に記録された。著名な記念建造物や碑文は、サンスクリット研究のごく初期の時代にすでに知られていたが、人々はそれらをどう扱ってよいかまだよく分かっていなかった(Cent. Rev. II 6)。そして熱心な収集家たちが同時に最初の解読者であったわけではない。すでに1799年に Sir Charles Ware Mallet は、As. Res. VI 382 において「Caves or Excavations, on the mountain, about a mile to the eastward of the town of Ellore..」の詳細な記述を与えていた。Elephanta の神殿洞窟もまた早くから知られていた。Robertson、Heeren、A. W. v. Schlegel、P. v. Bohlen がこれら岩に彫られた祭祀所を詳細に論じたことは、すでに見たとおりである(上記 S. 59, 81 参照)。しかしそれらがどれほど特別な珍奇として見られたにせよ、インドの古代史にとって第一に問題となるものではない。より大きな反響を呼んだのは、まず1830年、General Ventura による Manikyāla の stūpa の開封であった。ここにギリシア人、バクトリア人、およびインド・スキタイの王たちの貨幣が現れたのである。この発見に続いて、Hoernle が記録している他の発見と発掘とが続いた。1834年から1838年までの年月は、インドの古代遺物に向けられた研究の黄金時代であり、その成果の大部分は Asiatic Journal of Bengal の諸巻に収められている。この短期間において貨幣および碑文の解読のために最も多くを成し遂げた者こそ、J. Prinsep であった。Journal の各巻は後に入手が困難となったため、Edward Thomas は Prinsep の諸論文を若干の省略と補遺¹⁾とともに改めて刊行した。すなわち『Essays on Indian Antiquities, historic, numismatic, and palaeographic, of the late James Prinsep, F. R. S., Secretary to the Asiatic Society of Bengal; to which are added his Useful Tables, Illustrative of Indian History, Chronology, Modern Coinages, Weights, Measures etc.』全2巻、London 1858 である。その第I巻 S. I–XVI には、Prinsep の弟による Prinsep の伝記が収められている²⁾。

James Prinsep は1799年に London に生まれ、1819年に「Assistant to the Assay Master of the Calcutta Mint」としてインドに来た。当時この地位にあったのは H. H. Wilson であった。Prinsep は数年間 Benares の Assay Master を務めたのち、1833年に Calcutta で Wilson の後任となった。彼はまた Asiatic Society の Secretaries の一人でもあり、初め1832年にはなお Wilson と並んで、その後は1838年11月に健康上の理由からインドを去ってイングランドへ帰国せざるをえなくなるまで務め、彼はすでに1840年に世を去った。彼は大きな素描の才能と、並外れた技術的な器用さとを備えていた³⁾。この種の才能と彼の

原注

¹⁾ これらの改変によって、Prinsep が成し遂げたことの見通しはいくらか困難になっているが、他方 Thomas が Prinsep の扱った対象を1858年まで追跡してくれたことはありがたい。私自身は主として原論文に依拠した。Edward Thomas はインド貨幣学に大きな功績を残した。そのことは A. Weber が、彼の著作『The Chronicles of the Pathān kings of Delhi, illustrated by coins, inscriptions and other antiquarian remains』London 1871 の書評(Indische Streifen III, S. 64)で強調しているとおりである。

²⁾ これについては JASB. VII Preface X 以下を参照。

³⁾ 「It is now 19 years since Mr. James Prinsep arrived amongst us, a boy in age, wanting perhaps the finish of classic scholarship which is conferred at the public schools and universities of England, but well grounded in Chemistry, Mechanics, and all useful sciences」、JASB. VII Pref. XI。——多数の図版は、自然科学的なものも含めて「Prinsep lith.」の標記を帯びている。

職務は、彼の研究が貨幣学的・古文字学的な方向をとったことに影響を与えずにはおかなかったであろう。とはいえ、Asiatic Researches および Asiatic Journal への彼の寄稿の長大な一覧(Cent. Rev. I 172 以下)には、多数の鉱物学的・気象学的な論考も見いだされる。文献学的な面では、彼の pandit である Kamalākānta が彼を助け、たとえば Gujerat の Junagarh にある有名なサンスクリット碑文の内容を彼に理解させた(JASB. VII 337, 343 = Essays II 57, 60)。Prinsep の功績がいかに高く認められていたかは、彼が健康上の理由から辞任せざるをえなくなった際の協会の決議に表れており(Essays II 218 参照)、さらに彼の死後 Lassen が Zeitschr. f. d. Kunde des Morgenlandes IV 499 以下で彼に捧げた追悼の辞にも表れている。

Prinsep は1832年および1833年に、Asiatic Society に集積されていたローマ・ギリシア・ペルシアの貨幣の記述をもって仕事を始めた(Journ. As. Soc. Beng. I 392¹⁾, II 27 = Ess. I 1 以下)。次の論文(Journ. II 310)は、Lieutenant Alexander Burnes が Panjāb および Oxus 川流域から持ち帰った貨幣²⁾、すなわちギリシア文字を伴うバクトリア貨幣に関するものであり、それと並んで Manikyāla(Attock 近郊)の近隣から出た KANHPKOY という名を持つ銅貨があった。KOY の前の文字は Θ あるいは C とも読みうる。Prinsep はこの名を当時知られていたギリシア・バクトリアの王たちのうちに探したが無駄であり、そこに、チベット文献および Rājataraṅgiṇī(I 168)にいう Kaniṣka、すなわち「a Tartar or Scythic conqueror of Bactria」を認めた(Journ. II 315 = Ess. I 38)。ギリシア・バクトリアの王たちについて、Prinsep は A. W. v. Schlegel が Strabo、Plutarch、Trogus Pompeius、Arrianus の Periplus および当時までヨーロッパで知られていた貨幣——そのなかには Major J. Tod が記述したものも含まれる——から作成し、Journal Asiatique 1828, S. 326 に発表した一覧に依拠した。すなわち Theodotus I および II、Euthydemus、Apollodotus、Menander、Heliocles、Demetrius、Eucratides I および II である。貨幣からは時の経過とともになお他の名前が加わり、また我々がそれなしにはまったく知りえなかったであろう新しい王朝も加わった。

Major James Tod(1782年生、1835年没)は、貨幣の最も初期の大収集家の一人であり、1826年に Transactions of the RAS. I 318 以下で、彼の所有する若干の貴重な貨幣について報告した。「An Account of Greek, Parthian and Hindu Medals³⁾, found in India」である。彼は12年にわたるインド滞在、「amongst Mahrattas and Rajputs」の間に、とくに Mathurā においてあらゆる種類の貨幣を約2万枚集めたが、そのうち彼にとって興味のあるものは100枚にすぎず、さらにそのうちでより大きな価値があると思われたのは3分の1にすぎなかった。彼はその報告を Apollodotos の貨幣一枚と Menandros の貨幣一枚から始めている。同じギリシア・バクトリア王の貨幣二枚をもって、Prinsep は Dr. Swiney の収集についての報告を始めている(JASB. II 405 = Essays I 45)。彼はここで、彼にとって指針となった上述の Schlegel の論考の翻訳を与えている。1838年までにこの貨幣研究の領域で成し遂げられたことを、Chr. Lassen はその著書『Zur Geschichte der Griechischen und Indo-

原注

¹⁾ これについては S. 476 に Diocletianus の貨幣の出所に関する注記がある。

²⁾ Burnes の短い報告(On the "Topes" and Grecian Remains in the Panjāb)を参照。それは Journ. II 308 で Prinsep の論考に先行している。

³⁾ 「Medals」とは当時、とくに美しく作られた貨幣を指した。Prinsep, JASB. I 393 参照。

skythischen Könige in Baktrien, Kabul und Indien durch Entzifferung der Altkabulischen Legenden auf ihren Münzen』(Bonn 1838)にまとめた。この書の冒頭には、貨幣の発見およびそれまでの解読の歴史についての報告がある。

19世紀の30年代には、三人の男の貨幣発見がとりわけ大きな反響を呼び、それは Prinsep の諸論文にも反映されている。すでに1830年に、既述のとおり General Ventura——Mahārājā Ranjit Sing(Raṇajit Siṃha)に仕えて Sikh 教徒の軍を指揮したフランス人将校の一人(Wilson, Ariana Antiqua 34)——が、Indus 川沿いの Attock の南にある村¹⁾、古い Taxila の地の上に立つ Manikyāla の stūpa を開いていた。Ventura はきわめて寛大なやり方で、Captain C. M. Wade(Political Agent at Lūdiana)の仲介を通じて、その宝を Prinsep の自由に委ねた(JASB. III 313 以下)。他のフランス人将校たちもこの地方で収集を行った。AllardCourt²⁾ である。そのうち後者、すなわち「Engineer Officer in the Army of Mahārāja Ranjit Singh」であった A. Court のものとして、Prinsep は JASB. III 556 に「Further Information on the Topes of Mānikyāla, being the translation of an Extract from a Manuscript Memoir on Ancient Taxila」を公刊し、それに Court が発見した貨幣についての「Note」を付した。Court は自ら開いた stūpa のなかに、Kanerki の金貨四枚と並んでローマの銀貨七枚を見いだしており、そのうち一枚は三頭政治家 M. Antonius のもの、一枚は Julius Caesar の頭部を持つものであった。残りの貨幣に関する Prinsep の記述は Cunningham によって訂正され、彼は結びに次のように述べている。「Of these seven coins found in the second tope at Manikyāla, not one can be proved to be of a later date than the birth of Christ」(JASB. III 636)。Kanerki の貨幣と古いローマ貨幣とのこの同時出現を Prinsep は「a most curious fact」と呼んだが、それは Lüders が Kaniṣka の碑文にその称号として Καισαρος を発見したと考えて以来(Berl. Sitzgsber. 1912, S. 828 以下)、いまや重要な意義を帯びて見える。

次いで Captain P. T. Cautley は、Sahāranpur の北の Behat において、「in the Doāb of the Jamnā and Ganges」に古代都市の遺跡を発見し、それについて1834年1月に Asiatic Society に報告した(JASB. III 43 以下)。

同じく滅び去った居住地の地の上、Beghrām の平原において、Charles Masson³⁾ は、Panjāb および Kabul における政治的代理人としての長期滞在の間に、数千の貨幣を収集した。彼はその貨幣について「Memoir on the〔以下次ページ〕

原注

¹⁾ 「Manikyāla is the name of a small village situated on the route leading from Attok to Lāhor」、Court, JASB. III 557。

²⁾ Court はその論考の表題において自らを「Conjectures on the march of Alexander」(JASB. V 387)、「ancien élève de l'école militaire de St. Cyr」と称している。

³⁾ 当時 Kabul を旅した人々のうちには、Dr. Martin Honigberger の名も見いだされる。彼は書簡による報告(JASB. III 177)のなかで次のように書いている。「There is an European here by name Masson. He was several years in the Punjab. It appears that he has also been to Tabriz, and has lately come to Cabul by the way of Belochistān; he resided some time at Bamian, where he amused himself in making excavations, and has succeeded in finding several idols. At Cabul, he has been engaged in the same kind of pursuit, and has been rewarded here also by his discovery of several idols quite entire.」 Honigberger は Kabul で一つの stūpa を開き、それを Kadphises の墓廟であると説明した(同書 160)。この旅行者の他の発見については JASB. IV 631 の注が報じている。Masson が政治的な任務を帯びていたことは、Wilson, Ariana Antiqua 117 に引かれた彼自身の言葉「The duties imposed upon me by the Supreme Government of India」から明らかである。

Ancient Coins found at Beghram, in the Kohistān of Kābul」(JASB. III 153 以下 = Essays I 80 以下)において報告している。彼の分類は同時に、インドにおいてどのような種類の貨幣が世に出たかをも示している。「The coins of Beghrām comprise five grand classes, viz. Greek, Indo-Scythic, Parthian, and Guebre, Brahminical, and Muhammedan, and each of these classes contains many varieties or series」。V 538 を参照。北西インドと Kabul およびバクトリアとのつながりが、貨幣におけるほど明瞭に現れるところは他にない。Masson は Beghrām の位置とその歴史について、第2および第3の Memoir(JASB. V 1 以下、537 以下)でより詳しく論じている。「Notes on the Antiquities of Bāmiān」(JASB. V 707)においては、彼は Bāmiān と呼ばれる地方、「in one of the Paropāmisan valleys」にあり、その「idols and caves」によって知られる地方をも記述している。

貨幣研究者たちはまず、ギリシア語の銘文を持つ貨幣から出発した。表と裏の肖像やその他の図像が、より詳細な同定のための手がかりを与えた。インド・スキタイの王たちの最古の貨幣もまたギリシア語の銘文を持つ。それゆえ Prinsep もまた、歴史的な順序に従って、バクトリアおよびインド・スキタイの王たちの貨幣に特別の注意を向けたのである。論考「Further Notes and Drawings of Bactrian and Indo-Scythic Coins」(JASB. IV 327)は、既知のものと並んで新しい王名をもたらし、また裏面の未知の文字を読む最初の試みをももたらしている。論考「On the connection of various ancient Hindu coins with the Grecian or Indo-Scythic series」(IV 621、668 以下に続く)においては、彼は「Hindu coins of Kanouj」すなわち総じてヒンドゥーの最古の貨幣——「in Captain Cautley's Herculaneum at Behat」¹⁾ で発見されたようなもの——がインド・スキタイの貨幣に連なるものであり、またヒンドゥーはギリシア人がインドに来る以前には本来の貨幣鋳造を持たなかった、という見解を主張している。彼はその資料をとりわけ Colonel Stacy²⁾ の豊かな貨幣収集から得た。この傑出した収集家が彼にそれを自由に使わせたのである。彼はここで初めて、インドの地における貨幣類型の歴史を追跡することを試みている。一部仏教的な性格を持つ Behat の発見物に続いて、彼はインド・スキタイの Kadphises と Kanerkos の貨幣を扱い、次いで Kanouj の貨幣、まず figures の姿勢においてとりわけ明瞭にインド・スキタイ貨幣の模倣であることを示すものを扱っている。Kadphises はギリシア・バクトリアの王たち、まず Hermaios に連なり、彼はこの王や他の王たちと同じく「Pehlevi」銘を持つ。それ以外は Kadphises にきわめてよく似た Kanerkos にはこれが見られず、彼は「PAO」あるいは「PAONANO PAO」の称号を持つ。

彼のもとに流れ込んでくる資料に応じて、Prinsep は繰り返しこれらさまざまな種類の貨幣に立ち返っている。たとえば JASB. V 548 以下では、ギリシア・バクトリアの王 Archebios(当時彼は「Archelius」と呼んでいた)、Antialkides、Diomedes、Spalyrios、Spalirisos、Pantaleon、Agathokles、Ermaios の貨幣を論じ、Ermaios には Kadphises を連ねているが、後者はインド・スキタイの最初の王としてである。「New Types」として彼は

原注

¹⁾ Prinsep が S. 624 で述べているように、Behat の場合はおそらく古代都市ではなく——Wilson によればその名は見いだされない——、放棄され破壊され砂の下に埋もれた古い仏教僧院である。これは M. A. Stein の「Sandburied Cities」を想起させる。

²⁾ Prinsep は彼と交流のあった収集家の一覧の筆頭にこの人物を挙げている(JASB. IV 623)。

同書 S. 720 において Amyntas 一名を、また Dr. Swiney の収集からは basilissa Agathokleia を、さらに Euthydemos、Menandros、Antialkides の新しい貨幣標本を挙げている。これらの貨幣の大部分は Masson の収集に由来し、Masson の素描にもとづいて図示されている。彼は貨幣の記述においても Prinsep と並んで学問的な功績を得た。フランス人 A. Court——将軍 Ventura や Allard と同じく Mahārāja Ranjīt Singh に仕えていた(上記 S. 100 参照)——の収集からも、Prinsep は新たな貴重な品を得た。Court は General Ventura に続いて Peshawar および Attock の地方で収集を行い、Prinsep は彼の研究に関する Memoir からの Extracts を JASB. V 468 以下に伝えている。

より完全な形で、Hoernle はその概観 Centenary Review II 96 において、ギリシア・バクトリアの王たちの名を、それらが次々と発見されていった順に挙げている。インドの歴史にとっての貨幣の重要性は、ここでとりわけ際立つ。貨幣がなければ、我々はこれらの王についてほとんど何も知らないであろう。より古い王のうち若干がギリシア語文献に言及されるにすぎず(それが Schlegel の知識の源である)、インド文献にはほとんど一人も現れない。その唯一の例外、おそらく彼らのうち最も強大であった者が Menander である。Goldstücker は、Mahābhāṣya において Pāṇini III 2, 111 の未完了過去の用法を例示するために挙げられる文 aruṇad Yavanaḥ Sāketam を彼に関係づけた。Ayodhyā にまで進出したと考えられるのはこの Yavana のみだからである(『Pāṇini』S. 229)。Milinda という形で彼の名は Milindapañha のなかに生き続けており、これもまた紀元前2世紀の北西インドを仏教的なものとして我々に示してくれる、ありがたい一条の光である。

インド・スキタイに Prinsep は JASB. V 639 で立ち返っている。「New varieties of the Mithraic or Indo-Scythic Series of Coins and their imitations」である。この論考は、それが50年後の M. Aurel Stein の論考「Zoroastrian Deities on Indo-Scythian Coins」(Oriental and Babylonian Record, August 1887)とまさに同じ事柄を扱っているがゆえに、特別の価値を持つ。すでに Prinsep や他の人々によって、当時の区切り方でいう PAO NANO PAO、すなわち KANHPKI および OOHPKI の称号は ΒΑΣΙΛΕΥΣ ΒΑΣΙΛΕΩΝ と比較され、その際 skr. rājan が念頭に置かれていた(Lassen, Ind. Alterth. II 832 においてもなおそうである)。Stein になって初めて PAONANO PAO は語源的に正しくイランの称号「Shāhān-shāh」、古ペルシア語「khshāyathiyānām khshāyatiya」に還元された。Stein は、貨幣上のギリシア文字 P が r の音のみならず sh の音をも表し、後者の場合には常に通常の P から上方への小さな線によって区別されており、それはほぼアングロサクソン語の þ に比しうることを認識した。この sh は、KANHPKI = Kaniṣka、OOHPKI = Huviṣka、KOPANO = Kuṣana——後者は中国語の「Kuei-shuang」、一民族名——からすでに推定しうるものであった。KOPANO は KANHPKI および OOHPKI の後に置かれ、彼らが王であったところの種族を示す。Stein はこれらの貨幣の裏面の神名もまたイラン語から説明したが、すでに Prinsep も、たとえば MAO「月」を正しく認識し、さらに OAΔO を「with Odin or Woden of the Saxon mythos: It is not a little curious that the verbal root of two of our present days of the week, Monday and Wednesday, should thus be discovered among a parcel of old coins dug up in the Panjāb!」と比較さえしている(JASB. V. 642 = Ess. I 363 A. 2)。

Kanouj の古い金貨を Prinsep は JASB. IV 634 において、少し前に Wathen が公刊した「Guzerāt〔以下次ページ〕

copper-plates」の文字と、Allahabad の Gupta 碑文の助けを借りて読んだ。実際に彼はこれらの貨幣上に Kumāragupta、Candragupta、Samudragupta の名を見いだした。これらの貨幣の多くが Kanouj(Kanyākubja)で発見されたからといって、そこから必然的にそこが Gupta 朝の主たる王都であったということにはならない。彼はむしろそれを西方の Ujjain に求めている(同書 IV 640)。他方 Viṣṇupurāṇa IV 24, 18 では Gupta が Māgadha と結びつけて言及されている。anugaṅgāprayāgaṃ Māgadhā Guptāś ca bhokṣyanti。Benares 付近で発見された Gupta の貨幣を Prinsep は Lieut. A. Cunningham および V. Tregear から得た(JASB. V 643)。彼は次いで、この若き Cunningham(当時 Captain に昇進していた)——インドにおける主要なイギリス人研究者たちの列において彼の後継者となるべき人物——を、S. 652 において次のような言葉で紹介している。「Henceforward my readers should understand, and they will, doubtless, soon perceive the fact, that my coin essays are joint productions, and that I have an auxiliary at my elbow, far better acquainted with the contents of, I may say, all the collections of coins in India, than I have leisure to become」。

「Hindū coins of middle age」の記述——広く分布した Pāla 家についての所見を伴う——、および「Rājput coins」の記述(JASB. IV 668, 674)は、我々にとってはあまり問題とならない後代へと導く。「Pāla or Dēva dynasty of Canouj」の貨幣についても彼は V 656 で論じている。

しかしより古い時代に属するのが「Saurāshtra Coins」であり、彼は IV 684 以下でそこに改めてギリシア的な範型を観察している。より詳細な取り扱いは論文「The Legends of the Saurāshtra group of Coins deciphered」(JASB. VI (1837) 377 以下)に見いだされる。これらの貨幣の出土地は今日の Cutch、Kathiawar、Gujarat、すなわち西インドの、ギリシア人のいう「Surastrene」の地方であった。これらの貨幣の最も重要な語を、彼は初め誤って読んだが、それは彼の pandit にも責任がないわけではない。土着の学者たちは、自らの śāstra と慣れ親しんだサンスクリットの問題でない場合には役に立たなかったのである。今日の読者はただちに rājñaḥ kṛtrimasya という読みに躓く。これは「of the elected king」を意味するはずのものであった。正しい読み kṣatrapasya ——当時すでに彼が思いついていたが pandit が難色を示したもの——を、彼は Girnar の古い堤防を修復させた Mahākṣatrapa Rudradāman の碑文に関する論文において与えている(JASB. VII 345 = Essays II 63)。「The word .. kshatrapas, although wholly unknown as a sovereign title to modern Hindus, and not to be found in their books, is familiar to the reader of the Grecian history of ancient Persia, with merely a softening of the initial letter as ΣΑΤΡΑΠΗΣ, Satrapa, the prefect of a province under the Persian system of government」。かくして Prinsep は Kṣatrapa 王朝の発見者でもあったのである。Prinsep はもう一度 Kṣatrapa および Gupta の貨幣を記述し(JASB. VII 354 以下)、Thomas はその Prinsep Essays 版 II 86 以下でさらにいくつかを付け加えたが、その前に彼は Prinsep に従って Kṣatrapa の位置づけを論じ、彼の時代までに知られていた限りの名前をまとめていた。その際 Thomas は自らの以前の論文「On the Dynasty of the Sāh kings of Surāshtra」(JRAS. XII (1848) 1 以下)に言及している。「Sāh kings」という呼称は放棄せざるをえなかった。というのも、それは貨幣上の名前の誤読にもとづくからである。Prinsep および Thomas における「Rudra Sāhasa」「Dāmā Sāha-」「Vijaya Sāhasa」等は、RudrasiṃhasaDāmasenaputrasaVijayasenasa 等と読むべきである。M. Duff, Chron. 296 の一覧を参照。

記念建造物上の碑文の Prinsep による解読は、〔次ページに続く〕

Allahabad の柱から出発した。きっかけを与えたのは1834年の「A Description, with Drawings, of the Ancient Stone Pillar at Allahabad called Bhīm Sén's Gadá or Club」、Lieut. T. S. Burt(Engineers)によるもので、彼はその兄弟 Lieut. Burt の助力を得ていた(Journ. III 105 以下)。この柱はさまざまな世紀の碑文で覆われている。我々にとって問題となるのは、当時まだ解読されていない文字による最上部の碑文と、Devanāgarī から大きな困難なく解読しえた第二の碑文である。Burt は、この第2番の碑文の文字が、すでに Wilkins によって As. Res. I 279 で読まれていた「Gya」(すなわち Buddha Gaya)の古碑文の文字に似ていることに気づいていた。Wilkins は当時こう述べていた。「The character is undoubtedly the most ancient of any that have hitherto come under my inspection」。これは Gupta 時代の碑文および文字である。Prinsep は Burt の Description に付した「Note」(Journ. III 114 以下)において、この碑文に Candragupta および Samudragupta の名が現れることを確認した。この碑文は Captain Troyer に委ねられていたが、彼はその pandit Madhava Ray の助けを得てもなお、きわめて不十分にしか読むことができなかった。すなわち、Prinsep の「Note」に続く Troyer の「Remarks upon the second Inscription of the Allahabad Pillar」(Journ. III 118 以下)における本文と、翻訳の断片である。碑文の完全な理解のためには、必然的にその文言の最も正確な再現と、さらに初期の考古学者たちが持っていたよりも高度な文献学的訓練とが必要である。その両者はようやく徐々に達成されたのである。Samudragupta が Purāṇa から知られる Maurya の一覧に現れないため、Prinsep は碑文の Candragupta がこの名の Maurya を指すとは考えなかった。彼は文字の形が7世紀にチベットに導入された字母といくらか類似していることを指摘して、この碑文をはるかに後代に置いた。

解読と読解においていくらか先へ進んだのは、その少し後の Rev. W. H. Mill の「Restoration of the Inscription, Nr. 2, on the Allahabad Column」(Journ. III 257 以下)である。しかし Captain Edward Smith(of the engineers)——彼はすでに Bhilsa 碑文も同様に拓本にとっていた——による Allahabad の柱の碑文の優れた拓本によって、Mill の本文と翻訳もなおまったく不十分であることが明らかになった。この拓本にもとづいて、Prinsep はその pandit Kamalākānta の助けを得て1837年、Journ. VI 963 以下(Re-examination of the Allahabad pillar)において新しい翻訳を与えた。それは Mill のものとはほとんど一致せず、とりわけ Samudragupta が服属させた王および諸民族の名を含む重要な部分(lin. 17 以下)において確かな進歩を示している。これらの名については Mabel Duff の Chronology of India (1899) S. 28、A. D. 350 の項を参照。Prinsep は当時、Allahabad 碑文の Candragupta を「whom the Chinese Buddhist travellers found reigning in the fifth century having a name signifying "cherished by the moon"」なる君主と同定する傾向にあり、その際 Journ. VI 63 以下に伝えられた「Chinese Account of India」に依拠している。

当時の重要な発見に属するのが、Ghāzipur の「in the district of Ghāzipur」(Benares の北東)にある Bhitārī の柱に発見された第二の Gupta 碑文である。Mill はそれを1837年、Lieut. Cunningham の鉛筆素描にもとづいて JASB. VI 1 以下に公刊した。ここでは第一の碑文からすでに知られていた最初の Gupta 王たちに続いて、後続の王 Candragupta II、Kumāragupta、Skandagupta も言及されている。Mill は、Gupta 朝の時代は〔次ページに続く〕

「somewhere between the 1st and 9th centuries of our era」に求められるべきだという見解であったが、これはむろんなお甚だ漠然とした規定である。

その間にすでに1835年、Valabhī の君主たちの王朝も、W. H. Wathen(Persian Secretary to the Bombay Government)の論考「Account of the Inscriptions upon two sets of Copper Plates, found in the Western part of Gujerāt」(Journ. IV 477 以下)によって知られるところとなっていた。これらの銅板は、王朝の創始者 Senāpati Bhaṭārka から Dharasena「Muṣalī」(kuśalī の誤り)に至る Valabhī の君主たちの名を含んでいる。Valabhī は Gupta より後代のものであるが、両者はしばらくの間並存して支配していた。双方の碑文の文字はきわめてよく似ている。Wathen は Valabhī 文字の解読にあたって、Prinsep が Journ. III, Pl. VI に Gupta 文字について与えた字母表に助けを見いだした。これらの碑文の相互関係について、Prinsep は1838年 Journ. VII 275 で次のように述べている。「The Gujerat plates dated in the third century of the samvat era, differ but little from the Allahabad pillar or Samudragupta inscription, but that little is all in favor of their superior antiquity」。同書 S. 629 では彼は3世紀ないし4世紀と述べている。すなわち Prinsep は、Valabhī 銅板が Samudragupta 碑文より古いという見解であった。Prinsep はまた、彼がいまや Wathen と同じく Gupta および Valabhī をあまりに早い時代に置いた点でも誤っていた。Wathen は当時高い評価を得ていた Colonel Tod の Rājasthan に関する著作に従ったのであり、そこでは Valabhī 紀元の始まりが Vikramāditya 紀元375年 = 西暦319年とされていた¹⁾。これによって彼は碑文の Śrī-Dharasena について西暦328年という年を得たが、それは誤った日付にもとづくものであった。Bhaṭārka については彼は144年ないし190年としている。これに対し Mabel Duff の Chronology of India (1899) では Bhaṭārka はようやく495年の項に現れ、これは Vincent Smith, Early History of India, 2d ed. (1908) S. 275 と一致する。また Dharasena (II) は571年の項にある。我々が Samudragupta の碑文と Dharasena の銅板をやや詳しく扱ったのは、Gupta と Valabhī がインド史の重要な王朝であること、またこの二つの碑文をもって碑文および王朝の年代学に関するより深い研究が始まるからである——もっともその成果は繰り返し繰り返し覆されてきたのだが。

しかし Prinsep の主要な功績は Aśoka 王碑文 の解読にある。彼はまず柱勅令を知るに至り、1834年に「Mathiah Lāth Inscription」²⁾ において最初の観察を行った。彼はこれを Nepal 駐在官 B. H. Hodgson から得た。すなわちここでも彼が最初のきっかけを与えたのである。Hodgson の「Notice of some Ancient Inscriptions in the Characters of the Allahabad Column」(JASB. III 481)に続いて、Prinsep の「Note on the Mathiah Lāth Inscription」が同書 483 に載る。Pl. XXIX には「on the Mathiah Lath, between Bettiah and the river Gandak」の碑文の Facsimile がある。Allahabad の第1号碑文の Facsimile は同巻の Pl. IV に与えられていた。Delhi の Feroz's Lāth の碑文を Prinsep は Asiatick Researches 第VII巻から知っていた。すでに当時 Prinsep は「that all three inscriptions are identically the same」(JASB. III 484)ことを見て取っていた。第四のものとして彼は翌1835年、再び Hodgson から碑文を〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ Fleet の研究以来、Valabhī 紀元は Gupta 紀元と同一とされている。Corp. Inscr. Ind. III (1888) Introd. 130 以下参照。同書 III 164 以下には Dharasena II の寄進の同じ本文が、より正確に、また正しく日付を付して(samvat 252 = 西暦571年)収められている。

²⁾ Lāṭh は「pillar」を意味する。

「Rādhia or Sārun Lāth」のものとして Facsimile で受け取った(Journ. IV 121 以下)。Prinsep はいまや「of four copies of the same inscription, three of them perfect, viz. the Delhi, the Mattiah (sic!), and the present one, and that of Allahabad mutilated」を所有することとなった(S. 126)。

これら柱碑文の呼称が時とともに変わってきたことは、この錯綜した道筋における見通しを容易にするものではない。Bühler の柱勅令版(ZDMG. XLV (1891) 144 以下)では、Delhi の Feroz's Lāth(もとは Topra にあった)には「Delhi-Sivalik」、Rādhia には「Lauriya-Ararāj」、Mathiah には「Lauriya Navandgarh」(Lauriya は「in the Champāran District of North Bihār」の一村)という名が現れる。Allahabad という呼称はそのまま残った。Bühler においては新たに「Delhi-Mirat」(もとは Mirat にあり、Firoz Shāh によって Delhi に移された)と「Rāmpūrva」(Lauriya の北)が加わっている。詳細は Vincent A. Smith, Asoka (1901) S. 99 以下を参照。

Prinsep が紛れもない喜びをもって、いかにして彼が Aśoka 字母の鍵を見いだしたかを語るあの記念すべき論考は、「Note on the Facsimiles of Inscriptions from Sanchi near Bhilsa, taken for the Society by Captain Ed. Smith, Engineers; and on the drawings of the Buddhist monument presented by Captain W. Murray, at the meeting of the 7th June (1837)」という表題を持つ(Journ. VI 451 以下)。優れた Facsimile を彼は、すでに Allahabad の柱の碑文の大きな拓本を提供してくれたのと同じ Smith に負っている。今回もまた彼は一つの Gupta 碑文から始めている。Gupta 文字による二つの碑文のうち第一のものは Candragupta の名を含んでいる。本文と翻訳は「the Society's pandit」である Rāma Govinda が作成した。「And now for inscriptions 3 to 25 of Captain Smith's catalogue!」 幸運にも Prinsep は、これら同じ構造を持つ短い碑文のうちに寄進証書を推定し、末尾にしばしば繰り返される記号のうちに dānaṃ という語を、またそれにしばしば先行する文字のうちに属格の -sa を認識した(「〜の贈与」、たとえば Vajajasa gāmasa dānaṃ)。これによって同時に、その言語が Pāli 語的性格を持つことも確定された。彼はこう述べている。「Since 1834 also my acquaintance with ancient alphabets had become so familiar that most of the remaining letters in the present examples could be named at once on re-inspection. In the course of a few minutes I thus became possessed of the whole alphabet, which I tested by applying it to the inscription on the Delhi column」(同書 461。Hoernle, Cent. Rev. II 62 以下参照)。すでに最初の字母表——彼が Allahabad の Aśoka 碑文における個々の文字の出現を記録したもの(JASB. III Pl. V)——において、Prinsep は柱勅令の最初の二語を文字の見本として際立たせていた。いまや彼は最初の文全体「Devānampiya(より頻繁には piye)piyadasi lāja hevam ahā」を読み、それを正しく「The beloved of the gods King Piyadassi thus spoke」と訳した(VI 469 以下)。彼は注において、Stevenson がこれらの語をどう読み訳したかに言及せずにはいられなかった。すなわち Dvedhāraṃpiye piya dvaso bhārjamadva、「In the two ways (of wisdom and of works?) with all speed do I approach the resplendent receptacle of the ever-moving luminous radiance」! Prinsep もまた誤りを犯したが、しかしこのような幻想的な構成を公にする勇気は決して持たなかったし、また Dr. Swiney のような思いつき——彼はバクトリア貨幣上の RAO NANO RAO を「Celtique Vocabulary」から勝ち誇って説明した(VI 99)——もまた同様である。彼に先立つ1835年、Lassen はすでに、彼自身が書簡で伝えたところによれば(JASB. V 723, VI 465)、Agathokles のバクトリア貨幣の裏面に Aśoka〔以下次ページ〕

字母の a, ga, thu, kla を正しく認識していた¹⁾。しかし Lassen は当時その発見をさらに追求しなかったし、またそれが Prinsep による柱勅令の完全な解読の出発点であったわけでもない。Prinsep は言語の理解にあたって「Ratna Paula the Pālī scholar」の助力を得た(JASB. VI 469)。彼は最初の論考において柱勅令の第二の文も大筋において正しく訳している。しかし誤りであったのは、彼が勅令の王を、Turnour の「Epitome of Ceylonese History from the Buddhist Chronicles」から知った Ceylon 王「Deveni Peatissa」、より正しくは「Devānaṃ Piyatissa」と同定したことである。

第二の論考において Prinsep は Delhi(Sivalik)の柱の本文を、Faksimile と転写、および完全な翻訳とともに与えた。「Interpretation of the most ancient of the inscriptions on the pillar called the lāt of Feroz Shāh, near Delhi, and of the Allahabad, Radhia and Mattia (sic!) pillar, or lāt, inscriptions which agree therewith」(JASB. VI 566 以下)。Prinsep はその Faksimile の基礎として、Asiatick Researches 第VII巻における Captain Hoare の素描を用いた。その原稿はなお協会の所有にあった。同様に彼は「in the society's portfolio」に、第一および最後の勅令の大きな写しを二つ見いだした。おそらく Sir William Jones が Colonel Polier から得た素描であろう。Prinsep の言語知識がさほど大きくなかったことを思えば、彼の直観は賞賛に値する。Westergaard、Burnouf、Kern、Senart、Bühler らの仕事の後の今日可能であるほど正しくは、彼が勅令をただちに理解しなかったことは、彼の咎とすることはできない。勅令の言語は重苦しく、文の連関はしばしば容易に見て取れず、難解な語が完全な理解を妨げた。そのようなものが勅令の第三の文の冒頭にすでにあり、自らの Pāli 語知識を誇る Turnour もまた結局 Prinsep より良く理解することはできなかった。

George Turnour(of the Ceylon Civil Service、1799年生、1843年没、1818年 Ceylon 渡航)は、Childers と Rhys Davids の先駆者たる Pāli 語研究者として、Ceylon の仏教僧たちの助けを得て Pāli 語と Ceylon の古代史についての優れた知識を身につけていた。当時彼はちょうど Mahāvaṃsa の校訂本と、後に多用されることになる翻訳を公刊したところであった(Colombo 1837)²⁾。Mahāvaṃsa と、彼にすでに入手可能となっていた Dīpavaṃsa の対応箇所から、彼は Asoka 王が Piyadassi という名をも持っていたこと、したがって碑文の Piyadasi とは偉大な王 Asoka すなわち Dhammāsoka を指すことを見て取った。この重要な発見を彼はまず書簡で Prinsep に伝え(JASB. VI (1837) 790 以下)、次いでそれをその論文「Further notes on the inscriptions on the columns at Delhi, Allahabad, Betiah etc.」(同書 S. 1049 以下)においてより詳しく展開した。しかしこの発見以前に〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ もっとも Prinsep はすでに1834年、JASB. III 166 の注において、Agathokles と Pantaleon の貨幣におけるいわゆる Pehlevi の文字が Allahabad の Aśoka 碑文のそれときわめてよく似ていると述べていた。「It will be important to trace them further」。

²⁾ Turnour の翻訳は原著作のみを含むものであるが(Chapt. I–XXXVIII)、L. C. Wijesinha による後代の続編の翻訳『The Mahāvansa, Part II』(Colombo 1889)に再録されている。本文 I–XXXVII はいまや W. Geiger の校訂版(Pāli T. S. 1908)にあり、同じく1912年に Geiger の翻訳が出た。Mahāwansa Ṭīkā は本文とともに、Pandit Baṭuwantuḍāwe および M. Ñāṇissara Bhikshu によって revised and edited されたものが Colombo 1895 に出ている。

彼は——ほとんど Ceylon 史の知識に惑わされたとでも言いたくなるが——JASB. VI 856 以下において、まったく誤った着想に到達していた。すなわち、勅令の王とは後代の王 Pāṇḍu を指すというのである。Dāṭhādhātuvaṃsa(II 91 以下)によれば、彼の命によって仏陀の歯が Dantapura から Pāṭaliputra へ運ばれたとされる。彼は本文の改変によってこの出来事への言及を本文中に持ち込み¹⁾、ほとんど信じがたい恣意をもって Piyadasi をいたるところ Paṇḍu で置き換えた。その他の点でも Turnour は本文を恣意的に改変している。あの発見によって追い越されたにもかかわらず、Turnour の本文と翻訳は「Further Notes」の末尾に公刊された(同書 1059 以下)。おそらく Turnour が Prinsep から翻訳を求められていたためであろう。この公刊はむしろ差し控えられた方がよかったが、とはいえ Turnour が Prinsep のいくつかの誤りを避けたことは認めねばならない²⁾。

1838年に Prinsep は Aśoka の磨崖碑文 に向かった。Rev. Dr. J. Wilson(「president of the Bombay Literary Society」)から、彼は「Girnar (Girinagara) near Junagarh in Gujerat」の岩上の碑文の Faksimile³⁾ を得た。それに加えて、Lieut. Kittoe が発見した、保存状態のより悪い「at a place called Dhaulī, in Cuttack」(Orissa)の碑文の石版画があった⁴⁾。Prinsep はただちに、これらインド東側に由来する碑文が Girnar の新しい14の勅令のうち10を、方言と文字においてある種の相違を伴って含み、さらに二つの特別勅令を含むことを見て取った。これらの碑文の大きな歴史的意義がどこにあるかを、Prinsep はすでに二つの重要な論考の表題において表明している。その第一は「Discovery of the name of Antiochus the Great, in two of the edicts of Asoka, king of India」(JASB. VII 156 以下)である。第2および第13勅令において Aṃtiyako Yonarāja が言及されている。その後の研究は、Antiochos 大王ではなくシリアの Antiochos Theos(前263–247年)が指されていることを明らかにしたが、これはすでに Prinsep 自身が第二の論考で述べているところである。この第二の論考は、Girnar の14勅令の editio princeps を、古代字母の活字による転写と翻訳とともに提供している。〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ 問題は第1勅令の第三文の冒頭 hidatapālate dusaṃpaṭipādaye である。Bühler は「この世においてもかの世においても幸福を得ることは難しい」と訳した。Prinsep は「I acknowledge and confess the faults that have been cherished in my heart」と訳した。Turnour は hi を前の部分に引き寄せ、Dantapurato Dasanan upādayin、「From Dantapura, I have obtained the tooth」と書いた(JASB. VI 1059、それ以前の 857, 868 参照)。彼の第二の翻訳は再び Prinsep のものに近く、「I have renounced the impious courses cherished by myself」であった。彼は「hidatapālate」を、hi(hiṃ に対し、1. Sg. 過去、語根 「捨てる」)、-d-(Clough の Pāli 語文法に依拠する sandhi 子音)、atta-(ātma- に対する)pālite(Prinsep においても同様)に分解したが、他方 Prinsep は hidata から「heart」を得、「paṭipādaye」を動詞形と解していた。しかし Prinsep はまもなく hidatapalite の正しい派生をも見いだし、それを hidalokika pāralokika と結びつけた(JASB. VII 277)。

²⁾ たとえば彼は第1勅令の agāyā, agena に Pāli 語 aggo「precious」を正しく認め(Prinsep もこれを承認、JASB. VII 272)、また第4勅令の asvathe を Prinsep のように「holy figtree」とは訳さなかった。実際には後者は skr. āśvasta に等しい。

³⁾ これがどのようにして、Captain Lang の助けを得て作成されたかは、J. Wilson がその旅行報告 JASB. VII 336 で述べている。

⁴⁾ Dhauli の碑文が刻まれた岩の現代名は「Aswastama」であるとされ、それゆえ Kittoe はこれを「the Aswastama Inscription」と呼んでいる(JASB. VII 435)。この名は謎めいている。Prinsep によれば、それは第2特別勅令の末尾近くの語「hida ena mahāmātāsvasatam (nā)ma yajisati」と関連するはずであるが、これは正しく読まれておらず、彼によって誤って「whereby (the spot) shall be caused by me to receive the name of mahāmātāswasatam, or (place of meditation of the officers)」と訳されていた(同書 447, 451)。

そしてそれは「On the Edicts of Piyadasi, or Asoka, the Buddhist monarch of India, preserved on the Girnar rock in the Gujerat peninsula, and on the Dhaulī rock in Cuttack; with the discovery of Ptolemy's name therein」という表題を持つ(JASB. VII 219 以下)。Prinsep は Ptolemaios を第13勅令の Turamayo に見いだした¹⁾。指されているのはエジプトの Ptolemaios (II) Philadelphos(前281–247年)である。当時なお知られていなかった Khālsī の碑文においては、Antiochos 以外の四王の名は Tulamaye, Aṃtekine, Maka, Alikyashudale とある。これらのうち Prinsep は Kyrene の Magas と Antigonos Gonatas の名も読むことができたが、Epirus の Alexander の名はなお彼の目を逃れた。というのも Girnar の碑文はまさに第13勅令において激しく損傷しており、また Dhauli の碑文もここでは役に立たないからである。Aśoka の勅令におけるこれら Diadochoi への言及は、ギリシア人のいう Sandrokottos と Maurya の Candragupta——Asoka の祖父——との同一性をこの上なく見事に裏づけた。すでに当時、Asoka の治世は前3世紀の中葉および後半と確定することができたのである。Prinsep は次いで第三の論考において、Dhauli の二つの特別勅令をも初めて公刊し翻訳した。「Examination of the separate edicts of the Aswastama inscription at Dhaulī in Cuttack」(JASB. VII 434 以下)である。彼はここでその地についての Kittoe の報告を掲げ、また碑文を発見した Kittoe を——彼より前にすでに「Colonel Mackenzie with his myrmidons」やその他の人々がこの地方の古代遺物を探索していたにもかかわらず——賞賛している。本文は Kittoe の「original pencil transcript」に従い、同じく Prinsep が作らせた古代字母の活字で与えられている。ここでも Prinsep がすべてを正しく訳したと期待することはできない。たとえば彼と彼の pandit は代名詞 tuphe「あなたがた」を認識せず、この語に skr. stūpa を推定した。これらの特別勅令では官吏たちが繰り返し呼びかけられているのだから、このことだけでも多くの誤りを招いたのである。

その後の時代に、より正確な拓本とより優れた言語知識によって本文と翻訳がいかに多く改善されえたにせよ、Prinsep の翻訳からすでに十分な明瞭さをもって、この偉大なインドの王 Asoka の姿が立ち現れていた。すなわち、強大な征服の後、インドの国境をも越えて、生活と統治において Dhamma——高貴な倫理法——を、自らのため、その官吏のため、いかなる信条を持つ臣民のためにも実現しようと欲した王の姿である。一人の王のこれらの勅令は世界史において比類がない。Burnouf が Académie において Prinsep による柱碑文の解読について講演したとき、彼はきわめて大きな注目をもって聴かれた。「Le jour où je l'ai reçu (the Society's Journal of June, 1837), j'allais à l'académie; quoique ce savant corps ne prête son attention en ce moment qu'au Grec et à l'Arabe, j'ai demandé la parole, et j'ai trouvé de la verve pour exposer tout ce que vous veniez de faire, de beau et de grand par votre découverte. J'ai été écouté avec une religieuse attention..」。Burnouf の Prinsep 宛書簡におけるこの言葉を、Prinsep 自身が JASB. VII 458 に伝えている。

当時発見され Prinsep の Journal に公刊された碑文のうち、我々はなお、Girnar すなわち Junagarh の岩塊の西面にある Mahākṣatrapa Rudradāman の古いサンスクリット碑文を挙げておこう。そこでは二人の Maurya、Candragupta と Aśoka が言及されている。それは〔次ページに続く〕堤の修復に関わるものである。

原注

¹⁾ Pl. XI に Prinsep はこれらの名を含む箇所の Faksimile を与えている。

——あるいはむしろ、すでに Candragupta が造成し、その後繰り返し洪水によって破壊された貯水池の修復に関わるものである。Rudradāman はまた Dakṣiṇāpati Sātakarṇi をも打ち破った。Mabel Duff の Chronology では彼は西暦150年の項に置かれている。Prinsep はこの碑文の拓本もまた Rev. J. Wilson から受け取り、その pandit Kamalākānta の助けを得てそれを訳した(JASB. VII 334 以下 = Essays II 55 以下)。この注目すべき最古のサンスクリット碑文のより正確な本文とより良い翻訳は、1878年に Bhagvānlāl Indraji が(Bühler と協力して)Indian Antiquary VII 257 において与えた。あらゆる面から徹底的に、Fleet による優れた拓本にもとづいて、1905年に Kielhorn が Epigraphia Indica VIII 36 以下で改めてこれを扱い、そこにはそれ以前のすべての研究も記録されている。

Prinsep の最後の業績は、バクトリア貨幣 上の左書きインド文字の解読であった。「Additions to Bactrian Numismatics, and discovery of the Bactrian Alphabet」(JASB. VII 636 以下)である。その帰結である Kapurdigiri の Aśoka 碑文における Kharoṣṭhī の解読を、彼はもはや体験することがなかった。ギリシア文字による名前との比較は、なお言語の確実な同定には至っていなかった。人々はそれが Pehlevi であろうと推測していた。「The inscriptions or legends of the reverses are invariably Pehlevi, which proves it to have been the current language of these countries at the period of the Macedonian conquests. The Greeks, as conquerors, inserted on the obverses, their own characters, and by them we recognize their princes, after a lapse of twenty centuries」。Masson, JASB. III 157 の言である。ここでも正しい解読はごく少数の記号から出発した。とりわけ S の正しい認識からであり、それはそれまで Prinsep によってさえ O と見なされていた。この S によって Pehlevi 説は一撃のもとに片づけられた。彼がそれまで、たとえば JASB. V 720 において Pehlevi の「malakāo」と読んでいた同じ記号を、彼はいまや正しく mahārājasa と読んだのである。Prinsep が JASB. VII 643 に書いたときの喜びは、今日なお共感をもって感じ取ることができる。「But, once perceiving that the final letter might be rendered as sa, which is the regular Pāli termination of the genitive case, I threw off the fetters of an interpretation through the Semitic languages, and at once found an easy solution of all the names and the epithets through the pliant, the wonder-working Pāli, which seems really to have held an universal sway, during the prevalence of the Buddhist faith in India」。Prinsep は当時、同じ1838年に出た Lassen の著書『Zur Geschichte der Griech. und Indoskyth. Könige』をまだ知らず、また同様に Lassen も Prinsep の論考が出る前にその書を書いていた。Lassen の序文は「Bonn im August 1838」の日付を持ち、Prinsep の論考は Journal の1838年7月号に載っている。Lassen は Prinsep とは独立に、rājandharma のような語からその言語の「インド的傾向」を、またその「戯曲の Prākṛt への接近」をも認識したが、しかし属格 mahārājasa rājarājasa を初めて正しく読んだ功績は Prinsep ひとりに帰する。Lassen はまた、貨幣の解読における若い Grotefend の協力、およびその歴史的活用におけるフランスの貨幣学者 Raoul-Rochette の協力についても言及している。Allard および Ventura 両将軍の収集品——後者のものは少なくとも一部——が Paris に持ち込まれた後のことである。文字に関する Prinsep の所見——最初は JASB. IV 329 以下(1835)¹⁾、〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ 図版のうちここではとくに Pl. XX が注目に値する。そこには15人の王の貨幣銘文がギリシア語と、未知の文字・言語(「Pehlavi」)とで示されている。

次いで VII 639 以下(1838) = Essays I 180 以下、II 128 以下——を Lassen のものと比較しつつ、Wilson は Ariana antiqua (1841) S. 242(「On the Arianian Alphabet」)において依拠している。Kapurdigiri の Aśoka 碑文は当時なお Wilson にも知られていなかった。Thomas はその Essays 版 II 143 以下において、Prinsep の諸発見に接続し、また Wilson の「Ariana Antiqua」を利用して、事柄を1858年まで進めた。すなわち「Review of the Bactrian Alphabet」において、それまでに知られていたバクトリア貨幣類型の大規模な目録を、1843年の Cunningham によるほぼ40の名を含むバクトリア王一覧に従って配列したのである。Thomas はこの左書きバクトリア字母のセム語起源を証明済みと見なした。その形成は「pre-existing and indigenously-matured Pāli alphabet of the South」の影響のもとに起こったという。これはたしかに、両字母が母音の表記および r と子音の結合において原理的に一致することを説明するであろう。この貨幣目録において「Aryan」とはバクトリアの字母を、「Indian Pāli」とは Girnar の Aśoka 碑文の字母を指す¹⁾。注目すべきは、きわめて多数の貨幣のうち「Indian Pāli」が Agathokles と Pantaleon の王の貨幣それぞれ一枚にのみ現れることである(Essays II 179 以下)。他のすべての王においては、裏面の銘文は——そもそも存在する限りにおいて——「Aryan」である。

すでに Prinsep は Girnar の Aśoka 字母のうちに「the primeval alphabet of the Indian Languages」を見ていた(JASB. VII, 275)。彼は、ある種のギリシア文字とそれに対応するサンスクリットの文字との間に存在する類似に注意を促し、ギリシア字母を古代インドのそれから導き出そうとする傾向にあった。「the Greek language is now so indisputably proved to be but a branch of the Sanskrit stem, that it is not likely it should have separated from its parent without carrying away some germs of the art of writing, already perhaps brought to perfection by the followers of Brahma」(JASB. VI 391)。この立場はいまや克服されている。1855年に A. Weber はその論考「Über den semitischen Ursprung des indischen Alphabets」を書いた(Indische Skizzen S. 125 以下)。Thomas は右書き文字に関するこの理論を「altogether untenable」と見なした(Essays II 42²⁾)。それは「Prinseps observations introductory to his Chronological Table of Alphabets」(JASB. VII 271–276, Pl. XIII および XIV = Essays II 35 以下、Pl. XXXVIII および XXXIX)の要約においてである。それ以前にすでに Prinsep は、インド文字のさまざまな種類を系統的に表に配列することを試みていた(JASB. IV Pl. XIX、VI Pl. XIII および XXII)。最古の 数字 についても Prinsep は最初の研究を行っている。「On the Ancient Sanskrit Numerals」(JASB. VII 348 = Essays II 70)である。彼はなお、数字がもともとインドの数詞の頭文字であったと認めうると信じていた。彼の表(Pl. XX)は、もっとも Bühler の数字表とはほとんど接点を示さない。とはいえ、Prinsep がインド古文字学の創始者でもあったと言うことは許されよう。新しい資料はまず Bombay からもたらされた。Rev. J. Stevenson の「Observations on the dates found in the cave inscriptions at Nasik」(JRAS.〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ Bühler の古文字学においては、インドの最北西部にのみ現れセム語起源であることが確実な古い左書き字母は Kharoṣṭhī と呼ばれ、他のインド全域に行われる右書き字母は Brāhmī と呼ばれる。

²⁾ Weber の反論については Indische Streifen II 340 を参照。

Bombay Branch, July 1853)であり、それについて Thomas は、Prinsep の Essay の記述を Surāshtra coins の記述の前で中断して報告している。

インドの天文学と数学においては、数は語によって表される。このことに最初に注意を促したのは A. W. v. Schlegel であるらしい。一は candra によって——月は一つしかないから、四は veda によって——Veda は四つあるから、六は rasa によって——インド人は六種の味を区別するから、等々である。Prinsep は1834年、Sanskrit College の天文学の pandit が彼に提供したそのような語の一覧を公刊した(JASB. III 1)。

「Facsimiles of various Ancient Inscriptions」(JASB. V 340)ないしそれに類する表題のもとに、Prinsep はなおしばしば個々の 碑文 を、手に入るままに扱っている。このようにして彼を通じて、なおより古い時代に属し、よりインド南部にある、Godāvarī の北の地域 Vākāṭaka の王たち(JASB. V 726「Seonī Grant」)、さらに Varman 家(Harivarman、V 482「Asīrgarh inscription」)が知られるようになった。M. Duff, Chronology 307 以下を参照。Purāṇa(たとえば Viṣṇup. IV 24, 12 以下)に言及される Āndhra あるいは Andhrabhṛtya の重要な王朝についても、彼は少なくとも Rudradāman の碑文によって注意を向けるに至っていた。Rudradāman は Dekkhan の主 Sātakarṇi を二度打ち破ったと誇っている。この名はこれらの王のうち複数が帯びている。Vincent Smith, 「Andhra History and Coinage」ZDMG. LVII (1903) 695 以下を参照。そこにはそれまでの学術文献も挙げられている。Dekkhan の後代の王朝、Cālukya、Rāṣṭrakūṭa 等について、Prinsep はまだ何も知らなかった。それらはようやく後になって知られるようになり、Andhrabhṛtya に次いで Bhandarkar の『Early History of the Dekkan』(2d ed. Bombay 1895)の主要内容をなしている。

古代字母の解読、貨幣の読解と整理とは別に、Prinsep は貨幣から得られた、あるいは貨幣学にとって重要なあらゆる知識を、その「Useful Tables」において主として表の形にまとめた。かつて多く用いられたこの著作は、Thomas によって「with Notes, and Additional Matter」を付して Prinsep の Essays 版の第II巻に収められた。すなわち「Useful Tables, illustrative of the coins, weights, and measures of British India; together with Chronological Tables and Genealogical Lists, having reference to India and other kingdoms」(London 1858)である。職業として造幣官であった Prinsep は、古今のインド諸国の通貨・度量衡および貨幣制度の技術的な事柄すべてについて教示するのにとりわけ適していた。歴史家にとってより重要なのは、この著作の他の二つの部分、すなわち「Indian Chronological Tables」(S. 131)——そこで彼はさまざまな暦法を提示し、インドの諸紀元をキリスト教暦の年に換算している——と、「Genealogical Tables」(S. 215)——そこで彼は「a succinct synopsis of the principal ancient and modern dynasties of India」を与えている——である。

§第 XV 章 貨幣と記念建造物。歴史叙述。

§WILSON, MASSON および NORRIS。WILFORD。

§UPHAM。TURNOUR。HODGSON。FERGUSSON。JACQUET。

Prinsep とその協力者たちの研究は、H. H. Wilson によって、貨幣に関してはアフガニスタンの古代遺物と貨幣に関する彼の大部の著作において、碑文に関しては〔次ページに続く〕

磨崖碑文の新たな改訂において、まとめられ補完された。Wilson は、すでに A. W. v. Schlegel が思い描いていたように、サンスクリット文献学とインド古代学とを一身に統合した最初の人であった。文献学的な仕事においては彼は Colebrooke を継承し、考古学的な仕事においては Prinsep に連なった。それゆえ彼はここでもう一度登場せねばならないのである——たとえ貨幣学および碑文学の領域における彼の仕事が、それほど持続的な印象を残さず、まもなく Cunningham らの仕事によって影を薄くされたにせよ。

いま挙げた著作のうち第一のものは、『Ariana Antiqua. A descriptive account of the Antiquities and Coins of Afghanistan: with a Memoir on the Buildings called Topes, by C. Masson, Esqu.』(London 1841)という表題を持つ。Wilson の名誉となるのは、彼がこれを次のように献辞したことである。「To the Memory of James Prinsep, late Secretary of the Asiatic Society of Bengal, and Editor of the Society's Journal, in which publication He with extraordinary talent, industry, and zeal, pursued with unprecedented success the investigation of Indian Numismatics and Palæography, and effected discoveries of the highest interest and value in the History of Ancient India」。第二の著作の結び、JRAS. XII 251 を参照。「Ariana」とはペルシアとインドの間の地域を指す。これと関連して、ギリシア・バクトリアの王たちの貨幣の裏面の左書き文字は、当時「Aryan」あるいは「Arianian」と呼ばれていた。Prinsep と並んで Ch. Masson が登場し、Wilson はここで彼に十分に語らせている。インドの古代史にとってかくも重要となった貨幣学は、アフガニスタンにおける貨幣の発見から出発したのである。第II章——表題に挙げられた Memoir を含む——において、Masson は Peshawer および Kabul の近隣における、群をなして立つ崩れた「Topes」と「Sepulchral Monuments」(Tumuli)を記述している。彼はその多くを自ら開いた。Wilson が著作の最後の主要部(第IV章、S. 215–441)で記述している貨幣は、大部分が Masson の収集に由来し、それは East India Company の所有に移り、London のその博物館に運ばれていた。Wilson はここで最初のより大規模な目録を、すでに Prinsep が区別していた下位区分に従って与えた。すなわち Section I Greek Dynasties(ギリシア・バクトリアの王たち)、II Barbaric Kings(そのうちに Mayes, Palirisus, Spalyrius)、III Indo-Parthian Dynasty(Vonones, Undopherres, Gondophares)、IV Indo-Scythian Princes of Kabul(Kadphises, Kanerki, Ooerki 他)、V Sassanian Kings、VI Hindu Coins(Saurashtran, Buddhist, Gupta, Rajput, Indo-Mohammedan, Later Kanoj, Mohammedan Coins of Ghizni and Ghor)であり、各部門に案内的な序論が付されている。第I章で Wilson は貨幣発見の歴史を与え、第III章では古代人が「Ariana」と総称した諸国と、Alexander のこれらの地域を通ってインドにまで及ぶ進軍とについての地理的概観を与えている。古代の著作家たち(Strabo, Ptolemaeus, Arrian, Curtius)および同時代の旅行者たちの報告(Sir A. Burnes, Lieut. Conolly, Court)と並んで、彼は古代地理学における先行者としてとりわけ Heeren を引用し、地図については Major Rennell を引用しているが、後者はその時代にはむろんまだ確実な成果に達しえなかったとしている(Pref. S. VII)。Robertson、Lassen、さらには von Bohlen さえも彼は言及しており、それゆえ我々はここに、この比較的新しい著作と以前の主要著作との実質的な連関を再発見するのである。Burnouf の Commentaire sur le Yaçna も彼は利用し、そこから Burnouf による Arachotus の説明——「Zend word Haraquaiti」すなわち skr. Sarasvatī から——を伝えている(S. 156)。

ここに位置づけられる Wilson の第二の著作は、1848年の**(Aśoka の)磨崖碑文**の新たな改訂である。「On the Rock Inscriptions of Kapur di Giri, Dhauli, and Girnar」(JRAS. XII 153–257)。新たに加わったのは、A. Court が Peshawar の北東の村 Kapur di Giri 近くの岩上に発見した碑文であり、それは現在ではより近くにある村の名をとって Shāhbāzgarhi と呼ばれるのが常である。Court はそれをその旅行報告のなかで言及しており、Prinsep はそれを「Extracts translated from a Memoir on a Map of Peshāwar」の形でその雑誌に採録したが(JASB. V (1836) 481)、見本としてはほとんど個々の文字しか伝えることができなかった(Plate XXVIII Nr. 5)。Captain Burnes が1838年に代理人を通じて作らせた「paper impression」も不十分であった。ようやく Masson の拓本と写しが——彼はそれについて「Narrative of an Excursion from Peshāwer to Shāh-Bāz Ghari」という表題のもとに JRAS. VIII (1846) 293 以下で報告している——解読の基礎となるのにふさわしいものであった。Masson の「Narrative」に直接続いて、E. Norris の論文「On the Kapur-di-Giri Rock Inscription」が S. 303 以下に載る。Edwin Norris(1795年 Taunton, Somerset 生、1872年没)は、当時の解読と多方面の言語学的活動の時代を特徴づける人物である。彼の名はアフリカ諸言語の領域でも、ケルト文献学(その著作『The Ancient Cornish Drama』のゆえに)でも、またアッシリア学でも名誉をもって挙げられる。バクトリア貨幣の文字に関する Prinsep の解読に接続して、Norris はしばしば繰り返される記号の一群のうちに「Devanampiya」という語を認識した。これによって碑文全体の解読への最初の確実な一歩が踏み出された。北西インドにおいてはバクトリア貨幣の左書き字母が磨崖碑文にも用いられていたことが明らかになったのである。Norris は事情に通じた A. Dawson と連絡をとった。Dawson は、Norris が彼に提示した碑文の一片のうちに Girnar の Aśoka 碑文の第7勅令を認めた。Norris はまずこの第7勅令のみを新しい版本から伝え、その文言を Girnar および Dhauli の版本の文言の下に並べた。「Note by the Director」という表題のもとに Wilson は Prinsep の翻訳を論じ、新しい翻訳を与えたが、それもその最後の部分ではなお正鵠を得ていなかった。Kapur di Giri の碑文は、その字母のゆえにも方言のゆえにも重要であり、第12勅令を除くすべての勅令を含んでいる。Wilson はその本文を、上述の磨崖碑文の新改訂において完全に公刊し、Norris による Faksimile を付した。その入念な作成——Masson の拓本にもとづく——については Norris 自身の言葉で記述されている。Girnar 版の Faksimile も彼は Norris に負っており、Norris はそれを Westergaard および Captain Le Grand Jacob による新しい写しと、その他彼の自由になる資料にもとづいて作成していた。Wilson は勅令の王 Piyadasi と歴史上の王 Asoka との同一性を信じなかった(S. 243 以下)。彼の論拠は決定的ではない。これに対し同所には、勅令の王の宗教的立場について、また Pāshaṇḍa という語の意味について(S. 242 以下)、優れた所見が見いだされる。それまでに知られていた諸版本の本文を比較の便のために並置したことは、きわめて有益であった。また彼の翻訳は多くの点で Prinsep を越える進歩を示している。たとえば第1勅令において、〔次ページに続く〕

小辞 asti pi tu の正しい区切りによって Prinsep の翻訳「... is (as it were) a father (to his people)」を除去し、あるいは第12勅令において asu(= syuḥ)に対する Prinsep の「speedily」を除去した点である。しかし全体としては Senart の判断が正当である。「Malheureusement, avec les rares qualités de son brillant esprit, il n'était pas l'ouvrier de cette tâche; il n'était pas le philologue exact et scrupuleux qu'elle réclamait」、Les Inscriptions de Piyadasi I 11。この点でも我々は Senart の権威ある判断に賛同する。すなわち、Aśoka 碑文の方法的で文献学的に厳密な解釈を創始したのは E. Burnouf であり、それは「Lotus de la Bonne Loi」の Appendix においてであった¹⁾。それはその後 Kern、Senart、Bühler によって継続され、いまや不確実な箇所はごくわずかしか残っていない。

貨幣学的および碑文学的な研究は、当初からインドの歴史に奉仕するものであった。歴史叙述として問題となりうるインドの唯一の文学作品——Purāṇa、Mahāvaṃsa および、より古い Dīpavaṃsa、および1148年の Kalhaṇa の Rājataraṅgiṇī(続編を伴う)——が、19世紀の30年代にインドのイギリス人学者たちのもとで相並んである役割を演じたのは、偶然ではなかった。Bühler の Kaschmir「Tour」以来、Kaschmir には多くの古いものが保存されていることがますます知られるようになった。Stein の Rājataraṅgiṇī の記念碑的な校訂——Kaschmir およびそれを越える地への彼の探検にもとづく——によって、Rājataraṅgiṇī は近年、これらの地方の古代学にとって高められた意義を獲得した。当時それが有名であったのは、それが王 Kaniṣka と Turuṣka の仏教との関係に言及しているからであった(I 168 以下)。1835年の完全な Calcutta 版に先立って、すでに1825年に Wilson の「An Essay on the Hindu History of Cashmir」が As. Res. XV 1 以下に出ていた。それに続いて A. Troyer の校訂本とフランス語訳が Paris 1840 に出たが、Kalhaṇa の8巻のうち6巻を含むにすぎない。Gildemeister, Bibl. Nr. 241 以下を参照。Ceylon の年代記、すなわち Dīpavaṃsa と、すでに校訂本に言及した Mahāvaṃsa は、Devānaṃpiye Piyadasi が仏教史に名高い王 Asoka の別名にほかならないことの証明をもたらした。Purāṇa の歴史的に重要な部分をなすのは vaṃśāḥ、すなわち系譜と王朝であり、それらは一部は神話的な時代に、一部はまた歴史的な時代にも関わっている。たとえば Viṣṇupurāṇa IV 24, 3 では予言の形で Śiśunāka が、4 では Nanda が、7 では Candragupta と Maurya が、12 では Andhrabhṛtya が、18 では Māgadha と Gupta が言及されている。Vaṃśa は Bhaviṣya、Brahmāṇḍa、Bhāgavata、Matsya、Vāyupurāṇa にも見いだされる。Prinsep の時代、Wilson の Viṣṇu-purāṇa と Burnouf の Bhāgavatapurāṇa が出る(1840年)以前には、Purāṇa の記述は多く、Lieutnant、次いで Captain、さらに Colonel であった Wilford の、学識はあるが信頼できない諸論文から取られていた。それらは Asiatick Researches 第III–XIV巻において、Colebrooke の堅実な諸論文と並んで載っている。

Francis Wilford は Hannover の人で、1771年にインドに渡りイギリスの官職に就き、1822年に Benares で没した。彼はインドの伝説的地理と歴史について研究した最初の人々の一人である。彼はきわめて博識であったが、必要な批判を欠いていた。それは彼の資料に対しても、また彼自身の〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ ここ S. 727 以下で Burnouf は、Bhabhra の勅令が Pāṭaliputra の結集に宛てられたものだという Kittoe の推測に賛同している。碑文はこの推測のための確実な手がかりを与えていない。

空想に対しても同様であった。Hoernle, Cent. Review II 83 を参照。彼のなお比較的冷静な論文「On the Chronology of the Hindus」——そこで彼は Candragupta について詳しく論じている——において、彼は Pṛthu を Noah と同定し、Deucalion を skr.「Dēva – Cāla – Yavana」から説明している(As. Res. V, 1807年の再版 S. 288)。彼の語源解釈の大部分はこの種のものである。彼の主要な典拠は Viṣṇu- および Bhāgavata Purāṇa、すなわち後に Wilson と Burnouf が翻訳したのと同じ Purāṇa であった。Wilford は写本を所有し、またサンスクリットも学んでいたが、しかし彼は主として、一人の pandit がその仲間とともに彼に提供した Purāṇa その他の伝説的作品からの「extracts」に依拠していた。この作業がどのように行われたかは、彼自身がその論文 Essay on the Sacred Isles in the West の冒頭で述べている(As. Res. VIII, 1808年の再版 S. 247)。もっともそこで彼は、pandit が彼を欺いていたことを告白せざるをえなかった。すなわち彼の論考「On Egypt, and Other Countries adjacent to the Kālī River, or Nile of Ethiopia. From the Ancient Books of the Hindus」(As. Res. III)において、彼は pandit が本来の名前の代わりに Egypt を挿入した箇所に依拠していたのである。W. Jones は、初めは不信を抱いていたものの、「Remarks on the Preceding Essay」において Wilford の着想を受け入れ、若干の検証を行ったにもかかわらず同様に欺かれた。しかし Jones はその演説「On the origin and families of Nations」(As. Res. III)において、総じて放縦な語源詮索に反対を表明している。Wilford の根拠のない地理的・神話的・語源的組み合わせのもう一つの例は、彼の論文「On Mount Caucasus」(As. Res. VI)である。すでに言及した彼の大著「An Essay on the Sacred Isles in the West, with other Essays connected with that Work」(As. Res. VIII–XI)は六つの個別論文を含み、そこで彼は pandit たちの助けを借りて Purāṇa から多くの貴重な資料を初めて世に知らしめた。とくに Essay III「Chronology of the kings of Magadha, emperors of India」、IV「On Vicramāditya and Sālivāhana, with their respective æras」においてである。Wilford はインド人の世界像から出発した。すなわち Meru 山の周りに七つの島が配置されているというもので、彼はそれらを地上の実在の国々と同定した。「Śākam」および Śvetadvīpa を彼はブリテン諸島と解した。それについて彼は Essay VI(As. Res. XI)において学識に富む空想的な仕方で論じている。Essay V「Origin and Decline of Christian Religion in India」(As. Res. X)においては、彼の空想は Sālivāhana と Christus との関係を明かし、その紀元をキリスト教紀元に還元している。彼はこの論文において、初期にインドに来た St. Thomas その他のキリスト教徒についても論じている。Wilford の最後の仕事「On Ancient Geography of India」(As. Res. XIV)は、より空想的でない。Wilford に対する Wilson の警告は、Prinsep には遅すぎた(Thomas, Prinsep's Essays II 222 以下、249 参照)。Benfey や Lassen もなお Wilford の諸論文を多く用いた。彼の典拠の大部分が印刷されている今日でもなお、我々は彼に、多くの重要な箇所を——正確な引用を欠くにせよ——最初に指摘し、あるいは情報を収集した功績を認めねばならない。彼の誤りは、かつて Abrahamus Rogerius がしたように単純に報告するのではなく、その美しい資料をただちに比較に用い、自らの理論に奉仕させたことにあった。

Ceylon においては、Sir Alexander Johnston(「chief justice and first member of his majesty's council」)が、島の公正な統治のために、仏陀の最も学識ある僧たちに、次のものを彼に提供するよう委嘱した。〔次ページに続く〕

すなわち「as well from books as other sources, the most authentic information that could be obtained relative to the religion, usages, manners, and feelings of the people who professed the Buddhist religion on the island of Ceylon」である。この努力の結果は一つの編纂物であり、それは歴史的著作 Mahāvaṃsa、Rājaratnākarī、Rājāvalī の英訳であるはずのものであった。後の二つは初めからシンハラ語で書かれていた。Rājāvalī の続編は Ceylon の歴史を、オランダ人によるポルトガル人の征圧まで導いている。Johnston は London で書籍商 Edward Upham(1776年生、1834年没、「Author of the History and Doctrines of Buddhism (1829), the History of the Ottoman Empire \&c. \&c」)と知り合った。Upham は1826年、「Essai sur le Pali」の刊行の直後に、Johnston の委嘱によって Paris の Burnouf のもとを訪れ、Mahāvaṃsa の Pāli 語原典を刊行するよう彼を促した。その交渉については、Burnouf の Lassen 宛書簡「Lettres d'Eugène Burnouf」S. 36 以下から知られる。Burnouf は、London にある英訳を作業のために与えられるという条件で、Mahāvaṃsa を Paris でビルマ活字により刊行することを承諾した。しかしその英訳が「une traduction anglaise d'une traduction hollandaise d'une paraphrase singhalaise du texte pali」であることが判明したため、話は流れた(1827年5月13日付 Lassen 宛書簡、Turnour の Mahāvaṃsa S. III、Max Müller, Essays, Leipzig 1869, I 171 参照)。その数年後、Upham はかの編纂物を英語で刊行した。すでにその表題からして、それが Pāli 文献に直接依拠するものでないことが分かる。「The Mahavansi, the Rájá-Ratnácari, and the Rájá-Vali, forming the Sacred and Historical Books of Ceylon; also, A Collection of Tracts illustrative of the Doctrines and Literature of Buddhism: Translated from the Singhalese」(London 1833、全3巻)。仏陀の名 Gotama は常に Guadma の形で現れる。すべての名前はシンハラ語形で挙げられている。たとえば第XII章冒頭の Thera たちの名前を見よ。Mahāvaṃsa のシンハラ語 paraphrase においては、Pāli 語原典が多く短縮され、しかし所により拡張もされていた。最終章は第88章である。第III巻において注目すべきは、かつて「the Dutch governor」が仏教僧たちに提出した質問——それは Hodgson が Nepal で提出した質問を想起させる——およびその回答、仏陀の教えの綱要からの抜粋(そこには五つの大戒があるが、後代の神話的なものも多い、S. 107 以下)、当時さまざまな寺院図書館にあった写本の一覧(S. 169 以下)、菩提樹の一枝の Ceylon への移送についての報告(S. 217 以下)および Ceylon の諸州とその湖沼・聖所についての報告(S. 217 以下)、550の Jātaka についての報告と見本(S. 267 以下)、最後に Ceylon のカーストについての報告(S. 331 以下)である。Upham が公刊した著作は、古い時代に事柄についての最初の信頼できない知識をもたらした多くの著作の一つに属する。Lassen, Ind. Altert. II 16 を参照。

Upham の信頼できない出版物とはまったく異なり、Turnour の Mahāvaṃsa の校訂と翻訳は、Pāli 文献学の歴史における里程標をなしている。Turnour はまた Pāli 語 Tipiṭaka についても最初に案内を与えた。それは Prinsep の Journal 第VI巻および第VII巻(1837, 1838)にわたって「An Examination of the Pāli Buddhistical Annals」という表題のもとに連載された長い論考においてである。彼自身は〔次ページに続く〕

Armour による英訳で Ceylon Almanac 1835年に出た一仏教僧のスケッチを、この種の最初の試みと呼んでいる。Turnour もまた仏教僧たちの助力について語っており、彼らを「who are my constant coadjutors in my Pāli researches」と呼んでいる(VI 504)。その論考の第一部(VI 501 以下)において Turnour は、Mahāvaṃsa にもとづいて、前543年の仏陀の死、Rājagaha、Vesāli、Pāṭaliputta における三つの「Convocations」(結集、saṃgīti)、Mahinda の Piṭakattaya および Aṭṭhakathā を伴う Ceylon 到着、「Wattagamini」(前104–76年)のもとでの書写、Mahānāma(西暦410–432年)のもとでの Buddhaghosa の Ceylon 到着と Aṭṭhakathā の Pāli 語への翻訳について報告している。彼はまた、Ceylon に伝わる伝承と、Csoma Körösi によって知られるようになったチベットの伝承との間にあるすべての相違をも、すでに指摘している。次いで彼は、Suttapiṭaka の Dīghanikāya に対する Buddhaghosa の注釈 Sumaṅgalavilāsinī の冒頭から、第一結集についての報告の翻訳を与えている。Pāli 語 Tipiṭaka の個々の著作の一覧が第一部を締めくくる。第2号において彼は仏陀の没年を訂正している。Ceylon の年代記によれば Candragupta は前381年に即位したことになる。もし彼が Megasthenes の Sandrakottos であるならば、65年後に置かねばならない(VI 725。同書 S. 716 では68と印刷されている)。これは Candragupta について前316年、仏陀の死について前478年、Mahinda の Ceylon 到着および第三結集について前242年をもたらすことになる(VI 725)。王たちのありえないほど長い治世年数にも、Turnour は Ceylon の年代記がいたるところ信頼できるわけではないという推測の根拠を見いだした。しかし彼はこの訂正を徹底しておらず、少なくともたとえば VII 922 では Mahinda の Ceylon 到着について再び伝統的な前307年を挙げている。にもかかわらず Turnour は Ceylon の計算を批判的に扱った最初の人である。その後今日に至るまで、大多数の学者は Turnour と同様の理由から、仏陀の死を前477年に置いてきた。Turnour は次いで、第二・第三結集についての Buddhaghosa の報告の翻訳をも、Vinayapiṭaka に対する彼の注釈 Samantapāsādikā の冒頭から与えている。最初の二つの結集についての報告が Vinayapiṭaka 自身の Cullavagga(XI および XII)のうちにすでにあることを、Turnour は知らなかった。しかし事柄の上では、彼はすでに1837年に、仏教史において繰り返し新たに研究されてきた主要点をすべて指摘したのである。彼のその後の報告を規定した観点について、彼は第3号(JASB. VII 686 以下)で自ら述べている。「Buddhists ... maintain that all they possess of historical data to the date of the third convocation are either the contemporaneous history of Sákya and his disciples, or the revelations of anterior events disclosed by the power of inspiration with which they were endowed」(S. 689)。彼は、「at the period of Sākya's advent」(S. 919)の伝承の年代学的な信憑性は、ある種の神話的・宗教的観念によって意図的に破壊されたと考えている。そこで彼はここで pubbenivāsa-ñāṇa について論じる。すべての仏陀は自らの前世についての知識を持つのである。彼は Suttapiṭaka に属する Paṭisambhidā の一箇所とその注釈から始める。後者から彼は、各世界期の終わりにおける世界の破壊についての教説を訳し、その際そこに引用される Dīghanikāya の Aggaññasutta からの記述を挿入している(ed. PTS. § 10 以下)。〔次ページに続く〕

第3号の続きは Buddhavaṃsa を扱っている(JASB. VII 789 以下)。それに対する注釈から彼は、Śākyamuni に先立つ最後の三仏 Kakusandha、Koṇāgamana、Kassapa の物語を伝え、次いで歴史上の仏陀自身の詳細な物語を最初の弟子たちの獲得に至るまで伝えている。それは Jātaka の注釈の序論において語られるのと類似している。この重要な伝説的伝承もまた、ヨーロッパの学者たちにはすでに1838年、Turnour によって翻訳の形で初めて知られたのである。第4号において Turnour は Dīpavaṃsa の分析を与えている(JASB. VII 919 以下)。それは Mahāvaṃsa の典拠に属し、Ceylon の歴史を西暦302年の Mahāsena まで導いており、したがってこの頃に成立したものに違いない。彼は、Upāli から第三結集に至るまで Vinaya を伝承したとされる Thera たちの系列が完全ではありえないことを論証している。というのも、わずか五人の Thera の生涯では236年に足りず、また彼らの受戒(upasampadā)が法定年齢である満20歳より前に行われたことになるからである。その他の点では彼は、仏教の最古の歴史にとってとくに重要な Dīpavaṃsa の箇所を翻訳することに限っている。Turnour は、Piṭakattaya と Aṭṭhakathā がすでに第一結集(「from the commencement of the Buddhistical era」、S. 922)において書写されていたと仮定する根拠があると考えた。この大論考の結びをなす第5号は Parinibbānasutta——「the most interesting section in the Piṭakattayan」(VII 991 以下)——の分析である。仏陀の死が語られるこの重要な著作もまた、Turnour が初めて世に知らしめた。テキスト版はようやく40年後に Childers によって出た(London 1878)。Vinayapiṭaka の Mahāvagga 冒頭の伝記的部分を除いて、今日なお研究の基礎をなす最も重要な歴史的資料を、すでに Turnour が最古の仏教文献から、少なくとも翻訳と抄録の形でヨーロッパの学者たちに提示したのである。George Turnour(1799年生、1843年 Napoli 没)は1818年に Civil Service of Ceylon に入り、そこで Member of the Supreme Council にまで昇った。

Turnour よりもさらに直接的に研究を刺激したのは、Brian Houghton Hodgson¹⁾ である。Hodgson は文献学者のように研究し著述したわけではなく、北方仏教についての彼の諸論文は著作そのものの自らの研究にもとづくのではなく、Nepal の仏教徒たちから得た情報にもとづいている。しかし彼は北方仏教文献の著作の完全な収集を志し、また彼が収集した写本を寛大なやり方で Calcutta、London、Paris、Oxford の図書館に贈与したことによって、ヨーロッパの学者たちが、今日に至るまでチベットと中国にとっての意義を保っているこの北インドの二次的仏教を、典拠そのものから知り叙述することを可能にしたのである。Prinsep の業績が Masson なしにはありえなかったように、Burnouf の業績も Hodgson なしにはありえなかったであろう。Hodgson は Prinsep よりもさらに自然科学的な研究をも追求し、それは彼の場合、動物学と植物学の領域にあった。Kathmandu における孤独な地位にあって、彼はあらゆる方面に目を向けた。こうして Nepal の風土と人々について、インドの原住民についての彼の諸論文も成立したのである。Hunter は〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ 彼についての年代は下記 S. 130、第XVII章を参照。そこで我々は再び彼について語ることになる。

その伝記において、Nepal における British Resident としての Hodgson の大きな外交的功績と並んで、その関心の百科全書的な性格を称賛している。Hodgson は我々には、インドを統治しかつ理解しようとする、高い教養を持ち自立した英国紳士の美しく好ましい標本として現れる。Hodgson の小論の大部分は Journal der Asiatic Society of Bengal に載っている(Centenary Review I 142 以下参照)。彼は Prinsep がその解読活動を展開した環境に属していた。彼から Prinsep は Mathiah の Aśoka 碑文の最初の Faksimile を得(上記 S. 105 参照)、また Bhilsa すなわち「Sanchi near Bhilsa」の Gupta 碑文の Faksimile も得たが、後者はむろん後に不完全であることが判明し、より良いものに置き換えられた(JASB. III 488, VI 452。Thomas, Essays of Prinsep I 245 参照)。Hodgson が収集した写本の一覧および彼のすべての著作の一覧は、Hunter による彼の伝記の Appendices に見いだされる。仏教に関する諸論文は繰り返し新たに印刷された。最初は「Illustrations of the Literature and Religion of the Buddhists of the North」(Serampore 1841)において、後に「Essays on the Languages, Literature and Religion of Nepal and Tibet」(London 1874)において、また「Miscellaneous Essays relating to Indian Subjects」全2巻(London 1880)においてである。Lassen はその古代学の第2版 I 77 において、Nepal および Himālaya の探究に関する Hodgson の功績を十分に認め、また彼の報告の公式印刷本(Calcutta 1857)を指示している。

Hodgson は、彼が Nepal で発見した北方仏教文献のうちに本来の仏教を見たので、サンスクリットが仏教の本来の言語であったとも考えた。Burnouf もまたこの見解に傾いた。これに対し Turnour は、Ceylon に伝わる Tipiṭaka を最古の仏教文献とし、Pāli 語あるいは Māgadhī を仏陀自身が教えを説いた言語であると主張した。Hodgson は妥協を試み、JASB. VI 682 で次のように述べている。「.. whilst I am satisfied that the Buddhists as practical reformers addressed themselves to the people, and as propagandists used the vulgar tongue, I think that those philosophical dogmata which formed the basis of the popular creed, were enounced, defended and systematised in Sanskrit」。Prinsep は「these early disquisitions」が保存されていること、またたとえば Lalitavistara が「Pitakattayan of Ceylon」より古いことを疑った(同書 686)。彼はこの問題が Csoma の書簡による報告によって決着したと見なしている。Csoma は Kahgyur の索引ないし目録のうちに次のことを見いだしていた。「that the Sútras in general — i. e. all the works in the Kahgyur except the 21 volumes of the Sher-chhin and the 22 volumes of the rGyud .. class, after the death of Shákya, were first written in the Sindhu language¹⁾, and the Sher-chhin and rGyud in the Sanskrit: but part of the rGyud also in several other corrupt dialects」。おそらくその後7世紀以降に古い仏教文献が改作され(「remodelled」)、サンスクリットで書き下されたのであり、それをチベット人が翻訳によって自国に導入したのであろう、という。これに対し H. H. Wilson にとっては、この言語問題は Prinsep の意味では決着していなかった。彼はその大論考「On the Rock Inscriptions of Kapur di Giri, Dhauli, and Girnar」(JRAS. XII (1849) 237)において、(Aśoka の)碑文の時代に Pāli 語が仏教徒の聖語であったことは確実でないとし、Pāli 語に類似した〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ 第二の書簡においても同様、JASB. VII 281。

言語が碑文に用いられていることから碑文の仏教的起源が推論されねばならない、ということに反対している。むしろ Pāli 語は、当時 Piyadasi が支配していたインドの一部で話されていた言語であり、勅令が民衆に理解されるようにそれが選ばれたのだ、というのである。Thomas はこの Wilson の言葉をその Prinsep Essays 版 II 31 以下に引用し、次いで Wilson のより後の論考「on Buddha and Buddhism」(JRAS. XVI 229)を指示している。ここで Wilson は、玄奘の時代に「Buddhist authorities of India proper」の言語がサンスクリットであったこと、「chief Sanskrit authorities of the Buddhists」が遅くとも前150年から後150年の時代に由来することを強調している。「The principal Pāli works of the south, are, therefore, of a period considerably subsequent to the Sanskrit Buddhistical writings of India proper, and date only from the fifth century after Christ」。この見解は正しいことが実証されなかった。今日、仏陀が古い Prākṛt で教えを説いたこと、また彼の教えが最初に古い Prākṛt で記録されたことを疑う者はいないであろう。Vinayapiṭaka には、自らの教えをサンスクリットに翻訳することへの仏陀の禁止が見いだされる。ようやくより後の時代になって、新しい著作がサンスクリットで著され、また古いテキストもサンスクリットに翻訳されたのである。問題は、Ceylon に伝わる Tipiṭaka の Pāli 語が、仏陀の言語に対してどのような関係にあるか、という点だけである。Pāli 語が仏陀の言語を最も正確に再現しているということは証明不可能でありまた蓋然的でもないが、しかしそれが古い Prākṛt であり、5世紀に初めて成立したものではありえないことは確かである。我々は Aśoka 碑文の言語的相違を想起してよい。Kapur di Giri の碑文の言語が同じテキストにおいて Girnar その他の Aśoka 碑文の言語と異なっているように、古仏教の Prākṛt・テキストの方言的に異なる版本もまた、北インドのさまざまな地方において相並んで存在し、また繰り返し新たに成立しえたのである。Ceylon の Pāli 語テキストが、中国語およびチベット語訳がさかのぼる古い Prākṛt・テキストと、あるいは北インドに保存されていた最後の Prākṛt 版本と、一語一字まで同一であるとは期待できない。Ceylon の Pāli 語は仏教の書き言葉であり、それは新約聖書のギリシア語と同様、異言語の国々において変わらずに保たれてきた。それは文法的に整えられてきた。この文法的な整備は、Ceylon において初めてではなく、すでにその北方の故郷においてもなされていたであろう。Aśoka 碑文における方言的相違は、古くから注目されてきた。すでに Prinsep が JASB. VII 276 以下(「Language of the Girnar Inscriptions」)においてそうしている。彼はここですでに、北西インドの言語が東部よりもサンスクリットに近かったことも述べている。「The vernacular language of India at that period, then, varied in different provinces: — it approached more to the Sanskrit in the northwest; diverged from it in Magadha and Kalinga: — but it was in both places essentially what is now called Pāli」(S. 280)。Norris と Wilson は、Kapur di Giri 版の方言が Girnar のそれよりもさらにサンスクリットに近いことを確認した(JRAS. VIII 305, 308)。

Prinsep の時代におけるこれらすべての発見については、Heeren のもとにも v. Bohlen のもとにもまだ何も見いだされない。彼らがとくに賞賛し太古のものと見なしたもの、すなわちインドの岩窟寺院は、〔次ページに続く〕

いまや獲得された判断基準によって、少なくとも特別に高い古さという後光を失った。「On the Rock-cut Temples of India」という表題のもとに、建築学の研究からインド古代研究に入った James Fergusson は、1846年、これらの岩窟と岩の内部から彫り出された寺院——その主室はほとんどバシリカあるいはキリスト教会の身廊を想起させる——についての概括的な概観を与えた(JRAS. VIII 30–92)。Bihar の Buddha Gaya の洞窟、Cuttack の Udayagiri および Khandagiri の岩に続いて、彼は Ajunta、Baug、Karli、Kannari、Dhumnar、Ellora、Elephanta、Mahavellipore の洞窟と寺院を記述している。これらの岩窟建築のうち最古のものは仏教的性格を持ち、より新しいものになってようやく Śiva、Viṣṇu その他のバラモン教の神々が現れる。最古の碑文は Aśoka 字母を示しており、すでに Prinsep によって扱われていた。「Gaya Cave Inscriptions」JASB. VI 671 以下、「Note on Inscriptions at Udayagiri and Khandgiri in Cuttack, in the lāt character」S. 1072 以下である。

サンスクリット文献学とインド古代学との間の差異は今日に至るまで残っている——たとえ時とともに、両方向を一身に統合する学者がますます増えてきたにせよ。より初期の時代には、この差異はしばしばより強く現れた。Brockhaus、Böhtlingk、Roth、Stenzler ら、ヨーロッパの優れたサンスクリット文献学者たちは、貨幣・碑文・記念建造物およびインドの歴史にはほとんど関わらなかった。他方インドのイギリス人たちは、訓練された文献学者ではなかったため、ヨーロッパにおける文献学の要求と水準に十分通じていなかった。貨幣や碑文について出土地が常に正確に記されているわけではないことが嘆かれた。Wilson でさえかつて Schlegel の攻撃を防がねばならなかった(JASB. III 1 参照)。Hodgson は Rémusat の批判的所見に激しく応答した(III 382, 425)。完璧な優雅さをもって Prinsep は Raoul Rochette の優越を認めつつ、しかも自らの立場をも守った。「But we dare not venture on any speculations in regard to Greek names or affairs, lest we undergo castigation from the Hellénic critics of Paris, who are surprised at our ignorance of authors, ancient and modern, Greek and German, whose works we regret to say have never yet visited the banks of the Ganges! We "Indianistes" must then leave this investigation to M. Raoul de Rochette as being altogether, to use his own words, "hors du departement de nos études"!」(JASB. VI 390)。幸いにも彼はそのとおりには行動しなかった。

Prinsep の時代に Paris でイギリス人のインドにおける発見を熱心に追跡したヨーロッパの学者のうち、多方面にわたる東洋学者 Eugène Jacquet(Brüssel 出身、1811年生、1838年没、Rémusat および Burnouf の弟子)は、早すぎる死によって、その才能にふさわしい、より深く切り込む仕事をもって世に出ることを妨げられた。同郷の F. Nève は彼に記念碑を建てた。すなわち「Mémoire sur la vie d'Eugène Jacquet de Bruxelles et sur ses travaux relatifs à l'histoire et aux langues de l'Orient, suivi de quelques fragments inédits」(Académie Royale de Belgique 紀要、Brüssel 1856)である。A. Weber, Indische Streifen II 91 を参照。我々は彼の名に、Prinsep の Essays における貨幣と碑文への小さな寄稿として、また Wilson の Ariana Antiqua においてもしばしば出会う。彼が JASB. V 687 で、おそらく〔次ページに続く〕

玄奘のものである中国の旅行記から伝えたことは、Wathen の碑文の年代決定と Valabhī 王朝にとって重要であった。彼は J. Wilson による Girnar の Aśoka 碑文の Faksimile の一部を受け取っていた(JASB. VII 157, 336, 458)。彼の計画のうちには Corpus Inscriptionum Indicarum も含まれていた。

JASB. V 184 において Prinsep は、Baron Hügel による短い「Notice of a Visit to the Valley of Kashmír in 1836」を公刊した。この旅行者が後に刊行した著作『Kaschmir und das Reich der Siek』には、II 364 に、Kaschmir ではすべてのバラモンが Atharvaveda に属していたという記述が見いだされる。この記述は Roth に、Kaschmir にはこの Veda のより良い伝本が保存されているかもしれないという希望を抱かせた。Muir の仲介によって彼はそこから Pippalādaśākhā を得た。R. Roth『Der Atharvaveda in Kaschmir』(Tübingen 1876)を参照。

§第 XVI 章 Paris。二人の BURNOUF。

§E. BURNOUF の Pāli 語研究および PURĀṆA 研究

二人の Burnouf、すなわち父と子のうち、父もまたサンスクリット文献学の歴史に属する。というのも彼はその子にサンスクリット研究を促しただけでなく、彼自身が Paris における Bopp の友人の一人でもあったからである。彼の生涯の波瀾は、1854年に当時の Académie des Inscriptions et Belles-Lettres の Secrétaire であった Naudet が二人に捧げた「Notice historique sur MM. Burnouf, Père et Fils」から知られる。それ以前にすでに Eugène Burnouf は、父の死後まもなく、1844年11月18日付の Julien Travers 宛書簡において父の生涯の主要な年代をまとめていた(Choix de Lettres d'Eugène Burnouf S. 356、補遺 S. 544)。

Jean-Louis Burnouf は1775年9月14日、Valognes 近くの小村 Urville に、麻織工(tisserand)の子として生まれた。Gardin Dumesnil によって(Choix de Lettres S. 545)、彼は Paris の Collège d'Harcourt に受け入れられた。旧来の学部を廃止した1793年9月15日の共和国の Décret によって、故郷を失った彼はその経歴から引き離され、生活の困窮に委ねられたが、ついに1807年、旧友の仲介によって教授職を得た。1817年に彼は Collège de France のラテン語雄弁術の講座を得た。Collège de Louis le Grand でも彼は教えた。とくに称賛されるのは彼のギリシア語学校文法と、注釈付きの Sallustius 版である。彼は Chézy のもとでサンスクリットを学び、サンスクリットと比較言語学の重要性を確信していた数少ない古典文献学者の一人であった。Bopp との書簡から明らかなように、彼は Bopp の『Conjugationssystem』をフランス語に訳したが(Lefmann, Fr. Bopp I 135* 以下)、この翻訳は公刊されることがなかった。彼の息子

Eugène Burnouf は1801年8月12日に Paris に生まれた。実際的な理由から彼はまず法学に身を捧げたが¹⁾、その最も内奥の傾向は初めから東洋の〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ 1825年11月14日付の Bopp 宛書簡において彼は自らを「avocat」と署名している。「Après une thèse brillante: De re judicata, Eugène Burnouf avait été inscrit, en novembre 1824, sur le tableau des avocats à la Cour d'appel de Paris」、Choix de Lettres p. 15, Anm. 1。

言語学に向けられていた。それにはたしかに父の模範が寄与している。すでに1822年8月20日付の Bopp 宛書簡において、父は息子がサンスクリットで大きな進歩を遂げたと報じている。彼は Chézy の弟子であったが、独自の道を歩んだ。書簡から我々は、Bopp および Lassen との知己が彼をいかに強く刺激したかを知る。Bopp とはとくに Zend 研究において接した。1832年の Chézy の死後、彼は Collège de France における Chézy の後任となった。1835年には数ヶ月 London に滞在した(Bhāg. Préf.)。彼は1852年5月28日、Académie des Inscriptions et Belles lettres の最も称えられた会員の一人として世を去り、ドイツの同学の士たちからも深く悼まれた。A. Weber の言葉『Akademische Vorlesungen』² S. 317、および M. Müller の Ṛgveda-Sanhita 第II巻序文 S. LX の追悼を参照。Whitney が1871年に Oriental and Linguistic Studies I 139 以下で与えた Burnouf の人物評には、次の言葉が見いだされる。「He was essentially a pioneer and pathmaker. His versatile and enterprising genius had no sooner forced its way into the heart of some difficult subject, working out the method of investigation to be pursued, than he abandoned it and turned to another. Thus his results were always inchoate and fragmentary.」 最後の一文には歴史的理解がほとんど示されていない。その比較的短い生涯において、Burnouf は国際的な学問に大著をもって新しい素材をもたらした。その素材を彼は Paris 図書館の写本のうちに見いだした。Anquetil Duperron は Zend-Avesta を近世ペルシア語訳からフランス語に訳し(1771年)¹⁾、その写本のうちに原典の写本一点をも Paris 図書館に引き渡していた。この写本を Burnouf は刊行した。「Vendidad Sadé, l'un des livres de Zoroaster, lithographié d'après le Manuscript Zend de la Bibliothèque Royale」(Paris 1829–1843)である。Burnouf の校訂本は、H. Brockhaus の転写版「Vendidad Sade」(Leipzig 1850)の基礎ともなった。Brockhaus はそのほかに Bombay 版も利用しえた。Journal Asiatique に公刊された Burnouf の Zend 研究は、別に「Études sur la langue et sur les textes Zendes」という表題で刊行された(Paris 1840–1850)。Benfey, Gesch. d. Sprachw. 606 以下を参照。Burnouf の Vendidad Sadé 以前には、Zend についてのより正確な知識は存在しなかった。もっとも文字の解読と、Zend がサンスクリットと近縁であるという認識においては、デンマーク人 Rasmus Christian Rask(1787年生、1832年没)が先行しており、そのドイツ語訳は『Über das Alter und die Echtheit der Zendsprache』という表題で1826年に出ている。Zend 研究において Burnouf は当時 Bopp と密接に接触していた。彼は Bopp が発見において自分に先んじることを恐れ、そのため公刊を急ぎ、それゆえ多くの誤りが生じた。Choix de Lettres 466、372 参照。Rask や Lassen と同様、Burnouf も古代ペルシア楔形文字の解読に——Rawlinson 以前に可能であった限りにおいて——関与した。Benfey, Gesch. der Sprachw. 620 を参照。古代イラン語文献の研究のためにサンスクリットが不可欠であることは、当時すでに一般に認められていた。

原注

¹⁾ Lefmann, Franz Bopp, Nachtrag S. XX を参照。より良い補助手段がない場合には信頼できない翻訳でも有用であるから、Burnouf が1826年に「La traduction d'Anquetil-Duperron n'est vraiment bonne à rien」(Choix de Lettres 14)と書いたのは、あまりに厳しい判断であるように思われる。

インドの領域においては、若き E. Burnouf(1801年8月12日生)は、同年輩の Chr. Lassen(1800年10月22日生)と協力して、学界に初めて Pāli についてのより正確な観念を与えた。すなわち「Essai sur le Pali ou langue sacrée de la presqu'île au-delà du Gange」(Paris 1826)においてである。Burnouf と Lassen が Abel Rémusat の勧めによって Paris 図書館のインド写本を整理したとき、彼らはシャム(Siam)から来た、Pāli と記された若干の写本を見いだした。それらはフランス人宣教師によって Paris にもたらされたものであった。Pāli 語はまずシャムの側から知られるようになったのである。「ガンジス河の彼方の半島」とは、シャム、ビルマ、Arakan、Pegu を指す。この Essai においては Ceylon については比較的わずかしか語られていない¹⁾。第一章は、ヨーロッパの学問が Pāli 語とそれが書かれる字母についての最初の知識を負っている人々を扱っている点で、今日なお実質的な価値を持つ。さまざまな字母の記述と文字見本の解読は、当初どのような困難と闘わねばならなかったかを示しているが、いまや字母の習得のための補助手段が十分にあるので、歴史的な価値しか持たない。歴史的記述において我々は Pāli 語についても17世紀にまで導かれる。その時代に由来するのが Simon de La Loubère の「Description du royaume de Siam」(Paris 1691、Amsterdam 1691, 1700, 1714)である。彼は1687年に Louis XIV によって特命大使としてシャムに派遣されていた。彼およびその他の人々を通じて、まず若干の Pāli 語テキストの名が知られるようになった。それらは仏教徒のもとで実際の使用において第一の位置を占め、それゆえ最初にヨーロッパ人の注意を引かざるをえなかったものである。こうしてすでに La Loubère は Pātimokkha に言及している(Essai S. 6)。それが Vinaya に属するという記述さえ彼のもとに見いだされる。Pātimokkha の独立したテキストは、その後繰り返し Gogerly、Beal、Minayeff、Dickson によって刊行された(Journal der R. As. Soc. 1875 において)。しかしヨーロッパにおける Pāli 語研究の最初の端緒は、それ以上に、Kammuva という名でさまざまな著者によって言及される Pāli 語テキストに結びついている。この Kammuva について、Buchanan は Asiatic Researches 第VI巻において、イタリア人 Pater V. Sangermano の paraphrase を伝えていた(Essai S. 12、S. 206 参照)。Pātimokkha のみならず Kammuva も Paris 図書館の写本のうちにあったので、Burnouf と Lassen はかの paraphrase の助けを借りて Pāli 語に習熟することができた(Essai S. 13)。Bopp もまた Kammuva に取り組んだ。1825年に London にいたとき、Burnouf は彼に、London にあるこのテキストの写本についての情報を求めた。1825年11月14日付の最初の Bopp 宛書簡において Burnouf は、Essai における Pāli 語と Prākṛt の比較、および Pāli 語とサンスクリットの比較の一部が Lassen に由来し、その他、とくに字母と歴史に関する叙述は彼自身に由来すると報じている。Lassen は当時 London で Vararuci の Prākṛt 文法を知り、それを後に彼の Institutiones linguae Pracriticae(Ad decreta Vara-〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ 彼の死後、J. Mohl は1857年、すでに1834年にアカデミーで行われた講演「Recherches sur la Géographie Ancienne de Ceylan」を公刊した(Journ. Asiatique 5e Série Tome IX 1–116)。そこで彼は主として Ceylon のさまざまな名称を扱い、Mahāvaṃsa とその続編から出発している。彼は Upham、Clough、de Barros、de Couto らに言及している。

rucis et commentarios Bhâmahae aliorumque concinnavit Chr. Lassen, Bonn 1837)の基礎に置いた。Kammuva は Bhikkhu の受戒を扱っている。この名は Kammavācā のような語の崩れた形であり、それは Vinayapiṭaka でこの種の規定についてしばしば用いられる術語である。それは後に Fr. Spiegel が Lassen の資料を用いて『Das Kammavākya』という表題で刊行したのと同じテキストである(Bonn 1846)。シャム語・ビルマ語写本というこの人里離れた領域における先駆者は、Dr. John Leyden(「chirurgien militaire」、1775年生、1811年 Java 没)であり、Burnouf は Serampore 1810 に匿名で出た彼の「Comparative vocabulary of the Barma, Malaya and Thai languages」を利用した。Pāli という語の意味は当時なお未知であった。仏教徒の聖典については Essai では語られていない。tipiṭaka という語は索引に現れない。とはいえ索引は600以上の Pāli 語の語と語形を含んでおり、そこから Pāli 語の総じて的確な特徴づけを得ることは十分に可能であった。かくして我々はこの Essai のうちに Pāli 語文法の最初の草案を持つ。サンスクリットおよび Prākṛt との比較は、言語発展における Pāli 語の位置を認識させた。初めて学問的な確実さをもって、サンスクリット、Pāli 語、Prākṛt という順序が立てられたのである。しかしそれと並んで Essai には多くの誤りも見いだされる。たとえば、最古の仏教文献がサンスクリットで著されていたということ、Pāli 語がインドで成立したものではあるが西暦407年に初めて Ceylon に来たということ(S. 151)である。Prākṛt として Essai の著者たちは主として Jaina の文献に現れる言語を理解している。Jaina に彼らは遅い起源を与えている。ある伝承によれば、仏教は Śaṅkara の時代にインドで暴力的に絶滅させられたとされる。Jaina の宗派はこの仏教の廃墟から起こったという(「des débris du culte de Bouddha」S. 158)。

Burnouf は1827年、Essai に訂正を含む小著を続けて出した。「Observations Grammaticales sur quelques passages de l'Essai sur le Pali de MM. E. Burnouf et Lassen」である。彼はその間に、まず写本の形で二つの新しいテキスト、すなわち Mahāvaṃsa と辞書 Abhidhānappadīpikā を知っていた。Mahāvaṃsa において彼は thūpa および thera という語を見いだし、それらを skr. stūpa および sthavira に還元している。旅行者たちが thūpa について用いる語 dagobah は、おそらく彼が最初に dhātugabbha(「récipient des os」S. 8)から説明したのであろう。W. v. Humboldt は Kawi 語についての第1巻(1836年)の § 24(「Über den Namen Dagop」)においてこの説明に言及していない。何がサンスクリット語形を Pāli 語形にし、またそれを Prākṛt 語形にしたのかは、Essai の著者たちによって常に正しく認識されていたわけではない。当時はまだ、言語発展においてかくも重要な類推あるいは語形転移の原理——機械的な音変化と並んで語形を変形するもの——について、何も知られていなかった。ヨーロッパの装いにおけるこの Pāli 語の最初の叙述がいかに不完全であったにせよ、それは当時大きな印象を与え、同時代の人々に Pāli 語の知識を仲介したのである。Prinsep は1837年6月17日付の Burnouf 宛書簡において、Pāli 語に関するこの Essai が、彼の Aśoka 碑文翻訳に際して語尾と屈折の研究における主要な導き手であったと告白している(Choix de Lettres d'Eugène Burnouf S. 530)。Burnouf はなお長らく Pāli 語の文法と辞書のために資料を集めていたが、そのいずれも刊行されなかった。Choix de Lettres S. 63 Anm. 1 を参照。

ほぼ同時期に E. Burnouf と H. H. Wilson が Purāṇa について研究したのは、偶然ではあるまい。この文学ジャンルに対して Colebrooke は最も関心を持たず、彼のサンスクリット文献の記述は、このジャンルについて最も補完を必要としていた。しかも、Purāṇa の神話なしにはインドの美文学は理解できないのである。インドの伝説と神話の知識にとって、またインドの美文学の理解にとってさらに重要なのは、Mahābhārata と Rāmāyaṇa のみである。Rāmāyaṇa の校訂は A. W. Schlegel が手がけたが、未完に終わった。Rāmāyaṇa の本文をヨーロッパで初めて完全に刊行した功績は、イタリア人 Gaspare Gorresio に帰する。Mahābhārata は全体としては、そのとりわけ大きな分量によって人を怯ませざるをえなかった。Burnouf は Bopp がその内容の概観を与えようとしていることを知っていたが、いずれにせよこのインドの民族叙事詩からのいくつかの美しい部分は、すでに Bopp、Schlegel らの仕事によってヨーロッパで広く知られていた。しかしインドにおいては当時、Mahābhārata と Harivaṃśa の最初の Calcutta 版が完成しており、全4巻、内容一覧(Sūcīpatram)を伴い、1834–1839年、「Sanskrita College of Calcutta」の図書館の写本から土着の paṇḍit たちによって作成され、初めは「under the authority of the Committee of Public Instruction」、第2巻からは「under the auspices of the Asiatic Society of Bengal」印刷された(Gildemeister Bibl. Scr. Spec. Nr. 129 参照)。Harivaṃśa は Chézy のもう一人の弟子 Alexandre Langlois が手がけ、その翻訳は「Harivansa ou l'histoire de la famille de Hari, ouvrage formant un appendice du Mahabharata et traduit sur l'original sanscrit」という表題で Paris 1834 に出た。Bhāgavata Purāṇa についても、すでに1830年以来 Calcutta 版が、1839年以来 Bombay 版があった。この Purāṇa がすでに Voltaire の時代に、南インドに由来するフランス語訳「Bagavadam」という表題で知られていたこと、それが Paris 1788 に印刷され、すでに1791年にドイツ語に訳されていたことは、すでに見たとおりである(上記 S. 47 参照)。この二つの校訂本を Burnouf はその第二の大著に利用しえた。「Le Bhâgavata Purâṇa ou Histoire poétique de Krîshṇa」全2巻、Paris 1840, 1844 である。この高価なフランス語の出版もまた公的な援助によってのみ可能であり、それは豪華に装われた「Collection Orientale. Manuscrits inédits de la Bibliothèque Royale traduits et publiés par ordre du Roi」の一部をなしている。この著作における新しさは、信頼できる完全な翻訳であり、しかしとりわけ大序文であって、それはその穏やかな修辞的高揚をもって、サンスクリット文献について書かれたもののうち最良のものに属する。主要な問題は、Purāṇa をその古さと近代的性格の両面において理解することである。この課題は Bhāgavata についても存在する。Burnouf の見解の基本線は今日に至るまで承認されている。Wilson の個々の Purāṇa の短い分析において彼のための下準備がなされていたが、Wilson の Viṣṇupurāṇa の翻訳はまだ出ていなかった。インドの宗教諸派が Purāṇa にその最終的な形を与え、その増殖に寄与したので、彼は Wilson の「Sketch of the Religious Sects」にも導かれた。また Vans Kennedy の「Research into the nature of ancient and Hindoo mythology」にも彼はしばしば言及している。Itihāsa-Purāṇa に関する既知の箇所から出発し、Purāṇa pañcalakṣaṇa および daśalakṣaṇa について〔次ページに続く〕

詳細に論じた後、彼は Bhāgavata を、後者の型に属するがゆえに、また韻律的な理由からも、この種の後代の作品に数えねばならない——もっともそれはまだ Padma のように Rādhā の詩を含んではいないが。彼は、学問を新しいものによって豊かにしようと努めながら比較的近代的な作品を選んだことについて、弁明せねばならないと考えている。ここで Burnouf は、すなわち1840年に、当時フランスにおいて Veda の翻訳が不可能であったことを語っている。Rāmāyaṇa はもはや自由ではなく、Mahābhārata にも別の人が取り組んでいた(おそらく Bopp を指す)。そこで彼は Purāṇa に、そのうち Bhāgavata に向かったのであり、それは Wilson の記述によれば Viṣṇupurāṇa に次いでインドで最も多く読まれていたものである。

正統バラモンは Purāṇa を Veda と同じく、寓意的な人物である Vyāsa に帰する。Purāṇa はさまざまな年代のものであり、言語と内容はいずれも Veda ほど古くはないことを証明している。Burnouf は Colebrooke とともに、Veda が紀元前14世紀に現在の形をとったと仮定する。それから長い時が流れて、人々が Purāṇa という特別の名のもとに古い伝説を集め始める時代が来た(S. L)。それらは御者(sūta)と吟遊詩人のカースト——武士カーストとバラモンカーストの混合に由来し、下層カーストに Veda の知識を代替すべきもの——において育まれた。この事情のうちに、Purāṇa が Veda に近い権威を得たことの根拠がある。同様の過程は、後にバラモンの魂を占めることになる Veda 的哲学が Upaniṣad においてその最初の表現を見いだし、後代に至るまで続いたときにも起こった。インドにおいても批判がまったく欠けていたわけではない。Burnouf は London で Bhāgavata に関する三つの論考を見いだし、それをこの序文でフランス語に訳しているが、これは彼のサンスクリット理解の輝かしい証しである。第一の論考は Vyāsa が Bhāgavata の作者であると主張する。第二はこの作品を Vopadeva に帰する。第三は、18 Purāṇa の一覧における Bhāgavata とは Devībhāgavata を指すと主張する。Burnouf は Vopadeva を13世紀後半に置く(S. XCIV)。彼は、すでに Colebrooke が Essay on the Vedas において示したように、この Vopadeva 作者説を信じる傾向にある。しかし「pour le fonds」では Bhāgavata ははるかに古いという(S. CI)。彼は二つの古い構成要素について論じている(S. CXIV 以下)。すなわち Puruṣasūkta——それが白 Yajurveda にも存在することを彼は知っている——と、Bṛhadāraṇyaka その他の古テキストに含まれる、すべての感覚器官に対する Prāṇa の優位についての寓話である(Bhāgavata II 5, 35 以下、III 26, 62 以下参照)。これらの古い構成要素が Bhāgavata に組み込まれているさまは、古い Pāli 語聖典の韻文と散文の断片が、後代の北方仏教の Lalitavistara や Mahāvastu のような著作に組み込まれているのときわめてよく似ている。短い Exposé(S. CIV–CXI)において Burnouf は初めて明晰に、バラモン教文献が仏教によって二つの時期に分かたれることを述べている(S. CX)。Veda は仏教に先行する。仏教はバラモン教の発展を中断させはしなかったが、それを遅らせることはできた。インドにおける仏教の絶滅の後、バラモン教の Renaissance が起こった。

かくして我々はすでに Burnouf のもとに、ある程度まで正しいこの観念を見いだすのであり、それは後に Max Müller によっていくぶん過度に受け取られ、Bühler によって再びその限界に戻されたのである。Burnouf はここで7世紀ないし8世紀を語っているが、それは〔次ページに続く〕

Śaṅkara——仏教徒の敵対者にして Vedānta の刷新者——の時代である(S. LIX)。Veda は再び前面に出て、なお後代の世紀には大注釈書において文献学的解釈の対象ともなる。Burnouf は Sāyaṇa の Ṛgveda 注釈の写本を所有していた(S. LVII)。7世紀あるいは8世紀は、近代的な諸派の始まりとしてはあまりに遅い設定であろう。Burnouf 自身、Śaṅkara の時代にすでに Vaiṣṇava 派の六つの「divisions」が存在したことを強調している(S. CXII)。しかし総じて、Burnouf が描く相対年代の像は確かに正しい。インド人の宗教的発展における最後の大原理は bhakti、すなわち神への信仰的帰依である。それは近代の諸派を支配しているが、それらの起源は古い時代にさかのぼる。Burnouf は bhakti について Bhagavadgītā および Mahābhārata の他の部分を指示している。これら「de la foi et de la dévotion」の理論が、祭祀の業に関する古い教説を押しのけたのである。Burnouf はここで、インドの発展においては変化が「par voie de substitution」よりも「par voie d'addition」によって行われるという的確な所見を述べている(S. CXI)。古い原理が否定されたり除去されたりするのではなく、ただその上にさらに高いものが置かれるということは、しばしば観察されうる。キリスト教の影響を Burnouf は古代インドにまったく見いだしえず、ギリシア文化の影響は数学的諸学問においてのみ認めている(S. CVIII)。他の学者たちの仕事によっても、Burnouf は歴史の総体的把握のための新しい展望を得た。「Rémusat は我々に5世紀の仏教をその衰退の初めにおいて示した。Prinsep と Lassen は Pāli 語——このサンスクリットのイタリア語ともいうべきもの——を紀元前3世紀の記念物の上に見いだした。Turnour は Ceylon 年代記の始まりを我々の紀元前6世紀の中葉にまでさかのぼらせた」(S. CVI)。しかし基礎を築いたのは、彼の見解によっても W. Jones、Colebrooke、Wilson である。「Bonn と Berlin の大学派」によって、サンスクリットはインド・ヨーロッパ語族という大語族の頂点に置かれ、文献学的批判の聖別を受けた。次いで General Ventura が、Penjāb の Tope のうちに豊富なバクトリア貨幣を見いだす幸運に恵まれた。Lassen と Prinsep はこれらの貨幣の Pāli 語銘文を読んだ。Prinsep は紀元前の仏教碑文を解読した。Brian Hodgson は Nepāl で仏教徒の聖典を発見した。Abel Rémusat は初めて「la Relation des voyageurs buddhistes」を、Turnour は初めて Mahāvaṃsa すなわち Ceylon の年代記を、翻訳によって利用可能にした(S. CV)。かくして Burnouf は、彼の時代に達成されたことをわずかな名前のうちにまとめることができたのである。他の学者としては彼は折に触れて Fr. Windischmann(S. LIX)、Rosen、Stenzler、Poley(S. XXXIV)、Rückert(Gītagovinda の翻訳のゆえに、S. XCIX)、Buchanan(S. CIII)、Mill(S. CXII)を挙げている。

§第 XVII 章 E. BURNOUF の仏教研究

しかし Burnouf が学問の発展に最も深く介入したのは、その四折判全2巻の大著『Introduction à l'Histoire du Buddhisme Indien』(Paris 1844 および 1852)によってである。その〔次ページに続く〕

第1巻は北方仏教の総括的叙述を含み、それは今日なお実質的な価値を持つ。第2巻は、北方仏教文献の九つの主要作品の一つである Saddharmapuṇḍarīka の翻訳を「Le Lotus de la Bonne Loi」という表題のもとに、「Appendice」を添えて収めている。新しい英訳は H. Kern によって Sacred Books of the East 第XXI巻「The Lotus of the True Law」(Oxford 1884)として出た。サンスクリット本文はようやく H. Kern と南条文雄(Bunyiu Nanjio)によって Bibliotheca Buddhica(St. Petersburg 1912)に刊行された。Burnouf の仏教研究のきっかけを与えたのは、Paris 図書館に存する写本であった。Introduction の第一 Mémoire において彼は、この収集の由来と彼の先行者たちについて報告している。

政治的事情によって、まず北インドの仏教がより正確に知られることとなった。それは、その官職と並んでインドの文化史的状況に注意を向けた、あの傑出したイギリス人の一人を通じてである。Brian Houghton Hodgson(1800年生、1894年没)は、1821年にイギリス人 Resident として Kathmandu の Nepāl 宮廷に着任した。Patan の一人の老仏教徒の助けを得て、彼は Nepāl の仏教とそこに存する仏教文献を知るに至った。上記 S. 119 を参照。彼は写本の大収集をまとめ、この文献について、そのチベット語訳について、またさまざまな仏教学派についても最初の知識を与えた。写本中の土着の記載に依拠して、彼は Nepāl の仏教著作の目録を、論考「Sketch of Buddhism derived from the Bauddha scriptures of Nipal」(Transactions of the R. Asiatic Society II 222–257, London 1829)において公刊した。それは218の書名からなり、彼の仏教徒〔情報提供者〕によって Purāṇa-、Kāvya-、Vyākaraṇa-、Kośa-、Tantrapustaka- および Dhāraṇīpustaka-nāmāni に分類されている。Hodgson の仏教のスケッチは正しい像を与えていない。というのも、彼が仏教徒の情報提供者に向けた問い(「How and when was the world created?」等)は仏教の古い主要教説に当たっておらず、叙述に歪んだ方向を与えざるをえなかったからである。しかし最も効果的な仕方で Hodgson が仏教研究を促進したのは、彼が London および Paris のアジア協会の図書館にも1830年、1835年、1837年に写本の収集を提供し、一部は寄贈したことによってである。Julius Mohl の Lotus de la Bonne Loi 翻訳への「Avertissement」を参照。Burnouf はその第一 Mémoire において Hodgson に記念碑を建てた。Hodgson が収集した数百の写本の概観は、Sir William Hunter の「Life of Brian Houghton Hodgson, British Resident at the Court of Nepal」(London 1896)の Appendices に見いだされる。それに先立って同じ著者の「Catalogue of Sanskrit Manuscripts Collected in Nepal, and presented to various libraries and learned societies by Brian Houghton Hodgson」(London 1881)があった¹⁾。後にそのような写本の大収集——一部はきわめて古い写本——が、長らく Nepāl でイギリス人医師を務めた、Cambridge のアラビア語学者 William Wright の兄弟 Dr. Daniel Wright が収集したものとして、〔次ページに続く〕大学図書館に入った。

原注

¹⁾ Rājendralāla Mitra, The Sanskrit Buddhist Literature of Nepal [being a descriptive catalogue of the Hodgson Mss. at Calcutta], Calcutta 1882 を参照。また E. B. Cowell および J. Eggeling, A Catalogue of Buddhist Sanskrit Manuscripts in the possession of the R. Asiatic Society (Hodgson Collection), JRAS. VIII, London 1876。

すなわち Cambridge の大学図書館である。この収集について Cecil Bendall が Catalogue を著した(Cambridge 1883)。仏教と Nepāl の歴史については、Hodgson、Burnouf、Wright、Bendall、Sylvain Lévi が相連なる。

Burnouf はインドにおける仏教の歴史に限定したとはいえ、チベット語・モンゴル語・中国語への翻訳についても知識を得ていた。当時すでにハンガリーの探検家 Alexander Csoma de Kőrös(Siebenbürgen の Kőrös 市出身、1784年生、1842年 Darjeeling 没)¹⁾ が、Kahgyur——仏教サンスクリットからチベット語への翻訳の大集成——の分析を公刊していた。H. H. Wilson は1832年、Journal of the Asiatic Society (of Bengal) の第1巻を「Abstract of the Contents of the Dul-vá, or first Portion of the Káhgyur, from the Analysis of Mr. Alexander Csoma de Kőrös」をもって開き、S. 375 以下に続編を載せた。完全な形で Csoma はその分析を1836年、Asiatic Researches 第XX巻に発表した。それは現在では Léon Feer のフランス語訳「Traduite de l'anglais et augmentée de diverses additions et remarques」(Annales du Musée Guimet 第II巻、Paris 1881)においてより容易に利用できる。Burnouf はこの分析のうちに、Nepal 写本から彼に知られていた主要作品 Prajñāpāramitā、Lalitavistara、Laṅkāvatāra、Saddharmapuṇḍarīka、Karaṇḍavyūha、Avadānaśataka、Divyāvadāna が記載されているのを見いだした。それは彼にとって、Nepal 写本のうちに実際に北インドの古い仏教文献を手にしているという証拠であった。同様に彼には、Petersburg の学者 I. J. Schmidt を通じてモンゴル語訳が、Abel Rémusat および Stanislas Julien を通じて中国語訳が知られていた(Introd. S. 7)。彼は、Nepāl 出のこれら仏教テキストほど理解しやすいものはサンスクリット文献全体にないと断言している(S. 11)——ただし Nirvāṇa のような特別の意味を持つ個々の表現は別であり、その多様な解釈についてはすでに Burnouf が詳しく論じている(S. 18)。彼はまた、チベット語訳の逐語性についてもすでに正しい像を描いている。これに対し、古仏教文献の Tripiṭaka(Sūtra, Vinaya, Abhidharma)へのまとめと、その本来の内容は、彼のもとではまだ明確になっていない。それには彼に Pāli 語聖典の完全な知識が欠けていた。彼はこれをも叙述する意図を持ってはいたが(S. 30)、それには至らなかった。それゆえ、Divyāvadāna(S. 48 以下)に言及される四つの Āgama が Ceylon の Suttapiṭaka の五つの Nikāya のうち四つに対応することも、彼のもとでは明らかになっていない。Burnouf にとってはなお「dans quelle langue ont été, pour la première fois, rédigés par écrit les livres attribués au fondateur du Buddhisme」は未決であった。彼はサンスクリットと民衆方言とが同時に用いられたと考えている。上記 S. 120 を参照。碑文は彼に Pāli 語の古さを証明する。「すべての人に理解されるために、新しい宗教は民衆方言を用いざるをえなかった」(S. 15)。より詳しく彼は、仏教文献の Sūtra, Geya, Vyākaraṇa, Gāthā, Udāna, Nidāna, Ityukta, Jātaka, Vaipulya, Adbhutadharma, Avadāna, Upadeśa という注目すべき分類を論じている。それはほぼ同じ形で Pāli 語聖典の書物にも言及されている(S. 51 以下)。この表題を帯びる著作全体が存在することは疑いないが、しかしこの一覧は一種の定義あるいは〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ 彼はその旅を「for the prosecution of researches connected principally with the origin of the language and people of Hungary」として企てた。Journ. As. Soc. of Beng. I 204。

形式と内容による仏教文献の特徴づけを目的としている。すなわちそれは、一つの仏教作品、あるいはその一部分が、どのような特徴的な文学形式を、あるいはどのような特徴的内容を持ちうるかを示している。これは、バラモンが Brāhmaṇa の内容をどのように特徴づけたかと比較してよい。それについては M. Haug が Aitareyabrāhmaṇa の校訂本で論じている。Brāhmaṇa は vidhi, arthavāda, nindā, saṃsā, purākalpa, parakṛti を含みうるとされ、他の列挙では gāthāḥ も挙げられる。

Burnouf は九つの Dharma(「les neuf Recueils de la loi par excellence」)を挙げている。Prajñāpāramitā、Gaṇḍavyūha、Daśabhūmīśvara、Samādhirāja、Laṅkāvatāra、Saddharmapuṇḍarīka、Tathāgataguhyaka、Lalitavistara、Suvarṇaprabhāsa(S. 68)である。ただし彼は、なぜ北方仏教においてまさにこれらの著作がまとめられ特別に際立たせられたのかを述べることはできていない。

Introduction の主要部において Burnouf は、Paris 図書館に存する Nepāl 写本にもとづく北方仏教の著作の分析を与え、それらを Tripiṭaka の範疇のもとに考察している。Sūtra S. 70、Vinaya S. 232、Abhidharma S. 437 である。これらの著作の概観と、その内容からの報告は、文学史的にも宗教史的にも文化史的にも等しく大きな価値を持つ。それは後代の北インド仏教の全体であり、それは多くの古いものを保存してはいるが、一部は甚だ空想的な神話の方向へ、一部は空虚な弁証法の方向へ、本来の仏教から遠く隔たった形に展開したものである。Burnouf は当時なお Pāli 語 Tipiṭaka のより正確な知識を持たなかったので、彼の叙述にはこの背景が欠けている。しかし彼は正しい眼識をもって、歴史上の Śākyamuni の説法に結びつく単純な Sūtra と、vaipulya「développé」と呼ばれる Sūtra——それは仏と菩薩についての空想的な神話において後代の精神的方向を反映している——とを区別した。Vaipulya-sūtra は Mahāyāna-sūtra とほぼ重なる。Pāli 語聖典の立場からすれば、Burnouf が単純な古い Sūtra(「ou discours de Çākya」)の例として、Cowell と Neil の校訂本(Cambridge 1886)で Māndhātāvadāna および Kanakavarṇāvadāna と呼ばれる Divyāvadāna の二篇を選んだことは、まず奇異に思われる。しかし第一のものはよく選ばれている。というのも、それはその古い構成部分において、Pāli 語聖典の古い Sutta、すなわち Burnouf が Turnour の報告によって知っていた Mahāparinibbānasutta に対応するからである。Divyāvadāna においてそれは Māndhātṛjātaka によって拡張され、いまやこれにちなんで名づけられているのであり、これは後代の仏教において主たる関心がいかに移動したかの好例である。Divyāvadāna のほか、Burnouf はその研究のためにとくに Avadānaśataka(S. 199)を用いた。それは後に Léon Feer によって Journal Asiatique 1866年以降に完全にフランス語訳され、Annales du Musée Guimet XVIII(Paris 1891)に新たに印刷された。本文は J. S. Speyer が刊行した(「Avadānaçataka, A Century of Edifying Tales belonging to the Hīnayāna」、St. Petersburg 1902 以下、Bibliotheca Buddhica III)。Avadāna と Sūtra とは近縁の文学ジャンルである。前者では伝説が主要事であり、後者ではそれは仏陀の教えへの導入として役立つにすぎない(S. 99)。Sukhāvatīvyūha——Śākyamuni と Ānanda の、仏 Amitābha の伝説的国土 Sukhāvatī についての対話——を、Burnouf は Mahāyānasūtra の例として抄録の形で提示している。このテキストは後に1883年、M. Müller と〔次ページに続く〕

南条文雄によって Anecdota Oxoniensia に刊行された。繰り返し Burnouf は言語の問題に立ち返る。仏教サンスクリットについての彼の記述は的確であるが、しかし最古の Sūtra は総じて散文も韻文もサンスクリットで書かれていたという彼の仮定は、正しいとは実証されなかった。サンスクリットと並んで、とくに Vaipulya-sūtra の韻文において、民衆語が現れる。それはあるときは Pāli 語のように、あるときは Prākṛt のように、あるときはまったく崩れたサンスクリットのように見える。この言語はインドの外部、Kaschmir のようなサンスクリットがあまり育まれなかった国で成立したのであろう、と彼はいう(S. 166)。逆に我々の時代には O. Franke が、まさに Kaschmir においてこそサンスクリットが保存されており、そこから改めて北インドに導入されたのだと想定した。両学者のいずれもこの言語の謎を正しく解いてはいないであろう。我々は今日、Burnouf よりも確実に、Buddhavacanaṃ が Pāli 語に類似した民衆語であったこと、仏陀の教えのサンスクリットへの翻訳は二次的なものにすぎないことを知っている。

Burnouf が Divyāvadāna、Avadānaśataka その他若干のテキストから描いた文化像において、とくに重要なのは仏教のカーストに対する立場である。Burnouf はここで Nepāl のサンスクリット著作から、H. Fick が Pāli 語テキスト、とくに Jātaka からその著書『Die sociale Gliederung im nordöstlichen Indien zu Buddha's Zeit』(Kiel 1897)で行ったのと類似したことを、すでにまとめている。彼は Divyāvadāna(Cowell-Neil, S. 611 以下の XXXIII)から、Mātaṅgadārikā Prakṛti——仏陀が一杯の水を乞うた低カーストの少女——の物語を伝えている。これに類する願いを Jesus はサマリアの女に向けている(Ev. Joh. IV)。ある種の類似が目につく。Burnouf はこのような比較をまったく避けた。この物語には一つの Jātaka が接続しており、それは Prakṛti の前生を扱い、そこでも同様にカーストの区別が斥けられている。また Vajrasūcī——Aśvaghoṣa に帰されるカースト制度に反対する書で、後に A. Weber が Berlin アカデミー紀要に刊行した——も彼に知られていた(S. 215)。彼はここですでに Aśvaghoṣa の Buddhacaritakāvya にも言及している。Sūtra と呼ばれながら、単純な Sūtra からも Vaipulya-Sūtra からも遠く隔たった著作の例として、Burnouf は二つの作品を抄録で提示している。いずれも Guṇakaraṇḍavyūha あるいは Karaṇḍavyūha という表題を持つ。一方は散文、他方は韻文である。前者の方が古い。両者とも菩薩 Avalokiteśvara——「saint tutélaire du Tibet」(S. 523)、Mañjuśrī が Kaschmir のそれであるように——の讃美に奉仕している。韻文作品では前者は Ādibuddha から生じ、その Ādibuddha は Svayambhū と呼ばれる。それゆえ Svayaṃbhūpurāṇa という¹⁾。枠物語においてもこの宇宙開闢神話はバラモン教文献の Purāṇa を想起させる(S. 222)。散文版には、近代の旅行記からも知られる定句 oṃ maṇi padme hūṃ が現れ、それは Avalokiteśvara に帰されている(S. 225)。

第二の Piṭaka、すなわち Vinaya、すなわち Bhikṣu の規律についても、Burnouf は Nepāl 写本の Avadāna に依拠せざるをえず、その記述を Csoma、Schmidt、Turnour の著作において〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ 「Vṛhat Svayambhū Purāṇam, Containing the Traditions of the Svayambhū Kshetra in Nepal」は1894年以降 Bibl. Indica に不十分な形で刊行された。Böhtlingk の批判、Sitz.-Berichte d. K. Sächs. Ges. d. Wiss. 1895, S. 193 以下を参照。

裏づけを見いだした。Saṅgha への受け入れを彼は、Divyāvadāna II(S. 235 以下)の Pūrṇa の伝説の完全な翻訳によって例示している。それに続いて彼は Saṅgha の成員と完成の諸段階について論じる。śrāmaṇerabhikṣubhikṣuṇīupāsakaupāsikāvihārasthavirasrota-āpannasakṛdāgāminanāgāminarhatpratyekabuddhaśramaṇaāryaśrāvaka、そして bodhi について(S. 275 以下)。懺悔の制度は彼を Prātimokṣa に導くが、これは Hodgson の写本のうちにはなかった。Bhikṣu が慎むべき罪過のこの分類について、彼は Essai sur le Pāli におけるよりも詳しく、Csoma および Rémusat の著作に見いだしたチベット語訳および中国語訳にもとづいて報告している。

彼は道徳的戒律について śikṣāpada(Pāli 語 sikkhāpada)という表現に言及している。中国語の典拠から彼は Pāli 語で dhutaṅga と呼ばれる行法を知った。Bhikṣu の生活を例示するために、彼は Divyāvadāna XXIII–XXV の Saṅgharakṣitāvadāna を翻訳している(Introd. S. 313 以下)。仏教徒の礼拝、Śākyamuni の像と遺骨(śarīrāṇi)の stūpa および caitya における崇敬についての節も、Burnouf がさしあたり北方仏教から描こうと試みたこの全体像に属する(S. 338–358)。礼拝は Śākyamuni の時代より後になって初めて成立した。「car Çākya, tant qu'il vit, n'est toujours qu'un homme, même pour ses disciples les plus fervents」(S. 340)。彼は Divyāvadāna XXXVII の Rudrāyaṇāvadāna から一節を訳し、そこに仏像への崇敬の始まりを見ている(S. 344)。仏陀の生涯からの最古の造形的表現において仏陀その人が省かれていることは、彼にはまだ知られていなかった。この注目すべき事実は、まず Cunningham によって、また最近では A. Foucher によって指摘された(「Les Débuts de l'Art Bouddhique」、Journ. As. 1911, S. 55 以下)。仏陀の時代の伝説と並んで、後代の人物と出来事に関わる伝説もある。Burnouf は Divyāvadāna から Aśoka 伝説の一群を訳した。XXVI–XXIX、すなわち Pāṃsupradāna-、Kunāla-、Vītaśoka-、Aśokāvadānam である(S. 358–437)。J. Prinsep が初めて解読した Aśoka 王の碑文は、すでにここで彼に知られていた(S. 370)。

Abhidharma が Métaphysique によって正しく訳されているかどうかは、判断を保留しておこう。いずれにせよ Burnouf は正当にも、Abhidharma の部門が Śākyamuni 自身にさかのぼるのではなく、彼の死後になって初めて、その教えのうちに散在していた哲学的要素から形成されたものであることを強調している(S. 454)。Tripiṭaka のこの第3部の著作には、弁証法的な方法が特徴的である。あらゆる主題が三つの形式で立てられる。「la première affirmative, la seconde négative, la troisième qui n'est ni affirmative ni négative」(S. 439)。Hodgson の写本におけるこの部門の主要作品は Prajñāpāramitā であり、それは分量の異なる複数の改訂の形で存在し、Mahāyāna-sūtra に属する。しかし Burnouf はなお他の類似の「Sûtras Vaipulyas」をも挙げている。Samādhirāja、Daśabhūmīśvara、Saddharma-Laṅkāvatāra、Saddharmapuṇḍarīka である。さまざまな仏教学派とその教説についての彼の記述においては、Burnouf は典拠そのものから直接汲むよりも、Hodgson、Csoma、Schmidt の仕事から、とりわけ前者の仕事から汲んでいる。Nepāl では四つの大哲学学派、すなわち Svābhāvika、Aiśvarika、Kārmika、Yātnika が数えられる(S. 441)。より古い文献においては我々はそれらについて何も知らないが、しかし〔次ページに続く〕

北インドにおいては Vaibhāṣika、Sautrāntika、Yogācāra、Mādhyamika という四つの大学派が、多くの下位区分を伴って、その始まりにおいて仏教の最初の時代にまでさかのぼらされる。Burnouf はそれらについて Csoma を通じてチベット語文献から、また Abhidharmakośavyākhyā——「cette inépuisable mine de renseignements précieux sur la partie spéculative du Buddhisme」(S. 447, 451)——から知った。Śaṅkara の Brahmasūtra 注釈は彼にはまだ利用できず、彼の Sarvadarśanasaṃgraha も同様であった。しかし彼は Hodgson の写本から、Mahāvastu——その刊行(Paris 1882 以下)によって É. Senart が大きな功績を得た——が Mahāsāṃghika の下位区分である Lokottaravādin の学派に属することを知っていた(S. 452)。Lokottaravādin は第三結集の時代に存在していた。Mahāsāṃghika は伝承において Kāśyapa と結びつけられ、Vaibhāṣika に数えられている(S. 446)。

仏陀の説法の内容は専ら道徳的なものであったのではなく、「de l'existence de Dieu, de la nature, de l'esprit et de la matière」という大問題をも含んでいた。これらの問題は仏陀の教えのうちに含まれてはいるが、明示的にその主題をなしているわけではない。Burnouf がここで Abhidharma の例示のために Avadānaśataka および Prajñāpāramitā(aṣṭasāhasrikā)から伝えている伝説においては、それらは直接には現れないが、しかし否定的弁証法——それによってさしあたり他の問題が扱われている——によって共に捉えられている。「en huit mille articles」の Prajñāpāramitā を Burnouf はほぼ完全に翻訳していた。彼はこの分量のものを本来の作品とし、この名を持つより大部のテキストを拡張とみなした(S. 465)。その否定的方法の例は、すでにより古い仏教文献のうちに、また Pāli 語聖典のうちにも証明されうる。Burnouf は Pāli 語聖典の Mahāvagga における仏陀の伝記の部分をまだ知らなかったが、それでもすでに確かな眼識をもって、四つの聖なる真理Pratītyasamutpāda とを仏陀の教えの精髄として提示している。前者はその道徳的側面を、後者はその心理学的・存在論的側面を表すものとして(S. 484)。Pratītyasamutpāda(jarāmaraṇa, jāti, bhava, upādāna, tṛṣṇā, vedanā, sparśa, ṣaḍāyatana, nāmarūpa, vijñāna, saṃskārāḥ, avidyā)について、Burnouf は Lalitavistara の一節を訳している。彼はこれを一写本によって利用した。しかし彼にはすでに Foucaux の多用されたチベット語訳の翻訳も手元にあった。彼はまた、バラモン教の典拠にもとづく Colebrooke の Bauddha の教説の叙述にも依拠しつつ、インド的思考にとってかくも特徴的なこの大公式の十二支を分析にかけた(S. 491 以下)。それはいかなる新しい研究においても見過ごされるべきではない。彼はこの仏教的「存在論」とバラモン教の Sāṃkhya 体系との類似を強調している(S. 511, 521)。五つの Skandha(rūpa, vedanā, saṃjñā, saṃskārāḥ, vijñāna、S. 511 以下)についても彼は論じているが、この系列が Pratītyasamutpāda に対してどのような関係にあるかについては明確にすることができなかった。この問題は今日なお完全には解決されていない。おそらくここには異なる時代に由来する教説の形が並存しているのであろう。Saddharma-Laṅkāvatāra から Burnouf は一節を伝えており、そこでは仏陀がさまざまな Tīrthakara の Nirvāṇa についての見解を挙げている。枠物語がいかに空想的であるにせよ——仏陀が Rāvaṇa が王である Ceylon に来るというのだが——、しかしここで Nirvāṇa のさまざまな把握について語られていることは、〔次ページに続く〕

実質的な価値を持つ。仏陀自身は Nirvāṇa をどこにも定義していないが、Burnouf は十分な理由——さらに詳しく展開されうるであろう理由——から、「que Çākya vit le bien suprême dans l'anéantissement complet du principe pensant」という仮定に導かれている(S. 521)。

Tantra と呼ばれる著作——そこでは退廃した仏教が近代の Śiva 教と接触している——をも、Burnouf は写本から知っていた。それらはなお古い仏教の断片をも含んでいるが、しかし女神崇拝と、Mantra および Dhāraṇī と呼ばれる呪句とによって、それから遠く隔たっている。Burnouf は記述するのみならず、この「alliance du Buddhisme avec le Çivaïsme」の起源についての問いにも答えようと試みており、それは W. v. Humboldt がその Kawi 語についての著作で取り組んでいた問題である(S. 546 以下)。Hodgson、Csoma、Schmidt のほか、彼はとくに Wilson の論考——そこで Wilson は二つの Tantra テキストを伝えていた(「Notice of three tracts received from Nepal」、As. Res. XVI)——を引用している。Paris の写本から彼に知られていたのは Suvarṇaprabhāsa——この種の最も名高い作品——、さらに Saṃvarodaya- および Mahākāla-tantra であった。第一に挙げた作品——彼はその詳細な分析を与えている(S. 528–537)——は仏陀の口に置かれており、一部は古仏教的な主題を含み、最後の諸章は Jātaka であり、Tantra 的性格はとくに第8章から第12章に現れる。Tantra とは何であるかを、Saṃvarodaya- および Mahākāla-tantra からの抄録が示している(S. 537 以下)。Vinayasūtra の注釈における Vajramaṇḍā-dhāriṇī からの引用は、dhāraṇī と並んで Prajñāpāramitā 風の虚無論的議論も置かれうることを示している(S. 543)。この後代の文献における歴史的な年代についても、Burnouf は注意を促している。

最後になお一つの特別な節が、Śākyamuni にさかのぼらされるのではなく特定の後代の著者に帰される著作に当てられている。そのようなものとして彼は Nepāl 写本から Kṣemendra の Bodhisattva-Avadānakalpalatā を知っていた(S. 555)。それはいまや Bibl. Indica に印刷されている。目を引くのは、Burnouf が Aśvaghoṣa の Buddhacarita についてより熱意をもって語っていないことである。より詳しく彼は Nāgārjuna——Mādhyamika 学派の創始者で、仏陀の Nirvāṇa の800年後に生きたとされる——のさまざまな著作について論じている。そのうちの一つは Pañcakrama という表題を持ち、Tantra 文献に属する。より重要なのは哲学的内容の Kārikā(Vinayasūtra)であり、彼はそれを Candrakīrti の内容豊かな注釈から知った。同様に彼は Vasubandhu の Abhidharmakośa に対する Yaśomitra の大部の注釈 Sphuṭārthā をも見いだしていた(S. 563)。その根本著作の内容を彼は S. 571 以下でスケッチしている。

Buddhisme septentrional」および「Buddhisme méridional」という表現は Burnouf が導入した(S. 525)。彼は、当初の計画にあったように南方仏教をもより詳しく研究し北方仏教と比較することには、もはや至らなかった(S. 587)。それにもかかわらず彼は結びに、一方の側からではあるが、仏教の歴史的発展の概観を与えようと試みている。彼は三つないし四つの仏教を区別する。すなわち「Sûtras simples」の仏教——そこでは人間としての仏陀のみが登場する——、「Sûtras développés et Mahâyânas」の仏教——そこでは人間としての仏陀と並んで他の仏や伝説的な菩薩が現れる——、Tantra の仏教——そこでは前二者の要素に Śiva 教の女神崇拝が加わっている——、そして Ādibuddha の仏教であり、それは〔次ページに続く〕

Nepāl 人の Svayaṃbhūpurāṇa に含まれているようなものである。Csoma の Vinaya のチベット語訳の分析から、Burnouf は三つの結集について知っていた。すなわち仏陀の死後まもない Rājagṛha のもの、その百年後 Aśoka の時代の Pāṭaliputra のもの、そして仏陀の死後400年余の Kaniṣka のもとでのものである。したがって北方の伝承によれば「trois rédactions successives des écritures buddhiques」が行われたのであり、それは「rédactions faites par des Religieux rassemblés en concile」であった(S. 578)。彼に先立つ Lassen と同様、Burnouf は聖典全体がすでに第一結集において確定していたことを疑っている。彼は慎重であろうとして次のように述べる。「que nous possédons à la fois et d'anciens livres émanés soit de la première, soit de la seconde rédaction, mais modifiés par la révision des Religieux contemporains de Kanichka, et des livres tout à fait nouveaux introduits par l'autorité souveraine de ce dernier concile, ou même de quelque sage influent, comme Nâgârdjuna」(S. 579)。Hodgson の収集に代表される著作が第一あるいは第二結集に既に存在していたと信じる者はいないであろう。この文学史的問題は南方聖典に対しては事情が異なる。それについては諸部分がより古い形において最初の結集にまでさかのぼりうるであろう。そして、チベット語訳および中国語訳の証言によって、また新しい Turkestan 探検で発見された断片の証言によって、Pāli 語聖典に対応する Tripiṭaka がかつて北インドにも存在していたことが明らかになっている以上、Burnouf は仏教文献の漸次的な成立と改変についてのその見解において、確かに正しい道を歩んでいたのである。

Introduction における仏教の文献と教義についての大局的な叙述を、彼は Lotus の翻訳に付された大部の「Appendice」において継続し補完した。それは第2巻の後半 S. 435–867 を占めている。この Appendice は Burnouf の最後の仕事であった。我々は索引の前の末尾に次の Nota を読む。「L'auteur, atteint déjà du mal qui devait l'emporter, s'est arrêté ici; c'était dans les premiers jours de mars 1852」。本文はたしかに一つの対象の途中で中断しているが、S. 860 Z. 7 から、第XXI号が Appendice の最後の部分となるはずであったことが分かる。Burnouf はその間に、一写本から Pāli 語 Tipiṭaka の Dīghanikāya をより詳しく知り、また Aśoka 碑文により深い研究を向けていた。この Appendice の21の番号の表題に挙げられた対象は、その豊かな内容の不完全な像を与えるにすぎない。I. Bhikṣu saṃgha、II. Kleśa(ここには Pātimokkha の一写本による10の sikkhāpadānipāṇātipātā veramaṇī 等も、S. 444)、III. 菩薩 Mañjuśrī(Svayaṃbhūpurāṇa からの報告を伴う)、IV. dhātu、V. 四つの聖なる真理、VI. pratītya-samutpāda、VII. 六つの完成(pāramitā)、VIII. 32の mahāpuruṣalakṣaṇāni(80の anuvyañjanāḥ も)、IX. āveṇika、X.「Sur anyatra et sur quelques passages des édits religieux de Piyadasi」、XI. 仏陀の十力(Daśabala)、XII. 七つの bodhyaṅga、XIII. 四つの dhyāna、XIV. 五つの abhijñā、XV. 八つの「affranchissements」(vimokṣa)、XVI.「les ténèbres des lôkântarika」、XVII. pratisaṃvid、XVIII. 大地の伝説的な山々、XIX. pṛthagjana、XX. asaṃkhyeya、XXI.「Comparaison de quelques textes sanscrits et pâlis」。すでに I において彼は、1847年に Bird が発見し、誤って読まれ訳された、後代の Aśoka 文字による碑文に取り組んでいる。II には Sāmaññaphalasutta の翻訳が〔次ページに続く〕

彼の写本にもとづいて見いだされ、そこに現れる重要な名前と仏教の śīla についての論議を伴っている。同様に VI には Mahānidānasutta の翻訳がある。Mahāparinibbānasutta も彼は利用している(S. 799)。しかしとりわけ成功しているのは X におけるAśoka 碑文の大部分の文献学的取り扱いであり、それは Westergaard および Norris の拓本を基礎とし、より正しい理解において Prinsep と Wilson をはるかに越えている。とりわけ彼は Wilson に対して論争している。彼は(S. 671)Dhauli の二つの特別勅令から始める。もっとも彼はここで tuphe——実際には二人称複数の代名詞——をなお skr. stūpa と解している。次いで Capt. Burt が発見した(JASB. IX)「Bhabra」の碑文が、その明確に仏教的な性格のゆえに続く(S. 710)。それについては Capt. Markham Kittoe による Faksimile が彼の手元にあった。Kittoe に従って彼は、それが Pāṭaliputra の結集に宛てられたものと想定したが(S. 727)、これは確かではない。第X号の § 5 において、仏教語 saṃvatta, apaciti, vyañjana, hitasukha, mahallaka, vedalla, bhāga(S. 730)が彼を促して、磨崖勅令の大部分を Girnar の本文において Westergaard の Faksimile にもとづいて詳細に扱わせた。すなわち第4(S. 730)、第7(S. 755)、第8(S. 757)、第9(部分のみ、S. 735)、第11(S. 736)、また § 6 では第12(S. 761)であり、そこで彼は Wilson に従って pāsaṇḍa という語に「religion, croyance」の意味を与えている(S. 755 参照)。第14勅令はそれ以前の S. 752 で扱われている。Delhi および Allahabad の柱勅令からは、hitasukha という語に関連して第4を(S. 741)、mahallaka に関連して第7を(S. 749)扱っている。仏教の術語のために彼は、Rémusat によって知られるようになった18世紀由来の「Vocabulaire pentaglotte des Chinois」(S. 555)と、Hodgson によって「catalogue raisonné de la terminologie religieuse et philosophique des Buddhistes népâlais」として知られるようになった限りの Dharmasaṃgraha(S. 556)を用いた。Pāli 語については、Jinālaṃkāra と Clough の Singhalese Dictionary が同じ役割を果たした(S. 519)。

未完に終わった第XXI号において、Burnouf は初めて、二つの聖典集成、すなわち Nepāl のそれと Ceylon のそれとの相互関係が、内容と形式に関してより正確に研究されねばならないという要求を立てた。一方は仏教を、近代に至るまで続く発展のうちに提示しており、その過程で「principe primitif」は消え去る。他方は古い時代以来変わらずに保たれており、「qui ne se permet pas la moindre addition à la pensée originale」という注釈の作業によって固持されている(S. 859)。Burnouf は、両側に多かれ少なかれ同文で現れるテキスト断片を、サンスクリットと Pāli 語において収集し始めた。すでに S. 522 で彼は、最初に碑文の上に発見された詩句 Ye dhammā hetuppabhavā を指摘しており、さらに S. 834 では lokāntarikā andhakārā の記述——その Pāli 語形を彼は Mahāpadhānasutta に見いだしていた——を指摘している。Burnouf は両形のいずれをも原型と呼ぶことを欲しない。それらは「à peu près contemporaines」としてインドにおいて相並んで存在しえた、すなわち仏教が Ceylon に来る以前に、Māgadhī では「parmi les castes inférieures et le gros du peuple du Magadha et du pays d'Aoude」、サンスクリットではバラモンたちのもとで、というのである。この理論については我々はすでに上記 S. 120 以下で述べた。Aśoka 碑文の証言によれば、Pāli 語はたしかにかの Māgadhī と近縁ではあるが、同一ではない(S. 862)。かくして Burnouf は仏教〔次ページに続く〕

文献と仏教の主要教説の知識、および Aśoka 碑文の正しい理解を本質的に促進したのみならず、ここで解決されるべき諸問題をも提出したのである。

Burnouf に続いたのは、哲学者にして政治家である Jules Barthélemy Saint-Hilaire(Collège de France のギリシア語教授、Académie des Sciences morales et politiques 会員、1805年生、1895年没)である。Max Müller は彼に、その「Essays」(「Chips from a German Workshop」)第I巻の Essay IX「Über den Buddhismus」において記念碑を建てた。彼は彼を(S. 178)仏教の最初の歴史記述者と呼んでいる。その著書『Le Bouddha et sa Religion』(Paris 1860、2. éd. 1862、3. éd. 1866)において、彼は南方仏教にも立ち入っているが、しかし典拠から汲むことなく、主として Turnour の Mahāvaṃsa、Spence Hardy の Eastern Monachism、およびそれまでに出たいくつかの報告に依拠している。P. Grimblot(Ancien Consul de France à Ceylan et en Birmanie)が Pāli 語写本の見事な収集をまとめ、また彼が、その死後になって初めて刊行された著書『Sept Suttas Palis, tirés du Dīgha-Nikāya』(Paris 1876)¹⁾ において Pāli 語 Sūtra を訳した最初の人々に属するにもかかわらず、フランスの学者たちは Burnouf 以来今日に至るまで、好んで北方仏教に注意を向けてきた。Paris の図書館の Hodgson 写本に、我々は L. Feer の仏教研究と、É. Senart による Mahāvastu の大校訂・大研究とを負っている。Senart の仏陀についての著書もまた、南方仏教よりは北方仏教の精神において書かれている。政治的事情によって、ロシアの学者たちはまずモンゴル、チベット、中国における仏教を知ることとなった。Ceylon の仏教をより前面に出したのはようやくイギリス人であり、ドイツの学者たちは、Pāli 語 Tipiṭaka を研究の基礎としたという点で彼らに従った。中国語訳とチベット語訳が完全に知られるようになって初めて、それらの北インド原典が Pāli 語 Tipiṭaka のテキストに対してどのような関係にあるかを、完全な確実さをもって規定することができるであろう。この後者は、それがオリジナルな言語で保存されているという長所を常に持ち続けるであろう。

同時代の共同研究者たちの重要な仕事のうち、Burnouf は折に触れて Lassen の Indische Altertumskunde 第1巻(I 577)、Ersch と Gruber の Encyclopädie における Benfey の項目「Indien」(S. 570)、Brockhaus の Kathāsaritsāgara の刊行(S. 575)に言及しているが、しかしそれらが彼自身の仕事の前提をなしているわけではない。Lassen や Benfey と同様、彼もインドの歴史についての確実な知識は我々にとって仏陀の時代とともに初めて始まる、という見解である。しかしいくつかの基本線はそれを越えても引くことができ、繰り返し新たに試みられねばならない。仏陀の没年をより正確に規定することを、Burnouf は試みなかった(S. 587)。Barthélemy Saint-Hilaire の〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ この書は Grimblot の妻によって刊行された。Grimblot の Pāli 語研究ははるかに古くさかのぼる。Brahmajālasutta の翻訳は J. Gogerly に由来し、すでに1846年に Journal Asiatique に出ていた。Sāmaññaphalasutta については、Gogerly の不完全な翻訳に Burnouf の Lotus de la Bonne loi S. 448 のフランス語訳が付加されている。この書の女性編者はその Introduction で次のように述べることができた。「La Bibliothèque nationale seule en Europe possède, à l'heure qu'il est, et grâce à M. Grimblot, la plus riche collection de manuscripts pâlis」。この収集について Barthélemy Saint-Hilaire が Journal des Savants 1866 に報告を与えた。Grimblot は A. Weber と個人的な交流があった。

前543年という記述(Le Bouddha³ S. 269 以下)は、当時かなり一般に受け入れられていた計算に対応していた。Pratītyasamutpāda の各支の意味については、Burnouf が I 492 以下で Th. Goldstücker の所見を伝えている。

Barthélemy St.-Hilaire は Journal des Savants 1852年、S. 473–487 および 561–575 に「Notice sur les travaux de M. Eugène Burnouf」を公刊し、それは1876年に出た「Introduction」の再版 S. VII–XXXI に再録されている。彼は冒頭で、Burnouf が若い頃に受けた文献学的訓練を強調し、結びの文で彼を「un philologue de génie」と呼んでいる。Burnouf の著作の完全な一覧は『Choix de Lettres d'Eugène Burnouf』(Paris 1891)S. 557 以下に見いだされる。

Burnouf のこれらの書簡は、彼の個人的な関係と性格への一瞥を与えてくれる。学者たちに対して彼は完璧な洗練をもって好んで快いことを言う。イングランドやドイツから妻に宛てて書いた書簡においては、人物と状況の描写においてユーモアに富む観察の才が現れている。

サンスクリット文献学の歴史に属するのは、若き Burnouf が1826年3月13日付の Lassen 宛書簡で述べていること、すなわちフランスにはサンスクリットに従事する者は三人しかおらず、二人は彼の敵、第三は彼自身である、ということである(Choix de Lettres S. 13)。他の二人とは Chézy と Langlois が指されている。Chézy は嫉妬深かった。1827年10月25日および1828年7月2日付の Burnouf の Lassen 宛書簡を参照(Choix de L. 66, 80)。しかし敵意はそれほど大きくはなかった。いずれにせよ Burnouf は Chézy の Śakuntalā についてきわめて称賛的に述べている(同書 101)。また彼の父は Chézy の Yajñadattabadha 版(Paris 1826)に逐語的なラテン語訳を寄与していた。

§第 XVIII 章 CHÉZY の弟子たち、BURNOUF の友人と弟子、G. GORRESIO

Alexandre Langlois(1788年生、1854年に Académie des Inscriptions et Belles Lettres 会員として没)は、Chézy の優遇された弟子であった。彼の著作は Gildemeister に記載されている。彼は Harivaṃśa を訳した。「Harivansa ou Histoire de la Famille de Hari」printed for the Oriental Translation Fund of Great Britain and Ireland, London 1834 である。彼は、インドの古代史に取り組んだ人々の観念が、彼の時代においてもなお確固たる基礎を持っていないことを見いだした。歴史的なものはインドにおいて神話的なものによって覆い尽くされてしまった。Harivaṃśa はこの「histoire fabuleuse」——その知識は不可欠である——に導き入れるものであるが、しかしインドの政治史の始まりをも与えている(Introd. S. VII)。Burnouf が Lassen および A. W. v. Schlegel 宛の書簡でこの翻訳をあまり好意的に評価していない——彼はそれを「à l'usage des dames et des beaux esprits」と呼んでいる(Choix de Lettres 183, 467)——ことについては、Langlois の側でも Schlegel の Bhagavadgītā 版を、W. v. Humboldt が1825年5月8日付の Bopp 宛書簡(Lefmann, Nachtrag S. 42)で言うように「党派的で杜撰」であり、また哲学的〔次ページに続く〕

部分に踏み込んでいないとして書評していたことに注意すべきである(上記 S. 80 参照)。しかし彼の主要な業績は、彼が——たしかに時期尚早ではあったが——Ṛgveda の最初の完全な翻訳を提供したことである。「Rig-Véda, ou Livre des Hymnes, traduit du Sanscrit」(Paris 1848–1851)であり、本文の完全な校訂本がまだ存在しない時点でのことである。Langlois はその企ての大胆さを十分には自覚していなかった。彼の翻訳は読みやすいが、しかし Max Müller が Ṛgveda III S. VII で述べたように「before the tribunal of a more severe scholarship」には堪えない。さらに強く否定的な立場を、Böhtlingk と Roth はそのサンスクリット辞典第1部の序文で表明している。特別の難所のない詩節においては、Langlois は総じて意味を正しく捉えているが、多くの箇所では誤って推測したり、文法をあまり厳密に取らなかったりしている。彼が難所をいかに自由に扱ったかは、たとえば繰り返し現れる語 suvī́rāso vidátham ā́ vadema に示される。それを彼は I 117, 25 では「pour prix de nos sacrifices, donnez-nous la force et la domination」と訳し、II 12, 15 では「Puissions-nous (Indra, être tes amis,) avoir la fortune en partage, et renouveler chaque jour notre sacrifice」と訳している。それにもかかわらずこの翻訳にはそれなりの時代があり、その間は多く用いられた。Muir はそれを出発点とし、ただしサンスクリット本文で検証した。第2版「revue, corrigée et augmentée d'un Index Analytique par Ph.-Ed. Foucaux」が Bibliothèque Orientale の Tome premier として Paris 1872 に出た。索引の前には(若干の)「Hymnes du Rig-Véda imités en vers latins par F.-G. Eichhoff」¹⁾ が置かれている。

早世した勤勉な Auguste Loiseleur-Deslongchamps(1805年生、1840年没、「Département des Manuscrits de la Bibliothèque Royale」勤務)もまた、Chézy および Silvestre de Sacy の弟子であった。彼は Chézy の Yajñadattabadha を改めて刊行し、「suivi d'un épisode du Raghouvansa sur le même sujet et d'un choix de sentences de Bhartrihari」(Paris 1829)とした。彼の Mānava Dharmaśāstra の校訂と翻訳——Paris の写本を用いたもの——については、すでに上記 S. 74 で言及した²⁾。Silvestre de Sacy によって彼は 寓話文学 の領域における研究に刺激されていた。Galland の「Mille et une Nuits」の翻訳の新版に付した Essai historique のほか、彼は Le Roux de Lincy と共同で、この領域における里程標となる一巻を公刊した。「Essai sur les Fables Indiennes et sur leur Introduction en Europe par A. Loiseleur Deslongchamps, Suivi du Roman des Sept Sages de Rome en prose publié, pour la première fois, d'après un manuscrit de la Bibliothèque Royale avec une analyse et des extraits du Dolopathos, par Le Roux de Lincy, Pour servir d'introduction aux Fables des XIIe, XIIIe et XIVe Siècles publiées par M. Robert」(Paris 1838)である。Silvestre de Sacy に依拠して彼は、すでにかなり完全に、さまざまな〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ Frédéric-Gustave Eichhoff は Professeur à la Faculté des lettres de Lyon であった。1825年から1875年の間に由来する彼の多数の著書は、Catalogue Général des livres imprimés de la Bibliothèque Nationale, Auteurs, Tome XLVI, Paris 1911, Spalte 1079 以下に記載されている。その多くはドイツ語および英語の教授に役立つものである。彼の比較言語学の特殊な性格は、すでにその主著の表題に表れている。「Grammaire générale indo-européenne, ou Comparaison des langues grecque, latine, française, gothique, allemande, anglaise et russe entre elles et avec le sanscrit, suivie d'extraits de poésie indienne」(Paris 1867)。Eichhoff はドイツ人の両親のもと1799年に Havre に生まれ、1875年に Paris で没した。

²⁾ Schlegel は1831年に「小柄で痩せた Loiseleur」が Manu にかかりきりで汗をかいているのを見いだした。Briefwechsel mit Lassen S. 210, 208。

Pañcatantra の翻訳について報告している。当時まだ刊行されていなかったこの作品については、彼はむろん Wilson の分析(上記 S. 37 参照)と、Abbé J. A. Dubois(「ci-devant missionnaire dans le Meissur」)によるインドの民衆語の三つの版本の自由な翻訳(Paris 1826、S. 28)しか利用できなかった。これらの典拠から彼に知られた Pañcatantra の内容を、彼は Bidpai のアラビア語「Calila et Dimna」の内容と比較し、その際とくに La Fontaine が改作した寓話を際立たせている。同様の仕方で彼は「Sendabad」あるいは Sindbad の書を扱った。それも同様にインド起源であろうが、インドの原典は失われている。ギリシア語の Syntipas の物語から出発して彼はこれを分析し、その際それを二つの他の版本、すなわちアラビア語の物語「Histoire du Roi, de son Fils, de sa Favorite, et des sept Vizirs」およびヘブライ語の物語「Paraboles de Sendabar」と比較している(S. 80 以下)。de Sacy から Loiseleur Deslongchamps を経て Benfey へ、である。Le Roux de Lincy のこの巻への寄与は、この寓話作品の二つのフランス語形に関わる。Loiseleur はまた Amarakośa をも校訂本によってヨーロッパに定着させた(Paris 1839, 1845)。その索引は彼の死後 Dubeux と Langlois によって作成された。

フランスにおける Burnouf の同時代人には、Benedikt 会士 Hippolyte Fauche(1797年生、1869年没、Nève によって「libre penseur」と呼ばれる)も属する。サンスクリット文献の翻訳者としては彼はその生涯の後半になって初めて登場したため、彼の著書は Gildemeister にも Burnouf の著作にも言及されていない。しかしテキストの選択と彼の熱意は、サンスクリット研究の最初の時代を想起させる。彼は厳密な学問の人ではなく、その翻訳は「誤りに満ちて」いるとはいえ、それでもフランスにおいてより広い層にサンスクリット文献の内容についての観念を与えた。彼はまず小さなテキスト Gītagovinda、Ṛtusaṃhāra(1850)、Bhartṛhari の格言詩、Cauraparñcāśikā(1852)を訳し、次いで Rāmāyaṇa(1854–1858)、Kālidāsa の作品(1859, 1860)を訳した。とくによく知られているのは彼の著書「Une Tétrade, quatre ouvrages de genres différents」(1861–1863)であり、そこで彼は四つの異なる文学ジャンルの Specimina として、戯曲 Mṛcchakaṭikā、散文物語 Daśakumāracarita、讃歌 Mahimnastava(Śiva に対する)、および美文詩 Śiśupālavadha をまとめている。最後に彼は、Mahābhārata の完全な翻訳の印刷を実際に開始した唯一のヨーロッパ人であり、Calcutta 版に従っている。死が彼にそれを完成させることを妨げた。第1巻は1863年に、第10巻すなわち最終巻は1870年に出て、Parvan VIII の終わりまでに達している。第6巻(Parvan V および VI、Paris 1867)の書評において A. Weber は Fauche の努力を公正な仕方で評価し、むろんその誤りをも指摘している。Indische Streifen II 410 以下、および Grande Encyclopédie における Sylvain Lévi の Fauche についての記事を参照。

Burnouf と同じ1801年生まれなのが Guillaume Pauthier(1873年没)である。彼はさまざまな領域で文筆活動を行った。中国学者としては彼は Rémusat を Stanislas Julien の攻撃に対して擁護した¹⁾。彼のサンスクリットにおける仕事は、〔次ページに続く〕当時流布していた文献に関わるもので、

原注

¹⁾ Lassen, Ind. Altertumsk., 第III・IV巻への Anhang, S. 2 を参照。Lassen は Pauthier の著作「Chine, Description Historique, Géographique et Littéraire de cet empire」をしばしば利用した。IV 884, 891 参照。

主として二次的な性格のものである。最もよく知られているのは彼の翻訳書「Essais sur la philosophie des Hindous, par H. T. Colebrooke, traduits de l'anglais et augmentés de textes sanskrits et de notes nombreuses」(Paris 1833, 1834)であり、これは後の Poley によるドイツ語訳と類似の翻訳である。彼の論集「Livres sacrés de l'Orient」(Paris 1840)——その表題は Max Müller の「Sacred Books of the East」に模倣されているように見える——には、Loiseleur Deslongchamps の Mānavadharmaśāstra の翻訳が転載されている。

Burnouf の意義は、その著作をフランスの同時代人の著作と比較するとき、輝かしく際立つ。彼においては新しい領域の開拓と前進する研究、彼らにおいてはすでに知られたもの、他人が開拓し成し遂げたものにとどまること。しかし後者もまた、学問の発展のために、学問に故郷となる受容的な土壌を用意するために必要である。

Paris の東洋学者のうち、Burnouf はアカデミー会員 Abel Rémusat(1788–1832)および Julius Mohl(1800–1876)と親交があった。後者はペルシア語教授、前者は Collège de France の中国語教授にして図書館における Langlès の後任である。Garcin de Tassy(1794–1878)および Rémusat の後任 Stanislas Julien(1797–1873)は、彼にそれほど近くはなかった。Julien の重要な著作は Burnouf の死後になって初めて出た。Mohl との友情は書簡に現れている。Rémusat の委嘱によって Paris 図書館のインド写本を整理したことによって、Burnouf と Lassen は Pāli 語および Essai sur le Pāli へと導かれたのである。Burnouf は1832年6月9日付の Bopp 宛書簡において Rémusat の早すぎる死を嘆いている¹⁾。インド学にとってとくに重要であったのは、中国人巡礼 Fa-hian の旅行記の彼の翻訳であり、それは彼の死後になって初めて出た。「Foĕ-kouĕ-ki ou Relation des Royaumes bouddhiques, par Chi-Fa-hian. Revu, complété, et augmenté d'éclaircissements nouveaux, par M. M. Klaproth et Landresse」(Paris 1837)である。Heinrich Julius v. Klaproth(1783年 Berlin 生、1835年 Paris 没)もまた、この Paris の東洋学者たちの圏に属する。Burnouf はその Introduction においてしばしば彼に言及している。その後、Fa-hian の新しい翻訳が Samuel Beal(1869 および 1884)および Herbert A. Giles(1877)によって出た。それについては James Legge がその翻訳の Preface で報告している。「A Record of Buddhistic Kingdoms being an account by the Chinese monk Fâ-hien of his travels in India and Ceylon (A. D. 399–414) in search of the Buddhist books of discipline」(Oxford 1886)である。Rémusat はその後任 Stanislas Julien によって影を薄くされた。Julien は初めて、中国人巡礼 Hiuen Thsang〔玄奘〕のはるかに内容豊かな著作をインド学者に利用可能にしたのである。「Mémoires sur les contrées occidentales, traduits du Sanscrit en Chinois en l'an 648 par Hiouen-Thsang」、Tome I Paris 1857、Tome II 1858 である。両巻とも A. Weber によって Lit. Centralblatt で書評された。Indische Streifen II 122 および 148 を参照。Mémoires に St. Julien は1853年、〔次ページに続く〕この注目すべき人物の伝記の翻訳を先行させていた。

原注

¹⁾ Rémusat について Rosen は、Paris で彼と知り合った後、次のように述べている。「彼ほどその全存在において天才の刻印を帯びている人間はおそらくほとんどいない」。1828年5月4日付 Bopp 宛書簡(Lefmann II 186*)。

玄奘は西暦629年から645年にかけてインドを旅した。この時代のインドの状況にとって、また仏教の歴史にとって、彼の Mémoires は第一級の典拠である。この上ない正確さをもって彼は、見たことと聞き知ったことを報告している。我々は彼のもとで Kānyakubja の偉大な王 Śilāditya の人物を知り、時代の背景に王 Kaniṣka と Aśoka を見る。これらはインド仏教史における、また総じてインドの古代史における三人の偉大な王である。玄奘の著作は後に Beal によっても訳されたが(1885, 1888)、St. Julien の翻訳は今日に至るまでその価値を主張している。Vincent A. Smith, Early History of India, 2d ed., S. 22 を参照。

外国の学者について言えば、Burnouf は Lassen と生涯にわたって親交を保った。それは多数の書簡と、最後まで彼の著作における言及とが証明している。1825年11月14日付の Bopp 宛書簡において彼は Lassen について「de l'amitié et de la coopération duquel je me félicite tous les jours」と書いている(Choix de Lettres 6)。Lassen は彼の腹心であり、彼は Lassen が自分とともに London と Oxford へ行くことを願っている。1828年4月30日および1835年1月19日付の Lassen 宛書簡を参照(同書 78, 186)。Burnouf が1835年にイングランドから妻に宛てて書いた書簡は、彼がそこで個人的に知り合った同学の士たち、Rosen、Lenz、Brockhaus についての記述によって価値がある。

Rosen については我々はすでに上記 S. 93 で論じた。彼は Bopp の弟子であったが、Schlegel および Lassen とも良好な関係にあった。A. W. v. Schlegel 宛の書簡において Burnouf は、「que M. Rosen n'ait pas (comme font, à ce qu'il paraît, M. M. Benary et Pott) épousé les querelles de M. Bopp」ことへの満足を表明している(Choix de Lettres 463)。Rosen の人柄は Burnouf にきわめて好ましかった。彼は彼を「un vrai cœur d'homme avec un esprit et une tête de savant」と呼んでいる(Choix de Lettres 278、497 参照)。

Rosen と同様、Robert Lenz もまた早世した。1808年 Dorpat 生、1836年に St. Petersburg のサンスクリット教授として没。彼が Burnouf と Oxford および London で共に過ごし、その友情を得たとき(Choix de Lettres 196)、すでに彼の「Urvasia fabula Calidasi」(Berlin 1833)がラテン語訳付きで出ていた。本文は1830年の Calcutta 版に従い、それに小著「Apparatus criticus ad Urvasiam」(Berlin 1834)が加わる。彼が1836年3月13/25日付の Burnouf 宛の、彼らしい書簡で語っている仕事(Choix de Lettres 525 以下)を、彼はもはや実行することができなかった。Lenz のラテン語訳に接続して、Ewald に献呈された A. Hoefer の詩的翻訳「Urwasi, der Preis der Tapferkeit」(Berlin 1837)がある。F. Bollensen のドイツ語訳付き校訂本「Vikramorvaśī, das ist Urwasi, der Preis der Tapferkeit」(St. Petersburg 1846)もまた、Lenz の著作によって呼び起こされたものである。Lenz は第二のインド戯曲をヨーロッパに定着させた。Bollensen はその校訂本の序文において、Lenz が Chézy に対して、とくに Prākṛt の扱いにおいて進歩を示していることを強調し、また Lenz 版に対する Fr. Rückert の書評(Berliner Jahrb. für wissenschaftl. Kritik 1834)を、その多くの改善のゆえに「輝かしい文学的偉業」と呼んで称賛している。

H. Brockhaus は当時、1835年に、すでに Kṛṣṇa Miśra の寓意劇 Prabodhacandrodaya の校訂本の第一部を刊行していた(Leipzig 1835)。それは Lassen がすでに1834年11月26日付の Burnouf 宛書簡で言及している(Choix de Lettres 511)。全体は1845年になって初めて出た。これはヨーロッパで印刷された第三のインド戯曲であり、Śaka 暦1754年に出た Calcutta 版が注意を引いていたものである。Brockhaus は当時まもなく London から Wales へ長期滞在に赴いた。Burnouf が1835年5月19日付の妻宛書簡で伝えているとおりである¹⁾。Burnouf は当時その少し前に Vendidad Sade と Commentaire sur le Yaçna を刊行していた。Brockhaus は後に Vendidad Sade の転写版を企てたとき、Burnouf の道を歩んだのである(上記 S. 124 参照)。

Burnouf に連なるのは、イタリア最初のサンスクリット文献学者 Abbate Gaspare Gorresio(大学のサンスクリット教授、最後には Turin の王立図書館司書、1808年 Piemont の Bagnasco 生、1891年没)である。1834年に彼は Paris へ行き、そこで Burnouf の講義を「in pubblico ed in privato」聴いた(Rām. I, Introduz. S. CXXXIII)。Paris から彼は London へ赴き、そこで Wilson の援助を得た。彼の Rāmāyaṇa 校訂本は今日なおサンスクリット文献学の重要な業績である。彼の写本の数はそれほど多くなく、Paris のもの2点、London のもの4点であり、しかも彼はその校訂本の基礎に Bengal 伝本を置いた。「Ramayana Poema Indiano di Valmici, Testo Sanscrito secondo i Codici Manoscritti della Scuola Gaudana」全12巻、Parigi 1843–1870 である。第I–V巻は本文を、第VI–X巻はイタリア語訳を、第XI・XII巻は Uttarakāṇḍa の本文と翻訳を含む。翻訳は1869/70年に2巻本で第2版が出た。全体は記念碑的な著作であり、彼はそれをその庇護者、Carlo Alberto 王(Re di Sardegna, di Cipro, di Gerusalemme etc.)に献呈した。最初期には、とりわけ Bengal 由来の写本がヨーロッパの図書館に入っていた。しかし Schlegel も彼の recensio commentatorum vel septentrionalis 版(1829, 1838)のための写本資料を Paris と London に見いだしていた。Gorresio は Schlegel 版の価値を貶めようとしたのではなく、彼の「Gaudana」を Schlegel と Lassen に対して擁護し、Gaudana が他方から生じたのではなく、両伝本が互いに独立に本来の詩作にさかのぼるという見解を主張した。比較のために彼は最初の2巻に依拠せざるをえなかった。南インド伝本もまた彼に知られており、さらに混合本文も知られていた。第I巻の Introduzione において彼はすでにほとんどすべての Rāmāyaṇa 問題に触れている。最も重要な観点は決して新しい〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ H. Brockhaus はその言語的研究を広く拡げていた。彼のうちにはロマン主義の精神の何ものかが生きており、それは全人類を包括するものであった。彼は中国語にも取り組んでいた。それは彼の「Vorschläge zu zweckmäßiger Einrichtung eines chinesischen Wörterbuchs」(ZDMG. VI S. 532)が示すとおりである。同様に彼はケルト語にも、Lady Charlotte Guest の Mabinogion にも関心を持った。私が彼の仲介によって1870年の復活祭にイングランドへ渡り、India Office Library の目録作成に加わったとき、彼はイングランド滞在をケルト語研究にも利用するよう強く私に勧めた。かくして私はケルト学者となったのである。私はこれを、歴史が個人的な刺激と事柄上の刺激とからいかに構成されるかの、自ら体験した一例として挙げておく。

学者たちによって初めて立てられたものではない。Rāmāyaṇa の枠物語から Gorresio は、Vālmīki が Rāma と同時代人であったと推論した(I S. XCVI、また II S. XXXV)。その時代として彼は前13世紀を想定した(I S. C)。確たる根拠は欠けている。ギリシア人も役に立たない(I S. XCV)。Yuga のうち年代学にとって問題となりうるのは Kaliyuga のみであり、それは前3101年に始まる(II S. XXXIX)。彼の年代決定はきわめて不確かな計算によって得られたものである。Kālidāsa の Raghuvaṃśa は Rāmāyaṇa を前提とし、Kālidāsa は前57年の Vikramāditya の時代に生き、Rāma からこの王までに56人の王が統治し、各人につき20年強の治世を仮定すればおよそ前13世紀になる(I S. C)! 本来は口誦であった rhapsode の伝承によって本文の異同が生じた。ギリシアの黄道十二宮の記号への言及 Rām. I 18, 9——Bengal 伝本 I 19 には欠けている——は、北方伝本における後代の付加である。同様に仏陀への言及 Rām. II 109, 30 以下 Schl.(I S. XCII、Lassen, Ind. Alt. I 492 参照)も同様である。Gorresio は叙事詩において「gli elementi, onde si compone, dalla mano ordinatrice che li raccolse e li dispose」を区別している(S. CIV)。この diaskeuasis は Mahābhārata については Rāmāyaṇa より後に行われた。Rāmāyaṇa の Epitome が Mahābhārata の第一 Parvan に組み込まれている。本文版の他の巻の序文は、主として各巻の内容一覧を含んでいる。Gorresio の意味において、最近もう一人のイタリア人 M. Vallauri が伝本問題を扱っている。「Intorno alle recensioni del Rāmāyaṇa, Note e saggi comparativi sulle recensioni B e C」(Giornale della S. As. It. XXV (1912) S. 45–84)である。同様に最初の2巻に限定された比較の結果は、二つの伝本のいずれもがそれぞれ長所と短所を持つ、というものである。両者のある種の同等性を主張するために Vallauri は、Böhtlingk が Bengal 伝本の言語にも——他方の言語ほど多くはないにせよ——多くの古体を見いだしたことを援用している(「Zur Kritik des Rāmāyaṇa」、ZDMG. XLIII)。

翻訳において Gorresio は Dante の言語を模した(VI S. IX 以下)。第VII巻において彼はもう一度、詩全体の内容を連関のうちに提示した。他の巻の序文は、一部は一般的考察、近縁の諸民族の叙事詩、とくに Homeros のそれとの比較(VI, IX)、あるいは個々の箇所の論議(VIII, IX)を含む。第VI巻 S. IV では彼は、Ceylon の Rājāvalī から、Kaliṅga から Ceylon に来た最も初期の「colonia Indiano-Sanscrita」に言及している。第X巻では彼は Rāmāyaṇa の純粋に寓意的な解釈——当時すでに Weber によって、またそれ以前に別の仕方で Paulinus a St. Bartholomeo によって主張されていた——に反対している。彼は伝説への神話的要素の導入を否定しはしなかったが、しかし古い叙事詩の最初の端緒を、Ārya 人のインド南部への進出——その異質な、彼らと同族でない諸民族は、彼らには Vānara や Rākṣasa のように見えた——についての歴史的記憶のうちに見た。Rāmāyaṇa の高い古さについての見解も、彼は Weber に対して固持したが、しかしそれが時とともに多様な変形を受けたことは認めた。Rāmāyaṇa の最初の端緒は Mahābhārata のそれより前にあると、彼は一般的な考察から推論している(X S. XXVI)。

Burnouf の大きな学問的意義を思えば、彼がフランス本国ではかくもわずかの弟子しか持たなかったことは目を引く。もっとも〔次ページに続く〕

彼の講義は称賛されているのだが。1851年2月24日付の甥 Émile Burnouf 宛書簡において、彼は Schlegel の Bhagavadgītā の解説にもっと多くのフランス人聴講者が欲しいと述べている。彼のもとにはほとんど外国人しかいなかったからである。その理由は、フランスには Paris 以外にサンスクリットの教授職がなかったことにあろう。Nancy では文献学者 Émile Burnouf と L. Leupol が協力して、サンスクリット学習を実用的な書物によって容易にしようとした。彼らはその Dictionnaire Classique Sanscrit-Français(Paris 1866)によって名を成した。それは Wilson、Bopp、Westergaard の辞書的著作から編纂されたもので、今日なおフランス語による唯一のサンスクリット辞典である。彼らはまた共同で「Méthode pour étudier la langue sanscrite」(1859、2. éd. 1861)という文法書を刊行し、L. Leupol は「avec la collaboration de Ém. Burnouf」その練習書を刊行した。「Selectae e Sanscriticis scriptoribus paginae. Choix de morceaux Sanscrits traduits, annotés, analysés」(Paris 1867)であり、主として Manu と Mahābhārata からの断片を含む。彼らは、政府がその Facultés des Lettres のそれぞれにサンスクリットの講座を設けるまで待つ術を心得ているであろう、と Leupol は後者の書の序文で述べている。Émile Burnouf は伯父 Eugène B. の模範によってサンスクリット研究に促されたのであった。彼の著書「Essai sur le Véda ou Études sur les religions, la littérature et la constitution sociale de l'Inde depuis les temps primitifs jusqu'aux temps brahmaniques」(Paris 1863)は、表題において「Essai sur le Pali」を想起させるが、むしろ P. v. Bohlen の著書『Das alte Indien』(1830)のような文化史的叙述である。しかしその間に Ṛgveda は Rosen、Langlois、Wilson の翻訳のみならず、Max Müller の本文版によっても知られるようになっていた。彼が用いた典拠を個々に挙げることなく、彼は Langlois の翻訳による Ṛgveda の讃歌から、Ārya 人がまだ Pendschab より先へあまり進出していなかった頃の Ārya 系インド人の文化像を、言語的・文学史的・社会的・神話的・宗教的・哲学的な比較考察を伴って描いている。「Essai sur le Véda」はしたがってある意味で、Ṛgveda がまだ利用できなかった v. Bohlen の書を補完するものであり、他方 H. Zimmer の著書『Altindisches Leben』——Ṛgveda の実物的事項をより完全に、また文献学的な徹底をもって扱っている——の先駆でもある。É. Burnouf はより思弁的な立場から書いている。注目に値するのは、カーストの起源について、バラモンのカーストにおける聖職階層制の欠如(「point d'église」)について、Veda の祭式について(供犠は「un abrégé du grand œuvre de la nature」である、S. 368, 393)、神々の起源とその象徴的性格について、Agni——「le principe du feu et celui de la vie」(S. 359)——についての彼の叙述である。我々はここに、後に A. Bergaigne の「Religion Védique」にも現れる観念を見いだす。若干の誤った語源といくつかの他の誤りを差し引けば、この「Essai sur le Véda」は才気をもって書かれた書であり、その宗教史的部分においては Max Müller の類似の著作と並べても遜色ない(M. Müller,『Alte Zeiten』S. 109 参照)。たとえそれが著名な学者の甥を著者とするにすぎないとしても、である。Leupol は上述の彼の読本の序文で彼について次のように述べている。「qui porte si dignement un nom difficile à porter」。

Burnouf のもう一人の弟子は Théodore Pavie(1811年 Angers 生、1896年同地没)であった。彼はインドをも含む大旅行を行い、それについて Revue des Deux Mondes に報告している。1852年に彼は Collège de France における Burnouf の後任となったが、1857年にこのサンスクリット教授職を辞し、不機嫌のうちに私生活に退いた。彼は中国語の領域でも仕事を公刊しており、それゆえ H. Cordier が Pavie の追悼記事を、彼が Schlegel と共同で刊行していた雑誌「T'oung pao, Archives pour servir à l'étude de l'histoire, des langues ... de l'Asie Orientale」VII (1896) 417 以下に載せている。ここには彼の著作も記載されている。上述の事情は、彼がその長い生涯にもかかわらずサンスクリットの領域で比較的わずかしか成し遂げなかったことを説明する。1840年10月22日付の彫刻家 David d'Angers(Burnouf の記念メダルを作った人物)宛の書簡において、Burnouf は Pavie から Mahābhārata 全体と Veda の翻訳を期待している(Choix de Lettres S. 326)。Fauche と Langlois が彼に先んじた。彼が訳した Mahābhārata の断片は Gildemeister に記載されている。「Fragments du Mahabharata traduits en français sur le texte de Calcutta」(Paris 1844)である。後に1854年以降、彼は Paris 図書館のただ一点の、あまり正確でない写本にもとづいて、Bhojaprabandha——Dhārā あるいは Mālava の王 Bhoja の伝説的な物語——の本文と翻訳を公刊した。「Bhôdjaprabandha, Histoire de Bhôdja, Roi de Malwa, et des Paṇḍits de son temps」、Journal Asiatique, Cinquième Série Vol. III (S. 185), IV, V であり、Lassen, Ind. Altert. III 837 に利用されている。Pavie はまた Burnouf の「Introduction à l'histoire du Bouddhisme Indien」の索引の作成者でもある。Mohl は彼を「un des élèves les plus distingués et les plus dévoués de M. Burnouf」と呼んでいる。

Burnouf のより年長の弟子は、古典文献学者にしてアカデミー会員 Adolphe Regnier(Windischmann の親戚、1804年 Mainz 生、1884年 Fontainebleau 没)であった。彼はその研究をきわめてさまざまな領域に向けており、Jean Louis Burnouf と比較することができる。彼は Collège de France における Burnouf の「éloquence latine」教授職の後任となった。1843年から1853年まで彼は「précepteur du comte de Paris」であった。Burnouf が1836年8月10日付の A. W. v. Schlegel 宛書簡で書いているように(Choix de Lettres 472)、彼は Regnier と Bhagavadgītā を、Schlegel 版で読み、次いで注釈付きの Manu の Calcutta 版を読んだ。Burnouf は彼に大きな期待を寄せていた。Gildemeister の Bibl. Sanskr. Spezimen には彼の名は見いだされない。Burnouf の死後になって初めて彼は、続編の出なかったより大きな著作の第一部をもって世に出た。「Étude sur l'Idiome des Védas et les Origines de la Langue Sanscrite, Première Partie」四折判、Paris 1855 である。ここには S. 6 に、Max Müller が Ṛgveda III S. IX に引用した、Veda の解釈における方法についての箇所が見いだされる。「Je joins au texte des hymnes celui du commentaire de Sâyaṇa Âtchârya, que je suivrai, dans son interprétation, partout où il me semblera que la logique et la grammaire le permettent; toutes les fois que j'adopterai un autre avis que le sien, j'en donnerai les raisons. Je traduirai et discuterai ce commentaire à la suite du texte védique, pour deux raisons: d'abord pour bien établir le sens, parce que, dans une matière souvent aussi obscure, il faut toujours savoir d'abord l'avis des Indiens eux-mêmes; puis parce que ces scolies nous donneront l'occasion de faire connaissance avec〔次ページに続く〕

quelques-unes des habitudes les plus ordinaires d'interprétation des glossateurs. Tout ceux qui ont eu le bonheur de suivre le cours de M. Eugène Burnouf savent quelle importance il attachait à l'explication des commentaires」。我々はこのうちに、Burnouf がその講義において適用した方法を認めてよいであろうが、しかし Sāyaṇa の知識と立場をも詳細な批判にかけることが必要であることを強調しておきたい。Regnier の著作にはすでに1847年、Félix Nève の「Essai sur le Mythe des Ṛibhavas」が先行していた。Nève も Veda において同じく Burnouf の弟子であった。すでに Nève が若干の讃歌の本文のほか Sāyaṇa の注釈をもサンスクリット活字で印刷していたとはいえ、Veda の言語と文法を主として文献学的に厳密に研究したのは Regnier が最初であった。Nève の関心は神話的内容に向けられ、Regnier の関心は文法的形式に向けられていた。Nève は Sāyaṇa についてなお写本を、A. Kuhn の仲介によって用いたが、Regnier は Max Müller の大版の第1巻、さらに Roth の諸論考と Benfey の Sāmaveda を用いた。とりわけ Benfey は Regnier によってしばしば参照されている(S. 97, 140 以下)。これらの Veda 研究の基礎的な著作は、Regnier の著作を、また当時の知識を総括して Veda 神話全体の概観を与える Nève の Essai をも、あまり日の目を見させず、影に置いてしまった。ドイツでは Nève と Regnier はたしかに認められはしたが、あまり注目されなかった。Nève によるその時代の知識の叙述については、我々は後にもう一度立ち返る。しかし Regnier にとっては讃歌全体の解釈が主要事ではなかった。彼は、インドに関わるすべては文献典拠の言語の正確な知識にもとづいて研究されねばならないという見解であった。「Il faut que les premiers pionniers soient les grammairiens et les philologues」(S. 2)。彼の Introduction は言語哲学的な内容を持つ。彼は W. v. Humboldt を称賛している(S. XIV)。彼の研究はとくに、文において、また文の構成において、個々の観念が互いにどのように一つの全体へ結合されているかに向けられていた。このことから彼には Syntax が主要事と思われ、それは当時まだほとんど研究されていなかった(S. VIII)。Regnier はここで Delbrück の先駆者であることを示しており、比較言語学的方向においてもそうである。すなわち彼はラテン語の奪格、ギリシア語の属格において、失われた格の代理機能を認識している(S. 156, 158)。彼はその観察のためにただちに Ṛgveda 全体を基礎に置いたのではなく、まず二つの讃歌に結びつけた。すなわち天と地への I 185(Katarā́ pū́rvā)と、Agni への I 189(Ágne náya supáthā)である。讃歌を彼はその単純さのゆえに選んだ。彼はそれらによって、その言語が十分に「idiome parlé par le peuple」でありえたことを例示しようとしたのである(S. 81 以下)。「Le peuple est comme l'enfant」、両者に共通なのは「juxtaposer au lieu de joindre et de coordonner」である(S. II)。わずかな筆致で彼は、この状態から一方でサンスクリットが、他方で Prākṛt がどのように発展したかを示そうとしている。サンスクリットの精神に入り込むために、彼はとりわけ Manu、Yājñavalkya、Sāyaṇa を研究した(S. IX)。当時としては特徴的な選択である。Veda 語は動詞形に富み、サンスクリットでは複合語と格が文構造を支配する。Regnier はその著作のこの第一部において主として格の統語論を詳細に扱っており、第二部では動詞をも扱ったであろう。しかしまた〔次ページに続く〕

彼の言語哲学的立場から彼に近かった他の事柄にも彼は立ち入っている。すなわち語根名詞、複合語の後分としての形成辞なしの語根等である。彼はまた、一部は Naighaṇṭuka を用いて、個々の難語の意味を確定しようと試みた。jāspati(S. 44)、vṛjana(S. 54, 88)、vayuna(connaissances, œuvres, あるいは voies、S. 64, 85, 88, 135)である。終わり近くで彼は Rosen に続いて第三の讃歌、「Savitri」に向けられた I 35 を与え、それによって言語の文法的分析をさらに追求している。Regnier の文献学的・文法的方向は、Ṛgveda-Prātiśākhya の彼の専門的な校訂と翻訳(Journal Asiatique, 5e Série VII–XII, 1856–1858)にも現れている。それは1859年に別刷りでも出た。彼は Paris の写本を Uvaṭa の注釈とともに用い、それに対して Pertsch が Berlin の二写本の Sūtra の写しと対校を彼に提供した。同じ1856年に Max Müller もこの難解なテキストの校訂を始めたが、しかし完成したのはこちらであり、「Rig-Veda-Pratisakhya, das älteste Lehrbuch der vedischen Phonetik」は Leipzig 1869 になってようやく出た。Weber がその第一部を Lit. Centralblatt で紹介している(Indische Streifen II 93 参照)。この第一部は Regnier の第一部と同じく最初の三 Paṭala のみを含んでいた。Regnier の校訂は editio princeps であったが、M. Müller の校訂がそれを押しのけた。Abel Bergaigne の「Manuel pour étudier la Langue Sanscrite」(Paris 1884)は「A Monsieur Adolphe Regnier」への献辞を掲げ、「que nous appelons notre maître vénéré, parce que ses livres, à défaut de sa parole, ont continué chez nous l'enseignement d'Eugène Burnouf」と記している。

ドイツのサンスクリット教授のうち、F. Stenzler(1807年生)は Burnouf の時代に Paris 図書館の写本を研究するために Paris にいた(Choix de Lettres 98)。Benfey(1809年生)は書簡で Burnouf と連絡をとった。彼はユダヤ人としてドイツで職を得る見込みがないと考え、Burnouf を通じて Paris で職を見いだせることを望んでいた。1841年6月15日付の彼の Mohl 宛書簡を参照(同書 333、328 参照)。彼はそのギリシア語語根辞典によって Prix Volney を受け、この栄誉のおかげで Göttingen の教授職を得たと考えていた。1842年4月30日および1843年5月20日付の Burnouf の Benfey 宛書簡を参照(同書 345, 348)。A. F. Pott もまたこの賞に応募し、1846年にその著書『Die Zigeuner in Europa und in Asien』によってこれを獲得した(同書 351, 365)。Burnouf 自身は1831年にこの賞を、インド字母の転写に関する懸賞論文によって受けたが(同書 503)、それは公刊されなかった(S. 571)。書簡への注——ただし Burnouf 自身に由来するものではない——において、Th. Goldstücker は「l'un des plus fidèles et des plus savants élèves d'Eugène Burnouf」と呼ばれている(Choix de Lettres 347)。Goldstücker の Burnouf との、また Bopp との個人的関係は、1843年3月25日付の Burnouf の Bopp 宛書簡に表れている。Lefmann I 167* を参照。

Burnouf は Veda についてもより大きな著作を書くには至らなかったが、しかし Ṛgveda——彼は Rosen の校訂本によって解釈した——についての多くの聴講者を集めた講義によって、Roth および M. Müller に持続的な影響を及ぼした。とりわけ後者は繰り返し、Sāyaṇa の注釈付き Ṛgveda の校訂を Burnouf に促されたのだと告白している。

Burnouf から Lassen およびドイツのサンスクリット文献学者たちに移る前に、我々はなおフランスのアラビア学者 Reinaud に触れねばならない。彼は、Rémusat と Stanislas Julien が中国の典拠を開拓したのと同じ仕方で、アラビア語およびペルシア語の典拠をインド古代学のために開拓したのである。

§第 XVIII 章〔続〕 J. T. REINAUD

Joseph Toussaint Reinaud(1795年生、1867年没)は、1838年に de Sacy の後任として École des Langues orientales vivantes のアラビア語教授となり、1854年には帝室図書館の東洋写本の Conservator となった。Lassen がしばしば依拠する Reinaud の著作は、「Fragments Arabes et Persans inédits relatifs à l'Inde, antérieurement au XIe Siècle de l'ère Chrétienne」(Paris 1845)と、他の人々にも多く用いられた「Mémoire Géographique, Historique et Scientifique sur l'Inde, antérieurement au milieu du XIe Siècle de l'ère Chrétienne, d'après les écrivains Arabes, Persans et Chinois」(Mémoires de l'Institut National de France, Acad. des Inscr. et Belles-L., Tome XVIII、Add. et Corr. は1848年11月1日付)である。Reinaud は「Mahmūd von Ghazna の時代およびそれ以前に生きたアラビアおよびペルシアの著作家の作品から汲まねばならないインド古代研究のあの部分について、不滅の功績を得た」。Lassen, Ind. Alt. III 615 の言である。Reinaud がその Mémoire で用い、S. 14 以下で論じているムハンマド教徒の報告のうち、最も重要なものは次のとおりである¹⁾。Beladory(892年没)の「Livre des conquêtes des pays」における、アラブ人のインドへの最初の侵入についての章。947年に著された Massoudi の「Moroudj-al-dzeheb ou Prairies d'or」——彼は Indus 地方を旅行していた。10世紀の「Ketab-al-fihrist」のインドについての章。インド生まれの Ferischtah によるペルシア語で書かれたムハンマド教徒の支配の歴史——それは John Briggs の英訳『History of the rise of the Mahomedan power in India』(London 1829)によって利用可能であった。そして1031年に著された Albyrouny の「Chronique de l'Inde」である。最後に挙げた著作はすべてのうちで最も重要である。あらゆる学問、とくに哲学と天文学に通じたアラビアの学者 Alberuni は Mahmūd von Ghazna とともにインドに来、Mathurā および Kanyākubja にまで達したとされ、長年インドに住んだ。ムハンマド教徒のインドについての報告を総括してインド学に導き入れた Reinaud 個人の功績は、彼が主として写本から汲まねばならなかっただけに、いっそう大きく見える。問題となる著作の一部は後に Bibliotheca Indica に刊行された。「Alberuni's India」を刊行し(1885–86)、英訳によって一般に利用可能にした功績は、Eduard Sachau に帰する。翻訳はまず〔次ページに続く〕Oriental Translation Fund の刊行物として出た。

原注

¹⁾ 名前は Reinaud における綴りのままに挙げてある。アラビア学者たちは現在なら次のように書くであろう。Belāḏorī, Murūǧ aḏ-ḏahab, Masʿūdī, Kitāb al-fihrist, Firišta, al-Bīrūnī, Maḥmūd von Ġazna, Abu 'l-Fazl ʿAllāmī, Aʾīn i Akbarī, Nāma, Firdōsī, al-Manṣūr, Hārūn ar-Rašīd, Tāʾrīḫ al-ḥukamāʾ, Balōčen, Afġānistān, Puštū.(Prof. Stumme による)

London 1888 に出、London 1910 に再版された。Sachau の著作はもっと大きな反響を呼んだであろう——もし彼自身が言うように、彼に先立って既に「the famous publication of Reinaud, the Mémoire géographique, historique et scientifique sur l'Inde, Paris 1849」が Alberuni の India から最も重要なものを与えていなかったならば。Reinaud はとくに Alberuni に依拠した。彼と Mahmūd von Ghazna から数世紀後に、偉大な皇帝 Akbar が現れる。彼はその寛容と広い心において Aśoka に比しうる。Akbar の宰相は Abul Fazl ʿAllami であり、その「Aʾīn i Akbarī」は彼のペルシア語で書かれた大著「Akbar-Nāmah」の第3部をなす。すなわち全著作の第1部はインドにおける Akbar の先行者たちの歴史を、第2部は Akbar 自身の治世を含み、第3部は「contains the dīn (i. e., mode of governing) of Akbar, and is, in fact, the Administration Report and Statistical Return of his government, as it was about 1590 A. D.」(Blochmann)である。「Aʾīn i Akbarī」を、また「Akbar-Nāmah」の他の二部をも、H. Blochmann が Bibliotheca Indica に刊行した。翻訳の第I巻は(Calcutta)1873年の年号を持つ。しかし Blochmann 以前にすでに「Ayeen Akberi」は多く用いられていた。Tieffenthaler、Robertson、Heeren、Lassen によって、70年前に出た Francis Gladwin の校訂と翻訳(London 1800)においてである。この二つのムハンマド教徒の主要著作は、それぞれ独自の意義を持つ。Aʾīn i Akbarī においては一人の政治家が宮廷生活、統治機構、実際的生活を描いており、Alberuni の著作においては一人の学者が、彼がインドに見いだした学問の状態について語っている。

Reinaud はその抄録を見通しよくすることにはほとんど意を用いていない。内容一覧と索引は欠けており、Première Partie「Faits Géographiques et Historiques」は Section I「Depuis la première origine des choses jusqu'à l'invasion d'Alexandre le Grand」(S. 38)、Section II「Depuis l'invasion d'Alexandre le Grand jusqu'à l'arrivée des Arabes dans la vallée de l'Indus」(S. 67)、Section III「Depuis l'arrivée des Arabes dans la vallée de l'Indus jusqu'au milieu du XIe siècle de l'ère chrétienne」(S. 169)からなる。Deuxième Partie は「Doctrines Scientifiques des Indiens, et leur introduction chez les Arabes et les peuples de l'Occident」という表題を持つ(S. 297)。より長い連関のうちに叙述されているのはムハンマド教徒の征服のみである(S. 169 以下)。その他はすべて、緩やかに相連なる個々の記事の集積である。より古い時代からは、Reinaud は伝説的な王たちを別とすれば、Kaniṣka と Harṣa のみをより詳しく扱っており、後者(S. 136 以下)はおそらく初めてのことである。St. Julien が Harṣa についての玄奘の報告の最も重要な箇所を彼のために訳したのである。Kaniṣka について彼は S. 74 以下に Alberuni、Fa-hian、玄奘の記述をまとめている。中国の典拠を彼は主として Rémusat の Fa-hian 版から知っていた。Kaniṣka に関連して Yue-tchi が言及され(S. 81)、さらに貨幣から知られるインド・スキタイの王「Gondopharès」がその Thomas 伝説との関係において言及されている(S. 95)。Reinaud の著作の主題と密接に関連するのがインドへの道である。一つは Kabul 川の谷に沿って Attok を越える道、他の二つはその南で Indus に至る道である。すでにしばしば引用される Rennell がこれらの道を記述していた。Reinaud は Canoje および Palibothra にまで達した Fa-hian の旅程を追跡し、それに玄奘および Alberuni の〔次ページに続く〕

諸国・諸都市に関する記述を結びつけている(「Peichaver」は Puruṣapura から、Takṣaśila は「Takṣita-śiras」から、S. 106 以下、274 以下参照)。Varāhamihira の Bṛhatsaṃhitā に見いだされる地名は、Alberuni の時代には大部分もはや使われていなかった(S. 117)。Bṛhatsaṃhitā の Adhy. 58 からは、神像の寸法に関する Alberuni の記述も由来しており、Reinaud はそれを S. 119 以下に伝えている。より自らの観察にもとづくと思われるのは、Alberuni が聖なる池について述べていることである(S. 286)。Reinaud はそれに、他のアラビア人著作家のもとに見いだした、インドの神殿について、仏陀と仏像について、太陽と月の崇拝について、またムスリムのもとに落ちたヒンドゥーが受けねばならなかった浄化の儀式について、付け加えている。

Alberuni は北インドにおける一つの紀元について語っており、それは Śaka 紀元241年、すなわち西暦319年に始まるという。これは「Gopta」の紀元であったが、しかし Guzarate の、Balabhī 市における「Balabha」の紀元でもあった。この紀元をまず一般の知識にもたらしたのは Tod の「Annals and Antiquities of Rajasthan」であるという(S. 103 以下)。彼の典拠の性格上、Reinaud はしばしば Malva と Magadha について、Canoje と Cachemire について論じている。玄奘は MālavaMagadha を二つの主要な「foyers littéraires」と呼んでいる(S. 143)。この中国人巡礼が628年から645年にインドを旅したとき、Sind には「Tchotch」なる王が、Canoje には Śilāditya が支配していた(S. 146 以下)。Canoje は Mahmūd von Ghazna の時代にはかつての姿の影にすぎなかった(S. 188, 263、S. 136, 142 参照)。王 Harṣa の時代には Canoje においてバラモンと仏教徒がほぼ同等の勢力を持っていた(S. 143)。Alberuni は、インドの諸学問がムハンマド教徒の残虐のゆえに CachemireBenares に逃れたと報じている(S. 280)。Reinaud は S. 96 にインドの宗教的発展についての彼の見解を述べているが、その際彼はごく早く Brahmā、Śiva、Viṣṇu に至る。Veda の神々についてはほとんど語られない。6世紀には Zoroaster と仏陀が現れたとされ、彼はこの両者をある種の並行関係に置いている。Alberuni が報じている Moultan その他の地の古い神殿における Sūrya 崇拝(S. 248, 292 参照)を、Reinaud はペルシアの影響に帰する傾向にある。すでに Jones と同様、Reinaud は S. 134 で、インド人が誇りうる三つのもの、「les fables de Pidpaï, le jeu d'échecs et la numération décimale」を挙げている。「Cosroès Nouschirevan」のもとで Pilpaï あるいは Pidpaï の寓話——アラブ人によって「Kalila et Dimna」と題された——がペルシアに導入された(S. 127 以下)。それについての Firdusi の説話的な報告を彼は S. 130 に伝えている。彼は Silvestre de Sacy の Pidpai 寓話集の校訂本、Colebrooke と Wilson の Pañcatantra についての報告、また Kosegarten の校訂本——それはまさに刊行されようとしていた——にも言及している。Silvestre de Sacy に反して彼は、アラビアの説話集「Mille et une Nuits」もまたインドの基盤と形式から成長したという A. W. v. Schlegel、Loiseleur Deslongchamps、Gildemeister の見解に与している。彼が知っている寓話作品には「Vikrama-charitram」——伝説的な王 Vikramāditya の生涯——も属し、そのヒンドゥスターニー語版は「Singhasan-battisi, ou le trône enchanté」である(S. 113)。インドにおけるチェスの起源については、Firdusi、Massoudi らに従って彼は S. 131 以下で論じている。Reinaud は繰り返し、インドがペルシアおよびアラビアと「ほとんど常に」保っていた海上交易を強調している(S. 309)。ギリシアおよび〔次ページに続く〕

インドの諸学問について、イスラームの最初の時代のアラブ人はきわめて不完全な観念しか持っていなかった。これは西暦770年頃、Almansour のもとでの Bagdad の建設後に変わった(S. 311)。その著作の最後の主要部において Reinaud は諸学問、とくに天文学について論じている。Alberuni は、Malva で通用している字母が「nākara」、別のものが「arda-nākarī」(すなわち ardha-nāgarī)と呼ばれること、またアラブ人が数字をインド人から借用したことを述べている(S. 298 以下)。彼はまた、インド人が数を語によっても表す習慣があったことにも言及している。次いで写本の材料についての所見が続く(S. 305)。医学文献について Reinaud が知っていたのは、Suśruta の校訂本(Calcutta 1835 以下)と Hessler の「いわゆる翻訳」(Weber, Akad. Vorles.² 286)である Suśruta 訳(Erlangen 1844 以下)、さらに Wise の案内的な著作『Commentary on the Hindu system of medicine』(Calcutta 1845)である。彼に知られていた学術文献を彼はとくに S. 315, 317 に挙げている。Alberuni によれば Caraka-Saṃhitā が、Kitab-al-fihrist によれば Haroun-al-Raschid のもとで Suśruta がアラビア語に訳された。学問そのものにより深く立ち入っているのは天文学のみであり、それは Alberuni がここでとくに多く報じているからである。

「Tarykh-al-Hokamā」によれば、773年に「Sindhind の方法」すなわち Siddhānta を所有する一人のインド人が Bagdad に現れ、Alberuni によれば Sindhind が775年にアラビア語に訳されたという(S. 312 以下)。Alberuni はインド人の五つの Siddhānta について、Sūrya-Siddhānta を筆頭として報じており、Reinaud はそれを「le traité fondamental de l'astronomie indienne」と呼んでいる(S. 331 以下)。Alberuni は Pauliśa と Brahmagupta の Siddhānta しか手に入れることができなかったが(S. 334)、しかし彼は Varāhamihira の Pañcasiddhāntikā——彼の時代の526年前、すなわち西暦504年に成立した——を知っていた(S. 337)。Āryabhaṭa その他インド天文学の権威をも Alberuni は言及しているが、しかしとくに彼は Varāhamihira の Saṃhitā を用いている(S. 337)。教説そのものについて言えば、Massoudi は「précession des équinoxes」および「mouvement de l'apogée du soleil」と呼ばれる現象について報じており(S. 324 以下)、Alberuni はインド人の世界像(七つの大地が重なり、七つの天が重なる、等)について、またそれと関連して Laṅkā 島について(S. 338 以下)、太陽年と太陰年——後者は tithi と呼ばれる太陰日を伴う——について、月宿(nakṣatra、もともと28であったが10世紀に一つが抑えられた〔原文ママ〕、S. 355)について、黄道十二宮とそのギリシア起源について(S. 352 以下)、Laṅkā と Ujjayinī の子午線(Ozein, Azin, Arin)について(S. 368 以下)報じている。Reinaud が書いていた頃、その少し前に Biot が Journal des Savants(1839, 1840, 1845)に nakṣatra についての諸論考——その故郷を彼は中国と見なした——を発表し(S. 355)、また Whish が Transactions der Asiatic Society of Madras 第I巻に Varāhamihira の Hora-Śāstram についての論考を発表していた(S. 362)。

§第 XIX 章 CHR. LASSEN

我々の学問の歴史を諸時期に分けようとするならば、Lassen の『インド古代学(Indische Altertumskunde)』を第一の時期の締めくくりと見なしてよいであろう。それは、著者が〔次ページに続く〕

その時代の学問の最高水準に立って、当時存在したインドについての知識を広範な完全性をもって総括したという、ただそれだけの理由からでもよい。とりわけ中間期のインドがますます知られるようになっていたのに対し、Veda 時代と最古の仏教はまだ十分にその権利を得ていなかった。

Christian Lassen は1800年10月22日にノルウェーの Bergen に生まれ、1876年5月8日に Bonn の古代インド語・文学教授として没した。すでに1826年に Schlegel は彼にサンスクリットの授業を代講させており、それについて Burnouf は1826年5月23日付の書簡で祝意を述べている。1830年に彼は員外教授、1840年に正教授となった。我々はすでに彼を、August Wilhelm v. Schlegel の才能ある弟子として、Bopp のサンスクリット文法の文献学的批判者として、Eugène Burnouf の Essai sur le Pāli 刊行における協力者として、また Prinsep の発見にただちに自ら参加した数少ないヨーロッパの学者の一人として知っている。A. W. v. Schlegel との彼の関係は、いまや W. Kirfel が刊行した両者の往復書簡(Bonn 1914)によって明らかにされている。この往復書簡は主として1824年および1825年、Lassen が Schlegel の Rāmāyaṇa 版のために写本を筆写あるいは対校すべく London と Paris にいた時期に由来する。Schlegel は彼をしっかりと仕事につなぎとめたが、しかし彼を援助もし、最終的に教授職を得させもした。Lassen はこの仕事についてときに不満であったが、しかし常に従い、Schlegel に対して終生感謝の念を持ち続けた¹⁾。その従属的な立場においては、純粋な学者気質である彼にはある種の抑制が求められたのに対し、Schlegel はここでもその主人的な性格、鋭い判断、そして虚栄心を隠さない。しかし Lassen が London と Paris で自らの仕事のためにも資料を集めることができたことは、同じく Schlegel 宛の書簡と後の彼の公刊物から明らかである。1825年の Paris 滞在中、彼もまた Chézy と接触し、Chézy は彼に対して不親切ではなく、また彼は Eugène Burnouf との友情を結んだ。彼の最初の文筆上の業績は、Burnouf と共同での Essai sur le Pali(Paris 1826)であった。その後 Lassen と Burnouf を主として結びつけたのは Zend と古代ペルシア碑文であり、それは Burnouf の書簡が示すとおりである。Schlegel を訪ねた Bonn からの1834年9月6日付の妻宛書簡において、Burnouf は彼を次のように描いている。「Lassen, qui a perdu ses cheveux, à peu près comme Mohl, et qui a maigri, est un excellent homme, d'une science merveilleuse, et d'une grande simplicité」(Choix de Lettres S. 174)²⁾。サンスクリット文献学者としては彼は Schlegel の影響下にあった。それは彼が学位を得た「Commentatio geographica et historica de Pentapotamia〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ Lassen の性格を物語るのは、彼が Schlegel の Rāmāyaṇa の書評において自らの寄与を暗示する慎み深い仕方である。「Bengal 伝本のこのきわめて正確な特徴づけ——評者は Rām. の写本との長年の取り組みの後、これに全面的に同意する——の後には、注釈付き伝本が優れており、Schlegel 氏が行ったように本文の作成の基礎に置かれるべきであったことについて、疑いはありえない」。Ztschr. f. d. K. d. M. III 318。

²⁾ 1845年に Lassen は、彼が刊行していた Zeitschrift f. d. Kunde des Morgenlands 第6巻 S. 1 以下に、大論考「Die Altpersischen Inschriften nach Hrn. N. L. Westergaards Mittheilungen」を発表し、そこでこのデンマークの学者の功績を最大限に認めている。

Indica」(Bonn 1827)についても言える。同様の性格のものが後の Lassen の「Dissertatio de insula Taprobane veteribus cognita」(Bonn 1842)であり、また E. A. Schwanbeck の著作「Megasthenis Indica」(Bonn 1846)である。後者は Indica の断片の収集と、そこに含まれる歴史的・地理的情報、Sandrocottus と Pāṭaliputra についての情報によって、今日なお不可欠である。Schlegel と共同で Lassen は「Hitopadesas id est Institutio salutaris」を刊行した(Bonn 1829, 1831。本文と注釈を含む)。いくらか新しかったのは、すでに言及した Sāṃkhyakārikā の校訂と翻訳であり、「Gymnosophista sive Indicae Philosophiae Documenta」という総題のもとに出た(Bonn 1832)。Sāṃkhya 体系には Manu の法典と Purāṇa によって学者たちの注意が向けられていた。彼の写本研究を彼は同じ年に、続編の出なかった刊行物「Malatimadhavae fabulae actus primus」(Bonn 1832)に活用した。インドの詩に対するロマン主義的関心に対応するのが、すでに Jones の翻訳によって知られていた「Gita Govinda, Jayadevae poetae Indici drama lyricum」(Bonn 1836)の彼の校訂であり、London の写本と土着の注釈にもとづき、ラテン語訳を伴う。これに接続して1837年に Rückert がそのドイツ語訳を Zeitschrift für die Kunde des Morgenlandes 第I巻 S. 129 以下に発表した。西暦12世紀に由来するにすぎないとはいえ、Gītagovinda はその性格上、戯曲の起源に関する理論において一定の役割を演じた。Lassen はそれを drama lyricum と呼び、戯曲はより古い時代のこのような歌劇から発展したという見解であった。次いで彼の Institutiones linguae pracriticae(Bonn 1837)が出た。ここで彼は Vararuci の Prākṛtaprakāśa の大部分を公刊し、それによって Prākṛt 研究に初めて確固たる基礎を与えた。疑いなく Lassen はこの研究に Essai sur le Pāli から到達したのである。貨幣の発見と Prinsep の解読に促されて、翌1838年に彼の著書『Zur Geschichte der Griechischen und Indoskythischen Könige』が出た。これは上述のラテン語の学位論文と同様、インド古代学への予備研究と見なしてよい。サンスクリット学習のためのきわめて有用な補助手段を、彼はその「Anthologia Sanscritica glossario instructa」(Bonn 1838)によって作り出した。彼がいかに新しいものをもたらそうと努めたかは、テキストの選択から明らかである。より小さなテキストのほか、彼はここで London の写本から Vetālapañcaviṃśati の枠物語と最初の五つの寓話、および Śukasaptati の冒頭を、また Paris の写本から戯曲 Dhūrtasamāgama を与えている。後者に Lassen は、Wilson のインド戯曲についての著作が出る前からすでに注意を向けていた。1828年6月2日付の Burnouf の Lassen 宛書簡を参照。J. Gildemeister が1865年に Anthologia の第2版を作成したとき、彼はこの戯曲を、とりわけ Saṃkṣepa-Śaṅkaravijaya の一節——Kumārila の煽動によって行われたとされるインドにおける Bauddha の絶滅を扱う——で置き換えた。今日ではこの対象への関心は薄れている。というのも、そのような暴力的な絶滅はもはや史実とは見なされていないからである。1846年に Lassen は Schlegel の Bhagavadgītā の第2版を作成した。これらすべてのテキストについて、彼はすでに Schlegel との往復書簡で語っている。

Lassen の活動のこの第一期には、主として Ewald の発意による『Zeitschrift für die Kunde des Morgenlandes』の創刊が属する。その第1分冊は Göttingen 1837 に出、Ewald、v. d. Gabelentz、Kosegarten、Lassen、Neumann、Rödiger、Rückert が編集した。第IV巻からは Lassen が唯一の編者となった(Bonn 1842)。第VII巻(Bonn 1850)をもってそれは終刊した。それに代わったのが『Zeitschrift der deutschen Morgenländischen Gesellschaft』であり、その第I巻は1847年に出た。狭義のサンスクリット文献学の歴史にとってとくに重要な論考は、この7巻のうちには見いだされない。A. W. v. Schlegel は第I巻 S. 354 以下に論考「Über die Sternbilder des Thierkreises im alten Indien」を発表し、そこで Letronne の論考「Sur l'origine grecque des zodiaques prétendus égyptiens」を論駁し、黄道十二宮のインド起源を主張している。それは彼のラテン語の演説によって補完され、それを Lassen が第III巻 S. 369 以下に転載している。Lassen 自身のものとしては「Beiträge zur Kunde des indischen Alterthums aus dem Mahâbhârata」が数巻にわたって続き、第IV・V巻では「Untersuchungen über die ethnographische Stellung der Völker im Westen Indiens」となっている(とくに Baluchi とその言語、Brahui とその言語について)。これらの研究と、ここに発表された Lassen の他の仕事、貨幣・碑文についてのものは、「インド古代学」への予備研究と見なしてよい。H. Ewald もこの雑誌でインドの領域において活動した。彼はここで II (1839) 285 以下でアフガン語すなわち Puschtu を研究し、いずれにせよそれをセム語とは見なさなかった。またこの言語に彼はもう一度、B. Dorn の論考「Über das Puschtu oder die Sprache der Afghanen」(Petersburg 1840、K. Russ. Ak. d. W.)の書評(V 437)において立ち返っている。アフガニスタンはすでにインドの古代史において重要であった。アフガニスタンの古代遺物と貨幣は Wilson の著書『Ariana Antiqua』の内容をなす。サンスクリット研究への新たな刺激を Ewald は Tübingen 滞在中に見いだした。彼は最初の報告「Über die Indischen Handschriften der Universitäts-Bibliothek zu Tübingen」を与えた。それは Bengal 文字によるサンスクリット写本の小収集で、宣教師にして英国国教会長老の Dr. J. Häberlin(Tuttlingen 生まれ)がそこに寄贈したものである(III 298 以下)。Ewald はこれらの写本をいくつかの小さな仕事に利用し、それらはこの雑誌に発表された。「Kālidāsas Çrutabodha」(K. に帰される小さな韻律書)IV 57 以下、「Das indische Gedicht vom Vogel Tschātaka」IV 366、「Das Bhâgavata Purâna nach Burnoufs Ausgabe und der Tübinger Handschrift」V 220 以下である。二次的典拠にのみもとづくとはいえ、インドの近代史の重要な現象についての情趣ある概観を与えているのが、Carl Friedrich Neumann の論考「Die Religion und der Staat der Sikh」V (1844) 1–48 である。この宗教の創始者 Nānak は西暦1469年に Lahore 近くの村に生まれた。その後、もう一人の München の教授 Ernst Trumpp——長らくインドで宣教師として活動し、Gurmukhī および Sindhī の見事な知識(「Grammar of the Sindhi Language」、London 1872)を身につけていた——が、Sikh の聖典 Ādi Granth を英訳し(London 1877)、また典拠にもとづいて Sikh の宗教のその歴史的発展における簡潔な概観を〔次ページに続く〕

その小著『Die Religion der Sikhs』(Leipzig 1881)に与えた。来たるべき時代の男たちの何人かが、Lassen の庇護のもと、ここで小さな仕事をもって登場した。たとえば Gildemeister はその論文「Zur Theorie des Çloka」(VII 260 以下)をもって、Goldstücker はその論考「Über die einleitenden Verse des Amarakosha」(VII 167 以下)をもって、A. Weber はその「Bemerkungen über den Taittirīya-Veda」(VII 244)をもって——そこで Weber はヨーロッパの図書館に存する「Taittirīya-Veda」の写本について報告し、Taittirīya-Brāhmaṇa から nakṣatra を扱う一節 III 1, 1, 1–15 を伝えている。Lassen の雑誌のこの同じ最終巻 VII 83 以下には、Lassen の委嘱によって作成された報告「Über die Leistungen des Hrn. Dr. Roth auf dem Gebiete der ältesten Sanskrit-Litteratur」が A. Schleicher——当時 Bonn の私講師——によって寄せられている。それは Roth の四つの論考に関わり、そのうち三つを Roth は「Zur Litteratur und Geschichte des Weda」(Stuttgart 1846)という表題で一書にまとめ、第四のものを Zeller の Theologische Jahrbücher 1846年 S. 346 以下に発表していた。すでに Schleicher は「Roth の諸論考が Veda についての我々の知識の歴史において新しい時代を画するものである」と述べている。惜しまれるのは、第四のもの、すなわち Veda 神話の最初の叙述が、この書に収められなかったことである。当時の他のいくつかの重要な著作についても、我々は Lassen の雑誌に書評を見いだす。Böhtlingk の Pāṇini 校訂本と Westergaard の Radices linguae Sanscritae について IV 253 以下、E. Nève の「Essai sur le Mythe des Ribhavas」について VII 353——この三著は Lassen による書評——、また Max Müller の Hitopadeśa の翻訳について N. Delius による書評がある。

§第 XX 章 BENFEY の「INDIEN」

Lassen がもはや雑誌の刊行を続ける気がなくなったことは理解できる。というのも彼の力はますますその主著『インド古代学』に奪われていったからである。しかしそれに向かう前に、我々は Th. Benfey の356の二段組ページに及ぶ項目「Indien」を歴史的考察に組み入れねばならない。それは1840年、J. S. Ersch と J. G. Gruber の『Allgemeine Encyklopädie der Wissenschaften und Künste』に出た。

時期的にも事柄の上でも、Benfey の項目「Indien」は1830年に出た v. Bohlen の著書『Das alte Indien』と、その第1巻が1847年に出た Lassen の『インド古代学』との中間に位置する。v. Bohlen の著作は Benfey にとって目に見えて有益であり、Benfey はしばしば v. Bohlen に言及しているが、Lassen が Benfey に言及することはより稀である。v. Bohlen も Benfey も、この膨大な素材を総括的叙述に加工したときには、まだかなり若い研究者であった。Benfey は語源において表れる彼の言語学と、文化史的連関についての研究とを持ち込んだ。より新しい権威には初めのうちはほとんど出会わない。彼はすでに Lassen のより古い諸論考を用いていた。地理的状況には彼は同定の個々の問題においてのみ立ち入り、より多く民族誌的状況、Ārya 系と〔次ページに続く〕

非 Ārya 系住民の相違に立ち入っている。ārya が「崇敬に値する者」を意味し語根 arh に由来するということ(S. 2)、viś——第三カーストの呼称——が語源的に「人間」を意味するということ(S. 3)、kṣattra が「戦車射手」を意味するということ(S. 33)は、Benfey の誤った語源に属する。後に(S. 214)彼は kṣattra を W. kṣi「支配する」およびギリシア語 κτάομαι と結びつけたが、これも確実ではない。インドにおける Ārya 人の拡大について彼は、Manu II 18 以下の有名な箇所から出発している(S. 15 以下)。彼が当時、Ārya 系インド人は Indus の方から侵入したのではなく、その最初の居住地が Yamunā と Sarasvatī の間にあったと想定したとすれば(S. 15)、そのような想定は Ṛgveda についての完全な無知においてのみ可能であった¹⁾。Rosen の第1 Aṣṭaka の校訂本さえ彼には利用できなかった(S. 161, Anm. 13)。Veda 文献からの情報のこの欠如は、著作全体の大きな欠陥であり、それは彼のインド史の叙述にも顕著に現れる。Benfey はそれを三つの大きな時期に分ける。第一期「揺るがぬ独立。Alexander 大王の侵入までのインド」(S. 24)、第二期「その独立をめぐる闘争におけるインド。Alexander 大王の侵入(前327年)から Ghaznevid の Mahmud I の侵入(後1001年)まで」(S. 43)、第三期「次第に外国の支配に完全に服属したインド。外国支配の度重なる交替。1000年から現代まで」(S. 124–158)である。インドの最古の文献から得られうる情報の代わりに、我々は第一期において、Semiramis のインド遠征、Salomo 王のもとでの Ophir とのフェニキア・ユダヤの通商、仏陀の没年、Darius が命じた Indus の流路探査の遠征、サンスクリットとは異なる民衆語の古さについての論議を見いだす。この最後の問題において彼は Aśoka の勅令の言語と、仏教文献の Māgadhī に依拠している。「民衆語としてのサンスクリットの盛期」(S. 43)を彼は前800–700年頃と想定している。仏陀の時代についての記述は確固たる歴史的基礎を持たないが、しかし彼は懐疑において「まったくもって一人の宗教創始者、Çākyamuni の人格性を疑う」ところまでは行かない(S. 37)。Benfey は Turnour の Mahāvaṃso を用いた。訂正されない Ceylon の計算によれば、仏陀の死は前543年になる。Benfey は Turnour と同様(上記 S. 118 参照)、この計算に69年ないし70年の誤りを認め、仏陀の没年として前468年ないし467年に至った(S. 36)。第二期において Benfey はまず、前327年の Alexander 大王の遠征とその帰結を、ギリシア・ラテンの典拠に従い、Droysen の『Geschichte Alexanders des Großen』その他の著作を用いて詳細に語っている。しかし彼はこの出来事以前のインドの歴史にも Kaliyuga の始まりから目を向け、それをムハンマド教徒の征服まで、彼にできる限りで続けている。大部分について彼は二次的典拠に依拠せざるをえなかった。Rājataraṅgiṇī を彼はまだ見ていなかった(S. 83 Anm. 48)。また王朝とその名前についても、彼はなお Wilford の信頼できない諸論考と Fr. Hamilton の「Genealogies of the Hindus」(Edinburgh 1819)から取らざるをえなかった。Aśoka 碑文についての Prinsep の諸論考——彼はすでにそれ以前の1839年に Göttingische Gelehrte Anzeigen で書評していた(S. 78 Anm. 75)——を彼は知っていた。同様に〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ Benfey は後にその見解を変えた。Muir, Original Sanskrit Texts II² 335 参照。

彼は他の重要な碑文と貨幣についても知っており、貨幣についてはとくに C. L. Grotefend の著書『Die Münzen der griechischen usw. Könige von Baktrien und den Ländern am Indus』を用いた。歴史家と文献学者にとってインド史の重点はこの第二期にある。1840年以来、インド史の文献的典拠は容易に入手できるようになり、新しい発見も加わったので、今日の立場から見て Benfey の叙述が古びて不完全に見えるのは当然である。むしろ驚くべきは、Benfey が主要な事柄についてすでにこれほど多くを提示していることである。Kaliyuga の初めの疑わしい Magadha の王たちに続いて、仏陀の時代の王 Bimbisāra、Ajātaśatru、Nanda 家、Maurya 家、その宰相 Cāṇakya を伴う Candragupta、Antiochos Theos の同時代人である Aśoka(S. 71)である。Benfey が扱っている Aśoka 勅令の本文はなお多くの箇所で誤読されている。しかし Aśoka の意義、Kaschmir をも含むその王国の範囲、彼の仏教への改宗、彼の治世下に開かれた第三結集、Aśoka の子 Kaschmir の Jaloka、仏教とバラモン教との交替、Śuṅga 王朝が始まる将軍 Puṣpamitra に至るまでの後期 Maurya——これらすべてを我々はそこに論じられているのを見いだす。北西から侵入した征服者、バクトリア・ギリシア・インド・スキタイの王たちの歴史においては、Benfey の叙述は1841年に出た Wilson の著作 Ariana Antiqua(上記 S. 113 参照)と接する。両著作は同時に書かれており、それゆえ互いに独立である。Wilson は貨幣により通じており、その叙述はより詳細で確実である。しかし Benfey においても早くから知られていた名前が現れる。Demetrius と Eukratides、Agathokles と Pantaleon、Menandros(S. 79)——彼をまだ Milinda(S. 85)と同定してはいないようである——、Vonones、Azes と Azilises、Kadphises、Kanerki と「Ooerki」(S. 84)などである。彼自身の推測として付け加えたものにおいて、Benfey は必ずしも幸運ではなかった。彼は Grotefend とともに複数の Azes を想定したのみならず(S. 82)、複数の Kanerki をも想定した(S. 84)。Śaka、Turuṣka、Skythen、「Yue-tchi」という民族名は厳密に区別しえず、それらはタタール系の遊牧民族を指す。「Szu あるいは Sai, Se」が中国語形、Śaka が同一のスキタイ語の語のインド語形であるように(S. 81)、Kaschmir 年代記の Huṣka、Juṣka、Kaniṣka という名のうち、インド語の Juṣka は中国語の種族名「Yue-tchi」に等しく、同様に Kaniṣka あるいは Kanerki も種族名であるという(S. 84)。恣意的なのはまた S. 78 の Dāmodara と Demetrios の同一視であり、同様に S. 62 の Maurya の語源——彼はそれを skr. maru「砂漠」と結びつけようとした——である。Pāli 語 thera を skr. sthairya と同一視すること(S. 72, 204)も誤りであった。Śaka の敵 Malva の Vikramāditya(S. 82)と、その敵対者である Dekkhan の Sālivāhana(S. 93)、すなわち「前56年」および「後78年」の紀元の創始者(S. 93)について、彼はどう扱ってよいか分からなかった。土着の王朝としては、Śuṅga に Kaṇva が、これに Andhra が続いた(S. 86)。彼はその名前を彼の底本に従って挙げ、同様に Haihaya(S. 98)、Kṣatrapa(S. 100)、Gupta(S. 107)、Cālukya(S. 110)、Valabhī(S. 111)の名を挙げている。有名な Rudradāman の碑文については彼はやや長く留まっている(S. 101)。これらの王朝の間に彼は、Plinius のインドについての記述と Ptolemaeus の地理的記述、さらに〔次ページに続く〕

中国人巡礼 Fa Hian の報告を挿入している。Rémusat のこの報告の校訂本において、彼はさらに重要な玄奘の報告からの抄録をも利用しえた(S. 114 以下)。彼はまた、Sindh の主となったバラモン「Chach」の伝奇的な物語をも語っている(S. 120)。彼がこの時期に言及する最後の土着王朝は Pāla と Rāṣṭrakūṭa である。

第三期は S. 124 で Mahmud von Ghazna の遠征をもって始まり、ムハンマド教徒の、そして最終的にはイギリス人のインド支配を含む。このような最新の歴史の概説は、Lassen の『インド古代学』には見いだされない。Reinaud の Mémoire sur l'Inde はまだ出ていなかった。さまざまな個別著作のほか、Benfey はムハンマド教徒の典拠としてはとくに John Briggs による Ferishta の翻訳を、イギリス時代については Mill の History of British India を用いた。この時期の初めにはなおいくつかのインドの王朝が入り、それについては碑文も問題となる。Bengal の Vaidya、Dekkhan の Rājput 王朝 Śilāhāra、「Caulukya」(Aṇhilvāḍ の)、そして最後に Mālava の Paramāra であり、その筆頭に彼は Bhojadeva を置いている(S. 126 以下)。

文化、あるいは「インドにおける人間生活の諸要素の形成と形式」については、S. 158 の 5) においてまず宗教が扱われ、主として「バラモン教」と仏教である(S. 194 以下)。これらの節の主要な欠陥は、Benfey が当時 Veda も古仏教文献も自らの研究からは知らなかったことにある。Rosen の Ṛgveda 第1 Aṣṭaka の校訂本はたしかに出ていたが、彼にはそれも、Rammohun Roy の若干の Upaniṣad の校訂本(S. 161 Anm. 13)も、当時すでに出ていた他の多くの著作(たとえば Moore の Hindu Pantheon、S. 169 Anm. 37)も利用できなかった。Veda の神々のうち Varuṇa の崇高な姿はまったく欠けている。主要な典拠は彼にとって Veda についての Colebrooke の論考であった。ここと、他のいくつかの二次的著作(そのうちには v. Bohlen の著作と Dubois の Moeurs, Institutions, Cérémonies des peuples de l'Inde)に見いだしたものを、彼はその考察の仕方において興味深く叙述している。それには Zendavesta の宗教との比較も属するが、これも彼には不完全にしか知られていなかった(S. 166 Anm. 21)。他方彼は、Stern と共同で刊行した著作『Über die Monatsnamen einiger alten Völker』と、彼のギリシア語語根辞典をほとんど過度に引用している。Benfey は語源において同時代人より優れていると信じていたが、しかし神名についての彼の語源的解釈は、音韻関係の面からも意味の面からも推奨できない。バラモン教についても仏教についても、彼は Bochinger の『La vie contemplative, ascétique et monastique chez les Indous et chez les peuples buddhistes』(Straßburg 1831。S. 184 Anm. 31)を用いたが、仏教についてはとくに Hodgson と Turnour の諸論考を用いた。Pāli 語 Tipiṭaka のテキストを知る者は、彼が S. 196 以下で詳細に叙述している「Swabhāwikās」が立てた体系が、仏教の最古の形にとくに近いということを、到底認めることはできないであろう。

「Jaina 教」について言えば、彼はそれが「仏教が退廃の状態にあった時代に、仏教から生じ出た」ことを蓋然的と考えていた(S. 206)。ムハンマド教の影響のもとに成立した Sikh の教えを彼は Henry Prinsep の著書『Origin of the Sikh Power in the Punjab』から知り、他の諸派については Wilson の「Sketch of the Religious Sects of the Hindus」に従った(S. 207 以下)。

「6) 国家と法」の項(S. 213 以下)には、カースト関係、王の統治、インド法の内容が、主として Manu と Dubois に従い、ところどころ他の典拠からの記述と近代の状況への考慮をも交えて叙述されている。国家官職の称号については、すでにより古い時代から Rājataraṅgiṇī の箇所と Pāla 王 Devapāladeva の碑文が知られていた(Kielhorn, Epigraphia Ind. V Nr. 635 への Appendix 参照)。S. 227。神明裁判(S. 230)も古くからとくに強調されてきた。S. 238 では彼はイギリスの裁判の基礎について論じている。

「7) 性格、風習、慣習、衣服等」という短い節——そこで彼はインド人の性格について好意的な像を描いている——の後に、より重要な節「8) 言葉と文字における精神的発展。言語と文学、芸術等」が続く(S. 245 以下)。Benfey はここでもう一度言語問題に立ち返る。彼の見解によれば(S. 248)、サンスクリットはおよそ前9世紀まで支配的な民衆語として、Vorderindien 全体に Mahratta 地方の南境まで広まっていた¹⁾。9世紀から死滅し始め、娘言語が形成され、6世紀には民衆語としては死語となった。しかしバラモンの学校には保存された。「およそ前3世紀に、それは Canodsche において再生したバラモン教によって聖語として公的生活に呼び戻された」。およそ後5世紀にはこの性格でインド全土に広まっていたという。すなわち Benfey は Burnouf と同様に(上記 S. 128 参照)、Max Müller より前にすでに明晰さをもってサンスクリットの Renaissance の理論を立てたのであり、そこには確かに真なるものがある。前3世紀にこの再生を始めさせるのは、彼がこの時代に Mānavadharmaśāstra を置き、それを Rāmāyaṇa と同様に新しい種類の最初の作品に数えているからである(S. 246)。新しいサンスクリットの特徴として彼は、長大な複合語、過度の sandhi、民衆語の影響を挙げている(S. 246 以下)。Pāṇini の文法の影響を彼はその計算に入れていない。サンスクリットの語根の、きわめて疑わしい分解——yujyujanyudhyudhāsahsavahmrakṣmṛjas の合成であるという——について、彼は自らのギリシア語語根辞典を援用している(S. 249)。インドの後代の民衆語の概観においては、Prākṛt 方言について Lassen の Institutiones に依拠している。Śaurasenī と Māhārāṣṭrī の古さについての論議において彼は、後者の方言の文学的固定とインド人の劇詩は後7世紀頃に置かれるべきだという推測に至っている(S. 252)。

文学については(S. 256 以下)、Adelung の Bibliotheca Sanscrita が書誌的基礎として役立っている。彼の叙述はここではきわめてまちまちであり、それは存在し彼に利用できた予備研究次第である。Veda、Upaveda、Vedāṅga については彼は名前以上のことをほとんど述べていない。Upāṅga のもとに彼は Madhusūdana と同様、Purāṇa、Nyāya、Mīmāṃsā、Dharma を理解しているようである。Purāṇa の名については彼は Wollheim の学位論文「De nonnullis Padma-Purani capitibus」を指示している。〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ 最も重要な Prākṛt 方言である Māhārāṣṭrī が成立した地では、それ以前にサンスクリットが話されていたに違いない。この観点を彼は、同じく言語問題を扱う Lassen の Institutiones linguae Pracriticae の書評(1840年、「Kleinere Schriften」I 1, 11 以下に再録)で強調している。

「法」の項では彼は Mānavadharmaśāstra の12章の内容を簡潔に与えているにすぎない。サンスクリット文法の始まりは前7世紀にまでさかのぼりうるであろうが、しかし Pāṇini はおそらくキリストの時代よりさほど古くはあるまい(S. 258)。これに対しバラモンの六つの哲学体系はより詳細に叙述されており、Colebrooke に従い、また K. J. H. Windischmann の著作『Die Philosophie im Fortgange der Weltgeschichte』に従っている。この著作には Fr. Windischmann と Lassen がバラモン哲学からの貴重な寄稿を提供していた。数学天文学についても、すでに Colebrooke 以来多くが書かれていた。Benfey はなおとくに Libri の『Histoire des Sciences Mathématiques en Italie depuis la renaissance des lettres jusqu'à la fin du XVIIème Siècle』(S. 263)と、Stuhr の『Untersuchungen über die Ursprünglichkeit und Alterthümlichkeit der Sternkunde unter den Chinesen und Indiern』(S. 265)を指示している。彼はインド天文学の典拠となる著作を自ら研究してはいなかったが、しかしある種の初歩的な主要点については確固たる見解を形成していた。すでに言語の分離以前に、サンスクリット諸民族は、春分の後の月と太陽の最初の会合(Conjunction)において始まる年という概念と制度を持っていたという(S. 265)。これは Jones の見解を想起させる。nakṣatra を彼はインド人に固有のものと見なしたが、黄道十二宮の記号は Whish とともにギリシア起源と見なした。医学については、彼は Royle の「Essay on the Antiquity of the Hindu-Medicine」から興味深いことを伝えている(S. 270)。インド人の地理的記述はインド文献全体に散在している。彼はここでは中央に Meru を持つ神話的世界像のみを記述している。歴史叙述が発展する条件については、彼はすでに S. 16 以下で今日なお読むに値する仕方で論じていた。短い節「歴史」(S. 272 以下)においては、彼はとくに Kaliyuga の始まりに狙いを定めている。Purāṇa においては Mahā-Nanda の治世が Kaliyuga の始まりから1015年後に置かれている。インドの歴史的典拠のより正確な知識が、彼の推測——その治世の初めは前352年ないし360年に置かれるべきだという推測——を確実性にまで高めるであろう。これは Kaliyuga の始まりとして前1367年ないし1371年をもたらす。彼が隔字体で立てている一連の問いが肯定されるならば、「インド固有の歴史の始まりは、およそ40年の短い期間、すなわち前1400–1360年のうちに確定されねばならない」ことになろう。Kuru と Pāṇḍu の戦い、Yudhiṣṭhira と Parīkṣit のうちに歴史的記憶が含まれていることは我々も認めるが、しかし太陽王朝と月王朝の戦いがかつて結びついていた Ārya 人同士の戦いであるというのは空想である。インド人の Indra は月神であり(indu「月」のゆえ、S. 169)、太陽崇拝は Zend 民族においてきわめて古い(S. 272)。

の作品についても(S. 275 以下)、Benfey は当時サンスクリット本文そのものからはわずかしか知らなかった。しかし彼はインドの詩を総じて誤りなく特徴づけている。Mahābhārata からは彼はさまざまな挿話を知っており、Rāmāyaṇa については Schlegel の校訂本を知っていた。Langlois の Harivaṃśa の翻訳は手元になかった(S. 281)。Wilson の著作『Specimens of the Theatre of the Hindus』は彼の手元にあった。この文学的発展全体を Benfey は、再生したバラモン教の〔次ページに続く〕

仏教に対する闘争から成長したものと見なし(S. 277)、その始まりを Jaloka の時代である前227–219年に求めた。Jaloka はその父 Aśoka とは対照的に Śiva の崇拝者であった。二大英雄詩の編集も彼はほぼこの時代に置いている。Vālmīki の Rāmāyaṇa は「Mahābhārata における主要部分の編集そのものよりも」古いように思われるという。インド戯曲の起源を彼は Lassen と同様に、その Gītagovinda 版の序論に接続して考えている(S. 283)。Māhārāṣṭrī と Jaina 文献の古さについての彼の見解と関連して、彼は Kālidāsa の戯曲について前56年ではなく後6世紀あるいはさらに7世紀を考えている(S. 284)。Pañcatantra、寓話・説話文学についての彼の所見には、この領域を彼の特別の研究対象にしようという意図はまだ感じられない。しかし彼は、これら二つの詩の形式が「長らくインドの民衆生活のうちに住み、そこでその形成を遂げ、そしておそらくすべての詩のジャンルのうち最後に、サンスクリットによっていわば聖別された高次の文化の領域へと救い上げられた」ことを確信している(S. 288)。

Benfey は「サンスクリットがその墓からインド文化語の尊厳へと立ち上がったのと同じ時代に、民衆語もまた文字に用いられるようになった」と確信していた。かくして彼は Hindī、Telugu 等の文学の始まりにも目を向けている(S. 289 以下)。「芸術」の項では、音楽については S. 292 で、同じ Encyklopädie の同じ部分にある G. W. Fink の特別項目「Indische Tonkunst」(S. 454 以下)を指示し、次いで古典サンスクリットの韻律をやや詳しく叙述している。そこには Veda の韻律のうち二つ、Śloka と Indravajrā のみが「救い上げられた」という(S. 295)。建築について言えば、彼は「およそ前6世紀までインドには技巧をもって建てられた神殿も、技巧をもって作られた彫像もなかった」という見解であった。インド芸術の本来の始まりは、他の多くのものと同様、仏教の始まりに由来するという(S. 300)。石窟建築、stūpa、彫刻には彼はより詳しく立ち入っていない。彼は C. Ritter の論考「die Stupas (Topen), oder die architektonischen Monumente an der großen Königsstraße zwischen Indien usw.」を称賛しており、また彼の大きな地理学的著作にもしばしば言及している。同様に概括的なのが、9) における農業、産業、商業、貨幣、度量衡についての記述である(S. 304–310)。この大項目の結びをなすのは、後インドおよびインド諸島の歴史と文化についての概観である(S. 310–356)。Benfey 自身はこの項目を彼の「最も観念に富む」仕事と見なしていた。「Kleinere Schriften」(A. Bezzenberger 編)I S. XXV にある彼の娘の手になる伝記を参照。1909年に印刷された Benfey の伝記の原形 S. 115 には、Benfey がこの項目を1839年11月10日から1840年2月末までの短期間に書き下ろしたと記されている。

§第 XXI 章 LASSEN の『インド古代学』第I巻

Lassen の『インド古代学』が、古代インドについての知識の総括的叙述としてより高い意義を持つのは、それが Benfey の Indien より7年後に出たからではなく、〔次ページに続く〕

Lassen が成熟した学者として、長年の研究の後、この領域における多くの自らの仕事の後、サンスクリットとその文献、インド史の典拠、およびインドを扱う最も重要な著作についての徹底した自らの知識を身につけた上で、その大著に取りかかったからである。先行者たちに可能であったよりも高い程度において、Lassen はその著作において文献学の成果と古代学の成果、ヨーロッパの学識とアングロ・インドの学識とを統合した。ヨーロッパの学者にふさわしいことに、彼はその著作を「Sir William Jones、Henry Thomas Colebrooke、Horace Hayman Wilson、James Prinsep がその会員としてインド古代学に新しい道を開いた Bengal・アジア協会」に献呈した。しかし先行者 Robertson、Heeren、v. Bohlen、Benfey の著作との文献的連関は紛れもない。それは、インドの地理的状況、その自然産物、その産業がいかにして古代学のうちに引き入れられているかにも表れている。第1巻は Bonn 1847 に、第2巻は1852年、第3巻は1858年、第4巻は1861年に出、第1巻の第2版は1867年、第2巻の第2版は1873年に出た。

第一の書はきわめて詳細にインドの地理を扱っている。その基礎をなすのは主として、彼が S. 52 で称賛している Berlin の教授 Karl Ritter の『Erdkunde』第IV巻である。それと並んで我々はしばしば、すでに挙げた同じ開拓者たちの名を見いだす。Court、Burnes、Honigberger、Masson、Tod、Hamilton (Buchanan)¹⁾、Troyer、v. Hügel であるが、しかしなお他の名前、Wood、Franklin、Lloyd と Gerard、Moorcroft と Trebeck、Macmurdo もある。この地理的部分において Lassen は最も独自性が乏しい。ただし地名の語源的説明は別であり、その際彼はしばしば Wilson の辞書を引用している。

第二の書は「歴史」という表題を持ち、第1巻の後半に始まり、そこからさらに三巻を通じて著作の終わりにまで及ぶ。この膨大な素材のきわめて不均等な二つの書への配分は、全体の構成上の欠陥であり、個々の節の特別な表題によっても償うことはできない。Lassen が初めにはまだ素材の膨大な範囲を見通せなかったことは理解できる。各巻の冒頭に置かれた詳細な内容一覧は、索引の欠如を補うことはできない。この欠如の結果、これほど豊かで教えるところの多い著作が、学問の著しい進歩にもかかわらず今日なお値するほどには利用されてこなかったのである。第二の書の冒頭(I 353)で Lassen はインドの歴史を二つの大きな時期に分ける。第一は最古の時代から、我々の紀元の第一千年紀の終わりにおけるムハンマド教徒の征服まで、第二はそこから現代までである。第一期はインドの古代を含む。二つの主要時期のそれぞれを彼はさらに二つの小時期に分ける。新しい時代においては彼はムハンマド教徒の支配を1744年までとし、それから〔次ページに続く〕イギリスの

原注

¹⁾ Francis Buchanan、植物学者、Surgeon、1762年生、1829年没、1794年にインドへ渡り、母の死後その家名 Hamilton を自らの名に加えた。下記 S. 170 を参照。

支配が始まる。より古い時代においては第二の時期が仏教とともに始まる。「仏教文献は……バラモン精神の古い記念碑と新しいそれとの間の隔壁をなしており、その最古の作品をもってその中間に位置し、それによって我々にバラモン教的インドの新しい時代の始まりを示している」(I 356)。Lassen もまた、仏教のこの位置を最初に認識した者として Burnouf を挙げている(I 736)。Lassen は歴史に先立ってインド諸民族の民族誌を置いている。原住民、すなわち「Dekhan」諸民族——彼はそこに「Cingalesen」をも数える——、「Vindhya 系の原住民族」、および原住民の孤立した残存から始め、次いで現在の地理的分布における Ārya 系インド人に移っている。外来の移住者のうち彼は、Kabulistan においてもともとインドの土地を占めたアフガン人のみを考慮している(I 358)。後インドの諸民族とインド諸島の諸民族もこの民族誌に含まれている。これらの節における Lassen の典拠は主としてイギリス人の著作であった。Elphinstone の「History of India」、Francis Hamilton の「Account of Nepal」、Walter Hamilton の「Description of Hindostan」、すでに言及した Raffles と Crawfurd の著作、その他多くの個別報告である。

Lassen はその『インド古代学』において、ムハンマド教徒の征服に至るまでの「インド史の第一期」のみを扱った。この第一の主要時期のうち、その第一部「仏陀以前の時代」が第1巻の後半を占める。貨幣と碑文はここではまだ問題となりえない。主要な典拠は叙事詩、Purāṇa、また Rājataraṅgiṇī、文化的状況については Manu の法典であり、彼はこれを仏教以前のものと見なした(I 800, 801)¹⁾。Ṛgveda に含まれる歴史的・地理的記述を彼はその叙述に織り込んだが、しかしそれを先頭に置いてはいない。Veda 文献、とくに Brāhmaṇa は、彼が著作を最初に構想した際にはまだ十分に知られていなかった(I 357 参照)。この箇所は第2版 I 419 でいくらか修正されている。Lassen は原理的には、インドの伝説を我々が本来の形で所有しているのではないこと、また個々の場合には Veda においてより古い形が見えることを明確に理解していたが(S. 489)、しかしなお、確実な個々の線をその始まりから引くのではなく、あまりに強く Mahābhārata をその歴史構成の中心としてしまった。インドの Ārya 人の先史には、彼らのイラン人との関係、Veda の Zendavesta に対する関係、Ārya 系インド人が北西から侵入した道が属する。Lassen は Kabul の谷についてよりも、Hindukusch の峠について語っている。多くの点は、Lassen——第2巻の「Original Sanskrit Texts」で Muir が彼に従った——以来、なおこれほど詳細に扱われてはいない。Ṛgveda のインド人は五河地方に住んでいた。Gaṅgā と Yamunā はより後代の歌においてのみ言及される。伝播は西から東へ、また南へ、三つの大河に沿って進んだ。Lassen は彼が立てたこの「命題」I 449 を重視した。すでに第1版において彼は Ṛgveda から Bharata、Tṛtsu という種族名、王 Sudās を挙げ、〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ 第2版で彼は Mānava の法典の成立を前450年頃としている。I² 1008。

Bharata、Kuru、Pañcāla、Pāṇḍava の継起を論じ(I 591 以下)、これに次いで Mahābhārata の全種族の集団を接続させている。それらは大叙事詩からノアの箱舟からのように出てくるのである。第2版までに、Veda 的な事情は彼によりよく知られるようになっていた。それはとくに「IV. Ārya 人の伝播」の冒頭の本文の改変に見られる。第1版 S. 533、第2版 S. 643 以下である。彼はここで、地理学者 Vivien de St. Martin の著作「Étude sur la géographie et les populations primitives du Nord-Ouest de l'Inde d'après les hymnes védiques」等(Paris 1855)と並んで、Langlois の Ṛgveda 翻訳に言及し、X 75, 6 におけるそれを幸運とはいえない仕方で批判している。以前は Brāhmaṇa のうち Aitareya のみを引用していたのに対し、いまや Śatapatha も考慮され、Weber が注意を促していた Videgha の移動の伝説も採られている。Lassen の方法はしばしば批判された。たとえば Sörensen がその著作『Om Mahābhārata's Stilling i den Indiske Literatur』(Kopenhagen 1883)においてそうしているが、しかしそれをより良くすることは困難である。詩に惑わされて Lassen は Pāṇḍava の歴史的意義を過大評価したであろう。Pāṇḍu、Arjuna、いずれの名も「白い」を意味し、Kṛṣṇā は「黒い」である。彼が I 643 で強調するこの白と黒の相違において、彼は Ārya 人の明るい肌の色と原住民の暗い肌の色を考えた。Dhṛtarāṣṭra は Pāṇḍava の帰還までの Kaurava の支配の存続を示すという(I 640)。しかしこのような名前の語源にもとづく観点は貫徹しえない¹⁾。種族の名前は確実に歴史的である。というのもそれらはさらに追跡しうるからである。しかし多くのものは後になって初めて前面に出て、ただ詩によって古い時代にすでに重要であったかのように描かれたにすぎないかもしれない。王や英雄についても同様のことが言える。他の諸民族においても観察されうるのは、一つの種族の古い伝説が民族伝説へと成長したのは、他の種族もそれに関与し、また後代の人物や出来事も同じ古い時代に移されたからである、ということである。民衆の代弁者である詩人たちの精神において、何らかの理由からとくに好まれた伝説が、他の伝説、本来それとは無縁の人物や出来事に対して吸引力を及ぼしたのであり、それに加えてまったく自由な詩的付加や神話的要素もある。ごくわずかの物語についてしか、それが文字どおりそのとおりに起こったと主張することはできないであろう。しかし実際に起こったことが、より後代の、しかしなお古い時代における創作の模範であったのであり、それゆえ全体は我々には、古い時代とそこで起こりえたことの忠実な描写として現れてよいのである。これらの、またその他の観点を、Lassen はまだ十分に顧慮していない。彼は歴史が獲得されるべき伝説的な素材を興味深い仕方で提示したが、しかしなおあまりに強く、詩的に伝えられたものを、一つの同じ時代に起こったことの直接の沈殿物と見なした。古い伝説は王の同盟を婚姻の形で表す(I 644)。Kaṃsa の妻たちの名 Asti と Prāpti は、Kaṃsa が Magadha 王との同盟によってその権力を固め拡大したことを意味するという(I 624)。しかし寓意的な解釈だけでは足りない。

原注

¹⁾ 他の箇所でも Lassen は名前の解釈から憂慮すべき仕方で歴史的結論を引き出している。たとえば III 556, 579。

二大叙事詩の起源と年代について言えば、Lassen は伝説の内容とその現在の形とを区別した。伝説は彼の見解によれば、個々の後代の挿入を別とすれば、内容的には仏教時代以前にすでに形成されていた(I 491)。その現在の形をそれらは Candragupta と Aśoka の間の時代、仏陀の死後およそ200年に得たという(I 839)。Mahābhārata の冒頭についてのさまざまな記述のうちに、彼はさまざまな以前の形への示唆を見た(I² 589。II 495 参照)。両叙事詩の相互の時間的関係については、Lassen は動揺していたようである。Rāmāyaṇa に描かれた状態と比較すると、Mahābhārata においては Ārya 人の宗教と支配の南方への拡大において著しい進展が認められる(I 576)。Rāmāyaṇa の物語は Mahābhārata の物語より古い時代に演じられる。前者では古い首都 Ayodhyā に Ikṣvāku を筆頭とする太陽王朝の王たちが、後者では Pratiṣṭhāna と Hastināpura に月王朝の王たちがいる。初めは Lassen は Rāmāyaṇa のより高い古さについて断定的に語っている(I 487, 581)。この見解はインドにおいて支配的なものであり、最近では Jacobi によっても主張された。しかし同巻の終わり近く、叙事詩の形成についての節(I 839)では、Lassen は Rāmāyaṇa を、現在ある姿において古叙事詩の開花と呼んでいる。Rāmāyaṇa においてより古い苦行生活の状態が現れ、地理的知識が Mahābhārata よりも限られているとすれば、それは「作者たちがこの点において彼らの原典を忠実に繰り返した」ことから説明されるという。

第2版ではこの文は欠けており、S. 838 と 839 は本質的に変更されている。彼はいまやより明確に、Rāmāyaṇa の成立時期は「それが大叙事詩よりいくらか古いということ以上には正確に規定できない。というのも、前者(原文ママ)には後者に現れる仏教への言及が欠けているからである」と述べている(I² 1006)¹⁾。変わらないのは、Mahābhārata の多くの部分が Kṛṣṇa の讃美のために、あるいは Pāṇḍava に有利なように改作されたという Lassen の見解である。Mahābhārata の最後の改作は Viṣṇu 派の立場からなされた。第2版に採られなかったのは、Burnouf の所見に結びつけた推測、すなわち Kṛṣṇa 崇拝がとりわけ仏陀の教えの伝播に対する民衆の抵抗によって呼び起こされたという推測である(I 838)。Kṛṣṇa の Viṣṇu の化身としての神格化は、仏陀以後の時代になって初めて完成した。「Kṛṣṇa は……実在の人間ではなく、伝説の被造物であり、その民族の歴史をその戦士的性格の側面と、その本来の牧人生活の側面から代表する者である」(I 623)。

Lassen は初めて、叙事詩の始まりが、Veda 文献の散文で書かれた小さな itihāsa にまでさかのぼって追跡されうることを指摘した(I 836 以下)。インドの Ārya 人の世界史的意義については、彼はすでにその民族誌の終わりに I 470 で〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ しかし気分の点では Rāmāyaṇa は仏教的な色合いを帯びている。この印象は、Holtzmann の第2巻の翻案——Winternitz が新たに刊行した『Indische Sagen』におけるもの——からすでに得られる。——仏教への言及については I 490 以下の長い注を参照。

次のような美しい命題を述べている。「彼らの本来の歴史的尊厳は、東洋世界の他のいかなる民族もそうでなかったような、文化を伝播する民族であったことにある」。彼が I 578 以下に見事に描いているのは、森へ移り住むバラモンたちが、南へ進出するその庵によって、いかに本質的にバラモン文化の伝播に寄与したかである。まことに古代からの pénétration pacifique の類まれな一例である!「年代決定」の節(I 735)、および第2版の付加においては、彼は独自性に乏しく、また古びたものも多い。Veda については彼はすでに R. Roth の著作『Zur Litteratur und Geschichte des Weda』(Stuttgart 1846)を、第2版では M. Müller の History of Ancient Sanskrit Literature(London 1859)をも用いえた(I 738 Anm. 1)。Pāṇini と文法の年代については Böhtlingk の Pāṇini 版の序論を、第2版では Goldstücker の「Pāṇini」をも、仏教については Burnouf の「Introduction」を、すべての問題については第2版では Weber の『Akademische Vorlesungen über Indische Literaturgeschichte』(Berlin 1852)を用いた。彼は Pāṇini が前350年頃に生きたという Böhtlingk の計算にとどまっている(I 737)。Prātiśākhya を彼は前5世紀に置く(S. 739)。Veda 文献についての記述は第2版でいくらか詳しくなっている。その間に Weber の「White Yajurveda」がきわめて重要な Śatapathabrāhmaṇa とともに出、また Roth と Whitney の Atharvaveda(Berlin 1856)も出ていた。Ṛgveda の神々を彼は Roth の論考「Zur Geschichte der Religionen」に従って叙述している(I 756 以下)。誤った語源も多い。より独自なのは Brahmā、Viṣṇu、Śiva についての彼の所見である。バラモン教の神々の崇拝の古さを、彼は Burnouf によって知られるようになった後代の北方仏教文献におけるその言及によって測っている。この典拠から汲まれた仏陀の教えのスケッチには、中道の教えと Paṭiccasamuppāda が欠けている(I 830 以下)。Lassen は仏陀の教えを「Sāṃkhya 体系の拡張と実践的実現」と呼び、Sāṃkhya はまたそれ自体二つの Mīmāṃsā を前提とするという。しかしこの体系およびバラモン哲学の他の諸体系のどれだけが、その完成した形で仏陀以前の時代にさかのぼるかという問題は、まだ論じられていない。Veda の祭祀もまた彼はいくつかの線でスケッチしている。それに接続して彼は第2版に比較神話学の成果をも採り入れ、Adalbert Kuhn への賛辞を述べつつ、その著作『Die Herabkunft des Feuers』を引用している。インド人の天文学的観念については、Colebrooke の Essays と並んで、当時多く用いられた Biot の論考「Sur les Nacshatras」に手がかりを持っていた(I 743)。nakṣatra を彼は中国起源と見なすが、しかしインド人によって月の運行との関係に置かれたという。彼は次いでもう一度、Veda の暦 Jyotiṣa に接続してインド天文学の始まりに立ち返っている(I 823 以下)。太陰年、太陽年、および両者の差が調整される五年周期、ならびにそれにもとづく時間区分は、インド人自身が立てたものであるが、しかし Colebrooke とは反対に彼は、惑星の知識と占星術をカルデア人から受け取ったという見解である。Lassen の批判的な態度は、彼が独自性に乏しいところでも注目に値する。Lassen はインド人を彼らに固有の文字の発明者と見なし(I 840)、この見解を第2版でより詳しく根拠づけている。真に Lassen 的な独〔次ページに続く〕

創的研究を含むのが、今日なお読むに値するカーストの成立についての節であり、それは同時に、とくに Adalbert Kuhn によって代表される比較言語学の考古学的方向の影響をも認めさせる(I 794 以下)。purohita の重要性(S. 802)は最近再び Pischel によって強調された。インド人が最古の時代に北方および西方の諸国についてどの程度の知識を持っていたかを論じた後、彼は第1巻の最後の段落で、Pythagoras がインドに来たということは証明されていないと断言している。ギリシア人とインド人は互いに独立にその哲学体系を形成したという。第1巻の Anhang において Lassen は、少なくとも Mahābhārata、Rāmāyaṇa、Viṣṇupurāṇa の本文に従って訂正した、インドの最古の王たちの一覧を与えた。それ以前には Fr. Hamilton の「Genealogies of the Hindus」(Edinburgh 1819)と Tod の「Annals and Antiquities of Rājasthan」(London 1829, 1832)、それにもとづいて Prinsep の「Useful Tables」に公刊されていたものである。これらの先行者たちはサンスクリットを解さず、原典から直接汲んではいなかった。自然研究者 Fr. Hamilton——「インドの自然誌、民族誌、統計について、他の誰よりも多くの教示を我々が負っている」人物——を、彼は文献学の領域では「完全な Euemeros」と特徴づけている。Tod もまた「歴史的批判の概念を持たなかった」¹⁾。W. Taylor の「Oriental Historical Manuscripts」(Madras 1836)の記述はタミル語の書物に由来するものであった。

原注

¹⁾ Lassen は Tod を London で個人的に知った。Schlegel と Lassen の往復書簡には、Tod の写本と貨幣についてしばしば言及がある。両者とも彼の親切を称賛している。「たとえ彼がいくらか wilford 流に走るとしても」と Lassen は1825年4月8日付の書簡で述べている(Briefwechsel S. 120)。Lt. Colonel James Tod、1782年生、1835年没、最後には London の R. Asiatic Society の Librarian であり、同協会に彼の写本収集を寄贈した。

【原書 p. 170(後半)】

§第 XXII 章 LASSEN の『インド古代学』第II巻

Lassen の『インド古代学』第II巻は「仏陀から Ballabhī 朝および後期 Gupta 朝までの歴史」に当てられている(Bonn 1852)。それは再び二つの部分に分かれる。「仏陀から Vikramāditya までの時代」と「Vikramāditya から後期 Gupta までの時代」である。それぞれの部分にとくに「商業の歴史」と「文化史概略」が置かれている。度重なる分割の結果、多くのことが繰り返され、また多くの相属するものが引き離されてしまった。しかし Lassen は時とともにますます学識を深めていった。

「典拠」と題された最初の節の冒頭で Lassen は、なぜインド人が歴史叙述を発展させなかったかという問いを論じ、S. 40 以下で再びそれに立ち返っている。そこで彼は、Rājataraṅgiṇī の刊行者 Troyer を、インド人におけるこの歴史感覚の欠如の原因を最初に明らかにした人物として挙げている。たしかにこの原因は、まず歴史叙述に召されていたバラモンのカーストの精神的傾向のうちに、すなわち「観想への沈潜と、あらゆる外的事物に対する無関心」のうちにあろう。またカーストの〔次ページに続く〕

閉鎖性と、その職業の永遠の固定性も関係する。しかしこれらすべてはこの事柄をなお十分には説明しない。何よりも歴史そのものの性質が問題となる。ギリシア人とローマ人においては、どのような条件のもとで歴史叙述が発展したかを観察することができる。インド人が Alexander 大王の勝利について報告することを、あるいはバラモンが仏教徒の優勢について報告することを期待してはならない(Vincent Smith, Early History, 2. ed. 376 参照)。歴史叙述への最初の萌芽は古代インドに欠けていたわけではない。それには歴史的伝説、Veda の師たちの vaṃśa、Purāṇa および碑文における王たちの vaṃśa が属する。記憶においては王たちの名のみならずその事績も、またその治世下に起こったことも保存されていたであろう。しかしこの肉付けは時とともに記憶から消え去った。この古い時代からの口誦の伝承は失われたのであって、「より完全な歴史文献」(Lassen II 41)が失われたのではない。後者については確かな痕跡は見いだされない。古い伝承がなお閃くのは、Rudradāman の碑文に王 Candragupta と Aśoka の功績が言及されるとき、あるいは戯曲 Mālavikāgnimitra と Ratnāvalī により古い王たちの時代の政治的状況が言及されるとき、あるいは戯曲 Mudrārākṣasa において Candragupta の勝利とその宰相 Cāṇakya の政治が提示されるときである。vaṃśa の名前は Sūtra に比すべきものであるが、ただし Sūtra はどれほど短い文言であっても、通例その事柄の示唆をも永久に保存している。Rājataraṅgiṇī において Kaschmir の古い王たちについてかくもわずかしか語られていないとすれば、それは、仏教徒ではなかった Kalhaṇa の時代には、古い王たちへの実質的な関心がとうに絶えていたことを意味する。Dīpavaṃsa と Mahāvaṃsa、その他の仏教文献において、Ceylon とインドの古い王たちについてはるかに多く報じられているとすれば、それは仏教徒がより大きな歴史叙述への傾向を持っていたことを意味するのではなく、ただ、自らの信仰に帰依した王たちへの関心が彼らのもとで自然に持続的に保たれたことを意味するにすぎない。Troyer——Lassen II 59 は彼を自らの友人と呼んでいる——と Turnour が刊行したインドの歴史書は、他の人々の前後にわたる利用と同じく、Lassen によっても用いられた。同様に貨幣碑文は、Prinsep と Wilson の仕事によって歴史の典拠として彼に仲介されていた。Dekkhan 南端の Pāṇḍya の王国については、Wilson の一論考が彼の手元にあった。碑文のほか、後代の南インドの著作にはより古い Dekkhan の王たちについての記述がある。Lassen はそのためにすでに上述の宣教師 William Taylor の著作と、Wilson が刊行した Mackenzie Collection の Catalogue を用いた。Colin Mackenzie、Walter Elliot(「Dharwar の8年にわたる統治の間に」)、Francis Buchanan (Hamilton) が早くから南インドで収集した多数の碑文について、Lassen は II 44 で報告している。

第二期の歴史が始まる仏陀の生涯に先立って、仏陀の没年についての論議が置かれている。Lassen はこれらの節において新しい原典を開拓したのではなく、Csoma de Kőrös、Abel Rémusat、Klaproth、Burnouf、そしてとくに Turnour がチベット、中国、北インド、Ceylon の典拠から伝えていたものを加工したにすぎない。一般的な〔次ページに続く〕

理由から彼は、仏陀の Nirvāṇa を前543年とする Ceylon の計算が真実に最も近いと見なすが、しかし Turnour と同じ仕方で、そこに66年の過剰という誤りがあることを指摘し、それを差し引くべきだとする(II 62。ただし Goldstücker, Pāṇini S. 233 を参照)。完全な確実さをもって、一の位まで正確に、仏陀の没年を確定することはできない。Śaiśunāga および Nanda の王たち、Laṅkā の歴史、南インドの Pāṇḍya の歴史が我々の前を過ぎてゆく。Pāṇḍya が Mahābhārata の Pāṇḍava と関係するというのは Lassen の愛好する着想であった(II 109)。南インドの Pāṇḍya、Cola、Cera あるいは Kerala の王国はたしかに古いが、しかしより後代になって初めて知られるようになる。Darius によるインド人の一部の服属と、五河地方および Indus 地方における Alexander 大王の遠征——きわめて詳細に叙述されている——とともに、典拠が変わる。後者について Lassen はギリシア・ローマの著作家そのもののほか、とくに Droysen の Geschichte des Hellenismus を用いた(II 119)。

Lassen もなおロマン主義者たちの大きな観念に影響されていたことは、世界史の歩みについての彼の一般的な言説から明らかである。たとえば彼は II 117 で次のように述べている。「個々の民族的特性をますます大きな規模で克服し、相互の形成と融合によって最高の目標、すなわちすべてを一つの人類へと統合することへ、常により近く導こうとする世界史の努力は、まず Alexander 大王が創始した古代史の時期において実現され、しかもこの『ギリシア・マケドニア的なものと東洋的なものとの一体化』(Droysen)におけるほど明瞭に実現されたことはなかった」。これを補完するのが、彼が II 164 で述べていることである。「……インドにとってはまだ世界史の流れに引き入れられる時が来ていなかったし、Alexander もそれをもたらすべく定められてはいなかった。それ自身のうちに厳しく閉ざされ、民族の意識に深く根を下ろしたインド文化は、ヘレニズムの影響に抗したであろう。それはイスラームの破壊的な力にも屈しなかったのであり、ようやくキリスト教の普遍的精神に屈し、そのうちに解消するであろう」。同様の仕方で彼は第III巻の結びの文章においてもイスラームとキリスト教について述べている。

Alexander によってその支配を寛大に安堵された Poros(Paurava)の殺害は、外国の宗主権に対する全般的な蜂起を導き、Justinus はその指導者を Sandrocottus と呼んでいる。かくして Alexander に II 196 で Maurya が接続する。彼らは Puṣpapura あるいは Pāṭaliputra において Nanda の後を継いだ。ここで再び、ギリシア・ローマの歴史家と並んでインドの典拠がそれを補いつつ登場する。最も重要なのは戯曲 Mudrārākṣasa であり、Lassen はそれを Wilson の翻訳で用いた。それが実際に「ムハンマド教徒のインド侵入の時代の後に」書かれたものであるにせよ(II 202)、それは明らかに、我々が他のどこにも記録されているのを見いだせない古い伝承にもとづいている。Maurya の Candragupta の記憶が、また Aśoka の記憶も、なお後2世紀に Guzerat において生きていたことは、Kṣatrapa Rudradāman の碑文が証している。これを Lassen はここで言及しえたであろう。歴史学にとって Maurya の Candragupta はきわめて大きな重要性を持つ。というのも、Alexander 大王と Seleukos の同時代人として、彼はインド古代の最初の確実に年代づけられた王だからである。彼以上に、〔次ページに続く〕

その王国の範囲についても、その人格についても、インドの典拠から我々が知るのは、その偉大な孫 Aśoka についてである。我々が彼についてより多くを知るのは、彼が自ら勅令のうちに不滅の記念碑を建て、また仏教徒が彼に感謝の記憶を保ったからである。Prinsep、Burnouf、Turnour に、勅令、Avadāna、Mahāvaṃsa に依拠して、Lassen は Aśoka の権力と心情の像を、また Ceylon における仏教の導入と最古の歴史の像を描いている。後者は伝承において Aśoka の子 Mahendra と結びつけられている。Aśoka のもう一人の子で Śiva の崇拝者であった Jaloka は、Kaschmir の王として現れる。Aśoka の後継者たちの名を Lassen は Wilson の Viṣṇupurāṇa 翻訳から知っていた。彼は II 272 でなお Aśoka の孫 Daśaratha を挙げており、彼については Gayā に碑文が存在し、Prinsep が公刊している。

インドの政治史の続く部分について、Lassen 自身がすでにそれ以前に、1838年に出た著書『Zur Geschichte der Griechischen und Indoskythischen Könige』(上記 S. 156 参照)によって研究に参加していた。Prinsep と Raoul Rochette の諸論考、Wilson の総括的著作 Ariana Antiqua は基礎的なものであり続けている。新たに加わったのは Cunningham の諸論考である。Lassen は II 282 以下でその先行者たちに言及しており、そのうちには古い Th. S. Bayer とその著作『Historia regni Graecorum Bactriani, in quo simul Graecarum in India coloniarum vetus memoria explicatur』(Petropoli 1738)もある。ギリシア・バクトリアの王たちについては、貨幣と並んでギリシア人・ローマ人の記述が一次的な典拠であり、インド・スキタイの王たちについては貨幣のみである。Lassen はこれらの王たちを順に論じ、注に注釈を付している。インドにとって彼らが問題となるのは、北西の最も近い隣人として、また北西インド自体における征服者としてであり、また彼らの貨幣の多くがインドの地で発見され、その一部がインド語の銘文を帯びているからでもある。貨幣によればバクトリア王国の創建者は Justinus におけるような Theodotus ではなく Diodotos であった(II 283 以下)。彼は Seleukos 朝の支配から独立したが、それは Parthia 王国の創建者 Arsakes とほぼ同じ時期、前250年頃である。両王国は百年に満たない期間、相並んで存続した。ギリシア・バクトリア王国を滅ぼしたのは、Lassen によれば Parthia 王 Mithridates I であり、ギリシア・インドの王たちの新王朝の創建者は Apollodotos I である(II 325)。ギリシア・インドの王たちがギリシア・バクトリアの王たちと関係するのは、Apollodotos の父 Eukratides が、王 Demetrios の不在中に Baktria の支配を奪ったからである。Lassen は II 308 で、Eukratides が前165年に Demetrios を破り、前160年頃に自らの子 Heliokles に殺され、さらにその兄弟 Apollodotos が Heliokles からその父 Eukratides のインド諸州を奪ったと推測している(II 325)。Apollodotos は前160年の少し後に即位し、およそ前148年まで統治したという。Apollodotos より遠くまでインドにその支配を拡げたのは Menandros であり、彼は前144年頃と想定されている。Hermaios——「インド辺境の最後のギリシア王」——は、トルコ系の「Juetchi」の五種族を一民族に統合した Kozoulo Kadphises によって倒された(II 812、360 参照)。これをもってインド・スキタイの支配が始まる。Lassen はこの〔次ページに続く〕

出来事を II 337 で前85年に置いている。より新しい時代には我々はそれを M. Duff, Chronology S. 18 では前25年に、Vincent Smith, Early History, 2. ed. S. 222 では前50年に見いだす。インド・スキタイの移動を Lassen は、内アジアの遊牧民の群から発した大きな世界史的民族移動の始まりと見なしている。前57年に始まる Vikramāditya 紀元の起点となった出来事は、今日に至るまでなお申し分なく確定されていない。にもかかわらず Lassen はこの年をもって一つの時代を区切り、その文化史をここに(S. 439 以下)挿入したため、彼はインド・スキタイの歴史を分断し、次の節(II 811 以下)で再びそれに立ち返らざるをえなくなった。KadphisesKaniṣka が彼らの二人の大王であり、Lassen はすでに彼らを十分に評価している。両者の王朝は別であるが、しかし彼は両者を「Juetchi」に数えている(V. Smith では「Yueh-chi」)(II 827)。Rājataraṅgiṇī では Kaniṣka とその後継者たちは Turuṣka と呼ばれており、これは種族の一般的な呼称である。Lassen がなお貨幣に読んでいた Korano について(同様に Kanerki, rao 等、832)は上記 S. 102 を参照。Kaniṣka について知られていることはすべて、すでに Lassen がまとめており、とくにその支配がインド本土でどこまで及んだかについてもそうである。Kaniṣka は Aśoka と同様、その晩年に仏教に傾いた。彼は Pārśvika(II 864)、Aśvaghoṣa、Nāgārjuna(S. 412)と関係を持ったとされる。その治世下に第四結集が開かれたが、Lassen によれば Kaschmir の Jālandhara においてである(II 860)。その居城は Puruṣapura、すなわち「Peschāwar」であった(S. 859)。しかしその貨幣には古代イランおよびバラモン教の神々も現れる(II 816, 835 以下)。インドの偉大な支配者たち(Aśoka、Kaniṣka、Harṣa、Akbar)は、Friedrich 大王と同じく、信条に忠実であるよりも寛容であった。誤りに属するのは神名 OKPO(845, 866, 870)であり、Rapson と Stein によれば OHÞO、veśa と読むべきである。Stein, White Huns S. 9 を参照。Lassen によれば Kadphises は前24年頃にインドを征服し(II 813)、Kaniṣka は後40年頃まで統治したことになる(S. 413。第2版 S. 768)¹⁾。これらは持続しなかった数字である。Kaniṣka は長らく、後78年に始まる Śaka 紀元の創始者と見なされてきた。M. Duff の Chronology では Fergusson、Oldenberg らに従ってそうであるが、いまやいくらか後代に置かれ、すなわち後2世紀に置かれている。Stein(White Huns S. 8)、V. Smith、Lüders がそうである。というのも Fleet と Bhandarkar の見解はほとんど支持を得なかったからである。前者は前57年に始まる Vikramāditya 紀元を彼に関係づけようとし、後者は彼を後3世紀に置こうとした。Juetchi の歴史については Lassen は中国の典拠に依拠せざるをえず、それは Klaproth、Abel Rémusat、de Guignes、および彼の友人(II 765)Stanislas Julien の書簡による報告を通じて彼に仲介された(II 352 以下)。後者に彼は、玄奘の旅行記のうち Kaniṣka に関わる箇所の翻訳を負っている(II 828)。時とともに新しい碑文が典拠に加わり、中国の報告がより正確に知られるようになり、インド・スキタイ(Turuṣka, Yue-chi, Kushān, Hūṇa)のトルコ的性格が〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ Lassen はここで第2版において大きな組み替えを行い、S. 398–413(さまざまな Vikramāditya、Kaschmir の年代計算の検証と訂正)を S. 759 = S. 753² の後に挿入した。

ますます確実に確定されるようになったにせよ、Lassen は最初の総括的叙述を与えたのであり、それは伝説的な素材をも含み、今日なお多くの点で当を得ている。このことは、M. Aurel Stein が1905年にその論考「White Huns and kindred tribes in the History of the North-west Frontier」(Indian Antiquary Vol. XXXIV)で与えた批判的概観と比較すれば分かる。Stein は Specht の「Études sur l'Asie Centrale」(Journ. As. 1883, S. 320 以下)のほか、Éd. Chavannes の「Documents sur les Tou-kiue (Turcs) Occidentaux」(St. Petersburg 1903)および J. Marquart の「Ērānšahr」(Berlin 1901)という新しい著作を用いている。

「Kaśmīr の年代計算の検証」その他において Lassen は繰り返し、伝説的な王 Vikramāditya に言及する。彼の名には前57年に始まる紀元が結びついているが、しかしこの紀元が制定された記念すべき出来事を確定することはできていない(II 49)。彼は彼を Rājataraṅgiṇī II 5 に言及される Vikramāditya、すなわち Ujjayinī と Mālava の王で、Śaka を破り Kaschmir を征服したとされる人物と見なした(II 409, 806 以下)。「その領域は Mālava と Kaśmīra の間にあった」Śaka の最後の名の挙がる王は Spalirisos であった(S. 808)。Vikramāditya が Ujjayinī の宮廷に集めたとされる著名な人物たちを列挙する詩節について、彼は II 806 で論じている。同所で彼は、この王が役割を演じる説話作品、Vetālapañcaviṃśati、Śukasaptati、Siṃhāsanadvātriṃśikā にも言及している(II 759)。最後のものは R. Roth の Vikramacaritra の分析(Journ. As. 1845, S. 278)から彼に知られていた。

後78年に始まる Śaka 紀元の創始者として伝承が挙げる王 Sālivāhana についての説話的な報告も、Lassen のもとに見いだされる(II 761, 884 以下)。彼はその征服遠征を Pratiṣṭhāna(Paithān)から行ったが、そこは後130年頃には Āndhra 王の居城であった(S. 886)。Lassen は Sālivāhana が後78年に Śaka を打ち破ったことをまったく確実と見なした(S. 870)。後代の説話的な伝承は彼を Mālava の Vikramāditya と結びつけ、彼が Vikramāditya を破り殺したとしている(S. 811, 882)。

インドの内陸、Magadha においては、Maurya は Lassen の計算によれば前178年頃に Śuṅga によって交代され、Śuṅga は前66年に Kaṇva によって交代され、Kaṇva は後23年まで統治した(II 351。V. Smith S. 193²:前63–27年)。インドではしばしば、勝利を得た将軍が弱いあるいは悪しき王を倒すことが繰り返された。Śuṅga と Kaṇva の名は Lassen には Viṣṇupurāṇa の vaṃśa から知られていた。Śuṅga 王朝の創建者は Puṣpamitra¹⁾、最後の Maurya である Bṛhadratha の総司令官であった。Puṣpamitra の子 Agnimitra は戯曲 Mālavikāgnimitra の主人公であり、Lassen は Wilson の翻訳でこれを利用しえた。Burnouf がその「Introduction à l'Histoire du Buddhisme」で伝えている仏教徒の報告においては、彼はバラモンの友にして仏教の抑圧者として現れる²⁾。

原注

¹⁾ Puṣyamitra、y を伴う形が正しい。Pet. Wtb. を参照。

²⁾ Kālidāsa はどうして、まさにこの王 Agnimitra を戯曲の主人公とするという着想に至ったのであろうか。Kālidāsa は古いバラモン教の信奉者であった。Bloch は ZDMG. LXII 671 以下で、Raghuvaṃśa における Dilīpa の馬祀祭が、Samudragupta が行った馬祀祭を想起させるものだと推測した。戯曲においては老 Puṣ-〔次ページに続く〕

〔p. 175 の脚注 2) に付された注記〕 Bhitarī の碑文には、Samudragupta が長らく途絶えていた馬祀祭の執行者であったと述べられている。cirotsannāśvamedhāhartur ... Śrīsamudraguptasya。Bhagvānlāl Indrajī, Bombay Journal XVI 349 を参照。

インド・スキタイと Kaṇva の後、あるいはそれと並んで、Lassen は Guzerat(Surāṣṭra)の Kṣatrapa、彼が Ballabhī と呼ぶ ValabhīGuptaĀndhrabhṛtyaKaschmir の王たちCeylon の王たちを、その各時期において繰り返し扱っている。Kaschmir と Ceylon については、Rājataraṅgiṇī と Mahāvaṃsa に含まれるすべてが彼に知られていた。他の王朝に関しては、より確実性が生まれたのは Lassen 以後のことである。Kṣatrapa については貨幣と Rudradāman の碑文のみが問題となり、Gupta と Āndhrabhṛtya については貨幣と碑文のほかに Purāṇa の記述も問題となる。Lassen は Kṣatrapa を「Sinha 王」と呼んだ(II 775 以下)。この呼称は放棄された。というのも、彼らの名のいくつかにおいて正しい読みは -siṃha ではなく -sena だからである。M. Duff, Chronology 296 における名前の一覧は、順序においても Lassen の記述(II 786 以下)から大きく異なっている¹⁾。Lassen は Kṣatrapa をあまりに早い時代に置いた。彼はそれをギリシア・インドの王たちに接続させようとしたからである(II 756 以下)。他方、彼らの実際の Āndhra との関係(Rudradāman と Sātakarṇi、II 755)および Gupta との関係を、彼は当時十分に考慮しなかった。ただし IV 78 を参照。より古い Gupta は少なくとも Surāṣṭra においてインド・スキタイと関係している(II 752)。彼らはここで Valabhī に先行した(II 753)。両王朝とも西暦319年に始まる紀元によって計算していた(II 748)。彼が S. 751 で Gupta の権力が2世紀から5世紀まで続いたという見解であるとすれば(同じく S. 785²)、これは百年早すぎる設定である。しかし総じて Lassen は II 937 以下でより古い Gupta の権力を正しく描いており、とくに Samudragupta の権力を(S. 951)、Allahabad の Aśoka 柱にある彼を讃える碑文にもとづいて描いている(II 939 参照)。この同じ畏敬すべき柱から、Maurya と Gupta が、インドの古い歴史における最も輝かしい二つの王朝が、我々に語りかけるのである! Samudragupta の王国あるいは宗主権は北インド全体に及び、東は Nepāla と Kāmarūpa すなわち Assam——ここで初めて言及される国々——にまで及び(II 953)、Vindhya 山脈以南の王たちもその影響下にあった。古来インドの強力な支配者たちは、その宗主権のもとに他の王たちをも存続させてきたのであり、〔次ページに続く〕

原注

〔p. 175 からの続き〕pamitra がそのような祭を行っている。それは確かに古い伝承であったろう。おそらく Puṣpamitra は Samudragupta 以前にそれを行った最後の人物であり(*)、それゆえ Kālidāsa はその子 Agnimitra を選んだのであろう。Agnimitra において Kālidāsa は彼の王 Candragupta II——「その貨幣は401年から412年の日付を持つ」(Bloch)——を讃えている。Agnimitra の父 Puṣpamitra が馬祀祭を行ったように、Candragupta の父 Samudragupta もそうであり、また Raghu の父 Dilīpa もそうである。この並行は偶然ではありえまい。そして Candragupta の子が Kumāragupta と呼ばれたとすれば、Kālidāsa はその Kumārasambhava をもってこの王を讃えることを意図していたのかもしれない。——同じ方向に進むのが Andrzej Gawroński の詳細な研究であり、それは彼自身が創刊に加わった雑誌 Rocznik Oryentalistyczny(Polnisches Archiv für Orientalistik)第一部(Krakau 1914–1915, S. 43–82)における論考「The Digvijaya of Raghu and some connected problems」である。彼は次の結論に至っている。「that Raghu is meant to represent allegorically Samudragupta」(S. 61)、「that Kālidāsa wrote Raghuvaṃśa in order to flatter his new patron, Skandagupta, just as he wrote the Kumārasambhava in order to flatter his former patron, Kumāragupta」(S. 64)。

¹⁾ これらの君主のうち何人かは「Svāmī」の称号を持つ。Justi は Handbuch der Zendsprache S. 94 で、Neriosengh が古代イラン語の khshathrya を skr. svāmin で訳していることを指摘した。

Lassen はそれを個々に証明しようと試みている。より古い時代については、Dekkhan からドラヴィダ系民族 Āndhra あるいは Andhrabhṛtya の王国が、Godāvarī と Kistna にあったものとして知られており、それは Megasthenes の時代にまでさかのぼって追跡しうる(II 933)。しかし歴史においては彼らはより後になって初めて登場する。Purāṇa においてはこの名の王たちが Kaṇva に続く。彼らの王朝の創建者は前21年に最後の Kaṇva、彼の宗主を殺したとされる(S. 934)。この王朝の大部分の王は Sātakarṇi という添え名を持つ。Kṣatrapa Rudradāman は二度 Dakṣiṇāpatha の支配者 Sātakarṇi を破ったが、Lassen によればそれは前1世紀の前半のことであり、他方 Rudradāman はいまや後150年頃に置かれている(II 755, 934)。年代については Lassen 以来多くが変更された。この王朝の文学的に著名な王 Hāla に Lassen は II 634 で言及しているが、しかしまだ Saptaśataka——Weber が初めて1870年に公刊した——を知らずにである¹⁾。Bhāgavatapurāṇa(XII 1, 22)においては Āndhra 王朝の創建者は vṛṣala と呼ばれている(II 934)。同じ語で戯曲 Mudrārākṣasa においては Cāṇakya が Candragupta に呼びかけている。この語が Śūdra を指すとしても、それが必ずしも軽蔑の表現である必要はない。Suum cuique! Viṣṇupurāṇa III 10, 9 によれば Gupta はその名によって Vaiśya と特徴づけられている。Lassen は II 942 でこの事情から、「当時インドの法的状態に大きな変革が起こりつつあり、それはこの国の住民のうち、そのために資格を持たない階級から出た者たちが支配を掌握したからである」と推論している。彼はこれを国家の歴史についての節 S. 1110 で繰り返している。カーストの障壁を意に介さない征服者や成り上がり者は、それ以前にもいたであろう。

第II巻の第2版(1872)においては、たしかに多くが付加され多くが改善されたが、しかし本文は総じて同じままである。より深く踏み込んだ改訂は、眼疾によって Lassen には妨げられた。彼は序文でただ、新しい貨幣の発見の結果、Sinha 王朝の歴史を作り直さねばならなかったことを強調している。それは第2版の S. 915–937 でなされ、それは第1版の S. 775–799 に対応する。素材を彼に提供したのは、とりわけ J. Newton と Bhau Daji の仕事であり、後者にはこの巻でしばしば言及している。しかし Sinha 王の一覧 S. 926² は、依然として Kielhorn および M. Duff が立てた一覧と正確には対応しておらず、また Nahapāna が冒頭に欠けている。もっとも彼はこの人物に S. 793²(および IV 78)で言及してはいる。すでに欄外に付された頁数が示すように、著作の S. 752–937 においては、第2版で第1版の本文の大きな組み替えが行われている。

原注

¹⁾ Hāla が Sātavāhana という名をも持つことを、H. Jacobi は Weber の Saptaśataka 第二次改訂本の書評(Lit. Centralbl. 1883 Nr. 8)において Jaina の典拠から支持した。V. Smith は「Āndhra or Sātavāhana dynasty」と言っている。

§第 XXIV 章 LASSEN の『インド古代学』第III巻。政治史。

第III巻では S. 458 から政治史が続けられる。「第三期。Ballabhī 朝および Gupta 朝の始まりである西暦319年から、ムハンマド教徒のインド征服の始まりまでの時代」である。この時代の歴史の典拠についての節においては、新たにムハンマド教徒の報告が現れる。Lassen はこれについて Gildemeister の著作『Scriptorum Arabum de rebus Indicis loci et opuscula inedita』(Fasc. I, Bonnae 1838)と、我々がすでに上記第XVIII章で提示した Reinaud の諸著作によって知識を得ていた。この時期の土着の典拠は後代に由来し、Lassen によって主として無価値と評されている。Valabhī——Lassen は「Ballabhi」と綴る——、東 Hindustān の王朝、および北 Dekkhan の王朝については、碑文が確実な基礎を提供している(S. 499)。しかしここにも不一致が生じる。碑文は王たちを一面的に讃美し、彼らを Maheśvara の崇拝者と呼ぶが、他方玄奘は同じ王たちを仏教に傾いていたものとして描いている。Lassen は今日の Vincent Smith よりも詳しく碑文と文献的報告の内容に立ち入っているが、しかし Lassen が本文および王の一覧(S. 1159 以下、Beilage III)で依拠している Tieffenthaler、Wilford、Tod に代わって、Vincent Smith においては彼自身の批判は別として、より新しい研究者たちの検証作業が置かれている。とはいえ我々は、より古い歴史研究者たちがすでにかなり多くを集めていたことを忘れまい。碑文について言えば、いまや Kielhorn の「Genealogical or Succession Lists」(Epigraphia Indica 第VIII巻への Appendix I および II、Calcutta 1905–06)が信頼できる基礎を提供している。Lassen の王の一覧をこれと、あるいは Mabel Duff の Chronology of India(Westminster 1899)の「Dynastic Lists」と比較すれば、さまざまな訂正が生じる。たとえば「Ballabhi 王」の一覧(S. 501 以下、1159)では、年数が変わり、この王朝は M. Duff では495–766年を含み、「Içvaragraha」は Kharagraha と読むべきであり、また年代の付された碑文にもとづいてさらに一人の Kharagraha と五人の Śilāditya を加えるべきである。しかしこの王朝の最初の君主 Bhaṭārka と Dhruvasena がまだ Mahārāja の称号を持たず、ただ将軍にすぎなかったことは、すでに古い時代に気づかれていた。Mahārāja Dharasena(571年頃)は学者の庇護者としても讃えられ、彼のもとに Bhaṭṭikāvya の作者 Bhaṭṭi が生きていた(S. 512)。Valabhī の王国は時とともにさまざまな範囲を持った。Dhruvasena II(後629年頃)は Lassen によれば Mālava、Ānandapura、Valabhī、おそらく西 Guzerat(skr. Gurjara)、Mālava の南西にある地域 Aṭali と Kiṭa、Surāṣṭra の海岸、Narmadā と Taptī の中流域の地域を、Barygaza の港を含めて支配していた(S. 525)。支配は Valabhī から Rāṣṭrakūṭa に移り(S. 537)、そのうち Dantidurga はすでに Lassen において最初の大王として現れ、年号753を伴う。Kielhorn ではこの王朝は753–982年とされている。しかし Kielhorn が記載する多数の年代付き碑文に対して、Lassen に知られていたのは三つにすぎなかった(S. 537)。それに応じて王の名も増えた。そのうちの一人 Amoghavarṣa には Fleet が専論を捧げている(Ind. Ant. 1904, S. 197 以下)。Rāṣṭrakūṭa はまず Dekkhan において興り、そこで Vātāpi——現在の Bādāmi(Bijapur 州)——の Cālukya の支配を終わらせた。「Western Chālukyas of Bādāmi (Vātāpi), A. D. 578–757」および「Rāshṭrakūṭas of Mālkhēḍ (Mānya-〔次ページに続く〕

kheṭa), A. D. 753–982」は、Kielhorn においては南インドの最初の二王朝である。Lassen は Cālukya を大 Rājaputra 族の一支族と呼んでいる。この Cālukya の首都として、その銅板寄進状には Analavāṭa(Aṇhilvāḍ)が現れるが、しかし伝説によれば彼らは Sūryavaṃśa(Ayodhyā の)に由来する(S. 546 以下)。あのより古い「Western Chālukyas」の一覧(M. Duff S. 278)を、Lassen はここではまだ与えることができなかった。Mūlarāja と Cāmuṇḍa に始まる後代の Cālukya を、Lassen は Solaṅki の名のもとに扱っている。Abul Fazl によれば Mūlarāja の母がそう呼ばれていたのである(S. 556)。Cāmuṇḍa は Mahmūd von Ghazna によって追放された。この王朝の第8代の王が Kumārapāla(1143年頃)であり、Hemacandra の庇護者であり、彼自身も Jaina の教えに帰依していた(S. 567 以下)。Guzerat とその隣接地域の歴史を Lassen は S. 577 で、Abul Fazl と Tieffenthaler に従って「Baghela 王朝」をもって締めくくっている。名前は M. Duff S. 282 の「Chaulukyas of Aṇhilvāḍ: Vyāghrapallī or Vāghelā Branch」の最後の三つとしか一致しない。

S. 583 から Lassen は「Indus 地方の歴史」を始める。短い一節で彼は再びインド・スキタイに立ち返る。彼は中国の報告を碑文と結びつけている。J. Stevenson が公刊した Kāṇheri(Kennery)Inscriptions および Nāsik Cave-Inscriptions(Journal of the Bombay Branch of the R. A. S. V)の証言によれば、より古いインド・スキタイは Penjāb のみならず Sindh、下 Rājasthan、Guzerat、Khandes をも領有していた(S. 587)。小「Jueïtchi」(「チベット系民族」、S. 584)は後により北西インドに侵入し、Puruṣapura に定着した。Lassen はここでその指導者の一人 Nahapāna を挙げており、M. Duff S. 296 の Western Kshatrapas の一覧はこの人物から始まる。Nahapāna は Āndhra 王 Viliväyakura II である Sātakarṇi Gotamīputra によって破られた。Lassen はこれを後221年に置いた。M. Duff では彼の勝利は113年の項に、Vincent Smith(2d ed.)では126年の項に見いだされる。

Sindh の歴史(S. 594 以下)は、たしかにインド古代学に属するとはいえ、サンスクリット文献学においては大きな役割を演じていない。Lassen はここに Ensign、後に Lieutnant となった Postans の諸論考を見いだした。彼はペルシア語の典拠から報告している。「Account of the expedition of Chach (Chacha) extracted from the Chach Nameh, and extracts from the Tôhfat ul Khwán」(Journal der ASB VII (1838), 93 以下)、および「from the Tôhfat ul Kiram」(同書 S. 297 以下)である。Postans はさらに同 Journal 第XIV巻において「Tohfât-algirâni」の翻訳を加えた(補遺を参照)。自ら王となったバラモン「Chach」の物語(M. Duff では631年の項)——Lassen はそれを詳しく再話している——について、我々は他に何も知らない。この王の子のもとで既にアラブ人が Sindh に来た。Mahmūd von Ghazna の Multān への遠征を Lassen は S. 647 以下で扱っている。

次いで「同じ時期における内陸および東インドの歴史」が続く(S. 651 以下、西暦319年から)。「後期 Gupta」の歴史はとりわけ不十分である。彼に知られていた唯一の碑文は「Buddhagupta」——Budhagupta と読むべし——の碑文であり、Prinsep が Journal der ASB. VII 633 に公刊していた(Fleet, Corp. Inscr. III S. 80, Nr. 19 参照)。この Budhagupta の Gupta 家における位置は不確かである。彼はなお今日も Lassen と一致して M. Duff と Kielhorn によって484年の項に〔次ページに続く〕

置かれている(碑文の年代165を319に加えたもの)。ただしより古い Gupta に接続されている。後期 Gupta に属するもう一人の Gupta、Devagupta を、Lassen は Vākāṭaka の王 Pravarasena II の「Seonī (Siwanī) Grant」——5枚の銅板——から知っていた。それは当時すでに Prinsep が Journal der ASB. V 726 に公刊していた(あまり正確ではなく、しばしば sūnoḥ の代わりに sthāne とある!)。Pravarasena は Rudrasena と Prabhāvatīguptā——Mahārājādhirāja Śrī-Devagupta の娘——の子であり、それは Pravarasena の第二・第三の碑文にも同様に記されている。第二と第一は Fleet の Corpus Inscriptionum III S. 235 以下(Nr. 55 および 56)にあり、第三はようやく Kielhorn によって Epigraphia Indica III (1894) S. 258 以下に公刊された。Lassen は Devagupta が380–400年に統治したと考えた(S. 654)。しかし Devagupta は、Bühler、次いで Kielhorn(Epigr. Ind. VII 155)が刊行した碑文によれば、7世紀初頭に統治した有名な Harṣavardhana の兄 Rājyavardhana によって破られているので、M. Duff がようやく600年の項に置いているのがほぼ正しいであろう。

Lassen は「後期 Gupta の広大な権力の中心」(S. 658)をも Magadha に求めたが、しかし彼がここで(S. 1161 参照)玄奘の著作から取っている名前は、M. Duff および Kielhorn における Guptas of Magadha の名前と一致しない。後者は重要な Ādityasena の Apshaḍ Stone Inscription(Apshaḍ は Bengal Presidency の Gayā District にある村)に由来する(Corp. Inscr. III 200, Nr. 42)。Lassen は「Balāditya」——Bālāditya と読むべし——を後期 Gupta の一人とし、彼を530年まで統治させている(S. 667)。彼は Śākala(Pendschab)に居城を持つインド・スキタイの Mihirakula と戦い、後者は最終的に彼の手中に落ちた(S. 666)。Lassen は玄奘に従って語っている。Mandasor(「in the Western Mālwa division of Central India」)の有名な碑文(Corp. Inscr. III Nr. 33 および 35)は、彼にはまだ知られていなかった。判明したところでは、Bālāditya は Nṛsiṃhagupta という名をも持ち、より古い Gupta に属し、また彼に従属していた王 Yaśodharman が Mihirakula に対する勝利を得たのであるが、しかしその時期は Lassen が挙げたのとほぼ同じで、M. Duff では530年頃、Vincent Smith(2d ed. S. 300)では528年頃である。

Kanyākubja に支配した王たち——Lassen は彼らを Āditya と呼んだ——についての Lassen の扱いは、訂正を必要とすることがより少ない(S. 668 以下)。彼らは Pāla の先行者であった。問題は主として、王 Śilāditya についての玄奘の有名な報告である。Lassen は S. 773 で、Stanislas Julien による Si-jü-ki の翻訳が、彼の著作のこの部分の印刷中に出たと述べている。すでに Lassen はそこから、Śilāditya が643年(V. Smith では644年)に催した大宗教集会——玄奘自身が参加した——の記述を取っている。すなわち Kanyākubja におけるもの——Nālanda の Bhikṣu たちの発意により、そこではさまざまな学派と宗派の長が論争した——と、Prayāga におけるもの——そこではさまざまな宗教共同体の帰属者が施しを受けた——である。Śilāditya はインドの偉大な王たちの一人であり、寛容な仕方で一方のみにその恩顧を分け与えることをしなかった。Lassen はここで、玄奘の Śilāditya が文学史上知られる王 Harṣavardhana あるいは Thāṇesar の Śrī-Harṣa と同一であることには言及していない。700年頃 Kanyākubja に王 Yaśovarman が支配し、彼のもとに〔次ページに続く〕

詩人 Vākpati、Rājaśrī、Bhavabhūti が生きていた。最初の二人を Lassen はなお未知としている(S. 715)。

東インドの歴史」という表題のもとに、Lassen はまず Gauḍa すなわち Bengal に向かう(S. 717 以下)。彼の典拠は Abul Fazl、Tieffenthaler、さらに Montgomery Martin の「The Antiquities etc. of Eastern India」、Walter Hamilton の「A Description of Hindostan」、それに加えてすでに Wilkins と Prinsep が公刊した碑文である。それは Pāla(「Lokapāla」、Gopāla、Devapāla 等)および Vaidya あるいは Sena の王朝である。Sena のうち Lakṣmaṇasena は Pischel の論考によって知られるようになった(S. 749)。「Lokapāla」は Lassen によれば760年頃に、Vaidya は1040年頃に支配権を得たことになる(S. 762)。ここには、より後代についてであるが、W. Pertsch が刊行した歴史的テキストも組み込まれる。「Kṣitiçavançāvalicaritaṃ. A Chronicle of the Family of Raja Kṛishṇa Chandra of Navadvîpa, Bengal」(Berlin, 1852)である(S. 759)。

なお11世紀においても Mahīpāla とその二人の子は仏教に帰依していた。Lassen が次いで扱う諸国、Kāmarūpa あるいは「Asam」、Tripura、Nepāla は、インドの全般的な歴史にはあまり関与していない(S. 762 以下)。Nepāl については彼は主として Hodgson の著作を用いた。

内陸インドの歴史」の節(S. 782 以下)は、後代の四つの国、Magadha、Bandelakhand(Yamunā と Narmadā の間)、Mālava、Kanyākubja を、ムハンマド教徒の征服まで含んでいる。Bhojacaritra と Bhojaprabandha における説話的な物語と、ムハンマド教徒の著作家の報告を別とすれば、典拠は主として碑文であり、その数は時とともに著しく増えた。しかし Lassen はすでに、後に Kielhorn(Ep. Ind. I 137)がより信頼できる形で刊行した Khajurāho の大碑文を、論考「Notice of an Inscription on a Slab discovered in February 1838 by Captain J. S. Burt, Bengal Engineers in Bundelkhand, near Khaturpur」(Journ. ASB. VIII 159)から知っていた。この碑文と類似の碑文から Candrātreya 王朝——近代の名称では「Chandella」——が知られるようになった(Kielhorn, Ep. Ind. VIII, App. I S. 15 等参照)。しかし名前は当時まだ誤って読まれており、Lassen における Vāgyati、Vahila、Banga は Vākpati、Rāhila、Dhaṅga と読むべきである等々である。これら Magadha と Bandelakhand の王たちを Lassen はかなり正しく800年から1150年の間に置いた。当時の戦いにおける Kālañjara の要塞についても、すでに Lassen において多く語られている。

ほぼ同時期に Kanyākubja には Yaśovigraha に始まる王朝が支配していた。Lassen はこれを Rāṣṭrakūṭa に数えている(S. 808 以下)。この名の近代形は Rāṭhōr である(M. Duff 285 参照)。しかしこの王朝が Rāṣṭrakūṭa に属するというのは、V. Smith 2d ed. 355 が言うように神話である。Kielhorn(前掲 13)では彼らは本来の家名 Gāhaḍavāla のもとに現れ、M. Duff では Gaharwār である。

内陸インドの西部についても、我々はすでに Lassen において最も重要な三つの王朝が挙げられているのを見いだす。「Prāmāra」(Lassen S. 572 参照)、Tomāra、Cāhumāna である(S. 821)。「Prāmāra」という名称形はいまや放棄されている。Lassen は Mālava の Paramāra を十の碑文にもとづいて扱った。この王朝の最も著名な王は Dhārā の Bhoja であり、説話的な Bhojaprabandha の主人公で、Lassen によれば(S. 844)997年から1053年まで統治し、〔次ページに続く〕

その宮廷に多くの詩人と学者を集めた¹⁾。王 Vikramāditya と同様である。Vincent Smith(2d ed. 365)は彼とその先行者 Muñja にわずか数行しか割いていないのに対し、Lassen は両者について伝説的な報告のすべてをも与えている。とくに後代の王たちは、Lassen においてすでに M. Duff の Dynastic List とまったく同じように見いだされ、Hariścandra のもとでの分家の分岐(Khandes における)も、M. Duff と同様に(1138年の項)言及されている。同時代の王たちの相互関係も Lassen は論じており、彼はいかなる困難も回避せず、また常に、傍らにある重要な個々の事項をもその全体的叙述に組み入れようと努めた。たとえば Tod から引き継いだ Vāghelā 王 Arjunadeva の1263年の碑文であり、それは Kielhorn の Inscriptions of the North No. 228(App. to Ep. Ind. Vol. V)にある。

次の節「Kabulistan および Tomāra 王朝と Cāhumāna 王朝の歴史」(S. 879 以下)において、Lassen は再びいくらか古い時代に戻る。当時仏教が支配していた Kabulistan の諸地方については、玄奘が Kapiśa 王国について貴重な報告を提供している。それは Tukhāra の地に隣接していたが、その文字と言語について Lassen はすでに一言している(S. 880)。Tomara は、彼らが建設した DelhiLahore に支配したが、それは Lassen が想定したよりも後代のことである。彼らは Mahmud von Ghazna に屈し、Lassen は Mahmud による Thāṇesar と Mathurā の破壊をムハンマド教徒の典拠に従って描いている。Delhi における Tomara の支配が673年に始まったということ(S. 897)は、正しくないことが判明した。「Tōmara family」についての碑文上の証言は、Kielhorn の Inscriptions of Northern India において初めて見いだされ、最古のものは Samvat 1030 の碑文である。より豊富に碑文の典拠が流れていたのは、Lassen の時代にすでに Cāhamāna(これが正しい形)についてであり、これはインド全土に広く分布した王朝である(S. 923 以下)。彼らは Ajmīr(skr. Ajamīḍha)と Śākambharī(Sambhar)に主たる本拠を持っていた。すでに1834年に、この王朝にとって最も重要な碑文が Sergeant E. Dean によって「on the Hill of Unchāpahar, in the Shekāwatī Territory」に発見され、まもなく W. H. Mill によって公刊された(JASB. IV (1835) 361 以下および 367 以下)。Kielhorn による新改訂が Epigr. Ind. II (1894) 116 以下にあり、Inscriptions of Northern India No. 44 を参照。この大碑文は Samvat 1030(973年)の日付を持つ。Lassen における Samvat 1018 という日付は、それが発見された Śiva 神殿の廃墟の、その神殿の建立に関わる。この神殿の立つ丘は Harṣa あるいは「Unchāpahar」と呼ばれる。8人の王の名はすでに Mill が正しく読んでおり、Güvaka と Candana もそうであるが、Lassen はそこに誤った文字を持ち込んでいる。碑文の王は Vigraharāja であり、したがって彼は Samvat 1030 頃に統治した。この名の後代の Cāhamāna が文学史に登場する。Ajmīr で発見された Samvat 1210(1164年)の日付を持つ玄武岩板は、二つの戯曲の大きな断片を含んでいる。一つは Lalita-Vigraharāja-nāṭaka で、彼を讃えて Somadeva が著したもの、もう一つは Harakeli-nāṭaka で、彼自身が著したものである。Lassen の時代の後になって初めて発見されたこれらの板は、その碑文 Prākṛt のゆえに特別の価値を持つが、Kielhorn によって〔次ページに続く〕

原注

¹⁾ 彼らの名前は Lassen S. 849 を参照。王 Bhoja 自身に帰される著作——そのうち Yogasūtra への注釈 Rājamārtaṇḍa が最もよく知られている——は Aufrecht, Cat. Cat. 418 に記載されている。

刊行された(Göttingen 1901、Göttingen 王立学術協会創立150周年記念論文集所収)。Gött. Nachrichten 1893年8月2日を参照。Lassen はこれらの王の事績、ムハンマド教徒——Vigraharāja の戯曲では Turuṣka と呼ばれている——に対する彼らの戦いを、ムハンマド教徒の歴史家に従い、また Tieffenthaler と Tod における土着の典拠に従って詳細に描いており、1193年の最後の王 Pṛthvīrāja の敗北にまで至っている。相隣接するインドの王たち、Cālukya、Tomara、Paramāra、Cāhamāna、Rāṣṭrakūṭa は互いに一致せず、ムスリムの戦術に屈したのである(S. 958)。この節の結びに Lassen はもう一度、総括的に Rājaputra に立ち返る。彼らはインドの Rājputāna と呼ばれる地方に名を与えた人々である(S. 968 以下)。その起源と国制についてである。Lassen は上述の王朝すべてを Rājaputra に数え、彼らを古い Kṣatriya——トゥラン系諸民族の侵入によって揺り動かされ動き出した者たち——と呼んでいる。Paramāra も Cāhamāna も、その本来の居住地として Arbuda 山、現在の Abu を挙げている(S. 971)。Lassen が S. 981 で Rājaputra のインド系の出自を強調するのに対し、Vincent Smith はその Early History(2d ed. S. 373 以下)の対応する章「The Rājpūt Clans」において、Rājaputra には外来の征服者の血が多く流れているであろうと正当に推測している。

続く節(S. 984 以下)において Lassen は、先に中断した Kaschmir の歴史を再び取り上げ、Rājataraṅgiṇī の叙述にところどころ中国の典拠からの記述を挿入している。Kaschmir 王の貨幣についても Lassen は言及している(S. 1032)。何人かの王が重要なのは、彼らによってその宮廷に生きた詩人や学者が年代づけられるからである。そのような例はより多く、後に Bühler と Stein によって知られるようになった。Lassen は Rājataraṅgiṇī に見いだしたものを伝えている。王 Jayāpīḍa はその王国で Mahābhāṣya の研究を新たに導入させ(Rājat. IV 488)、また自ら言語学者 Kṣīra——Amarakośa の注釈者——に教えを受けた。Jayāpīḍa の顧問に属していたとされる他の詩人・学者と並ぶ Vāmana の著作についても、Lassen はある程度の知識を持っていた(S. 1009)。Jayāpīḍa は Lassen によれば785年に没したが、M. Duff S. 68 によれば779年から813年まで統治した。この王のまもなく後に、Avantivarman とともに旧王家と縁続きの王朝が王位に就いた。Avantivarman の宮廷の詩人たちの作品は残っていない。H. Brockhaus の Kathāsaritsāgara 版の序文から Lassen は、この大詩篇の作者 Somadeva が Kaschmir の王 Harṣadeva の時代に生きたに違いないことを知った。しかし彼が誤ったのは、戯曲 Ratnāvalī をもこの時代に置き、Wilson と同じくこの戯曲の冒頭に言及される Harṣadeva のうちにこの名の Kaschmir 王を見たことである。インド文化史にとっての Rājataraṅgiṇī の重要性は、いくら高く評価してもしすぎることはない。というのも、この Kaschmir の年代記がより後代の時代に、またインドの全般的歴史により深く介入することのなかった一地方に関わるものであるにせよ、Kaschmir は古来隣接するインド諸国と密接に結びついており、また Kaschmir の王たちはその本性と統治の仕方全般において、他のインド王朝の王たちと異なっていたわけではないからである。〔次ページに続く〕

Vincent Smith はその判断を次の一文にまとめている。「Few countries can rival the long Kashmīr list of kings and queens who gloried in shameless lust, fiendish cruelty, and pitiless misrule」(Early Hist. 2d ed. S. 346)。同様のことをすでに Lassen も述べている(S. 1034, 1036)。Kalhaṇa は Kaschmir の王たちを一人の歴史家として描いたのであり、Bāṇa がその Harṣacarita において Thāṇesar の Harṣa を描いたような讃美者としてではない。インドの王たちがこれほど鋭い光に照らされているところは他にない。Kaschmir 王の典型的な弱さと犯罪、その殺害行為は、古今の他のインドの王たちについても、またその他の点では偉大な人物についても報じられている。他方、Kaschmir 王の統治には、より喜ばしい行為も欠けてはおらず、Lassen はその詳細な叙述においてそれらをも同様に浮かび上がらせている。それには彼らの建築と寄進が属し、そこには彼らのさまざまな宗教に対する関係が表現されている。より古い系統の最も傑出した王として Lassen は Lalitāditya(S. 994 以下)を挙げており、彼は733年頃に統治した。我々はその治世下における最高の国家官職の新編成について知る(Rājat. IV 140 以下)。Lassen は繰り返し Kāyastha すなわち書記の政治的重要性に注意を促している(S. 988, 1088, 1091)。Kaschmir におけるムハンマド教徒の支配を彼は1343年からとしている(S. 1147)。結びの所見(S. 1148 以下)——そこで彼はとりわけカースト制と村落制をインド諸国家の二つの基盤として論じている——において、彼はその歴史的・政治的な眼力を示している。

§第 XXV 章 Lassen『インド古代学』第IV巻。政治史。

第IV巻前半の歴史的部分は、東インドおよび南インドの諸地方、すなわち後代になってはじめて一定の政治的・文化的意義を獲得した地域に関わる。Orissa については Lassen は『Asiatic Researches』第XV巻所収の Andrew Stirling の論文 "An Account, Geographical, Statistical and Historical of Orissa Proper or Cattack" を利用し、さらに Prinsep によってすでに公刊されていた三つの碑文を用いた。とりわけ重要な第二の碑文、すなわち Anumakoṇḍa の Kākatīya 王 Rudradeva の碑文(Śaka暦1084年)は、1882年に Fleet が『Indian Antiquary』XI 9頁以下においてより正確に記述し校訂・刊行した。この碑文によって知られる Rudradeva の事績は、M. Duff の152頁に1150年の項のもとに記載されている。Kākatīya 王朝の系譜は Kielhorn が Inscriptions of Southern India(Indian Antiquary VIII, App. II, 18頁)において立てた。Rudradeva は、Lassen によれば1125年に Orissa を征服した。それ以前に Orissa を支配していた「Keçari 王朝」——Lassen の、年代の確定されていない第一の碑文がこれに関わる(4頁、968頁参照)——については、なお確実な年代が欠けている(注1)。Lassen の第三の碑文に見える Aniyāṅka-Bhīma の名は、Hultzsch が Epigr. Ind. VI(1900年)268頁に公刊した Śaka暦1093年の碑文に再び見出され、

注1) Stirling による Orissa の Vaṃśāvalī の翻訳は ASB. の Journal VI 756–766頁にある。A. Stirling は1793年頃に生まれ、1813年にインドへ渡り、Political Department に勤務し、1830年に Calcutta で没した。

また Kielhorn の Epigr. Ind. VII, App. 第581号にも見える。Aniyāṅka-Bhīma については、Lassen は Stirling の報告にもとづいて多くを語ることができた。Orissa の歴史は、「Telingana」の歴史および Muhammad 教徒の「Bahmanī 諸侯」の歴史と切り離すことができない。これらの戦闘については、ひとり Ferishta のみが信頼に足る報告を与えている(46頁)。Lassen が Orissa 諸侯の称号として挙げる Gajapati(たとえば53頁)は Gaṇapati に改めねばならない〔原文のまま。Gajapati が通行の形であり、この箇所の指示は不審〕。年代の記載も必ずしも常に正確ではない。Lassen によれば Pratāpa Rudrasena II 世は1524年に没したことになるが(56頁)、M. Duff はその即位を1294年の項に記している。彼の時代に Kavi Karṇapūra の戯曲 Caitanyacandrodaya が属し、Lassen はこれを Rājendralāla Mitra の校訂本(Calcutta 1851年)によって知っていた(56頁)。Lassen は Orissa の歴史を Akbar 帝国への併合に至るまで追跡し、Stirling に従ってその一部は古代インド的な国制についての概観を与えている。Captain E. Fell および R. Jenkins の碑文に関する論文——H. H. Wilson の寄稿とともに『Asiatic Researches』第XV巻に公刊されていた——から、Lassen は Orissa の西方における Yādava および Haihaya の諸王国について知った(71頁以下)。それからより重要な Cālukya 王朝に移る前に、彼は J. Stevenson の Kāṇheri・Nāsik 等の石窟寺院碑文に関する諸論文(注1)をより立ち入って研究した結果、Āndhrabhṛtya の Śātakarṇi Gautamīputra および Kṣatrapa の Nahapāna と Uṣavadāta へと今一度立ち返っている(78頁。上掲177、179頁参照)。ここでも Lassen はこの Śātakarṇi を紀元後3世紀初頭に置いている(89頁)。Cālukya の種々の王統の中に見通しを得ることは容易ではない。史料は碑文のみである。Lassen はここに補遺として「Western Chālukyās of Bādāmi」の諸王名を挙げている。これについてはますます多くの碑文が知られるようになっていた。名前は Jayasiṃha I 世に始まり、Kielhorn(Epigr. Ind. VII, App. 2, 1頁)および M. Duff(278頁)の一覧とかなりよく一致する。この王朝の最も強大な君主は Pulakeśin I 世であった(96頁以下)。Lassen はこの王に関わる年代として Śaka暦411年すなわち紀元489年を挙げるが、M. Duff は550年としている。609年に Kanyākubja の王 Harṣa を破った王 Pulakeśin II 世を、Lassen は Satyāśraya の名でのみ言及している。これはこの Cālukya 家の人々が固有の名と並んで用いた称である。Lassen は、この Satyāśraya が Harṣavardhana という王を破ったと報告しているが、それが有名な Kanyākubja の Harṣa であったとは信じていない(100頁)。同じ Satyāśraya の治世に、Śaka暦556年の有名な Aihole の碑文が属する。そこには詩人 Ravikīrti が Kālidāsa および Bhāravi と比較されている。この碑文はまだ Lassen には知られていなかった。Epigr. Ind. VI 1 を参照。Kalyāṇa(Bidar 所在)はすでに Pulakeśin I 世の都であったにもかかわらず、Kalyāṇa の Cālukya という名称が用いられるのは、Taila すなわち Tailapa II 世に始まる後代の君主の系列(紀元973–1189年)についてのみである。Kielhorn 前掲書7頁、M. Duff 278頁を参照。すでに Lassen はその名前と年代を正しく記していた(103、108頁)。Dekkhan における Cālukya の領域の総称は Kuntaladeśa であった(118頁)。Lassen の叙述から明らかなように、Cālukya の下では Jaina が著しく台頭したが、これらの君主の大多数は Mahādeva の崇拝者であった。

注1) Nāsik の碑文について Lassen は II² 1184 において W. West および Arthur W. West の論文 "Nasik Cave Inscriptions"(JBBRAS. VII)を挙げている。

Lassen はまた、Mahāmaṇḍaleśvara あるいは Mahāsāmanta として Cālukya の宗主権のもとにありながら、同時にその支配を掘り崩しもした四つの有力な家系、すなわち Kalacuri、Śilāhāra、Kādamba、Raṭṭa をすでに指摘することができた(110頁以下)。それらの王統表(Dynastic Lists)は Kielhorn および M. Duff において補完された形で見出される。

Dekkhan のさらに南方、Mysore に至るまでの地域には Yādava が支配しており、彼らは自らを古い Candravaṃśa に属するものと考えていた(122頁以下)。碑文によって四つの系統が知られるに至った。すなわち Devagiri、Dvārasamudra、Konkana、Vijayanagara の Yādava である。Lassen の知識はイギリス人たちの著作、すなわち Walter Elliot の "Hindu Inscriptions"(RAS. の Journal IV〔1836年〕1頁以下)、Wilks の "Historical Sketches of the South of India"、Francis Buchanan の著作 "A Journey from Madras etc." に由来する。Dvārasamudra の Yādava、Lassen のいう「Ballāla 諸王」は、Kielhorn および M. Duff においては「The Hoysaḷas」と呼ばれている。これらの人名について Lassen は124頁注2で論じている。これらの君主のうち、Rāmānuja の庇護者としての Viṣṇuvardhana がわれわれの関心を惹く。Lassen は H. H. Wilson に従ってこれを報告している。この王朝の時代は11世紀から14世紀である。Rāmānuja は1091年頃に生きた。Devagiri の Yādava によってわれわれは再び北西 Dekkhan へと導かれる(135頁以下)。Devagiri——現在の Daulatābād——と Nāsik との間の地方は Sevana という名を有していた。それゆえこの Yādava の二系統のうち古い方が、Kielhorn(前掲書12頁)および M. Duff においては Seuṇadeśa の Yādava と呼ばれている。Kielhorn はこれを1000–1142年および1191–1305年に置くが、Lassen の年代設定もそれほど大きくは隔たらない。これらインド人君主の最後の一人 Rāmacandra すなわち Rāmadeva の、Muhammad 教徒の征服者たちとの戦いおよびその屈服については、Lassen が Ferishta に従って詳細に叙述している。より長く持ちこたえたのは Vijayanagara の諸王であった(156頁以下)。当時新たに建設されたこの都市の描写において、Lassen は Vetāla の神殿に言及しており、これは Vetālapañcaviṃśatikā を想起させる。14世紀後半には Vijayanagara に輝かしい王 Bukka が君臨し、その大臣 Mādhavācārya は Veda 注釈の著者 Sāyaṇācārya の兄弟であった(168頁以下)。これらの王の戦闘についても Lassen は主として Ferishta に従って語っている。王名については、当時知られていた碑文によって確認し補足することができたが、碑文の数はその後著しく増加した。Kielhorn がその一覧表(Ep. Ind. VIII, App. II, 14頁以下)において碑文の記載にもとづいて区別した Vijayanagara 諸王の三王朝は、Lassen においてはそれほど明確には現れないが、それでも彼はすでにほとんどの名を、大部分は正しく挙げ、加えて伝承されている限りでの事件の生き生きとした像を与えている。第二王朝からは Kṛṣṇarāja について、第三すなわち Karṇāṭa 王朝からは Rāmarāja について多くを語ることができた。1565年の Talikoṭa の戦いで Rāmarāja は殺され、Vijayanagara 諸王の勢力は打ち砕かれたが、Rāmarāja 一族の君主たちはなおしばらくの間支配を続けた(224頁以下)。この部分ではすでにポルトガル人が登場する。その報告については Lassen は1778年に公刊された João de Barros の歴史書を用いた(195頁)。彼およびその後継者 Diogo do Couto(1616年没)については Jayne の "Vasco da Gama" 300頁を参照。

Dekkhan 南部における Cola、Cera、Pāṇḍya、Kerala の歴史は、Lassen が第IV巻で扱った

時代においては、一方では Cālukya および Yādava の歴史と、他方では Ceylon の歴史と絡み合っている(230頁以下)。Bauddha、Jaina、Śaiva の諸宗教は互いに交替した。Lassen は Tiruvalluver およびタミル語における新たな文学の成立にも注意を払っており、その際には宣教師 K. Graul の著作を参照している(238頁)。Dekkhan の神々、Dekkhan の国制、および Malabar のカーストに関する彼の叙述は、イギリス側の資料に由来する(264頁以下)。

紀元320年以降の Ceylon の歴史については(279頁以下)、Lassen は Turnour の著作の及ぶ範囲においては Mahāvaṃsa の原典そのものを利用することができた。残りの部分については、上掲117頁に述べた Upham の不備な著作および W. Knighton の History of Ceylon(Colombo 1845年)に頼らざるをえなかった。なお直接 Mahāvaṃsa に由来するのは Buddhaghoṣa に関する報告であり、彼は Magadha から Ceylon に渡り、そこで Tripiṭaka のシンハラ語 Arthakathā を Pāli に翻訳した(282頁)。

後インド(インドシナ)の歴史(351頁以下)は、Arakan、Barma、Pegu、Siam、Labong すなわち下 Lao、Kamboja、Tonkin、Cochin-China の歴史から成る。Arakan については Lassen は J. Phayre および Ch. Paton の論文を、Barma については J. Crawfurd の Journal of an Embassy to the Court of Ava を、Pegu と Siam についてはとりわけ司教 J. Bapt. Pallegoix の著作および J. Low の諸論文を、Labong については D. Richardson の論文を、Kamboja については Abel Rémusat の Nouvelles Mélanges Asiatiques を、Tonkin と Cochin-China から成る Annam については Ritter の『アジア』第III巻および Gützlaff の『中国史』を用いた。Lassen は、これらの国家がすべてインドのアーリヤ文化から、とりわけ仏教を通じていかに影響を受けたかを叙述した。インド文献学にとって重要なのは、Ceylon の Pāli-Tipiṭaka が Barma と Siam に伝わり、そこに保存されたということである。

インド諸島の歴史(460頁以下)およびマレー人の歴史(541頁以下)についても、Lassen は Raffles、Crawfurd、Friederich、Marsden その他の第一次研究者たちが明らかにしたことを再現しうるにとどまった。Raffles と Crawfurd はすでに W. v. Humboldt が Kawi 語に関する著作を著した際の典拠であった。Batavia のオランダ人 R. H. Th. Friederich は、Bali の言語と文学に関する研究——これについては Spiegel が DMG. の雑誌 V 231 で報告している——のゆえのみならず、Java および Sumatra で発見されたサンスクリット碑文に関する業績によっても考慮に値し、Lassen はこれを463頁以下で利用している。これらの碑文は紀元7世紀に属し、当時かの地では仏教がバラモン教よりも優遇されていたことを示している。仏教は北インドから Java へ伝わったのである。

かくして Lassen は、少なくともドイツ語では最初にして今日に至るまで唯一、インドとその諸国家・諸王朝の政治史を、個別的な文献学的研究にもとづき、かつ諸連関を探る歴史家の眼をもって、Muhammad 教徒の征服に至るまで叙述したのであり、これは第一級の業績である。Lassen とは独立に、主として Bhandarkar が碑文と貨幣に依拠して研究をさらに進めた。この分野における学問の進歩は、二つの新しい英語の著作、すなわち C. Mabel Duff の Chronology of India および Vincent A. Smith の Early History of India に集約されている。

§第 XXVI 章 インド古代学 II、III、IV、文化史。

Lassen は政治史のなかに、彼が想定した時代区分に対応する文化史的な章を挿入しており、そこでは時に若干の反復が見られる。第一の時代、すなわち Buddha 以前の時代においては、伝説・歴史・文化史をなお厳密に区別することができなかった。

第II巻にはまず「文化史概観」(439–746頁)があり、Buddha から Vikramāditya に至る時代を扱う。彼は仏教と、それと並存したバラモン教から始める。ここでは最古の仏教の根本教説として「原因と結果に関するきわめて人為的な理論」(すなわち paṭiccasamuppāda)および、苦の滅尽に至る八支の道を伴う四聖諦が挙げられている(461頁)。「一切の現象は内容空虚であり実体を欠く、すなわち śūnya かつ anātmaka である」という教説——Lassen はこれを他の二つの教説に先立てて置く——は、最古の資料においてはそれほど明確には現れない。Nirvāṇa は「仏教の開祖の見解によれば、霊魂の最高神への回帰でもなければ、諸元素への解消でもなく、思惟する存在の完全な滅尽ないしその全き消滅であって、これこそがこの語の本来の意味である」(462頁)。Buddha の生涯については、彼はすでにこの時代の政治史の冒頭で叙述していた(65頁以下)。その典拠は Burnouf、Csoma、Turnour の旧著であったが、第2版70頁以下および437頁以下では、1872年までに現れた Köppen、Wassiljew、Schiefner、Spence Hardy、Barthélemy de St-Hilaire の新しい著作にも言及し、そこからいくらかを取り入れている。Rājendralāla Mitra の Lalitavistara 校訂本は当時まだ完成していなかったが、Foucaux によるチベット語版の翻訳はすでに存在していた。Pāṇini 伝説および最古の文法家たちについては、Colebrooke その他と並んで Böhtlingk の Pāṇini 校訂本とその序論をも利用することができた(471頁以下)。Aindra 文法についても彼はすでに言及しており(475頁)、これについては後に A. Burnell が注目すべき書物を著した。「インド諸言語の歴史」の章では、489頁において Pāli は「Yamunā と Vindhya との間の西部 Hindustan の——Mālava を含む——民衆語の最古の現存形態」と見なしうると推測しており、これは後に R. O. Franke が展開した見解に近い。490頁以下では「仏教徒の聖典は最初いかなる言語で編まれたか」という問題を論じ、Hodgson の見解、すなわち「仏教の哲学的教説はバラモンの聖なる言語で説かれ、他方、民衆に向けられた義務と法についての教誡は民衆語で説かれた」という見解に賛同している。彼はこの二言語性を、Buddha の対話と説法が「最下層の人々のもとでは民衆語で、上層の人々、とくにバラモンのもとではサンスクリットで」伝えられたとも解している(493頁)。Burnouf も同様に考えていた。叙事詩の歴史については、彼は第I巻の叙述を参照するよう指示している。彼は諸種の形態と種々の

Mahābhārata の起源についての記述を扱い、最後の改作を第一の Aśoka と Candragupta との間の時代に置く。Bhagavadgītā は後に付加されたものである(493頁以下)。Rāmāyaṇa の最初の成立も同じ時代に属する(499頁)。第2版で Lassen は、ここで長い補説を加えて Weber の Rāmāyaṇa 論に反論している。彼は、Rāma 伝説の最古の形が Daśarathajātaka に存する可能性は認めるが、Weber の他の見解、すなわち Rāmāyaṇa が仏教徒とバラモンの対立を詩的に表現したものであること、Sītā の掠奪がホメロスの詩篇の知識にもとづくこと、現存する形の詩篇は紀元3世紀以前には置きえないことを否定している(502²頁)。同様に第2版では、この時代における動物寓話の存在についての僅かな叙述に関して Benfey の Pañcatantra を参照させているが、後にかくも有名になったこの作品に立ち入ることはしていない(506²頁)。演劇の成立に関する章では、彼は以前から表明していた見解、すなわち「はるかに後代の詩篇である Gītagovinda において、われわれは最古のインド演劇の一例を有する」という見解を主張し(504頁)、さらにとくに戯曲における種々の Prākṛt について論じている。文学のその他の分野、彫刻史、建築史は、次の時代においてはじめてより豊かな内容をもつ。これに対して、ここではすでに商業の歴史(519頁以下)およびインドに関するギリシア人の知識の歴史(621–746頁)が大きな比重を占めている。ここに Lassen の著作と Robertson、Heeren、v. Bohlen の先行諸著作との連関がとりわけ明瞭に現れる。というのも、これらのインドに関する旧著において主として扱われていたのはまさに同じ対象であり、インド史の学問的取扱いはギリシア人・ローマ人の報告から始まったからである。しかし Lassen は原典そのものから直接汲み取っている。

第II巻1069頁以下にある、Vikramāditya から古い Gupta 諸王に至る時代の文化史概観も、先行する概観と同じ計画に従って構成されている。仏教の歴史においては、その北方への伝播、Khotan および中国への伝来、Ādibuddha の教説と人間 Buddha の先行者たちについての教説、仏教諸派、および仏教の楽土 Sukhāvatī が扱われている。バラモン教の歴史においては Lassen は、Śiva 崇拝は西インド諸地方に、Viṣṇu 崇拝は東インド諸地方に優勢であったと述べ(1088頁)、とりわけ貨幣の証言に依拠している。そこからそれはこの時代に後インドおよび Java へ広まったという(1093頁)。バラモン教の諸派のうち、彼はより詳しく Pāñcarātra を論じ、これはおそらく Viṣṇu 派の Bhāgavata と同一であるとする(1095頁以下)。その教説の創始者として Śāṇḍilya が挙げられ、その根本原理は bhakti すなわち敬虔な帰依である(1098頁)。Lassen はここにインド人のキリスト教との接触に関する一章を置いている。彼は bhakti を真正にインド的な宗教性の形態とみなし、Viṣṇu の avatāra および Kṛṣṇa の神的崇拝にキリスト教の影響を見た A. Weber の見解に反対した。Mahābhārata の Śvetadvīpa 伝説を Weber は次のように解釈していた。すなわち「バラモンたちが原始キリスト教の隆盛の時代に海を越えて Alexandria あるいは小アジアにまで至り、帰国後インドにおいて、一神教の教説とその若干の伝説とを、土着の、その名によって神なる処女の子 Christus を想起させ、おそらくはすでに以前から神的に

崇拝されていた聖者ないし英雄 Kṛṣṇa Devakīputra(「神的なる」Devakī の子)に移し替え、その際キリスト教の教説を Sāṅkhya 哲学および Yoga 哲学の思弁によって置き換えたのであり、逆にそれらの教説がグノーシス諸派の形成に影響を及ぼした可能性もある」(Indische Studien I〔1850年〕400頁)。

国家の歴史においては、Lassen は、紀元前57年から紀元後319年の時代に、インドの大部分にわたる Turan 諸族の支配と、「Āndhrabhṛtya 諸王や Gupta 諸王が確かにそうであったように、出自によってそれに与る資格のない者たちによる王権の掌握」とが、国家をその根底から揺るがす恐れがあった、と強調している(1110頁。上掲177頁参照)。とりわけ Kālidāsa の戯曲および Mṛcchakaṭika に依拠した風俗の描写ののち、彼は1114頁において、Colebrooke の時代以来の古いサンスクリット文献学の愛好主題である天文学および数学の歴史に関する長い一章に移る。Nakṣatra に関する叙述(1115–1119頁)は、その間に見解が変わったため第2版では削除されている。これについては後に見ることになる。Lassen によれば、インド人は黄道十二宮および惑星の運行に関する知識を Chaldaea 人から得た(1129頁)。五つの Siddhānta についての叙述ののち、彼はこの時代の最も重要な天文学者 Āryabhaṭa を詳細に論じている(1133頁以下)。第2版のためには、Fitz-Edward Hall、Whitney、Bhau Daji、Kern の研究の結果、改稿が必要となった(1147²頁以下)。1147頁の言語の歴史に関する章では、Veda 語、サンスクリット、Prakrit、および現行の民衆諸語が相互にいかなる関係にあるかを論じている。彼は、サンスクリットがもっぱら学者に由来するという見解に反対する。言語という語で文法的形式が意味されるのならば、「インド人が最古の時代に、当時の詩人たちと同じくそれを用いなかったはずがあろうか」というのである(1152頁)。同じ箇所には次の一文がある。「すでに Aśoka の時代に、アーリヤ系インド人の居住する地域では民衆の大部分が地方語を話し、バラモンと最上層の人々のみがサンスクリットを話していたと想定してよい。演劇における言語の配分はこの関係にもとづく」。言語学の歴史においては、彼は Amarasiṃha を論じ、その辞書は古典的言語用法を知るための今なお最も重要かつ最も信頼できる補助手段であるとする(1156頁)。Lassen は王 Vikramāditya の年代を紀元前57年としてつねに固持したが、Vikramāditya 王の宮廷における「九つの真珠」についての詩句を決定的なものとはみなさなかった。彼は Amarasiṃha については Candragupta II 世ないし Kumāragupta の時代を考えており、これらの王は「紀元の創始者の名を尊称として自らに付した」という(1155頁)。Vararuci を彼は紀元後1世紀に置いた。彼は Mṛcchakaṭika の作者よりも、また Kālidāsa よりも古いはずだからである(1156頁)。この両者と Bhartṛhari とがこの時代の詩芸術の主要代表者である。第1版1159頁以下では、Mṛcchakaṭika の作者が1世紀末にこの戯曲を作り、Kālidāsa は紀元後2世紀後半に Samudragupta および Varāha Mihira と同時代人であったと想定していた。これに対し第2版1169頁、1172頁では、これらの詩人を

紀元後150年および250年頃の時代に置き、Kālidāsa を Candragupta II 世および Kumāragupta の時代——「およそインドにおいて学問・芸術・詩が最高の隆盛にあった時代」——に置いている。後者は現在支配的な見解と一致するが、ただしこれらの王は今日では5世紀初頭に置かれる。戯曲 Mālavikāgnimitra を Lassen は第1版1161頁では有名な Kālidāsa の作ではないとしたが、第2版1173頁ではこれを彼のものと認め、さらにその作品に Setukāvya を加えている。ただし遺憾ながら、この Prākṛt で書かれた詩篇について最初に立ち入った報告を与えた Hoefer に言及していない。哲学の歴史においては、この時代に仏教徒 Nāgārjuna が属し、バラモン側では、その人物についてはまったく知られていない Kaṇāda が属する。彼にはバラモンの六体系のうち第六、すなわち Vaiśeṣika が帰せられる(1163頁以下)。第2版1178頁では、これに関して Max Müller の Vaiśeṣika 哲学に関する論文(DMG. の雑誌第VI巻)および同誌第XXI・XXII巻の Röer による Sūtra の翻訳を参照させている。同じく1180²頁では、Cowell の論文(ASB. の Journal 第XXXI巻)および J. Muir の論文(London の RAS. の Journal 第XIX巻)にもとづいて Cārvāka の教説を付け加えている。

建築の歴史については、当時より好ましい将来が開けていた。というのも、東インド会社の理事会が London のアジア協会の勧めにより、石窟寺院その他の宗教建築の記念物を保護し、記述し、模写するための措置を講ずべしとの命令を発していたからである(1167頁)。彼はすでに先行する章(II 514頁以下)において、Aśoka の第二の後継者 Daśaratha に帰せられる Gayā の最古の石窟、および Orissa の石窟について、また Mahāvaṃsa に従って Anurādhapura の Mahāstūpa の建立について、僅かな頁数で論じていたが、ここでは第二の箇所として、やや新しい Ajanta の石窟および石窟寺院、Vindhya の南方の Karli、さらに古都 Vidiśā すなわち Bidiśā(Bhilsa)の近くの Sāñcī の Tope すなわち Stūpa、Ventura と Prinsep によってすでに知られていた Kabulistan の Stūpa、および Cunningham がその柱と破風にギリシアの影響を認めた Kaschmir の古い神殿について論じている。Lassen は第IV巻853頁以下で、一部は再び同じ記念物について語っている。これら三箇所すべてにとって主要な基盤となったのは、London の RAS. の Journal 第VIII巻(1846年)30頁以下所収の James Fergusson の総括的論文 "On the Rock-cut Temples of India" であった。Behar および Orissa の建築については、第一の箇所ではとくに Captain M. Kittoe の諸論文を用い、西部の建築については、ここ第二の箇所では、Bombay Branch の RAS. の Journal 第III巻所収の John Wilson の "Memoir of the Cave-Temples and Monasteries, and other Ancient Buddhist, Brāhmanical and Jaina Remains of Western India" を用いた。事柄として連関する素材を政治史の三つの時代に配分したことにより、本来一体をなすものが引き裂かれてしまっている。第II巻の第2版は、1872年までに現れたいくつかの重要な新研究を考慮に入れる機会を彼に与えた。1180²頁の A. Cunningham の Archaeological Survey of India(Simla 1871年)、とりわけ1192²頁以下の RAS. の Journal NS. 第III巻所収の Fergusson の "Description of the Amravati Tope in Guntur" がそれである。

第II巻において紀元後319年で終わっていた古い時代の政治史に続くのが、第III巻の冒頭

1–457頁の大きな文化史的部分であり、そこには「商業の歴史」「インドに関するギリシア・ローマの知識の歴史」「インドの自然の産物」「インド人の法と習俗」という表題が付されている。これらは Robertson、Heeren、v. Bohlen の旧著において主として扱われていたのと同じ対象である。というのも、当初は政治史よりも文化についての方がよく知られていたからである。しかしインドについて文化史・経済史を重視することが正当であるのは、単にこの理由によるのみならず、インドの政治史が、他の諸民族・諸国家の政治史のようには世界史の歩みに影響を与えなかったという理由にもよる。とはいえインドについても、諸王を戴く国家の歴史はそれにふさわしい根本的意義を要求する。Lassen の文化史的状況の叙述は、主としてギリシア・ローマの著述家の報告から出発するという点でも旧著と類似しており、しかもここでは紀元前57年から紀元後319年の時代に執筆した著述家、あるいはその情報提供者がその時代に属する著述家に依拠している。インドの輸出品目に関する知識については、Plinius の博物誌が最も豊かな収穫をもたらしている(10頁)。土着の文献は、ここで問題となる多くの事柄について今日に至るまで十分には活用されていない。宝石については(11頁および304頁)、今日では R. Garbe の著作『インドの鉱物、その名称とそれに帰せられる効力』(Leipzig 1882年)が考慮に値する。そこには医学的辞書 Rājanighaṇṭu の第XIII varga のテキストと翻訳が付されている。この書は13世紀に Kaschmir で医師 Narahari によって著された。

Lassen 以前にも以後にも、Ptolemaios(「Alexandria の地理学者」)の Γεωγραφικὴ ὑφήγησις の記載を Περίπλους τῆς Ἐρυθρᾶς θαλάσσης のそれと結び合わせて、前インドおよび後インドについてこれほど立ち入って叙述し活用した者はいない。問題となるのは主として名称の同定、すなわちいかなる国・民族・山脈・河川・都市が、古いものであれ現在のものであれ、土着の呼称のもとにギリシア名として理解されるべきかの証明である。この証明はすでに旧著において、イギリス人たちによって、また Forbiger の古代地理便覧においても、多かれ少なかれ体系的に与えられていた。しかし文献学者 Lassen はここで完全に独立に研究を行い、その探究を後インドからインド諸島にまで拡張し、いたるところで古代インド文化の痕跡を追い、伝説的なものをも排除しなかった。かくして彼は III 253頁以下において、Diodorus II 55–60 に伝えられる Iambulos の物語——インド諸島の一島、おそらく Bali(266頁)に漂着した商人の物語——を詳細に再現している。もっとも Erwin Rohde はこれを(『ギリシア小説』第2版250頁)小説とみなし、完全に寓話の領域に追いやった。インドの自然の産物については、Lassen は主として Plinius と Aelianus に従って叙述している(302頁以下)。「インド人の生活と習俗」の章(337頁以下)では、「バラモンと Samanaea の生活と教説」に関する報告のみがやや豊かに流れており、とくに四つの典拠、すなわち Alexandros Polyhistor の著作、大 Philostratos による Apollonios of Tyana 伝、Bardesanes の著作——彼は Babylon において、皇帝

Antoninus Pius のもとへ赴くインド使節団の一員と交際した——、および著者不明の、その師 Palladios に宛てられたインドの諸民族とバラモンに関する著作(354頁。後者については454頁参照)に由来する。Lassen がこれらの報告をサンスクリット文献の作品、すなわち Mānava-Dharmaśāstra および Yājñavalkya-Dharmaśāstra、Sāṃkhyakārikā と照合するのはまったく偶発的にすぎず(345、359頁以下、376頁以下)、そこから、インドに関する知識がいかにわずかしかサンスクリット文献に由来していなかったか、そしてこの文献が、Lassen ほどの人物にとってさえ、しばしば異国の資料から得られた知識の飾りとしてのみ役立っていたかが見てとれる。Spiegel の Kammavākyam にもとづく仏教徒の受戒の叙述(368頁)のようなものは、まったく散発的にしか現れない。

より高い程度に Lassen が土着の文献に依拠しているのは、グノーシス派——とりわけ仮現論——、新プラトン主義者 Plotinos、Porphyrios その他、およびマニ教徒の教説を、後代の仏教哲学およびバラモン哲学の教説と比較する部分である。もっとも仏教については Lassen は Hodgson、Burnouf、I. J. Schmidt の業績に頼らざるをえなかったが(385頁以下)、バラモン哲学については、Colebrooke の Essays および彼自身の Sāṃkhyakārikā 校訂本に加えて、Bibliotheca Indica における Röer の Bṛhadāraṇyaka その他の Upaniṣad の校訂本、ならびに J. R. Ballantyne の Yoga、Vedānta 等の小さな試訳(「Benares College の使用のために印刷」、Mirzapore, Allahabad, 1850年以下)を用いている(399頁以下)。Lassen はグノーシス派、新プラトン主義者、マニ教徒の一定の教説にインドの影響を認めた。この想定のための一般的根拠を彼は440頁にまとめている。問題となる諸教説はインド人のもとではすでに古い時代から知られている。これらインドの哲学的思想と神話は、インド人とローマ帝国との通商によって、またバクトリアを越えて Babylon にまで及んだ仏教の進出によって西方に知られるようになった可能性があり、さらに Alexandria の学者たちが東方諸民族の歴史・宗教・古代文物を知ろうと努めたことも加わる。近時ではグノーシス派におけるインドの影響だけでは満足せず、新約聖書の諸書にもそれが探し求められている。

第IV巻569頁でインドの政治史に続く「文化史概観」は、同様に紀元後319年から Muhammad 教徒の征服に至る時代を扱うものである。Lassen はバラモンの宗教史から始め、まず政治史から碑文を通じて諸王の宗教的立場について知られていたことをまとめている。Viṣṇu、Kṛṣṇa、Śiva の崇拝および諸宗派の教説の叙述にあたっては、Wilson による Viṣṇupurāṇa の翻訳、Burnouf による Bhāgavatapurāṇa の翻訳、Hiuen Thsang の報告、John Stephenson その他イギリス人学者の論文のほか、主として『Asiatic Researches』第XVI・XVII巻所収の Wilson の Sketch of the Religious Sects of the Hindus を用いた。原典資料のうち、Ānandagiri の Śaṅkaradigvijaya および Mādhavācārya の Sarvadarśanasaṃgraha は、彼にはまだ完全には入手できなかった(596頁)。Patañjali の Yogaśāstra については、冒頭と若干の個別箇所を知っていた(625頁)。Vaiṣṇava については、12世紀の Rāmānuja およびその後継者 Rāmānanda、Kābir によって創始された諸派を論じている(607頁以下)。Śiva 崇拝は Dekkhan において優勢であった。Lassen によれば、Śaṅkarācārya がこれに優位を

もたらしたという(617頁以下)。Śākta 諸派、「三大神のいずれかの力を人格化された女性的存在として崇拝する」諸派は、9世紀以前にまで遡りうると Lassen は考える。彼は Śakti の観念を Sāṅkhya 哲学の Prakṛti の原理と結びつけている(629頁以下)。インドにおける仏教の状況を Lassen は中国の旅行記に従って記述しており、5世紀については Abel Rémusat が翻訳した Fahien の報告により、7世紀については Stanislas Julien が翻訳した Hiuen Thsang の報告による(644頁以下)。7世紀以降のチベットへの仏教の導入とそこでの特異な発展については、C. F. Köppen の著作『ラマ教の位階制と教会』に良い典拠を得ていた(713頁以下)。733頁の注では Köppen の大著『Buddha の宗教とその成立』にも言及している。チベットから仏教はモンゴル人に、さらに Kalmyk 人にまで及んだ。バクトリア地方はすでに早く、おそらくは紀元前1世紀にはすでに、北西インドとの直接の交流を通じて仏教を受け入れていた。内陸アジアでは、Khotan、Kashgar、Yarkand において、またウイグルというトルコ系民族のもとで、Fahien の時代すなわち紀元400年頃に仏教は隆盛にあった。Khotan の仏教史からすれば、近年の探検が同地および中国領 Turkestan においてかくも驚くべき収穫をもたらしたことは意外ではない。中国へは仏教は紀元65年にインドから伝わった。中国からは6世紀に朝鮮を経て日本へ達した(727頁以下)。

Jaina の宗派については、Lassen はとくに Colebrooke と Wilson の Essays を用いた。Jaina 文献としては、Stevenson の Kalpasūtra および Nava Tatva の翻訳に加えて、Weber による Dhaneśvara の Śatruñjayamāhātmya の校訂本があった。しかしこの後代に成立した作品は、Jaina の古い歴史については新たな光を投げかけなかった。Lassen は、Jaina 教説の最初の萌芽をおよそ紀元後1世紀ないし2世紀に置くことを提案し、Jaina 教説の「仏教的起源のための証拠」を集めている(763頁以下)。Cālukya その他の諸王の碑文から Lassen は、Jaina が、かつて彼が Burnouf(上掲126頁参照)や Wilson その他とともに想定しようとしていたほど遅い時代に Bauddha から分岐したのではありえないことを知った(755頁以下)。当時すでに、Jaina がバラモンによって暴力的に絶滅された Bauddha の廃墟から興ったという見解は維持しえなくなっていた。Lassen も言及を怠っていないように、Colebrooke と Stevenson は、Jaina は Bauddha より古いという見解であった。この見解は時とともにますます受け入れられるようになった。24人の Arhant すなわち Jina のうち最後の二人、Pārśvanātha と Mahāvīra は歴史的人物であり、Mahāvīra は Buddha の師であったとされる。Mahāvīra の没年に関する Śatruñjayamāhātmya の記載(Lassen によればこれは11世紀以前には成立していない、761頁)および Bhadrabāhu の Kalpasūtra の記載を、Lassen は信用しなかった。彼の見解は、15世紀の Jaina の Paṇḍit Merutuṅga の Therāvali によっても変わらなかった。これについては第II巻第2版(1872年)38頁で、RAS. の BB. の Journal 第IX巻所収の Bhau Daji の論文にもとづいて報告している。Jaina 派の創始者が Pāli-Tipiṭaka の一テキストである Sāmaññaphalasutta において Nigaṇṭho Nātaputto の名で Buddha の同時代人として登場することは、当時はまだ知られていなかった。

この文化史概観の最後の諸章には、国家と法の歴史、言語と文字の歴史、文学と諸学問の歴史、哲学・数学・天文学の歴史、インド建築の歴史、商業の歴史という表題が付されている(787頁以下)。古来インドの国家は神聖視された法によって規制されていた。その他の二つの基盤として、Lassen は繰り返しカースト制度と村落制度を挙げている。大部分のインド諸地方において、古い Kṣatriya の地位には Rājaputra が取って代わったという(787頁以下)。Manu と Yājñavalkya 以外の古い Dharma 文献については、Lassen は Weber の Indische Studien I 232頁以下所収の Stenzler の論文「インド法典の文献について」からいくらかの知識を得た。彼が挙げるわずかな名前のうちには、Mitākṣarā の著者 Vijñāneśvara が含まれる。言語と文字も簡単に扱われているにすぎない。新インド諸語を Prākṛt から区別するものについての一般的叙述(792頁)は特筆に値する。字母については、彼は Prinsep に依拠し、Dekkhan のそれについては R. Caldwell の Comparative Grammar of the Dravidian or South-Indian Languages(London 1856年、第2版1875年)に依拠した。辞書編纂者と文法家のうちでは Hemacandra を挙げ、その Abhidhānacintāmaṇi は O. Böhtlingk と Ch. Rieu によって St. Petersburg で1841年に刊行されていた。E. B. Cowell による Vararuci の "Prākṛta Prakāśa" の校訂本は Hertford で1854年に出ていた。Vararuci を Lassen はここで(805頁)紀元後150年頃に置いている。「紀元後319年からムスリムによるインド領土の最初の征服まで」の同じ時代——M. Müller が後にサンスクリット文学のルネサンスと呼んだもの——を、Lassen は807頁で Alexandria 時代と比較している。この比較もあらゆる点で当を得たものではない。もっとも Lassen が807頁で述べているのは正当である。「創造的精神は弛緩し、詩人たちは祖先から遺された伝説と物語の豊かな宝庫によって精神を養った。叙事詩および劇詩の新しい題材の創出の例はきわめてまれである」。しかしそれにもかかわらず、この時代に成立した詩作品がすべて、またあらゆる点で亜流の性格を帯びているわけではない。Kālidāsa の諸作品および戯曲 Mṛcchakaṭikā については、Lassen はここでは言及していない(上掲190頁以下参照)。彼が第一に挙げるのは Bhaṭṭikāvya であり、その文法的意図がその言語に人為的性格を与えている。他の作品においては、人為性がまた別の仕方で現れている。さらに彼は美文詩 Śiśupālavadha、Naiṣadhacarita、Kirātārjunīya、Nalodaya、Rāghava-Pāṇḍavīya を挙げている。この時代の三つの有名な小説については、Daśakumāracarita については Wilson の校訂本(London 1846年)を、Vāsavadattā については Bibl. Indica 所収の Hall の校訂本(Calcutta 1859年)を、Kādambarī については DMG. の雑誌 VII 582 所載の Weber の分析を参照させることができた。概観はさらに寓話・説話作品、エロティックな詩、劇文学に及ぶ。われわれが最初にその精神を知ったインドとは、まさにムハンマド教徒の征服以前の最後の千年紀のインドであり、その文学に19世紀のインド人がなお楽しみを見出しえたのである。Lassen はこの文学から文化の全体像を描き出そうとはしなかった。彼は寓話・説話作品について、彼の時代までに公刊されていたものを挙げている。そのなかには Georgios Typaldos が刊行した

Demetrios Galanos の翻訳、および Brockhaus の Kathāsaritsāgara 校訂本の冒頭部分「K. S. S. Kaschmir の Sri Somadeva Bhatta の説話集。第一巻から第五巻まで。サンスクリットとドイツ語」(Leipzig 1839年)がある。劇文学およびインド詩論については、Lassen は Wilson の Theatre of the Hindus が提供したものを越えていない。歌劇 Gītagovinda は彼の見解によれば、インド演劇の成立史にとって「インド演劇の最古の形態の一例、すなわち複数の人物による歌によって一つの物語を上演すること」を示す価値をもつ(816頁)。哲学の歴史のわずかな頁(833頁)、および数学と天文学の歴史(841頁)の基礎となっているのは Colebrooke の Essays であり、これにその間に印刷によって知られるようになった若干の原典が加わる。すなわち J. R. Ballantyne のテキスト "The Aphorisms of the Mīmāṃsā Philosophy by Jaimini" および "The Aphorisms of the Vedānta Philosophy by Bādarāyaṇa"、Othmar Frank による Sadānanda の Vedāntasāra のテキストと翻訳(München 1835年)などである。彼の弟子 Fr. Windischmann の著作 "Sancara sive de Theologumenis Vedanticorum" にも繰り返し言及している。Pūrvamīmāṃsā については Kumārila が、Vedānta については Śaṅkara が、この時代の主要権威であり、両者とも伝承によれば仏教の激しい論駁者であった。Lassen はかつて Nakṣatra の中国起源に関する Biot の説を信じていたが(上掲169頁参照)、ここではこの説が A. Weber の論文『naxatra(月宿)に関する Veda の報告』(Berlin 1860年)によって疑わしくなったと述べている(844頁)。インド天文学についての独自の見識を Lassen は F.-E. Hall の Sūryasiddhānta 校訂本(Calcutta 1859年)によって得た。その Whitney による翻訳(JAOS. VI 141頁以下)については、われわれはなお論ずることになる。Bhāskara の Siddhāntaśiromaṇi は、Colebrooke による二章の翻訳によってすでに知られていた。Lassen はここでとくに Brockhaus の論文『Bhāskara の代数学について』(Leipzig 1852年、K. Sächs. Ges. d. W. の報告)にも言及しており、これはインドの計算法について一つの観念を与えるものである。

紀元後319年からムハンマド教徒の征服に至るこの時代には、Vindhya の南方の西インドに見出される有名な石窟寺院と石窟僧院の大部分もまた成立したであろう。すなわち Ajantā、Karli 付近、Nāsik、Ellora、Bombay 近郊の Salsette 島および Elephanta 島、さらに Madras 南方の Koromandel 海岸の Mahābalipur の「七つの塔(Seven Pagodas)」である。その記述が「建築の歴史」の章の内容をなしている(853頁以下)。Lassen はとくに上掲191頁で言及した James Fergusson の総括的論文を用いた。これらの建築に続けて、彼は Alexander Cunningham の論文から情報を得て、Kaschmir の古い太陽神殿を扱っている。この神殿の Rājataraṅgiṇī III 462 における言及については、彼はすでに III 985 で論じていた。インド建築の本来の歴史を Lassen は与えることができなかった。

最後に「商業の歴史」の章(880頁以下)において Lassen は、同じ時代における西方および東方とインドとの通商関係について彼が知りえたことをまとめている。インドの文献からは何も得られていない。彼は中国人巡礼 Fahien の航海について報告している。Fahien は紀元411年に Tāmralipta で Ceylon 行きの船に乗り、後にそこから Java および中国へ渡った。6世紀には僧 Kosmas Indikopleustes の旅が続き、

彼は探索したところを『Christianikē Geographia(キリスト教世界地誌)』に記した。13世紀後半に中国に至った Venezia 人 Marco Polo の報告については、Lassen は William Marsden および A. Bürck の著作を用い(886頁参照)、アラビア人の報告については P. Reinaud の諸論文を用いた(913頁参照)。少なくともこの場合には、インドの文献をペルシア人にもたらしたのは通商ではなかったにもかかわらず、Lassen はこの章のなかにインドの寓話と説話の伝播の歴史を組み込んでいる(899頁以下)。Sāsān 朝の Khosru Anushirvān のもとで、6世紀に Pañcatantra が Pehlevī 語に翻訳された。この翻訳に、Kalila va Dimna の名で知られるアラビア語訳が接続した。その Pañcatantra との関係は、Wilson が上掲37頁で言及した論文において確定した。Lassen はすでに Benfey の "Pantschatantra"(Leipzig 1859年)を知っており、その序論において初めてインドの寓話・小話・説話が他民族のそれとより精密に比較され、前者が他民族へ広く伝播したことが論証された(901頁)。しかし Benfey には Loiseleur Deslongchamps という先駆者があり、その "Essai sur les Fables Indiennes et de leur Introduction en Europe"(Paris 1838年)から Lassen もこの事柄についての最初の知識を得たものと思われる。

Lassen はその大著になお「第III巻および第IV巻への補遺」(Leipzig 1862年)を付け加えた。これは中国の知識の歴史からの、とりわけアラビアのインド知識の歴史からのさらなる報告を含む。当初からサンスクリット文献から取り出されてきた、より民間的な性質の対象のうちには、神判(Gottesurteile)と葬送の習俗が属する。神判に関するアラビア側の記載を Lassen はすでに IV 920 で引いていたが、ここ補遺8頁では Hiuen Thsang の記載を挙げている。両箇所において彼は Stenzler の論文『インドの神判について』(ZDMG. IX 661)を参照させている。追補はさらにとくにインドの宇宙誌・数学・天文学・医学に及ぶ。

Lassen の大きな功績は、断片的に現れ、多くの個別研究者の大小の著作に満ちあふれていたインドに関する厖大な総体的知識を、古代から彼の時代に至るまで蓄積されたものとして、その『インド古代学』において批判的に、また自らの研究によって増補しつつ、壮大な総合的叙述へと仕上げ、しかもますます土着の資料に基礎を置こうと努めた点にある。Lassen の『インド古代学』を多く利用した A. Weber は、これを「きわめて重要な個別研究の豊かな鉱脈としてのその高い価値が一般に認められている」著作と呼んでいる(Indische Skizzen 72頁)。第2巻は1873年に第2版が出た。それまでは Lassen はさらに進んだ研究を考慮に入れていた。しかし、学者が最新の研究に根を下ろしているのか、それとも古い著作にもとづく自らの知識をそれによって補い訂正するにとどまるのかには、つねに違いが残る。Lassen が Brockhaus、Stenzler、Benfey、Weber、M. Müller の History of Ancient Sanskrit Litterature(IV 789)、Köppen の『Buddha の宗教』(IV 733)に時折言及し、Böhtlingk と Roth のサンスクリット辞典を利用しているとはいえ、こうした言及からはこれらの学者の意義は十分には浮かび上がってこない。

§補遺(Nachträge)

§2頁3行以下について

私の著作の最初の折丁がすでに印刷を終えていたとき、Theodor Zachariae の、Caland による Rogerius の書および古いポルトガル語のインド報告の新版に対する書評(『Göttinger gelehrte Anzeigen』1916年、561–615頁)が私の手に届いた。Zachariae はここで、この古い文献の第一級の通暁者であることを示しており、そこからさらに他の重要な著作、一部は写本としてのみ存在するか、あるいは失われてしまったものをも引き合いに出している(562頁)。これら南インドに由来する宣教師の報告に含まれる伝説については、一次資料として考慮されるべきは二大叙事詩や古い Purāṇa よりも、むしろまだほとんど知られていない「Lokalpurāṇa」、Māhātmya、Sthalapurāṇa である(564頁)。とりわけ価値ある報告を彼は Philipp Baldaeus について与えている。その著『東インドの Malabar および Coromandel 海岸の記述』(ドイツ語版:Amsterdam 1672年)は、末尾に「東インド異教徒の偶像崇拝」に関する論考を含む(566頁)。また Bartholomaeus Ziegenbalg についても(567頁。上掲6頁参照)。Baldaeus は「古いポルトガル人聖職者の手稿」および口頭伝承から材料を得た。彼における名前はきわめて歪められている。デンマーク王室の宣教師たちの報告、Halle の宣教報告、Sonnerat、Paulinus a S. Bartholomaeo、Abbé Dubois の著作、ならびに Wilson の Mackenzie Collection と Taylor の Catalogue raisonné of Oriental Manuscripts——後者は南インドのヒンドゥー教にとって今日なお重要である——も Zachariae は強調している。次いで彼は驚嘆すべき学識をもって、Caland による Rogerius 訳およびポルトガル語報告の校訂に対する典拠の指示・説明・補足を長々と与えている。これらの報告のうち最初のものの年代については、彼自身すでに『Wiener Zeitschrift für die Kunde des Morgenlandes』第XXIII巻で論じていた(582頁)。Caland の刊行物は、この Zachariae の批評によっていっそう重要なものとなった。

§2頁注1について

Dapper の稀覯書のオランダ語の標題を、私は Leiden の図書館に所蔵される一本にもとづき H. Windisch 教授を通じて伝えることができる。「Asia of naukeurige beschryving van Het Rijk des Grooten Mogols, En een groot gedeelte van Indiën : Behelsende De Landschappen van Kandahar, Kabul, Multan, Haïkan, Bukkar, Send of Diu, Jesselmeer, Attak, Peniab, Kaximir, Jangapore, Dely, Mando, Malva, Chitor, Utrad, Zuratte of Kambaye, Chandisch, Narvar, Gwaliar, Indostan, Sanbat, Bakar, Nagrakat, Dekan en Visiapour. Beneffens een volkome Beschryving van geheel Persie, Georgie, Mengrelie en andere Gebuurgewesten. Vertoont In de Benamingen, Grens-palen, Steden, Gewassen, Dieren, Zeden der inwoonders, Drachten, Bestiering en Gods-dienst. Verciert doorgaens met verscheide Afbeeldingen in Kooper gesneden. Beschreven door Dr. Olfert Dapper. Amsterdam 1672.」Dapper は Amsterdam の医師で、1690年に没した。彼については A. J. van der Aa の Biographisch Woordenboek der Nederlanden IV(Harlem 1858年)59頁を参照。ドイツ語訳「Anitzo aber ins Hochteutsche getreulichst über-

setzet von Johann Christoff Beern」(Nürnberg 1681年)も同様に長い標題をもつが、その前の最初の丁にはより短い「O. Dappers D. Reich des Großen Mogols, Persien, Georgien und Mengrelien」がある。第一の主要部、すなわち大 Mogol の帝国とインドは、この翻訳で二折判300頁を占める。最初の地理的部分のうち、薬学的に述べられた植物の記述が注目に値する(5頁以下)。住民の描写は四カースト、すなわち Vedam をもつ Bramines、Settreas、Weinsjas あるいは Benjanen、および Soudras から始まり(12頁以下)、それらから軽蔑された Paria、すなわち Perreas とその妻 Perresys が区別されている(14頁)。次いで Brahma とそれに従属する神々(Dewendre 等)についての記述、バラモンの六派(Wistnouva、Seivia 等、17頁)、その生活段階、義務と権利、聖紐、出生および婚姻の習俗についての記述が続く(27頁)。その途中に、バラモンの天文学上の無知の証拠として、日食・月食の神話的説明(Rāhu、Ketu)が語られている(26頁以下)。バラモンは日の吉凶を選ぶ者である(30頁)。これが年および60年周期に関する短い一章に導く。ここでは Salawagena の紀元にも言及があり、彼は1671年の1583年前に没したという(原文ママ!)(32頁)。これに、バラモンがいかに一日を始め、いかに過ごすかが続く。朝の祈りにおいては Salagramma(skr. śālagrāma)と呼ばれる聖石が役割を果たし(33頁)、罪の赦しのために Gasjendre Mootsjam(Gajendra-mokṣa)の物語が歌われる(34頁)。病と死に関する章のなかに、寡婦の火葬と埋葬が位置している(37頁以下)。続く諸頁は飲食、衣服と香料、家屋、とりわけ上流階級の華美好み、狩猟等について論じている。Dapper が実際の言語事情をいかに知らなかったかは、51–57頁に長いドイツ語・マレー語語彙集を「いわば前触れとして」冒頭に置いていることに現れている。58頁でインドの実際の諸言語について述べていることは、17世紀およびオランダ人にとって特徴的である。すなわち、Della Valle の報告によれば、インドの全地方は同一の言語をもつ。ヨーロッパで学者の間にラテン語が用いられているように、バラモンは一つの言語と一種の文字をもち、それを Kircherus は Nagher、他の者は Hanscretisch と呼ぶ。Eduard Terry の報告によれば、共通語は国と同じく Indostan の名で知られている。Abraham Roger は、Chormandel 海岸のバラモンが Bengal 語を用いていると証言している。彼らの間ではさらに別の言語も用いられており、Samscortam と呼ばれる。Mogol の領土では、宮廷、あらゆる公的取引と文書においてペルシア語が用いられている。ムハンマド教徒の一般民衆は「Perusch(Peruschi)の言うところによれば」トルコ語を用いる。しかしマレー語ほど広く及ぶ言語はなく、これについては Linschotten の証言に依拠している。この箇所は同時に、自身はインドにいたことのない Dapper の典拠を明らかにする。サンスクリット語の綴り方 Wistnou、Settrea 等、Bartrouherri の箴言の引用、Roger が活動していた都市 Paliakatta への度重なる言及も、Roger を指し示している。その著作の過程で Dapper はさらに他の典拠、Roth、Bernier、Henry Lord 等、とりわけしばしば Della Valle を挙げている。次の章の表題は「世界の創造、および Wistnou あるいは Mahadeu の十の肉体的顕現」(58–103頁)である。

ここでは Viṣṇu の avatāra である Rāma のもとに Rāmāyaṇa の内容が、avatāra である Kṛṣṇa のもとに Kṛṣṇa 伝説全体が挿入されている。Rāma の事績を Dapper は二度語っており、二度目は Abraham Roger に従い、Roger が Padmanābha から聞いたところによる(87頁)。Kṛṣṇa の事績はまた、Mahābhārata の主要内容を紹介する機縁ともなっている。Viṣṇu の avatāra である Paraśu-Rāma のもとには、その母 Reṇukā の物語が語られており(67頁)、これが Goethe のバラード「Legende」の基礎となっている。名前はいたるところひどく歪められており、avatāra は Altar(祭壇)となってしまっている。宗教と礼拝について述べられていること(104–130頁)は、とりわけ Chormandel 海岸のバラモンに関わる。彼らの法典 Vedam は Raggo-、Jessoure-、Sāma-、Adderawana-wedam に分かれるが、その内容は誤って伝えられている。報告はやがて Viṣṇu と Īśvara、および Garuḍa、Hanuman のような下位の神々に向かう。Kadrū の神話と Garuḍa の誕生、Sāgara の息子たちの神話と Gaṅgā の降下が語られ、とりわけ詳細に塔廟、祭礼、巡礼、Fakyr、天国と地獄が論じられている。Dapper にもまた、Brahma のためには塔廟も礼拝も存在しないという記述がある(119頁)。Dapper の著作のインドに関わるこの第一部の後半は、ムハンマド教徒のインドと Mogol の支配を記述している。最後の諸章では、標題に挙げられた諸地方が順次紹介される。Suratta の記述においては、Parsen の出自と宗教について報告している(239頁以下)。締めくくりをなすのは、オランダ人と土着の君主たちとの、当時存在した紛争についての交渉である。

Goethe が Dapper の著作を知り利用したことは疑いえない。彼自身『詩と真実』第12巻(Reclam 版 III 64頁)においてそれについて語っている。「同様の、いや同じではないにせよ興味を、私はインドの寓話から得た。それを私は Dapper の旅行記によって初めて知り、同じく大きな喜びをもって私の説話の宝庫に取り入れた。Ram の祭壇(Altar des Ram)は私の再話としてとりわけうまくいき、この説話の人物の多様さにもかかわらず、猿の Hannemann がわが聴衆のお気に入りであり続けた」。これはさしあたり Rāmāyaṇa 伝説に関わるのであって、Paria 三部作の題材に関わるのではない。Dapper を想起させる avatāra から Altar への変形は、Philipp Baldaeus の著作『Malabar および Coromandel の名高い東インド海岸ならびに Zeylon 島の真正なる詳細な記述』(Amsterdam 1672年)にも見出され、これはおそらく Dapper の典拠に属し、Goethe のバラード「Legende」の題材を Dapper とまったく同じように提供している。

そこで、Benfey がその論文「Goethe の詩『Legende』(著作集1840年、I 200)とそのインドの原型」(Orient und Occident I〔1862年〕719–732頁)において、まさに Dapper のもとにこの原型を求めたのは自然なことであった。もっとも彼は、首のすげ替えと、この伝説の Paria の領域への移行とを Dapper には見出さなかった。彼の雑誌の第II巻97頁で、Benfey 自身、彼に先立って H. Düntzer が Sonnerat の旅行記 I 205 において、すでにインドで生じていた、もともとはより単純であった物語の発展を、したがって Goethe の「Legende」の典拠を発見していたことを指摘している。これはその後一般に承認されている。別の問題は、この伝説の歴史、インドそのものにおけるその最古の出現である。サンスクリット文献学の側からは

Zachariae がこの錯綜した事情を二つの教示に富む論文において考察している。すなわち「Goethe の Paria 伝説について」(Zeitschr. des Vereins für Volkskunde XI〔1901年〕186–192頁)、および「Bartholomäus Ziegenbalg における Paria 伝説」(同誌 XII〔1902年〕449–456頁)である。Zachariae にとっても、Sonnerat が Goethe の典拠であることは確定している。Baldaeus と Ziegenbalg の著作のほかに、彼はわれわれの叙述では考慮されなかった第三のより古い著作、すなわち Rhode の『ヒンドゥーの宗教的教養・神話・哲学について』を挙げ、これは「インド神話に関する、より古い、今日ではほとんど忘れられた文献を忠実に記録している」とする(前掲書189頁)。

「Goethe のバラード『神とバヤデーレ』のインドの典拠」は、すでに Friedrich Heinrich von der Hagen が Roger のもとに見出し、1837年にこの表題のもとに、彼の雑誌『Germania. Neues Jahrbuch der Berlinischen Gesellschaft für deutsche Sprache und Alterthumskunde』II 259–262 で報告していた。しかしこの題材もまた、少なくとも同時に Sonnerat を通じて Goethe に知られたのであろう。新しい文学史家たちは Sonnerat の著作を、この二つのインド的バラードの両方についての Goethe の典拠と見なしている。たとえば Paul Merker『新高ドイツ語伝説詩研究』(Leipzig 1916年)43頁および49頁以下、ならびに Nicola Tumparoff『Goethe と伝説』(Berlin 1910年)188頁および198頁である。最後に挙げた三つの研究についての示唆は G. Witkowski に負う。E. Kuhn の仲介により、私は Paul Th. Hoffmann(Putlitz 出身)の学位論文『Herder からロマン派に至るインド的精神とドイツ的精神』(Tübingen 1915年)を入手した。その四つの章は Herder、Goethe、神話の探究、Schlegel 兄弟と題されている。そこ36頁に伝えられている1811年2月27日付の Goethe の書簡において、Goethe は「Veda に対するかつての愛が、Sonnerat の寄与によって、Jones の熱心な尽力によって、Śakuntalā と Gītagovinda の翻訳によって、繰り返し新たに育まれた」と述べている。Goethe はインドに関する、またインドに由来する他の著作をも知っていたが、とりわけ当時高い評価を受けていた Sonnerat の旅行記に依拠していた。Hoffmann 24頁参照。

§6頁について

Mathurin Veyssière de La Croze(1661–1739)については、Franz Babinger がその学位論文『Gottlieb Siegfried Bayer(1694–1738)』(München 1915年)18頁以下において、Harnack の『K. P. アカデミー史』(Berlin 1900年)101頁にもとづいて論じている。La Croze はもと Paris の Benedikt 会修道院 St. Germain-des-Prés の修道士で、教父著作集大版の協力者であったが、1696年に脱走し、Basel で改革派教会に転じ、1697年に Berlin の図書館員となった。彼は並外れて広範な言語知識をもっていた。Friedrich 大王は彼を「l'homme le plus savant de Berlin, le répertoire de tous les savants de l'Allemagne, un vrai magasin de science」と呼んだ。彼の書簡集『Thesaurus Epistolicus Lacrozianus』は J. L. Uhl が Leipzig で1742年に刊行した。

Ziegenbalg とその著作については Th. Zachariae『Bartholomaeus Ziegenbalg における Paria 伝説』(Zeitschr. des Vereins f. Volkskunde XII〔1902年〕449頁以下)を参照。彼の主著の一つ、1713年の『Malabar の神々の系譜』は、完全な形ではないが

1791年に Berlin で『Hindostan で収集された所見にもとづく Malabar の Hindous の宗教および聖なる習俗の記述』という表題のもとに印刷された。次いでこの著作は Dr. Wilhelm Germann によって、誤って初版と称して刊行された。すなわち『Malabar の神々の系譜。異教徒自身の著作と書簡から集成し、故 Trankebar の Jerusalem 教会牧師 Bartholomäus Ziegenbalg が著す』(Madras および Erlangen 1867年)である。南インドの民間神の知識にとって、この書は今日なお大きな価値をもち、Zachariae によれば Goethe の「Legende」の Paria の女神の理解にとっても価値がある。

この学者たちの一群には、東洋古代研究者 Gottlieb Siegfried Bayer も属する。その生涯は、すでに述べた、E. Kuhn の勧めによる Babinger の学位論文において詳細に叙述されている。Bayer は1694年に Königsberg で生まれた。その学業は神学と哲学から出発したが、その後もっぱら古典文献学と古代東方諸語の習得に向かった。すでに1720年に Königsberg の大聖堂学校に職を得たが、数年後には1724年に Peter 大帝によって創設された St. Petersburg の科学アカデミーに、ギリシア・ローマ古代学ならびに東洋諸語の担当として招聘され、1726年にはすでにそこで活動しているのが見出される。そこでの彼の地位は恵まれず、そのため Königsberg に帰ることを決意したが、出発の直前、1738年初めに熱病で没した。その学問的業績——Babinger はそれを完全に記録している——の主要な刺激を、彼は継続的な文通を続けていた La Croze に負っている。サンスクリットおよびインドの言語と文学についての知識は、Tranquebar のデンマーク人宣教師数名から得た。そのなかで最も重要なのは Christoph Theodosius Walther であった。Bayer の著作は今日では古びているが、当時としては先行者を越える一歩を画するものであった。中国学の歴史における里標とされるのは "T. S. Bayeri Museum Sinicum, in quo Sinicae linguae et litteraturae ratio explicatur"(Petropoli 1730年)である。シリア語の知識は "Historia Osrhoena et Edessena, ex numis illustrata, in qua Edessae urbis, Osrhoeni regni, Abgarorum regum, praefectorum Graecorum, Arabum, Persarum, Comitum Francorum successiones, fata, res aliae memorabiles a prima origine urbis ad extrema fere tempora explicantur"(Petropoli 1734年)に生かされた。インド古代学の歴史に関わるのは "Historia Regni Graecorum Bactriani, in qua simul Graecorum in India coloniarum vetus memoria explicatur"(Petropoli 1738年)である。彼はここでわずか一枚の貨幣しか知らず、大規模な貨幣の発見は後になってはじめて行われたにもかかわらず、Bayer は初めてバクトリアのギリシア人のインドにとっての意義を認識させた。古代著述家の該当箇所を集めた彼の集成は今なお価値をもつ。付録として宣教師 Walther の "doctrina temporum Indica ex libris Indicis et Brahmanum institutione" が添えられている。本書の末尾をなすのは、Bayer と同時期に Petersburg アカデミーで活動した Leonhard Euler の論文 "De Indorum anno solari astronomico" である。東洋学的研究において Bayer には大著の構想、すなわち古代東方教会の叙述の構想が浮かんでいた。Babinger がその「学問史における Bayer の位置」の章66頁で述べているとおりである。

§9頁46行について

Johannes Samuel Ith(1747年生、1813年没、Bern の哲学教授兼上級図書館長)については、Albert Leitzmann 編『Wilhelm von Humboldt の日記』第1巻(1788–1798年、Berlin 1916年)210頁を参照。

§20頁3行について

Halhed の著作の完全な標題は次のとおりである。"A Code of Gentoo Laws, or, Ordinations of the Pundits, from a Persian Translation, made from the Original, written in the Shanscrit Language."。Halhed は序文において、偶然入手しえた前述のサンスクリットの標本を掲げているが、XXXVI 頁で明示的に、「the Pundits who compiled the Code were to a Man resolute in rejecting all his Solicitations for Instruction in this Dialect」と述べている。サンスクリットを学ぶことはイギリス人にとって著しく困難であり、ペルシア語を経由する迂路が当初は必要であった。Paṇḍit たちはその編纂の冒頭に自らの名と、Manu および Yājñavalkya に始まる典拠とを挙げている。そこに現れるサンスクリット語・ペルシア語・Bengal 語の語彙集もここに見出される。序文として "Account of the Creation" と "Account of the Qualities requisite for a Magistrate, and of his Employment" が置かれ、次いで本文が続く。第I章 "Of Lending and Borrowing"、第II章 "Of the Division of Inheritable Property" 等。有能な Paṇḍit たちが著者であったから、この書は今なおインド法の叙述にあたって考慮されるに値する。

§20頁注1について

E. Kuhn はさらに Dr. Giuseppe Barone の著作 "Vita, precursori ed opere del P. Paolino da S. Bartolomeo (Filippo Werdin)"(Napoli 1888年)を参照させている。これについては『Wiener Zeitschrift f. d. K. d. M.』II(1888年)262頁以下で Friedrich Müller が簡単に紹介している。Barone は Werdin が正しい名であるとした。Fr. Müller は、下オーストリアの Mannersdorf 近郊 Hof am Leithagebirge の教区の1748年の洗礼簿から、彼が農民 Vesdin(s をもつ)夫妻の子であったことを確認した。

§47頁注1について

J. Wackernagel は、Goethe が技術的な面で Kālidāsa の影響を受けたことを想起させている。すなわち、1797年に書かれた『ファウスト』の「舞台における前戯(Vorspiel auf dem Theater)」は、その劇場支配人とともに「Śakuntalā」の序幕を模したものである。G. Witkowski の教示によれば、これについては Hirzel-Ellwangen『Schiller、Goethe と Śakuntalā』および W. Sauer『Śakuntalā、Goethe と Schiller』が論じており、両者とも『Korrespondenzblatt für die Gelehrten- und Realschulen Württembergs』1893年、43–46頁および297–304頁に掲載されている。またこの事柄はすべての『ファウスト』注釈書、たとえば Witkowski のもの(第4版 II 190)でも言及されている。インドの序幕を『ファウスト』の前戯の原型として最初に指摘したのは、男爵 Woldemar v. Biedermann であったと思われる。『Leipziger Zeitung』学術付録1860年第73号、彼の『Goethe 研究』(Frankfurt a. M. 1879年)54頁以下に再録。次いで Heinrich Heine である。E. Kuhn を通じて私に届いた覚書によれば、考慮されるべきは書物『Heinrich Heine、

遺稿より刊行された最後の詩と思想』(Hamburg 1869年)である。そこに伝えられる「思想と着想」のなかに、「Goethe はファウストの冒頭で『Śakuntalā』を利用している」という一文がある(Heine 全集、Ernst Elster 編、第7巻417頁)。「J. Minor および E. Schmidt もその『ファウスト』注釈において、この『Śakuntalā』への指摘のより古い典拠を挙げることができないでいる。Goethe はこのインドの戯曲を1791年以来 Forster の翻訳によって知っていた。彼自身は『舞台における前戯』の『Śakuntalā』との関係についてはどこにも述べていない」。

Śakuntalā および論じられた伝説的題材のほかに、サンスクリット文献のうちでは Meghadūta と Gītagovinda が彼の好評を得た。Hoffmann『インド的精神とドイツ的精神』24頁以下、とくに38頁および44頁参照。しかし Goethe はあらゆる点でインド人に心酔していたわけではない。Dapper と Sonnerat の図版で見たにちがいない「多頭多臂の神々」について、彼は後にきわめて否定的に述べている。

§56頁について

Herder によるインド人の詩的理想化については、Hoffmann が今挙げた著作の第一章で論じている。彼によれば、「若干のバラモンの思想」において、われわれはたいてい「バラモン Herder の知恵」を目の前にしているという(16頁)。Herder もまた Georg Forster の「Śakuntalā」に感激していた。Forster はこれを1791年5月17日付の書簡とともに彼に送った(9、16頁)。没する少し前にも「彼は Forster 訳の第2版に序文を添え、それはまったく Kālidāsa の作品への愛に貫かれている」(23頁)。そのほか Hitopadeśa、Bhartṛhari、「Bagawadam」、Mohamudgara、Śukasaptati、Manu、Gītagovinda が彼の知識に達していた。彼は繰り返し輪廻の教説に関わっている(19頁)。同様のインドの詩的理想化は Majer(53頁以下)および Novalis(62頁)にも見出される。Hoffmann は Majer の生涯についてもより詳しく報告している。彼は1772年に Schleiz 近郊の Koskau で牧師の子として生まれ、はじめ Jena の私講師、次いで Schleiz 世子 Heinrich LXII 世の教育係となり、1818年に Gera で侯国 Reuß-Schleiz の公使館参事官として没した。彼は活発な精神の持ち主で、大きな計画を抱いていた。とりわけ『インド人の歴史と古代学』を著そうとしていた。「人類の春の日々」は彼にとってインドにあった(55頁)。Schopenhauer は Weimar からの書簡で、東洋学者 Friedrich Majer が彼をインド古代へ導いたのであり、「それは私に本質的な影響を及ぼした」と書いている(57頁)。Goethe も彼を評価していた。これまで十分に注意されてこなかった Majer について、Joh. Imelmann は1916年10月18日に Berlin のドイツ文学協会で講演した。『Deutsche Literaturzeitung』1916年第47号、欄1912を参照。

§57頁について

Hoffmann はその繰り返し言及した著作の第四章で Schlegel 兄弟について論じており、しかも August Wilhelm よりも Friedrich に対してより多くの共感をもっている。彼は繰り返し Carl Enders の著作『Friedrich Schlegel。その本質と生成の源泉』(Leipzig 1913年)を引用している。Friedrich は19歳の学生として Leipzig で、Śakuntalā が世に出るとすぐにこれを知った。彼は兄に宛てて「見本市の産物のうち私にとってとくに注目に値したのは、

G. Forster の英語からの翻訳によるインドの戯曲である」と書いているが、その表現はまだこの作品およびインドへの熱狂を示していない(Hoffmann 69頁)。インドの世界へ彼が獲得されたのは、Paris で Helmine de Chézy によってのことであった(74頁)。

§57頁26行および75頁43行について

Louis-Mathieu Langlès(1763年生、1824年没)については、Abel Rémusat が追悼文を『Journal Asiatique』IV(1824年)150–157頁に書いている。Langlès はアジア全体を自らの領域と考えた東洋学者で、多くを著したが、ペルシア語を除いては東洋諸語のより深い知識をもたなかった。1790年に彼が国民議会に提出した建議の結果、1794年に École des langues orientales vivantes が創設された。

§72頁27行について

1824年に Bopp は Berlin で "Indralokāgamanam. Ardschunas Reise zu Indras Himmel nebst andern Episoden des Mahabharata" を刊行し、これにサンスクリット原典 "Arjuni Iter ad Indri Coelum cum aliis Mahabharati episodiis" を添えた。他の挿話は Hiḍimbabadha、Brāhmaṇavilāpa、Sunda と Upasunda である。1829年には "Die Sündflut nebst drei anderen der wichtigsten Episoden des Mahā-Bhārata" が続き、これにより大きな判型でサンスクリット原典 "Diluvium cum tribus aliis Maha-Bharati praestantissimis episodiis" が添えられた。そこには Matsyopākhyāna のほか Sāvitryupākhyāna、Draupadīpramātha、Arjunasamāgama が含まれる。

§80頁について

Langlois は A. W. Schlegel の業績を全面的に認めている。Schlegel はその翻訳においてフランスの学者たちに先んじたが、Paris にある補助手段は彼には利用できなかった。Langlois は各章の分析を与え、理解のために Paris の写本から Śrīdhara の注釈を利用することができた。彼の批判的所見がきわめて重要であるとは言えない。『Journal Asiatique』VI 250 で予告された第五の最終論文は現れなかった。Schlegel はその『Journal Asiatique』IX 1–27 の応答において、Langlois が当時 Hitopadeśa の翻訳4頁を除いて何も業績を挙げておらず、de Chézy の手中の操り人形にすぎないと述べている。Schlegel 自身は de Chézy の弟子であることを否定している。インドの注釈者について彼は言う。「Les scoliastes indiens savent beaucoup de choses mieux que nous; mais en revanche nous nous sommes exercés à l'art de l'interprétation par l'étude de plusieurs langues; nous ne sommes pas bornés comme eux à l'horizon de l'Inde; nous connaissons l'histoire de la philosophie et celle de l'esprit humain」。彼らには一般に大きな欠点がある。「c'est qu'ils sont obscurs, et souvent plus difficiles à comprendre que le texte, qu'ils prétendent expliquer」(9頁以下)。われわれは今日では土着の注釈の価値をより高く評価している。

§83頁について

近年になってようやく知られるようになった、Albert Leitzmann 編、B. Delbrück の序論を付した『Wilhelm von Humboldt と August Wilhelm Schlegel との往復書簡』(Halle a. d. S. 1908年)によって、

われわれは W. v. Humboldt と A. W. Schlegel との関係についても一つの洞察を得た。書簡は1818年から1831年に及び、それは『Indische Bibliothek』の時代であって、これについて多くが語られている。両者はきわめて礼儀正しく相接し、互いに相手の研究にあずかることを許し合った。v. Humboldt がバスク語を研究したように、Schlegel はエトルリア語を研究した。両者は類似した結論に達した。バスク語はラテン語と「多くの語幹語」を共有するとされるが(10頁)、ただしこの言語とのより近い親縁関係は存在しないという(51頁)。エトルリア語はウンブリア語・ラテン語等に属するが、ただし「はるかに下位に」位置するとされる(24頁)。W. v. Humboldt はしばしば彼の一般的な言語研究について、またアメリカ諸語について書いており、Kawi 語については最後の書簡においてはじめて言及している。しかし両者を結ぶ絆はサンスクリットであり、その言語学にとっての重要性を両者は深く確信していた。ここでは W. v. Humboldt が受け取る側である。1821年以来彼はこの言語を学びたいという願望を抱いており、その目的は文学よりもむしろ言語そのものにあった(67頁)。彼はサンスクリットを Bopp の Nalus によって学んだが(113頁)、Schlegel の攻撃に対する Bopp の立ち入った率直な弁護のなかで、自らを Schlegel の弟子でも Bopp の弟子でもないとし、それゆえ両者の間に不偏の立場をとると述べている(232頁)。1829年6月16日付のこの注目すべき書簡において、彼はすべての攻撃点、とりわけ Bopp の Pāṇini に対する立場について論じている。しかし Schlegel 自身の Pāṇini の知識もきわめて不十分であった。1821年の書簡では、Siddhāntakaumudī からサンスクリットのアクセントの名称は知っているものの、それについて詳しいことは何も知らないでいる(17頁以下)。別の箇所では、インドの文法家が統辞法をも扱っているかどうかを知らない(86頁)。概して Schlegel はこれらの W. v. Humboldt 宛書簡においては、他の学者について穏やかに語っている。それには W. v. Humboldt の性格と高潔さも与っていたであろう。Wilkins の誤り——「今や老練の士であり、この事柄について大いに功績があった」——については「愛の外套で覆わ」ねばならない(104頁)。かつては厳しく判断したが、今では従来の誤りをできるかぎり寛大に訂正すべきである、と。de Chézy でさえ彼にとっては「勇敢で才能ある人物」である(108頁)。しかしまもなく彼は Langlois の彼の Bhagavadgītā に対する書評の背後に de Chézy の嫉妬を見てとる(190頁)。この件、および v. Humboldt の Bhagavadgītā に関する論文とその『Indische Bibliothek』への収録は、両通信者にとって書簡の主要な対象であり、同じく v. Humboldt の動名詞(Gerundium)に関する論文もそうである。これを Schlegel は「徹底的で見事な労作」と呼び、喜んで彼の雑誌に収めている(86頁)。v. Humboldt は他の統辞法上の主題、たとえば時称の用法(33頁)、前置詞の用法(56頁)をも提起した。音韻に関わるものとしては Visarga と Anusvāra があり、その本質と古い時代における発音についてはただちに明確な観念が得られなかった(209頁)。v. Humboldt は時に Bopp と異なる見解をもち、また細部において多く Schlegel から教えられたにもかかわらず、人格的にも根本的な見方においても、Schlegel よりも Bopp により近く結びついていると感じていた。このことはとりわけ、屈折を、代名詞的ないし小辞的な意味をもつ、形態形成的に用いられた小語の膠着から説明する点に現れている。Schlegel の見解は(72–74頁)、すべての

高貴な言語においては「天才的な形成衝動」が初めから活発であったというものであり、彼は真に実り豊かな発展の原理をすべて「最も遠い太古」に帰している。「直観の根源的統一が失われたところで悟性によってつぎはぎすること、文法的本能の代用物・奇形・流産」は、これに反して後代の作り物であるという。膠着説はその後さまざまな制限と修正を受けた。これらの書簡においてすでに、W. v. Humboldt に類推形成の思想が見出される。すなわちドイツ語の動詞で、もともと binde, band, gebunden という変化をもたなかったものが、そのように「形を合わせられた」可能性があるというのである(197頁)。A. W. Schlegel は弟 Friedrich の影響を受けていた。その背景には「人類の始祖たち」についての見方(196頁)と、言語にも与えられた啓示の観念があった。弟に生じた変化について、A. W. Schlegel はきわめて苦々しく判断している(246頁)。サンスクリット文献のうちで、これらの書簡において Bhagavadgītā のほかに話題となるのは Hitopadeśa、Rāmāyaṇa、Manu、すなわち当時関心の中心にあった作品であり、その際 Schlegel はその文献学的なやり方で、写本と刊本におけるテキストの状態を批判し、多数の個別箇所を論じている。彼は Rāmāyaṇa と Hitopadeśa に狙いを定めており(174頁)、Bernstein の学位論文 "Hitopadesi particula; edidit et glossarium sanscrito-latinum adjecit"(Breslau 1823年)に繰り返し言及している。彼は近く「本来の妖精譚はすべてインドに由来する」こと、ペルシア人は気取った翻案を提供したにすぎないことを論証しようと考えている(175頁)。『千夜一夜物語』における最良のもの、いや「世界のすべての機知に富んだ物語」を、彼はインド文学に帰したいと望んでいる(216頁)。Haughton の Manu 校訂本については、とくに注釈の刊行をも含めて、もっと多くを期待していた(203頁)。Schlegel は Manu の法典を暗記することも辞さぬつもりであった。それは土着の概念の実質的説明の最も豊かな源泉であり、そこから文法的用例をも最も好んで取りたいと考えていた(131頁)。Bopp によれば、Hitopadeśa の最初の12頁の分析は Haughton によるものではなく Hamilton によるものである(136頁)。Gildemeister, Bibl. Skr. Spec. 103頁参照。

§95頁17行について

Wien アカデミー哲学史学部門の会議報告第63巻(1869年)33–156頁には、なお Louis Poley による "Vedānta-sāra" の校訂が現れている。これは序論、翻訳と、その下に置かれた、1829年の Calcutta 版から転写されたテキスト、および語彙集から成る。Böhtlingk はその Chrestomathie における同テキストの翻訳において、これを後から言及している(第2版368頁)。

§95頁18行について

「Karl Wilhelm Schütz」について R. Pischel は『Zentralblatt für Bibliothekswesen』1893年(341–343頁)の追悼文で述べている。「彼は乏しい補助手段をもって卓越したものを成し遂げた」。Pischel はとりわけ彼の Meghadūta の翻訳を賞賛し、これは復刻によって再び入手可能とされるべきであるとする。彼はまた Māgha-Kāvya をも徹底的に研究したが、その翻訳作品『Māgha の Śiśupāla 誅殺。サンスクリットの美文叙事詩』は第一分冊、翻訳、第

I–XI 歌(Bielefeld 1843年)のみが世に出た。Hoefer の『ドイツ語翻案によるインドの詩』を彼は『Allgemeine Literatur-Zeitung』1844年第289–291号において厳しくはあるが公正な批評に付した。Pischel はまた、英語およびロマンス語の学校文献学の領域における Schütz の数多くの業績をも列挙している。

§102頁について

Þ すなわち分化したギリシア文字 Ρ が貨幣において sh の音を表すという Stein の仮説は、J. Kirste によってすでに『Wiener Zeitschrift f. d. Kunde des Morgenlandes』第II巻236–244頁において、また今やより詳細に彼の著作 "Orabazes"(Wien アカデミー会議報告1917年)において反駁されている。Kirste はここ16頁で、この仮説は Stein 以前にすでに Cunningham によって立てられており、彼は Num. Chron. 1890年108頁でそれを自らのものと主張していると述べている。近年 Kennedy は RAS. の Journal 1912年、1011、1015頁で、Characene の貨幣に見える名 ΟΡΑΒΣ を Oshabazes と転写した。Thomas は、同じ名が別の貨幣では通常の Ρ をもって書かれていることを指摘した。Kirste は r を本来の音とみなし、この名を *Ahurabazos に還元する。これは正しいかもしれない。ここから出発して——彼の著作の表題はこれに由来する——彼はこの Þ をもつ他の一連の名を音韻史的・語源的に考察する。そのうち最後の番号、すなわち7. ÞAONANO、8. KANHÞKI、OOHÞKI、9. KOÞANO が最も重要である。Kirste は Ρ の分化した形に実質的意味を認めないようであり(28頁)、いたるところで r から出発するが、それはもとより方言的に異なって発音されたものである。これらの名における Ο の意味もまた確定しがたい。ÞAONANO ÞAO をイラン語の Shāhān Shāhi に還元する Stein の説を放棄するのは惜しまれよう。もっとも語尾 NANO はこれまであらゆる説明を拒んできた。Kirste はかつての ÞAO をセム語根(ヘブライ語 רָעָה「牧する」)から説明する解釈を、この新しい著作では繰り返していない。KANHÞKI, Kaniṣka、およびそれに類する構成の名を、彼は複合語とみなす。しかしその rki が skr. rāj のトカラ語的反映であるとは信じがたく(44頁)、また Kaniṣka も Juṣka も skr. yuvarāja と同義であるということも同様である(47頁)。Kuṣana にトカラ語 Koṛana のヒンドゥー化された形を見る点も、劣らず疑わしい(67頁)。これは無声の r をもつ民族名 koṛa に遡るとされ、彼はこれを skr. Uttara-kuru と関係づけている(64頁)。Kirste の語源的説明は Stein の理論を排除するには適しない。Þ が歯擦音を表すべきであるということは、Ρ と Þ とが時に混同されているとはいえ、なお維持されるであろう。

§179頁37行について

E. Kuhn は私に、"Tôhfat" で始まる三つの標題が明らかに同一の著作を指しており、しかもそのうち一つだけが正しいこと、Centenary Review 171頁の Postans の項でも同じ記載が訂正されずに繰り返されていることを注意してくれた。すでに ASB. の Journal VII 297 の編者が "ul Khwān" を "ul Kiram" に訂正しており、これに対して Lassen は Ind. Alt. III 459 で algirani を置いた。Tohfat、より正しくは Tuḥfat は長音記号なしに書かれるべきである。

§第二部 原書 pp. 209–460

インド・アーリヤ文献学および古代学綱要 (Encyclopedia of Indo-Aryan Research)

G. Bühler 創設、F. Kielhorn 継承、 H. Lüders および J. Wackernagel 編集。

第I巻、第I分冊B。

サンスクリット文献学 および インド古代学の 歴史

Ernst Windisch 著

第二部

Leipzig・ザクセン研究所の資金による助成を得て

Berlin・Leipzig 1920年

学術出版社連合 Walter de Gruyter \& Co.

旧 G. J. Göschen 出版社 ― J. Guttentag 出版書店 ― Georg Reimer ― Karl J. Trübner ― Veit \& Comp.

版権頁

一切の権利、とりわけ翻訳権を留保する

アメリカ合衆国のための保護文言: Copyright 1920 by Vereinigung wissenschaftlicher Verleger Walter de Gruyter \& Co. Berlin W. 10.

印刷:M. DuMont Schauberg、Straßburg。

序文

§序文

1917年に刊行された Windisch のサンスクリット文献学史の第一部に続いて、ここに、重い障碍のもとで完成に至った第二部が世に出る。著者は生涯の最後の数週に至るまで、倦むことなき勤勉さをもってこの著作に取り組んだ。この著作をもって彼は、半世紀にわたってインド文献学に捧げられた研究を締めくくったのである。1918年8月中旬、彼は最後の二章を印刷所へ送った。同年10月30日に永眠したとき、印刷はほぼ完了していた。最終の折丁の校正と改訂には、J. Hertel 氏および E. Kuhn 氏が好意をもって尽力された。とりわけ後者に対して、われわれは深く感謝する。彼は友の仕事を初めから、そして友の死を越えてなお、生き生きとした関心をもって伴走してくださったのである。

第三部は、著者がその死の数週間前に第二の署名者〔=Wackernagel〕に書き送ったところによれば、第一にインドにおけるサンスクリット文献学の発展を、第二に南方仏教に関する諸研究を、最後に近代および最新の時代全般を扱うはずであった。遺稿の中には第一節の草稿の冒頭部分が見出されたが、この断片を綱要に直ちに用いるには適していなかった。そもそも、これほど広大に構想された著作が第三部によって完結せしめられうるかどうかは疑わしい。Windisch が予定していた対象のほかに、なお若干のものを含まねばならないであろうからである。編者と出版者はこの問題を引き続き検討することとする。

われわれは、この副言を閉じるにあたり、故人となった高潔な学者に対し、かつてこの課題を引き受けてくださった快諾と、引き受けられた義務への忠実さとに対して、心からの謝意を墓へと呼びかけずにはいられない。

1920年5月、Berlin および Basel にて。

H. Lüders.    J. Wackernagel.

目次

§第二部 目次

第XXVII章 Bonn 学派。Fr. Windischmann。H. Brockhaus とその弟子たち 209
第XXVIII章 J. Gildemeister。A. Hoefer 215
第XXIX章 Fr. Stenzler 219
第XXX章 Th. Benfey 222
第XXXI章 Kopenhagen。N. L. Westergaard 234
第XXXII章 ベルギー。F. Nève 236
第XXXIII章 O. Böhtlingk 238
第XXXIV章 Th. Goldstücker 246
第XXXV章 Ṛgveda。R. Roth 254
第XXXVI章 Adalbert Kuhn 265
第XXXVII章 Max Müller。Ṛgveda の校訂本 270
第XXXVIII章 Max Müller。History of Ancient Skr. Literature 277
第XXXIX章 Max Müller と Bunsen。宗教史 285
第XL章 Max Müller。言語学 290
第XLI章 Max Müller。サンスクリット文学のルネサンス 293
第XLII章 Max Müller。仏教 298
第XLIII章 Max Müller。バラモン哲学 301
第XLIV章 Monier Williams。J. Muir 305
第XLV章 Th. Aufrecht 316
第XLVI章 A. Weber。Yajurveda 319
第XLVII章 A. Weber。目録と文学史 325
第XLVIII章 A. Weber。論文集 331
第XLIX章 A. Weber。Prākṛt 研究 342
第L章 A. Weber。Jaina 文献 346
第LI章 W. D. Whitney 355
第LII章 Weber の友人と弟子たち。R. Rost、E. Haas ほか 361
第LIII章 H. Grassmann。A. Ludwig。H. Zimmer 364
第LIV章 Fr. Bollensen 375
第LV章 旧世代のスイスの学者たち 379
第LVI章 C. Cappeller。J. Grill 381
第LVII章 H. Brunnhofer 386
第LVIII章 J. Eggeling 392
第LIX章 インド演劇におけるギリシアの影響。E. Windisch 398
第LX章 Ākhyāna 讃歌。叙事詩と演劇の起源 405
第LXI章 B. Delbrück 414
第LXII章 比較言語学のさらなる発展 421
第LXIII章 イタリアにおけるサンスクリット研究。A. de Gubernatis 439
人名・事項索引 453

§第 XXVII 章 Bonn 学派

§Fr. WINDISCHMANN。H. BROCKHAUS とその弟子たち

すでに Burnouf が、ドイツにおけるサンスクリット研究の「Bonn 学派」について語っていた。A. W. v. Schlegel は一つの学派を創設するという明確な意図を抱いていた。というのも、彼は1823年12月18日付の Lassen 宛書簡において次のように書いているからである。「もし摂理が私になお幾年かの生命と健康を与えてくれるならば、Bonn は東洋学の一中心とならねばなりません。そしてその際には、貴兄のためにも名誉ある有利な地位を実現できればと望んでおります」(『往復書簡』13頁)。サンスクリット文学に向かおうとする者は、Bonn の Schlegel と Lassen のもとへ赴き、Paris、London、Oxford で写本資料を集めた。そこでドイツ人たちは同時にフランスおよびイギリスの学者たちと直接の交流をもったのである。まずは Lassen に続き、また Lassen と並んで、その著作と大学における教育によってサンスクリット文献学の深化に本質的に寄与したドイツの学者たちを、同時代の他国の傑出した学者たちと併せて生年順に配列するならば、次のような群が得られる。Brockhaus 1806年生、Stenzler 1807年生、Benfey 1809年生、Muir 1810年生、Fr. Windischmann 1811年生、Gildemeister、Hoefer および A. Kuhn 1812年生。これらの人々と、いま一つのより大きな第二群との中間に位置するのが、Böhtlingk とデンマーク人 Westergaard であり、両者とも1815年生である。第二群に属するのは、Spiegel 1820年生、Goldstücker と Roth 1821年生、Aufrecht 1822年生、Max Müller 1823年生、A. Weber とアメリカ人 Fitz-Edward Hall 1825年生である。これに続いてイギリス人 Cowell 1826年生、アメリカ人 Whitney 1827年生、オランダ人 Kern 1833年生が来る。こうした数字のうちには、やはり時代の精神といったものが表れている。それは「殿方ご自身の精神」とは異なるものである。ふたたび新しい世代の系列が始まるのは、ようやく1840年代に入ってからである。Friedrich Spiegel については独立の節を設けない。彼はその経歴の初期においてインド学の領域で活躍したにすぎず、それも Kammavākya と Rasavāhinī の校訂本、および書評によってであった。彼が古代イラン文献学の歴史において高い意義をもつのは、Avesta の校訂本、イラン古代学その他によってである。しかし師と弟子の場合しばしばそうであるように、彼の研究の組み合わせは弟子 W. Geiger において反復されている。ただし Geiger はイラン語のみならず Pāli においても重要な学問的活動を展開した点が異なる。

旧世代のドイツの学者のうち、誰一人としてインドへ赴いた者はなく、また誰一人として Lassen のように碑文・記念建造物あるいはインドの政治史を自らの特別な研究対象とした者はいなかった。ドイツの学者でこの方向に改めて踏み出したのは、ずっと後の Bühler と Kielhorn であった。それ以前には R. Roth と Max Müller とが、ヨーロッパにおける研究が何よりも Veda に向けられた一時代を導き出したのである。A. Weber はある意味で Lassen に比較しうる。というのも、彼は Lassen とは異なる仕方においてではあれ、インドに関する知識の総体をいわばその一身に体現し、文学を「アカデミー講義」において総括的に叙述し、学問の進歩を——

——新刊書に対する無数の批評的紹介において追跡し、また自らの大著によってその進歩をもたらしたからである。

これら重要な学者たちの世代の巨大な業績を叙述する前に、彼らより前に生まれた神学者 Ewald について述べておかねばならない。かつて中世において修道院で学問が育まれ、次いで宣教師たちが東洋の宗教と文化についての最初の知識をもたらしたように、その後もなお神学者、とりわけプロテスタント神学者の圏内から東洋の重要な知識人が輩出した。Heinrich Ewald は1803年 Göttingen に生まれ、同地で教授としてその主要な活動を展開し、1875年に没した。彼は全東洋をその研究と知識によって包括しようと試みた人々の中で最も偉大な人物であった。その主たる力量はヘブライ語およびアラビア語の領域にあったが、サンスクリットについても優れた知識を身につけていた。すでに上記第I巻157頁に言及した、Zeitschrift für die Kunde des Morgenlandes に発表された諸論文のほかに、それより早く小著「古いサンスクリット韻律について」(Göttingen 1827年)が刊行されており、これは Lassen の Anthologia 第2版126頁において Gildemeister によって称賛された。また彼の功績として認めてよいのは、Göttingen では Bollensen を、Tübingen では Schleicher と Roth を——三人ともやはり本来は神学者であった——サンスクリットへと獲得したことである。

その父を通じてすでに個人的に Schlegel および Lassen と結びついていたのが、若き Windischmann であり、彼はその著作「Sancara sive de Theologumenis Vedanticorum」(Bonn 1833年)の第一部をもって Bonn で学位を取得した。Friedrich Heinrich Hugo Windischmann は1811年に生まれ、1861年に München 大司教区総代理として没したが、父 Karl Joseph Hieronymus W.——彼はこの著作を父に献呈している(Patri Magistro Amico)——から哲学への傾倒を受け継いだ。彼がインド哲学に対していかなる立場をとったかは、その著作の VIII 頁の次の一文が示している。「Christianam autem doctrinam cum Indorum dogmatis comparare atque in his veritatis quasi imagines et scintillas demonstrare, res est utilissima quidem et maximi momenti, sed aliena ab huius libelli proposito, qui tantum in ipso Vedanticorum systemate explicando versatur」〔キリスト教の教説をインド人の教義と比較し、その中に真理のいわば像や火花を示すことは、まことに有益にしてきわめて重要な事柄ではあるが、Vedānta 学派の体系そのものを解明することのみを事とする本書の目的からは外れている〕。序文の末尾で彼は Schlegel に呼びかけ、Schlegel によってサンスクリット研究へと促され、その豊かな蔵書から稀覯書を利用させてもらったと述べている。しかし彼の仕事の本来の材料を与えたのは Lassen であった。すなわちその基礎をなすのは、Śaṅkara に帰せられる「Bālabodhanī」(-bodhinī と読むべし)であり、これは47の śloka からなる Vedānta 教説の簡潔な綱要で、Lassen が London から写本の一部を持ち帰ったものである。Windischmann の Śaṅkara は、事柄の上からは、その一年前に出た Lassen の Sāṅkhyakārikā の対をなすものと見なしてよい。多数の引用が示すように、Windischmann は当時利用可能であったサンスクリット文献から敬服すべき語学力を身につけており、それに必要な文献学的批判力を加えることによって、たとえ注釈を含むとはいえただ一つの写本のみで用を足すことができたのである。この学位論文は Rām Mohun Roy の賛同を得た。第I章はこの小著作の本文、各詩節への批判的・解説的注記、およびラテン語訳を含む。理解のためには Calcutta 版の Vedāntasāra が彼にとって大いに有益であった。第II章では A の項で Śaṅkara の生涯と著作を論じる。そして——

——Wilson、Colebrooke その他に依拠しつつ、彼は Śaṅkara が紀元後650年から750年の間、すなわち Kumārila の百年後、そして当時信じられていた Kumārila の扇動による仏教徒大迫害の後に生きたことを確定しようとする(42頁)。B の項では Vedānta の年代を扱う。この哲学の起源を彼は、古い Veda 文献に属する Upaniṣad に求める。これへの言及は Manu 法典中に見出されるが、この法典自体はおそらくアレクサンドロス大王の時代よりも古い、とする(50頁以下)。あらゆる問題を彼は該博な知識をもって扱っている。Upaniṣad の文体と言語形式についても、ここに最初の観察が見出される(62頁以下)。彼は Anquetil Duperron の Oupnekhat を知っており、XIV 頁でこれを公正に評価しているが、自らの目的のためには、とりわけ Ram Mohun Roy によって Śaṅkara の注釈とともに原文で刊行された四つの Upaniṣad(Kaṭha、Īśā、Kena、Muṇḍaka)、および v. Bohlen が彼に譲った Chāndogya Upaniṣad の写本を用いた(XII 頁)。第III章は「Doctrinae Vedanticae brevis expositio」という表題をもち、89〔?〕–186頁に及び、Chāndogya Upaniṣad からの Mahāvākya の本文と翻訳をもって終わる。Vedānta 教説の叙述において Windischmann は Deussen の先駆者であるが、ただし両者の見解は異なっている。短い Epilogus において Windischmann は自らのキリスト教=カトリック的立場を強調している。A. Weber はその論文「Anquetil du Perron の翻訳に含まれる Upanishad の分析」(Indische Studien 第I巻 (1850) 247頁)の冒頭で、Fr. Windischmann の功績を然るべく認めている。バラモン哲学の領域における彼の立ち入った研究は、さらに別の形でも活用された。すなわち彼は父に対し、上述の四つの小 Upaniṣad、Bṛhadāraṇyaka の数章、Chāndogya Upaniṣad のほぼ全体、Vedāntasāra、Bālabodhinī、Sāṅkhyakārikā、Manu 法典の大部分(第I巻および第XII巻から)、Nyāyasūtra 第一巻のドイツ語訳を、父の大著「世界史の進展における哲学」のために提供したのである。その結果、同書の第1巻(「東洋における哲学の基礎」Bonn 1827–1834年)においては、Weber の言うように「Upanishad の哲学がまことに見事に扱われている」。サンスクリットにおけるこの賞賛すべき出発の後、Fr. Windischmann はやがて古代イランの宗教史の領域における価値ある研究によって名を成した ¹⁾。これには Muir がその「Original Sanskrit Texts」第V巻でしばしば言及している。しかしこれらの研究はすでに Bonn 時代に遡る。というのも Burnouf が1834年9月6日付の妻宛書簡で、Windischmann が自らの Yaçna について書いた「trois énormes articles」〔三本の巨大な論文〕について語っているからである。しかし彼は同じ書簡で Windischmann について一般に次のように述べている。「私は若き Windischmann と知り合った。彼は枢機卿になろうと志し、ローマへ発とうとしている。彼はカトリック教徒であり、たいへんな才気の持主で、学識豊かで、外面は愛想がよく、快楽と女性を情熱的に愛する。一言でいえばイタリアの司祭になるために生まれたような男だ。生き生きとした目をした褐色の髪の男で、ドイツの金髪の頭の只中にあってきわだった対照をなしている」(Choix de Lettres 174頁)。

年齢の上から Lassen に次ぐドイツのサンスクリット教授の長老は Hermann Brockhaus であった。彼は1806年 Amsterdam に生まれたがドイツ系であり、1877年 Leipzig の東アジア諸語教授として没した。彼の Prabodha——

【注】 ¹⁾ Allgemeine Deutsche Biographie 所収の Fr. Windischmann に関する E. Kuhn の項目を参照。

——candrodaya 校訂本の序文において、彼は Lassen を自らの師と呼んでおり、Lassen は校正刷にまで目を通したという。彼が非常に多面的であったことは、すでに上記第I巻145頁で述べた。Burnouf の範に倣い、サンスクリットと並んで古代イラン語も彼の研究領域であった。彼が最初に名を知られたのは、「Prabodha Chandrodaya Krishna Misri Comoedia」の校訂とラテン語訳によってであり、その Fasciculus Prior は Leipzig で1835年に刊行された。この後代の、しかしインド人の精神傾向を特徴的に示す戯曲に Brockhaus が注意を向けたのは、J. Taylor による英訳(London 1812年)を通じてであり、これは Gildemeister の Bibliotheca Sanskrita Specimen に第341番として記載されている。写本は London で見出した。1833年刊行の Calcutta 版は、彼の本文がすでに印刷されてから初めて目にすることとなった。

争う余地なく editio princeps であったのは、彼の Kathāsaritsāgara 校訂本である。Brockhaus がこの企てへと促されたのは「故 Sylvestre de Sacy による Bidpai 寓話集についての深い研究」によってであり、それは「これらの機知に富む寓話の本源の祖国としてのインド」へと導くものであった。彼はまた Wilson からの教示、および Loiseleur Deslongchamps の Essais にも言及している。まず「Katha Sarit Sagara。Kaschmir の Sri Somadeva Bhatta の説話集。第一巻より第五巻まで。サンスクリット原典とドイツ語訳」(Leipzig および Paris、1839年)¹⁾ が刊行された。これについても写本は London で、また Oxford の Wilson の蔵書中で見出し、Wilson の友情と寛大さを彼は称賛している。Bopp は自発的に校正刷を共に読んでくれた。当時の状況を特徴的に示すのは、序文 IX 頁の次の一文である。「しかしインドの写本から一つの著作を初めて刊行する者は誰であれ——Calcutta 版の翻刻も翻訳もその作業を容易にしてくれず、いかなる注釈にも支えられず、また現地の学者の口頭の教示を享受することもできなかったのであるから——、その者は誰であれ、私に隠されていないわが仕事の多くの欠陥を寛大に判断してくれるであろう」。サンスクリット文献学の揺籃期の産物に、あらゆる時代に通用する "critical edition" を期待する者はいまい。それゆえ J. S. Speyer がその価値ある論考「Studies about the Kathāsaritsāgara」(Amsterdam 1908年)61頁以下で Brockhaus の校訂本に加えた評価は、歴史的公正さに適っていない。Kathāsaritsāgara の残りの巻を Brockhaus はドイツ東洋学会の「Abhandlungen zur Kunde des Morgenlandes」第II巻および第IV巻(Leipzig 1862年および1866年)にラテン文字転写で刊行した。この校訂本は、Nirṇaya Sāgara Press(Bombay 1889年)から出た Paṇḍit Durgāprasād および Kāśīnāth Pāṇḍurang Parab の校訂本が現れるまで、唯一のもの ²⁾ であり続けた。後者もまた Speyer によって前掲書で批判されている。Brockhaus はインド文学の最も重要な説話作品を初めて利用可能にしたのであり、その構成要素には Vetāla の二十五話も含まれる。ザクセン王立学士院——

【注】 ¹⁾ 第一分冊については Benfey が1839年 Göttingische gelehrte Anzeigen で書評し、これは Kleinere Schriften 第II巻第三部3頁以下に再録されている。そこでは Brockhaus のインド説話紹介の功績が生き生きと認められている。彼はまた1834年および1835年のこの分野における Brockhaus の小論にも言及している。

²⁾ E. Kuhn の教示によれば、Bendall の Catalogue から知られるところでは、この著作の散文への改作(Gadyātmakaḥ Kathāsaritsāgaraḥ、"rendered into Sanskrit prose from the poem of S.")が Jibananda Vidyasagara によって Calcutta 1883年に刊行されている。これはおそらく、India Office 図書館目録 Sanskrit Books 25頁に Calcutta 1883年刊、"Pages 1391" として記載されているのと同一の書物であろう。

——文献学・歴史学部門報告 1853年所収の彼の小論の一つはこれらを扱ったもので、Benfey がこれを称賛している(Kleinere Schriften 第II巻第三部10頁参照)。かくして彼はこの文学類型の最初の専門家として、F.-E. Hall から Vetālapañcaviṃśati の写本七点を受け取り、それを弟子 Uhle と本書の筆者〔=Windisch〕に委ねた。H. Uhle はやがて単独で校訂を引き受け、「Vetālapañcaviṃśatikā、Śivadāsa および無名氏の異本により、批判的注釈を付す」という表題のもと Leipzig 1881年、Abhandlungen zur Kunde des Morgenlandes に発表し、Hermann Brockhaus の記念に捧げた。序文で Uhle は、無名の異本が Kṣemendra の Bṛhatkathā からの抄録であり、「韻文の原型の痕跡を、多くの場合わずかに覆い隠したにすぎない形で」留めていることを証明した。Uhle の著作の紹介において、Bühler の好意により Bṛhatkathā の完全な写本を入手していた M. Haberlandt が、Österreichische Monatsschrift für den Orient 1884年7月15日号でこれを裏づけることができた。

サンスクリットのラテン文字転写のために Brockhaus は「ラテン文字によるサンスクリット文献の印刷について」(Leipzig 1841年)という論考をもって尽力した。彼の提案は、比較文法学者たちがなおサンスクリット、とりわけ Veda の研究に熱心に従事していた時代には支持を得た。Aufrecht は Ṛgveda と Aitareyabrāhmaṇa を転写で刊行し、Grassmann は Ṛgveda 語彙集を、Delbrück は Vedische Chrestomathie を、Weber は Taittirīyasaṃhitā その他の本文を Indische Studien において転写で出した。同様にアメリカの学者たちも Journal of the American Oriental Society におけるテキスト刊行に転写を用いた。しかしサンスクリット文献学がインド的 śāstra の性格を帯びるようになるにつれ、テキスト刊行における転写は一般に後退していった。転写が Turnour の Mahāvaṃsa 校訂本以来今日に至るまで一般的であり続けているのは、仏教の Pāli 文献に対してのみである。それは写本が、Ceylon、ビルマ、シャムのいずれに由来するかに応じて、異なる文字で書かれているからでもある。一定の変異を伴いつつ今日ほぼ一般に認められているサンスクリット字母の転写法は、Sir William Jones と Brockhaus に遡る。

Brockhaus は演劇と説話を自らの特別な研究領域として選んでいた。彼は London での写本研究の際、さらに二つの戯曲に着目していた。しかし彼はきわめて無私な仕方で、Mālavikāgnimitra の写しを Tullberg に、また Śākuntala の新校訂本のための写本資料を Böhtlingk に譲った。Brockhaus は、Devanāgarī 写本が de Chézy による Bengal 系写本の校訂本よりも別の、より古い本文を提供することを最初に見抜いた人物である。Brockhaus の小論のうち二つはインドの算術に、一つは韻律に関わる。すなわち「インドの数字体系の歴史について」(Zeitschrift für die Kunde des Morgenlandes 第III巻 (1842) 74–83頁)、「Bhāskara の代数学について」(ザクセン王立学士院報告 第IV巻 (1852) 1–46頁)、「Gaṅgādāsa の Chandomañjarī(韻律の花房)について」(同 第VI巻 (1854) 209–242頁)である。彼はインド文学の内容をより高い立場から評価した。Bhāskara の代数学に関する論考19頁で彼はこう述べている。「もっぱらインドの詩に耽溺したディレッタンティズムの時代は過ぎ去った。厳密な学問がその権利を主張しており、そしてこの領域には、インドから人間精神の発展史のために獲得しうる、いまだ利用されていない多くの資料があると私は信じる」。

1872年 Brockhaus は Leipzig 大学総長に選出された。Bonn の Schlegel、Breslau の Stenzler に次いで、この栄誉に浴したドイツにおける三人目のサンスクリット教授である。その就任講演はインド文献学の意義を論じたものであった。その論述においては Ṛgveda、Pāṇini、寓話・説話文学、哲学、法学が際立っている。Manu 法典の年代はここではなお過大に評価されており、Jaina 派の年代はなお過小に評価され、その最古の形態すなわち Pāli Tipiṭaka における仏教の宗教的・哲学的内実はまだ十分に認識されていない。Brockhaus はドイツ東洋学会の創立者の一人に属し、1852年から1865年まで同学会誌の編集にあたった。

Brockhaus の弟子のうち抜きん出ているのは Max Müller である。彼は1843年および1844年に Brockhaus から最初のサンスクリットの教授を受けたことを、自らの「Rig-Veda-Pratisakhya」校訂本の献辞で認めている。Spiegel と Sachau も彼の講義を聴いたが、より狭い意味での彼の弟子には、なお本書の筆者〔=Windisch〕と、サンスクリット文献学の歴史にその足跡を残したザクセンのギムナジウム教師の一群が属する。Hermann Camillo Kellner は1839年に生まれ1916年に没し、Zwickau のギムナジウム教授で、同地では Goethe 研究家としても令名があった。教授法上の原則に従って書かれた二冊の書物、すなわち Schleicher の Kompendium に依拠して言語学的に構成された文法書と、Bopp のそれに倣った Nala の校訂本(転写、注記と語彙付き)とによって、彼はサンスクリットの独習を促進しようとした。「サンスクリット語簡約初等文法。ギリシア語・ラテン語との比較的考慮を伴う」(Leipzig 1868年、第3版1885年)、「Nala 王の歌。サンスクリット初学者のための最初の読本」(Leipzig 1885年)である。後者の序文には、この叙事詩の旧来の校訂本と翻訳がまとめられている。同種のもので Brockhaus に献呈された Kellner の第三の書物が「Sāvitrī。サンスクリット語入門のための実践的初等読本」(Leipzig 1888年)であり、彼はこれをもって他の二書に先立ってサンスクリットの独習を始めることを勧めている。文法の各部には「予備練習」として例文が先行する。冒頭には「1786年から1886年〔?〕までのドイツにおけるサンスクリット研究の発展に関する序説的概観」が置かれている。Sāvitrī の歌の本文の前には、これに関する文献表を伴う序論がある ¹⁾。Zwickau のギムナジウム 1872年度学校報告に Kellner は「戯曲——

【注】 ¹⁾ 同様の趣旨で「とりわけ近代語教師のための、あらゆる人のための補助書兼練習書」たろうとしたのが、Aug. Boltz 博士教授「ラテン文字転写によるサンスクリット予備学校」(オッペンハイム 1868年)である。その後 Richard Fick「独習のためのサンスクリット語実践文法」(Wien、Hartleben 出版、刊年なし)が出た。ここでは文法の各節に練習例文が付されている。Ollendorf を想起させるこうした実践的なサンスクリット教授法は、Bühler と Haug の発意によりインドの中等学校に導入され、そこでは R. G. Bhaṇḍārkar の教科書によって定着した。Bühler はこれを大学の教育にも応用し、広く用いられた「サンスクリット初等課程の手引」(Wien 1883年)を著した。他の国々でも同様のことが起こった。アメリカ人 Elihu Burritt の書「A Sanskrit Handbook for the Fireside」(London 1876年)では、練習のためにヨハネ福音書のサンスクリット訳が用いられている。版を重ねた数から判断するに、ドイツの大学ではとりわけ Stenzler の初等読本が用いられており、これは Pischel によって実践的方法に沿った練習例文を付して改訂された。

——Mṛcchakaṭikā への序説的所見」を発表した。また彼は「Allgemeine Deutsche Biographie」における Brockhaus の伝記の執筆者でもある。Heinrich Uhle は1842年に生まれ、Dresden の Kreuzschule の教授で、現在は退職しているが、その名を永久に Vetālapañcaviṃśati と結びつけた。その校訂本についてはすでに上記213頁で述べた。彼はその後、Hultzsch から譲られた写本に基づき、この寓話集のさらに別の異本を、ザクセン王立学士院会議報告(Leipzig 1914年)に刊行し、なお翻訳にも従事している。Richard Fritzsche は1851年に生まれ、Schneeberg のギムナジウム校長で、Grassmann の Ṛgveda 語彙集の校正を読んだという隠れた功績をもつ。その論考「詩の起源について」(Chemnitz 王立ギムナジウム 1885年復活祭学校報告付録)は、Veda 神話学の心理学的理解にとって重要であり、これまで得てきた以上の注目に値する。「隠喩」(形象における真理の把握、未知の対象や過程を既知のものとの類比によって捉えること)および「投影」(人間に固有の内的経験を客観的世界へ転移すること、6頁)から出発して、彼は Sūrya、Uṣas、Agni の姿を発生的に説明しようと試み、その際ギリシアおよびゲルマンの神話をも援用している ¹⁾。Kaṭhopaniṣad I 28 に関する論考(ドイツ東洋学会誌 第LXVI巻727頁)のほか、Fritzsche は近年、インド哲学への深い理解を示すいくつかの批評を書いている。すなわち Vierteljahrsschrift für wissenschaftliche Philosophie und Soziologie 第31巻348–361頁に Deussen の Mahābhārata 四哲学テキスト訳について、第33巻110–113頁に Hultzsch の Annambhaṭṭa の Tarkasaṃgraha 訳について、また Zeitschrift für Philosophie und philosophische Kritik 第135巻79–85頁に Hultzsch の同書および Laugākṣi Bhāskara の Tarkakaumudī 訳について、第136巻253–255頁に Deussen の Outlines of Indian Philosophy について、第142巻86–90頁に Walleser の著作「古い Vedānta」について、90–92頁に Garbe の Bhagavadgītā 訳について、第143巻242–248頁に E. Neumann の Dīghanikāya 第I巻からの「Gotamo Buddho の説法」訳についてである。

§第 XXVIII 章 J. GILDEMEISTER。A. HOEFER

カトリック神学者 Fr. Windischmann がどこにおいてもその神学的立場を否認しなかったのに対し、プロテスタント神学の出身であるブレーメン人 Johannes Gildemeister の仕事は純粋に文献学的な性格を示している。彼はサンスクリットにおいてもヘブライ語・アラビア語におけると同じくよく訓練されていた。ほかならぬ Schlegel 自身が彼を「iuvenis solertia et perseverantia insignis, ingentem linguarum Asiaticarum ambitum studiis suis——

【注】 ¹⁾ Fritzsche の学校報告論文に言及しているのが、Aarau で活動したスイス人 Arnold Hirzel の Leipzig 学位論文「文化史的観点から集成し、Homer、Hesiod、Aeschylos、Sophokles、Euripides における形象と比較した Ṛgveda における直喩と隠喩」(Leipzig 1890年)で、Steinthal の Zeitschrift für Völkerpsychologie に収載された。比較は、それらが採られた領域ごとの選択に従って配列されている。神々の姿の解明はここでは意図されていない。

——complexus」〔才知と忍耐において傑出した青年、アジア諸語の広大な範囲をその研究において包括した者〕として称賛した(Zeitschrift für die Kunde des Morgenlandes 第III巻 (1840) 388頁)。1812年に生まれ1890年に没した彼は、Göttingen と Bonn で学び、セム語では Ewald と Freytag、サンスクリットでは Lassen を師とした。Paris と Leiden では写本研究に従事した。彼は Marburg で、しかも神学部において教授となり、次いで Bonn へ移った。Bonn では彼の学者としての経歴も始まったのである。その研究の広汎な拡がりのゆえに、彼の諸著作には統一的性格が欠けているが、個々の著作はそれぞれの場において直接的な有用性をもっていた。彼は自らが有用でありうると信じたところに介入したのである。彼の著作の大半についてはすでに述べたが、とりわけ今日なお不可欠の書誌学的著作「Bibliothecae Sanskritae sive Recensus librorum Sanskritorum hucusque typis vel lapide exscriptorum critici Specimen」(Bonn 1847年)がそうである。V 頁には、書評や小論が掲載された雑誌の一覧がある。アラビア学とインド学の研究の結合は、著作「Scriptorum Arabum de rebus Indicis loci et opuscula inedita」(Bonn 1838年)に表れており、これは Lassen が用い(上記第I巻178頁参照)、また Schlegel が、アラビア人は天体の運行の教説をギリシア人よりも先にインド人から受け取ったという見解を支持するために引用した(Zeitschrift für die Kunde des Morgenlandes 第III巻387頁以下)。その直後に彼は「Kalidasae Meghaduta et Çringaratilaka」(Bonn 1841年)を語彙集を付して刊行し、これによってこの小著をサンスクリットの授業に適したものとした。Kālidāsa を Gildemeister はなお紀元前1世紀に置いた。Śṛṅgāratilaka という詩は Kālidāsa に帰さなかった。これについては彼は Kopenhagen の写本と Tübingen の写本を用いたが、前者は友人 Westergaard によって、後者は Goldstücker によって書写されたものであった。Meghadūta については Wilson の Calcutta 版が利用でき、さらに二点の Paris 写本と同じく一点の Kopenhagen 写本があった。これらの記載は、初期の時代にいかにわずかな写本資料で校訂本が企てられたか、その際インド版本がいかに基礎的であったか——それらは常に少なくとも一つの写本を代表していたのであるから——、そして訓練されたヨーロッパの編者がそこにいかに自らの批判と一層の精密さを加えたかを、如実に示している。Gildemeister が Lassen の Anthologia Sanscritica 第2版をどのように改作したかは、すでに上記第I巻156頁で述べた。その多面性と同僚意識のゆえに、彼はドイツ東洋学会の重要な一員であり、同学会の盛衰に熱心な関心を寄せ、学会誌の編者からしばしばその該博な助言を求められた。この資格において私は、金縁の眼鏡をかけたこの上品な老紳士を最も感謝すべき思い出とともに記憶している。しかし彼はまた鋭い矢を放つこともできた。

偶然にも、彼と同じ年に、文献学的方向よりも言語学的方向に属する Albert Hoefer が生まれている。1812年グライフスヴァルトに生まれ、1883年に同地の大学教授として没した。彼は1845年に「Zeitschrift für die Wissenschaft der Sprache」を創刊したが、これは第4巻第2分冊(グライフスヴァルト 1853年)をもって廃刊となった。これに代わって「Th. Aufrecht および A. Kuhn によるドイツ語・ギリシア語・ラテン語領域の比較言語研究雑誌」が現れ、1851年から刊行を開始した。Bopp に対する Hoefer の立場を特徴的に示すのは、K. Büchner 編集の Berlin「Literarische Zeitung」1838年、533欄以下における Bopp の比較文法の書評であり、その弁護論的所見については Lefmann が第II巻——

——220頁で報じている。Hoefer が Gildemeister や Weber によってかくも鋭く批判され、かくもわずかしか認められなかったことは注目に値する。この論争は究極的には、Bopp と Bonn 学派との間の潜在的な対立に基づいている。Bopp は Bonn の人々から文献学者として一人前とは見なされなかったが ¹⁾、それでもなお手加減して扱われた。Hoefer は手加減されなかった。Hoefer は、Schlegel の雑誌の最終分冊における Bopp のサンスクリット文法に対する Lassen の書評への報復のごとくに、Lassen の Anthologia Sanscritica を Berlin の「Jahrbücher für wissenschaftliche Kritik」1840年、839頁以下で批判した。これによって彼は Gildemeister の論駁書「偽りのサンスクリット文献学、Berlin の Hoefer 博士の例に即して示す」(Bonn 1840年)を招き、その影響は、彼が後に自ら「写本資料を用いたサンスクリット読本」(Hamburg 1850年)を刊行した際にもなお及んだ。これに対して Weber は ZDMG 第IV巻399頁で鋭い批判を加え、これは Indische Streifen 第II巻13頁に再録されている。Hoefer は自らの雑誌 第III巻237頁で反論し、これに対してさらに Weber の反駁が Indische Studien 第II巻149頁に出た。Hoefer がサンスクリットにおいて弱点をさらしたことは疑いない。彼は非常に活動的で、いささか性急に発表した。彼自身、著書「Claws Bûr、低地ドイツ語の謝肉祭劇」(グライフスヴァルト 1850年)を Jakob Grimm に対して弁護せねばならなかった際、自らの雑誌 第III巻203頁以下でこれを認めている(「私は自覚している、いつものように性急に、しかし真の喜びと愛をもって仕事をしたことを」)。Hoefer の最初の著作は「De Prakrita Dialecto libri duo」(Berlin 1836年、Francisco Bopp に献呈)で、時期尚早の仕事であった。彼は自らの資料として、それまでに刊行された戯曲の校訂本を挙げている。de Chézy の Śākuntalā、Lenz の Vikramorvaśī、Calcutta 版の戯曲 Mṛcchakaṭikā、Mālatī-Mādhava、Uttara-Rāmacaritra、Mudrārākṣasa、Ratnāvalī、これに Brockhaus の Prabodhacandrodaya 校訂本が加わった。これらの著作は十分な材料を提供したとはいえ、その Prākṛt はなお必要な批判をもって校訂されてはいなかった。Prākṛt 文法家たちについても、Prākṛt の諸方言についても、Hoefer は当時なお多くを知らなかった。その翌年にはすでに Lassen の Institutiones linguae pracriticae(Bonn 1837年)が現れた。ここで Lassen は Vararuci の Prākṛt 文法の規則を示し、それによって写本の動揺した綴りに対する確固たる支えを与えた。しかし Hoefer は Prākṛt 研究を続け、London と Oxford での長期滞在中に Vararuci の校訂本を準備した。それについては、その雑誌第II巻および第III巻(1850年、1851年)所収の注目すべき短い「Prākṛt の歴史と文学に関する論考」から知ることができる。第一論考では、Lassen が用いた London 写本の Vararuci の照合の、さほど重要でない結果を示し、第二論考ではいわゆる「Vararuci 第二異本」の冒頭部分を示している。Vararuci の Prākṛta-Prakāśa を初めて完全に刊行したのは Hoefer ではなく Cowell であった(Hertford 1854年)。第三論考(前掲書第II巻488頁以下)で Hoefer は、Chambers 収集の写本に基づき、Setubandha すなわち「古い、純粋な Prākṛt 詩」についての、より正確な報告を初めて与えた人物である。Hoefer の功績には、Veda 文献にとりわけ富む Chambers 収集が Berlin 図書館の——

【注】 ¹⁾ 1830年11月25日付 S. W. v. Humboldt の Bopp 宛書簡、Lefmann、補遺76頁参照。A. W. v. Schlegel は1834年4月14日付 v. Bohlen 宛書簡(Bohlen 自伝、第2版144頁)で「Berlin の諸校訂本は大いなる慎重さをもってしか用いられない」と書いている。

——ために獲得されたことも含まれる。彼の雑誌第II巻437頁以下を見よ。そこで彼は、これらの写本と購入の経緯についての自らの論説(A. Pr. Staatszeitung 1843年第13号)を参照させている。Hoefer は——499頁で皇帝 Akbar を認識しそこねてはいるものの——まったく文献学的な仕方で、注釈者 Rāmadāsa について、また当の詩が帰せられている Kālidāsa について論じている。このテキストも彼は刊行しようと考えていた。実際にこれを模範的に刊行したのは、はるか後の Siegfried Goldschmidt であり、Paul Goldschmidt の助力を得て、本来の表題 Rāvaṇavaha のもと、Rāmadāsa の異本により、索引におけるサンスクリット訳の活用を伴って、Straßburg 1880年に刊行し、ドイツ語訳は1883年、その死の直前に出た。Hoefer は同書の VI 頁で言及されている。

Hoefer の Prākṛt 論考の第四は Jaina の言語に関わる(前掲書 第III巻364頁以下)。彼には写本からの自身の抜粋があったが、示唆を与えたのは Bombay の王立アジア協会副会長 J. Stevenson 師の、Kalpa Sūtra および Nava Tatva の翻訳「two works illustrative of the Jain religion and philosophy」(London 1848年、Oriental Translation Fund)の付録における「Remarks on the Māgadhī language」であった。この書によって、Jaina 文学の二つの重要なテキストが初めてヨーロッパでより詳しく知られるようになった。Stevenson はある Yati の助力を得ていた。原典を初めて刊行したのは後の H. Jacobi である。Jaina の Prākṛt を Colebrooke は Māgadhī と呼んだ。それは確かに主格単数で o の代わりに e をもつが、他の点では Vararuci の Māgadhī についての記述と一致しない。それゆえ Stevenson は、それは "Ardhamāgadhika" に近いと述べた。これに対して Hoefer は、Jaina Prākṛt は細部を別とすれば通常の Prākṛt すなわち Māhārāṣṭrī と大体において一にして同一の言語であると主張した(前掲書371頁)。同じことを H. Jacobi もその著書「Māhārāṣṭrī 選集」(Leipzig 1886年)の序論 XII 頁で説いている。同書はその Jaina 文学から採られたテキスト、語彙集、文法によって、Prākṛt 研究への最良の入門をなしている。Hoefer の Prākṛt 研究には、彼の戯曲 Urvaśī の翻訳(Berlin 1837年、「サンスクリットおよび Prākṛt より訳す」)も加えることができる。

サンスクリット文献学に関わるものとしては、さらに論考「Veda の文法について」(その雑誌 第II巻395頁以下)がある。ここで Hoefer は、H. H. Wilson のサンスクリット文法第2版(London 1847年)449頁以下の一節のドイツ語訳を与えている。そこで Wilson は、Bhaṭṭojidīkṣita の Siddhāntakaumudī に含まれる Veda に関する Pāṇini 規則の要約に基づいて、Veda 語を叙述している(442頁以下参照)。あまり注目されなかったこの概観は、Pāṇini がどこまで Veda を掌握あるいは考慮していたかがなお十分に確定されていない以上、今日なお価値がある。翻訳の末尾に Hoefer は「Veda 研究のこれまでの歴史についての若干の覚え書」を付しており、そこからは、彼が当時の最新の事柄、すなわち Weber の白 Yajurveda 校訂本の開始や Max Müller の Ṛgveda 校訂本に至るまで、いかによく通じていたかが窺える。1845年に至るまでアクセント付きの Veda 讃歌はまだ一つも印刷されていなかったため、Böhtlingk はその Chrestomathie の19の讃歌のために Hoefer を頼り、Hoefer は Chambers 写本によってこれにアクセントを付した。

A. Hoefer はまた、サンスクリット統語論および比較統語論の研究に着手した最初の人々の一人でもあり、それは「不定詞について、とくにサンスクリットにおいて。語源学的——

——統語論的論考、サンスクリット統語論の試みとして」(Berlin 1840年)によってである。彼はこれに、その雑誌 第II巻181–191頁で「サンスクリットおよび Prākṛt における不定詞の教説について」という表題のもと立ち返っている。Veda はそこにはまだあまり見られず、不定詞形の説明において、そもそも語源学において、音法則の規律が欠けている(語根 sahśak が語源的に同族であるとされる、83頁)。この領域における他の学者の研究も彼の雑誌に発表された。たとえば H. Schweizer(Zürich)の Ṛgveda における奪格について(第II巻444頁以下)、具格について(第III巻348頁以下)である。多くの著名な学者が Hoefer の雑誌に寄稿した。Pott、G. Curtius、Benfey、A. Kuhn、K. Heyse(「音声の体系」第IV巻3頁以下)、Schömann、H. C. von der Gabelentz である。しかし Bonn の人は一人もいない。多面性においては Hoefer は、グライフスヴァルトの同僚 J. G. L. Kosegarten——神学および東洋諸語の教授——にさらに凌駕された。Kosegarten については、ここに低地ドイツ語やマルタ語などに関する論文が見出される ¹⁾。Kosegarten の Pañcatantra 校訂本を、Benfey は自らの Pañcatantra についての著作の基礎に据えた。これについては当該箇所で論じる。

さらに別の仕方でも Hoefer はインドについての知識の普及に寄与した。その雑誌の各分冊に彼は「近年の言語学書誌」を付し、そこには1840年代に新たに刊行された多くの書物や論文が、言語学のあらゆる領域から記載されている。「A. Hoefer によるドイツ語翻案によるインドの詩」二分冊は、F. A. Brockhaus が企てた「外国古典作家選集」の第34巻・第35巻として Leipzig 1844年に刊行され、Rückert への献辞を冒頭に置いた小規模なインドの詩篇の集成を含む。彼はここで、「注記」(第II巻228頁)で述べているように、「英語、ラテン語、あるいは雑誌のあちこちに埋もれた、または本文校訂本の背後に置かれたドイツ語訳が、ほとんど知られないままであるのが常であるような、より広い教養ある読者層のために」書いたのである。両分冊はともに、Rosen の校訂本から採った Ṛgveda の若干の讃歌で始まり、それに Stevenson により Sāmaveda から採ったいくつかの讃歌を加えている。その他は叙事詩からの挿話と、小規模な詩篇(Ṛtusaṃhāra など)であり、それらはまさにインドの詩として最初にヨーロッパで知られたものである。さらに Mahābhārata、Hitopadeśa(序論付き)、Kathāsaritsāgara、Vetālapañcaviṃśati からのいくつかの寓話と説話が加わる。彼は P. v. Bohlen の『古代インド』をしばしば引用している。

§第 XXIX 章 FR. STENZLER

多面性においては劣るが、それだけに一層生粋の文献学者であり、驚くべき確実さと精密さをもって一連の重要なテキストを刊行し、その最初の著作から直ちに一般の承認を得たのが Adolf Friedrich Stenzler である。1807年 Wolgast に生まれ、1887年 Breslau の東洋諸語教授として——

【注】 ¹⁾ 1827年8月17日付 Kosegarten の v. Bohlen 宛書簡、Bohlen 自伝 第2版126頁参照。

——没した。もとは神学者であった彼は、Berlin で Bopp のもとサンスクリット研究を始め、その急速な進歩によって師を驚嘆させた。彼は1829年、Wilson のこの Purāṇa の分析がまだ出ていない時期に、学位論文「Brahma-Vaivarta-Purani Specimen」をもって同地で学位を取得した。この著作は最初の二 sarga の本文に加え、七つの海の起源について、Kṛṣṇa と Rādhā の降誕について、また śloka について(Ewald の論考に依拠して)の Commentatio mythologica et critica を含む。

同種の仕事が、Berlin で1831年に刊行された A. E. Wollheim の学位論文「De nonnullis Padma-Purani Capitibus」である。これはいくつかの章の内容を個々の詩節の引用とともに、また第XVI章(Umā-Maheśvara-saṃvāda における Nṛsiṃhaprādurbhāva)を完全な形で与えている。Benfey は『インド』257頁でこれを称賛している。それは、彼がここで、当時までに現れた小規模な Purāṇa 研究の列挙において18 Purāṇa の名を見出したからである。両学位論文とも、その材料をそれぞれ一つの Berlin 写本から採っていた。Wollheim の学位論文に関わるのが、Schlegel が Lassen に向けた要請「どうか批評をお引き受けになり、Bopp 学派に洗礼の湯を浴びせてやってください」(『往復書簡』219頁)である。Anton Eduard Wollheim da Fonseca は1810年 Hamburg に生まれ、1884年 Berlin に没した。ユダヤ系のカトリック教徒で、語学に通じた著述家・外交官として波瀾に富む生涯を送り、それについては三巻本の著作『Indiskretionen』(1883年および1884年)で語っている。1849年以降数年間 Berlin で東洋諸語の私講師を務めた彼は「古代インドの神話」(Berlin 1856年)を発表した。そこには Veda はまだ欠けているが、Viṣṇu と Śiva を筆頭とする後代の神々の世界が、簡潔で名称に富む叙述を得ており、詳細な索引を伴っている。その典拠は主として Purāṇa 群、とりわけ Śiva-purāṇa と Padma-purāṇa(Kriyāyogasāra)であり、そこから彼は繰り返し長い一節を翻訳して紹介している。多くの名称については典拠を示していないが、彼の書物は一定の実質的知識に基づいていた。

Stenzler は Bopp から Schlegel および de Chézy への推薦状を携えて、Berlin から Bonn および Paris へ赴いた(上記第I巻96頁参照)。1831年、London 滞在から帰る途中、Brockhaus とともに Schlegel を訪ねたとき、Schlegel は彼を「すっかり Bopp 抜きになっている」と見た(Lassen 宛往復書簡213頁)。学位論文「De Lexicographiae Sanscritae principiis」(Breslau 1847年)において彼は Bopp の語彙集の多くの誤りを訂正した。Stenzler は Lassen に代わって、Schlegel の Rāmāyaṇa 校訂本のために第III巻の London 写本を照合する仕事を引き受けた(1832年3月12日付 Schlegel の Lassen 宛書簡)。Schlegel は彼のためにプロイセンの補助金(100ターラー)を獲得し、London での生活費の不足分は自ら補填した。しかしそれと並んで Stenzler は独自の道を歩んだ。まずは kāvya の領域においてである。すでに1832年、なおきわめて若かったこの学者は、London 写本に基づき Oriental Translation Fund の費用で Raghuvaṃśa の editio princeps を、また同じく1838年に Kumārasambhava の最初の七巻の editio princeps を、いずれも「Sanskrite et Latine」で刊行した。その原則は両者とも Mallinātha の異本を再現することであった。彼は校正を共に読んでくれた友人 Rosen と Bopp に謝意を表している。これらの校訂本は、Mallinātha の注釈を含むインド版本によって駆逐された。しかし今日に至るまで第一の地位を保っているのは、Stenzler の——

——戯曲「Mṛcchakaṭikā id est Curriculum Figlinum Śūdrakae regis fabula」(Bonn 1847年)の校訂本である。50年後になお、それは Pischel の Prākṛt 諸語文法の基礎の一つに数えられた。Stenzler は Lassen の Institutiones Linguae Pracriticae を用いたが、写本の綴りが、他の箇所にも繰り返し現れることによって写本の一致から十分に保証されていると思われる場合には、Vararuci の規則に従ってこれを訂正することはしなかった。すでに1830年以来 Stenzler はこの戯曲を刊行する計画を抱いており、それは Wilson の翻訳によって促されたものであった。彼は1829年の Calcutta 版と二点の London 写本を比較したが、校訂に着手したのは、1842年に Berlin のために購入された Chambers 写本収集の中に、本文の第三の写本と注釈の写本一点を発見してからのことであった。Stenzler の Mṛcchakaṭikā 校訂本は、Chambers 収集購入の最初の成果と見なしてよいであろう。

その生涯の後半において Stenzler はその主たる研究を Dharmaśāstra に向けた。彼は Manu のもの以外のすべてのインド法典を、原文とドイツ語訳を付して一つの叢書にまとめようと企図した。この意図を実行に移すことはできなかったとはいえ、その「Yājñavalkya 法典、サンスクリットおよびドイツ語」(Berlin および London 1849年)の校訂本は、今日なおサンスクリット文献学の最も有用な書物に属する。ここでも Stenzler が用いたのは二点の Berlin 写本のみであり、これに本文の古い Bengal 版と Mitākṣarā の同種の版とが加わった。Gildemeister の第451番および第459番である。彼が刊行を望んだインド法典としては、Stenzler は16の Smṛtiśāstrāṇi のいくつかを念頭に置いていたであろう。それらは Gildemeister が第442–458番に記載している。この種の他の著作は彼には引用から知られていた。その簡潔明晰なやり方で彼は、論考「インド法典の文献について」(Weber の「Indische Studien」第I巻 (1850) 232–246頁)において、この文学類型についての最初の概観を与えた。インドの法実務にとって Yājñavalkya は Vijñāneśvara の注釈 Mitākṣarā を抜きにしては考えられないが、その解釈および印度法のさらなる知識にとっての独立の意義は、すでに Stenzler がその序文で然るべく評価している。Mitākṣarā は近年のインド版本によって容易に入手できるようになった。Stenzler は Yājñavalkya の翻訳において Manu の対応箇所を欄外に置くことにより、多言を費やすことなく、比較に基づくインド法制史の端緒を開いた。A. W. v. Schlegel がなお1840年に(Zeitschrift für die Kunde des Morgenlandes 第III巻379頁)、Mānava のみならず Yājñavalkya-dharmaśāstra も少なくとも紀元前7世紀、アレクサンドロス大王以前にインドで流布していたと主張したのに対し、Stenzler は後者の成立の最も早い限界を紀元後2世紀と定め、これによって法典の現在の形態における年代についてより正しい観念を通用させたのである。Stenzler は上述の論考243頁(すでに Yājñavalkya の X 頁でも)で「Dharmaśāstra の先駆者」について語り、Manu 法典を「法的文献の頂点」に置かなかったとはいえ、Dharmasūtra と呼ばれる著作群の意義はまだ十分には彼に理解されていなかった。Stenzler も賛同した Weber の推測、すなわち Dharmasūtra は Gṛhyasūtra から発生したという推測は、正しいことが証明されなかった。前者はまさに dharma のうちに独自の根をもつのであり、両文学類型が一定の事柄において接触するとしても——たとえば——

——Brahmacārin に関する規定において(Baudhāyana 索引参照)——そうである。Stenzler はまた後に、sūtra 形式で書かれた法典の一つを刊行した。「Śrī-Gautama-dharmaśāstram, The Institutes of Gautama」(London 1876年)で、語彙索引を付す。Veda 学派に由来するこの法典のより古い層の意義を初めて十分に評価したのは M. Müller のその History においてであった。次いで Bühler、Jolly、Knauer の校訂と翻訳が続き、とりわけ Jolly の Tagore Lectures がある。これについては現在、本綱要における Jolly の「法と慣習」の叙述が最良の情報を与えている。

1863年 Stenzler は大学総長として国王の誕生日に「慣習について」という講演を行い、そこで彼は、同じく Veda 学派において成立した古い Gṛhyasūtra の内容についての魅力的な像を描き出した。その翌年にはすでに彼は、ドイツ東洋学会の「Abhandlungen für die Kunde des Morgenlandes」において、この種のテキストを「Gṛhyasūtrāṇi。インドの家庭規則。サンスクリットおよびドイツ語」という表題のもと刊行し始めた。手始めは I. Āśvalāyana(Leipzig 1864年)であり、長い中断の後にようやく II. Pāraskara が続いた(Leipzig 1876年)。この種の他のテキストは Oldenberg、Winternitz、Knauer その他によって刊行された。Stenzler が計画した叢書には、上述の二つのほかに、さしあたり Śāṅkhāyana と Gobhila が含まれるはずであった。これら四つの sūtra に対して彼は語彙索引を刊行した(Leipzig 1886年)。同じく Stenzler によって開拓されたこの特異な文学類型については、本綱要における Hillebrandt の寄稿「祭儀文献」がより詳しく報告している。

これらすべての著作において、Stenzler は自らの校訂本によってそれらをヨーロッパに定着させたのであるが、彼は本文をできるだけ多くの写本に基づいて確定するのではなく、現地の一注釈に従って構成した。その注釈の説明は彼の翻訳にとっても規範となった。注釈からのより立ち入った紹介を彼が与えたのは Gṛhyasūtra においてのみである。語彙索引もまた Stenzler のテキスト処理法に属する。

サンスクリットの教育のために Stenzler は、信頼でき、簡潔にまとめられ、かつ廉価な「サンスクリット語初等読本。文法・テキスト・語彙」(Breslau 1868年)によって大いに功績があった。新版は彼の死後、まず Pischel によって、次いで Geldner によって作られた。現在は第8版が使用されている。読解教材は繰り返し変更されてきた。上記214頁注参照。

Stenzler は Rosen および Brockhaus と親しく交わり、Brockhaus には Gṛhyasūtrāṇi を献呈した。Westergaard との旧交に基づいて、彼はこのデンマークの学者の重要な二論考をドイツ語に翻訳させた。Böhtlingk はその辞典第I巻(1855年)の序文で、Manu への完全な索引を提供したことに対して彼に謝意を表している。Bonn のサンスクリット学派は、次の世代において Breslau のサンスクリット学派によって継承された。多かれ少なかれもっぱら Stenzler の弟子と呼びうるのは、A. Weber、Kielhorn、Eggeling、Pischel、Hillebrandt である。Allgemeine Deutsche Biographie における Stenzler の項目は Pischel の執筆である。

§第 XXX 章 TH. BENFEY

ユダヤ系の三人の傑出したドイツのサンスクリット学者、Benfey、Goldstücker、Aufrecht のうち、最初に挙げた者のみが——

——重要な大学人としての活動を展開した。彼は Göttingen を、Bonn、Berlin、Breslau、Leipzig と並んで、サンスクリットと結びついた言語研究の一大拠点とし、比較言語学の Göttingen 学派を創設した。Theodor Benfey は1809年 Göttingen 近郊の Nörten に生まれ、1881年 Göttingen 大学教授として没したが、長きにわたって窮迫した外的境遇のうちに生き、それを苦々しく感じていた。遅れて正教授の地位を得たことで、ようやくその境遇は改善された。すでに上記第I巻150頁で述べたように、彼は Paris での職を得ようとして Burnouf に働きかけたことがある。Heidelberg での教授資格取得の試みが不首尾に終わった後、1834年以来 Göttingen で「西洋文献学」の教授資格を得た彼が、正教授に昇格したのはようやく1862年のことであった。A. Bezzenberger はその師に対し、「Beiträge zur Kunde der Indogermanischen Sprachen」第VIII巻 (1884) 234頁以下において追悼の言葉を捧げ、そこには若干の貴重な書簡も付されている。次いでその生涯は、Bezzenberger の編集による論集「Theodor Benfey 小論集」(第1巻 Berlin 1890年、第2巻 1892年、各巻二部構成)において、彼の娘によって記述された。ここには419番に及ぶ彼の著作目録も含まれている。最後に1909年、その娘は自ら執筆した伝記の完全な形を、Benfey の妻宛書簡の大部な付録とともに、「Theodor Benfey。その子と孫のための記念に。私家版として印刷。Meta Benfey 著」という表題で刊行した。われわれはこの書物において、とりわけ Benfey の若き日の疾風怒濤の時期を知ることができる。Stern および家族に宛てた親密な書簡において、彼はしばしば謎めいた仕方で、自らが成し遂げた「途方もない発見」について、また書こうと考えていた大著、すなわちサンスクリット・ギリシア語・ラテン語のための語根辞典と文法について語っている。その次には Quaestiones ex grammatica comparativa が続き、諸言語がいかにして形成されたかという大いなる秘密を明かすはずであった(62頁以下)。事は別様に運んだ。ギリシア語の語根辞典とサンスクリットの文法は刊行されたが、その後彼は別の重要な著作を書き、それらが彼に希求された不滅の名声をもたらしたのである。彼のうちには、自らの能力と他者に対する優越についての強い自覚が宿っていた。

Benfey は古典文献学から出発した。このことは、彼が Bopp よりも Schlegel 兄弟に精神的親近感を覚えたことを説明する。彼は Bonn で学んだわけではないが、Bonn 系統の学者に数えてよい。彼は1826年 Göttingen で学位論文「De Liguris」により学位を取得したが、これは印刷されていない。そして1829年に「Observationes ad Anacreontis fragmenta genuina」によって venia legendi を得た。サンスクリットに向かう以前の彼の研究の初期の方向を特徴的に示すのは、友人の数学者 M. A. Stern と共同で刊行した著作「若干の古代諸民族、とりわけペルシア人・カッパドキア人・ユダヤ人・シリア人の月名について」(Berlin 1836年)である。ここではユダヤの月名がペルシア語に由来することが証明されている。さらに二巻本の「ギリシア語語根辞典」(1839年および1842年)、著作「エジプト語のセム語族に対する関係について」(1844年)、書物「ペルシアの楔形文字、翻訳と語彙付き」(1847年)がある。

サンスクリットにおいては Benfey は独学者であった。彼が最初にサンスクリットに従事したのは、1830年に個人教授をしながら Frankfurt・アム・マインに住んでいたときである。ここで彼は Poley と知り合い、その Devīmāhātmya 校訂本の書評を書いた。これは1833年に刊行され、「小論集」第I部1、1頁以下に再録されている。娘が1909年の伝記19頁以下で伝えるところによれば、この書評は賭けの結果生まれたものであった。すなわち「彼はまだまったく知らない言語で書かれた書物を、数週間のうちに書評してみせる」というのである。これに関連するのが、教授資格取得を望んでいた Heidelberg から1832年に出された、政治的にも興味深い書簡中の次の一節である。「私は、私が出会うすべての人々に対して、知力においておそらく劣ることはなく、大多数の者よりははるかに優れており、四週間のうちに最も困難な言語を習得する能力をもっている、と思う。さて言ってくれたまえ、私が多少なりとも頭角を現さぬはずがあろうか」(『Theodor Benfey』60頁)。Bopp に対しても彼は優越を感じていた。それは別の書簡から窺える(前掲書45頁)。そこで彼はこう言っている。「しかし誰の目にも明らかであろう、Poley も Bopp 自身も——その Nala 第2版を私はいま書評しているところだが——、知力において私に及ばないことは」。同じ書簡で彼は A. W. v. Schlegel の方向に与することを告白している。「私がどこに現れようとも、私は真に天才的な Schlegel に近づくであろう。それは私が近日中に書くつもりの Ramayana の書評が示すとおりである」(前掲書46頁)。より落ち着いた気分のとき、58頁の別の書簡で Bopp について「われわれは彼に最大の感謝を負っている」と述べているとはいえ、その『言語学史』にはやはり Schlegel と Lassen の批判が響いている。彼はまた Friedrich Schlegel の精神にも満たされていた(同書115頁参照)。Benfey は Bopp よりも Schlegel 兄弟に結びつくことを好んだ。とはいえ Bopp の著作の意義に目を閉ざすことはできなかったのであるが。Göttingen の Ewald とは親しい関係をもたなかった。1836年になってもなお、彼は自らを専門の東洋学者とは感じていなかったようである(Bezzenberger の追悼文236頁参照)。彼の卓越した才能があってこそ、すでに1840年に Ersch および Gruber の百科事典に大論文「インド」が、信じがたいほど短期間で書かれて現れえたことが理解できる。この論文は Lassen の『インド古代学』以前の時期のものであるから、すでに上記第I巻158頁以下で、それに先立って分析しておいた。

論文「インド」を自らの「最も着想に富む」ものと見なしたのと同様に、Benfey はやがて続いた Sāmaveda の校訂を自らの「最も学識ある」仕事と見なしていた(『Theodor Benfey』141頁参照)。「Sāmavedārcikam。Sāma-Veda の讃歌、校訂・翻訳し語彙を付す」(Leipzig 1848年)である。これは editio princeps ではなかった。というのも、それに先立って J. Stevenson によるこの Veda の——たしかに不完全な——翻訳と校訂(London 1842年および1843年、Oriental Translation Fund)があったからである。Benfey は London の写本のほかに、Chambers 収集の Berlin 写本をも利用しえた。しかし Benfey の校訂本を特に際立たせているのは、この Veda・テキストの文献学的処理である。序論では、まず Sāmaveda の Saṃhitā に付属する諸著作、Benfey が採用した読み、Sāmaveda の読みの Ṛgveda のそれに対する関係、Veda 的 sandhi、欠落的表記法、韻律から得られる本来の音形、アクセント法——これについては彼はより早い時期のより詳細な叙述を参照させている(1845年に発表された Böhtlingk の論考「サンスクリットにおけるアクセントについての最初の試み」の書評、「小論集」第I巻1——

——部64頁以下参照)——が扱われる。次いで Padapāṭha があり、彼はこれを Ṛgveda のそれと比較した。さらにテキストの後には、Ṛgveda における当該詩節の典拠、Anukramaṇī による詩人などの記載、詩節冒頭句のアルファベット順索引、そしてとりわけ入念に作成された語彙集が加わる。この語彙集は1472の異なる詩節の語彙しか含まないとはいえ(Benfey の計算による、XIX 頁)、それでも最初の Veda 語辞典であった。より大部な辞書的補助手段が現れるまで、それは大いに利用された。同様に、著作の最終部として付された Veda 詩節のドイツ語訳もそうであった。語彙集のために Benfey は Westergaard の Radices と Wilson の Dictionary に依拠した。その他すべてについては写本に頼らざるをえなかったが、印刷中に Roth の Naighaṇṭuka および Nirukta の校訂本を入手した。Sāyaṇa の Ṛgveda 注釈は彼には入手できなかった。Sāmavedasaṃhitā への注釈は、著作の第一部がすでに印刷された後に、Max Müller を通じて入手した。Stevenson の翻訳が注釈に従っているのに対し、Benfey はより独立の立場を保ち、Veda 語の意味を、それらが現れる他の箇所との比較によって確定しようと努めた。Sāmaveda の詩節の大部分は Ṛgveda から採られており、そこでは歌の脈絡の中に置かれているのであるから、Sāmaveda の Saṃhitā は文学作品としては二次的意義しかもたない。しかしすでに Benfey は異読から、それらがわれわれの有する Ṛgveda 本文と同じ異本から採られたのではないことを推論した。彼は「SV. の本文は全体として、RV. における同じ詩節よりも古体的な形態をもつ」と考えた(XXIX 頁)。同じ見解は Ludwig もとった(Ṛgveda 第III巻83頁以下、「Ṛgveda 本文の批判について」Prag 1889年)。一方 Aufrecht は Sāmaveda の読みの価値についてきわめて否定的な判断を下し(Ṛgveda 第II巻² XXXVIII 頁以下)、Oldenberg は、Sāmaveda が若干の場合により良い読みを提供することは認めつつも、圧倒的多数の場合に Ṛgveda の読みを優先している(Prolegomena、Berlin 1888年、273頁以下)¹⁾。Pischel もまた中間的立場をとり、Ludwig がそう見なしたもののすべてを Sāmaveda において古い読みとは認めなかったが、同時に Aufrecht の否定的判断も根拠あるものとは見なさなかった。Veda 学派についても Benfey はまだ知識をもっていなかった。Stevenson と Benfey の本文が Rāṇāyanīya 学派に属することを初めて述べたのは Weber である(Indische Studien 第I巻39頁)。Benfey は、彼の Ṛṣi および Devatā 一覧——これには1855年に Weber の Indische Studien 第III巻199頁以下で索引を付した——が、彼の本文が含むよりも一つ多い Prapāṭhaka に及んでいることに気づいていた(XVII 頁)。Siegfried Goldschmidt はこの部分を Āraṇyaka-Saṃhitā という表題のもとに Naigeya 学派に属するものとして発見し、Berlin 学士院月報 1868年228–248頁に「Naigeya-Śākhā における Sāmaveda-Arcika の第VII Prapāṭhaka」として発表した。Goldschmidt の死後(1884年)、Weber は、以前に Benfey に提供していた写しの元となった二点の Oxford 写本と、Goldschmidt の遺稿からの新しい写しに基づいて、「Sāmasaṃhitā の Naigeya 学派の二つの Anukramaṇī」すなわち Ārṣam と Daivatam を、1885年に Indische——

【注】 ¹⁾ なお Oldenberg「Ṛgveda。本文批判的および釈義的覚え書」、およびその44頁と同じ結論に達している弟子 J. Brune の学位論文「Sāmaveda と Ṛgveda 第八 Maṇḍala に共通する箇所の本文批判について」(キール 1909年)を参照。(E. Kuhn および J. Wackernagel)

——Studien 第XVII巻315頁以下に発表した ¹⁾。Sāman とは Benfey によれば、一種の歌唱のために整えられた限りにおける詩節を指す(XIII 頁)。彼はこの事情をまだ立ち入って研究してはいないが、本来の Sāmaveda をなす四つの Gāna は挙げている。最初のものの正しい名称は Grāmageyagāna である。誤った名称「Veyagāna」は M. Müller にもなお見出される(History 226頁、228頁)。Sāmaveda の事情についてのより大きな明晰さが得られたのは、ようやく Bibliotheca Indica における Pañcaviṃśabrāhmaṇa の注釈付き校訂本、および Burnell によるこの Veda の他の Brāhmaṇa の校訂本、さらに近年では Simon の Puṣpasūtra の校訂と翻訳、および Hillebrandt の「Vedische Forschungen」における Caland によってである。

Sāmaveda の後、Benfey は自らのサンスクリットの知識を大著「サンスクリット語ハンドブック」によって深めた。その第一部は文法(Leipzig 1852年)、第二部は Chrestomathie(1853年)と語彙集(1854年)を含む。「サンスクリット語完全文法」がその名称を正当に称しうるのは、音論と形態論について Pāṇini の sūtra の内容を——たしかに詳しい典拠を示すことなくではあるが——完全に再現している限りにおいてである ²⁾。この由来はその文体にも感じられる。提供された材料の豊富さのゆえに、サンスクリットの初学には適さないのであるが、それでもなお1870年代の言語研究者たち、たとえば de Saussure によって大いに利用された。内容豊かな Chrestomathie は、目的に適った選択によって、叙事詩からは Ambopākhyāna と Sītāharaṇa、Pañcatantra 第1巻の大部分、Manu 第1巻、kāvya からの数篇、Daśakumāracarita からの一篇、哲学からは小著作 Vedāntasāra と Bhāṣāpariccheda の全体、付録としてさらに Rājataraṅgiṇī 第5巻と Ṛgveda のいくつかの讃歌を含む。Chrestomathie と語彙集は、ドイツにおけるサンスクリット研究の深化と容易化に本質的に寄与した。初学者の使用のために、彼はやがて「サンスクリット簡約文法」(Leipzig 1855年)を、英語では「A Practical Grammar of the Sanskrit Language」(London 1863年、1868年)を刊行し、また Max Müller 編集の Handbooks のために「A Sanskrit English Dictionary with references to the best editions of Sanskrit authors」(London 1866年)を著した。

その間に、短い準備期間を経て Benfey の主著が現れた。これは彼に世界的名声をもたらしたものであり、彼自身も時にそう語ったと伝えられる。「Pantschatantra:インドの寓話・説話・物語の五書。サンスクリットより訳し、序論と注記を付す」二部(Leipzig 1859年)である。その序論と注記によって、この書は一つの新しい学問、すなわち比較説話学の基礎的著作となった。比較文法が Pāṇini の文法から出発したように、比較説話学は Pañcatantra から出発したのである。寓話と説話の移動は、Pañcatantra のある言語から他の言語への翻訳と手を携えて進む。このインドの著作の一般文化史にとっての意義は、すでに Sir William Jones、Wilson、de Sacy、Deslongchamps によって認識されていた。Benfey はこの事態を文献学的に——

【注】 ¹⁾ E. Kuhn の指摘によれば、「Sāmaveda-Āraṇyaka-Saṃhitā」はその後 F. Fortunatov によっても刊行されている(Moskau 1875年)。Rost の India Office 図書館目録 Skr. Books 206頁参照。そこには Sāmaveda の Kauthumī Śākhā の諸版も記載されている。また Bendall の大英博物館目録458欄も参照。

²⁾ Benfey はここで Veda および叙事詩からの豊富な紹介をも与えている。(J. Wackernagel)

——検証し、一つの総合的叙述にまとめ上げた。序論は第一に翻訳の歴史を扱い、失われた Pehlevī 訳から始める。これにアラビア語訳が基づき、さらにこれにギリシア語訳、ペルシア語訳、ヘブライ語訳、ラテン語訳、そして古いドイツ語訳が連なる。シリア語訳は当時まだ知られていなかった。サンスクリット文献学にとってとりわけ問題となるのは、Benfey が Pañcatantra 自体について述べたことである。Benfey の見解によれば、Pañcatantra は本来5篇ではなく、おそらく13篇からなっていた。それは nītiśāstra、すなわち王および大臣のための「統治術」の教科書である(XV 頁)。完全な形態においてそれは Pehlevī に訳され、遍歴の旅に出た。インド自体では最初の5篇が独立の著作として分離された。残りのうち二つないし三つはインド文学において完全に失われたようであり、三つは Mahābhārata に救い出され、二つだけが一つないしいくつかの異本において再び Pañcatantra の、しかもその第1巻に入り込んだ(XVIII 頁)。アラビア語系の「流出物」は原著作を6世紀に存在したままの形で、すなわち完全な形で反映しているが、インドのものは逆に原著作の毀損された形態に連なる。その先頭に立つのが、Somadeva が抄録を作った異本である。次いで南インドの Pañcatantra を代表する異本、次に Hitopadeśa の基礎をなすもの、最後に写本として存在するさまざまなサンスクリット異本が続く(XIX 頁)。

Pañcatantra 問題はきわめて錯綜している。多数の異本と、その中の膨大な数の説話を相互に比較せねばならないからである。近年では J. Hertel がこの問題全体をあらゆる面から新たに検討した。その結果の最新の叙述は著書「Das Pañcatantra、その歴史と伝播」(Leipzig および Berlin 1914年)にある。Hertel は原著作の本来の構成を Pehlevī 訳の13章にではなく、Pañcatantra の5章に見る。これらのみが一にして同一の著者に遡る(388頁)。Pehlevī 訳が余分にもつものは付加であり、Mahābhārata にも見出される三章は、その著者「Burzōe」がこれを Mahābhārata から借用したのである(364頁)。すなわち Hertel の見解は、ある意味で Benfey の見解の逆転である。

Benfey はその翻訳と研究の基礎に Johann Gottfried Ludwig Kosegarten の editio princeps を据えた。それゆえこの校訂本は研究史上重要な役割を果たしたことになる。「Pantschatantrum sive Quinquepartitum de moribus exponens」(Bonn 1848年)である。序文の末尾で彼は Lassen に謝意を表しており、Lassen は彼にこの校訂を励まし、校正を助けた。すでに上記219頁で述べた Kosegarten は、1792年 Rügen 島に生まれ、1850年グライフスヴァルトの教授として没した。Bonn 学派に属する。かなり豊富な写本資料の大部分は、友人 Tullberg と Stenzler に負っていた。個々の写本は相互に大きく相違する。Kosegarten は主として二つの "editiones" を区別し、一方を ornatior、他方を simplicior と名づけた(Praef. VIII 頁以下)。彼は前者をより古いものと見なす傾向にあった。それがアラビア語訳とより多く一致するからである。しかし彼の校訂本は、純粋な形ではないにせよ textus simplicior を提供している。それは、彼が最初に入手した二点の Hamburg 写本に——

——この本文が含まれていたからである。textus ornatior を含むはずであった第二部からは、第1分冊しか刊行されなかった ¹⁾。Benfey は校訂本のほかに、二点の Hamburg 写本そのものと、より装飾的な本文を含む一点の Berlin 写本(K.)を用いた(第I巻3頁)。Kosegarten の校訂本の不十分さを完全に明らかにしたのは、ようやく Hertel の1902年の論文「Kosegarten の Pañcatantra に対する批判的所見」(ZDMG 第LVI巻293–326頁)であった。

Kosegarten のサンスクリット本文を、Benfey はその序論において寓話ごとに古い諸翻訳と比較した。それらはこの寓話集のより古い、より大部な形態に基づいている。彼はとりわけ Silvestre de Sacy によるアラビア語訳の校訂本を多く用いており、それは彼が「Calila et Dimna, ou Fables de Bidpai」(Paris 1819年)の翻訳において利用したものである。さらに南インドの Pañcatantra も用いた。後者は Abbé J. A. Dubois の書「Le Pantchatantra ou les cinq ruses」(Paris 1826年)から知られていたが、これは直接サンスクリット本文を再現するのではなく、その南インド諸語のいずれかへの翻訳を再現するものである。至るところで Benfey は対応するイソップ寓話を参照させている。説話的物語のサンスクリット本文はまだ完全には彼の手元になかった(第I巻21頁)。Vetālapañcaviṃśati については、「Ssidikür」(より正確には Siddhikūr)の名で知られるモンゴル語訳を用いたが、これは Benjamin Bergmann の書「カルムイク人の国における遊牧の彷徨」(リガ 1804年)を通じて入手可能であった ²⁾。彼はモンゴル人に説話のさらなる伝播にとって大きな意義を認めていた。

この文学類型全体の本来の故郷について、彼は序文 XXII 頁で総括的にこう述べている。「すなわち私の東洋および西洋の寓話・説話・物語の領域における研究は、わずかな寓話ではあるが、しかし多数の説話と物語が、インドから出発してほとんど全世界に広がったという確信を私に与えた」。動物寓話の大部分は、彼の見解によれば西洋に由来し、変形されたイソップ寓話である。しかし動物寓話はイソップ寓話との接触以前にもすでにインドに存在していた。すなわちイソップ寓話においては動物がその動物的性格に応じて行動するのに対し、インド固有の寓話における動物は「動物の姿に隠された人間」にすぎない(XXI 頁)。

Pañcatantra の原著作は紀元前2世紀と紀元後6世紀の間に成立したに違いない(XI 頁)。というのも、6世紀にそれはササン朝の Khosrū Anūshirvān のもとで Pehlevī に訳されたからであり、他方ギリシアの寓話とのより広汎な接触は「インドの周辺およびインド内部におけるギリシア人の王国」の時代以前には考えられないからである。紀元前2世紀という年代は、現在 Hertel によって早すぎるとして異議が唱えられている(Pañcat. 8頁)。誰がこれを著したかは不明である。それが口を借りて語られるバラモンの名 Viṣṇuśarman は、通常 Cāṇakya と呼ばれる Candragupta の大臣の名 Viṣṇugupta を想起させるものとされる。Hertel も同様である(Pañc. 7頁)。

【注】 ¹⁾ 「Pars secunda. Textum sanscritum ornatiorem tenens. Particula prima」Gryphiswaldiae MDCCCLIX(原文ママ!)。Leipzig 大学図書館所蔵の本は64頁の語の途中で中絶している。Haas の Catalogue of Sanskrit and Pali Books in the British Museum 162頁では「Bonn 1849」(原文ママ!)。表紙4頁にある MDCCCXLVIII の12月20日付の Kosegarten の予告から、E. Kuhn は1849年が正しい年号であり、1859年は誤植によると推論している。

²⁾ Benfey はこの著作を Petersburg 学士院紀要1858年の一論考で扱っている。「小論集」第II巻第三部10頁以下参照。

Benfey の最後の主要な考えは、「われわれの著作は仏教文化圏から生まれた」というものであった(XIII 頁)。この見解は Hertel の研究によって裏づけられなかった。別の箇所(XXIII 頁)では彼はより慎重に、インドの寓話・物語・説話は「その主たる所在を仏教文学のうちにもっていた」と表現している。Benfey は、仏教徒がすでに存在していた古い物語を取り上げ、自らの目的に役立てたという可能性を、あまりに考慮に入れなかった。彼は仏教との関係を、可能な限り追跡した。しかし彼の著作は不完全にとどまらざるをえなかった。仏教の Jātaka および Avadāna 文献が当時まだ完全には知られていなかったからである。たとえば彼は、第4巻の枠物語が Suṃsumārajātaka すなわち Jātaka 第208話に再び見出されることをまだ知りえなかった。Hertel の見解では、著者は Viṣṇu 派のバラモンであった(Pañc. 7頁)。

重要なシリア語訳が知られるようになったのは、より後のことである。より古いシリア語訳への序論において、Benfey はこれらの問題について改めて発言した。「Kalilag und Damnag。インドの君主鑑の古シリア語訳。Gustav Bickell による本文とドイツ語訳。Theodor Benfey による序論を付す」(Leipzig 1876年)¹⁾ である。ここで彼はまず自らの以前の結論と、その間に新たに加わったものについての概観を与えている。I. Guidi によって、de Sacy が刊行したものよりも良質のアラビア語異本が知られるようになり、A. Burnell からは南インド Pañcatantra のサンスクリット本文の写しを得ていた ²⁾。A. Schiefner は Kanjur の中に、原著作の仏教的成立にとって決定的とされる一節のチベット語訳を発見した(XI 頁以下)。またそれが13篇を有していたことについても、彼はさらに論拠を固めようとしている。次いで彼は、Bickell とともに不確かな情報から出発しつつ、その粘り強さによってついに古シリア語訳を入手するに至った経緯を、目に見えるような満足感をもって語っている。当時 Mardin にあった写本の発見と書写は A. Socin に負う。Socin は1870年に学術旅行でこの地方に滞在していたのである(XXI 頁)。彼はきわめて詳細に、この——残念ながら完全には保存されていない——シリア語訳が、サンスクリットからではなく Pehlevī 訳から流れ出たものであり、しかもアラビア語訳よりも正確にこれを再現していることを証明している。アラビア語訳の本来の姿は、さまざまな異本において省略と付加によって著しく変えられているという(XCII 頁以下)。これらの研究において、名称の毀損は依存関係を示す重要な証拠手段であった。シリア語訳の原著作の他の流出物に対する関係を明示するために、Benfey はその序論の最終部(CV 頁以下)でそれらを Pañcatantra 第1巻について相互に比較している。この写本を入手した喜びを、Benfey は1871年の Augsburger Allgemeine Zeitung の記事「Pañcatantra の最古の写本」でも表明している。「小論集」第II巻第三部223頁以下参照。

【注】 ¹⁾ Fr. Schulthess による新版「Kalila und Dimna、シリア語とドイツ語」全2巻、Berlin 1911年。(E. Kuhn)

²⁾ これについての彼の報告「Discovery of the oldest recension of the Pañcatantra」Academy 1872年4月1日、「小論集」第II巻第三部230頁以下参照。

より後のシリア語版「The Book of Kalīlah and Dimnah translated from the Arabic into Syriac」は W. Wright によって刊行され(London 1884年)、Keith-Falconer によって翻訳された。1857年から1859年にかけて、すなわち Pantschatantra に取り組んでいた時期に、Benfey は関連する諸著作についていくつかの論考を Göttingische gelehrte Anzeigen その他の雑誌に発表した。これらは「小論集」第三部に再録されており、そのうちいくつかはすでに言及した。他のものは次の書物に関わる。Edward B. Eastwick「The Anvār-i Suhailī; or the lights of Canopus; being the Persian version of the fables of Pilpai」、「Tuti-Nameh。鸚鵡の書。東洋の物語集。トルコ語版より初めて Georg Rosen が翻訳」(Leipzig 1858年)、「Ardschi-Bordschi。モンゴルの物語、Lama Galsan Gombojew によるモンゴル語からの翻訳」(St. Petersburg 1858年。この著作について Benfey は Petersburg 学士院紀要に一論考を発表していた)、M. Adolphe de Puibusque「Le Comte Lucanor | Apologues et fabliaux du XIVe siècle | traduits pour la première fois de l'Espagnol et précédés d'une notice sur la vie et les oeuvres de Don Juan Manuel ainsi que d'une dissertation sur l'introduction de l'apologue d'Orient en Occident」(Paris 1854年)。同様に「小論集」第三部には、1858年および1859年に「Ausland」誌に発表された Benfey の論考「『驚くべき能力をもつ人々』の説話、その源泉と伝播」および「賢い娘。賢い謎解きについてのインドの説話とそのアジア・ヨーロッパにおける伝播」が再録されている。前者の基礎には Vetālapañcaviṃśati の一説話が、後者には Śukasaptati の一説話がある。1872年までの研究の歩みを Max Müller はその論考「説話の移動について」において素描しており、これは Liebrecht 訳の Essays 第三巻第XV番に収められている。彼はその例として La Fontaine の乳搾り娘の寓話を用いたが、そのサンスクリット原型を Pischel は自らのサンスクリット初等読本に採り入れた。Hertel 以前の研究状況についての簡単な概観は、Ch. R. Lanman がその Sanskrit Reader(ボストン 1889年)第III部312頁以下に与えている。

比較言語学を変革した1870年代において、言語研究者たちの間で認められたのは、母音交替をアクセントの作用として最初に説明したのが Benfey であったということである。彼は自らの見解を1845年、1846年、1848年のいくつかの書評で述べており、それらは「小論集」第I巻に再録されている。最初は1845年の Böhtlingk の論考「サンスクリットにおけるアクセントについての最初の試み」の書評においてである。ここに「アクセントは言語の魂である」という一文が見出され、続いて彼は「サンスクリットにおけるきわめて多数の、いやほとんど最大数の、目立った形態的現象がアクセントにその成立を負っている」と論じる(64頁)。たとえば vac からの uktásvap からの suptá、すなわち Samprasāraṇa と呼ばれる現象である。アクセントは語根の a の脱落と消失をも説明するという。たとえば ásti と並ぶ svás のように。さらに sthā からの sthitá におけるような ā から i への弱化も同様である。guṇa 母音もまた彼はアクセントと結びつけた。アクセント法の原理についての彼の見解を、彼は1848年に Aufrecht の著作「De Accentu Compositorum」の書評で次のように述べている。「Holtzmann の著作『Ablaut について』の私の書評(Göttingische gelehrte Anzeigen 1846年、第85号、842頁)で述べたように、サンスクリットにおいて、そして一般にインド・ゲルマン諸語において、アクセントは——

——単純語においては本来、語根を修飾する要素を含む音節に置かれ、その後は常に、既成の形成物を修飾する要素が現れる音節に置かれた。私とは独立に、Hr. Louis Benloew はその、多くの点で誤りを含むとはいえきわめて才気ある著作(De l'Accentuation dans les langues Indo-Européennes tant anciennes que modernes. Paris 1847, L. Hachette et Cie.)において、インド・ゲルマン語のアクセント法則を本質的に同様に説明している(とくに45頁参照)」。Holtzmann の著作の書評においては彼は1846年に、自らの見解をやや異なった形で、すなわち「アクセントは本来決して語幹音節にではなく、語根の意味を修飾する音節に置かれた」と定式化していた(「小論集」第I巻2、69頁)。アクセントはその後、後方から前方へと移動したという。それゆえ彼はギリシア語 εἰμί に本来のアクセント法を見たのであり、サンスクリット ásmi にではなかった。アクセントが本来決して語根音節に置かれなかったというのは、確かに正しくない。個々の場合におけるアクセントの位置を把握し、それを唯一の原理から説明することは、それほど容易ではない。Holtzmann はその小著作において、guṇa は屈折音節から a をアクセントのある語幹音節に取り込むことによって、vṛddhi は ā を取り込むことによって成立した、という考えを貫こうとした。これについて Benfey はこう述べる。「彼はしたがって、語根 budh の guṇa を、たとえば bodh-a-tas において、音節を拡張するアクセント法と、拡張のためにいわば助けとなるべく前へ押し出される後続音節の a とによって説明しており、これはまことに魅力的である」(58頁)。Benfey の他の多くの理論も、その後の批判的検討に耐えなかった。たとえば、弱い完了形 tenéta-a-né から、これはさらに tatané から第二の t の脱落によって成立したという想定(63頁)、あるいは sīdatisī-ad から、これは sīsad- から第二の s の脱落によって成立し、縮約されたという想定(64頁)、また1847年の Curtius の時称・法についての書物のきわめて否定的な書評において、未来形 bodhiṣyāmi を「認識すること・存在すること・行くこと・私」と解した(「小論集」第I巻2、79頁)などである。Benfey はサンスクリットにおいて Curtius に対する優越を感じていた。サンスクリット文法家としての彼の強みは、弟子の Wackernagel に受け継がれた。Benfey をその guru として崇敬した Göttingen 学派は、主として言語研究者からなり、その大部分はギリシア語・ラテン語あるいはゲルマン語にその強みをもっていた。Leo Meyer、Fick、Collitz、Bechtel、リトアニア語における Bezzenberger である。サンスクリット文献学者として彼の弟子から頭角を現したのは G. Bühler であるが、彼はインドでの職務によって独自の方向を得た。Benfey 自身がサンスクリット文献学を最も広い範囲で掌握しようと努めたことは、「小論集」第I巻に集められた重要な著作に対する多数の書評が証している。ここにはとりわけ Troyer の Rādjatarangini、Langlois および Wilson による Ṛgveda 訳、Weber の Indische Studien、St. Julien による玄奘の著作の翻訳、Köppen の著作「仏陀の宗教とその成立」、Wassiljew の著作「仏教、その教義・歴史・文献」などが論じられている。

1862年から1864年にかけて Benfey は季刊誌「Orient und Occident」を刊行したが、これは第3巻第3分冊をもってすでに廃刊となった。その表題は Benfey の方向を特徴的に示している。Pañcatantra は、Benfey その他による説話研究への種々の寄稿の中に響いている。その中には著名な説話研究者 Felix Liebrecht と Reinhold Köhler がいる。Benfey の弟子 G. Bühler はここではまず——

——語源学者として登場する。しかしすでに第II巻691頁以下では、Bombay の教授として、Whitley Stokes から入手した Śākaṭāyana の文法の写本について書いており、第III巻181頁以下では他の発見について、その中にはすでに、後に彼自身が刊行した Āpastambadharmasūtra も現れる。それ以前に Bühler はすでに第I巻214頁以下で、この雑誌の神話学的諸論考を、Veda の神 Parjanya についての研究をもって開始していた。J. Muir の「Original Sanskrit Texts」はすでに刊行されていたが、まだ一般の知識には入っていなかった。J. Muir の「Veda の神統記と神話の知識への寄与」(第III巻446頁以下)は、Journal of the Royal Asiatic Society 1864年に発表された論考の翻訳である。そこでは、それまでに現れた Veda 神話に関する諸研究の列挙において、ドイツ東洋学会誌第VI巻・第VII巻における R. Roth のものが筆頭に置かれている。論考「Veda の復元について」(第II巻457頁以下)で Bollensen は1864年、その大胆な批判の最初の実例を示した。彼はそれによって Ṛgveda の伝承本文を、韻律に基づいて、sandhi を越えてまで訂正しようと試みたのである。Benfey 自身は自らの雑誌に、文法的論考(「ṛ, ṝ, ḷ について」第II巻1頁以下)のほかに、Ṛgveda のドイツ語訳の冒頭部分を発表した。これは三巻すべてにわたって続き、当時大いに用いられたが、第III巻168頁の Ṛgv. I 118 で中絶している。その続きは Ṛgv. I 130 まで Bezzenberger の Beiträge zur Kunde der indogermanischen Sprachen 第VII巻286–309頁に出ており、これは「Benfey が印刷可能な状態で遺した唯一の仕事」である。その後 Benfey は Veda 語と比較文法に関する多くの小さな研究を「Göttingen 王立学士院およびゲオルク・アウグスト大学報告」に発表し、その一部は小冊子「Vedica und Verwandtes」(Straßburg 1877年)および「Vedica und Linguistica」(1880年)に改訂のうえ収められている。晩年 Benfey は大規模な Veda 文法の構想を抱いていた。しかし彼は、広大に構想された「Veda 語文法序説。第一論考:Saṃhitā 本文」(Göttingen 1874年)およびその他の準備的諸論考を越えることはできなかった ¹⁾。おそらくこの文法は、彼の言語学的理論の影響をいささか強く受けたものとなったであろう。Delbrück は1874年、その著書「古インド語の動詞」において、Benfey の文法的研究の価値を認め、Veda の領域においては Roth に次いで Benfey に最も多くを負うと述べている(IV 頁、13頁)。

広大な領域を速やかに見通し、概観的に叙述する能力を、Benfey は若き日の著作「インド」におけると同様に、円熟期においてもいま一度発揮した。それが「19世紀初頭以来のドイツにおける言語学および東洋文献学の歴史、それ以前の時代への回顧を付す」(München 1869年)である。インド言語学およびインド文献学にとって主として問題となるのは二つの長い節である。第一の箇所、35–100頁で彼は、Veda の神格 Vāc と Sarasvatī から始めて、サンスクリットの Veda 語に対する関係、Veda 讃歌の最古の解釈、Yāska その他の文法家、——

【注】 ¹⁾ 1874年 Göttingen 王立学士院論集に発表された第二の研究「Veda の Saṃhitā 本文と Pada 本文における量の相違」に対する Weber の書評、Indische Streifen 第III巻302頁以下参照。

——Pāṇini の文法体系を扱い、その特質を専門的に叙述している。その間にはすでに Böhtlingk の Pāṇini 校訂本、Roth の Nirukta 校訂本、Westergaard の Radices linguae Sanscritae のみならず、Goldstücker の Pāṇini についての著作も現れていた。Veda 語とサンスクリットの間の関連は「自然生長的」なものではなく、むしろ「人為的」なものである。サンスクリットが生じたのは、Veda 語が民衆語として滅んだ後、学者たちが Veda についての思弁において、聖なるものとされた Veda 語に依拠する言語を用いたときである(50頁以下)。最古のサンスクリットはわれわれにとって Yāska の Nirukta である(49頁)。Veda 讃歌が民衆のうちに生きていた時代と、文法的・釈義的にその理解が甦らされた時代との間には、乱れなき連続的関連はなく、断絶が生じていた。Veda 語は一つないし複数の部族の民衆語であり、その中で Bharata 族が覇権を握っていた。Bharata 王国の滅亡は、その言語の死滅をも伴った。この言語問題に Benfey は生涯を通じて取り組んだ。ここには、その後の展開として Max Müller のルネサンス理論と、Bühler によるその制限、さらにサンスクリットの本質について Sørensen、Thomas、Windisch(「Pāli の言語的性格について」)、O. Franke、Jacobi(「サンスクリットとは何か」)の新しい諸論考が連なる。第二の節、333–419頁で Benfey はまず、ここではドイツの国境を越えて、Bopp 以前にサンスクリットについて一定の知識ないし認識をもっていたヨーロッパ人についての報告を与えている。彼は最初の人物としてイタリア人 Philippo Sassetti を挙げる。彼は1583年から1588年までインドに滞在した。次いで、タミル語の領域で活動した宣教師 Benjamin Schultze が1725年にサンスクリットの数詞とラテン語のそれとの類似を指摘し、同様に東洋学者 Theophilus Siegfried Bayer(1694年生、1738年没)も同じことをした。その優れた Historia regni Graecorum Bactriani はなお Lassen も利用している(上記第I巻202頁参照)。語の類似の理由として、すでに William Jones 以前に Coeurdoux 神父が1767年に Pondichéry で、インド人・ギリシア人・ラテン人の本来の親縁性を指摘した。イギリス人が非常に早くからインド法についてより立ち入った知識を得たのは、政治的賢慮の要求であった。なおペルシア語から訳し、直接サンスクリットからは訳さなかった Halhed に続いて、サンスクリットに通じた Wilkins、William Jones、Colebrooke が現れた。Wilson については彼は391頁で少なくとも辞典に言及している。Benfey は常に言語学を前面に置き、Friedrich v. Schlegel——彼は兄弟のうちこちらをより天才的と見なしている——についてさえそうである。叙述はますます Bopp へと収斂していき、彼は Bopp を同時に称揚しかつ批判している。Benfey が生涯と個性にまで立ち入っている少数の人物には、なお A. W. v. Schlegel(379頁以下)と Rückert(413頁)が属するのみである。とはいえ Böhtlingk、Goldstücker、Lassen、Roth、Max Müller、Weber に対する承認の言葉も見出される。Böhtlingk と Goldstücker の辞書を彼はとりわけ高く評価している(407頁)。全体としてドイツにおけるサンスクリット文献学の形成についての概観はきわめて概括的であり、インド文学の著作に従って配列されている。歴史的発展の人的・実質的関連は、この叙述からはわずかな箇所においてしか認識できない。多くのことはまだ必要な距離をもっていなかった。しかし彼が——

——ドイツにおけるサンスクリット研究の歴史をその時代に至るまで「かなり明確に区分された二つの時期に分かち、それらは40年代以降における Veda の導入によって相互に隔てられている」(405頁)としたのは的確である。

Benfey がしたほど、専門の同僚たちに認められるほど徹底した仕方で、言語研究とサンスクリット文献学とを一身に結合した者は、他にほとんどいない。

§第 XXXI 章 Kopenhagen。N. L. WESTERGAARD

なお19世紀前半に、デンマークにおいても独自の性格をもつ言語研究と東洋学が発展した。デンマークの言語研究者 Rasmus Kristian Rask は1787年に生まれ1832年に没したが、Bopp と並んで比較言語学の創始者の一人に属し、また Burnouf のように Zendavesta を自らの研究の主要対象とした人々の一人である。彼は大規模な学術旅行を企て、1820年にはペルシアとインドにまで至った。この旅行で収集された東洋の写本、その中にはインドのもの、とりわけ Pāli 写本もあったが、それらは Kopenhagen の王立図書館および大学図書館に収められた。それらは Westergaard に Zendavesta 校訂のための基礎を提供した。Westergaard もまたインドとペルシアへの大旅行を企てた。Westergaard の功績を Fr. Spiegel は(Augsburg の)Allgemeine Zeitung 1878年10月26日号付録で顕彰し、同国人 Vilhelm Thomsen は1878年にデンマーク王立学士院紀要に現れた追悼文で顕彰した。後者は Bezzenberger によって Beiträge zur Kunde der indogermanischen Sprachen 第V巻248–264頁でドイツ語に訳されている。

Niels Ludvig Westergaard は1815年に生まれ1878年に没し、1845年に Kopenhagen でインド=東洋文献学の教授職を得た。おそらくそれは1841年に Lassen に提示された職と同一のものであろう(Schlegel と Lassen の往復書簡227頁以下)。サンスクリット文献学にとって主として問題となるのはその生涯の前半、すなわち1841年から1844年のインドおよびペルシア滞在以前の時期である。すでに Kopenhagen で始めていたサンスクリット研究を、彼は Bonn、Paris、London、Oxford で続けた。したがって彼は Brockhaus、Stenzler、Böhtlingk と同様に Bonn 学派に属し、これらの人々と親しく交わった。サンスクリットの領域における主著「Radices linguae Sanscritae」(Bonn 1841年)を彼は、Christian VIII 世への献辞において「primum in Dania studii linguae Sanscritae conatum」〔デンマークにおけるサンスクリット語研究の最初の試み〕と呼んでいる。それは批判力と豊富さにおいて、より古い著作「Radices Sanscritae. Illustratas edidit F. Rosen」(Berlin 1827年)および Rosen の学位論文「Corporis Radicum Sanscritarum prolusio」(Berlin 1826年)を凌駕した。Böhtlingk と同様に Westergaard も、サンスクリットの辞書学と文法のために、この種の現地の著作を直接利用可能にすることに寄与しようとした。Radices の名詞の側からの補完をもたらしたのが、Böhtlingk と Rieu による Hemacandra の Abhidhānacintāmaṇi の校訂と翻訳(St. Petersburg 1847年)である。Westergaard の Radices は、Pāṇini の Dhātupāṭha に基づき、Kātantra 文法に付属するものおよび Vopadeva のものと比較しつつ、サンスクリットの語根を末尾字順に配列した一覧を提供する。——

——付録では彼は Pāṇini の Dhātupāṭha の本文を、London の East India House の写本により批判的に吟味して与えている。Praefatio は Dhātupāṭha 群とその注釈を論じ、末尾(XI 頁)では、インド人がいつ文法のサンスクリットを話していたかという問題をも扱う。Veda は「et pleraque quae ad eos pertinent」〔およびそれらに属する大部分のもの〕はこの時代より古いが、Manu と叙事詩についてはこれは不確かである。すでに紀元前4世紀には、サンスクリットは学者たちの間を除いて「ex ore et quotidiano usu」〔口頭および日常の使用から〕消え去っていた。しかし後代の著者たちはより古い著作に依拠しえたであろう。それゆえ彼は語根とその複合語の用例を、後代のサンスクリット文献からも採った。彼が利用しえた文献の範囲はもちろんなおきわめて狭く、最も重要な著作はまだ完全には刊行されていなかった。Ṛgveda 第7巻の Vasiṣṭha の讃歌、Vājasaneyi-Saṃhitā の8巻を注釈付きで、それに付属する sūtra、Nighaṇṭu と Nirukta を、彼は London 写本から書写していた。Mahābhārata からは最初の4巻しか用いていない。それにもかかわらず、これらの用例が Westergaard の Radices の主たる価値をなしており、この書はサンスクリット文献学者と比較言語学者にとって、Böhtlingk の辞典が完成するまで長らく信頼できる辞書的補助手段として役立った。Westergaard の批判的入念さを証しているのは、Praef. IX 頁以下の「Radices falsae」の長い一覧である。それらを彼は Carey の Grammar(Gildemeister、Bibliotheca Sanskrita Specimen 第5番参照)および Wilkins「Radicals of the Sanscrita language」(London 1815年)以来 Wilson、Rosen、Bopp のもとに見出し、訂正したのである。

インドにおいて彼は Aśoka 碑文の解読に加わった。Girnar の Aśoka 碑文の彼の写しは Journal of the Bombay Branch of the Royal Asiatic Society 1842年に発表されており、すでに上記(第I巻114頁)で言及した。学問にとってなお重要であったのは、彼のペルシア滞在である。そこで彼は大きな困難のもと、健康を犠牲にして、すでに存在していたアケメネス朝碑文の写しを改めて照合し、Darius の墓の碑文を初めて書写した。彼がその後とりわけ第二種の楔形文字の解読に向かい、その言語を「スキタイ語」と説明したことについては、この内陸アジアのあまり知られていない諸民族に向けられた研究は、近年その同国人 Vilhelm Thomsen において成功した継承者を得た。

Kopenhagen での教授職に就いた後、彼は Sanskrit Formlære および Sanskrit Læsebog(Kopenhagen 1846年)によってサンスクリットの教育に配慮した。その生涯の後半には Zendavesta の校訂(1854年)およびイラン学の領域におけるその他の重要な著作が属する。しかし彼が古代インドの領域においても常に研究の最前線にとどまっていたことは、Stenzler の発意によりドイツ語に訳された二論考(Kopenhagen 1860年)が証している。「インド史の最古の時代について」および「仏陀の没年およびインド古代史のその他若干の時点について」(Breslau 1862年)である。前者の論考で彼は主として、Max Müller の History of Ancient Sanskrit Literature によってより広く知られるようになった Veda 文献を活用している。それは Lassen の『インド古代学』ではまだ十分に扱われていなかったものである。彼は最古の時代のうちに三つの時期を区別する。すなわちパンジャーブにおける、カーストなき Veda 時代、Gaṅgā と Yamunā 沿いの地方における brahman の台頭とカースト制度の形成、そしてさらに東方の Magadha における仏教の出現である。——

——政治史についてはほとんど語られていないが、Candragupta と Aśoka にも触れている。Veda 文献のさまざまな層、口承伝統、文字および文字による記録についての彼の論述は、今日なお読むに値する。その見解はまったく近代的である。主要な点で Böhtlingk に従い、彼は Pāṇini を「紀元前250年よりかなり以前」に置く(76頁)。Pāṇini の材料はさまざまな地方に由来し、「北の国から東の国まで」に及ぶ。彼は自分以前にすでに収集されていたものを、自らの観察によって補完した(76頁)。Yājñavalkya およびさまざまな Kātyāyana についても彼はより立ち入って論じている。仏陀の没年についてはここに(78頁以下)、第二論考でより詳しく根拠づけた説と同じ設定が見られる。Westergaard は Turnour その他と同様に Mahāvaṃsa の記載に依拠するが、Ceylon の計算の543年から紀元前477年へと導いた訂正では満足しない。Aśoka 王は一人しかいなかったのであり、Ceylon ではこれから Kālāśoka と Dharmāśoka という二人の王が作り出されたのだと考えて、彼は仏陀の没年をおよそ紀元前368年から370年と算定する。Weber はその書評でこれに賛同した(Indische Streifen 第II巻213頁以下)。もし仏陀が実際にアレクサンドロス大王および Megasthenes のこれほど短い期間前に生きていたとすれば、ギリシア人のもとに彼についての明確な報告があってしかるべきであろう。

Spiegel はさらに、Mālava と Kanyākubja の歴史への寄与を含む1868年の Westergaard の学校報告論文に言及している。これは Westergaard の、碑文に基づく二つの重要な歴史的研究のうちの第二のものであり、デンマーク語でのみ刊行されたため、残念ながらわずかしか読まれなかった。「De indiske Kejserhuse fra det fjerde til det tiende Aarhundrede og nogle ældre Fyrsteslægter efter samstidige Aktstykker」(デンマーク王立学士院紀要 1867–69年)、および「Bidrag til de indiske Lande Mālavas og Kanyakubjas Historie」(1868年、総長就任時の大学報告)である。

§第 XXXII 章 ベルギー。F. NÈVE

サンスクリット文献についての優れた知識に基づいて、より広い層にもその内容と研究状況についての観念を与えようと努めた人々の中に、多面的なベルギーの学者 Félix Nève が属する。1816年に生まれ1893年に没した彼は、まずベルギーにサンスクリット研究を根づかせた功績をもつ。1841年以来ルーヴァンのカトリック大学教授として、彼は当初「cours d'histoire de la littérature ancienne et des langues orientales」を、後には「cours d'histoire de la philosophie ancienne」を担当し、サンスクリットについては副次的に講じたにすぎない。サンスクリットのみならず、アルメニアのキリスト教文学、シリア文学その他多くのものに及んだその豊かな著述活動は、T.-J. Lamy の「Notice sur la vie et les travaux de Félix-Jean-Baptiste-Joseph Nève」に、その著作目録とともに記述されている(Annuaire de l'Académie Royale de Belgique 1894年、499頁以下)。ベルギー人として彼はフランス人の研究をもドイツ人の研究をも等しい熱意をもって追跡した。M. Müller は彼についてある書簡でこう述べている。「私は、これほどうまく二つの本性、フランス的なそれと——

——ドイツ的なそれとを結合しえた人を他に知らない」(Notice 523頁)。サンスクリットにおける彼の師は、Bonn の Lassen と Paris の Burnouf であった。後者にその最初の書物「Études sur les Hymnes du Rig-Veda」(ルーヴァンおよび Paris 1842年)が献呈されている。しかしカトリック神学者 Fr. Windischmann——その兄弟はルーヴァンで解剖学教授であった——も、Nève が München での一年間の滞在中に親しい関係をもった人物であり、彼に影響を与えた。その影響は最後まで彼の Vedānta 研究に表れている。これらは、Mohamudgara についての小さな処女作(Journal Asiatique 1841年、本文と翻訳)から始まっており、その際彼は写本をも用いている。Ṛgveda における彼の研究は、大部な「Essai sur le mythe des Ribhavas, premier vestige de l'apothéose dans le Veda, avec le texte sanscrit et la traduction française des hymnes adressés à ces divinités」(Paris 1847年)において頂点に達した。彼は Adalbert Kuhn の賛同を得、Kuhn は彼を友と呼んでいる(Zeitschrift für Vergleichende Sprachforschung 第IV巻103頁)。本文および Sāyaṇa の注釈を、Nève は Paris と London の写本から入手した。この著作はなお Roth と M. Müller 以前の時代に属し、それゆえ現在では歴史的価値しかもたない。しかしすでにその最初の Veda 的 Études においても、彼は後になって初めてより正確に知られるようになった多くのことに触れており、とりわけ写本研究から Nighaṇṭu と Yāska についての情報を与えている(39頁)。Veda 研究を彼は継続せず、むしろ旧来の道に立ち返り、まずヨーロッパの学界に紹介された文学作品の大部分について、その位置・内容・形式を論じた。これらさまざまな研究を彼は最後に515頁の大著にまとめ、「Les Époques Littéraires de l'Inde」(Brüssel および Paris 1883年)という表題を与えた。これについては Weber が書評している(Indische Studien 第XVIII巻458頁)¹⁾。Veda、天文学、文法は欠けており、扱われているのは叙事詩、Purāṇa 群、Kālidāsa、演劇、Vedānta、Nītiśāstra、仏教である。驚くべき新知見は見られない。彼の主たる導き手は Lassen、Burnouf、Wilson、Fr. Windischmann、Weber である。あまり知られていないフランスの研究をも挙げているため、その著作はサンスクリット文献学の歴史にとって今日なお一定の価値をもち、それは序論のヨーロッパにおけるサンスクリット研究の普及についての歴史的諸節によってもそうである。彼は「vulgarisateur superficiel」〔浅薄な通俗化者〕ではなかった、とその伝記作者は言う(538頁)。むしろ彼の叙述は常に徹底した研究に基づいていた。Nève が想定する三つの文学的時代ないし局面は、いささか漠然とした性格をもつ。Veda 時代はその余波において紀元前2世紀にまで及ぶ。第二の時代は紀元前5世紀からわれわれの中世の終わりまでに及び、紀元前5世紀頃の Mānavadharmaśāstra の最古の編纂(44頁)と二大叙事詩のほかに、バラモン的詩および哲学の主要著作をも包括する。ただし Sāṃkhya 哲学の諸原理はキリスト紀元の6ないし7世紀前に現れるとされる(46頁)。第三の時代には Purāṇa 群が問題となる。叙事詩からは Mahābhārata のみをより詳しく扱い、しかもその豊かな内容から「des portraits de femme」〔女性の肖像〕を取り出す形で、すなわち Sāvitrī、Pramadvarā、Damayantī、Śakuntalā である。部分的に逐語訳からなる——

【注】 ¹⁾ E. Kuhn は Literatur-Blatt für Orientalische Philologie 第II巻35頁以下で、個々の論文が以前どこに印刷されていたかを示している。Nève の書物についての他の書評は同誌第I巻310頁に記載されている。

——物語群には、古代インドにおける女性の地位についての序論が先行しており、これは主として Mānavadharmaśāstra に依拠している ¹⁾。羅刹 Baka に一族の一人を捧げねばならないバラモンの嘆きを、彼はインドの英雄時代におけるバラモン家族の理想的な像のために利用している(165頁以下)。Purāṇa 群については Burnouf と Wilson に従って報告している(183頁以下)。「Poésie profane」の節(234頁以下)では、Kālidāsa が第一の位置を占め、その著作と年代を Lassen および Weber に従って論じている。Nève はほとんど論争をしないだけに、「libre-penseur」〔自由思想家〕Fauche に対する繰り返しの批判的所見が目を引く(235頁以下)。インド演劇をあらゆる面から照らし出す大論考「Essai sur l'origine et les sources du Drame Indien」(269頁)では、ギリシアの影響の問題にも触れているが、この想定に対して賛否いずれの立場も明確にはとっていない(351頁以下)。Bhavabhūti——彼はその年代を紀元後5ないし6世紀に置く(282頁)——については、その Uttara-Rāmacarita 訳の序論「Le dénouement de l'histoire de Rāma」(Brüssel 1880年)を参照させることができた。バラモン哲学のうち彼をとりわけ惹きつけたのは Vedānta であり、しかも Śaṅkara の解釈と教説においてであった。Kumārila と Śaṅkara は彼にとってインドにおける仏教徒の殲滅者である。Vedānta の体系は Colebrooke の Essay 以来すでに知られている(385頁)。Nève はそれを Śaṅkara の bhāṣya そのものにおいて研究したのではないが、ここで(392頁以下)Śaṅkara の教訓詩 Ātmabodha の翻訳を与えており、これについては写本をも利用していた。箴言詩の主たる代表者は Bhartṛhari であり、Nītiśāstra の主要著作としては Pañcatantra と Hitopadeśa を簡単に記述している(435頁以下)。それ以前にすでに彼は Lassen の Chrestomathie から Mahābhārata の狡猾なジャッカルの寓話を翻訳していた。Benfey の Pantschatantra には言及しているが、その内容については報告していない。Garcin de Tassy の Hindustānī の領域における研究の評価が、「L'Inde Moderne et sa Littérature」の節(458頁以下)の主要内容をなす。仏教の叙述(478頁以下)は主として Burnouf と Wassiliew の著作に基づき、仏陀の生涯については Lalitavistara に基づくが、彼は Spence Hardy と Bigandet の著作をも知っていた。しかしこれらは Pāli Tipiṭaka のテキストの代わりにはなりえない。それらのテキストは1883年にはまだわずかしか刊行されていなかった。原始仏教について、仏陀の教説について、Nève はまだ像を描くことができなかった。結びをなすのは仏教劇 Nāgānanda の分析である(503頁以下)。Nève の学問的性格一般については、A. Weber、Indische Streifen 第II巻27頁を参照。

【注】 ¹⁾ すなわち Nève は J. J. Meyer の先駆者であった。Meyer の最新の著作『古代インド叙事詩における女性』(Leipzig 1915年)については、私が Witkowski の雑誌で書評した。

§第 XXXIII 章 O. BÖHTLINGK

19世紀後半においてサンスクリットの領域で人々の精神をある程度まで支配した三頭政治、Böhtlingk、Roth、A. Weber のうち、その大サンスクリット辞典によってサンスクリット文献学の全体を、——

——それに言語用法の最も徹底した知識が属する限りにおいて、より高い水準へと引き上げたのが Böhtlingk である。St. Petersburg 帝国学士院は、その会員である彼に、この巨大な仕事を他の義務に妨げられることなく遂行しうる状態を与え、印刷費用を負担した。Böhtlingk 自身は決して休むことなく、倦むことなきエネルギーをもってひたすら自らの仕事に生きた。大辞典の完成後、彼は直ちに簡約版の辞典に着手した。常に新たな仕事に取りかかり、印刷に付すことが、彼にとっては欲求となっていたのであり、それは高齢に至るまで続いた。彼の理想は、しばしば口にしていたように、Fleischer がアラビア語を理解するのと同じくらいよくサンスクリットを理解することであった。これを彼は達成し、さらにそれ以上のことをなした。というのも、彼はその知識を巨大な著作の形で書き残したからである。Böhtlingk は Lassen と同様、自らの著作の中に十全に自己を生き切った学者に属する。彼のテキスト校訂の意義は、用いた写本の数の多さにあるのではなく、正確な本文を提供しようとしたその入念さと批判力にある。彼は古典文献学的訓練を受けた文献学者に似ていた。A. W. v. Schlegel もまた推定による本文の治癒に価値を置いていた。Böhtlingk がいささか性急に推定を持ち出しがちであったことは疑いない。Garbe は Böhtlingk の Chrestomathie の新版において、彼の推定の多くを再び除去した。しかし初期の数多くの不備なテキスト校訂に対しては、彼の批判の勇気はまことに適切であった。詩的高揚は彼には与えられていなかった。その素朴な翻訳は、その正確さによって、また彼がいかなる困難をも滑らかに素通りしなかったことによって際立っている。Böhtlingk の翻訳は常にその学問的価値を保ち続けるであろう。語義の確定、個々の困難な箇所の批判的処理が彼の最大の強みであった。ある対象について、あるいは文学史的問題について、彼がまとまった研究を行ったことは稀である。大学で講義をしたことがないため、そこから来る刺激も彼には欠けていた。Böhtlingk がその辞典によって長年サンスクリット文献学の中心に立っていたことは、簡約辞典の最終巻の序文で彼が寄稿への感謝を捧げている専門の同僚たちの長い列が示している。彼は自らの意義を自覚していたが、それでも進んで同僚たちと個人的な関係を結び、彼を訪ねたり自らの仕事を送ったりした最も若い者に対しても、対等の相手に対するように接した。三つの異なる世代に属する三人の傑出した友人が、Böhtlingk の学問的意義と人となりを一致した仕方で特徴づけている。オランダの雑誌「Museum」1904年322頁以下における H. Kern、ザクセン王立学士院「報告」1904年253頁以下における B. Delbrück、「Neue Freie Presse」1904年4月17日付付録における L. v. Schroeder(後者の「Reden und Aufsätze」Leipzig 1913年、315頁以下に再録)である。伝記はまた Pullé の Studi Italiani di Filologia Indo-Iranica 1904年における A. Ballini によるものもある。

Otto Böhtlingk は1815年 St. Petersburg に生まれた。Lübeck の家系に由来するが、晩年にロシア国籍を得るまではオランダ国籍であった。1904年 Leipzig に没した。1842年以来 St. Petersburg 帝国学士院会員、最後には名誉会員であった。彼には居住地を——

——ドイツに置くことが許された。1868年以降は Jena に、1885年以降は Leipzig に住み、ここでは Leskien と Windisch がとくに親しかった。すでに Petersburg での学生時代に Bopp の Glossarium と文法が彼の手に入っていた。それゆえ彼はまず Berlin へ、そこから Bonn へ赴いた。その校訂本「Abhijñānaśakuntalam」は「敬愛する師 Christian Lassen 氏に」献呈されている。ある意味で Böhtlingk は Berlin 学派と Bonn 学派との平和的総合を成し遂げたと言える。すなわち彼は、Lassen の文献学的要求——その正当性は Bopp も認めていた——に従いつつ、Bopp が間接的にしか用いなかった現地の文法を、その校訂と加工「Aṣṭakaṃ Pāṇinīyam」によってヨーロッパの学者に直接利用可能にしたのである。「Panini の文法規則八巻」第I巻「Panini の Sūtra、インドの註解付き」(Bonn 1839年)、第II巻「序論・注釈・索引」(1840年)である。歴史的に見れば、これは Goldstücker による後の批判にもかかわらず、第一級の著作である。Böhtlingk のエネルギーと透徹した知性をもつ人物にしてはじめて、24歳という若さでこの課題をやり遂げることができたのである。London での短い滞在は写本を参照することを可能にしたが、主要な部分ではこの著作は、Colebrooke が企てた1809年の Calcutta 版 Pāṇini に基づいており(上記第I巻54頁参照)、Mahābhāṣya および Kāśikā からの紹介についてもそうである。この依存を Goldstücker は彼に対する重大な非難とした。第一巻は sūtra の本文とインド人編者の近代的説明を含む。これに依拠して Böhtlingk は第二巻に収められた自らの注釈における説明を行っている。Böhtlingk にとって第一に重要であったのは、sūtra 自体を理解し、理解可能にすることであった。しかし彼は注釈において Kātyāyana の vārttika をも、そもそも Patañjali の Mahābhāṣya から Calcutta 版に採り入れられたものすべてを付け加えている。Kāśikā と Siddhāntakaumudī も用いられている。Böhtlingk は序論 LVI 頁以下で、Siddhāntakaumudī における sūtra の配列について、その1811年 Calcutta 版(Gildemeister、Bibliotheca Sanskrita Specimen 第379番)に基づく概観を与えた。この版からはまた、1844年の Petersburg Mémoires における Uṇādi 接尾辞の加工も生まれている(Gildemeister 第380番)。Böhtlingk が当時すでにいかによく Pāṇini を理解していたかは、第二巻の注釈に続く「文法的術語の解説的索引」が示している。結びをなすのは sūtra のアルファベット順一覧であり、これは現地の注釈の引用箇所を見出すのに有用である。さらに sūtra に属する gaṇa すなわち語群の同種の一覧がある。Dhātupāṭha は収録しなかった。Westergaard の当時期待されていた校訂本を考慮してのことである。Böhtlingk の著作はさらに、Aufrecht による Ujjvaladatta の注釈付き Uṇādisūtra 校訂本、Kielhorn による Phiṭsūtrāṇi および Paribhāṣenduśekhara 校訂本、そして Eggeling のいまだ未完の Gaṇaratnamahodadhi 校訂本によって補完された。本文に関する限り、それが凌駕されたのはようやく Mahābhāṣya の完全な諸校訂本によってである。

序論において Böhtlingk は、一部は Colebrooke に依拠しつつ、一部は自らの研究に基づいて、Pāṇini その人について、その先行者と後継者の著作について、Pāṇini の言語学的体系について、sūtra の構成について、材料の配列について論じている。今日なおこれらの方向づけとなる論述は喜んで読まれるであろう。もっとも時の経過とともに Goldstücker、——

——Kielhorn、Weber、Liebich の研究によって Mahābhāṣya とその構成要素の意義がさらに認識され、その他にも多くの新しいことが付け加えられたのではあるが。Śālāturīya——Attock 近郊の地名 Salātura に由来する——のもとに Pāṇini が理解されるべきことを、Böhtlingk は Gaṇaratnamahodadhi から確定したが(VIII 頁)、これは彼以前にすでに Jaquet が推測していた。Böhtlingk によれば Pāṇini は紀元前350年頃(XIX 頁)、Kātyāyana は250年頃(XLV 頁)、Patañjali は150年頃(XVIII 頁)に生きたことになる。これらの設定は多くの学者によって保持されてきたが、Pāṇini はおそらくなお一層古い時代に置かれるべきであろう。

Kielhorn はかつて、Kāvyādarśa の翻訳についても、Böhtlingk は本来の śāstra が始まるところで筆を止めている、と述べた。確かに、古い現地の文法のサンスクリットを完全に学び知ろうとするならば、Mahābhāṣya の内容その他が必要である。しかし Böhtlingk がまずその基幹たる sūtra をより容易に近づきうるものとし、理解可能にしようとしたことに対しては、学問的には何も異論を唱えるべきものはなく、いずれにせよそれは大いに有益であった。この目標を Böhtlingk は、第二版の時代に入ってあらためて「Pāṇini の文法」(Leipzig 1887年)を刊行したとき、一層よく達成した。今度は各 sūtra にドイツ語訳と簡潔な解説を付し、以前の著作の長い注釈は省いた。従来の索引に加えて Dhātupāṭha と「Pāṇini の語彙」が加わった。序論はより簡潔にまとめられている。彼は三大文法家の年代づけを保持し、その間にこれらの問題について新たに提出された論拠には部分的にしか立ち入っていない。インドにおける文字の高い年代についての Roth の見解を支持し、M. Müller に対してきわめて断固たる態度をとっている。Veda 讃歌を除くインド文献の全体が、文字との接触を前提としている。「したがって、文字はインド人にきわめて早くから知られていたか、さもなくばインド文献の全体は比較的新しいかのいずれかである」(XII 頁)。

Pāṇini と同じ理由から、Böhtlingk は Vopadeva も刊行した。「Vopadeva の Mugdhabodha」(St. Petersburg 1847年)である。Colebrooke のみが自らの文法の基礎に Pāṇini を据えていたが、Carey と Forster は Vopadeva に従った。Bopp は「文法的著作においても辞書的著作においても二次的資料しか用いなかった」(IV 頁)が、部分的に Forster に従っている。そこで「独立の仕方で古代インド人の言語に習熟したいと願う人々」のために接近を容易にすべく、Böhtlingk はこの後期の文法家をも刊行した。その際、Carey の文法は彼にとって最も有益であった。Carey はほとんどすべての規則を逐語的に訳していたからである。Vopadeva は13世紀後半に Devagiri 王 Hemādri の宮廷にいた。彼はまた Bhāgavatapurāṇa の著者ともされている(上記第I巻128頁参照)。この校訂本もまた、Böhtlingk の索引、とりわけ——Vopadeva においては Pāṇini とは異なる——文法的術語の解説、および Vopadeva が論じる語の一覧によって、恒久的な価値を得ている。

Chrestomathie の序文から知られるように、Böhtlingk は自ら Pāṇini の sūtra に基礎を置く大部なサンスクリット文法を書く意図をもっていたが、そのための予備作業にとどまった。それらを彼はすべてすでに1843年に Petersburg 学士院に提出している。Bulletin historico-philologique に印刷された sandhi 規則に関するいくつかの小論のほか、彼は三つのより大きな——

——論考を著した。それらは相前後して Petersburg 学士院 Mémoires 第VI series, Sciences politiques etc., Tome VII, 1–369頁(St. Petersburg 1848年)に印刷・刊行された。「サンスクリットにおけるアクセントについての最初の試み」「サンスクリットにおける曲用」「Uṇādi 接尾辞」である。アクセント論はそれまでに現れたすべての文法書においてまったく顧みられていなかった。彼はこれをここで Pāṇini の sūtra に従って叙述し、活用パラダイムを完全に施した。もっともすべてにおいて正しいところを突いたわけではない。またここで初めて、写本から Ṛgveda の本来のアクセント法の実例を与え(54頁)、Siddhāntakaumudī から翻刻された Phiṭsūtrāṇi——これは不変化詞と非屈折名詞のアクセントを扱う——の最初の加工を行った。曲用に関する論考においても彼はアクセントを付している。Uṇādi 接尾辞も同じく Siddhāntakaumudī の Calcutta 版から翻刻した。残念ながらその本文には誤りが多かった。Aufrecht はその校訂本「Ujjvaladatta's Commentary on the Uṇādisūtras」(Bonn 1859年)XX 頁で、Böhtlingk が写本を参照しなかったことを遺憾としている。大論考「ヤクート語について」——最初は「A. Th. v. Middendorf 博士のシベリア最北部・最東部への旅」第III巻(St. Petersburg 1851年)として現れた——において、Böhtlingk は、ある言語を記述的な仕方で叙述することにいかに卓越していたかを示している。この論考は一般言語学への重要な寄与であり、W. v. Humboldt の論考「Kawi 語について」の対をなすものと呼んでよい。

なお Bonn 時代に彼の校訂・翻訳「Kālidāsa の Ring-Çakuntala」(Bonn 1842年)が生まれた。しかしこの著作は彼自身の発意によるものではなく、友人 Westergaard と Brockhaus から委ねられたものである。両者とも London で校訂のための写本資料を集めていた。Böhtlingk はこれについて序論で報告している。Westergaard はインド旅行のためその計画を実行できなくなり、資料を Böhtlingk に引き渡した。同じことを次いで Brockhaus も行った。Devanāgarī 写本が Bengal 写本に基づく de Chézy の校訂本よりも別の、より古い本文を提供することを最初に発見したのは Brockhaus であった。Böhtlingk の校訂本の歴史的意義は、それが Devanāgarī 系統の editio princeps であることにある。正確な翻訳に加えて、本文の後に置かれた批判的注記によっても際立っており、そこでは Kāṭavema の注釈が活用され、Prākṛt にも一層の入念さが払われている。インド演劇はかつて今日以上に文献学的関心の前面に立っていた。Böhtlingk はこの領域でさらに、より理解の困難な、文化史的に最も重要な戯曲の翻訳「Mṛcchakaṭika すなわち土の小車」(St. Petersburg 1877年)によって活動した。これは Stenzler の校訂本により、序文にそれまでの諸研究の概観を、また批判的注記を付したものである。また彼は Chrestomathie 第二版に、Harṣa 王に帰せられる戯曲 Ratnāvalī の Cappeller による校訂を採り入れた。

Böhtlingk のサンスクリット Chrestomathie(St. Petersburg 1845年)は辞典へと橋渡しをする。Chrestomathie は初学者が容易に処理しうるテキストを含まねばならず、さらにさまざまな文学類型についての観念を与えるべきものであるが、同時に、編者がその時代にいかなるテキストをとりわけ——

——重要と見なしていたかをも示すものである。Böhtlingk は Mahābhārata からは Nalopākhyāna——彼の批判によって Bopp の本文より119詩節半だけ短くなった——、Viśvāmitra のバラモン位をめぐる戦い、Daśaratha の死を、Rāmāyaṇa からは Manu 第VI巻と第VII巻を、Hitopadeśa からいくつかの寓話を、Amaruśataka と Bhartṛhari から詩節を、Raghuvaṃśa 第VII巻を、Kathāsaritsāgara から Vidūṣaka の物語を、そして Ṛgveda の19の讃歌を選んだ。最後のものは udātta を表示してはいるが、まだ本来のアクセント法によるものではない。Benfey は自らの Chrestomathie において、同様の選択に二つの哲学的テキストを加えた。理想により近づいたのは、まったく新たに構成された Böhtlingk の Chrestomathie 第二版(St. Petersburg 1877年)であり、そこでは Veda 文献が冒頭に置かれ、しかも Ṛgveda の讃歌のみならず Brāhmaṇa、Upaniṣad、Sūtra によっても代表されている。他の著作からの選択は至るところで変更され、Viṣṇupurāṇa やさまざまな śāstra からの部分が新たに加わった。その中には Kāśikā からの教訓的な諸節や、哲学からは Vedāntasāra 全体が翻訳付きで含まれる。Garbe が刊行した第三版(Leipzig 1909年)では、Böhtlingk のテキストにさらに Atharvaveda の讃歌が加えられ、また Böhtlingk が1890年にザクセン王立学士院報告で翻訳した Kaṭhopaniṣad の全体も加えられた。かくして Böhtlingk はサンスクリットの初等教育のためにも持続的な仕方で配慮したのである。

辞典がなければ、初学者は最良の Chrestomathie をもってしても何もできない。Böhtlingk が最初に思い描いていたのは、Benfey がその「ハンドブック」で実現したものに似たものであった。しかしすでに Chrestomathie の序文において、彼は1845年に計画中の辞典について次のように述べている。「それは現地の辞書学者と文法家の著作に基礎を置き、決して Chrestomathie に限定されることはないであろう」。それは Bopp の Glossar の新版を網羅性において凌駕するであろう、と。

「帝国学士院刊行、Otto Böhtlingk および Rudolph Roth 編『サンスクリット辞典』」は、巻を追うごとに網羅性の理想に近づいていった。第一部 St. Petersburg 1852–1855年、第二部 1856–1858年、第三部 1859–1861年、第四部 1862–1865年、第五部 1866–1868年、第六部 1869–1871年、第七部 1872–1875年、総計9478の二段組大四つ折頁である。現地の語根一覧と諸辞典は、すでに Wilson の辞典のために最初の骨組みを形づくっていた。Petersburg 辞典が巨大な著作、宝庫となったのは、ひとえに Böhtlingk と Roth がこの骨組みに与えた充填によってである。この充填は無数のテキスト箇所からなり、それによって語の意味が、その自然な発展に従って配列されつつ、文献から例証されている。Roth の担当分、すなわち Ṛgveda の語彙(および Suśruta その他)は最も重要であるが、同時により明確に限定されており、それゆえ少なくとも量の点では把握しやすかった。Böhtlingk には本来のサンスクリット文献の大部分が課された。Delbrück は Böhtlingk の担当分を全体の10分の9と評価した。この著作は当初から、Atharvaveda の完全な語彙一覧による Whitney、Śatapathabrāhmaṇa その他の祭儀的著作からの寄稿による Weber、Manu 法典への完全な索引による Stenzler から貴重な支援を受け、第2部以降はさらに——

——「Weber の優秀な弟子」たる Kern から、まず Varāhamihira の著作についての寄稿を得た。第1部および第7部の序文で Böhtlingk は、北方仏教文献からの寄稿を提供した友人 Schiefner にも謝意を表している。当時まだサンスクリット文献の全体が入手可能ではなかったことは幸運であった。最も勇敢な者ですら、あの途方もない量を前にしては勇気を失ったに違いない。恣意的な制限によってではなく、学問の当時の水準によって、この著作には一定の限界が引かれていたのであり、その限界はもちろん学問の進歩によって絶えず拡張されていった。それゆえ第5部の後半における大部な補遺が生じたのである。しかし利用可能な著作の活用もまた、至るところで均等に完全であったわけではない。第1部の「略号解説」——これは同時に典拠一覧でもある——を通覧すれば、重要なテキスト校訂本の数はまだそれほど多くない。それらには Chrestomathie 中のテキスト断片も含まれる。少なからぬ著作は写本で利用された。未刊の kośa、および植物学その他の śāstra からの記載は Śabdakalpadruma から採られている。これは Rāja Rādhākānta の大辞典で、Calcutta 1821–1857年に印刷され、市販はされなかったが、Petersburg 学士院所蔵本によって Böhtlingk は利用しえた。Gildemeister、Bibliotheca Sanskrita Specimen 第540番、および Weber、Indische Streifen 第II巻205頁参照。Böhtlingk の目的意識的なエネルギーのおかげで、この巨大な著作は23年という期間で完成することができた。それは完全ではないが、しかし完成されたのである。Goldstücker の辞典は、個々の語の単行論文的処理と śāstra へのより深い立ち入りによってより完全であるが、完成の可能性を顧慮せずに構想されたため、トルソーにとどまった。Böhtlingk が常に著作の完成を目指していたことは、第4部および第5部の序文で述べられている。彼は意図的に典拠の範囲を拡張せず、補遺を後回しにした。それゆえ、Böhtlingk がさまざまな理由から「簡約版サンスクリット辞典」に着手し、衰えぬエネルギーでこれをも完成させたことは、学問のさらなる促進と見なされるべきである。これもまた、それを可能にした Petersburg 学士院のおかげである。この二つの辞典は Petersburg 学士院の栄誉の称号をなしている。第二の辞典の第1部は St. Petersburg 1879年、第2部1881年、第3部1882年、第4部1883年、第5部1884年、第6部1886年、第7部1889年に刊行され、総計2107の四つ折頁である。Böhtlingk が第1部の序文で述べているように、彼は辞典のより簡潔な加工版を作ろうとした。「それは初学者、および先の著作で提供された装置が豊富すぎるような利用者の必要に応えるものである」と。同時に彼は「辞典そのものについて、現時点で可能な補完と改善を与える」機会を得た。後者のうちに第二の辞典の高い学問的価値がある。ここで与えられた用例はすべて新しく、第一の辞典の用例は繰り返されていない。第1部に引用された著作の長い一覧の中に、われわれは大辞典の第1部にすでに典拠として記載されている多くのテキストを再び見出すが、その間に Bibliotheca Indica の諸版やその他多くの重要な校訂本・著作が現れ、Böhtlingk によって利用されていた。第二部、さらに続く諸部にはさらなる典拠が記載され、専門の同僚から提供された大小の補遺が増えていく。——

——サンスクリット文献学の新しい著作に由来するこれらの補完と訂正によって、簡約辞典はいわばその他の点で旧辞典の信頼性を保証している。固有名詞も両辞典に採り入れられているが、とりわけ地名についてはもっと多くの情報が望まれる。この実物知識の部分は、両文献学者にとってはやや縁遠いものであった。碑文はごく散発的にしか顧慮されていない。大辞典第5部の序文で Whitney が、Journal of the American Oriental Society に発表された碑文からの寄稿に対して謝意を受けている。Petersburg 辞典において、初学者のみならず最も偉大な学者たちも広汎な教示を見出してきた。両辞典は、文献的言語用法についてかくも高い水準の知識を学問の共有財産としたのであり、その増補はもはや、より辺境の領域における立ち入った研究によるか、新たに発見された著作によるほかは不可能となったほどである。Petersburg 辞典に重要な補遺をもたらしうる者は、それを自らの仕事とその対象の重要性の証しとして、ある種の満足をもって受け止めるのである。少なくともドイツ語による初学者用の廉価な辞典は、ようやく Cappeller が提供した。学問の進歩は、やがてサンスクリット語彙の総体を扱う一層完全な新しい thesaurus が創られるという点にあるよりも、むしろますます多くの重要なテキストと分野が独自の専門辞典を得るという点にあるであろう。その際、注釈者たちもさらに正当な地位を得ることができる。

Böhtlingk と Roth はいずれも寡黙な人であった。両者の共同序文はきわめて簡潔である。歴史的意義をもつのは、大辞典第1部の序文における、Sāyaṇa の Ṛgveda 注釈に対する彼らの立場表明である。第5部の序文は、Goldstücker の攻撃に対する、名を挙げない形での回答を含み ¹⁾、簡約辞典第4部の序文は、Petersburg 辞典をあまりにも独立性なく利用した Monier Williams のサンスクリット=英語辞典(1872年)に対する鋭い批判を含む。

辞典の仕事の一つの果実が、三巻本の「インド箴言集。サンスクリットおよびドイツ語」(St. Petersburg 1863–1865年)である。Böhtlingk はこれを順に友人の Roth、Brockhaus と Stenzler、Weber に献呈した。さらなる補遺の代わりに、1870年から1873年に増補改訂の第二版が現れ、友人の Pott、Westergaard、Kern に献呈された。第一版は5419の箴言を含んでいたが、第二版は7613を含む。これもまた Rückert の作品と同様「バラモンの知恵」の叙述であり、詩的でない代わりに厳密に文献学的なそれである。Böhtlingk はここで、Bhartṛhari、Amaruśataka などの著作からのみならず、本来は箴言詩に属さない他のテキストからも、しかも自らの辞典のために用いたものを越えて、警句的詩節をアルファベット順に配列して集成し、批判的に加工した。箴言の事項的内容については、A. Blau が Cappeller の示唆を受けて索引をドイツ東洋学会論集第IX巻(Leipzig 1893年)に与えた。

簡約辞典が完成したのと同じ年に、Böhtlingk は本文批判を伴う Chāndogyopaniṣad および Bṛhadāraṇyakopaniṣad の翻訳を刊行した。Leipzig——

【注】 ¹⁾ Benfey の Sanskrit Dictionary への批判も名を挙げずになされている。(J. Wackernagel)

——1889年である。その後の数年間、ザクセン王立学士院報告 第XLII巻および第XLIII巻で、さらにいくつかの小 Upaniṣad の翻訳を続けた。「Daṇḍin の詩論」(Kāvyādarśa)の翻訳(Leipzig 1890年)へ彼を促したのは、Daṇḍin が戯曲 Mṛcchakaṭika の作者であるという Pischel の主張であろう。この主張を Böhtlingk は序文で十分な根拠をもって退けている。Upaniṣad の翻訳は Whitney が批判し(American Journal of Philology 第XI巻407頁以下)、Deussen もこれに対して立場を表明した。Kielhorn による Kāvyādarśa 第149詩節への批判的所見(Göttinger Nachrichten 1890年419頁)は孤立したままにとどまった。

一連の小さな批判的論文において、Böhtlingk はその鋭敏さを、Vāsiṣṭha-、Āpastambīya-、Baudhāyana-dharmaśāstra の本文と翻訳に対して、また Hiraṇyakeśin の Gṛhyasūtra に対して発揮した。ドイツ東洋学会誌 第XXXIX巻–第XLIII巻(1885–1889年)においてである。ここで彼は原則的な仕方で(第XXXIX巻517頁以下)、Bühler に対して、訓練されたヨーロッパの文献学者が、その他の点では良質なサンスクリットで書かれたテキストにおいて誤った語や形を除去する権利を主張している。たとえそれらが Āpastamba に対する Haradatta のような註釈者によって保持され、著者自身に帰せられているとしてもである。Böhtlingk の批判的立場は正当であるが、ただ問題は、やはり伝承された形を本文に、訂正を注記に置くべきではないか、という点である。同誌第XLIII巻および第XLIV巻で行われた、Pischel が「Vedische Studien」第I巻182頁で Veda の一箇所の説明のために援用した、牡山羊と刀の寓話の意味をめぐる論争のきっかけを作ったのも Böhtlingk であった。

Mélanges Asiatiques, Tome X, 247頁以下(St. Petersburg 1892年)には、当時までの完全な「Böhtlingk 著作目録」が与えられている(Salemann および v. Oldenburg による編纂、本人による校閲)。これは99番を含む。彼はそれ以降なお40の大小の仕事をザクセン王立学士院「報告」に発表した。

§第 XXXIV 章 TH. GOLDSTÜCKER

Böhtlingk とは別の立場をとったのが Th. Goldstücker である。若き Böhtlingk がまず Pāṇini の sūtra を理解するという課題を自らに課したのに対し、Goldstücker は paṇḍit の助けを借りずに Mahābhāṣya をある程度まで制覇したヨーロッパで最初の学者であった。Böhtlingk との対立は一般に、彼が現地の伝統と学識の権威をより多く通用させようとした点にある。彼は、とりわけドイツにおいて支配的な権威に対立した重要な反抗者たちの最初の人であった。そうした反抗者としてはさらに M. Haug、A. Ludwig、A. Bergaigne、R. Pischel がいる。より早い時代からは、Wilson に対する関係において Vans Kennedy を彼らに数えることもできよう。

Theodor Goldstücker はユダヤ系で、早熟であったが早世もした。1821年 Königsberg に生まれ、同地で v. Bohlen のもと最初のサンスクリット研究を行い(上記第I巻89頁参照)、そこから Bonn の Lassen のもとへ赴いた。1840年 Königsberg で学位を取得した後、数年間 Paris に住んだ。彼は Burnouf の「最も忠実で最も学識ある弟子の一人」と見なされていた(上記第I巻150頁参照)。1846年以降ふたたびドイツに戻り、——

——彼は長期間 Berlin に滞在し、そこで Weber および Kuhn とサンスクリットの小さな読書会をもった(Pāṇini 259頁)。Bopp とも関係があった。彼はその Jaiminīya-Nyāya-Mālā-Vistara 校訂本の序文で、Bopp を比較言語学の創始者として称揚している。しかし彼の著作の性格は、とりわけ London への移住と密接に関係している。彼は1850年に London へ移り、1872年に同地で London 大学サンスクリット教授として没した ¹⁾。

彼の最初の学生時代に由来するのが、匿名で刊行された戯曲 Prabodhacandrodaya の翻訳である。これは「Prabodha-Chandrodaya すなわち概念の誕生」という表題のもと、師である Königsberg の哲学者 K. Rosenkranz の序文を付して、Königsberg 1842年に刊行された。v. Schroeder『インドの文学と文化』659頁参照。London で Wilson は彼にその辞典の第3版を委ねた。しかしそれは6分冊しか刊行されず(Berlin および London 1856–1864年)、arindama までにしか及ばない。それゆえサンスクリット文献学の発展に大きな影響を及ぼすことはできなかった。表題「A Dictionary, Sanskrit and English, extended and improved from the second edition of the Dictionary of Professor H. H. Wilson, with his sanction and concurrence, together with a supplement, grammatical appendices and an index, serving as an English-Sanskrit vocabulary」は、それがいかに大規模に構想されていたかを示している。しかし Goldstücker がそれに独自の性格を与えたのは、ようやく第2分冊からである。Weber は第2分冊および第4分冊の書評(Indische Streifen 第II巻145頁および206頁)において、刊行された部分の学問的価値を十分に認めている。その価値は一方では個々の項目の「まさに百科事典的な詳細さ」——Weber はその際 abhiṣeka を参照させている——にあり、他方では現地の注釈文献からの抜粋にある。Goldstücker は East India House の写本によってこの注釈文献に精通していた。Goldstücker の「インドの釈義家と文法家の権威への正統的帰依」に対しては、Weber は鋭い言葉をもって反対し、その際、abhinimrukta の代わりの誤った語 abhinirmukta と、語根 mruc を論じている。それでもなお、Goldstücker の辞典において第2分冊以降、古いインドの注釈者たちが発言の機会を得たことは感謝すべきことである。欠点は、彼らの言葉は挙げられているが、それがどこにあるかという箇所が示されていないことである。Goldstücker がとりわけ精通していたのは、文法、辞書学、哲学、祭儀教義学(Weber が Pūrva-Mīmāṃsā をこう呼んでいる)、および法の領域であった。Böhtlingk が第一に sūtra に依拠したのに対し、Goldstücker は Kātyāyana、Kumārila、Mādhava のような注釈者たちが述べたことを通用させようとした。このことは彼の校訂本「Mānava Kalpasūtra, being a portion of this ancient work on Vedic rites together with the commentary of Kumārilasvāmin」(London 1861年)にも表れている。本文は注釈であり、そこでは sūtra 自体は冒頭句しか与えられていない。印刷が完了してはじめて、彼は sūtra そのものの一部の写本を入手した。Mānava-Śrauta-Sūtra を完全な形で刊行したのは、ようやく Fr. Knauer である(St. Petersburg 1901–1903年)。Goldstücker が刊行したものは、Kumārila に帰せられる注釈の一写本のファクシミリのリトグラフ複製であり、彼はその価値を過大評価していた。この写本が不完全で欠落が多いことは Goldstücker にも隠れてはいなかったが、Weber は Goldstücker への批判において——

【注】 ¹⁾ London で私は1870年に彼とも個人的に知り合い、その真価を知った。

——(Indische Studien 第V巻12頁以下)、また P. v. Bradke はその論考「Mānava-gṛhya-sūtra について」(ドイツ東洋学会誌 第XXXVI巻448頁以下)において、この点をさらに強調した。序文において Goldstücker は——彼は Mīmāṃsā の歴史を書く意図をもっていた——、Mīmāṃsā が黒 Yajurveda の諸学派と立つ実質的関連を指摘している。

しかしこの校訂本が有名になったのはその序文によってである。それは独立の書物としても刊行された。「Pāṇini, his place in Sanskrit Literature」(London および Berlin 1861年)である。その強い論争的性格にもかかわらず、この書はその弁証法によってもサンスクリット文献学の最も輝かしい著作に属する。Goldstücker は Kumārila や Mādhava のような巨匠たちに熱中しただけでなく、最も重要な文学史的諸問題への十全な理解をも有しており、それらをここで長年の研究に基づいて解答しようと試みたのである。これは Weber が逐一詳細な批判を加えた二つの著作のうちの一つであり、この最初のものは「Pāṇini の年代の問題について」という表題のもとに Indische Studien 第V巻1–176頁に発表された。Weber はすでにそれ以前、第I巻141頁以下(1850年)の「Pāṇini の時代からの素描、I. 当時存在した文献圏について」において、また Berlin 1852年の「アカデミー講義」において、Pāṇini 問題の処理に踏み込んでいた。Goldstücker はこの領域における先行者に対して優越を感じており、そこで当時ちょうど刊行された M. Müller の History of Ancient Sanskrit Literature(London 1859年、無改訂第2版1860年)が、彼に直ちに発言し、ちょうど刊行しつつあった書物の序文を、かつての友人たちとの決算と、当時最も焦眉の諸問題の立ち入った論究のために用いる契機を与えた(Pāṇini 240頁参照)。彼が反抗者として現れるのは、結びで、自分は「われわれの師匠・権威として自任する人々の資格を検証すること」を試みたと述べるときである(268頁)。Böhtlingk の Pāṇini 校訂本に対する Goldstücker の批判はまったく不当であり、それがこの著作の刊行から20年後に書かれたという点でもそうである。それゆえ Weber がその大論考の冒頭で、Böhtlingk の Pāṇini 校訂本を「その当時まさに画期をなした」優れた著作と呼んだのは、ただ歴史的公正さを守ったにすぎない。

Goldstücker はまずインドにおける文字の年代を論じ、M. Müller とは対照的に、Pāṇini の文法は文字を前提とし、Pāṇini の時代には Veda の文献もすでに記録されていた、という結論に至る。Goldstücker が持ち出した個々の事柄のすべてが、一般的な理由からある程度の蓋然性をもつこれらの見解の確実な証明と見なされうるわけではないとはいえ、Goldstücker はここでこの問題に関わりうる一連の術語を論じている。すなわち yavanānī, lipikara, kāṇḍa, paṭala, sūtra, grantha, varṇa, ūrdhvam, svaritet, anudāttet, lopa, ṛṣir darśanāt である。これらの語の大部分について、Weber は Goldstücker の解釈の不確かさを示そうとしている。svaritetanudāttet についての節(45頁以下)で Goldstücker は Pāṇini I 3, 11 svaritenādhikāraḥ に対する Mahābhāṣya の翻訳を与え、この svarita は adhikāra の語の上に書かれたのだという結論に達した。Kielhorn は Gurupūjākaumudī 29頁以下(1895年)でこの箇所を論じ、これを認めなかった。Aṣṭādhyāyī の写本はどこにも svarita の記号を含んでいない。Kātyāyana と Patañjali の所見を Goldstücker とは異なる形で自由に再現することによって、——

——彼は、これらの学者もまた adhikāra が svarita で標示されたテキストを前にしていたのではないことを示そうとした。もっともその結果、この svarita が adhikāra の標識として本来どのように認知されえたのかは、ふたたびまったく不明となる。M. Müller の Veda 文献の四時期説——Goldstücker は68頁以降これを批判する——によれば、Kātyāyana と Pāṇini は第四の時期すなわち Sūtra 期に、しかも紀元前350年頃に属することになる。Pāṇini はすでに Böhtlingk によってそのように設定されていた。この年代がそれに基づいている伝説的な記述が信頼できないという点は、Goldstücker に認めざるをえない。彼以前にすでに Weber も Vājasaneyi-Prātiśākhya の校訂(Indische Studien 第IV巻87頁、1857年)で同様の見解を述べていた。Pāṇini について確定した年代を設定しうる確実な手がかりが存在しない以上、われわれは相対年代に頼るほかない。Weber はその端緒を、Pāṇini の時代に存在した文献圏を確定しようとすることによってつけていた。Goldstücker はこの研究を継続したが(89頁以下)、その際、沈黙からの推論をあまりにも多用した。Pāṇini が知っていたのは黒 Yajurveda、Ṛgveda、Sāmaveda のみであり、Śatapathabrāhmaṇa および Kātyāyana の Kalpasūtra を伴う白 Yajurveda、Atharvaveda、Āraṇyaka 群、Upaniṣad 群、六哲学体系は知らなかったとされる。Kātyāyana は Pāṇini と同時代人ではありえない。というのも Kātyāyana は白 Yajurveda、Āraṇyaka 群、Nyāya 体系を知っていたからである。これにさらにいくつかの言語的理由が加わり、Goldstücker は Pāṇini と Kātyāyana の間により大きな時間差を想定するに至った。Weber は(43頁以下)Goldstücker を逐一論駁し、その際 Goldstücker の Mahābhāṣya の知識に対して自らの Yajurveda の知識をもって臨んだ。この論争において多くは、Pāṇini IV 3, 105 に対する vārttika purāṇaprokteṣu brāhmaṇakalpeṣu Yājñavalkyādibhyaḥ pratiṣedhas tulyakālatvāt の解釈にかかっていた。Weber は最後の語を、Yājñavalkya が Pāṇini と同時代に生きていたという意味に解した。Goldstücker はこれに対し Kaiyyaṭa とともに、Yājñavalkya は古人たちと同じ古い時代に属するのであり、Pāṇini の sūtra はその古人たちに向けられている、という意味に解した。後者の解釈が疑いなく正しい。Goldstücker はこの節を Mahābhāṣya の分析とその構成要素の記述をもって始める。すなわち Kātyāyana の vārttika、Patañjali の iṣṭi、さまざまな種類の kārikā、さまざまな時代に由来する paribhāṣā である。彼は vārttika の本質についての Nāgojibhaṭṭa の記述に言及している。sūtre 'nuktaduruktacintākaratvaṃ vārttikatvam。彼は Kātyāyana を Pāṇini よりかなり後の時代に置いたにもかかわらず、Kātyāyana の Pāṇini に対する敵意という伝説上の要素を保持した。「Kātyāyana は Pāṇini の規則を正当化し弁護しようとしたのではなく、それに難癖をつけようとしたのである」(119頁)、「Kātyāyana は要するに、賛美者ないし友人の印象を与えず、敵対者の、しかもしばしば不公正な敵対者の印象を与える」(120頁)。Goldstücker の論争的性質にとっては、後継者の先行者に対する関係をこのように考えることは自然であったのであろう(Weber、Indische Studien 第V巻89頁参照)。この敵意は継続し、Kātyāyana もまた Patañjali によって非難される。Patañjali は「そうした機会には、Pāṇini に対する Kātyāyana の狭量な扱いを厳しく叱責する」(120頁)。この見解は、Weber が Goldstücker に反対しなかった数少ない点の一つである。三大文法家の関係と Mahābhāṣya の性格を——

——さらに正しく把握することは、Kielhorn に留保されていた。しかし Kielhorn も Goldstücker と同様、Pāṇini は Böhtlingk、M. Müller、Weber が想定しようとしたよりもはるかに古い時代に属すると考えていたようである。

157頁以降 Goldstücker は、Pāṇini の著作と実質的に近い関係にある文法的著作を論じる。「Uṇādisūtra」についてはすでに Aufrecht の校訂本があり、Dhātupāṭha については Westergaard の校訂本があった。Kielhorn の Phiṭsūtra 校訂本はまだ現れていなかった。Goldstücker はその弁証法をもって、Uṇādi 接尾辞を扱う sūtra 集成は後代に成立したものであるが、これらの接尾辞の最初の一覧は Pāṇini が作成したのだ、ということを蓋然的にしようと努める。M. Müller はその History 245頁で「Uṇādisūtra」を Pāṇini より古いと見なした。Pāṇini がそれに言及しているからである。しかし彼は、Pāṇini より後にはじめて加わったに違いないいくつかの語(たとえば dīnāra = ラテン語 denarius)と sūtra とを指摘していた。Goldstücker は Pāṇini をその文法に属する Dhātupāṭha の著者とも見なした。彼の文法の術語のうち、Pāṇini は自ら定義するものを新たに導入し(少なくとも彼が用いる意味においては)、定義しないものは先行者から受け継いだのだという。Weber はその批判の83頁以下で、この基準が厳密には貫徹しえないことを証明している。「Pāṇini が自らの著作で用いるすべての術語の創始者であるかどうか」という問題については、Goldstücker は Pāṇini I 2, 53 とそれに続く四つの sūtra を決定的なものとした(162頁以下)。Böhtlingk はその Pāṇini 訳(1887年)でこれら五つの sūtra を偽作と見なし、その際、sūtra 54–57 は Mahābhāṣya のどこにも言及されていないという Kielhorn から得た情報に依拠している。今日に至るまで、これらの点について完全な明晰さは得られていない。

より一般的な関心を惹くのは、Prātiśākhya 群の先行性をめぐる論争である。ここには Ṛgveda 本文の歴史も関わってくるからである。これらの著作について最初に情報を与えたのは Roth の処女作であり、彼は Ṛgveda、白および黒 Yajurveda の Prātiśākhya の写本からそれを汲み出していた。ここにわれわれは、相対年代の問題を決定することがいかに困難であるかを見る。同じ資料から出発しつつ、論争者たちは正反対の結論に達した。Roth、M. Müller、Weber は Prātiśākhya の先行性を主張し、後者はその Vājasaneyi-Prātiśākhya の校訂(Indische Studien 第IV巻65頁以下)においてそうしたが、Goldstücker は183–213頁で Pāṇini の先行性を主張して戦った。Weber はその批判の89–135頁でこれを論駁しようとした。全員が一致しているのは、Prātiśākhya のうち Ṛgveda に属するものが最古であるという点である。当時それは Regnier の版でも M. Müller の版でもまだ完全には刊行されていなかったので、Weber が最初に完全な形で刊行した Kātyāyana の Vājasaneyi-Prātiśākhya がとりわけ Pāṇini との比較に用いられた。Goldstücker はこの問題では旗色が悪い。というのも、Ṛgveda-Prātiśākhya の権威である Śākalya と Śaunaka が Pāṇini の sūtra で言及されているからである。sūtra I 1, 16——もっとも Mahābhāṣya では論じられていない——は、Padapāṭha の知識さえ前提としている。真理はおそらく中間にある。もしある著作がその内容から見て Veda への補助学と見なされうるとすれば、それは Prātiśākhya である。にもかかわらず、この名称は Vedāṅga の古い一覧には現れない。Prātiśākhya は śikṣā すなわち Veda 本文の正しい音的形成についての教説であるが、しかしそれは特定の——

——Veda 本文の異本に適合させられ、sandhi をあらゆる細部と個々の箇所にまで貫徹させたものである。このような音声学は Pāṇini 以前にもすでに存在した。しかし、それがすでに現在 Ṛgveda の Prātiśākhya に見られるような韻文の形で、またあの完成度において存在したかどうかは疑わしい。Prātiśākhya はまた、śikṣā のほかに chandas すなわち韻律という二つの Vedāṅga を含んでいる点でも、古い Vedāṅga 体系の枠から外れている。しかし Prātiśākhya のうちに、古い śikṣā は最も完成した形で止揚されている。O. Franke、Sieg、そしてとりわけ Lüders の研究によって、現在 śikṣā の名で通っている小著作が Prātiśākhya に依存していることが証明された。Goldstücker は209頁以下で、Dākṣīputra としての Pāṇini と Dākṣāyaṇa としての文法家 Vyāḍi との間にも相対年代を立てようとしている。Vyāḍi には「Saṃgraha」という大著作が帰せられており(80頁参照)、これを Patañjali は Pāṇini の sūtra II 3, 66 に対して言及している。

M. Müller が Phiṭsūtra を Pāṇini より古く、Yāska の Nirukta をより新しいと見なしたのに対し、Goldstücker はこの関係を逆転させた。いずれにせよ、Pāṇini が Yāska という名の形成を教えていることは事実である。全体の極みとして Weber がその批判136頁で挙げるのは、Goldstücker が225頁で Pāṇini を仏陀以前の時代に置こうとしていることである。Śākyamuni という名、および仏教的意味での nirvāṇa という語が Pāṇini に現れないことは、決定的な理由ではない。Pāṇini と仏陀の間に確実な接点が見出されないとすれば、それは両者の対立性に基づくものであろう。Pāṇini はバラモン的サンスクリットの文法家であり、仏陀は民衆語で語る新しい信仰の創始者であった。M. Müller 以来、仏陀の没年としては主として紀元前477年が設定されている。しかし Goldstücker は233頁で、66年の誤差(上記第I巻118頁参照)は、伝承において古い諸王に設定された年数のうちに求めることも同様に可能であり、したがって Candragupta は仏陀の162年後ではなく228年後に生きたことになる、と主張する。この方法によれば、確かに、ギリシア人の報告によって確保された Candragupta の紀元前315年という年代を、Ceylon の伝承の紀元前543年と調和させることができるであろう。

しかしとりわけ認めねばならないのは、Goldstücker が228頁以下で、Patañjali の年代づけの手がかりを与える Mahābhāṣya の二つの箇所に初めて注意を向けたことである。Pāṇini V 3, 99 への注釈中の文 Mauryair hiraṇyārthibhir arcāḥ prakalpitāḥ から Goldstücker は、彼はこの王朝の最後の王より後、すなわち紀元前180年より後に生きたに違いないと推論した。ここで問題となっている事柄は、牡山羊と刀の寓話と同様に理解上の困難を伴い、繰り返し扱われてきた。Weber のほか、後には R. G. Bhandarkar と Peterson、Kielhorn と Böhtlingk、後者は二度、ドイツ東洋学会誌 第XXXIX巻 (1885) 528頁および第XLI巻175頁においてである ¹⁾。Böhtlingk もまた、Maurya 王朝が意味されており、ここに Patañjali の年代の手がかりがあるという見解であった。さらに有名なのは第二の箇所、sūtra III 2, 111 への bhāṣya である。そこで Patañjali は未完了過去の用法を、aruṇad Yavanaḥ Sāketam および aruṇad Yavano Mādhyamikān という短文によって例示している。これらは Patañjali の時代の出来事に関わるものでなければならない。Mādhyamika のもとに Goldstücker は、——

【注】 ¹⁾ なお Ludwig「R. v. Roth への祝辞」57頁以下参照。(J. Wackernagel)

——また Weber も、この名の仏教の一派を理解し、Yavana のもとには Menandros 王を理解した。ギリシア人の王のうち、その征服において Sāketa すなわち Ayodhyā にまで進出しえたのは彼だけだからである。Lassen によれば彼は紀元前144年頃に統治した。それゆえ Goldstücker は234頁で、Patañjali はこの箇所を紀元前140年から120年の間に書いたに違いないと述べている。

Mahābhāṣya の歴史において Kaschmir 王 Abhimanyu が役割を演じる。Goldstücker は、すでに Böhtlingk が扱った Rājataraṅgiṇī I 176 の詩節に対して、Bhartṛhari の Vākyapadīya からより古い箇所を提示したが、それはやや質の劣る写本に基づくもので、その本文を Weber はその批判158頁以下で Berlin 写本によって改善することができた。Weber はどこにおいても無条件に Goldstücker の見解に同意したわけではないが、それでも最終的には、Goldstücker が明るみに出した諸箇所の重要性を認めた。それらは古代インド文学史の基礎の一つとなっている。Vincent A. Smith、Early History of India 第2版204頁以下参照。Mādhyamika がこの名の仏教の一派を指すのではなく、Madhyadeśa の一民族を指すことを初めて見抜いたのは Kern であり、その Bṛhatsaṃhitā 校訂本(1865年)の序文38頁においてである。Kielhorn はこの名を、Rājputāna の都市名 Madhyamikā からの派生語として説明した(Indian Antiquary 第VII巻266頁)。Goldstücker が考えたように、Gonardīya のみならず Goṇikāputra のもとにも Mahābhāṣya において Patañjali 自身が理解されるべきかどうかは、なお未解決の問題である。彼は Pāṇini I 1, 75 に対する Kāśikā を参照させている。そこでは Gonardīya が prācāṃ deśe という地名の一例として挙げられている。それゆえ Patañjali は Kātyāyana と同様、東方の文法家に数えられる。

この書の最後の部分は Petersburg 辞典を扱っている。Roth については彼は嘲弄している。Roth が、良心的なヨーロッパの釈義家は Veda を Sāyaṇa よりも正しくよりよく理解しうるという意見であったからである。今日なお「Wilson の優れた仕事」(247頁)を Ṛgveda 翻訳の模範として掲げる者があろうか。自由な研究は Sāyaṇa の Ṛgveda 解釈で満足することはできなかった。Roth が先んじて歩んだ道は、歩まれねばならなかったのである。修正、ある種の反動はおのずと生じたが、しかし Wilson と Goldstücker の立場への完全な回帰ではなかった。Böhtlingk に対する特別の主要な非難は、彼が kṛ, kṝ, kḷp, dhe (dhayati), gāi (gāyati), sö (syati) を語根として立てず、kar, kar, kalp, dhā, gā, sā を立てたことに関わる。たとえ Böhtlingk はインドの文法家の設定を保持したほうがよかった——言語学的立場から見ても語根段階 kṛ が保持された語根段階 vid に対応する等の理由からも——という意見であるとしても、これは辞典の実質的価値を揺るがす点ではない。Böhtlingk は大辞典第5部の序文で簡潔に答えている。

J. R. Ballantyne は、その学校用教科書(for the use of the Benares College)によってバラモン哲学の諸体系への入門にも功績があったが、Mahābhāṣya を Kaiyyaṭa の pradīpa(Vāmana——彼は8世紀に生きた——より新しく、Hemacandra 1088–1172年より古い)および Nāgojībhaṭṭa(18世紀)の pradīpoddyota とともに刊行し始めた。しかし第一巻しか刊行されなかった。Mirzapore 1855年、大判横組で、第I Adhyāya の第I Pāda を含むが、Weber によれば(Indische Studien 第XIII巻294頁)これは——

——全著作の五分の一をなす。これに対する英訳は見本として40頁が印刷されたにすぎない。Goldstücker はこの巻を用いたが、全体の研究と自らの紹介のためには London の写本を参照せねばならなかった。彼はその後、校正済みの写本により全体をフォトリトグラフで複製させた。6巻4674頁、London 1874年、わずか50部の印刷である。この校訂本が文法研究のその後の展開に目に見える大きな影響を及ぼすことはなかった。研究の進展は、Benares 1870年(Saṃvat 1927年)刊の Kaiyyaṭa の Pradīpa 付き Mahābhāṣya 版、およびこの超注釈を伴わない Kielhorn の校訂本に結びついている。

Goldstücker が戦ったのは Pāṇini、Kātyāyana、Patañjali のためのみならず、Kumārila、Śaṅkara、Sāyaṇa、Mādhava のためでもあった。インドの古代を古い現地の解釈者たちを通じてふたたび甦らせようとする彼の努力に対応するのが、彼が創設した Sanskrit Text Society の刊行物を Auctores Sanscriti という表題のもと、「Jaiminīya-Nyāya-Mālā-Vistara of Mādhavāchārya」の校訂(Part I, 1865年)をもって開始したことである。この表題における nyāya のもとには、Jaimini の Mīmāṃsā の adhikaraṇa が理解されるべきである。Part VI および VII は彼の死後1878年にようやく刊行され、E. B. Cowell が敬虔な配慮をもって整え刊行した。Goldstücker の小さな仕事のうち、East India Association での講演から生まれた著作「On the deficiencies in the present administration of Hindu Law」(London 1871年)は、これまで論じてきた研究から遠く隔たっているように見える。しかしここでも彼はその性格に忠実である。というのも、彼はここで、生活の実務にとってかくも重要な裁判こそがまさに「english notions」の導入なしに(16頁)、インド的精神において、インド人にとって規範となる現地の法学者の見解に従って行われるべきである、と主張しているからである。インドにおけるイギリス人裁判官はサンスクリットを解さねばならず、インドの各地方で権威とされる法典は英語に訳され、すでに存在する翻訳は改訂されるべきである。Whitley Stokes が刊行した Hindu Law Books の叢書は、まったく彼の意に適うものであった。彼の序論的所見と、実務にとって最も重要な法典についての概観からは、インド法の二つの領域、すなわち相続法と養子法がとりわけ入念な研究を要することが明らかとなる。それらはインド人の宗教的観念にも基づいており、その観念は Śrāddha すなわち祖霊祭においてその表現を見出しているからである(21頁)。Colebrooke の翻訳(上記第I巻33頁参照)は、その対象の偶然の選択に基づくものではなかった。Goldstücker はこの法文献に、Mahābhāṣya に対するのと同じく徹底した研究を捧げていた。bandhu すなわち親族と親等の段階についての、また分割された家族と分割されない家族の状況についての彼の研究は、小さな単行論文である。いくつかの実例によって、その一部はさらに R. West および J. G. Bühler の「Digest of Hindu Law, from the replies of the Shastris in the several Courts of the Bombay Presidency, Book II, Partition」から採られているが、彼はインド人の観念の不十分な知識に由来する裁判の誤りを指摘している。

彼の死後、なお二巻の「Literary Remains of the late Prof. Theodore Goldstücker」(London 1879年)が刊行された。残念ながら陽の目を見なかった著作のうちには、Goldstücker による Mahābhārata の批判的な完訳がある。これは——

——Brockhaus \& Avenarius 社の Bibliographischer Anzeiger für orientalische, theologische und philologische Literatur 1847年第9号で予告されたものである。この翻訳がおそらく M. Müller、History 43頁で言及されているものであろう。

§第 XXXV 章 ṚGVEDA。R. ROTH

Goldstücker は首尾一貫した、それ自体で完結した学問的人格であった。その仕事のすべては、インドの古代はインド人の目で、現地の伝統の光のもとに見られねばならない、という思想に支配されていた。これに対して Roth はますます、次の言葉に要約しうる立場をとるようになった。すなわち、Sāyaṇa から、またインド精神のその後の発展によって条件づけられた本源的なものの変容から、離れよ! この二つの立場のいずれからも、事柄は考察されねばならない。Roth の立場は、とりわけドイツにおいて Ṛgveda の孤立的な扱いを助長したが、それはいずれにせよ、多くの人が Veda 研究に参加しうるという良い面をもっていた。Veda 語は比較言語学者たちに新しい材料と新しい刺激を与えた。とりわけ比較統語論の方向においてである。Ṛgveda の困難な箇所の解釈は主として本来の文献学者の仕事であり続けた。しかし、一部の文献学者から白眼視された言語学者たちが、明瞭な箇所において格・時称・法の用法を観察したことによって、彼らもまた Veda の正しい確実な理解に本質的に寄与したのである。それは Sāyaṇa の恣意に対抗するものであった。というのも、Sāyaṇa がいかに見事に文法形を Pāṇini の sūtra に従って説明しうるとしても、彼がかくも頻繁に格の交替を想定したり、黙って過去時称を現在で置き換えたりするとき、今日もはや誰も彼に従おうとはしないであろうからである。これらの点において、伝統的解釈はヨーロッパの学問によって永久に除去された。Veda の文法的研究への刺激は Bopp の学派から出ている。神学から来た Roth は、文法の専門的研究を直接に促したわけではない。彼の文法的仕事は本文の外的形態に関わり、文献学的な性質のものであって、言語比較的なものではない。そして彼の研究はより多く讃歌の実質的内容、とりわけ神話的・宗教的内容に向けられていた。Max Müller もまた、比較言語学について好んで書いたとはいえ、本来の Veda 文法家ではなかった。彼はその著作のうち広い読者層に向けられた部分において、詩的高揚をもって同じく Ṛgveda の神話的内容を通用させた。Roth が神々の姿をまずは描き出そうとしたのに対し、Max Müller は讃歌を一般的な学問的目的のために活用することにおいてさらに進んだ。すなわち彼は Veda の神々を解釈し、それらを親縁の諸民族の神々と比較しようとした。かくして彼は比較神話学の創始者の一人となった。比較神話学は当時、比較言語学と並んで、またそれから生育したのであり、語源学がその際大きな役割を演じた。M. Müller の書物は大部分が英語とドイツ語で刊行されたので、彼はドイツにおいても力強い刺激を与えた。しかし——

——ギリシアおよびゲルマンの神話の知識においても、また比較の学問的遂行においても、Adalbert Kuhn が彼に優っていた。サンスクリット文献学にとっては、テキストの刊行、その文学における位置づけ、およびその解釈が第一の位置を占める。

Rudolf Roth は1821年 Stuttgart に生まれ、1895年 Tübingen の教授として没した。彼は Tübingen の神学寮で神学を学ぶ学生であったが、Ewald によってサンスクリットへと獲得された。この敬愛する師に対し、彼は Nirukta の序文(1847年)でとりわけ温かい感謝を捧げている。Ewald は Göttingen の教授職を失った後、Tübingen に身の置き所を見出し、まずは哲学部の東洋学者としてであった。東洋が多くの言語とさまざまな文化を包括するように、旧いタイプの東洋学者もまたそうであった。Ewald のサンスクリットの領域における小さな仕事は Lassen の雑誌に現れている。上記第I巻157頁、第II巻2頁参照。ペルシア語にも Roth はまず Ewald によって導き入れられた。ヴュルテンベルクの宣教師 Häberlin によって Tübingen にもたらされた小さなサンスクリット写本コレクションが、さらなる刺激を与えた。彼はその後、彼以前に他のドイツの学者たちもサンスクリットへより深く分け入るために歩んだのと同じ道を進み、1843年 Paris へ、そこから London および Oxford へ赴いた。Paris で彼は、二年後の Max Müller と同様、Burnouf の弟子となった。Burnouf と同じく彼はサンスクリット研究と Zendavesta の研究とを結合したが、この組み合わせはその後さらに Roth の弟子 Haug、Geldner、Lindner によって継承された。Paris、London、Oxford の図書館で、彼は自らの著作のための写本資料を収集した。イギリスではとりわけ Wilson が彼の研究を助けた。この人物に彼は著作「Veda の文献と歴史について」を献呈している。Calcutta の Bishop College の元校長 W. H. Mill 博士——碑文解読の際に知り合った人物である(上記第I巻104頁参照)——に対しても、彼は Nirukta の序論において、重要な写本を譲られたことへの感謝の負い目を認めている。Roth の教育活動によって、Tübingen は19世紀後半において Veda 研究および宗教学研究の中心地となった。Roth の生涯と人となりについては、その弟子にして後継者たる R. Garbe が Allgemeine Deutsche Biographie でより詳しく論じている。ここにはまた、Garbe がすでに Bezzenberger の「Beiträge zur Kunde der Indogermanischen Sprachen」第XXII巻147頁以下および第XXIV巻323頁以下で与えていた Roth の著作目録への若干の補完も見出され、末尾には Roth についての講演と記事の一覧がある。そこからは、彼が同時代の学問的生活においていかに傑出した地位を占めていたかが明らかとなる。また、その博士号取得記念祝賀「R. v. Roth への祝辞」(Stuttgart 1893年)に参加した多数の重要な学者たちも、そのことを証している。あのドイツの三頭政治 Roth、Böhtlingk、Weber のうち、Roth が最も重要な人格であった。インドの説話作品についてまず詳しい知識をもたらした処女作「Extrait du Vikrama Charitram」(Journal Asiatique 1845年、278–305頁。上記第I巻175頁参照)に続いて、Roth はイギリスから帰国して間もなく、まだ25歳にもならぬ頃、小著「Veda の文献と歴史について」(Stuttgart 1846年)を刊行した。Schleicher はこれを、上記第I巻158頁で言及した書評において画期をなすものと評した。それは英語およびフランス語に訳された。そこに書かれていることの最も重要な部分は、今日では学問の共有財産であるが、当時 Veda については Colebrooke の Essay と Rosen による Ṛgveda 第1 Aṣṭaka の校訂本があるのみであった。Stevenson の Sāmaveda 校訂本を——

——Roth は、本文も翻訳も不正確すぎるという理由で認めようとしなかった(2頁)。1848年になってようやく現れた Benfey の校訂本を Roth は非常に高く評価した。Roth が Veda についての紹介を写本から汲み出したという事実は、その書物をなおいっそう一つの偉業として際立たせる。ここに綱領的に一つの全体としてまとめられた三論考のうち最初のものは、1845年ダルムシュタットの文献学者会議における講演から生まれたもので、「讃歌集成」という表題をもつ。その冒頭には「著者が以下に言及する主要な書物を知るための拠りどころとした」写本の一覧が置かれている。ここにわれわれは、四つの Saṃhitā とその Anukramaṇī、および Sāyaṇa の Ṛgveda 注釈、Ṣaḍguruśiṣya の Ṛgveda の Anukramaṇī への注釈のみならず、注釈付きの Aitareyabrāhmaṇa、Āśvalāyana の Śrauta- および Gṛhyasūtra、Devarāja と Durga の注釈を伴う Naighaṇṭuka と Nirukta、Śikṣā と Chandas をも見出す。Roth は決して最初から現地の注釈の研究を余計なものと見なしていたのではない。「Sāyaṇa の注釈は」と彼は当時24頁で述べている、「われわれにとって常に Veda 解釈のための最も主要な源泉であり、また文献史一般にとっての宝庫であり続けるであろう」。そして Sāyaṇa の評価を締めくくって、「Ṛgveda の Saṃhitā とその冗長な注釈者の完全な公刊」ほど切に望まれるものはない、と述べている。Wilson の指導のもと、彼は「London の Trithen 博士および Genf の Rieu 博士と並んで」この仕事に加わろうとしていた(25頁)。M. Müller については当時、すなわち1846年にはまだ問題になりえなかった。Roth は四つの Veda の Saṃhitā とその相互関係を記述している。彼は最初に Ṛgveda の10 Maṇḍala への区分を(26頁以下)、また Prātiśākhya の意義を(14頁以下)通用させた。ただし、Padapāṭha が Prātiśākhya にとってもつ根本的意義については、まだ十分に把握していなかったかもしれない(上記250頁参照)。彼はこの名の三つの著作を発見していた(14頁)。すなわち Śaunaka の Ṛgveda に対するもの——「三つのうち最も重要」——、Kātyāyana の Vājasaneya-Saṃhitā に対するもの、そして Taittirīya-Saṃhitā に対するものである。この文学類型の Berlin 所蔵写本は、彼は閲覧していなかった。学校における Veda の読誦に関する箇所は、36頁で Paris 写本と London 写本から紹介している。年代論に関して言えば、すでに Roth が Śākalya、Yāska、Pāṇini という順序を立てている。Prātiśākhya は Nirukta より古く(16頁)、Nirukta は Pāṇini より古い(20頁)。Pāṇini に慣例的な紀元前350年を想定することにより、彼は Nirukta を紀元前400年頃、Prātiśākhya 群を紀元前5世紀とする(16頁)。Veda 文献の集成はそれゆえ紀元前7世紀より後には置けない。讃歌の成立とその集成とを隔てる推定的な期間については、この問題は決して確実には答えられないであろうが、しかし本文の内的特徴、および Sāma と Vājasaneyi との比較から、Veda の現在の形態に対して集成者がもつ関与の度合いが明らかになるであろう、とする(19頁)。Veda に関わる諸問題は「その高い年代のゆえに注目すべき文法」と密接に関連する(19頁)。Brāhmaṇa 群はすでに Yāska の時代に存在していた(21頁)。仏教は Brāhmaṇa 群と祭儀の形成を前提としており、祭祀と儀礼の建物全体はすでに仏陀の時代たる紀元前6ないし5世紀以前に建てられていた(23頁)。補説において——

——(46頁)彼は、London および Oxford の写本で目にした Śrauta- および Gṛhyasūtra を挙げている。彼は Mahābhārata がその基本的構成部分においてすら仏教以前の時代にまで遡るとは考えず、Rāmāyaṇa についてもこれを疑っている。Agni、Indra、Mitra、Varuṇa の宗教に代わって、叙事詩では Viṣṇu と Brahmā の宗教が現れ始めるが、それと並んで、注目すべき乖離をもって、Veda の祭祀が今日に至るまで存続している(47頁)。Roth は Śaunaka の Bṛhaddevatā と、Ṛgveda の個々の讃歌に属する伝説について知っており、それらを Anukramaṇikā と Sāyaṇa の注釈から知っていた。彼はまた Brāhmaṇa 群に含まれる伝説をも知っており、Veda 文献と叙事詩との間にここに存する関連を最初に指摘し、それを Aitareyabrāhmaṇa の Śunaḥśepa の物語——これは Rāmāyaṇa で叙事詩的に扱われている——において例示した。この物語の古い形を彼は後に Weber の Indische Studien 第I巻457頁以下、第II巻112頁以下で翻訳した。Roth がわずかな頁数のうちに、その簡潔なやり方で、弁証法も論争もなしに自らの研究の成果を伝えたことによって、彼は同時に Veda の領域における今後の研究全体のための綱領を立てたのである。13年後に M. Müller はその History of Ancient Sanskrit Literature において、同じ対象について、より多弁に、より詳細に論じた。

第二論考「最古の Veda 文法、すなわち Prātiśākhya-Sūtra」(53頁以下)は、まもなく Regnier と M. Müller の校訂本によって乗り越えられたが、Roth が最初に、写本からその内容の実例を与えたのであり、そのために彼は Anusvāra の教説を選んだ(68頁以下)。彼は Madhusūdana Sarasvatī の Prasthānabheda——これはすでに Colebrooke が用いたインド文献の百科事典で、Weber はその本文と翻訳をもって1850年に Indische Studien 第I巻を開始した——の定義から出発し、それに連なって śākhā, caraṇa, pārṣada という語を論じている。あまり注目されなかったのは、彼の所見(56頁)、すなわち Sāyaṇa の Ṛgveda 注釈で Prātiśākhya が引用されている箇所は一つしか知られていない、というものである。いずれにせよ、Sāyaṇa が通常は Padapāṭha にも Prātiśākhya にも、またアクセントにも韻律の要求にも顧慮を払わないことは事実である。

第三論考「Ṛgveda における歴史的なもの。Vasiṣṭha の Viśvāmitra との戦い」(87頁以下)において Roth は、Ṛgveda の歴史的活用と讃歌についての彼の理解の最初の実例を与えた。Sāyaṇa の注釈を利用しつつも、それに批判を加えている。Roth が写本から仕事をしたことを考えれば、彼が直ちに歴史的に最も重要なもの、すなわち王 Sudās、十王戦争、Vasiṣṭha 家と Viśvāmitra、Tṛtsu と Bharata、さらに舞台としてのパンジャーブ、Vipāś と Śutudrī の合流、Paruṣṇī を見出したことは、驚嘆に値する。ここで彼が扱った箇所は VII 33, 1–6、VII 18, 5–25、III 33, 1–13、III 53, 9–13, 21–24、VII 83, 1–7 である。本文の誤りは散発的にしか見られない。たとえば VII 33, 1 で dūrād の代わりに dvārād とするなど。すでに8頁で彼は、Ṛgveda が専ら宗教的な歌のみを含むのではないことを指摘し、賭博者の歌、蛙の讃歌に、さらに多くの讃歌の対話形式にも初めて注意を促していた。Atharvaveda の特徴的内容の例として、彼は37頁以下で、とりわけ takman と呼ばれる病への讃歌を挙げている。Roth の示唆はさらに Virgil——

——Grohmann の論考「Atharva-Veda における医学的事項、とくに Takman に関して」(Weber の Indische Studien 第IX巻381頁以下、1865年)において作用し続けた。

今日に至るまで Veda 研究の重要な補助手段であり続けているのが、第二の主著「Yāska の Nirukta、Nighaṇṭava とともに Rudolph Roth 刊行・注解」(Göttingen 1852年)である。本文と序論「Nirukta および関連文献について、インドのアクセントの要素に関する一論考を付す」を含む第一部はすでに1847年に刊行されていた。本文は Paris および London の写本により、Berlin 写本の照合は Weber が仲介した。Göttingen での印刷に際しては Benfey が援助した。基礎をなすのは Yāska より古い語彙集で、五つの Adhyāya に分かれている。Nighaṇṭu、Naighaṇṭuka という呼称は本来、最初の三つの Adhyāya にのみ属する。それは古い解釈者たちの見解によれば Ṛgveda に現れる、69の名詞的・動詞的概念に対する同義語の集成である。それは同時に、同じ構成をもつサンスクリットの kośa の最初の例でもある。ただし後者は生きた言語用法の知識に基づいている点が異なる。Naighaṇṭuka の記載が常に等しく確実であるとは限らないことは、水を表す語のうちに挙げられている ṛta という一語だけでも明らかである。この ṛta の意味は、Yāska が Nirukta でそれを例証している当の箇所についてすら今日ほとんど認められておらず、まして Sāyaṇa がそれを想定する多数の箇所においてはなおさらである。第4 Adhyāya は Naigamakāṇḍa という特別の名をもち、さまざまな意味をもつ、あるいはその形成が理解しにくい278の語の一覧からなる。ここにわれわれは、今日の解釈者もその意味を確実に確定しえない語こそが、すでに古い解釈者たちにも困難と映っていたことを見る。この集成に対応するのは、サンスクリットの kośa のうちでは Hemacandra の Anekārthasaṃgraha のような著作である。第5 Adhyāya すなわち Daivatakāṇḍa は、Veda の詩節において主要な事柄をなす神格の名を含む。これら三種の異なる語彙集については、Pischel の Ludwig の Mantraliteratur への書評(Göttingische gelehrte Anzeigen 1879年、572頁)を参照。Yāska の Nirukta は、古来これらの語に属してきたもの、すなわち Veda の一箇所とその説明、とりわけ困難な語の語源的説明の固定化である。Naighaṇṭuka の語のうち、このように扱われているのは一部にすぎない。四つの品詞(nāman, ākhyāta, upasarga, nipāta)についての Yāska の Nirukta 序論は、文法史にとっても重要である。Yāska は文法家 Śākaṭāyana の説、すなわち名詞は動詞に由来するという説に従い、Gārgya は「すべてではない」と述べた。Yāska が立てる困難な語の語源的解釈は、訓練された言語研究者には受け入れがたい。一例は冒頭に直ちに現れる語 nighaṇṭavaḥ であり、彼はこれを nigantavaḥnigamanāt)と解している。Roth の説明「組み合わされ、互いに並べられた語」もまた難点がなくはなく、Nirukta 自体で naighaṇṭuka が用いられている意味とは合致しない(XII 頁)。その「注解」によって Roth は、Veda 文献学のこれら尊敬すべき記念碑を、より容易に理解しうるものとし、その「アルファベット順語彙一覧」によってより近づきやすいものとした。序論——これは第二部末尾219頁以下の後書きによって補完される——において Roth は、写本、さまざまな異本について、しかしとりわけ、彼が最初の書物の後にもなお特別に述べるべきことをもっていたいくつかの対象について論じている。——

——Yāska は I 20 で Vedāṅgāni に言及するが、そこでは現在そう呼ばれている書物ではなく、Veda 補助学のより古い形態を理解していた(XX 頁)。Nirukta X 5 に連なって、Roth は最初に Kāṭhaka と Maitrāyaṇīyā Śākhā に注意を促し(XXII 頁)、これらは後にその弟子 L. v. Schroeder によって刊行された。彼はまた最初に Brāhmaṇa 群の性格づけを与えた(XXIV 頁)。彼はそれをバラモンの教義学と呼び、実践的目的に奉仕する、Kalpasūtra に存する祭儀の Vedāṅga から鋭く区別している。Brāhmaṇa を彼は中性名詞 bráhman からの派生語と解する。すなわち「行為における聖なるもの」が Brāhmaṇa の対象なのであって、行為そのものではない。Roth はとりわけ Aitareyabrāhmaṇa に依拠していた。もし彼に Śatapathabrāhmaṇa も利用可能であったなら、そして Veda の相違が祭式に従事する主要祭官の相違に基づくことをより多く顧慮していたなら、おそらくあの区別をこれほど鋭くは引かなかったであろう。Kalpa の個々の書が Brāhmaṇa に基づくこと、たとえば Āśvalāyana の Kalpasūtra が Aitareyabrāhmaṇa に基づくことは、彼もよく見ていた。他方、Brāhmaṇa 群における多くのことが Mīmāṃsā を想起させるという点は、彼に認めてよい。ここで彼は初めて実例として、そうした Brāhmaṇa の一つから一節を自由な形で再現した。すなわち獣犠についての節であり、Āprī 詩節の本文を添えている。Prātiśākhya の Berlin 写本から、彼は今やこの種の著作の本質を以前より正確に規定しえた。Prātiśākhya とは個々の śākhā すなわち Veda の Saṃhitā の初等文法である(XLII 頁以下)。彼は Ṛgveda の詩節をここ Nirukta において初めてアクセント付きで示したので、序論にインドのアクセントの要素についての Prātiśākhya に基づく付録を添えることは自然であった。Roth から出た示唆は、多くの人にとって決定的な形で作用し続けた。おのずと想起されるのは、Roth の弟子 Haug が Aitareyabrāhmaṇa を刊行・翻訳し、論考「Brahma とバラモン」および「Veda のアクセントの本質と価値について」を書いたことである。

次いで Roth は W. D. Whitney と共同で「Atharva Veda Saṃhitā」を刊行した(Berlin 1856年)。第1巻は本文を含む。序論、解説的・批判的注記、Padapāṭha・Prātiśākhya・Anukramaṇī および Kauśikasūtra からの典拠、ならびに Atharvaveda の他の Veda Saṃhitā との対照表をもたらすはずであった第二部は、そのままの形では刊行されなかった。作業の進行についての報告を Whitney は1875年に Journal of the American Oriental Society 第X巻 Proceedings CXVIII 頁以下に与えている。そこからドイツ語訳が意図されていたことがわかる。Prātiśākhya は1862年に Whitney によって同誌第VII巻に、ただ一つの写本に基づいて刊行された(さらに1872年、Whitney「Collation of a second Manuscript of the Atharva-Veda Prātiçākhya」同誌第X巻156–171頁)。Kauśikasūtra は Bloomfield が、同じく Atharvaveda の祭儀に属する Vaitānasūtra は Garbe が刊行し、対照表は Whitney が Weber の Indische Studien 第II巻に、詩節冒頭句のアルファベット順一覧も Whitney が同誌第IV巻に発表した。「Index Verborum to the published text of the Atharva-Veda」を Whitney は1881年に同誌第XII巻に発表した。Roth と Whitney が Atharvaveda に捧げた研究の締めくくりをもたらしたのは、ようやく二巻の豪華本「Atharva-Veda Saṃhitā, Translated, with a Critical and Exegetical Com——

——mentary by William Dwight Whitney, Revised and brought nearer to completion and edited by Charles Rockwell Lanman」(Cambridge、マサチューセッツ、1905年、Harvard Oriental Series)であった。Atharvaveda に関する著作についての Lanman の Introduction における正確な報告から、Whitney がすでに本文の刊行についても圧倒的に大部分の仕事を行っていたことが明らかとなる。当初の分担計画では、Roth が第2部の主要な仕事を引き受けるはずであった。彼は Petersburg 辞典への協力によってそれを妨げられたのである。しかし彼の遺稿の中から、ほぼ印刷可能な Atharvaveda の完訳が見出され、Tübingen 図書館に保管されている。Garbe が伝えるところによれば、それは Whitney の手元にあり、その英訳のために用いられたという。Berlin で刊行された本文校訂本によって Roth がドイツにおける Atharvaveda 研究に与えた刺激は別としても、彼は Whitney および Lanman の著作に、Kaschmir における Paippalāda-śākhā の発見によっても関与している。この地方に対しては、文献学者の注意は当初から Rājataraṅgiṇī によって向けられていた。Roth はここで、Bühler、M. A. Stein、Hertel のように、この地からインド文献学および古代学に重要な材料をもたらした人々の先頭に立っている。Atharvaveda の本文はきわめて劣悪な形で伝承されている。Roth は新しい写本、その中には Poona からの Padapāṭha の写本も入手したが、それらも多数の破損箇所において、すでに用いていたものと一致していた。Karl v. Hügel 男爵の旅行記「Kaschmir とシク教徒の王国」第II巻364頁における、Kaschmir のバラモンはすべて Atharvaveda に属するという記述に促されて、Roth はすでに1856年の Atharvaveda に関する大学報告論文において、あるいは Kaschmir にこの Veda のより良い異本が保存されているのではないかという推測を述べていた。J. Muir の仲介によって彼は Kaschmir のマハーラージャから、まずきわめて誤りの多い写しを、次いでその原本、すなわち Śāradā 文字で樺皮に書かれた写本を得た。これは Tübingen 図書館に保管されている。Roth はこれらすべてについて、その論考「Kaschmir における Atharvaveda」(Tübingen 1876年)で報告している。

巨匠たちによって始められた共同の仕事は、その弟子たちによって継続された。M. Bloomfield と R. Garbe が「The Kashmirian Atharva-Veda (school of the Paippalādas), reproduced (in 544 plates) by chromophotography from the manuscript in the University Library at Tübingen」全3巻(Stuttgart 1901年)を刊行したのである。きわめて蓋然的、いや確実とさえ思われる結果として、Roth と Whitney が刊行した本文、いわゆる Vulgata は Śaunaka の異本であることが明らかとなった。それと一致する Prātiśākhya が Śaunaka に帰せられているからである。そして新しい本文は Paippalāda の異本であり、前者は南インドに、後者は Kaschmir に保存されたのである。Pippalāda は Atharvaveda に属する Praśnopaniṣad の Ṛṣi である。Vulgata では Atharvaveda は ye triṣaptāḥ pariyanti の語で始まる。Kaschmir の写本では最初の葉が失われている。それゆえ、それがここで śaṃ no devīr abhiṣṭaye(Vulgata I 6, 1)で始まっていたことの pratyakṣa の証明は欠けている。この句は Mahābhāṣya の冒頭数行で Atharvaveda の始まりとされているものである。両異本とも20の Kāṇḍa に分かれるが、讃歌のそれへの配分は大きく異なる。Garbe の Vaitānasūtra への索引から、Atharvaveda の祭儀で用いられる詩節の大部分が第20巻にあり、しかも主として同じ配列であることが明らかとなった。——

——さらに多くが第6巻および第7巻にある(Windisch、Literarisches Centralblatt 1879年10月4日参照)。しかし Atharvaveda の主要部分、すなわち呪文と祈禱については、Kauśikasūtra がその用法を教えている。この重要な著作については、近年 W. Caland がその校訂本に対する批判的所見を発表した。Bloomfield が1890年にこれを刊行する以前に、Shankar Pandurang Pandit は Sāyaṇa による Atharvaveda 注釈を発見した。「Discovery of Sāyaṇa's Commentary on the Atharva-Veda」(Academy 1880年6月5日、423頁)である。彼は後にこれを政府の費用で刊行した。「A. V. with the Commentary of Sāyaṇācārya」全4巻(Bombay 1895–1898年)である。Sāyaṇa の注釈は Kauśikasūtra と同じく Śaunakī に関わる。Lanman-Whitney の翻訳以前に Atharvaveda から翻訳されていたものについては、Aufrecht、Weber、Grill、Ludwig、Florenz、V. Henry、Bloomfield、Griffith のものが Lanman によって言及されている。サンスクリットにおける Roth の弟子 J. Grill は「Atharva Veda の百の歌」を訳し、まず Maulbronn 福音主義神学校学校報告 1879年に、第2版は Stuttgart 1889年に出した。より大きな選集を Bloomfield が Sacred Books of the East 第XLII巻(1897年)に与えた。Ralph T. H. Griffith は完訳を Pandit の補遺として刊行した。「The Hymns of the Atharva-Veda」全2巻(Benares 1895年および1896年)である。Bloomfield はその序文を次の言葉で結んでいる。「Paippalāda も Sāyaṇa も、この仕事の困難と責任を目立って軽減してはくれない」。彼は本インド・アーリヤ綱要において Atharva-Veda を扱った(Straßburg 1899年)。それ以来アメリカの学者たちが Paippalāda 本文の個々の巻の校訂に着手している。LeRoy Carr Barret「The Kashmirian Atharva Veda, Book one」(Journal of the American Oriental Society 第XXVI巻、1906年)以下である。Atharvaveda が Ṛgveda に対してより新しい性格をもつことを、言語から得られた明確な理由によって初めて証明したのは、おそらく Roth であり、その Atharvaveda に関する論考(Tübingen 1856年)においてである。この論証を Muir はその「Original Sanskrit Texts」第II巻² 446頁以下に採り入れた。それは Kern がその論考「Indische Theorieën over de Standenverdeeling」において、Atharvaveda のより新しい性格の証明を欠いていると指摘した後のことである。

しかし研究に対して最大の影響を Roth が及ぼしたのは、Petersburg 辞典における Ṛgveda の辞書的処理によってである。これについてはすでに上記243頁、244頁で触れざるをえなかった。Böhtlingk-Roth はわれわれには、Indrā-Varuṇau などの Veda の双数複合語(dvandva)の一つのように見える! 辞典は、翻訳よりもはるかに他者の独立の研究に資する。Roth が辞典の仕事を始めたとき、Ṛgveda の完全な校訂本はまだ存在しなかった。辞典の最初の三巻は1855年、1858年、1861年に刊行されたが、M. Müller の Sāyaṇa 注釈付き大校訂本の第1巻はたしかに1849年に出ていたものの、第6巻はようやく1874年であり、その間に Aufrecht の本文校訂本が1861–1863年に出た。したがって Roth は当初、主として自らの写しに頼らざるをえなかった。こうした状況は、とりわけ Sāyaṇa の活用にとっては好都合ではなかった。しかし全体として、Roth が Sāyaṇa に従わなかったがゆえに誤ったという箇所は、それほど多くはないであろう。Roth は Ṛgveda において、あらゆるテキストはまずそれ自体から、その固有の言語用法から理解されねばならない、という偉大な文献学的原則を通用させた。そのためには、ある語が現れる箇所の集成と、類似の内容をもつ箇所への参照が必要である。Aśoka 碑文および古代ペルシア楔形文字碑文は、注釈なしにヨーロッパの学者によって解読され——

——理解された。Böhtlingk が Pāṇini をまずそれ自体から理解しようとしたように、Roth は Ṛgveda をそうしようとした。Roth はわれわれを Veda の理解において自立させ、Sāyaṇa の解釈に対して判断力をもちうるようにした。Ṛgveda には平易な詩節も多く、Roth もしばしば Sāyaṇa と一致したが、文法や言語用法や蓋然性が Sāyaṇa に反する場合には、Roth は彼から離れることを憚らなかった。Roth に対する Goldstücker の嘲弄(Pāṇini 247頁、上記252頁参照)も、Ṛgveda の正しい理解の道を開いた Roth の功績への評価を損なうことはできない。しかし Sāyaṇa は Roth の仕事によって片づけられたわけではない。Roth も常に正しいところを突いたわけではない。Ṛgveda を理解しようとする者は誰でも、とりわけ困難な箇所においては、繰り返し新たに Sāyaṇa から出発せねばならない。

Sāyaṇa は詩節の祭儀的用法を良心的に記録している。歌が最初に成立したとき、後代の祭儀はまだ形成されていなかった。祭儀への使用によっていかに意味の転釈が生じえたかは、たとえば Taittirīya-Saṃhitā III 4, 11, 6 における kitavāsaḥ の Sāyaṇa の説明が例示している。そこでは Ṛgveda V 85, 8 が祭儀で用いられている。しかし讃歌の大部分は初めから祭祀のために定められていた。Roth が讃歌の祭祀的性格に常に十分な考慮を払わなかったということはありうる。しかし古い祭祀はより単純なものであっただろう。まだ由来を異にする個々の詩節を長い連禱にまとめることはしておらず、Ṛgveda にあるままの讃歌全体が祭祀のために定められていたのである。Sāyaṇa はさらに、いくつかの讃歌が関わる伝説を挙げているが、それはもちろん、われわれになお今日直接に利用可能な同じ源泉、すなわち Bṛhaddevatā と Anukramaṇī からである。ここで問題が生じる。これらの伝説は独立の伝統に基づくのか、それとも後代になって初めて Ṛgveda の本文から抽出されたものなのか。時には後者と思われることもあるが、たとえば河川への讃歌 III 33 についての記述は、讃歌の本文から得られる以上のいくつかの要素を含んでいる。Sāyaṇa における多くの誤解は、歴史的感覚の欠如に基づく。すなわち彼は語に対して、それが後代のサンスクリットで用いられたのと同じ意味を、無造作に Veda 時代についても与えるのである。同様の時代錯誤は、彼が asura について後代の悪魔的意味しか知らず、Varuṇa、Indra その他の神々がそう呼ばれている箇所では、選択肢を示しつつ回りくどい語源解釈に耽ることにも見られる。Wilson の翻訳では Ṛgv. I 54, 3 に二つの解釈が並べて採り入れられている。「雨を与える者、敵を撃退する者」である。Nirukta——Sāyaṇa は常にこれに従う——についても、また Sāyaṇa の注釈についても、包括的な分析と批判はいまだに欠けている。

牡山羊と刀の寓話についての論文の冒頭で、Roth は自らを「インドの事柄においても、理解しうるもの・自然なものを愛好する者」と称している(ドイツ東洋学会誌 第XLIV巻371頁)。Roth の強みは、並外れた学識をもって自説を弁護しうる点にあったのではなく、正しいもの・蓋然的なものに対する天才的な眼識にあった。その明晰な頭脳は至るところで明晰な像を要求し、その断固たる性格はあらゆる困難と決着をつけることを要求した。これと関連するのが、Roth の理想が詩的で明晰な翻訳であった点であり、その点で M. Müller とは対照的である。M. Müller はより多く——

——正確に解説する注釈に価値を置いた。Benfey はかつて、Roth は Veda の歌からシュヴァーベンの民謡を作る、と言ったと伝えられる。この冗談には、Roth が時として、確実には得られないところでも明晰な像を描き出したという限りで、いくらかの真実がある。その一例が Ṛgv. IV 27「Soma を運ぶ鷲」の翻訳(ドイツ東洋学会誌 第XXXVI巻353頁以下)であり、『七十の歌』序文 VII 頁を参照。Roth は常に、特別に実質的関心を惹く讃歌のみを選んだ。彼自身が訳したものの数はさほど多くないが、彼と同じ流儀のものが「Karl Geldner および Adolf Kaegi 訳 Ṛgveda の七十の歌」(Tübingen 1875年)である。彼はこの小さな書物に序文と六つの讃歌をもって関与しており、そのうち二つ(I 165 および II 38)はすでにドイツ東洋学会誌 第XXIV巻 (1870) 301頁以下に、その翻訳法の見本として発表していた。Roth の場合、他の学者以上に、彼自身が行ったことのみならず、弟子たちを通じて遂行されたことも問題となる。大学教師としてのその全盛期は19世紀70年代にあたり、その時期に K. Geldner(1852年生)、R. Garbe(1857年生)、B. Lindner(1853年生)、H. Zimmer(1851年生)、そしてスイス人 A. Kaegi(1849年生)が Roth を目当てに Tübingen を訪れた。

Roth は多弁な論述を好まず、多くの重要な事柄についてわずか数頁の小さな仕事で論じた。それらについては Garbe の Roth 著作目録が概観を与えている。われわれはそこに彼の宗教史的・文化史的方向を認める。三つの論考「宗教史のために」I. Brahma 宗教、II. 仏陀宗教、III. Ormuzd 宗教は、すでに1846年、1847年、1849年に、自由主義神学者 F. Chr. Baur と E. Zeller が刊行した「Theologische Jahrbücher」に現れた。第一は第V巻346–363頁、第二は第VI巻175–190頁、第三は第VIII巻281–297頁である。Varuṇa について彼は第V巻354頁でこう述べている。「しかしこれは、私の考えるところ、最も外なる天空、天の背景であり、Indra が属する輝く天空エーテルの彼方、太陽と星辰の彼方、いわば万有の測りがたい限界である。彼はその名の示すとおり、包み囲む者である」。Aśvin は彼にとって「曙光に先立つ天空の明るい帯」である(351頁、361頁参照)。これに1852年、Lassen、Muir その他がしばしば引用する論考「アーリヤ諸民族の最高神」(ドイツ東洋学会誌 第VI巻67–77頁)が加わった。彼はここで光の世界の神々、すなわち Āditya 群について論じ、ここでもとりわけ Varuṇa に立ち入っている。今日なお、これら四つの論考が一つにまとめられ、新たな印刷によってより近づきやすくされることが望ましいと思われる。というのも、それらはインド人およびペルシア人の宗教についての新しい研究の出発点に立ち、その種のものとして古典的だからである。これらの領域において彼は、大学における宗教史の講義によってさらに大きな作用を及ぼした。その影響を Lindner はその「歴史的基礎に立つ一般宗教学綱要」(Zöckler の神学諸学ハンドブック第III巻、第3版582頁への寄稿として刊行)において強調している。しかし Roth の弟子たちの著作は、M. Müller、Aufrecht、Weber による Veda のテキスト校訂と、そこから出る刺激をも前提としている。

Roth を離れる前に、なお彼が最初に立場を表明したいくつかの重要な問題に触れておかねばならない。Vedische——

——Studien I.「Pada と Saṃhitā について」(Kuhn の Zeitschrift 第XXVI巻45頁以下、1883年)において、彼は Bollensen の「Orient und Occident」第II巻457頁以下(1864年)の論述に連なって、Padapāṭha の「規範的価値」という教条を批判している。同じ箇所で彼は、讃歌の集成が書かれたものであったこと、しかもすでに個々の Maṇḍala のそれがそうであったことをきわめて蓋然的にしている。これは Benfey とは対照的である。Benfey はその Saṃhitā 本文についての論考(上記232頁参照)において、集成は最初の統合の後もなお長期間もっぱら記憶からのみ誦せられ、比較的遅くなってようやく文字に固定された、という見解を主張していた。Roth は讃歌を一大 corpus へと集成すること、すなわち文字による記録を、紀元前7世紀のことと考えた(56頁)。「まず Pāṭha と Prātiśākhya という解説的著作が、テキストの周りに格子のように立ち並んだ」後は、字句は大筋において不変にとどまった。Ṛgveda の誤りはより古い。Roth は、それらが集成者の活動によっていかにして生じたと考えるかを論じている。彼はドイツ東洋学会誌 第XLVIII巻101頁以下、676頁以下(1894年)で、記録の特徴と誤りについて、その論考「Veda における正書法」においてより詳しく立ち返っている。それは Benfey が Sāmaveda において「短縮された表記法」と呼んだものに連なるものである。1886年 Wien の国際東洋学者会議で彼が論じた、Veda における語末の短縮とは、triṣu rocanerocaneṣu の代わり)のような場合である。

Roth 自身は、たとえば Grassmann のように Ṛgveda を孤立させて考察したことはなかった。それどころか、Veda から、Veda の一箇所あるいは一語から出発して、その事柄をより広い出現範囲において、またその後の発展において追跡することは、まさに彼の学問的特質に属する。彼の小さな仕事の多くはその例であり、とりわけ輝かしい例、また彼の簡潔でありながらかくも明瞭な叙述の例でもあるのが、小論考「Veda における賠償金」(ドイツ東洋学会誌 第XLI巻672–674頁、1887年)である。Veda の語 śatadāya から出発して、彼は Brāhmaṇa の諸箇所から vaira すなわち「人命賠償」の語と概念を、まさにゲルマンの Wergeld を得、次いでその事柄を Dharmasūtra にまで追跡している。この論考に促されて、Bühler と v. Schroeder が「R. v. Roth への祝辞」(1893年)で同じ対象をさらに追究した。Roth が Soma 強奪の歌を訳した1880年代には、彼は繰り返し Soma 草について論じている。「Soma について」(ドイツ東洋学会誌 第XXXV巻680頁以下、1881年)、「Soma はどこに生えるか」(同 第XXXVIII巻134頁以下、1884年)である。その遺稿にもなお同じ対象についての未完の仕事が見出されたが、遺言の指示により廃棄せねばならなかった。彼の研究は確実な結論には至らなかったとはいえ、ここに彼のインド植物学への精通が示された。彼はそこからも辞典への寄稿を提供している。その典拠には Nighaṇṭu と呼ばれる著作群が属し、それらは植物・動物・食物・薬品の名の列挙を含む。そうした著作の一つが Madanavinoda で、Roth はこれについて Weber の Indische Studien 第XIV巻398頁以下、およびドイツ東洋学会誌 第XXXI巻159頁で書いている。彼の植物学的著作には、1895年の A. Weber 記念論文集への寄稿「Vibhīdaka の木について」も属する。その実は賽子として用いられた。この植物学的関心は、文化史的関心と並んで、より早い時期の論考「インド人における賽子遊びについて」(ドイツ東洋学会誌 第II巻)においても考慮に入れるべきであろう。Roth は決して Veda のみを研究したのではない。——

——医学の領域における彼の知識を証しているのは、Suśruta の著作からの辞典への寄稿、および論考「インド医学」(ドイツ東洋学会誌 第XXVI巻441頁以下、1872年)である。彼はここで、より古い Carakasaṃhitā についての最初の詳しい知識を Calcutta 版に基づいて与え、そこから二つの部分「いかにして医者となるか」および「藪医者」を翻訳した。この研究を彼はその前の巻645頁以下で、Ṛgv. X 97「医者の歌」の翻訳によっていわば開始していた。Roth はさらに他のインド医学の著作をも簡単に紹介しており、その中には1891年以降に現れた Avinash Chandra Kaviratna の Carakasaṃhitā 英訳もある(ZDMG 第XLVIII巻140頁)。ドイツの医師 Fr. Hessler による Suśruta のラテン語訳を彼は失敗作と評した。Roth 以前の時代には、ドイツでは Vullers と Stenzler が Suśruta についての小さな仕事を発表したのみで、それらは Gildemeister が記載している。本綱要においては Jolly がインド医学を叙述した。

§第 XXXVI 章 ADALBERT KUHN

大学教授たちと並んで、Ṛgveda の領域における最初の研究者に属したのが、Berlin の Köllnisches Gymnasium 校長 Adalbert Kuhn である。1812年 Königsberg に生まれ、1881年 Berlin に没した。サンスクリットにおいても比較言語学においても Bopp の弟子であった。その学位論文は有名な著作「De conjugatione in -μι linguae sanscritae ratione habita」(Berlin 1837年)である。しかし彼の比較研究は言語の形態的側面に限定されず、言語から、神話と説話から、インド・ゲルマン諸民族の神々と文化状況についての実質的な情報を得ようとした。かくして彼は神話学、文化史、民俗学の比較的処理において持続的な影響を及ぼした。彼はとりわけ古代インド語、ギリシア語、ドイツ語に依拠した。Ṛgveda においては、問題となる箇所の正確な翻訳によって、文献学的に信頼できる基礎を自ら作り上げた。Joh. Schmidt は故人に対し、Zeitschrift für Vergleichende Sprachforschung 第XXVI巻 (1881) V–VII 頁において、その全人格を共感的な仕方で顕彰する追悼文を捧げ、その際 Kuhn の最後の著作、神話形成の発展段階についてのもの(Berlin 学士院論集 1873年)をとくに強調している。Kuhn 生誕100年にあたり、Berlin の教授職における Joh. Schmidt の後継者 Wilhelm Schulze が内容豊かな論文「Adalbert Kuhn の記念に」を同誌第XLV巻 (1913) 375–380頁に書いた。彼は Kuhn を「編集者・書評者・共同研究者」として考察しつつ、とりわけ比較文法の領域における一連の「個別的発見」を挙げている(たとえば Veda 語 sahasrīya = ギリシア語 χίλιοι, χέλλιοι、ラテン語 erit = Veda 語 ásati)。これらは研究者としての彼に負うものである。同じくその生誕100年を機に、H. Hirt は彼をインド・ゲルマン古代学の創始者として Indogermanisches Jahrbuch 第II巻213–215頁で顕彰した。

Kuhn は Roth より10歳年長であったが、より大きな Veda 研究をもって現れたのは円熟期に入ってからである。Roth の著作「Veda の文献と歴史について」は1846年に、Kuhn の著作「——

——火と神酒の降来」は1859年に現れた。しかし Kuhn はすでにそれ以前に、他の仕事、とりわけドイツ神話学と伝説研究の領域で名を成していた ¹⁾。この領域では義兄弟の Schwartz と共同で研究した。その論考「Bṛhaddevatā について」(1850年 Weber の Indische Studien 第I巻101頁に発表)で、彼は Roth に連なっている。すでに上記247頁で述べたように、彼は1848年から1850年にかけて Berlin で Goldstücker および Weber とサンスクリットの読書会をもった。その最後の著作の一つにおいてもなお、Kuhn から持続的な影響を受けた Weber が、比較神話学の重要性を擁護している。1852年に、Kuhn が当初は Aufrecht と共同で刊行した「ドイツ語・ギリシア語・ラテン語領域の比較言語研究雑誌」すなわち「Kuhn の雑誌」の第1巻が現れた。彼は1858年、Schleicher と結んで創刊した「アーリヤ語・ケルト語・スラヴ語領域の比較言語研究への寄与」によってこれを補完した。この二つの雑誌によって、彼の名は永久に不朽のものとなった。「Beiträge」は1876年に第8巻をもって廃刊となったが、「インド・ゲルマン諸語領域の比較言語研究雑誌」は内容と表題を拡大して今日なお存続しており、1906年以降は Adalbert Bezzenberger の創刊した「Beiträge zur Kunde der indogermanischen Sprachen」と合併している。Adalbert Kuhn の後を継いだのはその息子 Ernst Kuhn である。共同編集者としては、表題にまず A. Leskien と J. Schmidt、次いで W. Schulze が現れ、Bezzenberger の傍らには以前 W. Prellwitz がいた。現在、この合併から生まれた雑誌は A. Bezzenberger、E. Kuhn、W. Schulze によって編集されている。

Kuhn が言語比較をインド・ゲルマン諸民族の原史のためにいかに用いたかを示すのが、最初の論考「インド・ゲルマン諸民族の最古の歴史のために」(1850年 Weber の Indische Studien 第I巻321–363頁に発表)である。そこで彼は共通の親族名称、家畜・穀物の共通の名称などを集成しており、常にサンスクリットと、当時利用可能であった「Veda の断片」から出発している。これらの研究は後に Pictet、Schrader、Hirt の著作によって拡大深化され、親族名称については Delbrück の有名な論考によってそうなった。しかしとりわけ Kuhn は比較言語学を神話学に奉仕させた。彼の特徴的な等式「Sarameyas と Hermeias」「Saraṇyū – Ἐρινύς」「Gandharva と Kentauros」——最後のものは音韻的にも実質的にも最も維持しがたい——のうち、第一のものは Haupt の Zeitschrift für Deutsches Alterthum 第VI巻117頁以下に、他の二つは1852年に現れた彼の Zeitschrift für Vergleichende Sprachforschung 第1巻439頁および513頁に見出される。同誌193頁には Τελχῖνες と Veda の Druh との対照もあるが、これはおそらく当時すでにあまり——

【注】 ¹⁾ Rosen および Nève に連なり、すでに1840年以降に現れた Veda 領域における最初の小さな仕事については、Gildemeister の Bibliotheca Sanskrita Specimen、および E. Kuhn による後述270頁で言及する父の著作概観186頁および189頁を参照。——E. Kuhn は校正の際にこれについてこう述べている。「最も早いものは1840年の Rosen の Specimen 中の韻律についての小論考であり、次に1844年の Rosen の第1 Aṣṭaka 校訂本についての重要な書評が続き、その後1846年に Hoefer の雑誌に数編の論文がある。Roth の Nirukta 校訂本に対しては、彼は Berlin 写本からの情報を提供した。Roth の序論 VI 頁以下参照」。

——説得的ではなかったであろう。第1 Aṣṭaka からの Veda の典拠箇所は、M. Müller の Ṛgveda 大校訂本の第1巻から、Sāyaṇa の注釈を利用しつつ採ることができたが、他の Aṣṭaka については Berlin 写本に頼らざるをえなかった。そうした写本を彼はすでに上述の論考において、Bṛhaddevatā の神話的 itihāsa のために援用していた。このテキストが完全な形で現れたのは、ようやく1892年の Bibliotheca Indica においてであり、次いで Macdonell が入念に校訂したものが1904年 Harvard Oriental Series に出た ¹⁾。銀河と冥界の犬の名についての論考(その雑誌第II巻311–318頁)で、彼は Veda の devayāna に言及し、また Weber による sārameyáu śvánau caturakṣáu śabálau(Ṛgv. X 14, 10)とギリシアの Kerberos との対照にも触れている ²⁾。曙光と運命の女神たちについての論考(その雑誌第III巻449頁)では、Uṣas から Brünhild へと飛躍しているが、Vedische Studien 第1巻の序論における Pischel よりも、Uṣas の崇高な本質に対して公正である。Kuhn が立てたより広い目標を示すのが、原理的に重要な論考「言語比較とインド・ゲルマン諸民族の原史」(その雑誌第IV巻 (1855) 81–124頁)である。Nève の著作に連なって、彼はここで103頁以下、讃歌に基づいて Ṛbhu 群を扱い、これを Lassen の先例に従ってギリシアの Orpheus と、さらに大胆にゲルマンの Elben とも比較している。その仕事のやり方の全体から見て、Adalbert Kuhn は比較神話学の文献学的創始者である。その立場は1859年、著作「火と神酒の降来」において古典的な表現を得た。ここで彼は冒頭の数頁で、さまざまなインド・ゲルマン諸民族のもとに古い神々の共有の痕跡をも証明しうると論じている。Max Müller が神話学をより多く宗教と結びつけたのに対し、Kuhn はそれをより多く説話と伝説の中に追跡した。控えめな体裁で現れるこの書物は、もう少し見通しがよければとも思われるが、その材料のゆえに、また神話の比較と解釈のゆえに、今日なお読むに値する。もっともその主要点の一つ、Προμηθεύς とサンスクリット manth との語源的対照はふたたび放棄されているのではあるが ³⁾。その内容には、インドの資料に基づく火切り棒による発火、Purūravas と Urvaśī の伝説、Cyavāna 伝説が属する。

Kuhn の簡潔で目的意識的なやり方とは異なり、いささか散漫に展開するのが、後の W. Sonne の「Rigveda I 50 に接続する言語的・神話的研究」であり、これは Zeitschrift für Vergleichende Sprachforschung の四巻(第XII巻から第XV巻)にわたって続く。しかしこれもまた、Ṛgveda によって言語的・神話的研究に与えられた刺激の一つの証しである。冒頭に置かれた、さほど困難ではない讃歌に現れる語と形から出発して、彼はそれらを比較的に扱い、Pott と同様に百から千へと話を広げていく。かくして Ṛgv. I 50, 10 の構文上の一困難が、彼に前置詞 pari および前置詞一般の本質についての特別研究の機会を与え、その中で彼は他の多数の Veda の箇所をも——

【注】 ¹⁾ Kuhn の資料は Macdonell の手元にあった。その序論 X 頁参照。

²⁾ この対照は Benfey「Vedica und Verwandtes」149頁以下が、また近年 Bloomfield が再び取り上げている。「Cerberus, the Dog of Hades」シカゴ 1905年、Orientalische Bibliographie 第XIX巻183頁参照。

³⁾ W. Roscher『ギリシア・ローマ神話詳解辞典』第III巻3033欄参照。

——論じている。Sonne はいずれにせよ、Sāyaṇa と Nirukta にも注意を払いつつ、Ṛgveda を理解をもって読んだ最初の人々に数えられる。その翻訳には、彼が音韻的に可能と見なしたものや、その神話解釈——たとえば Dioskuroi と Aśvin の解釈(第XV巻112頁)——ほどには異議は唱えられないであろう。Odysseus は Odyss. XII 431頁以下によれば、二本の縛り合わされた梁によって「大洪水から」救われた。「横木で結ばれた二本の平行な梁(δόκανα)は Dioskuroi の像であり、彼らは Bhujyu を大洪水から救うのである」。神話と名称についての多くの解釈は、比較神話学に対する不信を招いた。Weber は Aśvin のうちに Gemini 星座を見た(Vedische Studien 7、Berlin 学士院会議報告 1898年565頁以下)。しかし Nāsatya という彼らの名は「一つの鼻(双数)、島(νῆσος。地名としての Nase 岬を参照)のごとく、朝の空の大洋の中に立つ者たち」の意だとされる(Indische Streifen 第III巻39頁)。しかしわれわれは決して忘れてはならない、こうした疑わしい説明の傍らに、Dyauṣpitā : Ζεὺς πατήρ および Jupiter、Sūrya : Ἥλιος および Sol などの等式が立っていることを。Kuhn は1864年、その雑誌第XIII巻49頁で、Atharvaveda の詩節を比較のために援用したインドおよびゲルマンの祝福呪文についての論考の冒頭で、満足をもってこう述べることができた。「インド・ゲルマン諸民族が、言語とともに太古以来、決して少なからぬ数の神話的・宗教的観念、慣習と法の基礎をも共有していることは、今日ではもはや争われない事実と見なしてよいであろう」。神話学においても文法においてサンスクリットと Veda から出発するという古い方法は、たとえ神話と宗教的慣習には他の道からも接近しようと試みねばならないとしても、正当なものであったし、決して時代遅れではない。民衆的観念には、まさに Kuhn がすでに大きな成果をもって立ち入っていた。フェティシズムと祖先崇拝はあまり考慮に入れなかった。しかし彼の見解の多くが時代遅れとなった主たる理由は、やはり彼が当時の言語学とともに、ますます厳密に形成されていく音韻論の前に耐ええなかった語源と等式を可能と見なしたことにある。彼には正しい対照も多いが、ギリシア語 Προμηθεύς と μανθάνω はサンスクリットの語根 manth と結びつけることはできず、サンスクリット bhuraṇyú(これは jarbhurīti および πορφύρει に属する)は語根 bhṛ およびギリシア語 Φορωνεύς とは結びつかない(「火の降来」第2版18頁、27頁など)。今日のわれわれにとってとりわけ奇異に映るのは、彼がサンスクリット paṇi に「沼」という原意を想定し、これをサンスクリット paṅka「沼」に結びつけたことである(Haupt の Zeitschrift 第VI巻117頁)。Lassen はこれを信じた(Indische Alterthumskunde 第I巻²、894頁以下)。

Kuhn は言語比較をインド・ゲルマン諸民族の原史のためにも用いた。論考「インド・ゲルマン諸民族の最古の歴史のために」(上記266頁参照)においてである。こうした仕事から、一つの特別な比較の学問が生まれた。Genf の学者 Adolphe Pictet が「Paléontologie Linguistique」と呼んだものである。彼はこの種の最初の全体を包括する著作の著者である。「Les Origines Indo-Européennes ou les Aryas Primitifs, Essai de Paléontologie Linguistique」全2巻(Paris 1859年および1863年)、第2版全3巻(Paris 1877年)である。Pictet にはいずれにせよ、材料をあらゆる面から収集し整理した功績がある。Ārya の名から始めて、彼はその本来の居住地——

——彼はこれをバクトリアに求めた——について、気候的・地理的状況について、鉱物について、樹木と植物について、動物について、アーリヤ人の生活様式について、狩猟・漁労・牧畜・農耕について、手工業と道具について、戦争と武器について、住居・衣服・食物について、家族について、財産について、法と裁判について、祭・遊戯および特別な慣習、たとえば埋葬の際のそれについて、精神生活について、天文学的状況と時間区分について、古い伝承・迷信について、宗教・神々・元素について論じている。細部では多くが不十分であり、最初の端緒と見なされるべきものにすぎない。Pictet はサンスクリット文献をあまりに知らず、語源学においてもまだ厳密な立場に立っていなかった。Delbrück がインド・ゲルマンの親族名称についての単行論文で示したような徹底性をもって、Pictet の著作は書かれていない。A. de Gubernatis の古生物学的な仕事も同様の性格をもつが、サンスクリット文献の援用においては Pictet を超えている。より狭い意味でサンスクリット文献学に属するのは、Zimmer の「古代インドの生活」や、婚礼慣習についての Haas、埋葬慣習についての Caland などの単行論文のように、文献学的な仕方でサンスクリット文献に基礎を置く著作のみである。

Veda の歌がわれわれに伝えられている「正書法上の形態」が、「言語がすでに執筆当時とは本質的に異なった形になっていた」時代に由来することは、すでに Prātiśākhya が教えており、Benfey が Sāmaveda の詩節において示していた。A. Kuhn はこの事情を、その論考「Veda 韻律から得られる言語的成果」において Ṛgveda の大部分について精密に検討した。Beiträge zur Vergleichenden Sprachforschung 第III巻113–125頁および第IV巻179–216頁、1863年および1865年である。三音節の sūria は確かに sūrya より古体的であり、Indra に対する Indara は svarabhakti に基づくであろうが、理解しがたいのは marutaam, martaasaḥ, paanti のような「引き伸ばし」や、tredhā, deva に対する traidhā, daēva のような二重母音の「分解」である。この問題「二音節の価値をもつ母音」については、なお Oldenberg が「Prolegomena」163頁以下でより詳しく論じたが、本質的に Kuhn を超えることはなかった。近年、この現象全体は古いアクセント関係から説明されている。A. Bezzenberger、Göttingische gelehrte Anzeigen 1887年415頁、および H. Hirt、1891年の教授資格論文「インド・ゲルマン諸語における突出調と曲昇調について」(Indogermanische Forschungen 第I巻1頁以下、5頁参照)においてである。その際、リトアニア語の曲昇的アクセントが手がかりを与えている。この研究のゆえに Weber は、Indische Studien 第VIII巻におけるインド人の韻律についての二論考を Kuhn に献呈した。

A. Kuhn の死後、その息子 E. Kuhn が二巻の「Adalbert Kuhn 神話学研究」を刊行した。第1巻は著作「火と神酒の降来」の新版を含む(Gütersloh 1886年)。第2巻は「遺稿神話学論考」という表題をもつ(Gütersloh 1912年)。後者の前半を占めるのは「Pitṛ 群と小人についての四つのアカデミー論考」である。1.「光の存在としての Pitṛ 群について」、2.「死者の霊としての小人について」、3.および4.「光の存在としての小人について」。後半は「インド・ゲルマン神話における牛の意義についての断片」を含む。牛は光線と雲を意味する。Ṛgveda の Paṇi 群——彼らから牛が奪われた——を、Kuhn は神話的な——

——存在と見なし、その Asura Vala との関係を強調した(105頁以下)。この第2巻には「Adalbert Kuhn 著作概観」が付されている(183–200頁)。

§第 XXXVII 章 MAX MÜLLER。ṚGVEDA の校訂本

A. Kuhn がもっぱら学者のために書き、Roth もまた当初はドイツの専門の同僚たちのもとで最高の評価を得たにすぎなかったのに対し、劣らぬ才能をもつ熱情家 M. Müller は、君侯やあらゆる種類の指導的精神からなる法廷の前に、Veda の、そして言語学と宗教学の使徒として登場した。彼は繰り返し繰り返し Veda の古さと唯一無二性を指し示しつつ、イギリスから全教養世界において自らの学問への理解を呼び覚ましたのである。M. Müller は、いまや過ぎ去った時代においてイギリスあるいはインドに実り豊かな活動の場を見出した多数のドイツのサンスクリット研究者のうち、最も重要な人物であった。イギリスもまた彼らを認めてよい。というのも、彼らは決してイギリスの利害に反する行動をとらず、むしろ多くはほとんどイギリス人になったからである。しかしドイツにおいては、つい最近まで、イギリスの側でドイツの学者たちの研究熱が偏見なく学問のために活用されてきた、その寛大な受け入れを認めることができるであろう ¹⁾。

Friedrich Max Müller は1823年 Dessau に生まれ、1900年 Oxford の比較言語学教授として没した。その歩みは彼自身が自伝の断片「わが生涯より」において描き出しており、これはその死後に息子が刊行した。H. Groschke によるドイツ語訳、Gotha 1902年である。その少し前に「Auld Lang Syne」が現れており、同じ訳者によって「古き時代、古き友」という表題でドイツ語に訳された(Gotha 1901年)。M. Müller は自らについては控えめに語るが、それでもやはりその名声のうちに身を浴している。たとえそれが、彼が個人的関係をもったあまたの重要な人物について語るという形をとるにすぎないとしても。彼は好んで父である詩人 Wilhelm Müller について、また母方の曾祖父で Dessau の Philanthropinum の創設者 Basedow について語った ²⁾。父の早世の後、彼は Leipzig の Nikolaischule に通い、次いで同地の大学で Gottfried Hermann、Haupt、Westermann、Klotz のもとで古典文献学を学んだ。Bopp の比較言語学への理解を彼が称賛する Gottfried Hermann は、彼の庇護者であった(「わが生涯より」128頁)。それと並んで彼は熱心に哲学の講義をも聴き、すでに第2学期の1841/42年から Brockhaus のもとでサンスクリットを学んだ。Brockhaus を彼は「優れた、親切な、育ててくれる師」と呼んでいる(「古き時代」253頁)。サンスクリット文法とインド文学史のほか、その履修簿には Nala、Prabodhacandrodaya、Somadeva、Ṛgveda が証されており、Ṛgveda では Spiegel が同学であった(「わが生涯より」121頁)。哲学においては当初とりわけ、ヘーゲル学派に属する Hermann Weisse に惹かれた。この深遠な人物の、苦闘するような講義の仕方にもかかわらずである(「わが——

【注】 ¹⁾ 1915年2月16日執筆。

²⁾ 両者について M. Müller は Allgemeine Deutsche Biographie に執筆している。

——生涯より」109頁、116頁)。本書の著者もまた、歴史哲学的考察法への刺激について Weisse に感謝の負い目を感じている。後に M. Müller は、自らの特別な研究である言語学と語源学——彼は「すでに大学時代にこれに全身を捧げていた」(「わが生涯より」119頁)——のために、Drobisch が講じた Herbart 哲学のうちにより多くの拠りどころを見出した。M. Müller はそこから概念の分析、概念的認識を取り出した。当時の古典文献学の営みは彼を十分には満足させなかったが、それでも徹底した文献学的訓練を彼に与えた。言語学と宗教学においては、彼はそのような専門的教育を受けていない。宗教史については Friedrich Schlegel と Windischmann の著作「世界史の進展における哲学」に刺激を見出した。Bopp と Schelling を聴くために、彼は1844年 Berlin へ赴いた ¹⁾。しかし講義で原稿を読み上げる Bopp には失望した(「わが生涯より」128頁)。そこで彼は、かなり無一文で経験も浅かったが、しかし常によい友人を見出しつつ ²⁾、Paris の Burnouf のもとへ赴いた。M. Müller が今日、言語学においても宗教学においてもディレッタントとして退けられるとすれば、それは彼に対して十分に公正ではない。「Reden und Aufsätze」296頁以下で、その他の点ではきわめて共感的な M. Müller 論を書いた L. v. Schroeder ですらそうである。比較言語学はドイツにおいて、経験的にそれ自身の内から、一つの体系へと、またすべての個々の語と形の歴史へと築き上げられてきた。その際同時に、言語生活が現れる過程ないし法則への洞察も得られた。イギリスに住んでいた M. Müller は、この経験的研究に直接には参与しなかった。しかし経験から言語の生命について得られる観点は、哲学的考察にとって自然な観点とは一部しか一致しない。M. Müller はより厳密な音韻論や新しい理念についても知識を得たとはいえ、それでも主要な点では古い立場にとどまり、その哲学的考察法にとどまった。彼はそれに対して、より広い教養層においては、別のものを期待していた本来の専門家たちのもとにおけるよりも多くの受容性を見出したのである。専門家たちが個々の実例(θεός = deus)³⁾ に躓いたのも当然であった。それらはもはや学問の水準に対応していなかったからである。神話と宗教の領域では事情はいささか異なる。ここでは学問の発展もまた M. Müller の立場を経由する道をとった。彼の言語学の欠陥がここでも感じられたことは別としても、彼は Veda 神話をいささか強く出発点としすぎた点で一面的であった。Veda 神話はより高い段階の宗教にとっては常に重要であり続けるであろうが、しかしあらゆる宗教の考察の基礎とはなりえない。一般に確認しておくべきは、M. Müller は文献学者としてはよく訓練されていたが、言語研究者・宗教研究者としては時として——

【注】 ¹⁾ この時期に M. Müller の最初の刊行物が属する。「Hitopadesa。サンスクリットから初めてドイツ語に訳された古いインドの寓話集」(Leipzig 1844年)、さらに Johnson の Hitopadeśa 第1巻および英訳付き Mahānāṭaka のインド版についての書評(Jahrbücher für wissenschaftliche Kritik 1844年、1846年)。この三点はすでに Gildemeister、Bibliotheca Sanskrita Specimen に記載されている。さらに「Meghadūta、雲の使者、Kālidāsa に倣いて」1847年。

²⁾ 彼は Paris で Eckstein 男爵と知り合い、後に London で彼のために仕事をした。この人物には A. Weber のところで再び出会うことになる。

³⁾ 補遺参照。

——詩人あるいは哲学者のごとくに登場した、ということである。Paris で彼が見出したのは主として文献学的な刺激であった。

M. Müller は Burnouf のもとで学んだ傑出したドイツのサンスクリット学者の最後の一人であった。彼はそこでなお Roth および Goldstücker と、また Gorresio および Nève とも出会っている(Rig-Veda-Sanhita 第VI巻 V 頁)。Roth に対しては当初からある種の反感が固まった(「わが生涯より」141頁)。もっとも Ṛgveda-Sanhita 第I巻 XXV 頁では彼を「my learned friend Professor Roth」と呼んではいるのであるが。Burnouf は当時、次の大きな課題として Sāyaṇa の注釈付き Ṛgveda の校訂を挙げていた。彼は故友 Rosen の第1 Aṣṭaka 校訂本に基づいて Ṛgveda を講じた。M. Müller はこう述べている。「私は Ṛgveda の讃歌についての彼の講義の熱心な聴講者となった。そしてここで私に新しい世界が開けたのである」(同書139頁)。M. Müller がその大著へと促されたのは主として Burnouf によることは疑いない。Rig-Veda-Sanhita 第VI巻の序文冒頭の回顧で彼はこう述べている。「1845年、Paris で Eugène Burnouf の講義に出席していたとき、初めて私の思いは Rig-veda とその浩瀚な注釈の校訂に定まった」。第II巻 LX 頁参照。Maruts への讃歌の翻訳の序文 XVIII 頁以下で、彼は Burnouf の講義を描写している。当初彼はドイツでの刊行を考えていた。Paris の図書館で仕事をしていた頃、Dessau 侯妃から紹介されていた Alexander v. Humboldt がこの企てのために Friedrich Wilhelm IV 世に働きかけた。それは、国王の私的金庫からの援助を得たとしても、いかなる私的出版者にとっても費用がかかりすぎることが判明した(「古き時代」189頁)。M. Müller はその後、真剣に Petersburg 学士院の援助を考え、この目的で1845年に Böhtlingk と連絡をとった。この経緯に関わるのが Böhtlingk の著作「神話作家としての F. Max Müller」(St. Petersburg 1891年)であり、これと比較すべきは、M. Müller が1902年に自伝(「わが生涯より」149頁以下)でこの Petersburg 計画の経緯について述べていることである。もし仕事が、Böhtlingk が Ṛgveda の本文を、M. Müller が Sāyaṇa の本文を引き受けるという形で分担されるはずであったとすれば、M. Müller が後者にいかに大きな価値を置いていたかが窺える。1846年に Roth は、Wilson の指導のもとで Sāyaṇa の注釈付き Ṛgveda の公刊に参加すると書いていた(上記256頁参照)。Wilson はその翻訳をもってそこにとどまったが、Roth、Trithen、Rieu の代わりに M. Müller が入った。第1巻はすでに1849年、M. Müller が26歳のときに現れている。かくも若くしてかくも速やかにかくも大きなことを成し遂げえたことは、M. Müller の才能・熱意・人を惹きつける人柄を物語る。1846年、彼は運を天に任せて Paris から London へ赴いた。そこでまもなく、プロイセン公使 v. Bunsen——彼自身も若い頃 Veda に関心をもっていた——という、その計画の有力な支援者を見出した。彼と Wilson のおかげで、東インド会社がこの著作をその費用で印刷することを決議した(「わが生涯より」166頁)。第4巻以降はその地位に Secretary of State for India が入り、それゆえ最後の三巻は Victoria 女王に献呈されている。M. Müller はこの仕事を単独で引き受け、Roth の参加は断った(同書141頁)。しかしまもなく報酬を支払って協力者を作業に引き入れており(Rig-Veda-Sanhita 第VI巻 XXXIV 頁参照)、その点でイギリス人の仕事のやり方を——

——模倣したか、あるいは Lassen が London で Schlegel の Rāmāyaṇa 校訂本のために働いたのに比しうる。この種の最初の amanuensis は Aufrecht であった。M. Müller はここで彼の名を挙げてはいないが、十分に明瞭にそれと分かる形で述べている(「わが生涯より」167頁)。というのも、M. Müller の校訂本が完成する前に転写による本文校訂本を刊行したのは Aufrecht であり、それは M. Müller にとってはもちろん愉快なことではありえなかったからである。Rig-Veda-Sanhita 第III巻 XIV 頁の序文で、彼は Aufrecht に謝意を表している。「最後の諸巻の正確さと精密さの多くは彼の良心的な協力に負っている」。後には Brunnhofer、Eggeling、Thibaut、Winternitz が陰の協力者となった。1854年に第二巻、1856年に第三巻、1862年に第四巻、1872年に第五巻、そしてついに1874年に最後の巻が現れた。インドの象のように、六つの巨大な四つ折本がわれわれの目の前に立っている! 最大の困難をもたらしたのは Sāyaṇa の注釈であった。写本が繰り返し役に立たず、また当時は Sāyaṇa の引用を理解し典拠を示すことが常に容易ではなかったからである。M. Müller はこれについて序文で詳しく論じており、そこにはさらに Varietas Lectionis が大きな場所を占めている。Sāyaṇa における引用については、彼はすでに第I巻の序文で論じていた。彼はその際 XXIII 頁で、Böhtlingk の Pāṇini 校訂本を「a most excellent and meritorious work」と呼んでいる。その個々の部分に対してはいかに多くの異論がありうるとしても、である。第VI巻の序文で彼はこの対象に立ち返り、引用の字句の批判的考察を行っている。問題となるのは Pāṇini、Vārttika 群、Dhātupāṭha、Uṇādi- および Phiṭsūtra、Nirukta、Āśvalāyana の Śrauta- および Gṛhyasūtra、Anukramaṇī、Sāyaṇa の注釈 Dhātuvṛtti および Nyāyamālāvistara、より散発的に Mahābhāṣya、Kāśikā、Piṅgala である。Sāyaṇa は二つの Mīmāṃsā に精通していた。しかしとりわけ頻繁に引用するのは Taittirīya の聖典である。それらへの注釈を彼は Ṛgveda に取りかかる前にすでに著していた。Sāyaṇa は南インド人であり、南インドでは Taittirīya の学派が広く行われていた(XXVIII 頁)。Ṛgv. I 74, 7 に対して彼は Taittirīyāṇāṃ Prātiśākhyam をさえ引用している(XX 頁)。Ṛgveda へのより古い注釈についての探究は結果を出さずに終わる(XXVII 頁)。すでに第II巻のために M. Müller は、インドから Ballantyne——当時はまだ Benares の Sanskrit College の Principal——および Benares の F.-Edward Hall から支援を受けていた。第VI巻では、Sāyaṇa の後継者たちの座である Śṛṅgeri からの情報について Burnell に謝意を表している(XXXII 頁)。Mādhava と Vidyāraṇya のみならず、Mādhava と Sāyaṇa も同一人物の異なる名にすぎない、という Burnell の見解には彼は同意していない(XXV 頁)。彼はその本文を確定した原則を詳細に述べている(XXXII 頁以下)。それは古典文献学の原則であり(XLV 頁)、彼は Gottfried Hermann と Haupt のもとでその学派を経てきたことを誇っている(LIII 頁)。繰り返し繰り返し、彼が Böhtlingk、Roth、A. Weber に対して立っていた個人的対立が突き出ている。たとえ相互にその功績を認め合っていたとしてもである。Weber は M. Müller の校訂本を、第1巻の書評において「ドイツの勤勉さとイギリスの寛大さの壮大な記念碑」と呼んだが(Indische Streifen 第II巻11頁)、それに先立って、M. Müller が用いなかった第1 Aṣṭaka の古い Berlin 写本の異読を、注釈の小さな一部分について紹介していた。M. Müller はこれらの異読を論じ、「それらが25年前に私によって確定された本文にいかにわずかしか影響しないか」を示そうとし(XLI 頁)、次いでその批判者に対して、Mahīdhara の Vājasaneyi——

——saṃhitā への注釈の写本照合をもって応じている。これは Weber がその白 Yajurveda 校訂本で用いたものである。「gītin, śiraḥkampin などの術語が Petersburg 辞典に載っていないのはなぜか」という問い(X 頁)は、Böhtlingk に辞典第7巻の序文における反論と、Jenaer Literaturzeitung 1876年第6号付録における鋭い記事「Max Müller の性格描写のために」とを書かせる原因となった。しかし一般的には M. Müller はすでに第IV巻 LXXIX 頁の序文で Petersburg 辞典の高い意義を認めていた。Roth とは第V巻の序文で、Spiegel の一所見に連なって論じ合っている(VII 頁以下)。Spiegel は、Luther も聖書の翻訳に、Schlegel も Shakespeare の翻訳に注釈を付さなかったことを想起させていた。Roth は仕事の重点を Ṛgveda の優れた翻訳に置こうとした。M. Müller はより多く注釈の必要性を強調したが、これは Roth も完全に拒否したのではなく、ただ翻訳が直ちには説得的でなく、訳者が自らの解釈に確信をもてない箇所に限定しようとしたのである。学問的に最も重要なのは第IV巻の序文であり、これは「On ancient Hindu Astronomy and Chronology」という表題で独立にも刊行された。Nakṣatra の起源についての問題のほか、彼はここで、その History of Ancient Sanskrit Literature で遂行した Veda 年代論を扱っている。冒頭で彼は、すでに History 172頁で立てた見解、すなわち Veda 文献の第二層の名 brāhmaṇabrahmán「祭官」から派生するのであって、中性名詞 bráhman からではない——後者は Westergaard および Roth の見解であった——という説を、十分な根拠をもって擁護している。サンスクリット文献学の歴史を書く者にとっては、当時(1862年)存命のサンスクリット学者の一覧が興味深い(LXXIX 頁)。故人のうち Burnouf の名が Wilson の後に欠けているのは、おそらく単なる見落としであろう。しかし Prinsep も挙げられていないのは、ヨーロッパの学者のうち一時期は碑文と貨幣に関心をもつ者がわずかしかいなかったことによるであろう。Sarvānukramaṇī の内容を M. Müller は各巻に一覧表の形で付した。それに属する paribhāṣā——そのいくつかは、これらの記載における技術的手続きを理解させてくれる——は、本書の著者がその Chrestomathie「Sāyaṇa の注釈付き Ṛgveda の十二讃歌」(Leipzig 1883年)において初めて公刊した。「Kātyāyana の Sarvānukramaṇī」はその後、Ṣaḍguruśiṣya の注釈と索引を付して Macdonell が Anecdota Oxoniensia に完全な形で刊行した(1886年)。Anukramaṇī による神格および Ṛṣi のアルファベット順一覧が「Rig-Veda-Sanhitā」の最終巻に付されており、また詩節冒頭句の索引も同様である。しかし最も重要な付録は、Ṛgveda の Padapāṭha に対する完全な Index Verborum であり、第V巻と第VI巻に分載されている。M. Müller 自身が作成したこの索引を入念に検証した若い学者(第V巻 XXV 頁)は Eggeling であった。Grassmann はその語彙集(Leipzig 1873–1875年)をこの索引によって補完することができた。

この Sāyaṇa 注釈付き Ṛgveda の第1版は500部が印刷された。インドでも購入されたので、まもなく品切れとなった。India Council は第2版の費用負担を断った(第I巻² LII 頁)。第2版「Rig-Veda-Saṃhitā, the Sacred Hymns of the Brahmans, together with the Commentary of Sāyaṇāchārya」全4巻四つ折は、「under the Patronage of His Highness the Mahārājah of Vijayanagara (Sir——

——Pasupati Ananda Gajapati Raz)」として刊行された。第1巻・第2巻は London 1890年、第3巻・第4巻は1892年である。第1巻と第4巻には第1版の序文が再録されているが、索引はこの第2版には欠けている。注釈がより小さな活字で印刷されているため、分量は少ない。各巻には新たな Varietas Lectionis も含まれる。編者に新しい写本が利用可能となったからである。とりわけ第1 Maṇḍala において注釈の本文が多く改善されえた。M. Müller はこの労多い仕事における Bühler の弟子 Winternitz の助力を感謝をもって称えている(第I巻 LIII 頁)。第1版の本文がいかに入念に確定されていたとはいえ、第2版はやはり改善された版である。M. Müller の第1版に多かれ少なかれ依存していたのが、Sāyaṇa の注釈の Bombay 版二種、および Peterson が1888年および1892年以降に Bombay Sanskrit Series で刊行した Veda 関係の書物「Hymns from the Rigveda, ed. with Sayana's commentary, notes and a translation」および「Handbook to the study of the Rigveda」である。後者の Part I は Sāyaṇa の序論を、Part II は第7 Maṇḍala を含む。最初の Bombay 版は単なる翻刻であった(全8巻、Śakābdāḥ 1810–1812年)。第二の版の編者 Boḍasopāhva-Rāja-Rāmaśāstrī および Gore ityupābhidha-Śiva-Rāmaśāstrī は、いくつかの写本をも用い、随所で改善された本文を与えている。これらの事情について M. Müller は第4巻の序文 CLXII 頁以下で報告している。

その「Editio Princeps」の完成後直ちに、M. Müller は Ṛgveda の校訂本「Reprinted from the Editio Princeps」を、Sāyaṇa の注釈なしで刊行した。「The Hymns of the Rig-Veda in the Saṃhita Text」および「in the Pada Text ...」全2巻(London 1873年)、第2版「Rig Veda Saṃhitā. In the Saṃhitā and Pada Texts」1877年である。それ以前にすでに、上記第I巻150頁で言及した M. Müller の Prātiśākhya 校訂本に連なって「Ṛgveda の讃歌、Saṃhitā および Pada 本文。第1 Maṇḍala、講義用」(Leipzig 1869年)が現れていた。これは明らかにドイツ向けの、途中で頓挫した版である。

讃歌の正しい理解、暗い箇所の解明のためには、M. Müller は自身の研究によってはそれほど大きな成果をあげていない。その History および Essays に訳された個々の讃歌を別とすれば、Ṛgveda 全体の翻訳と解釈は第1巻にとどまった(いくつかの讃歌を追加して Sacred Books of the East 第XXXII巻に再録)。「Rig-Veda-Sanhita. The Sacred Hymns of the Brahmans」第I巻「Hymns to the Maruts or the Storm-Gods」(London 1869年)であり、Colebrooke、Rosen、Burnouf、「ヨーロッパにおける Veda 学の三人の創始者」の記念に献呈されている。M. Müller はここで、翻訳の正当化としての注釈を当初いかに構想していたかを示した。すべての並行箇所の翻刻、要するに準備作業の全体を、同じ仕方で Ṛgveda 全体について遂行すれば、見通しを欠いた、費用の賄いえない巨大な著作となったであろう。必要最小限に限定することによって、H. Oldenberg は、伝承された本文の外的形態の批判をも取り入れつつ、今日、適度な分量の連続的注釈を作ることができた ¹⁾。M. Müller の長い序文は主として弁護論的性格をもつ。彼は「Editio Princeps」における本文確定の方法を正当化し、その際、これまで以上に——

【注】 ¹⁾ Oldenberg はその著作に「Ṛgveda。本文批判的および釈義的覚え書」という表題を与えた。注釈という呼称を、彼は第2巻の冒頭で謙遜して退けている。それはそうではなく、またそうであろうとするものでもない、と。

——本文の忠実な伝承にとっての Prātiśākhya の重要性を強調し、その巧みなやり方で Aufrecht の転写による校訂本と対決している(XXXI 頁、XLIII 頁以下)。その誤りを列挙する形においてである。より留保のないのは、Ṛgveda の本文形態に関わる A. Kuhn の仕事に対して彼が与えている承認である(XX 頁、LXVII 頁以下)。彼は Prātiśākhya が韻律の充足のために提供する手段を詳細に論じているが、しかし伝承された字句のいかなる変更にも反対する。たとえそれによって韻律のより大きな規則性がもたらされうるとしてもである。この立場は正当である。2000年以上にわたって不変のまま伝承されてきた Ṛgveda の本文は、文献学者にとっても、その誤りとともに、侵しがたいものでなければならない。改善は注記あるいは注釈に属する。一部の学者が思い描いてきたような、いわゆる Ṛgveda の批判的校訂本は、Fick の「本来の言語形態において復元された Homer」と同様、伝承された本文の代わりとはなりえない。この本源的なものへの復元の試みは、Böhtlingk がその Chrestomathie 第2版(1877年)で行っていたが、Garbe は第3版でこれを再び放棄した ¹⁾。Böhtlingk は同じく注記において、Saṃhitā の Padapāṭha に対する歴史的関係について、いささか込み入った推測によって明らかにしようと試みたが、M. Müller は、Saṃhitā も Padapāṭha も本源的な本文を表すものではない、という説明にとどまった(XXVII 頁)。M. Müller が例として挙げる誤りには、I 70, 4 の carátham に対する ca rátham、さらに u lokám があり、後者は A. Kuhn が最初に ulokám と縮約した(LXVIII 頁以下)。Ludwig はこの後者の語を認めなかった。adhvaráṇām のような語において、後ろから二番目の長母音が韻律上イアンブスに相当することは、Rosen が最初に見抜いた(XX 頁)。

同じく「under the patronage of the Court of Directors of the East-India Company」により、M. Müller の第1巻の一年後に、Wilson がすでにインドで着手していた Ṛgveda の翻訳の第1巻が現れた。これは M. Müller の本文校訂本と合わせて一つの大きな全体をなすはずのものであった。「Ṛig-Veda-Sanhitā. A Collection of Ancient Hindu Hymns, constituting the first Asht'aka, or Book, of the Ṛig-Veda」(London 1850年)である。Wilson はこれを完成させたが、その死後、第4巻以降の印刷は Ballantyne、Cowell、次いで後者の弟子 W. F. Webster が担当した。第6巻すなわち最終巻は1888年に現れた。Webster はここで序文において、Wilson は Ṛgveda そのものよりも Sāyaṇa の解釈を訳したのだと述べている。しかしこの一面性においてこそ、Wilson の翻訳は持続的な価値をもつ。第1巻の序文は、Roth と M. Müller 以前に Veda について何が知られていたかを平明な叙述で例示し、第1 Aṣṭaka に基づいて Veda の神々と文化状況の軽やかな素描を描き出している。

【注】 ¹⁾ Chrestomathie 第1版において Böhtlingk は讃歌を三重の形で与えていた。まず伝承された Saṃhitā、ただしアクセント表示なし、次いで復元形、udātta を上付きのローマ字 u で表示、第三に小さな活字で修正された Padapāṭha である。第2版では Böhtlingk は自ら復元した本文のみを与えた。

§第 XXXVIII 章 MAX MÜLLER

§HISTORY OF ANCIENT SKR. LITERATURE

M. Müller は、その Ṛgveda 校訂本第一巻の序文において、すでに 1849 年に "Introductory Memoir on the Literature of the Veda" を予告していた。彼はその間、1851 年に Oxford 大学の Deputy Professor に、1854 年には Professor of Modern European Languages and Literature に任ぜられ、そのため他方面の義務を負うことになった。かくして、かの Memoir から成長し、Wilson に献ぜられた著作 "A History of Ancient Sanskrit Literature" は、ようやく 1859 年に London で刊行され、1860 年に第二版(内容は不変)が出た(Goldstücker, Pāṇini S. 241 参照)。表題に付された "so far as it illustrates the primitive religion of the Brahmans" という付加語は、彼の宗教史的な気分を窺わせる。この著作は一部すでに十年前に書かれており、序文の記載によればそのうち十折(Bogen)分は 1851 年に印刷済みであったとはいえ、いずれにせよ Roth の基礎的な、同じく Wilson に献ぜられた著作の方がそれに先行していた。1859 年までに公刊されたものを、M. Müller は自らの著作に取り込んだ。いくつかの点で他の学者に先を越されたとはいえ、その新知見が自分自身の見解と一致していたことは、彼にとって満足すべきことであった。

序論(S. 1–66)は輝かしい演説の印象を与え、歴史哲学的な仕方で、インドをギリシアと比較しつつ、Veda すなわち "most Ancient Book of the Aryan Family" の唯一無二性、インド史にとって、また世界史にとってのその意義を論証しようとする。Veda はそれ自体で一つの全体をなしており、それと後代の文献との間の連関を証示することはできる(S. 36)が、RāmāyaṇaMahābhārataPurāṇa 諸書、Manu 法典は "no authority for the History of the Vedic Age" である。ここでは既知の多くの事柄が卓越した表現を得ており、重要な個々の箇所が全体の叙述に一定の基礎を与えている。かくして彼は ātman の教説を、Bṛhadāraṇyaka における Yājñavalkya と Maitreyī との対話によって例証する。もっとも、この語についての受け入れがたい語源説明を伴ってではあるが(S. 20 以下)。インドには "no history to call forth a historian" であった(S. 30)。それだけに "in the intellectual history of mankind" におけるインドの地位は重要である(S. 32)。人類は漸進的な教育を必要とした、"before, in the fulness of time, it could be admitted to the truths of Christianity"(S. 32)。仏教徒は Brahman 階級に対して、ほぼ "the early Protestants to the Church of Rome" と同じ関係に立っていた(S. 33)。仏教紀元はインドの全歴史を二分するが、それはキリスト教紀元が世界史を二分するのと同様である(S. 35)。Veda 文献の一標識は、anuṣṭubh-śloka がまだ RāmāyaṇaMahābhārataManu 法典におけるように作品全体の韻律とはなっていないことである(S. 68)。

最も新しい層から始めて古代へと遡りつつ、M. Müller は Veda 文献を四章にわたって年代学的体系の枠内に叙述し、四つの異なる層を想定して、これらを四つの異なる時代に配分する。すなわち Sūtra 時代は前 200 年から 600 年(S. 244)、Brāhmaṇa 時代は前 600 年から 800 年(S. 445)、Mantra 時代は前 800 年から 1000 年(S. 497)、Chandas 時代は

前 1000 年から 1200 年(S. 572)である。Sūtra 時代がこの計算の基礎をなす。というのも、より古いインド史のある程度確実な年代、すなわち Buddha の出現と Alexander のインド遠征とが、そこに落ちるからである。

Sūtra 文体の記述(S. 71 以下)に続いて、śrutismṛti との相違、および Veda の非人間的起源に関する Brahman たちの教説についての一節がある。この教説については、その後 J. Muir がその Original Sanskrit Texts 第三巻において豊富な資料を集めている。M. Müller はインド人の論証のために、Kumārila の Tantravārttika および Parāśarasmṛti に対する Sāyaṇa の注釈から諸箇所を引くが、それらは写本から取らざるをえなかった。彼が自らの Sūtra 時代の Sūtra として理解しているのは、Vedāṅga に属するか、あるいはそれと関係をもつ諸著作である。古い Vedāṅga は、今日その名で通っている貧弱な小著よりも内容豊かであり(S. 145)、その教説は Brāhmaṇa 諸書および Sūtra 諸書のうちに求めなければならない(S. 110)。彼は Śikṣā の下に Prātiśākhya を配し、その本質を Roth が Nirukta 序説において行ったのと同様に規定するが(上記 S. 257 参照)、その教説に立ち入ることはしない。śākhācaraṇapārṣada という語の本来の意味を、彼は彼以前になされたよりも鋭く捉えた(S. 123 以下、S. 377 以下参照)。caraṇa すなわち Veda 学派の所有に属するものとしては、Sāmayācārika-sūtra ないし Dharma-sūtra もある(S. 132)。その名称については彼はすでに先に(S. 101)説明していた。彼には Āpastamba の大 Sūtra 著作が知られており、それは Kalpa-、Gṛhya-、Dharma-sūtra を美しい完全さで含んでいる(S. 134)。Āpastambīyadharmasūtra は後に Bühler によって校訂・翻訳された。M. Müller は序文の末尾で、自著の索引を作成してくれたことについてこの Bühler に謝意を表している。かの Sūtra および Haradatta の注釈からの諸箇所を、M. Müller はある一写本から取っている。

Chandas と Vyākaraṇa についての短い言及(S. 147–152)よりも詳細なのは、Vedāṅga "Nirukta, or Etymology" の記述であるが、その執筆に際して彼にはまだ Roth による Yāska の Nirukta 校訂本が手元になかったように見える。S. 157 の注において彼は、Roth に対して三つの古い語彙集の名称を訂正しているが、それは Sāyaṇa の注釈のある箇所に依拠したものであり、そこには Veda の Nighaṇṭu と、後代の Amarasiṃha や Halāyudha などの辞書との連関も指摘されている。Roth が Yāska の有名な序説(品詞と語源に関するもの)の翻訳に自らを限ったのに対し、M. Müller は、Nirukta、Prātiśākhya 諸書、Pāṇini が情報を与えてくれるインドにおける文法学の展開を、ギリシアにおける文法学の歴史と比較しており、それは単に才気に富むだけでなく、きわめて実質的でもある。というのも、ここでも彼はインド人自身を、その中でも注釈者 Durga を語らせているからである。

Kalpa すなわち祭儀についての一節において、M. Müller は、三または四の Veda の存在とその区別が、祭式における主祭官の三数ないし四数によっていかに基礎づけられているかを、とりわけ明快に説き明かした。Ṛgvedasaṃhitā は "without any reference to sacrificial purposes" 集成されている。しかし三 Veda の Brāhmaṇa は三階級の祭官を前提としている(S. 173)。白 YajurvedaSaṃhitā は、Adhvaryu がその手作業の際に低い声で唱えるべき定句と詩節とを、祭式のために編んだ集成である。SāmavedaSaṃhitā は "book of songs" であり、Udgātar が祭式に際して(Gāna の sāman と呼ばれる旋律に従って)歌うべき詩節の本文を含む。Hotar は Ṛgveda の詩節を

大声で、発音とアクセントの厳格な規則に従って朗唱した。彼にとっては、賛歌や個々の詩節を祭式における使用順序に従って編纂したものは存在せず、彼は Ṛgveda 全体を暗記していなければならなかった(S. 175)。監督者たる第四の祭官で、Atharvaveda を割り当てられた "Brahman or Purohita" については、彼は後の箇所で論じている(S. 431, 447)。Veda 学派による Veda の分岐についても——そのために彼は写本の Caraṇavyūha および Rādhākānta の Śabdakalpadruma を用いた(S. 251 および S. 367 以下。そこでは注に Weber の校訂本が言及されている)——M. Müller はここで詳細に論じた。それに続けて彼は gotra、すなわち Brahman 階級の氏族ないし主要家系の一覧をも付した(S. 379 以下)。M. Müller は caraṇa を三種に区別した。すなわちその起源が Saṃhitā の本文にあるか、Brāhmaṇa にあるか、Sūtra にあるかに応じてである(S. 251、S. 364 注 3 参照)。Kalpasūtra には kuladharma が接続するが、これは一部は Gṛhya、一部は Dharmasūtra である(S. 201)。M. Müller は、Dharmasūtra のうちに後代の韻文法典、すなわち Manu、Yājñavalkya 等の原型を見るべきことを最初に明確に述べ、また Stenzler に先立って、私生活の宗教的規制をかくも独特な仕方で提示する Gṛhyasūtra の内容についての観念を与えた。その後、校訂本や論文によって一般に知られるに至った多くの事柄を、M. Müller は写本から汲み取っていた。たとえば主として祭儀に関わる Sāmaveda の十の Sūtra についてそうである(S. 209)。

第六の Vedāṅga たる Jyotiṣa は、Śikṣā と同様に貧弱な小著によってしか代表されておらず、それは後に Weber によって公刊された。天文学はインドにおいても他所と同様、祭りの時期を正確に定めるという必要から生じた。天文学的な記述は Brāhmaṇa 諸書および Ṛgveda に幾度も見出される。M. Müller は Ṛgv. I 25, 8 を挙げるが、そこには第十三の閏月への紛れもない暗示が見られる。Sūtra 時代にはまた Anukramaṇī 類も属する。M. Müller はそのうち Ṛgveda のものを、すでに自らの校訂本のために利用し始めていた。彼は Yajurveda および Sāmaveda の Anukramaṇī をも知っており、後者のうち śruti に数えられる Ārṣeyabrāhmaṇa からは、その冒頭の一節を引用している(S. 226)。Ṛgveda の神格を扱う Śaunaka の Bṛhaddevatā については、A. Kuhn が最初に精確な報告をもたらしていた(S. 217)。Śaunaka とその後継者 Āśvalāyana および Kātyāyana は、この文献類型の著者として知られている(S. 215, 229)。この三者について M. Müller は Ṣaḍguruśiṣya の注釈からの長い一節を伝えている(S. 230 以下)。彼は Pāṇini の Sūtra に対する Vārttika の著者と、Sarvānukramaṇī の著者と、通常 Vararuci と呼ばれる Kātyāyana とを同一人物とみなし、Böhtlingk が(上記 S. 241 参照)同じ事柄には用いなかった Somadeva の伝説に基づいて、この Kātyāyana は最後の Nanda の時代、すなわち前四世紀後半に生きたと想定する。これはほぼ Sūtra 時代の中葉に当たることになろう。より古い時代への展望を与えるのは Śaunaka であるが、Kātyāyana より後にもそうした Sūtra の作者は存在した。かくして M. Müller は Sūtra 時代を前 600 年から 200 年の間に置くに至った(S. 244)。

M. Müller は年代学的問題をさらに続ける前に、Pariśiṣṭa すなわち "Paralipomena"、つまり補遺の文献についての一節を挿入する。それらは四 Veda に配分される。Yajurveda の十八の Pariśiṣṭa には、

M. Müller が多用した Caraṇavyūha が属し、彼はこの十八の Pariśiṣṭa の一覧もそこから取っている。それらの大部分について、彼は写本の存在を指摘することができた。彼は Ṛgveda および Sāmaveda の Pariśiṣṭa をも挙げている。Kauśika に帰せられる Atharvan 派の Pariśiṣṭa を、Weber は 74 種と見積もっていた。これらは近年 v. Negelein によって完全な形で校訂出版された。Pariśiṣṭa 出版の端緒をつけたのは Weber であり、彼は重要な Caraṇavyūha を『インド研究』第三巻(1855 年)において、また白 Yajurveda の Prātiśākhya に接続する Pratijñāsūtra を 1871 年(1872 年刊)の Berlin 学士院論文集において公刊した。M. Müller が S. 234 で言及している Ṛgvidhāna、すなわち Ṛgveda 詩節の迷信的使用を教える書は、Rud. Meyer によって校訂され(Berlin 1878)、Gobhilaputra の Gṛhyasaṃgrahapariśiṣṭa は Bloomfield によってドイツ東洋学会誌第 XXXV 巻(1881 年)に、また Bibliotheca Indica 版 Gobhila-Gṛhyasūtra にも収められた。Gobhila-Gṛhyasūtra に対するもう一つの Pariśiṣṭa である Karmapradīpa の第一 Prapāṭhaka(M. Müller が S. 201 で言及)は F. Schrader によって(Halle 1889)、第二 Prapāṭhaka は A. v. Staël-Holstein によって 1890 年に公刊された。

仏教の出現と Candragupta の時代とが彼の Sūtra 時代に落ちるため、M. Müller はここで最後に年代学的諸問題を詳細に論じている(S. 260 以下)。Candragupta の時代については疑いはないが、Buddha の没年についての記述は諸資料の間で数百年も食い違っている。M. Müller はここで新説を出さず、これらすべての伝承の不確かさを強調することに自らを限る。中国およびチベットの資料に由来するものだけでなく、Ceylon の資料に由来するものについてもそうである。そして彼は確実な記述と不確実な記述との組み合わせによって、Buddha の没年についての自らの設定に到達する(S. 298)。一の位まで確実とはいえないにせよ確かなのは、その出発点、すなわちギリシア史から得られる Candragupta 即位の年、前 315 年である。Purāṇa 諸書(Viṣṇu IV 24, 7 以下)と Mahāvaṃsa とは、Candragupta の後にその子 Bindusāra が、次いでその子 Aśoka が続いた点で一致している。また両者は、Cāṇakya すなわち Kauṭilya——今日 Kauṭilīya Nītiśāstra の発見によって関心の前面に押し出された人物——が Candragupta の支配獲得を助けたという点でも一致している。Mahāvaṃsa V 18(Dīpav. V 100 参照)に与えられた治世年数もまた、真実からさほど遠くはあるまい。それによれば Aśoka は 263 年に王位に就き、その四年後、前 259 年に灌頂を受けた。しかしこの出来事は Mahāvaṃsa V 21(Dīpav. VI 1)によれば Buddha の nirvāṇa の 218 年後に起こったのであり、259 + 218 によって前 477 年という年が得られる。同じ 477 年に彼は、Candragupta 即位の年である 315 に 162 を加えることによっても到達する。162 とは、Buddha の死後なお 24 年間統治した Ajātasattu から Candragupta に至るまでの諸王の治世年数の総和である(Mahāv. II 32, IV 1 以下、V 14 以下による)。

第 II 章 "The Brāhmaṇa Period" において、彼はさらに新しいものから古いものへと遡って論じつつ、Āraṇyaka および Upaniṣad から始める。後者については、Anquetil Duperron の Oupnekhat 以来すでに膨大な学問的文献が存在していた(S. 325 以下)。M. Müller は Elliot に従って Upaniṣad の数を 108、"and even higher" と見積もった。最古のものは Bibliotheca Indica に(S. 315)、一部はそれ以前に、すでに公刊されていた。すなわち BṛhadāraṇyakaAitareyaChāndogyaTaittirīyaĪśā

KenaKaṭhaPraśnaMuṇḍakaMāṇḍūkya である。彼は Śvetāśvatara Upaniṣad をも用い(S. 319)、Kauṣītaki Upaniṣad をも知っていた(S. 337 以下)。教説そのものに詳しく立ち入ることはしないが、それでも彼は Chāndogya-Upaniṣad III 14, 4 および Śatapathabrāhmaṇa から、ātman と brahman とが同一であるという Śāṇḍilya の教説に言及している(S. 323)。āraṇyakaupaniṣad という語は Pāṇini には現れるものの、文献作品の名称としてではない(S. 339 以下)。Śatapathabrāhmaṇa をその Āraṇyaka とともに、彼は他の Veda の Brāhmaṇa および Āraṇyaka よりも新しいとみなした(S. 330, 376)。それは白 Yajurveda が帰せられる Yājñavalkya のゆえであり、また彼はその年代の新しさを Pā. IV 3, 105 に対する Vārttika の tulyakālatvāt から推論した(S. 363、上記 S. 249 参照)。Sāmaveda の八つの Brāhmaṇa を、彼は Sāyaṇa の一記述から知っていた(S. 348)。ただ Vaṃśabrāhmaṇa のみが当時 Weber によって公刊されていた(S. 356 注)。Brāhmaṇa の文体と祭儀的内容とを、彼は Aitareya における Dīkṣaṇīyā および Kauṣītaki Brāhmaṇa の一断片の翻訳と本文とによって例示している(S. 390 以下)。伝説的内容については、彼はより小さな断片のほかに、Böhtlingk もその『読本』第二版に採録した最も有名な二つの物語、すなわち Aitareya の Śunaḥśepa の物語と Śatapatha-brāhmaṇa の洪水伝説とを挙げている。前者は間もなく F. Streiter によってもその学位論文 "De Sunaḥsepo fabula indica"(Berlin 1861)で扱われ、またすでに Roth によって知られていたが(上記 S. 257 参照)、M. Müller は付録においてその完全な本文を、Śāṅkhāyanasūtra に含まれる異本との異同とともに与えた。補遺のように、この章の末尾(S. 445 以下)には、Atharvaveda に属する Gopathabrāhmaṇa についての一節が置かれており、その内容について彼は London の一写本に基づき、Weber よりもいくらか多くを述べている。校訂本はようやく 1870–72 年に Bibliotheca Indica に現れた。M. Müller はこの著作の第一部を他の Brāhmaṇa より新しくはないとみなした(S. 454)。Bloomfield の論文 "The position of the Gopatha-Brāhmaṇa in Vedic Literature"(AOS 誌 XIX 1 以下)によれば、Kauśika-sūtra および Vaitāna-sūtra すら Pūrva- および Uttarabrāhmaṇa より古いことになろう。Bloomfield, "The Atharvaveda and the Gopatha-brāhmaṇa"(本『概説』所収、1899 年)も参照。Śatapatha- および Vaṃśa-brāhmaṇa における長い師承の一覧は、M. Müller にとって、彼が自らの Brāhmaṇa 時代を 200 年、すなわち前 600–800 年としたのは長すぎるよりむしろ短すぎたことの証拠であった(S. 445)。M. Müller は、人為的な祭儀によってのみならず、Brāhmaṇa における神々についての観念の変化によっても "a complete misunderstanding of the original intention of the Vedic hymns" が生じたことを強調し、その際、そこから Ka という神が生じた賛歌を指示している(S. 432 以下)。

M. Müller が彼の最古の二時代を "Mantra" および "Chandas Period" と名づけたことは、mantrachandas という語の意味がこれらの時代の本質にほとんど対応しないという理由で、しばしば異議を唱えられてきた¹⁾。Mantra 時代は集成の時代であるとされ、そこにおいて

¹⁾ Mantra は Veda の聖なる詩節と定句との一般的名称である。Pūrvamīmāṃsā II 1, 32 以下は mantrabrāhmaṇa とを Veda の二大構成要素として指示する。この区別が定式化されたのはようやく後代のことであろう。したがって mantra を第二の時代における聖なる詩節と定句との名称とすることは正当化されえよう。Chandas は、Pāṇini にしばしば繰り返し現れる語 bahulaṃ chandasi(「Veda において多様に」)において Veda 一般を指示し、そのほかに韻律・韻律学という意味をもつ。それゆえおそらくこの語によって、最初に韻文形式の sūkta が作られた最初の Veda 時代を、散文の祭式定句の古い一群と並んで、名づけることが許されるであろう。

十の maṇḍala に含まれる個々の集成と、それらの Ṛgveda の大 Saṃhitā への統合とが成立した。それには後代の賛歌が属する。詩人たち自身が "ancient and modern hymns" を区別している。新しい歌は神々に対する特別の栄誉とみなされた(S. 481)。後代の賛歌はとりわけ第一および最後の三 maṇḍala にあるが、これらの巻にも古い賛歌が欠けているわけではない(S. 479)。後代の歌を見分ける基準には、種々の祭官の名称や、発達した祭儀を示すその他の徴候が属する。M. Müller はこの節で再び種々の祭官について、Āśvalāyana の Kalpasūtra IV 1, 6 に依拠して十六の ṛtvij を論じ(S. 468 以下)、また祭官的性格と並んで政治的性格をももっていた Purohita を論じている(S. 485 以下)。Ṛgv. VII 103 の蛙への歌——彼はここでそれを翻訳している(S. 494)——および dānastuti(S. 493)をも、彼は後代の賛歌、すなわち彼の Mantra 時代にはじめて成立したはずのものに数える。"of modern poets" の数世代と数階級の集成者たちを収めるために、彼は前 800–1000 年という時代を設定してよいと考える(S. 497)。

より長い一節が "The Introduction of Writing" という標題をもつ(S. 497 以下)。Benfey と同様に、また Roth(上記 S. 241 参照)とは反対に、彼は賛歌の集成が文字によってなされたのではないという見解であり、"before the time of Pāṇini, and before the first spreading of Buddhism in India, writing for literary purposes was absolutely unknown"(S. 507)とする。というのも、古い文献には文字や書くことについての言及がまったくないからである。Roth より詳細に彼は、Ṛgveda の暗誦を扱う Prātiśākhya の箇所を紹介している(S. 503)。Manu と Yājñavalkya においては文書が言及されるが、Dharmasūtra においてはそうではない(S. 513 以下)。Vopadeva に至ってはじめて anusvāra と visarga とがその書記形態から "vindu"、"dvivindu" と呼ばれる(S. 508)。Aśoka の碑文は前三世紀に属する(S. 520)。ギリシア文字は Alexander の侵入以前にすでに知られていた(S. 516)。若き Buddha が受けた教育についての Lalitavistara の荒唐無稽な報告においては、六十四のインド文字の名が挙げられている。彼が学ぶ文字は通常の Sanskrit 文字である(S. 517 以下)。M. Müller は、Śakuntalā が書きつけた蓮の葉、Urvaśī が書きつけた bhūrjapatra に言及している(S. 512 以下)。Pāṇini の時代に文字が知られていたことは、すでに lipikara という一語(Pā. III 2, 21)が証明する(S. 520)が、これは lipi すなわち "i. e. public inscriptions" を作る一人の人間を指すにすぎず(Ṛgv. IV, Pref. S. LXXXIV 参照)、Pāṇini の Sūtra が文字で書かれた著作であったという結論は許さない。Goldstücker がこれらの問題において重要なものとしてまとめた語のうちいくつか(上記 S. 248 参照)、すなわち yavanānīgranthapaṭala は、すでに M. Müller によってここで論じられていた。

第 IV 章 "The Chandas Period" においては、M. Müller が最古とみなす賛歌についてより明確な記述を期待できそうなものである。しかしその代わりに彼は、Veda の宗教に固有の、彼の Mantra 時代の賛歌にも見出される諸観念を論じている。M. Müller は原始啓示を想定しているように見える(S. 528, 538)。"There is a monotheism that precedes the polytheism of the Veda"(S. 559)。"Whereas the Semitic nations relapsed from time to time into polytheism, the Aryans of India seem to have relapsed into monotheism"(S. 558 以下)。アーリヤ諸民族は "an instinctive monotheism" をもっていたとし、そのために彼はとりわけ Ṛgv. X 121 を挙げる(S. 508)。唯一の Divine Being が存在するが、それが種々の

名で呼ばれる、Ṛgv. I 164, 46(S. 567)。個々の神の力は他の個々の神の力によって制限されるとはみなされず、祈願の瞬間には各々の神が唯一・最高の神として現れる(S. 532, 546)。この理論に対する Heno- ないし Kathenotheismus という名称を、M. Müller はここではまだ用いていない。すでに Kumārila が Prajāpati と Indra Ahalyājāra とを、神話の解釈によって不道徳の非難から浄化していた(S. 529)。

M. Müller は Rig-Veda-Sanhita 第 IV 巻の序文において、自著についての Wilson、Barthélemy St. Hilaire、Whitney の評言をある種の満足をもって挙げている。Whitney でさえ四時代区分に対して重要な異議を唱えず、その年代設定の慎み深さと慎重さとを認めている。Veda の詩人たちの時代はむしろより後よりも、より前に置かれるであろう。しかし M. Müller は少なくとも、Veda の年代を計算するための天文学的方法も存在することを示唆すべきであった。実際、彼が Colebrooke の Veda 時代の天文学的年代決定を考慮しなかったことは注目される。M. Müller が天文学を脇に置いたのは、そこには確実な基礎が欠けているからである。彼がこれを説明しようと試みる際の専門知識と迅速さ(S. XIII 以下)を、われわれはいっそう賛嘆したことであろう——もし Weber がやや早く出た論文 "Die vedischen Nachrichten von den naxatra (Mondstationen)" において相当な先行研究をしていなかったならば。それは二部からなり、Berlin 学士院論文集 1860 年、1862 年(朗読は 1860 年、1861 年)に収められた。Burgess と Whitney による Sūryasiddhānta 校訂本も Bibliotheca Indica に当時すでに出ていた。Weber の nakṣatra 研究のきっかけを与えたのは、フランスの天文学者 J. B. Biot の諸論文であり、彼はそれらを 1859–1861 年に Journal des Savants に公にしたが、その二十年前にすでに同誌に同じ見解を述べていた。すなわち「インドの naxatra は中国の sieou の、しかもきわめて不器用な模写にすぎない」というものである。この sieou は 24 個で、すでに前 2357 年頃に中国で用いられていたはずだという。Weber はその論文の第一部において、驚くべき博学をもって、中国学者自身の著作からこの設定の確かさを揺るがした。当面のところ、この体系の言及は前 250 年頃より遡って追跡することはできない(I 285)。インドの nakṣatra は中国に由来しえない。というのも、その実際の使用は Brāhmaṇa 諸書においてはるかに古い時代から証示されるからである。論文の第二部において Weber は、nakṣatra という語が現れる Veda 文献の諸箇所を論じている。Ṛgveda の大部分の箇所はこの語に「星」という意味しか保証しないが、átho nákṣatrāṇām eṣām upásthe sóma āhitaḥ(Ṛgv. X 85, 2)という語句は、月と nakṣatra との紛れもない関係を含んでいる。劣らず有名なのは同じ賛歌の第 13 詩節であり、そこには二つの nakṣatra の名が挙げられている(aghāsumaghāsu の古い誤りでありえ、arjunyoḥphalgunyoḥ の同義語と解しうる)。Aufrecht の語源説明、すなわち *nakta-tra「夜の守護者」からとする説は、Weber も是認するが(II 268)、音韻法則に反する。同様に受け入れがたいのは Pāṇini の na-kṣatra という分析である。M. Müller が古い(Yāska の)動詞 nakṣate からの導出に留まっているのは正当である(Rig-Veda-Sanhita IV, Pref. S. LXVI)。Yajurveda において、Brāhmaṇa 諸書において、Kalpa-sūtra および Gṛhya-sūtra において、nakṣatrāṇi は月宿である(devagṛha、Weber II 309)。その数は最も古くは 27 であり、太陰月の満日数に従う。しかしこの月はより精確には 27 1/2 日を

含むので、後に第 28 の nakṣatra(abhijit)が加えられた(II 288)。中国の sieu もまた後代には 28 であるが、最古には 24 であって、これは理解しがたい数であり、そこから Brāhmaṇa 諸書における 27 という数を導出することはできない。Pāṇini の時代には 28 の列が存在していた(II 325)。というのも彼は abhijit に言及しているからである。nakṣatra の起源が古 Veda 時代にあることは、古 Veda の神格(たとえば Aja ekapād)がその支配神として現れることからも明らかである(II 379)。インドの一年が 27 または 28 掛ける 12 日として計算されず、360 日の太陽年であったため(II 289)、季節の到来は月の中で移動したにちがいない。春の初めは以前は Phālguna に、後には Caitra に落ちた。次第に各々の月が各々の季節に一度は順番に当たらざるをえなかったであろう——もしこの動揺に「五年ないし六年の閏周期によって」一定の制限が加えられなかったならば(II 347, 352)。nakṣatra による月の命名、たとえば Phālguna、Caitra は、ようやく次第に生じたものである(II 327)。Jyotiṣa には、最長日と最短日との差が 6 muhūrta、1 muhūrta = 48 分であるという記述がある。天文学者 Förster の計算によれば、これはインドでは最北西、Attock、Takṣaśilā の地方に当てはまる。しかし同じ比率は Babylon についても伝えられている。Weber は、天文学が Babylon からインドへも中国へも来たという推測を立てている(II 360 以下)。Jyotiṣa の別の箇所は五年周期の始めと終わりを扱う。その記述は Davis の計算によれば前 1391 年に、Sir William Jones の計算によれば前 1181 年に妥当する(II 355)。しかしすでに Weber は、Davis を、そして Colebrooke がそれを受け継いだところの設定へと導いた諸根拠が存在しないことを強調していた(S. 356)。

M. Müller は Rig-Veda-Sanhita 第 IV 巻の序文において、この天文学的年代論にいくらか詳しく立ち入った。Brahman たちの観念によれば、Veda の時代は前 3102 年に始まる Kaliyuga の初めに落ちることになろう。しかしそうであれば Jyotiṣa には季節について別の月が記されていなければならないはずである。Vedāṅga Jyotiṣa に記された対応関係から、Davis は前 1391 年を算出した。かくして Colebrooke は前 14 世紀を Veda の時代とするに至った。Jyotiṣa は、いずれにせよ今日誰もそれほど古いとはみなすまいが、古い規定をその時代を越えて保持していたことはありうる。1391 年という年は誤った計算に基づいているように見える。しかし 1181 年という年には、1862 年に計算を検証した Archdeacon Pratt も到達している(S. XXVI)。Weber に言及することなく、M. Müller はさらに、Weber がこれらの困難な天文学的問題において触れていた他の諸点をも論じている。彼は、Bentley が月がいかにして nakṣatra によって命名されたかをどう説明しようと試みたかを伝えている(S. XXXVI)。nakṣatra の古い一覧は常に Kṛttikā から始まる。他方、春は常に最初の季節とされる(このために Weber II 352 は多くの箇所を集めている)。しかし Veda 文献には "where the vernal equinox is referred, by astronomical observation, to the lunar mansion of the Kṛttikās" という箇所は一つもない(S. XXXI)。M. Müller は次いで "Are the Indian Nakshatras of native or foreign origin?"(S. XXXVIII)という問いに向かい、大いなる確信をもって土着起源を支持する。中国起源についての Biot の理論のみならず、この理論に対する Whitney の修正も、また Weber の

推測、すなわち nakṣatra はその故郷を Babylon にもち、そこから一方では中国へ、他方ではインドへ達したという推測をも、彼は斥ける(S. XLVI)。Whitney は nakṣatra の中国起源説にとどまったが、それが直接ではなく西アジアを経てインドへの道をとったと想定した(S. XLIV)。補遺において M. Müller はさらに、Biot がその死(1862 年)の二か月前に Benfey に宛てて書いた手紙を伝えており、それは "Orient und Occident" I 747 に公表されている。Biot はインド人に占星術的迷信のための原始的な nakṣatra を認めようとしたが、天文学的な nakṣatra は中国に由来するというのである。Weber(I 317 以下)と同様に M. Müller(S. LXVIII 以下)もまた、Koran の月宿 manzil、複数 menazil を考察に引き入れた。これらは旧約聖書の mazzaloth および mazzaroth とともに、西アジアの天文学にとって顧慮されるべきものである。Weber と M. Müller とは、アラビア人の 28 の menazil がインドに由来するという点で一致している。最後に M. Müller は Rig-Veda-Sanhita 第 IV 巻の序文において、再びインドにおける文字の古さの問題に立ち返る。彼は自説にとどまるが、その間にとりわけ Goldstücker が意見を表明していた一連の論点を、長い注(S. LXXIII 以下)において論じている。

§第 XXXIX 章 MAX MÜLLER と BUNSEN

§宗教史

M. Müller の諸著作は、その生涯の第一期においては主として、しかし排他的にではなく、Veda に関わっている。その処女作、Hitopadeśa の独訳(1844 年)および Meghadūta の独訳(1847 年)は、その対象においてサンスクリット文献学の始まりを想起させる。Oxford における彼の教授職は Sanskrit のそれではなかった。彼は繰り返し、その職が彼になお他の学問的義務を課したことを示唆している。しかしそれ以上に、彼は England において最初から Bunsen によって影響を受け、また自らの素質に従って世界史の中の宗教史へと導かれた。Bunsen と Max Müller とは相通じる性格であった。Christian Karl Josias Bunsen は 1791 年に生まれ、1860 年に没し、後に男爵位に列せられたが、当時 London 駐在のプロイセン公使であり、すでに壮年に達していた。それだけに、その書簡に表れている若き同郷人への愛情は際立っている。M. Müller はこれらの書簡を、1868 年に書いた Bunsen についてのエッセイに付している(Essays III Nr. XVI)。それは両者にとって特徴的なものである。あたかも M. Müller が Bunsen によって形成されたかのようである。彼が最初に Bunsen によって重要な人物たちの広い交際圏に導き入れられたことは疑いない。Bunsen は Marburg と Göttingen で神学的・文献学的研究を始め、これを種々の方向へと生涯の終わりまで続けた。世界史の宗教的把握において、またそのエジプト研究において、彼は最も学識あるロマン主義者に列せられてよい。その経歴の初めには、彼はインドへ行く寸前であった。彼が本来心にかけていたものとは奇妙な対照をなして、彼は自らが置かれた外的状況によって、

政治へと引き寄せられ、死の数年前まで外交官職に留められた。彼を二重性格において Wilhelm v. Humboldt と比較することは自然である。もっとも両者は出自、気質、研究方向において十分に異なっており、一方は宗教学において、他方は言語学において重要であり、W. v. Humboldt はその著作によって直接サンスクリット文献学に介入した。Bunsen がインドに関して達成しえなかったことを、彼は若き M. Müller において、障害なく実現へ向かうものとして見た。

Bunsen との協働がまず示されるのは M. Müller の講演 "On the Relation of the Bengali to the Ariyan and Aboriginal Languages of India" であり、これは "Three Linguistic Dissertations, read at the Meeting of the British Association in Oxford, by Chevalier Bunsen, Charles Meyer, and Max Müller"(London 1847)の一つである。より重要なのはその "Letter on the Turanian Languages to Chevalier Bunsen" であり、Bunsen の著作 "Christianity and Mankind" III 263–521 に公表されている。ここで彼は、諸言語の一括の仕方においては行き過ぎているとはいえ、Turan 語という概念を一般言語学に導入した。この論文は Benfey の『言語学史』において多く引用されている。政治情勢と密接に関連するのは彼の著作 "Suggestions for the Assistance of Officers in Learning the Languages of the Seat of War in the East"(London 1854)および "The Languages of the Seat of War in the East, with a Survey of the Three Families of Language, Semitic, Aryan, and Turanian"(第 2 版 1855 年)である。後者には "Appendix on the Missionary Alphabet and an Ethnological Map by A. Petermann" が付されている。この主題について M. Müller は "Proposals for a Missionary Alphabet, submitted to the Alphabetical Conference held at the residence of Chevalier Bunsen"(London 1854)において論じていた。

England においては、学者たちが種々の都市で教養ある人々や知識欲ある人々を前に自らの学問分野の講演を行うことが古くから慣例であった。多くの財団がこの慣習を促進している。M. Müller はこの教授法・叙述法の名手であった。彼の著作のいくつかはそうした Lectures から生まれた。そこから、その流麗な言葉のみならず、多くの冗長さ、同じ事柄の多くの反復もまた説明される。この両者は、しばしば学問的立場から彼に対する非難とされた。たとえば Delbrück が彼の "Einleitung in die vergleichende Religionswissenschaft"(Straßburg 1874)の書評において、Jena の文学新聞 1874 年第 419 号でそうしている。同様に彼のより小さな著作も、イギリスの慣習に従って専門誌のためではなく、Edinburgh ReviewQuarterly Review その他の大雑誌のために書かれ、より広い読者層を想定している。これら形式的に完成された論文の多くは "Chips from a German Workshop"(1867–1875 年)に集められており、第 I 巻と第 II 巻は 1868 年に第二版が出、"Selected Essays on Language, Mythology, and Religion"(1881 年)として選集が出た。序文から明らかなように、"Chips" という題は Bunsen の言葉に由来する。ドイツ語版は "Essays" という題で Leipzig 1869 年以降に刊行された。四巻のうち第 I 巻は Bunsen の追憶に献ぜられている。扱われた主題の大きな多様性は、彼の多面的な才能と、人類の精神史に属するすべてのものへの感受性からのみならず、その生涯の外的状況からも説明される。ドイツ文学、Minne-

歌、Schiller について彼が書いたのは、1854 年に得た Oxford の教授職が Modern Languages のものであったからである。比較言語学は彼がドイツからもたらしたものである。後の Comparative Philology の教授職は、彼の準備によりよく対応し、同時に比較宗教史における彼の研究をも覆っていた。この後者、すなわち彼にあっては Veda に根ざす宗教史への傾向は、しかし Bunsen との親密な交際によって著しく高められ、より広い軌道へと導かれた。これは Bunsen が彼に宛てた書簡からも見て取れる。両者は宗教のうちに人間の最も重要な所有を見、キリスト教をより自由な仕方で把握し、それを世界史的地位において考察し、他の宗教のうちにも神への崇敬を見た。Bunsen は、より自由な思想を教会とその制度においても通用させようと試みたが、それは空しかった。1867 年に書かれた重要な Essays 第 I 巻の序文において、M. Müller は言う(S. VIII):「現実のうちに神的なものを見ること、人間的な弱さと依存性の感情、神的な世界統治への信仰、善と悪との認識、より高くよりよい生への希望、これらがすべての宗教の根源的要素のいくつかである。」同じ箇所には(S. XX)次の言葉がある:「われわれが一つの宗教をその最初の始まりまで遡りうるときはいつでも、われわれはそれをその第一段階においては、後の諸段階において反感を呼ぶ多くの欠陥からおおむね免れているものとして見出す。」彼のエッセイの最初のもの、「Veda についての講義」もまた綱領的である。ここで彼は自らの立場として、世界宗教の研究を言語学の研究の上に置き、「人類の真の歴史は宗教史である」と言う(S. 18)。サンスクリット研究は、古代世界の三大宗教の正典、すなわち Veda、Zendavesta、Tripiṭaka を白日のもとにもたらした(S. IX, S. 21)。この三者の知識の普及に、彼はそのエッセイにおいて、多かれ少なかれ独創性をもって、しかし常に才気豊かに寄与した。Veda についての講義において彼は、啓示の観念がキリスト教にのみ固有なのではなく、śruti という名のもとにインドの文献を初めから終わりまで貫いていることを強調する(S. 15)。ここで彼は、一神教への途上にあるインドの多神教の特質に対して Kathenotheismus という名を用いている(S. 25、上記 S. 283 参照)。

M. Müller は Veda、Zendavesta、仏教に限定せず、世界史の中の一般宗教史に眼を向け続けた。それを証するのは Essays 第 1 巻の "Christus und andere Meister"(1858)、"Genesis und Zendavesta"(1864)、"Die Werke des Confucius"(1861)、"Popol Vuh"(1862)、"Der semitische Monotheismus"(1860)である。これらは、講義の連続から生まれたより大きな著作に先行するものである。すなわち "Introduction to the Science of Religion, Four Lectures delivered at the Royal Institution"(1873、新版 1880)、"Lectures on the Origin and Growth of Religion, as illustrated by the Religions of India, Hibbert Lectures"(1878、最終版 1891)、"Gifford Lectures delivered before the University of Glasgow"(1888–1892):1. "Natural Religion"(1889)、2. "Physical Religion"(1891)、3. "Anthropological Religion"(1892)、4. "Theosophy, or Psychological Religion"(1893)。サンスクリット文献学にとってとりわけ顧慮されるのは Hibbert Lectures であり、独訳は「古代インドの諸宗教を特に顧慮した宗教の起源と発展についての講義」

(Straßburg 1880)である。宗教の成立と発展については、インドの聖典以上に多くを知りうるところはない。とはいえそれは、宗教がどこでも同じ仕方で発展したということを意味するものではない(S. 151 以下)。1873 年の講義において M. Müller は、宗教の根として魂の特別な素質を挙げ、それは不可解なものを把握しようとする努力のうちに現れる、すなわち「絶対者への好奇心、無限者への憧憬、あるいは神への愛」であるとした(S. 26)。この特別な素質を彼は後に放棄し、魂に対する「無限者の圧力」で済ませるようになる。彼が無限者を宗教的意識のすべての対象に対する適切な表現とみなすとき(S. 31)、この理論は Veda の神話と結びついている。すなわち Aditi は Veda において偉大な神々の母であり、その名は語源的に無限性を意味するはずである(S. 260)。かくして彼は第一講「無限者の知覚について」において論じ、第二講において「物神崇拝はすべての宗教の原形か」という問いを否定する(S. 58 以下)。Aditi が無限者を意味するということを、彼は後に疑わしいとした("Die Wissenschaft der Sprache" II [1893] S. 590)。第三講におけるインドの文献的宗教の資料についての概観は、その "History of Ancient Sanskrit Literature" の内容に対応する。第四講において彼は Veda の神格への道を開く。彼は感覚の対象を、把握可能なもの、半ば把握可能なもの、把握不可能なものに分け、その際、無限者の思想も生じるとし、Veda のインド人は、他の古代民族と同様、川、山、大地、天、曙といった半ば把握可能なものと把握不可能なものとを崇拝したのであって(S. 209)、けっして物神崇拝の把握可能な対象を崇拝したのではないと確認する(S. 228)。言語学は、古代アーリヤ人がそれらの崇拝対象をいかに把握したかを認識させる。彼らはそれらに一定の活動を認めた。「それらは彼ら自身が親しんでいたもの」、すなわち打つこと、突くこと、擦ること、測ること、結ぶことなどである。これらの活動を彼らは初めから一定の不随意な音声を伴って行うのを常とした。それが語根である。そうした語根から、崇拝対象の名もまた形成され、それが活動的なものと考えられた神格となったのである。M. Müller はここでさらに彼の言語起源論を展開している(S. 211)。次いで彼は、自らの前提に従って、空想と情感に富んだ仕方で Veda の神格の神話的形成へと向かう。樹木、山、川、大地、海は半神となり、天、太陽、月、曙、火、雷、稲妻、風、雨は神となった(S. 245)。いたるところで Veda の詩人たちは、自然的なものの背後に超自然的なもの、無限なものを見た(S. 254)。すべての神格は人間的形態をまとわされたが、最も多くそうなったのは、天、曙、太陽のように直接自然のうちに目に見えていたのではないものである。すなわち Indra は雨を降らす者(indu「滴」のゆえに、S. 244)、Rudra は咆哮する者、Marut は突き進む者ないし嵐の神々、Varuṇa は一切を包む者である(S. 259, 343)。語源説はすべてが等しく確実というわけではない。同族諸民族の神々との比較はあまり徹底されていない。彼は Kuhn による Sārameya とギリシア語 Hermeias との同定を受け入れた(S. 276)のみならず、Benfey による Dionysos のサンスクリット語 dyu-niś「昼と夜」からの疑わしい説明をも受け入れた(S. 321)。Aśvinau は昼と夜と解されている(S. 240)。Veda の宗教の本質的構成要素は、ṛta すなわち宇宙における秩序と法則の観念であり、その

創設者にして代表者が神々である(S. 272 以下)。Henotheismus、Polytheismus、Monotheismus、Atheismus についての講義において(S. 291 以下)、M. Müller は神々についての Veda の観念を、賛歌全体と多くの個別箇所によって例示している。それらの集成はすでに Muir の Original Sanskrit Texts に存在していた。太陽はとりわけ詩的高揚をもって描かれている(S. 299)。信仰、śraddhā(彼は Benfey とともにその "śrat-" を誤って śru「聞く」から導出している、S. 346)と並んで、すでに Ṛgveda において神々の存在に対する疑いが生じている。しかし無神論は相対的概念である(S. 348 以下)。インド人は古い神々をなお超えて「超有限的なもの、神的なもの」を求めた。最後の講義「宗教と哲学」はとりわけ ātman を、Upaniṣad に従って扱い、そこから主要箇所が翻訳して伝えられている(Prajāpati による Indra と Virocana の教示、Yājñavalkya と Maitreyī との対話、Yama と Naciketas、S. 365 以下)。brahman には彼は詳しく立ち入っていない。この語とラテン語 "verbum" との語源的結合(S. 408)は誤りである。Veda の宗教の発展は、各 Brahman の生涯における四つの āśrama すなわち生活期において反復されるが、それらは Dharma-sūtra および Gṛhya-sūtra に従って叙述される(S. 388 以下)。Brahman は若年時に賛歌を暗誦し、家長として古い祭りを執行し、森の隠者として、また遍歴の乞食として、哲学的認識のうちに内的平安を見出したのである。

無限者の圧力によって生じた純粋な宗教的観念の最初の時代に続いて、諸民族の生においては神話的時代が続いた。M. Müller は後には神話形成をほとんど病的なものとみなしたようで、彼の見解によれば「神話的宗教は健全な宗教を前提とする、ちょうど病んだ身体が健康な身体を前提とするように」("Wissenschaft der Sprache" II [1893] S. 501)。宗教は言語と密接に結びついており、彼はその言語学的著作においては宗教に、宗教学的著作においては言語に立ち返る。神話の解釈と神話的名称の語源的説明においては、彼は常にその「学識ある友 Kuhn 教授」(同書 S. 551)と一致したわけではない。M. Müller は太陽と曙による、また昼と夜の日々の回帰による太陽神話的解釈を好み、A. Kuhn は雲、嵐、驟雨、稲妻、雷による気象神話的解釈を好んだ(S. 610)。Saramā——そこから Sārameya = Hermeias が来る——は、Kuhn によれば嵐であるが、Paṇi たちへの賛歌 Ṛgv. X 108(S. 552)に嵐の痕跡を見出さない M. Müller によれば曙である。M. Müller は Saramā をギリシア語 Helena とも結びつけようとした(S. 550)が、これは rlmn との相違のゆえに成り立たない。同様の対立が Saraṇyū の解釈においてもある。彼女が Vivasvat と結婚するとき、それは M. Müller によれば曙が天を抱くことを意味する(S. 600)。これに対し Roth もまた Saraṇyū を嵐雲と解した。Sārameya とギリシア語 HermeiasSaraṇyū とギリシア語 Erinnys との対応は、音韻的には受け入れうるものの、確実な基本意味には導かない。Aśvinau に関しては解釈の対立はそれほど大きくない。Roth によれば彼らは最初の光をもたらす者であった。「彼らは何者か」と M. Müller は問う(S. 610)。彼らは昼と夜のように相属する神格であり、彼にとっては昼の到来と夜の到来とを表し、毎日回帰するがゆえに共に現れるのである(S. 583)。Roth は Yama と Yamī とを最初の人間

(インド・アーリヤ文献学 I, 1 B.) 19

の対と解した。M. Müller はこの意味の痕跡を Ṛgveda に見出しえない(S. 612)。Yama が双子を意味する限りでは、彼は昼と夜を考える(S. 601)。死の神としては、彼にとって Yama は沈む太陽であり、この語は yam「制御する」からの派生である(S. 605)。さらに空想的であったのは、Essays 第 2 巻の冒頭に置かれた、すでに 1856 年に書かれたエッセイ「比較神話学」における諸解釈であり、その語源説はいっそう大胆である。「Kephalos が Prokris を愛する」は「太陽が朝露に接吻する」を意味し、Prokris はサンスクリット語 pruṣ, pṛṣ「跳ねる」に結びつけられる(S. 78)。Daphne はサンスクリット語 ahan「昼」に属する(S. 82)。Urvaśī は曙であり、それに関連して Kālidāsa の戯曲の分析が与えられている(S. 101 以下)。ギリシア語 Eros はサンスクリット語 aruṣa および arvat に結びつけられ、昇る太陽であるとされる(S. 124)。M. Müller はここで(S. 125)Kuhn の雑誌を参照させているが、そこでは比較神話学が比較言語学の一部門として認められていた。サンスクリット文献学は比較神話学からますます退き、また比較言語学からも退いて、次の世代においては主として神話的なるものの事実を精確に確定することに自らを限るようになった。

1882 年に英語で、1884 年にドイツ語で刊行された著書「世界史的意義におけるインド」においても、一章が Veda の神格を扱っており、そこでより詳細に論じられるのは Parjanya とリトアニアの Perkunas のみである。彼はここで(S. 158)対応の一覧を与えている。すなわち DyausZeusUṣasEosNaktāNyxSūryaHeliosAgniignisBhaga と古ペルシア語 Baga および古スラヴ語 BogŭVaruṇaUranosVātaWotanVācvox であり、「また Marut すなわち嵐の神々の名のうちに、イタリアの戦神 Mars の萌芽が発見された」。これらの直接的対応のほかに、「間接的関係」も確認されたという。すなわち HermesSārameyaDionysosDyuniśya(?)、PrometheusPramantha(?)、OrpheusṚbhuErinnysSaraṇyuPanPavana(?)である。

宗教史の領域における M. Müller の功績には、"Sacred Books of the East" の名で知られる翻訳叢書の刊行も属する。彼は 1874 年 London の国際東洋学者会議においてその発案を行った。二系列で 50 巻が刊行され、そのうち多くは序説によって重要である。第 I 巻——第 XV 巻に続く——は、M. Müller による主要 Upaniṣad の翻訳をもってこの叢書を開いた。第 L 巻は Winternitz が作成した両系列への索引巻である。

【原書 p. 290(承前)】

§第 XL 章 MAX MÜLLER

§言語学

M. Müller の言語学的著作は、その言語分析がサンスクリットから出発しているという限りにおいてサンスクリット文献学と関連をもつが、サンスクリット文献学に対してさほど大きな影響を及ぼしたわけではない。彼が 1861 年および 1863 年に London の Royal Institution で行った "Lectures on the Science of Language" は 14 版を重ね——K. Böttger による独訳が Leipzig 1863 年に出た——、ついに講義の形を脱いで "Science

of Language" として二巻本で刊行された(London 1891)。独訳は R. Fick と W. Wischmann により Leipzig 1892 年、1893 年に出ている。

その内容は各章の標題から明らかである。第一巻:第1章「言語の学、一つの自然科学」、第2章「言語の歴史に対立するものとしての言語の成長」、第3章「経験的段階」(言語の実践的分析)、第4章「分類的段階」(体系的文法)、第5章「サンスクリットの発見」、第6章「インド国外におけるサンスクリットとの接触」、第7章「諸言語の系譜的分類」(インド・ゲルマン諸語)、第8章「セム語族」、第9章「言語の分析」(語根的要素と形態的要素など)、第10章「形態論的分類」、第11章「ウラル・アルタイ語族」、第12章「諸言語の概観」、第13章「諸言語の共通起源の問題」、第14章「理論的段階」(言語の起源の問題など)。第二巻:第1章「言語の学のための新資料」(類推の限界、音韻法則)、第2章「言語と理性」、第3章「アルファベット」、第4章「音変化」、第5章「音推移の法則」、第6章「語源学の原理について」、第7章「言語の諸要素」(語根)、第8章「語根 MAR」、第9章「隠喩」、第10章「ギリシア人の神話学」、第11章「Jupiter」、第12章「曙の神話」、第13章「より新しい神話学」。この内容一覧は、M. Müller が言語学のいかなる対象を好んで扱ったかを認識させる。

M. Müller の言語学は思弁的な性格のものであり、サンスクリットとインド・ゲルマン諸語に限定されず、他の諸言語にも、また言語一般にも向けられていた。彼はそれを宗教学に奉仕させる。Bopp の『比較文法』、Schleicher の『概説』、Brugmann の『概要』は、彼にとってインド・ゲルマン言語学の発展における同数の時代を画するものである。個別研究において彼が先駆者であったわけではない。もっとも彼は種々の重要な対象について詳しく意見を述べてはいる。彼にとって最も重要なのは語源学であり、G. Curtius の『ギリシア語源学綱要』は彼によって多く利用された。Benfey や A. Kuhn と同様に、M. Müller もまだ音韻法則の全面的な厳格さに徹してはいなかった。今日の言語学の立場からは、語根 mar や語根 dyu について、あるいは Parjanya の語根についての彼の論述の多くは非難されざるをえない。彼が Brugmann その他によって代表される新しい研究の進歩を認めていたことは、その著作『言語の学』の序文が示している。しかし彼はなお新しい見解とその体系のうちに根を下ろしてはおらず、自分自身の道を歩んだのである。彼の言語資料の扱い方は、けっして全面的に今日の言語学の体系と矛盾するものではない。彼はその諸問題について、他の誰よりも広い層に対して全体としては的確な観念を与えたのである。

M. Müller は比較言語学のうちに、さしあたり同系とはみなされていない諸語族の考察をも引き入れた。すなわちアーリヤ語族、セム語族、ウラル・アルタイ語族、インド・シナ語族、ドラヴィダ語族、マレー・ポリネシア語族、アフリカ諸語(Kafir ないし Bantu)、アメリカ諸語である。諸言語は W. v. Humboldt によって孤立語、膠着語、屈折語に分類された。M. Müller は、この区分が完全な厳密さをもって維持されうるものではないという見解であった。膠着語はほとんど屈折的となり、屈折語は膠着的な過去をもっている。このことを彼は

1868 年 Cambridge で行った講義 "On the Stratification of Language" においていっそう詳しく論じた。これは École des Hautes Études の学生 Havet によってフランス語に訳され、当時新設された "Recueil de travaux originaux ou traduits relatifs à la Philologie et à l'Histoire Littéraire"(Paris 1869)に収められた。同誌にはそれに続いて、やや早く出た G. Curtius の論文「インド・ゲルマン諸語の年代論」が、École des Hautes Études の répétiteur である Bergaigne の訳で載っている。これも同様の仕方でインド・ゲルマン語の生成過程を扱っている。言語発展における種々の時代を想定することによって、種々の語族、たとえばインド・ゲルマン語族とセム語族との、より遠い親縁関係がその発展のより早い時期に基づいているかもしれないという可能性が開かれるが、これはきわめて不確かな事柄である。M. Bréal は Havet の訳の Avant-propos において、Pott の論文「Max Müller と言語親縁性の標識」(ドイツ東洋学会誌第 IX 巻、1855 年)を参照させている。

M. Müller は繰り返し、さらに一般的な問題、すなわち語根と言語の最初の起源についても論じた。この問題において彼は Ludwig Noiré の影響を受けており、その最後の大著をも彼に献じている。すなわち "The Science of Thought"(London 1887)、独訳は Engelbert Schneider による「言語の光のもとにおける思考」(Leipzig 1888)である。ここには M. Müller の主著に続けて Noiré の「関連する」諸著作も列挙されている(S. XXI 以下)。両者はともに Kant から出発しており、M. Müller はその『純粋理性批判』の英訳を、すでに 1881 年に "Kant's Critique of Pure Reason" として公刊していた。かの著『言語の光のもとにおける思考』において M. Müller は(S. 371)121 の原概念を立てる。すなわち 1. 掘ること、2. 編むこと、織ること、縫うこと、結ぶこと、等々であり、彼はこれを付録において Dhātupāṭha のサンスクリット語根によって例証している。M. Müller の刺激的な一般的思想と、その実際の遂行とは区別されねばならない。後者は今日ではまったく別のものとならざるをえないであろう。語根の個々の意味と音形についても、また互いに類似する、あるいは彼が同音とみなした語根相互の関係についてもそうである。彼は音変化についても論じてはいるが(S. 326 以下)、ヨーロッパ諸語の比較からとりわけ母音組織について、また一般に音韻の存在について生じた訂正と説明とは、彼のもとではまだ適用されていない。かくして彼には(S. 169)語根 「与える」と 「結ぶ」とが同音に見えているが、これらは本来 として異なっていたのである。擬音の原理を M. Müller はごく小さな語群についてのみ認めた。動詞語根の大部分の成立については、Noiré が次のことを指摘していた。すなわち「とりわけ人々が共同で働くとき、田舎の人々が掘ったり脱穀したりするとき、水夫が漕ぐとき、女たちが紡ぐとき、兵士が行進するとき、彼らは常に喜んで自らの作業を一定の、多かれ少なかれリズミカルな音声で伴奏するものである」(M. M. S. 278)。奇しくもこれと一致して、K. Bücher はその 1896 年に初めて公刊された論文「労働とリズム」においてこの現象の重要性を認めさせた。M. Müller と Noiré の理論によれば、語根はそうした人間の作業を伴う音声から生じたのである(上記 S. 288 参照)。そもそも言語の分析と発展からその最初の起源についての観念を得ようとするならば、

この理論を素通りすることは許されないであろう。

サンスクリット文献学にとって、この思考についての著作のうち直接顧慮されるのは第7章であり、そこには Pāṇini と彼に帰せられる Dhātupāṭha についての言及がある。彼は Pāṇini を、Veda 文献を別とすれば最古のインドの著述家と呼び(S. 310)、Buddha と Alexander の間の時代に置く(S. 309)。二大叙事詩を除くサンスクリット文献の全体は、Pāṇini の文法に基礎を置いている。しかし Pāṇini 自身は絶えず bhāṣā すなわち話される言語を参照させており、そこから彼は規則を導き、またそれを自らの規則によって確定しようと試みている(S. 313)。Patañjali は Mahābhāṣya において Pā. VI 3, 109 に対し、śiṣṭāḥ——彼はこれを vaiyākaraṇāḥ によって説明する——すなわち「教育ある者、教養ある者」、より正確には文法的に教育を受けた者たちを、正しい言語使用の権威として指示しており、しかも Āryāvarta と呼ばれる地域の śiṣṭāḥ をである。M. Müller はこのことを、Jacobi に先立ってすでに彼の Rāmāyaṇa についての著作の序説において強調していた。彼はここでまた Mahābhāṣya の冒頭、Vārttika 5 をも参照させているが、そこでは Patañjali が古い文献と並んで、種々の地方、Kamboja、Surāṣṭra 等の方言をも言語の源泉として挙げている。

すでに言及した彼の最後の大著『言語の学』(1892 年)の第5章において、M. Müller はアーリヤ・インドの地における言語発展の素描を与えたが、そこには重要なものと蓋然的なものとを見分ける、彼に固有の明晰な眼が働いており、Senart、Hoernle、Beames、Grierson の業績に依拠している。Apabhraṃśa が民衆方言の非文語的形態であるという本質を、彼はすでに Pischel に先立って正しく把握していた。Pāli が Māgadhī の一形態であるという性格を彼は堅持し、これを Ujjayinī の方言とみなした Westergaard および E. Kuhn、また Andhra 王国の古い言語と解しようとした Oldenberg に対置している(S. 165)。言語史にとってもはかりしれぬ価値をもつ Aśoka 碑文のうちに、彼は民衆語を初めて文字による表現にもたらそうとする、多かれ少なかれ成功した試みを見る(S. 160)。Aśoka 碑文の両方の文字体系は、セム起源のアルファベットに依拠して形成されている(S. 166)。第6章では、ユダヤ人におけるインドの知識、ギリシア、中国、ペルシア、アラビアの報告、および Vasco da Gama 以降 Sir William Jones、Lord Monboddo、Dugald Stewart、Friedrich Schlegel に至るまでの宣教師その他の報告についての概観が与えられている。

§第 XLI 章 MAX MÜLLER

§サンスクリット文献のルネサンス

M. Müller は繰り返し、Veda と古代仏教とをインド史の本来重要な現象と呼び——新しい世代のうちでは Oldenberg も同様である——、また、世界史的にはより重要でない後代のサンスクリット文献が最初にヨーロッパの学者の注意を捉えたことを遺憾としてきた。しかし 1882 年に刊行された著作 "India, what can it teach us"——C. Cappeller による独訳「世界史的意義におけるインド」(Leipzig 1884)——において、彼は

古典サンスクリット文献をも扱っており、それは彼にとって「サンスクリット文献のルネサンス」という自らの理論に照らして高められた意義を得ていたのである。E. B. Cowell に献ぜられたこの書物は、Cambridge で行われた講義から生まれた。その内容と調子とは、一部には、聴衆のうちにいた Indian Civil Service の候補者たちに、インド人とその古い文献の重要性についての好意的な意見を植えつけようとしたことから説明される。「Hindu の真実感覚」についての講義において、彼は Mill の History of British India に含まれる不利な評価に対して Hindu の性格を擁護している。この書物に特別の意義を与えたサンスクリット文献についての節は、末尾の補論(S. 245–321)にはじめて置かれている。この補論は、彼が自らの理論を最初に述べた第3講の一箇所(S. 75)に接続している¹⁾。

政治的背景をなすのは「Turan の侵入」、すなわち諸部族の侵入である。それは Śaka、Scyth、Indo-Scyth、Turushka であり、中国の年代記では Yueh-chi と呼ばれる。彼らは前一世紀頃から後三世紀まで北インドを支配した(S. 69 以下)。その最大の王は後一世紀の Kaniṣka である。同じ時期に「インドのバラモン文献における裂け目ないし間隙」が落ちる(S. 70)。それは「前 100 年から後 300 年までの四つの空白の世紀」である(S. 307)²⁾。

その後にサンスクリットは再び蘇り始める。この時代のより古い作品は失われており、ルネサンスの最盛期は六世紀、確実に年代づけうる天文学者 Varāhamihira の時代であった。現存する古典サンスクリット文献——大部分は mahākāvya——のいかなる作品も、後五世紀より遡らせることはできないという。以前は Augustus の同時代人として描かれていた Kālidāsa は、Justinian の同時代人であった(S. 307)。その彼方にあるのは Veda 文献と古代仏教文献のみである。M. Müller は、当時彼にとって顧慮されると思われた最重要の著者たちの時代を論じている。その大部分は、彼以前にもそれより早くは置かれていなかった。より後の時代への移動によって主として影響を受けたのは Mānavadharmaśāstra と Kālidāsa である。これらの研究において M. Müller は、彼以前の研究者たちがすでに取り組んできた種々の問題に態度を決めねばならなかった。ここにはより古い諸論文が記録されており、それらは当時なお影響を及ぼしていた。

まず古典サンスクリット文献の二つの主要紀元が論じられている。彼の「学識ある友 Bühler 教授」は、前 56 年に始まる Vikrama 紀元は、キリスト紀元の初め以前に統治したある王 Vikramāditya によって導入されたという意見を常に堅持していた(S. 249)が、M. Müller は Fergusson の「建築学的天才」がその論文 "On the Śaka, Samvat, and Gupta Eras" において立てた理論を採用した。すなわち、Vikramāditya 紀元の初めとしての前 56 年は、後 544 年の Korur の大会戦——そこで Vikramāditya すなわち Ujjayinī の Harṣa が Mleccha を決定的に破った——から出発し、新紀元の始まりを 600 年遡らせることによって得られたというのである(S. 246)。なぜそうしたのかは

¹⁾ M. Müller に先立ってすでに私は「バラモン的ルネサンスの時代」について、Leipzig における就任講演「バラモン哲学について」(週刊誌 "Im Neuen Reich" 1878 年第 21 号 S. 4)で述べたことがある。当時私が考えていたのは、仏教に対するバラモン教の再度の強化のみであった。

²⁾ これについては Weber の書評(Deutsche Litt.-Zeit.)を参照。Ind. Stud. XVIII 473 以下に再録。

語られていない。Korur の会戦についてのこの記述は、Alberuni の India 第 XLIX 章からのみ知られており(Sachau の訳 1910 年、第 II 巻 6 参照)、確証を得ていない。Śaka はもう少し早く敗れており、それによって Fergusson の計算は根拠を失っている。Śaka の敗北については、すでに上記第 I 巻 S. 180 で論じた。

「Ujjayinī の Vikramāditya Harsha の時代」という誤解を招く標題のもとに(S. 250)、M. Müller は次いで Kānyakubja の大王 Harṣa(あるいはその出自により Sthāṇvīśvara すなわち Thāneśar の王)を論じている。彼は Hiuen-Thsang の同時代人であり、Hiuen-Thsang は彼を Śīlāditya と呼び、Bāṇa の Harṣacarita の主人公である。しかしこの Harṣa は Vikramāditya の紀元とも Śaka の敗北とも関係がない。後 78 年の Śaka 紀元(S. 255 以下)もまた、サンスクリット文献のルネサンスとはゆるやかな関連しかもたない。Fergusson は、Śaka 紀元が碑文において Vikramāditya 紀元より早く現れることを指摘し、その始まりを Kaniṣka の灌頂と結びつけていた。Oldenberg も同じ推測に達していたにもかかわらず、M. Müller はこれを、Vikramāditya 紀元の起源についての Fergusson の推測ほど無留保には受け入れることができなかった。彼自身が Śakāri と Śakāra について述べていること(S. 259)は、ほとんど蓋然性がない。

紀元の創設者たる Vikramāditya が彼の見解によれば後六世紀に生きたのであるから、彼は「Kālidāsa とその友人たち」、すなわち Vikramāditya の宮廷の「九宝」が同じ時代に生きえたのではないかという問いを立てる(S. 262)。Kālidāsa と Bhāravi とが七世紀の一碑文に言及されていることは、彼も知っていた。Vasubandhu が「Śrāvastī の Vikramāditya」の同時代人であったという Hiuen-Thsang の記述は、彼にこの人物およびその時代の他の仏教教師についての考察を促す。Bhao Daji と Weber は、Mallinātha が Meghadūta 第 14 詩節に対して Dignāga と Nicula とを Kālidāsa の同時代人として挙げていることに注意を促していた(S. 266)。かくして後六世紀、Vikramāditya と Śīlāditya の時代は、Asaṅga と Vasubandhu の指導のもとにおける仏教文献のルネサンスをも意味する(S. 269)。Rājataraṅgiṇī III 125 以下は、有名な詩人 Mātṛgupta について報じており、彼は Harṣa とも呼ばれた Ujjayinī の王 Vikramāditya、Śaka の殲滅者のもとに来て、Pravarasena が支配権を得る前に、この王によって Kaschmir の王とされたという。M. Müller は、Mātṛgupta は Kālidāsa の別名にすぎないという Bhao Daji の不確かな推測を挙げている(S. 272)。Bhao Daji の論文からさらに彼は、Kālidāsa が七世紀前半に属する Bāṇa の Harṣacarita の序詩に言及されていることを伝えている。しかし挙げられた二詩節からは、Kālidāsa と Pravarasena との関係を推論することはできず、また Kālidāsa が Setubandha の作者であることも推論できない。というのも、本文において二詩節の間には Bhāsa についての一詩節があるからである。

ルネサンス期の最初期の作品には天文学者たちの著作も属する。これについても彼は同じく Bhao Daji の論文を利用した。すなわち "On the Age of Āryabhaṭṭa"(JRAS. 1865)、"On the Age and Authenticity of the work of Āryabhaṭa, Varāhamihira, Brahmagupta, Bhaṭṭotpala, and Bhāskarācārya" である。九宝には Amarasiṃha と Vetālabhaṭṭa も属する。

Amarasiṃha の時代についての Cunningham の組み合わせ——失われた一碑文に基づく——、および Vetālabhaṭṭa に関する Bhao Daji の組み合わせは、このルネサンス

の年代論に確実なものを何ら寄与しない。当時の有名な古い詩人のうち、Kālidāsa に最も近いのは Daṇḍin である。Colebrooke が言及する、Daṇḍin についての Kālidāsa の評言は保証されていない。M. Müller は、Daṇḍin が Daśakumāracarita I 34 において Setubandha に言及していることを指摘している。Bāṇa と Subandhu については、彼は Hall と Peterson による Kādambarī および Vāsavadattā の校訂本を、その序説とともに利用しえた。Bāṇa は確実に七世紀に属し、Subandhu は彼に先行したように思われる(S. 284)。Bhavabhūti については、その戯曲 Mālatīmādhava の校訂本に付された R. G. Bhandarkar の序説が基礎となった。Bhavabhūti は Rājatar. IV 144 によれば、八世紀初めに生きた Kānyakubja の Yaśovarman と関係にあり(S. 288)、Rāvaṇavaha の模倣である Gauḍavaha の作者 Vākpatirāja も同様である。

自らの目的に使える若干の記述を、M. Müller は当時最新の、Jaina の年代と年代論についての Jacobi および Klatt の著作、すなわち H. Jacobi の Kalpasūtra 校訂本(Leipzig 1879)の Introduction、および J. Klatt の "Extracts from the Historical Records of the Jainas"(Ind. Antiqu. XI, 1882)のうちに見出した。Jacobi は Bühler の重要な記述を利用し、Klatt は Bhao Daji が Merutuṅga の Therāvalī から与えた報告(Journal of the Bombay Br. RAS. IX)に接続した。Jaina 教の創始者 Vardhamāna Mahāvīra Jñātaputra は Buddha の同時代人であった。その nirvāṇa の 980 年後、前 526 年ないし 460 年に(Buddha の nirvāṇa を 543 年とするか 477 年とするかに応じて)Devarddhigaṇin Kṣamāśramaṇa が生きた。彼には現行の Jaina 正典の文字による編纂が帰せられている。これもまた、その時代の精神的活発さの一証左といえよう。Jacobi は、同じく後五世紀に Buddhaghoṣa が仏教について同様のことを行ったと指摘していた(S. 290)。ある Jaina の著述家 Siddhasena が、王 Vikramāditya のために Samvat 紀元を設定したのだという。M. Müller は、この Siddhasena が Romakasiddhānta の作者たる天文学者 Śrīṣeṇa と同一人物かどうかを論じているが、確実な決定には至っていない。

「七世紀インドの文学的状況についての予期せぬ報告」(S. 292)を、M. Müller は中国の巡礼者 I-tsing の旅行記のうちに見出した。それは彼の日本人の弟子 Kasawara を通じて彼に利用可能となったものである。それはサンスクリット文法の学習、とりわけ Kāśikāvṛtti に関わる。Pāṇini の Sūtra に対するこの注釈が Jayāditya によって始められ、Vāmana によって完成されたことは知られていた。I-tsing は Jayāditya のみに言及し、彼は自らの時代(後 690 年)より約 30 年前("nearly" Takakusu)に没した、すなわち 660 年頃であるという(S. 300)。M. Müller は、その継承者 Vāmana が、Cappeller によって校訂・翻訳された Kāvyālaṃkāravṛtti(「Vāmana の詩学教本」Jena 1875、「Vāmana の文体規則」Straßburg 1880)の著者と同一人物であるかという問いを否定する。Cappeller もまた最終的には両者の同一性に反対を表明していた¹⁾。I-tsing が次いで Patañjali の Mahābhāṣya を、ここでは Cūrṇi と呼んで言及しているのは、学習の順序に基づくものであろう。それに続いてこの Cūrṇi に対する Bhartṛhari の注釈が来る。Bhartṛhari についても I-tsing は重要な情報を与えている。Bhartṛhari は I-tsing の時代の 40 年前、すなわち 650 年頃に没した。

¹⁾ Th. Zachariae の指摘によれば、Kāśikā についての節は M. Müller の書物においてまず "Academy" 18, 223 以下、242 以下に発表され、次いで "revised by the author" として "Indian Antiquary" 9, 305 以下に載った。

彼のもう一つの主著は Vākyapadīya であるが、彼は kāmanītivairāgya についての三 śataka の Bhartṛhari と同一人物でもありうる。というのも、彼は仏教徒ではあったが、I-tsing が語るように kāmadharma との間で動揺していたからである(S. 302 以下)。

二大叙事詩の「資料、成立、最終編纂」については、今日なお完全な明晰さは得られていない。しかし「前 100 年から後 300 年までの文学的間隙」についての彼の見解は、この方面からはほとんど何の変更も受けないであろう。M. Müller の理論への反駁において、Bühler はまさに Mahābhārata から着手した。M. Müller は Mahābhārata についての年少の Adolf Holtzmann の諸論文と、Rāmāyaṇa についての Weber の論文とを知っていた。後者におけるギリシアの影響と、Bhagavadgītā におけるキリスト教の影響とを、彼は断固として否定している(S. 309)。HitopadeśaPañcatantra とを彼はそのルネサンス期に数える。彼は「Benfey の偉大な発見」、すなわちこれらの寓話が仏教の集成を前提とするという説を語るが、これを Hertel は認めていない。Bühler によって、Somadeva の Kathāsaritsāgara に加えて Kṣemendra の Bṛhatkathāmañjarī が知られるに至り、両者はともに Paiśācī で書かれた Guṇāḍhya の Bṛhatkathā に遡る。これは Daṇḍin と Subandhu に知られており、M. Müller によれば後一世紀あるいはさらに古い時代に由来しうる。それがサンスクリットで書かれていないことは、彼の理論にとって好都合である。

さらに M. Müller は言う。六つの哲学的 darśana の Sūtra が、われわれが今日もつ形において後 300 年以前に成立したことを証明するものは何も提出されていない、と(S. 312 以下)。K. P. Pathak は、Vedānta-sūtra の注釈者にして他の Sūtra をも知っていたにちがいない Śaṅkara が後 788 年に生まれたことを確定した。Kern によって、Kapila と Kaṇabhuj とが Varāhamihira に言及されていることが、Hall によって、Bāṇa が Harṣacarita において Aupaniṣada、Kāpila、Kāṇāda を語っていることが知られるに至った。しかしこれらの体系の本文に対する最古の証拠は、後六世紀の Sāṃkhyakārikā の漢訳であり、それには一注釈が伴っているが、Kasawara の言によればそれは Gauḍapāda の注釈に等しいという。Hiuen-Thsang は Vaiśeṣika の一書を漢訳し、仏教徒によって書かれた Nyāya の諸書を挙げている。

Jaina における言及については、M. Müller は Weber、Jacobi、Leumann の業績に依拠しえた。Kalpasūtra においては全文献の列挙のうちに Saṭṭhitaṃta(Ṣaṣṭitantra)が言及され、注釈では Kāpilīyaśāstram と呼ばれ説明されている(Jacobi の校訂本 S. 101 参照)。Weber が扱った Jaina の著作 Bhagavatī にもそれは現れる。Mānavadharmaśāstra は以前はとりわけ古いとみなされていた。伝承ではそれは Bhṛguproktasaṃhitā と呼ばれる。M. Müller はその起源についての解明を Burnell と Bühler に期待し、Mānavagṛhyasūtra についての v. Bradke の「入念な」論文を知っていたが、それが 12 adhyāya からなる現在の形において後 300 年以前に存在したという証拠はどこにも見出さなかった。Vṛddha Manu に帰せられる引用詩節においてすら、ギリシアの黄道十二宮が言及されている(S. 316 以下)。

M. Müller の「サンスクリット文献のルネサンス」についての補論は、より詳細に紹介されるに値したであろう。というのも、それは今日なお完全には片づけられておらず、文学史的研究の方向づけに本質的に寄与し、また 1884 年までの古典サンスクリット文献の領域における年代学的研究の現状を、一人の卓越した

学者の筆によって概観させてくれるからである。この理論について真であろうことは、異民族支配の諸世紀が、また仏教の優遇が、重要なサンスクリット文献の発展に有利ではなかったこと、Veda と関連しない異端的ないし世俗的な作品も、また碑文も、さしあたり民衆語で書かれたこと、そして Śaka に対する勝利の後に Gupta 朝のような強力な土着の君主たちが現れ、その宮廷でバラモンが再び重んじられるようになったとき、そこに転換が生じたということである。しかし、サンスクリットが前 100 年から後 300 年まで北インドにおいて死語であった、しかも O. Franke が考えたように Kaschmir から新たに導入されねばならなかったほど死んでいた、ということは、ますます誇張と判明するであろう。

§第 XLII 章 MAX MÜLLER・仏教

仏教には Essays 第 1 巻の四つのエッセイが充てられており、そのうち最も古いものは 1857 年に遡る。エッセイ X「仏教巡礼者」の最も価値ある部分をなすのは、Stanislas Julien の "Voyages des Pèlerins Bouddhiques" 第 I 巻 "Histoire de la Vie de Hiouen-Thsang, et de ses voyages dans l'Inde"(Paris 1853)に依拠した、Hiuen-Thsang の生涯と旅行についての短い報告である。第 II 巻 "Mémoires sur les Contrées Occidentales"、すなわち Hiuen-Thsang 自身の日記の第一部を含むものを、M. Müller は当時(1857 年)刊行されたばかりのものとして言及している。この報告には、Buddha とその教えについての宗教史的考察が先行している。M. Müller は nirvāṇa をその本来の意味において完全な滅却と解し、これについてエッセイ XI「nirvāṇa の意味」において再び立ち返っている。エッセイ XII「サンスクリット文献の漢訳」において、彼は Stanislas Julien の重要な論文 "Méthode pour déchiffrer et transcrire les noms sanscrits qui se rencontrent dans les livres chinois"(Paris 1861)と、Rājendralāla Mitra による gāthā(Lalitavistara 等における)の把握とを論じ、後者を Burnouf のそれより好んでいる。gāthā は、Buddha の言葉と行為とを民衆的な詩句で伝えた吟遊詩人たちの所産であり、「そして人々はやがてそれを、仏教の開祖に結びつくすべての情報の最も信頼すべき典拠とみなすことに慣れていった」(S. 260)。エッセイ IX「仏教について」は、上記第 I 巻 S. 139 ですでに言及した Barthélemy St. Hilaire の書 "Le Bouddha et sa Religion" によって喚起されたものである。それに従って彼は仏教研究の歴史を素描している。Hodgson、Csoma de Kőrös、I. J. Schmidt によって Nepal、Tibet、Mongol の仏教が、Turnour によって Ceylon の仏教が知られるに至った(S. 171)。Burnouf はこの宗教の体系的研究の基礎を据えた(S. 176)。新たに加わったのは、Hiuen-Thsang の旅行記のほかに、とりわけ Rājendralāla Mitra による Lalitavistara の校訂本と Foucaux によるそのチベット語版の翻訳、および Fausböll による Dhammapada の校訂本とラテン語訳である。この二つの本文は一時期、Buddha の生涯と教説についての主要典拠であった。Dhammapada の注釈からは、"Buddhaghosha's Parables : translated from Burmese by Captain T. Rogers, R. E."(London 1870)における大部分の譬喩も由来する。この書に M. Müller は序説を

書いた。それは M. Müller による Dhammapada の翻訳を含み、Sacred Books of the East 第 X 巻に再録され、それに先立って Buddhaghosa と Ceylon における Aṭṭhakathā についての歴史的記述が Mahāvaṃsa に従って置かれ、また Dhammapada の評価が述べられている。その題名を彼は "Path of Virtue" と解するが、Fausböll はこれを "Collection of Verses of the Law" と解していた¹⁾。M. Müller はここで、仏教がどこまで無神論であり虚無論であるかという問題を論じている。万物の創造者を Buddha はたしかに知らないが、神々と神々の世界とは十分に知っている。仏教の形而上学的教説によれば nirvāṇa は絶対的な無であるとする Burnouf の説は正しいが、M. Müller は Dhammapada の諸詩節を挙げ、そこでは nirvāṇa が無ではなく最高の至福と解されているとする。Dhammapada の詩句のうちに彼は Buddha 個人の教えを見る。譬喩のうちからは Kisāgotamī の物語を取り上げている(S. VIII)。これについてはその後、Pischel の勧めによって Jakob H. Thiessen が学位論文「Kisāgotamī の伝説」(Breslau 1880)を書いた。Thiessen は Kisāgotamī の物語を M. Müller と同様に「真の仏教の一標本」とみなし、同様の内容のギリシアの物語をこの仏教説話に遡らせようとする傾向をもつが、これは反対の見解であった Weber および Rhode と対立する。M. Müller は Benfey とともに、PañcatantraHitopadeśa の寓話が仏教の資料に由来すると考え、これを Vattaka-jātaka の一詩節において語句の上でも例証しようとした(S. XXII)。

Anecdota Oxoniensia の Aryan Series 第 I 巻における Buddhist Texts from Japan の刊行へと M. Müller を促したのは、彼の日本人の弟子、仏教僧 Bunyiu Nanjio と Kenjiu Kasawara であり、彼らはサンスクリットを学ぶため 1879 年に Oxford に来ていた。彼は両者に Biographical Essays において記念碑を建てている。日本の寺院、とりわけ法隆寺には、さしあたり漢訳・チベット訳・モンゴル訳からのみ知られていた種々の Mahāyāna の作品のサンスクリット本文が、きわめて古い貝葉写本において保存されている。M. Müller は友人たちの助けを得て、これらの写本のいくつかを写本ないし原本の形で Oxford に取り寄せることに成功した。第 I 部は Prajñāpāramitā と呼ばれる "Vajracchedikā, The Diamond-Cutter"(Oxford 1881)を含み、そのチベット語版はすでに 1837 年に I. J. Schmidt によって独訳されていた。より重要なのは、中国と日本に広く行われ、後四世紀まで遡りうる「真宗」ないし "Pure-Land Sect" の教典である。それは長短二つの recension において第 II 部 "Sukhāvatī-Vyūha, Description of Sukhāvatī, the Land of Bliss"(Oxford 1883)の内容をなす。その刊行には Bunyiu Nanjio が本質的に関与している。長い方の recension の本文は Nepal の写本に基づく。付録 II の短い本文を、M. Müller はすでに 1880 年に Journal of the RAS. において日本の写本から公刊していた。これら北方仏教の本文における詩句の言語は、M. Müller を繰り返し従事させた。彼は Muir の "Original Sanskrit Texts" II のほか、Eduard Müller の「Gāthā の方言」を参照している。

¹⁾ 私には Dhammapada は字義的に「dhamma の座、すなわち Buddha の教えが見出される座」を意味するように思われる。碑文における Brahma の名称としての amṛtapada を参照:jayati jagattrayajanmasthitisaṃhṛtikāraṇam parabrahma satyam anantam anādi jñānātmakam ekam amṛtapadam(South Indian Inscr. Vol. II Part III, ed. E. Hultzsch, S. 346)。

この「特殊な仏教サンスクリット」を含む本文としては、順次 Lalitavistara(1853–1877)、Kāraṇḍavyūha(1873)、Sukhāvatīvyūha 短本(1880)、Meghasūtra(1880)、Vajracchedikā(1881)、Mahāvastu(1881)が現れていた(Preface S. XIV 以下参照)。古文書学にとって重要なのは第 III 部 "The Ancient Palm-leaves containing the Prajñā-Pāramitā-Hṛdaya-Sūtra and the Ushṇīsha-Vijaya-Dhāraṇī" である。M. Müller は中国に由来するこの二葉の貝葉の写真を入手したが、それらはすでに後 609 年以来、大和国の法隆寺の所蔵であった(S. 64)。またそれ以前の複製の写真も彼の手元にあった。この dhāraṇī は他にも写本や碑文において、「漢字音写を伴って」見出されている。資料の整理に際しては Bunyiu Nanjio が彼を助けた。"Palaeographical Remarks on the Horiuzi Palm-leaf Mss."(S. 63 以下)は Bühler によるもので、インド古文書学の歴史における里程標をなす。これらの貝葉の文字は、Bendall がその "Catalogue of Buddhist Sanskrit Manuscripts" で記述し、その年代が疑問視されていた Cambridge 所蔵の Nepal 古貝葉写本の文字に類似している。かくして、後最初の数世紀から九世紀まで、北インドのみならず、同種の文字の碑文から推論すればインドの全地域にわたって、発達したアルファベットが貝葉に用いられていたことが判明した。このアルファベットから、すでに早い時期に Kaschmir の Śāradā 文字が分岐した(S. 88)。

仏教の教義学研究にとって有用な補助手段が第 V 部 "The Dharma-Saṃgraha, An Ancient Collection of Buddhist Technical Terms"(1885)である。この著作は仏教の最重要概念の一覧を、Pāli TipiṭakaAṅguttaranikāya におけるように一定の数によって群に整理して含んでいる。たとえば pañca skandhāḥ, rūpaṃ vedanā saṃjñā saṃskārā vijñānam ceti のごとくである。これを刊行しようとしていた Kasawara の早い死の後、M. Müller が H. Wenzel と共同で刊行を引き受けた。とりわけ価値があるのは "Notes" であり、そこには Kasawara がすでに集めていた術語の用例の典拠が与えられている。Preface の末尾には、当時(1885 年)そうした目的のために顧慮された著作の一覧がある。

Heinrich Wenzel は 1855 年 Mainz に生まれ、1893 年 London に没した。Jena、Leipzig、Tübingen で学んだ。その学位論文「Ṛgveda における具格について」(Tübingen 1879)は、Delbrück の統語論的研究に続く位置を占めるであろう。その特別の研究方向は Oxford の Max Müller によって与えられた。彼は Straßburg に短期間滞在した後、Noiré の推薦状をもって Max Müller のもとへ赴いたのである。M. Müller の助言により、彼は 1881 年に Herrnhut の宣教師 H. A. Jäschke のもとへ行き、そこで二年間チベット語の研究に専念した。早くも 1883 年には Trübner の "Collection of Simplified Grammars" における Jäschke の "Tibetan Grammar" 第二版を担当した。その後、彼の研究領域は北方仏教文献のチベット語版となった。彼は「Suhṛllekha——Nāgārjuna の Udayana 王への手紙。チベット語より Heinrich Wenzel 訳」(Leipzig 1886)によって Leipzig で私講師の資格を得た。同様の翻訳や他の小さな仕事を、彼は 1886 年に Journal of the Pāli Text Society に(その一つは Divyāvadānagāthā の一覧)、1883–1893 年に Journal of the R. Asiatic Society に、また Academy にも公にし、さらに "The Legend of the Origin of the Tibetan Race" を R. Roth への祝賀論集に、Huth の業績についての書評を Wiener Zeitschrift に発表した。チベット語の知識によって

彼は M. Müller の Dharmasaṃgraha 刊行を助けたのみならず、Cowell の Buddhacarita 校訂をも助けた(その Preface S. V 参照)。Wenzel は Leipzig では講義を行わず、私講師資格取得後まもなく London に赴き、そこで完全に自らの研究に埋没した。その文献的遺稿は Halle のドイツ東洋学会図書館にあるが、まだ精査されていない。チベット語仏教文献の媒介においては、彼は I. J. Schmidt、Foucaux、Schiefner、Huth の列に属する。個人的な面識に基づいて Liebich が『一般ドイツ人名辞典』の項目を、また家族から得た書簡に基づいて Babinger が『ヘッセン人名辞典』第 I 巻 S. 304–309 に、より多く個人的なことを含む項目を書いている。

§第 XLIII 章 MAX MÜLLER・バラモン哲学

死の一年前に M. Müller はなお最後の大著 "The Six Systems of Indian Philosophy"(London 1899)を公にした。その主要な価値は六体系の総括にある。というのも、個々の体系の教説はすでに久しく知られていたからである。彼は Vedānta についての Deussen と Thibaut の業績、Sāṃkhya 体系についての Garbe の業績を賞讃している。彼自身はすでに 1849 年にドイツ東洋学会誌第 VI 巻において Vaiśeṣika 体系について、また 1894 年に三回の講義において Vedānta について論じていた。Bādarāyaṇa と Kapila のために彼は "Walhalla of real philosophers" における名誉席を要求する(Preface S. XVII, XX)。付け加えてよいのは、論理学と自然哲学の歴史においては Nyāya と Vaiśeṣika もまたそうした席に値するということである。Introductory Chapter および第 II 章 "The Vedas" においては、われわれは再び M. Müller の古い愛好の対象に出会う。第 III 章にはやや短い "Books of Reference" の一覧(S. 114)と、Sūtra 諸書の年代についてのやや概括的な考察(S. 116)がある。六体系の最初の創始者たちは Buddha の時代に属しうるが、仏教はいずれの体系もその文献的形態においては前提としていない。M. Müller はここでも最古の時代について "mnemonic literature" を語る(S. 121)。諸体系の漸次的形成は Buddha と Aśoka の間の時代に行われたであろう。もっとも Vedānta、Sāṃkhya、Yoga の教説は Veda まで遡って追跡しうる。われわれの手元にある Sūtra 諸書は古くなく、現行の Sāṃkhyasūtra に至っては後 14 世紀にはじめて由来する(S. 289 参照)。最古の哲学的本文の一つは Sāṃkhyakārikā であり、これは後六世紀に古い Sūtra を駆逐したように見える(S. 122)。

六つのバラモン体系——それらはすべてなお Veda と両立する——の叙述に先立って、M. Müller は異端側の声として唯物論的な Bṛhaspati 派ないし Cārvāka 哲学を置き(S. 123)、Cowell のこれについての論文には言及していない。また、インドの諸体系に共通する哲学的観念についての一節を置いている。すなわち 1. saṃsāra、2. Immortality of Soul、3. Pessimism、4. karman、5. Infallibility of the Veda、6. Three guṇa である(S. 137 以下)。

第 IV 章から第 IX 章は六体系に充てられ、その対象を彼は自らの哲学的な仕方で論じている。Vedānta を

Upaniṣad の教説に還元するに際して、彼は Colonel Jacob の "Concordance of the Principal Upanishads" と Deussen の『六十 Upaniṣad』の翻訳とに言及している。Advaita として知られる Śaṅkara の Vedāntasūtra 解釈に対して、Viśiṣṭādvaita と呼ばれる Rāmānuja の解釈が対立し、後者によれば個我にも物質的世界にも実在性が帰せられる(S. 247)。Thibaut が Rāmānuja の教説を最初に正しい光のもとに置いたが、Sacred Books of the East における彼の Śrī-Bhāṣya の翻訳は当時まだ出ていなかった。

Sāṃkhya 哲学についての第 VI 章において、M. Müller は Tattvasamāsa のうちに古い Sāṃkhyasūtra の一形態が保存されているという説を支持する(S. 294)。彼は Ballantyne によって知られるに至ったこの小著を "the oldest record that has reached us of the Sāṃkhya-philosophy" と呼ぶ(S. 318)。古いのはまた、まず Lassen、Colebrooke、Wilson によって知られるに至った Īśvarakṛṣṇa の Sāṃkhyakārikā であり、これはすでに後六世紀に漢訳されている。それに対する一注釈も同様であるが、これは Takakusu の最初の研究においてすでに Gauḍapāda の注釈と同一ではないことが判明した(S. 292)。Gauḍapāda はより後に生きた。そうでなければ彼が Śaṅkara の師(Govinda)の師でありえたはずがない。Takakusu はその後、漢訳のフランス語訳をその著 "La Sāṃkhyakārikā étudiée à la lumière de la Version Chinoise"(Hanoi 1904、Bulletin de l'École Française d'Extrême-Orient 抜刷)において公にし、両注釈、すなわち漢訳のものと Gauḍapāda のものとが、伝承において Vasubandhu に帰せられるより古い bhāṣya に遡ることを蓋然的なものとした。

M. Müller が後一世紀に置く Aśvaghoṣa が、その Buddhacarita 第 12 章において Ārāḍa Kālāma に、三 guṇa の教説を欠く Sāṃkhya の古い一形態を説かせているにもかかわらず(S. 311)、彼は "that either Buddha borrowed direct from Kapila or that Kapila borrowed from Buddha" とは信じなかった(S. 389, 314)。しかし別の箇所では、Sāṃkhyasūtra 第 4 章におけるように、また仏教徒も好んだように「譬喩」によって教えるという最初の刺激が Kapila の徒から発したという可能性を認めている(S. 401)。おそらくはむしろ、Jaina における同じ慣行を想起する方が近いであろう。

Buddha が菩提樹のもとで悟ったとされる paṭiccasamuppāda すなわち nidāna の教説と、Sāṃkhya-Yoga の教説との連関——これは 1898 年ドイツ東洋学会誌第 LII 巻 S. 1 以下において Jacobi によって主張され、S. 681 以下において Oldenberg によって否定されていた——を、M. Müller はここでは言及していないが、さらに進んで Nyāyadarśana 第 2 Sūtra にそれとの類似を見出している(S. 495)。Senart はその著 "Origines Bouddhiques"(Paris 1907)において仏教を主として Yoga から導出しようとする。しかしかの教説は Bṛhadāraṇyaka まで遡って追跡しうる。本『歴史』の著者が「Buddha の誕生」S. 38 以下で証示したとおりである。仏教全体が Upaniṣad に直接接続することについては、Oldenberg がその最新の著作『Upaniṣad の教説と仏教の始まり』(Göttingen 1915)において主張している。

M. Müller は Sāṃkhya と Yoga については Ballantyne と Hall の業績、および Rājendralāla Mitra による Yogasūtra の翻訳から出発しているが、両体系については本『概説』の Garbe の叙述をも参照させている。P. Markus の著作「Rājamārtaṇḍa による Yoga 哲学」(Leipzig 1886)は彼には入手できなかった。Yoga 哲学の詳細な

叙述は、最近では Poul Tuxen の書 "Yoga, en Oversigt over den systematiske Yogafilosofi paa Grundlag af Kilderne"(Kopenhagen 1911)が与えている。

M. Müller は、Yogasūtra が帰せられる Patañjali が Mahābhāṣya の Patañjali と同一人物であることを確信していなかった(S. 410)。Sāṃkhya の抽象的体系と Yoga のより実践的な理論との間の相違のうち、彼をとりわけ従事させたのは、その宗教哲学的傾向に応じて、Īśvara すなわち人格的な唯一神の地位であった。そのためにこそ無神論的と呼ばれる Sāṃkhya 体系には、この神の場所がないように見えるのである(S. 395 以下、418 以下)。sphoṭa についての言語哲学的教説、すなわち "the sound of a word as a whole, and as conveying a meaning, apart from its component letters"(S. 527)を、彼は全体系を通じて追跡している。

Nyāya と Vaiśeṣika とは、Pūrva-Mīmāṃsā と Uttara-Mīmāṃsā、Sāṃkhya と Yoga と同様の仕方で一対としてまとめられる。しかしなお問題なのは、Nyāya と Vaiśeṣika とが、M. Müller が素描するように(S. 475)、両者の根底にある半ば通俗的な Padārtha 哲学から分化したのかどうかである。両者の Sūtra は十分に異なっており、両体系の混淆はようやく後代の本文において現れる。彼がいかなる著作に依拠したかは Bibliography(S. 481 以下)から明らかである。彼は 1852 年にドイツ東洋学会誌第 VI 巻に公にした自らの Vaiśeṣika 研究には言及しているが、同誌第 XXI 巻および第 XXII 巻における Röer の詳細な Vaiśeṣika 説の叙述には言及していない。Sūtra はほぼすべての体系のそれと同様に Bibliotheca Indica に公刊されている。しかしとりわけ Nyāyasūtra は Ballantyne により彼の "for the use of the Benares College" の教科書において、Vaiśeṣikasūtra は Gough により(Benares 1873)翻訳されていた。

M. Müller は仏教徒の Nyāya 研究について知っていた。それは Nyāyasūtra に対する古い注釈についての彼の言及から明らかである(S. 476 以下)。Pakṣilasvāmin すなわち Vātsyāyana の bhāṣya 以降、六世紀から十世紀まで、すなわちインドにおける仏教の "general collapse" まで、仏教側とバラモン側の著者の間の論争が続いた。バラモンの著作のみ、すなわち Uddyotakara の Nyāyavārttika、Vācaspati Miśra の Nyāyavārttika-tātparyaṭīkā が保存されている。仏教徒からは彼は Dignāga(六世紀)、Dharmakīrti(七世紀)、Dharmottara(九世紀)の名を挙げる。M. Müller はここでその文献指示において完全とはいえない。P. Peterson は、Nyāya の論理学についての Dharmottara の著作 Nyāyabinduṭīkā を、はじめてある古い Jaina 寺院においてサンスクリット原典で発見し、小さな根本テキスト Nyāyabindu とともに 1889 年に Bibliotheca Indica において公刊した。Nyāyasūtra に対する最古の注釈文献は、Cowell がその Kusumāñjali 校訂本の序説において最初に正しく示していた。本『歴史』の著者の論文「Nyāyabhāṣya について」(1888 年 Leipzig 学部長就任プログラム)を M. Müller は知っていた。この論文においては、哲学諸学派と古い Veda 諸学派との連関について、また Patañjali の Mahābhāṣya における Vārttika に比較しうる Nyāyabhāṣya の一定の構成部分について論じられており、その扱いにおいて Viśvanātha の NyāyasūtravṛttiNyāyabhāṣya から離れる点も述べられている。

Tarkasaṃgraha と並んで、Laugākṣi Bhāskara の Tarkakaumudī——Maṇilāl Nabhubhāi Dvivedi により 1886 年 Bombay Sanskrit Series において刊行——もまた、Nyāya と Vaiśeṣika との後代の混淆を示している。両著作は

Hultzsch によって独訳された。すなわち "Annambhaṭṭa's Tarkasaṃgraha" は Göttingen 学術協会論文集(Berlin 1907)に、Tarkakaumudī はドイツ東洋学会誌第 LXI 巻(1907 年)に。上記 S. 215 参照。この種の第三の著作は最近 Tuxen によって英訳された。すなわち "An Indian Primer of Philosophy or the Tarkabhāṣā of Keśavamiśra"(Copenhagen 学士院 Mémoires 1914)である。ここには文献指示も新たにまとめられている。Nyāya の性格をより純粋に保っているのは、12 世紀の Gaṅgeśa の Tattvacintāmaṇi である。pramāṇa すなわち認識手段の教説がきわめて詳細に扱われた膨大な注釈文献をもつにもかかわらず、この著作はヨーロッパの学者をあまり惹きつけなかった。

決定的に Vaiśeṣika 的なのは Śivāditya の Saptapadārthī であり、Vizianagram Skr. Series(Benares 1893)に、また Aug. Winter により "Śivādityi Saptapadārthī"(Jacobi と Hillebrandt に献呈、Lipsiae 1893)として刊行された。すでに Ballantyne が扱った Viśvanātha Pañcānana の Bhāṣāpariccheda もまた、Nyāya ではなく Vaiśeṣika と呼ばれるべきである。Hall が Index において、また Aufrecht が Cat. Cat. において Sūtra に対する bhāṣya として挙げている Praśastapāda の Padārthadharmasaṃgraha ないし Padārthoddeśa は、Vaiśeṣika 説の独立した叙述であり、Benares Skr. Series 1885 年に刊行された。これに対する注釈の著者 Śrīdhara は 991 年に執筆した(Aufrecht, Cat. Cat.)。インド哲学全体を総括する新しい著作は Suali の "Introduzione allo studio della filosofia Indiana"(Pavia 1913)である。

M. Müller は 1872 年、新設の Straßburg 大学へサンスクリットおよび比較言語学教授としての招聘を受けたとき、たしかにそこで「言語学の成果について」という講義を行ったが(Straßburg 1872、英語版は "Chips" 第 IV 巻)、Oxford に戻った。彼が受け取らなかった俸給は、サンスクリット領域における懸賞論文のための基金に充てられた。かくして M. Müller は間接的に、H. Zimmer の美しい著作『古代インドの生活』と J. Hertel の『Pañcatantra』とを生ましめたのである。これらはそうした懸賞課題から生まれた。彼は Oxford ではサンスクリットの教授ではなかったにもかかわらず、"Handbooks for the Study of Sanskrit" にも配慮した(Ṛgveda VI 参照)。すなわち Hitopadeśa の "with Interlinear Transliteration, Grammatical Analysis, and English Translation" 版(London 1866)、さらに "A Sanskrit Grammar for Beginners"(1866、第 2 版 1870。Kielhorn による独訳、Macdonell により 1886 年に短縮版として新刊)、および上記 S. 226 で言及した Th. Benfey の "Sanskrit-English Dictionary" である。

サンスクリット文献学に対する Max Müller の功績についての、一般的な調子の共感ある評価を、Kielhorn がその追悼文「Max Müller」(Göttingen 学術協会報告、事務報告 1901 年 S. 35–39)において与えている。"Catalogue of Principal Works published by Professor F. Max Müller, compiled by M. W." および彼の肖像と、彼に与えられた栄誉の一覧とは、1893 年 9 月 1 日、"the Fiftieth Anniversary of my receiving the Doctor's Degree in the University of Leipzig" に際して祝意を表した多くの "Friends and Fellow-labourers" への謝辞 "An Offering of Sincere Gratitude" のうちに収められている。

§第 XLIV 章 MONIER WILLIAMS・J. MUIR

Oxford 大学における Boden Professor of Sanskrit の Wilson の後継者となったのは、1860 年、Monier Williams(1886 年以降 Sir Monier Monier-Williams)である。1819 年生、1899 年没。彼はサンスクリット研究を Oxford で始め、最初の職は Haileybury における Professor of Sanskrit, Persian and Hindustani であった。同地の College が廃止されると、彼は Cheltenham で十年間東洋諸語を教え、ついに Oxford の教授に選出された。彼は、教会的理由から選挙人の多数によって M. Müller よりも優先されたのであるが、サンスクリット文献学者として M. Müller と並び、有用な諸著作によって England におけるサンスクリット研究に功績を残した。

その著作目録——"Indian Wisdom" 第三版に付されたもの——によれば、彼はまず戯曲 Vikramorvaśī を "Classbook for the East India College" として公刊し(London 1849)、次いで "English-Sanskrit Dictionary"(London 1851)を出した。第三版が London 1864 年に出た "Practical Grammar of the Sanskrit Language, arranged with reference to the Classical Languages of Europe, for the use of English Students" は Whitney によって推奨された。Wilson に献ぜられた Devanāgarī recension による戯曲 "Śakuntalā" の校訂本、"with Literal English Translations of all the Metrical Passages, Schemes of the Metres, and Notes, Critical and Explanatory"(Hertford 1853)は、かつて Weber に高く賞讃された(Indische Streifen II 27 参照)。この戯曲の完訳第四版 "Sakoontalá, or the lost ring"(London 1872)を、Weber はそれほど賞讃しなかった(Indische Streifen III 172 参照)。"Story of Nala" の改作(Oxford 1860)や Hindūstānī 習得のための小冊子もまた、その著者の実践的方向を示している。

大きな成功を収めたのは彼の "Sanskrit-English Dictionary"(Oxford 1872)であり、これは稀覯かつ高価となっていた Wilson の辞書に取って代わった。すでに最初の年に、1000 部の版のほとんど全部が売れた(Indische Streifen III 141 参照)。上記 S. 245 で述べたように、Böhtlingk はこの著作について不平を述べる機縁を得た。劣らず大きかったのは、講義から生まれた著作 "Indian Wisdom" の成功である。第一版の Preface は "May 1875"、第二版のそれは "October 1875" と署名され、第三版は 1876 年に出た。第二版の後、Monier Williams はインド旅行に出た。この書物は本質的に最初のままであり、Fourth Edition(London 1893)もわずかな変更を示すにすぎない(S. 471 に Mṛcchakaṭikā の分析が挿入され、S. 537 以下では Hitopadeśa からの翻訳が増補されている)。完全な表題は "Indian Wisdom, or Examples of the Religious, Philosophical, and Ethical Doctrines of the Hindūs : with a brief history of the chief departments of Sanskrit Literature, and some account of the past and present condition of India, moral and intellectual" である。"educated Englishmen" がサンスクリット文献の性格と内容についての観念を得られるような、そうした書物への需要は存在していた。体系的な配列によって、それはサンスクリット文献の主要著作の概観を与える。本質的な構成部分をなすのは、挿入された特徴的な諸篇の自由な翻訳であり、それが

"Indian Wisdom" という表題をある程度正当化している。初めからあらゆる点で文献学的研究の高みに立っているわけではないにせよ、その見通しのよさによって、なお今日でも初学者の最初の方向づけに役立ちうる。Monier Williams は、古い文献全体を貫く道徳的調子と、いたるところに見出される "wise sayings and prudential rules" の豊かさとを繰り返し強調している(第3版 S. 506)。Introduction において彼も宗教的問題に対するインドの意義を認めているが、その立場は M. Müller の歴史的なそれではない。それは "three chief false religions of the world"、すなわち Islām、Brāhmanism、Buddhism をキリスト教と比較する彼の教義的な仕方から知られる(S. XXXVI 以下)¹⁾。

Veda についての節はいくぶん貧弱である。彼は "on a subject which is really almost trite, or at least has been already elucidated by many clear and able writers" については多くを語りえないと考えた(S. 2)。Ṛgveda についてはとりわけ好んで Muir の "Original Sanskrit Texts" を用い、M. Müller にも折に触れて言及するが、その大校訂本には言及していない(S. 15 の注参照)。

Upaniṣad を含む Veda に続いて、彼は Lecture III から VII において、Buddha とその教えについての短い節——それに関する文学史的記述はすでに Introduction にある——の後に、"Systems of Philosophy" の内容についての観念を、Nyāya から始めて与えており、注においてはギリシア哲学との比較を行っている。Cowell が校訂・翻訳した、Nyāya に属する Kusumāñjali からは、神の存在証明を取り上げている。Sāṃkhya の guṇa を、彼は(後の Garbe と同様に)prakṛti の "constituents" と呼び、それは "qualities" ではなく実際に "elementary substances" であるとする。それゆえここで guṇa の「綱」「紐」という意味を考えることもできよう、それが魂を縛る限りにおいて(S. 95)。Vedānta の教説については、彼は早くから知られていた Ātmabodha の一部を訳している(Nève 参照)。詳細に扱ったのは Bhagavadgītā である。この教訓詩および神 Kṛṣṇa にキリスト教の影響を見るべきだとする Weber と Lorinser(その訳 "Bhagavad-Gita"(Breslau 1869)は当時大いに注目された)の見解については、彼は控えめに意見を述べている。バラモン諸体系には、慣例に従って Jaina と Cārvāka の教説が付されている。

Lecture VIII において彼は smṛti として Vedāṅga を論じ、その中には Pāṇini の文法、また慣例どおりインドの天文学と数学も含まれる。Lecture IX から XI は Smārtasūtra——一部は Gṛhya、一部は Sāmayācārika——および Dharmaśāstra に充てられている。dharma の内容を彼はとりわけ Manu によって叙述する。彼は "Mānavaṃ Śāstram Bhṛgu-proktam" を前五世紀に置くが(S. 215)、それは二大叙事詩の年代決定とも関連する。これについては彼はすでに以前、1862 年の講演から生まれた小著 "Indian Epic Poetry" において論じており、これは Weber がその Kṛṣṇajanmāṣṭamī についての論文で引用している。二大叙事詩は Lecture XII から XIV の内容をなす。彼の理論は、RāmāyaṇaMahābhārata の原形は Kṣatriya の間に成立し、時とともにバラモン化されたというものである。両叙事詩の最初期の、すなわち前バラモン的な成立は、遅くとも前五世紀に行われた(S. 315)。

¹⁾ Monier Williams のこの種のより大きな著作は "Buddhism in its connection with Brāhmanism and Hindūism, and in its contrast with Christianity"(London 1889)である。

バラモン化は前四世紀であり、その完成は Rāmāyaṇa については前三世紀、Mahābhārata については前二世紀である(S. 319)。Rāmāyaṇa についての Weber の見解に対して、彼は否定的な態度をとった(S. 319)。Brahman、Śiva、Viṣṇu および Viṣṇu の avatāra についての一節の後、彼は両叙事詩の主要筋をかなり詳しく述べているが、その種々の recension は Jacobi 以前にすでに知られていた。Rāmāyaṇa の "summary" においては、彼は Gorresio のイタリア語訳に従っている(S. 339)。Mahābhārata は Calcutta 版によって引用しているが、おそらく Talboys Wheeler の "History of India" をも用いたであろう。その第1巻は Mahābhārata の内容を含んでいるが(*Ind. Wisd.*³ 370 参照)、それはサンスクリットによるものではなく、ペルシア語訳によるものである。M. Williams は二つのインド叙事詩と Homer との注目すべき比較を付加している。Lecture XV "The Artificial Poems" において彼は、六 mahākāvya、戯曲、Purāṇa、Tantra、NītiśāstraPañcatantraHitopadeśa について、翻訳の見本と内容紹介を伴いつつ簡潔に方向づけを与えているが、文学史的問題を深く追求してはいない。Kālidāsa を彼は後三世紀初頭に置く(S. 474)。

彼が引用する多数の学者——その名は優れた索引にも収められている——のうち、とりわけ規準となったのは Colebrooke、Wilson、Muir、Whitney("Oriental and Linguistic Studies")、Ballantyne、Banerjea、Hall、Cowell、ドイツの学者では Lassen、Weber、Stenzler、Johaentgen(「Manu 法典について」)である。彼は Vaiśeṣikasūtra の訳者 A. E. Gough——当時 Benares の Government College における Anglo-Sanskrit Professor——を、その "most distinguished Boden Scholars" の一人として賞讃している。Gough はさらにいくつかの哲学的テキストを雑誌 "Paṇḍit" に訳出した(Weber, Indische Streifen III 207 以下参照)。M. Williams の別の弟子 John Pickford——一時期 Madras の教授——は戯曲 Mahāvīracarita を訳した。まだ言及していないイギリスの業績のうち、彼が高く評価したのは Ralph T. H. Griffith による Rāmāyaṇa の詩訳(London 1870–1874)であり、これは Weber も認めていた(Ind. Str. III 366 参照)。Griffith は Benares College の Principal として Ballantyne の後継者であり、ここでも Ballantyne の足跡をたどって、Benares の paṇḍit たちに Kaiyaṭa の注釈を伴う Mahābhāṣya の大校訂本を作らせた(Weber, Ind. Stud. XIII 293 参照)。彼は後に ṚgvedaSāmaveda をも訳し、最後には Atharvaveda をも訳して(Benares 1895)、Lanman が Whitney の訳を刊行する前に、それによってインド人をヨーロッパの Veda 研究に親しませた。Rāmāyaṇa については M. Williams は、友人 R. N. Cust(of the Bengal Civil Service)が Calcutta Review 第 XLV 巻に発表した論文をも用いた。

歴史的立場からする両大叙事詩の分析は、J. Talboys Wheeler(Assistant Secretary to the Government of India in the Foreign Department)の "History of India from the earliest ages" の最初の二巻の内容をなす。彼はサンスクリットを解さなかったが、その「先入見なき歴史的批判的眼」は Weber によって認められていた。London 1867 年、1869 年、1874 年に出た三巻についての Weber の書評、Indische Streifen II 390、III 24、327 参照。もっとも Wheeler は Rāmāyaṇa において Ceylon の Rākṣasa を仏教徒と解そうとしたが、これを M. Williams は Weber よりもさらに断固として斥けた。

Monier Williams をいかに理解すべきかを教えるのは、その注目すべき著作 "Modern India and the Indians. Being a series of Impressions, Notes,

and Essays"(London 1878、Trübner's Or. Ser.、第三版 1879)である。インド生まれであったにもかかわらず——彼は S. 50 で、24 年以上インドで現役勤務した父 Lieut.-Colonel Monier Williams に言及している——、彼は England で教育を受けた。インドについての個人的知識を彼が得たのは、後年の旅行によってである。受けた印象について彼はまず種々の場所(TimesAthenaeumIndian AntiquaryContemporary Review、また講演においても)で報告し、次いでそれを右の書物にまとめた。それは同胞のためであり、彼はインドの事柄についての彼らの無知を嘆いていた(S. 354)。最も重要な対象に属するのは、彼自身が訪れた村々や小都市についての記述であり、その自治、村長、職人たちについてのものである(S. 39 以下)。飢饉の際の出来事も彼は体験している(S. 116 以下)。百科全書的な仕方で彼は、Aśoka 碑文を含む古代からイギリス支配に至るまでのインドの諸王朝、地理と気候条件、イギリスの諸州と土着諸国、Calcutta と Bombay および Madras の管区との関係について情報を与えている(S. 125 以下)。細部としては、Brahman における Gāyatrī のため、また仏教徒における定句 oṃ maṇi padme hūṃ のための「Rosary」(japamālā, smaraṇī)の使用を観察している(S. 108 以下)。同様に彼は自ら目撃したところに基づいて Bombay の "Towers of Silence" を描き、その際 Pārsī の宗教についても方向づけを与え、また種々の都市における Brahman の "Funeral Ceremonies" を描いている(S. 80 以下)。

後半において彼は、現代インドの諸宗教について、また Vasco da Gama 以来展開してきた政治状況について、イギリス人とインド人との関係について、インド人の苦情と願望について、そしてイギリス人が彼らのために行ったことについて、一般的に論じている。書物全体は "Promotion of Goodwill and Sympathy between England and India" というエッセイをもって閉じられる(S. 343 以下)。Mill がその History of India において下したインド人の性格についての不利な判断を、Monier Williams は強く非難している(S. 358)。ここで相互に、またキリスト教と比較される(S. 246 以下)インドの三宗教とは、バラモン教、仏教、イスラーム教である。Monier Williams はこれらを誤った宗教とは呼ぶものの、それでも一定の理解をもっている。彼の立場は "that God has made all nations of the earth of one blood" である(S. 246, 365)。彼のキリスト教的信仰告白は次のとおりである。"Christianity is a religion which offers to the entire human race access to God the Father through Christ by one Spirit"(S. 258、三位一体論については S. 243 参照)。狭義のバラモン教から彼は Hindu 教を区別する。前者は Veda の宗教から発展した汎神論であり、後者は非アーリヤ的要素の混入によって生じた多神教であって、Purāṇa 諸書と無数の宗派のうちに存する(S. 191)。古い Veda の知識はインドでは少数者にしか見出されない(S. 161)。

"Progress of our Indian Empire" の節(S. 263 以下)ではイギリス支配の成立が語られる。イギリス人が教育と教養のために——女子のそれをも含めて——行ったこと、およびなお行うべきことの総括は S. 327 にある。教育制度において Monier Williams はここで三つの "educational epochs" を区別する。すなわち第一期、1823 年に始まるそれにおいては、インドの学術諸語

(サンスクリット、アラビア語)が優勢である。第二期、1839 年に始まるそれにおいては、英語が "an exclusive medium of education" である。第三期、1854 年 Lord Dalhousie 宛の有名な "educational Despatch from the Court of Directors" によって導入されたそれにおいては、インドの古典諸語と英語に加えて "vernaculars" が現れた(S. 297)。Monier Williams は vernaculars のためにラテン文字の漸進的導入を勧めた(S. 309)。

最古の College は、1781 年 Warren Hastings が Calcutta に創設した "the Madrassa or Arabic College"、1791 年 J. Duncan が Benares に創設した "Sanskṛt College"、そして Hindū Mahā-vidyālaya すなわち "great Hindū seat of learning" である。この最後の学院は 1816 年 Calcutta において、Sir E. H. East、David Hare、Rāja Rām Mohun Roy の尽力により、原住民自身の寄付から生まれたもので、若いインド人に英文学とヨーロッパの学問を教授するためのものであった(S. 288)。Calcutta、Bombay、Madras の三大学——そこでは "degrees" のための試験のみが行われる(S. 298)——は 1857 年に "incorporated" された(S. 299)。同じ頃に新しい College が創設された。すなわち Bombay Elphinstone College、Poona Deccan College、Roorkee の Thomason Engineering College などである。

Monier Williams は 1844 年刊の Colonel Sleeman(1788 年生、1856 年没)の書 "Rambles and Recollections of an Indian Official" に繰り返し依拠しているが、事実関係についてはとりわけしばしば W. W. Hunter の大統計著作、すなわち "The Statistical Account of Bengal" 全 20 巻(1875–1877)、"The Imperial Gazetteer of India" 全 9 巻(London 1881)に依拠している。Sir William Wilson Hunter は 1840 年生、1900 年没で、Lord Mayo によって "statistical survey of the Indian Empire" の組織化を委任されていた。"Gazetteer" と呼ばれるこのきわめて有用なイギリスの著作の歴史について、彼は Imperial Gazetteer 第一版の Preface で報告している。これは個々の District and Provincial Accounts からアルファベット順の一つの全体へとまとめられたもので、Feudatory States and Chiefdoms をも含む。Hunter はまた名称の表記法を可能な限り統一しようと努めた。全 14 巻の Second Edition が Trübner から出た(London 1885–1887)。最終巻は詳細な索引で埋められている。この著作の "India" の項は 1895 年に独立の書物 "The Indian Empire, its Peoples, History and Products" として現れた。Imperial Gazetteer of India については改訂された "New Edition" があり、"Published under the Authority of His Majesty's Secretary of State for India in Council" として全 26 巻(Oxford 1907–1909)。一巻の総論 "The Indian Empire" は四巻となり、Descriptive、Historical、Economic、Administrative と題される。最終巻は貴重な Atlas をなし、自然的、民族学的、言語学的、宗教的、政治的、考古学的諸関係、ならびに諸州と首都の地図を 58 葉の地図で示している。二葉の言語地図は G. Grierson、考古地図は J. Burgess によるものである。England 側の Gazetteer の Editor は J. S. Cotton であり、彼は以前の版でもすでに Hunter と協働していた。インドでは、個々の部分が特に用いられるため、Editor は順に Sir Herbert Risley、W. S. Meyer、R. Burn であった。

England 以外では、これらの Gazetteer はこれまであまり利用されていない。Monier Williams はその実践的・政治的立場をとった。彼は Oxford に Indian Institute を創設し(S. 364)、そのために

インド旅行(1875 年および 1883 年)においてインド人の支援を得ようと努めた。建設は 1883 年から 1896 年まで続いた。

古代インドは、彼にとっては、それが現代インドにとってもつ基礎的意義によってはじめて価値を得る。生粋のイギリス人であるこの実践的方向によって、Monier Williams は Max Müller——彼はインドの利害よりも人類史をより多く眼中に置いていた——と並ぶ意義を主張しているのである。両者は Oxford において、より緊密な関係をもつことなく並存していた。Monier Williams が Ṛgveda についてかくも語るところが少ないのは、一つには Max Müller に対する内的な反感に基づいていよう。上記 S. 306 に挙げた Ṛgveda に関する Monier Williams の言葉は、明らかに M. Müller を指している。加えて、Ṛgveda が現代インド人にとって直接の実践的意義をもたないということもある。インド人のキリスト教への改宗についての彼の見解——そこで彼は順応を旨とする待機的立場をとっていた(たとえば S. 215 参照)——は、上記第 I 巻 S. 172 に伝えた Lassen の一節を想起させる。補遺においては、この問題における Goldstücker のより否定的な立場を知ることになろう。

同じく Haileybury の College の学生であったのが、スコットランド人 John Muir である。1810 年生、1882 年没。彼は 1828 年に Bengal Civil Service に入り、1853 年に England へ帰るまで長年インドで活動した。その方向は、すでに Calcutta 1839 年に出た著作 "A Sketch of the argument for Christianity against Hinduism" に示されており、これにさらに同種の著作が続いた。第一にインド人のために意図されていたのがその主著であり、その第一部の表題は "Original Sanscrit Texts on the Origin and Progress of the Religion and Institutes of India, collected, translated into English and illustrated by notes, chiefly for the use of students and others in India"(London 1858)であった。第二巻からは "Original Sanscrit Texts on the Origin and History of the people of India, their Religion and Institutions, collected, translated, and illustrated by J. Muir" と改められ、インド向けという限定は省かれている。古い文献からのインド人の重要な諸観念についての豊富な箇所の集成によって、この著作はいずれにせよヨーロッパの学者にとって大きな有用性をもってきた。それが Hindu をその古い信仰の批判的考察へどれほど導いたかは、われわれの知りうるところではない。最初の四巻は London 1858 年から 1863 年に、第二版は 1868 年から 1873 年に現れ、これに 1872 年に第五巻が加わっていた。

Muir の実践的目的は、ここに集められた諸主題の連関を認識させる。それらはすべて、インド人の社会的・宗教的観念にとってとりわけ特徴的な事柄である。第 I 巻は 6 章において、ṚgvedaAtharvaveda、Brāhmaṇa 諸書、叙事詩、Purāṇa 諸書における人間と諸カーストの起源についての神話的報告、Manu からのインド民族の系譜の伝承、ṚgvedaAtharvaveda における諸階層相互の関係、Brahman と Kṣatriya との古い闘争についての伝説、カースト制度外に立つインドの諸部族、およびインド外の諸地域についての記述を扱っている。カーストの起源と年代とは、初めからサンスクリット文献学の一問題であった。Muir は Roth と Haug の見解を伝えている。M. Müller もそのエッセイにおいてこれについて意見を述べている。すべての者が一致するのは、

カースト相互の峻厳な分離は Ṛgveda にはまだ観察されえないということである。他方、カーストは民族の自然な区分に基づいており、Haug はそれを Zendavesta にも示した。われわれが付け加えたいのは、Homer においても βασιλεύς および viśaḥ に対応する λαοί と並んで ἱερεύς と ἀοιδός が立っていること、とりわけ、ケルト諸部族の Druide がすでに古代において Brahman と比較されていたことである¹⁾。

厳格なカースト分離の理論に対しては、すでに久しく混合カーストの事実が対置されており、これは Veda 文献および Dharmasūtra(たとえば Baudhāyana)にまで遡って追跡しうる。そしてこれらとはまた異なるのが、今日の膨大な数のカーストであり、これらは時とともに他の社会的条件から生じたにちがいない。この新しい問題に取り組んだのが Senart であり、その著書 "Les Castes dans l'Inde"(Paris 1896)は、イギリス政府の実施した統計調査に基づくものである。

Original Sanskrit Texts 第 II 巻の実践的目的は、Hindu に言語についての観念の変更を、ヨーロッパの言語学と一致する仕方で促すことであった。すなわち、彼らの民族はインドの土着民ではなく、中央アジアから移住してきたのであり、かつてはペルシア人、ギリシア人、ローマ人、ゲルマン人などの祖先と共に住んでいたのである。原民族の原住地についての見解は時とともに変化したが、ここではこれ以上顧慮されない。三章のうち第一章は、インドの言語史の総合的描像を初めて与えている。表によって Hindī および Marāṭhī と Prākṛt・Sanskrit との関係、Pāli と Sanskrit・Prākṛt との関係、とりわけ Pāli と Prākṛt との類似、最後に仏教 gāthā の言語および Aśoka 碑文の方言と同じ言語段階との関係が示されている。土着文法家の教説と並んで、ヨーロッパの学者の見解も顧慮されている。"inserted letters in Pāli" は、Windisch の論文「Pāli の sandhi 子音」(Leipzig 1893)以前に、すでに Muir(II² 70)と E. Kuhn によって正しく判断されていた。Sanskrit が "a vernacularly spoken language"(II² 129)であったという見解のために、彼は Weber、Aufrecht、Lassen、Benfey を引き、一連の証拠を挙げている(II² 144 以下)。その際、Prākṛt 諸語が Sanskrit から、ロマンス諸語がラテン語からと同様の仕方で発展したことが論じられる。これについては当時(1869 年)スイス人 Fr. Haag がその学位論文「Prākṛt とロマンス諸語との比較」において論じていた。Sanskrit もまた種々の段階において存在し、その最古のものが Ṛgveda の言語である。このことから彼は、Roth、M. Müller、Whitney に依拠しつつ、Veda 文献の種々の層へ、また Ṛgveda の高い年代が証示されうる諸点へと進む。Ṛgveda は一定の音韻関係において——A. Kuhn と Benfey が示したように——、またその特有の諸形態において、より古い言語状態を保持している。後代にはもはや用いられない語、あるいは別の意味で用いられた語、また後に変化した観念や状況は、多くの詩節がすでに古い時代に正しく理解されなくなり、ますます説明を必要とするようになったことに寄与したのである。

第 II 章は同系諸語の比較に充てられている。Sanskrit、ペルシア語および Zend 語、ギリシア語

¹⁾ Windisch, "Die altirische Heldensage Táin bó Cúalnge" S. XL 以下参照。

およびラテン語において互いに対応する語と形態との対照のために、彼はドイツの言語研究者の著名な諸著作を用いた。とりわけ Vullers と Justi(S. 220)、Benfey、Curtius、Fick(S. 256 以下)、Schleicher の Compendium(S. 229)、また一般的考察のためには Pictet の "Origines Indo-Européennes"(S. 266, 294)である。諸言語の類似から引き出される結論の論述は、ヨーロッパの学者に向けられたというよりも、むしろ自らの Sanskrit を原言語とみなす傾向のありうる正統派バラモンに向けられている。Muir はインド人とイラン人との特に近い関係を主張する(S. 287 以下)。彼が英訳して伝える最も権威ある学者たちの発言からは、インド人の先史についての見解において、いかに早くから広範な一致が形成されていたかが明らかとなる。相違する見解も存在した。Muir は Journal RAS 第 XVI 巻に現れた A. Curzon の論文を論駁している。Curzon はインドをアーリヤ語族の原郷とみなし、そこからその種々の分枝が北西へ移住したとし(S. 301)、またペルシア人、ギリシア人、ローマ人の言語と神話をもインドに由来させた(S. 320)。Schlegel、Lassen、Benfey、M. Müller、Spiegel、Renan、Pictet と一致して、Muir は中央アジアを、"in or near Bactria" をアーリヤ人の揺籃とみなす(S. 322)。

人々はさらに、インド人とイラン人の古い文献のうちにアーリヤ人の北方起源への示唆を見出そうとさえした。すなわち Ṛgveda における冬(himāḥ)による数え方、Uttara-Kuru、Vendidād の第一 Fargard においてである(S. 322 以下)。より大きな確実さをもってアーリヤ人の北西からのインドへの移住を語るのは、Ṛgveda に、さらに進んで Atharvaveda に含まれる地理的記述、そこに言及される河川、また言及される諸部族であり、そのうち Gandhāri と Kīkaṭa とが重要である。Śatapathabrāhmaṇa には Gāndhāra が現れ、Nirukta には Kamboja の民が Hindu と言語的に同系のものとして現れる。Muir は Roth と Lassen に依拠してそれらの箇所を集め、個々に論じている。すでに Lassen は、アーリヤ・インド人が Ṛgveda の賛歌によれば東 Kabulistan と Sarasvatī に至るまでの Panjāb に住んでいたことを確定していた(S. 349)。Muir は彼らを Kabulistan と Panjāb からさらに追跡し、Lassen その他の先行者の叙述に、まさにテキスト箇所の集成と翻訳とを付け加えている。

Ṛgveda のアーリヤ・インド人は、彼らが国土において見出し、また戦った諸部族である Dasyu に対して、自らを Ārya と称した。独創的なのは、この敵対的な異言語の諸部族に対する呼称がいかにして悪魔的存在へと転用されたかについての Muir の論述であり(S. 392 以下)、そのためにこの語がいかなる意味で用いられているかを決定するのがしばしば困難となる。この事実は Rāmāyaṇa の Rākṣasa の判断にとって顧慮される(S. 397, 409)。Muir が Dasyu の、また後には Asura の砦(pur)について伝える諸箇所(S. 378 以下)からは、Ārya の敵が防備された居住地を、おそらくは山中の攻略困難な防備された避難所をもっていたと推論しうるであろう。Indus と Panjāb からアーリヤ人は Sarasvatī へ、そこから Behar と Bengal へ、Doab(Gaṅgā と Yamunā の間の地)から Vindhya を越えて Dekkhan へと達した(S. 405)。Brahman の聖地についての有名な箇所、Manu II 17 以下(S. 399)について、われわれは今日、同様の記述がすでに Dharmasūtra に見出されることを付け加えうる(Baudhāyana I 2, 9 参照)。諸部族の前進については

Weber が Śatapathabrāhmaṇa から初めて明るみに出した Videgha についての箇所が特徴的である(S. 402)。Rāmāyaṇa においても Muir は Lassen の足跡をたどるが、諸箇所そのものを提示することによって、すなわち Rākṣasa について、また別種の原住民が隠されている猿たちについて(S. 417)等々を示して、読者自身の判断を容易にしている。その解釈においては、ここでは Gorresio が Lassen に先行していた。Weber の寓意的解釈も言及されている。すなわち Sītā は耕作の畝、Rāma は耕す者、Rāmāyaṇa は南方へ前進するアーリヤ文明の象徴だというものである(S. 421)。研究のその後の展開において、Jacobi は神話的側面をより強調した。一方が他方を完全に排除する必要はない。Veda 文献の第二層および Mahābhārata において Gaṅgā と Yamunā の上流に見られる諸部族と、Ṛgveda の諸部族との関係については、後に Oldenberg がその著書『Buddha』第一版の付論において論じ、Ṛgveda の諸部族の居住地については Hillebrandt がその『Veda 神話学』第 I 巻の序文において論じた。彼はそれらをさらに西方に求めているが、その著書『Iran und Turan』における Brunnhofer ほど行き過ぎてはいない。これについては後述する。最後の諸節において Muir は Dekkhan の諸言語を Sanskrit との相違において特徴づけているが、それは Campbell の Telugu Grammar および Caldwell の "Comparative Grammar of the Dravidian Languages" に依拠している(S. 424)。

第 III 巻は "The Vedas: Opinions of their authors and of later Indian writers on their origin, inspiration, and authority" という表題をもつ。重要な諸箇所の大集成において——常に翻訳を伴って——、ここでは他のいかなる著作にもまして、Veda の非人間的起源についての Brahman たちの見解が提示されている。人間的起源の否定という根本観念を別とすれば、それらは大きく分かれると、Muir は Hindu に対して強調している。キリスト教の啓示信仰との比較に Muir は立ち入らない(ただし Preface² S. XXVI 参照)。哲学諸体系が自らの論証のために Veda を用いたため、それらは śruti の教説に対して態度を決め、それを学問的に基礎づける試みをなさざるをえなかった。大部分の体系にとって、Veda の重心は Saṃhitā と Brāhmaṇa から Upaniṣad へと移されていた。長い第 1 章において Muir は、Puruṣasūkta 以来他の種々の Veda 文献、Manu、Purāṇa 諸書に見出される神話的観念を論じ、次いで哲学諸学派における学問的論証を、とりわけ Mīmāṃsā と Nyāya との間で戦わされた音(śabda)の永遠性をめぐる論争とともに論じている。より短い第 2 章においては ṛṣi たち自身が語る。彼らは古い賛歌と新しい賛歌とを区別し、自らを賛歌の作者と称するが、その知恵は神々に由来し、神々が Vāc すなわち賛歌の言語を生んだのである(S. 252 以下)。Appendix において Muir は Goldstücker、Cowell、Aufrecht による訂正を伝えている。

さらに大きく Muir が Aufrecht の助力を認めているのは、すでに 1863 年に出た第 IV 巻の Preface においてであり、Veda テキストの理解のために "which long and careful study has rendered him so competent to interpret" と述べている。第 IV 巻は Hindu 教の後代の主神たちに充てられ、Brahmā、Viṣṇu、Śiva が Veda の神界とどこまで関連するかを示している。主要な諸観念は新しいものではないが、

ここでの総括と重要な典拠箇所の集成とは、今日なおきわめて価値がある。神々の三数に対応して、この巻は三章に分かれる。第 1 章には Veda 文献、Manu、叙事詩、Purāṇa 諸書から、世界の創造と創造者についての諸箇所が集められている。すなわち Viśvakarman、Hiraṇyagarbha、Brahmaṇaspati、Prajāpati など、Brahmā の先行者たちである。第 2 章は Viṣṇu とその無数の神話、その三歩(Trivikrama)、およびその avatāra、とりわけ Rāma および Kṛṣṇa としてのそれを扱う。Rāma が Viṣṇu の化身として現れる Rāmāyaṇa の諸部分を、Muir は Schlegel に従って挿入とみなす傾向にある(S. 142)。Mahābhārata においては超人間的性格がより緊密に Kṛṣṇa と結びついているが、彼は一連の箇所では Mahādeva の崇拝者としても現れる(S. 238)。Kṛṣṇa 問題はまだ完全には解決されていない。

Śākapūṇi は Viṣṇu の三歩を天・中空・地の分離に関係づけ、Aurṇavābha は日の出、南中、日没における太陽の位置の相違に関係づけた(S. 55)。Muir が Appendix(S. 376)において Rāmāyaṇa(IV 40, 54 以下)から挙げた箇所は、Viṣṇu の三歩が山々の高く上を巡る太陽にその起源をもつことを蓋然的にする。インドの三神一体についての Harivaṃśa の注目すべき一節には、ekā mūrttis trayo devā Rudra-Viṣṇu-Pitāmahāḥ という句がある(S. 236)。Pitāmaha は Brahmā の既知の名である。しかしここでも他所でも Śiva が Rudra によって代表されているとき、インド人自身がそれによって、Śiva が Veda の Rudra から形成されたことを示唆しているのである。この Rudra-Śiva、すなわち Mahādeva——彼はなお他の名をももつ——、およびその妃 Umā、Kālī、Pārvatī ないし Durgā を第 3 章は扱う。しかし Śiva は Rudra 以上のものである。後代の神々は、より古い時代の種々の神々の特徴を自らのうちに統合している。その数はより少ないが、その内容はより複雑であり、指導的観念は新たに結合されている。Śiva のうちには古い Agni もいる。また Weber はこの第 4 巻の書評において、Indra に由来する一定の特徴にもさらに注意を促している(Ind. Streifen II 226 参照)。おそらくインド人は彼のうちに神的な恐ろしさを表現しようとしたのであろう。説明しがたく、また非バラモン的に見えるのは、Śiva が liṅga において崇拝されることである。Muir は、liṅga 崇拝がインドの非アーリヤ諸部族に由来するという Stevenson と Lassen の見解を、ありえないことではないとみなすが、Ṛgvedaśiśnadevāḥ にそのための確実な支持を見出しえない(S. 344 以下)。宣教師 F. Kittel——Dekkhan の諸民族のよき知者——は、その著作「インドにおける Liṅga 崇拝の起源について」(Mangalore 1876)において、少なくともこの崇拝が Dekkhan に由来することには反対を表明し、ギリシア人の男根崇拝を参照させた。Weber はこの著作の書評(Ind. Streifen III 471)において、この崇拝の起源の問題を「なお未解決の謎」と呼んだ。Muir が訳出した諸箇所のうちには Śatarudriya 全体がある(S. 268)。Rudra について意見を述べた学者としては、彼は Wilson、Weber、Whitney を挙げている(S. 332 以下)。Muir の Original Sanskrit Texts のこの第四巻がインドの Trimūrti の網羅的叙述を提供していないとしても、それはなお依然として、後 Veda 期 Hindu 教の三主神についての学問的主著であり、これと並びうるのは新しい時代からは Hopkins の著作 "The Religions

of India"(Boston 1895)第 XIV 章以下の後半における考察のみである。彼はわれわれに、そこから哲学的・宗教的観念と結びついて Brahmā、Viṣṇu、Śiva が浮かび上がってきた神話的混沌を意識させる。しかし発展の明瞭な描像にはなお多くが欠けている。

第 V 巻 "Contributions to a knowledge of the Cosmogony, Mythology, Religious Ideas, Life and Manners of the Indians in the Vedic Age"(London 1872)は、その豊富な典拠箇所の集成によって、Veda 神話学の確実な基礎を初めて与えた。Weber はこの巻を、それが「最近 England において、M. Müller の才気ある主題の扱いに促されて、比較神話学の領域で幅を利かせているいささか荒唐無稽な思弁に対して」ちょうどよい時に来たという言葉で迎えた(Ind. Streifen III 36 参照)。内容の大部分はすでに以前、個々の論文として Journal RAS 1864–1866 年に発表されていた。

この巻は Ṛgveda そのものへの沈潜と、比較神話学からの離反とを開始する。もっとも Muir は原理的にすべての比較から遠ざかったわけではない。それはその豊富な資料によって今日なお価値をもつが、しかし好んで Veda 神話学に向かった新しい研究によって影を薄くされている。すなわち Myriantheus の Aśvinau についての、v. Bradke の Dyaus Asura についての、Hillebrandt の Aditi と Varuṇa についての各モノグラフ、および Kaegi、Oldenberg、Hillebrandt、Hopkins、Macdonell の総括的叙述である。一時期サンスクリット文献学者の間でおそらくいささか信用を失いすぎていた比較の立場は、ようやく近年 L. v. Schroeder がその著作『アーリヤ宗教』(第一巻 Leipzig 1914 年、第二巻 1916 年)においてより強く強調した。まさに Aditi、Dyaus Asura、Varuṇa、Aśvinau がモノグラフで扱われたのは偶然ではなく、これらこそ、その起源と本質とが初めから研究の一問題であった同じ神々なのである。このことは Muir にも反映しており、彼においては神々の解釈のために Roth と M. Müller がとりわけしばしば引用されている。

Aditi を Muir は "as a personification of universal, all-embracing Nature, or Being" とみなそうとする(S. 43)が、Roth と M. Müller はその名を無限性と解した。Varuṇa とギリシア語 οὐρανός との対照は、Varuṇa を一切を包む天として現れさせた。すでに Ṛgveda において Varuṇa は水との関係をもつ。Muir は、Roth と Westergaard が古い天神から海神への移行をいかに説明しようとしたかを挙げている(S. 75)。第二の問題は、Varuṇa がその本質において Zendavesta の Ahura-Mazda といかに関係するかであった。Varuṇa は Āditya の一つであり、Āditya は Ahura-Mazda を頂点とする "Amshaspands" に対応する。Roth はそこから、Varuṇa がイラン人とインド人とが分離する以前にアーリヤ人によって崇拝されていたと結論した。Whitney によれば Ahura-Mazda が Varuṇa から発展したことになろう。Spiegel も Windischmann も、これらの結合を疑わしいとし、Ahura-Mazda を純粋にイラン的な神とみなした(S. 120)。Varuṇa から Mitra は切り離しえない。Muir は Ṛgv. III 59 を Mitra のみに向けられた唯一の賛歌と呼ぶ(S. 69)。Mitra は名称の上でイランの Mithra と同一である(S. 71)。このアーリヤ人に共通の神は太陽神であるが、それがインド人においてなぜ Varuṇa とかくも緊密な関係に置かれたのかは、今日なお完全には明らかでない。さらに解決の困難なのは二人の Aśvin の問題であり、Roth は彼らを朝の空における光の最初の

もたらし手と解した(S. 235)。ただ問題は、その本質のすべての特徴がこの起源から説明されうるかどうかである。Goldstücker は——その他では公表されなかった見解を Muir が伝えている——、その神話における宇宙的要素と人間的ないし歴史的要素とを区別し、彼らは Ṛbhu たちと同様に本来 "renowned mortals" であって、"who, in the course of time, were translated into the companionship of the gods" と考えた(S. 255)。Nève は Ṛbhu の神話についてのその著書 "premier vestige de l'apothéose dans le Véda" をすでに 1847 年に書いていた。あらゆる Veda の神格がモノグラフに適するとはいえ、まず単独に扱われたのは、その起源の不明瞭さ、あるいはその本質の多様さが、より精密な研究を促したものであった。これらのモノグラフの列には Ehni の Yama についての著作も属する。

Muir の書物における特別の付加物は、彼が Varuṇa、Indra その他の神々について与えた自作の "metrical sketches" である。第二巻には、その内容とは無関係にすら、末尾に "Asita and Buddha, or the Indian Simeon" および "Rāvaṇa and Vedavatī" についての詩篇を収めている。この詩的傾向は、小著 "Religious and Moral Sentiments metrically rendered from Sanskrit Writers"(London 1875)にも示されている。それらは主としてキリスト教的観念を想起させる箴言である。Appendix には学問的典拠が与えられている。しかし Preface において彼は、Bhagavadgītā にキリスト教の影響を証明しようとする Lorinser の広範な試みを論じている。より新しい時代には、新約聖書に仏教の影響が証明されうるか、またどこまでかがより多く争われているのに対し、逆により早い時代には Weber その他が、インド宗教史の一定の現象、とりわけ bhakti の原理と Kṛṣṇa とにキリスト教の影響を想定していたのである。Muir は Edinburgh におけるサンスクリット教授職を寄付し、その最初の保持者が Aufrecht となった。

§第 XLV 章 TH. AUFRECHT

Theodor Aufrecht は 1822 年 Leschnitz(Schlesien)に生まれ、1907 年に没した。彼はすでに Kirchhoff と共同でウンブリア語碑文についての基礎的著作を刊行し(Bonn 1850, 1851)、また A. Kuhn と共同で『比較言語研究誌』を創刊していたが、1852 年に England へ渡り、そこで M. Müller および Muir とより緊密な関係に入った。1862 年に彼は Edinburgh のサンスクリット教授となり、1873 年には Straßburg への比較言語学教授としての招聘を断ったが、1875 年に Lassen の後継者として Bonn へ赴いた。1889 年に年金生活に入ってからは、彼はもっぱら学問的仕事に生きた。

Aufrecht は Benfey と同様に比較言語学から出発した。彼は Berlin で学び、同地の私講師として(1850 年)古ノルド語、古ザクセン語、アングロ・サクソン語について講義したが、早くからサンスクリットに向かっていたことは、その学位論文 "De accentu compositorum Sanscriticorum"(Bonn 1847)が証している。これは 1848 年に Benfey によって書評され、その書評は『小論集』I 109 以下に再録された。England では彼は

M. Müller の助手として、また Oxford のサンスクリット写本の目録作成者として、古代インド文献全体についての包括的な知識を獲得した。次の諸校訂本、すなわち "Ujjvaladatta's Commentary on the Uṇādisūtra"(Bonn 1859)および "Halāyudha's Abhidhānaratnamālā"(London 1861)のうち、前者は有用な索引を備え、文法にとって重要な対象を扱っている。それは Aufrecht のすべての校訂本と同様、模範的な信頼性をもつ。また彼は、後に(1888 年)Peterson が Bombay Sanskrit Series で刊行した Śārṅgadharapaddhati について、最初により精確な情報を与えた人でもある(ドイツ東洋学会誌 XXVII〔1873〕S. 1 以下)。インドの詩人についての知見への寄与は同誌 XXXVI 361 以下、509 以下、さらに早くは XVI 749 以下、XXV 238 以下、455 以下にある。

しかしサンスクリット文献学に対する最大の功績を、彼は Ṛgveda の校訂本によって、また不撓のサンスクリット写本目録作成者として獲得した。これらの仕事は、1852 年の England 移住によって彼が置かれた外的状況から生まれた。M. Müller の注釈付き Ṛgveda 大校訂本への参加によって、彼は他の誰よりも早く Ṛgveda に通暁するようになった。M. Müller と Muir はその助力を感謝をもって認めている。M. Müller の校訂本の進行が彼には遅すぎたということもありえよう。彼は Ṛgveda の最初の完全な校訂本を提供したという名誉をもつ。Weber はこのために彼にその『インド研究』第 6 巻と第 7 巻を提供した。すなわち "Die Hymnen des Ṛigveda"(Berlin 1861 年および 1863 年)、「John Muir Esqu. D. C. L. に親愛の情をこめて献ず」である。第二巻にはじめて付された短い序文において、彼は Rosen と Roth に発する刺激を感謝をもって認めている。最初の七 maṇḍala については M. Müller の「卓越したテキスト版」が彼の手元にあり、それと Oxford の写本とを比較した。最後の三 maṇḍala については、彼は Oxford の四写本と London の二写本を用い、Weber は必要な場合に Berlin の写本を参照し、Regnier の Prātiśākhya 校訂本は彼にとって「テキスト確定のためにきわめて価値あるもの」であった。

テキストはラテン文字による翻字で与えられている。それは Brockhaus が提案した——Sir William Jones に遡る——翻字法とはわずかしか異ならない。この翻字版はとりわけ言語研究者にテキストの見通しをより容易に与え、彼らによって Veda 研究のために大いに用いられた。Graßmann もこれをその辞書の基礎に据えた。Padapāṭha からは必要最小限のみが伝えられている。韻律は各賛歌ごとに示されている。賛歌の ṛṣi と神格とは Anukramaṇī に従って付録に一覧されている。『インド研究』の外で出た第二版(Bonn 1877)においては、Aufrecht は翻字をいくらか変更し、第一版では末尾に置かれていた 11 の Vālakhilya 賛歌を、写本および M. Müller と一致して第八 maṇḍala 第 48 賛歌の後に挿入し、また賛歌の通し番号を廃止した。そのために遺憾ながら Graßmann の辞書の利用が困難になっている。

Aufrecht は控えめであり、長い言説を述べることは多くなかった。この点で彼は M. Müller の正反対であった。Weber はその『文学史』第二版の注において彼をしばしば引用しているが、それは主として Aufrecht の Oxford 目録からの事実的記述に関わる。彼は Muir にもその静かな助力を惜しまなかった。それだけにいっそう注目に値するのは、彼が一度、

なお十分に簡潔にではあるが、その Ṛgveda 第二版の序文におけるように、数語をもって事柄に立ち入る場合である。ここでは個々の鋭い言葉が彼の気分を漏らしている。二人が同時に同じテキストを刊行するときには、困難が生じうる。彼の第一版の当時、London の写本は「錠と閂の下に」あった。第二版のためには彼はとりわけ Berlin の写本を用いた。まだ十分に追究されていないのは、同じ語句、同じ語からなる慣用句や詩句断片の再現についての彼の指摘である。すなわち、より新しい詩人がより古い詩人を模倣したのか、あるいは両者が同じ定型的な古い言語慣用から汲んだのか、ということである。末尾の豊富な「付録」においては、詩節冒頭句の索引に比較箇所が付されている。Ṛgveda において詩節全体が繰り返し現れることは、インド人もよく注意していた。そうした詩節を Sāyaṇa は最初の一回のみ説明する。これらの詩節を集めた Galitapradīpa は、Ṛgveda に属するテキストのうち唯一まだ公刊されていないものであり、少なくとも Berlin の写本によって早くに印刷されるべきであった。Aufrecht は「Savitṛ、Varuṇa、Dyo、Viṣṇu」を最古の神々とみなし、その崇拝は現存の Ṛgveda においてはより新しい世代の神々の崇拝の背後に退いているとした(S. XII)。

Aitareya Brāhmaṇaagnir vai devānām avamo viṣṇuḥ paramaḥ という文で始まる。Aufrecht はこれもまた同様に翻字して刊行し(Bonn 1879)、Sāyaṇa の注釈からの抜粋、語彙索引、言及される詩節の索引、および文法的に注目すべき事柄をも整理した注を付した。Aufrecht は序文において Haug の校訂本の欠陥を非難しているが、しかし全体としてはこの editio princeps の功績に正当な評価を与えている。その優れた Ṛgveda および Aitareya-Brāhmaṇa の校訂本によって、Aufrecht はこの二つの重要なテキストをドイツに定着させたのである。

Aufrecht の最初の大目録は "Catalogi Codicum Manuscriptorum Bibliothecae Bodleianae Pars octava Codices Sanscriticos complectens" という表題で現れた(Oxford 1864)。それは、Purāṇa 諸書のような当時なお容易には手に入らなかった著作からの Aufrecht の詳細な報告が、大いに歓迎された時代であった。基本蔵書をなしたのは Wilson、Mill、Walker、Fraser の収集である。Aufrecht は、有用であった先行目録として、Berlin 王立図書館サンスクリット写本についての Weber の目録、Westergaard の "Codices Indici Bibliothecae Regiae Havniensis"、および St. Petersburg のアジア博物館の写本についての Böhtlingk の目録のみを挙げている。Colebrooke の収集を基本蔵書とする、はるかに豊富な London の India Office Library についての Eggeling の Catalogue は、その間にますます多くのテキストが印刷された後、ようやくはるか後に現れた。後代のいかなる目録も、この Aufrecht による Oxford 写本目録ほど多く利用されてはいない。彼はさらに 1869 年に Cambridge の Trinity College 図書館のサンスクリット写本目録を、1892 年に Florence のそれを、1901 年に Leipzig のサンスクリット写本目録を公にした。この種の最後の目録「München 王立宮廷・国立図書館のサンスクリット写本」は、München 1909 年に、彼の死後にようやく現れた。

しかし彼のこの方面の活動の冠をなすのは、巨大な "Catalogus Catalogorum, An Alphabetical Register of Sanskrit Works and Authors"(Leipzig 1891、Part II 1896)であり、これは

ドイツ東洋学会の費用によって印刷された。第二の補遺 Part III は 1903 年である。ヨーロッパの図書館の目録と並んで、当時インドの諸州においても大写本収集の目録が公刊されていた。序文に挙げられているこれらすべての目録を、Aufrecht はすべてのサンスクリット著作とその著者との総索引へと加工し、そのサンスクリットテキストの写本が記載されている目録箇所を指示した。この Cat. Cat. は、それゆえ、あるテキストの写本がどこにあるかを教えるのみならず、同時にサンスクリット文献全体のアルファベット順の宝典であり、注釈とその著者をも含んでいる¹⁾。後代の著作については、Aufrecht はしばしば目録の記載から年代を得ることができた。絶対的な完全性の達成は当時なお不可能であり、写本の収集と目録化は今日なお続いている。しかし重要な著作が新たに加わることは稀であるから、達成されたものは十分に意義深い。Aufrecht の Cat. Cat. は、サンスクリット文献学者にとって永続的に不可欠の補助手段であり続けるであろう。

1904 年、まだ存命中に、Aufrecht の学問的遺稿は India Office Library に入った。F. W. Thomas がこれを Journal RAS 1906 年 S. 1029 以下において "The Aufrecht Collection" という表題のもとに記述している。彼がその静かな仕事場で仕上げたものは、公刊されたものをはるかに超えている。きわめて多数のサンスクリットテキスト、Veda 期のものも後代のものも、彼は書写し、その多くに用語集その他の索引を作成した。未刊の Ṛgveda 辞典が Collection の第 1 番である。Kielhorn は Thomas が伝える一書簡において言う。"He has read and re-read more Sanskrit works than any other Sanskrit scholar, and has always done so with the pen in his hand"。Jacobi はその友人、この不撓の静かな働き手——その仕事はまだ活用しつくされていない——に美しい記念碑を建てた(Anton Bettelheim 編『伝記年鑑およびドイツ人死者伝』第 XIII 巻、Berlin 1910 年、S. 326–332 参照)。

¹⁾ 仏教徒および Jaina の文献は収録されていない。

【原書 p. 319(承前)】

§第 XLVI 章 A. WEBER・Yajurveda

シュレージエン人であったのは A. Weber もまたそうであり、われわれはすでにしばしば先輩の同学の業績に触れる際に彼に言及せざるをえなかった。何人もの傑出したサンスクリット文献学者がシュレージエンの出であること——Weber、Pischel、Hillebrandt、Liebich——は、Breslau 大学が、自らはポンメルンの Wolgast 出身であった Stenzler によってサンスクリット研究の一拠点となっていたことに由来しよう。Albrecht Weber は 1825 年 Breslau に生まれ、1901 年 Berlin における古代インド語・インド文献学教授として没した。その外的生涯はきわめて単純に経過した。ごく早くから現れたその並外れて大きな労働力——彼を Chalkenteros(青銅の腸をもつ者)と呼ぶこともできよう——を思えば、彼が古典文献学と東洋文献学とをわずか三年間、1842–1845 年に、Breslau、Bonn、Berlin で学んだにすぎないことも理解される。彼の最初の研究方向を決定したのは Breslau の Stenzler であり、彼は学位論文の材料として、Vājasaneya-Saṃhitā 第 9 adhyāya の自らの写しを

Mahīdhara の注釈とともに Weber に委ねたのである。Weber はこれに Berlin の写本を比較した。その学位論文 "Yajurvedae Specimen cum commentario"(Breslau 1845)——これについては Benfey が 1847 年に書評を書き、『小論集』I 97 以下に再録された——を、彼は Stenzler、Lassen、Gildemeister に "praeceptoribus carissimis" として献じたが、A. Kuhn にも謝意を表して "viro egregia Vedarum cognitione excellenti, qui semper familiari et consuetudine et institutione me docuit"(S. XIV)と記し、後に『インド研究』第 VIII 巻の『インド人の韻律学』を彼に献じている。

彼は次いで学問的目的のために London と Paris への旅を企て、1848 年に Berlin 大学で私講師の資格を得た。ここで彼は長年 Bopp と並んで活動したことになる。同地で 1856 年に員外教授、1867 年に正教授の職を得たが、それは Bopp の死以前であり、すでに 1857 年にプロイセン王立学士院会員に選出されていた。晩年には視力が著しく衰え、その書簡はますます判読しがたくなった。その後継者 R. Pischel は、「Albrecht Weber 追悼講演」(Berlin 学士院論文集 1903 年)においてこの不撓の大学者の意義を然るべく評価している。

Weber は M. Müller と同様に、しかもほぼ同時に、その経歴を一つの巨大な著作、すなわち白 Yajurveda の全集成校訂によって開始した。これもまた "Printed under the patronage of the Hon. Court of Directors of the East-India-Company" である¹⁾。三部からなる。第 I 部 "The Vājasaneyi-Sanhitā in the Mādhyandina- and the Kāṇva-Śākhā with the commentary of Mahīdhara"、第 II 部 "The Śatapatha-Brāhmaṇa in the Mādhyandina-Śākhā with extracts from the commentaries of Sāyaṇa, Harisvāmin and Dvivedagaṅga"、第 III 部 "The Śrautasūtra of Kātyāyana with extracts from the commentaries of Karka and Yājñikadeva"(Berlin および London 1852, 1855, 1859。印刷は Berlin)。

写本を扱う第 I 部の Preface には、SaṃhitāBrāhmaṇaSūtra の "Synopsis" と Various Readings とを付し、さらに Appendix には種々の索引のほか、Kātyāyana の Sarvānukramaṇī 末尾の adhyāya における韻律についての記述と、Piṅgala の Chandaḥsūtra のうち Veda の韻律に関わる部分とを収めている。Saṃhitā に対して Weber は 1858 年に Vājasaneyi-Prātiśākhya をも『インド研究』第 IV 巻において刊行した。

しかし第二部が最も重要である。というのも、それは Brāhmaṇa の最初の校訂本を、しかも最古かつ最重要のものをもたらしたからである。祭式と祭儀とはここで最も精確に記述されている。というのも、Yajurveda が向けられている Adhvaryu こそ、祭式の個々の行為に最も多く関わったからである。言語学的には、最古の散文としての ŚatapathabrāhmaṇaṚgveda に次いで最も重要な著作であり、辞書と文法にとって最大の意義をもってきた。Goldstücker は、Weber が注釈からの抜粋のみを与え、完全な注釈を与えなかったことを非難した。これは欠陥ではあるが、Weber の利用しえた写本の不完全さに基づくものであった。しかしそれでもなお Śatapathabrāhmaṇa には多数の重要な業績が接続してきた。校訂本の序文は 1849 年の日付をもつ。早くも 1850 年に Weber は第 I 巻第 1 adhyāya をドイツ東洋学会誌 IV 289 以下に訳出したが、それは「Brāhmaṇa の文体をより近づきやすくするため」であった。後に B. Lindner が別の一篇、

¹⁾ Weber もまた M. Müller と同様に Bunsen の支援を得ており、彼にその著作を献じている。"To his Excellency the Chevalier Dr. C. C. J. Bunsen, the noble friend and patron of linguistic studies, alike celebrated as scholar and as statesman"。

III 1, 1 から III 2, 2 までを「Dīkṣā すなわち Soma 祭のための潔斎」として訳出した(Leipzig 1878)。もともと Weber 自身が計画していた完訳は、J. Eggeling が Sacred Books of the East において引き受け、そこでは第 XII 巻以降、数巻にわたって続いている。

Weber はその注意をとりわけ伝説に向けた。同じく早くも 1850 年に彼は『インド研究』第 I 巻において「Śatapatha-Brāhmaṇa に見えるアーリヤ人のインドへの移住と拡散についての二伝説、ならびに白 Yajus からの地理的・歴史的素描」を発表した。すなわち洪水伝説と、Videgha(王)Māthava が Sarasvatī から Kosala-Videha の地の Sadānīrā へ移住した伝説である。翻訳の見本とこの二伝説とは『インド漫録』第 I 巻(Berlin 1868)に再録された。ここに新たに加えられたのが「若返りの泉の伝説」(Cyavana 伝説)と「Purūravas と Urvaśī の伝説」である。これらの小さいが意義深い伝説は、Roth と M. Müller が明るみに出した Aitareyabrāhmaṇa の Śunaḥśepa 伝説と同様に、文学史的に重要である。というのも、その名称と素材とは一部 Ṛgveda にも現れ、次いで叙事詩文献においてさらに追跡しうるからである。そのうち四つが一般に知られるようになったのは、Böhtlingk が『読本』第二版にそれらを収めたことによる。彼はまた Rāmāyaṇa にある Śunaḥśepa 伝説の異本をも収めており、他方 Pischel は Mahābhārata にある Cyavana 伝説の異本を Stenzler の『初等文法』の読本篇に導入した。

Weber はさらに『インド漫録』第 I 巻の集成に「死後の懲罰的報いについての Śatapatha-Brāhmaṇa の一伝説」——1855 年にドイツ東洋学会誌に発表したもの——と、1864 年に同誌に出た論文「Veda 時代のインド人における人身供犠について」とを収めた。puruṣamedha についてのこの基礎的研究のためにも、Śatapatha-Brāhmaṇa とそれに属する Saṃhitā とが主要典拠であった。最後に Weber は晩年においてなお、この Brāhmaṇa に関連して二つの特別な祭式について論じている。すなわち Berlin 学士院の『会議報告』および『論文集』1892 年、1893 年における「Vājapeya について」および「王権灌頂、Rājasūya について」である。しかし祭儀の有用な初等的総合叙述のためには、Weber はより見通しのよい Kātyāyana の Kalpasūtra を基礎に据えた。すなわち「Veda 祭式儀礼の知識に寄せて」(『インド研究』X 321–396 および XIII 217–292)である。Yajurveda についての彼の徹底した研究は、Haug の Aitareyabrāhmaṇa 校訂・翻訳および Introduction に対して加えた批判を可能にした(『インド研究』IX 240–380)。

文献学的立場から見て Weber の Veda 関係の業績のうち最も重要なのは、『インド研究』第 XI 巻・第 XII 巻(Leipzig 1871, 1872)における "Taittirīya-Saṃhitā" の翻字校訂本であり、これは Berlin 学士院の支援を受けた。たしかにこの Veda は Sāyaṇa の注釈を伴って当時 Bibliotheca Indica でも印刷中であり、Weber は既刊部分を自らの校訂に利用しえたが、彼の校訂本は、Prātiśākhya を顧慮しつつテキストを確定した文献学的精確さによって傑出している。この Prātiśākhya は当時 Whitney によって刊行されつつあり、彼は未刊の第二部の校正刷を引用箇所の索引とともに Weber に提供した。Whitney から Weber は

貴重な写本をも受け取った。Bühler は Berlin 王立図書館のために二つの良い写本を送り、後にこれを同館に寄贈した。かくして Weber には Taittirīya-Saṃhitā の校訂本を Bühler と Whitney に献じる十分な理由があった。

Appendix には "Sūcīpattram" がこの Saṃhitā の内容の概観を与える。次いで同様の目的に資する Ātreyīśākhā の Kāṇḍānukrama が続き、これは Brāhmaṇa と Āraṇyaka にも関わる。最後に SaṃhitāBrāhmaṇaĀraṇyaka についての anuvāka および ṛk-pratīka のアルファベット順索引がある。Appendix の最後の二部を Weber はすでに『インド研究』第 III 巻において発表していた。この校訂本には、続く『インド研究』第 XIII 巻 S. 1–128 において、彼の研究「Taittirīya-Saṃhitāpadapāṭha について」が接続した。他のいかなる Padapāṭha もこれほど徹底的に研究されたことはない。もっとも Weber は Sāmaveda の Pp. についての Benfey の扱いを賞讃している。インドの学問は Padapāṭha、すなわち語を孤立させたテキストを基本形とみなし、そこから Prātiśākhya に含まれる規則によって Saṃhitā が形成されたとする。実際には事柄は逆であり、Padapāṭha は伝承された Saṃhitā の正しい理解を保持しようとする試みなのである。とはいえこれは、伝承された Saṃhitā がテキストの本来の形を示しているという意味ではない。

Prātiśākhya 諸書は当時すでにほぼすべて印刷されていた。Ṛgveda のものは Regnier と M. Müller により、Atharvaveda のものと Taittirīyasaṃhitā のものは Whitney により、Vājasaneyisaṃhitā のものは Weber 自身により『インド研究』第 IV 巻において刊行された。最後のもの(Vāj.)についての Benfey の詳細な書評は『小論集』I 149 以下に再録されている。ただ "Ṛktantravyākaraṇa, A Prātiśākhya of the Sāmaveda" のみが後に Burnell によって刊行された(Mangalore 1879)。Prātiśākhya 諸書に Weber はここで詳しく立ち入ってはいないが、Padapāṭhaavagraha あるいは小辞 iti を用いるすべての場合の概観を与えている。その際、多くの文法的特徴が、しかも Padapāṭha のみに属するのではないものも、とりわけアクセント関係において論じられる。

Weber はまた、黒 Yajurveda のより古い二 śākhā、すなわち KāṭhakaMaitrāyaṇī-Saṃhitā について最初にいくらかの情報を与えた。『インド研究』第 III 巻(1855 年)S. 451–479 には「Kāṭhakam について」という表題の論文があり、これは彼の目録ですでに記述された Chambers 収集の Berlin 写本に依拠している。また第 IX 巻(1873 年)S. 117–128 では、かつて Bühler の所有であった Maitrāyaṇī-Saṃhitā の写本について報告している。両テキストについて彼は、区分と内容を簡潔に説明し、Taittirīya-Saṃhitā-Brāhmaṇa-Āraṇyaka の対応箇所を参照させ、また各部分の始めと終わりを示し、その独特なアクセント法にも言及している。Kāṭhaka の伝説の一つに、彼は Dhṛtarāṣṭra という名の最古の言及を見出した。両 śākhā は後に L. v. Schroeder によって校訂され評価された。二つの Yajurveda の校訂本によって、Weber は Veda のヨーロッパ、とりわけドイツにおける最初の征服を完了したのである。もちろん理解のためには、完全な注釈を伴うインド版が不可欠である。

Weber の Veda 領域における業績はこれで尽きるものではない。写本、とりわけ Chambers 収集のそれにおける研究は、Benfey の Sāmaveda-Saṃhitā 校訂本に接続して、論文「Sāmaveda の文献について」(1850 年『インド研究』I 25 以下)を可能にした。

Chambers 収集の一写本に依拠して、彼は 1855 年に Śāṅkhāyanabrāhmaṇa についての最初のより精確な報告を『インド研究』II 283–315 において与えた。同じ写本収集から彼は「前兆と怪異についての二つの Veda テキスト」、すなわち SāmavedaAdbhutabrāhmaṇaKauśikasūtraAdbhutādhyāya とを取り出し、Berlin 学士院論文集 1859 年に訳出した。Chambers 写本に由来するのはさらに、Ṛgveda に数えられる Suparṇādhyāya¹⁾ であり、彼はこれを 1876 年に Elimar Grube の学位論文から再録し、Padapāṭha を活用しつつ『インド研究』XIV 1–34 に載せた。

Veda 時代の社会的・祭儀的状況に関わるのは、論文「Veda の婚礼句」(1862 年『インド研究』V 177–266)——これは同 S. 267–412 に続く Dr. Ernst Haas の論文「Gṛhyasūtra による古代インド人の婚姻習俗」への補遺である——、および「Brāhmaṇa と Sūtra におけるカースト関係についての集録」(1868 年『インド研究』X 1–160)である。『インド研究』第 XV 巻 S. 1–166 には、1878 年に Oldenberg による Śāṅkhāyanagṛhyasūtra の校訂と翻訳を収めた。

Vedāṅga についてのわれわれの知識をも Weber は補おうとした。Vyākaraṇa については既に Böhtlingk が配慮しており、Nirukta については Roth が、Kalpa については Weber による Kātyāyana の Kalpasūtra 校訂が一標本を与えていた。Vedāṅga として指示され今日に伝わった諸著作は、独立した学科への発展の段階がきわめて異なっている。Pāṇinīyā Śikṣā(音声学)——Weber が 1858 年に『インド研究』IV 345 以下に刊行——、および彼が 1862 年に「Jyotisham と称する Veda 暦について」という表題で刊行した Vedāṅga は、貧弱な小著である。『インド研究』XIV 160 から知られるように、Kielhorn は Śikṣā 類に特別の注意を向けており、その弟子たちによる研究が後に、それらの Prātiśākhya への依存について完全な明晰さをもたらした。

関連する内容をもつのが「Mahāsvāmin の Bhāṣikavṛtti」であり、これは Saṃhitā のアクセントの Śatapathabrāhmaṇa のそれへの転換を扱う。Kielhorn が 1868 年に『インド研究』X 397 以下に刊行した。それへの付論(S. 423 以下)において Weber はこの困難なアクセント関係を論じている。Weber の見解によればそれはアクセントの図記的表示に関わるが、Kielhorn によればむしろ発音に関わる。後者こそインドの注釈者の説であり、またおそらく正しく、われわれが理解しようと努めるべきものである。Berlin 学士院論文集に Weber は 1872 年に Pratijñāsūtra を刊行した。これは白 Yajurveda の小さな Pariśiṣṭa であり、手の動きによるアクセントの表示と、文字の発音とを扱う。

Jyotiṣa についての彼の仕事には、1865 年の論文「Garga における四種の時間尺度の列挙について」(『インド研究』IX 460 以下)が接続する。それは五年周期の長さを、市民的時間尺度、太陽尺度、太陰尺度、恒星尺度に従って論じ、M. Müller による日数の長さの誤った計算に反対している。

Veda を越えて発展したものとして現れるのが、Piṅgala の Chandaḥsūtra における韻律学の Vedāṅga である。Weber の校訂と研究とは、「インド人の韻律学について」という表題のもとに『インド研究』第 VIII 巻を満たす二論文の第二をなす(1863 年)。今日に至るまで

¹⁾ Suparṇādhyāya については Upsala の Charpentier による大部の論文が、ザクセン王立学術協会の紀要において期待される。

この、インドの韻律——Veda 期および後 Veda 期のもの——の列挙とインド的技術的記述とは、いかなる新しい著作によっても置き換えられていない。インドの韻律学は一般に、変化するリズムのより大きな自由からより大きな拘束への移行を示している。リズムをインドの韻律学者は顧慮せず、ただ音節の数と長短のみを顧慮し、これを詩脚にまとめる。叙事詩から出発して、ヨーロッパの学者は好んで śloka の構造に向かった。Gildemeister、Rückert、Oldenberg がそうであり、Jacobi「Śloka の理論に寄せて」(『インド研究』XVII〔1885〕442 以下)を参照。Bollensen の Veda 韻律の研究は長く孤立していた。すなわち「Parāśara の歌」(1868 年、ドイツ東洋学会誌 XXII 569 以下)、「Veda 韻律に寄せて」(1881 年、同誌 XXXV 448 以下)である。同様に孤立しているのが Kühnau の著作「Triṣṭubh-Jagatī 族」(Göttingen 1886)であり、そこで彼は右の韻律のリズムを研究している。Ṛgveda の韻律学は、その後 Oldenberg がその『Prolegomena』(Berlin 1888)において与えた。

『インド研究』第 II 巻は 1853 年に Whitney による「ṚkSāman、白 YajusAtharvanSaṃhitā 相互の関係の表式的対照」をももたらし、第 III 巻(1855 年)は W. Pertsch による「Ṛksaṃhitā の詩節冒頭句のアルファベット順索引」と、Weber 自身による「Yajur-Vedaanuvāka および brāhmaṇa 冒頭句のアルファベット順索引」とをもたらした。第 III 巻(1855 年)において彼は Chambers 収集の写本から Caraṇavyūha を刊行した。これは不完全で後代のものではあるが、なお価値ある Veda 諸学派の一覧である。これへの補遺を Simon の学位論文「Veda 諸学派の知識に寄せて」(Kiel 1889)が提供した。

すでに第 I 巻において 1850 年に Weber の「Anquetil Duperron 訳に含まれる Upaniṣad の分析」が始まり、第 II 巻および第 IX 巻に続いている。ここには I 250 以下に Weber による Upaniṣad の種々のクラスへの区分がある。Weber は Atharvaveda の大部分をも、説明的・批判的注記を伴って訳出した。すなわち第一巻は『インド研究』IV 393 以下、第二巻は Berlin 学士院月報 1870 年(『インド研究』XIII 129 以下に再録)、第三巻は同 XVII 177 以下、第四巻は同 XVIII 1 以下、第五巻は同 S. 154 以下、第十八巻は Berlin 学士院会議報告 1895 年 S. 815 以下および 1896 年 S. 253 以下である。

「Veda 論集」という表題のもとに Weber は Veda 研究を Berlin 学士院会議報告において晩年に至るまで継続した。1894 年 S. 775 以下:1「Vāmadeva の Śyenastuti に寄せて」、2「Vāmadeva の二頭の牝馬」、3「Sūryasūktam 第 13 詩節」(Ṛks. X, 85);1895 年 S. 815 以下:4「Atharvasaṃhitā 第十八巻、葬送儀礼の呪句」;1896 年 S. 253 以下:その続き;1896 年 S. 681:5「古代インドの一呪句」(Ath. V 13, 10);1897 年 S. 593–605:6「Veda 儀礼における人間の神々の上への高揚と仏教」;1898 年 S. 558–581:7「古き時代より」;1900 年 S. 601–618:8「Ṛk-Saṃhitā 第 II maṇḍala に寄せて」。

第 1 において彼は Tilak に対して態度を表明し(S. 781)——Tilak は Orion と Āgrayaṇa という名を同定した——、第 3 において Jacobi に対して態度を表明している。Jacobi は Veda の年代決定のために Ṛgv. X 85, 13 を用いたのであるが、aghāsu を Weber は maghāsu からの意図的な改竄とみなした。彼はここで古代インドの紀年法についての短い概観を与えている(S. 809 以下)。第 5 には tābuvam を説明し、これをポリネシア・オーストラリアの語 "tabu" と結びつけようとする失敗した試みがあり、第 6 にはバラモン教と仏教の哲学的・

宗教的発展の素描がある。第 7 において彼は、ドイツ語 Sommer の語源とサンスクリット語 hima とから出発して、アルメニアをインド・ゲルマン人の原郷とする説を唱え、さらに A. Kuhn および M. Müller の意味における比較神話学を、多くの疑わしい対照を伴って主張している。

第 8 は Weber の方法にとって特徴的である。彼の強みは、ここでは言及されていない Pischel や Geldner のように、困難な語や箇所の説明によってテキストの理解を促進しようとする点にはなく、むしろ第二 maṇḍala の出自、年代、土地についての手がかりを得ること、また Avesta との関係を発見することを目指す点にあった。彼はここで H. Brunnhofer の業績を賞讃しているが、Brunnhofer は Weber の方向をさらに推し進めた人である。最初の「論集」を Weber は 1894 年に没した W. D. Whitney の追憶に献じ、第 4 は 1895 年に没した Rudolf Roth——「道を示した人」——に、第 5 は 1896 年に没した Reinhold Rost に、第 7 は Heinrich Kiepert に献ぜられている。Weber は学問上の友人たちの大きな輪のただ中に立っていたのである。

§第 XLVII 章 A. WEBER・目録と文学史

Weber の数多くの原典研究が可能となったのは、Berlin において印刷された校訂本のほかに、王立図書館の写本の宝庫が常に彼の自由に使えたことによる。この図書館のためには、1843 年、Hoefer の提案により(上記 S. 217 参照。もっとも Weber は彼に言及していない)、また Weber が強調する Bunsen の仲介により、Veda 写本に富む Sir R. Chambers の収集が購入されていた。Aufrecht が Cat. Cat. において模範と讃えたこの収集の目録の作成——「(Berlin 王立図書館)サンスクリット写本目録」という表題で Berlin 1853 年に刊行——を通じて、Weber はすでに若年にして原典に基づく包括的なサンスクリット文献の知識を獲得した。

これに依拠して Weber は 1851/52 年冬学期に Berlin 大学において、インド文学史についての記念すべき最初の講義を行い、それを学問のために直ちに「インド文学史についての学術講義」という表題で公にした(Berlin 1852)。両著作の関連について彼自身、後者の序文で次のように述べている。「王立図書館の委嘱により、私は昨年この収集の目録作成に着手した。その成果として詳細な目録が、これらの講義——それはいわばその注釈とみなしうる——とほぼ同時に刊行される。」

269 頁のうちにこれほど多くの徹底した学識が凝縮されたことは稀である。そのうち 165 頁が Veda 文献とその派生に充てられている。Weber の講義は M. Müller の "History" より前に現れた。M. Müller は——Weber が Berlin の写本を手元に置いたように——Oxford と London の写本を研究のために手元に置いていたが、この『学術講義』を折に触れて引用しており、少なくとも自らの仕事の点検には用いえたはずである。彼の講義の構成に影響がなかったはずはないのが、Weber が 1850 年に二つの

London 写本から『インド研究』を開始したあの小さなテキスト、すなわち「Madhusūdana-Sarasvatī の正統バラモン文献の百科全書的概観」(Prasthānabheda)である。

本来の意味での文学史がインドにおいて不可能であるのは、より古い時代については年号で表現しうる確実な資料が存在しないからである。M. Müller は Veda 文献の時代区分によって歴史の外観を保ったが、もっともそれは古いものから新しいものへ下るのではなく、新しいものから古いものへと遡るものであった。Weber の著作は、可能な限り歴史的観点を顧慮しつつ、インド文献をより明白に体系的に概観するものである。全体は文学類型に従って配列されている。個々の著作は内容と構成に従って簡潔かつ冷静に記述されるのみならず、他の著作との関係においても研究される。相対年代を目指すこれらの研究は、ある著作に現れる名称、伝説、その他の事実的細部を、その主内容よりもしばしば前面に押し出すことになる。

インド文献についてまだ詳しくない者にとっては、最初の 30 頁が Veda 文献についての最初の方向づけを与える。今日のわれわれの学識のうちどれほど多くがすでに Weber の講義に含まれているか——しかも一部は写本から汲まれたものである——は驚くべきことである。その後、校訂本が文献知識を共有財産とし、研究者を Weber その他から独立させた。全体として彼の記述は正しいと判明したから、彼は 24 年後の第二版において、本文を変更せずに再版し、進展する研究によって必要となった補足を注として加えるという冒険をなしえたのである。

Yajurveda のみならず Sāmaveda をも Weber は詳細に扱った。彼はそれをとりわけ古風なものとみなす傾向にあり、それは Kalpasūtra においても、また Ṛgveda のそれと比較した詩節の読みにおいてもそうである。Weber がその伝説の豊かさを強調する Tāṇḍyabrāhmaṇa は、Bibliotheca Indica において久しく印刷されているにもかかわらず、Sāmavedasaṃhitā に対するその関係と、古い Brāhmaṇa 群のうちにおけるその位置とは、今日なお最終的に決定されていない。Weber は最初に Pāṇini V 1, 62 を Ṛgveda の二つの Brāhmaṇa に関係づけ(S. 43)、また Aitareya- および Śatapatha-brāhmaṇa(S. 103)において最古の層と後に付加された部分とを区別した。

彼はその研究に対応して、とりわけ詳細に Yajurveda の文献を叙述した。仏教徒の Maitreya を想起させる Maitrāyaṇīya という名称と、その Upaniṣad の内容とに、彼は仏教との関係を嗅ぎつけた(S. 95)。Atharvaveda は当時まだ刊行されていなかった。Vrātya を扱う第 XV 巻の Aufrecht による翻訳のみが存在していた(『インド研究』I 121 以下)。Vrātya、すなわち「バラモン的に生活しないアーリヤ人」は Pañcaviṃśabrāhmaṇa にも現れ、Weber によって繰り返し扱われている。彼は、それまでに知られていた Atharvaveda のテキストが Paippalāda の学派に属すると推測したが(S. 141)、Śaunaka の Prātiśākhya には言及している。第二版ではこれは訂正されている。Kauśikasūtra の内容についても、彼はすでに一写本に基づいて説明していた。この書からも、また SāmavedaṢaḍviṃśabrāhmaṇa からも、彼はすでにこの講義において「前兆と怪異」についての節を特に強調しており(S. 66, 147)、あたかも 1859 年に出るこの主題についての論文を予告しようとするかのようである。

Veda 文献の締めくくりをなすのは Upaniṣad であり、その大部分はインド人によって Atharvaveda の下に置かれている。その数は惑星の数のように増大した。Weber は当時、1852 年にこれを 147 と算定したが(S. 149)、1876 年の第二版では 235 を数えている。より古い三 Veda にのみ属する Upaniṣad を、彼は最古のものと呼び、すでに以前に扱っていたが、ŚvetāśvataraMaitrāyaṇa Upaniṣad とはより後の時代に配している(S. 150)。彼はこれらを、Atharva と、より古い Veda の一つとの双方に帰せられる Upaniṣad とともに置く。Atharva にのみ帰せられる Upaniṣad を彼は三つのクラスに分ける。すなわち、より古いものと同様に ātman の本質を扱うもの、瞑想への沈潜(yoga)を扱うもの、あるいは ātman に代えて Śiva または Viṣṇu の一形態を置くものである。最後のものが宗派的目的に資するものである。そのうちの一つ、Rāmatāpanīya Up.——彼はここですでにいくらか詳しく記述している(S. 161 以下)——を、彼は後に刊行した。1850 年に『インド研究』第 I 巻で与えた Upaniṣad の区分を、Weber はここでいくらか修正している。

第二期、すなわちサンスクリット文献は、より簡潔に扱われている。講義においてより詳細を期すための時間が欠けていたからである。Weber もまた言語の問題について意見を述べている(S. 166 以下)。Veda と関連する、文法的に教育を受けた者の言語であるサンスクリットから、民衆の言語が分離した。この後者は「バラモン的共同体に受け入れられたインドの原住民の影響のもとに」発展した(S. 168)。それは後にそれ自身も、種々の方言において文語となったが、「さしあたりは仏教の影響のもとに」であった。それについての古い証拠が前三世紀の Aśoka 碑文である。サンスクリット文献と Veda 文献との連関はとりわけ文法と哲学において示されるが(S. 171)、itihāsa-purāṇa においても示される(S. 174)。Veda 文献は祭式のうちにその中心を見出していたが、サンスクリット文献においては「単に実践的な欲求のみならず、むしろ学問的な、詩的・芸術的な欲求」が満たされる(S. 173)。Brahmā、Viṣṇu、Śiva が最高の神々である。Brāhmaṇa の散文は放棄され、諸学問もまた Sūtra と並んで韻文において確固たる形式を得る。

Weber の文学史家としての特質は、彼が簡潔であるここにおいて最も明瞭に示される。個々の作品の主内容よりも、それが他の作品に対してもつ諸関係に彼はより多く立ち入る。まさにこれは、言語と文献の徹底した知者のみがなしうることであった。Itihāsa-purāṇa すなわち Mahābhārata と Purāṇa 諸書、他方 kāvya すなわち Rāmāyaṇa と技巧詩とは、きわめて概括的に紹介されている。彼は、Lassen が Kuru-Pañcāla の「相互の殲滅」を Mahābhārata の「主要基調」として提示したこと、Pāṇḍava の主人公 Arjuna が Vājasaneyi-SaṃhitāŚatapathabrāhmaṇa において Indra の名であることに言及している(S. 177)。Rāmāyaṇa においては寓意が支配する。Sītā は耕作の畝であり、Rāma はアーリヤ人の農耕を原住民の攻撃から守る。原住民のうちアーリヤ文化に親しみうる者は猿として、敵対的な者は悪魔として登場する(S. 181)。RāmāyaṇaMahābhārata の戦闘部分より新しい。この後者について Megasthenes はまだ何も知らず、その存在の痕跡は後一世紀の Dio Chrysostomus にはじめて見出される。その中間の時期にそれは成立したのである(S. 176)。しかし最終編纂は、われわれの紀元の開始から数世紀後にようやく行われた(S. 178)。

以前の過大評価に対して(『インド研究』II 236 参照)、Weber は諸著作の年代を引き下げる傾向をもっていた。彼は断固として、Kālidāsa が前一世紀のある Vikramāditya のもとに生きたという見解に反対する(S. 188)。naṭanāṭyanṛtya の語源的連関は、インドの演劇が「舞踊」から発展したという考えを示唆する(S. 184)。この発展がいかにして遂行されたかをわれわれは知らない。最古の戯曲は純粋に市民的内容のものである(S. 186)。Weber はすでにここで、「Baktria、Penjab、Guzerate のギリシア王たちの宮廷におけるギリシア劇の上演が……インド演劇の原因となった」という歴史的可能性を指摘している(S. 192)。彼が名を挙げる作品はわずかであり、そのほかに RaghuvaṃśaKumārasambhavaMeghadūta、Bhartṛhari と Amaru の箴言詩、GītagovindaPañcatantraHitopadeśa を挙げる。後者の諸作品については、枠物語というインド的特質を指摘している。DaśakumāracaritaMṛcchakaṭī との関係のゆえにのみ言及される。歴史については、一部は矛盾を含む記述をもって、Rājataraṅgiṇī と Purāṇa 諸書とが顧慮され、後者は地理的記述のためにも顧慮される。歴史と地理の主要典拠は碑文と寄進文書であり、これらは「ほとんど独自の文献圏とみなしうる」(S. 198)。

学問の領域に入る最初のものである文法においては、彼は Pāṇini と Mahābhāṣya の年代についての当時知られていた資料を論じている。彼は Böhtlingk の設定した年代を確実とはみなしえず、ここでもより後代を考慮するが、しかし「(これらの著作の)含む膨大な数の語によって、それが成立した時代のかなり具体的な像が」まとめられるであろうと期待する(S. 204)。この彼の研究方法については、彼はすでに当時、論文「Pāṇini の時代からの素描、I. 当時存在した文献圏について」(『インド研究』I 141 以下)を参照させることができた。ここにすでに、後の Mahābhāṣya についての大論文の萌芽が認められる。

インド辞書学の始まりを彼は Veda の Nighaṇṭu に見る。しかし Amarasiṃha——その辞書を彼はわれわれの手元にある最初のものと呼ぶ——は、Kālidāsa と同様、前一世紀の Vikramāditya 王のもとに生きたはずがない(S. 205 以下)。韻律学については彼は Piṅgala に言及しているが、これは後に彼自身が刊行した。詩学と修辞学については Bharata の Alaṃkāraśāstra——その存在を彼はまだ知らなかった——および Sāhityadarpaṇa に言及する。哲学諸体系を彼は、インド哲学の始まりについての短い所見の後、主として Colebrooke の Essays に従って叙述している。Sāṃkhya 体系を彼は最古とみなすが、それはとりわけ、それと Buddha の教えとの間に存する緊密な連関のゆえである(S. 213)。

天文学においても Colebrooke が先行研究をしていた。Weber はここで、少し前に『インド研究』第 II 巻 S. 236 以下の一分冊に出た自らの論文「インド占星術の歴史に寄せて」に依拠している。この論文へは、Chambers 収集にある Balabhadra の Hāyanaratna の一写本によって促されたのであった。また Holtzmann の 1841 年の著作「インド獣帯のギリシア起源について」も彼に大きな印象を与えていた¹⁾。ギリシア語に由来する

¹⁾ この主題についての最も古い諸著作は Gildemeister, Bibl. Skr. Spec. S. 148 以下に列挙されている。

獣帯の名称は、すでに 1827 年以来 C. M. Whish によって知られている(S. 227)。Weber がかくも多くの場合ギリシア人をその研究に引き入れたことには、古典文献学における彼の初期の研究が影響していた。根本において彼を文学史的研究の関心からインド天文学の研究へと導いたのは、天文学そのものというよりは、むしろ天文学者たちの名称、古い文献における天文学的記述の出現、天文学的観念の起源についての問いであった。

Weber は四つの時代を区別した。すなわち太陽年と月宿(nakṣatra)をもつ最古の時代、惑星崇拝が優勢な第二の時代、ギリシア人がインド人の教師となった第三の時代、最後に Tājika¹⁾ すなわちアラビア占星術を伴う著作の時代である第四の時代であり、これはそれ以前にインド天文学がアラビア人のもとへ伝わった後のことである。Tājika 文献には、Weber が右の論文で分析した著作が属する。より古い Jātakaśāstra に代わって Tājika が登場したのである(『インド研究』II 253)。『講義』において彼は Biot に反対して月宿のカルデア起源を推測しており、これについては後に、上記 S. 283 で論じた nakṣatra についての論文を書いた。nakṣatra の個々の名称はすでに ṚgvedaŚatapathabrāhmaṇa に、その全系列は Taittirīya Saṃhitā 等に現れるのに対し、惑星の最古の言及は Taittirīya-Āraṇyaka にはじめて見出される(S. 222)。

Āryabhaṭṭa、Varāhamihira、Brahmagupta、Bhāskara についての精確な知識を Weber はもっていなかった。校訂本はまだ存在しなかった。彼は Varāhamihira におけるギリシア語からの借用術語の一覧を Colebrooke に従って与えた(S. 227)。彼の愛好する着想の一つは、最古の天文学者 Asura Maya が Ptolemaios と同一人物であるというものであった(S. 225)。Tājikaśāstra におけるアラビア起源の術語(S. 233)を、彼は先の論文において Balabhadra の著作から抜き出していた。アラビア人の報告については彼は Reinaud に依拠した。後に彼は論文「古イラン語の星名について」において、月宿の歴史のための新しい典拠を指摘している(Berlin 学士院会議報告 1888 年 S. 3–14)。

インド医学(S. 234–238)、すなわち Āyurveda は、Atharvaveda まで遡って追跡しうる。最古の権威は Yajurveda の文献から知られる名を負っている(Ātreya、Caraka)。Suśruta については「Vullers 氏と Hessler 氏」によって過大な古さが想定された。インド医学におけるギリシアの影響はまだ確実には証明されていない。医学の優れた総覧を与えるのは、1845 年 Calcutta で出た Dr. Wise の著作 "Commentary on the Hindu system of medicine" である。兵法、音楽、技術的諸芸についても数語をもって触れることは、インド古代の従来の叙述においてすでに慣例であった。

その後にはじめて Dharmaśāstra が来る(S. 241)。ここで Weber は、Yājñavalkya 校訂における Stenzler の立場に立っている。彼は Mahābhāṣya において Dharmasūtra が言及されていることを知っていた(S. 243)が、彼には

¹⁾ 「Tājik」の意味については J. J. Hess がドイツ東洋学会誌 LXIX(1915)391 で論じており、Hübschmann『ペルシア研究』S. 46 および 226 を参照させている。この語(パフラヴィー語 Tācik、新ペルシア語 Tāgik)は、ペルシア人がすべてのアラビア人をそれによって名づけたアラビアの一部族の名 "Taiji'" に遡る。同じ名 Tāgik はさらに転用され、Turkestan の北部では中央アジアに住むペルシア人に、南部では中央アジアのペルシア系原住民に用いられた。

まだ一つも目に触れていなかった。Gṛhyasūtra のうちに Dharmaśāstra の源泉を求めるべきだという彼の見解は正しくない。両文献類型は一定の素材を共有するにすぎず、本来の法はすでに Gṛhyasūtra 以前に古い smṛti のうちに存在していた。そのことが Veda 文献においてあまり証示されえないとすれば、法が王の管轄事項であったことを考慮すべきである。

Weber は、現存の Manu テキストがより大部の資料の短縮であるという伝承に言及し、また Mahābhārata にある Manu 引用のうち、われわれの Manu テキストには見出されないものを指摘している(S. 243 以下)。われわれはここから、法の素材が古い時代に大部な仕方で定式化を得ていたと結論する。インドの dharma の三つの主要構成部分、すなわち家庭的・市民的義務、司法、清浄と贖罪についての規定は、Yājñavalkya の法典において最も均等に扱われている(S. 245)。これを彼は後 2 世紀から 6 世紀ないし 7 世紀の時代に置く。Mānava がその現在の形をいつ得たかは、彼にも近似的にすら示しえない(S. 244)。Weber はある意味では Mahābhārata と Purāṇa 諸書をも Dharmaśāstra に数える(S. 246)。前者の dharma 的性格は近年 Dahlmann がとりわけ強調した。Agnipurāṇa は Yājñavalkya の第二巻全体を含んでいる。

講義の最後の節(S. 248–269)は仏教のサンスクリット著作を扱う。Weber にとって特徴的なのは、彼がいくつかの名称、Kapilavastu と Kapila、Śākya と Śākāyanya 等に、仏教とバラモン教との連関を見出す仕方である。Buddha の主要教説は、少なくとも Weber が S. 252 以下でそれに与えた要約においては、彼以前にバラモン側にすでに存在していた。しかし Buddha がカーストの区別なくすべての民衆に向かったことは、「その教えが見出さざるをえなかった途方もない成功を十分に説明する」。

その記述において Weber はとりわけ Burnouf、Lassen、Turnour、Csoma de Kőrös——彼を「今世紀の Anquetil du Perron」と呼ぶ——、Schmidt、Foucaux に依拠している。当時存在した資料に対応して、彼は主として北方仏教を特徴づけている。Buddha の年代に関しては、彼は Ceylon 人の伝える前 544 年ないし 543 年により多くの信を置くが、その修正において前 370 年まで下っており(S. 251)、これは Westergaard と類似している。三 Piṭaka の彼の特徴づけのうち強調に値するのは、単純な Sūtra の内容と、そこに現れる神々の世界についての一般的記述である(S. 261 以下)。Vinayapiṭaka の項で論じる仏教の祭儀は、遺骨崇拝、僧院制度、鐘と念珠¹⁾ の使用においてキリスト教会に影響を与えた可能性があるという(S. 266)。Jaina の文献——彼は後にその最初の基礎を築いた——には、彼はこの最初の講義ではまだ立ち入っていない。

Weber は 1876 年の第二版において『学術講義』の本文を変更せずに繰り返し、必要な補足を注において与えたので、そこにはこの 24 年間のサンスクリット文献学の進歩の概観が得られる。ここには S. 316 に Jaina についての長い補記も見出されるが、その間に彼自身がいくつかのテキストを世に知らしめていたのである。Weber は第一版の序文において、その業績に負うところのある学者として Colebrooke、Wilson、Lassen、Burnouf、Roth、

¹⁾ japamālā「念珠」については Weber, "Kṛṣṇajanmāṣṭamī" S. 340 以下参照。

Reinaud、Stenzler、Holtzmann のみを挙げているが、S. 364 以下の索引にはおびただしい数の新しい名が見出される。そのうちしばしば引用されるのは Aufrecht、Bālaśāstrin、Ballantyne、Benfey、Böhtlingk、Bühler、Burnell、Cowell、Goldstücker、Hall、Haug、Jacobi、Kern、Kielhorn、Lassen、M. Müller、Rājendra Lāla Mitra、Röer、Westergaard、Whitney である。彼は第二版を「サンスクリット辞典完成に際して、友 Böhtlingk と Roth に」献じた。第一版は Alfred Sadous によってフランス語に訳されていた(Paris 1859)。1878 年には第二版の英訳が現れ、これにドイツ語版への「補遺」が接続した(Berlin 1878)。

【原書 p. 331(承前)】

§第 XLVIII 章 A. WEBER・諸論文

その『文学史』第一版と第二版との間の時期に、Weber はその主要な活動を展開した。すなわち大小の論文の長い連続と、新刊書についての数百の書評とにおいてである。すでにそれ以前に彼は、インド古代学の雑誌『インド研究』を創刊していた。第一巻は Berlin の Ferd. Dümmler 書店から 1850 年に、第九巻(1865 年)以降は Leipzig の F. A. Brockhaus 書店から出た。この雑誌には彼の研究の大部分が収められており、他の大きな部分は Berlin 学士院論文集に収められている。

より早い時期の四つの講演と論文を、彼は『インド素描』(Berlin 1857)にまとめ、主としてまずドイツ東洋学会誌および Berlin 学士院月報に発表した十八のより小さな仕事を『インド漫録』第 I 巻(Berlin 1868)にまとめ、主として Zarncke の『文芸中央新聞』に出た多数の書評を『インド漫録』第 II 巻・第 III 巻(Berlin 1869, 1879)にまとめた。1880 年から 1896 年までの書評は、「文芸批評漫録」という表題で『インド研究』第 XVIII 巻(1897 年)S. 413 以下にまとめている。

『インド素描』に収められた四つの講演と論文は、『学術講義』と多くの点で接触し、それを歴史的方向において補うものであり、諸連関に向けられた Weber の特質を、おそらく『学術講義』よりもいっそう明瞭に示している。第一の講演「古代インドについての新しい研究」(1854 年講演)において、彼はサンスクリット文献学の歴史と、インド研究によってインド人の歴史的発展について得られた解明とについての概観を与えている。

大部分のサンスクリット文献学者は、かつての古典文献学者と同様、自らが研究対象として選んだ文献に外来の影響を認めることに嫌悪をもっているが、Weber の歴史的眼は初めから古代諸民族の文化的連関の痕跡を探し求めた。その際、彼は「インド民族が常に一切の外来のものに対して否定的・軽蔑的に振る舞ったのだ」という観念を誤りとみなした(S. 80)。ギリシア文化とその他のアジア世界とは彼に遠くはなかった。というのも彼は大学で古典文献学を学び、ペルシア語とアラビア語をも習得していたからである。彼はキリスト教史にも通じていた。宗教的問題への理解を——M. Müller よりは冷静な仕方においてではあれ——もっていたからであり、また一時期プロテスタント協会の熱心な会員でもあった。かくして

彼は『インド素描』の第一および第三の篇において、諸民族の交流を証する一定の対象に繰り返し言及している。すなわち、Lassen が Demetrios と同定した王 Dattāmitra をもつ Yavana、獣帯、インド演劇におけるギリシアの影響、『イリアス』と RāmāyaṇaMahābhārata の Śvetadvīpa 伝説、Kṛṣṇa とキリスト、太陽崇拝、インド寓話の西方への伝播と並ぶインドにおけるギリシア寓話、インド人とアラビア人の天文学である(S. 28, 29, 37, 38, 85, 93, 102, 107, 110 以下参照)。

『インド素描』第 III 篇は「インドと西方諸国との結びつき」という表題をもつ。古代人の伝える報告は、Robertson、Heeren から Lassen に至るまで好まれた主題であったが、インドが自らの原典からますます知られるようになるのと同じ度合いで後退した。Weber はこれを総括的に論じた最後の人である。以前には信じられ、なお Othmar Frank が論文を書いた、インドとエジプトとの古い連関を、Weber は斥けた(S. 72 以下)。しかしすでに当時、彼は nakṣatra の起源——これについては後に、上記 S. 283 で論じた大論文を書いた——をバビロニア人ないしカルデア人のもとに求めた(S. 76)。彼はここで、Baron v. Eckstein の論文「インド哲学の基礎と、西方諸民族の哲学説とのその連関について」に依拠している。これを彼は当時(1853 年)『インド研究』第 II 巻に収めていたが、明らかにその彼に好都合な傾向のゆえであった¹⁾。

カルデア人のもとに彼はインド文字の起源をも求めた(S. 77)。これについて彼はより詳細に、1855 年に書かれた『インド素描』第 IV 篇「インド文字のセム起源について」において論じている。「新しい古文書学の天才的創始者」Ulr. Fr. Kopp が最初に(1821 年)この見解を述べた。Lepsius もまたこれを主張したが、彼は近代の Devanāgarī を、しかも「A. W. v. Schlegel の活字彫刻に従って、その研究の基礎に据えた」(S. 128)。Weber は Aśoka 碑文と Prinsep に接続したが、Prinsep 自身はもっとも「the oldest Greek was nothing more than Sanscrit turned topsy turvy」という見解をもっていた(S. 130)。W. Deecke はその師 Weber の仕事を補完・修正した。すなわち「インド文字とその他の南セム文字との連関について」(ドイツ東洋学会誌 XXXI〔1877〕598 以下)である。しかし両者はサンスクリットについてなお十分な古文書学的基礎をもってはいなかった。これをようやく 40 年後に Bühler が本『概説』の「インド古文書学」において与えようと試みたのである。

¹⁾ Baron Ferdinand d'Eckstein については、彼をよく知っていた J. Mohl が Journ. Asiatique, Cinquième Série, Tome XX(1872)S. 14–16 に伝記的紹介を発表した。Mohl はその出自についての「écho de rumeurs piquantes」となることを望まず、ただ、彼がデンマーク出身であり、Lützow 義勇兵であり、オランダ軍に入り、Louis XVIII によって Paris に招かれたとのみ記している。それには彼の政治的活動が結びついている。しかしそれ以上に彼の心を捉えていたのは、人類の最古の文化史についての大著作であった。しかし刊行されたのは一書のみ、すなわち「キリスト教修道制の禁欲の歴史への序説としての、古代異教世界および古代ユダヤ世界の禁欲についての歴史的考察」であり、Joh. Jos. Ign. von Döllinger の序文を付して Freiburg i. B. 1862 年に出た。彼はそこでインド古代にも言及している。事柄への大きな関心にもかかわらず、彼には批判力と把握の鋭さとが欠けていた。フランスの諸雑誌に散在するその小論は、Catalogue Général des Livres Imprimés de la Bibliothèque Nationale, Auteurs, Tome XLVI, Du Toict-Elbs(Paris 1911)欄 730 以下に列挙されている。彼は Société Asiatique の会員であり、1862 年 Paris で 72 歳の生涯を閉じた。—— K. Goedeke, Grundriß zur Geschichte der Deutschen Dichtung² 第 6 巻 S. 482 参照。(E. Kuhn)

最後に『インド素描』の第 II 番には、1856 年に行われた講演「仏教について」がある。これには 1855 年に『インド研究』第 III 巻において、「仏教領域における最新の研究」という報告が先行していた。それは以下の四つの重要な著作に関わる。すなわち R. Spence Hardy の Eastern Monachism(London 1850)、同じく A Manual of Buddhism(1853)、E. Burnouf の Le Lotus de la bonne loi(Paris 1852)、Stanislas Julien の Histoire de la vie de Hiouen-Thsang et de ses voyages dans l'Inde(Paris 1853)である。とりわけ詳細に彼は Burnouf の大著について報告している(上記第 I 巻 S. 129 参照)。

仏教についての知識を豊かにした彼は、その講演において Buddha の四諦の主要教説をも然るべく強調しえた(S. 48)。彼はここで Dhammapada にも言及しており(S. 68)、これについては M. Müller と同様に翻訳を与え、『インド漫録』第 I 巻に再録している。Buddha の教えはあらゆる点で新しかったわけではなく、一定の根本思想においてはバラモンの哲学に接続している。Buddha が得た大きな成功を、Weber は、Buddha がカーストの区別なくすべてのカーストに向かったこと、「彼が、まさに一般的人権がかつてないほど踏みにじられていた時代と状況において、その一般的人権の宣布者として立ち上がった」ことから説明した(S. 47)。

この最後の文に含まれる当時の描写が、Weber の自由主義的信条から生じた一種の誇張を含むかどうかは措くとして、いずれにせよ事実であるのは、最初の帰依者の獲得を語る古い伝説が、バラモンによる民衆の耐えがたい抑圧については何も知らないということである。しかしまた事実であるのは、Buddha がバラモン階級への帰属を利点として認めず、真のバラモンの本質を心の一定の清浄な性質のうちに見、そうした清浄はすべてのカーストにおいて可能であると説いたということである。この主題を扱う Pāli 正典の Assalāyanasutta は、ようやく後に Pischel によって刊行されたが(Chemnitz 1880)、同様の内容をもつ Aśvaghoṣa の Vajrasūcikā は当時すでに Hodgson と Burnouf によって知られていた。Weber はこれを 1860 年に Berlin 学士院論文集において本文と翻訳とをもって刊行した。それは Wilson を通じて、早世した(1841 年)Bhopal 駐在イギリス代理人 Lancelot Wilkinson が 1839 年に企画したインドの印刷本を入手した後のことである。Aśvaghoṣa の著作の第一部は、Śaṅkara に帰せられるある Upaniṣad にも見出される。Weber がすでに『学術講義』で言及していたとおりである。この論文において Weber は、Upaniṣad の方に原型を見ようとしている。この問題はまだ決着していない。

1850 年代には、『学術講義』で述べたことを修正あるいは補足する Weber のいくつかの仕事が生まれた。A. Wagener の "Essai sur les rapports qui existent entre les apologues de l'Inde et les apologues de la Grèce"(Bruxelles 1854)に促されて、彼は Babrius の 20 の寓話を PañcatantraHitopadeśa の対応するものと比較した。論文「インド寓話とギリシア寓話との連関について」(『インド研究』III〔1855〕327 以下)である。彼は「インド人はすでにより早く独立に寓話を作り始めていた」という立場は保持したが、Benfey と同様に「インド人が幾度もギリシアの寓話を我がものとした」と想定する根拠を見出した(S. 361)。この見解を彼は

『学術講義』第二版 S. 228 において、Otto Keller の著作「ギリシア寓話の歴史について」に対して擁護した。

類似の立場を Weber はインド演劇についてもとった。文学史的に重要な、戯曲『Mālavikā と Agnimitra』の翻訳(Berlin 1856)の序文において、彼は「インド演劇の成立が……完結した芸術作品の形態においては、ギリシアの影響によって説明されるべきである」という推測を、以前よりも詳細に基礎づけた(S. XXXVI)。以前は従っていた Wilson と Lassen に対して、彼はここでこの戯曲が有名な Kālidāsa を作者とし、彼が Gupta 朝のもとで後 2 世紀から 4 世紀の間に生きたという見解を主張している(S. XXXIX)。

三つのインドの散文物語、すなわち Bāṇa の Kādambarī、Subandhu の Vāsavadattā、Daṇḍin の Daśakumāracarita の内容についての、今日なお有用な記述(1853 年、1854 年、1859 年のもの)を、彼は 1868 年に『インド漫録』I 308–386 においてより入手しやすくした。その間に Hall の Vāsavadattā 校訂本序文によって、Bāṇa が Harṣa 王——その時代に Hiuen Thsang が 629–645 年にインドを旅した——の宮廷に生きたことが明らかになっていた(S. 354)。Daṇḍin が Subandhu より前に、そして Subandhu が Bāṇa より前に書いたにちがいないことを、Weber はすでに以前に文体から結論していた(S. 311)。Cartellieri、Jacobi らによって、この順序——Daṇḍin、Subandhu、Bāṇa、最後の者は 7 世紀——はさらに確実にされている。

1870 年代と 1880 年代に、Weber は一連の仕事をもって民衆的物語文献の領域に入った。それはとりわけ Jaina によって育まれたものである。より古い時期のものとしては、Weber は Pāśakakevalī の翻訳と Praśnottararatnamālā の翻訳とをなお『インド漫録』第 I 巻に収めている。この二つの小著に Weber の注意を向けさせたのは Schiefner であった。前者を彼は「インドの一賽占いについて」という表題のもとに、まず 1859 年に Berlin 学士院月報において、Berlin の一写本から訳出した。より良いテキストを後により多くの写本から与えたのが Erich Schröter の Leipzig 学位論文「Pāśakakevalī——インドの賽占い」(Borna 1900)である。第二のものは問答からなる仏教の教理問答書であり、Schiefner はチベット語から、Foucaux はサンスクリット原典から訳していた。1868 年 Berlin 学士院月報における Weber の訳には本文も添えられている。

友人 Schiefner から彼はすでに 1851 年に、Petersburg の図書館から六つの小 Upaniṣad の写しを受け取っていた。そのうち NirālambopaniṣadGaruḍopaniṣad とを彼は 1885 年に『インド研究』XVII 136–167 に公にした。前者は絶対者(nirālamba)を扱い、Praśnottararatnamālā と同様に問答の形式をとる。kim brahma が最初の問いである。六つの写しのうちには、S. 333 で言及した Upaniṣad Vajrasūcī もあった。

より大きな論文のうち二つ、すなわち nakṣatra についてのものと Goldstücker の Pāṇini についてのものとは、すでに上記 S. 283 以下および S. 248 以下でその位置を占めた。後者に主題の上で接続したのが、1873 年の、きわめて教訓に富む論文「Patañjali の Mahābhāṣya」(『インド研究』第 XIII 巻)である。śāstra の知者としては Kielhorn と比すべくもないとはいえ、Weber はここでその精髄を汲み取っている。Weber の文学史的方法がこの論文におけるほど豊かな実を結んだところはない。1871 年(Saṃvat 1927)に Benares において Mahābhāṣya の最初の完全な校訂本が、Kaiyyaṭa の

Pradīpa を伴って刊行された。それは Griffith の勧めにより、Benares College の二教授 Rājārāmaśāstrin と Bālaśāstrin とが企てたものである。Weber はこの校訂本を用いて、Mahābhāṣya の用例から、文学史的・文化史的に注目すべき驚くべき豊かさの記述を抜き出し、事項別に整理して一つの総合像へと加工した。

最大の印象を与えたのは、saubhika(Kielhorn 版 III 1, 16、Vārtt. 15 では śobhanika)および granthika と呼ばれる俳優・吟誦者による Kaṃsavadha と Balibandha の劇的上演と語りについての記述であった(S. 354, 486 以下)。ここにインド演劇の歴史への一瞥が得られたのである。より古い時代には素材を提供したのは神々の物語であった。次いでわれわれの知る文学的な「市民劇」が来るが、これについて Weber は「ギリシア劇の上演を見たことに一定の影響を認める余地を残す」という立場を保持している。その最後の派生においては、インド演劇はその対象に関して本質的にその始まり、すなわち神々の物語の上演へと回帰したという(S. 492)。

Veda の列挙においては Ṛgveda ではなく Yajurveda が筆頭に立ち、Atharvaveda もまた挙げられる(S. 436 以下)。文法的形成のために Garga ほど頻繁に用いられる名はない(S. 410 以下)。しかも Garga は Maitrāyaṇīya の一分派であった(S. 411)¹⁾。Mahābhāṣya には、その成立当時すでに Mahābhārata 伝説の詩的加工が存在したことを示す暗示が見出されるのに対し、Rāmāyaṇa についてはそうした暗示が欠けている(S. 479)。生活から取られたものとしては賽戯についての記述がある(S. 471)。これについてはすでに Roth が論じ、近年 Lüders が大論文を公にしている。文学史的な諸節には、歴史的な、そしてとりわけ膨大な地理的記述が先行している。

論文の冒頭で Weber は、Mahābhāṣya の年代決定のために持ち出された諸論拠を論じており、その際とりわけ Goldstücker の『Pāṇini』とこの著作についての自らの批判とに、また『Indian Antiquary』第 I 巻におけるこの重要な問題についての R. G. Bhandarkar の小論にも言及している。この傑出したインド人学者は当時はじめて世に出たのであり、Weber は温かく彼を迎えているが(S. 301)、Bhandarkar の論証はいくらか懐疑的に批判している。Goldstücker の著作を彼は以前よりも高く認めている。

Bhandarkar は Goldstücker の Mahābhāṣya 年代決定(上記 S. 251 参照)を新しい論拠によって確証した。すなわち彼は Pā. III 2, 123 に対する用例 iha Puṣpamitraṃ yājayāmaḥ を Puṣpamitra 王の馬祀祭に関係づけ、これに Pā. III 2, 111 に対する用例 aruṇad Yavanaḥ Sāketam を組み合わせ、この一節全体が前 144 年から 142 年の間に書かれたにちがいないと結論した。Mahābhāṣya の用例が mūrdhābhiṣikta、すなわち先行者から受け継がれたものでありうるということは正しい。しかし、かくも批判的な精神をもつ古い文法家たちが、自らの時代にはもはや適合しない用例までも受け継いだとは考えにくい。Weber は最終的にはその懐疑をいくらか緩めている(S. 319)。

¹⁾ ここで付言したいのは、すでに Pāṇini が、黒 Yajurveda に属する Maitrāyaṇīya の学派と特別の関係をもっていたように見えるということである。というのも、彼はその Saṃhitā あるいは Kāṭhaka にのみ現れる形態を挙げているからである。文法学はとりわけ Yajurveda の諸学派において形成されたように思われ、最古の文法家はそうした学派に属していた。それゆえまた、Mahābhāṣya において Veda の列挙に際して Yajurveda が筆頭に立ち、Ṛgveda が比較的わずかしか顧慮されていないことも説明される。

Weber の 1868 年の論文「Kṛṣṇajanmāṣṭamī(Kṛṣṇa の誕生祭)について」は、その端緒において 1851 年にまで遡る。この年、彼は Erlangen の文献学者大会において「Kṛṣṇa の誕生祭に関わるいくつかの資料」を報告したのである。またそれは Berlin 写本の研究に根ざしており、それと並んで Purāṇa 諸書については Aufrecht の Oxford 写本目録における詳細な記述を利用しえた。

Purāṇa 諸書がこの主題の主要典拠であり、そのうちとりわけ Bhaviṣya- および Bhaviṣyottara-Purāṇa である(S. 242)。前者の Oxford 写本には、まさに Janmāṣṭamī を扱う部分が欠けており、13 世紀末の Hemādri の CaturvargacintāmaṇiVratakhaṇḍa の Berlin 写本においても同様であることを、Weber が最初に確認した。これは年代の判明する著作のうち最古の典拠である(S. 218)。この著作は後に Bibliotheca Indica において刊行された。Weber が Janmāṣṭamī の叙述のために用いた十三の年代判明著作のうち第二のものが Kālanirṇaya であり、その著者 Mādhava すなわち Sāyaṇa について彼は長い注を付している(S. 219 以下)。

典拠の記述の後、Weber は §2 において祭りの叙述を典拠からの証拠とともに与え、§3 において「祭りの起源、ないしそもそも Kṛṣṇa 崇拝の起源についての研究」を、§4 において Devakī が幼い Kṛṣṇa に乳を与える図像の記述を与えている。

この論文は、研究の主要対象から外れた珍品というわけではない。というのも、それは Weber の学識ある仕方において、第一に Purāṇa の性格づけに、第二に Kṛṣṇa 伝説とその中世および近代インドにとっての意義の認識に寄与するからである。しかしそれが有名になったのは主として、Weber がここで Kṛṣṇa とキリストとの伝説上の類似を扱っているためである。Weber はこの両者を歴史と宗教のまったく異なる二つの形姿とみなしたが(S. 316 参照)、しかし彼以前の他の人々と同様に(S. 310 以下)、イエスの幼時物語の個々の特徴が Kṛṣṇa に転用されたと想定した。Weber において新しいのは、彼が最初に Kṛṣṇa の誕生日の祝祭を明るみに出し、それを接触点に数えたこと(S. 310)、さらには歴史的状況の詳細な論述において、彼が挙げるその他の伝説的素材もまたこの誕生祭に伴ってインドへ渡来したと蓋然的にしようとしたことである(S. 338 以下)。

Kṛṣṇa 伝説がキリスト教によって影響を受けた一般的可能性は否定しえないが、しかしそれはいかなる点においても確実に証明されてはいない。キリストはわれわれの紀元の最初の数世紀にすでにインドで知られていた可能性がある。インド人がキリストについて聞いたとき、彼らはすでに古い時代に自らの Kṛṣṇa を思い浮かべたということもありうる。キリストの降誕の祝いは 4 世紀に生じた。しかし神々の誕生を祝うという観念はキリスト教に由来するのではなく、古代の他の諸民族にも見出される。Weber 自身が叙述する Kṛṣṇa の誕生祭の経過は、特にキリスト教的なものをほとんど含んでいない。何より、祝祭の日、すなわちわれわれの 7 月〜8 月に当たる Śrāvaṇa 月の黒分第八日、あるいはその前月または翌月の第八日(S. 338)は、キリスト教の祝祭の時期と一致しない。Mahābhāṣya にすでに言及されている Kṛṣṇa と Kaṃsa の伝説全体は——これは Weber 自身が、もっとも 1873 年になってではあるが、

証示している——、純然たるインドの産物である。Herodes が Kaṃsa と同様に生まれたばかりの子を滅ぼそうとするとき、この類似は偶然に基づくにちがいない。Kṛṣṇa の幼児を抱く Devakī の図像は近代のものにすぎず、たしかに Madonna 図像によって喚起された可能性はある。

インド人がいつ最初にキリスト教と接触したかという問いにおいては、Malabar の Thomas 派キリスト教徒が顧慮されるが、また Mahābhārata 第 XII 巻の Śvetadvīpa 伝説の解釈も顧慮される(Adhy. 335 以下、Jacobi『Mahābh.』S. 155 参照)。乳海の北にある神話的な国 Śvetadvīpa——そこでは白く輝く、驚くべき姿の人々がただ Nārāyaṇa のみを崇拝する——へ、Ekata、Dvita、Trita が、後には Nārada が、この神を見るために赴いた。Weber はそこにバラモンのキリスト教都市 Alexandria への航海を見ようとする(S. 322)。しかし Nārāyaṇa の描写にはキリスト教の痕跡はほとんど見出されない。

インドの宗教性に対するキリスト教の影響についての最も重要な論拠は、bhakti という宗教的心情、すなわち人格的な神への心情の帰依であり、これはとりわけ Kṛṣṇa 崇拝と結びついている。Weber はこの形態の宗教性をキリスト教起源とみなす。彼以前にすでに Wilson その他がそうであった¹⁾。しかしこれもまた確実に証明されてはいない。インド人は今日なおキリスト教に対して拒否的に振る舞い、キリスト教の最良の思想はすでに自ら所有していると信じている。Kṛṣṇa への信と帰依とは、近年あまりに孤立して考察されてきた。Bhakti は宗教性のかくも本質的な構成要素であるから、それがまったく欠けていたことはありえない。ただそれが、われわれにとってインドの宗教と哲学の典拠となっている諸著作においては後景に退いているだけである。

bhakti という語は Ṛgveda には現れないが、śraddhā は現れる。Veda の歌人は、とりわけ Indra への信仰と彼への信頼とを告白し、また要求する(śrát te dadhāmi prathamāya manyáve X 147, 1)。宗教的発展においては、まず一つの「知」が「信」に対して優位を得る。Ṛgveda においては、賛歌と祭式とによる神々の恩寵からの財と最高善との獲得。Brāhmaṇa 諸書においては、願望の成就がさらに、祭式とその儀礼の意義についての知(ya evaṃ veda)によって達成される。Upaniṣad においては生の財が後退し、古い神々に取って代わった brahmanātman との認識が、再生と再死とから守る救済の手段となる。哲学諸体系においては、満足と解脱とがさらに一層、悟性的な知に、一定の哲学的原理の認識に依存する。仏教においてもまた、自らに委ねられた人間が、道徳的な生活を前提として、一つの知によって、すなわち生を条件づける事物の連関の認識(paṭiccasamuppāda)によって、また彼を世界から解き放つ思考の内的集中によって、救済を得る。無意識にまで押し進められたこの宗教的な知の一面的な尊重は、民衆をも思想家をも、永続的に満足させることはできなかった。一柱の神への崇拝と彼への帰依とにおいて、それに対する対抗力が与えられたのである。この反動へと、インド人は

¹⁾ 宗教的思考は一度だけ自らのうちから生じるとは限らず、種々の時代に同じ思想に到達することもありうる。Kaṭha および Muṇḍa Upaniṣad の一詩節に、Weber は恩寵による選びのキリスト教教義(ロマ書 9 章)を認めたと信じた(『インド研究』III 574)。

自ら到達せざるをえなかった。それは彼ら自身の力と彼ら自身の発展のうちに根拠をもつ。キリスト教との接触はせいぜいそれを強めえたにすぎず、それを呼び起こしたのではない。こうした内的な根拠からは、仏教の漸次的な変容と、インド人の仏教からの離反もまた説明される。

より新しい研究、とりわけ Sir George Grierson と R. v. Garbe の研究によって、真にインド起源の古い bhakti と、キリスト教の影響を受けた後代の bhakti とを区別すべきことがますます明らかとなってきた。Grierson からは二つの論文が顧慮される。すなわち I. "Modern Hinduism and its debt to the Nestorians"(JRAS 1907, S. 311–335)、および II. "The Modern Hindu Doctrine of works"(JRAS 1908, S. 337–362)である。およそ 6 世紀以降南インドに確認されるネストリウス派キリスト教徒の影響は、後代の諸宗派においてはじめて作用しえたはずである。Grierson は Rāmānuja、Rāmānanda、Viṣṇusvāmin、Tulasī Dāsa、Vallabhācārya、Kabīr("the Musalmān weaver, and one of Rāmānanda's twelve apostles"、I S. 325)の名を挙げる。第二の論文において Grierson は、bhakti 説が「from the old Bhāgavata monotheistic religion dating from an age perhaps contemporary with the early Upaniṣads」に由来することを、以前よりも強く強調している(II S. 361)。Bhagavadgītā についてはキリスト教の影響は彼には証明されていないが、Śvetadvīpa 伝説はキリスト教の思想と制度とを反映しているように見えるという。Monier Williams と同様に、Grierson は今日、同胞に対してサンスクリット文献よりもインドの "vernacular literature" の研究を勧めている(I S. 327)。第一の論文において彼は bhakti についてのインド人の著作の一覧を与え(S. 329)、第二の論文においては Pratāpa Siṃha が 1866 年に Hindī で書いた著作 "Bhakta-kalpadruma" の二節を訳出しているが、それは niṣṭhā と呼ばれる聖者の種々の階級を扱うものである(S. 338 以下)。

Garbe は Windisch に献ぜられたその著書『インドとキリスト教』(Tübingen 1914)において、宗教史的連関のきわめて有難い批判的研究を与えている。その書の基礎をなすのは、以前に発表された一連の論文である。第一部は「キリスト教に対するインドの影響」を、第二部は「インド諸宗教に対するキリスト教の影響」を扱う。Śvetadvīpa 伝説を Garbe は、Mahābhārata のうち「それがキリスト教の教説とキリスト教の祭儀との接触を漏らしていると、ある程度の蓋然性をもって主張してよい」唯一の部分と呼ぶ(S. 192)。Garbe は、その主要教本が Bhagavadgītā である古い Bhāgavata 宗教の宣布者 Kṛṣṇa を、実際に一人の宗教的教師とみなす(S. 217)。bhakti に基づくこの古い形態の宗教にキリスト教の影響を想定する十分な理由は、Winternitz その他の文献学者と同様に、彼も見出さない。

同様に世を騒がせたのは、1870 年に出た Weber の論文「Rāmāyaṇa について」である。ここで問題なのはキリスト教の影響ではなくギリシアの影響である。Weber の理論の基礎をなすのは Daśarathajātaka であり、これについては d'Alwis がその著書 "Attanagalu-Vansa"(Colombo 1866)においてまず翻訳を与え、Weber がそれを Excursus A に再録した。Weber の論文に促されて、Fausböll はその翌年には本文をも公刊した。すなわち "The Dasaratha-Jātaka, being the Buddhist story of King Rāma"(Copenhagen および London 1871)、"with a Translation and Notes" である。

Daśarathajātaka は Rāma の十二年の追放と、次いでその即位——それ以来彼は一万六千年にわたり正義をもって統治した——とを含む。欠けているのは Rāvaṇa による Sītā の掠奪と Rāma の Laṅkā 遠征である。Weber はこれを Rāma 伝説の最古の形態とみなし、Sītā の掠奪と Rāma の遠征とについては「単に Helena の掠奪と Troia をめぐる戦いとが Vālmīki に手本として役立った」とする(S. 12)。

Rāmāyaṇa と『イリアス』との比較は新しいものではなかった。Monier Williams が個々の特徴における類似を指摘し、Hippolyte Fauche はその Rāmāyaṇa 訳において逆にこれを『イリアス』の源泉と称し、Weber 自身もすでに 1855 年に「Troia の攻囲と Laṅkā の攻囲との驚くべき類似」を語っていた(『インド素描』S. 38)。DaśarathajātakaRāmāyaṇa のより古い形態とみなそうとするならば、詩人がいかにしてこの森の牧歌をトロイア戦争と結びつける着想に至りえたのかが説明不能のままとなる。そうした連想の機縁を与えうる何かが、すでに存在していたにちがいない。Jacobi と Ludwig もまた、Sītā の掠奪と Laṅkā 遠征とが古来 Rāmāyaṇa の筋の不可欠の構成部分であったという見解である。

その後 Ed. Huber はその "Études de Littérature Bouddhique" I. "Le Rāmāyaṇa et les Jātakas"(Bulletin de l'École Française d'Extrême-Orient, Juillet-Septembre 1904 抜刷)において、漢訳のうちに別の一 Jātaka を証示した。それは Sītā の掠奪と Laṅkā 遠征との双方を内容としている。仏教徒はバラモンの文献から、自らの目的に用いうるものを、用いうる仕方で取り入れたのである。Jātaka はより古い著作の性状についての確実な尺度を与えない。Jātaka が成立した時代には、Rāmāyaṇa は主要な点において、今日われわれの手元にあるのと同じ形態をすでにもっていたのである。

確実に伝播した、しかもインドから西洋へ伝播した広範な説話素材を、Weber はその論文「Jaiminīya-Bhārata の一挿話について」において紹介した。これは皇帝 Heinrich III の伝説および「鉄工場への道」に対応するものである(Berlin 学士院月報 1869 年 S. 10–48 および 377–387、『学術講義』第二版 S. 206 参照)。写本と 1863 年の Bombay 版とによって今日まで知られていた Jaiminibhārata、すなわち Jaimini に帰せられる Bhārata は、MahābhārataAśvamedhaparvan の、Viṣṇu 崇拝に資する後代の改作である。Weber が見たように、それは Talboys Wheeler が 1867 年にその『インド史』第 I 巻において Aśvamedhaparvan について与えた分析(S. 377–437)の基礎にある。同書にはまた S. 522–534 に、Weber の論文が扱う挿話 Candrahāsopākhyāna の分析もある。

この論文において Weber は、同じ主題をもつ他の二つの物語をも参照させている。すなわち Dhammapada 注釈における Ghosaka の仏教説話と、Jaina の Campakaśreṣṭhikathānaka とであり、後者は間もなく彼自身が公刊した(後述 S. 341 参照)。しかし同じ主題は Hamlet 伝説にも含まれている。それゆえ諸言語に通じた München の英語学者 J. Schick は、すでにその師 Weber がまとめていたこれら三つのインドの主要説話を、その『Corpus Hamleticum』第 I 部第 1 巻「死の手紙をもつ幸運児——東方の諸異本」(Berlin 1912)に採録した。インドの物語の傾向的な利用は、Ghosaka、Campaka、Candrahāsa の物語におけるほど見事に観察しうるところはない。そこでは仏教徒、Jaina、

そして Viṣṇu 崇拝者が、主要な点で同じ素材を自らの目的に奉仕させているのである。Schick は物語を翻訳したのみならず——Candrahāsopākhyāna のそれは初めての完訳である——、本文そのものをも、稀覯の印刷本と写本とを用いて、しかも各々を原文字で与えている。すなわち Ghosaka の物語のそれはシンハラ文字で与えられており、それゆえこの巻は伝説学ないし説話学への華麗な寄与であるのみならず、サンスクリット文献学への寄与でもある。

仏教徒においてはこの素材はすでにかなり古い時代に確認される。Schick は(同書 S. 70)Chavannes の "Cinq cents Contes et Apologues extraits du Tripiṭaka chinois et traduits en français" 第 III 巻(Paris 1911)S. 135 において、後 472 年に漢訳された一書のうちに Ghoṣila ないし Ghosaka についての一節を発見した。最後の最後に Schick はなお、死の手紙をもつ幸運児の物語全体が、しかし Buddha 自身に結びつけられた形で、後 280 年以前に漢訳された漢訳大蔵経の別の一書に見出されることを挿入しえた(Chavannes 第 I 巻 S. 165)。Schick はその後この漢訳版をも「支那における Hamlet」という表題で公刊している(Shakespeare-Jahrbuch 第 L 巻〔1914〕S. 31–50)¹⁾。

Weber ほど一貫して、諸著作相互の関係と、インド文献と他民族の文献との連関とを探究した学者は他にいない。彼はその推測において所々行き過ぎたが、学問の歴史においては、孤立的研究と並んで、比較的・世界史的な考察方法をも意識的に適用したという大きな功績をもつ。彼はある種の満足をもって、1883 年 Peterson の Kādambarī の書評——『インド研究』XVIII 453 以下に再録——において、この 30 年間にインド文学史の領域で一部は彼自身によって引き起こされた転換を指摘している。彼は当時こう叫んだ。「Goldstücker は 1848 年から 1850 年にかけて、ここでわれわれの間にあった『サンスクリット懇話会』で私が自らの冒瀆を披露するのを、まさにいかなる戦慄をもって聞いていたことか!」(S. 455)。

この方面の彼の努力への回顧をさらに多く含むのが、論文「インドにおけるギリシア人」(Berlin 学士院会議報告 1890 年 S. 901–933)であり、そこで彼は比較神話学、キリスト教との接触、および多くの注目すべき細部にも立ち入っている。「インドの三つの人生目標」dharmaarthamokṣa を彼はプラトンの観念 τὰ καλά, ὠφέλιμα, ἡδέα に還元しようとしたが(S. 926)、他方「罪を思考・言葉・行為のそれに分類すること」(S. 927)は仏教から広まったはずだという。Brunnhofer『Iran und Turan』S. 191 参照。Pythagoras が彼の名を冠する定理と輪廻の教説とをインド人から借りたということを——L. v. Schroeder が 1884 年の Pythagoras についての著作で主張したように——、彼は認めなかった(S. 923 以下)。

Weber が主として Jaina に従事していた 1870 年代と 1880 年代には、彼のいくつかの仕事が、とりわけ Jaina によって育まれた民衆的物語文献に関わっていた。それに先行したのが、1876 年『インド研究』XIV 97–160 における

¹⁾ 同誌第 L 巻 S. 166–170 には W. Keller による Schick の Corpus Hamleticum の書評がある。Schick の著作については Max Förster が私に注意を促してくれた。

Jacobi による Ananta の Vīracaritra の分析である。Pratiṣṭhāna の攻囲その他において Rāmāyaṇa を想起させるこの叙事詩の主人公(vīra)は Śūdraka であり、Jacobi は彼を戯曲 Mṛcchakaṭikā の作者とすら同定しているが、Śālivāhana とその子 Śaktikumāra もそこで役割を演じている。冒頭ではまた、二人の紀元創始者、Ujjayinī の Vikramāditya と Pratiṣṭhāna の Śālivāhana との争いも語られる。Jacobi は(S. 104)、Śālivāhana が Śaka を殲滅した後 Śaka 紀元を導入し、Yavana をインドの地から追い払ったと述べる詩節を伝えている。末尾には London にある唯一の写本から第 VIII adhyāya を本文の見本として与えている。

Weber が知らしめた諸物語は、その粗悪なサンスクリットにおいて、また内容においても Vetālapañcaviṃśatikā を想起させる。始まりをなしたのは Pañcadaṇḍachattraprabandha「Vikramāditya の五本柄の日傘の物語」であり、Berlin 学士院論文集 1877 年に、British Museum の一写本——Oldenberg が改めて校合したもの——から公刊された。日傘の所有は五つの課題の解決に結びついている。Weber はここで S. 7 以下に Kālakācārya-Kathānaka の内容をも与えているが、これは Jacobi を通じて彼に知られたもので、その Māhārāṣṭrī 版を Jacobi は 1880 年にドイツ東洋学会誌 XXXIV 247 以下に公刊した。

次いで彼は 1878 年『インド研究』XV 185–453 において Siṃhāsanadvātriṃśikā を分析した。これはこの種の最も人気ある著作であり、インドのあらゆる民衆語に存在し、そのサンスクリット形については多くの写本が彼の自由に使えた。ある伝承によれば、これは Kṣemaṃkara によって Māhārāṣṭrībhāṣā からサンスクリットに訳されたという。彼が最終的に分析するテキスト(S. 260 以下)は「Jainica recensio」である。この著作は Vikramāditya 王の讃美である。Dhārā の Bhoja 王が畑に埋もれた Vikramāditya の玉座を見出すが、そこには 32 体の女性像(putrikā)が取り付けられている。彼女らは一体ずつ Bhoja 王に Vikramāditya の徳についての物語を語り、各々が「汝にもかかる卓越が見出されるならば、この玉座に登れ」という呼びかけで終わった後、最後には再び天女に戻る。Vikramāditya と Śālivāhana との争いはここでも言及されている。

真正の Jaina 物語二篇を、Weber は各々 Berlin の一写本から翻訳と本文をもって伝えた。すなわち論文「Campakaśreṣṭhikathānakam、商人 Campaka の物語について」(Berlin 学士院会議報告 1883 年 S. 567–605、「補遺」S. 885–895 を伴う)、および「Uttamacaritrakathānakam、王子『最優』の物語について」(同 1884 年 S. 269–310)である。これらすべての仕事において Weber は、同じあるいは類似の主題がわれわれに現れる世界文学の他の箇所を参照させている。右の「補遺」は、Weber が Bühler、Böhtlingk、Leumann その他の親しい同学といかに活発な交流をもち、彼らが自らの仕事についての所見を彼に送っていたかを示している。

最後の説話研究は、その表題にすでに主要な思想を掲げている。すなわち「Samyaktvakaumudī について——場合によっては『千夜一夜』と同一の源泉に遡るインドの一物語」(Berlin 学士院会議報告 1889 年 S. 731–759)である。インドの説話と『千夜一夜』との類似を、彼は枠物語のうちに見る。すなわち王が大臣とともに夜に冒険に出るというものである。王は

隠れて、Arhaddāsa とその七人の妻とが samyaktva、すなわち Jaina の敬虔へと獲得された次第について語る報告を聞く。これらの報告が著作の中核をなし、第八の妻の改宗をもって終わる。Weber がこの著作に行き当たったのは、Berlin の Jaina 写本の通読の際であり、それについては次章で扱う。

Weber が Campakaśreṣṭhikathānaka のために唯一の写本しか用いえなかったのに対し、J. Hertel はその方法に従って、新しい批判的校訂と翻訳のためにインドから豊富な写本資料を入手した。すなわち "The Story of Merchant Campaka"(ドイツ東洋学会誌 LXV〔1911〕S. 1–51、独訳は S. 425–470)である。この散文の物語は、Hertel が見本を示す韻文形——(Saṃvat)1653 年の日付をもつ——よりも相当に古いにちがいない。この物語をその『Corpus Hamleticum』(1912 年、上記 S. 339 参照)に採録した J. Schick は、Weber に従ってさしあたり Berlin 写本のみを再現していたが、その翻訳のために Hertel の校訂の第一部をなお利用しえた(Corp. Haml. I 1, S. 126)。二つの写本において Campakakathā は Jinakīrti に帰せられている。彼は Somasundara の弟子であり、Saṃvat 1499 = 後 1442/3 年に没した(Hertel 前掲 S. 425)。

個々の写本は Weber を、その合間に、きわめて異なった周辺的対象へと導いたが、それらもまたインドの歴史にとってその意義をもつ。ここでは prakāśa と呼ばれる二つの著作をまとめて挙げる。R. Garbe から彼はインドから送られた一写本を受け取り、それを大論文「Kṛṣṇadāsa の Pārasīprakāśa について」(Berlin 学士院論文集 1887 年)において知らしめた。この著作は Akbar 帝の時代に由来する。それは 260 の śloka において 1065 のペルシア語を扱い、「支配者の言語を異言語の臣民に、また逆に臣民の言語を支配者——著者の呼ぶところの Mudgala(すなわち Mogul)ないし Yavana——に、ある程度近づきやすくする」という目的を追求している(S. 15)。この著作の研究に Weber は、それ以前のインド・ペルシア関係についての短い概観を前置している。

第二の著作は Berlin の一写本から彼に知られていたもので、当初はきわめて取るに足らぬものと思われていた。この Kaschmir 由来の著作により大きな意義を認めた Bühler に促されて、彼は 1898 年にこれを「Kṣemendra の lokaprakāśa に寄せて」という表題で分析した(『インド研究』XVIII 289–412、E. Sieg による索引付き)。実用のために作られた kośa であり、たとえば Kaschmir の諸地区、高官の称号を列挙し、また文書のための書式(huṇḍī)をも含む。Aurel Stein はこれを「ムハンマド教時代最初の数世紀に Kaschmir で用いられていたサンスクリットの公文書語の興味深い証拠」と呼んでいる(S. 336)。類似の著作 Lekhapañcāśikā——Saṃvat 1288 年頃に由来するように見える——については、Bhandarkar がその Early History of the Dekhan 第 XV 節(第2版 S. 109 以下)で報告している。

【原書 p. 342(承前)】

§第 XLIX 章 A. WEBER・Prākṛt 研究

Weber の功績はまだ尽きていない。Prākṛt 研究は彼によって、Hāla の Saptaśatakam についての、また Jaina の文献についての

諸業績によって著しく促進された。Prākṛt のテキストとしては、それまで戯曲中の Prākṛt の箇所しか知られていなかった。

Saptaśataka は Māhārāṣṭrī による āryā 詩節の詞華集であり、主として恋愛的内容のものである。各詩節には詩人の名が付されている(索引参照、『インド研究』XVI 19)。Hāla は編者とのみみなされるが、彼自身もいくつかの詩節を作ったという。Weber はこの著作をまず 1870 年にドイツ東洋学会論文集において、Kulanātha の注釈を伴う不完全な一写本によって刊行した。それは Brockhaus を通じて彼の手に入ったもので、Fitz-Edward Hall の蔵書に属していた。それは後に再び Bombay へ返送されねばならなかった(*Saptaś.*² S. XXXII)。Sattasaī の 700 詩節のうち、それは 367 詩節しか含んでいなかった。早くも 1872 年と 1874 年に彼はドイツ東洋学会誌第 XXVI 巻と第 XXVIII 巻において補遺と「Retractatio」とを出した。1881 年にはより多数の写本に依拠した第二の完全な校訂本が、同じくドイツ東洋学会論文集において刊行され、Bühler と Burnell とに献ぜられた。彼らには用いた写本のいくつかを負っていたのである。

「序文」においては文学史的論述がより大部となり、彼は写本のうちに見出したテキストの種々の recension を記述している。彼がここで「Vulgata」として完全に刊行するテキストは、Gaṅgādhara の注釈に含まれるものである。他の recension については対照表を与えた。第二版では繰り返されなかった言語の文法的記述は、第一版になお一定の価値を保たせている。

第 3 詩節において作者として名を挙げられる Hāla が、諸注釈および Hemacandra によって王 Sātavāhana、Sālāhaṇa ないし Sālivāhana と同定される場合(「序文」S. XV 参照)、それは後 78 年に始まる紀元の Śālivāhana を指すのではない。Weber は Sātavāhana という家名を負っていた Āndhrabhṛtya を参照させており¹⁾、その中には Hāla も現れる。詩節に現れる地名、Vindhya、Godā、Narmadā もまた Dekkhan の北西部を指し示している。Kathāsaritsāgara によれば、Bṛhatkathā の作者 Guṇāḍhya はある Sātavāhana 王の時代に生きた。

第一版 S. 2 において Weber は Bhāu Dājī の一注記を、Journal of the Bombay Br. RAS. VIII 239 以下(1868 年)から伝えているが、そこで彼はすでに問題の主要点をすべて触れている。Weber は最終的に、Hāla と Sātavāhana とが同一人物を指すと想定したが、疑念がなかったわけではない。より断固として同一性を主張したのが Jacobi であり、Weber の書についての『文芸中央新聞』1883 年第 8 号の書評においてである。Bāṇa に Saptaśataka への紛れもない暗示が見出されるので、これは 7 世紀に存在していたにちがいないが、他の理由(とりわけ第 435 詩節におけるギリシア語 horā のゆえ)により、後 3 世紀以前に成立したはずはない(序文 S. XXIII)。

Weber は序文の冒頭に、Hāla の第二版に至るまで Prākṛt の領域に現れた業績を列挙しており、そのうちには Garrez による第一版の書評(Journal Asiatique 1872 年 8–9 月号 197–220)もあり、彼はこれに繰り返し言及している。第二版の刊行後まもなく、Weber は Kielhorn を通じて新しい注釈を伴う写本をなお一つ入手し、それについて「Hāla の Saptaśatakam に対する Bhuvanapāla の注釈について」という表題のもとに『インド研究』XVI 1–204 において論じている。

¹⁾ 上記第 I 巻 S. 177 参照。

Prākṛt 研究においては、早くから R. Pischel が Weber と並んで登場した。Jaina 研究において Jacobi と Leumann とを彼と並べて挙げねばならないのと同様である。Pischel は Stenzler の弟子であったが、Weber の講義にも出ていた。それにもかかわらず、この二人の傑出した学者の間には、ごく早くから激しい個人的論争が勃発した。Pischel が自らの徹底した研究を意識するあまり、その結論についての Weber の批判的所見を悪くとったのである。Pischel は鋭く、自らの見解を揺るぎなく確実とみなし、Weber はより衡量的で、相手に対して何ら負い目を残さなかったが、それでも一種の善良さを伴っていた。

Pischel は古典文献学の学派の出であることに価値を置き、その方法に従っており、この立場から他のサンスクリット学者に文献学者としての資格を否定する傾向をもっていた(『インド研究』XIV 172 参照)。Pischel の振る舞いについての Weber の特徴づけもまた、きわめて率直であった(同書 S. 164、とりわけ S. 220)。和解的に働くのは、彼が常に Pischel の勤勉、鋭敏、専門知識をも認めていたことであり、また Pischel の方も最後には当時すでに Weber の学問的意義に正当な評価を与えている(「Śakuntalā の諸 recension」1875 年 S. 27)。Pischel は Berlin の大学と学士院とにおける Weber の後継者となった。その「Albrecht Weber 追悼講演」(Berlin 1903)には、もはや古い確執の痕跡はほとんど見出されない。

Pischel の学位論文 "De Kālidāsae Śakuntali recensionibus"(Breslau 1870)は、Saptaśataka 第二版より前にすでに現れていた。『文芸中央新聞』1870 年における Weber の書評は『インド漫録』III 46 以下および『インド研究』XIV 299 以下に再録されている。最初の小競り合いは 1873 年、Kuhn の『比較言語研究論集』第 VII 巻において起こり、「見る」という概念を表す Prākṛt の語根 dakkhdekkhpekkh に関わるものであった。Pischel は Childers と組んでいた。次いで Pischel の教授資格論文 "De Grammaticis Pracriticis"(Breslau 1874)が続いた。『文芸中央新聞』1874 年における Weber の書評は『インド漫録』III 276 以下および『インド研究』XIV 305 以下に再録されている。

主要な論争は 1875 年と 1876 年に落ち、Pischel の論文「Śaurasenī の知識に寄せて」(Kuhn『比較言語研究論集』VIII 129–155)によって開始された。Weber の応答が『インド研究』XIV 35–96 の「Prākṛt 研究」である。それに対して Pischel の著作「Śakuntalā の諸 recension」(Breslau 1875)が現れ、Weber はこれに同じ表題で『インド研究』XIV 161–311 において答えた。

Pischel は生涯にわたり、彼以前にその師 Stenzler が立てた見解(『インド研究』XIV 190 参照)、すなわち Bengal 系写本に含まれる Śakuntalā の recension が本来の形に最も近いという見解を弁護した。それはきわめて良好であり、「インドにおいてこの種の著作について総じて可能な限り原型に近づくために、それ以上に良いものを必要としないほどである」というのである(「Śak. の諸 recension」S. 7)。これに対して Weber は Devanāgarī 系写本の recension を支持した。Stenzler が 1875 年にその『サンスクリット初等読本』において、Pischel の資料に依拠してこの戯曲の第一幕を Bengal 系 recension で新たに刊行したので、Weber は第一幕のすべての異読を調査し(『インド研究』XIV 224 以下)、その調査は Devanāgarī 系写本に有利に終わった(同書 S. 297)。

大部分の学者はむしろ Weber の見解に傾くであろう。Bengal 系 recension のより大きな本来性に対しては、第三幕の恋愛場面のより詳しい展開が常に反証となろう。しかし個々の場合には、Prākṛt の形態においても、それが他の recension よりも

本来のものをよりよく保存していることはありうる。その評価においては、判定者の趣味を完全に排除することはできない。同様の仕方で、Sāmaveda の読みの価値も Ṛgveda のそれに対して種々に評価されてきた。折衷的な校訂本は適切でない。Śakuntalā の種々の recension——Pischel によれば四つ——は、区別され、別々に印刷されるに値する。Pischel 自身は Śakuntalā の Bengal 系 recension のみならず、Urvaśī のドラヴィダ系写本の recension をも刊行した(Berlin 学士院月報 1875 年)。現存するすべての写本が調査されるまでは安んじてはならないであろう。Hertel が Pañcatantra についてそれを目指したとおりである。Pischel は Śakuntalā の 21 写本を調査していた。

Weber と Pischel との間で争われた第二の問題は、戯曲の Prākṛt に関わる。Pischel は、戯曲の散文の主要方言は Śaurasenī、韻文のそれは Māhārāṣṭrī であることを強調した(「Śak. の諸 recension」S. 16)。しかし文法家たち、とりわけ Vararuci の規則は、戯曲の写本において厳密には守られていない。Pischel は写本によってその信頼性を一般的に検証した後、Vararuci の規定のより厳格な貫徹を支持したが(「Śaur. の知識に寄せて」S. 139)、Weber はむしろ写本伝承の権利を保持しようとした。

Pischel にとってはここで recension の問題も顧慮される。Vararuci XII 3 は「Bengal 系 recension においては完全に厳密に、しかし他の recension においてはまったく、あるいは部分的にしか貫徹されていない」(「Śak. の諸 recension」S. 19、Berlin 学士院月報 1875 年 S. 614 参照)。ここでも写本の一致に応じて個々の場合ごとに決定せねばなるまい。というのも、詩人自身が、また種々の recension の作成者が、厳格な一貫性をもって書いたとは確実でないからである。いずれにせよ Pischel には、Śakuntalā の諸 recension、戯曲の Prākṛt、および Prākṛt 文法家の説を最初に大いなる徹底さをもって研究したという功績がある。たとえ他の学者が彼の決定にすべての点で同意しえないとしてもである。

より重要な細部は、Pischel が、Kātyāyana とも呼ばれる Prākṛt 文法の Vararuci と、Mahābhāṣya における Vārttika の Kātyāyana——Sāyaṇa は Ṛgveda I 1, 1 への注(M. Müller 版 I S. 36, 2 行)において彼を Vararuci と呼ぶ——とを同定したことである(De Gramm. Pracr. S. 9 以下)。これに対して Weber はこの両者を、理由なしにではなく、区別していた。同定はより後代になってはじめて生じたように見える。また Mahābhāṣya の年代は、Prākṛtaprakāśa における諸方言の後代の言語段階とうまく合わない。

方言によって用法が異なるとされる語根形 dakkhdekkhpekkh は、この論争において繰り返し現れる。Pekkh は自明にサンスクリット語 prekṣ である。Childers は、Pāli の dakkh がサンスクリット語 drakṣyati から生じたことを正しく見た。dekkh という形は、すでに Beames が pekkh の型に倣った類推的形成とみなしており(Kuhn『論集』VII 461)、その kkhdakkh についても規準となりえたであろう。この語源については Pischel が Weber より正しく判断した。

Kuhn『論集』第 VIII 巻 S. 257–292 には当時、Eduard Müller の論文「Lalitavistaragāthā の方言」も現れた。彼は Weber から Rājendralāla Mitra の Lalitavistara 校訂本の完全な一部を受け取っていた(同書 S. 259)。

§第 L 章 A. WEBER・Jaina 文献

Weber の最大の功績に属するのは、彼が最初期の一人として Jaina の聖典文献についてのより精確な知識を広めたことであり、ここでもまた写本から仕事をしている。「聖なる山、ないし Jaina 寺院・巡礼地の伝説的讃美」(Bhag. I 369)である Śatruṃjaya-Māhātmya の分析を 1858 年にドイツ東洋学会論文集で発表した後、彼は 1866 年と 1867 年に Berlin 学士院論文集において、その大モノグラフ「Bhagavatī の一断片について——Jaina の聖なる言語と文献の知識への一寄与」を二部に分けて公にした。第一部(1865 年度 S.(365)–444)においては、序論の後に言語を論じ、第二部(1866 年度 S.(153)–352)においては「Bhagavatī の現存諸巻の内容」を論じ、それに見本として、バラモンの学者 Khaṃdaka(Skandaka)の Mahāvīra による改宗の伝説を本文と翻訳をもって付している。

Bhagavatī は、その存在をすでに Wilson が知っていたが、正典の第一部門である 11 Aṅga の第五である。このテキストの大きな断片を含む一写本が Schwerin の古物館に入ったことによって、Weber はこれらの聖典についての最初の観念を与えることができた。すなわちその恐るべき文体、常套的な vaṇṇaa その他の定型的テキスト断片——その文言はごく少数の箇所でのみ全文が書き出され、通常は短く示唆されるにすぎない——についてである(I 379 以下)。Hemacandra の Abhidhānacintāmaṇi における目録を別とすれば、Weber 以前 1866 年に至るまで、ヨーロッパではそれらについて精確なことは何も知られていなかった。

言語の理解のためには、Māgadhī で書かれた Jaina の天文学的・占星術的教本 Sūryaprajñapti の Berlin 写本が、Malayagiri の注釈を伴っており、大きな役に立った(I 369)。彼はこの著作についてなお特に『インド研究』第 X 巻 S. 254 以下で論じている。BhagavatīSūryaprajñapti より古い。後者に対しては Bhadrabāhu が失われた注釈を書いたという(I 372)。

言語についての節において Weber は Jaina の Māgadhī ないし Ardhamāgadhī をより精確に記述し、それを、同じく Māgadhī と呼ばれる Pāli と、文法家たちの Prākṛt との中間に立つ言語段階として特徴づけた。Māgadhī という表現を彼はより広い地理的意味で解する傾向にある。Bhagavatī においては Śrāvastī の住民も Māgadha と呼ばれ、聴衆は Māgadhā と呼びかけられる(I 393)。言語問題の困難さを Weber は十分に認識していた。Jaina の Prākṛt が Māhārāṣṭrī であるという Lassen の見解を、彼は認めようとしなかった(I 396)。

Bhagavatī が言語段階においてのみならず、内容においても、また対象のスコラ的扱いにおいても、Pāli のテキストから数世紀隔たっているという Weber の言には、おそらく従いうるであろう(I 373)。彼はこの時代的相違の反映を、聖典の名称——仏教徒における Sutta、Jaina における Aṅga——のうちに見ようとし、Sutta を Veda 文献の Sūtra 時代と、Aṅga を Vedāṅga の時代と結びつけた(I 441)。しかし Jaina のテキストの多くもまた Sūtra と呼ばれる。Bhagavatī の成立時期として彼は "the early centuries of the Christian era" をみなした(I 373)。

Bhagavatī という題名を Weber は「至福なる(教誡)」と訳す(I 372)。Mahāvīra がある Gotama に与えた教誡という形式において、それは「あらゆる種類の個々の断片の、まったく外面的な寄せ集め」を含んでおり(II 156、I 440 参照)、一部は伝説、一部は世界と jīva すなわち生命霊についての Mahāvīra の教説の教義的叙述である(II 236)。それに関わる問いは Khaṃdaka 伝説の哲学的内容をもなしている(II 250)。枠物語は一般に仏教の Sūtra の様式を想起させる。Weber は Gotama を Buddha と解した。かくして彼には Bhagavatī において Mahāvīra が Buddha の師として現れる。

それにもかかわらず Weber は、Colebrooke と Stevenson が述べた見解、すなわち Jaina 教団が前仏教起源であるという見解には与せず、それを「仏教の最初の数世紀に仏教から分岐した分派的諸宗派の一つ」と解した(I 440 以下、II 308 参照)。Jaina の伝説が仏教の伝説との関係を示すこと、Jaina 教団の創始者が Buddha と同様に bhagavantsamaṇamahāvīra と呼ばれること、その人物が Buddha のそれと類似の仕方で描写されることに、Weber は「両宗派の古い共通の記憶と伝承」を見ようとした(I 372 以下、442、II 241, 308)。

その後、Bühler を通じて 1873 年から 1878 年にかけて、Jaina 写本の大収集が Berlin 王立図書館に入った。その購入について Weber はその写本目録第三分冊(1892 年)の序文で報告している。Berlin の収集は Śvetāmbara の Siddhānta 全体を包含している。これらの写本に依拠して Weber はその大論文「Jaina の聖典について」を書いた(『インド研究』XVI〔1883〕211–479 および XVII〔1885〕1–90)。その直後には、Weber の以前の目録の続編である「Berlin 王立図書館のサンスクリットおよび Prākṛt 写本目録」が三分冊(1886, 1888, 1892 年)で現れ、そのうち第二・第三分冊が Jaina 写本の詳細な記述を含んでいる。論文と目録とは緊密に相属する。これらの著作において Weber は Śvetāmbara の Siddhānta 全体について詳細な方向づけを与えた。Jaina のもう一つの主要部門である Digambara の文献については、今日に至るまでまだ多くは知られていない。

Weber は、Jaina が「仏教の最古の宗派の一つ」であるという見解にとどまった。もっとも彼自身が言うように、「創始者の出自についての伝承は、一部は Buddha Śākyamuni 自身とは別の人物に、すなわち仏教の伝説において彼の同時代の敵対者の一人の名として挙げられている名にすら結びついている」(XVI 240、422 参照)。彼は Jaina 教説の最重要点を明るみに出そうと試みたが、それは「その厖大さによって劣らず、またその単調さと精神的貧困さによっても、まさに壮大なこの文献群への最初の攻撃」において可能な限りにおいてであった(XVI 240)。この対象への Weber の沈潜は驚嘆に値する。もっとも彼が明るみに出し積み上げたものが、常に容易に、また快く読めるわけではない。Weber の業績の「根本的意義」は Leumann が認めている(ドイツ東洋学会誌 XLV〔1891〕455)。

配列においては彼は、Jacobi の Kalpasūtra において Bühler が与えた聖典の一覧に従った。それは順に 11 Aṅga、12 Upāṅga、10 Païnna、6 ChedasūtraNandīAnuyogadvārasūtra、4 Mūlasūtra、合わせて 45 を列挙する。しかしこの列挙は諸テキストにおいて必ずしも

同一ではなく、テキストの構成と状態とはきわめて多様な種類の変更を被ってきた(XVI 231)。たとえば Rājendra Lāla Mitra は "Notices of Sanskrit Mss." III 67(Calcutta 1874)において著しく異なる列挙を与えている(XVI 226)。

Jaina の見解によれば、その聖典はすべて最初の Jina である Usabha(skr. Ṛṣabha)に遡ることになろうが、その伝承においては幾度も断絶が生じたとされる(XVI 211 以下)。第十二の Aṅga である Diṭṭhivāa は、Puvva と呼ばれるその十四の構成部分とともに、決定的に失われた。伝承が数世紀にわたり口承であったことは確かである。文字による記録は Mahāvīra の死後 980 年になってようやく行われたという(XVI 218)。年代論については Weber は Jacobi の Kalpasūtra 序説に依拠している。というのも、当時すでに Jacobi、Leumann、Klatt が Weber と並んで Jaina 研究をもって登場していたからである。

Jaina テキストのインド版はごくわずかしかヨーロッパへ到来していない。Leipzig の古書商 K. W. Hiersemann は、Bengal 人 Rāya Dhanapati Siṃhajī Bahādur が企てた正典叢書 "Āgama Saṃgraha"——1875 年から 1885 年の間に Calcutta、Bombay、Benares、Ahmedabad において 45 巻で印刷されたもの——の完全な一揃いを、1199 マルクという値下げ価格で提供した!

Jaina についての最初期の業績がある程度遠のいた今日、1879 年のドイツ東洋学会論文集における Jacobi の Kalpasūtra 校訂本のわずか 30 頁の序説がもつ根本的意義は、ますます明らかになってきた。Jacobi はここで Jaina の歴史の主要点を初めて概観的に確定し、一定の誤った観念を一掃した。Weber も Jacobi の書を賞讃している(『インド研究』XVI 470)。その背後には Bühler が立っており、Jacobi は彼にその書を献じ、またいくつかの重要な点についての最初の情報を彼に負っていた。

Jacobi は、Jaina と Bauddha とが互いに独立した起源をもつという見解を断固として主張した。Mahāvīra と Buddha とは同一人物ではない。Mahāvīra に教えを受ける Bhagavatī の Gotama は Buddha ではなく、Gotama という名は実際に Mahāvīra の弟子であった Indrabhūti も負っていた。Mahāvīra と Buddha とは Magadha の王 Śreṇika Bimbisāra の同時代人であった。Jaina の古い名称は Nirgrantha である。Bühler がその論文 "Three new edicts of Aśoka" において最初に、これを Aśoka 碑文の Nigantha のうちに再認した。Mahāvīra は仏教の Sāmaññaphalasutta において、その本来の名 Nigantha Nātaputta のもとに現れる。

Śvetāmbara の伝承によれば、Mahāvīra は Vikrama 紀元の開始(前 57 年)より 470 年前に没したことになろう。この計算の基礎をなす詩節は Bühler が最初に知らしめた。Jacobi はこの年代を他の年代と照合し、最終的に Mahāvīra の nirvāṇa について前 467 年に至った。これは Buddha の nirvāṇa の修正年代である前 477 年とよく合致する(Introd. S. 9)。伝承された計算に誤りが含まれていることが確実であるのと同じだけ、いかなる新しい計算もまた常に不確実であり続けるであろう。伝承の誤りがそれほど大きくはありえないことを蓋然的にしうるだけでも、すでに一つの収穫である。

Introduction S. 14 において Jacobi は、Bühler から受け取った 45 Āgama の一覧を伝えている。これらが、Devarddhigaṇin が Mahāvīra の nirvāṇa の 980 年後に Valabhī の saṅgha によって文字に記録させた Siddhānta である。Notes S. 114 において Jacobi は

この伝承の本文を与えている。注釈の Prākṛt は Māhārāṣṭrī である。おそらく Jacobi は、正典の言語をもそう呼ぼうとする点でいささか行き過ぎている。それを本来の Māhārāṣṭrī から区別するもの(o に対する e)は、それを古い Māgadhī の残存として、伝承に対応する Ardhamāgadhī として現れさせるに十分である。口承の流れのうちにあってすら、本来の言語的性格の何ほどかは保存されえたはずである。

Kalpasūtra は、高い尊崇を受けているとはいえ、Āgama には属さない。それは三つの異なる構成部分をもつ。すなわち Jinacarita(24 Jina)、Sthavirāvalī(gaṇadhara すなわち Mahāvīra の弟子たちと、それに続く古い師たち)、Sāmācārī("rules for yatis")である。この最後の構成部分のみが本来の Kalpasūtra すなわち戒律である。その点でそれは正典と、しかも Cheda と呼ばれる範疇と結びついている。Jacobi が伝える注釈 Kiraṇāvalī の一箇所によれば、Bhadrabāhu がそれを失われた Puvva の第九から抜粋したことになろう。最初の二部は Bhadrabāhu に遡らない(Introd. S. 22)。奥書 Pajjosavaṇā(skr. paryuṣaṇā)-kappo samatto は、この第三部の題名でしかありえない。

しかし問題なのは、Mahāvīra の 170 年後に生きたという古い Bhadrabāhu が、そもそも Jacobi の刊行した Kalpasūtra と何らかの関わりをもつかどうかである。すでに Weber は『インド研究』XVI 472 において、Jacobi が Introd. S. 11 に Ṛṣimaṇḍalasūtra から引用する詩節における dasa-kappa-vvavahārā が、三つの Cheda テキスト 3–5(『インド研究』XVI 465 以下)を指すこと、そして kappa をかの後代の Kalpasūtra に関係づけてはならないことを見て取っていた。このより古い Kalpasūtra は近年、Leumann の弟子 Walther Schubring(1881 年生)がその学位論文「Kalpa-Sūtra——Jaina 僧規の古い集成」(Leipzig, G. Kreysing, 1905)において校訂・翻訳した。Kalpasūtra に関わる諸問題は Jaina 研究において重要な役割を演じてきた。

Leumann からは当時すでに第一 Upāṅga である Aupapātikasūtra の校訂と研究とが出ていた(Leipzig 1883、ドイツ東洋学会論文集)。Weber はこれを賞讃している(『インド研究』XVI 378)。主としてこの「この Upāṅga の優れた Leumann 版」を Jacobi は、varṇaka が韻文であることの証明のために用いた。すなわち「インドの超韻律および超韻律的テキスト」(『インド研究』XVII〔1885〕389 以下)である。第一 Aṅga である Āyāraṃga-Sutta の Jacobi の校訂本——1882 年度の Pāli Text Society 刊行物に出た——を、Weber はまだ用いえなかった(XVI 253)。この Aṅgaṭīkā に従った完訳を Jacobi は 1884 年に Kalpasūtra の翻訳とともに Sacred Books of the East 第 XXII 巻において与えた。この巻は、Jacobi が Jaina テキストの厳密に文献学的な扱いを開始した二つのテキストを包含する。

Introduction において Jacobi は、Jaina の起源についての Weber の、また Lassen の見解を斥け、Mahāvīra が Buddha とは異なる一定の歴史的人物であったことを改めて論証している。Jaina が仏教徒と一致する道徳的戒律は、両者ともバラモンから借りたものである。Jaina は Buddha の時代にすでに存在しており、Pārśva がその本来の創始者、Mahāvīra が "the last prophet of the Jaina church" である(S. X)。Siddhānta は前 4 世紀末ないし 3 世紀初め頃に成立したという(S. XLIII)。教説の最古の形態である Puvva は失われた。Jaina は Devarddhigaṇin 以前にすでにそのテキストの写本をもっていたであろう(S. XXXVIII)。この Ācārāṅga

二つの Śrutaskandha のうち第一のものを Weber は「きわめて理解しがたい」と呼んだが、他方では Jacobi と同様に「Jaina 文献全体の最古の構成部分に属する」ものと呼んでいる(XVI 253)。

ここでは近年、Leumann に献ぜられた W. Schubring の著作「Ācārāṅga-Sūtra 第一 Śrutaskandha——本文・分析・語彙集」(ドイツ東洋学会論文集、Leipzig 1910)が、理解と研究とをさらに促進した。Schubring は、韻文的構成部分を含むテキストの分析——これについては彼はドイツ東洋学会誌第 XXXVIII 巻・第 XL 巻における Jacobi の韻律研究にも依拠しえた——と、編者の活動の像を描こうと試みる総合とによって、一つの困難なテキスト断片において、今日われわれの前にある古い Jaina テキストのうちの「モザイク」がいかにして成立したかを示そうとする。より古い韻文群は散文のうちに「説き崩されて」いる(S. 53)。彼は仏教の Suttanipāta についての O. Franke の観察(ドイツ東洋学会誌 LXIII 1 以下)を参照させ、そこにおけると同様に他の箇所でも「渦巻く原子の混沌」が露呈されるであろうとする。これはおそらく幸福な比喩ではない。編者は、自らに刻み込まれていた詩節や詩句の断片を、記憶から自らの散文に取り込んだのであろう。これはほぼ Jacobi の見解でもあり、彼は最新の論文「Jaina 教」(『宗教学雑誌』1915 年 S. 283 以下)において、Schubring の著作と理論とについて賞讃的に、しかし右の点については否定的に意見を述べている。

第 8 から第 12 の Upāṅga、すなわち Nirayāvaliyāo という名のもとにまとめられた五つのより小さな伝説的テキストのうち、オランダ人 J. S. Warren はその学位論文 "Over de godsdienstige en wijsgeerige Begrippen der Jaina's"(Zwolle 1875)に続いて、第八 Upāṅga を他の三つからの報告とともに刊行した。すなわち "Nirayāvaliyāsuttam, een Upāṅga der Jaina's met Inleiding, Aanteekeningen en Glossaar"(Amsterdam 学士院論文集 1879 年)であり、Jacobi がドイツ東洋学会誌 XXXIV 178 以下で書評している。第六 Aṅga である Jñātādharmakathā(「教化的物語」)の冒頭は、Paul Steinthal の学位論文「Nāyādhammakahā の見本」(Leipzig 1881)が与えた。

かくして次第に、個々の確固たる点から出発して、Jaina の文献と歴史とについての確実な知識が成長した。Weber が『インド研究』XVI 275 において第三 Aṅga における七つの分裂(ṇiṇhaga、skr. nihnava)についての報告を指摘した後、Leumann は 1885 年に「Jaina の分裂についての古い諸報告」を第二 Mūlasūtra である Āvaśyaka に従って詳細に伝えた(『インド研究』XVII 91 以下)。これは Weber の論文に直接接続するものである(同書 S. 65 参照)。後に彼はさらに「Āvaśyaka 説話」をも公刊した(ドイツ東洋学会論文集 1897 年)。

古い異端的分派とは区別されるべきが後代の十分派であり、これを Dharmasāgara が 1573 年の日付をもつその著作 Kupakṣakauśikāditya(「邪説の梟のための太陽」)において扱っている。Weber は Berlin の一写本にこの著作の断片を見出し、その内容について Berlin 学士院会議報告 1882 年 S. 793–814 で報告した。

Weber がすでに参照しえたより古い業績には、なお Jacobi の論文 "On Mahāvīra and his Predecessors"(Indian Antiquary IX〔1880〕158–163)と、Johannes Klatt の "Extracts from the historical records of the Jainas"(同誌 XI〔1882〕245–256)とが属する。両者は KalpasūtraJinacaritaSthavirāvalī のように互いを補完しあう。Jacobi は、仏教文献の六人の Tīrthaka についての James d'Alwis の報告に接続した。それは Indian Antiquary VIII(1879)311–314 に、彼の

稀覯の著作 "Buddhism: its Origin, History, and Doctrines, its Scriptures, and their Language the Pāli"(Colombo 1862)から転載されたものである。これらの "heretical teachers" のうちには Nigantha Nātaputta(すなわち Jñātṛputra)もあり、Jacobi はすでに Kalpasūtra の序説(1879 年)において彼を Jaina 教団の創始者と同定していた。Sāmaññaphalasutta における彼についての箇所を Jacobi は Grimblot の校訂本から知っていた。

Jacobi はここで Jaina の起源についての自説を繰り返している。"the real founder of Jainism" として彼が挙げるのは Nātaputta ではなく Pārśva、すなわち伝説的な Usabha(skr. Ṛṣabha)に始まる 24 Tīrthaṅkara の列における彼の先行者である。Weber が Jacobi の見解に完全には与しなかったのは、彼がより古い観念に根ざしていたこと、また年長の同時代人が常に新しいものを十全に評価しうるとは限らないことによる。Jacobi の見解の確実性は伝承の信頼性に依存するであろうし、とりわけ Sāmaññaphalasutta の報告が実際に Buddha の時代を反映しているかどうかにも依存するであろう。

Klatt は、Dr. Bhāu Dājī が Journal of the Bombay Br. RAS. IX 147 以下において Merutuṅga の Therāvalī から Jaina のより古い歴史について与えた抜粋に接続し、その論文において Mahāvīra に始まる古い Jaina の師たちの名と、彼らについて語られていることとを、二つの主要宗派すなわち Kharatara-gaccha と Tapā-gaccha の Paṭṭāvalī から伝えた。その本文は Weber の 1892 年の写本目録 S. 1030 以下に印刷されている。

Kālakācārya-Kathānakam についての論文において Jacobi は 1880 年に「Sthavira の一覧は不確かな伝承に基づく」という結論に至った(ドイツ東洋学会誌 XXXIV 253)。Hemacandra の "Sthavirāvalīcharita or Pariśiṣṭaparvan" を Jacobi は 1883 年以降 Bibliotheca Indica において刊行した。

この領域における Weber の業績の後の時期に落ちるのが、upāsaka の十の伝説を含む第七 Aṅga の Hoernle による翻訳と校訂 "The Uvāsaga Dasāo"(Bibl. Indica 1888 年および 1890 年。Weber の記述は『インド研究』XVI 315 以下参照)、および Leumann による第三 Mūlasūtra の校訂(1892 年、ドイツ東洋学会誌第 XLVI 巻 S. 581 以下。Weber『インド研究』XVII 77 以下参照)である。後者の別刷は "The Daśavaikālika-Sūtra by Śayyambhava and the Daśavaikālika-Niryukti by Bhadrabāhu" という表題をもつ。再び深く掘り下げた序説において Leumann は、これらのテキストの説話的内容のほか、注釈文献の種々の層をも扱っており、その最初のものが古い韻文の Niryukti である。Leumann がいかに熱心に種々の図書館において Jaina 文献研究とテキスト校訂のための資料を集めたかは、その「主として Jaina 文献からの転写と抜粋との一覧」(ドイツ東洋学会誌第 XLV 巻〔1891〕および第 XLVII 巻〔1893〕)が示している。ここで彼は冒頭に(XLV 454)、Jacobi、Klatt、Hultzsch、Bühler が与えた Jaina 写本の目録をも参照させている。

1895 年には再び Jacobi の重要な著作が続いた。Sacred Books of the East 第 XLV 巻において彼は、インド版と自らの所蔵写本とに基づき、第一 Mūlasūtra である Uttarādhyayanasūtra と、第二 Aṅga である Sūtrakṛtāṅgasūtra との翻訳を公にした。前者は Weber が『インド研究』XVII 43 に、後者は XVI 259 以下に記述している。両テキストは正しい行いを扱う。SBE 第 XXII 巻から経過した 10 年の間に、Jacobi の根本的見解は通用するに至っていた。彼は Introduction の冒頭にその間にこの領域に現れた業績を列挙し、次いで

Jaina の教説と歴史との個々の点を研究している。彼が訳した二つの Sūtra がそのための資料を提供した。古い仏教文献における Jaina についての記述から、彼は、Buddha と Mahāvīra の時代の Nigantha の教説が、われわれの手元にある正典のそれと同じであったと結論した。Pārśva の特別の教説は Mahāvīra の時代にもなお存在しており、Buddha の時代の哲学的師たちについての Sāmaññaphalasutta の報告においては Makkhali Gosāla によって代表されている(S. XXXIII)。インドにおける哲学的観念の歴史についての Jacobi の他の組み合わせもまた注目に値するが、おそらくより確実性は低い。

右に挙げた研究者たちの基礎的業績と並んで、またその後に、時とともに Jaina についての大部な学問的文献が成立した。これを Jacobi の弟子であるフランス人 A. Guérinot がその著書 "Essai de Bibliographie Jaina"(Paris 1906)において、短い内容紹介を付して列挙している。第二の著作において Guérinot は Jaina の歴史を碑文によって叙述した。すなわち "Répertoire de l'Épigraphie Jaina, précédé d'une esquisse de l'histoire du Jainisme d'après les inscriptions"(Paris 1908)である。それ以前にも Guérinot はその専門的力量を、"Jīvavicāra de Śāntisūri" の校訂(Journal Asiatique 1902 年)と、論文 "La Doctrine des êtres vivants dans la religion Jaina"(Revue de l'Histoire des Religions, Paris 1903)とによって証明していた。

最新の Jaina 文献と、現代における Jaina の活動とについては、Jacobi が『宗教学雑誌』第 XIII 巻(1910 年)S. 615–618 および第 XVIII 巻(1915 年)S. 269–286 において報告している。後者は 1913/14 年冬のインド滞在に基づく。聖典の研究は飛躍的に進んでいる。L. D. Barnett は第八・第九 Aṅga を訳した。すなわち "Antagaḍa-dasāo and Anuttarovavāiya-dasāo"(Oriental Transl. Fund, London 1907)である。Wilhelm Hüttemann は第六 Aṅga の第二 Śrutaskandha をその著作「Jina 教徒の正典第六 Aṅga における Jñāta 説話」(Straßburg 1907)において扱い、Steinthal の学位論文を補完した。

他の業績は、正典の諸書よりも見通しのよい Jaina 文献の重要な二次的著作に関わる。正典に最も密接に接続する Umāsvāti の Tattvārthādhigamasūtra——Bibliotheca Indica 1903 年刊——は、Jaina の心理学、宇宙誌、形而上学、倫理学を叙述しており、Jacobi がドイツ東洋学会誌 LX 287 以下に訳している。Jacobi は、この著作の研究が自分にとって画期的であったこと、それまでは——おそらく Weber もそうであったように——Jaina の本来の教説について漠然とした観念しかもっていなかったことを告白している。Umāsvāti は遅くとも後 7 世紀に置かれるであろう。

類似の著作が Hemacandra の Yogaśāstra であり、12 世紀に属し、12 章からなる。そのうち倫理を扱う最初の四章を、Windisch はすでに 1874 年にドイツ東洋学会誌 XXVIII 185 以下(S. 678 参照)において London の一写本から校訂・翻訳し、序説を付したが、その推測は一部は確証されていない。Jaina 文献は当時ヨーロッパではまだあまり知られていなかった。Bühler を通じて後に、Hemacandra 自身のこれに対する注釈の一写本が Berlin へ来た。Windisch がこれを Weber の 1892 年の写本目録 S. 914 以下に記述している。全著作は vivaraṇa とともに現在 Bibliotheca Indica で印刷中である。

Jaina 写本の収集は時とともに Wien、Florence、また Leipzig へも到来した。Wien の収集については Bühler(Wien 学士院会議報告 1881 年

S. 563 以下)を参照。Bühler はその後モノグラフ「Jaina 僧 Hemacandra」(Wien 学士院論文集)を書いた。イタリアでは Francesco L. Pullé がその著作 "Della Letteratura dei Gaina e di alcune fonti Indiane dei Novellieri Occidentali"(Puntata I, Venezia 1884)において、Weber に密接に依拠しつつ学識をもって Jaina 研究について報告した。イタリアにおいて Jaina 研究への特別の関心が発展したことは、Florence の写本収集と関連する。"Catalogo dei Manoscritti giainici della Biblioteca Nazionale Centrale di Firenze" を Pullé は Firenze 1894 年に公刊した。

イタリア・アジア協会『紀要』1906 年度において、Jacobi の弟子 Luigi Suali は Jaina の著作 Ṣaḍdarśanasamuccaya の翻訳を与え、それが彼をさらにその著作 "Introduzione allo studio della Filosofia Indiana"(Pavia 1913)へと導いた(同書 S. X 参照)。同『紀要』1908 年度には、Suali が Jaina の倫理書、Haribhadra(9 世紀)の Dharmabindu について、また Belloni-Filippi が "La Yogaśāstravṛtti" について書いている。

仏教側で Dharmottarācārya がその Nyāyabinduṭīkā において行ったように、Jaina もまたバラモンの論理学を育てた。Jacobi は "Nyāyāvatāra, the earliest Jaina work on pure Logic by Siddha Sena Divākara" を参照させている。これは Jaina 教のバラモン的知者の一人 Satis Chandra Vidyabhushana によって校訂され(Calcutta 1908)、彼はその後 Jaina における論理学の発展をその博士論文 "History of the Mediaeval School of Logic"(Calcutta 1909)において叙述した。

Jaina の説話文献——これについてはすでにより古い時代と後代のものから種々の見本が校訂・翻訳されていた(たとえば 1880 年 Jacobi による Kālakācārya-Kathānakam、ドイツ東洋学会誌 XXXIV 247 以下)——は、Hertel の「Hemacandra の Pariśiṣṭaparvan からの選訳」(Leipzig 1908)と、Jacobi の「Māhārāṣṭrī による選訳説話集」の英訳である J. J. Meyer の "Hindu Tales"(London 1909)とによって、より一般に知られるようになった。Pañcatantra の recension の一つは Jaina 僧 Pūrṇabhadra を作者とし、Hertel が Harvard Sanskrit Series(1908 年)において校訂している。

Jaina の教説に関しては、Jacobi は 1908 年 Oxford の国際宗教学会議で行った講演 "The Metaphysics and Ethics of the Jainas" において、Jaina 哲学の Upaniṣad、仏教、Sāṃkhya-Yoga に対する関係をより精確に規定しようと試みた。Jacobi は Jaina をとりわけ古く独創的なものとみなす傾向にある。このことは、Encyclopaedia of Religion and Ethics 第 VII 巻 S. 465–474 における彼の内容豊かな百科全書的概観 "Jainism" にも現れており、そこでは彼らが細部にまで貫徹した宗教的・哲学的諸観念が、簡潔ながら完全な叙述を得ており、とりわけ karman の教説がそうである。

Mahāvīra と呼ばれる Vardhamāna——"Kṣatriya of the Jñāta clan"(それゆえその名 Jñātaputra)——はその宗教の創始者ではなく、創始者として Jacobi がみなすのは Pārśva であり、彼は Mahāvīra より 250 年前に生きたという。Mahāvīra は Buddha の年長の同時代人であり、Buddha より数年前に没した。Jacobi の計算によれば Mahāvīra の nirvāṇa の年代は前 476 年ないし 477 年であり、これは他の学者が Buddha の nirvāṇa を置く年である。Jaina はその起源をバラモンにではなく Kṣatriya にもつ。それゆえその言語は本来サンスクリットではなく Māgadhī ないし Ardhamāgadhī であり、後代の

著作においては Māhārāṣṭrī であった。彼が報告する言語と文献の構成とにおいては、時とともに変化が生じている¹⁾。

Jacobi はその論文の末尾に Guérinot の諸著作を参照させ、有用なものとして Margaret Stevenson, Notes on Modern Jainism(Oxford 1910)、Herbert Warren, Jainism, in Western Garb, as a Solution to Life's great Problems(Madras 1912)、H. L. Jhaveri, The first Principles of the Jain Philosophy(London 1910)を挙げている。

重要な最新の著作は「Karmagrantha に基づいて叙述された Jaina 哲学における karman の教説」であり、著者は Jacobi の弟子 Helmuth von Glasenapp、書はまた Jacobi に献ぜられている(Leipzig 1915)。六つの Karmagrantha は Prākṛt の gāthā で書かれており、最初の五つには Devendrasūri の注釈が付されている。彼は Saṃvat 1327 年に Mālava で没した。第六 Karmagrantha のもともとの 70 gāthā は、Candramahattara が(失われた)Dṛṣṭivāda から取ったものである。Devendrasūri はこれに注釈を書いたが、v. Glasenapp は 12 世紀の Malayagiri の注釈を用いた。

karman についてはさらに、同じく Prākṛt の gāthā からなる Candrarṣi(= Candramahattara)の Pañcasaṃgraha と、Śivaśarmasūri の Karmaprakṛti とが論じており、これらもまた Malayagiri によって注釈されている。彼は Karmaprakṛti の典拠として失われた Dṛṣṭivāda の第二 Pūrva を挙げている。これらすべての事情について v. Glasenapp の序文が教えており、その末尾の文献一覧には右のテキストの Jaina 版が挙げられている。序文 S. 12–14 における個々の Karmagrantha の内容の短い概観の後、本書の主部が karman の教説を、理解を容易にする体系的叙述において与えている。

Karman の教説はインド諸宗教の中心教義である」と v. Glasenapp は序文の冒頭で言う。しかしいかなるバラモンあるいは仏教の著作においても、それがここで Jaina の哲学者たちによってなされているほど細部にまで貫徹されてはいない。この Karmagrantha の唯一無二の価値はそこにある。しかもその展開された教説の術語は、古い Siddhānta まで遡って追跡しうる(S. 11)。たとえば leśyā「霊魂類型」、すなわち karman によって縛られた jīva の性状における、色によって示される六段階である(S. 60)²⁾。縛りと同じだけ精確に、霊魂の解脱もまた記述されている。

Jaina のもとではインドにおいて活発な文筆活動が行われている³⁾。これについて、またテキスト刊行のために設立された諸協会について、

¹⁾ Jacobi がその見解を論拠によって支えようと努めているとはいえ、彼がインドの宗教と哲学の歴史的発展において Jaina に与える主導的地位は、まだあらゆる点で確保されてはいない。karman 理論が、われわれの手元にある Jaina 文献におけるほど細部まで貫徹された形で現れるところは他にないというのは、たしかに事実である。しかしそこにこそ、この貫徹が口承の古い時代にすでに存在していたのかという問いが生じる。もしそうであったなら、その何ほどかが仏教徒とバラモンの文献に反映しているはずだと期待されよう。Digambara は Śvetāmbara の正典を真正とは認めない。しかしいずれにせよそれは、Mahāvīra の nirvāṇa の 980 年後という、かなり早い時期に記録された。Jaina-Prākṛt の性格もこれに矛盾しない。たとえそれが Aśoka 碑文の言語や Pāli ほど古風でないとしてもである。

²⁾ Jarl Charpentier "The Leśyā-theory of the Jainas and Ājīvikas"(E. Kuhn 記念論集所収)参照。

³⁾ v. Glasenapp の文献一覧には、Jacobi がすでに言及した Hīrāchand Līlādhar Jhaverī の著作のほか、Virchand R. Gandhi, "The Jain Philosophy"(Bombay 1911)、同 "The Karma Philosophy"(Bombay 1913)、および F. Otto Schrader の著作「Mahāvīra と Buddha の時代におけるインド哲学の状況について」(Straßburg 1902)が挙げられている。

また戦争勃発前に Ahmedabad で刊行されつつあった叢書において Suali、Ballini、Kirfel、Schubring が計画していた正典テキストの校訂について、Jacobi が『宗教学雑誌』第 XVIII 巻の論文「Jaina 教」において報告している。Digambara の文献はまだ詳しく知られていない。しかしその Siddhānta についてのいくつかの記述は Weber の写本目録 S. 823 に、その見解については Weber の論文「Dharmasāgara の Kupakṣakauśikāditya について」S. 8 以下に見出される。Peterson の Reports にも Digambara についてのいくつかの報告が見出されるであろう。

【原書 p. 355(承前)】

§第 LI 章 W. D. WHITNEY

19 世紀半ばの前後にサンスクリット研究に身を捧げた二人のアメリカ人のうち、Whitney は個人的な関係においても、またその全方向においてもドイツの学者、とりわけ Roth、Weber、Böhtlingk に接続するのに対し、Hall はインドへ渡り、そこでその業績への刺激を得た。Whitney とともにアメリカにおけるサンスクリット研究の隆盛が始まる。その生涯の短い素描と著作目録とは、Lanman が Atharva-Veda 翻訳の序説 S. XLIII 以下に与えている。個人的事情にさらに立ち入るのは、T. D. Seymour の伝記 "William Dwight Whitney" である。

William Dwight Whitney は 1827 年 Massachusetts 州 Northampton に生まれ、1894 年 Yale College(現 University)のサンスクリット教授として没した。同校では若き日にアラビア語・サンスクリット教授 Edward E. Salisbury をサンスクリットの師としていた。Whitney はその Oriental and Linguistic Studies 第一集を "To Professor Edward Elbridge Salisbury, the Pioneer and Patron of Sanskrit Studies in America" に献じている。1850 年から 1852 年の年月を彼はドイツで過ごし、三度の冬を Berlin で、二度の夏を Tübingen で過ごした。ごく早くから彼は、彼よりさほど年長でなかった師 Weber と Roth と並ぶ対等の研究者として登場した。Oriental and Linguistic Studies 第二集を彼は "To Professors Rudolf Roth and Albrecht Weber, my early teachers and lifelong friends" に献じている。

Whitney の名は永久に Atharvaveda と結びついており、その校訂と研究のために彼は Roth と手を組んだ。この方面の彼の活動については、すでに上記 S. 259 以下で述べた。1862 年に American Oriental SocietyJournal 第 VII 巻 S. 333–616 において Atharvaveda の Prātiśākhya を刊行した後、彼は 1871 年に同誌第 IX 巻 1–469 において、同様の体裁で Taittirīya-Saṃhitā の Prātiśākhya を注釈 Tribhāṣyaratna とともに刊行した。その刊行は Weber が彼に譲ったものである(Whitney の書簡『インド研究』V〔1862〕452 参照)。Weber の Saṃhitā 校訂本は当時まだ出ていなかった。写本資料については Hall、Weber、Goldschmidt、Eggeling、Rost が彼を助けた。とりわけ後の二人には、Grantha 文字および Malayālam 文字の写本の転写について感謝せねばならなかった。

Whitney はその業績の大部分を American Oriental SocietyJournal および Proceedings に発表した。同会は 1844 年に創立されていた。その後継者たちもアメリカで同様にしたので、AOS の Journal はサンスクリット文献学史にとって大きな意義をもつものとなっている。ここにはすでに 1856 年に第 V 巻 385–419 に Whitney の "Contributions from the Atharva-Veda to the theory of Sanskrit verbal accent" が出ており、これは A. Kuhn によって『比較言語研究論集』I 187–222 にドイツ語訳されている。このアクセント関係はその後 Aurel Mayr が Ṛgveda について叙述した。すなわち「動詞定形のアクセントに寄せた Ṛgveda からの寄与」(Wien 学士院会議報告第 LXVIII 巻)である。

Whitney の種々の研究領域は、二巻の Oriental and Linguistic Studies においてわれわれの前に現れる。これは Max Müller の Essays と比較しうるもので、第一集は New York 1873 年、Second Series は New York 1874 年・London 1875 年である。すでに以前に発表された二十五の論文を収める。

第 1 巻の最初の諸篇は Veda に関わり、方向づけ・叙述しつつ、しかし批判もしている。すなわち I. The Vedas、II. The Vedic Doctrine of a Future Life、III. Müller's History of Vedic Literature、IV. The Translation of the Veda、V. Müller's Rig-Veda Translation である。Max Müller を扱うのはさらに VIII. Müller's Lectures on Language である。IV(S. 100 以下)において彼は、Sāyaṇa の注釈と、この権威をあまりに無条件に擁護する Goldstücker とに鋭い批判を加えた。

Whitney はその論述を、巧みに選ばれた Roth、Muir、Max Müller、Goldstücker の四論文に結びつけている。すなわち R. Roth の講演「古代における、とりわけインドにおける学問的伝承について」(ドイツ東洋学会誌第 XXI 巻、1867 年)、J. Muir の "On the Interpretation of the Veda"(Journal RAS. 第 II 巻、1866 年)、M. Müller の "The Hymns of the Gaupāyanas and the Legend of King Asamāti"(同誌)、Th. Goldstücker の "On the Veda of the Hindus and the Veda of the German School"(London Examiner 1867 年 2 月 2 日号に抄録)である。ここで Whitney は M. Müller と同じ側に立っている。Whitney は M. Müller の意義を常に認めていたが、しかしとりわけ言語学の領域においては彼を個人的にも事柄の上でも鋭く攻撃した。ここ Or. and Ling. Studies 第 VIII 篇におけるようにである。

Sāmaveda の読みの価値についての問題においては、彼は 1883 年に論文 "The various readings of the Sāmaveda"(JAOS. 第 XI 巻 Proceed. S. CLXXXIV 以下)において Ṛgveda に有利な意見を、詳細な研究に基づいて述べたが、その研究自体は公刊しなかった。「Rudolf von Roth 祝賀論集」(Stuttgart 1893)への彼の寄稿 "The Native Commentary to the Atharva-Veda" は、Sāyaṇa への批判の機会を与えた。それは Ṛgveda の注釈についても同様に妥当し、Sāyaṇa の弱点の集成としては他のいかなるものよりも完全である。

Whitney の Veda 研究のうち新知見をもたらすものに属するのが、論文 "On the Jāiminīya- or Talavakāra-Brāhmaṇa"(AOS Proceedings 1883 年 S. CXLIV–CXLVIII〔1883 年 5 月、S. VIII–XII〕)である。彼は見本として Cyavana 伝説を与えている¹⁾。Whitney は写本資料を Burnell から得たが、この Brāhmaṇa に最初に注意を促したのは Burnell であった。すなわち "A Legend from the Talavakāra or Jāiminīya Brāhmaṇa of the Sāma-Veda"(Mangalore 1878)であり、Florence の国際東洋学者会議

¹⁾ Oertel 教授はこれについて次のように述べている。Cyavana 伝説の Jaiminīya 系 recension は、Hopkins が「若返りの泉」についての論文(JAOS. XXVI 58 以下)において改めて校訂している。また Jaiminīya Brāhmaṇa から Whitney は 1885 年に JAOS. 第 XIII 巻 S. XX において、くしゃみについての最古の箇所を伝えており、これは Henry C. Warren による Jātaka からの論文 "On Superstitious Customs connected with Sneezing"(同書 S. XVII 以下)に寄せたものである。

Actes にも収められている¹⁾。後に 1897 年以降、Hanns Oertel がさらに "Contributions from the Jaiminīya Brāhmaṇa to the history of the Brāhmaṇa Literature" を発表し、これは JAOS. 第 XVIII 巻から始まる²⁾。この Brāhmaṇa は、Oertel が 1894 年に Journal of the AOS. 第 XVI 巻において校訂・翻訳した "Jaiminīya or Talavakāra Upaniṣad Brāhmaṇa" とは別のものである。

同様に Whitney の影響が示されるのは、アメリカ人がとりわけ Atharvaveda に向かったことにおいてである。Bloomfield は 1890 年に JAOS. 第 XIV 巻に出たその Kauśikasūtra 校訂本を "To William Dwight Whitney, the Pioneer of Vedic Studies in America" に献じた。この校訂を Bloomfield はすでに 1883 年に第 XI 巻 Proc. S. CLXX(1883 年 10 月 S. VI 以下)で予告していた。彼は 1884 年に同巻 Proc. S. CCXXIII(1884 年 10 月 S. XXI 以下)において VaitānasūtraAtharvaveda 文献における位置を論じている。第 XIV 巻の Proceedings においては 1888 年に、他の二人のアメリカ人によって Atharvaveda の二つの Pariśiṣṭa が扱われた。すなわち J. Taft Hatfield による "The Auśanasādbhutāni"(Proc. Oct. S. XII、S. CLVI をも参照)と、H. W. Magoun による "The Āsurī-Kalpa"(同 S. XIII)である。

初めから Veda には天文学的研究が接続してきた。それは最近ではとりわけ Weber と Max Müller によって行われていた。かくして自然科学的素質をもつ Whitney にとっても、インド天文学はその仕事の第二の主要領域となった。

アメリカ人宣教師 Ebenezer Burgess はすでに 1839 年以来、Marāṭhī で "astronomical textbook for schools" を出す意図をもっていた。彼はこの目的のために高い尊崇を受けている Sūryasiddhānta を選んだ。Hall による Bibliotheca Indica 版がまだ完成していない時期のことである。しかし彼はその予備研究を AOS の Committee of Publication に委ね、計画の遂行全体を Whitney に委ねた("the main share of the work falling to Prof. Whitney", S. 143)。すでに 1858 年に提出されていた "Translation of the Sūrya-Siddhānta, a Text-book of Hindu Astronomy" は、1860 年に Journal of the AOS. 第 VI 巻 S. 141–498 に Burgess の名で刊行された。Whitney は月宿についての論文において、全著作の責任は自分が負うこと、翻訳は自分によるものであることを明言している(Or. and Ling. Studies I 366)³⁾。

インド天文学に立ち入るための重要な補助手段であるこの著作は、フランスの天文学者 Biot によって Journal des Savants において批判された。彼はインド学者たちが nakṣatra の中国起源についての自説を受け入れようとしないことを不快としたのである。そこで Whitney は 1863 年、Biot の攻撃への応答として論文 "On the views of Biot and Weber respecting the relations of the Hindu and Chinese systems of asterisms; with an addition, on Müller's views respecting the same subject"(JAOS. VIII 1–94)を書いた。

ここに初めて、学問的著述家としての Whitney の強みが示された。すなわち事実の精密な観察、一歩一歩進む、懐疑に傾く

¹⁾ Bhṛgu を扱うこの伝説を Oertel は改めて校訂・翻訳している(JAOS. XV〔1892〕S. 233 以下)。そこには Jaiminīya Brāhmaṇa からの第二の断片も伝えられている。

²⁾ Oertel の Contributions は、本書第三部においてはじめてより十全に評価されるであろう。

³⁾ E. Burgess は 1866 年に JAOS. 第 VIII 巻に論文 "On the Lunar Division of the Zodiac represented in the Nakṣatra System of the Hindus" を発表し、そこで Whitney と論争している。彼の見解によれば nakṣatra はインド起源であり、中国の sieu はそれと何の関係もなく、アラビアの manāzil は直接インドから借用されたものである(S. 311)。

諸説への批判、彼にとって確実と思われるものの慎重な確定である。いくらか理解しやすい仕方で彼は同じ天文学的問題を、論文 "On the Lunar Zodiac of India, Arabia, and China"(Or. and Ling. Studies Second Series, London 1875, S. 341–421)において論じている。

Whitney は最初の天文学的著作である Sūryasiddhānta の翻訳(S. 346)においては、なお Biot とともに 28 の celestial mansions の体系が中国人の発明であると想定する傾向にあったが、その後の著作においては Biot の理論を鋭い批判をもって斥けた。彼の見解によれば、中国の sieu とインドの nakṣatra とのいずれが原型であるか、またインド人が中国人から借りたのかその逆かは、確実には確定しえない。しかし彼は、nakṣatra の起源をカルデア人のもとに求めるべきだという Weber の「嫌疑」(suspicion)には与している。

Whitney はこれらの困難な問題についてなおしばしば意見を述べている。JAOS. 第 X 巻 Proceed. S. LXXXII 以下の短い論文 "On the Chinese sieu as Constellations" において、彼は 1874 年に Biot の理論についての自説の変更を確認する機会を得た。またここで彼は天文学的問題における Lassen の信頼性の低さについても語っている。

Ṛgveda に言及される日食の年代決定を Ludwig が行い、その結果として前 1001 年および前 1029 年が得られたことについて、Whitney がまったく不確実とみなしたのは驚くにあたらない。彼は 1885 年 10 月の Proceedings(Journal 第 XIII 巻)においてこれを厳密な検証にかけた。没年である 1894 年にもなお彼は、Journal 第 XVI 巻において、一定の Veda の箇所から前 4000 年を最古の Veda 時代として得ようとする Jacobi と Tilak の試みを批判している。

Whitney の批判は、サンスクリット文献学の比較的少数の著作に向けられており、主として翻訳、しかも言語のゆえに彼にとって重要であった著作の翻訳に向けられている。Marut 賛歌の翻訳その他の Max Müller の著作への批判についてはすでに述べた。とりわけ価値があるのは、Sacred Books of the East における Eggeling の Śatapathabrāhmaṇa 翻訳の最初の三巻についての批評である。すなわち第一巻は 1882 年に American Journal of Philology 第 III 巻において、他の二巻は 1888 年と 1894 年に AOS の Journal 第 XIV 巻と第 XVI 巻においてである。JAOS. 第 XIII 巻 Proceed.(1887 年 10 月)S. XXIV において、彼は v. Schroeder の Maitrāyaṇī Saṃhitā 校訂本について価値ある所見を述べた。すでにそれ以前、同巻 Proceed. 1885 年 S. XXIII において、彼は M. Müller の Upaniṣad 翻訳(SBE. 第 I 巻、第 XV 巻)を批判している。Böhtlingk の Upaniṣad 翻訳の前でも彼は立ち止まらなかった(Am. Journal of Philology XI〔1890〕S. 407–439 参照)。

Transactions of the Am. Philol. Association 第 XXI 巻において、Whitney は 1891 年に自ら Kaṭhopaniṣad を訳している。これについてはすでに 1886 年に論文 "Hindu Eschatology and the Kaṭha Upanishad"(JAOS. 第 XIII 巻 Proceed. S. CIII 以下)において論じていた。さしあたりアメリカの同胞のために書かれたいくつかの業績は、ヨーロッパの読者には容易には入手しがたい雑誌に発表されている。

最もよく知られているのは、文法家としての Whitney である。Veda と文法との結合においては、Whitney は Delbrück と比較されうる。その第三の主著は "A Sanskrit Grammar, including both the classical language and the older dialects, of Veda and Brāhmaṇa"(Leipzig 1879、第 2 版 1889 年、第 3 版 1896 年)であり、H. Zimmer が「古代インド文法」という表題でドイツ語訳した(1879 年)。ここでは初めて

豊富な蒐集に基づいて Veda の言語が前面に置かれた。それは比較文法ではなく、その構成上は歴史文法である。パラダイムは Devanāgarī と翻字とで与えられている。翻字においては、諸形態のアクセント表示が文法書として初めて一貫して行われた。Pāṇini を彼はまったく無視することはできなかったが、主としては文献において実証されるものを与えようとした。それを彼に提供したのは、Atharvaveda についての彼自身の索引のほか、Petersburg 辞典と Graßmann の Ṛgveda への "Index-Vocabulary"、さらに Delbrück の『古代インドの動詞』と統語論的諸業績、Lanman の "Noun-Inflection"(JAOS. 第 X 巻)であった。

Whitney の他の弟子たちからも当時、文献に現れる諸形態についての業績が現れた。同じ第 X 巻 S. 219–324 には John Avery の "Contributions to the History of Verb-Inflection in Sanskrit" があり、同じ著者による S. 326–361 の "The unaugmented Verb-forms of the Rig- and Atharva-Vedas" は、接続法あるいは希求法の意味で用いられる無増音の過去形を扱っている。

文法書への補遺をなすのが Whitney の著書 "The Roots, Verb-Forms, and Primary Derivatives of the Sanskrit Language"(Leipzig 1885)であり、同じく Zimmer がドイツ語訳した。ここでもまた文献において実証されるものへの限定がある。彼が語根を ar ではなく をもって立てたことを、彼は特別の論文において正当化している(JAOS. XIV〔1889〕Proc. S. CXLVIII)。より賛成しがたいのは、彼が体系的叙述においても受動態を第四動詞類と、第十動詞類を使役態と結合したことである。これに関わるのが Whitney の論文 "On the Derivative Conjugations of the Sanskrit Verb"(JAOS. X〔1878〕Proc. S. CLXVIII、XI〔1879〕Proc. S. XVIII "On certain Points in Sanskrit Grammar" 参照)である。

文法の他のいくつかの点についても彼は繰り返し意見を述べている。アクセント、anusvāra、sandhi、アオリスト形成についてである。Veda のアクセントについての Haug の理論に対しては彼は否定的であった。JAOS. 第 X 巻において彼は二度これについて述べている(Proceed. S. IX および CIII、1871 年および 1874 年)。彼は udātta 音節が語の本来のアクセント音節であるという見解にとどまった。

Pāṇini に関しては Whitney と Böhtlingk とは見解を異にした。古典サンスクリットの著者たちはサンスクリットを Pāṇini と辞書から、またより古い著作の読書によって学び、口頭の言語において習得した。それゆえ Pāṇini と辞書とは、古典サンスクリットにとってわれわれには第一級の一次的言語資料である。文法において教えられていることの完全な確実性は、もちろん文献における用法によってはじめて生じる。Dhātupāṭha の多くの語根は実証されていない。これらの事情について Whitney は 1884 年にその論文 "The Study of Sanskrit and the Study of the Hindu Grammarians"(JAOS. XI Proceed. S. CXCVII 以下)において論じた。後の論文 "On recent Studies in Hindu Grammar"(Am. Journal of Philol. 第 XIV 巻、1893 年)においては、Bruno Liebich と R. Otto Franke の著作のみならず、Pāṇini 自身をも批判している。

Böhtlingk は「Pāṇini の古い友にして讃美者として」その論文「Whitney の Pāṇini への最後の攻撃」において後者を弁護し(ザクセン王立学術協会報告 1893 年)、とりわけ格の学説における Pāṇini の kāraka 理論を擁護した。彼はその研究の刺激を、すでに自らの『読本』への収録によって与えていたのである。論文 "The Veda in Pāṇini"(Giornale della Società Asiatica It. 第 VII 巻、1893 年、S. 243–254)において Whitney は

Veda の言語に関わる諸 Sūtra を論じているが、次の問いには答えを与ええていない。「why did Pāṇini, in spite of his devotion to brevity, crowd into his text-book all these two hundred and fifty rules about the older dialects of the language — dialects which were not his Sanskrit, and which he did not therefore mean to teach?」(S. 253)。1892 年に彼は詳細な批判 "On Delbrück's Vedic Syntax"(Am. Journal of Philology 第 XIII 巻、S. 271–306)を書いた。不確かな語源説から Whitney は、その批判的性格に応じて距離を置いた。重要な語 vratá を彼は JAOS. XI Proceed. S. CCXXIX において扱い、形成の上で vrajá と比較し、語根 vṛt に結びつけた。

Whitney の業績と並んで、AOS の Journal の同じ諸巻には、まったく彼の精神に立つ若い世代の——大部分は彼の弟子の——業績が現れた。Lanman と Avery、Bloomfield、Hatfield、Magoun はすでに挙げた。AOS の Journal 第 XI 巻には Avery がさらに "On Relative Clauses in the Rigveda"(Proceed. S. LXIV)と "On Modes in Relative Clauses"(Proceed. S. CXLVIII)を書き、さらに W. Haskell が "On the Accentuation of the Vocative Case in the Rig- and Atharva-Vedas"(S. 57–66)を書いている。Haskell と共同で Whitney は同巻 Proceed. S. XXXVII に "Statistics of External Vowel-Combination in the Rig- and Atharva-Vedas" を発表した。韻律についても Haskell は同巻で繰り返し論じている。

Whitney も扱った対象に関わるのが、A. Hjalmar Edgren の論文 "On the Verbal Roots of the Sanskrit Language and of the Sanskrit Grammarians"(XI 1–55)と "Palatal and Labial Vowels (i, ī, u, ū) and their corresponding Semivowels (y, v)"(S. 67–88)である。第 X 巻と第 XI 巻はとりわけこうした業績に富む。Whitney からはより遠い神話学は、ここでは第 XI 巻(1885 年)S. 117–208 の Edward Delavan Perry の優れた論文 "Indra in the Rig-Veda" によって代表されている。これについて著者はすでに 1880 年に Proceedings S. XLVII において報告していた。彼は Myriantheus、Hillebrandt、Bergaigne を批判している。同じ諸巻において Bloomfield はなお文法的あるいは語源的内容の種々の小論を発表し、Hopkins は Manu 研究と Mahābhārata 研究をもって登場した。仏教について、しかもチベット語資料のそれについては、当時第 XI 巻において W. W. Rockhill——"now of the United States Legation in Peking"——が書いている。

Max Müller と同様に、Whitney もまた一般言語学の諸問題をさしあたり講義において扱った。その第四の主著 "Language and the Study of Language" は London 1867 年に現れ、Jolly がドイツ語訳した(München 1874)。同じ素材をいくらか短い形で含むのが第二の著書 "The Life and Growth of Language"(New York 1875)であり、Leskien がドイツ語訳した(Leipzig 1876)。

その厳密に学問的な性格、計画的な構成、冷静な批判、推論の論理によって、Whitney は同学の間で M. Müller 以上の共感を得た。サンスクリットを彼は、M. Müller とは異なり、これらの言語学的著作においては後退させ、言語の生を英語において観察し、それに常に巧みに選ばれた例を取っている。方言の起源、言語の起源について彼は Max Müller とは別の見解をもっていた。言語の最初の始まりを彼は擬音的に考えた。言語と思考とは別のものである。言語形成者たちは言語音によって自らの思考の忠実な

模写を与えようとしたのではなく、ただ相互理解のために十分な記号を与えようとしたのである。さらなる成長のうちに擬音的起源は忘れられ、新しい原理が現れた。すなわち "the differentiation and various adaptation of the signs already established in use" である(Language and the Study of Language S. 431–435)。"adaptation" という語を Whitney は Ludwig に先立って用いた。最初の著書の序文において Whitney は、Steinthal の「言語構造の主要類型の特徴づけ」と Schleicher の『概説』とを自らの主要典拠として挙げている。その慎重さと批判とによって、言語学的細部において時代遅れの立場が現れることは、M. Müller におけるよりも稀であった。

§第 LII 章 WEBER の友人と弟子たち

§R. ROST、E. HAAS 他

その著作、『インド研究』における報告、また献辞が示すように、Weber は国内外の多くの同学と活発な学問的交流をもっていた。すべての新しいものを彼は温かい関心をもって迎えたが、必要とあらば自らの異論を表明することにもまったく躊躇しなかった。同学とこれほど個人的な接触をもったのは、他には Bühler のみである。

Weber が『インド研究』において Röer、Grimblot、Cowell、Kern、Haug、Bühler からインドについて伝えた報告のうちには、1861 年 Colombo のフランス副領事館からの Paul Grimblot の手紙があり、そこで彼は自らの Pāli 研究について書いている。また Hall が発見した Bhāratīya-Nāṭyaśāstra の古写本についての Cowell の手紙もあり、両書簡は 1862 年『インド研究』第 V 巻に印刷されている。

Weber がしばしば言及するのは、Eisenberg 出身の友人 Reinhold Rost である。1822 年生、1896 年没。India Office Library の Headlibrarian という地位にあって、彼は常に情報を提供し、他人の仕事を支援する用意があった。さしあたり実際的な理由から神学者となった彼は、その並外れて大きな語学の才能によって早くから東洋諸語へと導かれた。1847 年にシンハラ語についての(未刊の)論文で Jena で学位を得た。Pāli とマレー諸語とがその主要研究となった。Eduard Müller はその Pāli 文法を、Childers はその Pāli 辞典を彼に献じている。

一定の仕事もなく、またサンスクリットを特に念頭に置くこともなく、彼は 1847 年に England へ渡り、そこで東洋学者としての地位を築こうとした。とりわけ貝葉写本の記述における学問的業績によって、また広範な語学知識と教授とによって、彼はこれを次第に達成した。1853 年に Canterbury の St. Augustin 伝道学院の東洋諸語教師に任ぜられ、この職を生涯保ったことが、彼に初めて確固たる足場を与えた。1863 年には Royal Asiatic Society の書記に選ばれ、Rosen、Norris、Redhouse の後継者となり、まもなく Eggeling、Bendall に交替した。というのも 1869 年に彼は India Office Library の司書長に任ぜられたからである。ここで彼は Wilkins、Wilson、Ballantyne、Hall、Rost、Tawney、Thomas の列に属する。この地位のためには彼は、その驚くべき

語学知識によって他の誰よりも適していた。サンスクリットのほか、彼は Canterbury でタミル語、中国語、マレー語、ヒンドゥスターニー語、ペルシア語、マラーティー語、ポルトガル語、オランダ語、さらにアラビア語、ビルマ語、シンハラ語、チベット語を教えた。

Rost は官吏としてイギリス政府の信頼を高い度合いで得ており、その学問的な便宜供与によってドイツの東洋学者のみならず多くの人々の感謝を得た。それは 1895 年の "Rost Testimonial Fund" において表現を見出した。あらゆる国の東洋学者がこれに参加し、贈呈は Pischel によって行われた。これらすべてのこと、その個人的境遇と全経歴、同学およびその他の著名人——Bunsen をも含む——との関係については、多数の書簡に基づいて O. Weise が『東洋学者 Dr. Reinhold Rost、その生涯と努力』(Leipzig, Teubner, 1897)において生き生きとした像を描いている。

より深い研究とサンスクリット領域におけるより大きな仕事のための時間を、彼は見出さなかった。しかし彼の死後に出た有用な "Catalogue of the Library of the India Office", Vol. II, Part I. Sanskrit Books(London 1897)がある。そのほか彼は London 1861 年以降に Wilson の Works 第 I–V 巻を、London 1880 年に Hodgson の Miscellaneous Essays 全 2 巻を刊行した。またインドシナに関する Miscellaneous Papers の集成(1886 年および 1887 年)の刊行にも関与している(Weise, S. 45 参照)。

Pāli で書かれたビルマの Manusāra についての Weber『インド研究』I 315–320 における彼の小論文は、一つの失望を伴うものであった(Weise, S. 15 参照)。彼の影響がなかったわけではなく、London の Trübner 社は 1865 年に雑誌 "The American and Oriental Literary Record" を創刊した。最後の三巻は 1889 年以降 "Trübner's Record, a Journal devoted to the Literature of the East with Notes and Lists of current American, European and Colonial Publications" という表題で Rost の主宰のもとに現れた(Weise, S. 42 参照)。Trübner's Record を引き継いだ Luzac's Oriental List にも彼は関与している。

Rost によって India Office Library のサンスクリット写本の目録化が企てられた。この目録には Eggeling、Haas、Windisch が従事し、最後の者は 1870 年の復活祭からわずか一年のためにのみ雇われた。主要な仕事をなしたのは Eggeling である。

三人のうち最年長の Ernst Haas は 1835 年 Koburg に生まれ、1882 年に没した。中世史、文法学、ロマンス語学からサンスクリットへ移り、Bonn、Tübingen、Berlin で学び、Rückert とも個人的関係をもち、二年間 Paris に暮らし、次いでスコットランドへ Lord Minto 家の家庭教師として赴いた。1866 年に British Museum に採用され、1875 年に London の University College のサンスクリット教授職を得た。そこで彼は Rosen、Goldstücker、Eggeling の後継者となった。追悼文を Rost が Athenaeum 1882 年 7 月 15 日号に書いている。

1870 年から 1876 年までの Catalogue における仕事——これは Eggeling が印刷可能な形に整えた——と、先に述べた婚姻習俗についての論文(上記 S. 241 参照。これによって彼は 1859 年に Tübingen で学位を得た)のほか、彼が知られているのはインド医学の領域における研究によってであり、これへは Catalogue を通じて導かれたのである。Haas はその師 Weber と同様に写本から仕事をした。彼は Roth に次いでインド医学により深く立ち入った二人目のドイツ人学者である。ここで彼はもっともきわめて大胆に進んだ。1876 年の最初の論文「インド医学の起源について——とりわけ Suśruta に関して」

(ドイツ東洋学会誌 XXX 617–670)において、Haas はインドの医師についてのアラビア語著述家の記述を批判している。その名はサンスクリットとしては説明しえないというのである。彼は、アラビア人がそもそもインドの古い医学文献を知らず、ただ Sindh の医術のみを知っていたと推測した(S. 627 以下)。体系的医学(Suśruta、Caraka)は彼の見解によればインドにおいて後 10 世紀半ばから 15 世紀半ばまでの期間に成立したという(S. 642)。それ以前は一種の秘伝として口承のみで伝えられた Āyurveda は、Purāṇa の時代にはじめて記録されたという(S. 651)。インドの権威たちの理論が Galen のそれと一致することが判明したならば、「他の多くの領域におけると同様、この領域においてもギリシア人が再び先駆的民族であり、世界の最初の教師であったという想定を妨げるものは何もないであろう」(S. 670)。すでにここで奇異な名 Suśruta を疑わしげに論じていた彼は、1877 年の第二論文「Hippokrates と中世インドの医学」(ドイツ東洋学会誌 XXXI 647–666)において、Suśruta が Hippokrates という名のアラビア語的変形から生じたことを蓋然的にしようと試みた。

Haas の業績によって 1880 年にアラビア学者 August Müller の論文「インド医学史へのアラビア語資料」(ドイツ東洋学会誌 XXXIV 465–556)が生まれた。そこで彼はアラビア語の諸著作をより精確に研究している。それらは、インドにおいてより古い時代にすでに医学文献が存在し、それがイスラーム教徒のもとへ伝わったことを証している。しかし A. Müller もまた、インド医学が純粋にインドの産物であるとは信じなかった。「Veda のまったく不十分な観察と大部分は迷信的な原則とから出発したインド人の医術が、この幼児の靴を脱ぐことなく、それでも自らの力のみによって、最良のギリシアの成果と肩を並べる業績にまで高まったとすれば、それは学問の歴史における最も驚くべき現象の一つであろう」(S. 556)。

Zimmer はその Veda 時代の医術の叙述『古代インドの生活』S. 375 において、Haas について、彼は「Suśruta の人物をなお包んでいた高い古代性の後光の残滓を決定的に引き裂き、インド人の医学に然るべき位置を与えた」と述べている。しかし Haas は、インド文献の年代を引き下げ、外来の影響を探るという傾向において Weber をさらに超えていた。Weber は Haas の見解に対して否定的に意見を述べたが(Pārasīprakāśa S. 8、「インドにおけるギリシア人」S. 924 参照)、インド医学におけるギリシアの影響は蓋然的とみなしていた。Haas はまた書誌的にきわめて有用な "Catalogue of Sanskrit and Pali Books in the British Museum"(London 1876)をも公刊した。

Weber の弟子にして友人であったのは、Gotha の司書 Wilhelm Pertsch でもある。1832 年生、1899 年没。彼はペルシア語にその強みをもっていたが、その経歴をサンスクリットの領域における業績から始めた。二つのテキスト校訂へは Chambers 収集の写本によって導かれた。最初のテキストはインドのより新しい歴史の一断面を扱う。すなわち "Kṣitiśavaṃśāvalīcaritam. A Chronicle of the Family of Rāja Kṛṣṇacandra of Navadvīpa, Bengal"(Leipzig 1852)であり、Weber に献ぜられ、英訳を伴う。この英訳に際しては Whitney が彼を助けた。Kṛṣṇacandra は 17 世紀に生きた。われわれは

その王朝の歴史的地位についてすでに上記第 I 巻 S. 181 で示唆した。第二のテキスト校訂は Veda 文献に関わる。すなわち "Upalekha, de Kramapāṭha libellus" であり、その Particula Prior が Pertsch の学位論文であった(Berlin 1854)。その翌年、彼は Weber の『インド研究』III 1 以下に Ṛgveda の詩節冒頭句のアルファベット順索引を発表した。彼はさらに 1871 年、Weber の勧めにより、Bühler を通じて Berlin の貨幣陳列室に入った貨幣収集について報告したが、そこには古代インドの貨幣はわずかしか含まれていなかった。

Pertsch の Kramapāṭha についての著作と並ぶのが、Ṛgveda のさらに人工的な読誦法についての G. Thibaut の著作である。すなわち「Jaṭāpaṭala——Ṛgveda のための Jaṭāpāṭha の教本、ならびに Kramapāṭhavikṛti についての Prātiśākhyajyotsnā の一節」(Leipzig 1870)である。Weber の書評は『インド漫録』III 40 に再録されている。Thibaut は、Weber が繰り返し言及した若い世代の学者に属する。

すべての見解においてではないにせよ、文学史的な扱いにおいて Weber の流儀を示すのが、かつて高く評価された Dr. Fr. Johaentgen の著作「Manu 法典について——哲学的・文学史的研究」(Berlin 1863)である。Weber の書評は『インド漫録』II 277 参照。Johaentgen は Manu の法典をなおきわめて古いものとみなし、前 5 世紀から前 350 年の間に成立したとした。本来の dharma についてはその著作ではあまり論じられていない。最大の紙幅を占めるのは、前半における Sāṃkhya 説の哲学的論述であり、その「萌芽」がこの法典に含まれているという(S. 68)。他の哲学諸体系は Mānava には無縁であり、Veda 文献の諸著作は幾度も言及されている(S. 72)。

Johaentgen はその仕事への刺激を師 Lassen から受け、Lassen は彼にその Gymnosophista の序文を参照させた。そして彼は Weber の方法に従って、Mānava のインド哲学に対する関係を叙述しようと試みた(S. V 以下)。年代決定のためには、彼にとって Mānava と仏教の Dhammapada との一致が重要である(S. 90 以下)。Max Müller に依拠して彼は、この法典の起源を黒 Yajurveda に属する Mānava の学派に求め、他方 Yājñavalkya の法典については白 Yajurveda との関連を主張した(S. 108 以下)。

【原書 p. 364(承前)】

§第 LIII 章 H. GRASSMANN・A. LUDWIG・H. ZIMMER

Weber がサンスクリット文献学をその全幅において取り組んだのに対し、ドイツの他の学者たちはその研究を多かれ少なかれもっぱら Veda に、とりわけ Ṛgveda に向けた。古代インド文献にはそれより古いものはない。内容も言語も、なおインド・ゲルマンの原時代を漏らしているように見える。かくして Ṛgveda の孤立的な扱いは、とりわけ言語研究者と神話学者にとって自然であった。インド人最古の散文である Brāhmaṇa 諸書にも、彼らはまもなく注目を向けた。これらの研究を可能にしたのは、Aufrecht、Max Müller、Roth、Weber、Whitney による入手しやすい校訂本と辞書的業績である。Aufrecht と Weber の翻字校訂本は、言語研究者にテキストの見通しをより容易にした。

ここで第一に挙げるべきは Hermann Grassmann である。1809 年生、1877 年に Stettin の Marienstifts-Gymnasium 教授として没した。彼は言語研究者としても数学者としても等しく認められていた。その数学的性格はその辞典の構成のうちに再認しうる。生年からすればサンスクリット文献学の古参と同世代でありながら、彼がこの領域で著作をもって登場したのはようやく晩年になってからである。

Ṛgveda の辞典は Aufrecht から期待されていた。1870 年 6 月 1 日にもなお Muir は一書簡にこう書いている。「Aufrecht hopes to begin to print his glossary to the Rig-Veda in August or September」(JAOS. IX Proceed. S. LXXXVI)。Grassmann の序文は 1872 年 8 月 10 日の日付をもつ。Aufrecht の辞典が近く出る見込みがないと知った彼は、著名な学者たちに促されて、当初は自分自身の用のためにのみ作っていた自らのそれを公にする決心をした。すなわち「Ṛgveda 辞典」(Leipzig, F. A. Brockhaus, 1873)である。第一分冊は Benfey のような専門家によって賞讃をもって書評された(『小論集』I 305)。

Grassmann は比較言語学の側から来たので、短い語源的参照が、とりわけ Curtius の『綱要』への参照が付されている。よく知られているのが彼の名を冠する法則であり、サンスクリット語 bāhú とギリシア語 πῆχυς のような語の音韻関係を規定するものである。その著作の基礎としては彼自身が Petersburg 辞典を挙げている。熟慮の末にのみ彼は Roth の解釈から逸れた。用例箇所を彼は、catámtádrátha のようなとりわけ頻出する語を除いて完全に与えている。脱落は末尾に M. Müller の索引から補われている。短い後記において彼は、Roth、Delbrück、Fritzsche、Lanman、Weber に多様な支援について謝意を表している。Fritzsche が最初の校正を読んだ(上記 S. 215 参照)。

引用は Aufrecht の第一版に基づき、賛歌に 1 から 1028 までの通し番号を用いている。このことが、このきわめて価値ある補助手段の利用を今日困難にしている。というのも Aufrecht が第二版において通し番号を廃止し、さらに第一版では末尾に置かれていた 11 の Vālakhilya 賛歌に第 VIII maṇḍala の 49–59 という位置を与えたからである。

しかしそれ以上に広い層に Ṛgveda を開いたのが、Grassmann の完訳である。すなわち「Rig-Veda——批判的および説明的注記を付して翻訳」第一部「Ṛgveda の家門書(第二巻から第八巻)」、第二部「Ṛgveda の集成書」(Leipzig 1876, 1877)である。原詩を模した心地よい韻文の装いにおいて、Graßmann は原文の意味をも精確に再現しようとしている。彼は Roth がドイツ東洋学会誌第 XXIV 巻で立て、「Ṛgveda 七十詩篇」において実行された諸原則に従っている(上記 S. 263 参照)。M. Müller の翻訳、とりわけ「宗教学講義」(1876 年)S. 209–219 のそれをも、彼は同種のものと呼んでいる。

Grassmann は、自らの翻訳に多くの欠陥が付着するであろうことをよく自覚していた。それは時とともに明らかとなったが、この翻訳が辞典とともに多くの人々に Ṛgveda の理解を容易にし、さらなる研究への出発点をなしたという事実を変えるものではない。彼が後代の付加とみなした詩節と賛歌とを、彼は各部の末尾の付録に追いやった。この仕方によって困難な部分の一部がまとめられてはいるが、参照の際にはこの分離は不快に感じられる。序文と序説とはきわめて簡潔に保たれている。

maṇḍala における賛歌の配列について彼が観察したことは、一部はすでに Sarvānukramaṇī への Paribhāṣā において示唆されていた。これらの観察は Delbrück、Bergaigne によって推し進められ、Oldenberg の『Prolegomena』において総括された。

Grassmann の諸著作とほぼ同時に、A. Ludwig の大著「Rigveda、すなわち Brāhmaṇa の聖なる賛歌」の最初の諸巻が現れた。これは次第に六巻にまで成長した。両者とも翻訳が二巻を占める。Grassmann は個々の maṇḍala における賛歌の順序を保ちつつ、第一巻を「家門書」すなわち第 II–VIII maṇḍala から始め、第一 maṇḍala を他の「集成書」とともに第二巻に置いた(第 I、IX–X maṇḍala)。Ludwig は maṇḍala の結合を解体し、賛歌をそれが向けられる神格に従って、Indra から始めて配列した。Grassmann においては文学史的観点、Ludwig においては神話学的観点である。いずれにもそれぞれの正当性がある。賛歌を見つけやすいのは Grassmann の方である。

Alfred Ludwig は 1832 年 Wien に生まれ、ほぼ 80 歳の 1912 年、Prag 大学の比較言語学教授として没した。その生涯と業績について報告したのは M. Winternitz であり、雑誌「Deutsche Arbeit——ボヘミアのドイツ人の精神生活のための月刊誌」1913 年 3 月号においてである。Winternitz による第二の論文「Alfred Ludwig」は『伝記年鑑およびドイツ人死者伝』(A. Bettelheim 編)第 XVII 巻 S. 128 以下にあり、本質的に同じ内容を含む。Ludwig の著作目録を Winternitz は『Prag ドイツ民俗学・言語学協会第 XX 年報』において作成した¹⁾。同誌には、この協会の会長 Max Grünert による Alfred Ludwig への短い追悼文もある。Ludwig はこの協会の熱心な会員であった。

Ludwig は Wien と Berlin で学んだ。1852 年に Wien 大学に入り、次いで 1855/56 年冬学期に Berlin へ行った。その主要な研究はさしあたり古典文献学であったが、より広い言語研究にも、とりわけ Friedrich Müller のもとで従事した。Bopp の弟子ではなかった。1858 年に、短期間ギムナジウム教師を務めた後、Wien で古典文献学の私講師資格を得た。早くも 1860 年に古典文献学および比較言語学の員外教授として Prag へ招かれ、1871 年に後者の正教授職を得て、これを生涯保った。Ludwig はまた、適時にチェコ語を習得したドイツ系オーストリア人の一人でもあった。彼はチェコ語でもいくつかの論文を書いている。サンスクリットには Boller²⁾ によって導入された。Winternitz は彼を、オーストリアで最初に

¹⁾ Winternitz 教授はさらに書簡で私に伝えるところによれば、Ludwig の遺稿のうちには Ṛgveda の完全な英訳があり、その原稿は Oxford 大学が購入した。Ludwig の書簡およびその他の文書遺稿は Prag 大学図書館に保管されている。

²⁾ Anton Boller は 1811 年、下オーストリアの Krems に生まれ、1869 年に没した。Wien で 1845 年以来サンスクリットを教え、1850 年に員外教授、1855 年に比較言語学およびサンスクリットの正教授となった。彼は独学者であった。その研究はとりわけウラル・アルタイ諸語に向けられた。彼とその著作については Wien 学士院『年鑑』1854 年(S. 247 および S. 289)、1869 年(S. 237 以下)を参照。「Anton Boller(Wien 帝室王立大学サンスクリット語講師)による、公開講義および独習のための詳解サンスクリット文法」(Wien 1847)は、Pāṇini と Vopadeva、および Böhtlingk の諸論文に基づいている。

サンスクリットを教えた教授と呼んでいる。しかしサンスクリット研究への主要な刺激を彼は Berlin の Albrecht Weber から受けた。その Rigveda 第 6 巻の結語末尾 S. XII において、Ludwig はこの師についてこう述べている。「二年にわたり倦むことなく続けられたその教授が、私の後の仕事の基礎を据えたのである」。すでに膠着か適応かについてのより早い著作を、彼は Weber に献じていた。

言語学および Veda 研究における Ludwig の独立した、反抗的な立場は、彼が研究の初期に Bopp とも Roth ともより緊密な関係に入らなかったことから説明される。彼は繰り返し Roth の功績を認めてはいるが、Max Müller により多く惹かれていた。彼はその注釈の献辞において Max Müller について、Veda 研究が人間の精神的営為の全領域において要求しうる地位と尊厳とを、彼が永久に確保したのだと述べている。Czernowitz 帝室王立大学開学式のための祝賀論文「Veda の哲学的および宗教的諸観念、その発展において」(Prag 1875)の第 1 頁に、彼は「われは青銅よりも永続する記念碑を建てた、王者のピラミッドの築造よりも高くそびえるものを」という言葉を、Böhtlingk と Roth のサンスクリット辞典と、M. Müller の Ṛgveda 校訂本とに適用している。

Ludwig の第 1 巻の序文は「Prag、1875 年末」、Grassmann の第一部の序文は「Stettin、1876 年 4 月」と署名されているので、Ludwig は表題に「初めて完全にドイツ語に翻訳された」と記すことができた。いずれにせよ Grassmann と Ludwig とは異なる立場から互いに独立して仕事をした。二つの翻訳を比較することは常に特別の魅力を与えるであろう。両者が一致するところではテキストは正しく理解されており、両者が食い違うところには困難が存するのである。いささか誇張して言えば、Grassmann の翻訳はすべてが容易であるかのように読め、Ludwig の翻訳は一行ごとに困難が含まれているかのように読める。

二人の訳者は互いを好意的な目で見なかった。第 3 巻の序文において Ludwig は「七十詩篇」と Grassmann の著作について一般的に論じている。彼はここで韻文形式を非難し、Grassmann が伝承されたテキストに代えて置いた憶測と、先入見とを咎め、その翻訳は「原文の改竄なき写し」とはみなしえないとする(S. IX)。とりわけ注釈第二巻において(たとえば S. 581)、Ludwig はしばしば許しがたい仕方で Grassmann について貶めるように語っている。

言語学的な面でも両者の間には対立があった。Grassmann はその時代の支配的見解の解釈者であり、Georg Curtius の学派が背後に立ち、Whitney や Delbrück のような研究者がその業績を賞讃し利用した。Ludwig は屈折形式の成立について別の見解をもっていた。第 3 巻の序文において彼は、自らがほとんど注目されなかったことを嘆き、自分が攻撃されたいくつかの点を論じている。考慮すべきは、その翻訳が、すでに正書法において慣例と異なっており、さしあたり単独で現れたこと、そしてその研究の深さと徹底とが示される諸巻は数年後にようやく出たことである。しかしすでに Pischel は、あらゆる批判を加えつつも第 3 巻の書評において彼に正当な評価を与えており(『Göttingen 学報』1879 年 S. 563 以下)、Zimmer もまた同様である。もっとも彼の場合は

個人的攻撃を欠いてはいない(『ドイツ古代学・ドイツ文学報知』1879 年 S. 307 以下)。しかし最も輝かしい讃辞を彼に与えたのは Benfey であり、その翻訳についてこう述べている。「われわれは Alfred Ludwig によって、かくも良心的な、そして大体においてかくも入念に考量された R. の翻訳を得た。それゆえ、彼と異なる箇所ごとに、なぜ従いえないかを明示することが、本来は義務であろう」(『Göttingen 学報』1876 年 S. 443)。

第 3 巻「Mantra 文献と古代インド——翻訳への序説」(Prag 1878)は、Lassen の『インド古代学』にはまだ含まれていなかった Veda 古代学を提供した。Ludwig は、Roth、M. Müller、Muir によって Veda について、とりわけ Ṛgveda-Saṃhitā について、またそこから知られるようになったことを総括し、自らの研究によって補った。Atharvaveda をも引き入れている。彼は固有名詞その他の事柄の上で重要な語を集めて論じており、そのうちには Ṛgveda 自身に挙げられる韻律の名称もある(S. 51)。伝承された文言が韻律を満たさない場合の「強引な措置」に対して、彼は韻律の不完全な貫徹をも計算に入れる(S. 48)。その際ただ注意すべきは、韻律的に欠陥のある多数の箇所において、一定の性状をもつ語と形態とが繰り返し現れるということである。

Sāmaveda の異読についての詳細な論述において、彼は、これが Ṛgveda と比較して全体としてはより古いが、しかしまたより「荒廃した」テキストであるという結論に至った(S. 90)。最古の碑文が由来する時代には、Pāṇini の文法が、そしておそらく Veda もまた、すでに文字で書かれて存在していた(S. 82)。「古代インドの地理・歴史・国制についての ṚgvedaAtharvaveda の記述」および「Veda の哲学的・宗教的諸観念、その発展において」については、彼はすでに以前に二つの論文で論じていた(Prag 1875)。系譜的記述から Ludwig は、Veda によって代表される詩の類型について「少なくとも二世紀半の持続」が証明されると推論する(S. 182)。天文学的種類の Veda の記述——これについては彼は Weber と Whitney の業績に依拠する——は、Veda の始まりが少なくとも前 15 世紀にまで遡るという想定に矛盾しない(S. 187)。Ārya の主要地域は、山地から海に至る Sindhu の流域であった(S. 202)。

身分と国家、Ārya の宗教と神話についての諸節においては、宗教の根本概念についての論述(S. 257 以下)と悪の原理についての論述(S. 345)とが、Ludwig の哲学的思考様式を証している。注釈第 V 巻 433 以下において彼は Ṛgv. X 129 に関連して哲学的・宗教的発展に立ち返り、同じく S. 562 以下では Veda の道徳的・宗教的立場に立ち返っている。彼に同意しえないところ——たとえば Parśu と Pṛthu との同一視(S. 196)や多くの語源説——においてすら、彼はいたるところで豊富な資料を与えている。重要な語としては paṇi(S. 203)、brahman(S. 220, 296)、vidatha(S. 259)、vayuna(S. 267)、ṛta(S. 284)、satya(S. 292)、māyā(S. 308)を詳しく扱っている。Varuṇa と Οὐρανός との同一性を彼は否定する。Varuṇa は語の元素的な意味における天の神ではなく、その背後には Dyaus が立つというのである(S. 314)。祭儀についての最後の節(S. 353)においては、祭式に関わる語を集め、Ṛgveda に現れる記述を AtharvavedaVājasaneyi-Saṃhitā とから補っている。テキスト付録(S. 419 以下)には、

Ṛgveda に現れない Sāmaveda の詩節の翻訳の後、Atharvaveda の多くの賛歌が事項別に配列して訳出され、末尾には Mahābhārata からの Upamanyu の Aśvin への讃歌が置かれている。

翻訳者としての Ludwig を Grassmann から切り離しえないのと同様に、他方 Veda 古代研究者としての彼は Zimmer から切り離しえない。Heinrich Zimmer は 1851 年 Castellaun(ライン州)に生まれ、1910 年 Berlin のケルト学教授として没した。サンスクリットにおいては Straßburg の Goldschmidt と Tübingen の Roth の弟子であった(Havers『インド研究報知』27, 172 以下参照)。その著書の献辞において彼はこの二人と Weber とを敬愛する師と呼んでいる。彼はその研究をきわめて広く拡げ、ゲルマン学においては Scherer の弟子であったが、まもなくケルト学研究に向かった。そこへは最初 Windisch によって導入されたのである。

その著書『古代インドの生活』(Straßburg 1879)は Straßburg の懸賞論文から生まれた。上記 S. 304 ですでに述べたとおりである。それは Ludwig の第三巻が現れたとき印刷中であった。両著作は Lassen の『インド古代学』への補足であり、Zimmer の書はその構成においてもそれを想起させる。神話学と祭儀とを Zimmer はその叙述に取り入れなかったが、他の諸章においては Ludwig よりも体系的完全さを目指している。Ludwig の以前の論文の対象については、彼はすでに本文において Ludwig の見解を顧慮しえた。

Zimmer において新しいのは、国土の産物、動物、樹木、植物、鉱物である。河川において、また Ārya と Dasyu の諸部族において、両者は接触する。Zimmer は Ṛgvedasamudra が海を意味するとは想定しなかった。Veda のアーリヤ人は当時まだ海までは進出していなかったのである。Sarasvatī を彼は最古には Sindhu と解そうとする。Pṛthu と Parśu という名を彼は Parthia 人・Persia 人には関係づけない(S. 137)。Zimmer の考察方法は孤立的なそれである。Ṛgveda のうちに Iran と Turan を見た Brunnhofer の大胆な着想の痕跡は、Zimmer にはほとんど見出されない。

第二の書は住居、共同体、国家、カースト、経済的状況を扱い、多くを初めて叙述している。そのゲルマン学的研究は、彼に Tacitus の『ゲルマニア』における古代ゲルマン人についての報告を比較のために引き入れることを示唆した。彼が S. 221 において牧畜を Veda のアーリヤ人の主要な生業と呼んでいるとはいえ、彼らは grāmavṛjana と呼ばれる、農耕と結びついた定住地をもっていた。Zimmer は kṛṣṭi(pañca kṛṣṭayaḥpañca janāḥ と同様)と carṣaṇi——人間を表す一般的語——を、サンスクリット語 kṛṣyati「耕す」に結びつけているが、これは Geldner の carati からの導出よりもなお蓋然的である。都市はまだ存在せず、purpura とは、家財を守るために土塁で囲まれた場所と解すべきであり、それは原住民についてさらに多く言及されている(S. 142)。Indra は pūrbhid、すなわち砦を破壊する者である。それゆえ砦はとりわけ敵側に存在していたにちがいない。

Muir と同様に Zimmer も、最古の賛歌には発達したカースト制度の確実な痕跡はまだ見出されないという見解である。Zimmer は、これが支配者と戦士貴族との、祭司集団のますます度を越した要求に対する闘争のうちに、いかにして次第に発展したかを叙述しようとする(S. 197)。相対立する見解の調停は、カーストの萌芽がすべての古代民族において最古の時代にすでに種々の身分のうちに存在していたという点に存するであろう(

上記 S. 310 以下の所見参照)。後代の発達したカースト制度が Ṛgveda の時代にまだ存在していなかったことは、実は自明である。

衣服と装身具、娯楽、戦争についての諸章のうち、賭博についての節はしばしば扱われてきた対象に関わる。この種の対象は「内的諸関係」と題された第三の書にさらに含まれている。芸術と学問のうち、Veda 時代に発達していたのは詩作のみであった。天文知識、宇宙論的観念、時間区分についての諸節において、彼は Weber に依拠した。医術については Atharvaveda が豊富な素材を提供した。家族の構成、埋葬、死後の生についての諸章は新しいものをもたらさなかった。いたるところで Zimmer はテキストから直接汲んでおり、Veda の言語に見事に読み込んでいた。補遺においては Ludwig の著書に言及し、たとえば Parśu と Pṛthu についてのその解釈に反対している(S. 433)。逆に Ludwig は第四巻の序文において幾度も Zimmer に反論している。Zimmer は Parucchepa の賛歌を擁護し、これを Ṛgveda の最古の部分に数えている(S. XXXII)。

Ludwig の大著の第 IV 巻と第 V 巻は翻訳への注釈を含む。Ludwig は、Ṛgveda をそれ自身からのみ、あるいは Sāyaṇa の助けによってのみ説明するのではなく、「印刷されて存在する限りの Veda 文献の全体を解釈の基礎に選ぶ」ことを始めた最初の人である(第 IV 巻序文 S. IX)。Ludwig がすでに Pischel と Geldner に先立って、おそらく彼ら以上に、Ṛgveda の精神についての最も近い解明を古代インド文献の他の部分に求めたことは認められねばならない。Sāyaṇa のほか、Taittirīya SaṃhitāAitareya-Tāṇḍya-Śatapatha-brāhmaṇa、および Śrautasūtra がしばしば引用されているのが見出される。

Ludwig は最初に、いずれにせよ Roth、M. Müller、Grassmann 以上に、Haug に依拠して Ṛgveda の理解にとっての祭儀の意義を強調した(S. XIII)。彼が Veda を Zendavesta と比較し、asuradeva の意味における奇妙な変化を解釈しようと試みる点でも、彼は Haug に従っている。Ludwig は Grassmann と同様に、伝承されたテキストを、それが彼に破損して見えるところで憶測によって改善しようと試み、たしかにときには正しいものを言い当てている。しかし文献学的な機微をもって彼は言う。「Ṛgveda を校訂しようとする者は、常に Śākala 系 recension のみを再現しうるにすぎないであろう」(S. XXXVI)。その前にあるものは、全範囲において復元しうる実体ではない(上記 S. 276 参照)。Ludwig の注釈は事柄の上で価値ある所見に富んでおり、たとえば(動物寓話にとって重要な)獅子・虎・狼について(IV 356)、また動物供犠について(V 381)がある。

しかし繰り返し繰り返し Ludwig が主張するのは、とりわけその言語学的見解である。それを彼はすでに以前、その著作「a 語幹変化の成立」(Wien 学士院会議報告 1867 年)、「Veda における不定詞、リトアニア語・スラヴ語動詞の体系論を付して」(Prag 1871)、「膠着か適応か——一つの言語学的争点」(Prag 1873)においてより詳細に、しかしあまり見通しよくではなく、展開していた。彼は注釈において称賛すべき自己批判をもってしばしば自らの翻訳を改めている(たとえば IV 149、V 198, 280, 333, 353)が、自らの言語学的見解の正しさについては岩のごとく確信していた。彼は Bopp–Schleicher–Curtius 的方法の建築物が崩壊したと信じた。

というのも彼がその支持不能を証明したからだというのである(「Ṛgveda 解釈の方法について」S. 8)。彼がその崩壊に、あるいはより良く言えばその改築に、何ほどかを寄与したことは疑いない。その言語発生論的見解のうちには、次第に承認を得るに至った正しい思想も少なからず見出される。屈折形式の意味が常に屈折接尾辞の対応する意味に基づくわけではない、ということは彼に譲歩しうるであろう。Whitney がすでに 1867 年に述べた言語発生論的見解は Ludwig のそれとさほど異ならず、Whitney もまた "adaptation" の原理を立てていた(上記 S. 361 参照)。しかし Ludwig は Veda の諸形態の把握においてその理論の適用を誇張した。

彼の理論は著作「Veda における不定詞」の最初の数節で知られる。彼はここで Schleicher を、「言語研究を力ずくで、また明らかに傾向的な仕方で自然科学のうちに押し込めようとした」として攻撃している(S. 2)。屈折形式の意味は屈折接尾辞のうちに求められてはならない。Ludwig は語幹から出発するが、語幹こそ先史時代における生きた語であり、種々の格あるいは人称の意味で用いられていた。語幹に付加された接尾辞は、この語幹の意味を修飾したのではなく、「自らに固有の(指示的な)意味を失った後に」、語幹から意味を借りたのである(S. 4)。そこに屈折語(アーリヤ語)と膠着語との相違が存する(S. 5)。「膠着か適応か」S. 62 および S. 28 参照。

処格の i は処格語尾ではなく、本来はより一般的な意味をもつ語幹の末音であった。彼は i 語幹を多数想定し、それらが i の脱落によって子音語幹となったとする。複数属格の意味は接尾辞 ām のうちに求められてはならない。というのも Veda には devānmartān のような複数属格が見出されるからである。Ludwig がそうした形態を不必要なところにまで想定したことは別として、Roth と Pischel もそうした形態を認めている。Ludwig が活用論の出発点とする māisāitāi という活用形は、本来は一般的な動詞的意味をもち、三つの文法的人称との関係をもたなかった。しかし asmi がかつて「私はある」以外のものを意味したとは信じがたい。

Ludwig によれば不定動詞が定動詞に先行した。この意味で彼の不定詞理論は理解されねばならない。それを Ṛgveda の解釈に導入する機縁を与えたのは、彼が発達した文法の期待される形態ではなく別の形態を見出した諸事例である。Veda 時代にはなお先史時代の言語慣用が及んでおり、そこでは語幹形が種々の格の意味で、また後代の文法の屈折形がより自由な仕方で用いられえたというのである。

Delbrück のみならず、他方では Ludwig を評価しえた Benfey もまた、Ludwig の見解を斥けた。Delbrück は著作「Veda における不定詞」の詳細な書評(Kuhn 誌 XX〔1872〕S. 212–240)において、また著作「膠着か適応か」の紹介(同誌 XXI 381–384)において、Benfey は同じ著作の North British Review 1870 年・1871 年における書評(『小論集』I 295–305 に再録)においてである。Ludwig はその論争文「膠着か適応か」において自説を弁護したが、Benfey がそれを「まったく改竄なく」再現したことは認めている(S. 46 以下)。接尾辞

ya ないし ia についての、また呼格の成立についての Benfey の言語学的論文をも、彼は批判している(S. 118 以下)。より鋭く彼は Curtius(「インド・ゲルマン語研究の年代論に寄せて」)、Friedrich Müller、とりわけ Delbrück に向かった。「反撃」という表題のもとに彼は(S. 82 以下)、Kuhn 誌には掲載されなかった Delbrück の書評への反論を公にしている。ここにはまた彼の見解の短い総括もあり(S. 113 以下)、末尾になってようやく原理問題の明快な定式化がある。「接尾辞は、われわれがそこに見出す意味の本質的な担い手なのか、そしてその作用の初めからそうであったのか。それとも、それらは意味の偶然的な担い手にすぎず、時の経過のうちに、一度の、あるいはさらに複数の変転を経て、初めてその担い手となったのか」(S. 132)。

Delbrück は Ludwig の適応理論をもう一度その平静な仕方で批判的に論じている(その著作『言語研究入門』第 2 版 S. 66–70)。しかし一定の点においては学問の進歩がやはり Ludwig に理を与えた。τιμάω が本来「私は敬意をもって行く」を意味するという Curtius の想定、また希求法の標識 i のうちに語根 i「行く」を見るべきだという説(S. 72 以下)は、今日ではもはや信じられていない。言語学はますます音韻法則のうちに唯一の信頼しうる基礎を得た。法則に合わない音の切り縮めを想定する点では、Ludwig、Benfey、Delbrück は互いに非難しあうべきものをもたない。もっとも彼らは Bollensen ほど乱暴に語源を弄んだことはない。Delbrück はなお、第一人称を表す -e の前には m が、第三人称を表すそれの前には t があったという見解であった(Kuhn 誌 XX 238)。後に彼は音韻法則についての理論的考察によってより厳格になった。1880 年に初めて出た著作『言語研究入門』から知られるとおりである。Ludwig は接尾辞 reranrs から生じたと信じた(S. 117)、等々。

Ludwig のこの論争と怨恨——それは同学に対する個人的な攻撃としても発散した——は、注釈においても、すなわちその Ṛgveda 第 IV 巻・第 V 巻においても響いている。そこではまさに、彼の理論の基礎をなす多くの形態が論じられるべきであったからである。ここでも彼は「方法も目的もない言語学」について苦々しく語っている(V 586)。いくつかの箇所に彼は、Ṛgveda の説明と直接の関連をもたない事柄についてもより長い余論を挿入している。たとえば単数具格のリトアニア語語尾 -mi について(IV 396)、複数対格 -āns の起源について(V 448)などである。

解釈により深く介入するのが、āi という形態についての彼の理論であり、彼はしばしばこれを最初の屈折の端緒として出発点とする。この āi はサンスクリットにおいて ēī とに移行し(IV 145 以下)、その他の屈折的付加を被った。彼はこれを比較言語学的に、Bezzenberger への論駁を伴って論じている(IV 370 以下)。i の脱落によって aiā となった(V 150 以下)。多くの名詞語幹は本来 i 語幹であり、i を放棄することによって初めて子音語幹となった(V 251, 610)。

Ludwig がその種々の理論に基づいて Veda において可能とみなしたものは、注釈から取った次の諸例が示している。nṛvatīḥ(Ṛgv. VII 3, 8)は複数具格で °tyāiḥ に代わるもの、rukmaiḥ(Ṛgv. V 52, 6)は複数主格、stomāḥ(Ṛgv. I 11, 8)と gnāḥ(IV 51, 9)は複数具格、maham(Ṛgv. III 2, 3)と medhām(V 27, 4)は単数具格、somapāḥ(Ṛgv. III 49, 1)は単数処格、ibhyān(Ṛgv. I 65, 4)、aktūn(I 68, 1)、nṝn(VI 2, 11)、devān(X 12, 5)は複数属格、同じく vayunā(Ṛgv. IV 5, 13)、tanvā(X 56, 1)もそうであり、pataṅgān(Ṛgv. IV 4, 2)は

pataṅgāni に代わるもの、praśastiḥ(Ṛgv. VIII 6, 22)は praśastiṣu に、vacaḥ(VIII 63, 1)は vacasā に代わるものである。

devān のような形態が複数属格の意味で現れること、一定の条件のもとで格語尾が省略されること——たとえば navyasā vacaḥ(VI 48, 11)、triṣv ā rocane divaḥ(I 105, 5)において——は、Delbrück も認めていた。「Veda においては、格あるいは数の標識が名詞とそれに属する形容詞との双方にではなく、両語の一方にのみ表現されることがある」(Kuhn 誌 XX 219, 227, 225, 232)。Delbrück は繰り返し、こうした現象にはすでに Bollensen が注意を促していたことを強調している。Ludwig は自らの独創的研究を自負するあまり Bollensen を顧みなかったが、多くの点で彼のうちに精神的に近い研究者を見出したはずであった。

もっとも Bollensen と Delbrück が与えた説明も常に非の打ちどころのないものではなかった。たとえば nṛtamābhir ūtī(Ṛgv. VI 19, 10)において ūtīūtīs の誤記であり、これが「*ūtibhis、*ūtihis から」縮約されたとする説がそうである(同書 S. 229 以下)。Roth と Pischel もまた、Veda の格形態がしばしば二次的な短縮を被ったと考えていた。Roth は上記 S. 264 に挙げた講演において、Pischel は『Veda 研究』において(その索引参照)。Pischel は nṝn(Ṛgv. I 121, 13)を「韻律の都合で短縮された形態であり、あらゆる格を代表しうる」ものとみなしている(『Veda 研究』I 42)。これはほとんど Pāṇini のように、あるいは Ludwig のように聞こえる。ただ彼の言語発生論的分析という背景を欠いてはいるが。

動詞の領域における不定詞理論によって、Ludwig はとりわけわずかな賛同しか得なかった。-si の形態はたしかに主として二人称単数に限定されるようになったが、本来は不定詞であり、なお種々の人称の意味で現れる。satsivakṣiasi = astu(IV 341)。śroṣi(二人称単数命令法、Ṛgv. VI 4, 7)について彼はこう述べる。「それは古い不定詞形であり、同時にアオリストの語幹でもある」(IV 347)。同様に彼は darśi(Ṛgv. III 56, 2)のようなアオリスト形をこう解する。「それはアオリストではなく、屈折した形態でもない。したがって論理的に考える者は誰でも、そこに不定詞を見出さねばならない」(IV 202)。これは、彼が現在分詞 adatpibat(Ṛgv. X 37, 11)を不定詞と説明する場合(IV 133、V 47, 62)と同じく、認めがたい。彼にとってさらに不定詞であるのは mādayadhvampṛṇadhvam である(V 393, 608, 616)。

Ludwig の大著の第六巻にして最終巻はようやく 1888 年に出た。すなわち「典拠箇所索引、憶測一覧、語彙集、Rigveda のための事項的および文法的便覧」である。ここにわれわれは、Ludwig が Ṛgveda の理解のためにいかに広範に Veda 文献全体を引き入れたか、またいかに多くの重要な点について意見を述べたかを見る。彼が序文をそう呼んだ「結語」において、彼は自らの見解に対して提起された異論に答えている。すなわち Sāmaveda、カースト、日食、Veda の言語についてであり、この言語は「なお未固定の状態にあり、そこでは以前の時代の残滓が、一部はまだより鋭く規定された新形成によって完全には置き換えられておらず、一部はまだ最狭義の特殊化と用法の限定とによって、その過去から可能な限り疎遠にされてはいない」というのである。この種の現象を彼は最後の箇所 S. 240–265 にまとめている。これは Veda の言語の特徴づけにとって、またさらなる研究にとって価値ある集成であり、たとえ原理においても細部においても Ludwig と異なる意見をもつとしてもそうである。

Ṛgveda における日食については、Ludwig はすでにその注釈において指摘していた(V 100, 218, 468, 508)。これについて彼は 1885 年にボヘミア王立学術協会

の会議報告において特別の論文を発表したが、これは Whitney の批判とともにすでに上記 S. 358 で述べた。顧慮されるのは Ṛgv. V 33, 4、X 138, 3、IV 28, 2、V 40, 5–9 の諸箇所である。Ṛgv. V 40, 5–9 において明らかに日食が語られているとしても、この日食の天文学的計算、したがってこの賛歌の年代決定は、インド学者の仮説の上にのみ立っている。というのも、数世紀の経過のうちにインドで観測しうる日食は多数あったのであるから、インド学者が天文学者に、日食を求めるべき世紀を指定せねばならないからである。Ludwig は天文学者に前 1000 年頃という時期を与え、そこから天文学者は一方について前 1001 年、他方について前 1029 年を算出したのである。

Ludwig は生涯にわたり Veda 研究を続けた。1889 年と 1890 年にボヘミア王立学術協会論文集に二つの論文が現れた。一つは「Ṛgveda テキストの批判について」、もう一つは「Ṛgveda 解釈の方法について」である。前者において彼は Oldenberg の『Prolegomena』に言及し、後者において Pischel と Geldner の『Veda 研究』と対決している。

前者において彼は、他の Veda、とりわけ SāmavedaAtharvaveda の異読が、われわれが Śākala 系 recension において所有する Ṛgveda のテキストに対してもつ価値を論じている。それらは別の伝承に基づくが、より良いものか、より悪いものかは研究を要する。さほど重要なものは出てこない。Ludwig はより重要な異読の数を約 600 と算定している。第 I 部 S. 9–20 において彼は Ṛgveda が正しい読みをもつ諸事例を、第 II 部 S. 20–57 において他の Veda の読みが優先されるべき諸事例を扱っている。彼は相違を分類しようと試みており、いくつかは文字にその源をもつように見える(S. 50)。Oldenberg が扱った他の個々の点にも彼は立ち入っている。

Ludwig はここですでに Bezzenberger と Hirt に先立って、韻律的に二音節を代表する長母音について次のように述べている。「せいぜい、これらの長音が上昇アクセントを伴って a Ā と発音されたが、しかし常に連続した母音としてであったという想定に、人は同意しうるであろう」(S. 59)。

第二論文の意義は、Ludwig が他のいかなる学者よりも詳細に Pischel と Geldner の方法と成果とに加えた批判に存する。同時に彼は、Pischel が要求した多面的な仕方で Ṛgveda の解釈にすでに取り組んでいたという自らの功績を主張している。言語的諸問題を Ludwig は Roth や Pischel より深く捉えていた。

第 I 部「Veda の文法的諸形態」において彼は、文法から逸脱する Veda の諸形態を理解するためには、機械的短縮あるいは詩的許容という要因では済まないことを示そうとする。その説明を彼は言語史から与えようとする。その理論は、多くの注目すべき思想を含むにもかかわらず、今日なお一般の承認を得ていない。正しく彼が見たのは、たとえば三人称複数の語尾 "us" が ant から生じたのではなく、ur として語尾 rareirerire に属することであり、これは Windisch その他に先立つ。もっともその r を彼はやはり s から生じたものとしている。これらの形態が本来「屈折しない分詞」であり、それゆえいかなる主語にも接続しえた(S. 15)という説は、せいぜい真理の一部を含むにすぎまい。

第 II 部において Ludwig は、困難な語からその意味を引き出すという Pischel の方法を扱っている。

これが Pischel と Geldner において Ludwig よりも良く成功したことがさほど多くなかったとしても、Pischel の試みにおける方法的なものは認められねばならない。Ludwig は śurudhcarkṛṣevṛjananirekairmāvayuna などを取り上げている。

Veda 時代についての第 III 部においては、Geldner が扱った賛歌 Ṛgv. X 91, 1 以下(Purūravas と Urvaśī)が大きな紙幅を占めており、Ludwig はこれについて新しい翻訳を与えている。Veda 時代における遊女制度の強い発達についての Pischel の見解を、Ludwig が斥けているのは正当である(S. 45)。

Veda のほかに、Ludwig は Mahābhārata にも立ち入った研究を捧げており、そのことは彼の論考「Mahābhārata の歴史的基盤に対する神話的要素の関係について」が証している。これはボヘミア王立学術協会論集、Prag 1884 に収められている。彼はここでもまた、先史的事柄について推測を好む傾向を示している。Lassen による Mahābhārata の素朴に歴史主義的な利用には、1883年に公刊された Mahābhārata についての学位論文における Soerensen と同様、彼も賛同しなかった。古い民族関係については、そのほかにただ Oldenberg の『Buddha』初版中の補論に言及するのみであるが、Kuru と Pañcāla との融合はより後代のことと見なしている(S. 5)。Mahābhārata の大戦争とは、Bharata 族が Kuru 族から Kurukṣetra を奪い取った戦いである(S. 6)。Pāṇḍu は五人の Pāṇḍava の作り出された父であり、彼らは兄弟ではなく、異なる諸部族の代表者であった。この古い歴史的素材の上に、夏と冬との神話的戦いが重ね合わされたのである。五人の Pāṇḍava は五つの季節であり、Pāṇḍu すなわち色あせ去った過去の太陽の息子たちである。Duryodhana は打ち克ちがたい冬であり、盲目の Dhṛtarāṣṭra すなわち雲に覆われた冬の太陽の息子である(S. 14)。この解釈を信ずるに足るものとするためには、もっと確実な手がかりが存在しなければならないであろう。Holtzmann は本来の叙事詩を復元しうると考えた。Ludwig は Holtzmann に言及しないが、叙事詩の最古の姿について推測を試みることは実りがないと見ている(S. 17)。

§第 LIV 章 FR. BOLLENSEN

Benfey と同年輩の者として、なおドイツにおけるサンスクリット文献学の古参に属するのが Friedrich Bollensen である。1809年 Göttingen 近郊 Roßdorf に生まれ、1896年に没した。W. Neisser は個人的な交友にもとづき、Bezzenberger の Beiträge XXIV 173–176 に共感のこもった追悼文を捧げている。Bollensen は Göttingen で神学を学び、Ewald によってサンスクリットに導かれた。家庭教師の職を得てロシアに赴いた。まだ若年のうちに、1834年末には Gatschina の帝立孤児教育院のドイツ語主任教師に任ぜられた。その後長らく Petersburg 大学の助教授であった。彼の Urvaśī 校訂本の扉において、1846年に彼は自らを「教育本院助教授」と称している。1852年には Kasan にサンスクリット正教授として招聘されたが、1856年にはドイツに帰り、長年 Werra 河畔 Witzenhausen に、最後には Wiesbaden に住んだ。戯曲の校訂者としては、Bollensen は Lenz に連なる。Lenz の文献的遺稿を、彼は Kālidāsa の Urvaśī の改良版のために

Petersburg で見出したのである。Vikramorvaśī の校訂本(上、第I巻 S. 144 参照)が Bollensen の主著である。Böhtlingk の推薦により — 彼はそのことに謝意を表している — 「帝立科学アカデミーの指令によって印刷され」、St. Petersburg 1846 に刊行された。本文の後には大部の「注解」とドイツ語訳が続く。Bollensen の批判的才能は、とりわけ Prākṛt の取り扱いに現れており、そのために彼は Lassen の Institutiones Pracriticae を用いることができた。第四幕の Apabhraṃśa については、Prākṛt-Piṅgala に手がかりを見出した。この書について Lenz は「一写本の写しと、さらに三写本および二注釈との対校」を遺していた(S. IX)。これらの Apabhraṃśa 歌謡とその韻律に、注解の後の長大な「付録」S. 507–606 が当てられている。彼はここで、自らの理論の出発点となった Prākṛt-Piṅgala の該当諸規則を伝えている。Prākṛt 韻律学においては Colebrooke(上、第I巻 S. 32 参照)のみを先行者としてもち、これをときおり引用している。Prākṛt 韻律のあらゆる特異性にもかかわらず、彼はそれをサンスクリット韻律から発展させようとする。本質的な特徴は音楽的朗唱と押韻である(S. 559)。音楽・歌唱・舞踊・所作に関わる表現については、Saṅgītaratnākara の不完全な写本しか手もとになく、それを Raṅganātha の Urvaśī 注釈の記述によって補った。これらの補助手段では、彼は音楽的素養を備えていたにもかかわらず、インド音楽の本質と細部により深く立ち入ることはできなかった(S. 510)。とはいえ、この方面においてインド戯曲の校訂者として Bollensen 以上の成果を挙げた者は、今日までヨーロッパにはいない。

第二の戯曲すなわち Mālavikāgnimitram の校訂に、彼が30年以上も後になって着手したのは、Stenzler がそのために Tullberg の遺稿を提供してくれたからであった。すなわち「Mālavikāgnimitraṃ、すなわち Malavika と Agnimitra。Kalidasa の五幕の戯曲。批判的および解説的注解を付して Friedrich Bollensen が校訂。ドイツ東洋学会の費用にて印行」、Leipzig 1879 である。Tullberg の遺稿だけでは彼は何もなしえなかった。そこへ1869年に Bombay で Shankar P. Pandit の校訂本が、1870年に Calcutta で Pandit Taranatha Tarkavacaspati の校訂本が現れた。後者と、Fitz-Edward Hall から得た二写本、および Oxford の諸写本とが彼の校訂本の基礎とされ、彼はこれを Stenzler と Hall に献呈した。Oxford の写本は Pischel が英国滞在の折に彼のために対校した。この戯曲についても同様に種々の伝本系統を区別しうるが、その隔たりは Śakuntalā の場合ほど大きくはない。序文 S. VII 以下で彼は Śaurasenī の形態を論じている。Stenzler と Pischel にもかかわらず、Bollensen は Bengal 系写本が他に優ると確信することはできなかった。彼は Calcutta 版と「北インド系」写本に依拠した。南インド系写本には Kāṭayavema の注釈が属し、彼はそこから報告を行っている。Bollensen は「Kālidāsa の Mālavikāgnimitra の本文批判と解釈のために」第一部、Dr. F. Haag 著という「すぐれた著作」を利用し、Haag は手稿のままの第二部をも自由な利用に委ねてくれた。序文で彼はまた ch についての自説を述べており、これには彼の Veda 関係の諸研究においてくり返し立ち返っている。大部の注解は異読を提供し、あわせて本文解釈のための事項的注記をも含んでいる。

たとえば S. 144 の観劇堂についての注がそれである。Bollensen が校訂したこの第二の戯曲には Prākṛt の詩節が一つしか含まれていないのに対し、Śakuntalā には9、Urvaśī にはじつに31ある。ここから彼は、Mālavikāgnimitra が三戯曲のうち最も早いものだと結論する(S. 150)。

Vikramorvaśī 校訂本に収められた韻律研究によって、Bollensen の学問的活動全体が統一的な性格を得ている。というのも、Ṛgveda においても彼の仕事は主として本文の言語的・韻律的側面に関わるからである。彼の目標は、伝承された Saṃhitā において不明瞭になっている詩節の韻律と語の本来の形を復元することであった。この方向で彼は体系的かつ大胆に改変を加えて進み、まったく独自に、他の学者たちにあまり頓着せず、自らの蒐集と観察に依拠した。ただ Benfey のみがしばしば引用されている。1864年、Benfey の雑誌『Orient und Occident』II 457–485 における最初の研究「Veda の復元に寄せて」と、語根 bhar「叫ぶ、歓呼する、呼ぶ」および uloká, loká についての小論(ZDMG. XVIII 601–608)の後、1868年には Ṛgv. I 65–73 の讃歌についての大論考「Parāśara の歌」が ZDMG. XXII 569–653 に現れた。Prātiśākhya を基礎として出発し、彼は韻律を一定の連関のもとに考察し、一方を他方から導き出す。Parāśara の歌における Dvipadā Virāj についての彼の判断は確かに当を得ている。解釈に際しては Benfey の翻訳を用いたが、しばしばそれから離れる。韻律の要請に応じて、彼は pāda ないし「Stollen〔詩脚の一区分〕」の内部および末尾で sandhi を解消した。Anusvāra はいたるところで本来の鼻音に置き換え、visarga は Stollen の末尾でのみ許容した。短母音の後の語末 nn には nt を置いた(śriṇánt, úpa sthāt I 68, 1)。彼は確信をもって語順の転倒を行い(たとえば I 66, 1、S. 578 参照)、また本文に推定改訂を施す。もっとも一般には I 66, 3–5 の三詩節ほど頻繁ではない。そこでは伝承された文言を六箇所で改めており、なかでも第3詩節の durókaḥurokā-śociḥ とするのはとりわけ不要である。Bollensen の語源説はきわめてひどい。彼は音韻法則の厳密な遵守以前の時代に属していた。たとえば S. 603 で svàr, sūnára, Váruṇa, Āditya を語根 vas に帰し、S. 607 では自説の語根 bhar「響く」を bar(ラテン語 baritus、ZDMG. XLV 215)を経て var に、最終的には gar に帰し、S. 612 では Marútgmarut に帰している。より価値があるのは、ran, ram に終わる動詞形の蒐集(S. 598)、祈願法(prekative)の蒐集(S. 594)、am に終わる不定詞形(yamam)の蒐集(S. 621)であり、後者では不定詞の格支配の扱いを伴っている。文法形式の理解においては、彼は時に Ludwig の見解に近づく。たとえば S. 606 の a, i, u 語幹の単数処格・具格に関する部分がそうであり、S. 617 以下も参照。六つの付録が順に、「Nunation」、Avagraha の用法と意味、augment(a-, ā-)と小辞 sma, smā、語末の ar、語末の as と visarga、両数について論じている。Nunation とは、彼は母音接続(hiatus)を除くために語末母音の上に anunāsika を置くことと解した。Avagraha は省略記号ではなく融合記号である(S. 625)。小辞 sma, smā は augment を核として含むはずであり、「sm は衣装にすぎない」(S. 626)。もっとも Ṛgveda においてはそれはまだ現在形を過去形に変えるものではない。visarga は休止においてのみ存続することを認めるが、それは「s の消失を示す内容空虚な記号」としてである(S. 632)。Bollensen の見解には誤ったものも少なくないが、それでも彼は

自ら扱った諸問題について豊富な資料を集めており、また Ṛgveda の本文に、先入見なき、ただしばしば大胆に過ぎる批判をもって取り組んだ最初期の人々に属している。

論考「Veda 韻律学に寄せて」(ZDMG. XXXV(1881)448–455)において、彼は Svarāj と Bhurij、Virāj と Nicṛt、すなわち Prātiśākhya のいう音節超過および音節不足の詩節を除去しようとする。Anukramaṇī のいう Virāj は、本来は一ないし二音節を減じた pāda ではなく、一ないし二肢を減じた詩節そのものを指す(S. 449)。しかし Bollensen の理論によれば二 pāda からなる詩節が原型の詩節であるから、ここでは減少ではなく増加が問題になるはずである。同誌 S. 456–472 に続く論考「Ṛg-Veda と Sāmaveda のアクセント体系」において、Bollensen は Sāmaveda のより複雑なアクセントが Ṛgveda のそれから生じたことを示している。ギリシア語のアクセントとサンスクリットのそれとの相違については、彼はすでに Kuhn の雑誌 XIII 202–207 で指摘していた。ギリシア語の動詞アクセントについては、のちに(1877年)Wackernagel が同誌 XXIII 457–470 に有名な論考を書いた。

晩年、Bollensen は眼疾のためあらゆる仕事を妨げられた。おそらくそのために、彼がそれ以上多くを公刊しなかったことも説明がつく。最後の諸研究は「Veda 批判への寄与」という表題のもとに1887年、1891年、1893年に現れた(ZDMG. XLI 494–507、XLV 204–220、XLVII 583–594)。第一のものでは、「大気圏」の意味の pṛthivīanās(Ludwig によれば a-nās、Roth によれば an-ās)と Ṛgv. V 29, 10 の mṛdhravāc、Aśvinā(明けの明星と宵の明星)とその形容辞 dhiṣṇyā、さらに Ṛgv. VI 61, 13 とそこの語 apás「流れる」、A. Kuhn、Grassmann らとともに彼が想定した語 uloka(伝承では u loka)、神々 Mitra, Varuṇa, Aryaman, Indra を扱っている。彼の語源説はここでも誤っている。Mitrasmi「明るくある、輝く」に結びつけ、本来「日光」を意味するという Varuṇavar = vas に結びつけ(「語根 3 var と 2 vas とは幾重にも交差する」S. 504)、Indraindh に結びつける。Indra が宗教的関係において国民神であるのに対し、彼は Aryaman を本来の Deus Aricus と見なし、Ṛgv. VII 64, 3 の devá aryáḥ を Aryaman と解するのは正当である。

「Veda 批判への寄与」第 II(ZDMG. XLV(1891)204 以下)において、Bollensen は主として「Gotama 族の古い家長の歌」すなわち Ṛgv. I 88 の検討に従事している。この歌の韻律を Grassmann は放縦なものと呼び、その意味を混乱したものと評していた。Bollensen は Benfey の訳に加えて、いまや Ludwig、Grassmann、Max Müller の訳をも参照するが、これらは互いに大きく食い違っている。最後の者の『Hymns to the Maruts』を彼はとりわけ高く評価した。Bollensen は自らの推定改訂によって読解可能な本文を作り出したが、それが本来のものであるかは大いに疑問である。彼はここで S. 207 にもう一度自らの韻律理論を述べている。「Gāyatrī-Stollen すなわち八音節の Stollen からあらゆる Veda 韻律が発展する。二つの律動単位ないし詩脚が一つの Stollen をなすように、少なくとも二つの Stollen が一つの詩節の形成に属し、したがって基本詩節は dvipadā である」。四音節の脚を加えることによって十二音節の Stollen が生じ、同等の Stollen を加えることによって Gāyatrī が生じる。これにさらに同等の Stollen — Anuṣṭubh すなわち「後 Stollen」と呼ばれた — が加わって、全体の

韻律に名を与えた。十二音節の Stollen は「Gāyatrī-Stollen の押韻」を保持したが、Triṣṭubh-Stollen はこれを ⏑ – – に縮め、また Stollen の切れ目すなわち caesura をもそれ以前に置いた。

「Veda 批判への寄与」第 III(ZDMG. XLVII(1893)S. 583–594)において、Bollensen は最後にもう一度、とりわけ visarga、avagraha、anunāsika、アクセント等についての自らの言語理論に立ち返り、そのうえで Ṛgveda の多くの難所を、大胆な解釈または伝承形の改変によって癒そうと試みている。彼は時に Pischel および Ludwig と触れ合うが(S. 588)、Oldenberg は『Prolegomena』においてより慎重である。連続 cch を彼は Ṛgveda から追放しようとする(S. 584)。なぜなら chśc の融合と解され、すでに二重子音を表すからである。口蓋帯気音 chjh は Veda にはそもそも存在しないという。そこから彼の目を引く転写 gaśati(gacchati の代わり)、ścand(chand の代わり)等が生ずる。cch は不要であり、短母音の後の ch が二重子音の記号として十分であるということは、Aufrecht の見解でもあった。ch の価値について、Bollensen はすでに Mālavikāgnimitra 校訂本の序文で写本にもとづき述べていた。彼の好んだもう一つの主題は「ai に終わる古い与格形」である(S. 586)。そこから āya に終わる通常の与格形が小辞 am の付加によって生じたはずだという。m の消失については tubhyatubhyam を比較せよ。第十 Maṇḍala の絶対分詞接尾辞 tvāya(bhaktvāya 等)においては、二つの絶対分詞接尾辞 tvāya が結合されており、この ya もまた彼によって am に帰される。āya から短縮された ā に終わる与格(たとえば dānā)という Pischel の説を彼は認めず、Ṛgv. IX 7, 7 の raṇā という形については、Ludwig — 「あらゆる古体形における大家」 — が raṇati の人称接尾辞なき不定動詞語幹と説明してくれた、という(S. 588)。これに対して、m を失った ā に終わる複数属格は存在するという。ān, īn, ūn, ṝn に終わる複数属格は詩人自身の誤解にもとづき、tavai に終わる不定詞の二つのアクセント(たとえば étavaí u)は、aiāi に分けるべきことを示す標識の誤解にもとづくという(S. 590)。a, i, u, ṛ 語幹の複数対格は ānt, īnt, ūnt, ṝnt に終わるはずだという(S. 594)。Ṛgveda の諸困難との Bollensen の格闘はつねに教えるところが多い。もっとも、彼にはしばしば従いえないのであるが。

§第 LV 章 より古いスイスの学者たち

以下に述べる三人のスイス人学者、Rieu、Trithen、Haag は、サンスクリット文献学において新たな道を開いたわけではない。彼らは、のちの Brunnhofer と同様、ドイツで学び、またその後の生涯の少なくとも数年を外国で過ごした。Bollensen の Vikramorvaśī 校訂本が1846年に出た翌年、「Hemakandra の Abhidhānakintāmaṇi、体系的に配列された同義語辞典。Otto Böhtlingk および Charles Rieu により校訂・翻訳・注解」、St. Petersburg 1847 が現れた。この土着の kośa は Böhtlingk の辞典の名詞部分の基礎となった。Böhtlingk が不備な Calcutta 版に苦労していたころ、Rieu は London でこの kośa を Hemacandra 自身の注釈とともに新たに校訂する計画を立て、その目的のため Böhtlingk と手を組んだ。したがって発意は Rieu から出たのである。Rieu は最後まで関与し続けたわけではないが、彼は

写本を筆写し対校したのであり、Böhtlingk が編集・翻訳・解説を行ったことは、序文で彼自身が述べているとおりである。Weber の批評『Ind. Streifen』II S. 4 以下を参照。序文の末尾には Böhtlingk の次の言葉がある。「私は、この新版が多くの人々に役立つであろうと確信している。ただ一人、サンスクリット研究においてけっしてより純粋な源泉に立ち返るまいと固く決意しているらしい者だけは、自分自身の不利益と、彼の著作を利用するすべての人々の不利益とにおいて、従来どおりこの分野に現れるすべてのものを傍らに措いておくであろう」。この言葉は Bopp を指している。事態はそれほど悪くはならず、彼の誤りは訂正された。Bopp がインドの苦行者のごとく自らの比較的方法という samādhi に沈潜していなかったならば、おそらくあれほど偉大な成果を挙げることはできなかったであろう。しかし Rieu の功績としては、ヨーロッパにおいて早くも Hemacandra の有用な著作の校訂版を促し、可能にしたことが認められねばならない。もっとも Rieu の主要な意義は、アラビア語・ペルシア語・トルコ語の領域にあった。Charles Rieu は1820年 Genf に生まれ、1902年に没した。Bonn で学んだので、サンスクリットにおいては Lassen の弟子であった。Petersburg に赴いて Böhtlingk と親交を結び、1847年に London に移った。ここで大英博物館に職を得、東洋写本の司書となり、アラビア語・ペルシア語・トルコ語写本目録を著し、最後には Cambridge の Adams Professor of Arabic となった。この教授職における後任者 Edward G. Browne が、JRAS. 1902 S. 718 以下に温かい追悼文を捧げている。

Roth はかつて Rieu およびもう一人のスイス人 Trithen — 当時彼は英国に赴いていた — とともに、Sāyaṇa の注釈を伴う Ṛgveda を London で刊行しようとした(上 S. 256 参照)。これは実現しなかった。Max Müller がこの事業を引き受けたからである。Franz Heinrich Trithen は Rieu と同じく1820年にスイスで生まれたが、父が移り住んだ Odessa で育った。息子は1838年から1840年にかけて Berlin で Bopp らのもとに学び、それから英国に渡って Rugby で近代語教師となり、また大英博物館に勤めた。その後しばらくロシアの陸軍大臣のもとで家庭教師を務め、Konstantinopel と Kairo に滞在し、ふたたび英国に戻った。そこで Oxford の Taylor Institution の近代語教授となった。彼はまた講義を、インド・ゲルマン諸語のなかにおけるスラヴ諸語の位置についての講演をもって開始した。これは Philological Society の Transactions 1848 に印刷されている。しかし1850年に精神を病み、1854年に没した¹⁾。

Trithen のサンスクリットにおける功績は一戯曲の校訂に限られている。すなわち「The Mahā Vīra Charita, or the History of Rāma, a Sanskrit Play by Bhaṭṭa Bhavabhūti. Edited by Francis Henry Trithen」、London 1848 である。これはこの戯曲の初版であり、三写本 — London の二写本(East-India House 所蔵)と Oxford の一写本 — にもとづき、Bollensen の Vikramorvaśī の二年後に出た。Trithen が短い「Advertisement」の末尾に述べているように、彼の書の主要な動機は「これまでヨーロッパまたはインドで印刷されたサンスクリット戯曲が乏しいこと」であり、また彼はある高名な詩人の未公刊の唯一の作品を印刷することを、

¹⁾ Trithen についての記述は Biographie universelle に、また La Rousse, Grand Dictionnaire universel du XIX. siècle にも見出される。

ヨーロッパで既に流布している戯曲の新版を出すよりも好んだのである。Prākṛt においては彼は、写本の一致を Vararuci の規則に従って訂正することを拒んだ。「なぜならそれは、ある時代の言語を別の時代に属する文法家の規則によって訂正することになるからである」。異読・翻訳等を含む第二部は刊行されなかった。

Haag のサンスクリット研究もまたインド戯曲に向けられていた。Friedrich Haag¹⁾ は1846年 Diessenhofen(Thurgau 州)に生まれ、1914年に没した。Zürich、Göttingen、Berlin に学び、1869年に Zürich で「Prākṛt とロマンス諸語との比較」という論文により学位を得た。彼はこれを自らの師、Zürich の言語学者 Schweizer-Sidler に献じた。Schweizer-Sidler には Kuhn の雑誌でしばしば出会うが、彼自身はサンスクリットにおいては Śakuntalā の訳者 Hirzel の弟子であった。Frauenfeld の州立学校の教師をしていた Haag は、1873年に Zürich でサンスクリットの教授資格を得たが、1873年から1878年までロシアで教師を務め、その後スイスに戻って、1878年から1884年まで Schaffhausen から Zürich に通ってスラヴ語、とくにロシア語について講じた。それから Burgdorf に赴き、そこから古典文献学(古典語文法を含む)の教授として Bern に招かれた。そこでは E. Müller-Hess と並んでもはやサンスクリットの講義は行わず、後年の仕事はラテン語教育と Bern の学校史に関わるものである。より早い時期のものとして二つのプログラム論文がある。「Mālavikāgnimitra の本文批判と解釈に寄せて」、Frauenfeld 1872(A. Weber による批評『Ind. Streifen』III S. 126 以下を参照)と「Viśākhadatta の Mudrārākṣasa に寄せて」、Burgdorf 1886 である。

§第 LVI 章 C. CAPPELLER。J. GRILL

学者たちを群に分けようとするならば、右の二人は一括することができる。というのも、彼らは同じ年に生まれ、両者ともより年長の大家と密接な関係をもち — Cappeller は Böhtlingk と、Grill は Roth と — さらに両者ともインド戯曲を入念な校訂によってドイツに定着させることに寄与したからである。英国の学者もフランスの学者も、この文献学的方向においてドイツの学者ほど活動的ではなかった。もっとも Wilson はその『Hindu Theatre』によって最初の概観を、Sylvain Lévi はその『Théâtre Indien』によって、この魅力ある文学ジャンルのより完全な叙述を与えている。

Carl Cappeller は1840年、東プロイセンの Alexkehmen に生まれた。1860年から1864年まで Berlin でまず古典文献学を、次いで Bopp と Weber のもとでサンスクリットを学んだ。後者からの示唆は、学位論文「Observationes ad Kalidasae Malavikagnimitram」(Königsberg 1868)に現れている。これによって1868年に Leipzig で学位を得た。1872年に Jena で教授資格を得、1875年以来同地でサンスクリット員外教授として、Delbrück と並んで文献学的側面を代表している。教授資格論文「Die Gaṇachandas、インド韻律学への寄与」において、彼はこの韻律の1000詩節についての統計的研究の成果を伝えた。そのうち Āryā 詩節が最も

¹⁾ Haag についてのより詳しい記述は Schwyzer 教授の御教示による。

よく知られている。基礎をなしたのは、Weber が『Indische Studien』第 VIII 巻にまとめたインド国民韻律学者の諸規則、およびそれに加えて Bollensen の Vikramorvaśī 校訂本における諸研究、Colebrooke の論文「サンスクリットおよび Prākṛt 詩について」、かつて多く用いられた Ch. Ph. Brown の小著「Sanskrit prosody and numerical symbols explained」(London 1869)等である。詩例は Böhtlingk の『Indische Sprüche』、諸戯曲、Varāhamihira の Bṛhatsaṃhitā、Hāla の Saptaśataka から採った。次いで彼は Böhtlingk の Chrestomathie の第二版(および第三版)を、戯曲 Ratnāvalī の完全な校訂によって豊かにした。Bopp 奨学金により、彼は古いインド版に加えて Paris、London、Oxford にある写本を対校することができた。本文の作成にあたっては折衷的に処理し、種々の伝本系統が存在するとは見なさなかった。英国で彼は Pischel と会い、Pischel は Vāmana の Kāvyālaṃkāravṛtti の Paris・London・Oxford 写本にもとづく刊行を彼に譲った。この重要な著作は二部に分かれて刊行された。「Vāmana の詩論書、初めて刊行さる」(Jena 1875)と「Vāmana の文体規則、C. Cappeller 訳注」(Straßburg 1880)である。彼は当時なお Jena に住んでいた Böhtlingk の助力に謝意を表しており、本文の校訂は A. Weber に献じられている。著者が Kāśikāvṛtti の Vāmana と同一人物であるかという問題に、Cappeller は確言をもって答えない。「したがって私の結論は、われわれの Vāmana は、両者をともに1000年ごろに置くならば、Kāśikāvṛtti の著者と同時代人でありえた、しかしおそらく別人であった、というものであろう」(改訂版序文 S. VII)。Cappeller が翻訳したのは、文法的内容をもつ第五すなわち最終の adhikaraṇa のみである。ずっと後になってインドで「Vamana Kavyalaṃkara Sutravṛtti, Vagbhaṭa Alaṃkara and Sarasvati Kaṇṭhabharaṇa, ed. by Anundoram Borooah」、London および Calcutta 1883 が現れた。

Böhtlingk に献じられた、Oxford の二写本にもとづく第三の戯曲の校訂もまた editio princeps であった。すなわち「Pracaṇḍapāṇḍava。Rājaśekhara の戯曲」、Straßburg 1885 である。Rājaśekhara の時代と作品については、当時 Pischel が Gött. gel. Anzeigen 1883, S. 1120 以下に論文を書いており、Cappeller はこれに促されてこの校訂を行い、また年代決定 — 紀元1000年ごろ — においても彼に従っている。重要な記述を含む序詞によれば、この戯曲の本来の名は Bālabhārata であり、Bālarāmāyaṇa と対をなすものであろう。それは二幕(aṅka)からなるのみであり、その他の点でも未完成の印象を与えうる。しかし Cappeller は「詩人が今回は自らを制限して、叙事詩からいくつかの場面のみを戯曲化しようとした」ことのほうがありそうだと考えている(序文 S. VIII)。

サンスクリットの学習は、廉価な「Sanskrit-Wörterbuch nach den Petersburger Wörterbüchern bearbeitet von Carl Cappeller」(Straßburg 1887、Böhtlingk と Roth に献ず)によって本質的に促進された。これは第一義的には Böhtlingk の Chrestomathie 第二版のために意図されたものであるが、初学者に適した他の諸テキストをも顧慮している。この範囲はさらに広げられて、Whitney に献じられた英語版「A Sanskrit-English Dictionary」(Straßburg 1891)となった。この際、彼は Lanman から助言と実際的援助を受けた。この著作はドイツとアメリカの学者の協働の時代に属する。すなわち Whitney の文法がドイツ語に、Cappeller の辞典が英語に

翻訳されたのである。英国ではとくに Monier-Williams の「A Sanskrit-English Dictionary」が用いられたが、その第二版は Cappeller が Leumann と共同で作成した(Oxford 1899)。

インド戯曲の分野における Cappeller の仕事はなお終わっていなかった。彼はとりわけ prahasana すなわちインドの笑劇についてのわれわれの知識を、Dhūrtasamāgama と Hāsyārṇava の自筆石版による校訂本(批判的注記を伴う、Jena 1883)によって促進した。前者はすでに Lassen の Chrestomathie で入手可能であった。この種のさらに二篇を、彼は A. Weber に献ぜられた『Gurupūjākaumudī』(Leipzig 1895)において分析により広く知らしめた。表題は「二つの prahasana」であり、Kautukasarvasva と Kautukaratnākara である。のちに彼は、ヨーロッパにおけるサンスクリット文献学の最初期から Chézy と Böhtlingk によって知られていた最も美しい戯曲を刊行した。すなわち「Kālidāsa の Śakuntalā(短縮本文形)、批判的および解説的注解を付す」、Leipzig 1909 である。彼は Böhtlingk の校訂本の第二版を引き受けたのであったが、そこから新しい著作が生まれた。それは「1908年12月26日に没した Richard Pischel の記憶に」献ぜられており、彼は後記においても Pischel に賛辞を捧げている。Cappeller は本文が時代を経て取った四つの主要形態、すなわち Devanāgarī、Kaschmir、Bengal、南インドの各伝本を区別し、また主として第一のものを優先させるが、可能なかぎり本来の本文を復元しようとする折衷的方法を貫いている。これについては見解が分かれうるであろう。序論で Cappeller は新しいインドの諸版を挙げている。新たに発見された Rāghavabhaṭṭa の注釈は、Godabole-Paraba による同戯曲の第二版(Bombay 1891)において利用した。主として解説的な注解に含まれる異読は先行者の著作に由来する。Cappeller 自身が対校した写本は二つのみであり、初めて用いられたのは Leipzig の一写本だけである。Kaschmir 写本の本文は「Śakuntalā 批判に大いに功績のある Burkhard」の版から知り、南インド写本の読みは T. Foulkes の版(Madras 1904)および Vivāsācārya の注釈をも含む古い版(Madras 1874)から得た(S. XVIII 以下)。詩人たちが Prākṛt についてサンスクリットの場合のような確たる規則を念頭に置いていたとは信じないものの、彼は方言的箇所をできるだけ文法に従って規格化しようと努めた。彼は Bloch の著作「Vararuci und Hemacandra」に言及している(S. XVII)。chāyā は、Ratnāvalī の場合と同様、Prākṛt 語索引で置き換えた。Böhtlingk による同戯曲の翻訳は再録されていない。最後に彼は「ある医学的サンスクリット戯曲」という表題のもとに、E. Windisch 記念論集において、Kāvyamālā 1891 に公刊された Jīvānandana の分析を発表した(Leipzig 1914)。この作品では「人間の生 — ここでは王 Jīva として表される — が、その都市(すなわち身体)において、Yakṣman(肺病)に率いられた病の軍勢に包囲されるが、神々の恩寵によって得た薬によってこれを首尾よく防ぐ」さまが描かれている。O. Böhtlingk 記念論集には「Mṛcchakaṭikā に寄せて」(Stuttgart 1888)、H. Kern のそれには「Vallabhadeva の Subhāṣitāvali に関する所見」(Leiden 1913)、E. Kuhn のそれには「Māgha の Śiśupālavadha からの引用」(Breslau 1916)を寄せている。最も近年のものとしては、なお二つの著作がインドの kāvya に関わる。すなわち「Bhāravi の

Poem Kirātārjunīya, translated and explained」(Harvard Oriental Series、Cambridge Mass. 1912)と「Bālamāgha、Māgha の Śiśupālavadha の抄録」(Stuttgart 1915)である。Cappeller がサンスクリットを言語としていかに卓越して駆使したかは、ドイツ詩人の言葉やギリシアの詩節をサンスクリットで再現したことに現れている。すなわち「Subhāṣitamālikā、ドイツ詩人の箴言をサンスクリットで模作した選集」(Jena 1902、Ind. Antiquary Vol. XXXII、1903年7月にも)と「Yavanaśatakam、ギリシアの詩人にならった100のサンスクリット詩節」(Jena 1903、Ind. Antiquary Vol. XXXIV、1905年2月)である。Cappeller による Max Müller の『India, what can it teach us』の翻訳、表題「世界史的地位におけるインド」については、すでに上 S. 293 で言及した。

Cappeller が Böhtlingk に対してそうであったように、ヴュルテンベルクの神学者 Grill は Roth に対して敬愛の関係に立っていた。Bollensen と同じく彼は Veda と戯曲の両分野で仕事をしたが、より掘り下げは浅い。東方について多方面の知識を備え、彼はまた神学的・宗教史的著作をも公刊しており、そのうち一つについては後に述べることになる。Julius Grill は1840年に生まれ、Tübingen で復習教師、Calw で教区長、Maulbronn の神学校教授を務め、1888年以来 Tübingen で旧約聖書釈義の教授であり、現在は退職している。サンスクリットにおいて彼は自ら Roth の弟子と称している。この分野における彼の主著は、Böhtlingk、Hall、Roth に献ぜられたインド戯曲の校訂版である。すなわち「Veṇīsaṃhāra:王妃の名誉回復。Bhaṭṭa Nārāyaṇa による六幕の戯曲」、Leipzig 1871 である。この戯曲の素材は Mahābhārata の主要説話から採られている。インド戯曲を批判的に刊行することは、なお主要な課題と見なされていた。Grill は Lenz に連なり(上、第I巻 S. 144 参照)、St. Petersburg の帝立アカデミーに保管されていた Lenz の遺稿には、この戯曲の諸写本の対校が含まれていた。しかしそれは校訂には不十分であった。Grill は Paris で一写本を筆写し、Hall から二写本を、Rost を介して London の諸写本を得た。さらにインドで刊行された石版本と諸版を利用した。これらの補助資料について、彼は序文と序論で非常に詳細に報告している。ここでも写本は種々の伝本系統に分かれ、北インド系が一般に本来の本文に最も近く、Bengal 系は — もっともここでは本来の nāndī を保っているが — 一般に優れているとはいえず、南インド系は独自の位置を占めている。もっとも諸伝本の相違はさほど大きくはない。注解には豊富な異読が与えられている。序論は、写本と刊本について述べたほか、まず第一に戯曲の作者を論じ、既知の記述をやや煩瑣に検討しているが、Lassen その他の先行者を本質的に越えるものではない。Grill もまた(S. XV)詩人 Mṛgarājalakṣma-Bhaṭṭa-Nārāyaṇa(奥書ではこうある)と、6世紀に Kanyākubja から Bengal に来た五人のバラモンの筆頭であるバラモン Bhaṭṭa Nārāyaṇa との同一性を認める。この物語は Pertsch が刊行した Kṣitiśavaṃśāvalicarita に語られている。このバラモンは Veda の gotra である Śāṇḍilya に属していた。Śāṇḍilya という名の師は Śatapathabrāhmaṇa の第 VI–X kāṇḍa の主要権威である(S. XX)。本件にとってより重要なのは、ある Śāṇḍilya が Pāñcarātra の教えの宣布者として挙げられていることである。したがって Bhaṭṭa

Nārāyaṇa はこの派の徒であったであろう(S. XII)。それゆえ序論 S. XVII には Pāñcarātra の教えの叙述がある。Grill はこの教えと五バラモンの物語との反響を(五人の Pāṇḍava と五都市という数において)見出したと考えており、それはまったくありそうにないことではない。五人のバラモンは王 Ādisūra の宮廷に来たが、その王朝は Bengal において Pāla 王朝に先行した。Lassen の蓋然性計算によれば、Pāla 朝の始まりと Ādisūra 朝の終わりはおよそ紀元760年に当たるであろう。バラモンを庇護した Ādisūra は、Hiuen-Thsang によって知られ、仏教徒を庇護した Kanyākubja 王 Śrī-Harṣa と同時代人であったはずである。したがって彼らの時代、すなわち紀元6世紀末ないし7世紀初頭に、Bhaṭṭa Nārāyaṇa の戯曲は由来することになる。最終幕の Cārvāka のうちに、Grill は仏教への当てこすりを見ている。

Grill による Atharvaveda の百歌の翻訳については、すでに上 S. 261 で Roth と Whitney によるこの Veda の校訂本に関連して位置づけた。Veda と叙事詩の研究を通じて、彼は宗教史と比較神話学へ導かれた。そこから生まれたのが『人類の族長たち。Calw の助祭 Dr. Julius Grill によるヘブライ古代学の基礎づけへの寄与。第一部:原始史研究の方法に寄せて。最初の人間たち』(Leipzig 1875)である。インド人とギリシア人の叙事詩的素材の歴史性を検討して、彼は、インド叙事詩の内容はたとえば Lassen が認めるような歴史的価値をとうてい有しないという確信に至った(序文 S. III)。「比較インド・ゲルマン神話学」の大家として、彼が学んだ人々のなかから、彼は A. Kuhn の名を挙げている(S. IV)。一種の告白である序文からは、神学者たる彼にとって「受け継がれた旧約聖書の啓示史の理解」を制限すること(S. VII)がいかに困難であったかが見て取れる。すなわち、アーリヤ神話が、高き古代を扱う聖書の物語の基礎をなし、旧約の祭儀もまたその自然的側面から見れば真正にアーリヤ起源だというのである(S. XIII)。「エジプト学とアッシリア学とがヘブライ古代の解明に価値ある貢献をなした」ことも、彼は否定しようとはしない(S. X)。より明確には、彼は S. 85 以下で自らの見解を、「ヘブライの原民族はその起源においてインド・ゲルマン的連鎖のサンスクリット的=アーリヤ的一環」であり、「そのサンスクリット的母語をセム系の言語すなわちいわゆるヘブライ語と取り替えた」のだ、と述べている。これらの考えの根拠のなさは、Grill がそれを蓋然的たらしめようとした「経験的」論証のわずかな例からすでに明らかである。すなわち AhārōnAtharvan の「変形」だという(S. 22)、Pīnehās は skr. pīnaśas「腫れたものを打つ者」からだという(S. 27)、NōachNāvaka「船人」からだという(S. 44)、Debhōrāh は声高に語る女神の意味で Vipalā(ママ!)からだという(S. 66)、等々である。この書は、インドおよびヘブライの分野におけるその学識にもかかわらず、その主要な着想においても比較においてもまったく失敗している。とはいえそれは、インド古代がさまざまな個性に対しその活動分野において及ぼした作用の、また東洋の諸民族間の関連を発見しようとする暗い希求の、興味深い一例ではある。

Indo-arische Philologie I. 1 B. 25

§第 LVII 章 H. BRUNNHOFER

Rieu や Trithen と同様に、第三のスイス人 H. Brunnhofer もまた英国とロシアで仕事と地位を得たが、彼は再びスイスに帰った。多数の著作において、彼は Ṛgveda の解釈にあたって徹頭徹尾きわめて主観的な方向を追求した。Roth と Max Müller が神話学的観点を、A. Kuhn と Bollensen が言語的・韻律的観点を、のちに Bergaigne が祭儀主義的観点を、多かれ少なかれ一面的に主張したのに対し、Brunnhofer は、名称のうちに、地理的記述のうちに、個々の語のうちに、また不明瞭な暗示のうちに、Ṛgveda とインド外の国々・民族との関係を証明しようとした。こうして彼は、大いなる空想をもって Ṛgveda を、インド・アーリヤ人がなおイランからインドへの途上にあった時代に由来する、その先史のための史料としたのである。Brunnhofer の生涯と著作については、E. Kuhn が ZDMG. 第 LXXI 巻(1917)S. 431–437 の最近号において感謝すべき概観を与えている。

Hermann Brunnhofer は1841年 Aarau に生まれ、1917年 München に没した。サンスクリットにおいては Weber の弟子であった。1866年に英国へ赴き、そこでまず、インドへ招かれた Kielhorn の後任として Oxford の Monier Williams のもとで学術助手を務めた。1867年夏には同じ資格で Max Müller のための Ṛgveda 語彙索引の作業に従事した。この索引への自らの関与について、彼自身『Östliches Werden』S. 219 でこう述べている。「Müller の最初の大 Ṛgveda 版の第五・第六巻に公刊された Ṛgveda 語彙索引は、Max Müller の委嘱により、彼の個々の Mandala に対する語彙表にもとづき、1867年夏に本稿の筆者が Oxford で作成したものである」¹⁾。Veda 研究はすでに Berlin で熱心に行っていた。師 Weber により、彼の目は Śatapathabrāhmaṇa にも向けられていた。変化に富む生涯において、彼はあるときはスイスで職を得、あるときは St. Petersburg に住み、そこで公爵 E. Uchtomskij の著した、後の皇帝 Nikolaus II 世の東方旅行についての書をドイツ語に訳した。1905年夏には自ら Kasan から Astrachan までの Volga 旅行を行った。多岐にわたる著述活動は、ロシアの事情にも及び、世界大戦にまで及んでいる。教授資格を得たのはようやく1901年、Bern においてであり、特徴的なことに、東方の原始史および歴史地理学の分野であった。同様に彼の研究方向に対応するのが、1906年に得た歴史地誌学の講義嘱託である。称号教授に任ぜられた後、1914年に Bern を去り、最後には München に住み、そこで没した。

すでに著作『Γαλα (Γαλακτος), Lac (Lactis)、乳のギリシア・イタリア的名称。インド・ゲルマン諸民族の最古の感情史への

¹⁾ これに付した注で彼は、この「当時なおきわめて困難であった大仕事」に対して Max Müller から50ポンドを受け取ったが、Max Müller 自身は Monier Williams の計算によれば全版に対して総額5851ポンドの謝礼を得たと述べている。

一寄与』(Aarau 1871)において、Brunnhofer は比較言語学に精通していることを示すとともに、その特質をも示している。すなわち、語源および起源問題の空想的な扱い、音韻関係への然るべき顧慮を欠いた恣意的な同定である。Γαλακτ は、語根 gal に二つの指小接尾辞が付いたもので、彼にとっては「愛しい愛しい飲みもの」である(S. 34)。詩的な熱狂によってわれわれの心に訴えるのが、エッセイ『インド抒情詩の精神について、Ṛgveda の讃歌集、箴言詩人たち、および Hāla の民衆的恋愛歌選集からの原典訳を付す』(Leipzig(Otto Schulze)1882)であり、これは Berlin の東洋学者会議の記念に「Paṇḍit Shyāmajī Krishnavarmā」に献ぜられている。のちに彼のもとで大きな役割を演ずる讃歌が、すでにここで訳されている。結びの考察で彼はいう。「Veda はいわば、自らの偉大さを意識しつつ目覚める人類の、朝の雲雀のさえずりである」。民族の居住地と移動に向けられた研究における彼独自の方法を、彼はまず1884年に印刷された講演『インド・ゲルマン人の原住地について』において示した。『スイスで行われた公開講演集』、Benno Schwabe 編、第 VIII 巻第5冊、Basel 1885 を参照。ここでは Ṛgv. II 14, 3 の Dṛbhīka が、Ludwig に従って、Chorasan からカスピ海に及ぶ居住地をもつイラン系部族 Derbiker の代表と解されているが、Ṛgveda はその他の点では叙述の前面には出ていない。O. Schrader の書『Sprachvergleichung und Urgeschichte』(Jena 1883)においてインド・ゲルマン人の原住地についての諸説が論じられていた。Benfey は Fick のインド・ゲルマン祖語辞典の序文(Göttingen 1868)において、この原住地をアジアではなくヨーロッパに求めていた。この見解のためには、インド・ゲルマン諸語に共通する樹木名・動物名が援用される。Brunnhofer はアルメニアを主張する。そこは気候において中欧を思わせるからである。アルメニアは二つの移動河川名「Kur と Araxes」の中心であり、これらは東西のインド・ゲルマン諸国において他のいかなる河川名よりも頻繁に再現する(S. 22)。

Brunnhofer の Veda 関係の仕事は、その基礎的なものは80年代に成立したのであるが、そのすべてが彼の主要思想へと帰着する。一見純粋に言語的な性格のものと見えるものさえそうである。論考『不定詞形の Veda 的用法における方言の痕跡について』(Kuhn の雑誌 XXV(1881)S. 329–377)の印刷中に、Veda 時代におけるインド・アーリヤ人とイラン・アーリヤ人との関連についての論考のための新しい材料が多く得られた(S. 377)。彼の方法の最初の例は、当時における Ṛgv. X 132, 5 の Śakapūta を Śaka-putra すなわち「Śaka の子」と解したことである(S. 373)。Anukramaṇikā に記されているとおり、諸 ṛṣi 家系の讃歌が個別に研究されねばならないという Brunnhofer の要求そのものは正当である。これを彼は不定詞形の統計において実行した。ここで得られた年代順では、Gautama 家が第一位に、Bhāradvāja 家が第二位に来る、等々(S. 374)。確実な成果をもたらすためには、研究はさらに他の点にも及ばねばならないであろう。

これらの研究の続編を Brunnhofer は1886年、論考『Śatapathabrāhmaṇa の二つの kāṇḍa 群の相互関係について、そこに用いられた不定詞形にもとづく』(Bezzenberger の Beiträge X S. 234–266)で与えた。すでに Weber は

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Yājñavalkya に帰されるこの Brāhmaṇa の主要部から、Śāṇḍilya が師として現れる第 VI–X kāṇḍa を区別していた。Brunnhofer はこの区別を不定詞の統計によって確認し、さらに名称の解釈によって Śāṇḍilya 群がイラン起源であることを証明しようとした。Śatap. IX 5, 2, 15 に言及される Tura Kāvaṣeya は Turan 出身のイラン人であり、彼が神々のために火を積んだ河 Kārotī はイランの Haraqaiti-Sarasvatī である。その祖先 Kavaṣa Ailūṣa の讃歌 Ṛgv. X 30, 1 には pṛthujráyas という語が現れ、これは Avesta の perethuzrayanh と同一である。Kavaṣa は、先の論考ですでに発見されたイラン人 Śakapūta に連なる(S. 258 以下)。

このように、これら二つの論考は彼の最初の大著作の先駆をなす。そこでは彼の思想と方法が最も完全に展開されている。すなわち『Iran und Turan。インド原始史の最古の舞台についての歴史地理学的・民族学的研究』(Leipzig 1889)であり、大公 Konstantin Konstantinowitsch に献ぜられている。Brunnhofer は当時 Kurland の Goldingen のギムナジウム教師であった。この書は『一般および比較言語学個別論集』の第五冊をなす。書名の意味するところは、Iran と Turan が「インド・サンスクリット・アーリヤ人の原郷」であったということである(S. 229)。Kern はすでに1867年にバクトリア語と古インド語とを、バクトリア語を Veda 語の方言と呼んでも誇張ではないほど近縁であると評していた。Bartholomae は1883年、その『古イラン語方言便覧』において、「Veda の言語と一語一語まで一致する」Avesta のテキストを指摘していた。それ以前にすでに Brunnhofer は1880年、Kuhn の雑誌第 XXV 巻(1881)において、一方では不定詞形の用法に Veda 語の方言的相違を、他方では Ṛgveda の只中にイラン人詩人を認めたと考えた。彼は「それまで『糞から清められた』と解されていた Veda 詩人 Śakapūta の名を、方言的に短縮された Śaka-putra すなわち『Śaka の子』と発見した」(Iran und Turan S. 3)。これらの根本思想からの帰結を、彼は序論において一つの全体像へとまとめている。Veda の氏族は、散発的に数世紀にわたって、カスピ海と五河地方との間の北イランの広大な地域を遊牧していた(S. XI)。Veda の解釈は Roth の観念から自由になり、Veda 時代を五河地方からイランへと移さねばならない。Bergaigne の書『La Religion Védique』においても、讃歌の地理的・気候学的内容が閑却されているという。Brunnhofer は、ロシア政府が「その現在および将来の帝国の南縁に沿って、Pontus Euxinus から Hindukush まで、とりわけ Alburs 山脈および Hindukush 山脈に沿って、あらゆる地名と土地伝説を」蒐集し、ヨーロッパの学問に供することを決意することを望んだ(S. XXIII)。Brunnhofer 自身は名称を、古今の、また最新の地理学的著作や旅行記から採った。彼は現代においてもなお太古のものが保たれていると信じていたからである。Spiegel の『Eranische Alterthumskunde』と Geiger の書『Ostiranische Kultur im Alterthum』もまた彼に多くの材料を提供した。Šāhnāme は Schack の訳で引用している。Ṛgv. VII 83, 1 の pṛthupārśavaḥ をパルティア人およびペルシア人と解すべきことは、すでに Ludwig らが想定していた。Ṛgv. VI 27, 8 の Pārthavāḥ がパルティア人であるということ(S. 40)も、少なくとも議論の余地はある。

疑いなく、洪水伝説はインド北西のある国に由来する。また彼がここで言及していない神話および祭儀の若干の細目(Mitra と Mithra、hotāzaota 等)も、インドとイランの近い関係を示している。しかしこれらすべては、Brunnhofer が最大の大胆さで貫徹したイラン主義をいささかも正当化するものではない。Brunnhofer は自らその大胆さを自覚している。というのも、彼は Scherer が折にふれ述べた「しかしいわゆる慎重さは、学者の最も嫌悪すべき悪徳の一つであり、臆病ときわめて内的に近縁である」という命題を奉じているからである(S. 145)。彼の最大の大胆の一つは、Ṛgv. X 98, 12 の ápāmīvām … sedha(病を退けよ)という語のうちに、カスピ海の峠のある Choarene 地方の都市 Apameia を見出すことである(S. 34)。Ṛgveda にとってはインダスよりも Oxus と Iaxartes が問題になる。samudra を彼は主としてカスピ海と解し、これを ṛṣi Kaśyapa と結びつける。Kaśyapa は、インド人とイラン人に共通の神山の精霊の名であるが、同時にあるイラン系部族の名でもあった。後者は都市名 Κασπάπυρος に含まれており、それは *Kaśyapa-pura の意で、そこから Kaschmir が来るという(S. 53)。「Kaspier すなわち Kaśyapa」の節(S. 51 以下)は Kas- で始まる名称の組み合わせに満ちている。Nahus は古ペルシア語 naqa であり、楔形文字碑文におけるペルシア大王の称号だという(S. 49)。王名 Abhyāvartin(Ṛgv. VI 27, 5 および 8)を彼は *Abhyāvarta から導き、そこに「Chorasan の都市 Abīvard」を見る(S. 39)。ṛṣi Agastya は、彼が Σαγάρτιος、古ペルシア語 'Asagarta' と比較したもので(S. 68)、生まれながらのイラン人であり、サンスクリットを不完全にしか操れなかったという(S. 63)。その証拠として彼は、この人の讃歌にとくに頻出する音節の引き延ばし(ā に対する aa または 等。その際イラン語 daēvo 等を考えている、S. 63)を挙げる。さらに彼が想定するいくつかのイラン語、たとえば Ṛgv. I 173, 4 の ashatarā(古イラン語 asha「聖なる」の比較級)や、moshu「速やかに」— 彼は同讃歌第12詩節で mó ṣú の代わりにこれを本文に入れる。Śunaḥśepa の歌(Ṛgv. I 24 以下)を彼はイラン起源と見なし、その根拠は「イラン人、とくにゾロアスター教徒のように犬に夢中な民族にしか、自らを『犬の尻尾』と名づけることは思いつきえまい」(S. 72)というものである。Ṛgv. X 108 の Paṇi は、Rasā すなわち Oxus の下流に住んでいたギリシア人のいう Πάρνοι である(S. 115)。Indra と魔 Varcin との戦いを、彼は事柄の相違にもかかわらず名称の遠い類似のゆえに、Šāhnāme における Gurgin と Anderiman の戦いのうちに再発見する(S. 35)。彼は思い切って、asura のうちに Assur とアッシリア的なものを見ようとさえする(S. 215)。Ṛgv. V 19, 1 の vavri は Bawri すなわち Babylon への暗示を含むはずだという(S. 220)! Indra がその荷車を打ち砕いた Uṣas(Ṛgv. IV 30, 8 以下)は、Babylon の女王 Semiramis であり、彼女は敗北に終わる征服行をインダスを越えて行ったという(S. 213)! さらに、彼が Cumurī と同定し「乞食」を意味する comri(遊牧諸民族に対するトルコ・タタール的呼称)から解する Śaka の女王 Tomyris の痕跡をも、彼は Ṛgveda のうちに発見する(S. 204)。彼が Veda 語にしばしば Prākṛt 的な音の短縮を想定するのは音韻上の時代錯誤であり、たとえば Ajamīḍha のうちに「アーリヤ人の一般的始祖 Ārya が Prākṛt 的に Aja へと短縮されたものへの示唆」を見る(S. 229)。Weber を越えて進むのは、馬犠牲のみならず、そもそも Śatapathabrāhmaṇa の第 V–X kāṇḍa とそこに含まれる名称をイラン起源と見なす点である。河川名 Kārotī をすでに以前に彼は Haraqaiti すなわち

skr. Sarasvatī の古イラン形に帰しており、そこからギリシア語名 Ἀράχωτος と Arachosien が生じたとした(S. 31, 127)。Ṛgveda VII 96, 1 の彼の訳「われは高き歌を歌う、河川のうちのアッシリアの女なる Sarasvatī をわれは讃えん」(S. 215)から、彼がこの河をどこに求めているかが明らかである。Varuṇa は、彼が星辰に飾られた夜空と無限の海の神と解しているが(S. 173)、世界の主から世界の敵 Vṛtra へと変じられている(S. 175)。Hiraṇyagarbha 讃歌 Ṛgv. X 121 についても、彼はその方法によってイラン起源を、世界創造讃歌 Ṛgv. X 129 についてはバビロニア起源を証明しようとし、Varuṇa 讃歌 Atharvav. IV 16 — 思想の類似からこれを詩篇139と比較する — についてはメディア起源を証明しようとする(S. 179 以下)。

一般に Brunnhofer にとって「まさに最も重要な Ṛgveda 歌謡のイラン的故郷」については疑いがなく、彼は「相当数の Veda の ṛṣi はインドの土を踏んだことがないばかりか、おそらくそれを知りさえしなかった」と主張する(S. 149 以下)。

『一般および比較言語学個別論集』において、第5冊『Iran und Turan』に続いて、同様の方向の Brunnhofer の書がさらに二つ現れた。第9冊『Vom Pontus bis zum Indus。歴史地理学的・民族学的素描』(Leipzig 1890)と、第12冊『Vom Aral bis zur Gaṅgā。人類原始史のための歴史地理学的・民族学的素描』(Leipzig 1892)である。この三つの大部の冊子(5, 9, 12)は総題『前アジアおよび中央アジアにおけるアーリヤ人の原始史。Ṛgveda と Avesta の最古の舞台についての歴史地理学的研究』のもとにも出ている。その間に同じ出版社からさらに『Culturwandel und Völkerverkehr』(Leipzig 1891)が出た。E. Kuhn、前掲書 S. 433 を参照。

Brunnhofer はその見解を一度も揺るがせなかった。このことは、『Iran und Turan』の20年以上後に公刊した第二の主著から見て取れる。すなわち『Arische Urzeit、最古の前アジア・中央アジアおよび東欧の領域における研究』(Bern 1910)である。序文で彼は、自分がこれほど反響を得なかったことに不平を述べている。Weber すら彼に偏執狂と非難していた。ある程度の理解を彼は Hillebrandt¹⁾ に見出しており、これをさらに味方につけようとしている。折にふれ Ludwig も類似の見解を述べていた。この新著は『Iran und Turan』の続編かつ補遺である。彼はさらに多くの語と名称、また文化史的記述を集めており、そこから Ṛgveda のなお半ばイラン的・トゥラン的・セム的性格が明らかになるはずだという。skr. ṛkṣa、gr. ἄρκτος は、彼が skr. arka「白い」に結びつけるもので、白熊だという。skr. nagara「都市」はアラビア語だという。Ṛgv. VIII 22, 7 の名 Tṛkṣi は「トルコ人」を意味し、Tṛkṣi Trāsadasyava、およびそれとともに王 Trasadasyu 自身がトルコのスルタンであったという(S. 34)。彼が「Babylon」と解した Ṛgv. IV 42, 1 の vavri に、彼はふたたび立ち返る(S. 33 以下)。彼は

¹⁾ Hillebrandt は原則として Brunnhofer の立場に立っている。彼は論文「Ṛgveda の故郷」(Österr. Monatsschrift für den Orient 1917, S. 285)でこう述べている。「インドにのみ執着する解釈は、実際には Ṛgveda の特質を正当に扱い、そこに埋め込まれた化石を正しく評価するには不十分である」。Brunnhofer の誇張には彼は個別には立ち入らず、ただ Paṇi = Πάρνοι、Sobhari = Ὀβαρεῖς という等置のために引用するのみである。とりわけ第 VIII Maṇḍala に彼は「西方に執着する記憶」を見出す(たとえば manā)。Turvaśa 族は北西の草原から来たと思われる(S. 287)。Vṛtra は本来、旱魃の魔でも雲の魔でもなく、冬の魔であり、春の若き英雄が河を解放するまで河を枷につなぐ者である。Veda の諸部族はこれを遠方からインドにもたらした(S. 285)。

Divodāsa がカッパドキアのヒッタイト人であったと推測し、Ludwig の問い「Śambara は Pūru の王か」を受け継いでいる(S. 69 以下)。Ṛgveda の非アーリヤ的神 Kūtsa のうちには「古セム的神 Kuzaḥ-Kozē」が現れ(S. 76)、また未解明の átithi, Atithigvá のうちには、西アジアで幾度も証示される神 Ἄζιζος が現れるという(S. 79)。

S. 82 以降、彼はより個別の語と文化史的に重要な事柄に向かう。すなわち IV. アーリヤ語の古語、V. 自然現象・自然産物と工芸品、VI. Veda における星辰、VII. アーリヤ人の神話、VIII. アーリヤの民間信仰、IX. アーリヤの民俗慣行、X. アーリヤの法制古事、XI. アーリヤの戦争古事、XII. Veda と Avesta の哲学と神学、である。ahy-àrṣu の第二成分はアルメニア語 arciu「鷲」だという(S. 88)。セム語の借用語として彼は manā のみならず、Ludwig とともに kenipá を、また Cassel とともに pluṣi を数え、後者を Cassel は「ヘブライ語 prushi または plushi、蚤」と等置していた(S. 90)。Veda の yūjyam páyaḥ は彼にトルコ・タタール語の yogurt「凝乳」を思わせ、Ṛgv. IX 77, 5 の huruk yaté はマジャール語 hurok「投げ縄」をさえ思わせるという(S. 92)! 第 V 章では、胡椒に関連して Ṛgv. IV 16, 13 の Pipru Mṛgaya すなわち「Merw の胡椒袋」を論じ、これは魔ではなく、すでに古い時代に胡椒交易によって富を得た富豪の一人であったという(S. 110)。家畜を論ずる節では、Ṛgv. V 1, 8 から、猫はすでに紀元前2000年から3000年にはバラモンに歓迎された家畜であったことを立証しようとしている(S. 127)。これに対して受け入れがたいのは、Ṛgv. V 50, 4 から駱駝への言及を得ようとして、drómyaḥ páśuḥdrómyaḥ páśuḥ「走る獣」と改める点である(S. 140)! 同様なのが、第 VI 章で Ṛgv. X 40, 6 の yuvór ha mákṣā から yuvor hamákṣā「汝ら二人の車」を作り、それを大熊座すなわち車の星座と解し、ギリシア語でもこの星座を意味する ἅμαξα を引き合いに出す点である(S. 162)。第 VII 章では、Gandharva と Κένταυρος の等置を保持するのみならず、さらに愛の神 Kandarpa が「原始時代から救い出された Gandharva」ではないかと問うている(S. 183)。神話比較の大胆な一例は、mókī「夜」を Philemon-Baucis 伝説の Βαυκίς と結びつける点(S. 210)、あるいは Indra を聖 Andreas と結びつける点である(S. 247)。神話と民間信仰を扱う節では、Ethé が訳したペルシアの宇宙誌家 Qazwīnī の著作をしばしば引用している(S. 257)。彼が高く評価する学者としては Rochholz、Lagarde、Hehn、Schrader がいる。その著作の事項的配列は是認するほかないが、いたるところで彼は、自らの観点のもとに何か述べるべきことのある対象のみを選んで扱っている。彼の Veda 的イラン主義とトゥラン主義は、新しいもののなかに古いものを、古いもののなかに新しいものを再認しようとする傾向と結びついており、それは空想的ではあるがなお示唆に富む仕方でなされている。

最後の諸節の細目からなお強調しておくならば、彼は Marut 神群の装飾と武具の華麗さのうちに、古代中央アジアの重装騎兵すなわちパルティア人の武具装飾の贅を尽くした華麗さを見(S. 353)、「Ṛgveda のサンスクリット・アーリヤ人はすでに火薬を知っていた」(S. 360)として Ṛgv. IV 4, 1 および X 89, 12 を援用し、これに Ṛgv. I 166, 10 におけるアッシリア・エジプトの鎌戦車の発明を結びつけている(S. 361)。「紋章の謎」という表題のもとに(S. 375)論じられるのは、軍旗の上の動物像である。Ṛgv. II 12, 8 の nānā を、アルメニアの軍神

Nanê と解すべきだという彼の推測(S. 369)は、讃歌全体の翻訳(S. 400)では保持されていない。最後の宗教哲学的部分では、ロゴス論、恩寵の選び、Veda における正統と異端といった対象を扱っている。

この『Arische Urzeit』以前に、Brunnhofer は最初は人目につかぬ雑誌に発表された40篇以上のエッセイを、『Östliches Werden。原始時代から現代に至る東洋と西洋の間の文化交流と通商』(Bern 1907)という空想的な表題のもとに一書にまとめていた。これらのエッセイにおいて — おそらく Max Müller のエッセイを手本としたのであろう — 彼はきわめて多様な対象について語っている。それらは I. 相互作用における東洋と西洋、II. インド、III. 中央アジアと高地アジア、IV. 東アジア、V. オーストラリア、の各部に配分されている。Brunnhofer が、自らの確信のために火刑に処せられた Giordano Bruno についてくり返し書いているのは偶然ではあるまい。第 I 部には彼についての講演があり、それに続いて、M. Müller を思い起こさせる Bunsen と聖書についてのエッセイがある。しばしば論じられてきた仏教の教説(karman と nirvāṇa 等)や、Fahian と Akbar についての論説よりわれわれにとって価値があるのは、第 II 部のエッセイ「Goethe のインド建築・彫刻との関係」、「Goethe と Schiller におけるバラモン教的・仏教的反響」、および「言語学と宗教学に対する Max Müller の功績」である。第一のエッセイでは『温順なクセーニエン』から、Ellora の岩窟寺院の醜怪な神々に対する Goethe の嫌悪を表した箴言を伝え、第二では両大詩人の輪廻と nirvāṇa への信仰が表明されている箇所を挙げ、第三では Max Müller に、とりわけ文体家としての彼に、多くの興味深い記述を伴う伝記的記念碑を建てている。Schelling の影響については彼はおそらく評価が高すぎる。言語起源の問題では、彼は Whitney に対して M. Müller の側に立つ。ほかならぬ Brunnhofer が Whitney に対し、神話的語源説において「音韻法則のあらゆる異議を超然と飛び越えた」(S. 227)と非難するのは奇異である。まさに Brunnhofer らしい思想を含むのがエッセイ「仏教の北方起源」である。彼は Buddha の出た Śākya 族を、アーリヤ化・バラモン化されたトゥラン人と見なす。しかも寛容はアーリヤ的性質ではなく、Dschingiskhan や Tamerlan にもかかわらずトゥラン的性質だといい、そのために彼の英雄 Akbar を引き合いに出し、また中国においてのみ寛容のごときものが行われた、という(S. 277)。

Bezzenberger の Beiträge 第 XXVI 巻(1901)における Ṛgveda の個々の詩節と語の Brunnhofer の扱いも、これまで論じた諸書とまったく同じ性格のものである。「Ṛgveda への改訂案」の冒頭(同誌 S. 76)で彼は、彼と Weber-Förster の「Ṛgveda の途方もない古さ」の発見 — 彼はその著作でくり返し紀元前3000年から2000年を語る — を見出しうる箇所を指示している。

§第 LVIII 章 J. EGGELING

英国でサンスクリット教授としてその活動の場を得たドイツ人学者のうち、最後に数えられるのが

Julius Eggeling であり、1842年 Bernburg に生まれ、1918年に没した¹⁾。Breslau と Berlin の大学に学んだ後、1867年に London に赴き、同地の図書館の写本を研究した。まもなく Brunnhofer の後任として Max Müller の助手となり(1867–1869年、上 S. 273 参照)、Ṛgveda の索引において引用箇所の検証を委ねられた。1869年から1875年まで Royal Asiatic Society の Secretary および Librarian を務め、1872年から1875年までは London の University College のサンスクリット教授でもあった。1875年に Aufrecht が Bonn に移ると、彼は Edinburgh のサンスクリット・比較文献学教授職における後任となった。1914年、大戦の勃発とともにこれを辞し、Westfalen の Witten に隠棲した。仕事の方向においては、彼は Böhtlingk、Aufrecht、Weber に連なる。生涯の大部分を、他の仕事と並んで、R. Rost が組織した India Office Library のサンスクリット写本目録作成に費やした。

Max Müller の Prātiśākhya 校訂本への索引(Leipzig 1869)の後、彼は学問的活動の最初期に二つの本文校訂をもって現れた。第一は Kātantra の名で知られる Sarvavarman の簡潔な文法書(saṃkṣiptaṃ vyākaraṇam)に関わり、Bibliotheca Indica に現れた。すなわち「The Kātantra with the Commentary of Durgasiṃha, edited, with Notes and Indexes」、Calcutta 1874–1878 である。これは Kaccāyana の Pāli 文法との関係を示しており、Bühler によればとくに Kaschmir で用いられている。Weber, *Akad. Vorles.*² 336 を参照。注記において Eggeling は他の諸注釈からの報告や Pāṇini の sūtra への参照をも与えている。India Office Library に多数ある写本は、目録 Part II(1889)S. 196 以下に記述されている。第二の、直後に続く、師 Stenzler に献ぜられた本文校訂は「Vardhamāna's Gaṇaratnamahodadhi, with the Author's Commentary. Edited, with critical Notes and Indices」であり、Sanskrit Text Society の刊行物として London 1879, 1880 に出た。Vardhamāna の「gaṇa の韻文版」すなわち文法 sūtra に属する語彙群の年代は、末尾の一詩節によれば Saṃvat 1197 = 紀元1140年である。なお若干の点について短い序文が教えてくれる。Vardhamāna は Amarakośa の注釈者 Kṣīrasvāmin と関係があった。この著作の学問的価値は Vardhamāna の vṛtti に含まれている。そこに引用される sūtra は、これが Pāṇini の文法にもとづくのではなく「何かより新しい文法のためのもの」であることを証明する(S. IX)。この点で Eggeling は Böhtlingk と一致したが、Goldstücker は反対を主張していた。Eggeling は Sanskrit Text Society の編集者として Goldstücker の後を継いだが、Goldstücker もまた Gaṇaratnamahodadhi の刊行を意図していた。計画の遂行を可能にしたよりよい写本は、Eggeling は Bühler から得た。この仕事にあたっては Aufrecht、Stenzler、Weber、Roth、Haas、Pischel、Kielhorn の各教授、そして「最後だが劣らず、Dr. v. Böhtlingk」が援助した(S. VIII)。この書の第2詩節では Pāṇini が Śālāturīya と呼ばれており、Vardhamāna はその vṛtti でこれを Pāṇini の生地 Śālāturo grāmaḥ から説明している。両校訂本とも索引は刊行されなかった。

Eggeling の London 時代からはなお「Catalogue of Buddhist Sanskrit Manuscripts in the Possession of the Royal Asiatic Society(Hodgson

¹⁾ 1918年3月13日に Witten で彼が没したという報せを、私はこの章の印刷前に受け取った。

Collection). By Professors E. B. Cowell and J. Eggeling」、London 1875、56頁が由来する。Hodgson の寄贈はすでに1835年と1836年になされていた。Weber はこの目録を「Daniel Wright's History of Nepāl」(London 1877)と併せて、Jenaer Literaturzeitung 1877 S. 410 以下で論評し、これは『Ind. Streifen』III 520 以下に再録されている。Wright は Nepal から北方仏教文献のかかる写本400点以上の蒐集をもたらしており、その記述を Weber は Wright の全著作のなかで最も価値ある部分と評している。この蒐集は Cambridge の大学図書館にある。現在では Bendall の目録を参照。Nepal にはきわめて古い写本が、おそらく9世紀・10世紀のものさえ保存されている。「Newār 紀元」は紀元880年10月に始まる。Cowell-Eggeling の目録における最古の写本は No. 2 の Gaṇḍa-vyūha で、Saṃvat 286 = 紀元1166年の年紀をもつ。もっともここではほとんどの写本が「modern writing」である。

Eggeling の二つの主著は80年代に現れはじめ、数十年にわたって続いた。始まりをなしたのは、Max Müller の勧めにより Sacred Books of the East に収められた「The Śatapatha-Brāhmaṇa, according to the Text of the Mādhyandina School, translated by Julius Eggeling」Part I、第 I・II kāṇḍa、SBE. Vol. XII、Oxford 1882 である。内容豊かな47頁の序論において、彼は Weber と Max Müller に依拠しつつ、カースト、祭官、とくに purohita について(S. XII, XIV)、また神々 Agni、Indra、Viśve devāḥ が上位三カーストに対して立つ関係について、さらに Brāhmaṇa と呼ばれる著作の起源と内容について述べ、S. XXV 以降は adhvaryu と、諸学派を含む Yajurveda に向かう。彼は Oldenberg に先んじて、Ṛgveda の第8・第9 Maṇḍala と Sāmaveda との関連を強調し(S. XXI)、Brāhmaṇa を語源的には brahmán「祭官」からの派生語で、そのような者の権威ある発言という意味だと見なし(S. XXIII)、Weber と同じく最初の九 kāṇḍa を Śatapathabrāhmaṇa のより古い部分と見なす。もっともそのなかで Yājñavalkya は最初の五 kāṇḍa においてのみ、最後の四 kāṇḍa では Śāṇḍilya が主要権威である。彼はまた地理的相違や vaṃśa における師の時間的順序にも立ち入っている(S. XXX)。第 VI–IX kāṇḍa で非常に詳細に述べられる Agnicayana は、とくにインド北西部で行われたらしい。「Vājasaneyaka」は Āpastamba の śrauta-sūtra および dharma-sūtra に引用されるが、文言はつねに正確に同一ではないことは、すでに Bühler が指摘していた(S. XXXIX)。Kaṇva は Ṛgveda の ṛṣi のなかにも見出される。Eggeling は、白 Yajurveda の Kāṇva 学派と「Ṛksaṃhitā の編纂者たち」との文法的な点における関連に注意を促している(S. XLV)。

Part II、SBE. Vol. XXVI、Oxford 1885 では第 III・IV kāṇḍa が訳されており、その内容は soma 祭である。Windischmann の著作『アーリヤ人の soma 祭祀について』(München 1846)以来、A. Kuhn、Roth、Haug、Bergaigne がさまざまな側面から Veda の soma と Avesta の haoma に取り組んできた。Haug はインドでそれを実地に知り、Roth は1881年と1883年にドイツ東洋学会誌に現れ英訳された二論文によって、この植物の探索の契機を与えた。英国政府の命じた調査の結果、Kermān と Yezd のパールシー教徒が「Hūm juice」のために用いる灌木の記述は「Sarcostemma」に、あるいは「その他

Periploca aphylla のような Asclepiad の一群」に当てはまることが判明した(S. XXV)。地上の soma からは天上の soma が区別されねばならない。Eggeling は天上の soma の太陽・月、Agni・Indra との関係を追究し、その際 Bergaigne の見解を多く批判するが、祭儀をより重んじようとする彼の努力は十分に認めている。soma と鷲の神話についても詳細に論じている(S. XIX)。終わり近くで彼は Part I への批評について Whitney に謝意を表し、その際 kapāla の意味と、Agni の形容辞 jātávedas の意味を、後者については viśvā veda jánimā jātávedāḥ Ṛgv. VI 15, 13 のような箇所から出発して論じている(S. XXXI)。

Part III、SBE. XLI、Oxford 1894 は、第 V kāṇḍa において soma 祭 Vājapeya と Rājasūya を、第 VI・VII kāṇḍa において Agnicayana すなわち火壇の積み上げを扱う。序論で Eggeling は、一日の soma 祭の七つの saṃsthā すなわち基本形の記述を与えており、そのうち Agniṣṭoma が最も単純かつ通常のものである(S. XIII)。「political ceremonies」としての Rājasūya「or inauguration of a king」と Vājapeya「or drink of strength」(S. XI)については、後者はバラモンによっても行われうるが、その際バラモン、とりわけ purohita は、kṣatriya に限られる Rājasūya の代わりに Bṛhaspatisava を行うと強調している(S. XXIV 以下)。序論の末尾の文で Eggeling は、Hillebrandt が『Veda 神話学』第一巻で十分に証明した「初期 Veda 神話における soma と月の同一性」に同意を表明している。

Part IV、SBE. Vol. XLIII、Oxford 1897 は第 VIII kāṇḍa で Agnicayana を続け、なお第 IX kāṇḍa でも soma 祭への補遺とともにこれを扱う。第 IX kāṇḍa の初めには Śatarudriyahoma がある。Agnirahasya という名をもつ第 X kāṇḍa は宇宙開闢的・神秘的性格をもつ。Agnicayana がとくに詳細に説かれ、Brāhmaṇa 全体の三分の一以上を占めることを、Eggeling は第 VI–X kāṇḍa のより後代の起源から説明している(S. XIII)。序論で彼は主として、後代に世界創造者として立てられた抽象的性格の最高神格、すなわち Viśvakarman、Hiraṇyagarbha、Puruṣa、Ka、Viśvāvasu、Prajāpati、Brahmaṇaspati、Brahman について(S. XIV)、また Prajāpati の Agni に対する、犠牲者に対する神秘的関係(S. XIX)、他方では太陽と月に対する関係(S. XXII)、そして犠牲の宇宙開闢的意義について論じている。この祭祀的思弁は最終的に Ātman と Brahman へと導いた。

第五にして最後の部、SBE. Vol. XLIV、Oxford 1890 は第 XI、XII、XIII、XIV kāṇḍa を含むが、最後の6章の Bṛhadāraṇyaka は除かれている。それはすでに M. Müller によって SBE. 第 XV 巻で訳されていたからである。序論では、Aśvamedha すなわち馬犠牲についての Eggeling の叙述がとくに重要であり、その政治的意義は強大な王たちについての伝説と歴史的記述から明らかである。馬は Prajāpati と Varuṇa に神秘的関係をもつ。Mitra と Varuṇa の崇拝は Ṛgveda においては Indra の崇拝の背後に退いており、Ṛgveda の讃歌以前の時代に由来する。七河の地の征服と東方への漸次の進出は、アーリヤ人を、暑季の後に嵐と雷雨を伴う雨季が続く気候へと、また原住民との絶えざる戦いの時代へと導いた(S. XXI)。次いで Eggeling は、Mahābhārata の Āśvamedhikaparvan における Yudhiṣṭhira の馬犠牲と、Rāmāyaṇa 冒頭の Daśaratha のそれについて比較的報告を与えている(S. XXVI 以下)。広い視野をもって

古い文献のなかから彼はまた Puruṣamedha すなわち人身供犠をも扱い(S. XXXIII 以下)、その際 Śunaḥśepa 説話への批判を行っている(S. XXXIV 以下)。彼の見解では、Puruṣamedha の「ritual arrangements」は Aśvamedha のそれに倣ったものであり、人身供犠はアーリヤ・インド人のもとで本来的に土着のものでも実行されていたものでもなかったであろう。人間の代わりに犠牲獣が立てられた。20年近くにわたって Eggeling は Śatapathabrāhmaṇa の翻訳に従事した。Weber はこの仕事の困難を認め、Max Müller はその励ましによってくり返し続行の勇気を与えた(S. L)。この翻訳は文法家からも文献学者からも多く利用され、今後長くサンスクリット文献学の有用な業績であり続けるであろう。

第二の主著すなわち India Office Library のサンスクリット写本目録の作成を、Eggeling はすでに1869年に R. Rost から委嘱されていた。初め仕事は彼と E. Haas と E. Windisch の間で分担されていたことは、すでに上 S. 362 に記したとおりである。Eggeling は「the Vedic department, as well as the Grammatical, Lexicographic, Rhetorical and Law Literature」を引き受け、「remaining departments of the Classical Sanskrit literature」は Haas に当てられた(Part I の序文)。哲学写本は Windisch に割り当てられた。Haas は病を得て1882年に没し、印刷可能な原稿を残さなかったため、Eggeling は友人に代わって、Windisch の比較的小さな部分を除き、この巨大な仕事を一人で遂行せねばならなかった。Colebrooke の写本蒐集を含むこの記念碑的著作は、ようやく遅れて刊行され始めた。すなわち「Catalogue of the Sanskrit Manuscripts in the Library of the India Office. Part I. — Vedic Manuscripts. By Julius Eggeling, Ph. D.」、London 1887 である。著作からの抜粋は原則として、まだ刊本のないものについてのみ与えられている。刊本への言及はこの目録のきわめて有用な構成要素である。また Aufrecht、Weber、Burnell、Rājendralāla Mitra、Taylor らの目録における詳細な記述への参照によっても、Eggeling の目録の学問的価値は高められている。Part I からは S. 109 以下の Upaniṣad 集成を挙げておくべきで、そのなかには Sir Walter Elliot のために作成された、Āndhra バラモンに知られたすべての Upaniṣad の集成がある。Elliot は「to whose enlightened and well-directed researches our knowledge of South-Indian chronology is so deeply indebted」と言われる(序文)¹⁾。Part II(London 1889)には文法、辞書学、韻律学、音楽が、Part III(London 1891)には alaṃkāra と dharma が、一般によく知られた著作のみならず、より稀な著作によっても代表されている。後者に属するのが、Kaschmir 人 Śārṅgadeva の音楽概論 Saṃgītaratnākara である。Part III からは、この両分野のおよそ11世紀ないし12世紀以降の全体的な新しい展開が、新しい叙述と注釈において概観できる。alaṃkāra では Mammaṭa の Kāvyaprakāśa と Vāgbhaṭālaṃkāra から始めることができる。dharma では、13世紀の Hemādri の Caturvargacintāmaṇi のような、宗教的義務と

¹⁾ Sir Walter Elliot は1803年生まれ、1887年没。1820年に Madras に赴き、まず将校として頭角を現した。1837年から42年まで Madras の Lord Elphinstone の Private Secretary となり、のちに Madras の Member of Council となった。彼の Amarāvatī の Buddhist Marbles の蒐集は大英博物館にある(Buckland)。

贖罪をとくに強調して dharma の古い内容を叙述する著作が広い場所を占めている。宗教的要素はこれらの後代の著作においてとくに前面に出る。記述された写本のなかには、バラモンの生涯における第四の āśrama(すなわち sannyāsin のそれ)についての著作、第四カーストすなわち śūdra についての著作、その他あまり扱われない対象についての著作も見出される。

Part IV(London 1894)は、Windisch の記述した哲学写本と、Eggeling が詳細に叙述した Tantra 文献を含む。Eggeling は哲学に、主要諸体系の若干の写本のほかに、bhakti と Kaschmir Śaivism についての宗派的著作をも加えた。他方すでに Haas が Tantra 文献のいくつかを目録化していた。両編者はとりわけ印刷中の援助について Aufrecht に謝している。Eggeling によるあまり知られていない Tantra 文献の詳細な分析は、この特異な文学ジャンルについての観念を与えてくれる。哲学においては記述は Hall の Index に手がかりを得たが、その記述はいくつかの場合には写本から訂正することができた。たとえば Praśastapāda の Padārthadharmasaṃgraha の性格に関してがそれである。すなわちこれは Kaṇāda の個々の sūtra への注釈ではなく、bhāṣya と呼ばれてはいるがより自立した著作である。より新しい Vaiśeṣika の著作には Nyāya の論理学が導入されており、それが Nyāya 的性格を与えている。より新しい Nyāya 文献の著作としては、インドで多く用いられる Gaṅgeśa の Tattvacintāmaṇi と、それに続く注釈文献、Śiromaṇi の Tattvacintāmaṇididhiti 等を挙げるべきである。稀となった古い注釈 — Nyāya-sūtra および Karmamīmāṃsā の sūtra に対する bhāṣya および vārttika の段階のもの — の写本は、一部は断片にすぎない。しかし Goldstücker はここで、彼が高く評価した Kumārila Bhaṭṭa の Śloka-vārttika と Tantra-vārttika を知ることとなった。

Part V、すなわち Medicine, Astronomy and Mathematics, Architecture and Technical Science の諸分野(London 1896)をもって、Eggeling は本来 Haas に割り当てられた領域に踏み込んだ。彼の遺した仕事は改訂と補足を施さねばならなかった。作成と印刷の間に20年の隔たりがあったからである。Colebrooke の研究に対応して、天文学がとくに豊富に代表されている。ここでは天文学、占星術、およびアラビア・ペルシア起源の Tājika と呼ばれる著作が区別されている。本来の天文学の筆頭には、Veda 学派に由来する二著作が置かれている。主要著作の列は、最古のものとして Āryabhaṭīya、すなわち紀元499年に Āryabhaṭa が著した Siddhānta をもって開かれる。実用的目的に供し、吉日を示し、出生時の星位を判断する(jātaka)等の占星術的著作のうちでは、Kern によってよく知られるようになった紀元7世紀の Varāhamihira の Bṛhatsaṃhitā が第一位を占める。医学において冒頭に置かれる Carakasaṃhitā は、黒 Yajurveda の古い学派にちなんで名づけられているが、Goldstücker は、同様にそのような学派の名を帯び、Hārītasaṃhitā の名で Calcutta で刊行された Ātreyasaṃhitā のほうが古いと考えていた。Goldstücker はこの著作を Mrs. Manning の『Ancient and Mediaeval India』I S. 339–342 で分析していた(Egg. S. 930)。

続いて Part VI が、Epic Literature(Mahābhārata と Rāmāyaṇa)および Pauranik Literature(London 1899)をもって現れる。後者についてはすでに Aufrecht がその Oxford 目録において、かつて多く利用された記述を

与えていた。India Office の図書館は、Purāṇa の写本 — 全体のものも個々の部分のものも、たとえば Māhātmya のように独立した一ジャンルとなったもの — についてさらに豊かである。Bhāgavata- と Skandapurāṇa が広い場所を占める。分析は詳細であり、抜粋にはときに伝説全体が伝えられている。Purāṇa と Upapurāṇa の伝統的な列挙は Bṛhad-Dharmapurāṇa にも見出されるが(S. 1229)、目録ではこの順序も Purāṇa と Upapurāṇa の区別も守られておらず、著作はアルファベット順に配列されている。すなわち Ādipurāṇa の名のもとに一つの Upapurāṇa が冒頭に来、次いで Āditya-、Kalki-、Kālikā-purāṇa 等となる。Part VII(London 1904)の内容をなすのは「Poetic Compositions in Verse and Prose」と Dramatic Literature である。前者は Raghuvaṃśa のような kāvya、campū と呼ばれる著作、および Daśakumāracarita のような小説 — これは種々の形の pūrvapīṭhikā を伴う — 、さらに Pañcatantra や Vetālapañcaviṃśati のような寓話・説話文献を含む。後者の著作の種々の写本からの抜粋は、その異本の様相を認識させる。戯曲文献では Sylvain Lévi の Théâtre Indien がしばしば参照されている。未刊の戯曲 — そのうちいくつかは11世紀ないし12世紀にまで遡る — については、抜粋と梗概が観念を与えてくれる。刊行された戯曲については、種々の注釈の並置がとくに価値をもつ。すべての大きな目録に共通していえるのは、そこには多数の著者についての個人的記述、その家系と師についての記述が、著作の冒頭と末尾から集められているということである。それによってインド文学の個人史を書くことが容易になり、より新しい時代については、古い時代についてはもはや名前だけからなる vaṃśa よりも幾分多くを提供しうるであろう。

§第 LIX 章 インド戯曲におけるギリシアの影響

§E. WINDISCH

生年からも、また Delbrück および Eggeling との関係からも、ここに位置を占めるのが Ernst Windisch、Leipzig のサンスクリット教授であり、1844年 Dresden に生まれた。1863年から1868年まで Leipzig で Georg Curtius と Fr. Ritschl のもとで古典文献学を、また傍ら Fr. Zarncke のもとでゲルマン学を、そして初めから H. Brockhaus のもとでサンスクリットと Zend 語を学んだ。当時の古典文献学者は、専門の厳密な区分なしにかなり幅広く研究を行っていた。G. Curtius により、とくに Leipzig では彼らは比較言語学へと引きつけられていた。1869年 Windisch は Leipzig でサンスクリットおよび比較言語学の教授資格を得、1870年復活祭から1871年夏まで英国で仕事をし、そこで最初 Eggeling に提供された Bombay の教授職を同じく辞退した後、1871年に同地の員外教授となった。英国では Eggeling および Haas とともに「Catalogue of the Sanskrit Manuscripts in the India Office Library」に従事した。これには Brockhaus の推薦によるものである。傍ら彼はケルト諸語、とくにアイルランド語の研究を始めたが、これもまた Brockhaus に

促されてのことであった(上、第I巻 S. 145 参照)。ケルト語の研究をサンスクリットと並んで晩年まで続けたことについては、博士号取得50年を記念する Oertel と Thurneysen の論説(Indogermanisches Jahrbuch für 1917)を参照。Windisch は1872年 Heidelberg、1875年 Straßburg で比較言語学の正教授職を得た後、1877年に Brockhaus の後任として Leipzig に招かれた。E. Windisch 70歳記念論集(Leipzig 1914)において、E. Kuhn がその多岐にわたる著作の当時までの完全な目録を与えている。Windisch の教授資格論文「インド・ゲルマン諸語における関係代名詞の起源についての研究」(Curtius の『ギリシア語・ラテン語文法研究』II 201–419、Leipzig 1869)は、比較統語論への最初期の寄与の一つであった。彼はこれを意味論の一部と捉え、まず文構成に役立つ語の語源的意味を確定することから出発し、Bréal の著作『Les idées latentes du langage』の意味において、統語的観念の発展、その文接続語への浸透を観察しようとした。Apollonios Dyskolos は指示代名詞について、πρώτη δεῖξις ないし δεῖξις τῆς ὄψεως と δευτέρα δεῖξις ないし ἀναφορά との区別を立てた。ἀναφορά すなわち既述のものへの単純な後方参照に、skr. yas、古イラン語 、gr. ὅς の文接続的関係代名詞の本質は、それが指示詞または三人称代名詞から発展した場合には、一般に基づいている。ἀναφορά の概念は Pāṇini においても立証しうる(anvādeśa, anūkti、S. 252 以下)。

共同の努力から Delbrück は Windisch と結んで『統語論研究』を刊行することとなった。第 LXI 章参照。彼の英国滞在と目録作業によって、Delbrück との共同作業はふたたび解消された。すでに1876年、Windisch は『比較言語研究論集』VIII S. 465 注において、イタリック語派およびケルト語派の異態動詞と受動態を、サンスクリットの形 reranraterata、およびそれに属する Veda 形(menire, bodheran, śerate, aśerata, aduhra, aduhrata 等)に結びつけていた。1887年になってようやくザクセン王立学術協会紀要に論考「アーリヤ語・イタリック語・ケルト語における R を特徴とする動詞形について」が現れた。Brugmann らはこの結合を受け入れた。Zimmer はさらにブリタニア諸語に立ち入った。比較を伴わない Veda 形の扱いにおいては、Benfey が Göttingen 王立学術協会論集 1871 で先行していた。Windisch の論考「ギリシア語とサンスクリットにおける人称語尾」(ザクセン王立学術協会報告 1889)は、人称語尾がその完全な意味において人称代名詞に根ざし、その毀損によって生じたという理論を — たとえば Curtius が想定したように gr. 中動 σαι が tva-tva からとするような — 打ち破った。Ludwig もこれに反対したが、古い毀損理論の代わりに新しい毀損理論を立てた。論考「思考する魂の座について」(報告 1891)における主要思想は、古代の諸民族においてこの座は頭ではなく心臓であるということであり、論考「混合語と借用語の理論に寄せて」(報告 1897)では彼はこう述べる。「学び取られた外国語ではなく、ある民族固有の言語が、外国語の影響下で混合語となるのである」(S. 104)。

最初の文学史的仕事は1874年、すでに上 S. 352 で言及した Hemacandra の Yogaśāstra 最初の四章の校訂と翻訳であり、これは Jaina 教説の知識への寄与であった(ZDMG. XXVIII 185–262、S. 678 参照)。Leipzig で彼は教授職を「バラモンの哲学について」という講演をもって開始した。これは雑誌『Im Neuen Reich』1878, I S. 801–817 に印刷されている。ここで彼はバラモン諸体系の構成を論じ、その議論の仕方の例を挙げている。バラモン哲学に関わるのが、Leipzig 哲学部の1887/8年度の学位更新プログラム「Nyāyabhāṣya について」でもある。Bibl. Ind. の校訂本では、より新しい注釈の著者 Viśvanātha の Nyāyasūtravṛtti には欠けている文が、ときに sūtra として印刷されている。かかる文は次いで、Mahābhāṣya の vārttika に比しうるものとして、解説的にくり返される。他の場合には、vṛtti において sūtra とされているものが、bhāṣya では単なる説明にすぎない。Nyāyasūtra の著者は Gotama および Akṣapāda と、bhāṣya の著者は Vātsyāyana および Pakṣilasvāmin と呼ばれる。最初の名は古い Veda 学派名である。こうした名称関係から Windisch は、一般に諸学問の発展に対する Veda 学派の意義を指摘する契機を得ている。

Weber の道を歩んだのは、Windisch が1881年 Berlin の第5回国際東洋学者会議で「インド戯曲におけるギリシアの影響について」という講演を行ったときであった(会議録 S. 3–106)。彼は当時、インド戯曲についてのこの見方において E. Brandes がデンマーク語訳 Mṛcchakaṭikā(「Lervognen, et Indisk Skuespil」、Kjöbenhavn 1870)で先行していたことを見落としていた。両者はその際ギリシア悲劇ではなく、Plautus と Terenz によって知られる新アッティカ喜劇を考えている。幕への区分、場面の進行は類似の性質のものである。Yavanikā と呼ばれる幕は、その名称においてギリシア人を示唆するように見える。筋の主要動機は恋愛関係である。類似が最も大きいのは、王と王女や伝説上の人物ではなく、戯曲 Mṛcchakaṭikā における商人 Cārudatta と遊女 Vasantasenā のような日常生活の人物が問題となる場合である。戯曲 Mālavikāgnimitra と Ratnāvalī の王たちはとくに高い地位にはない。恋する者が、インド人においてはインドの衣装で、ギリシア人においてはギリシアの衣装で登場することは驚くに当たらない。作品中の若干の類似は、文化段階の類似からも説明される。偶然とはほとんど考えられぬ奇妙な一致は、再認の動機、gr. ἀναγνωρισμός、skr. abhijñāna である。vidūṣakaviṭaśakāra の性格人物は、多かれ少なかれ servus currensparasitusmiles gloriosus に対応するものとしてインド戯曲に置かれているように見える。インド人の prastāvanāprologus と紛れもない類似をもつ。Goethe の『Faust』におけるインドの序詞と sūtradhāra の模倣は一般に認められている。しかし同学の士は主としてインド戯曲におけるギリシアの影響を否定した¹⁾。Pischel と Jacobi はすでに

¹⁾ H. Reich は的確にこう述べている(DLZ. 1915, Sp. 555)。「東方か西方かという問題では、古典文献学者は東方の影響の証明にあまりに批判的に対し、逆に東洋学者はヘレニズムの影響の証明に批判的に対しがちである。誰しも、いくらか嫉妬深く、とりわけ自らの愛着する文化をできるだけそれ自体から純粋に説明したいと願うのである」。

同会議の討論で(会議録 I 81)そうであった。L. v. Schroeder はその著『Indiens Literatur und Cultur』(Leipzig 1887)S. 598 以下で Windisch の論拠を無効にしようと試み、Sylvain Lévi もまたその著『Le Théâtre Indien』(Paris 1890)S. 196 以下で同様であった。Lévi は Śūdraka の Mṛcchakaṭikā が Kālidāsa より古いとは確信していない(S. 207)。Śūdraka は、Vāmana の Kāvyālaṃkāravṛtti に現れるとはいえ、伝説的人物に属する。Lévi の書の紹介(Gött. gelehrte Anzeigen 1891, S. 353 以下)において、Pischel はふたたびギリシアの影響の否認に立ち返る。A. Barth もまた Rev. Crit. で反対を表明していた。しかしインド人の戯曲がまったく外部に由来するとは誰も考えなかった。むしろ一定の形において彼らのもとに本来から存在したのである。このことは、Mahābhāṣya の俳優と吟誦者についての、また神々の物語と伝説の劇的上演についての記述から明らかである(上 S. 335 参照)。後者は、Mahāvīracarita、Veṇīsaṃhāra のような、確たる筋をもつ土着の戯曲の古い素材をなし、それはくり返し貫徹してきた。これらと区別されるのが、創作された恋愛物語と、vidūṣaka 等の性格人物を配した戯曲である。これらにおいてこそギリシアの影響を十分に考慮しうるのであるが、その影響はさらに他の点でも作用したであろう。両種の間には時とともに混淆が生じたにちがいない。かかる一例を Windisch は論文「戯曲 Mṛcchakaṭikā とこの戯曲における Kṛṣṇa 伝説について」において証明しようとした。彼はこの戯曲を最古のものと見なしていた(ザクセン王立学術協会報告 1885, S. 439–479)。ここには二つの主要素材、すなわち Cārudatta と Vasantasenā の恋愛物語のほかに、Kaṃsavadha を思わせる政治的出来事がある。王 Pālaka は Kaṃsa に、Āryaka は Kṛṣṇa に対応する。

ギリシアの影響を支持したのは、論考「インドにおけるギリシア人」(Berlin・アカデミー報告 1890年7月17日)における Weber のほか、Vincent A. Smith「Graeco-Roman Influence on the Civilisation of Ancient India」(Journal ASB. LVIII Part I, No. 3, Calcutta 1889)であった。インドの地におけるギリシア劇場の正式の証明は、1904年 Theodor Bloch の書簡による報告「インドにおけるギリシア劇場」(ZDMG. LVIII S. 455–457)がもたらした。彼はそれを人里離れた地方、Chota Nagpur の Tributary States のうち最大の Sirguja State の Ramgarh Hill への旅行の途上に見、その構造をこう記している。「半円形に、階段状に重なって、一連の座席が刻み出され、それが放射状の線でさらに区分されており、まったくギリシア劇場の様式である」。この円形劇場はおよそ30人の観客を収容しえたであろう。この洞窟は Sitabenga 洞窟の名で知られる。Bloch はその碑文をも扱っている。彼の早すぎる死は、遺憾ながら彼が意図していた図面と写真の Archaeological Annual での公刊を妨げた。この件に関わるのが、同じ ZDMG. 第 LVIII 巻(1904)S. 867 以下の Lüders の小論「娯楽地としてのインドの洞窟」である。Lüders は Kālidāsa における dārīgṛhaśilāveśma「岩の家」に注意を促し(Kumāras. I 10 および 14、Meghad. I 25)、また Mathurā のより古い Jaina 碑文から、インドの他の多くの洞窟が静かな僧の住居ではなく、gaṇikāleṇasobhikā およびその愛人たちの逗留所であったという確信を得、当時 Bloch の「ギリシア的」

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劇場と、直後に述べる mimus についての Reich の所説とに鑑みて、インド戯曲と古代の mimus との関連を主張した。

ギリシア問題は Hermann Reich の著作『Der Mimus。文学発展史的試論』によって新たな転回を得た。まず第1巻が二部に分かれて Berlin 1903 に現れた。第2巻は mimus・小説・短篇を扱う予定であった。もっとも Kālidāsa の時代にはギリシア人の王たちの時代は過ぎ去っていたが、インドの詩人への影響はすでにより早く隠れた形で生じていたということはありえよう。Reich は、その全体の姿勢が一連のインド戯曲にとくに類似する新アッティカ喜劇の代わりに mimus を置き、I 56 以下でその本質の記述を与えた。mimus は新アッティカ喜劇に次ぐ、一部は非文学的な、より民衆的な形の演劇であり、Caesar と Cicero がこれを愛好した。それは人間の弱さをインド戯曲よりもはるかに多様な仕方で扱い、その洗練された文学的形式にはあまりそぐわない。「mimus 役者の標識は phallus である」(I 2, S. 626)。姦通 mimus や盗賊 mimus をインドで思い起こさせるものはない。民衆語が優勢な対話の散文と並んで、高められた言語をもつ mimodie がある(I 2, S. 571)。

ビザンティンの mimus は最後にトルコ的東方において民衆的な人形劇 Karagöz となった。Reich はこれを I 2, S. 618 以下で論じ、しかし S. 694 でふたたび mimus に、それがインド戯曲のうちにいかに再認されうるかに立ち返る。Shakespeare においてもそれは生きている。Reich 以前にすでに Klein はその『戯曲史』III 85, 87 で Mṛcchakaṭikā を Shakespeare と比較していた。個々の確定的な事例は立証できないとしても、Reich は一般的な理由から、mimus 役者がインドへ移動したことを蓋然的にしている。彼らが登場したところでは、否応なく、直接ないし間接に思考と作詩の仕方に影響を与えざるをえなかった。

ここに Pischel の二論考が関わってくる。まず彼の Halle 学長就任講演「人形劇の故郷」(Halle 1900)である。徹底した学識をもって、しかしまた奇矯な結論への傾向をもって、彼は「人形劇こそそもそも演劇の最古の形式である」ことを蓋然的にしようとする。インドにおいてはそれは確実だという。そしてそこにこそその故郷を求めるべきだという(S. 6)。彼の主要論拠は、紀元10世紀の Rājaśekhara の Bālarāmāyaṇa において人形遣いが sūtradhāra「糸を持つ者」と呼ばれていること、そしてこの語で古くから劇団の座長が呼ばれるのが常であったこと、他方でもう一つの重要な語 sthāpaka「立てる者」は第一義的には人形の製作・修理・設置を担当する男を指したこと、である(S. 9, S. 12)。Reich の著作に Pischel は言及していないが、当時アラビア学者 Jacob が Karagöz について詳しく書いていた。Pischel はサンスクリット文献において精巧な、語る人形が現れる箇所を集め、また Karagöz、Pickelhering、Hans Wurst、Kasperle、Arlecchino、Punchinello(Punch)、Policinello の登場について知ることのできる著作を紹介している。民衆劇の Hans Wurst、人形劇の Kasperle は Vidūṣaka と同一だという(S. 19)。Pischel はここでまた Ṛgveda の対話讃歌をも論じ、それについてはまず Windisch が、

本来は詩節のみが固定されており、その連関は朗誦者が散文の物語によって示したのだという推測を述べた、という。それによって吟誦者に対する granthika「結びつける者」という名称も説明されるという(S. 14)。

第二の論考「古代インドの影絵芝居」(Berlin・アカデミー報告 1906 Nr. XXIII, S. 1–21)において、Pischel は Bloch のギリシア劇場についての報告から出発する。Bloch の記述したこの劇場がギリシア的形態をもつことは争いえない。Pischel は、これらの洞窟劇場で人形劇と影絵芝居が上演されたと想定する。Shankar Pāṇḍurang Pandit はその Vikramorvaśīya 校訂本で、今日に至るまで人形と紙の像による上演が、インドの農村住民の知る唯一の演劇であると強調していた(S. 4)。影絵芝居についての箇所を見つけ出すのは困難である。

chāyānāṭaka「影絵芝居」と呼ばれるのが、Subhaṭa の Dūtāṅgada である。これは紀元13世紀に王 Kumārapāla の追悼式典で上演されたもので、Durgāprasād と Kāśīnāth Pāṇḍurang Parab により Kāvyamālā(Bombay 1891)に刊行された(S. 15)。この作品に Pischel は詳しく立ち入っているが、Lévi が Chāyānāṭaka と呼ぶ他の作品については何も言えない。Pischel は Dūtāṅgada と Hanūman- ないし Mahā-nāṭaka との関係を見出す。もっとも後者は Rāmāyaṇa の素材全体を扱うのに対し、前者は一挿話、すなわち Sītā を返還させるために猿 Aṅgada が Rāvaṇa へ送られる使者の話のみを扱う(S. 17)。Mahānāṭaka のうちに劇詩よりむしろ叙事詩を見るべきことは、すでに Max Müller が述べていた(S. 18)。これらの作品が影絵芝居として上演されたことは何も知られないにもかかわらず、Pischel は Chāyānāṭaka を古い民衆的影絵芝居の文学的発展形と見なす。すなわち古い時代における影絵芝居の証明によって、インド戯曲の発展における最後の空隙が埋められるという(S. 20)。この証明を彼は、散発的な箇所で rūpopajīvana を「影絵遣いの技」と、rupparūpaka を影絵芝居と解することで果たしたと考えており、その際 rūpadakṣa と、それと同一である Sitabenga 洞窟碑文の lupadakhe(彼の見解では「写字生」)をも扱っている(S. 13)。しかし最古の文献から演劇上演について知られるすべてから見て、それは最も古くは人形や影絵像によってではなく、生身の人間によって直接に行われたと思われる。ギリシアの影響について Pischel は依然としてまったく認めようとせず、そのようなものがそもそも不可能であったかのごとくである(S. 20)。

Reich は、その mimus 研究の圧倒的な成功について、1915年3月20日の Deutsche Literaturzeitung Sp. 477 以下、541 以下、589 以下で満足をもって報告している。すなわち「Antike Romane, Novellenkränze und Schwankbücher、その発展史と mimus への関係」、Berlin 1915 である。インドの事情にはとくに第三の箇所 Sp. 589 以下で立ち入っている。Pischel が与えたインド戯曲の発展像を、彼はありそうにないものとして退ける。東方におけるギリシア mimus の普及については、Joseph Horovitz「東方におけるギリシア mimus 役者の痕跡」を援用している(Sp. 553)。Grenfell と Hunt が Oxyrrhynchus パピルスから1903年に公刊した笑劇がインドの海岸を舞台とすること、また

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そこに登場するインド人が自らの言語で語ることを、Pischel が非ギリシア的で東方喜劇の特徴的な性格と見なすのに対し、Reich は、Plautus の『Poenulus』におけるカルタゴ人のように、すべての人物にその固有の方言と言語で語らせることこそ古代 mimus の特色だとする(Sp. 591)。また Wundt は、その『民族心理学』II(『神話と宗教』)I, S. 463–526 において1905年に「mimus と戯曲」の関連について教えるところの多い論述を行っているが、S. 488 で Pischel の理論を「心理学的にきわめて異常なほどありそうにない」ものと呼び、Pischel がいかにしてかかる理論に陥りえたのか驚かざるをえないとしている。

Reich が L. v. Schroeder の書『Mimus und Mysterium im Rigveda』を自らの研究の成果に数えうるのに対し、Oldenberg はギリシア mimus をインドに認めようとしない(『Die Literatur des alten Indien』S. 244 以下)。すなわちインド戯曲はインドの生活をインド的形式で描いている、と。これに対して Reich は、ギリシア mimus は生物学的であり、人間生活を普遍妥当的な形で捉えるがゆえに容易に移植可能である、と述べる(Sp. 592)。Oldenberg の異論は彼に、インド戯曲においてギリシア mimus に帰する諸点をもう一度論ずる機縁を与えた。

Windisch の仏教関係の仕事は、仏教文献学の歴史についての後の章で位置を得るであろう。ここではなお彼の Veda 研究を回顧しておく。それはわれわれを次章において、とくに Oldenberg が行った Ṛgveda の Ākhyāna 讃歌と叙事詩・戯曲の起源についての研究へと導くであろう。Sāyaṇa からのある種の離反に対して、Windisch はその注釈の研究への入門を、chrestomathy『Sāyaṇa の注釈を伴う Ṛgveda の十二讃歌。本文。Sāyaṇa への語彙集。付録』(Leipzig 1883)によって与えた。付録の一つには、Sāyaṇa が用いた Sarvānukramaṇī の簡潔な表現法についての paribhāṣā すなわち技術的規則が初めて伝えられており、これなしには同書は十分に理解されえない。序文では Sāyaṇa の解釈の弱点、とりわけ歴史的感覚の欠如と、難解語の説明のためのしばしば受け入れがたい語源説が指摘されている。若干の小さな Veda 関係論文は E. Kuhn が記念論集の目録に記載している。

Gera の文献学者大会での講演「古アイルランドの伝説 Tāin Bó Cúalnge(C. の牛の掠奪)について」(Leipzig 1879、会議録 S. 15–32)において、Windisch は、古代インド文献に再現する文学的事情に注意を促した。古い伝説は散文で語られる。韻文化の第一段階は、主要人物に詩、すなわち独白と対話が置かれ、彼らがその作者と見なされるようになることである。このようにして Ossian は詩人となった。古代インドからは、類似の文学史的現象として Ṛgveda のいわゆる Ākhyāna 讃歌が問題となる。これらは特定の伝説や神話に関わるが、そのうち韻文化された言葉のみを含み、他方物語は文字どおりに固定されず散文で存在したと考えねばならない。かかる出発点から見れば、叙事詩の発展においては、物語部分の韻文化が最後に来ることになる。その前段階を、われわれは Brāhmaṇa において完全な文学類型として見出す。すなわちそこでは伝説が散文で語られ、韻文形の言葉すなわち gāthā が挿入されている。叙事的物語のこの段階は Mahābhārata においても仏教文献においても立証しうる。最後には叙事的

素材はその物語部分においても韻文化され、文献においてはそのような形で存在するのである¹⁾。

§第 LX 章 ĀKHYĀNA 讃歌

§叙事詩と戯曲の起源

戯曲におけるギリシアの影響の問題と、Ṛgveda の Ākhyāna 讃歌と、インドにおける叙事詩・戯曲の起源との間には、研究上ある種の関連が存在する。Ākhyāna 讃歌の問題を Oldenberg はくり返し扱った。最初は論考「古代インドの Ākhyāna、とくに Suparṇākhyāna に留意して」(ZDMG. XXXVII(1883)S. 54–86)においてであり、Windisch とは独立に(S. 79)。Ṛgveda に属する Suparṇākhyāna は韻文の対話からなり、その本文は多く毀損しており、その連関はただちには理解しがたい。これらの詩節の関係は Śatapathabrāhmaṇa から明らかになる。そこではそれらが散文の物語と結びつき、関係人物の韻文化された言葉として現れるのである。類似のことを Oldenberg はある仏教の jātaka において観察した。叙事的詩作は、出来事の物語と人物の言葉から構成される。言葉は一部は韻律的形式に、すなわち gāthā と呼ばれる詩節に収められ、物語に支えを与えた。物語のほうは自由な散文の形に委ねられていたが、やがてそれも固定され、詩節と合わせて伝えられるようになった²⁾。かかる完全な Ākhyāna として Oldenberg は Aitareyabrāhmaṇa の Śunaḥśepa 物語を挙げた。そこにはその散文の物語と gāthā とがあり、神々への祈願に際してはさらに Ṛgvedasaṃhitā の讃歌も引き入れられているが、その本文の文言どおりではない(S. 80)。Windisch と一致して、Oldenberg は Ṛgvedasaṃhitā のうちに一つの

¹⁾ Windisch は前掲書 S. 28 でこう述べている。「いま論じた文学史的事情について、古代インド文献はきわめて興味深い類似の現象を提供する。Brāhmaṇa には多くの伝説が含まれ、それらは散文で語られるが、しばしばそれに詩節が添えられており、gāthā の名で知られる。これもまたここでは詩作の前叙事詩的段階である。これらの gāthā も同様に言葉、独白または対話であり、かの古アイルランドの詩と同じく伝説の主要人物の口に置かれている。私はただ Aitareyabrāhmaṇa 第7巻の Hariścandra と Śunaḥśepa の伝説を思い起こさせるにとどめる。いやそれ以上に。Ṛgveda 第10巻には、apsaras Urvaśī と Purūravas の対話からなる一詩がある。そこではそれはほとんど理解しがたい。というのも、それは枠物語から切り離された詩だからである。よりよく理解しうるのは、Śatapathabrāhmaṇa 第11巻においてであって、そこには同じ詩節が、それらが関わるはずの伝説の只中に見出される。いずれにせよそれらは Purūravas と Urvaśī の口に置かれた詩節である。そしてこれに結びついて、後代のインドの学識はこの二人をこの歌の作者としたのである。まったく同じ仕方で Ossian は多くの著作の詩人・作者となったのである」。

²⁾ Oldenberg の言葉は S. 79 で次のとおりである。「われわれはこの類比に従って Suparṇākhyāna について結論する。それは — このことはもはやほとんど疑いえない — 散文的要素と韻律的要素の混合であったにちがいない。より重要な対話は韻文にあり、ときには物語自体のとくに際立った要点もそうであった。しかし詩節は散文の被いに包まれていたと考えるべきであり、その被いは — まさに固定された文言をもたなかったがゆえに — われわれにはほとんど伝わっていない。ちょうど仏教聖典の集成において jātaka の散文の被いに出会わないのと同様である」。

かかる叙事的作品として、Purūravas と Urvaśī の讃歌(Ṛgv. X 95)を見なした。その際、Śatapathabrāhmaṇa(XI 5, 1, 10)におけるその補完を指示している。Oldenberg はこの重要な文学的現象を第二の論考「Ṛgveda における Ākhyāna 讃歌」(ZDMG. XXXIX(1885)S. 52–90)でさらに追究した。彼はここで冒頭で事実を次のように定式化する。「一連の事例において、かかる Ākhyāna の韻律的構成部分のみが — 主としてそれは物語の連関に織り込まれた言葉と対話である — 初めから確たる文言において固定され伝承された。これに対し、それらの詩節を結び、対話部分に事実の経過の記述を加えていた散文は、伝承においてまったく欠けているか、あるいは属する詩節よりも新しい伝承層においてのみ、注釈者の手を経てわれわれに達したのである」。Oldenberg はまず Ṛgv. VIII 100「Indra、Vāyu、Vṛtra との戦い、言葉の創造」から始める。彼は、Bṛhatkathā ではこれらの Ākhyāna 讃歌において物語部分もまた韻文に収められていることを強調する。Windisch はその著『Māra und Buddha』(Leipzig 1895)S. 222 で、世界文学の他の箇所でも叙事詩の発展が論じられた経過をとったことを述べた。「しかし叙事詩は、言葉に加えて枠物語もまた韻律的形式に収められることによって初めて完成する。最後の段階は、言葉が後退し、出来事のみが韻文で語られることである」。Aitareyabrāhmaṇa においてより古い散文形で gāthā を挿入して伝わる Śunaḥśepa 伝説は、Rāmāyaṇa では完全に韻文化され、完成した叙事詩として含まれている。両形とも Böhtlingk の Chrestomathie 第2版・第3版に採られている。この chrestomathy と Stenzler の『サンスクリット語初等読本』には、なお他の作品が叙事的固定と物語法の種々の段階において含まれている。すなわち Böhtlingk では、この文学史的発展の問題においてとくに重要な、なお散文で語られる Mahābhārata の伝説のうち、Janamejaya の兄弟による Sārameya の虐待から始まる Pauṣya 巻の物語が、Stenzler-Pischel では Mahābhārata 第3巻から蛙の王女と Vāmadeva の物語が採られており、いずれも詩節が挿入され、韻文化が始まりつつあるものである¹⁾。Stenzler-Pischel には同じ箇所から、完全に韻文化された

¹⁾ 一部やや拙劣な詩節のいくつかは正しく理解されてこなかった。Stenzler-Pischel 第8版 S. 70, 28行以下の Mā maṇḍūkān の詩節は次のように訳すべきである。「蛙を殺そうと欲するな、汝の怒りを抑えよ|愚かな人々の大いなる富は失われる‖約束せよ、汝は彼らを殺すまいと、汝が彼らを得たならば、汝は怒りを去らせるであろう‖汝は十分に不正をなした、殺された蛙から汝は何を得るのか」‖ いくつかの詩節は異なる人物の言葉を含む(Mṛcchakaṭikā 第5幕から類似のものを知るように)。S. 72, 22行では「バラモンのために狩は作られたのではない」という言葉のみが王の言葉であり、第2 pāda は Vāmadeva の返答を含む。「今日より偽りを語る汝に、私は教えを与えぬ」。第3・第4 pāda ではふたたび王が語る。「汝の教えのすべてを断念することによって、おおバラモンよ、私は清らかな世界を得たい!」。これを彼は S. 73, 29行の詩節で撤回する。そこでは第1・第2 pāda のみが Rājaputrī の言葉である。「しかるべく、おお Vāmadeva よ、私は日ごとに彼を、罪を負うた彼を、諭します」。第3・第4 pāda を語るのは王であり、それゆえ mṛgayan は文法的にまったく正しい。「バラモンに対する親切に努めることによって、おおバラモンよ、私は清らかな世界を得たい!」。— 初等読本第9版では Geldner がこれらの興味深い Mahābhārata のテキストを Nala と Damayantī の最初の数章で置き換えた。

Cyavana と Sukanyā の伝説があり、これについては Böhtlingk のもとに、より古く短い、全体が散文の版が Śatapathabrāhmaṇa から伝えられている。

Oldenberg の最初の論文よりさらに前に、叙事詩と戯曲の起源と発展にとって重要な著作「The Yātrās; or, The Popular Dramas of Bengal, by Nisikānta Chattopādhyāya」(London 1882、ドイツ語では彼の『Indische Essays』に収む)が現れていた。著者はその不正確なサンスクリットが示すように本来の paṇḍit ではなく、近代の Bengal 人であり、数年をドイツ(Leipzig)とスイスで過ごした。土着の事情についての知識に加えて、彼は比較文化史・文学史についての包括的な知識を得ていた。彼はくり返し J. L. Klein の『戯曲史』に言及しており、そこではインド戯曲も熱烈な賛辞をもって扱われている。またヨーロッパのサンスクリット学者の著作、とりわけ Wilson と Lassen のそれをも利用している。Yātrā はまず「religious processions in connection with the history of the popular god, Krishna, which take place three times every year, in spring (vasanta), rainy season (varṣā) and autumn (śarat)」を指し、次いで「a species of popular dramatical representations」を指す。これは本来はおそらく右の三大祭においてのみ上演されたが、今日ではもはやこれらの時期に限られない(S. 2)。内容をなすのは主として Kṛṣṇa と Rādhā その他の牧女たちとの恋愛関係であるが、N. Ch. の挙げる八つの題名のなかには大叙事詩に由来するものもある(Rāmavanavāsa-, Kurukṣetrayātrā 等)。これらの Yātrā の大部分は記録されず、跡形もなく失われた。N. Ch. は民衆的上演そのものにではなく、東 Bengal Dacca の「the spiritual or ecclesiastic guide of several respectable communities」である Śrī Kṛṣṇakamala Gosvāmī が、ときに卑猥な民衆的上演を駆逐するために著し刊行した作品に依拠した。すなわち Svapnavilāsa-, Divyonmāda-, Vicitravilāsa-yātrā である(S. 3)。Gosvāmī の第二作を N. Ch. は部分的に訳している(S. 36 以下)。恋人たちは離別しており、Kṛṣṇa を求める牧女たちの会話と歌は、同じく Bengal 起源の Jayadeva の Gītagovinda とこれらの Yātrā との最も近い親縁性を示す。すなわち Gītagovinda において Yātrā がサンスクリット文学に導入されたのである。Yātrā の存在はさらに古い時代についても推定しうる。Kālidāsa の戯曲 Urvaśī の第4幕は Yātrā に倣ったものであり、これはすでに Bollensen がその校訂本 S. 507 で認めていた。Urvaśī との離別に狂した王は、Kṛṣṇa と牧女たちと同じ仕方で語り、歌い、身振りをする。王は Kṛṣṇa の役を引き受けたのである(Bollensen)。第4幕のこの手本から、王がここでサンスクリットではなく Apabhraṃśa で語ることも説明される。Yātrā は民衆語で上演されたからである。同じ動機、恋人たちの離別は、Kālidāsa の Meghadūta からも響いてくる。Nisikānta Chattopādhyāya は、Yātrā が幕に分けられていないこと(S. 8)、また Vidūṣaka と Viṭa の人物が欠けていること(S. 10)を強調する。Nāndī と Prastāvanā は存在するが、Sūtradhāra の代わりに Adhikārī が現れる(S. 7)。内容豊かなこの著作では、Bengal 文学史、Bengal 語史、および Bengal の政治史も叙述されている。後者については N. Ch. は Lassen に依拠している。言語史においては彼は、著作家たちが Bengal 語をますますサンスクリット語すなわち tatsama で過重にしてきたことを嘆いている。

十年後、Geldner の示唆による著作『Ṛgveda の伝説素材とインドの itihāsa 伝承、Emil Sieg 著』(I と記す、Stuttgart 1902)が現れた。Sieg はここで、文献では通常 Itihāsa と呼ばれる古い Ākhyāna についての記述を、周到に研究している(S. 17)。彼の文献学的研究は viniyoga すなわち讃歌ないし個々の詩節の用途・使用から始まる。すべての Ṛgveda 歌謡の一般的(sāmānya)使用、すなわち「それら自体のために学派で教えられ、学ばれ、私的に復誦された」(S. 3)ということのほかに、なお種々の特別な viniyoga がある。Durga や Sāyaṇa のような権威によれば、saṃvāda を含む讃歌はその viśeṣa-viniyoga においてまさに Ākhyāna のために定められている(S. 2)。この記述 — これはわれわれの Ākhyāna 讃歌理解とよく調和する — によって、詩人たちが何の目的でそれを作ったのかという問いは答えられる。すなわち詩的形成のため、その内容の固定のためである。さらに次の問いが生ずる。Bṛhaddevatā に、Sāyaṇa の注釈に、また他の著作に語られる Ākhyāna ないし Itihāsa は、古い伝承にもとづくのか、それとも讃歌に含まれる記述からのみ組み立てられたものか。ときにそのように見えることもあるが、それでも確かに生きた古い伝承が本来存在したのである。それは、すでに Yāska が挙げる Aitihāsika の名が証明する。Sieg はこれを Ṛgveda 解釈者の一つの特別な方向・階級として扱っている(S. 13 以下)。彼は mantra の解釈において祭儀主義的、哲学的、語源的、および歴史神話的学派を区別している(S. 7 以下)。Sieg はこれらの事情に関わる記述の価値ある集成を与えている。すでに Śatapathabrāhmaṇa その他の Veda 文献において、Purāṇa が Itihāsa と並んで現れる(S. 21)。並列複合語 Itihāsapurāṇa は第五の Veda と呼ばれる。Sieg はこれらすべての名称の用法についての研究を Mahābhārata にも及ぼした。これは Itihāsa である。集合語 Itihāsapurāṇa が第五の Veda と呼ばれるからには、すでに Brāhmaṇa の時代に流動的な形で伝説の宝庫が存在したはずである。しかし Mahābhārata は古い Itihāsa とは一致せず、古い Purāṇa はこの名の後代の集成書とは異なるものであった。Sieg の古い Itihāsa の体系的集成には、Mahābhārata、とりわけ第 I・III・XII 巻、および Rāmāyaṇa も寄与している。Sieg の強みは空想に富む推測にではなく、伝承されたものの方法的な活用による、特定の讃歌すなわち Ṛgveda の Ākhyāna 讃歌の解明にある。選択は彼の完全な Itihāsa 資料によって規定されており、そこから出発して彼は、その著作以前に現れた Geldner と Pischel の『Vedische Studien』を越えることができた。それは Śārṅga すなわち「雀たち」の Itihāsa から始まる。彼らは Khāṇḍava 林の大火の時代の ṛṣi であった。問題となるのは讃歌 Ṛgv. X 142 であり、S. 49 で彼はこれを訳している。次いで Śyāvāśva Ātreya が来る。Anukramaṇī はこれを Ṛgv. V 52–61, 81, 82、VIII 35–38、IX 32 の讃歌の ṛṣi とする(S. 50)。彼はこれらのうち S. 57 で、Grassmann が付録に追いやった Marut 讃歌 V 61 を訳し、その Itihāsa にはさらに IX 58 をも引き入れたいとしている(S. 63)。Hillebrandt と Oldenberg に対して彼は、Agni 讃歌 Ṛgv. V 2 が、Ikṣvāku 族の

王の御者である ṛṣi Vṛśa Jāna の Itihāsa に関わることを固持し、S. 69 でこれを訳している。彼の先入見なき批判がとりわけ輝かしく発揮されるのは、第4 Maṇḍala の ṛṣi である Vāmadeva の関与する Itihāsa においてである。彼はここで主として讃歌 Ṛgv. IV 18, 26, 27, 42 を扱う。Itihāsa の内容は「Vāmadeva の誕生」(S. 76)、「Vāmadeva が Indra を売る」(S. 90)、「Vāmadeva と Trasadasyu」(S. 96)という表題によって示唆されている。Vāmadeva には奇跡的な誕生が付会されている。Sieg は Itihāsa の種々の異本から、Ṛgv. IV 27, 1 の言葉「母胎にありながら私は神々のすべての誕生を知っていた」が、Vāmadeva ではなく Indra によって語られていることを確定する。本来問題であったのは Indra の奇跡的誕生であって、Vāmadeva のそれではない。Ṛgv. IV 42, 8 については、daurgaha が馬の名であることを論証している。さらに Dadhikrāvan が Trasadasyu の軍馬であったと推測する(S. 101)。Maitrāvaruṇi Agastya についての節(S. 105 以下)では、Mitra と Varuṇa の精液からの彼の奇跡的誕生、Indra および Marut との会話が扱われ、彼の讃歌のうちとくに Ṛgv. I 165 が Oldenberg と一致して Itihāsa の立場から説明される。Pischel と同じく Sieg は Ṛgv. I 116, 15 の Viśpalā を競走馬と見なし、paritakmyāyām を「決戦の際に」と訳す(S. 129)¹⁾。最後の箇所で Sieg は、Devāpi とその弟である王 Saṃtanu に関して伝承にある諸困難を、物語の異同のうちに、後に融合した二人の Devāpi を区別する手がかりを見出すことによって、みごとに解決している。年少の Devāpi に固有の特徴は、とりわけ Purāṇa に見出される。年長の Devāpi についての Itihāsa は Yāska と Bṛhaddevatā が語り、その記述は讃歌 Ṛgv. X 98 にとって十分であり、この讃歌を Sieg の推測によれば後代の詩人が、同じく降雨獲得の目的のために自らのものとしたのである(S. 141)。Sieg の著作には劇的上演の痕跡もイラン主義の痕跡もない。それは古い伝承の価値を証明するが、同時にその可変性、古い素材の死滅と新しいものの出現をも認識させる。Kielhorn の一写本から Sieg は Dyā(ママ!)Dvivedā の Nītimañjarī を記述している。彼は Sāyaṇa を利用した。Max Müller は逆の関係を想定していた。Nītimañjarī は処世の規則を śloka で集めたもので、著者自身による散文の注釈を伴う。nīti の規則は Maṇḍala ごとに Ṛgveda から採られ、その詩節と Itihāsa によって例証されている(S. 39)。この著作については Keith が Sieg 以前にすでに二論文を公にしていた。「The Nīti-Mañjarī of Dyā Dvivedā」と「A Nītimañjarī Quotation Identified」(JRAS. 1900 S. 127 以下および S. 796 以下)である。

Ākhyāna 理論には、以前に Geldner が『Vedische Studien』I(1889)S. 284 以下で同意しており、そこで彼はこれらの問題を詳しく論じ、S. 243 以下では Ṛgveda における Purūravas と Urvaśī をも論じている。また Lüders もその Ṛśyaśṛṅga 論考 S. 39 以下で同意した。これに反対したのは J. Hertel であり、論考「インド戯曲と叙事詩の起源」(Wiener Zeitschrift für die Kunde des Morgenl. 1904, S. 59–83、

¹⁾ 私がここでも他の箇所でもこうした細目を挙げるのは、文献学の歴史においては、個々の箇所や語のほうが、より大きな文学的複合体や一般的問題よりも、しばしば文献学者の注意を引いてきたことを考慮すべきだからである。サンスクリット文献学の歴史とサンスクリット文学の歴史とは別のものである。

S. 137–168)においてである。Hertel は、saṃvāda を含む Ṛgveda の讃歌のうちに、インド戯曲への最初の萌芽をわれわれが見ているのだということを蓋然的にしようとする(S. 138)。それらは、それ以上の付加なしに、語る者たちによって歌われつつ上演されたという。この見解に対して Oldenberg は、インド人自身が語るのは Suparṇa-ākhyāna であって、この名の戯曲ではないことを主張した。われわれはさらに、Hertel の推測では、発展した戯曲の対話は散文ではなく韻文で書かれていなければならないはずだと付け加える。発展した戯曲における詩節は、むしろ散文と韻文の混合からなる形における Ākhyāna の詩節と類似の位置を占めるのである。しかし Hertel は次の点では正しいであろう。すなわち、Saṃvāda 讃歌は、理解可能となるために必ずしも、伝説や神話が散文で完全に語られるのと結びついて朗誦される必要はなかった、という点である。これらの物語は当時一般に知られており、Saṃvāda の説明のためにわざわざ朗誦される必要はなかったのである。Hertel は Paṇi 讃歌の考察を Schiller のバラード「Hektors Abschied」から始めているが、バラードの本質 — 本来は舞踊歌である — にはより深く立ち入っていない。すべての詩節は、インド人によって韻律に応じて異なる仕方で、歌うような調子で朗誦される。そのために彼は Bühler と Hultzsch の発言を引いている。Veda 時代にもすでにそうであった。歌唱の仕方はさまざまであり、udgātar の gāyati と hotar の śaṃsati ないし arcati を思い起こすだけでよい。また本来の旋律と歌うような朗誦とは区別されるべきであろう。ドイツ民謡との比較から、彼は Veda の歌においてもリフレインが「歌いうる歌」の特徴であることを学ぶ(S. 74)。Saṃvāda 歌からのインド戯曲の発展のために、Hertel は他の文学における類例、とりわけわれわれの中世の戯曲の歴史における類例を参照する(S. 139)。saṃvādāḥ は叙事的性質のものではなく劇的性質のものである(S. 150)。互いに属し合う讃歌 Ṛgv. X 51–53 を、彼は戯曲の幕にさえ配分する(S. 154)。同様に彼は Naḷinikājātaka のうちに一つの小戯曲の幕を区別するが(S. 158)、少なくとも古い時代には仏教徒には上演を観ることが禁じられており、したがっておそらくそれを作ることも禁じられていたことを考慮していない。

Hertel と一致して、L. v. Schroeder はその内容豊かな著書『Mysterium und Mimus im Rigveda』(Leipzig 1908)において、Ṛgveda の Saṃvāda 讃歌を小戯曲と見なす。しかし Hertel が文学的戯曲の発展をそれらから始めさせるのに対し、v. Schroeder はかかる関連を否定する。それらはむしろ、舞踊と結びついた劇的な歌謡という先史的様式の終結であったはずだという(S. 69)。それは今日でも自然民族の祭において観察されているものである。Hertel がわれわれの中世における教会劇の発展における類例を指示するのに対し、v. Schroeder は戯曲の前形態を、メキシコ人や Cora インディアンに一般的な舞踊のごときものと考える。かかる祭時の舞踊は Faröer 諸島に残存しており、そこから v. Schroeder はインド・ゲルマン原始時代におけるその存在を推論する。インド戯曲が Gītagovinda のような歌劇から発展したという説は、すでに Lassen その他の見解であった。いずれにせよ v. Schroeder には、この理論をその類例と論述によってある程度まで具体的なものにした功績がある。この際の舞踊とは、輪舞、律動的な歩行、またそのほか

内面の生を表現するための身体の動きと身振りと解すべきである。豊穣の神々ないし精霊の崇拝が問題となるところでは、自然民族のこれらの舞踊においては phallus 的動作を伴う情欲的要素が支配的である。Veda と古い祭儀にはかかる神崇拝は認められない。v. Schroeder は、バラモンがそれを押しのけたのであり、後に Viṣṇu と Śiva の崇拝、とりわけ Viṣṇu の avatāra である Kṛṣṇa の崇拝において現れたのだと考える。著書の主要部分で v. Schroeder は Saṃvāda 讃歌を自らの観点のもとに、また彼独特の詩的高揚をもって詳細に扱っている。彼はそれらを力強く、美しく、明快であると見る。彼が最初の Ṛgv. I 171, 172 および 165 を、Hertel の先例に従って、一つの戯曲の同数の(きわめて短い)幕としてまとめるとき、この伝承から逸脱する構成は誰にとっても説得的というわけにはいくまい。より近いのは、Indra と Marut の関係が詩人的祭官によってくり返し新しい讃歌において描き出されたという想定である。そして Śunaḥśepa-ākhyāna を朗誦することが功徳と見なされ、祭儀に取り入れられたことを見るならば — その朗誦に際してはおそらく、言葉が異なる人物によって劇的に再現されたであろうが、しかし確かに本当の戯曲としてではない — 、かつては他の神話的・世俗的素材もまた祭儀に引き入れられたのだということが理解できるのである。

書名について言えば、v. Schroeder が Mysterium と解するのは、彼が想定する「舞踊と歌を伴う原アーリヤの祭儀的な神々と魔神の戯曲」(S. 71, 89)であり、Mimus と解するのは同種の陽気な形式である。「厳粛な、また陽気な劇的遊戯、Mysterium と Mimus は、あらゆる蓋然性からしてすでにアーリヤ原始時代に存在した」(S. 90)。それらが現れ出たのは、より後になって、Viṣṇu と Śiva のより民衆的な崇拝においてである。しかし舞踊する神々についてはすでに Ṛgveda に語られているという。すなわち形容辞 nṛtúnṛtū́ は Indra と Uṣas を舞踊者・舞踊女として指しており(S. 37, 44)、同じ意味で Marut について語根 krīḍ(遊ぶ)が用いられる(S. 49)。phallus 的要素は Śiśnadeva に現れ、彼はそこに「phallus 的魔神」を考えている(S. 64)。後になって v. Schroeder は論文「神々の舞踊と世界の成立」(Wiener Zeitschrift XXIII(1909)S. 1–17)において、さらに宇宙開闢讃歌 Ṛgv. X 72、とくに第6詩節を自説のために援用した。しかし súsaṃrabdhāḥ は「互いに手をとり合って」を意味することはほとんどなく、また nṛ́tyatām iva は神々を「舞踊する者として」示すのではなく、単にそのような者に比しているにすぎない。

L. v. Schroeder が扱った歌は次のとおりである。Ṛgv. I 170, 171 および 165(Indra、Marut、Agastya)、I 179(Lopāmudrā と Agastya)、X 108(Saramā と Paṇi)、X 51–53、X 124(Agni の再獲得)、IV 42(Varuṇa と Indra)、III 33(Viśvāmitra と河)、X 95(Purūravas と Urvaśī)、X 10(Yama と Yamī、付録:Ṛśyaśṛṅga と Śāntā)、X 86(Vṛṣākapi の歌)、IV 18(Indra の異常な誕生)、VIII 89(Indra、Vāyu(?)と歌い手)、X 102(Mudgala の競走)、X 119(酔える Indra)、X 97(医師の Mimus)、X 34(破滅した賭博者)、VII 103(蛙)、IX 112(「soma 祭における民衆的行列」)。L. v. Schroeder は比較神話学と民俗学を豊富に援用し、多くの空想をもって解釈している。しかし比較的方法においては、讃歌のうちに多くの異質な思想を持ち込むこともありうるのである。

L. v. Schroeder の書は、Oldenberg が Göttingische gelehrte Anzeigen 1909 S. 66–83 で、A. B. Keith が JRAS. 1909 S. 200–209 で、また Winternitz が Wiener Zeitschrift f. d. Kunde des Morgenlandes XXIII(1909)S. 102–137 の慎重に比較考量する論文「インド文学における対話・Ākhyāna・戯曲」で論評している。Oldenberg は Hertel と v. Schroeder の理論 — Veda 時代における劇的上演については、すでに Max Müller と Sylvain Lévi も考えていた — に納得せず、v. Schroeder の見解を事実に何ら根拠をもたないものとして断固退けている。彼はいくつかの讃歌に立ち入って論じており、たとえば v. Schroeder がとくに愛着をもって描き出した IX 112 がそうである。Keith は、v. Schroeder の書に、その比較的方法のゆえに宗教史にとって大きな意義を認めてはいるが、v. Schroeder の祭儀的戯曲も Oldenberg の Ākhyāna 理論も証明されたとは見なさず、Ṛgveda においては多くが不確かで暗いままにとどまるであろうと述べている。Winternitz は調停を試みる。Ākhyāna 理論は、たとえそれがすべてを説明しないとしても、けっして片づけられたわけではなく、他方 v. Schroeder は — 彼の詩的な事物の見方に対して Winternitz は大いに理解をもつ — Ṛgveda のいくつかの対話歌について、それらが祭儀的戯曲と解されるべきことを非常に蓋然的にした、という(S. 125)。論文の冒頭で彼は、Veda の歌の目的についての Bloomfield の発言に言及している。すなわち、Veda の歌が文学的欲求から生じたということは、まず特別に証明されねばならないであろう、讃歌の大部分は実用的目的のために作られたのだ、と。彼は次いで後段で、対話歌もまた Ākhyāna として祭儀と関係づけられえたことを論じている(S. 132)。注目すべきはまた、インド文学一般においてあらゆる時代に散文と韻文の混合が愛好されたことについての彼の所見である(S. 130)。

これらの錯綜した係争問題においては、それらがやむをえずいくぶん弁護士的に扱われるだけに、研究者間の一致をもたらすことは困難である。Hertel は、その紹介を知っていた Winternitz にもかかわらず、論考「Suparṇādhyāya、一つの Veda 的 Mysterium」において、L. v. Schroeder の書に結びつけて問題全体を新たに展開し、自らの立場を、退くことなく熱情をこめて擁護した。同じ Wiener Zeitschrift 第 XXIII 巻(1909)S. 273–346 においてである。彼は Oldenberg の Ākhyāna 理論を非常に鋭く攻撃し、とりわけ、神話ないし物語の、文字どおりには固定されていない散文の物語が存在し、そこに Saṃvāda が組み込まれたのだ、という見解を攻撃する。これに対して彼にとっては、L. v. Schroeder にとってと同じく、Saṃvāda 讃歌は明快かつ美しいのであり、彼と同じく Saṃvāda 讃歌を祭儀的戯曲と見なし、この見解を Suparṇākhyāna において細目にわたって正しいものとして証明しようとする。Suparṇākhyāna は彼にとって、Ṛgvedasaṃhitā の古 Veda 時代の祭儀的戯曲と古典時代のサンスクリット戯曲との連関をも保証するものである。この点で彼は、この連関を否定した L. v. Schroeder と袂を分かつ。Hertel が戯曲ということで、演者の役柄が Garuḍa、Indra として一定の標識によって示されえたような、現実の劇的上演を解しているとしても(S. 337)、彼は折にふれた発言によって反対側に近づいている。結びの所見で彼は、戯曲という表現によってさしあたり「詩」を考えていたのだと述べる。すなわち、複数の人物によって交唱の形で朗誦され、その理解のために散文を必要とせず、

そのうち多くのものを彼は躊躇なくバラードとも呼ぶであろう、という(S. 346)。また彼は、叙事詩と戯曲の始まりが互いにきわめて近いことをも認めている。伝承において慣用の表現 Suparṇa-ākhyāna-adhyāya は、彼もまた自説に反するものと感じているが、語根 khyā は「見る」をも意味するのだから、ākhyāna が本来「見世物」を意味したということも不可能ではないとしている(S. 338)。

1911年までにこの大きな係争問題について提出されたものを、Keith がもう一度まとめ、批判的に照らし出した。表題は「The Vedic Ākhyāna and the Indian Drama」、JRAS. 1911 S. 979–1009 である。両理論、すなわち Ākhyāna 理論と祭儀的戯曲の想定との双方に対して、彼は懐疑にとどまる。彼が積極的に述べていることは重要ではない(S. 1005 以下)。Ākhyāna 理論に同意した学者としては、Pischel、Geldner、Macdonell、Hopkins、Winternitz、v. Bradke を挙げ(S. 980 以下)、他方 Max Müller と S. Lévi は Hertel と v. Schroeder よりずっと前に Veda 時代の戯曲について語っていたが、この点で注目されることはなかった、としている。Oldenberg はけっして敗れたとは感じず、Göttinger Nachrichten 1911 で自らの立場を守り、そこではとりわけ jātaka の詩節との類比に立ち入っている。

Ākhyāna 讃歌をバラードと呼ぶことを本当に本気で行ったのは、Geldner の論文「インドのバラード詩」(1913年の文献学者大会のための Marburg 大学記念論集、Marburg 1913)である。彼は、追放され帰還する伯爵についての自作の詩への注釈におけるバラードの本質についての Goethe のきわめて注目すべき発言から始める。その構成部分、すなわち言葉と物語詩節との相違に従って、Geldner はこれらインドのバラードの種々の類型を区別しており、そのなかには独白的な「私バラード」がある。たとえば Ṛgv. VIII 91 である。この類型からは Kavaṣa の讃歌 Ṛgv. X 33(S. 111 に訳)と賭博者の歌 Ṛgv. X 34 を論じている。「双面的」バラード、すなわち「言葉と応答からなる」ものとしては、その前に(S. 101 以下)Viśvāmitra と河との対話 Ṛgv. III 33(S. 102 以下に訳)と、Saramā と Paṇi のバラード Ṛgv. X 108(S. 104 以下に訳)を分析している。前者は英雄伝説から、後者は牛掠奪の神話から採られたものである。神話に属するのは Yama と Yamī のバラードでもあり、メルヘンに属するのは Purūravas と Urvaśī のバラード Ṛgv. X 95、「民衆詩の低地」に属するのは Vṛṣākapi のバラード Ṛgv. X 86 である。バラードの発展について彼はこう述べる。「対話化された物語歌が通常の神々への讃歌から成長し現れ出たのは、ようやく徐々にのことである」(S. 114)。「バラードによってすべては説明される」。Geldner は今や、Ākhyāna 讃歌はより大きな物語の断片であり、それを結ぶ散文はそのつど朗誦者が即興したのだという Oldenberg の理論を退けるが、同時に、そのうちに小さな祭儀的戯曲を見た Hertel と v. Schroeder の理論をも退けている(S. 96)。

Ākhyāna 讃歌に Oldenberg が最後に立ち返ったのは、論考「古代インド散文の歴史に寄せて。とくに散文的・詩的物語に留意して」(Göttingen 王立学術協会論集、Berlin 1917)においてである。Oldenberg はここで、より古いインド散文の姿を研究しており、それをまずヤジュス文と、Taittirīya-Saṃhitā、Aitareya- および Śatapathabrāhmaṇa の祭儀的散文に見出し、そこでさらに

より古い段階とより新しい段階とを区別している。彼はその内容と文体を、完了形や小辞 ha その他の小辞の用法といった文法的細目にも立ち入りつつ描いている(S. 24 以下)。すでにこの祭儀的散文には散発的に詩節、すなわち yajñagāthā が挿入されている。Śrauta-, Gṛhya-, Dharma-sūtra にもそれらは現れる。Brāhmaṇa から彼は Upaniṣad へと進むが、その散文は基本的には Brāhmaṇa 散文である(S. 28)。そしてこれに Buddha の教説の Pāli 散文が続く(S. 39)。しかし Ākhyāna 讃歌の判断のための基礎をなすのは、叙事的ないし伝説的物語の散文であり、これは論考の後半で扱われている(S. 53 以下)。他の見解、とりわけ Hertel と Keith のそれに対して、Oldenberg はこの物語散文に挿入ないし付加された詩節を、叙事詩の発展に対するその意義において正しい光のもとに置いている。彼はここでこれらすでに上に挙げたテキスト断片の内容と形式、および詩節と散文の関係を記述している。Purūravas と Urvaśī の物語を、彼は「自立したインドの散文的・詩的物語の、全体として現存する最古の実例」と呼ぶ(S. 57)。しかし Suparṇākhyāna においてわれわれは「いかにして古い小さな散文的・詩的叙事詩が、そのより新しい純粋に詩的な形へと転換されたか」を追跡しうるという(S. 65)。Oldenberg は、叙事詩の起源の問題にとって重要な Mahābhārata の散文章句を、内容と文体の点から詳細に特徴づけ、同様に古仏教の物語をも特徴づけている。ここで Udāna がこの問題において重要であることが明らかになる(S. 75)。すなわち語る者 — 主として Buddha — は、ある出来事について、その口から思わず迸り出る詩的な発言へと霊感を受けるのである。jātaka における詩節と散文の関係については、彼はとくに Keith と論争している(S. 79 以下)。Keith は JRAS. 1909, 1911, 1912 でこれらの事柄を論じていた。Tantrākhyāyika もまた同じ物語類型、すなわち詩節を挿入した散文を示すが、「過大な量の nīti 詩節によって重荷を負わされている」(S. 86)。Oldenberg はくり返し、物語がまず散文で行われ、その形は初め固定されておらず、各語り手に委ねられていたことを強調する。偶然に保持された形、あるいは意図的に作られた形が、次いで文学的なものとなりえた。物語に登場する人物の言葉と応答こそが、最初に韻文形において一定の形を得たのである。それ以外の内容、すなわち出来事の要約、内容の摘記(「一覧詩節」S. 87)は、全体として稀である。「そこへ導き、その間を進行する行為の糸を欠く」言葉と応答をもつ Ṛgveda の Ākhyāna 讃歌は、より新しい形成物の光のもとに解釈されうるし、また解釈されねばならない(S. 89)。

§第 LXI 章 B. DELBRÜCK

われわれは Delbrück を、言語学の分野において Ludwig に対する Bopp-Schleicher-Curtius 学派の擁護者として知った。しかし彼は、十分に根拠づけられた新しい見解につねに開かれており、Bopp の言語学に硬直して固執することなく、かつて「若手文法家(Junggrammatiker)」の名で呼ばれた若い言語研究者たちにまもなく与するに至った。

彼らについては次章で論ずる。Brugmann は彼と結び、その『比較言語学綱要』において統語論を彼に委ねた。というのも、Delbrück は初めから彼特有の目標を見据えたエネルギーをもって統語論に注目していたからである。彼は比較統語論の創始者である。ここに二度目ないし三度目に、新しい学科が古代インドの言語と文学から出発するという過程が生じたのである。Delbrück はまったく自立的かつ直接に Veda 文献のテキストに立脚した。もっとも彼はその理解のために存在するあらゆる補助手段を喜んで用いたのであるが。統語論が主として確実に理解されたテキストの箇所の上に、Delbrück が『古代インド統語論』S. VI でいうように「異論の余地なき材料」の上に築かれることは、事柄の本性上当然である。しかし Delbrück の格・法・時制の用法についての研究は、文献学者にとっても、Pāṇini が Veda について説き、Sāyaṇa が想定した文法的自由に対する反対の重しをなし、文献学者の良心を鋭くしたのである。

Berthold Delbrück は1842年 Berlin に生まれた。サンスクリットには Halle で Pott によって導かれた。Pott の語源研究と学問的音韻論の形成に対する意義を、彼は『言語研究入門』で強調している。また Berlin では Weber によって導かれ、彼のもとで Veda を聴講した。したがって Ludwig と同様、最初の出発点は Weber であったが、それでも Böhtlingk と Roth が彼の導きの星であった。Petersburg 辞典への感謝の念において、彼は Whitney や Grassmann と同様である。Ṛgveda の解釈者としての Roth への讃嘆を、彼はくり返し表明しており、たとえばその著『古代インドの動詞』S. 11 においてがそうである。Böhtlingk とは Jena で長年にわたり日々個人的に交流した。1867年に Halle で教授資格を得た後、1870年に Jena への招聘に応じ、そこで1873年に彼のためにサンスクリットおよび比較言語学の正教授職が創設された。1913年以来退職している。

Delbrück の最初の仕事は格論の分野で行われた。教授資格論文『De usu dativi in carminibus Ṛgvedae』は1869年、Kuhn の雑誌 XVIII S. 81 以下に、改良されたドイツ語版として「インド・ゲルマン語、とくに Veda 語の与格について」という表題で現れた。しかし格論に変革的影響を及ぼしたのは、彼の著作『古代インド語・ラテン語・ギリシア語・ドイツ語における奪格・処格・具格』(Berlin 1867)である。というのも、ギリシア語ではこれらの格の固有の形が放棄されたので、その属格と与格について、本来の機能と失われた格を代行する機能とについての学説が生じたからである。ラテン語の奪格とドイツ語の与格についても同様である。その二年後に、比較統語論に関わる Windisch の論考「関係代名詞の起源について」が Curtius の『研究』II 201–419(Leipzig 1869)に現れた。Delbrück は Windisch と結んで『統語論研究』を刊行し、その第 I 巻「サンスクリットとギリシア語における接続法と希求法の用法」は Halle 1871 に出た。Veda 語においてのみ、ギリシア語およびイラン語と同じく、接続法と希求法(可能法)の両法が並存していた。他の同系諸語ではこの二法は融合しており、そのことはその接続法の扱いにおいて考慮されねばならない。これらすべてを Delbrück が道を開き、一部は自ら遂行した。Delbrück の叙述は — それには

両編者間の意見交換が先立っていた — Ṛgveda および Homer の詩からの箇所の蒐集にもとづき、前者は Delbrück 単独、後者は大部分 Windisch が作成したものである。この著作が与えた印象は、1871年の Autenrieth の書評(Blätter f. d. bayer. Gymnasialwesen VIII 99 以下)が具体的に示している。Windisch が1870年に他の仕事のため英国に赴いたので(上 S. 398 参照)、Delbrück はこの統語論研究を単独で続けたが、第 II 巻・第 III 巻の扉にはなお Windisch の名も併記されている。第 II 巻が出る前に、Delbrück はその著『Ṛgveda の讃歌から叙述した古代インドの動詞』(Halle 1874)において、Veda 形態論への重要な寄与を与えた。この書は当時としては重要な業績であった。というのも、Grassmann の辞典は Delbrück には二分冊しか手もとになく、M. Müller の索引も Petersburg 辞典も未完であり、Grassmann と Ludwig の翻訳もまだ現れていなかったからである。第一章で Delbrück は、それまでにくり返し論じられてきた Veda の事情について、すなわち Indus 地方の Veda の民について、民衆語と並ぶ教養語の成立について、紀元前数世紀に生き、文献からではなく生活から汲み取った(S. 5)Pāṇini について、種々の saṃhitā について、より古い歌とより新しい歌の相違について、sandhi による本文の変形について、padapāṭha について、Sāyaṇa について、また Veda 解明のための近代の諸業績について、平易に概説している。『統語論研究』II「古代インド時制論」(Halle 1876)における最も重要な成果は、Veda においてアオリストがたった今起こったことを表すということであり(S. 86)、これはそれ以前に現れた翻訳では十分に表現されていなかった。短い最終節では Śatapatha- および Aitareya-brāhmaṇa の文も引かれている。序文で彼は Böhtlingk と Roth の辞典に、また Grassmann の個人的援助に感謝している。第 I 巻の序文で Delbrück は、哲学においては Lazarus と Steinthal の方向に与したと述べている。彼は基本概念を、個々の箇所自身が語っていることから経験的に出発する単純な論理によって獲得する。この自ら観察したものの叙述においては、インドの文法家の学説は問題とならなかった。第 II 巻の序文で彼は、Böhtlingk が時制の用法に関する Kāśikā の該当箇所をその Chrestomathie 第2版に採録するであろうこと、同書にはそこからまた Pāṇini の格の理論も収められたことを指示しえた。Hübschmann がその著『格論に寄せて』(München 1875)S. 141 以下で kāraka 理論を叙述していたことは、当時彼の目を逃れていたらしい。ここでは異なる言語期が問題となるので、Ṛgveda において観察されることは Pāṇini の説と正確には一致しない。ここに後になって Liebich と Wackernagel の研究が始まる。しかし歴史文法の観点は、当初は文法家にとって比較文法のそれほど魅力的ではなかった。言語史と Pāṇini にいくらか多く立ち入っているのは、Delbrück が『統語論研究』III の冒頭で、-tāt に終わる命令法と、Ṛgveda ではまだ立証されない -tā, -tāraḥ に終わる未来について論じた節である。わずか80頁のこの巻は「Śatapathabrāhmaṇa から叙述した古代インドの語順」という表題をもち、

Halle 1878 に出た。Veda の詩節や古典的技巧詩における、鋭く際立った屈折形なしには考えられぬきわめて自由な語順に対して、Delbrück は散文について、文における自然な語順 — 最初に主語、最後に動詞 — を、またそれがいかなる条件のもとでそのつど変更されえたかとともに確定しようと努めた。その際彼は動詞のアクセント関係(主文では無アクセント、副文ではアクセントあり)の説明に至った(S. 77)。これはいずれにせよこの問題の解決に関わってくるものである。文体の歴史的発展においては、名詞的表現法の漸次的な優勢が観察されるが、それは確かに純粋にアーリヤ的思考様式に根ざすものではない。第 III 巻の少し前に、Mémoires de la Soc. de Ling. de Paris 第 III 巻(1875)に Bergaigne の論文「Sur la construction grammaticale considérée dans son développement historique en sanscrit, en grec, en latin, dans les langues romanes et dans les langues germaniques」が現れていたが、そこではサンスクリットは「ごく手短に言及されるにすぎない」。これは Paris アカデミーの懸賞論文の一部にすぎなかった。Bergaigne はこれについて、Delbrück の著作の書評(Revue Critique 1880 No. 4)で報告し、Delbrück と接触する諸点を論じている。第 IV 分冊「B. Delbrück によって論じられたギリシア語統語論の基礎」(Halle 1879)は、サンスクリット、とくに Veda 語が学問の歴史においてギリシア語文法に対してもった意義を新たに認識させる。

続いて Delbrück の、統語論全体を包括する大著が現れた。すなわち『統語論研究』第 V 巻としての『古代インド統語論』(Halle 1888)と、Brugmann-Delbrück『インド・ゲルマン諸語比較文法綱要』の第3巻から第5巻を三部に分けて構成する『インド・ゲルマン諸語比較統語論』(Straßburg 1893, 1897, 1900)である。叙述の平明さによって傑出した著書『古代インド統語論』のために材料を提供したのは、Ṛgveda のほか主として Aitareya- および Śatapatha-brāhmaṇa、Taittirīya- および Maitrāyaṇī-saṃhitā であった。ここでも彼は序文で Böhtlingk-Roth 辞典への讃嘆を表明しており、そのほか Grassmann と Whitney の著作、また当時までに現れていた限りでの Eggeling の Śatapathabrāhmaṇa 訳が役立った。Ludwig にも言及している。

その間に統語論の分野ではさらに多くの個別研究が現れていた。Whitney のもとに集まったアメリカ人については、Haskell(S. 33)、Avery(S. 354)、Bloomfield(S. 275)の著作を利用し、また Eva Channing の小論「On Negative Clauses in the Rigveda」(JAOS. XIII(1886), Proceed. S. XVIII)をも用いている(S. 544)。統語論の研究は音韻論・形態論への必然的な補完であり、ドイツでは19世紀の70年代・80年代においてその刺激がいわば空気のなかに漂っていた。Delbrück と Ludwig の模範がおそらく作用して、当時若い学者たちが好んで格論と不定詞に向かったのであろう。Delbrück の著作の直後、1869年に E. Siecke の学位論文『De genetivi in lingua Sanscrita imprimis Vedica usu』が現れ、彼は1876年に『比較言語研究論集』VIII 377 以下で論考「サンスクリット、とくに Veda における奪格の用法」を続けた。これに先立って不定詞についての二著作があった。すなわち Eugenius Wilhelmus『De Infinitivi Linguarum Sanscriticae Bactricae Persicae Graecae Oscae Um-

Indo-arische Philologie I. 1 B. 27

bricae Latinae Goticae forma et usu』(Isenaci 1872)と、Julius Jolly『インド・ゲルマン語における不定詞の歴史』(München 1873、Curtius に献ず)である。Wilhelm は1842年生まれ、Jena のギムナジウムおよび大学教授で、Schleicher の弟子であり、その主要な強みはイラン語の分野にあった。彼は Ludwig の意義を認めたが、Schleicher に対する彼の論争の調子には賛成しなかった。この二著作は Delbrück が『古代インド統語論』のために手もとに置いていたものであり、同様に Heinrich Hübschmann の内容豊かな、Martin Haug に献ぜられた書『格論に寄せて』(München 1875)もそうであった。価値ある歴史的序論の後、Hübschmann はとくに Avesta と古ペルシア語楔形文字碑文の語法を叙述している。これに対して古代インド統語論の分野に属したのは、Heinrich Wenzel の最初の著作『Ṛgveda における具格について』(Tübingen 1879)である。Wenzel についてはすでに上 S. 301 で論じた。彼の主要な意義はチベット語の分野にあった。とくに内容豊かなものとして Delbrück(S. VIII)が賞讃するのは、その弟子 Carl Gaedicke の仕事である。Ṛgveda における対格についての学位論文(Jena 1877)から、彼のより大きな著作『Veda における対格』(Breslau 1880)が生まれ、そこでは他の格にも立ち入っている。

ここには Ferdinand de Saussure の Leipzig 学位論文『De l'emploi du génitif absolu』(Genève 1881)も連なる。Delbrück は S. 389 でこれに言及している。F. de Saussure は言語学の歴史において『Mémoire sur le système primitif des voyelles dans les langues indo-européennes』の著者として有名になったが、これについては後述する。Ṛgveda と Homer の詩における目標の処格を、Holzman が『民族心理学雑誌』X 182 以下で扱った(Delbr. S. 121)。ロシア語で書かれた Scherzl の『古代インド語統語論』I(Charkow 1883)を、Delbrück は後になって序文 S. VII で言及している。単発に終わったのは、アメリカ人 Adoniram Judson Eaton(1851年生まれ)の1884年の Leipzig 学位論文『The Ātmanepada in Ṛigveda』であり、Delbrück は S. 236 で引用している。Veda の不定詞形の統計のゆえに、彼は(S. 410, 425 以下)1881年と1885年に現れたが、より古い時期に由来する Hermann Brunnhofer の二論考をも利用した。すなわち「不定詞形の Veda 的用法における方言の痕跡について」(Kuhn の雑誌 XXV 329 以下)と「Śatapatha-brāhmaṇa の二 kāṇḍa 群の相互関係について、そこに用いられた不定詞形にもとづく」(Bezzenberger の Beiträge X 234 以下)である。古い不定詞形の出現頻度の相違は、たしかに方言差とテキスト断片の年代差に根ざしうるであろう。もっとも Brunnhofer の結論はいささか機械的、あるいは楽観的にすぎたかもしれない。統語論的事柄についての折々の発言を、Delbrück は Pischel(S. 137, 204)、Neisser(S. 365)、Brugmann(S. 502)、Wackernagel(S. 599)から記録している。Delbrück の『古代インド統語論』以後の時代には、統語論の分野は奇妙なほど静かになる。クリームはすくい取られてしまったのである。主として文法的傾向をもつサンスクリット学者は稀になった。文法家たちには Veda の困難がますます意識されるようになった。それには一部、文献学者の不必要に鋭い批判もあずかっている。サンスクリット文献学者はますますサンスクリットを孤立させる方向をとり、比較言語学者はますますヨーロッパ諸語の研究に向かった。両者ともいっそう徹底して行われたが、しかし両者の間にある種の疎隔をもたらすことになった。

より早い時期に Delbrück は文化史的事柄についても発言しており、『民族心理学雑誌』第 III 巻に「インド・ゲルマン諸民族における神話の成立。一心理学的試論」および「宗教と神話の関係について」を書いている。親族関係についての彼の論考はすでに上 S. 266 に位置づけた。

Delbrück の第一期、主としてサンスクリットに従事した時期に属するのが、『Veda 選文集、注解と語彙集を付す』(Halle 1874)である。讃歌をラテン文字転写で与えた点では、彼には Aufrecht という先行者がいた。Aufrecht の Ṛgveda 校訂本でも同様に土着のアクセント表記が完全に示されている。Delbrück が難解語の意味についての記述で Roth、Muir、M. Müller に多く依存しているとしても、当時 Roth こそこの分野の主要権威であり、Delbrück はまだこの権威から離脱した世代には属していなかった。彼の書は多くの人に Ṛgveda への最初の理解を開いた。Haug が Göttingische gel. Anzeigen 1875, S. 65–103 でこの選文集を詳細に批判したとすれば、その批判はむしろ Delbrück が属していた方向全体に向けられたものであり、また長年のインド滞在の後にそこで学んだことを主張しようとした一学者の批判であった。

選文集の一年後、Delbrück は小著『ドイツの諸大学における言語研究。文献学専攻学生のための実践的助言』(Jena 1875)を公にした。これは G. Curtius が Jenaer Literaturzeitung 1875, Artikel 386 で賛意をもって論評した。当時 v. Sybel は比較言語学を「最も有望な学科の一つ」と認めてはいたが、将来のギムナジウム教師にはこれを警戒するよう促していた。これに対して Delbrück と Curtius は、古典語の研究が初めから言語学的把握によって浸透されねばならないという学問的要求を主張した。Delbrück はいう。「サンスクリット文法の講義は第1ないし第2学期に属する」。それに続いてサンスクリット文献の講読演習が来るべきであり、比較文法の方法は次いで主としてギリシア語への適用において、次いで「そうなれば」ラテン語、場合によってはドイツ語について学ばれるべきである、と。Curtius はこれに加えて、言語研究の一般的諸問題、その歴史と方法論、語族の区分等を扱う入門的・初等的な講義を推奨した。大筋ではそのようになったが、ただサンスクリットの研究は次第にふたたび後退した。

G. Curtius が導入した入門講義の内容に一部対応するのが、まもなく Delbrück が刊行し、大きな喝采をもって迎えられた小著『言語研究入門。比較言語研究の歴史と方法論への一寄与』(Breitkopf \& Härtel 社の『インド・ゲルマン語文法叢書』、Leipzig 1880)である。第2版(1884年)では第1章から第4章が文法研究史へと拡大された。それらの表題は「Franz Bopp」「Bopp の同時代人と August Schleicher までの後継者」「August Schleicher」「新しい試み」である。第二の理論的部分は「膠着理論」「音韻法則」「民族分岐」の各章を含む。Bopp と Schleicher の相違は、おそらくどこにおいてもこの書ほど鋭く

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描かれていない(S. 45)。Bopp と Schleicher のほか、Delbrück は Schlegel 兄弟、W. v. Humboldt、Pott、Benfey をも簡潔な言葉で的確に特徴づけている。Bopp の膠着理論に関連して、彼は語根の概念を論じている(S. 9、S. 73 以下参照)。語根は先史時代の原語であった。語根はさまざまな種類のものであり、動詞語根のほかに代名詞と前置詞があった。Delbrück は Pott の功績を、彼が『語源研究』において同系諸語の共通語彙を集め論じ — もっともその素材の豊富さのゆえに望ましいほど見通しよくはないが — 、音韻法則のより厳格な遵守を主張した点に認めている(S. 34)。同じ方向で作用したのが、Schleicher の『Compendium』における音韻論の体系化的扱いである。正規の音対応からの例外を説明するために、Delbrück はすでに類推形成という重要な原理に注意を促している。Bopp は二つの課題を立てていた。屈折の成立を究明することと、インド・ゲルマン諸語の親縁性を個別に証明することである(S. 140)。第一の問題については、R. Westphal がその『ドイツ語の哲学的・歴史的文法』(Jena 1865)で Bopp の膠着理論を進化(Evolution)理論によって、A. Ludwig は上述の諸著作で適応(Adaptation)理論によって置き換えようとした(S. 66、上 S. 370 参照)。膠着とは、動詞語根と代名詞的要素とを結合してより明確な文法形式とすることを指す。適応の概念によって強調されるのは、動詞語根と結合された代名詞的要素が本来はより一般的な意味をもち、そうして生じた文法形式が二次的な限定によって初めてより狭い文法概念に適合させられたということである。進化が意味するのは、語根にそれ自体としては無意味な音(a, i, u, na, ni, nu 等)が文法形式の形成のために付加されたということであり、これも同様に「より大きな一般性からより具体的な限定性へ」の進歩である(S. 63)。Delbrück はこれら種々の理論を批判し、大筋では Pott、Schleicher、Curtius らとともに Bopp の膠着理論にとどまる(S. 90)。この理論は Curtius が有名な論考「インド・ゲルマン語研究の年代論に寄せて」(第2版、Leipzig 1873)でさらに展開したものである(S. 77)。Curtius の見解と一致して、Delbrück はその体系的部分において、語根に続いて、語幹形成接尾辞と格形成を伴う名詞、時制語幹・法語幹・人称語尾を伴う動詞を論ずる。Pott の合成語根の想定 — たとえば svādsu, ā, ad からとするような — 、また接尾辞における Benfey の毀損理論を、彼は退けた(S. 81, 87)。これに対して正当と思われるのは、Curtius と Fick において役割を演じた語根限定辞(Wurzeldeterminative)の説である。というのも、yugyu(結ぶ)のような場合に、長い語根が短い語根から末尾に一音を付加することによって成長したことは、ほとんど否定しえないからである。もっともその音の意味と機能をより正確に究明することは成功しないのであるが。これらの言語発生論的研究は一時期研究者を大いに従事させたが、今日ではより後景に退いており、同様に、とくに Schleicher において役割を演じた祖語の再構もそうである。しかし個々の文法形式、個々の語の再構は、同系諸語の比較において

不可欠であり、Brugmann の『綱要』や Fick の『語源辞典』が示すように、言語学全体の基礎をなしている。Delbrück は言語研究者と言語研究とを教えるところの多い概観のうちに示すことによって、その『言語研究入門』において、より古い時代のインド・ゲルマン語言語学の簡潔な歴史を与えたのである。Ascoli のようなユダヤ系の言語学者にとっては、インド・ゲルマン諸語とセム諸語との原親縁性を想定することは自然であった。この問題に Delbrück は詳しく立ち入っていないし(S. 100)、また彼の時代にすでにより新しい世代によってインド・ゲルマン語言語学に生じつつあった転換にも立ち入っていない。この転換が次章のわれわれの主題である。

§第 LXII 章 比較言語学のさらなる発展

観察されうるのは — 上 S. 209 参照 — 、新しい試み、ここではとくに音韻論における新しい試みをもって現れた、同じ気風をもつより若い世代の研究者の生年が、かなり接近しているということである。時が満ちたとき、彼らは現れ出たのである。次の一覧は本章全体にとって教えるところが多いであろう。Schleicher は1821年生まれ、Curtius は1820年、Ascoli は1829年。その後しばらくは注目すべき群の形成はない。それが始まるのは、1840年生まれの Amelung と Leskien、1842年の Fick と Scherer、1843年の Delbrück と Joh. Schmidt、1844年の Windisch、1845年の Collitz、1846年の E. Kuhn と Paul、1847年の Osthoff、1848年の Hübschmann、1849年の Brugmann、1850年の Möller、Braune、Sievers、1851年の Bezzenberger、1855年の Bartholomae と Bechtel、1857年の de Saussure である。Pischel の生年である1849年をもって、さらに長い一連の傑出したサンスクリット文献学者が始まり、そのうち数名についてはすでに述べた。その多くはなお存命であり、まだ本来の意味で歴史に属してはいない。その活動については第三の最終部で紹介することになろう。

前章で見たように、比較統語論もまたサンスクリットから出発した。サンスクリットが祖語であるとは、事情がより精確に研究される以前の初期にのみ語られたことである(上、第I巻 S. 58, 69 参照)。サンスクリットがとくに古い形でわれわれの前にあるのは、インド人がきわめて早くから文学を生み出し、そこに古体的な言語が固定され今日まで保存されてきたからである。それゆえサンスクリットはつねにインド・ゲルマン諸語の筆頭に置かれねばならないであろう(Pott, Et. Forsch. I 76 参照)。しかし、それが本源的なものから離れ、それを他の言語ほど忠実に保存していない点も存在する。またインドの文法家の一定の見解から自由にならねばならなかった。彼らの言語分析がいかに驚嘆すべきものであり、それがいかに研究を正しい道へ導いたにせよ、である。文法は辞書学によって補完される。Pāṇini の Vyākaraṇa と Dhātupāṭha とは互いに切り離しえない。同様に、Bopp の『比較文法』と並んで Friedrich

August Pott¹⁾ の『語源研究』が立ち、August Schleicher の『比較文法概論』と並んで Georg Curtius の『ギリシア語語源論綱要』が立つ — それには Benfey の『ギリシア語語根辞典』が先行していた — 。そして第三の段階では、Karl Brugmann の『比較文法綱要』と並んで August Fick の『インド・ゲルマン諸語比較辞典』が立つ。その第2版は、個々の語群の祖語の再構においてなお Schleicher を思わせる。この歴史的発展には多くの重要な学者が関与している。それを完全な範囲で叙述することは比較言語学の仕事である。同系諸語のいずれもがこれに関与しているとはいえ、それは一人の人間の全力を要する一つの独立した学問となった。W. Streitberg は現在、専門学者の協力を得てインド・ゲルマン語言語学の歴史を刊行しており、そのうちまず第 II 部(「インド・ゲルマン諸語の研究」)から第1巻「ギリシア語・イタリック語・俗ラテン語・ケルト語」と第3巻「スラヴ語・リトアニア語」が Straßburg 1916, 1917 に現れた。

進歩はまず第一に音韻論の分野で成し遂げられた。ここでもわれわれは、インドの文法家への言及から始めてよい。彼らは早くからその言語音を分類し、学問的秩序のうちにもたらしていた。これはセム語やギリシア語のアルファベットの文字の混乱ぶりとは対照的である。

言語音の本質と、種々の器官によるその生成の仕方もまた、彼らには知られていた。M. Müller はその Ṛgvedaprātiśākhya 校訂本 S. XVII、sūtra 39 以下への注でその知識を賞讃している。Pāṇini と Prātiśākhya には、ghoṣaaghoṣa(有声と無声)、sparśaūṣman(閉鎖音と摩擦音)、soṣman(帯気音)、anunāsika(鼻音)等の区別が見出される。Pāṇini の本文では、本来の文法術語の代わりに主として Śivasūtra から作られた人工的な小語が用いられる。たとえば ac「母音」、hal「子音」である。しかし Prātiśākhya の第1 paṭala、前掲箇所では、軟口蓋音は jihvāmūlīya、口蓋音は tālavya、そり舌音は mūrdhanya、歯音は dantamūlīya、唇音は oṣṭhya と呼ばれている。近代の言語研究者の注意は、とりわけ子音推移によって、次いでサンスクリットからの Prākṛt の派生、ラテン語からの

¹⁾ Pott は1802年 Hannover の Nettelrede に生まれ、Göttingen で学び、1833年にその研究の広い範囲に応じて Halle の一般言語学教授となった。その『語源研究』と Bopp の『比較文法』との関係について、彼自身 II 479 でこう述べている。第一部では動詞語根に関してサンスクリット系諸語の大いなる財産共同を証明しようとし、第二部では主として派生接尾辞の親縁性を扱う、屈折接尾辞はすでに Bopp が見事に比較している、と。実際、語源的音対応表 I 82 と、第一節「名詞と接尾辞における子音の比較」の後に、彼は375番号からなる語根目録 I 180–284 を提示している。しかし全体は音韻的研究によって貫かれており、一部は比較的性格のもの、一部は古い文法を思わせる観点のもとにあるものである。すなわち同化、異化、音位転換 II 112、過剰と欠如の諸形 II 125、母音挿入と音消失および syncope II 223、語末音添加と語末音消失 II 302。次いで最終節では語論 II 351、複合 II 372、派生 II 398、さらに屈折 II 613 が続く。Pott の見解における時代遅れの部分は、II 81 以下の短い一文に現れる。そこで彼は、口蓋音が重複において、口蓋音が軟口蓋音によって置き換えられるようには、軟口蓋音によって置き換えられないことを不審としている。

ロマンス諸語の派生によって音韻論へと向けられた。理論的音声生理学においては、Leipzig で生理学者 Merkel の講義を聴いた Eduard Sievers が、言語研究者たちの師となった。

古典語すなわちサンスクリットを、また同様に Veda の saṃhitā を、その正しい姿において保存し、頽廃から守るために、インドの文法家は徹底的かつ壮大な仕方で言語の完全な分析から出発し、文法と Prātiśākhya においてそれをその諸要素から技術の規則に従って再構成した。両者において同じ方法であり、padapāṭha は dhātupāṭha に並行する。saṃskāra は Yāska において言語の整備を意味し、saṃskṛta とは文法の規則に従って正しく形成された言語である。この分析と言語の再構築において、インド人はかのきわめて重要な guṇa と vṛddhi の理論に到達した。事実は正しく観察されているのであって、その解釈が変わったにすぎない。guṇa と vṛddhi はサンスクリット文法に深く根を下ろしており、その名称はわれわれの初等文法からもまったく追放することはできない。Schleicher の『Compendium』における guṇa 理論の体系的貫徹は、比較文法における Pāṇini の影響の一つの頂点を示している。

大家によって説かれた学説は、まず弟子たちによって信じて受け入れられるのが常である。しばらくしてようやく批判と再検討が来る。Schleicher と Curtius からは、すべてを新たに研究し、その際一定の点でより正しい言語生活への洞察を得た最後の世代が出た。

August Schleicher は1821年 Meiningen に生まれ、1868年 Jena に没した。1846年に Bonn で比較言語学の教授資格を得、1850年に文献学教授として Prag に赴き、1857年以来 Jena で言語学および古ドイツ語文献学の教授であった。Prag では G. Curtius とともにあり、Curtius は著作『最新の言語研究の批判に寄せて』S. 146 で温かい言葉をもって彼を回想している。もっとも彼は「その主張におけるあまりに行き過ぎた断定性」と「その学説のあまりに独断的な調子」を彼に非難してはいるが。Prag 滞在は Schleicher を、スラヴ諸語とリトアニア語の立ち入った研究へと導いた。Prag からは1857年になお Wien アカデミーの援助を得てプロイセン領リトアニアへの旅行を行った。サンスクリットにおいて Schleicher は Ewald の弟子であった。彼は Leipzig と Tübingen でまず神学を学んだが、Tübingen で Ewald のもとで東洋学に転じた。Bonn に移ってからは、一般言語学と並んで Ritschl のもとで古典文献学を学んだ。こうして彼は次第に広汎な言語知識を身につけたのである。かつての神学者は、しかしその見方においては自然科学者となっており、言語学を自然科学と見なし、とりわけ生涯の最後の時期には植物学に多く従事し、好んで自らの庭で働いた。彼にとって特徴的なのは著作『ダーウィンの理論と言語学』(Weimar 1863、第3版 1873)である。Lefmann の伝記『August Schleicher』(Leipzig 1870)よりも重要なのは、Johannes Schmidt がその追悼文(Kuhn の雑誌 XVIII(1869)315–320)および『一般ドイツ人名辞典』において与えた彼の性格描写である。

Georg Curtius は1820年 Lübeck に生まれ、1885年に没した。Prag、Kiel、Leipzig の古典文献学教授であり、Leipzig には1862年に

招かれた。彼は Bonn と Berlin で学んだ。Bonn では Ritschl と Lassen のもとで聴講し、Lassen が彼をサンスクリットに導いた。Berlin では、そこで1846年に教授資格をも得たが、Weber、A. Kuhn、Aufrecht、Goldstücker の集まりに属し(上 S. 266 参照)、Weber と Veda を読んだ。その言語学的方向は Bopp、Wilhelm v. Humboldt、Jacob Grimm によって規定された。Windisch が刊行した『Georg Curtius 小論集』第一部の序文において、Ernst Curtius は兄弟についての回想を発表しており、それは両兄弟にとって特徴的である。『ギリシア語語源論綱要』と並んで、G. Curtius の第二の主著はギリシア語の動詞であり、そこで彼はギリシア語を比較言語学の光のもとに叙述した。まずオーストリアのために意図されたが、ドイツでも広く普及し、多くの版を重ねた『ギリシア語学校文法』(最初は Prag 1852、第11版 1875)は、大いなる手際をもって同じ立場から書かれている。『私のギリシア語学校文法への解説』によって、彼は教師の正しい理解に配慮した。彼の小論のいくつかは言語学の発展に介入するものであった。もっともその主要思想のいくつかは永続的に保持されはしなかったが。その活動については、Angermann の追悼文(Bezz. Beitr. 1886)と Windisch の著作『Georg Curtius、一つの性格描写』(Berlin 1887)が描いている。

Schleicher と Curtius はインド・ゲルマン語学全体の新しい方向のために地ならしをした。両者ともその研究の重心をヨーロッパ諸語に置いた。Curtius はギリシア語に、Schleicher はスラヴ語とリトアニア語に。両者とも、その体系的に構成された主著において、Bopp、Pott、Benfey よりも厳格に音韻法則を遵守するに至った。Curtius の場合これが明らかになるのは主著『ギリシア語語源論綱要』(Leipzig、二部、1858年と1862年、第5版 1879)においてであり、Schleicher の場合は『インド・ゲルマン諸語比較文法概論』(Jena 1861、第3版は彼の死後 Leskien と J. Schmidt が刊行、Weimar 1871、第4版 1876)においてである。確実な語源の集成は、音韻法則の厳格な遵守によってのみ可能である。Curtius が音韻法則の無例外性の説を無条件には認めず、規則的な音変化のほかに散発的な音変化をも想定したとしても、この区別のうちにすでに、言語の生命のよりよい認識への進歩がある。Schleicher は祖語の再構という目標を追求した。彼は『比較言語研究論集』V(1868)206–208 に、インド・ゲルマン祖語で小さな寓話を書こうと試みさえしたのである。かかる試みは続けられなかった。基本形を立てることは個々の語についてのみ可能である。そしてかかる個々の基本形を立てることさえいかに困難であるかは、Fick がその辞典で立てた形が具体的に示しており、それらは今日の学問の立場からすれば多くを改めねばならないであろう。Schleicher は古代教会スラヴ語とリトアニア語の文法のみならず、リトアニア語のテキストをも刊行した。ギリシア文学に通じた Curtius は、個々の語源的結合 — その提唱者を彼は明示している — を論ずることによって、文献学的要求をも満たし、言語学の深化に寄与した。Pott の独創性、すなわち諸言語を初めて

互いに属し合う語について探索し、その『語源研究』において豊富な資料を集めたという彼の大きな功績は、いかなる仕方でも損なわれてはならない。Curtius の『綱要』第2版は Bopp の『Conjugationssystem』の50年後、1866年に現れ、Bopp に献ぜられている。第4版(Leipzig 1873)は Windisch によってケルト諸語からの比較によって拡充され、第5版(1879)では Wh. Stokes の批判を助けとして改善された。

音韻論に向けられた集中的研究の最初の主要な代表者は G. I. Ascoli であった。その著作のうち第一に位置するのは Corsi di glottologia(ドイツ語訳の表題は『Vorträge über Glottologie』)と、彼が創刊した Archivio Glottologico Italiano であり、後者には古アイルランド語の分野における彼の重要な業績も含まれている。サンスクリット文献学にとってとくに重要なのは『Vorträge über Glottologie』第1巻(Halle 1872)に収められた「サンスクリット・ギリシア語・ラテン語比較音韻論講義」である¹⁾。この講義を初めて1861/62年に行ったとき、彼の直接の補助手段は、序文でいうように、Bopp の『比較文法』、Pott の『語源研究』第1版、および Kuhn の雑誌の最初の10巻であった。Ascoli は最初に、インド・ゲルマン語の軟口蓋音の二重の性質を認識した。そのうち一方の k はサンスクリットでは口蓋摩擦音(ś, śatám)によって代表される。軟口蓋音と口蓋音の二重の性質から、yuktamṛṣṭa(語根 yujmṛj から)、dagdhalīḍha(語根 dahlih から)に観察される音形の相違が説明される。彼は mṛṣṭa からサンスクリットについても、Zend 語の z に対応する有声摩擦音 ž を推定し、それが無声音から生じた ś(§ 24, S. 86)に並行するとし、同様に miḍha, līḍhaḍh をインド・イラン語の ž+t に帰した(§ 36、独訳 S. 155)。軟口蓋音の相違についての Ascoli の説を、現在支配的な種々のインド・ゲルマン語軟口蓋音列の説へと改造した言語学者たちも、問題の正しい解決に対する彼の功績を認めた。一方の軟口蓋音列の特殊性は、インド・イラン語、スラヴ語、リトアニア語の摩擦音に明瞭に現れ、他方の特殊性はラテン語の qu, gv、ギリシア語の π, τ, β、ケルト諸語の p, b、ゴート語の hv, q に現れる。この学説の展開を Collitz が「インド・イラン語口蓋音列の成立」(Bezzenberger の Beiträge III(1879)S. 177 以下)で叙述している。Fick、Hübschmann、Möller、Collitz はきわめて早く Ascoli を越えていった。Fick はその著『ヨーロッパのインド・ゲルマン人のかつての言語統一』(Göttingen 1873)で、彼より前にすでに Havet がそうしたように(序文 S. V)、二重の祖語的無声音のみを想定した。二つの軟口蓋音列の鋭い区別を、Hübschmann は単純有声音と有声帯気音についても貫徹した。論考「サンスクリットとイラン語における g¹, gh¹」(Kuhn の雑誌 XXIII(1877)S. 384 以下)においてである。のちに Bezzenberger は二つの軟口蓋音列にさらに第三のものを加えた。すなわち、一方の語群では摩擦音とならず、他方の語群でも唇音化も歯音化も示さない軟口蓋音(yugá)から成るものである(「インド・ゲルマン語の軟口蓋音列」、Beiträge zur Kunde der indog. Spr. XVI(1890)S. 234 以下)。

¹⁾ E. Kuhn はここに次のように付言している。「Prākṛt に対する Ascoli の功績については、Merzdorf が訳した彼の論文集を参照」。

Schleicher のより年長の傑出した弟子は、1840年生まれの August Leskien と1843年生まれの Johannes Schmidt であった。Leskien はそれ以前に Leipzig の学生時代にすでに Curtius から比較言語学に導かれており、その後 Jena で Schleicher に師事してスラヴ学に転じ、スラヴ学は彼のうちに最も重要な代表者の一人をもった。Curtius の多数の弟子のうちからは、1849年生まれの Karl Brugmann が、まず彼と同盟して現れたが、やがて Curtius が Brugmann の方向を問題視するに至った。Brugmann によって、古い見解との断絶がとりわけ明白になった。断絶は、Curtius が自ら創刊し、のちに Brugmann とともに刊行した『ギリシア語・ラテン語文法研究』第 IX 巻 S. 468 に発した声明において表面化した。この巻には Brugmann¹⁾ の画期的な諸論考が現れていた。すなわち「インド・ゲルマン祖語における Nasalis sonans」および「語幹階梯変化を伴う曲用の歴史に寄せて。第一論考:-AR- および -TAR- に終わる名詞」(Leipzig 1876)²⁾ である。Brugmann につねに批判的に対していた Johannes Schmidt も、Jenaer Literaturzeitung 1877, Artikel 691 におけるこの巻の紹介で、次のような賛辞を捧げている。「Brugman の諸論考は、この巻に収められたすべてのうち断然最も重要かつ最も重大な帰結をもつものである」。数年前に Schmidt はその著『インド・ゲルマン語母音組織の歴史に寄せて』(第一分冊 Weimar 1871、第二分冊 1875)を公にしていた。それは鼻音の母音への影響、svarabhakti、および r, l の母音への影響を詳細に扱ってはいたが、新しい見解の痕跡はまだ示していなかった。Brugmann の Nasalis sonans の説 — 先行する a の抑圧の後に音節主音的ないしソナント的となった nm — は、初めて śatám, ἑκατόν, centum, ゴート語 hund の系列における母音化の法則性を認識させた。弱化した鼻音節の同じ代表は無数の例に再現する³⁾。語幹階梯変化の原理は、それ自体としてはサンスクリットにおいて明瞭に目の前にあったが、新しかったのはヨーロッパ諸語におけるその形態についての立ち入った研究である。その際、弱化した r(および l)音節もまたヨーロッパ諸語において、しばしば曇らされているとはいえ、一定の反映をもつことが判明した。すなわち skr. (pitṛ́ṣu)に gr. ρα(πατράσι)が対応する。Brugmann はこの等式について S. 325 で Osthoff の n 曲用についての論考(Paul-Braune の『論集』III 52, 61)を参照させているが⁴⁾、しかし「本源的な liquida sonans」の説に初めて原理的な定式を与えたのは彼であり、その際 gr. ρα のさらなる例を加えている(ἀνδρά-ποδον, ἔδρακον, ἔτραπον, ἔπραθον)。Brugmann より後になって初めて Fick が、1878年に現れた論考「ギリシア語のアオリストおよび完了 ablaut に寄せて」(Bezz. Beitr. IV 173 以下)で ρ-, λ-, ν-母音を論じ、そこで末尾 S. 191 でリトアニア語とスラヴ語における の代表をも例証している。Brugmann の Nasalis sonans についての論考には、S. 324 に次の文も読まれる。

¹⁾ 彼は初め自らの名を n 一つで綴っていた。 ²⁾ 後者の続編が教授資格論文「名詞接尾辞 -as, -jas, -vas の歴史に寄せて」(Weimar 1877、Kuhn の雑誌 XXIV)である。 ³⁾ Brugmann 以前に弱化した鼻音節がどのように説明されていたかは、たとえば Delbrück『古代インドの動詞』S. 93 が示している。「インド人は、音群 -ant をアクセントのある音節として、またはアクセントのある音節の後に、非常に好むので、アクセントのある音節が続くとただちに n を押し出す」。 ⁴⁾ 「ギリシア語 πατρά-σι の ρᾰ — これについては人々が幾度も徒労のうちに苦しんできた — を……私はサンスクリット pitṛ-ṣu に直接等置する」(Osthoff 前掲書 S. 52)。

「本源的な母音消失がアクセントの影響のもとに幾度も立証されうる」。Benfey と Osthoff はこれを -tar 語幹の屈折と派生において「明快に証明した」。Benfey はすでに早くから、語形の形成に対するアクセントの意義を認識していた。当時くり返し参照されたのは、彼が1852年に現れた『サンスクリット語完全文法』S. 310 で語幹形 prācprāñc について述べた所見である。「鼻音を伴う形が有機的な形であり、それが本源的なアクセント(§ 760 参照)の結果として弱格および最弱格でこれを失ったのである」。Osthoff は、接尾辞音節にアクセントをもつ名詞語幹において弱格ではアクセントが本来語尾に移ったという法則について、論考「ゲルマン語 n 曲用の起源の問題に寄せて」(Paul-Braune『ドイツ語の歴史に関する論集』III(1877)S. 45 以下)で述べている。

これらの研究において、言語研究者たちはますます次の認識に達した。すなわち、音韻法則に従って期待される形が存在しないところでは、音韻法則が類推形成ないし形態転移によって交差されているのだ、ということである。Brugmann はいわゆる「誤った類推」の原理について、Nasalis sonans についての論考の前掲書 S. 317 の長い注で論じており、それは「とりわけ方法論的な点できわめて教えるところの多い、スラヴ・リトアニア語およびゲルマン語における曲用についての論考 S. 39」における A. Leskien の発言から始まっている。Curtius の『研究』第 IX 巻 S. 232 では、Brugmann に先立って R. Merzdorf もこの原理について述べていた¹⁾。ここに付された注で Curtius は、自分もこの原理を完全に正当なものと認めるが、ただ性急な適用に警告するのみである、と述べている。Ascoli もまた類推形成の原理を、ギリシア語の最上級接尾辞 τατο についての論考で主張しており、これについては Merzdorf が Curtius の『研究』第 IX 巻 S. 339 にドイツ語訳を、その原理的意義についての前書きを付して掲げている。

新しい時代は70年代に始まった。かなりの数のほぼ同年輩の学者が、さまざまな側面から言語研究に向かう時が来ていたのである。天才的ゲルマニスト Wilhelm Scherer の書『ドイツ語の歴史に寄せて』(Berlin 1868)によって、彼らはある種の方向の統一性を得た。彼らのうちゲルマニストは、ゲルマン諸語の名詞屈折における語末音節を熱心に研究した。Leipzig では Zarncke と Curtius の弟子たちであり、彼らは「若手文法家」の名で知られている。その仕事は一部は、Hermann Paul と Wilhelm Braune が刊行した『ドイツ語・ドイツ文学史論集』の最初の諸巻に現れた。Paul は論考「最古のゲルマン諸方言における屈折・派生音節の母音」(Fr. Zarncke に献ぜられた同『論集』第 IV 巻 S. 315 以下)の冒頭に、Wilhelm Braune、Eduard Sievers、August Leskien、Hermann Osthoff、最後に Karl Brugmann の名を挙げ、Brugmann の仕事は「インド・ゲルマン語の

¹⁾ E. Kuhn は校正の際こう述べている。「類推の原理については E. Kuhn の『Pāli 語文法』1875 の序文を参照。これは一部は Leskien の影響から説明されるが、いずれにせよここで言及すべき最も早い発言である」。

語幹形成論・屈折論全体に最も深く」介入したものだと述べている(S. 321)¹⁾。これらの文法家のうち最年長は Leskien で、当時すでに Leipzig の教授であり、他の者たちは彼の講義を聴いた。彼が著作と講義において用いた方法は模範となった。「彼の個人的な示唆に」と Paul は S. 322 でいう、「われわれ他の者はみな、私の思うに、少なからず負うところがある」。Leskien を通じて同時に Schleicher もまた語っていたのであり、彼はその弟子であった。

「若手文法家的」方向について公の場で最初に語ったのは、Brugmann と Osthoff 自身であり、『形態論研究』への序文においてであった。しかしこの名称を考案したのは Zarncke である。Brugmann はこのことを、『Indog. Forschungen』第11巻(1900)における「Osthoff-Brugmann『形態論研究』第 I 巻の『序文』に寄せて」という表題の声明で確認している。Eduard Wechssler は Hermann Suchier 記念論集(Halle 1900)への寄稿「音韻法則は存在するか」において、1870年以後に燃え上がった音韻論をめぐる闘争を描き、彼と Brugmann の連名による序文の執筆を Osthoff に帰していた。Brugmann は、序文は自分が執筆したものであること、ただし Osthoff とまったく合意のうえであったことを述べている。「若手文法家的」という呼称は Zarncke から引き継いだものであり、Zarncke はこれを最初に、Keronisches Glossar についての R. Kögel の学位論文の審査意見で用いたのであった。次の箇所の最後の文は、Zarncke が「若手文法家」の名で理解していた学者たちの名を含んでおり、Brugmann が学部記録から取ったより完全な写しに由来する。「著者はわれわれの若手文法家学派の熱烈な支持者である。その仕事はこの点でまったく à la hauteur である。Brugmann、Paul、Braune、Sievers、Osthoff のあらゆる言葉、あらゆる示唆が、燃えるような熱狂をもって取り上げられ、細部の考察のための出発点とされている」。

Osthoff — 彼はやや早く仕事をもって現れた — にもまして、Brugmann は新しい方向の原理を強調し、重要な一般的問題を議論に付した。この二人の若手文法家のために Curtius の『研究』にもはや場所がなくなったとき、彼らは『インド・ゲルマン諸語の分野における形態論研究』を創刊し、四部が Leipzig 1878–1881 に現れた。注目すべき序文の最初の文で、彼らは自ら新しい方法を Scherer に帰している。「Scherer の書『ドイツ語の歴史に寄せて』(Berlin 1868)の出現以来、また本質的にはこの書から発した衝動によって、比較言語学の相貌は少なからず変化した」。若手文法家的方向の方法的原則のうち最も重要な二つとして、彼らは S. XIII で、すべての音変化は機械的に進行する限り無例外の法則に従って行われること、および形態連合(Formassoziation)すなわち類推の道による言語形の新形成が、より新しい言語期についてと同様、より古い言語期についても正確に認められねばならないこと、を挙げている。

¹⁾ Paul はいわば基礎として、右に挙げた学者たちの次の仕事を掲げている。Braune「古高ドイツ語語末音節の音量について」(Paul-Braune『論集』II(1876)125 以下)、Sievers「強変化形容詞曲用」(同 II 98 以下)、Leskien「スラヴ・リトアニア語およびゲルマン語における曲用」(Leipzig 1876)、Osthoff「インド・ゲルマン語名詞語幹形成の分野における研究」(Jena 1875, 1876)および「ゲルマン語 n 曲用の起源の問題に寄せて」(Paul-Braune『論集』III(1876)1 以下)。同『論集』第 IV 巻・第 V 巻には1877年と1878年に Sievers の研究「ゲルマン諸語のアクセントおよび音韻論に寄せて」が現れた。類似の性格をもつのは Heinrich Zimmer の著作『ゲルマン諸語における名詞接尾辞 aā』(Straßburg および London 1876、ten Brink と Scherer の『Quellen und Forschungen』XIII より)であり、Zimmer は Scherer の直接の弟子であった。

後者はすでに、若手文法家の哲学者たる Paul が、前掲の論考「最古のゲルマン諸方言における屈折・派生音節の母音」(『論集』IV 326)で強調していたところであり、そこで彼は類推形成について心理学的に論じている。さらに詳しく彼はこれらの主要点、すなわち音変化の絶対的法則性と形態連合について、論考「ゲルマン語母音組織の歴史に寄せて」(Paul-Braune『論集』VI 1 以下)の第一部で論じている。Max Müller の、また Whitney の言語学講義に対して、Paul の後の著作『言語史原理』(初版 Halle 1880)はより新しい言語学の精神を含んでいる。

G. Curtius がなおサンスクリットの a を原母音と見なし、それがヨーロッパ言語統一の時期に初めて a e o に分裂したと考えていたのに対し、Brugmann は、サンスクリットの a、したがってすでに祖語の a も、異なる音色をもっていたと想定する理由を見出した。すなわち a₁ は e 的な、a₂ は o 的な響きをもっていた(Curtius『研究』IX 367)。Collitz と J. Schmidt から何も証明していないと非難されたので、彼は論考「ヨーロッパ語の母音 a, e, o の判定に寄せて」(『形態論研究』III(1880)91 以下)で自説のより詳しい根拠づけを与えた(S. 96 以下)。Delbrück に注意を促されて、彼はすでに Bopp がその最初の仕事において、ヨーロッパ語の母音三体系 a, e, o を本源的なものと考えていたことを強調している(S. 94、上、第I巻 S. 71 参照)。

比較言語学のより新しい発展を注意深く追っていたアメリカの言語学者 M. Bloomfield は、語末音節 aso に変わることのうちに、サンスクリットにおける ao 的音色の痕跡を見た。もし主格複数の as(ギリシア語では ες が対応する。skr. pitáraḥ, gr. πατέρες)が sandhi で o にならないのであれば、これはいっそう確実であろう。しかし、サンスクリットでは、また大多数の Prākṛt 方言でも、一方の形の一般化が生じたと想定してよい。インドの領域には他方の形も存在しており、これは他方 Māgadhī で一般化されたのであって、そこで skr. priyaḥ に対して規則的に piye が現れるのはそのためである。

a² の研究にあたって Brugmann はただちに、skr. jánu と gr. γόνυ にある問題に行き当たった。彼はここで中間的な音量の母音を本源的なものと想定しようとし(Curtius『研究』IX 381)、サンスクリットではそれが明確な長母音に伸ばされたはずだとした。この見解で彼は通らなかった。サンスクリットにはより高い母音化の段階が存するのであろう¹⁾。

語形の音韻的形成に対するアクセントの意義はますます明瞭に認識され、同時にまた、本源的な

¹⁾ この事例はそもそも vṛddhi 問題と関連する。疑いなく vṛddhi はサンスクリットにおいて、その本来の領域をはるかに越えて用いられる好まれた形成手段となっており、それは yauvana においてではないが、Bauddha, Jaina, Vaiśvāmitra においてはそうである。しかしそれは祖語についても、またヨーロッパ諸語においても個々の例で立証しうる。たとえば αὔως, ἠώς, aurora が skr. uṣás に対して、ἠῷος が skr. auṣasya に対して、ἠνορέη が ἀνήρ に対してそうである。— J. Wackernagel は校正の際、なぜ yauvanaBauddha から区別すべきなのかと問い、ἠῷος の削除を望んでいる。その η は ἠώς の η と同じだからである。

インド・ゲルマン諸語のアクセントが Veda と Pāṇini におけるほど忠実に保存されているところはないことも認識された。このことは、デンマーク人 Karl Verner の論考「第一次子音推移の一例外」(Kuhn の雑誌 XXIII(1877)97 以下)において輝かしく明らかになった。表題の言い回しは、Verner が Lottner の論考「第一次子音推移の諸例外」(同誌 XI(1862)161 以下)から出発したことによって説明される。そこで Lottner は、インド・ゲルマン語 k, t, p = ゲルマン語 h, þ, f という規則からの例外を注意深く点検していた。ゲルマン語子音推移が活用において相違することから出発して、Verner は彼の名で呼ばれる法則を発見した。「インド・ゲルマン語の k, t, p はまずいたるところで h, þ, f に移行した。そうして生じた無声摩擦音は、インド・ゲルマン語から受け継いだ無声摩擦音 s とともに、さらに語中では有声音に囲まれるとそれ自体有声となったが、アクセントのある音節の直後では無声のままにとどまった」(S. 114)。古高ドイツ語 zîhan, zêh, zigum, zigan は、skr. bhédana, bibhéda, bibhidimá, bhinná のアクセントから説明される。同様に古高ドイツ語 kiosan, kôs, kurum, koran は skr. jóṣaṇa, jujóṣa, jujuṣimá, (juṣṭá) に対応する。今日なお存する Vater, Mutter に対する Bruder(ゴート語 fadar、古ザクセン語 môdar、ゴート語 brôþar、ラテン語 pater, mater, frater)の相違は、skr. pitā́, mātā́ に対する bhrā́tā のアクセントに説明を見出した。Verner はまた最初に、旋律的アクセントと呼気的アクセントとの原理的相違について論じた(S. 115)。それが引き去られることによって母音が弱化ないし抑圧されうるようなアクセントは、呼気的すなわち強勢アクセントであったにちがいない。Verner はヨーロッパ語の e を旋律的アクセントから、a から ä への上昇として説明しようとしたが、Brugmann はこれを採らなかった(Curtius『研究』IX 373)。Brugmann は当時逆に「音節 a² の高調性」と a¹ の低調性から出発し、アクセントの変化、形態転移、均一化によって a¹ もまた高調のもとに、a² もまた低調の音節に入るに至ったとした(S. 382)。

現在支配的な語幹階梯の学説の形成に本質的に寄与したのが、サンスクリットにとって重要な August Fick の小論考「Schwa indogermanicum」(Bezzenberger の Beiträge III(1879)S. 157 以下)である。Fick はこう名づけたのは、母音が完全に抑圧されない場合に、アクセントのない音節に現れうる弱化母音である。この schwa はサンスクリットでは i として現れ、Fick はこれに ī をも数え、ギリシア語では α、ゴート語では u として現れる。このようにして、従来つなぎ母音とされてきた skr. dadāsimái は πεφύκαμεν の α に対応し、skr. pitā́, duhitā́i は「ヨーロッパ語 patér」の a、gr. θυγάτηρ の α に対応するという。このことを Christian Bartholomae が、それ以外はサンスクリットにあまり関わらない論考「アルメニア語 a > ギリシア語 o とインド・ゲルマン語の母音列」(Bezz. Beitr. XVII(1891)S. 131)で論じている。長い ī の説明 — これはいずれにせよ複数の事例について自然である — は後になって初めて与えられた。gṛhītá についてはそれは Veda の語幹 gṛbhāy-áti と関係し、dhitá, gitá、また確かに pitá 等では i によって拡大された語根形、すなわち dhā, dhe, dhenu, dhāy-atigā, gāi, gāy-ati、gr. τῖθι にある形と関係する¹⁾。

語幹階梯変化は、Fick の論考「ギリシア語の

¹⁾ pitā́ については E. Kuhn が校正の際、Wilhelm Schulze の論文「インド・ゲルマン語の äi 語根」、すなわちインド・ゲルマン語 pōi、アーリヤ語 pāi(Kuhn の雑誌 XXVII(1885)420 以下)を参照させている。Wackernagel はその文法 I 19 で Bartholomae の『研究』II 76 を参照させており、そこには1890年までの文献が集められている。

アオリストおよび完了 ablaut に寄せて」(Bezzenberger の Beiträge IV(1878)S. 167 以下)によって最終的に正しい段階の秩序を得た。第4巻は第3巻より先に出た。1878年10月24日の Benfey の博士号取得50年記念の祝賀論集となるはずだったからである。ここで Fick は、ablaut 系列「πείθω πιθέσθαι πέποιθε ἐπέπιθμεν」ないし skr. 「vépate vipānás vivépa vivipré」において、いずれの形が基本音を含むかという問いを立てた。彼はここでインドの文法家の guṇa 理論、すなわち「iu の前に e が挿入される」という説を(S. 169)排除し、種々の形の母音組織が guṇa を基本音として発展したことを説得的に論証した。「λείπε から λιπε が生じたのではなく、λιπών が λείπων から、語幹音節に続くアクセントの作用によって生じたのである」(S. 191)¹⁾。同じ理論を、ただアクセントによる根拠づけを欠いた形で、すでに1873年に Leo Meyer が、そもそもここに関わる論考「母音上昇について、とくに動詞屈折における」(Kuhn の雑誌 XXI 341 以下)で述べていた。彼はそこで、「選んだ最も身近な例に即していうならば(śrutá に対する śrávāminītá に対する nāyāmi)、srav-nay- のほうが、その傍らにある sru-nī- より古いということのほうがありそうであり、後者についてはむしろ音韻的毀損による形成を考えるほうが近い。それはちょうど、われわれが dhártāmi「私は保つ」の傍らの dhṛtá-「保たれた」において、インドの文法家とともに dhṛ- を、dhar よりも古体的で、むしろ語根形と呼ぶべきものと見なしえないのとまったく同様である」(S. 343)。しかし決定的な成功を収めたのは Fick であった。彼がここでくり返し「Benfey の偉大な発見」、すなわち母音短縮と母音消失が本来語尾に落ちるアクセントの作用であるということ(Bezz. Beitr. IV 190)を称揚するとき、彼の論考が Benfey に献ぜられていたことに留意すべきである。アクセントについての Benfey の発言(その雑誌『Orient und Occident』III 65)を、Fick は Bezz. Beitr. IV 176 で引用している。

Brugmann の影響を受けてはいたが、それでも独自の仕方で新しい方向における母音組織の体系を与えたのが、F. de Saussure の『Mémoire sur le système primitif des voyelles dans les langues indo-européennes』(Leipzig 1879、実際にはすでに1878年12月に刊行)²⁾ である。Ferdinand de Saussure は1857年 Genf に生まれ、1913年に同地の大学教授として没した。自然科学者の家系の出であった。その定式的な表記法は数学的方法を思わせる。1876年から1878年にかけて4学期 Leipzig に学び、そこで Curtius と Brugmann の講義を聴き、次いで1学期 Berlin に学び、1880年に上 S. 418 で言及した論文で Leipzig で学位を得た。その『Mémoire』冒頭の歴史的回顧において、彼は Curtius を公平に扱っている。Curtius は1864年に現れた a 音の分裂についての論考で、ヨーロッパ諸語が e において互いに一致するという事実を確定していたのである。a の異なる音色を本源的なものと想定する最初の試みを、彼はゲルマニスト Amelung の著作『

¹⁾ Osthoff も同じころこの見解を主張していた。彼は『形態論研究』第4部への1881年の序文でこう述べている。「1877年夏学期以来、私の講義において λειπ-, αἰθ- から λιπ-, ἰθ- へ下降する新しい母音論の地盤に立ちつつ……」。E. Kuhn は校正の際こう付言する。「ここに関わるのは Ascoli のセム語・インド・ゲルマン語の言語親縁性についての見解でもあり、それによれば たとえば lihlagagha に遡ることになろう。Möller も同様のことを述べている」。 ²⁾ 『Mémoire』の前に彼は小論「Essai d'une distinction des différents a indo-européens」を、同じく1878年に Mémoires de la Société de Linguistique de Paris III 359–370 に公にしていた。

母音上昇による時制語幹の形成』(Berlin 1871)に見た(Système S. 4, 116)。しかしとりわけ彼は Brugmann に結びついている(S. 6, 18, 22, 39, 43, 70, 90, 188 その他しばしば)。当初 de Saussure の『Mémoire』はドイツではあまり注目されなかった。しかし今日ではそれは、とくにその方法においても、比較言語学の名著の一つに数えられている。この意味でこれを分析したのが W. Streitberg の論文「Ferdinand de Saussure」(Indogermanisches Jahrbuch II(1915)S. 203–213)である。その際 Streitberg は、de Saussure が1903年に自らの根本思想について彼に与えた覚書を利用した¹⁾。

Saussure は Brugmann の記号 a₁(e 的な a)、a₂(o 的な a)を保持した(ἔτεκον, τέτοκα, tego, toga、S. 51)。しかしそれに「ヨーロッパ諸語における音素 A」を加えた(S. 50)。これによって彼は ἄχος, alo のような語のギリシア語・ラテン語の a を解した。ゴート語とリトアニア語では oa が融合している。しかし彼はギリシア語とラテン語からさらに第二の o を得る。それは e と交替せず、また skr. ā にも対応せず(gr. δόρυ, skr. dā́ru のように)、サンスクリットでは開音節においてもその傍らに短い a をもつ。πόσις, potis, skr. páti におけるようにである(S. 96 以下)。この母音を彼は ǫ で表し、これもすでにインド・ヨーロッパ語の先史時代に属したと想定する傾向にあった(S. 113)。a₂ が本来は中間的音量であったという Brugmann の推測は採らなかった(S. 95)。「bubudhús, paptús」において語根形 budh に語根形 pt が並行することは彼の目を逃れえなかった(S. 124)。また彼は注で、Leo Meyer と Paul が srav を、sru ではなく、二重母音を、単母音ではなく本源的なものと見なしたことに言及しているが、この説を Fick ほどの確たる断定をもって立ててはいない。Fick の論考を当時まだ知らなかったのは明らかである。しかしこれらの見解はいわば空中に漂っていたのである。guṇa 理論の事実は存続したが、理論は逆転された。vṛddhi と呼ばれる現象には de Saussure はあまり立ち入っていない。もっとも彼と Wackernagel との間に本質的な対立はない。Wackernagel はそのサンスクリット文法で vṛddhi を簡潔にではあるが包括的に扱っている。Saussure は二種を区別した。一方は二次的派生に役立ち、他方はいくつかの一次的な形(「yaumi, á-gai-ṣam」)に見出されるという。前者はインド・イラン語的で、疑わしい痕跡においてはインド・ヨーロッパ語的でもあるが、後者は後になって初めて生じたと思われる(S. 125 以下)。Brugmann に従って彼は、eo の弱化であるか、oe の上昇であるかを考量し、この既に原民族時代の交替はアクセントとは無関係であるとする(S. 134)。「音素 a₁ こそがあらゆる語根の語根母音である」(S. 135)。すでにその前に彼は a₁ を伴う語根形を「語根の正常状態」と呼んでいた(S. 124)。語根に固有の長母音を彼は「単一音素」とは見なさず、

¹⁾ de Saussure の意義については最近 Jakob Wackernagel も『Sonntagsblatt der Basler Nachrichten』1916年10月15日および22日号の「言語学についてのあるスイスの著作」で評価している。この著作とは F. de Saussure の『Cours de linguistique générale』(Lausanne および Paris 1916)であり、彼の死後、1906年以来行った一般言語学講義の筆記から編まれたものである。Wackernagel は、大きな期待を抱かせた『Mémoire』の後、de Saussure が小さな仕事しか公にしなかったことを当然遺憾としている。de Saussure が Genf の教授職を得る前、彼は24歳で Paris の École des Hautes Études の Maître de Conférences に招かれていた。「フランスの学界がその列に数えるインド・ゲルマン語言語学の最も傑出した大家たちは、感謝をこめて彼の弟子であることを認めている」。

ei に対応して分析する。すなわち語根 θη の η を e + e に、θυμός の ω を o + e に帰する(S. 141)。この研究において彼は、skr. dadhaudvauauo 的な音の表記にすぎず、ギリシア語 ω に対応するという想定に至る(S. 147)¹⁾。弱化母音もまた彼は新たに研究し、skr. ai ないし ī への移行を扱ったが、ī を十分に説明することはできなかった。sādh のような中間に ā をもつサンスクリット語根に、彼は現在形 krā́mati, mā́dyati のゆえに krām, mād をも加え、さほど成功していないが sīdati のゆえに sād をも加えている(S. 150 以下、170 以下、181)²⁾。Verner のみごとな発見の結果、サンスクリットのアクセントは「原民族時代のアクセントのほとんど絶対的に忠実な像」と見なしうる(S. 187)。彼はここで、ギリシア語の enclisis についての Wackernagel の論考を参照させている。弱化した音節 pitṝ́n, pitṛ́bhis がアクセントを担う場合を、彼は「弱い曲用」の理論、すなわちアクセントにもかかわらず「語尾直前音節」が弱化するという理論によって説明する(S. 208、「第二の語の頭子音によって引き起こされた第一の語の a₁ の消失」S. 235, 209 参照)。アクセントの位置については、彼は Benfey の「最後の限定辞の原理」を採る傾向にある(S. 235)。de Saussure の多数の微視的研究のうち、サンスクリット文献学者にとってとくに注目すべきは、「長い流音・鼻音ソナント」についての節(S. 239 以下)である。そこで彼はこの現象を、いわゆるつなぎ母音 i をとる語根と、第5・第9現在類の形成とに、ある種の関連のもとに置いている。彼はこの i ないし ī — 彼の音素 A の弱化 — を語根に引き入れ、それによって mṛd, muṣ, grah, pū について完全な語根形 mardi, moṣi, grabhi, pavi を得る(S. 242)。彼はこの理論によって現在形成 karótikṛṇóti, śṛṇóti をも照らし出す(S. 244)。彼の理論によれば pūtáū は長いソナントと見なされるべきで、a₁ を失った pavivi から生じたものである。同様の仕方で jāyate, khātáā は長い Nasalis sonans として生じ、また dāntáān も、さらに stīrṇá, pūrṇáīrūr は長いソナント的 r として生じた(S. 248)。これらの長いソナントはヨーロッパ諸語においても表現を見出しており、skr. stṛtá は gr. στρατός と比較すべきであり、stīrṇá は gr. στρωτός と比較すべきである(S. 260)。母音の前にのみ現れる短い ir, ur(kiráti, purú)を彼は式 ṛr- で表す。これは母音の前の長いソナント的 r である。ir, urīr, ūr に対する関係は、uuv に対する関係と同じである(S. 250)。pitṝ́n のような形に現れるサンスクリットの長い を、彼はより後代の現象と見なすが、それは代償延長によって(S. 250)ではなく、devā́n(agnī́n)の類推によって生じたのであろう。pitṝṇā́mdevā́nām に倣ったのと同様である。de Saussure のこれら後半の研究には、Osthoff の大論考「インド・ゲルマン語母音組織における低段階」(『形態論研究』第4部、Leipzig 1881)が多くの点で触れ合っている。

Schleicher 学派からは、Johannes Schmidt がとりわけその大論考「二つのアーリヤ語 a 音と口蓋音」(Kuhn の雑誌 XXV 1–179)によって新しい学説に関与している。この巻は

¹⁾ 私は u を特別な接尾辞と見なす。その属格 os が両数属格に存している(dvau, dvayoḥ)。古アイルランド語では dáu, dó の傍らの特別な形である。ラテン語 octavus とゴート語 ahtau にもこの u が含まれている。W. Schulze, Kuhn の雑誌 XXVII 428 参照。 ²⁾ この多く論議された現在形は pibati のような形成であり、sisdati, sizdati から代償延長によって生じたものであろう。もっとも が期待されるはずである(nīḍa 参照)。しかし asti の2人称単数命令 edhi も歯音をもつ。Osthoff『完了の歴史に寄せて』S. 4 参照。

Indo-arische Philologie I. 1 B. 28

たしかに1881年の年紀をもつが、Schmidt は末尾で論考を1879年6月6日と日付しており、口蓋音を扱う部分はすでに1878年に書き、その後変更していない(S. 63)。それゆえ de Saussure の『Système primitif』には折にふれてしか言及していない(S. 139)。Schmidt が Brugmann の仕事から刺激を受けたことは、彼自身の言葉から明らかである。彼は新しい思想を最初に述べたのではないとしても、その批判によってその勝利に本質的に寄与した。Schmidt は自らを、他の者が主張したことの正しさを初めて本当に証明した者と見なしていたようである。サンスクリットを彼はきわめて詳細に顧慮した。彼にとって主要なことは、サンスクリットにおける口蓋音の出現から、口蓋音は、本源的な軟口蓋音に続く a がサンスクリットにおいてもギリシア語 ε の方向にある響きをもっていたときに生じたのだということを証明することであった。この ai の中間にある a が表題の二つのアーリヤ語 a 音の一方であり、他方はそれ以上の区別なしに、e 的でない a である。Schmidt もまた、gr. φέρομεν, γόνυ の o と skr. bhárāmaḥ, jánuā が中間的音量の母音に遡るという Brugmann の想定を退け、サンスクリットの長い ā のうちに、より高い母音化の別の段階を見た。「サンスクリットの口蓋音は、続く i, y あるいは ia の中間にある音によって軟口蓋音から生じた」(S. 65)という法則によって、サンスクリットにおける多くの現象が説明される。すなわち軟口蓋音で始まる語根音節の重複における口蓋音(cakāra)、完了 cikéta における軟口蓋音、現在 árcati(および arcā́、S. 105)の arká 等に対する関係である。jagā́ra を彼は gr. βέβρως と、jaganvā́n を gr. βεβαώς と比較し(S. 74)、cétaticikéta に対する関係を、λείπει の λέλοιπε に対する関係と比較した(S. 82)。一次接尾辞 a は、現在語幹 arca において直説法の大部分の人称で e 的な響きをもっていたので、動詞語根の口蓋音が生じ、これに対して名詞語幹 arká では、ヨーロッパ諸語における対応する名詞(gr. λόγος のような)から判断して o 的ないし a 的な響きをもち(S. 99 以下)、「暗い母音」であった(S. 109)。これらすべての関係 — いかなるサンスクリット文献学者も無視しえない — を、Joh. Schmidt は先行する誰よりも豊富な材料をもって批判的に論じ、また法則性の攪乱をも新しい言語学の精神において「混淆」(S. 34)、「均等化」(S. 104)、「均一化」(S. 110)等によって説明しようとした。語幹階梯変化をもつ曲用における音節の短縮に対するアクセントの影響をも顧慮している(S. 30 以下)。彼の闘争的な弟子 Georg Mahlow は、新しい見解を長母音についても貫徹した。著作『ヨーロッパ諸語における長母音 A, E, O』(1879年)においてである。汎ヨーロッパ語的な長い ē を Schmidt はすでに1871年に想定していた(『母音組織』I 14)。Mahlow は後になって『Anzeiger für deutsches Altertum』XXIV 1 以下で、J. Schmidt の著作『ソナント理論の批判』(Weimar 1895)の、Brugmann に鋭く向けられた紹介をもってふたたび現れた。事柄としては、gr. τατός がインド・ゲルマン語時代に *tṇtós と発音されたか *tentós と発音されたかの問題であった。前者は Nasalis sonans を伴うもので Brugmann の見解、後者は鼻音の前に弱い母音を伴うもので J. Schmidt の見解であった。Brugmann はこれに『Indogermanische Forschungen』IX 第1/2分冊(1898年)の付録「Mahlow 氏、ソナント理論、およびインド・ゲルマン語言語学」で答えた。他学派の

者たちから Brugmann とその学問上の友人に向けられた個人的論争の理由への洞察を与えるのは、すでに1885年に書かれた H. Collitz の著作『最新の言語研究とインド・ゲルマン語 ablaut の説明』(Göttingen 1886、Bezz. Beitr. XI からの抜刷)である。両陣営の広汎な原理的一致からすれば、優先権争いが生ずるのは自然であった。Collitz は、J. Schmidt の功績と Göttingen の人々の功績が十分に認められていないと考えた。彼は(S. 20)Amelung と並んでさらに G. Humperdinck を挙げている。Humperdinck はその論考「母音と、言語および方言におけるその変化の音声学的現象」(Siegburg 1874、実科ギムナジウム・プログラム)で、eo は「西アーリヤ諸語において」a の弱化ではなく、「それと同等、いやおそらくより古い」のではないかと推測していた。

インド・ゲルマン語母音組織の体系はその後も修正され続けた。de Saussure の『Système primitif』に結びついたのが H. Hübschmann の著作『インド・ゲルマン語母音組織』(Straßburg 1885)である。ここには冒頭にこれらの問題についての文献目録がある。Hübschmann に結びついて Chr. Bartholomae が「祖語的母音列について」の自説を、上 S. 430 で言及した論考(Bezz. Beitr. XVII(1891)S. 105 以下)で展開した。

70年代に競走のごとく新しい目標へと突き進んだより若い言語研究者たちは、さまざまな学派に属していたが、しかしみな彼らの師 — Göttingen の Benfey、Leipzig の G. Curtius、Jena の Schleicher — を越えていった。このうち闘争のかの時代を完全に生きたのは Curtius のみである。1820年に生まれ、Bopp の直接の弟子であった彼は、その学説に深く根を下ろしており、とりわけギリシア語についてそれを文献学的正確さをもって築き上げていた。この堅固な立場から、彼は死のわずか一年前に著作『最新の言語研究の批判に寄せて』(Leipzig 1885)を書いた。1885年8月12日に彼は没した。Brugmann が比較言語学の特別教授職における彼の後任となった。古典文献学教授であった G. Curtius には、古典文献学者を Bopp の学説に獲得したという功績がある。彼はその学問の重要性と確実性を彼らに納得させることができた。それは彼にとって心情の問題となっていた。彼は言語研究者相互のある種の一致に大きな価値を置いた。そこへ、彼が代表する Bopp の学説に対抗して、いくつかの主要点において同じく確信の力をもって別の見解が主張された。より若い世代が学問の基礎を新たに検討したのである。Curtius にとって、生涯の終わりに学び直し、生涯にわたって先駆者として言葉と著作において主張してきたことを撤回することは不可能であった(S. 5 参照)。新しい見解は彼にとって直接には説得的ではなかった(それを共有した J. Schmidt にとってさえ、それらは最初はまだ証明されていなかったのである)。彼は古い立場を擁護し新しい立場を批判し、その際「事柄に有利に何が、事柄に不利に何が言われうるか」を考量している(S. 91)。価値ある歴史的文書であるその著作は四部に分かれる。I では「音韻法則は例外を許さない」という命題を扱い(S. 6)、II では類推形成の原理を(S. 33)、III では母音 a, e, o、guṇa、語幹階梯変化を(S. 90)、IV では祖語の形の成立を扱う(S. 130)。Curtius が全体として失われた陣地を守ったのだとしても、それでもここにはとりわけ I と II において、今日なお注目すべき、散発的音

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変化の本性についての、また類推形成の原理の行き過ぎた適用についての論述等が見出される。わずかな頁でわれわれは闘争全体を見渡すことができる。フランスとイタリアからも Henry と d'Ovidio を通じて反響が響いてくる。Curtius は多くの個々の点ですべての言語研究者と対決しており、Brugmann や J. Schmidt のみならず、同じ問題をその『言語研究入門』(Leipzig 1880、第2版 1884)で論じた Delbrück とも、また「そのギリシア語文法においてこの言語の諸現象を新しい主張の意味において解明しようという功績ある試みを行った」G. Meyer とも、その他の者たちとも対決している¹⁾。

言語発生論的問題については、彼は論考「インド・ゲルマン語言語研究の年代論に寄せて」(ザクセン王立学術協会論集 1867、第2版 1873)で論じていた。彼は依然として、人称語尾を人称代名詞からの広汎な毀損の想定によって説明する立場にとどまった。たとえば2人称複数命令の語尾 tatva から説明する(『批判に寄せて』S. 144)。しかし他の研究者においては、人称語尾がつねに語源的に動詞の主語を表すわけではないという認識がますます高まっていた。Scherer と Brugmann は、Veda の形 gacchatāt, jīvatāt の2・3人称単数命令の tād のうちに、受動完了分詞 ta からの奪格的副詞を見ようとした。R. Thurneysen はその論文「インド・ゲルマン語の命令法」(Kuhn の雑誌 XXVII(1885)S. 172 以下)で、動詞形に固着した小辞を切り離し、ast-i からは i を、ast-u からは u を分離し(S. 175)、命令法の tād, tōd を代名詞語幹 to の奪格と説明した。bheretōd「そこから運べ」(S. 179)。この小辞理論において、bhavat-u に関しては Osthoff が先行していた(『形態論研究』IV(1881)252 以下)。これらすべての想定を Curtius は批判した。学問の歴史において、古い時代の権威が新しい時代の方向に対してこれほど多くの確信と批判をもって声を上げることは稀であろう。それによって進歩が押しとどめられることはありえなかったが、しかし検討する慎重さへと促されることはありえた。

bhavat-u, bhavat-ām のような形における小辞の分離の後に残る bhavat は、「非本来的接続法」と見なされた。Delbrück はこう名づけた、「接続法的意味で用いられる、歴史的時制の augment を欠く直説法」を(『接続法と希求法の用法』(1871)S. 5、『古代インドの動詞』(1874)S. 191 参照)。Brugmann はこれに対して「Injunctivus(指示法)」という表現を導入した。論考「いわゆる非本来的接続法」(『形態論研究』III(1880)S. 2)においてである。

ギリシア語が ω 動詞と μι 動詞の区別においてサンスクリットより本源的であること、サンスクリットは a, ya, aya の現在語幹においても語尾 mi を導入したのだということは、最初に Scherer が述べたことである(『ドイツ語の歴史に寄せて』(Berlin 1868)S. 173、第2版(1878)S. 213)。しかし十の現在

¹⁾ Curtius は当時しばしば私と新しい言語学的諸研究について語った。その著作の刊行後、彼は私に、これを私に献ずるつもりであったが、私を危うい立場に置かないためにやめたのだ、と語った。この言葉は私を深く動かし、これらの文法的問題においてある種の抑制をもたらすこととなった。私自身は当時すでに、他の者とは独立に、guṇa 二重母音が単母音の上昇なのではなく、単母音のほうが前者の弱化なのだという考えに至っていた。というのも、他の場合にも語根音節における a の抑圧は観察されうるが、そのような音の挿入は観察されえないからである。a 音の分裂に関しては、eo が一つの同じ語根音節において交替する場合には、より古い統一から生じたはずだということが、私には一つの要請と思われた。

類によって、ヨーロッパ諸語の活用にも秩序がもたらされた。もっともそれらはあらゆる種類の現在形成を収めるには不十分であった。Brugmann は『比較文法綱要』II, 2(Straßburg 1892)S. 887 以下で32種を立てているが、そのうち十類のほかにも多くのものが、不規則としてサンスクリットにおいても立証しうる。サンスクリットの第8現在類は、kṛ のほかにわずかな n に終わる語根を含むにすぎないが、Brugmann はこれを第5類に還元した。論考「古代インド語の第8活用類とギリシア語におけるその対応」(Kuhn の雑誌 XXIV(1879)S. 255 以下)においてである。すなわち tan-o-ti, tan-u-té(後者は gr. τάνυται に等しい)と分けるのではなく、tṇ-nó-ti, tṇ-nu-tái と分けるべきである、と。語根 kṛ の現在形は Veda では主として kṛṇóti である。後代の言語の通常の現在形 karóti, kurmáḥ を、Brugmann は類推による新形成として説明しようとした。もっとも Veda には語根 tṛ からの tarute も現れるのであるが。第7類においては、語根音節における中挿辞 na(bhid から bhinátti)が昔から不審を招いていた。J. Schmidt はこの a を、bhind から出発して svarabhakti によって説明しようとした。これらの形についても Brugmann は類推による説明を提案した。論考「アーリヤ語の第7現在類」(『形態論研究』III(1880)S. 148 以下)においてである。第7類の形成のきっかけを与えたのは、すでにインド・ゲルマン祖語に存した二音節語幹「anag²(塗る)と anak¹(達する)」であるという(S. 155)。skr. anákti, añjánti, anaśāmahai である。これらの形に bhañj からの bhanákti、次いで yuj, bhid からの yunákti, bhinátti が倣って形成されたという。

言語の体系に対してはより深く介入しないが、同系諸語に対するサンスクリットの音韻関係を解明したのが、Graßmann と Fortunatov の観察である。skr. bāhu(腕)と gr. πῆχυς では、skr. b に gr. π が対応し、ゴート語 bindan と skr. bandh では子音推移が欠けているように見える。これらの関係は Graßmann の論考「語頭と語末に帯気音を含む語根の本源的存在について」(Kuhn の雑誌 XII(1863)S. 110 以下)によって規制された。Graßmann の法則の主要命題は同誌 S. 111 で次のように述べられている。「ある語の、母音によって隔てられた二つの子音群に、同じ語根に属する帯気音が現れる場合、その一方 — 原則として最初のもの — はその帯気を奪われる」。この法則はサンスクリットとギリシア語に関わる。ギリシア語では帯気音 χ, θ, φ が無声化していたので、その位置にサンスクリットのような有声音ではなく無声音が現れる。重複音節におけるように(skr. babhū́va, gr. πέφυκα)。ラテン語・ゴート語では語頭に通常の対応が現れる。こうして budh-ná-s, πυθ-μήν, fund-u-s, fundamentum、古ザクセン語 bod-m が一つにまとまる。語頭子音の交替という一見最大の無規則性におけるこの規則性の最も美しい例の一つを提供するのが、語根 skr. dih「塗る」、dehī「盛り土」、saṃdih「盛り上げ」、deha「身体」であり、これに gr. τεῖχος、lat. fingo、ゴート語 gadigans, daigs「練り粉」が属し、また借用語 Paradies、παράδεισος も属する。これはヘブライ語を経て古イラン語 pairidaēza(周壁をめぐらした庭)に遡るのである!

Moskau の学者 Ph. Fortunatov の小さいが内容豊かな論考は、サンスクリットにおける反舌音の起源に関わる。「古代インド語における

L + 歯音」(Bezz. Beitr. VI(1881)S. 215 以下)である。skr. naṭa「俳優」、nāṭaka「劇」が、nṛtyati「踊る」、nartaka「踊り手」にある語根の(方言的)変形を含むことは、早くから認識されていた。また skr. paṭhati, pāṭha が lat. interpretor に属することもそうである。しかし Fortunatov は多数の例の蒐集によって、とくに規則的に lt, lth, ln, lsṭ, ṭh, ṇ, ṣ となったことを証明した。歯音と l との結合はそもそもサンスクリットには現れない。とりわけ明快なのは、skr. kuṭhāra「斧」と lat. culter、skr. pāṇi「手」と παλάμη, palma、skr. pāṣya, pāṣāṇa「石」と古高ドイツ語 felis「岩」との対比である。Windisch は Kuhn の雑誌 XXVII(1885)S. 168 でさらに sthūṇā「柱、支柱」、sthāṇu「静止した」、tūṇa「箙」を加えた。すなわち sthūṇā は gr. στάλλα, στήλη、古高ドイツ語 stollo に、sthāṇu は古高ドイツ語 stilli に、tūṇa は古教会スラヴ語 tulŭ「箙」、gr. τελαμών、lat. tuli に等しい。Hübschmann による訂正(ZDMG. XXXIX 91)を参照。

Zendavesta には l が欠け、古ペルシア語碑文では固有名詞 Arbairā と Bābir'u のみが問題となるので、インド・ゲルマン祖語が l をもったかという問題が生じた。この問題は Göttingen の学位論文『インド・ゲルマン諸語の l はインド・ゲルマン祖語に属する』(Wilhelm Heymann、Weimar 1873)で肯定された。Fritz Bechtel は同じ対象をその著『Schleicher 以後のインド・ゲルマン語音韻論の主要問題』(Göttingen 1892)の最終項目として扱い、同じ見解であるが、Heymann の著作には言及していない。Bechtel の後、Christian Bartholomae がこの対象について論考「l 問題に寄せて」(Indogermanische Forschungen III(1894)157–197、1892年の日付)を書いたが、その確信はそれほど強くない。学者たちは今日に至るまでこの問題で完全な一致を見ていない。l はさしあたり l 的な r 音であったと思われる。あらゆるサンスクリットの l は、ヨーロッパ諸語においても l である(skr. linā́ti, līna, lubhyati, lobha, abhilāṣa)。サンスクリットの r は二種ある。特定の語ではヨーロッパ諸語でその傍らに l をもち(skr. pur, puru, śru, śri, bhrāj, ūrmiūrṇā「波」と「羊毛」)、特定の語ではヨーロッパ諸語も r をもつ(rājā, rudhira, bhrū, trayaḥ, sru)。Veda 語では若干の語がサンスクリットより長く r を保っている(raghu, roman, pru)。これらの関係からの例外は稀であり(rohita の傍らの lohita、語根 śru に属する śloka)、方言的起源のものと思われる。インドの地で独自に発展した古い民衆語、すなわち Māgadhī、Aśoka 碑文(紀元前3世紀)では、サンスクリットのあらゆる r に対して l が現れ、rājā に対して lājā とさえなる。

サンスクリットの音韻論の歴史をも叙述する右に挙げた Bechtel の書は10章からなり、そのうち8章が母音組織に関わる。1. 母音 a, e, o は祖語に属する、2. 上昇、3. 母音弱化、4. 延長、5. 三つの長母音と三つの基本母音、6. 基本母音 ē, ā, ō の証例、7. ā, ē, ō の弱化、8. 長い第一成分をもつ二重母音、9. 軟口蓋音、10. l は祖語に属する。第一章では Amelung が Brugmann に対して持ち出され、弁証法的な批判が加えられている。たとえば S. 53 参照。Arthur Amelung についてわれわれはあまり知らない。バルト人であったらしく、1871年に Dorpat で教授資格を得たが、まもなく1874年4月6日に没した。Amelung のここに関わる仕事は、著作『ドイツ語における母音上昇による時制語幹の形成』(Berlin 1871)—

これについては Kuhn の雑誌 XXI 341 以下の Leo Meyer、および第 XXII 巻 361 以下の Amelung の応答をも比較すべきである — と、彼の死後に現れた論考「ドイツ語の a 母音の起源」(Haupt の雑誌 XVIII(1875)161 以下)である。疑いなく Amelung は若手文法家に先立って、a, e, o(サンスクリットの単一の a に代えて)をインド・ゲルマン祖語に帰した。Brugmann はこのことを初めから認めていた。しかし他方、若手文法家の研究は Amelung との関連において行われたのではない。Bechtel が後になって Amelung を完全に名誉あるものとしたのである¹⁾。

§第 LXIII 章 イタリアにおけるサンスクリット研究

§A. DE GUBERNATIS²⁾

Gorresio の最初の後継者たちは、さしあたり既知のもの(叙事詩からの断片、諸戯曲、Cāṇakya、寓話文学)を本質的に越えることはなかったが、その大学における教育を通じて、また主として翻訳である著作を通じて、サンスクリットとその文学の知識をイタリアの諸大学に広めた。このことを、彼らのうち最も精力的な A. de Gubernatis が、東洋学の歴史一般への深い関心をもって描いている。著作『Cenni sopra alcuni Indianisti viventi』(Firenze 1872)と、St. Petersburg の国際東洋学者会議に献ぜられた書『Matériaux pour servir à l'Histoire des Études Orientales en Italie』(Paris および Florenz、Rom、Turin(Loescher)1876)S. 337 以下においてである。A. de Gubernatis は1840年 Turin に生まれ、イタリアにおける最初のサンスクリット学者が Piemont の出であることを好んで強調した。すなわち Gorresio、彼自身、次いで Flechia、Lignana、Kerbaker である。

Giovanni Flechia は1820年ごろ生まれ、サンスクリットにおいては独学であった。叙事詩と Pañcatantra からいくつかの断片を訳した後、Benfey の『完全文法』に依拠して、イタリア語による最初の学問的な『Grammatica Sanscrita』を刊行した(Turin 1856)。1856年に Turin のサンスクリット教授職を得たが、これはのちに時代の精神に応じて比較言語学の教授職に改められた。彼の弟子には、Kālidāsa の戯曲の訳者 Antonio Marazzi、Domenico Pezzi、Pietro Merlo がいる。Giacomo Lignana は1830年ごろ生まれ、そのサンスクリットを

¹⁾ Amelung について右に記した以上のことは、Dorpat 帝立大学教授伝記辞典第 II 巻(Jurjeff 1903)S. 559 以下に見出される。これについては Stieda 教授の御教示を得た。そこでは彼の名は Heinrich Julius とされている。すでに1868年に Halle で著作『Prolegomena ad Ortnitum carmen theodiscum saeculi XIII』により学位を得ていた。『Deutsches Heldenbuch』第 III 巻・第 IV 巻「……Ortnit und die Wolfdietriche」(Berlin 1871, 1873)を参照。Amelung は1873年に Dorpat を去り Breslau に移った。そこから Freiburg への招聘に応ずる前、1874年4月6日に没した。 ²⁾ 最初のサンスクリット文献学のヨーロッパにおける開花をもたらしたフランス・イギリス・ドイツの学者たちへの敬虔な評価によって、A. de Gubernatis はこの第二部の good な締めくくりをなす。他方彼はその『Peregrinazioni』によってわれわれをインドへと導くのであり、そこではヨーロッパ人の影響のもとに新しい土着のサンスクリット文献学が発展したのである。

Bonn の Lassen のもとで学び、1860年に Neapel 大学の professore di lingue e letterature comparate となった。そこでは彼より前に、Nala と Bhagavadgītā の訳者である Neapel の人 Stanislas Gatti が活動していた。Lignana が1870年に Rom へ移ると、1836年 Turin 生まれの Michele Kerbaker が Neapel での後任となった。彼は Mṛcchakaṭikā および叙事詩の種々の挿話の訳者である。

しかし Gatti のほかにも、より古い世代のイタリア人には Piemont 出身でない者がいた。Bardelli、Maggi、Teza である。Abbate Giuseppe Bardelli は1815年に生まれ、1865年に没したトスカーナ人で、種々の地位で、最後は Pisa 大学で、コプト語と並んでサンスクリットを教えた(Cenni S. 5)。その修学の経歴は多くの東洋語へと彼を導いたもので、当時のイタリアにおける言語学的気分にとって特徴的である。彼は最初エジプト学とコプト語の研究に従事した。その後政府は彼を Rom に送り、そこで枢機卿 Mezzofanti の指導のもとサンスクリットを学ばせようとした。「当時、東洋学者の理想は Mezzofanti によって代表されていた」(Matériaux S. 279)。より遠くへ進んだのは、Paris に送られたときである。ここでは Burnouf に聴くのみならず、Stanislas Julien から中国語をも学ぶことになっていた。Paris から彼は London と Oxford に赴いた。Oxford ではコプト語のみならずサンスクリットの写本をも筆写する機会を得た。後者からは何も公刊しなかったが、その写しは Florenz に保存されている。de Gubernatis は Yogavāsiṣṭhasāra の写しを強調し、イタリア人がこの著作を刊行することを望んでいる(Matériaux S. 352)。Bardelli の弟子には Fausto Lasinio、F. G. Fumi、Carlo Giussani らがいる。サンスクリット研究の古い拠点は Mailand でもあった。ここで Ascoli は、55歳で没した Pietro Giuseppe Maggi を先任者としていた。Maggi は Nala と、Rāmāyaṇa から挿話「Morte di Yajnadatta」を注解付きの韻文に訳している(Cenni S. 18、Matériaux S. 356)。最後に Emilio Teza は1831年に生まれ1913年に没し、Padua 大学の比較言語学およびサンスクリットの教授であったが、ヴェネツィア人であった。そのような者として彼が Wien に赴くのは自然であり、そこで Anton Boller からサンスクリットを学び、傍らなお多くの他の言語に従事した。彼はサンスクリットと Zend 語の師 Boller の教授を賞讃し、またその土着の資料から編み出したサンスクリット文法を、「忘れられることはないであろう」と評している(Cenni S. 42、Matériaux S. 354)。

イタリアには才能が欠けていたわけではない。しかしイタリアの学者は誰一人サンスクリット文献学に限定せず、好んで比較言語学に転じたか、あるいは同時にあまりに多くの東洋語を包括しようとした。彼らはインドの世界を詩的熱狂をもって眺め、イタリア語の韻文に訳した。Ascoli さえ Nala の韻文訳から始めている。「詩こそがわれわれの精神をインド世界の発見へと導く自然な導き手だ、といえるであろう」(de Gubernatis, Cenni S. 13)。Ascoli においてイタリアは国際的意義をもつ第一級の言語研究者をもった。その著作については de Gubernatis もとくに詳しく論じている(Cenni S. 5 以下、Matériaux S. 355 以下)。Graziadio Isaia Ascoli は1829年に生まれ1907年に没し、Görz(Gorizia)の裕福なユダヤ人家庭の出であった。1860年ごろ Mailand の Accademia scientifico-letteraria の教授職を提供され、生涯の終わりまでその飾りであり続けた。すでに15歳で

彼は Friaul 語と Walachia 語の親縁性についての研究を公にした。de Gubernatis はその著作を1876年まで記録している。

それに劣らず価値があるのは、イタリア以外の国々のサンスクリット学者についての de Gubernatis の記述である。存命の多くの者と彼は個人的関係をもっていた。彼は Galanos と Nicolò Chiefalà から始める。後者については『Descrizione della città di Benares』(Livorno 1826)に言及している(Cenni S. 19)。続いてスペイン人 Fr. Garcia Ayuso(Haug の弟子)と Manuel de la Revilla が来る。これらよりも彼が多く語るのは Westergaard についてである。ロシアでは、Petersburg アカデミー司書 Anton Schiefner、Zend 学者 Kossowicz、Moskau 出身で Petersburg 教授、Weber の弟子である Pāli 研究者 Minayeff を知っている。フランスでは Burnouf の死後、その最も優れた弟子二人、Pavie と Regnier もまた沈黙した。1794年 Marseille 生まれで、École des Langues orientales vivantes でヒンドゥスターニー語の教授職にあった Garcin de Tassy については、政治的な内容の書簡の言葉と、その主要著作の目録を伝えている。Edouard Foucaux からのより長い書簡からは、彼がサンスクリットではさしあたり Burnouf の弟子であったが、チベット語では独学であったことが分かる。彼は Csoma de Kőrös の文法を用い、Lalitavistara のチベット語訳によって次第にチベット語を習得した。Foucaux からそれを学んだのが Léon Feer である。Foucaux はその書簡で、Burnouf の講義に見た学者たちを挙げている。Regnier、de Saulcy、Ampère、Barthélemy-Saint-Hilaire、Renan、Lancereau、Pavie、Fauche、Baudry、Gorresio、また Max Müller、Goldstücker、Westergaard である(Cenni S. 21)。Ed. Lancereau は1819年生まれ、Hitopadeśa と Pañcatantra を訳した。1818年生まれの Frédéric Baudry と、1832年 Landau 生まれの Michel Bréal は、むしろ比較言語学と神話学に属する。前者の主著は『Grammaire comparée des Langues classiques』である。Bréal については当時その著作『Hercule et Cacus, étude de mythologie comparée』(Paris 1863)が多く引用された。しかし彼の主著は Bopp の『比較文法』のフランス語版であった。彼は今なお Collège de France の教授である。彼が理事の一人であった École des Hautes Études では、Abel Bergaigne と言語学者 Louis Havet が彼の弟子であった。簡潔に言及されるのは、Nancy の Émile Burnouf、言語学者 Eichhoff とその追随者 Chavée、アッシリア学者 Jules Oppert — 彼は Benfey の著作に依拠して、フランス語による最初のサンスクリット文法を書いた(『Grammaire Sanscrite』、Berlin 1859。Weber の書評『Ind. Streifen』II 161 参照)— 、Hovelacque、Delâtre、Hauvette-Besnault、また注ではベルギー人 Nève とオランダ人 Kern である。イギリスについては de Gubernatis はまず仲介的役割を果たした書店 Trübner、Williams and Norgate、Longmans and Green、Asher を挙げ、次いでドイツ人学者 Goldstücker、Aufrecht、Max Müller を挙げる。彼らはイギリス人から「稀な寛大さをもって」(Cenni S. 24)その大学に招かれたのである。イギリス人学者のうちでは、Edinburgh のサンスクリット講座を創設した John Muir をとくに詳しく扱い、その傍らにサンスクリット教授 Monier Williams と Cowell を置き、その主要著作を挙げている。F. E. Hall に簡潔に言及した後、アメリカ人 Whitney を称揚している。「Et nunc maiora canamus」の叫びをもって(Cenni S. 27)、彼はドイツ人学者に向かう。Schlegel、Rosen、Bopp、Schleicher という「四人の先駆者」は既に世を去っていたが、

古い大家のうちなお Lassen、Pott、Benfey、Brockhaus、Stenzler が存命であった。十全の活動にあるのはその後継者 Böhtlingk と Roth、Weber、Aufrecht、M. Müller と A. Kuhn、Spiegel、Haug、Justi、Gildemeister、Bühler である。ほとんど全員が彼によって性格づけられており、とりわけ温かいのは Pott と Weber についてである。一部の界隈、Berlin においてさえ見られた比較言語学の軽視に、彼は鋭く反対している(Cenni S. 30)。Pott の弟子としては Ebel、Förstemann、Blau、Delbrück、Theophilus Hahn を、Benfey の弟子としては Budenz、Bühler、Fick、Haug、Justi、L. Lange、Leo Meyer、Nöldeke、Peile(Cambridge)、Senart(Paris)を、Roth の弟子としては Trumpp、Osiander、Siegfried(Dublin のサンスクリット教授)、Whitney、Haug、Pertsch、Euting、Grill、Bruce、E. Kuhn、S. Goldschmidt、C. Giussani を挙げている。彼がとくによく知る Weber の弟子については、年ごとに列挙している。1849年 Siegfried、1850年 Pertsch、1850年と1851年 Whitney、1855年と1856年 Ludwig と Kern、1856年と1857年 Storck、1857年と1858年 Lexer と Bréal、1858年 Bugge、1861年 Kielhorn、1861年と1862年 Delbrück、1862年と1863年 de Gubernatis、1863年 Minayeff と C. Giussani、1864年 E. Kuhn と S. Goldschmidt、1865年 Eggeling と Gaidoz、1865年と1866年 Johannes Schmidt、1867年 Thibaut。彼の著作を締めくくる性格描写の対象である Haug についても、de Gubernatis は書簡による情報を得ていた。彼は Veda と Zendavesta の分野における Haug の功績を認めるが、その師 Roth とヨーロッパのサンスクリット学に対する論争には賛成しない(Cenni S. 40)。Haug の弟子としては、Bonn の Johaentgen、Poona ではほかならぬ Bhandarkar、München の West、Ayuso、Hübschmann、Jolly を挙げている。

Angelo de Gubernatis は機知に富む博学者であり、その文学的・文化史的研究をとりわけ熱狂をもってインド古代に向けた。学問の歴史における人物への大きな関心をもち、その活発な性向で多くの事柄について語ったので、その著作は方向づけのため、また自らの知識を測るために非常に有用である。もっとも、より深い研究のための時間と落ち着きを見出した箇所はわずかであるが。サンスクリットのより大きな知識を彼は1862年に Berlin の Weber のもとで獲得した。1863年以来長らく Florenz の Istituto dei Studi Superiori のサンスクリットおよび比較言語学教授であったが、政治的理由による短い中断があった。彼は Bakunin の親族と結婚し、自由主義的、当初は急進的な方向で活動した。1890年に Rom にサンスクリットおよびイタリア文学の教授として招かれた。そこには、その多数の著作の表題におけると同様、彼の関心の広さが表れている。1913年に没した¹⁾。研究者としては、Ṛgveda の最初の知識から出発した比較神話学者に数えるべきである。

この方向における A. de Gubernatis の最も独創的な著作は、その『Zoological Mythology』であり、彼自身はイタリア語で書いたが、英訳で公刊された(London 1873)。英語から、のちにアラビア学者として名を成した若き Martin Hartmann がこの書をドイツ語に訳した。『インド・ゲルマン神話における動物』(Leipzig 1874)である。序文で de Gubernatis は Fleischer の「好意的な推薦」に謝している。この書は「Michele Amari 氏と Michele Coppino 氏に」献ぜられている。第一

¹⁾ Rivista degli studi orientali VI(1913)1–3 の追悼文を参照。

部で de Gubernatis は陸の動物を、牡牛と牝牛を筆頭として扱い、第二部では空の動物を、第三部では水の動物を扱う。全体は、大きな学識と詩的感覚、しかしまたきわめて活発な空想をもって遂行された、インド・ゲルマン神話の体系的叙述であり、神話と伝説に現れる動物を前面に置き、神話と説話を自然現象から解釈するものである。解釈において de Gubernatis は独自の道を行くが、しばしば A. Kuhn および Max Müller と接触しており、彼自身この二人を先駆者と呼んでいる。いずれにせよ de Gubernatis は、この二人と Cox に続いて、神話を大規模に比較し解釈した第四の人物である。神話にあまりに多くを要求しすぎているのではないかは、また別の問題である。動物において彼は叙述に一定の配列原理を与えた。しかしこの原理は厳密には守られていない。第一章には、動物とは関わりなく、インドの資料に由来する説話集 Tuti-Name(Śukasaptati)、「Siddhi-kür」(Vetālapañcaviṃśati)、Ardschi-Bordschi(Vikramacaritra)の分析、およびイラン・フィンランド・エストニアの伝説と説話の分析が挿入されている。さらに広い場所を占めるのは Afanassieff が集めたロシアの説話である。「ゲルマン・スカンディナヴィア」と「フランク・ケルト」の神話、また同様にギリシア・ローマの神話はより簡潔に扱われている。ギリシア神話については M. Müller と George Cox に依拠している。各章で彼は Ṛgveda から出発するが(S. VII)、当時すでに翻訳によってその利用が容易になっていた限りで、その他のサンスクリット文献をも援用している。Rāmāyaṇa、Mahābhārata、Aitareyabrāhmaṇa、Viṣṇupurāṇa、Pañcatantra 等である。神話においてのみならず、伝説と説話においても、彼は動物について語られることを、太陽と月、日光、雷霆、稲妻、Aurora、雲、夜、闇(S. 469)、およびこれら自然現象相互の関係に帰す。多数の神話は矛盾、対立から生ずる、「すなわち同一の観察者に、まして異なる観察者に、天の諸現象が現れる対照的な形姿から」(S. 178)。Aurora は朝の Aurora であり夕の Aurora であるが、夜においてもそれは存在する。太陽と同様である。それによって新しい、一部は魔的な性格の特徴が生じた。Indra は「雨と雷の神」(S. 313)であるが、また夜の太陽でもある(S. 327)。驢馬は夜の間の太陽の馬であり(S. 300)、山羊は太陽である(S. 317, 326)。「鹿は、雲に覆われた、あるいは夜の森に現れる輝く諸現象を表す」。すなわち稲妻と雷霆、あるときは雲そのもの、あるときは夜の闇のなかの月である(S. 404)。「狐は輝く昼と暗い夜との間の赤みを帯びた仲介者である」(S. 433)。Aśvin からは de Gubernatis はとくに多くを導き出す。Yāska の所見に従い(S. 238)、一方には白い月への関係を、他方には太陽への関係を帰し(S. 252, 351)、あるいは両者を二つの薄明、「白い(alba)すなわち日の出と、赤い(Aurora)、あるいは別の観点から見れば朝の薄明と夕の薄明」と同定している(S. 21)。Rāma と Lakṣmaṇa は Aśvin の叙事詩的形象であり(S. 216)、あるロシアの説話における猫と雀は同じものの説話的現れの形である(S. 382)。Hanumant は太陽神である。Laṅkā の都を炎に包むその燃える尾は、

「おそらく朝ないし春の太陽の光線の擬人化であり、それが東の空を炎に包み、夜あるいは冬の怪物の住処を破壊するのである」(S. 420)。トロイアの木馬(S. 260)、戯曲 Śakuntalā の冒頭で王が追うガゼル(S. 405)も、神話的起源のものだという。de Gubernatis は、天の自然現象に生じた神話が地上に引き下ろされ、伝説あるいは説話の形でつねに新しい変奏をもって受け継がれたと想定する。神話の想定がそもそも不要である事例は別としても、彼は、伝説や説話の人物と筋がさしあたり独自の起源をもち、ただより大きな讃美のために神話の宝庫から驚異的な特徴を与えられたにすぎない、という可能性をあまりに考慮していない。動物の神格に対する関係はさまざまに考えられている。神格は動物と比較される。Indra は vṛṣabha と呼ばれる。神格は動物の姿をとる。Aditi は牝牛の姿をとる。動物は神格の車を引き、そうしてその本質と力をも反映する。語源においては de Gubernatis はまだ音韻法則を知らない(S. 372)。

同じ年に、イタリア語で『Letture sopra la Mitologia Vedica』(Firenze 1874)が現れた。これは Istituto di Studi Superiori di Firenze で行われたもので、そこで彼はくり返し自らの『Zoological Mythology』に言及している。ここで彼はかなり初歩的な仕方で Veda の神々について語り、天なる Dyaus から始めて Rudra-Śiva で終わる。E. Renan への献辞に対応して、彼は Veda の神話をしばしばキリスト教の観念と比較している。「Veda の風の神の性格」を彼は「キリスト教の聖霊」のうちに再発見する(S. 144)。ここでも同じ空想に富む解釈があり、どこにも難所の文献学的に価値ある解釈はないが、Ṛgv. I 182, 1 の viśpalāvasū の説明(S. 211)のように、ときに危うい説明がある。材料は主として Muir の『Original Sanskrit Texts』第5巻から採っている(S. 30)。乱暴な語源の甚だしい一例は、Indra を antarikṣa に結びつけることである(S. 188)。Marut は彼にとって語 garut「翼」の異形である(S. 150)、等々。

その一般的見解を de Gubernatis はすでに数年前に、Ascoli に献ぜられた著作『Fonti vediche dell' Epopea』(Firenze 1867)で展開していた。Ṛgveda はアーリヤ人の聖書である。アーリヤ人の民衆宗教は自然現象の観察から生じた。明るい現象の英雄が神であり、暗い現象の英雄がサタンである。両者はその下に個々の現象の英雄をもつ(S. 6)。「Epopea」のないところに神話はなく、神話のないところに Epopea はない(S. 8)。闘争なき Epopea は考えられないから、天上の闘争を探さねばならない。de Gubernatis は Maṇḍala を順に通覧し、それらが言及する闘争を叙述する。この一般的な意味で、その著作は Veda における叙事詩の源泉を論じている。彼は Purūravas と Urvaśī の神話や、Ṛgveda にまで遡りうる Śunaḥśepa の伝説に限定してはいない。同じ著作は『Studi sull' Epopea Indiana』の表題のもとに、第二部『L'Epopea Brahmanica』と合わせられており、Estratto dalla Rivista Orientale である。ここに置かれた内容目次には「女性、叙事詩的戦いの動機」という所見も見出される(

S. 35 に関わる)。末尾に付された Appendice で de Gubernatis は Muir に反対している。Muir は Vasiṣṭha、Viśvāmitra、Sudās の神話的性格についての彼の理論(S. 53)を認めず、Roth とともにこれらを歴史的人物と見なしたのである。補遺は S. 103–161 を占め、まず Rāmāyaṇa を、次いで Mahābhārata を論ずる。Rāmāyaṇa の基礎は神話的である。Laṅkā は雲あるいは夜である(S. 119)。Rāma は Viṣṇu ないし Indra、太陽である(S. 122)。猿たちは「太陽を取り巻く黄金の雲」である(S. 126)。Sītā は曙光でありうる(S. 131)。Rāmāyaṇa を彼は Ilias と、Mahābhārata を「テーバイ攻めの七将」と比較している(S. 138)。Mahābhārata からは、いくつかの挿話の英雄に、また主要伝説の英雄にも観察した神話的特徴を挙げている。

その Veda 研究を de Gubernatis はなお他のいくつかの小さな仕事に記している。最も早いものの一つは『Studj Vedici. I primi venti inni del Rigveda, ripubblicati e per la prima volta dall Indiano tradotti in Italiano』(Firenze 1864)である。翻訳において de Gubernatis はここでは Benfey に依拠したが、ときにきわめて大胆な推定改訂を許している。この小著と、第二の『La Vita ed i Miracoli del Dio Indra nel Rigveda』(Firenze 1866)を、Weber が好意的に論評している(『Ind. Streifen』II 289 および 362 参照)。

すでに動物神話学において de Gubernatis は植物についての同種の著作を予告していた。それはより後になって、フランス語で書かれ『La Mythologie des Plantes ou les Légendes du Règne végétal』の表題のもとに現れた(第1巻 Paris 1878、第2巻 1882)。彼はこれを友人 Frédéric Baudry と André Lefèvre に献じた。Baudry は Regnaud のフランス語訳『Mythologie zoologique』を好意的に論評していた。すでに Schwartz、A. Kuhn、Mannhardt が植物を神話との関係において研究し始めていた(序文 S. XII)。de Gubernatis が意図したところを、彼は次の言葉で述べている。「原始人が経験したにちがいない最大の本能と欲求は、本質的に植生と繁殖の欲求と本能であった。したがって樹木の生こそが彼の最初の理想であったから、最初の崇拝は自然に樹木の崇拝であった。この崇拝の比較史を描くことが私の書の目的である」(S. XXXII)。第1巻・第一部は「Botanique générale」、第二部は「Botanique spéciale」の表題をもつ。両部ともアルファベット順に配列されており、「諸神話の一般的比較辞典」の編纂を容易にすべきものである(S. XXXVI)。第二部には、宗教的、神話的、医学的、あるいは単に詩的な観念が結びついた樹木と植物が記載されている。こうしてここには、インドの Aśoka、Aśvattha、蓮についての小項目のみならず、インド古代とは何の関係もない樫(Chêne)、胡桃(Noyer)、月桂樹(Laurier)についての項目もある。これらの記述だけでも、植物界が神々の神話学にとって動物界と同じ意義をもつわけではないことを意識させる。第一の一般的部分にはきわめて多様なものが集められている。「Adam(arbre d')」の下では聖書の楽園の樹が理解されるべきで、これは本書の主要対象の一つである。「Bouddha(arbre de)」の下では菩提樹である。「Brahman ないし Brahmī」はこの名の植物を指し、同様に「Agneau」「Cheval」「Chèvre」はこれらの動物から名を得た植物を指す。「Centaures」が採録されているのは、

その名が「gandharva」と同一であるはずだからであり、de Gubernatis はこれを「gandha + rvas = arvas」と分解する。「香のなかを行く者」というのである! 結びをなすのは「Yggdrasill」であり、その際先行する項目「Cosmogoniques(arbres et plantes)」が参照されている。サンスクリット文献からはほとんど一般に知られたことしか挙げられていない。「Magiques(Plantes)」「Médicinales(Plantes)」のような項目では、はるかに多くを与えることができたであろう。しかしあらゆる不完全さにもかかわらず、この著作は比較文化史にとって価値ある思想を少なからず含んでいる。

同じ比較的性格をもつのが、de Gubernatis が婚礼、誕生、埋葬について論じた三つの小著である。すなわち『Storia comparata degli usi nuziali in Italia —, degli usi funebri in Italia —, degli usi natalizi in Italia e presso gli altri popoli indo-europei』(Milano 1868, 1873(第2版 1878), 1878)である。これらは Gṛhyasūtra の三つの主要対象であり、そのうち Āśvalāyana のものが Stenzler の校訂と翻訳で彼の手もとにあった。de Gubernatis がそこから触発されたことは明らかである。婚礼の慣習については、彼はしばしば Weber の『Indische Studien』第 V 巻に依拠している。同巻には Haas と Weber のこの対象についての論考が収められている。埋葬の際の慣習については Muir の論考¹⁾ を利用し、彼にこの書を献じている。Sūryasūkta(Nat. S. 64)、Ṛg- および Atharvaveda の葬送歌(Fun. S. 18 以下)、Mahābhārata の Sāvitrī、Utaṅka の伝説(Fun. S. 118 以下)、その他サンスクリット文献からのものは、すでにその典拠において援用されていた。Vāmadeva、pramantha と Prometheus について(Nat. S. 58, 123)、火葬と土葬の並存について(Fun. S. 91)、Varuṇa の縄について(Fun. S. 22)も彼は論じている。

イタリア以外ではあまり知られていないのが、de Gubernatis のより早い主著の一つ『Piccola Enciclopedia Indiana』(Turin 1867)である。それはアルファベット順に配列された初等的なサンスクリット辞典の形をとり、引用を欠き、その主要構成部分は神々と英雄、ṛṣi、諸部族、文学作品とその著者の名であるが、また文化史的に最も重要な事物を表す語をも含む。「A Gaspare Gorresio, primo editore, primo traduttore in Europa del poema il Rāmāyaṇa」に献ぜられており、de Gubernatis がイタリアにサンスクリットの学習を根づかせようと努めた熱意の雄弁な証しである。「Appendice」において Carlo Giussani が、イタリアの学生のために意図されたこの便覧を、文法と読本(Rām. の Ṛśyaśṛṅga 挿話、MBh. の Śakuntalā 物語)によって補った²⁾。

インドへの旅行に先立って、de Gubernatis はまた『Letture di Archeologia Indiana』(Milano(Hoepli)1881)を刊行した。四章において彼は81頁にわたり順に、I. インドの家、II. インドの都市、III. インドの王宮、IV. インドの寺院を扱っている。より古い文献から、古い都市の廃墟から、また保存された古い建築から、これらの対象についてはたしかにはるかに多くを得ることができるが、しかし今日なおこの不完全な試みは、その機知に富む

¹⁾ 「Yama and the Doctrine of a future Life, according to the Vedas」、JRAS. I。Fun. S. 16 参照。 ²⁾ 私の手もとにある Berlin 王立図書館の一本では、この Appendice は扉には記されておらず、序文(「Agli Studiosi Italiani」)で予告されているのみである。それが現れたのはようやく1868年末であり、Weber が『Piccola Enciclopedia』の紹介で述べているとおりである(『Ind. Streifen』II 408)。彼の手もとには扉に Appendice を記した一本があったのである。

叙述においてその種のものとして唯一である。詩文学における都市の varṇana からは、叙事詩のいくつかを挙げている(S. 57 以下)。インドの最古の寺院は岩窟寺院であり、その数を西インドについて Wilson は900と見積もった(S. 60)。本来の寺院の記述は彼は断念している。あらゆる寺院の上に彼は Aśoka の法勅を刻む Girnar の花崗岩を置く。この強大にして善良な王の称揚は、彼に Rom の新聞での攻撃を招いた。それは後記で示唆しているとおりであり、それゆえ彼は講義をそれ以上敷衍することなく、行ったままの形で公にしている。

インドへのこれらの熱狂を証するあらゆる著作の後、de Gubernatis は自らインドにあった。Bombay から内陸へ行った三度の旅行についての旅行記が、『Peregrinazioni Indiane』の表題のもとに三部に分かれて現れた。第一部の献辞は彼にとって特徴的である。「私に最初にインドを示し道を照らしてくれた Alberto Weber に、私を送り出してくれた Michele Coppino に、インドで最初に私を迎えてくれた Gerson da Cunha に、感謝をこめて捧ぐ」。師の名によって、彼は自らのサンスクリットの知識を正しい光のもとに置いている。旅行の資金を与えた大臣 Coppino は、この旅行に半ば政治的な性格を与えている。医師にして蒐集家 Gerson da Cunha においては、彼が知り合った人々が代表されている。第一部は『Viaggio nell' India Centrale』(Firenze 1886)という個別の表題のもとに現れ、S. 5 から27まで一般的序論を伴う。de Gubernatis はその主目的を「そこで諸宗派の多様性をより間近に研究すること」と述べている。彼は多くの寺院を訪れ記述しており、そのなかには Śatruñjaya 山上の Jaina 教の聖地がある(S. 302)。Jaina 教徒に対して彼は「大いなる敬意」をもっていた(S. 82)。イタリア人は昔から Jaina 教徒への愛好をもっていた。Puṣkara 湖畔の唯一の Brahmā を祀る寺院についても、われわれは彼からより詳しく知る(S. 17, 323)。以前の旅行者は Brahmā の寺院は存在しないと強調していた(上 S. 2, 6 参照)。第一部で彼は Bombay、Puna、重要な諸国家 Baroda と Nizam の王国(S. 210 以下)、さらにとくに詳しく古い Surāṣṭra すなわち Kathiawar の諸侯宮廷について語っている。いたるところで彼はサンスクリットを求めている。インドの政治家は一部は近代的な立場をとっていた。Nizam の大臣 Sahabuddin において、彼は「ゲルマン式のインド諸国の政治的連合」を理想とする政治家を紹介している(S. 211 以下)。当時 Bombay における特徴的な人物は、多忙な医師にして蒐集家の Dr. Gerson da Cunha であった。彼は古いバラモンの家系の出であり、その家はポルトガル総督 da Cunha のもとでキリスト教に改宗し、彼からその名を得たのである(S. 54 以下)。同様に彼は、Bombay 近郊の Vālkeśvara に住む paṇḍit Bhagvānlāl Indrajī についても多くを語っている(S. 60 以下)。Bombay で彼は高貴な Rao Saheb Mandlik Viśvanāth Nārāyaṇa を訪ねた。彼は当時 Manu の校訂本を準備中であった。さらに Kāśināth Trimbak Telang を訪ね、次いで Asiatic Society の集会に列席し、そこでイタリアにおけるインド研究についてサンスクリットで講演を行い(S. 94 以下。Bombay Journal 第 XVI 巻、Proceed. S. XXVIII 以下に印刷)、名誉会員に選ばれた。Bhagvānlāl はここで de Gubernatis の著作目録を掲げているが、これはおそらく彼自身から得たものであろう。

de Gubernatis には Conte Albiani という旅の同行者があり、彼は商業上の目的を追っていた。それについても彼は関心をもち、

イタリアがそのワインと大理石をインドにもたらすことを望んだ(S. 213)。しかし主としてその気分は詩的なものであった。彼はアーリヤ・インド人に対してイタリア人の温かい共感を寄せ、目にした美しさによってイタリアの美しさを思い起こし¹⁾、インドの男女のうちにギリシア人とローマ人を再認したと信じた(S. 21)。かかる親族的感情の表明によって彼はインド人の心を得たが、他方イギリスの支配者たちは自らと臣民との間に鋭い境界を引いていた。よい紹介状に支えられて、彼はいたるところで政治的権威、イギリスの権力者を訪ね、彼らは彼を家に、また大きな招宴に迎えた。こうして彼は当時の副王 Lord Dufferin を、さらに Bombay 総督 Lord Reay — 彼はのちに国際東洋学者会議でイギリスを代表した — を描いている。その報告には批判的な言葉も見出されるが(S. 52, 172)、全体としては彼はイギリスの統治の技を賞讃していた(S. 170)。これに彼が見出した土着の名士、諸侯と学者についての記述を加えるならば、その報告は、他に類を見ないほど生き生きとした時代の像となる。インド人への愛から彼にとって共感すべき存在であったのが、ペルシア語・アラビア語および新インド諸語に通じた東洋学者 E. Rehatsek である。1819年ハンガリーに生まれ、1847年に Bombay に来て、1891年に同地で没した。彼は大学の教授職を辞し、貯えがあったにもかかわらずきわめて質素に暮らしていた(S. 95)。Surat で de Gubernatis は、Peterson のサンスクリット写本蒐集の配下にあった Jaina 教徒 Bhagvandās に会った(S. 193)。ギリシア人のいう Barygaza である Broach の近くでは、Narmadā の島にある Kabir の聖樹を訪れた(S. 200)。Baroda ではサンスクリットの教育について報告を求めた。課程は三年で、paṇḍit たちは Siddhānta-Kaumudī を基礎とし、kāvya、Kādambarī、Daśakumāracarita を講じていた(S. 221)。Bhaunagar には Veda 学校があった(S. 283)。バラモンたちは彼に四 Veda の讃歌を朗誦したが、Ṛgveda のものは大いに渋りながらであった(S. 239)。Girnar の丘陵では、Burgess の助言により屋根と壁で保護された有名な Aśoka 碑文を見た(S. 261)。Bombay での戯曲 Śakuntalā の朗誦の際には、サンスクリットの発音を観察している。anusvāra は「痙攣するような震え」をもって、口蓋音 jña はイタリア語 regnogn のように、ときには dnia のように響いた(S. 85)。

第二の旅行は1885年12月5日に Bombay から南インドと Ceylon に向けて出発したもので、第2巻に描かれている。『Viaggio nell' India Meridionale e Seilan』(Firenze 1887)である。「Karli の洞窟」の遺跡は彼に、J. Fergusson と J. Burgess の著作『The Cave Temples of India』(London 1879)に言及する機会を与えている(S. 13)。Sir Alfred Lyall の『Asiatic Studies』も彼には知られていた(S. 17)。Puna を彼は「Dekkhan の Athen」と呼ぶ(S. 20)。Bhandarkar 訪問は、この傑出した paṇḍit の書斎の素朴な簡素さを彼に示す。彼は当時 Peterson とともにサンスクリット写本を蒐集し記述していた(S. 21)。Pārvatī の一寺院の訪問は、番人と司祭の卑しむべき金銭欲についての嘆きを彼に引き起こす(S. 18)。Puna から彼は Haiderabad の Nizam の領域に赴いた。Nizam を彼は「インドで最も傑出した君主」と呼んでいる(S. 44)。いたるところで彼は傑出した

¹⁾ 「Bombay は人間の奇跡であり、Napoli は神の奇跡である」(S. 44)。

人物と知り合っている。しかしここでの主目的は Golconda の廃墟を見ることであった(S. 52)。彼はその Aurangzeb による攻略を描いている。「聖なるインド」を見たいという願いから、彼はヨーロッパ人がほとんど訪れない聖地 Tirupati、Tirutani、Kāñcīpura に赴いた。Tirutani では彼のサンスクリットによるバラモンへの挨拶が注目を集めた。しかしサンスクリットの知識以上にバラモン Īśvara に印象を与えたのは、彼がインドの民を愛しているということであった(S. 77)。Kāñcīpura には、豊穣の牝牛を讃える祝日に着いた。彼は普段は寺院の暗がりに守られている偶像を明るい日中に見ることができ、住民の喝采のうちに行列の司祭たちから花環を掛けられた(S. 83)。Madras は彼に見るべきものをより少なくしか提供しなかったが、同地の Central Museum で、Amarāvatī で発見され Burgess が記述した Viṣṇu 派と仏教の彫刻を見た(S. 96)。Pondichéry ではフランス総督にフランスへの共感を表明したが、そこで亡命者としてビルマの王子 Mingun を見出した(S. 121 以下)。彼はそこで、また Tanjore と Trichinopoli で、Śiva と Pārvatī の古い寺院を、また Kāverī の作る島の上の Śrīraṅga の壮大な Viṣṇu 寺院を見て(S. 140)、12月29日に Coccino から海峡を越えて Colombo に向かった。この海峡で Cunningham の考古学的宝物が難破によって失われたのであった(S. 197)。クリスマスは Trichinopoli のカトリック大聖堂で過ごした(S. 144)。インドでは彼はサンスクリットを解するカトリック宣教師に一人も出会わなかった(S. 181)。Bombay と Madras で Lord Reay と Sir Grant Duff がそうであったように、Colombo では Sir Gordon が彼を親切に迎えた。彼はまた、当時 Ceylon の最良の知者の一人とされ、同島の統計的記述その他の著作で知られる Donald Fergusson への紹介状ももっていた。Colombo の博物館長は、彼のうちに『Mythological Zoology』の著者を見出して味方となった(S. 201)。彼は Colombo の高僧 Sumaṅgala と、別の宗派に属する Subhūti と知り合った(S. 226 以下)。Sumaṅgala は自らの蔵書の最大の宝を、Wales 公から贈られた Childers の『Pāli Dictionary』の一本と考えていた(S. 206)。Ceylon でも彼の注意はとくに祭祀に向けられていた。彼は bhikkhu の装備に属する八ないし九の品について語り(S. 210)、Florenz の博物館のためにあらゆる仏教の祭祀用品を得たいと望んでいる(S. 227)。それらは約束されたが、彼は受け取らなかった。Kandy では Buddha の歯を見た(S. 213)のみならず、仏教の学院「Malvatti-Pansala」(skr. Parṇaśālā)で mahānāyaka の講義に列席することもできた(S. 209)。Kälani の vihāra についても記述を与えている。Subhūti は Moggallāna の Abhidhānappadīpikā の自らの校訂本と、Childers の勧めで刊行した Pāli 文法 Nāmamālā を彼に贈った(S. 240 以下)。宝石、祭祀用品、美術品を博物館のために購入する際、Ceylon でも売り手の押しつけがましさと金銭欲に不平を述べねばならなかった。船を待たねばならなくなったとき、彼は Colombo 近郊に抑留されていた Arabi Pascha を訪ねることにした(S. 242 以下)。彼は Madura を経て Bombay に戻ったが、Travancore に滞在することはできなかった。その Trivandrum の王を彼は「サンスクリットに通じ、インド研究の大いなる庇護者」と

Indo-arische Philologie I. 1 B. 29

称えている(S. 255)。Trivandrum Sanskrit Series はのちにそれまで未知であった戯曲を一般の知るところとした。Madura の諸寺院は彼に、紀元3世紀から6世紀にかけての Mahābhārata の英雄の人気について、祭祀、とくに Jaina 教のそれにおいて観察したところから所見を述べる機会を与えた(S. 258 以下)。

第三にして最後の旅行は、彼を Calcutta へ、そこから北西へ Kaschmir にまで導いたもので、第3巻に記述されている。『Viaggio nel Bengala, Pengiab e Cashmir』(Firenze 1887)である。Bombay からまず Godāvarī 河畔 Nassick の寺院を訪れた。「いわゆる西の Benares」である(S. 7)。Nassick は Rāma 伝説と結びついている。彼はここで古い碑文を、そのうち Kṣatrapa Nahapāna のものを見(S. 12)、また仏教徒、Jaina 教徒、バラモン教の祭祀に用いられた有名な石窟を訪れた(S. 14)。Calcutta では Kathāsaritsāgara の訳者 Tawney と(S. 26)、当時「Calcutta のムハンマド教徒学院 Madrassa の校長」であった Hoernle と知り合った(S. 47)。しかしとくに注目すべきは、Rājā Sourindro Mohun Tagore 邸での音楽会の記述と、その人物の描写である(S. 31 以下)。インド音楽を聴いた後、彼はジプシー音楽のインド起源を確信する(S. 32 以下、S. 98 参照)。他の土着の権威としては、大学で Babu Trailokynātha Banerji を、さらに黒 Yajurveda の校訂者 Mahesha Candra Nyāyaratna を、また学識ある paṇḍit Īśvara Candra Vidyāsāgara を知った。後者はそれ以前に「サンスクリット学院の校長」であった(S. 37 以下)。最後に挙げた人物は豊かで整った蔵書をもっていたが、他方 Rājendralāla Mitra の家では整理が欠けていた(S. 40 以下)。珍しいものは Brahma Samāj に属する女学校で、そこではサンスクリットが教えられていた(S. 44)。価値ある時代の像を与えるのは、Gaṅgā と Brahmaputra の合流域にある Dacca のムハンマド教徒 Nawāb の描写である。この辺鄙な居城にもサンスクリットを話すバラモンに事欠かず、彼はその挨拶に簡潔にサンスクリットで答え、自らのイタリア国籍を強調している。サンスクリットに通じた学者は次第にバラモンの話すサンスクリットに慣れるであろうが、de Gubernatis の所見からは、少なくとも初めのうちは理解も、ましてサンスクリットで答えることも容易ではないことが響いてくる(S. 76 以下)。Calcutta に戻ってから、そこから Benares に赴いた。この聖なる都市はすでにしばしば記述されているので、彼は Gaṅgā での船行の描写(S. 87 以下)と Queen's College 訪問に限っている。同地の paṇḍit の教育についての報告はきわめて生き生きしており、当学院長 Thibaut の性格描写も劣らない(S. 94 以下)。Garbe とも会った。彼は当時そこでインド哲学の研究に従事していた(S. 96)。彼は友人 Donati のために Upaniṣad 注釈の写本を(S. 96)、また Florenz の博物館のために他の品々を購入した。古い Prayāga である Allahabad では有名な Aśoka 柱を見た。16世紀後半のより古い家屋の美しい建築に、彼はここでも、また Benares、Agra、Mathurā でも、イタリア美術の影響を認めると考えた(S. 100)。Agra のモスク群と、ある王妃の童話のように美しい墓廟 Tāj Mahal は、彼に最も深い印象を与えた。Mathurā では Kṛṣṇa 伝説を想起した(S. 125)。Delhi からは比較的重要でない

宿駅を経て、Sikh の首都 Amritsar に赴いた(S. 152 以下)。Lahore では Dr. Leitner という有能な案内者を得た。彼は、インド人の教育のために学校と学会の設立に尽力するそのあまりの熱心さによって、イギリス政府にはいささか厄介な存在となっていた。彼は de Gubernatis を Oriental College に案内し、その paṇḍit と生徒たちは Calcutta や Benares のそれに劣らないと de Gubernatis には思われた(S. 175)。Sialkot からは Jammu を経て14日間の Kaschmir 旅行に出た。王の客として、一部は王の費用によってである(S. 307)。王の好意を彼は Florenz のモザイクと一つの讃歌によって得ていた(S. 196)。その讃歌で彼は Kaschmir をアーリヤ人の原住地として讃えたのである。彼はその英訳のみを伝えている(S. 188)。Islamabad でも Srinagar でも特別な体験はなかったが、それでも関わりをもった人々の描写は興味深い。Srinagar の College の paṇḍit のうちでは Dāmodara が傑出しており、彼のサンスクリットを話す正確さについて Bühler が輝かしい証言を残していた(S. 273)。彼は Dāmodara から Bhagavadgītā の写本を35ルピーで購入した(S. 278)。苦難に富むこの旅は、不親切な住民の住む貧しい村々を通り、巨大な山々を越えて、一部は騎馬で、一部は palankin で行われ、Srinagar からの帰路は「Hydaspes」の舟によった。Marri、Rawul Pindi、Peshawar — ここでアフガン人と知り合った(S. 381)— ではふたたびイギリスの地にあった。Lahore では Leitner が Darmesteter を伴って彼を待っていた。Darmesteter は Peshawar でパシュトー語を研究する予定であった(S. 326)。Bombay からイタリアへ帰る前に、彼はもう一度 Lord および Lady Reay の歓待を受け、そこで Peterson と High Justice West に会い(S. 338)、また Minajeff にも会った。Minajeff とは1863年に Berlin の Weber のもとでともに学んだ仲であり、彼は当時インド、Ceylon、ビルマ、Nepal で仏教研究に従事していた(S. 339)。1885年4月7日、彼の船は Aden に着いた。

A. de Gubernatis はインド以外の分野でも並外れて大きな活動を展開した。トスカーナの説話を刊行し、『Dizionario biografico degli scrittori contemporanei』(1879, 1880年、改訂して『Dictionnaire international des écrivains du jour』1888–1891年)、全18巻の『Storia universale della letteratura』(1882–1885年)を出し、ハンガリーについての書(1885年)を書き、戯曲(そのうちに Il re Nala、La morte del re Dasarata、Māyā、Sāvitrī)を著した、等々。また種々の雑誌を創刊ないし主宰した。

この最後の資格において、彼は東洋学に対して大きな功績を得た。すなわち Museo Indiano のみならず、Florenz の Società Asiatica Italiana をも創設し、『Giornale della Società Asiatica Italiana』を刊行したのである。その第1巻は Firenze 1887 に現れた。博物館と協会の創立 — その式典は1886年11月14日にイタリア国王臨席のもとに行われた — を、彼は『Giornale』第1巻の冒頭に記している。Patroni の目録には多くのインドの諸侯と名士が見出され、これは明らかにインド滞在の結果である。第1巻のサンスクリット文献学に属する論文は、当時のイタリアにおける研究の方向にとって特徴的である。すなわち、Cāṇakya の箴言(より短い

伝本)の Florenz 写本についての Teza の小論、Jaina 教に転じ、伝承によれば紀元528年に没した Haribhadra の『Ṣaḍdarśanasamuccayasūtram』¹⁾ 87 śloka を三写本(うち一つは Florenz のもの)から F. L. Pullè が校訂したもの、および大胆な語源的結合から出発する de Gubernatis 自身の神話学的論文「L'Ermafrodito Indiano」であり、これは Purūravas にとって母であり父であった女神 Iḍā ないし Iḷā に関わるものである。

¹⁾ 六体系はここでは Bauddham、Naiyāyikam、Sāṃkhyam、Jainam、Vaiśeṣikam、Jaiminīyam であり、さらに末尾に Lokāyata すなわち Cārvāka の教えが加わる。

§人名・事項索引〔原書 pp. 453–460〕

NAMEN- UND SACHVERZEICHNIS(人名・事項索引) (数字は原著の頁を示す。fg. = 以下。斜体頁は原著で主要箇所を示す。)

凡例(索引部)——固有名詞(人名・地名・作品名・術語)はローマ字のまま示し、ドイツ語の普通名詞からなる事項見出しには( )内に日本語訳を付した。

§A

Abhidhānacintāmaṇi 29. 234. 379. — Abhidhānappadīpikā 126. — Abhidharma 132. 134. — Abul Fazl 152. 179. — Ācārāṅga-Sūtra 350. — Adbhutabrāhmaṇa 323. — Adbhutādhyāya 323. — Adelung, Fr. 96. 162. — Adelung, Joh. Chr. 96. — Ādi Granth 157. — Aera(紀元・紀年法) 31. 153. 160. 294. — Afghanistan(アフガニスタン) 113. — Afghanisch(アフガン語) 157. 451. — Agnimitra 175. — Aihole 185. — Aindra 188. — Aitareyabrāhmaṇa 28. 256. 318. — Ajas 90. — Ākhyānahymnen(Ākhyāna 讃歌) 404 fg. — Alaṃkāra 39. — Alaṃkārakaustubha 40. — Alaṃkārasarvasva 40. — Alberuni 151. — Allahabadsäule(Allahabad の石柱) 104. — Alphabet(字母・文字体系) 111. 154. 169. 195. 282. 286. 293. 300. 332. — Alwis 350. — Amaracandra 51. — Amarakośa 7. 13. 28. 74. 142. 190. — Amaruśataka 32. 90. — Amelung 438. — Amoghavarṣa 178. — Amṛtamanthana 48. — Andhra 112. 160. 176 fg. — Anecdota Oxoniensia 133. — Annaṃbhaṭṭa 215. — Anquetil du Perron 8. 12 fg. 48 fg. 124. 280. — Antagada-dasāo 352. — Anukramaṇikā 257. 279. — Apabhraṃśa 376. — Āpastamba 278. — Apollodotos 173. — Archaeological Survey 81. 191. — Arnold, Chr. 3. — Āryabhaṭṭa 31. 154. 190. — Āryasaptaśatī 65. — Ascoli 425. 440 fg. — Asiatik Researches 26. — Asiatic Society 23. 97. — Aśoka 107. 160. 173. — Aśoka-Inschriften(Aśoka 碑文) 105. 108. 114. 121. 138. 160. 235. 293. 448. — Assalāyana-Sutta 333. — Astronomie(天文学) 29. 154. 157. 163. 169. 189. 279. 283 fg. 323. 328. 357. — Aśvaghoṣa 133. 174. — Āśvalāyana 222. 256. 273. — Atharvaveda 169. 259 fg. 385. — Aufrecht 209. 225. 240. 261. 273. 313. 316 fg. — Auśanasādbhutāni 357. — Avadānaśataka 132. — Avalokiteśvara 133. — Āvaśyaka-Erzählungen(Āvaśyaka 説話) 350. — Avery 359 fg. — Ayāraṃga-Sutta 349. — Ayin Akbari 15 f. 61. 152. — Āyurveda 329. 363. — Ayuso 441. — Azes 160.

§B

Babinger 201. 301. — Baghela 179. — Baktrien(バクトリア) 173. — Bālabhārata 51. 382. — Bālāditya 180. — Bālamāgha 384. — Baldaeus 198. — Ballade(バラード) 413. — Ballantyne 193. 196. 252. 273. 276. 303 fg. — Bāṇa 32. 334. 343. — Banerjea 35. — Bardelli 440. — Barnett 352. — Barrett 261. — Barros, J. de 186. — Barth 401. — Barthélemy Saint-Hilaire 139. 188. 298. — Bartholomae 388. 430. 435. 438. — Baudry 441. — Baukunst(建築) 191. 196. — Bayer 202. 233. — Beal 125. 143 fg. — Beiträge zur vergleichenden Sprachforschung(比較言語研究論集)266. — Beladory 151. — Belloni-Filippi 353. — Benary, A. 95. — Benary, F. 95. — Bendall 131. — Benfey 89. 94. 139. 149 fg. 158. 189. 197. 200. 209. 222 fg. 263. 371. 427. — Benloew 231. — Bentley 31. 61. — Bergaigne 147. 150. 292. 388. 417. 441. — Bernier 4. — Bernstein 207. — Bezzenberger 266. 269. — Bezzenbergers Beiträge(Bezzenberger 論集)266. — Bhadrabāhu 29. 349. — Bhagavadgītā 23. 51. 78. 80. 83. 338. — Bhāgavatapurāṇa 16. 20. 41. 47. 127. 157. 177. — Bhagavatī 346 fg. — Bhakti 129. 337. — Bhāmaha 40. — Bhandarkar 35. 41. 112. 174. 187. 214. 251. 296. 335. 342. — Bhānudatta 40. — Bhao Daji 295. 351. — Bhāravi 32. 383. — Bhartṛhari 2. 51. 88. 90. — Bhāṣāpariccheda 304. — Bhāṣikavṛtti 323. — Bhāskara 30. 196. 213. — Bhaṭārka 178. — Bhaṭṭa Nārāyaṇa 384. — Bhaṭṭikāvya 32. 95. 178. 195. — Bhavabhūti 32. 238. — Bhojadeva 161. — Bhojaprabandha 40. 148. — Bhuvanapāla 343. — Bibliotheca Buddhica 132. — Bījagaṇita 30. — Biot 154. 283. 329. 357. — Blau 245. — Bloch 175. 383. 401. — Blochmann 152. — Bloomfield 260. 267. 280. 357. 429. — Bochinger 161. — Bodhisattva 132. — Bohlen 10. 51. 86 fg. — Böhtlingk 96. 133. 169. 195. 209. 238 fg. 251. 272 fg. 276. 359. 379. — Bollensen 144. 232. 264. 324. 375 fg. — Boller 366. — Boltz 214. — Bopp 54. 63. 67 fg. 125. 205. 271. — Botanik(植物学) 264. 445. — Bouchet 12. — Bradke 297. 315. — Brahmagupta 30. — Brahmajālasutta 139. — Brāhmaṇa 45. — Brahmasiddhānta 30. — Brahui 157. — Brandes 400. — Bréal 292. 441. — Bṛhadāraṇyaka 193. 245. — Bṛhaddevatā 157. 266. — Bṛhatkathā 213. 297. — Bṛhatkathāmañjarī 297. — Bṛhatsaṃhitā 31. 153. — Briggs 161. — Brockhaus 96. 139. 145. 196. 209. 211 fg. 270. — Brown 382. — Brugmann 415. 416. 436. — Brune 225. — Brunnhofer 273. 313. 340. 386 fg. 418. — Buchanan 125. 165. 186. — Bücher 292. — Buddhacarita 133. — Buddha-Gaya 122. — Buddha 60. 169. 171 fg. 280. 348. — Buddhaghosa 118. — Buddhavaṃsa 119. — Buddhismus(仏教) 129 fg. 161. 166. 188. 194. 238. 298 fg. 302. 330. 333. — Bühler 93. 106. 214. 231. 264. 332. 347 fg. — Bukka 186. — Bunsen 272. 285 fg. — Bunyiu Nanjio 130. 133. 299. — Burgess 357. 448. — Burkhard 383. — Burnell 2. 273. 322. — Burnes 99. 114. — Burnouf, E. 38. 74. 96. 109. 113. 115. 117. 123 fg. 129 fg. 147. 271. 333. — Burnouf, J. L. 74. 123. — Burritt 214. — Burt 104. 138. — Buschmann 84.

§C

Caitanyacandrodaya 185. — Caland 3. 226. — Caldwell 195. 313. — Calmette 6 fg. — Cālukya 160. 178 fg. 185. — Campakaśreṣṭhikathānaka 339. — Campbell 313. — Cāmuṇḍā 179. — Cāṇakya 51. 160. 451. — Candragupta 39. 104. 160. 172. 280. — Candrahāsopākhyāna 339. — Candrakīrti 136. — Candrāloka 40. — Cappeller 245. 296. 381 fg. — Caraka-Saṃhitā 154. 265. — Caraṇa 278. — Caraṇavyūha 279 fg. 324. — Carey 28. 53. 76. — Carr Barret 261. — Cārvāka 191. — Cassiano Belligatti 17. — Cautley 100. — Caulukya 161. — Ceylon(Ceylon) 187. — Chach 179. — Chambers 53. 217. 325. — Chandaḥsūtra 32. 323. — Chāndogya-Upaniṣad 211. 245. — Channing 417. — Charpentier 323. 354. — Chavannes 340. — Chézy 38. 68. 73 fg. 75. 91. 140. — Chiefalà 441. — Christentum(キリスト教) 189. — Chronologie(年代論) 104. 112. 169. 280. 294. — Clough 138. — Code of Gentoo laws 20. — Cœurdoux 6 fg. 24. 233. — Colebrooke 2 fg. 37. 53. 65. 70. — Colleges(諸学院) 309. — Collitz 425. 435. — Constable 4. — Constantino Beschi 17. — Court 100. 102. 114. — Couto, D. do 186. — Cowell 35. 132. 195. 209. 276. 303. — Crawfurd 85. 187. — La Croze 6. 201. — Csoma de Kőrösi 118. 131. 441. — Cunningham 103. 191. 295. — Curtius 291 fg. 423 fg. 435. — Curzon 312. — Cust 307.

§D

Dalberg 56. — Daṇḍin 32. 39 fg. 246. — Dänische Missionarien(デンマークの宣教師たち) 10. — Dantidurga 178. — Dapper 2. 198. — Darmesteter 451. — Daśakumāracarita 32. 46. 142. 195. 334. — Daśaratha 173. — Daśarathajātaka 338. — Daśarūpa 39. — Dattakacandrikā 33. — Dattakamīmāṃsā 33. — Dawson 114. — Dāyabhāga 33. — Deecke, W. 332. — Delbrück 266. 359. 371. 399. 412 fg. — Deußen 35. 50. 80. — Devagupta 180. — Devanāgarītypen(Devanāgarī 活字) 64. 65. 78. — Devendrasūri 354. — Devīmāhātmya 52. 94. — Dhanaṃjaya 39. — Dhaneśvara 194. — Dhāraṇī 136. — Dharasena 178. — Dharmabindu 353. — Dharmasaṃgraha 138. 300. — Dharmasāgara 350. — Dharmaśāstra 306. 329. — Dharmasūtra 279. 329. — Dhātumañjarī 70. — Dhātupāṭha 55. 241. 359. — Dhaulī 108. — Dhruvasena 178. — Dhūrtasamāgama 38. 156. 383. — Dhūtaṅga 134. — Dickson 125. — Digest of Hindu law 253. — Dīghanikāya 137. 139. — Dinesh Chandra Sen 52. — Diodotus 173. — Dīpavaṃsa 107. 115. 119. — Divyāvadāna 131 fg. — Dorn 157. — Dow 11 fg. 16. 48. — Drama(戯曲) 38. 164. 213. — Droysen 172. — Dubois 142. 161. 228. — Duff 104. 110. 112. 174. 187. — Düntzer 200. — Dursch 90. 96. — Dūtāṅgada 403.

§E

East India Company 1. — Eaton 418. — Eckstein 332. — Edgren 360. — Eggeling 240. 273 fg. 321. 392 fg. — Eichhoff 114. — Elliot 186. 396. — Ellis 10. — Elphinstone 166. — Enders 204. — Engländer(イギリス人) 11 fg. — Epos(叙事詩) 168. 306 fg. — Erskine 81. — Ethnographie(民族誌) 166. — Etymologien(語源) 161. 421. 424. — Euler 202. — Ewald 157. 210. 255. — Ezour-Veda 8 fg. 12.

§F

Fabelliteratur(寓話文学) 141. 333. — Fa-hian 143. 161. 196. — Fauche 142. 339. — Feer 131 fg. — Fell 185. — Fergusson 122. 174. 191. 294. 448. — Ferischtah 151. 161. — Fick, A. 425. 430. — Fick, H. 133. — Fick, R. 214. — Fink 164. — Flechia 439. — Fleet 174. 178. — Forster, G. 16. 47. 58. 204. — Forster, H. P. 53. — Fortunatov 226. 437. — Foucaux 141. 188. 298. 441. — Foucher 134. — Foulkes 383. — Franciscus Xaverius 6. — Frank 63 fg. 196. 332. — Franke, G. A. 11. — Franke, O. 133. 188. 350. — Franzosen(フランス人) 4. — Frauenstädt 50. — Friedrich 187. — Fritzsche 215.

§G

Gaedicke 418. — Galanos 50 fg. 196. — Galitapradīpa 318. — Gaṇachandas 381. — Gaṇaratnamahodadhi 240. 393. — Gaṅgeśa 304. — Garbe 80. 192. 255. 260. 302. 338. — Garga 335. — Gāthā 299. 345. — Gatti 440. — Gautamadharmasūtra 33. 222. — Gawroński 176. — Gazetteer(地誌) 309. — Geiger, W. 209. — Geldner 263. 409. 413. — Gemignano da Sant' Ottavio 16. — Gennadius 51. — Geographie(地理) 165. — Germann 202. — Gerundium(絶対分詞) 77. — Geschichte(歴史) 163. 165. 170. — Gesetze(法典・法) 192. — Ghaṭakarparam 90. — Gildemeister 96. 158. 178. 209. 215 fg. — Giles 143. — Giornale della Società Asiatica Italiana 451. — Girnar 108. 111. — Gītagovinda 23. 56. 90. 142. 156. 189. — Gladwin 152. — Glasenapp 354. — Goethe 47. 56. 200. 203. — Gogerly 125. 139. — Goldschmidt, P. 218. — Goldschmidt, S. 218. 225. — Goldstücker 33. 89. 102. 150. 158. 209. 240. 244. 246 fg. 262. 266. 335. — Gondophares 152. — Gopathabrāhmaṇa 281. — Gorresio 17. 127. 145. 272. — Gosvāmī 407. — Gough 303. 307. — Govardhana 65. — Goverdhan Caul 25. — Grammatiken(諸文法書) 53. 226. 304 fg. 358. 427. — Graßmann 274. 364. 437. — Graul 187. — Gṛhyasaṃgrahapariśiṣṭa 280. — Gṛhyasūtra 222. 279 fg. 330. — Grierson 338. — Griffith 261. 307. — Grill 261. 384. — Grimblot 139. 351. — Grohmann 258. — Großmogul(ムガル皇帝) 199. — Grotefend 110. 160. — Grube 323. — Grue 3. — Gubernatis, A. de 16. 269. 439. 442 fg. — Guérinot 352. — Guignes 48. — Guṇakaraṇḍavyūha 133. — Gupta 160. 170. 176 fg. — Gurmukhī 157. — Gurupūjākaumudī 248. 383. — Gymnosophista(裸形行者) 41. 156.

§H

Haag 319. 376. 381. — Haas 323. 362. 396. — Haberlandt 213. — Häberlin 157. 255. — Hagen, F. H. von der 201. — Hāla 32. 177. 343. — Halhed 20. 203. — Hall, F.-E. 39. 43. 196. 209. 273. 297. 334. — Hamilton, A. 53. 57. — Hamilton, F. 166. 170. — Hamilton, W. 166. 181. — Handel(交易) 189. — Handschriften(写本) 53. 124. 139. 157. 317. 325. 347. 362. 393. 396. — Hanxleden 20. — Hardy 188. 333. — Haribhadra 353. 452. — Harivaṃśa 61. 127. 140. — Harṣa 152. 294. — Harṣavardhana 180. 185. — Haskell 360. — Hāsyārṇava 383. — Hatfield 357. — Haug 132. — Haughton 74. 80. 207. — Havet 292. 441. — Heeren 59 fg. 81. — Heine, H. 203. — Hemacandra 29. 179. 195. 234. 351 fg. 379. — Henotheismus(単一神教) 287. 289. — Henry 261. — Herder 56. 204. — Hermaios 173. — Hertel 227. 304. 342. 353. 409. — Heß 329. — Heßler 265. — Heymann 438. — Hibbert lectures 287. — Hillebrandt 313 fg. — Hindī 164. — Hindu law books 253. — Hinterindien(インドシナ) 187. — Hirt 265. 269. — Hirzel, Arn. 215. — Hirzel, Bernh. 91. 95. — Hitopadeśa 23. 37. 51. 78. 285. 304. — Hiuen Thsang 121. 143. 152. 161. 194. — Hodgson 105. 119 fg. 130. 333. — Hoefer 144. 216. — Hoffmann 201 fg. — Holtzmann d. Ä.(父)91. — Holtzmann d. J.(子)76. 93. 297. 328. — Holwell 11 fg. 48. — Hopkins 93. 315. — Hoernle 97. 102. 351. 450. — Horā-Śāstra 154. — Hortus Indicus 1. 19. — Huber 339. — Hübschmann 416. 418. 425. 435. — Hügel 123. 260. — Hultzsch 304. — Humboldt, A. von 272. — Humboldt, W. von 71. 77. 82 fg. 126. 136. 205 fg. — Hunter 31. 130. 309. — Hüttemann 352. — Hyde 19.

§I

Imperial Gazetteer 309. — Indische Bibliothek(インド文庫)76. 79. — Indische Schriften(インド論集)47. — Indische Skizzen(インド小論集)331. — Indische Streifen(インド逍遥)331. — Indische Studien(インド研究)331. — Indoskythen(インド・スキタイ人) 99. 102. 173. 179. — Inschriften(碑文) 33 fg. 103 fg. 114. — I-tsing 296. — Itihāsa 408. — Itihāsapurāṇa 327. — Itihāsasamuccaya 51. — Ith 9 fg. 203.

§J

Jacobi 76. 78. 93. 168. 177. 218. 293. 296. 324. 340 fg. 343. 348 fg. 400. — Jacquet 122. — Jagannātha Tarkapañcānana 33. — Jaiminīya-Bhārata 339. — Jaiminīya-Brāhmaṇa 356. — Jaiminīya-Nyāya-Mālā-Vistara 247. 253. — Jaiminīya-Upaniṣad-Brāhmaṇa 357. — Jaina 29. 161. 194. 340 fg. 346. — Jalandhara 174. — Jaloka 160. 173. — Jäschke 300. — Jātaka 136. — Jaṭāpaṭala 364. — Javanisch(Java 語) 84. — Jayne 1. 6. 186. — Jenkins, R. 185. — Jhaveri 354. — Jīmūtavāhana 33. — Jinālaṃkāra 138. — Jīvānandana 383. — Jīvaviyāra 352. — Jñātadharmakathā 350. — Jñāta-Erzählungen(Jñāta 説話) 352. — Johaentgen 364. — Johnston 10. 116 fg. — Jolly 222. 265. 360. 418. — Jones 23 fg. 52. 116. — Journal of the American Oriental Society 355. — Journal Asiatique 82. — Julien, St. 131. 143. 180. 333. — Junggrammatiker(若手文法家) 427. — Jyotiṣa 169. 323.

§K

Kādambarī 32. 195. 334. — Kadphises 101. 160. 173 fg. — Kāgi 263. — Kahgyur 131. — Kaiphala 51. — Kālakācārya-Kathānaka 341. 351. 353. — Kālanirṇaya 336. — Kālidāsa 164. 175. 328. — Kalila wa Dimna 38. 142. 228. 229. — Kalpasūtra 29. 194. 323. 348 fg. — Kammavācā 126. — Kammuva 125. — Kaṇāda 191. — Kanakavarṇāvadāna 132. — Kaniṣka 99. 137. 152. 160. 174. 208. — Kaṇva 160. 175. — Kanyākubja 180. — Kapurdigiri 110. 114. — Karaṇḍavyūha 133. — Karmagrantha 354. — Karṇapūra 185. — Kasawara 296. 299. — Kāśikā 273. 296. — Kāśīnātha 70. — Kasten(カースト) 133. 170. 199. 310 fg. 323. — Kātantra 393. — Kāṭhaka 259. 322. — Kathāsaritsāgara 139. 196. 212. — Kathenotheismus(交替神教) 287. — Kaṭhopaniṣad 358. — Kātyāyana 240. 249. 274. 279. 323. — Kauśikasūtra 259. 261. 326. 357. — Kautukasarvasva 383. — Kautukaratnākara 383. — Kavirāja 32. — Kāvya 327. — Kāvyādarśa 39. 246. — Kāvyālaṃkāravṛtti 39 fg. — Kāvyaprakāśa 39. — Kawisprache(カウィ語) 82. 84. — Keith 409. 413. — Keller 334. — Kellner 214. — Kennedy 42 fg. 127. 208. — Kerbaker 449. — Kerberos 266. — Kern 130. 209. 244. 261. 297. — Keśava 52. — Keśavadāsa 32. — Ketab-al-fihrist 151. — Khalsī 109. — Kielhorn 177 fg. 240. 248. 253. 304. 323. — Kirātārjunīya 32. 90. 95. 195. 384. — Kircher 19. — Kirste 208. — Kittel 314. — Kittoe 108 fg. 138. — Klaproth 143. — Klatt 51. 296. 350. — Klein 407. — Kleuker 22. — Knauer 247. — Knighton 187. — Konzile(結集) 137. 160. 174. — Kopp 332. — Köppen 188. 194. — Kosegarten 87. 219. 227. — Kosmas 196. — Koṣano 102. 174. — Kramapāṭha 364. — Kṛṣṇacandra 363. — Kṛṣṇajanmāṣṭamī 336. — Kṛṣṇalegende(Kṛṣṇa 伝説) 336. 401. — Kṣatrapa 103. — Kṣemendra 136. 297. 342. — Kṣitīśavaṃśāvalīcarita 363. — Kuhn, Ad. 149. 169. 209. 255. 265 fg. 279. — Kuhn, E. 51. 293. 311. 427. — Kühnau 324. — Kumārapāla 179. — Kumārasambhava 32. 220. — Kumārila 196. — Kunst(美術) 164. — Kuvalayānanda 40.

§L

La Croze 6. — Lakṣmaṇasena 181. — Lalitavistara 131. 135. 188. 298. 345. — La Loubère 125. — Lancereau 441. — Langlès 53. 57. 61. 68. 75. 205. — Langlois 75. 80. 127. 140 fg. 205. — Lanjuinais 50. — Lanman 230. 260 fg. 355. 360. — Lassen 41. 65. 77. 78. 80. 91. 99. 106. 110. 125 fg. 139. 154 fg. 164 fg. — Laugākṣi Bhāskara 215. — Lefmann 67. — Legge 143. — Legenden(伝説) 262. — Le Gentil 49. — Leitner 451. — Lekhapañcāśikā 342. — Lenz 91. 144. — Lepsius 332. — Le Roux 141. — Le Roy Carr Barret 261. — Leskien 266. 360. 426 fg. — Leumann 344. 347 fg. 383. — Leupol 147. — Lévi 41. 401. — Leyden 126. — Liebich 359. — Lignana 439. — Lindner 263. 321. — Literaturgeschichte(文学史) 277. 293 fg. 325 fg. — Loiseleur Deslongchamps 38. 74. 141 fg. 197. — Low 187. — Lüders 93. 174. 401. — Ludwig 225. 261. 276. 358. 366 fg. — Lyall 448.

§M

Macdonell 274. — Mackenzie 29. 33. 53. 97. — Madanavinoda 264. — Mādhava 273. — Madhusūdana Sarasvatī 162. 257. — Maffei 8. — Maggi 440. — Māgha 32. — Mahābhārata 92. 127. 142. 146. 148. 157. 163. 167. 189. 205. 235. 327. 375. — Mahābhāṣya 240. 249. 273. 334. — Mahākāvya 32. — Mahānāṭaka 38. — Mahānidānasutta 138. — Mahāparinibbānasutta 132. — Mahārāṣṭrī 162. — Mahāvaṃsa 107. 115. 117. 187. — Mahāvīra 348. — Mahāvīracarita 39. 380. — Mahendra 173. — Mahlow 434. — Mahmūd von Ghazna 161. 179. — Maitrāyaṇī 259. — Maitrāyaṇī-Saṃhitā 322. 358. — Majer 56. 204. — Mālatīmādhava 32. 38. 156. — Mālavikāgnimitra 38. 175. 191. 334. 376. 381. — Mahāvastu 135. — Mahāyāna 132. — Malet 60. — Mammaṭa 39. — Mānava-Kalpasūtra 247. — Mānava-Śrautasūtra 247. — Mandasor 180. — Māndhātāvadāna 132. — Mandlik 447. — Maṇikyāla 98. 100. — Mantra 136. — Manu 23. 33. 73 fg. 92. 141. 162. 166. 221. 330. — Marazzi 439. — Marco della Tomba 17. — Marco Polo 197. — Marcy 5 fg. — Mārkaṇḍeyapurāṇa 52. 91. — Markus 302. — Marquart 175. — Marsden 187. — Martin 181. — St. Martin 167. — Masson 100. 110. 113 fg. — Massoudi 151. — Mathematik(数学) 30 fg. 213. — Maurya 160. 172. — Medizin(医学) 265. 329. 362. — Megasthenes 156. — Meghadūta 32. 37. 95. 96. 216. — Menander 102. 160. 173. — Merker 201. — Merutuṅga 351. — Merzdorf 427. — Metrik(韻律学) 32. 164. 210. 213. 269. 323 fg. 376 fg. 381. — Meyer, J. J. 238. 353. — Meyer, Leo 431. — Meyer, Rud. 280. — Mezzofanti 440. — Mihirakula 180. — Milinda 102. — Mill 104. 161. 255. — Mīmāṃsā 196. — Mimus(ミムス劇) 402 fg. 410. — Minayeff 125. 451. — Mineralien(鉱物) 192. — Mischel 50. — Missionare(宣教師) 19. 24. — Mitākṣara 33. 221. — Mithridates 173. — Rājendralāla Mitra 97. 130. 450. — Mohl 130. 143. — Monier-Williams 245. 305 fg. 383. — Moore 161. — Mṛcchakaṭikā 38. 39. 142. 221. 242. 383. 401. — Mudrārākṣasa 38. 81. 172. 381. — Muir 35. 50. 141. 191. 209. 260. 310 fg. 444. — Mūlarāja 179. — Müller, Aug. 363. — Müller, Ed. 299. 345. — Müller, Max 6. 27. 35. 150. 169. 191. 209. 214. 249. 270 fg. — Münzen(貨幣) 99 fg. 110. 112 fg. 364. — Myriantheus 315. — Mythologie(神話学) 169. 254. 266. 289. 315. 360. 385. 419. 442. 444.

§N

Nāgānanda 238. — Nāgārjuna 136. 174. 191. — Nahapāna 177. 179. — Naigeya 225. — Naiṣadhīya 32. 195. — Nakṣatra 154. 163. 190. 274. 283. 329. — Nala 32. 70. 90. — Nalacampū 32. — Nalodaya 32. 95. 195. — Nānak 157. — Nāṭyaśāstra 39. — Nāyādhammakahā 350. — Negelein 280. — Neil 132. — Neumann 157. — Nève 122. 149. 236 fg. 267. 272. 316. — Newton 177. — Niebuhr, Carsten 13 fg. — Nigaṇṭhu 93. 258. 264. 328. — Nirayāvaliyāsutta 350. — Nirgrantha 348. — Nirukta 258. 273. 278. 323. — Nirvāṇa 131. 135. 188. 298. — Nisikānta Chattopādhyāya 407. — Nītimañjarī 409. — Noiré 292. — Norris 114. 138. — Nyāya 303 fg. 400. — Nyāyabhāṣya 400. — Nyāyabindu 303. — Nyāyāvatāra 353.

§O

Oertel 356 fg. — Oldenberg 225. 269. 275. 293. 302. 313. 324. 404 fg. — Oṃ maṇi padme hūṃ 133. — Oppert, J. 441. — ΟΗΡΟ 174. — Orient und Okzident(『東洋と西洋』誌)231. 377. — Orissa 184. — Ormes 16. — Osthoff 426. — Oupnek'hat 48 fg.

§P

Padapāṭha 250. 256. 322. — Padārthadharmasaṃgraha 304. — Padma-Purāṇa 162. — Pahlavi 110. — Paippalādaśākhā 260 fg. — Pāla 181. — Paläographie(古文書学) 111. 300. — Pāli(Pāli 語) 120 fg. 125. 133. 138. 188. 293. 311. — Palladios 193. — Pallegoix 187. — Pañcarātra 35. 189. — Pañcasiddhāntikā 30. 154. — Pañcatantra 28. 37. 49. 142. 189. 197. 226. 353. — Pāṇḍya 171 fg. — Paṇi 269 fg. 389. 410. — Pāṇini 54 fg. 72. 77. 93. 162 fg. 169. 188. 218. 233. 235. 240. 248. 256. 273. 293. 328. 335. 359. 422. — Paramāra 161. — Parāśara 377. — Pārasīprakāśa 342. — Pāraskara 222. — Paribhāṣā 249. — Paribhāṣenduśekhara 240. — Pariśiṣṭa 279 fg. 323. — Pariśiṣṭaparvan 351. 353. — Pārśva 353. — Pāśakakevalī 334. — Pāṭaliputra 137. — Patañjali 240. 283. 305. — Paṭiccasamuppāda 188. — Pātimokkha 125. — Paton 187. — Paul 429. — Paulinus a Sancto Bartholomaeo 17. 20 fg. 146. 203. — Pauliśa 154. — Pauthier 142. — Pavie 148. — Pavolini 51. — Periplus 192. — Perry 360. — Pertsch 48. 150. 324. 363. — Petersburger Wörterbuch(Petersburg 辞典) 243 fg. 252. 261 fg. — Peterson 251. 275. 303. — Phayre 187. — Philosophie(哲学) 34. 66. 163. 191. 195. 210. 301. 306. 328. 353. 400. — Phiṭsūtra 240. 251. — Pickford 307. — Pictet 266. 268 fg. — Piṅgala 32. 323 fg. — Pischel 74. 84. 170. 225. 258. 321. 333. 344. 382. 400. 402 fg. — Piyadasi 107. — Polier 61. — Poley 28. 52. 94. 207. — Pons 6 fg. — Poros 172. — Portugiesen(ポルトガル人) 1. 3. — Postan 179. — Pott 83. 150. 415. — Prabodhacandrodaya 32. 38. 96. 145. 212. 247. — Pracaṇḍapāṇḍava 382. — Prahasana 383. — Prajñāpāramitā 131. 134. 299. — Prakrit(Prākṛt) 121. 125. 156. 162. 217. 343 fg. — Praśnottararatnamālā 334. — Prasthānabheda 257. 326. — Pratijñāsūtra 323. — Prātiśākhya 150. 169. 249 fg. 257. 275. 322. 422. — Pratītyasamutpāda 135. — Pratt 284. — Prellwitz 266. — Prinsep, H. 161. 274. 332. — Prinsep, J. 46. 97. 98 fg. 114. 180. — Ptolemaeus 160. 192. — Pulakeśin 185. — Pullè 353. 452. — Puppenspiel(人形劇) 402. — Purāṇa 41 fg. 127. 220. — Purmann 13. — Pūrṇa 134. — Pūrṇabhadra 353. — Purohita 170. — Puṣyamitra 175. — Pythagoras 170.

§R

Rādhākānta-Śarman 25. — Raffles 82. 187. — Rāghavapāṇḍavīya 32. — Raghumaṇi Bhaṭṭācārya 37. — Raghuvaṃśa 32. 51. 220. — Rājagṛha 137. — Rājaśekhara 382. — Rājataraṅgiṇī 37. 61. 115. 162. 166. 251. 328. — Rāmānuja 186. — Rāmāyaṇa 17 fg. 61. 76. 78. 92. 127. 142. 145. 163. 168. 189. 307. 313. 327. 338. — Rasagaṅgādhara 40. — Rasataraṅgiṇī 40. — Rask 124. 234. — Rāṣṭrakūṭa 178. — Ratnāvalī 38. 382. — Rāvaṇavaha 218. — Ṛbhu 237. 267. — Recht(法) 19. 33. 162. 253. — Regnaud 40. 50. — Regnier 148. 257. 322. — Rehatsek 448. — Reich 400. 402. — Reinaud 151. 197. — Religion(宗教) 161. 195. 285. 313 fg. 352. 385. — Rémusat 74. 131. 143. 187. — Rennell 15 fg. 59. — Renaissance(ルネサンス) 128. 162. 293 fg. — Ṛgveda 93. 141. 147. 166. 254. 261 fg. 272 fg. 283. 317. 365. 386. 406. 444. — Ṛgvidhāna 280. — Rhode 201. — Richardson 187. — Rieu 195. 256. 379 fg. — Ṛktantravyākaraṇa 322. — Ritter 164. 187. — Ritual(祭儀) 262. — Robertus de Nobilibus 10. 18. — Robertson 58. 75. 81. — Rockhill 360. — Roger, Abr. 2 fg. 201. — Rogers 298. — Rohde 192. — Romantik(ロマン主義) 55 fg. — Röer 191. 303. — Rosen 91. 93 fg. 144. 234. — Rost 361. 396. — Roth, P. H. 19. — Roth, Rud. 123. 158. 169. 209. 254 fg. 356. 394. — Ram Mohun Roy 52. — Royal Asiatic Society 82. — Royle 163. — Ṛtusaṃhāra 24. 88. 142. — Rückert 89 fg. — Rudradāman 109. 160. 176. — Rudraṭa 40. — Ruyyaka 40.

§S / Ś / Ṣ

Śabdakalpadruma 244. — Śabdasandarbhasindhu 52. — Sachau 151. 214. — Sacy 38. 68. — Ṣaḍdarśanasamuccaya 353. — Saddharmapuṇḍarīka 130. 134. — Ṣaḍguruśiṣya 256. — Sadous 331. — Sāhityadarpaṇa 39. — Saignes 7. — Sainte Croix 9. — Śaka 160. 175. — Śākaṭāyana 232. — Śakti 194. — Śākuntalā 23. 38. 73 fg. 91. 96. 240. 242. 305. 344. 383. — Salisbury 355. — Śālivāhana 160. 175. — Sāmaveda 224. 255. 322. — Samudragupta 176. — Sāmaññaphalasutta 137. 351. — Samyaktvakaumudī 341. — Śāṇḍilya 189. — Vincente Sangermano 17. 125. — Saṃgītaratnākara 39. — Śaṅkara 129. 194. 210 fg. — Śāṅkhāyanabrāhmaṇa 28. — Sāṅkhyakārikā 32. 35. 41. 156. 301. — Śāntisūri 352. — Saptapadārthī 304. — Saptaśataka 177. 343. — Sarasvatīkaṇṭhābharaṇa 39. — Śārṅgadeva 39. — Śārṅgadharapaddhati 40. — Sarvadarśanasaṃgraha 35. 193. — Sarvānukramaṇī 274. 404. — Sarvavarman 393. — Sassetti 16. 24. 233. — Śātakarṇi 177 fg. — Śatapathabrāhmaṇa 28. 169. 281. 320. 358. 394. — Sātavāhana 177. — Satis Chandra Vidyabhushana 353. — Śaubhika 335. — Saussure, F. de 418. 431 fg. — Sāyaṇa 186. 256. 261 ff. 273. 404. — Schattenspiele(影絵芝居) 403. — Scherzl 418. — Schick 339. — Schiefner 188. 334. — Schlegel, Fr. 19. 56 fg. 90. 204. — Schlegel, A. W. 36. 37. 59. 75 fg. 91. 99. 157. 204. 209. 224. — Schleicher 158. 423 fg. — Schmidt, J. J. 131. 299. — Schmidt, Joh. 265. 426. 433. — Schmidt, Rich. 52. 79. — Schopenhauer 50. 204. — Schrader 266. 387. — Schrift(文字) 111. 154. 169. 195. 282. 300. 332. — Schroeder, L. v. 80. 86. 259. 264. 315. 401. 404. 410. — Schröter, E. 334. — Schubring 349. — Schultze, B. 24. 233. — Schulze, Wilh. 265. 266. 430. — Schütz 95. 207. — Schuyler, M. 41. — Schwanbeck 156. — Schweizer 219. — Sekten(諸宗派) 41. — Senart 115. 135. 138. 302. — Setubandha 217. — Setukāvya 191. — Shāhbāzgarhi 114. — Shankar Pandurang Pandit 261. — Siam(シャム) 125. — Siddhānta 348 fg. — Siddhāntakaumudī 93. 218. — Siddhāntaśiromaṇi 30. — Siddha Sena Divākara 353. — Siecke 73. 417. — Sieg 408. — Sikh 157. 167. — Śikṣā 250. 323. — Śikṣāpada 134. — Śīlāditya 144. 153. 178. 180. — Siṃhāsanadvātriṃśikā 341. — Simon 226. 324. — Siṅghāsan-battīsī 153. — Sindhī 157. — Sinner 11 fg. — Śiśupālavadha 32. 142. 195. 383. — Śivāditya 304. — Śivaismus(Śiva 派) 136. 189. — Skandha 135. — Skythen(スキタイ人) 160. — Sleeman 309. — Smith, Edw. 104. 106. — Smith, V. A. 106. 112. 144. 171. 174. 187. 252. 401. — Société Asiatique 82. — Söderblom 50. — Solanki 179. — Soma 264. 394. — Sonne(太陽) 267. — Sonnerat 2. 10. 17 fg. 200. — Sörensen 167. 375. — Speyer 132. — Spiegel 126. 187. 209. 214. — Sprache(言語) 162. 190. 233. 269. 286. 290 fg. 311. 327. 419 fg. 421 fg. — Śrīdhara 304. — Śṛṅgāratilaka 40. 216. — Śrutabodha 157. — Stacy 101. — Stael-Holstein 280. — Stein 102. 174 fg. 208. 342. — Steinthal, P. 350. — Stenzler 94. 96. 150. 209. 214. 219 fg. 265. — Stevenson, J. 111. 179. 218. 224. 256. — Stevenson, Marg. 354. — Sthavirāvalīcarita 351. — Stirling 184. — Stokes, Wh. 33. 253. — Strauß 80. — Streiter 281. — Stuhr 163. — Suali 304. 353. — Subandhu 32. — Subhāṣitāvali 383. — Śubhaṭa 403. — Śūdraka 341. — Suhṛllekha 300. — Śukasaptati 52. 156. — Sukhāvatīvyūha 132. 299. — Śuṅga 175. — Suparṇādhyāya 323. 412. — Sūryaprajñapti 346. — Sūryasiddhānta 30. 154. 196. 283. 357. — Suśruta 154. 264. 329. 363. — Sūtra 132. — Sūtrakṛtāṅgasūtra 351. — Suvarṇaprabhāsa 136. — Svayaṃbhūpurāṇa 133. — Swiney 99. 102. — Syntax(統語論) 149. 415 fg. 421 fg.

§T

Taittirīya-Brāhmaṇa 158. — Taittirīya-Saṃhitā 321. — Tājika 329. — Takakusu 302. — Tāṇḍyabrāhmaṇa 326. — Tantra 136. — Tarkabhāṣā 304. — Tarkakaumudī 215. 303. — Tarkasaṃgraha 215. 303. — Tassy 143. 441. — Tattvacintāmaṇi 304. — Tavernier 4 fg. — Tawney 450. — Taylor 38. 170. 212. — Telugu 164. 313. — Teza 51. 440. — Theater(劇場) 400 fg. — Thibaut 29. 273. 364. 450. — Thießen 299. — Thomas 98. 103. 111. 121. — Thomsen 235. — Thumb 72. — Thurneysen 436. — Tieffenthaler 14 fg. 48. — Tilak 358. — Tithi 154. — Tocharisch(トカラ語) 208. — Tod 33. 99. 105. 170. — Tomba, Marco della 6. 17. — Tregear 103. — Tripiṭaka 117. 131. 139. — Trithen 256. 380 fg. — Trivikrama Bhaṭṭa 32. — Troyer 115. 170. — Trübners Record 362. — Trumpp 157. — Tullberg 96. 213. 376. — Tulsī Dās 32. — Tumparoff 201. — Turanier(トゥラン人) 190. — Turnour 107. 117 fg. 120. 187. — Turuṣka 160. 174. — Tuxen 303 fg.

§U

Übersetzungen(翻訳) 47. 275. 307. 310. 320. 334. 357. 365. — Uhl 201. — Uhle 213. — Umāsvāti 352. — Uṇādisūtra 240. 317. — Upalekha 364. — Upaniṣads 94. 211. 280. 324. 327. 334. — Upham 117. — Urgeschichte(原始史) 266 fg. 312. 386 fg. — Urvaśī 38. 96. 218. — Uṣas 267. — Uttamacaritrakathānaka 341. — Uttarādhyayanasūtra 351. — Uttararāmacaritra 38. — Uvāsaga-Dasāo 351.

§V

Vaidya 161. — Vaipulyasūtra 132 fg. — Vaiśeṣika 191. 301 fg. — Vaitānasūtra 260. 357. — Vājasaneyi-Prātiśākhya 249. — Vājasaneyi-Saṃhitā 235. 320 fg. — Vajracchedikā 299. — Vajrasūcī 133. 333. — Vākāṭaka 112. — Valabhī 105. 160. 176 fg. — Vallauri 146. — Vālmīki 145 fg. — Vāmana 40. 290. 382. — Varāhamihira 31. 46. 153 fg. — Vararuci 125. 156. 190. 217. 345. — Varman 112. — Vardhamāna 393. — Vāsavadattā 32. 195. 334. — Vasco da Gama 1. 186. — Vasubandhu 136. — Veda 28. 72. 149. 218. — Vedam 2. 7. 200. — Vedāṅga 323. — Vedānta 66. 196. 302. — Veṇīsaṃhāra 384. — Ventura 98. 100. — Verner 430. — Vetālapañcaviṃśati 156. 213. — Vijayanagara 186. — Vijñāneśvara 195. 221. — Vikramāditya 43. 46. 160. 170. 174. 294. — Vikramorvaśī 38. 144. 305. 376. — Vinaya 132. — Vīracaritra 341. — Viṣṇu 189. — Viṣṇupurāṇa 41 fg. — Viṣṇuvardhana 186. — Viśvanāthakavirāja 39. — Voltaire 8. — Vopadeva 45. 54. 128. 241. — Vṛṣala 177. — Vullers 265. — Vyākaraṇa 323. — Vyāsa 65. 128.

§W

Wackernagel 72. — Wagner 333. — Walther 202. — Ward 97. — Warren, H. 354. — Warren, J. S. 350. — Wassiljew 188. — Wathen 102. 105. — Weber 32. 50. 51. 85. 111. 133. 146. 158. 169. 189. 196. 209. 217. 243. 248. 279. 280. 283. 295. 314. 319 fg. 387. 401. — Webster 276. — Wenzel 300 fg. 418. — Wergeld(贖罪金) 264. — West 253. — Westergaard 114. 138. 209. 225. 234 fg. 293. — Wheeler 307. 339. — Whish 154. — Whitney 196. 209. 243. 259. 283 fg. 324. 355 fg. 429. — Wilford 115. — Wilhelm 417. — Wilk 186. — Wilkins 23. 53. 78. — Wilkinson 333. — Williams 245. 305 fg. 383. — Wilson, H. H. 35. 35 fg. 111. 112 fg. 120. 127. 136. 161. 163. 276. — Wilson, J. 191. — Windisch 214. 233. 274. 302. 303. 311. 352. 396. 398 fg. 415. — Windischmann, Fr. 163. 209. 394. — Windischmann, K. J. 68. 163. 196. — Winter 304. — Winternitz 43. 275. 412. — Wise 154. 329. — Wollheim 162. 220. — Wright 130. — Würfelspiel(賭博・骰子遊戯) 264. 334 fg. — Wörterbücher(諸辞典) 226. 243 fg. 261. 304. 305. 365. 382. 446.

§X

Xavier 6.

§Y

Yādava 186. — Yajurveda 11. 169. 320 fg. — Yajñadattabadha 140 fg. — Yājñavalkya 33. 221. — Yāska 258. 423. — Yaśodharman 180. — Yaśomitra 136. — Yates 64. 80. — Yātrā 407. — Yoga 193. — Yogaśāstra 352. — Yogaśāstravṛtti 353. — Yue-tschi(月氏)152. 160. 173 fg. 179.

§Z

Zachariae 198. 200. — Ziegenbalg 6. 198. 201. — Zeitschrift für die Wissenschaft der Sprache(言語科学雑誌)216. — Zeitschrift für vergl. Sprachforschung(比較言語研究雑誌)216. 266. — Zeitschrift für die Kunde des Morgenlandes(東方学雑誌)157. 214. — Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft(ドイツ東洋学会誌)157. — Zimmer 147. 263. 269. 304. 363. 369 fg. — Zoologie(動物学) 442 fg.

§付録 訳者付記(原書 pp. 208–276 の稿より)

本訳は、Ernst Windisch, Geschichte der Sanskrit-Philologie und Indischen Altertumskunde, Zweiter Teil (Grundriss der Indo-Arischen Philologie und Altertumskunde I. Band, 1. Heft B), Berlin und Leipzig: Vereinigung wissenschaftlicher Verleger Walter de Gruyter \& Co., 1920 の、補遺208頁・前付(扉・版権頁・序文・目次)および本文209–276頁の全訳である。

翻字については、原書が Çankara / Sankara、Käçikä、Vetālapaiicavimçati、Rgveda 等、19世紀ドイツ語圏の混在した翻字法を用い、かつ OCR による崩れが加わっているため、同定可能なものは標準 IAST に統一した。主な統一例を以下に挙げる。

原書/OCR の形 本訳での形
Çankara, Sankara, Saṃkara Śaṅkara(統合時に全篇で統一)
Rgveda, \~gveda Ṛgveda
Päṇini, Pa\~ini Pāṇini
Säyaṇa, Säyaṇas Sāyaṇa
Vetālapaiicavimçati Vetālapañcaviṃśati
Kathäsaritsägara Kathāsaritsāgara
Grhyasüträṇi Gṛhyasūtrāṇi
Yäjnavalkya Yājñavalkya
Räjatarangiṇī Rājataraṅgiṇī
Mahäbhäṣya Mahābhāṣya
Kaniṣka, Kuṣana Kaniṣka, Kuṣāṇa
Präkrt, Prakrit Prākṛt(原書の表記が揺れるため、文脈に応じ Prākṛt も併存させた)

同定に疑義の残る箇所には 〔?〕 を付した。主なものは以下のとおり。

  1. 210頁 Windischmann の Doctrinae Vedanticae brevis expositio の頁範囲「89–186」。OCR が "S. Sv--186" と崩れており、89 は推定。
  2. 214頁 Kellner の概観の下限年「1886」。OCR は "188e" で、1886 が最も自然だが確認を要する。
  3. 213頁 Brockhaus の「Bhāskara の代数学について」の頁範囲「1–46」。OCR は "S. :r---4\~" で、1–46 は推定。
  4. 264頁 Roth の語末短縮の例 "triṣu rocane (für rocaneṣu)"。Roth の論旨(語末音節の短縮表記)からすればアクセント付きの triṣú rocané が期待される形であり、原本での確認が望ましい。

なお、原書には人名・地名の綴りの揺れ(Kosegarten の刊年、Neve / Nève、Mādhava / Mādhavāchārya 等)が散見されるが、Windisch 自身が sic を付して指摘している箇所を除き、初出形に揃えた。

Ernst Windisch, Geschichte der Sanskrit-Philologie und Indischen Altertumskunde(1917/1920)日本語全訳
原書 pp. 1–460 完訳  研究資料に戻る