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儀軌文献 ―― ヴェーダの供犠と呪術 A. Hillebrandt 著/日本語全訳
原本頁

儀軌文献 ―― ヴェーダの供犠と呪術

Alfred Hillebrandt 著
『インド・アーリヤ文献学および古代学要綱』第 III 巻 第 2 分冊
Strassburg / Karl J. Trübner 書店 / 1897 年

Alfred Hillebrandt, Rituallitteratur. Vedische Opfer und Zauber.
(Grundriss der indo-arischen Philologie und Altertumskunde, III. Band, 2. Heft.)
Strassburg: Karl J. Trübner, 1897.

日本語全訳(巻頭 ―― 本文 pp. 1–186 ―― 巻末索引)

§凡例

1. 底本と範囲
本訳は上記書の全体、すなわち巻頭部分(扉・目次・略号表)、本文全4部(§1–§94、原本 1–186 頁)、および巻末付録(略号表・目次・語彙索引・事項索引、原本 187–199 頁)を訳出したものである。

2. ページ区切り
原本のページの変わり目を ─── [原本 p.N] ─── で示した。各ページ冒頭の柱(ランニング・ヘッド)も (柱) として訳出してある。原文の文がページをまたぐ箇所では、区切り記号を挟んだまま文意が続けて読めるように整えた。

3. 注
原本の注は、節ごと・ヴェーダごとにまとめて置かれる方式である。訳文でもその配置を保ち、「[原本 p.N 注]」として該当箇所に置いた。ページ下段に小活字で置かれる補説・文献欄は、それぞれ「〔小活字の補説〕」「[文献]」として区別した。注番号は原本のままである。

4. 表記

  • サンスクリット・パーリ語・アヴェスタ語はカタカナを用いず、IAST(パーリ語・アヴェスタ語は原本の転写)で示した。
  • 学者名はローマ字のまま示した。
  • 文体は「である調」とした。
  • 原文でイタリックの箇所は 斜体 で示した。原文の «…» による引用符は「…」に置き換えた。
  • 〔 〕は訳者による補い、( )は原文の丸括弧である。

5. 主要な訳語

原語訳語備考
Opfer供犠全巻を通じて固定
yajña
Fest
Spende献供
Ritual儀軌/儀礼書物としての規定体系は「儀軌」、行為の総体は「儀礼」
Spruch呪句/祭句呪術文脈と供犠文脈で訳し分け
Aberglaube俗信「迷信」の価値判断を避けた
Manen祖霊
Gelübde誓戒
Schüler学生brahmacārin
Opferer祭主yajamāna

Vedi・Graha・Stotra・Śastra・Sattra・Dakṣiṇā・Yūpa・Havis など、ドイツ語訳を当てると原文の議論が追えなくなる祭式用語は、原語のまま保持した。詳しくは巻末の「宗教用語対照表」を参照されたい。

§構成

内容原本頁
巻頭扉・目次・略号表
I儀軌の価値、その前史と資料(§1–§8)1–41
IIGṛhyasūtra の内容概説(§9–§57)41–97
IIIŚrautasūtra の内容概説(§58–§85)97–166
IVヴェーダの呪術(§86–§94)167–186
巻末略号表・目次・語彙索引・事項索引187–199
付録宗教用語対照表(訳者作成)

巻頭 ―― 扉

インド・アーリヤ文献学および古代学要綱
(ENCYCLOPEDIA OF INDO-ARYAN RESEARCH)

G. Bühler 編

第III巻 第2分冊

儀軌文献
ヴェーダの供犠と呪術

著者

ALFRED HILLEBRANDT

シュトラースブルク
KARL J. TRÜBNER 書店
1897年

欄外に蔵書印および受入番号 270633 の押印あり

巻頭 ―― 目次(1)

§目 次

I. 儀軌の価値、その前史と資料1–41
§ 1. 儀軌文献の一般的意義1
§ 2. インド・イラン時代11
§ 3. Ṛgveda の時代11
§ 4. 仏教文献におけるバラモンの供犠についての所見18
§ 5. Sūtra の儀軌。所作と誦句18
§ 6. Śrautasūtra と Gṛhyasūtra20
§ 7. 個々の Sūtra24
§ 8. 後代の文献37
II. Gṛhyasūtra の内容概説41–97
§ 9. Puṃsavana(男児出生祈願式)41
§ 10. 流産の防止43
§ 11. Sīmantonnayana(分髪式)43
§ 12. Soṣyantīhoma(分娩の儀)44
§ 13. Sūtikāgni(産婦の火)44
§ 14. Jātakarman(出生儀礼)45
§ 15. Nāmakaraṇa(命名式)46
§ 16. 誕生日の祝い48
§ 17. 産婦の起床48
§ 18. 月の礼拝48
§ 19. 最初の外出48
§ 20. 固形食による最初の食事(初食式)48
§ 21. Cūḍākaraṇa, Caula(結髪式・剃髪式)49
§ 22. Karṇavedha(穿耳式)50
§ 23. Godāna, Keśānta(剃髭式)50
§ 24. Upanayana(入門式)50
§ 25. Sāvitrī の誦唱53
§ 26. 学生(brahmacārin)の義務55
§ 27. Adhyayana(学習)55
§ 28. 学習に際しての学生の作法56
§ 29. Vrata(誓戒)56
§ 30. Upākaraṇa(開講の儀)58
§ 31. 休暇と不定期の中断59
§ 32. Utsarga(閉講式)60
§ 33. 第二学期61
§ 34. ヴェーダ学習の期間61
§ 35. Brahmacārin の卒業。Snātaka61
§ 36. Snātaka の義務63
§ 37. 婚礼63
§ 38. 家の火68
§ 39. 祭主(供犠を行う者)の人格70
§ 40. 供犠71
§ 41. Gṛhya 供犠のための材料71
§ 42. Ājya(バター)供犠72
§ 43. Pākayajña(煮供の祭)72
§ 44. 動物供犠73
§ 45. 供犠の時刻73
§ 46. 定期の供犠。日々の供犠74
§ 47. 新月供犠と満月供犠75
§ 48. Caitra 祭76
§ 49. Śrāvaṇa 祭76
§ 50. Indrayajña(Indra 祭)77
§ 51. Āśvina 祭77
§ 52. Āgrahāyaṇa, pratyavarohaṇa78
§ 53. 臨時の供犠。Argha(賓客供養)79
§ 54. 家屋、牧畜、農耕80

巻頭 ―― 目次(2)

§ 55. Caitya 供犠86
§ 56. 病、死、祖霊祭祀87
§ 57. 祖霊(manes)のための一般的供犠92
III. Śrautasūtra の内容概説97–166
§ 58. Śrauta 供犠の特徴について97
1. Haviryajña(供物祭)105
§ 59. Agnyādheya(置火式)105
§ 60. Punarādheya(再置火式)109
§ 61. Agnihotra(火への献供)109
§ 62. 新月供犠と満月供犠111
§ 63. Piṇḍapitṛyajña(団子による祖霊祭)114
§ 64. Cāturmāsya(四箇月祭)115
§ 65. Āgrayaṇa(初穂祭)119
§ 66. Kāmyeṣṭi(所願の祭)120
§ 67. Paśvālambha(動物供犠)121
2. Somasaṃsthā とその他の供犠124
§ 68. Agniṣṭoma124
§ 69. Pravargya134
§ 70. Aikādaśinakratupaśu(十一柱の犠獣)136
§ 71. その他の Saṃsthā、すなわち Jyotiṣṭoma の基本形137
§ 72. その他の Ekāha(一日祭)138
§ 73. Vājapeya141
§ 74. Rājasūya(即位式)143
§ 75. Ahīna(数日祭)147
§ 76. Aśvamedha(馬祀祭)149
§ 77. Puruṣamedha(人祀祭)153
§ 78. Sarvamedha(全祀祭)154
§ 79. Dvādaśāha および一年以内の Sattra154
§ 80. Gavāmayana および一年以上にわたる Sattra157
§ 81. Yātsattra(巡礼)158
§ 82. Sautrāmaṇī159
§ 83. Agnicayana(積火祭)161
§ 84. Catur-hotṛ、pañca-hotṛ165
§ 85. Prāyaścitta(贖罪法)166
IV. ヴェーダの呪術167–186
§ 86. 俗信と他の供犠との関係167
§ 87. 俗信の範囲と分類168
§ 88. 呪術の手段。1. 言葉169
§ 89. 同上。2. 所作、とりわけ象徴的な種類のもの171
§ 90. 場所174
§ 91. 呪文174
§ 92. Śānti(息災)、防禦呪術。1. 対抗呪術と敵の呪術の解除177
§ 92. 2. 有害な影響の転移179
§ 92. 3. 病の治癒181
§ 92. 4. 特定の行為の回避182
§ 92. 5. 前兆183
§ 93. 幸運の呪術185
§ 94. 託宣186

(訳者注:原本のこの部分の章番号は印刷が不鮮明で、「III.」が「II.」、「IV.」が「V.」と読めるが、内容と配列から III・IV と判断した。頁下部に図書館の押印あり。)

巻頭 ―― 略号表

§略 号

(左欄)

  • AJPh. = American Journal of Philology
  • APAW または AbhPAW = Abhandlungen der Kgl. Preuss. Akademie d. Wissenschaften(プロイセン王立学士院論文集)
  • Ait. Br. = Aitareya Brāhmaṇa
  • Anz. f. ISAK = Anzeiger für Indogerm. Sprach- u. Altertumskunde(印欧語言語・古代学報知)
  • Aufrecht, Cat. cat. = Aufrecht, Catalogus catalogorum
  • AV. = Atharvaveda
  • Āp. = Āpastamba
  • Ār. = Āraṇyaka
  • Ārṣ. Br. = Ārṣeya Brāhmaṇa
  • Āśv. = Āśvalāyana
  • Āśv. G. = Āśvalāyana Gṛhya
  • Āśv. GP. = Āśvalāyana Gṛhya Pariśiṣṭa
  • Āśv. ŚS. = Āśvalāyana Śrauta Sūtra
  • Baudh. = Baudhāyana
  • Bijdr. IV, 3 = Bijdragen voor de Taal-, Land- en Volkenkunde van Nederlandsch-Indië IV(叢書)第3巻
  • BKSGW = Berichte der Kgl. Sächs. Gesellschaft der Wissensch.(ザクセン王立学士院報告)
  • Burnell, Tanj. = A classified index to the Sanskrit MSS. in the Palace at Tanjore
  • Burnell, cat. = A catalogue of a collection of Sanskrit MSS., London 1870
  • Chānd. Up. = Chāndogya Upaniṣad
  • DLZ. = Deutsche Litteraturzeitung(ドイツ文芸新聞)
  • Egg. Cat. = Eggeling, Catalogue of the Sanskrit MSS. in the Library of the India Office
  • G. および Gobh. = Gobhila
  • Gaut. = Gautama
  • Gop. Br. = Gopatha Brāhmaṇa
  • GGA. = Göttingische Gelehrte Anzeigen(ゲッティンゲン学報)
  • GGN = Nachrichten der Königl. Gesellschaft der Wiss. zu Göttingen(ゲッティンゲン王立学士院報知)
  • GP. = Gṛhya Pariśiṣṭa
  • GS. = Gṛhya Sūtra
  • GSP. = Gṛhya Saṃgraha Pariśiṣṭa
  • H. および Hir. = Hiraṇyakeśin
  • Haug = Haug, Aitareya Brāhmaṇa
  • IA. = Indian Antiquary
  • ISt. = Indische Studien(インド研究)
  • IStr. = Indische Streifen(インド論集)
  • JAs. = Journal Asiatique
  • JAm. OS. = Journal of the American Oriental Soc.
  • JASB. = Journal of the Asiatic Society of Bengal
  • JBRA. = Journal of the Bombay Branch of the Royal As. Soc.
  • JRAS. = Journal of the Royal Asiatic Society
  • Kāt. = Kātyāyana
  • Kauś. = Kauśika
  • Kauṣ. Br. = Kauṣītaki Brāhmaṇa
  • KZ. = Kuhn's Zeitschrift für vergleich. Sprachforschung(クーン比較言語学雑誌)
  • Kuhn LOPh. = Kuhn, Litteraturblatt für oriental. Philologie(東洋文献学誌)
  • KSS. = Kathāsaritsāgara

(右欄)

  • Lāṭ. = Lāṭyāyana
  • Ludwig = Ludwig, Der Rgveda
  • LG. = Litteraturgeschichte(文学史)
  • LZ. = Litteraturzeitung(文芸新聞)
  • Mp. = Mantrapāṭha
  • Muir, OST. = Muir, Original Sanskrit Texts
  • MHASL. および MHAL. = Max Müller, A history of ancient Sanskrit Literature
  • MS. = Maitrāyaṇī Saṃhitā
  • NVO.(および NVollmondsopfer)= 新月供犠と満月供犠(Neu- und Vollmondsopfer)
  • Oldenberg, Rel. d. V. = Oldenberg, Religion des Veda(ヴェーダの宗教)
  • Or. Bibl. = Orientalische Bibliographie(東洋学書誌)
  • ÖMFO. = Österr. Monatsschrift f. den Orient(オーストリア東洋月報)
  • Paribh. = Paribhāṣā
  • P. および Pār. = Pāraskara
  • Proceed. = Proceedings
  • PAOS. = Proceedings of the American Oriental Society
  • Rep. = Report
  • Rev. crit. = Revue critique
  • Rev. Hist. Rel. = Revue de l'histoire des religions
  • RV. = Ṛgveda
  • Ś. および Śāṅkh. = Śāṅkhāyana
  • Śat. Br. = Śatapathabrāhmaṇa
  • ŚGS. = Śāṅkhāyana Gṛhya Sūtra
  • ŚSS. = Śāṅkhāyana Śrauta Sūtra
  • ŚS. = Śrauta Sūtra
  • Śpn. = Śrautapadārthanirvacana
  • SBAW. = Sitzungsberichte der K. Bayer. Akademie der Wiss.(バイエルン王立学士院議事報告)
  • SBE. = Sacred Books of the East
  • Schwab = Schwab, Das altindische Tieropfer(古代インドの動物供犠)
  • SPAW. = Sitzungsberichte der K. Preuss. Akademie der Wiss.(プロイセン王立学士院議事報告)
  • SV. = Sāmaveda
  • SVBr. = Sāmavidhānabrāhmaṇa
  • Tanjore = Burnell, A classified index to the Sanskrit MSS. in the Palace at Tanjore
  • TĀr. = Taittirīya Āraṇyaka
  • TBr. および Taitt. Br. = Taittirīya Brāhmaṇa
  • TMBr. = Tāṇḍya Mahābrāhmaṇa
  • TS. = Taittirīya-Saṃhitā
  • V. および Vaikh. = Vaikhānasa
  • Vait. = Vaitāna
  • VMyth. = Hillebrandt, Vedische Mythologie(ヴェーダ神話学)
  • VS. = Vājasaneyi-Saṃhitā
  • VStud. = Vedische Studien(ヴェーダ研究)
  • WZKM. = Wiener Zeitschrift für Kunde des Morgenlandes(ウィーン東洋学雑誌)
  • Weber, Verz. = Weber, Handschriftenverzeichnisse der Kgl. Bibliothek zu Berlin(ベルリン王立図書館写本目録)
  • WI.² = Weber, Indische Litteraturgeschichte(インド文学史)第2版
  • YV. = Yajurveda
  • ZDMG. = Zeitschrift der Deutsch. Morgenländ. Gesellschaft(ドイツ東洋学会誌)

インド・アーリヤ文献学および古代学要綱
(ENCYCLOPEDIA OF INDO-ARYAN RESEARCH)

G. Bühler 編

第III巻 第2分冊

儀軌文献

ヴェーダの供犠と呪術

著者

ALFRED HILLEBRANDT

§I. 儀軌の価値、その前史と資料

§§ 1. 儀軌文献の一般的意義

サンスクリット文献学は、古典古代学に対して次のような長所をもっている。すなわち、あらゆる祭祀慣習についての知識を、個々の偶然的な記述から寄せ集めて構成する必要がなく、祭官たちの供犠に関する知識の基礎をなしていた古い教本を所有しているという点である。これらの記録および体系の記述はきわめて精密であり、しかも種々の補助手段によって十分に裏づけられているので、古い供犠のいくつかについては、その実際の挙行に立ち会うことなしに再構成することが可能である。

古代インドの供犠の研究は、一つならぬ目的に資するものである。ヒンドゥーの生活は、そのあらゆる現象において、日々の営みにおいても、より重要な人生の諸段階においても、宗教的な形式に取り囲まれている。そして法とならんで、儀軌は古代インドの生活を知るための最も重要な資料をなしている。さらにそれを超えて、儀軌は古い宗教詩、すなわち Ṛgveda の讃歌の理解にも役立つ。この讃歌自体、すでにより発達した祭祀形式を前提としているのである。また、儀軌のうちに保存された古い慣習の豊かさによって、儀軌は古代インドの文化をアーリヤの原初期と結びつけ、さらには人類の発展の原始的諸段階と結びつけている。儀軌をより立ち入って研究する者であれば、古い伝統の光輝に包まれつつ後代の世代にまで伝えられてきた人類学的・民族誌的なデータの多さを、見逃すことはあるまい。

儀軌が蓄積されている Sūtra すなわち綱要書は、一般に個々の儀式の意味づけにはほとんど関心を払わない。その意味づけは、儀軌の長い発展の過程においてきわめて変転にさらされてきたであろうものである。そうではなく、Sūtra は、祭場で展開される所作の進行に即してそれらを規定する。そしてこの、対象を冷静に即物的に扱う態度によって、Sūtra は第一級の資料的著作となっているのである。

日常生活を描き出す Gṛhya 綱要書の意義がただちに理解されたのに対して、大規模な供犠を記述する Śrauta 儀軌の性格は、しばしば誤解されてきた。長きにわたって ―― そしてこの見解はおそらく今なお最も多くの支持者をもっているが ―― そこには、無為な祭官階級の思弁が好んで見いだされてきた。すなわち、自らの支配を固めるために、ヒンドゥーの生活を一連の儀式の鎖で取り巻き、その精神を隷属状態に置いたのだ、というわけである。個々の事例について、ある慣習が実際にバラモンによる付加や創案であったかどうかを確定することは困難である。しかし一般的には、あの見解は誤りにもとづいていると言ってよい。Dharmasūtra や Dharmaśāstra が思弁的な法学者の創案ではなく、本質的には古い慣習法と古い習俗を法典化したものであるのと同様に、

欄外下:Indo-arische Philologie. III. 2. ―― 頁数 1

2 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

バラモン教の祭官的儀軌もまた、民間の宗教的慣習を体系的に総括したものにほかならない。それらの慣習が、バラモンたちによって彼らの儀礼的実践の基礎、あるいは少なくともその本質的構成要素とされたのである。これらの資料の研究が進めば進むほど、バラモンたちが自らの叙述の体系化のほかにはほとんど何も創案せず、何も付け加えて作り上げてはいないという認識が、いっそう明瞭に浮かび上がってくるであろう。それは、Vaiyākaraṇa たち(文法学者たち)が語根を創案したのではないのと同様である。バラモン的習俗の一般性は、それが民間の実践に由来するという点に根ざしている。

この理由から、ヴェーダの儀軌は、Gṛhyasūtra のそれのみならず、同じ程度に Śrautasūtra のそれもまた、アーリヤの祭祀的古代事象を知るための、なお十分に研究されていない資料と見なしてよい。われわれは個々の場合について、伝統的な慣習が生成した際の条件をもはや認識できないことが多い。それらの慣習は、しばしばとうに消え去った生活の化石化した残滓のごとくにわれわれの前に立っている。それらのいくつかを理解し、それが生成した民族学的な層に到達するためには、それらを比較的に取り扱うことが必要となろう。すなわち、アーリヤ諸民族の習俗を援用するだけでなく、インドの内外の原始的な自然民族の習俗をも援用して、つまり人類学の助けを借りてその起源を説明することが必要となろう。もっともその際には、とりわけ Bradke が強調したように、これらすべてのデータの吟味にあたって大いなる慎重さを用いなければならない。

なお研究の乏しい Śrautasūtra よりも長きにわたって、家庭儀礼の教本 ―― 日常生活の慣習についての立ち入った規定をそなえたそれ ―― は、アーリヤ古代学にとってのその意義が認識されてきた。すでに何年も前に Stenzler がその重要性を指摘して、次のように述べていた。「インドの民族は、この語族全体のうちで唯一、すでに早い時代に習俗を特別な規定へとまとめ上げ、それに捧げられた独自の文学の一分野をもっている民族である。……(婚礼儀軌の)個々の所作の全系列を見渡すならば、ローマの婚姻の個々の行為に通じており、またドイツの民衆のもとに保たれてきた慣習に通じている者は誰でも、容易に認めるであろう ―― その一致は実際にきわめて近く、しかも小さな非本質的な細部においてもしばしば現れるので、およそ人間精神の一般に同種的なものの見方から説明することは不可能であり、まさにこれらの諸民族の本源的な歴史的連関のうちにおいてのみ、その説明が見いだされるのである、と。」

われわれは、これらおよびその他の儀礼的サンスクリット文献の研究がさらに進み、法制古代事象と結びつけられることによって、比較文法と肩を並べるようなアーリヤ古代学の基礎が据えられることを期待してよい。これまでとりわけ立ち入った研究の対象となり、Haas、Weber、Winternitz、L. v. Schroeder の業績のおかげで他のアーリヤ諸民族における多くの並行例の発見へと導いたのは、この婚礼慣習であった。最後に挙げた学者は、インドの儀軌に言及され他のアーリヤ人のもとにも現れる習俗の多くが、フィン・ウゴル系の諸民族、とりわけエストニア人のもとにも見いだされ、おそらく借用によってそこへ達したものであることを示した。他方 Winternitz は、さらなる並行例と実例とによって、アーリヤの共有財産の大きな広がりを見事に描き出した。

ここでは、当初は何の意味も認められなかった小さな特徴が、しばしば文化史的に重要なものであることが判明した。花嫁が婚礼に際して実家に別れを告げるとき、彼女は泣くのが常である。この涕泣は古代インドの婚礼儀軌の特別な一行為と見なされており、花嫁の涕泣のために特別な詩節が規定されている。したがってそれは私的な行為ではなく、半ば公的な所作なのである。われわれはこの慣習に、いくつかの地方で出会う。

1. 儀軌文献の一般的意義。 3

それは今日のインドにおいてもそうである。「新ギリシア人のもとでは、花嫁は大声の嘆きの叫びを発し、行列に従うことを拒む」。同じ慣習はロシアの民謡にも言及されている。ボヘミアでは花嫁は実家に別れを告げる際に泣かねばならない。ドイツのオーバープファルツでは、彼女は結婚式のあいだにも、その後の食事の際にも「ぞっとするほどたくさん」泣かねばならず、そのためほとんど食事ができないほどである(L. v. Schroeder)。

この行為のこうした一般的な広がりからすると、ここで問題なのは単なる感傷ではなく、古い、その起源がもはや理解されなくなった慣習の存続であるということになるように思われる。そして Winternitz が、花嫁の涕泣は掠奪婚(Frauenraub)の遺習の一つであり、アーリヤ諸民族のもとにはなおその種々の痕跡が保たれていると推測したのは、不当ではない。

同じ起源を指し示す習俗が、もう一つある。アールガウ(スイス)では「共同体の独身男たちによって、出発する花嫁一行の道が棹や綱などで塞がれ、これらの障害物の中央には赤い紐が付けられており、花嫁の介添人が婚礼の剣でこれを断ち切らねばならない」と報告されている。「フランスでは婚礼の行列が、道路に張り渡された帯によって足止めされることがある。」

さてインドに目を転ずるならば、われわれは類似の慣習を見いだす。Āpastamba の Sūtra は、この種の書物特有の乾いた文体でこれを次のように規定している(Āp. 5, 23. 24)。「次の詩節をもって彼は二本の糸を轍の上に広げる。暗青色の糸を右の(轍に)、赤い糸を左の(轍に)。次の(諸詩節)をもって彼は(花嫁を)その上に導く」(Winternitz)。

インドの供犠の古い構成要素をなすのが、花婿の火の供犠、火のめぐり歩き、花嫁の穀粒の供犠である。ここに与えられている規定がいかに精密であるかは、Gobhila(II, 1, 24 以下)による当該箇所の再現によって示されよう。

「彼女が右手で彼の右肩をつかんでいるあいだに、彼は『Agni がまず先に来たれ』などの句をもって6回のバターの献供を行い、さらに三つの大いなる語 bhūr bhuvaḥ svar をもってそれぞれ1回ずつ、そして四度目に(三つ)すべてを合わせて1回行う。供犠ののち両者は立ち上がり、夫は彼女の背後をまわって、彼女の南側に北向きに立ち、花嫁の窪めて合わせた両手を取る。東側に立つ彼女の母、あるいは彼女の兄弟が、炒った米を取り、花嫁に右の爪先で石を踏ませる。そのあいだ花婿は『この石に登れ』とささやく。兄弟は一度その両手に米を満たし、それを花嫁の両手に注ぎ入れる。彼女は組み合わせた手を離すことなく、バターを上から注ぎ、また下に敷いた上で、これを供える。その際に彼女は『この女は言った』という句を唱え、続く(供犠)においては『神なる Aryaman』および『Pūṣan』の句を唱える。供犠ののち花婿は、来たときと同じように彼女のまわりをまわり、彼女を火のまわりに導き、その火を左から右へとめぐる……。彼女が導き出されると、彼は以前と同じ位置につく」等々。

これらの儀式は、配列においては互いに大きく異なるにせよ、その本質的な部分においてはすべての Gṛhyasūtra に繰り返し現れる。たとえば Āśv. は I, 7, 6 でこう言う。「彼が彼女を、火と水壺のまわりを右まわりに三度導くあいだ、彼は小声で『ここに私がいる』などと唱える。7:彼女を導きめぐるたびごとに、彼は彼女を石の上に登らせ、『この石に登れ、石のごとくに堅固であれ……』と唱える」。ついで兄弟またはその代理人が、溶かしたバターを下に敷いた上に、二度、炒った穀粒を妻の手に投じる。

Rossbach、Weinhold、Weber およびすでに挙げた他の学者たちの業績によって、ここにもまた古アーリヤの婚礼儀軌の要素がわれわれの前にあることは、久しく知られている。それは個々の特徴において

欄外下:1*

4 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

種々のアーリヤ諸民族のもとになお現れている。ローマの婚姻においては、参列者は、スペルト小麦のパン(far)を火に供える前に、祭壇を左から右へとめぐる。ゲルマン人のもとでは、若い妻は花婿の家に到着すると、三度炉のまわりを歩まねばならなかった。そして今日でもズーダーラント地方では、花嫁を三度「炉の火または鍋鉤のまわりを」導く慣習がある。「クロアチア人とセルビア人のもとでは、花嫁は火の燃えている炉のまわりを三度導かれる。」同じことは古プロイセン人、新ギリシア人、オセット系の諸族についても当てはまり、いくつかのアーリヤ諸民族から、それに隣接するエストニア人その他のフィン・ウゴル系諸族へと広まった。今日でも、われわれのいくつかの教会において、婚礼が終わったのち若い夫婦が、そしてその後に親族たちが、「献金(Offertorium)」をささげるために祭壇を左から右へとめぐるとき、そこには太古の習俗がわれわれの時代にまで響き伝わっているのであろう。

多くの民族において、花嫁が夫の家に入ったのち、羊毛のついた毛皮(pellis lanata)の上に座るという慣習があった。Festus によれば、ローマ人のもとではそうであり、ギリシア人のもとでもそうであった。ロシア人のもとではかつて、「新郎新婦が婚礼前夜と婚礼当日に、ともに毛皮の上に座る」という習俗が行われていた。ここでもまた Gṛhyasūtra は、インドにおける同様の習俗について知らせている。ある書によれば、花嫁は夫の家へ向かう前になお赤い牡牛の皮の上に座らねばならず、別の書によればそれは花婿の家に着いてからである。

たとえば Āśvalāyana はこう言う(I, 8, 9)。「彼は婚礼の火に改めて薪をくべ、その背後に牡牛の皮を、首を東に、毛を上にして広げる。そして彼女がその上に座り、彼をつかんでいるあいだに、彼は『生類の主がわれらに子孫を生ぜしめたまえ』という4つの詩節のそれぞれをもって(四度)供える。」

L. v. Schroeder は、エストニア人のもとの類似の慣習について報告している。オーバーパーレン地方では、花婿の到着に際して、掛け布で覆われた花嫁が家から運び出され、家の戸口の前に広げられた敷物の上に立たされる。オーデンペー地方では、花嫁は教会からの帰着後、車から飛び降りることができないうちにすばやく舅によって抱き下ろされ、広げられた毛皮の上に立たされる。その毛皮は毛を上にして置かれていなければならない。

Gṛhyasūtra においてわれわれは、花嫁と花婿に米などの種子が撒かれるという規定に繰り返し出会う。Hir. は、二人が新しい家郷へ出発する前にこれを規定している(I, 21, 6)。Baudh. I, 8(Winternitz 参照)によれば、夫婦が牡牛の皮の上に座っているあいだに、親族が草の葉を夫婦の上に投げる。

花嫁と花婿に物を投げかけるというこの広く行われ、今日でもインドで多くの場所に生きている習俗は、アーリヤ諸民族のもとにその類例をもっている。ボンベイのパールシー教徒のもとでは、祭司が新郎新婦の頭上に穀粒を撒くのが慣習である。ギリシア人は καταχύσματα(撒きかけの儀)を知っていた。ローマ人のもとでは花婿が胡桃を撒いた。クロアチア人のもとでは「花嫁に小麦を撒き、ブルガリアでは小さな貨幣とキビを撒く」。Mannhardt、Schroeder、Winternitz は、これらの太古の慣習の広がりについて豊富な証拠を提出している。

「シチリアでは、教会から出るときに花嫁に一匙の蜂蜜が差し出され、小麦が彼女の上に撒かれる。」フランスのベリー地方では、新郎新婦は到着に際して穀物とカラス麦の粒を浴びせられる。「メクレンブルクでは、花嫁の花冠に亜麻の種子を注ぎ入れる。」小ロシア人のもとでは、母が「花嫁の肩越しに穀物を撒く」。

胎児(Leibesfrucht)と穀粒(Getreidekorn)とは、象徴的な相互関係のうちにある。穀粒を撒くことは、多産の願いを意味している。

これまでのところ、アーリヤ古代学にとっての Gṛhyasūtra 研究の成果のうち、ごくわずかのものにここで触れたにすぎない。すでに述べたように、この Gṛhyasūtra は

1. 儀軌文献の一般的意義。 5

Śrautasūtra よりも長く、より立ち入った研究の恩恵に浴してきた。とはいえ後者にも同じだけ高い意義が帰せられるのである。以前の時代には、ただ個々の点においてのみ、その記述が援用されたにすぎなかった。

父祖の仕方にならって、厳粛な供犠においても神々は敬われる。その挙行を指導する祭官階級の伝統のうちには、父祖伝来の慣習があまりに急速に改変されることに対する、いっそう大きな保証が存している。誓戒などに際して塩を加えた食物を断つことが、まだ塩を知らなかった時代からの遺物であるという点については、Bühler が(書簡で)注意を促している。かつて二本の木片を摩擦することによって火を得たのと同じ仕方で、人々は今なお、供物を神々のもとへ運ぶ聖なる火を生ぜしめ続けている。供犠の敷物として用いられる聖草を刈り取るに際しては、鎌が、あるいはなお馬や駄獣の肋骨が用いられる。

すでに何年も前に A. Kuhn は(『火と神酒の降下』第2版 159 頁)、インドの新月供犠に際して、まったく新しい葉の茂った śamī または palāśa の枝を用いて仔牛を牝牛から追いやるという慣習を指摘している。同様のことは、別の機会にではあるが、スウェーデン、ヴェストファーレン、そして薄れた形で南ドイツにも見いだされる。すなわち「初めて牧場へ追い出す際に、若い家畜を聖なる樹の枝で打ち、そうすることでそれを強壮にし乳の豊かなものにする」という、古い牧人の慣習があったのである。かくして儀軌は、古代インドあるいは古アーリヤの生活の一部を携え伝えている。

しばらく前に私は、古代インドが西方と同様に至点の日を祭りをもって祝っていたことを論証しようと試みた。少なくとも二日のうちの一方に結びついていたすべての慣習の精密な記述を、儀礼的著作の一つが詳しく述べている。そこでは的が射られる。おそらく太陽を表すのであろう白い円形の皮をめぐって、śūdra たちと vaiśya たちとが争う。同じくおそらく太陽への象徴的関係をもつ鞦韆(ぶらんこ)に、祭官の一人が座る。

この二つの祭日には旋律が結びついている。rathaṃtara の旋律と bṛhat の旋律である。前者は最も短い日 ―― これを Sūrya が支配する ―― に属し、後者は最も長い日 ―― これは Indra に捧げられている ―― に属する。この二つの旋律には一定の慣習が結びついており、それについては Sūtra が明示的に情報を与えている。最も短い日の旋律は車輪の轟音をもって始められる。この車輪の轟音になぞらえられるのが、われわれのもとで悪霊を追い払うのに用いた壺や樽の騒音であり、またシュレースヴィヒのいくつかの地方で行われている、車輪を村中に転がすという慣習である。

最も長い日の旋律には、雷鳴の轟きを模すべき太鼓の音が先行する。太鼓の音のあいだ、娘たちは水を満たした水瓶をもって三度火のまわりを踊りめぐり、歓びの歌を歌う。最後の一周ののち、彼女たちは桶の水を火に注ぎかける。インドの娘たちの輪舞と歌唱になぞらえられるのが、ドイツにおいてもスラヴの地においても行われる、多くの土地から報告されている聖ヨハネの火のまわりでの歌唱と跳躍であり、また「黒い森」における Sobótka の祭その他の、われわれの世紀にまで保たれてきた習俗である。

この二つの日、viṣuvat の日と mahāvrata の日は、インドの儀軌の発展のなかで本来の意義を剥ぎ取られ、また他の祭りのうちに組み入れられてしまった。しかしそれらには今なお、至点の日としてのその性格を疑いなく証示する慣習が付着している。

クリスマスと公現祭(三王の日)とのあいだは「十二夜(Zwölften)」の期間である。インドの儀軌もまた、十二の日ないし夜の祭、すなわち dvādaśāha あるいは dvādaśarātra を知っており、それを聖なる期間と見なしている(Weber, Omina und Portenta 388。Ind. Stud. 17, 223 以下)。それは後の時代には、至点の祭と同様にただその本来の意義を剥ぎ取られ、他の

6 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

目的に用いられるようになった。しかし「十二日の供犠」が一連の供犠全体の模範と見なされているという点には、なおそのかつての意義の残滓が示されている。

Agohya の家には、季節の技巧に長けた主である Ṛbhu たちが十二夜のあいだ眠り、ついに「犬」が彼らを目覚めさせる。「最も高貴なる者のための供犠」と Aitareya Brāhmaṇa 4, 25, 7 は言う、「それが dvādaśāha である。神々のうちで最も高貴であったのは、最初にこれをもって供犠した者である。最も優れた者のための供犠が dvādaśāha である。神々のうちで最も優れていたのは、最初にこれをもって供犠した者である。最も高貴にして最も優れた者が供犠すべきである。ここにおいて年は幸いなるものとなる。」

別のテクスト(Taitt. Saṃh. 7, 2, 10, 1)はこう言う。「季節たちは Prajāpati に dvādaśāha の供犠を行わせた。そこで彼は季節たちのうちに繁栄を得た。かく知りて dvādaśāha をささげる者は、祭官たちのうちで繁栄を得る。彼らは自らの願いをもって彼に(供犠に、あるいはそれをささげた Prajāpati に)向かった。彼は春に樹液を、夏に大麦を、雨季に草木を、秋に米を、冬と涼季に豆と胡麻を与えた。」かくして、供犠が年の稔りを定めるもののように見える。

私の考えでは、これらの思想とまったく無関係ではないのが、十二夜から来たるべき年の性格を予言するドイツの俗信である。というのも、この期間の天候は年の稔りにとって意味深いものだからである(I. St. 17, 224)。

この十二夜に最もよく結びつくのが、奇異な大晦日の慣習への言及である。ekāṣṭakā、すなわち年の妻、「年の似姿」(AV 3, 10)であり「日々を秩序づける女(ahnāṃ vidhānī)」とも呼ばれるものは、年の最初の夜、別の説によれば最後の夜であって、インドの信仰において紛れもない重要性をもつ。

それについて TS III, 3, 8, 4 はこう言う。「日々を秩序づける女なる ekāṣṭakā において、彼は四 śarāva の穀物から菓子を焼き、早朝それをもって(!)藪に火をつけよ。それが燃えれば年は良くなり、燃えなければ悪くなる」(ahnāṃ vidhānyām ekāṣṭakāyām apūpaṃ catuḥśarāvaṃ paktvā prātar enā kakṣam upoṣet; yadi dahati puṇyasamaṃ bhavati yadi na dahati pāpasamam)。

いくらかより明瞭に注釈はこう言う。「彼は ekāṣṭakā の日に菓子を焼き、その『きわめて熱い』菓子をもって、翌日、森のなかで藪に火をつけるべきである。菓子の下には古い草を投げ入れるべきである。これらはすべて藪の真ん中で行うべきである。そののち菓子の火が藪全体を焼き尽くすならば、この焼却が催される目的である企ては成就し、幸いなる年に当たる。焼き尽くさないならば、企ては失敗する。不吉な年に当たるからである。」

この Brāhmaṇa の一節を引用する Āp. Śr. 13, 24, 18 の注釈は、彼は菓子を炭化させよ(paktvāṅgārasātkṛtya tenāraṇye kakṣaṃ dahet)と言い、そして菓子が明るく燃えて藪に火を放つならば、そこから幸いなる年を認めるべきであると言う。

大晦日に燃える灌木によって運命を問うというこのことが、われわれのもとで年の最後の晩に未来を占おうとする種々の異なった慣習と関連していることは、ほとんど疑いえないように思われる。ドイツおよびロシアのクリスマス・ツリーの歴史は、たとえ通りすがりにであれここで問題としうるには、なお暗すぎる。

私はこれまで、アーリヤ諸民族の文化史に属する慣習をもっぱら扱ってきた。もっとも、何がこれらの民族に固有のものであり、何がすべての自然民族に共通のものであったかのあいだに境界線を引くことは、多くの場合困難である。それに劣らず意味深いのは、儀軌が習俗史一般に対して提供する寄与であり、それはおそらく民族誌的研究の光のもとで考察されねばならないであろう。

Gṛhyasūtra が規定するところの、新生児に乳と蜜とを与える最初の授食について、Speyer は(Jātakarma 103 頁以下)

1. 儀軌文献の一般的意義。 7

ゲルマン、キリスト教、セム系の古代等から引かれた並行例によって例証した。同じく Jātakarman に際して描かれる、子への「息の吹き込み」を、Weber は東プロイセンとアルトマルクに今日なお生きている慣習と比較している(Ind. Streifen 3, 170)。

ヴェーダの諸儀礼に定められている儀式で、その一般的性格が同じく承認されているものに(Lippert, Culturgeschichte II, 350 以下)、Upanayana、すなわち師のもとへの入門がある。これはカーストに応じて第8年、第11年、または第12年に行われるべきものである。これは青年が帯を締められる時期であり、その帯はまったく特別な聖別の言葉とともに巻かれて、彼を再生者へと高める。この儀式は、パールシー教団において第15年に行われる聖なる紐の帯びと、切り離しえないものである。しかしインド・イラン諸族の前史を超えて、原始的な家族制度の領域においても、民族誌が集めた資料を援用するならば、この聖別の類例を見いだすことができる(Oldenberg, Religion des Veda 466 以下)。

種々のインドのテクストが髪型に置いている大きな重みが、しばしば目を引く。最も古い箇所を、われわれは RV に見いだす。そこでは「白衣をまとい、髪を編んだ」Tṛtsu たち、および「右側に一つの編み髪をつけた Vasiṣṭha たち」について語られている。

若いヒンドゥーの生活において、断髪は特別な祭事である。たとえば Āśv. Gṛ. I, 17, 18 は「家族の慣習に従って髪型を作らせよ」と言う。注釈はこれに付け加えて、ある家族は一つの房のみを、他の家族は三つを、他の家族は五つを保ち、ある家族は房を前に、他の家族は後ろにつけると言っている(Stenzler, 前掲書)。家族の慣習を指示するのは他の Sūtra も同様であり、たとえば Pār. II, 1, 22 や Gobhila II, 9, 25 がそうである。

すでに Roth が注意を促した後代のテクストの一箇所は興味深い。それによれば、Vasiṣṭha の家系は右側に房をつけ、Atri たちは三つの房を、Aṅgiras たちは五つの毛束をつけ、Bhṛgu たちは剃り上げ、他の者たちは種々の数の房をつけるという。注釈はさらに別の異説をも知っている(Bloomfield, ZDMG. 35, 576;Stenzler の Pār. II, 1, 22 への注;Weber, I. Stud. X, 95 および Kirste)。

そのほかにも髪型への言及は多く見いだされる。M. Müller(HASL. 54)は Harivaṃśa の一節を引用しており、それによれば Śaka たちは頭を半ば、Yavana たちと Kamboja たちは頭を全部剃っている、等々である。法典もまた髪型に何度も言及している。たとえば Āp. I, 1, 2, 31–32;Gaut. I, 27;Manu II, 219 である。

ある特定の供犠においては、pariśrajin たる hotṛ が規定される。これは髪を花冠の形に頭上につけ、中央には髪をもたない者である(Taitt. Br. II, 7 とその注釈)。怒りに燃えた Cāṇakya は(Mudrārākṣasa 第1幕)、自らの目的を達するまでは、「その怒りの火の暗い煙柱」たる髪の房を結わないという誓いを立てた(Divyāvadāna 625, 7 をも参照)。

これらの一部は奇異な事柄も、より大きな連関のうちで考察するならば、別の様相を帯びてくる。古北欧の Haddingjar、すなわちヴァンダル人のもとにおける Astingi の王家・祭司家の髪型については、すでに Zimmer(Altind. Leben 264)が注意を促している。しかしわれわれはもう一歩進まねばならない。そうすれば、ここでインドの Sūtra が最古の文化層の遺物を伝えていることが容易に認められよう。

「現在生きている自然民族の大多数において」と Alsberg は言う(Anthropologie² 349)、「髪型の作製は特別な技芸へと発展しており、その際なお言及すべきは、髪の整えが一定の場合には個人を家族の内部で標示するのに役立つということである」。髪飾りについては Lippert, Kulturgeschichte I, 379 が詳しく論じている。多くの場合、「家族はある選択を行っており、髪飾りはそれによって、中世の兜飾りと同じく一種の紋章の構成

8 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

部分、すなわち家族全体の標識となった」。「中世初期の流行の愚行としてわれわれに示され、しばしば熱狂的な修道士たちによって非難される多くのものは、……必ずしも退行ではなく、しばしば古い習俗の遺物的な保存であろう」。L.〔= Lippert〕は、フランク王の髪、すなわち rex crinitus のもつ大きな意義を指摘し、また Tacitus の記述 ―― スエビ族はケルト風の髷の髪型によって他のゲルマン諸族から区別された ―― を指摘している。中国人においては辮髪が民族の標識となった。ヴェーダの祭司家系の髪型も、明らかに同じ連関に属する。

Sūtra において詳しく記述される祖霊祭祀もまた、その起源からすればバラモン教のみのものではない。「祖霊祭祀は」と Tylor は言う(Anf. d. Cult. II, 113)、「人類の宗教における最も広大な領域の一つである。……神格へと移行した死者の先祖は、単純にその家族を保護し続け、以前と同様に奉仕と服従を彼らから受け続ける」(同様に H. Spencer, Principien der Sociologie 1, 345 以下)。

中国では祖霊供犠は太古からのならわしである。日本では神道が祖霊崇拝の一形態であるように見える(Sumner Maine, Early Law and Custom 60 頁)。Fustel de Coulanges の La cité antique と Rohde の Psyche には、ギリシア・ローマ世界からの並行例が見いだされる。

とりわけ興味深いと私に思われるのは、いわゆる Ukhā なる土器の製作である。これは Agniciti、すなわち火の祭壇の積み上げに際して規定されている。教本はこれらの規定を、その言葉を惜しむ仕方で与えている。

Kātyāyana は 16, 3, 23 でこう言う。祭主は「汝は Makha の頭なり」という呪句をもって土を取ったのち、壺を作る。24. 一 Spanne〔張り〕の広さと高さで。25. 五種の動物供犠の場合には五 Spanne、あるいは矢一本の広さで。26.「Vasu たちが汝を作らんことを」という呪句をもって、彼は取った土を広げる〔それによって底面ができるように〕。27. 〔この底面の〕あらゆる側から縁を上方へ曲げたのち、彼は〔この縁の上に〕最初の土の塊を「Rudra たちが汝を作らんことを」という呪句をもって載せる。28. 壺を〔いまできあがったかぎりで〕柔らかい土で塗り、水で和らげたのち、彼はその上に第二の土の塊を「Āditya たちが汝を作らんことを」という言葉をもって載せる。29. 彼は〔器を〕「すべての神々が汝を作らんことを」という呪句をもって平らにする。30. 〔壺の〕上方三分の一のところに、彼は〔土で〕周囲をめぐる棒ないし帯を「汝は Aditi のための帯なり」という言葉をもって作る。31. 〔下から〕上方へ、四方すべてにわたって横縞に至るまで、〔土の〕さらに四本の棒を作る。4, 1. その上端に、彼は上方に向けて女性の乳房に似た〔土の部分〕を付ける。2. 壺には二つの乳房を、ある説によれば八つの乳房を付ける。〔前者の場合は四本の縞のうち一本の上にのみ、後者の場合はそのそれぞれの上に二つずつの乳房を付ける。〕

その他の規定は本質的なものではない。たとえば、土に堅固さを与えるために、瓦礫、竹の炭、殻等、また黒羚羊や山羊の毛、その他適当と見なされるものを混ぜるべきである(Kāt. 16, 3, 18;Hiraṇyakeśin 11, 1, 4)。さらに Hiraṇyakeśin は、複数の妻をもつ者については第一の妻が壺の製作を引き受けるべきこと、また縞をさらに二本加えることによって壺をより高くすることもできること等を規定している。

なお Taitt. S. IV, 1, 5 への注釈への言及を許されたい。それは 69 頁以下に Sūtra からの価値ある抜粋を与えている。というのも、それは ―― いずれにせよ他の資料にもとづいて ―― 器の首にある線、帯に似た線について語り、棒ないし隆起について語ってはいないからである。したがって彼によれば線状の文様が問題となることになろう。さらに彼は、

1. 儀軌文献の一般的意義。 9

Ukhā に二つの乳房を付けるという規定について、こう述べている。「女が二つの乳房をもつように、この Ukhā のためにも土で二つの乳房を作るべきである、等々」(Weber, Ind. Studien 13, 223 以下)。

ここで問題となり、しかもほとんど注目されてこなかったのは、最も原始的な形での壺の製作である。すなわち、いかなる補助具もなく、轆轤もなく、ある呪句に言われているように「技能をもって、両腕をもって、知識をもって」作られるのである(TS. 注釈 IV, 73 頁)。土を取り、それに人為的な仕方で陶片や毛によって堅固さを与え、それを幾重もの輪ないし冠状に積み重ねて器を作り、その首のまわりに隆起ないし線を、すなわち「紐文様」をめぐらせ、端に女性の乳房を付ける。壺は後に焼かれる。

言い換えれば、儀軌はここでわれわれを先史時代の陶器の工房へと導き、われわれの目の前に、先史時代の墓や灰塚から再び光のもとにもたらされるものに遠く似た器を生じさせるのである。

儀軌にはなお他の興味深い形の器も言及されている。山羊の乳頭に似た印を付けたもの、また唇の形をしたものである。ただしその製作法は記述されていない。なお重要なのは、Kāt. 26, 1, 15 以下;Āp. 15, 2. 3 に記述される Mahāvīra 壺の製作である。

火の祭壇の積み上げに際して与えられる規定のうち、他のいくつかもより一般的な関心を呼ぶ。導入の供犠の終わりに、祭壇建設のために定められた場所の耕起が行われる。この耕起は、あらゆる祝祭的な新築に際して導入儀式の不可欠の一部をなすものであるが(Weber, Ind. Studien 13, 243, 注)、一般的な慣習であったように思われる。というのも、それはイタリアの都市創建 ―― 創建者が新しい都市のために定められた区域のまわりに、牛一対をつないだ犂で溝を引く ―― を想起させるからである。

Usener はある講演で(Münchener Allg. Zeitg. 1893年6月30日、学芸付録第179号、1893年ウィーン文献学者会議論文)、その説明のために、しばらく前に Kamenka で行われた慣習を指摘した。そこでは、家畜の疫病が地区一帯に荒れ狂ったとき、住民たちが真夜中に厳粛な行列をなして、七人の娘が引き若者たちが操る犂の刃をもって村のまわりに溝を引いた。「民間信仰によれば、疫病はそれを越えることができない」というのである。われわれの場合には、Rakṣas その他の悪しき影響を遠ざけることが考えられよう。

建造物は、人間または動物がその基礎に埋められてはじめて堅固になるという信仰は、広く行き渡っている。インドの資料は A. Weber(Ind. Streifen I, 56 以下)が提示し、そこですでにインドの儀式の一般的意義を指摘している。

火の祭壇の積み上げに先立ち、年の最初の夜に五つの犠牲獣が殺された。人、馬、牛、羊、山羊であり、しかも人は覆いをかけた小屋のなかで殺された。五つすべてから頭が切り落とされ、山羊の胴は供犠の仕方で調理され、他の四つの体は水に投げ込まれた。その水から、後に祭壇の煉瓦のための土が取られる。それらが祭壇に堅固さを与えるのである。頭は最初の煉瓦層の上に据えられて塗り込められる。人の頭は乳のなかに入れて中央に、その右に牛と山羊の頭、左に馬と羊の頭が置かれる。

今日のインドにおいてもこれに対する信仰は保たれており、ドイツの信仰においても、少なくとも記憶のうちに保たれている。私には、このような建築供犠の記憶と、われわれのもとで敷居に結びついている俗信とが関連しているように思われる。フランケンでは新しい家に入るとき、敷居を踏んではならない

10 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

(Wuttke § 608)。というのも、それは「哀れな魂たちを痛ませる」からである。「アイスランドでは、屋敷の戸口の敷居に腰を下ろすと、亡霊の出現の危険にさらされる」(Liebrecht, zur Volkskunde 370;Winternitz 72)。

広く行き渡った共感呪術 ―― それによって人は他者、恋敵、敵などの意志・心情・生命に影響を及ぼし、その者を「呪う」―― のインドにおける一例として、敵を滅ぼすために一連の呪詛供犠に際して講じられる措置を挙げてよい。その目的は、すでに「矢と雷霆」「死と終末」「刃と頭割り」といった名称によって示唆されている(Ś. Śr. S. 14, 22, 4 以下等)。

ある種の Sāman が選ばれる。それは讃歌のうちに埋め込まれた、「Manyu」すなわち怒りに向けられた神々への呼びかけである。供犠の座は矢、鏃、投槍等で覆われる。横になっているときでも弓の弦を緩めない。矢筒で Āgnīdhra 火の炉が覆われる。葦(矢か?)が供犠の敷草の代わりをする。燃料と周囲に置く薪は Bādhaka 樹から取り、動物供犠のための供犠柱は Vibhīdaka 樹から取る。供犠のバターは病んだ牝牛の乳から取り、soma を搾るための皮は火葬の際に殺された牝牛(anustaraṇī)から取る。soma の調製に用いる Vasatīvarī 水には、墓地に流れ集まった水を加える。矢筒を満たし、弓に弦を張り、赤く染めた頭布を巻き、剣を帯びて、人は儀式を行う。

このような呪術が向けられた者は、「もはや十二日と生きることができない。これをもって自分に向けられた呪術に応酬する者に対しては、何人も力をもたない」。

2. インド・イラン時代。3. Ṛgveda の時代。 11

§§ 2. インド・イラン時代

インドの儀軌の歴史は、インド・イラン時代に始まる。すでにその時代に、一群の語が専門的な刻印を、あるいは少なくとも儀礼的な色彩を帯びており、それが部分的にインドとイランのそれぞれの個別的発展へと受け継がれた。

より本質的な一致は次のものである。atharvan — āthravan / aprī — āfrivacah / āhuti — āzūiti / uktha — ukhdha / uttānahasta — ustānazasta / sam + kar — hañkar(使役) / gāthā — gāthā / abhigara — aiwigar / dasma — dahma / namas — nemah / nivid — ni + vid(動詞)、使役 / prabhṛti — °fraberetī / praśasti — frasasti / barhiḥ str — baresma frastar / mantra — māthra / yajata — yazata / yajña — yasna / yajñiya — yesnya / ye yajāmahe — yazamaidē / surā — hura / soma — haoma / śrāvay — srāvay(frasrāvay) / savana — havana / su — hu / stīrṇabarhis — staretōbaresman / stu — stu / stotar — staotar / stoma — staoman / havana — zavana / hotar — zaotar / hotrā — zaothra / hvā — zbā。

これらすべての並行語において語の用法が厳密に同一であるわけではないとはいえ、atharvan、hotar、mantra、ye yajāmahe のようないくつかは、インド・イラン儀軌の共通の始まりを明瞭に示している。

これに加えて、āgnīdhra と ātarevakṣa との機能上の一致、および Avesta の āsnātare に帰せられる haoma 草の洗浄 ―― これはヴェーダにおいても、特定の祭官名に結びつくことなく再び現れる ―― がある。さらに、soma 祭祀における一連の類縁的な慣習、たとえば soma-haoma を乳と、また水と混ぜることなどがある(V. Myth. I, 221. 217)。

これらの一致のほかに、われわれはいくつかの対立をも見いだす。その起源と意義については議論があるが、Haug が最初に、それらは宗教的な争いから生じ、その争いがインド人とイラン人との分裂へ導いたのだという仮説によって説明した。それは、神話上の対立を別とすれば、kaviusij という語である。これらは Avesta では憎まれているのに対し、RV では古い詩人ないし供犠祭司の呼称として通用している(Geiger, Ostir. Kultur 466)。kavi のほかに Av. には karapan が敵対的な祭司の呼称として現れ、Haug はこれを、呼応する語を見いだせないまま、サンスクリットの kḷp(そこから儀軌を意味する kalpa が来る)と結びつけていた。

§§ 3. Ṛgveda の時代

最古の儀軌の満足すべき像は、まだ与えることができない。供犠の呼称は yajñaadhvara、また vidatha¹、vṛjāna²、diviṣṭi である。供犠は X, 52, 4 で pañcayāmatrivṛtsaptatantu と呼ばれる。

2, 36 のようないくつかの歌は、後代に知られる祭祀的過程についての儀礼的な語と暗示に富んでいるが、しばしば術語に変化が生じており、それは儀軌の長い歴史を、おそらくは家族ごとに術語が本来より多様であったことを示している。

いくつかの詩節における儀礼的活動の呼称の集積は、祭司の職能の多様性を証示している。たとえば 2, 12, 14 では sunvat, pacat, śaṃsat, śaśamāna が並んでいる。4, 51, 7 では ījāna, śaśamāna ukthaiḥ, stuvat, śaṃsat;6, 1, 10 では namobhiḥ, samidhā, havyaiḥ, vedī, gīrbhir, ukthaiḥ である。義務のうち手を用いる部分は骨の折れる仕事と見なされている。4, 2, 6 yas ta idhmaṃ jabharat siṣvidāno mūrdhānaṃ vā tatapate;12, 2 idhmaṃ yas te jabharac chaśramāṇaḥ

インドの供犠制度の

12 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

形成が RV の時代において最も明瞭に現れるのは、歌集に挙げられる祭司(ṛtvij)の数においてである。そこには個々の名のみならず、名の連続全体が含まれている。それは RV 1, 162, 5(hotādhvaryur āvayā agnimindho grāvagrābha uta śaṃstā suvipraḥ)および 2, 1, 2. 3(hotṛ, potṛ, neṣṭṛ, agnidh, praśāstṛ, adhvaryu [adhvarīy] brahman)その他の詩節から明らかである²。

挙げられたもののほかに、われわれはなお UpavaktṛUdagrābhaPurohitaSāmagā たち、Sāmanya たちに出会い、また 5, 43, 4 の暗示のうちに二人の śamitārau に出会う。

これらのヴェーダの名称が後代のものと少なからず異なることが明らかになる。最初に挙げた箇所の agnimindha には、RV でそのほかに三度言及される agnidh が対応し、これは後代の āgnīdhra である。upavaktṛ は後代の praśāstṛ すなわち maitrāvaruṇa のより古い名である。RV 9, 95, 5 iṣyan vācam upavakteva hotur から、彼が praiṣavaktṛ として hotṛ のために、ヴェーダ時代にも後代の maitrāvaruṇa と同様に機能していたことが明らかになる。grāvagrābhaudagrābha という名は後には用いられない。

祭司たちの誦するものは ṛcsāmanyajus に分かれる。ṛgbhiḥ śaṃsanti, yajurbhir yajanti, sāmabhiḥ stuvanti(Nir. 13, 7、pariśiṣṭa 1)。そしてそれらは hotṛ、adhvaryu、および sāman 歌者に配分される。

祭司をこの三群に分けることは RV においても認められ³、名そのものを別としても、術語 śaṃsukthagaigāyatrapragātha の選択から明らかになる。前者は本質的に Triṣṭubh 形式で現れる hotṛ の朗誦に関して用いられ、後者は Gāyatrī、Pragātha の韻律および ṛca 形式によって特徴づけられる sāman 歌者のテクストを顧慮して用いられる⁴。

第三の群である adhvaryu については、古い定型句の痕跡(pratigara)はあるものの、彼らに特に向けられた詩歌の痕跡は証示されていない⁵。彼らはむしろ供犠におけるあらゆる手の作業の担い手であり、suvāc ないし sujihva と呼ばれる hotṛ に対して suhasta と呼ばれる。

これらの列挙において hotṛ と adhvaryu と並んで立つ個々の名が、祭司群にどのように配分されるのかは明らかでない。2, 1, 3 では sāman 歌者はまったく挙げられていないが、同じ Maṇḍala の 2, 43 の(たとえ挿入されたものであるにせよ)讃歌は、「sāman 歌者のように両様の声で語り、Gāyatra を Traiṣṭubha のごとくに模する」鳥について語っており、したがって sāman 歌者を知っている。adhvaryu が複数で挙げられ、hotṛ の数が五ないし七まで示されるのであるから、われわれは次のように結論せざるをえない。すなわち、あの一覧は RV に知られたすべての祭司の数を含んではおらず、他の箇所で七人の hotṛ について語られるとき、それは 2, 1, 2 に挙げられた七という祭司の数(そのうちには adhvaryu も含まれる)を指しているとはかぎらない、と。

このような供犠の規模は、後代の Mīmāṃsaka の表現を用いれば、すでに Viniyoga および Prayogavidhi についての発達した知識を前提としている。

hotṛ たちが唱えた歌は sūkta と呼ばれる。それらは uktha へとまとめられ、後にはその呼称として śastra が入る。術語は ukthaṃ śaṃs であり(8, 13, 18 では dhā も)、決して stu ではない(Ludwig 6, 189)。詩節を分解すること(viharAit. Br. 6, 24, 5 以下)も知られていたように見える。それは Ludwig(Rgveda 3, 222 頁)が嘲弄的と解した箇所 6, 67, 10 から明らかである。

uktha のうちには nivid が埋め込まれる。これは mada⁶ とも、また puroruc とも呼ばれる(Ait. Br. 2, 39, 6 への注釈、274 頁)。われわれに知られた、Śāṅkh. に伝えられた、一部は韻文の Nivid の定型句のうち、いくつかは讃歌のうちに再び現れる。もっとも、Haug が主張したわれわれの Nivid の高い古さが論証されうるほどの範囲においてではないが、それでも論証可能な一致においてである。

Indra-Marut の Nivid 8, 16 ya īm [enaṃ] devā anvamadan | apturye vṛtraturye | śambarahatye, gaviṣṭau | は、Āśv. 7, 11, 25 等で Nivid-

3. Ṛgveda の時代。 13

dhānīyasūkta として通用する讃歌 RV 3, 47 への並行例のように見える。すなわち ye tvāhihatye maghavann avardhan ye śāmbare harivo ye gaviṣṭau | ye tvā nūnam anumadanti である。

8, 17 のいくつかの表現(purāṃ darmā, haryoḥ sthātā)は RV 3, 45 に再び現れる。8, 21 は Śat. Br. 14, 6, 9, 2(1076 頁)に引用される。8, 18 は一部 Maitr. S. 3, 12, 6;Taitt. S. 7, 5, 18 と等しい。prayājaanuyāja も知られている(10, 51, 8. 9)。

供犠の定型句としては、RV は adhvaryu への呼びかけ、すなわち朗誦の許可を与えるという呼びかけ(śaṃsāvādhvaryo)と、その応答のための術語 prati gṛṇīhi(3, 53, 3)を知っており、さらに讃歌 1, 139 の冒頭とされた定型句 astu śrauṣaṭ、Vauṣaṭ(vaṣaṭkṛta, avaṣaṭkṛta)および Svāhā の呼び声を知っている。praiṣa という呼称は purupraiṣa のうちに含まれている(Ludwig 3, XXIV)。

hotṛ の朗誦する活動、adhvaryu の奉仕する活動に対して、sāman 歌者の任務は、すでに RV において Sāman すなわち旋律の詠唱に存する。後代に知られる歌者名のうちでは、udgātṛ のみが 2, 43, 2 に現れる。彼と prastotṛ とに 8, 81, 5 で pra stoṣad upa gāsiṣat をもって暗示がなされている⁷。Sāmaveda の課業に属する Śakvarī は 7, 33, 4 等に挙げられている。

旋律については、後代の最も有名な二つ、Rathaṃtara と Bṛhat が、すでに RV に言及されている⁸。1, 62, 2 と 1, 173, 1 に挙げられる aṅgūṣya sāman ないし nabhanya sāman も、特定の旋律と解されうるかもしれない。後者の svarvat という呼称は、Rathaṃtara のように svar の語を含むテクストを指し示している(MTBr. 11, 10, 14. 15 を参照)。

おそらく 1, 143, 7 は dhī śukravarṇā という語をもって Śukrasāman を暗示しており(Lāṭ. 1, 6, 24;Kāt. 26, 3, 1;ISt. 3, 240 注a)、varṇa は単に Sāman の別名と見なすべきであろう(rathaṃtaravarṇa Lāṭ. 1, 12, 10;7, 11, 6;śākvaravarṇa Lāṭ. 10, 5, 4;Ārṣ. Br. 24, 160;66, 9 を参照)。

Ṛc と Sāman との相互関係は、RV 10, 90, 9;135, 4 によって、またおそらく 3, 39, 2 によっても⁹、すでに RV について確保されている。jaritāraḥ については 3, 12, 5 で nīthāvid であると言われる。3, 12, 5;4, 3, 16;7, 26, 2 から、nītha が一つの術語であることが明らかになる。それは Ait. Br. 2, 38(Ś. 7, 9, 1 等)において ukthāmadāni と並んで現れ、sāman 歌者の活動に関わるように見え、Sāyaṇa によっても二度 stotra と説明されている。

歌の一般的な名は stotrastoma(nu と、より稀には gai と結びつく。Ludwig 6, 189)、stubh である。stomauktha と並んで 1, 136, 5;2, 11, 3;3, 41, 4 等に立つ。uktha と並んで brahman が 4, 22, 1;6, 23, 1 等に立つ。

しかしこれらの術語の大部分はなお研究され、相互に限界づけられねばならない。個々の意味は一部なお不明である。たとえば 4, 3, 16 では nīthāni, ninyā vacāṃsi, nivacanā kāvyānimatibhiḥ および ukthaiḥ と並んで立っている。

hotṛ、udgātṛ、adhvaryu と異なり、brahman は場合に応じてのみそうなる。後代の儀軌になじみ深く、あらゆる供犠に際して行われるべき祭司の選定は、少なくとも hotṛ については RV に証示されうる(hotṛvūrya, vṛ)。ヴェーダの歌者たちが遍歴し、報酬と引き換えに祭司としての助力を提供したという痕跡にも事欠かない¹⁰。

後代におけるように大供犠の指導者たる brahman が存在したことは、RV からはこれまで証示されていない。もっとも儀軌の複雑さはそれを前提とさせ、おそらく yajñānī という表現もそれを指し示している。それが Purohita ないし brahman の義務であったという Geldner の想定には、Oldenberg¹¹ が反論している。というのも、RV においては brahman は祭司として、なお後代の Brāhmaṇācchaṃsin ―― 本質的に Indra のための朗誦を担当した ―― の位置を占めていたように見えるからである。

これらの場合に応じて生ずる職能に対して立つのが、すでに RV において目立つ、恒常的な ―― もっとも厳密に境界づけて認識することはできないが ―― Purohita の位である。彼はそこでもすでに王の宗教的助言者であったであろう。X, 98 から、われわれはある Purohita が

14 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

hotṛ に選ばれたことを知る。ここから、彼が祭司として供犠においても卓越した位置で協働しえたことが帰結する。「王の祭祀のあの最高の監督者は、場合に応じてこれらの祭司の一つの役割を引き受けることができたが、しかしこれらの役割のいずれも、彼にひとりでに、また必然的に帰したのではない」という Oldenberg の見解¹² が、事態に最もよく対応していると思われる。

§a)供犠の目的

供犠は、認識しうるかぎりでは、共同体のため、あるいは家族を超えたより大きな共同体のためにささげられるのではなく¹³、個人 ―― 勝利、富、子孫、長寿等を自らのために、あるいは敵にとっての災いを願う者 ―― の委託により、その者のためにささげられる。すなわち yajamāna ないし dāśvas のためである。

この呼称に代えて、繰り返し vivasvat の呼称が現れ¹⁴、これは祭主の尊称となった。それはちょうど、後代に祭司選定に際して個々の祭司が天上の範型と比較され、Āditya がたとえば神なる udgātṛ、Candramas が神なる brahman であるとされるのと同様である。

後代が dīkṣā において知るような聖別は RV には無縁であるが、7, 103, 1 では明らかにある誓戒について語られており、それはバラモンになぞらえられた蛙たちが守るものである。ここから、この語の RV におけるより特殊な意味も帰結する。われわれは後にそれを、より小規模な供犠の初めに引き受けられ終わりに放棄される誓戒の通常の呼称として見いだす(vratam acāriṣam)¹⁵。

§b)供犠の場所

儀軌と同様に、RV も特定の祭祀場所や神殿を知らない。Vedi¹⁶ は神々が座を占める場所であり、供犠の草が撒かれ、adhvaryu たちが扱う soma 石がそこに置かれる(5, 31, 12)。それは「四つの編み髪をもつ」処女と見なされる。Vedi の別の、すでに用いられなくなった名は dhiṣaṇā である¹⁷。

Vedi の前で(1, 170, 4)火が燃える。しかし Vedi 自体も火の座である(agni vedisad)。後代の二つの Vedi のうち、RV は一つのみを知っており、Ludwig 3, 364 によればおそらく後に uttaravedi の名をもつものである。

供犠の場所は Yajamāna の家のなかであったが、より一般的な呼称もある。たとえば 6, 11, 5 amyakṣi sadma sadane pṛthivyāḥ;3, 23, 4 vara ā pṛthivyā iḷāyās pade;3, 29, 4;10, 1, 6 iḷāyās pade nābhā pṛthivyāḥ である。

撒くために用いられる barhis、すなわち供犠の草は、RV によく知られている。それは abhijñu に刈り取られ(vṛñj, pravṛñj)、早朝(10, 110, 4)東方において刈られ、(8, 102, 14)tridhātu(1, 181, 8 tribarhis)、avṛtamasaṃdinam と呼ばれ、一定の仕方で敷かれ(10, 70, 4)、バターを塗られ、神々の座であり献供の場所である。

§c)火

火は、ヴェーダの家系の古い祖先たちの仕方で(atrivat, manuvat)、摩擦によって生ぜしめられる(5, 9, 3;10, 3;6, 48, 5)。Rakṣas が火が木から燃え立つのを妨げるとき、後代と同様に詩節が唱えられ、RV 5, 2 はこの目的のために作られたものである¹⁸。

火のための場所(yoni)が用意され、妻が夫を迎えるように火を迎える(4, 3, 2)。RV はすでに Agni のための三つの火の場所を知っているが(triṣu yoniṣu, triṣadhastha 1, 15, 4;2, 36, 4;5, 4, 8;11, 2 等)、名としては Gārhapatya 火のそれのみを知っている。

火において火が点じられ(1, 12, 6)、日に三度食を与えられ(4, 12, 1)、「供犠と歌と薪」をもって敬われる(6, 5, 5:yajñena samidhā ukthair arkebhiḥ)。

神々にささげられるバターの献供には sruc が用いられ(6, 11, 5 ayāmi srug ghṛtavatī)、また二つの darvi も用いられる(5, 6, 9)。神々のための食物のために火が周囲を運ばれ(4, 15, 1. 2. 3)、それは食物を神々に聖別する火の呪術である¹⁹。

供物としては乳、バター、穀粒、菓子が用いられる。動物供犠はすでに明確な特徴を示している。犠牲獣として RV は山羊、牡牛、牝牛、牡羊、馬を知っている²⁰。馬の供犠には歌 1, 162. 163;4, 38–40;3, 53 の一部²¹ が

3. Ṛgveda の時代。 15

捧げられており、そのうち最初の二つは発達した儀軌を示している。獣は黄金の覆いで覆われ、その前に一頭の牡山羊が引かれ、そのまわりを三度火の呪術がめぐらされる。慣習と規則とが強調される。「一人は Tvaṣṭṛ の馬の解体者であり、二人はそれを押さえる。それが慣習である。」「慣習に従って」肢体は解体される。獣は iṣṭa, vīta, abhigūrta, vaṣaṭkṛta でなければならない。

柱を削り、引いて来て、そのための台座(caṣāla)を作る者たちが言及され(第6詩節)、また馬が「煮えた」かどうかを見て、「よい香りがする、持って行け」と言う者たちが言及される(第12詩節)。まったく同様に後代の動物供犠においても、三度 śṛtaṃ haviḥ samitar と問い、これに対して śṛtam と答える。

「肉を乞う」者たち(第12詩節)とは、後代に犠牲獣の部分が規定された仕方で分配される祭司たちと解すべきである(Ait. Br. 7, 1;Āśv. Ś. S. 12, 9)。第16詩節 vāsa upastṛṇanty adhīvāsaṃ yā hiraṇyāny asmai には、Kāt. 20, 6, 11 とその注釈を比較すべきである。それは vāsasa āstaraṇaṃ, tasyopari adhīvāsasya tasyopari hiraṇyaṃ nidheyam と規定している²²。

人身供犠の痕跡も排除されない。詩節 X, 18, 8(puruṣamedha を見よ)のほかに、神々の神秘的な供犠を扱う puruṣasūkta も、私にはそれを指し示しているように思われる(10, 90, 6ᵃ. 15ᵈ)。

最も重要なのは soma 供犠である。汁の搾り、その濾過、水および乳との混合は、後代と多くの点で一致している。しかしここでは搾るのに石のみが用いられるのに対し、RV はなお臼による調製の痕跡を示しており、その古さはパールシー儀軌との一致によって証示される。

言語使用における変化もここに現れる。graha の器において飲料が神々にささげられる。graha のほかに RV は、後にまったく用いられなくなった camū をもつ。ヴェーダ時代は後代と同じく三度の搾り savana を知っており、これはまた sava(prātaḥsava)とも、あるいは Bloomfield によれば²³ prapitva(朝の搾り)および abhipitva(夕の搾り)とも呼ばれるが、これもまた後に廃れた術語である。

後代と同様に、すでに RV において韻律が配分されている ―― 確実な一例から見て取れるように ―― 。すなわち Gāyatrī は朝の搾りに、Triṣṭubh は昼の搾りに、Jagatī は夕の搾りに属する²⁴。

搾りが帰属する神々についても、多くの一致が示される。夕の Savana には三人の Ṛbhu が RV においても後代と同じく関与する。昼の搾りは Indra ないし Indra Marutvat に帰する。他方、朝の搾りは RV においてはまだそれほど複雑ではないように見える。

これらの Savana の固定した構成部分をなすのが、puroḍāśdhānā 等から成る副食(3, 52)であり、また Agni Sviṣṭakṛt に属する savanīyapuroḍāś である。

後代の多様な供犠は RV についてはまだ証示されていないが、kuṇḍapāyyatrikadrukaśunahotra(?)、atirātra(Bergaigne によれば tiroahnya も)²⁵ といった個々の名は現れる。後代の、きわめて種々の要素から組み合わされた Agniṣṭoma の構成部分のうちからも、Pravargya の儀式、すなわち土器における乳の煮沸が、古いものとして Garbe によって証示された²⁶。Dadhigharma も古い。

soma のほかに、蜜と Surā(大麦の飲料)とが、RV において自立した供犠の飲料として認められる。前者の使用は後代の儀軌ではほとんど後退している(それは Vājapeya における一つの Madhugraha に限られる)が、RV においても稀である²⁷。Sautrāmaṇī と Vājapeya において用いられる Surā は、RV では名指しで Aśvin たちと結びつき、とりわけ Indra sutrāman に捧げられ Sautrāmaṇī において用いられる歌 10, 131 に現れる²⁸。この歌のうちには、この供犠の基本的特徴が RV に知られたものとして証示されうる²⁹。

§d)

Ṛgveda がそのほかに固定した供犠の秩序をどこまで知っていたかは、なお確定を要する。それらが存在したことは、

16 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

神々の順序を細部にわたって作り上げ(I, 2. 3. 23 等、Vāyu、Indra-Vāyu、Mitrāvaruṇa 等)、Pra-ugaśastra として役立つ³⁰ 一連の歌から明らかになり、さらに Āprī の歌 ―― これは動物供犠のための種々の家族の prayāja から成る³¹ ―― から明らかになる。それは「儀軌の本来の相違が最終的な典礼のうちに残した最も重要な痕跡の一つ」である(Bergaigne)。

考慮に値するすべての問題にとって大きな意義をもつのは、惜しくも未完に終わったこのフランスの学者の著作であり、それはヴェーダ典礼の歴史への眼差しを提供する³²。それによれば、われわれが相手にしているのは原始的で統一的な一つの儀軌ではなく、種々の儀軌である。「はじめは区別されていた、類似してはいるが固有の諸儀軌が ―― それは Brāhmaṇa と Sūtra の比較的後代の学派に属するものではなく、原初の諸家族に属するものであるが ―― 、確定しえない、しかし必然的に最古の Brāhmaṇa より前の時代に、接近させられ融合されたことは明白であるように思われる。」

一定数の讃歌は、種々の場面において同一の、あるいは相継ぐ儀式において唱えられる定型句の集成にすぎないという。そこに属するのは、上述の Āprī の歌のほかに、1, 93 のような讃歌である。これは Jyotiṣṭoma において Agni-Soma に供される牡山羊のための Yājyā と Anuvākyā の集成である(26 頁)。3, 28. 52 は三度の搾りに際してささげられる菓子のための Anuvākyā を含み(20 頁)、10, 179 は Dadhigharma のためのそれを含む³³。

さらに Yūpa 讃歌 3, 8 ―― その詩節は個々に供犠柱の塗油等に用いられる ―― は、ヴェーダ典礼の古い構成部分をなす。5, 28、おそらく 3, 27 も、Sāmidhenī 詩節の古い集成である。

個々に用いられた詩節から組み合わされたこれらの讃歌のほかに、Pratipad-anucara の集成、Stotriya-anurūpa の集成が見いだされるという。5, 82, 1–3(一つの Triṣṭubh と二つの Gāyatrī)は Pratipad をなし、4–6 は Vaiśvadevaśastra の Anucara をなす。そして Pratipad の Anuṣṭubh による始まりは、すでに古い儀軌が、本質的な部分を Anuṣṭubh で始めるという後代の慣習を知っていたことを示すという。

さらに B.〔= Bergaigne〕は、すでに RV の時代に、後に用いられた目的のために定められていた Śastra 全体が存在したことを証示しようとする。たとえば 8, 6. 81. 82 は Atirātra のためのものである。1, 92 のような他の讃歌は、Prātaranuvāka における朗誦のための小さな歌の結合、いわゆる Auṣasa- および Āśvinakratu であり、これらはすでに Saṃhitā への編入の時点で、この目的のために定められていたという。7, 59, 9–11 の詩節の儀礼的な順序については、Weber, I. St. 10, 145 が指摘している。

連禱の結尾詩節、すなわち paridhānīyā もまた、ヴェーダ典礼の最古の時代に遡るであろう。同様に、後代の儀軌における Jagatī 朗誦の規則的な Triṣṭubh による終止もそうである³⁴。

重要なのは、韻律の配分についての B. の所見である。それによれば、Jyotiṣṭoma の儀軌は Vaiśvāmitra 家の古い典礼を範型とし、朝の搾りに際してはそのテクストの大部分をその集成から借用したことになる。これと際立った対照をなすのが Kaṇva 家の儀軌であり、そこでは Triṣṭubh と Jagatī はほとんどまったく用いられず、すべての搾りにおける hotṛ の朗誦にも Gāyatrī または Pragātha の詩節が用いられる。

Kaṇva 家と Vāmadeva 家のこの特性は、後代の典礼において Atirātra に確固たる場所を見いだしたように思われる。同様に、他の家族の一定の特性も、個々の Sattra の特定の日を特徴づけるのに役立ったように思われる。

最後に Brahmodya、すなわち大供犠の終わりにおける詩的な競技に言及すべきである。それについては 1, 164 のような種々の讃歌が証している³⁵。

§f)

dakṣiṇā ―― これは Amṛta が Deva たちに属し、河が海に属するように供犠に属する(Pār. 1, 16, 6)―― は、すでに RV において後代と同じ意義をもっている³⁶。dakṣiṇā を

3. Ṛgveda の時代。 17

(布施を)与える者(prayatadakṣiṇa)は讃えられる。そして、dakṣiṇāḥ を与える者たちは「高く天に立ち、馬を与える者は太陽と一つになり、黄金を与える者は不死を得るであろう」と約束するあの熱狂的な讃歌(10, 107)に対応するのが、讃歌に付された多くの dānastuti である。それらは maghavan たちの気前のよさを、たとえば Paṇi たちの征服者である Bṛbu の気前のよさを讃え³⁷、もっともその吝嗇を嘲りもする³⁸。iṣṭa「供犠されたもの」と pūrta「贈与されたもの」³⁹ とは、すでに RV において一つの dvandva 複合語をなしている。

Gṛhyasūtra の儀軌は、RV においては表に現れる機会がより少ない。大部の婚礼歌および葬送歌(ならびに 10, 151 において女神として呼びかけられる śraddhā)を別とすればそうである。10, 16, 10 に挙げられる pitṛyajña は Sūtra の祖霊供犠ではなく、葬送の祭儀すなわち pitṛmedha である⁴⁰。

しかしそれでも、これらの歌以外にも、Ṛksaṃhitā にまで及ぶ Gṛhya 慣習の痕跡をわれわれは見いだす。たとえば agāvya の歌 6, 28 は、ある説によれば(Āśv. GS. 2, 10, 7)牛が牧場から帰る際に用いられ(後述参照)、Ludwig によれば RV 5, 112 は牛を新しい囲いに追い入れる際に、また 10, 169, 1. 2 は牛を追い出す際に用いられる。畑を耕す際には(Āśv. 2, 10, 3. 4)RV 4, 57 が用いられる。その詩節は「畑の主」および Sunāsīrau、Sītā に向けられたものである(後述の「牛舎の慣習」および「農事に関するもの」の項を参照)。

俗信もまた、以下でより詳しく述べるように、Ṛgveda のうちにその領分をもっている。たとえば Sūrya は黄疸を追い払うべきものとされ(1, 50)、鳥は災厄を告げる(2, 42. 43)。5, 78, 7–9 は流産に対する呪句であり、Kāt. 25, 10, 5 はこれを特別な場合に用いさせている。

欄外下:Indo-arische Philologie. III. 2. ―― 2

18 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

§§ 4. 仏教文献におけるバラモンの供犠についての所見

供犠の歴史にとって価値がないとは思われないもう一つの道は、バラモン教およびその供犠に関わる仏教文献中のあらゆる言及を収集することである ―― これはこれまでまだ着手されていない仕事である。ここではいくつかの細目を示唆するにとどめよう。

Divyāvadāna 612 頁では、Agnisthaṇḍila(祭火壇)の設営(後述参照)とほとんど完全に一致する仕方で、Prakṛti の母について madhye gṛhāṅgaṇasya gomayenālepanaṃ kṛtvā valim ālipya darbhān saṃstīryāgniṃ prajvālya と言われている。

Kāt. 1, 2, 5. 6 以下に挙げられているような、供犠を yajati と juhoti とに区別すること(前者は yājyā と puronuvākyā とを伴い vauṣaṭ の呼び声をもってささげられる献供、後者は svāhā の呼び声のみをもってささげられる献供)は、仏教のテクストにも知られている。Mahāvagga 1, 22, 4:tasmā na yiṭṭhe na hute arañjiṃDīghanik. 2, 23(Sumaṅgalavilāsinī I, 165 頁。そこで Buddhaghosa は yiṭṭhaṃmahāyāgohutaṃpahenakasakkāro adhippeto と説明している)。

より小規模な homa の個々の構成要素と種類とを、われわれは Dīghanikāya 1, 1, 21 に、部分的にはわれわれの知る儀軌の用語と異なる術語をもって列挙されているのを見いだす。すなわち aggihoma, dabbihoma, thusahoma, kaṇahoma, taṇḍulahoma, sappihoma, telahoma, mukhahoma, lohitahoma(Sumaṅgalavil. I, 93 頁を参照)。また 5, 18 の末尾には sappitelanavanītadadhimadhuphāṇitena c'eva so yañño niṭṭhānam agamāsi とある。

Jaṭila たちは aggihutta のための準備を、Buddha の言葉を聞いて水に投げ捨てる(Mahāv. 1, 20, 19)。同書 6, 35, 8 では、agnihotra が一つの偈のなかで、Sāvitthī が最も高貴な韻律であるのと同じく、最も高貴な供犠と呼ばれている。saddhā, thālipāka, yañña, pahuṇaDīghanikāya 3, 1, 26 に言及されている。araṇi その他の祭具は Milindapañha 53 頁(Oldenberg, SBE. 20, 292)に見えるが、もっともそれは祭祀的な連関の外においてである。

大供犠(mahāyajña)を Itivuttaka 21 頁(III, 7)は次のように挙げる:assamedha, purisamedha, sammāpāsa, vājapeyya, niraggaḷaMahāvastu II, 237(405)では aśvamedhaṃ puruṣamedhaṃ somaprāsaṃ nirargaḍaṃ padumaṃ puṇḍarīkaṃ ca とある。

バラモンの犠牲獣その他の祭具の列挙を、われわれは Dīghanik. 5, 18 に、否定的な文脈において見いだす:tasmiṃ kho brāhmaṇa yaññe n'eva gāvo haññiṃsu na ajeḷakā haññiṃsu na kukkuṭasūkarā h., na vividhā pāṇā saṅghātaṃ āpajjiṃsu na rukkhā chijjiṃsu yūpatthāya na dabbhā lāyiṃsu barihisatthāya

供犠の定型句が Tevijjasutta(Dīgh. 13, 25)に挙げられている:Indam avhayāma, Somam avhayāma, Varuṇam a., Isānam a., Pajāpatiṃ a., Brahmam a., [Mahiddhiṃ a., Yamam a.]。いくつかの儀礼用語、たとえば anugāyanti, anubhāsanti, anuvācenti が同所 13, 13 にあり、yācanti, thomayanti pañjalikā が 13, 17 にある。Purohita の資質についての記述は Kūṭadanta Sutta(Dīghanikāya V, 17, 140 頁)が与えている。

この資料を精密に収集し、それをわれわれの Sūtra と比較することは、将来の課題である。

§§ 5. Sūtra の儀軌。所作と呪句

われわれが RV のうちにその痕跡を見いだす儀軌と、Brāhmaṇa および Sūtra 文献の儀軌とのあいだには、決して小さくない隔たりが横たわっている。RV が後になってはじめて多くの儀式と関係づけられ、それらの儀式が RV からそれに伴う詩節を借りてきたということは確かである。しかし、ここで問題なのがバラモンによる新しい儀式の発展・創案であるのか、それとも古い実践が後になって RV と関係づけられたということであるのかという問いは、個々の場合ごとにしか決定できないであろう。

供犠の所作と呪句とは密接に結びついている。Ait. Br. 2, 2, 33 は mantra が所作を指示することを要求しており、Paribhāṣā¹ は両者の時機と関係について多様な規定を与えているが、われわれの関心を引く困難には触れていない。これらの規定は、Sūtra の著者たちとその弟子たちの側の長い経験と考量から生じたものであろう。というのも、彼らにとって

4. 仏教文献におけるバラモンの供犠。5. Sūtra の儀軌。 19

ヴェーダのテクストの性質から生じた、所作の順序ならびに所作と mantra との関係についての疑問と困難は、小さなものではなかったからである²。

所作との関係に応じて、われわれは自らの立場から mantra を三つの群に分けることができる。1)呪句と所作とが合致しており、論議を要しないもの。2)詩節の儀軌における位置づけのほうが、Saṃhitā におけるそれよりも本源的であるもの。3)詩節が Saṃhitā から借用され、その本来の連関から引き離されて、本来それが意図されていたのではない祭祀所作に伴うものとして用いられているもの。

第二の群については、いくつかの例を私が集めておいた³。第三の群 ―― これは前の群よりも数が多い ―― については、詩節がまったく外面的な語呂の類似のゆえに選ばれており、それ自体としてはその箇所にまったく適合していないことを示す例が多く挙げられる⁴。Bhāndārkar はその理由として、儀軌の絶えざる「製造の過程(process of manufacture)」を、正当にも挙げている。

しかし、新しい儀礼の製造ばかりでなく、民間にすでに存在していた儀礼をバラモン教のうちに取り入れたこともまた、Saṃhitā から詩節を借用する原因となったであろう。それらの儀礼をバラモン化し、正統化するためである。おそらくこれらのヴェーダの呪句は、時として他の非バラモン的な定型句を駆逐したのであろう⁵。それはちょうど、われわれのもとで Lätare の日曜日に、より古い歌に代わってキリスト教の歌が入り込みはじめるのと同様である。

インドの慣習の多くは、久しく論証されてきたように、バラモン教よりも古く、したがってそれに伴う呪句よりも古い。それらが遅かれ早かれ儀軌のうちに取り込まれたとき、多くの呪句の人為的な適合が行われたのであろう。

呪句は、たとえそれが正しい位置を占めている場合でも、変改にさらされてきた。最も単純なものは ūha、すなわち数と性とに応じた変改であるが、これは ṛc の詩節については禁じられている⁶。あるいはまた、目的に応じて一つの語を別の語で置き換えることもある。たとえば、入門させられる学生が brāhmaṇa であるか、kṣatriya であるか、vaiśya であるかに応じて、というように⁷。

しかしより頻繁に現れるのは、とりわけ Gṛhya において、字句の変改ないし崩れである⁸。これは写本によるというよりも、yājñika たちの無知に帰せられるものである。それゆえ Āpastamba その人について、彼は自ら与えている呪句をもはや理解していなかったという考えが述べられ、また論証されもした⁹。いずれにせよ、これらの Gṛhya におけるヴェーダ本文の崩れは、インドにおけるヴェーダの歴史にとって意義のないものではあるまい。ヴェーダの儀軌呪句の歴史がどこまで学派の歴史であるか¹⁰ は、なおいっそう詳しく論ずべき事柄として残されている。

詩節は、それが Sūtra 作者自身の śākhā から借用されている場合には、冒頭語のみをもって引用される。そして Āśv.¹¹ は引用法を体系化して、pāda がまるごと引かれていれば詩節全体を、不完全に引かれていれば讃歌全体を、余分に引かれていれば三つの詩節を意味するものとした。他の者たちは、そのような原則をわずかな範囲でしか知らない。たとえば Āpastamba¹² や Śāṅkhāyana¹³ がそうであり、後者の不徹底さは、私が注釈の助けを借りて作成した詩節目録によって認めることができる。

欄外下:2*

20 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

§§ 6. Śrautasūtra と Gṛhyasūtra

訳者注:§6 の注(1–35)は、原本では §6 の末尾にあたる 24 頁の下段に一括して置かれている。したがって 20–23 頁には脚注欄がなく、注は 24 頁の項に訳出してある。

ヴェーダ儀軌の伝承は、Śrautasūtra と Gṛhyasūtra のうちに記録されている。われわれは、伝承にもとづいて自らの規則をまとめた、その著者ないし編纂者たちを知らない。それに結びつけられた名 ―― Āśvalāyana、Śāṅkhāyana その他 ―― は学派名ないし家系名であり、Gobhila、Pāraskara のようないくつかのものだけが、真の固有名という印象を与える。

Śrauta はその権威を śruti すなわち啓示(mantra と brāhmaṇa)から導き出す。それはより大きな供犠、すなわちその挙行に三つ以上の火を必要とする供犠を教え、それゆえ vaitānika とも呼ばれる(vitāno 'gnīnāṃ vistāraḥ, tatra bhavāni vaitānikāni bahvagnisādhyāni karmāṇi)¹。

それらは三つの祭官群、すなわち hotṛ、adhvaryu、udgātṛ に応じて区別され、そのそれぞれが固有の「綱要書」をもつ。またそれに応じて、これらの祭官群が配属されるヴェーダに応じても区別される。それらのいずれも、それ自体では供犠の統一的な像を与えない。というのは、各祭官群は他の祭官群の協働を必要とし、したがって各 Śrautasūtra もまた他の Śrautasūtra による補完を必要とするからである。供犠の所作の進行についての観念を得ようとするならば、この書き出された配役をひとつの劇へと構成することが必要である²。³

素材の叙述においては、文法家たちが従った原則 ―― すなわち一般に妥当する一定の規定を Paribhāṣā として全体または個々の章の前に置くという原則 ―― が、同様に、ただし程度を異にし、精密さも一様でない仕方で守られている⁴。それは Gṛhya におけるよりも Śrauta において、よりよく守られている。Gṛhya の運用は、Śrauta の運用ほどには学識と熟練をそなえた者を前提としなかったからである。Śrauta の確定には、訓練された Mīmāṃsaka たちが関わっていた。これらの Paribhāṣā は、個々の場合ごとに実際に適用されねばならない⁵。

śruti にもとづく Śrauta に対して、Gṛhyasūtra は Sāmayācārika とともに、いわゆる Smārtasūtra をなす。それらが smṛti(伝統)にもとづくからである⁶。

gṛhya という語は、家庭における、あるいは家庭の火において行われるべき日常生活の供犠所作に関わる。それらは家長に、あるいは彼が招いたバラモンに、また妻に、時には未婚者に課される。gṛhyakarmāṇi という名称のほかに、Gobhila と Khādira によって gṛhyakarmāni という形が証示されている⁷。〔訳者注:両形の相違は反舌音 ṇ の有無にある。〕

いくつかのテクストは、議論のある⁸ pākayajña あるいは gṛhyasthālīpākānāṃ karma という表現を選ぶ。これは「土器の供犠」を意味し、後になってはじめてすべての gṛhyakarma の呼称となったものである。

この場合、本質的には gṛhapati とその妻とが儀式の担い手であるから、Gṛhya 相互のあいだの差異は、素材の配列と叙述、および個々の儀式の付加ないし省略を別にすれば、原則として mantra の相違のうちにのみ存する。その mantra は、冒頭語をもって引用されているかぎりでは、祭主の属するヴェーダから借用されている。

いずれの Gṛhya も、同じ学派に属する Śrauta の知識を前提としている。それは Śrauta に直接続くものであり、またそれに言及もする⁹。Āśv. GS は uktāni vaitānikāni gṛhyāṇi vakṣyāmaḥ という語をもって始まるが、これは Śrauta において与えられた Paribhāṣāḥ を存続させ、Gṛhya についても妥当させることを目的としている。

Pāraskara は 1, 18, 1 で pūrvavat をもって Kāt. 4, 12, 21 以下を指示し、1, 1, 4 ではおそらく Kāt. 2, 3, 33 を指示している。Āpastamba GS は 1, 19;2, 5 で darśapūrṇamāsavat をもって Āp. Śr. S. 1, 11, 6;2, 12, 7 以下に記述された慣習を引用する。SGS は 1, 1, 13 で yajñopavītyādi ca sambhavat sarvaṃ kalpaikatvāt と言い、「儀軌の統一性のゆえに」Śr. S. 1, 1, 6 以下の規則が可能なかぎりなお妥当するとする。yathoktaṃ paryukṣaṇam をもって彼は 1, 3, 17 において Śr. S. 2, 6, 9–11 を指示し、anaḍukam ity uktam をもって 1, 16, 1;3, 1, 2 において Śr. S. 4, 16, 2 を指示する。Āśv. GS 2, 5, 3 は Āśv. Ś. S. 2, 6 以下を指示し、Baudh. GS は tat purastād vyākhyātam をもっておそらく自らの Śrauta を指示している¹⁰。

したがってここから Śrauta と Gṛhya の相互帰属が明らかになるとはいえ、

6. Śrautasūtra と Gṛhyasūtra。 21

両者は合わせても、インドの文法家の尺度で評価されうると主張し、同じ完成度の段階に立つような統一的著作をなしてはいない。そのことは、とりわけ Śrauta と Gṛhya における若干の教説の逐語的な繰り返しが示している。たとえば Pār. 2, 1, 10 = Kāt. 5, 2, 15;3, 12, 4. 5 = Kāt. 1, 1, 16. 15;2, 15, 5 = Kāt. 18, 4, 23 末;2, 15, 9 = Kāt. 18, 4, 25;Mān. GS 2, 2 = Mān. Śr. S. 1, 1, 2 である¹¹。

われわれはまた、同一の Sūtra の内部にも、繰り返し、挿入、矛盾を見いだす。それらは種々の改訂の跡を、また自派の追随者たちの側からの影響や他学派からの借用を示している¹²。それゆえわれわれは、本文と Vārttika とを、あるいは学派の本源的伝承と付加(それは時として Sūtra 作者自身によってすでに織り込まれている)とを区別しなければならない ―― 私が Śāṅkh. Śr. S. について試みたようにである¹³。

Gṛhyasūtra においては、Gobhila 3, 10, 3 が 3, 1, 1 の撤回ないし緩和である。3, 1, 1 では rātri が明らかに Aṣṭakā の神格として示されている。1, 5, 4 以下と 1, 5, 8 とは、同一主題(正しい新月日・満月日について)の改作である¹⁴。

Śāṅkh. は 4, 3 と 5, 9 の二度にわたって sapiṇḍīkaraṇa を扱う。Pār. 3, 3, 3 は三つの Aṣṭakā を apūpamāṃsaśāka をもって行うよう規定する。ところが 3, 3, 8 が中間のものについて、すでに述べられた gava に代えて別のものを立てるとすれば、そこには最初の規定の限定が存する。3, 3, 10 によれば、すべての Aṣṭakā の Anvaṣṭakya の祭においては左の脇腹と腿(すなわち Aṣṭakā の犠牲獣の残り、Gobh. 4, 1, 5)がささげられるべきものとされる。これは、すべての Aṣṭakā は肉をもってささげられるべきであるという Gobhila における Kautsa の見解を想起させるが、3, 3, 3 とは矛盾する。P. 3, 10, 38. 39 は、3, 10, 29. 30 への後代の、おそらく法典に遡る挿入であるように思われる¹⁵。Āśv. 4, 7 が 2, 5 よりも後の時代に由来することは、Caland¹⁶ が論証した¹⁷。

Sūtra の最初の成立は、祭官学派の伝承と民間の習俗との記録のうちに求められるべきであろう。前者はより多く Śrautasūtra について、後者はより多く Gṛhyasūtra について当てはまる。われわれが所有しているのは、ひとつの選択にすぎない。Āśv. GS は婚礼儀式の記述に際して、婚礼において遵守すべき地方と土地の種々の習俗があると述べ、自分は共通のものを述べようと思うと言っている(1, 7, 1. 2)。

われわれはまた、汲み取られた源泉を同時に示してくれる他の同種の言明をも見いだす。Āśv. は 1, 14, 8 で sīmantonnayana に際して「夫と子が生きている年老いたバラモンの女たち」の助言を指示し¹⁸、1, 17, 1. 18 では家族の習慣を指示している。Pāraskara は 1, 8, 12. 13 で、婚礼と葬儀においては村が基準となるという śruti の一言を引用する。2, 1, 4 では彼は maṅgala を指示している。そのほかにもちろん śiṣṭa たちの意見も一定の役割を果たしている(Gobh. 3, 3, 29;5, 38)。

ヴェーダの教師たちが権威として導入される。Gobhila は 1, 6, 1 で Mānatantavya を、3, 10, 6 で Kautsa を、7. 8 で Audgāhamāni、Gautama、Vārkakhaṇḍi を、3, 4, 34 で Kauhalīya たちを挙げている。Brāhmaṇa および Sūtra に挙げられる教師たちを、その言明の記載とともに集成したものは、まだ存在しない。

SGS. 2, 16, 1. 3 は Manu 5, 41;3, 103 と同じ詩節をもつ。別の箇所(2, 17, 2)では、彼は Śat. Br. 11, 5, 6, 2 に散文で置かれているのと同じ規定を śloka として与えている。他の箇所にも韻文の構成部分が指摘されうる¹⁹。

まるごとの著作が挙げられることもある。たとえば Gobh. 1, 5, 12 は満月日の確定に関わる Adhyāya を、3, 2, 7 は raurukibrāhmaṇa を挙げる。SGS. 2, 7, 27 の ṛṣisvādhyāya はおそらくここには属さない²⁰。

個々の名の言及よりも頻繁なのは、ity ekeeke をもって挙げられる、知られていないか、より詳しく名指されていない学派の見解である。これらの表現の意味を最初に研究したのは Knauer²¹ であり、彼はそこに eke manyanteeke kurvanti(等々)の対立を見いだしている。

22 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

同じ著者は Bühler に従って、Gṛhya の文体を、とりわけ itica という語の用法に関して検討し、それらがそこで「等々」を意味しうるという可能性を否定した²²。

Sūtra における若干の語の選択には、隠された論争も作用しているように見える。たとえば Āśv. GS 2, 4, 1 は Aṣṭakā についての規定に、そこではそれ自体自明である caturṇām を付け加えているが、これは注釈において、他学派で行われている Aṣṭakā を三つとする数え方への反駁として、正しく説明されているように思われる。

この資料と影響との多様性は、ある著者たちのもとでは、他の著者たちに見いだされる規定が欠けているのはなぜか、また現存するテクストが学派の伝統の内部でいかにして付加によって拡張されたかを説明する。

しかし他方で、Sūtra が細目においても文体においても ―― その文体は、ある者にあっては簡潔で Sūtra 本来のものであり、Hiraṇyakeśin のような他の者にあっては詳細で叙述の性格を帯びる ―― 大きな相違をもつにもかかわらず、全般においては同じ性質を示し、時には逐語的な一致を示すことも見逃せない。

これはたとえば Vṛṣotsarga において、Kāṭhaka と Pāraskara と Śāṅkh. とのあいだに現れる²³。Pār. 1, 3, 29. 30 = Ś. 2, 15, 2, 3;Pār. 1, 4, 1–5 = Ś. 1, 5, 1–5;Pār. 1, 8, 15 以下 = 1, 14, 13–15;Śāṅkh. 4, 2. 3 = Gobh. Śrāddhakalpa 3;Śāṅkh. 3, 14, 4 以下 = Āśv. GS 2, 4, 8–11 = Gobh. 4, 1, 20 以下。

Oldenberg はひとつの例によって²⁴、Pār. と Ś. とが失われたひとつの Sūtra から、しかもその冒頭部分を借用したことを示した。Gṛhya について共通の源泉に遡ることができるか、またそれが口伝であったか文書であったかという問いが提起されている²⁵。現存するもののひとつが他のものの源泉であったということは除外される。この問いを全般的に、あるいは部分的に肯定しうるかどうかは、Gṛhya のみならずすべての Sūtra が公刊されたのちにはじめて見通せるようになるであろう。

同一学派の内部では Śrauta と Gṛhya との境界は全般に確定しているが、一方の学派の Śrauta と他方の学派の Gṛhya とのあいだでは、この境界は種々の点で流動的である。

Śrauta が Yajamānakhaṇḍa をもち、そこで種々の儀式における祭主の関与が扱われるのと同様に、Gṛhya を大きな Yajamānakhaṇḍa と見なすこともできよう。そこには時としてより一般的な種類の規定が取り込まれる。

たとえば、āhitāgni についても anāhitāgni についても妥当する「客の迎え入れ」は、Ś. Śr. S. 4, 21, 1 以下にその場所を占めており(そのため Ś. GS 2, 15 は補足としてのみ現れる)、その冒頭は vaivāhyaśvaśura の代わりに立ち、snātakaḥ priyaḥ の語順が入れ替えられている点を除けば、Pār. 1, 3 とまったく一致する。

葬礼は Āśv. Gṛhya S. 4, 1, 1 以下と Ś. Śrauta S. 4, 14;Kāt. 25, 7;Lāṭ. 8, 8, 10 以下に見いだされるが、Ś. Gṛhya S. には見いだされず、P. 3, 10 には部分的にしか見いだされない(Āśv. GS. 4, 4, 2 以下は Lāṭ. 8, 8, 34 と類似する)。

祭官の選定に関わる祭主の義務は、Ś. Śr. S. 5, 1, 1 と Āśv. GS 1, 23, 1 とにある。前者は ārṣeyān yūno vṛṇīte の語をもって始まり、これに Āśv. GS 1, 23, 2 の yūnā ity ṛtvijo vṛṇīta ity eke が呼応している。

さらに Āśv. GS 1, 23, 5 の語 sadasyaṃ saptadaśaṃ kauṣītakinaḥ samāmananti sa karmaṇām upadraṣṭā bhavatīti は Āp. Śr. S. 10, 1, 10. 11 と逐語的に等しく、したがってこの文は共通の原典に由来するように思われる。ついでにそこから、この規定が Śāṅkh. Śr. には現れないことから、Kauṣītaki 派にはもうひとつ別の Śrautasūtra があったらしいということが明らかになる。

旅に出るときに火を自らのうちに、あるいは araṇi のうちに収めさせるという慣習は、Ś. Śr. 2, 17;Āśv. Śr. 3, 10, 4 以下;SGS 5, 1, 1 以下;Hir. 1, 26, 17 以下にある。

祭主に関する Gṛhya と Śrauta との境界のこの流動性は、Brāhmaṇa もまた散発的に Gṛhya 儀軌の対象を論じていることを ―― 通例はそれに携わらないにもかかわらず ―― 理解させてくれる。

6. Śrautasūtra と Gṛhyasūtra。 23

しかしそれが彼らに知られていたことは確かである。五つの mahāyajña は Śat. Br. 11, 5, 6, 3 に言及され、部分的には詳しく論じられている。Gṛhya で用いられる語 pākayajña もそこに見いだされる²⁶。

Upanayana は、Sauceya と Uddālaka との対話の機会に 11, 5, 4, 1 以下で詳しく描かれている²⁷。この神学的な論議はそこでは本来の場所を得ておらず、挿入であるように見える。しかしそこからやはり、神学者たちが Gṛhya 儀軌の対象にも注意を向けていたこと、そしてこの種の議論が Gṛhyabrāhmaṇa へとまとめられなかったのは、おそらく編集者たちの原則的な立場に帰せられるにすぎないということが帰結する。

同じ Brāhmaṇa のうちに、われわれは 14, 9, 4(Up.)で産婦への灌水を(22。Pār. 1, 16, 1 と比較せよ)、また āyuṣyaabhimarśana その他、新生児に関わる儀式が論じられているのを見いだす。また方位と結びつけられた呼気を男児に吹き込むこと(11, 8, 3, 6 以下。Pār. 1, 16, 10 以下)も見いだされる ―― すべて Gṛhya 儀軌の対象である。

Pār. 2, 7, 6 が引用する 11, 3, 3, 7 の章は托鉢に関わり、したがって同じく smṛti の対象である。14, 1, 1, 24 以下には Pār. 2, 8 を、12, 5, 2, 9 には Āśv. GS 4, 4, 2 以下を比較すべきである。

Āśv. GS 1, 1, 4 に挙げられた、最も簡素な供物をも功徳あるものと説明するバラモンの言葉 ―― これは Śat. Br. 11, 5, 6, 2;Śāṅkh. GS 2, 17 と併せ考えるべきものである ―― にも、同様に Gṛhyabrāhmaṇa の一片としての性格を認めることができよう。

ヴェーダ文献の全体的性格は、これまでいかなる年代確定をも不可能にしてきたが、それは Sūtra の年代についてもおおよそのことしか述べさせない。Max Müller, HASL 71 以下、および Goldstücker の反論 Pāṇini 68–80 を別とすれば、Speijer²⁸ を挙げるべきである。彼はそこで prakṣālāpayati という形を指摘した。それは Prākṛt 方言を想起させ、Pañcatantrautkalāpayati 等と比較されうるという。

Āśv. 3, 4, 4;Ś. 4, 10 に挙げられる語 sūtrabhāṣya とを Pāṇini と Mahābhāṣya に結びつけようとする彼の試みを、Weber²⁹ は「きわめて大胆」と評した。

Āpastamba と Baudh. に依拠する Prayoga から、紀元後 450–500 年の時代を指し示す Nakṣatra の配置が得られるという第三の指摘(10 頁)は、それ以上展開されていない。

別の側からは Liebich³⁰ と Oldenberg³¹ とが出発した。前者は Āśvalāyana と Pāraskara の言語使用を Pāṇini の教説の尺度で検討した。1000 の動詞形 ―― それを彼は、より古い Brāhmaṇa 文献の代表として Aitareyabr. から、より新しい Brāhmaṇa については Bṛhadāraṇyaka-up. から、Sūtra 文体については Āśv. と Pār. から、叙事詩については Bhagavadgītā から取っている ―― の助けを借りて、彼は次のことを論証した。すなわち「ヴェーダの Saṃhitā 以外の、文法から独立した文献のあらゆる時期を代表する選び出された言語標本のうちで、Pāṇini は二つの Gṛhyasūtra に時代的に最も近く立つ」のに対し、Ait. Br. と Bṛhadār. up. は「確実に Pāṇini 以前」であるということである。

Oldenberg は散文からではなく韻文から出発する。供犠の所作に伴う詩節は(それが RV のより古い部分から借用され、そこでその連関から引き離されたものでないかぎり)、ある韻律で書かれている。それはある特徴によって、最古のヴェーダ詩歌の韻律からも仏教および叙事詩の韻律からも本質的に区別され、Anuṣṭubh 韻律の発展における過渡期に属する。

Anuṣṭubh の第一 pāda は古い時代には通例 ⏑–⏑× で終わるのに対し、後の時代には ⏑––× で終わるが、過渡期には両様の終止とその他あらゆる可能な組み合わせが現れる。このことを示すのが、もっぱら Gṛhya の目的に用いられる詩節 RV 10, 85 であり、また同様に、Saṃhitā には見いだされない Gṛhya 儀軌の詩節、たとえば ŚG. 1, 19,

24 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

5. 6 である。これらの詩節から区別されるべきなのが yajñagāthā であり、これは与えられた規定を裏づけるためにのみ引かれるもので、後代の śloka とはもはやわずかしか、しかしなお若干の場合には異なっている。

このような一般的観点は個々の Sūtra について妥当するのであって、この文献類型全体について妥当するのではない。というのは、Sūtra が同時に成立したということは論証されていないと思われるからである。

この点で大きな意義をもつのが、Āpastamba Dharmasūtra の言語に関する Bühler の研究である³²。われわれはそこに「古風な語と語形 ―― それはヴェーダ文献に現れるか、あるいはヴェーダ的に形成されている ―― 、Pāṇini が特別に規定しているが Āpastamba 以外には見いだされない古い語と語形、さらにヴェーダの言語使用および Pāṇini の規則に反し、時に Prākṛt 方言にその類例を見いだす語と語形、最後に文構成における不規則性」を見いだす。

そのかなりの部分を、Böhtlingk³³ に従って写本の劣化やその他の影響に帰することも可能ではあろうが、しかし現象の多さは、Āp. が Pāṇini 以前に、あるいは少なくともその文法が一般に承認された権威となる以前に生きていたにちがいないという Bühler の見解を支持している。

ここで Dharmasūtra についてなされた観察は、Śrautasūtra と Gṛhyasūtra についても確証された。われわれはここに、たとえば古典語では稀な絶対分詞(punarādāyam)の例、前置詞と動詞の分離(tmesis)、処格 mūrdhan、および用例のない語や目立った用法の語の多数を見いだす³⁴。

Hiraṇyakeśin の言語もまた、Kirste³⁵ が指摘した若干の不規則性を示すが、それらは同じだけの価値をもつとは思われない。Āpastamba と Baudh. その他との相互関係については § 7 で述べる。

§§ 7. 個々の Sūtra

Ṛgveda には Āśvalāyana¹ と Śāṅkhāyana² の Sūtra が属する。両者は Caraṇavyūha のすべての写本に見いだされるわけではなく、

7. 個々の Sūtra。 25

Devīpurāṇa その他もそれらを知らない³。Śāṅkhāyana 学派は Mahārṇava の一詩節によれば北グジャラートにその所在地をもつのに対し⁴、Āśvalāyana たちは Tuṅgā、Kṛṣṇā、Godāvarī、Sahya 山脈、および Āndhra の地によって画されている。

伝承によれば、Āśv. Sūtra は Bāṣkalaśākhā と Śākalaśākhā との信奉者のための Sūtra であった⁵。両者は(讃歌 yam ṛtvijo 8, 58 の挿入ないし省略を別とすれば)結尾の詩節 tac chaṃ yorsamānī va ākūtiḥ とによって区別された。SGS. 4, 5, 9 で第一の詩節が規定されていることから、Śāṅkh. は Sūtra として Bāṣkalaśākhā に属していたと推論されてきた。

Bhāndārkar は、Āśv. も Śāṅkh. も Sūtraśākhā にすぎず、特定の Saṃhitā に属することなく、Śākala 派のためにも Bāṣkala 派のためにも定められていたことを論証している。Bāṣkala 派の Saṃhitā は絶えたと思われるので、両者はわれわれの Śākalaśākhā にのみ関係することになる。この Śākalaśākhā には、Saṃjñāna 讃歌が、したがってまた tac chaṃ yor の詩節が、おそらく以前には同様に属していたのであろう。

この問題のさらなる考察のためには、Śāṅkh. Śr. S. における個々の詩節の pratīka 引用のうち、われわれの Śākala 派の Saṃhitā に見いだされないもの⁶ が考慮に入る。というのも、Bhāndārkar の議論はもっぱら Gṛhya に結びついているからである。

両 Sūtra のうちでは、Ś. のほうがより高い古さを主張しうるであろう。それはいくつかの章(第2部)における Brāhmaṇa 風の文体のゆえでもあり⁷、またその内容のゆえでもある⁸。このテクストの研究は、後代には衰退したように見える⁹。Weber が最初に示したように¹⁰、それは Kauṣītaki- ないし Śāṅkhāyanabrāhmaṇa と密接な関係に立つ。

その著者の名は、たいてい家系名で呼ばれるが、Suyajña であったように思われる¹¹。Ś. Śr. は 18 巻から成り、そのうち最後の 2 巻は後代の付加であるが、より新しいものと見なすことはほとんどできず、Kauṣītaki-Ār. の最初の 2 巻に対応する¹²。それらは Mahāvrata の日の祭を扱っている¹³。

Varadattasuta Ānartīya が I–XVI に対して著した Bhāṣya ―― 彼自身が奥書において「新しい」と称しているもの ―― は「lekhanādinā(書写等によって)」損なわれており、失われた「akṣara」は Dāsaśarman Muñjasūnu によって補われた¹⁴。個々の、もっとも小さな章については、そもそも注釈が存在しない。

この Bhāṣya は Kāt. への注釈および Paddhati 383 頁;4, 12, 9 および 8, 2, 6 に引用されている。それ自身は、私が序文で挙げたもの¹⁵ のほかに、次を引用している:Agnisvāmin 10, 12, 6;12, 2, 17;Gṛhya(1, 2, 29)、Caraka 派、Taittirīya 派、Bāṣkala 派(1, 2, 5)、Vaiyākaraṇa 派、Śikṣā(1, 2, 2)、ある Paddhati(3, 14, 20)。また 13, 14, 7 では Ś. 18, 24, 30 自体を「āraṇyaka」として引用している。Śrauta への Paddhati については Weber が論じている¹⁶(後述 39 頁参照)。

SGS は Śrauta と合わせてまったく統一的な叙述をなしてはいない¹⁷。それは 6 つの Adhyāya から成り、そのうち 1–4 のみが基礎部分に数えられうる¹⁸。しかしこの最初の 4 つの内部にも、挿入が認められる¹⁹。

Ś. に続く文献については Oldenberg が前掲書で論じている。その注釈者 Nārāyaṇa は紀元 1538 年に生きていた²⁰。Śāṅkhāyana に近い関係にあるのが、同じく Kauṣītaki 学派に属する Sāmbavyagṛhyam であり、これは前者と「決して同一ではない」が、しかし「叙述の素材においても形式においても、はるかに大部分をそれから借用している」。それは Ś. の最後の 2 巻を知らず、また Ś. 3 および 4, 5 以下に記述された一連の儀式をも知らないが、piṇḍapitṛyajña についての独自の一巻をもっている²¹。

Ś. が Kauṣītakibr. と関係に立つのと同様に、Āśv. Śr. は Aitareya と関係に立つ²²。Ṣaḍguruśiṣya によれば Āśv. は Śaunaka の弟子であり²³、Śaunaka は弟子のために自らの著作を破棄した。Śrauta における彼の見解への二度の言及のほかに、Gṛhya には彼を引用する śloka が第4 Adhyāya(7, 16)にあり、それは śaunako 'bravīt という語で終わっている。

26 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

しばしば言及される Śaunakagṛhya は、Caland²⁴ によれば、なお Hemādri の手もとにあったらしい。Hemādri は「śaunakāśvalāyanau」を引用している。

Bühler は Śaunaka Smṛti ―― その記述は Prayoga にきわめてよく似ている ―― に関して、Āśv. と同様にそれもまた garbhālambhanaanavalambhana(他の Sūtra には知られていない)を含むことに言及している²⁵。Śaunaka からの引用は、Burnell によれば Ṣaḍguruśiṣya の Abhyudayaprada に見いだされる²⁶。

Āśv. 3, 4, 4 が挙げる教師たちのうちには、Śaunaka のほかに(Ś. 4, 10, 3 と同じく)Atharva の教師 Sumantu もいる²⁷。Āśv. のその他の権威としては Āśmarathya が挙げられる。彼は Kāśikā 4, 3, 105 において Purāṇakalpa たちに対する新しい者として言及されており、また Pāṇini に引かれる Taulvali も挙げられる。他方その同じ Kāśikā は、古い Kalpa の代表者として Paiṅgin と Aruṇaparājin とを挙げている。

Āśv. Śr.²⁸ には Siddhāntin²⁹ が注釈し、また Narasiṃha の子 Nārāyaṇa Gārgya が注釈した。後者は自らの Vṛtti を、Bhagavat Devasvāmin の大部の Bhāṣya にもとづいて著した³⁰。

Nārāyaṇa は、Āśv. のもうひとりの注釈者 Bhavanāga とともに、Trikāṇḍamaṇḍana Bhāskara Miśra の Āpastambadhvanitārthakārikā に引用されている。この Bhāskara Miśra は 13 世紀後半以前に生きていたにちがいない³¹。

N. が用いた Devasvāmin は svāmin という称号をもつが、これは 13 世紀以後にはいかなる著者も帯びなかったと思われ、一定の時期にのみ mīmāṃsaka たちのあいだで用いられていたように見える³²。

Jaimini の Mīmāṃsāsūtra への Bhāṣya の著者 Śabarasvāmin について、Bh.〔= Bhāndārkar〕は、彼が少なくとも 7 世紀以前に、おそらくはさらに二、三世紀早くに生きていたにちがいないこと、そして同じことが「probably(おそらく)」Bhāṣya の著者たちの若干、すなわち Agnisvāmin、Devasvāmin、Bhavasvāmin についても妥当することを示している。

この見解は次の事実によって支えられる。すなわち、Gṛhya への注釈者であり、同じく Devasvāmin に依拠する Divākara の子 Naidhruva Nārāyaṇa が、Bhaṭṭa Kumārilasvāmin の Āśvalāyanakārikā に引用されている³³ こと、そしてこの Kumārilasvāmin を Burnell³⁴ と Bühler とは、かの著名な Mīmāṃsaka K.(およそ 650–700 年頃)と同定していることである。

したがって Devasvāmin は N. より古くなければならず、しかも N. のもとでは Bhagavat という称号のゆえにすでに半ば神話的な人物と見なされているのであるから、彼については 400–500 年という年代が「very moderate(きわめて控えめ)」である。

同じくこの Kārikā には、Āśv. の Gṛhyasūtra への注釈者 Jayanta が挙げられている³⁵。彼は Abhinanda の父、Kānta の子であり、Kalyāṇasvāmin の孫である(Anantadeva は Saṃskārakaustubha において彼を Vṛttikāra と呼んでいる)³⁶。Abhinanda は紀元 830–850 年より後には生きえないから³⁵〔訳者注:原本はここにも 35 を掲げるが、直前の注番号と重複しており誤植であろう〕、Jayantavṛtti は Āśv. への最古の知られた注釈のひとつであろう³⁷。

7. 個々の Sūtra。 27

28 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

Vāsudeva の Paddhati がある。これは Raghunandana、Kāmadeva、Rāmakṛṣṇa に引用されている。また Gopāla の子 Kāmadeva のそれがある¹¹。彼はその序詩において、Karka の Bhāṣya、Vāsudeva の Paddhati、Harihara の Bhāṣya、Reṇuka の Kārikā を自らの典拠として挙げている。「Reṇuka、また Reṇukārya、Reṇu、Reṇudīkṣita とも呼ばれ、Maheśa の子、Someśvara Dīkṣita の孫」は¹²、1266 年に Sūtra の韻文による改作を著した。

白 Yajurveda のもう一つの知られた Sūtra、すなわち Baijavāpa¹³ ―― これは見たところ Śrautasūtra と Gṛhyasūtra とから成っていた ―― については、Caland が Hemādri から集めたいくつかの覚え書きを最初に与えた。Śaṅkhalikhitasūtra とその白 Yajurveda への帰属の可能性については、同じ学者が論じ¹⁴、若干の断片をまとめている。Maunasūtra を Peterson が言及している¹⁵。

Mādhyandina 学派の Śrāddha 資料は Caland が前掲書において Kātyāyanaśrāddhakalpa のテクスト(245 頁)を加えて論じており、Gobhila と Kāt. との多岐にわたる一致を指摘して、後者のより高い古さを主張している。

Āpastambakalpasūtra¹ は 30 の Praśna から成り²、そのうち 1–14 は Śrauta 供犠を、25 は一般的解釈規則、pravarakhaṇḍa 等を、26 は mantrapāṭha すなわち Gṛhya 儀礼に用いられる呪句と定型句を、27 は Gṛhya を、28. 29 は Dharma を、30 は Śulva-

7. 個々の Sūtra。 29

sūtra(Vedi すなわち祭壇等の構築のための規則)を教える。

Āp. は南インドに、おそらく Godāvarī と Kṛṣṇā とのあいだの地に属し³、その学派は後代の「Caraṇa」の一つをなした。それらはヴェーダの Mantra や Brāhmaṇa テクストの特別な啓示を要求しない。

おそらく次の事情も考慮に値しよう。すなわち、Sīmantonnayana に際して、居住する河の名を挙げるべきものとされ、Gṛhya はたいてい一般的な記載にとどまるのに対し、Hir. 2, 1, 3 は Gaṅgā を、Āp. は Mantrapāṭha⁴ において Yamunā を挙げ、GS. 14, 5 はその際に歌われる詩節の一つを Śālva 族の民のあいだで用いられるものとして挙げている。

Āp. は ekeeke samāmanantiity uktam をもってしばしば他説に言及し、(これまで印刷されたテクストにおいて)しばしば Vājasaneyin 派を引用する。すなわち bahvṛcas 6, 27, 2;13, 24, 10;bahvṛcabrāhmaṇa 6, 13, 9;15. 16;31, 13;8, 5, 2;11, 2, 10;12, 17, 2;chandogabrāhmaṇa 10, 1, 3;2, 5;paiṅgāyanibrāhmaṇa 5, 14. 18;29, 4;śailālibrāhmaṇa 6, 4, 7;sātyāyanibrāhmaṇa 5, 23, 3;sātyāyanakam 10, 12, 13. 14;Kauṣītakin 派 10, 1, 10。個々の教師では Āśmarathya と Ālekhana がしばしば挙げられる(9, 4. 7. 9;6, 3;8, 3;10, 12;16, 6 等)。

Kaṇva または Kaśyapa に施すことを彼は禁じ(13, 7, 5)、Bhārgava が 9, 15. 19 では食する者たちのうちにいなければならない。Mahendra 供犠に関する一定の慣習が 1, 14, 10 に言及され、Jamadagni 家のそれが 6, 8, 2 に、Śakti Śāṅkṛti および Gāthin Kauśika の Sāman が 5, 10, 11 に言及される。Jyotiṣṭoma において Vasiṣṭha が brahman であるべきことを彼は 14, 8, 1 で述べている。Niṣāda たち(niṣādasthapati)を彼は 9, 14, 12 に挙げている。

注釈者 Rudradatta の文献知識はきわめて広範であり、Āśvalāyana、Kāt.、Baudhāyana(śrāddham iha baudh. 5, 3, 1、詩節 12, 24, 13)を別としても、Bhāradvāja、Satyāṣāḍha、Hir.、Śālīki(6, 2, 12)、Kātyāyana の chandogapariśiṣṭa(6, 27, 5)等を挙げ、また śāṇḍilyagṛhyasūtra(9, 11, 21)にも言及している⁵。

Rudradatta のほかに、Āp. は Karpardisvāmin、Gurudevasvāmin、Dhūrtasvāmin ―― その Bhāṣya に対してさらに Kauśika(異読 Kāśika)Rāma の Vṛtti が存在する ―― といった他の者たちによっても注釈されている(Burnell, catal. of a coll. 21)。

Gṛhya は Mantrapāṭha(Praśna 26)―― そこでは所作に伴う Mantra が特別な集成にまとめられている(Gobhila における Mantrabrāhmaṇa と同様)―― と、本来の Gṛhyasūtra(Praśna 27)とに分かれる。後者はあの集成を前提とし、uttareṇauttareṇa yajuṣā をもってそれを参照する⁶。

Gṛhya は Hir. の場合と同じく Kalpa 全体の一部をなし、他の Praśna の言語的特性を分けもっている。それには Haradatta の anākulā vṛtti と Sudarśanārya の tātparyadarśana という注釈が付されており、それらは Winternitz によって抄録が公刊されている。

その他の文献として W.〔= Winternitz〕は、Tālavṛntanivāsin の āpastambīyagṛhyaprayoga ―― Sudarśanācārya にきわめて近く、一部逐語的に一致する ―― を、さらに Candracūḍa の pākayajñanirṇaya ―― そこには Haradatta、Rudradatta、Sudarśana が引用される ―― を記載している。

Āp. から分岐したのが、Sahyādri と南西の海とのあいだに定住する Hiraṇyakeśin Satyāṣāḍha の学派である⁷。Kalpasūtra 全体は⁸ 29 Praśna から成る。I, 1:paribhāṣā;I, 2 — II, 6:darśapūrṇamāsau;II, 7:piṇḍapitṛyajña;8:iṣṭipaśubandhānāṃ brahmatvam;III, 1:paribhāṣā;2:agnīn ādhāsyamānasya;IV:paśu;V:cāturmāsya;VI:yājamāna;VII. VIII. IX, 6:agniṣṭoma;IX, 7:ukthya, ṣoḍaśin 等;X:agniṣṭomasya yājamānam;7:caturhotṛ 等;8:saṃsthānāṃ brahmatvam;XI. XII:Agni;XII, 8:kāmya-agni;XIII, 1. 2:vājapeya;3 以下:rājasūyasautrāmaṇī;XIV, 1–5:aśvamedha;6:puruṣamedha;XV:prāyaścitta;XVI. XVII. XVIII:dvādaśāha, gavāmayana 等;XIX. XX:Gṛhya⁹;XXI, 1. 2:hautram(darśapūrṇamāsayoḥ);3:pravara;XXII, 1:kāmya-paśu;2:kāmya-iṣṭi

30 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

(たとえば kārīrī-iṣṭi);XXIII:kaukilī sautrāmaṇī;3:sāvitraṃ cinvīta;4:sava(gosava 等);XXIV:pravargya;XXV:vihārayogān vyākhyāsyāmaḥ;XXVI. XXVII:dharma;XXVIII. XXIX:paitṛmedhikaṃ dahanam, yamayajña, pitṛmedha 等。

Hir. への注釈としては、Mahādeva の prayogaratnamālāprayogavaijayantī ―― 互いに補い合うように見えるが¹⁰、不完全である ―― を挙げるべきである。H. にはほとんど注釈が付されなかった。Hoṣanikarṇāṭakavāñceśvara はその Vyākhyā¹¹ ―― Śaka 1738 年に書かれた¹² ―― において、この Sūtra は「kaiś cit purātanaiḥ(いかなる古人によっても)」注釈されなかったと述べている。

Gṛhya の釈義者は Mātṛdatta であり、彼は 16 世紀末以前に生きていたであろう¹³。Mātṛdattaprayoga なるものは Vāñceśvara によって斥けられている¹⁴。

二つの Kalpa については、Dharma のほかに Gṛhyasūtra が互いにより詳しく比較されている¹⁵。Āp. が Vivāha をもって始まり、H. が Upanayana をもって始まるにもかかわらず、後者は(Dharmasūtra と同じく)Āp. への多岐にわたる依拠と、Āp. の言語的不規則性と特性が H. に再び見いだされるほどの一致とを示している。

H. はしばしば Āp. と同じことを、ただ別の言葉で述べており、Āp. のほとんど過度な簡潔さに対して、彼はきわめて冗長であるため、時に後者の注釈を前にしているのかと思われるほどである。両者のあいだの最も本質的な外面的相違は、H. が供犠の呪句と所作とを合わせて与えるのに対し、Āp. は前者を Mantrapāṭha として分離している点にある。

Śrautasūtra のあいだにも、同じく多岐にわたる一致が認められる¹⁶。たとえば Āp. 10, 21, 1. 3. 4. 9. 11 は、小さな相違を伴いつつ H. 7, 2, 1 以下に逐語的に再び現れる。

両者よりも古いのは、少なくとも Bühler の結論によれば、Baudhāyanakalpasūtra である。その完全な写本は存在しないように見える¹⁷。Haug の写本は種々の部分の種々の写本の合綴である。第I Praśna:dārśapūrṇamāsa 供犠;II:agnyādheya;III:punarādhāna;IV:paśubandha;V:cāturmāsya;(VI–)X:agniṣṭoma¹⁸;XI:vājapeya;XXI:sāvitrādi āruṇaketukāntapañcakāṭhakacayana;XXII–XXIV:karmānta

karmānta と呼ばれ、他の Sūtra には見られない部分は、供犠の一般的な技術的問題を論じている。たとえば kiyatyaḥ pākayajñasaṃsthāḥ kiyatyo haviryajñasaṃsthāḥ(I, 4 ないし XXI, 4)、あるいは kathaṃ u khalv etaj jānīyād iyaṃ pūrvā tatir iyam uttareti | yā prakṛtiḥ sā pūrvā tatir atha yad vidadhāti sottarā tatir | agnyādheyaṃ pūrvā tatiḥ sarve kāmyā agnaya uttarā tatiḥ(1, 5 または XXI, 5)である。

第二の相違は、Baudhāyana、Śālīki、Maudgalya、Aupamanyava の異なる見解を対置する Dvaidhasūtra である。Eggeling Nr. 435 に記載された sarvatomukhaprayoga は、議論の仕方において Dvaidhasūtra に似ており、そのようなものの一部でありうる。

Baudh. には Bhavasvāmin が注釈しており、Burnell¹⁹ は彼が Bhaṭṭa Bhāskara に引用されていることから、8 世紀に置いている²⁰。彼に依拠するのが Keśava の Prayogasāra である。他の注釈者のうちでは Sāyaṇa が際立っている²¹。

Āp. や Hir. と同じく、Baudh. も黒 Yajurveda のある教師の著作であって、その教師は「Kalpa のあらゆる下位区分について手引書を著し、今日まで存続すると言われる Sūtracaraṇa を創始した」。それはおそらく南方の Telingana および Karnataka のバラモンのあいだにおいてのみである²²。B. はまた Kāṇva という添え名をも受けており、それによって Kaṇvagotra に配される。

この学派の Gṛhyasūtra についても、これまでわずかな覚え書きしか知られていない。Burnell(Tanjore Cat.)によれば、それは 4 Praśna から成る。内容の記載は Bühler²³ に、また最初の二つの Praśna についてより精確には Winternitz²⁴ に負う。

Śrāddha 儀式に関わる章、すなわち ābhyudayikamekoddiṣṭamsapiṇḍīkaraṇa 等は、Mantra とともに Caland²⁵ に見いだされる。彼はこの学派の Sapiṇḍīkaraṇa 儀礼を

7. 個々の Sūtra。 31

Bhāradvāja から本来借用されたものと考えている²⁶。

Bhāradvājakalpasūtra ―― これもこれまで写本によってのみ知られている²⁷ ―― は、前述のものと本質的に区別されず、同じ素材の別の編集にすぎないように見える。

Winternitz は四つの Gṛhyasūtra について、Āp.、Hir.、Baudh.、Bhār. が互いに密接な連関に立ち、この種の他のいかなる著作よりも近く相属することを示した²⁸。同じことは、私が研究したこれらの Śrautasūtra の darśapūrṇamāsa-iṣṭi についての章からも明らかになる。そこでは Bhāradvāja がしばしば逐語的に、あるいは配列の変更のみによって、Āp. と一致している。

Āp. と Hir. の pitṛmedha のあいだの密接な関係については Burnell が指摘している²⁹。Winternitz³⁰ と Caland とが Śrāddha 儀軌について行った観察、すなわち Āp.、Bhār.、Hir. が互いに Baudhāyana とよりも近く親縁であるという観察は、Śrauta 儀軌についても確証されるであろう。

Āp.、Baudh.、Hir. の時代的関係については Jolly, Grundriss § 2 とそこに挙げられた文献、とりわけ Bühler³¹ を見よ。Bühler の論証は、pravacanakāra たる Baudhāyana が sūtrakāra たる Āpastamba より高い古さを主張しうるという点から出発している。

同じく黒 Yajurveda に属する Vaikhānasaśrautasūtra³² については、わずかな写本しか知られていない。動物供犠に関わる Śrauta の部分は Schwab が前掲書で援用している。

Gṛhyasūtra ―― これは 2, 18 で vikhanas を引用する ―― は大部で、後代起源の痕跡を多くもち³³、一部は他のところでは Pariśiṣṭa や後代のテクストに委ねられている対象を扱っている。

まず Saṃskāra の分類がある³⁴。I, 2 cāturāśramiṇāṃ snānavidhiḥ(abhiṣeka, divya, vāyavya 等);6. puṇyāha;8. cthāgnyāyatana;9. āghāravidhāna;16. sāmānyataḥ kriyayā homamantrāḥ。II(fol. 12ᵇ)atha śarīreṣu saṃskāreṣu puṃsaṃgamanavarjaṃ nāndīmukhaṃ kuryāt;3. upanayana;9. nārāyaṇavratāni;12. āṣāḍhyopākarma;13. samāvartana;16. arghya;18. prāṇāgnihotravidhāna;III. pāṇigrahaṇam;8. maithunam;10. gṛhalliṅgāni;11. puṃsavanam;12. sīmantonnayana;13. viṣṇubali(keśavaṃ nārāyaṇaṃ mādhavaṃ govindaṃ viṣṇuṃ madhusūdanaṃ trivikramaṃ vāmanaṃ śrīdharaṃ hṛṣīkeśamiti nāmabhir devaṃ viṣṇum āvāhya);14. jātakam;15. 燻蒸、medhājanana;16 等 vāstusavana(?);18. utthāna;19. nāmakaraṇa;20. varṣavardhana;22. annaprāśana;23. caulakam;IV, 1. sthālīpāka;3. aṣṭakā;5. piṇḍapitṛyajña;7. śrāddha;8. caityaṃ;9. āśvayujīm;13. gṛhaśānti(すなわち grahaśānti);V, 1–12. dahanavidhi。これは死と火葬、種々の死者を詳細に扱う。āpaddāhya, ākṛtidahana;13. ekoddiṣṭa;VI. niṣekādisaṃskārāṇāṃ prāyaścittam;VII. mṛtasaṃskāraprāyaścittam

MānavasūtraMaitrāyaṇī-saṃhitā の文献圏に属し、これを自らの学派の Saṃhitā として参照する。MS に現れる詩節は冒頭語のみをもって挙げられるのに対し、そこに現れないものは完全に引用される。

写本においては Mānavasūtra、Maitrāyaṇīya-Mānava-S.、Maitrāyaṇīya-S. という呼称が互いに入れ替わる。しかし Hemādri の先例に従って、おそらく Mānavamaitrāyaṇīya すなわち Mānava と、Maitrāyaṇīya とを区別すべきであろう³⁵。

Caraṇavyūha もまた Mānava を Maitrāyaṇīya の下位区分と呼び、後者はさらに Kapiṣṭhala-kaṭha 等と同じく Caraka の下位区分をなす。

M. の Gṛhya と M. の Śrauta とは、文体上の近い連関に立つ。Śrauta の一連の言い回しが G. に逐語的に再び見いだされる(v. Bradke)。簡単な内容目録は、Haug 教授遺稿のオリエント写本目録 25 頁(II, Nr. 53)に見いだされ、L. v. Schroeder, Maitr. Samh. I, XLI 以下および v. Bradke, ZDMG. 36, 447³⁶ において訂正されている。同誌 442. 445 には両 Sūtra の写本

32 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

上の典拠が列挙されている³⁷。

Goldstücker のもとで複製された Mānavakalpasūtra ―― 「Kumārilasvāmin の注釈とともに、ヴァイディカ儀礼に関するこの古い著作の一部をなすもの」³⁸ ―― は、「Mānava Śr. S. の prāksomabhāga の最初の七 Adhyāya への注釈の、かなり不正確で欠落の多い写本」の複製である³⁹。

MGS にとって特徴的なのは、これまで知られた他の Gṛhyasūtra には見られない儀式、すなわち Vināyaka Gaṇeśa の崇拝である。これは一部逐語的に(ただし śloka の形で)Yājñavalkya に再び現れるが、ただしそこでは四人の Vināyaka の代わりに一人が入っている。

Mānava の piṇḍapitṛyajña、Maitrāyaṇīya-Śr. S. からの piṇḍapitṛyajña の断片、さらに Mān. GS の aṣṭakā 儀礼と mānavaśrāddhakalpa を Caland が公刊した⁴⁰。彼の見解によれば、この śrāddhakalpa は内容から見て「古いもの」に見え、「少なくとも散文部分において」そうであるが、後代の部分は「種々のテクストからの選集にほかならない」(karmapradīpa、Manu、caturviṃśatipurāṇa)という。

Bühler が推測した⁴¹ MānavadharmaśāstraMānavaśrāddhakalpa とのより詳しい一致は論証されえず⁴²、MGS との一致も同様である⁴³。

GS と密接に親縁なのが Kāṭhaka GS であり、これについては Bühler⁴⁴ が最初に、後に Jolly⁴⁵ がより詳しい情報を、とりわけ Viṣṇu との関係について与えている。

両 GS の比較は、その配列の原則においてのみならず、かなりの数の箇所の字句においても、密接な一致を示している。両者がしばしば他の GS と示す個別的な一致は、(Vṛṣotsarga を除いて)Jolly によれば Mantra についてのみ関わり、「両者が他の一つないしすべてと一致する場合でも、両者相互のほうがはるかに精密に一致する」⁴⁶。

Kāṭhaka にとって特徴的と思われるのは、そこに与えられる Brāhma 婚と Āsura 婚の記述であり、そこではまだそれが許されない婚姻形式に数えられていない⁴⁷。

KGS の著者は、カシミールの伝承によれば Laugākṣi であり、その注釈者は、カシミールの伝承によればムハンマド教徒の征服以前に生きた⁴⁸ Śrīharipāla の子 Bhaṭṭa Devapāla である。

しかし Caland によれば、Devapāla が注釈した Kāṭhaka と、Brāhmabala が gṛhyapaddhati を書いた Laugākṣisūtra とは、おそらく区別すべきである。後者は Kaṭha の Caraka 学派に属し、Devapāla は Cārāyaṇīya-Kaṭha 学派に関わるという⁴⁹。

この学派の Aṣṭakāśrāddha 儀礼を扱う章を Caland が 224. 254 頁に公刊した。法典のうちでは Viṣṇu のそれが Kāṭhaka と近く親縁である⁵⁰。

この学派の Śrauta Sūtra(「Vaitānika」)は失われたように見える。GS への注釈によれば、それは 39 Adhyāya を含んでいた⁵¹。もっとも Caland はその piṇḍapitṛyajña を再構成することができた⁵²。

7. 個々の Sūtra。 33

Sāmaveda

a)Maśaka は他の Sūtra から Kalpa、Kalpabrāhmaṇa、Ārṣeyakalpa あるいは Maśaka Gārgya として引用され、「soma 供犠の個々の儀式に属する祈禱を、Pañcaviṃśabrāhmaṇa の順序で表の形に列挙したもの」であるが、ただし他のいくつかの儀式が付け加えられている¹。その注釈者は Vāmanācārya の子 Varadarāja である²。

b)Lāṭyāyana³ の Ś. Sūtra は、もともと L. の Śākhā の Sūtra ではなく、Lāṭyāyana によって書かれ、Kauthumaśākhā によって自らの学派の教本として受け入れられたものである⁴。

L. は Maśaka を引用し、しばしば Pañcaviṃśabr. のより長い箇所を引用し、また Śāṇḍilya、Dhānaṃjayya、Śāṇḍilyāyana、Gautama、Gautama Sthavira、Śaucivṛkṣi、Kṣairakalambhi、Kautsa、Vārṣagaṇya、Lāmakāyana、Rāṇāyanīputra といった一連の教師を、とりわけ Sātyāyanin と

欄外下:Indo-arische Philologie. III. 2. ―― 3

34 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

その著作を、また Śālaṅkāyanin ―― 「後者は周知のとおりインドの西部に属する」―― を引用する⁵。

W.〔= Weber〕は、そのような言及が L. の Sūtra においても Sāmaveda の他の Sūtra においても、他のヴェーダの Sūtra におけるよりもはるかに頻繁に見られること、そしてそれが前者の優先性の徴であることを指摘した。

この見解は、Sattra に属する Lāṭ. と Kāt. の若干の規定の対置によって証明される。そこでは後者が明示的に(22, 5, 1;6, 25)Chāndogya 派に依拠し、Lāṭ. に詳細に記載された慣習を要約して再現している⁶。

Lāṭ. にとって特徴的なのは、śūdra と niṣāda のより蔑視的でない扱いであり、さらに Vrātya への言及(8, 6, 1 以下)と、そこで用いられる語彙である。その解釈については Śāṇḍilya、Gautama、Dhānaṃjayya がすでに一部動揺している。prācyaratha という語の使用は、ここで東方からの借用が問題となることを示していよう。

c)Drāhyāyaṇa は Lāṭ. とほとんど異ならず、Rāṇāyanīya 学派に属する。この学派は Bhau Dājī によれば⁷「Dravid Deśa」に行われ、他方 Kauthuma S. はグジャラートに優勢である。Weber がこの Sūtra について挙げるもう一つの名 Vāsiṣṭhasūtra は、疑いなしとしない⁸。

Makhasvāmin あるいは Maghasvāmin の注釈が Rudraskanda によって言及されており、彼の Audgātrasārasaṃgraha はそれへの補遺として書かれたものである⁹。注釈者 Dhanvin については Weber と Burnell とが一断片に言及している¹⁰。

d)Gobhila の著した Śrautasūtra の存在は論証されていない¹¹。Kātyāyana に帰され Prāyaścitta を含む Upagranthasūtra については、これまで個々の覚え書きによってしか知られていない¹²。Kṣudrasūtra についても同様である。

Gṛhya として Sāmaveda に属するのは、a)Gobhila¹³ である。Karmapradīpa への注釈者 Āśārka によれば、これは Sāmaveda の両学派、すなわち(グジャラートの)Kauthuma 派にも(Mahārāṣṭra の)Rāṇāyanīya 派にも妥当する¹⁴。

これに注釈したのは Mahābala の子 Nārāyaṇa¹⁵ と、Bibl. Ind. の校訂者 Tarkālaṅkāra である。後者は前者を利用したほか、さらに Bhaṭṭabhāṣya、Raghunandana その他の典拠を用いている。

Gobhila の Sūtra は多くの古い特徴をとどめており、たとえば彼のみが家屋建築に際しての動物供犠を規定している。しかし年代の確定はまだない。しばしば彼は改作の手をも示している。

G. は Sāmaveda のテクストのほかに Mantrabrāhmaṇa¹⁶ の呪句集成を前提としている。これは G. が冒頭語のみをもって引用する呪句のうち、Sāmaveda に含まれないものを、所作の順序で挙げたものである。

Knauer はそこに、Gṛhya に先行し、Gṛhya のうちに全文が取り入れられた一つの構成物を見ている。したがって Gobhila は根本において Mbr. の体系的な加工にほかならず、呪句と所作との緊密な融合により、また一部は拡張と付加とによって、全体が仕上げられたのだという。

これに対して Oldenberg は、両著作は互いを顧慮して作られたと考える。すなわち G. は「儀式の記述に織り込んでも不明瞭になったり不均衡になったりしない短い Mantra については完全な字句を与えたが、長い Mantra は彼の儀軌記述の一貫性をかなり退屈に、また不都合に中断したであろう。そこで彼はそれらを著作の残りから分離し、別個の Saṃhitā とした」¹⁷。

Mantrabrāhm. が Sāmaveda に属することは、それが Sāmaveda に現れる詩節を挙げず、他の Saṃhitā から借用されたものを挙げていることによって証示される。

b)Sāmaveda の第二の Gṛhya は、Drāhyāyaṇa 学派に属し Rāṇāyanīya 派に用いられる Khādira¹⁸ である。これは全面的に Gobhila に依存しているが、ただその規定を本質的に短縮している¹⁹。2, 2, 17 以降は G. に完全に従うが、それ以前には編集上の変更を加えている。G. に見いだされない Sūtra は

7. 個々の Sūtra。 35

一部 Lāṭ. に遡る。……「それは、後代の Sūtrakāra がより古い著者の著作をいかに改作し、より正確な配列によって、またとりわけ Sūtra 作成の主要な達成としてますます評価されるようになったもの、すなわち可能なかぎりの簡潔さと語の節約とによって、彼を凌駕しようとしたかを、きわめて明瞭な一例によって示している」²⁰。

c)Chāndogagṛhyasūtra を Caland(Ahnenkult 121)が、Gobhilaśrāddhakalpa および Hemādri における引用にもとづいて言及し、それを Khādira とは別のものと見なしている。

Jaiminīya 派の Gṛhyasūtra を、Burnell が Śrīnivāsa の注釈とともに発見した²¹。Sāmavedin 派の Śrāddhakalpa に関わる文献については Caland が論じている²²。

36 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

ここでは Vaitāna が Kauśika に依存している ―― 内容の相違がそれを許すかぎり、いたるところでそうである⁵。

Bloomfield に従って、VS. が Kauśika と共有するものを差し引くならば、あの著作のうちには特にアタルヴァ的なものはわずかしか残らない。そのうち、そのほかには知られない śaunakayajño 'bhicārakāmasya は、際立たせるに値する。

両者の一致 ―― それは形式的な点にも及ぶ ―― は、アタルヴァ学派に流布していた伝承から汲まれたものであるか、あるいは高度に蓋然的とされたように、Vaitāna の Kauśika への依存を証しているかである。

比べものにならないほど大きな価値をもつのは後者〔Kauśika〕である。それは Śrauta でも単なる Gṛhyasūtra でもなく⁶、家庭儀軌のより重要な規定のほかに、Atharva の歌と結びついた呪術の実践等を含み、呪文および類似の事柄を広範に考慮することによって、他のヴェーダ学派には知られない多くの資料を含んでいる。

それは統一的な書物ではなく、種々の著作・種々の文書の合成である。Kaṇḍikā 7–53(Gṛhya 部分 42, 15–45 を除く)は本来の Atharvasūtra を含み、「アタルヴァ的生活の最も強い特徴」を含む。おそらくさらに一つの層をなすのが第13巻(Kaṇḍ. 93–136、Omina と Portenta について)、14(137–141、種々の素材を扱う)である。残りは Gṛhya 規定から成り、ここでは K. 1–6 がさらに特別な層をなすように見える。

K. は Atharvaveda の九つの Śākhā のうち四つ、すなわち Śaunakīya、Akṣala、Jalada(?)、Brahmavada-Śākhā に対する saṃhitāvidhi として通用し⁷、Vaitāna と同じく Atharvaveda の Śaunakīya 校訂本を前提とする。

権威として Kauśika は、Vaitāna にも引用される Kauśika、Yuvan Kauśika、Bhāgali、Māṭhara、Śaunaka のほか、Gopatha とは別の Brāhmaṇa、さらに Gārgya、Pārthaśravasa 等を挙げている⁸。Pischel はその典拠のうちに Dharmasūtra、「おそらく Paiṭhīnasi のそれ」をも推測している⁹。

K. に属するのは、Vatsaśarman の曾孫 Dārilabhaṭṭa の著した、第48 Kaṇḍikā まで伝わる Kauśikabhāṣya であり、さらに RudraBhadra の、引用によってのみ知られる注釈¹⁰ ―― これらは Smṛti の文体で書かれているように見える ―― 、Keśava の広範な文献知識にもとづく Paddhati、および Bloomfield が論じたいくつかの他のテクストである。

Atharvaveda の儀軌文献は、Vaitāna と K. のほかに、なお三つの Kalpa から成る¹¹。3)Nakṣatrakalpa¹²、4)Śāntikalpa¹³、5)なお知られていない Āṅgirasa- あるいは Abhicāra- あるいは Vidhānakalpa¹⁴ である。

Pariśiṣṭa のうち第35 のもの、すなわち āsurīkalpa、「abhicāra すなわち呪術の実践であり、āsurī 草に関連して用いられる儀礼を含むもの」を Magoun が公刊した¹⁵。

Upavarṣa によれば「vedatulya(ヴェーダに等しい)」とされる前述の五つの Kalpa に対して、これ〔āsurīkalpa〕は Smṛti にもとづくものに属する。

Śaunakin 派の Śrāddhakalpa(第44 Pariśiṣṭa)、Hemādri の助けを借りて再構成された Paippalāda 派の Śrāddhakalpa、および Paiṭhīnasismṛti における Śr. への言及を、Caland が公刊した¹⁶。Pāṇinīya の Ātharvaṇasūtra は Trikāṇḍamaṇḍana に知られていたように見える¹⁷。

Upavarṣa と Āraṇyanivāsin Matsya の Sūtra ―― その存在は同じ著者の記載から明らかになる ―― が、いかなるヴェーダに属するのかは明らかでない。

8. 後代の文献。 37

§§ 8. 後代の文献

Sūtra に続くのが「補遺」すなわち Pariśiṣṭa である。これはあらゆる学派に存在したように見え、Sūtra においては示唆されるにとどまる個々の事柄(たとえば paridhi とその性状)についてのより精密な規定を含み、あるいはまた、そこではまだ扱われていない対象(gṛhayajña、池の聖別、vāstupūjana など)についての補足的な規定を含む。

四 Adhyāya から成る Āśvalāyana GP.¹ の著者は、序論において、自らの ācārya が意図的に是認しなかった他者の説と、彼が教えたところとを叙述しようと述べている。§1 における kartṛ(祭主)、その衣服・姿勢の記述に続いて、sandhyāvidhi の精密な叙述が始まり(1, 2–7)、これは Āśvalāyana の規定 sandhyām upāsīta(3, 7, 3)に結びつく。

pārvaṇaḥ sthālīpākaḥ についての章(1, 17)は、GP. の Sūtra への関係をよく例証しうる。冒頭語 atha pārvaṇaḥ sth. は両者において同じである。それに続く P. の規定、すなわち満月の日に始めるべしというものは P. にのみあるが、しかしそれは ĀŚS. における両 Sūtra 1, 3, 9. 10 の配列から得られる(1, 3, 10 への注釈)。これらは P. に取り込まれ、いまや一般的規定に続いているのである。

このような一致はほかにも見られる。たとえば pitṛmedha(ĀGP. 3, 1 以下、Āśv. G. 4, 1 以下)がそうであり、その叙述は両テクストにおいて一部逐語的に同じである。さらに ĀGP. 4, 11 以下 = Adbhutabr. § 2 以下(Weber における)である。

他の Pariśiṣṭa のうちで公刊されているのは Gobhilasaṃgrahapariśiṣṭa であり、これは Gobhila への、また Gṛhya 文献一般への補遺である²。後代の文献 ―― そこでは Gobhilaputra がその著者として挙げられる ―― における声望にもかかわらず、これは後代の、Nārāyaṇa がまだ知らない編纂物である。

「それが Gṛhyasūtra の規定を補う諸点は、古い時代の Sāmavedin 派の家庭習俗の書への真正な addenda というよりも、むしろ Vidhāna 文献(呪術規定)の性格を示している。最も従属的な所作にも、即座の直接的な影響が帰せられる。最も外面的な規則に対する違反は、病・不幸・死をその結果として指示することによって、恐ろしいものとされている」³。

これは二つの主要部分に分かれ、その第一(1, 2–33ᵃ)は火についての神秘的な事柄(Agni の名、舌など)を含み、第二は Gṛhya 儀軌にきわめて緩やかに結びつきつつ、Gṛhya の種々の規定への補遺を提供する。たとえば供犠の紐の作り方についての章、種々の家族の髪型についての一詩節、Śrāddha についてなどである。

GSP. がもっぱら Gobhila に依拠するのでも、それに限定されるのでもないことから、本来の著作は Gṛhya 一般の綱要的な総括であって、その根本的特徴において万人の共有財産であった規定を含み、その後に完全化され、改変され、最終的により Gobhila に依拠するものとなったのだ、という考えが表明されている⁴。

Saṃgraha と密接に関連するのが KarmapradīpaSāmagṛhya あるいは Chāndogyagṛhyapariśiṣṭa⁵ であり、これは白 Yajurveda の Kātyāyana に帰せられている⁶。注釈においてはそれは種々に、あるときは karmapradīpagṛhyāntaramtathā coktam、また chandogapariśiṣṭa⁷、Gobhilasmṛti

38 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

Kātyāyanasmṛti⁸ と呼ばれるが、たいていは Kātyāyana として引用される。GṛhyasaṃgrahaKpradīpa とは同じ対象を、しかも互いに独立に扱っているが、他方では śloka 全体において、しかも逐語的に一致する。

Bloomfield と Schrader とが Karmapradīpa を Saṃgraha より新しいとするのに対し、Knauer⁹ はこれにはるかに低い古さを与え、Kp のうちに不完全な集塊を見て、その名と第一詩節は後になってはじめて付加されたものと見ている。

他の Pariśiṣṭa としては(一部は引用によってのみ知られるが)、Śāṅkhāyana のそれ¹⁰、ある bahvṛcagṛhyapariśiṣṭa、Vājasaneyin のそれ(Yajñapārśva¹¹ と Pariśiṣṭanigama)、Bhāradvāja、Baudhāyana、Maitrāyaṇīya¹²、Mānava、Kāṭhaka、Cārāyaṇīya、Laugākṣi、Devapāla、Brāhmabala のそれがあり、おそらくなお Hemādri の手もとにもあったものである¹³。

供犠の実践的理解にとってきわめて重要なのが Prayoga(手引書)と Paddhati(綱要)である。これらの Prayoga ―― その大きな数については、Burnell の Tanjore Cat. fol. 23ᵇ 以下のような写本目録が観念を与える ―― は、個々の供犠の進行と個々の祭官群の職能とを、その学派に即して精密に記述するが、Sūtra の体系的な仕方によるのではなく、実践的な遂行を顧慮して記述する。

それらは現在の形では後代に属するが、そのような文書の最初の作成は、学問的な叙述に結びついてではなく、実践のなかから考えるべきであろう。「われわれは実際、〔主要な Brāhmaṇa の成立の直後の時代に〕すでに Kalpasūtra や Prayoga の性質の書物が存在したと確信をもって主張することはできない。しかしいずれにせよ、供犠の正しい遂行に関わる、詳細で事情に通じた口伝が初めから存在していたにちがいない」と Thibaut は言う¹⁴。

しかし Brāhmaṇa が知っている供犠の複雑な性質は、しかも Sūtra と精密に一致する仕方でそうであることは¹⁵、少なくとも次のことを蓋然的にする。すなわち、あの時代にも細目の記録が行われたということ、しかも Sūtra における素材の体系的加工よりに、暗記のために役立ち、実践的な叙述をむしろ不要にするような記録が行われたということである。

それにもかかわらず後代の必要がそのような Prayoga を大規模にもたらしたとすれば、そのようなものは古い時代にも前提とすべきであり、現在の論考はそれ自体古い文献類型の後裔と見なすべきであろう¹⁶。

われわれは種々の学派の Prayoga を、Śrauta についても Gṛhya についてももっている。前者はさらに二群に分けうる。すなわち、祭官群全体のために定められたものと、Maitrāvaruṇa、Neṣṭṛ、Yajamāna といった儀式の個々の参加者のためにのみ定められたものとであり¹⁷、しかも各供犠ごとに特別な儀軌が存在する。

個々の祭官を顧慮した文書よりも価値が大きいのは、hotṛ、udgātṛ、adhvaryu といった群全体の職能を記述するものである。供犠の全体の劇を描くものは、わずかしかないように見える。そのようなものとして私が知るのは、新月・満月供犠についての一つ¹⁸ と、Rudradeva が Baudhāyana に従って Āśvalāyanaśākhin の Yajamāna のために著した、Agniṣṭoma についてのきわめて詳細なもの¹⁹²⁰ である。後者は adhvaryu、brahman、yajamāna、patnī を扱っており²¹、Agniṣṭoma の叙述の基礎として特に適していよう。

さらに PrayogadīpikāPrayogavṛtti といった他の文書も加わる。

儀式とその実践的遂行の理解に役立つこれらの著作のほかに、他の補助手段もある。たとえば、特定の供犠における祭官または祭官群のための Mantra と Stotra の集成である。たとえば Āśv. に結びつく hotṛ のための Mantrasaṃhitā²²、adhvaryu のための Agniṣṭomamantramālā²³、Agniṣṭoma²⁴、Atirātra²⁵、Vājapeya²⁶、Puṇḍarīka 供犠²⁷ における Stotra の集成などである。また

8. 後代の文献。 39

Praiṣa の集成もある。たとえば Nārāyaṇa の著した Hotāyakṣatpraiṣādhyāya²⁸ ―― これは Śāṅkhāyana に属し、72 の Praiṣa を含む²⁹。

実践的必要からおそらく、学派の相違の対照表も生じたのであろう。新月・満月供犠および Agniṣṭoma の叙述における kaṇvānāṃ viśeṣaḥ のようなものである³⁰。

Śrauta についてと同じく、Gṛhya 儀軌についても、一部は大部の Prayoga が存在する³¹。そのような文書の一覧は諸目録に見いだされる³²。それらは家庭儀式の全領域を、あるいはその部分領域のみを扱い、一部は Smṛti の他の素材にも接触する。それゆえ Halāyudha の Brāhmaṇasarvasva、Hemādri 等については Jolly § 12 を参照されたい³³。

Sāyaṇa の著作で、Āśvalāyana と Baudh. に依拠するのが yajñatantrasudhānidhi である³⁴。きわめて完備しているのが Rāmeśvara の子 Nārāyaṇa の Prayogaratna(Jolly 38 頁)であり、Burnell はこれを「Saṃskāra と家庭儀式のきわめて通俗的な手引書、Maratha 地方で多く用いられる」と呼んでいる。その子 Nṛsiṃha も同じく Prayogaratna を著した³⁵。

重要なのは約 368 葉から成る著作³⁶、すなわち baudhāyanasaniṛṇayaprayogamālā であり、その著者は自らを Parameśvaraputra Veṅkaṭeśābhidha と称し、自らの著作を JyotiḥśāstraDharmaśāstraKārikāSūtraPrayoga にもとづいて著したと述べ、冒頭に Nṛsiṃhadīkṣitaguru を挙げている。彼は Kumārasvāmin の KārikāKālanirṇaya、Garga、Candrakāśa、Jaimini、Nārada、Nṛsiṃha、Pārijāta、Paiṭhīnasi、Prayogasāra、Pracetas、Bṛhaspati、Marīci、Vasiṣṭha、Varāha、Vṛddhaparāśara、Śrīdharīya、Hārīta 等を引用している。

後代の著作としては、1611–12 年に書かれた Kamalākara の Nirṇayasindhu³⁷ を挙げるべきであり、また Anantadeva(Āpadeva の子、Anantadeva の孫)の Saṃskārakaustubha ―― おそらく同じ著者の(Jolly が § 12, 40 頁で論じた)やや後代の Smṛtikaustubha の一部 ―― を挙げるべきである。

家庭生活全体を包括するこれらの著作のほかに、なお整理されていない多数の種々の、一部はインドで公刊された論考³⁸、Prayoga 等がある。それらはその個々の章を扱い、種々の学派に属する。たとえば Āśv. に従った Aurdhvadehikaprayoga、SV に従ったもの、白 YV に従った Aurdhvadehikakriyāpaddhati³⁹、SV(Kauthumīya)への Antyeṣṭidīpikā⁴⁰、BahvṛcāhnikaChandogāhnika 等⁴¹ である。

Prayoga に近く親縁な文書類型が Paddhati であり、これも同じく自らの学派の儀軌全体、あるいはその個々の章を扱う⁴² が、ただ私に思われるところでは、より多く Sūtra の進行に従い、その内容を素描するのであって、供犠の所作という実践的目的に役立つべきものではない。

Bhavadeva の Chandogapaddhati に、一部もとづいているのが、Sūtra が知られる以前に長く基準的であった Colebrooke の論考「The religious ceremonies of the Hindus」⁴³ である。他の Paddhati については、個々の Gṛhya テクストの校訂者が論じている。

Baudhāyana の儀軌による Gṛhya の所作は、Keśavasvāmin の Baudhāyanīya P. にきわめて詳細に叙述されており、Egg.⁴⁴ がこれを立ち入って分析している。

Śrauta 儀軌については Weber が、Kātyāyana に従うきわめて精密な Yājñikadeva の Paddhati 1–5 を公刊した。Śāṅkh. への Paddhati、すなわち Śrīpatiśarman の子 Viṣṇu(Nārāyaṇa)のそれについては、Peterson が著者の系譜を扱う冒頭部分を soma 供犠のために公刊した⁴⁵。

儀軌の韻文による叙述が Kārikā である。これらは直接 Sūtra に結びつく⁴⁶ か、あるいはしばしば自ら強調するように、彼らの前にある Paddhati に結びつく。こうして Lakṣmīdhara の Iṣṭikārikā⁴⁷ は Yājñikadeva の Paddhati に結びついて成立した。Āp. への一 Kārikā は Kapardin と Dhūrtasvāmin にもとづく⁴⁸。

Kārikā のうち最古のものは Bhaṭṭa Kumārilasvāmin のそれであるように見え、これを Jayanta と Naidhruva Nār. が引用している⁴⁹。Śākala の著した「Bahvṛcagṛhya」への Kārikā を Burnell⁵⁰ が論じ、その Sāmagṛhyapariśiṣṭa との類似を強調し、また第2詩節に引用される Kārikā のうちに、前述の

40 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

Kumārila の著作を推測している。13 世紀以前に Trikāṇḍamaṇḍana Bhāskaramiśra が生きていたにちがいなく、その Kārikā はその引用のゆえに特別な価値をもつ⁵¹。1266 年には Reṇukārya の Gṛhyakārikā あるいは Kātīyagṛhyasūtraprayogavivṛtti が成立し、その内容を Eggeling が Nr. 361 に記載している。14 世紀以前の時代には、おそらく Gopāla ―― Baudh. に従った Prāyaścittakārikā の著者 ―― も属した⁵²。

儀軌についてのインドのより新しい著作としては、かの地で刊行され⁵³ Bourquin が訳した⁵⁴ Dharmasindhu を挙げるべきである。これは Ananta の子 Kāśinātha が KaustubhaNirṇayasindhu、Mādhava 等にもとづいて Śālivāhana 暦 1712 年(1790 年)に著したものである。また同じく Bourquin が訳し、転写テクストを付した Brahmakarma⁵⁵ ―― バラモンの日々の宗教的義務についてのもの ―― を挙げるべきである。

9. Puṃsavana。 41

§II. Gṛhyasūtra の内容概説

以下の叙述は、これらの資料にもとづいてインドの生活を素描しようとするものであり、Gṛhya の進行とはいくらか異なって、人間の生活の最初の段階から始め、死に至るまでそれを追跡する。

ほとんどどの章も、より拡張された叙述に適するであろう。すなわち、土着の後代の資料を援用するか、あるいは一般的な連関を追究するかによってである。この点で Haas、Weber、L. v. Schroeder、Winternitz によって、また Caland によって成し遂げられたものは、模範と見なしてよい。しばしば扱われてきた婚礼儀軌の記述については、簡潔にすませてよいと考えた。

資料を区別して保つ必要には、可能なかぎり引用によって配慮した。私の『新月・満月供犠』におけるように詩節を付け加えることは、実行できなかった。Oldenberg の「Synoptical survey of the contents of the Gṛhyasūtras」SBE. 30, 299 以下には感謝の義務を負っている。

個々の人間の生活は、その重要な諸段階において Saṃskāra すなわち聖別ないし秘跡を伴う。おそらく Gṛhya のうち最も新しいと推測される Vaikh. GS は、(Gaut. と同じく)これを四十挙げている。

そのうち最初のもの、すなわち śārīrāḥ saṃskārāḥ ―― niṣeka から pāṇigrahaṇa に及ぶもの ―― は数において十八であり、Saṃskārakaustubha のような他の後代のテクストによれば(それらは細目において VGS の与える列挙と完全には一致しないが)十六ないし十三である¹。

GSS は Vaikh. を別として、その叙述を niṣekaṛtusaṃgamanagarbhādhāna から始めるのではなく、puṃsavana「男児の生成」から始める。そして Āśv. のみが(Śaunaka と同じく²)garbhālambhana(および anavalobhana、§10 参照)を挙げ、それについては Upaniṣad を参照させている。ただし Pār. は、Stenzler が省いた ―― 注釈が説明していないため ―― 章において、ṛtusaṃgamanagarbhādhāna をも記述しており、これを Speijer が前掲書で二つの版で公刊した。

他の22の Saṃskāra は供犠である。Gṛhya 儀軌には日々の供犠(mahāyajña)と七つの pākayajña³ が属し、Śrauta 儀軌には七つの haviryajña と七つの somasaṃsthā が属する。

Gautama の見解によれば(8, 18)、Pākayajña として通用するのは、1. aṣṭakā、2. pārvaṇa、3. śrāddha、4. śrāvaṇī、5. āgrahāyaṇī、6. caitrī、7. āśvayujī である。Haviryajñasaṃsthā としては、1. agnyādheya、2. agnihotra、3. darśapūrṇamāsa、4. āgrayaṇeṣṭi、5. cāturmāsya、6. nirūḍhapaśubandha、7. sautrāmaṇīSomasaṃsthā としては、1. agniṣṭoma、2. atyagniṣṭoma、3. ukthya、4. ṣoḍaśin、5. vājapeya、6. atirātra、7. aptoryāma である。もっとも第一・第二の群については、いくらか異なる区分もある。これについては M. Müller 前掲書を比較すべきである(Jolly, Grundriss § 56)。

§§ 9. Puṃsavana ―― 男児を得るための儀式

その時期としては妊娠第三月が挙げられる(Gobh. 2, 6, 1;Kh. 2, 2, 17;Hir. 2, 2, 2)。Pāraskara によれば第二月または第三月、

42 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

「子が動く前に」(1, 14, 1. 2)。Āp. によれば妊娠が目に見えるようになる時期(14, 9)、Vaikh. 3, 11 によれば第四月である。

儀式は星宿 Tiṣya(Āśv. 1, 13, 2;Āp. 14, 9)、Puṣya あるいは Śravaṇa(Ś. 1, 20, 1)のもとで行われる。Hir. は一般に白分(明るい半月)の吉兆の星宿のもとの一日を求めるにとどまり(2, 2, 2)、Pār. は月が男性の星宿と合になる日を規定する(1, 14, 2)。

朝、女は沐浴し新しい衣をまとって(Pār. 1, 14, 3;Kh. 2, 2, 18)、東を向いて darbha 草の上に座る。その草の先端は北に向けられている。夫は背後に立ち、右手で彼女の覆われていない臍に触れ、「Mitra-Varuṇa、二人の男よ」という呪句を唱える(MBr. I, 4, 8;Gobh. 2, 6, 3;Kh. 2, 2, 19)。

Hir. は著しく異なる。一連の献供、バラモンへの食事の供与と彼らからの祝辞ののち、彼は女に、沐浴し飾りをつけさせ、バラモンとの対話ののち、円形の家のなかで火の背後に東を向いて座を占めさせ、「汝は牡牛なり」という言葉とともに彼女の右手に一粒の大麦を置く。その周りに二粒の芥子またはは豆を「汝らは睾丸なり」という言葉とともに置き、酸乳を一滴加える。それを彼は彼女に食べさせ、水を啜らせ、ついで「この十のものをもって」等と唱えつつ彼女の身体に触れる(2, 2, 2–5)。

同様に Āśv. 1, 13, 2 は、同じ色の仔牛をもつ牝牛の酸乳を規定している。彼女が断食したのち、彼はそのなかに二粒の豆と一粒の大麦(男性性器への暗示)を入れて食べさせる。彼は問う。「汝は何を飲むか」。「男児の生成を」と彼女は答える。こうして彼女は三度、手のひら一杯ずつを享ける。

男児を得るための手段として最も広く行われているのは、挽き臼で砕いた nyagrodha 樹の若芽である。Gobh. 2, 6, 6 によれば、彼は 3×7 粒の大麦または豆(これは注釈によれば樹の根に投げられるか、樹の所有者に与えられる)で、両側に果実をもち虫に触れられていない nyagrodha の若芽を買う。Āp. によれば、それは東または北に向いた nyagrodha の枝のものであるべきである。この枝もその果実とともに象徴的意味をもつ(Āp. 14, 10 参照)。

nyagrodha の若芽の代わりに、ある者たちのもとでは kuśa 草の棘と soma の若芽が立ち(Pār. 1, 14, 4;Śāṅkh. 1, 20, 3)、あるいは Yūpa の火にさらされた側からの削片(Ś. 前掲書;Hir. 2, 2, 6)、あるいは供犠ののち juhū に残った残余(Ś. 1, 20, 4)、あるいは蚕(Hir. 2, 2, 6)が立つ。

挽き石が洗われ、その上で nyagrodha の若芽が粉にされる。Pār. によれば夜に(I, 14, 3)。これを誰が行うべきかについては見解が分かれる。Āp. 14, 11 によればまだ成熟していない少女、Gobh. 2, 6, 9 によれば「学生」(brahmacārin)あるいは誓戒を保つ妻(vratavatī)、名目上のバラモン(brahmabandhu)あるいは少女である(Knauer は前掲書でこれらの選択肢に特別な意味を与えようとした)。そうでなければ夫である。

この挽かれた材料は、親指で、あるいは親指と薬指で、場合によっては呪句を唱えつつ、女の右の鼻孔に入れられる。そのあいだ女は火の背後に東を向いて横たわるか座る。

より本質的な相違としてなお挙げるべきは、Pāraskara 1, 14, 5 が、彼が強く男児を望む場合には「亀の胆汁」(注釈によれば水の入った鉢)を女の膝に置き、それに際して Viṣṇu の歩みに先行する詩節 VS. 12, 4 を Vikṛti 韻律で唱えることを規定していることである。

Āśvalāyana は、円形の部屋(家)の陰で、右の鼻孔に新鮮な草(注釈によれば dūrvā 草の汁)を入れさせ、それに際して或る者たちは二つの定まった呪句を規定している(Stenzler および Oldenberg の当該箇所を参照)。

10. 流産の防止。11. Sīmantonnayana。 43

§§ 10. 流産の防止

Hir. は、女が流産しそうな場合に備えて、湿らせた右手で臍の上を三度上方へ撫で、その際に「去れ、こちらへ来るな。Tvaṣṭṛ が汝を縛らんことを」等の呪句を唱えることを規定している(2, 2, 7)。

より一般的な妥当性をもつ儀式を Śāṅkh.(1, 21)が含む。彼によれば第四月にいわゆる garbharakṣaṇa「胎児の保護」が行われる。sthālīpāka が煮られ、それから RV 10, 162 の詩節をもって六度供犠がなされ、ついで次の歌 10, 163 の詩節をもって彼女の肢体にバターが塗られる。

Āśv. もこの儀式に触れ(彼はこれを Anavalobhana ―― Nārāyaṇa によれば Anavalopana に同じ ―― と呼ぶ)、Upaniṣad を参照させている(Caland, WZKM. 8, 370。Āśv. 1, 13, 5 以下への注釈は、Puṃsavana を扱う箇所を Anavalobhana に関係づけている)。

§§ 11. Sīmantonnayana(分髪の儀)

分髪は最初の妊娠に際して行われ(Ś. 1, 22, 1;Pār. 1, 15, 3;G. 2, 7, 1;Hir. 2, 1, 1;Āp. 14, 1)、以後のすべての妊娠に対して効力をもつ。ただし Pār. への注釈のみが(Stenzler の注)別の見解を述べている。

Sīmantonnayana は大多数の Gṛhya において Puṃsavana に続くが、Āp. と Hir. においてのみ逆である。時期は Āśv.、Hir.、Āp. によれば第四月、G. によれば第四・第六または第八月、Kh. によれば第四または第六月、Pār. によれば第六または第八月、Ś. によれば第七月、Vaikh. によれば第八月である。Hir. 2, 1, 2 と Āśv. 1, 14, 2 はさらに白分を、Ś. 1, 22, 6、Āśv. 1, 14, 2、Pār. 1, 15, 2 は男性の Nakṣatra を、Ś. はさらに男性の器具をも規定する。

細目において Sūtra は互いにきわめて多くの相違をもつ。Āp. 1, 14, 2;Hir. 2, 1, 3 はバラモンに食を供し、彼らに祝辞を述べさせる。

沐浴ののち女は、新しい衣をまとって、火の背後に(Hir. 2, 1, 3 によれば円形の部屋のなかで)心地よい座(bhadrapīṭha、P. 1, 15, 4)につき、彼女が夫に触れているあいだに、夫は Mahāvyāhṛti をもって献供を行う。ついで sthālīpāka あるいは豆の粥が煮られ、さらに一連の献供が続く(Ś.)。

分髪のためには種々の器具が用いられる。一般に用いられるのは、三つの白い斑点をもつ豪猪の針である(Ś. 1, 22, 8;Ā. 1, 14, 4;P. 1, 15, 4 等)。さらに darbha の針(Ś. 1, 22, 8)、三束の kuśa 草(Ā. 1, 14, 4)、三つの darbha の束(P. 1, 15, 4;G. 2, 7, 4;Āp. 14, 3)、vīratara の棒(P. 1, 15, 4;G. 2, 7, 6)、「満ちた紡錘」(P. 1, 15, 4;2, 7, 7)である。これらすべては順次に、あるいは Sūtra の著者に応じて選択して用いられる。

これに加えて、いずれの場合にも、偶数個の未熟な udumbara の果実のついた枝がある。これを夫はある者たちのもとでは手に持つように見えるが(Ś. 1, 22, 8;Hir. 2, 1, 3)、Pār. 1, 15, 4;Āśv. 1, 14, 4 においてのみ、それは他の器具と同じく分髪のために用いられる。

これらの果実は、分髪ののち(Ś. 1, 22, 10;P. 1, 15, 6)、あるいはただちに(G. 2, 7, 4)、妻の三重の紐に結びつけられる(Ś. 1, 22, 10;P. 1, 15, 6;G. 2, 7, 4)。これと異なり Āp.(14, 7)は儀式の終わりに「緑の大麦粒」を結びつけることを規定する。

分髪(un + nīvi + nīvy + ūh)は中央から上方へ向けて行われる。三度あるいは四度、Mahāvyāhṛti を用いて。最も詳細なのは Pār. と G. であり、前述の器具を用いる。

ついで彼は二人以上の琵琶奏者に歌わせる。「歌え」(Āp. 14, 4)、あるいは「王を、あるいは他の誰であれより力ある者を讃えよ」(Ś. 1, 22, 11;Pār. 1, 15, 7)、あるいは「王 Soma を讃えよ」(Āśv. 1, 14, 6)。これは Hir. と G. には欠けている。

Pār. は(1, 15, 8)、「ある者たちのもとでは」一定の Gāthā が規定されていると言う。「Soma はわれらの王なり」等であり、その末尾で彼は、彼らが住む河の名を挙げる。この詩節をわれわれは

44 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

Āśv. 1, 14, 7;Hir. 2, 1, 3(そこでは夫がそれを言う);Āp. 14, 5 に見いだす。後者は二つの詩節を挙げ、第一のものは Śālva 族のもとで通用し、他のもの(「Soma はわれらの王なり」)はバラモンのもとで通用するという。

琵琶奏者を挙げない G. は、その代わりにバラモンの女たちを立て、彼女たちは儀式の終わりに妻のもとに座り、彼女に吉祥の言葉を述べる。「英雄たちの母よ」「生ける息子たちの母よ」「生ける夫の妻よ」(2, 7, 12)。

他の慣習も知られていたであろう。Āśv. 1, 14, 8 は少なくとも、夫と子が生きている年老いたバラモンの女たちが言うことは何でも行うべきである、と言っている。

なお記しておくべきは、Ś. 1, 22, 13 以下が、殻を取っていない穀粒を水の入った器に投じ、そこから RV の詩節を唱えつつ妻に飲ませ、最後に彼女の身体に触れることを規定していることである。ついで彼女は朗らかに歌うべきであり(16)、また望むままに黄金で豊かに身を飾ってよい。

Gobh. においては、分髪ののち米と胡麻から成る sthālīpāka が ājya をかけて煮られる。これを彼は彼女に見させる。「汝は何を見るか」。「子孫を」と彼女は答える(上記 42 頁の Puṃsavana における類似の問いを見よ)。その料理は彼女自身が食べ、その後で女たちが彼女のもとに座る。

儀式の終わりに、Āp. 14, 7 によれば彼女は星が見えるようになるまで沈黙していなければならない。そうなったら彼女は東または北へ行き、仔牛に触れ、Vyāhṛti をささやき、再び語ってよい。

Ś. 1, 22, 18;Āśv. 1, 14, 9 によれば、供犠の報酬は牡牛である。Pār. 1, 15, 9 はバラモンへの食事の供与を規定する。

女がこの分髪の前に出産した場合には、出産の十日後に男児が膝に置かれ、Mahāvyāhṛti をもって一つの献供がなされたのち、(Sīmantonnayana の)供犠が以前と同じ仕方で行われる(Ś. 5, 7)。

§§ 12. Soṣyantīhoma、kṣipraprasavana。分娩

女が分娩すべき場所は、Rakṣas を防ぐために塗油される。この目的のために kākātanī、mācakācātanī、kośātakī、bṛhatī、kālaklītakā の根が搗かれる(Ś. 1, 23)。Vaikh. によれば燻蒸が行われる(3, 14)。

分娩が始まると ―― Vaikh. 3, 14 によればそれには三、四人の心得ある女が呼ばれる ―― 彼は火の周りに草を撒き、Mbrāhm. 1, 5. 6. 7(G. 2, 7, 14)をもって二つの献供を行う。

Pār.(1, 16, 1)によれば、彼は VS. 8, 28 を唱えつつ産婦に水を注ぐ。より詳細なのは Āp. である。「まだ使われていない鉢で、流れの方向に水を汲み、女の足もとに tūryanti 草を置き、呪句とともに彼女の頭に触れ、呪句を唱えつつ水を注ぐ」(14, 14)。

Hir. 2, 2, 8 は、彼女の頭のところに水壺を、足もとに tūryanti 草を置かせ(Vaikh. 3, 14 も同様)、ついで彼女の身体に触れ、「風が吹くごとく」という呪句とともに下方へ撫でさせる。

分娩を容易にするための一連の規定を Kauś. 33 が与えている。四本の muñja 草を、彼は妊婦の頭上に先端を東に向けて置き、四本の葦の茎を先端を西に向けて置く。それらが折れるならば、それは生命への危険を意味する。ぬるま湯で彼は彼女を右の髪の房から洗う、等々(RV 5, 78, 7–9 の詩節を比較せよ)。

後産。 後産が下りるとき、彼は AV 1, 11, 4 を唱える(Pār. 1, 16, 2)。それが下りない場合には、いま汲んだばかりの同じ水を、さらに二つの呪句を唱えつつ女に注ぐべきである(Āp. 14, 15;Hir. 2, 3, 3)。子が死んで生まれるか、出生後まもなく死ぬ場合には、Kauś. 34, 3 以下に従って特別の儀式を行うべきである。

§§ 13. Sūtikāgni(産婦の火)

sūtikāgṛha の戸口に特別の火を設けるべきであり(Ś. 1, 25, 4;Pār. 1, 16, 23;Vaikh. 3, 15. 18;Hir. 2, 3, 4;Āp. Śr. 9, 3, 22)、そのために Aupāsana 火を取り除くべきである。

12. Soṣyantīhoma。13. Sūtikāgni。14. Jātakarman。 45

Vaikh. 3, 18 によれば、すべての所作はそこで行われるべきである。Hir.(2, 3, 5)によれば、それは(kapāla による)暖めと、子の燻蒸にのみ役立つ。

これは芥子を混ぜた穀粒をもって行われる。そして、名を挙げて種々の悪鬼を呪詛する呪句を唱えつつ、彼はこの穀粒を Mantra ごとに火に投じる。

Pār. は(1, 16, 23)、女が起き上がるまで、すなわち第十日まで、日ごとに黎明時に朝夕、芥子を米粒とともに供えるべきことを規定する。Āp. 15, 6. 7 は、第十日まで自ら供犠するだけでなく、(看護の女たちにも)「汝らが入るたびごとに、静かに火のなかに撒け」と指示させる。

危険をもたらす悪鬼への信仰は、まさにこれらの日々に産婦の生命を取り巻く大きな危険のうちに、その自然な説明を見いだす。

そのたびごとに彼は手を洗い、「汝の心よ、美しく分髪せる者よ」等の呪句とともに大地に触れる(Hir. 2, 3, 8)。

第十二日、母と子が清めの沐浴を行い、家が清められたのち、産婦の火は(器具もろとも)再び取り去られ、Aupāsana が再び機能に入る。この火に対して、Hir. によれば十二の、ある者たちによれば十三の献供がささげられる。

§§ 14. Jātakarman(jātakṛtyavardhāpana)

われわれは四つの儀式を区別しうる。すなわち Āyuṣya「生気の付与」、Medhājanana「知性の付与」、Stanapratidhāna「乳房を与えること」、そして Nāmakaraṇa「命名」である。

これらの儀式は男児にのみ妥当する(H. 2, 4, 5 への注釈)。ある者たちによれば女児にも妥当するが、その場合は呪句を省く(Āśv. 1, 15, 1. 10)。

最初の二つの所作は出生の直後に行われる。Pār. 1, 16, 3 は「臍の緒が切られる前に」と言い、Āśv. 1, 15, 1 は「男児が他の者に触れられる前に」と言う(Manu II, 29 をも参照)。また G. 2, 7, 17 は、父に、子の出生が知らされたとき「臍を切ることと乳房を与えることを待て」と叫ばせる。Kh. 2, 2, 32。Pār. は他の者たちとは反対に、MedhājananaĀyuṣya の前に置く(1, 16, 3)。

1. Āyuṣya と Prāśana。 Ś. 1, 24, 1 によれば、父は新生児の上で三度息を吐き吸い、「ṛc とともに息を吸え」等の言葉を唱える。

ついでバターが蜜と、酸乳が水と混ぜ合わされ、あるいは米と大麦とがともに挽かれ、男児は黄金の器具を用いて三度食を与えられる。「蜜の食物を汝に与える」等から「この世で百の秋を生きよ、某よ」という言葉までがその際に唱えられ、それによって初めて名が呼ばれる。

Māṇḍūkeya によれば、さらに黒い牡牛の白黒の毛と赤い毛とを搗き、あの四つの物質に混ぜ、四度食べさせる。

P. 1, 16, 6 はより詳細である。まず父は臍の上、あるいは右の耳のところで、長寿に関わるいくつかの呪句をささやき(「Agni は生命に満てり」等)、そして彼に高齢を願うときには、いわゆる Vātsapra の歌(RV X, 45;VS. 12, 18 以下)をもって彼を撫でる。

ついで彼は五人のバラモンを五つの方位に立たせ、彼らは順に「prāṇa」「vyāna」「apāna」等と言う(M. Müller, SBE. 15, 94 および Speijer 66 を参照)。父がバラモンを見いだせない場合には、彼は自らこれを行い、子の周りを方位ごとに歩きまわる(16 以下)。

子が生まれた地域を、彼は Mantra「われは知る、おお大地よ」等をもって呪し、ついで(他の箇所でも用いられる)言葉「石であれ、斧であれ」等をもって子に触れる(Ś. Br. 14, 9, 4, 26)。

きわめて簡潔なのは Āśv. と G. であり、これらは子の「息の付与」を

46 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

知らない。これと異なるのが Hir. 2, 3, 2 であり、彼は出生後、石の上に斧を、その上に黄金を置かせ、石が上になるようにこれらを逆さにしたのち、男児をその上に掲げさせ(Vaikh. 3, 14 も同様)、その生に対する祝福の言葉をもって語りかけさせる。「石であれ、斧であれ」等。これに続いて前述の燻蒸が行われる。

2. Medhājanana。 きわめて簡潔なのは Āśv. 1, 15, 2 である。彼は(顔を)子の耳の上にかがめ、「Savitṛ 神が汝に智慧を与えんことを」等とささやくことを規定し、それに続いて、肩に触れつつ「石であれ」等の呪句と命名が行われる(多くの個別的な相違は Speijer 59 を参照)。

Ś. 1, 24, 9. 10 によれば、「知性」は、子の右の耳に三度「言葉」という語を言い、ついで「神なる言葉、精神と結び合いて」等の呪句を誦することによって生ぜしめられる。

他の者たちのもとでは、この儀式に子への授食が結びついている。G. 2, 7, 20 は同じく(Āyuṣya におけると同様に)バターを食べさせ、あるいはそれを黄金の器に取り、「Mitra-Varuṇa が汝に知性を与えんことを」等の詩節とともに男児の口に注ぐ。

同様に、あるいはごくわずかに異なるのが Kh. 2, 2, 34;P. 1, 16, 4 ―― これは黄金をはめた第四指で蜜とバターを、あるいはバターのみを食べさせる ―― ;H. 2, 3, 9;Āp. 15, 4(Ś. Br. 14, 9, 4, 25、Bṛ. Up. 6, 4, 24 以下をも参照)である。

所作によるよりも本質的に、Sūtra は呪句によって互いに相違する。

3. 沐浴と乳房を与えること。 「知性の生成」ののち、彼は(G. 2, 7, 22)「臍の緒を切れ」「乳房を与えよ」と命ずる。

H. 2, 3, 10;Vaikh. 3, 15 は男児をぬるま湯で浴させ、「われ汝を kṣetriya より、Nirṛti より解き放つ」等の呪句を唱えさせる。ついで父は彼を母の膝に置き、まず右の乳房を洗って飲ませ、ついで左を洗う。P. 1, 16, 19–21;Āp. 15, 4。

後者はさらに、沐浴ののち男児に真鍮の器で撒き散らしたバターを与え、残りを水と混ぜ、すべてを牛舎に注ぎ出すことを規定する。

三者すべて(Āp.、P.、H.)はなお、最初の授乳ののち、女の頭のところに覆いをかけた水壺を置き、呪句をもって彼女を水の保護に委ねる慣習を記している。「目覚めよ、おお水よ、家のうちに。汝らが神々のあいだで目覚めるごとく、良き子をもてる女の上に目覚めよ」(P. H.)。

Ś. 1, 24, 11 においてのみ私は次の慣習を見いだす。すなわち medhājanana ののち、母が起き上がるまで、麻糸で黄金を彼の(彼女の?)右手に結びつけ、その後、第十日ののちにそれをバラモンに与えるか、自ら受け取るというものである。

Jātakarman が適切な時期に怠られた場合には、これを追って行うべきである(Ś. 5, 7)。

§§ 15. Nāmakaraṇa、nāmadheyakaraṇa(命名)

子は二つの名を受ける(H. 2, 4, 12)。一つは秘密の名で、父と母のみが知るもの、もう一つは日常の使用のためのものである。

guhyaṃ nāma(秘密の名)」は古い、RV および Brāhmaṇa にも知られた習俗であり、その担い手を呪術から守ることを目的とする。呪術は名との結合によって初めて効力をもつからである(Weber, Nakṣ. 2, 317;Stenzler, Āśv. 1, 15, 8 への注)。Somayājin のための第三の名を H. 2, 4, 15 が言及している。

nāmakaraṇa の時期を、Sūtra は種々に挙げる。Ś. 1, 24, 2 によれば、guhyaṃ あるいは rahasyaṃ nāma は出生後まもなく与えられ、それは「われ汝に蜜を与える」という呪句の末尾に付け加えられる。日常の使用のための名は

15. Nāmakaraṇa、nāmadheyakaraṇa。 47

第十日に、バラモンたちの承諾を得て(brāhmaṇajuṣṭam)与えられる(24, 6;25, 8)。ほぼ同様なのが Āp. 15, 2. 8;Kh. 2, 2, 30;3, 6;G. 2, 7, 15. 16(この G. はすでに Soṣyantīkarman においてそうである)。秘密の名を知らない Pār. 1, 17, 1 は、第十日についてのみ語る。

十日の代わりに 100 夜あるいは一年が立つこともある(G. 2, 8, 8;Kh. 2, 3, 6)。Hir. は第十二日を挙げる(2, 4, 6. 10)。Āśv. は特定の日をまったく挙げず、したがってそれを他の書物から補わせている(Stenzler の 1, 15, 4 への注)。

名の性状。 名は男児については音節数が偶数であるべきである(Āśv. 1, 15, 4)。二音節であるべきとするのは Āp. 15, 9;P. 1, 17, 2;Ś. 1, 24, 4;H. 2, 4, 10。堅固さを望む者のためには二音節(Āśv. 1, 15, 4. 6)、あるいは四音節(Āp. 15, 9;P. 1, 17, 2;Ś. 1, 24, 4;H. 2, 4, 10)。brahmavarcasa を望む者のためには四音節(Āśv. 1, 15, 4. 6)、あるいは六音節(Ś. 1, 24, 4)。

有声音で始まるべきものとするのは Āp. 15, 9;Āśv. 1, 15, 4;G. 2, 8, 14;P. 1, 17, 2;Ś. 1, 24, 4;H. 2, 4, 10。中間に半母音をもつべきとするのは Āp.、Āśv.、P.、G.、Ś.、H.。末尾に長母音または visarga をもつべきとするのは Āp.、G.、P.、H.(visarga は Āśv.)。たとえば devaḥbhūridāvā(Hir. への注釈を見よ)。

kṛt 接尾辞であって taddhita ではないとするのは G.、P.、Ś.。バラモンには śarman に、kṣatriya には varman に、vaiśya には gupta に終わるものとするのは P. 1, 17, 4。それは助詞 su を含みうる(Āp. 15, 10;H. 2, 4, 10)。第一の部分は名詞、第二は動詞であるとするのは Āp. 15, 9。

女児については、名は音節数が奇数であるべきである(Āp. 15, 11;Āśv. 1, 15, 4;G. 2, 8, 16;P. 1, 17, 3)。-(?)に終わるとするのは G.、taddhita で -ā に終わるとするのは P.。

さらに Manu 2, 30 以下、Nirṇayasindhu 3, 1 fol. 10ᵇ および諸注釈を見よ(Mahābhāṣya I, 4 頁 22 行以下の引用をも参照)。これが vyāvahārika(日常用)の名である。

もう一つの名は星宿の名である(Āp. 15, 2;H. 2, 4, 13;Weber, Nakṣ. 2, 316)。たとえば rauhiṇaśraviṣṭha である。Hir. においては、どちらが秘密の名であるべきかの選択が自由であるように見えるのに対し、Āp. 15, 3 は星宿名を秘密の名と説明している(Lāṭ. 1, 3, 18 への Agnisvāmin の注をも見よ)。星宿名については Pāṇini が詳しく論じている(Weber 前掲書を見よ。Baudh. の Prayoga における nāmakaraṇa の叙述、Speijer, Jātakarma 125 頁をも参照)。

Āśv. 1, 15, 8 は(guhya の代わりに)abhivādanīya を挙げる。これは父が考え出すべきもので、すなわち学生が誰かに挨拶する際に自らを名乗る名である(Manu 2, 122)。同じ Gṛhya によれば、この名は師のもとへの入門まで(ただ)父と母のみが知るべきものである。

この名は、神格または星宿から、ある者たちによれば gotra からも導かれるべきものであるが(G. 2, 10, 24. 25;Kh. 2, 4, 12)、Āśv. によれば ―― 文脈から明らかになるように ―― すでに出生後に定められるのに対し、Gobh. によれば(Kh. によればそうではない)師が初めてそれを与える。

父が vyāvahārika の名をまず母に告げるべきこと(G. 2, 8, 17;Kh. 2, 3, 12)、あるいは父と母とがまずそれを口にすべきこと(Āp. 15, 8;H. 2, 4, 11)が、しばしば規定されている。

第10日ないし第12日の命名 ―― それは同時に女が起き上がる日でもある(Āp. 15, 8;P. 1, 17, 1;Ś. 1, 25, 1)―― は、厳粛に行われる。P. と Hir. 2, 4, 10 によればバラモンたちに食が供される。

詳細なのは G. であり、Kh. も同様である(2, 8, 9 ないし 2, 3, 6 以下)。G. は、命名を行うべき者を、火の背後に東を向いて darbha 草の上に座らせ、母を介して、新しい衣をまとった男児を、その頭が北に向くように差し出させる。ついで彼は Prajāpati に、誕生日に、誕生日の星宿に、そしてその星宿の神格に供犠する。彼は顔の感覚器官に触れ、Mantra「某よ、Ahaspati の月に入れ」に際して子の名を挿入する。この名を彼はまず母に告げ、牝牛が供犠の報酬である。

48 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

§§ 16. 誕生日の祝い

G. 2, 8, 19. 20。毎月、あるいは年に一度、あるいは年の節目の日に、彼は男児のために Agni-Indra、天と地、全神(Viśve devāḥ)に供犠すべきである。さらに誕生日および誕生星宿の神格に、またその日と星宿そのものに供犠すべきである。

Ś. 1, 25, 10. 11 はただ、毎月、誕生日に供犠すべきであり、一年後には家庭の火において供犠すべきであると言うにとどまる。

§§ 17. 女の起床

G. 2, 7, 23 は、第十日まで男に女に触れることを禁じている。この日が女が起き上がる日であり、ある者たちによれば子に名が与えられる日である(§15 を見よ)。Hir. によればそれは第十二日である。

母と子は沐浴し、家が清められる(2, 4, 6. 7)。Ś. はこの日にいくつかの規定を割いている(1, 25)。父と母は頭まで洗われ、新しい衣を着る。男児も同様である。

産婦の火において sthālīpāka が煮られ、供犠される。すなわち誕生日と三つの星宿に、その中央には誕生日の星宿に、そしてその前には常に星宿の神格に供犠される(第26章には Nakṣatra とその神格の列挙が与えられている)。

ついで Agni への二つの献供、Soma への第十の献供が続き、その際すでに述べたように、子の名が声に出して呼ばれ、バラモンたちが祝辞を述べるよう促される。

§§ 18. 月の礼拝

G. 2, 8, 1 以下;Kh. 2, 3, 1 以下。出生に続く第三の白分の第三日に、男児は朝、頭まで洗われ、日没後、夕映えが過ぎたときに、父は(月を)礼拝する。

母は男児に清らかな衣を着せ、南に立って父に、その頭が北を向くように渡し、背後をまわって北に立つ。ついで父はいくつかの呪句をささやき、最後に(「これが滅びることなきよう、母より離れて」という言葉ののち)彼を北に向けて再び母に渡す。

もう一つの儀式 ―― その正確な時期は私には明らかにならなかった ―― を、われわれは同じ Sūtra に見いだす。すなわち、前述の時期に続く白分において、父は añjali(合わせた両手)に水を満たし、顔を月に向けて月を礼拝し、その際に一度は月に向けられた呪句とともに、二度は静かに、月に水の献供をささげる。

§§ 19. 最初の外出

P. 1, 17, 5. 6 によれば第四月に行われ、その際父は VS. 36, 24 をもって子に太陽を仰がせる。同様に Kauś. 58, 18 の注釈。

§§ 20. 男児の固形食による最初の食事

これはすべての Sūtra の一致した規定によれば(儀式を知らない Gobhila のみを例外として)第六月に行われる。他の場合と同じく、これらの Sūtra も細目においては多くの相違を示すが、それらは特に言及するに及ばない。

Hir. 2, 5 は、一連の献供、バラモンへの食事の供与等ののち、まず三度、酸乳・蜜・バターを与えさせ、その後で他の食物を与えさせる。他方 Āp. 16, 2 はあの三つの材料を粥とともに与え、ある者たちは鷓鴣の肉をも供すると付け加えている。

食物の選択においてはるかに入念なのが Āśv.(1, 16)、Ś.(1, 27, 1 以下)、P.(1, 19, 2 以下)である。それによれば、栄養(食)を望む者には山羊の肉を(Ś.、Āśv.)、あるいは榛鶏を(P.)与えるべきである。brahmavarcas には鷓鴣の肉が(Ś.、Āśv.)、あるいは āṭi 鳥のものが(P.)役立つ。敏捷さには魚料理(Ś.、P.)、威光(tejas)には ghṛtaudana(すなわちバターをかけた米飯)(Āśv.、Ś.)、雄弁には bhāradvājī 鳥の肉(P.)、長寿には kṛkaṣā 鳥の肉(P.)等が役立つ。

Pāraskara に固有なのは、Vāc と Vāja への詩節を伴う二つのバターの献供ののち、sthālīpāka からの四つの献供が

16–21. 誕生日の祝い。Cūḍākaraṇa、Caula。 49

次の呪句とともにささげられるという規定である。「Prāṇa によってわれは食を享けたい、svāhā」「Apāna によってわれは香りを享けたい」「眼によってわれは形を享けたい」「耳によってわれは名声を享けたい」。

彼自身が食したのち、彼はあらゆる種類の食物と香りとを一つの器に入れ、男児に静かに、あるいは「hanta(さあ)」という呼びかけとともに食べさせる。

男児と女児の区別を、われわれは Āśv.(1, 16, 6)に見いだす。彼は女児については所作のみを規定し、呪句を伴わない。

§§ 21. Cūḍākaraṇa、Caula(結髪の儀)

annaprāśana に続けて、Sūtra は髪型の作製を叙述する。Āp. は Upanayana の記述を先行させ、その細目については 16, 8 で参照させている。

多くの者が予定する時期は出生後の第三年である。ただし Āśv.(1, 17, 1)、P.(2, 1, 4)は家族の慣習をも通用させる。P. は Vaikh. 3, 23 および Ś. と同じく、第一年をも挙げる(2, 1, 1 ないし 1, 28, 4)。後者はさらに、この儀式は kṣatriya については第五年に、vaiśya については第七年に行われると付け加えている。白分と吉祥の星宿を Hir. 2, 6, 2 は強調する。Āp. は星宿として Punarvasū を規定する(16, 3)。

必要な器具は、最も完全に列挙する G.(2, 9, 4)によれば、21 の darbha の束、熱湯を入れた青銅の器、udumbara 材の小刀あるいは鏡であり、これらは南側に置かれる。その際、剃刀を手にした理髪師が立つ。北側には牛糞が来る(Kauś. 53, 10 によればそれから壺が作られ、それを親しいバラモンが持つ)、また米と胡麻の料理が、多かれ少なかれ煮られた状態で来る。

いくらか異なるのが Ś. 1, 28, 6 である。家の前で、牛糞を塗った面の上に火が設けられ(G. 2, 9, 2;Ś. 1, 28, 5;H. 2, 6, 2;Āp. 16, 5)、火の前には順に米・大麦・豆・胡麻を満たした鉢が置かれる。

男児は清らかな衣をまとって、母によって火の背後で膝に取られる(P. 2, 1, 5;Āśv. 1, 17, 2)。人々の位置についてのいくつかの規定は重要ではない。温水と冷水が合わせて注がれる(Āśv. 1, 17, 6;P. 2, 1, 6;Hir. 2, 6, 5;Āp. 16, 8 および 10, 5)。P. 2, 1, 8 によればさらに新鮮なバター、あるいは溶かしたバターまたは酸乳が加えられる(Āśv. 1, 17, 7 をも参照)。

髪は湿らされ、まず右の髪の房が取られ、ついで kuśa 草の茎が取られて、一定の規定された仕方で髪のあいだに置かれる。細目においてわれわれのテクストは相違する。「ある者たち」は、Ś. 1, 28, 10 が言うように、髪を整えるのに豪猪の針を用いる。この「ある者たち」とは P. 2, 1, 10 と Āp. 16, 6 である(このことから、両著作の現在のテクストが Ś. の前にあったということは帰結しない)。後者はさらにこの目的のために三つの darbha の束と、未熟な udumbara の果実の束とを規定している。

G. に固有なのは、二本の小刀 ―― 木製と鉄製 ―― の使用であり、これらは次のように用いられる。右の髪の房のなかに darbha の茎を押し下げつつ、彼は右手で udumbara の小刀あるいは鏡を取り、「おお斧よ、傷つけるな」という言葉とともにその上に置く。三度、切ることなく前方へ突き、一度は「Pūṣan が Bṛhaspati のものをもって」という呪句とともに、二度は静かに行う。そうして初めて彼は鉄製の(āyasa)ものをもって髪を切る。他の者たちは後者のみを知り、これを lauha あるいは lohakṣura とも呼んでいる(Āśv. 1, 17, 9;Ś. 1, 28, 14)。

右の髪の房を切ることに続いて、後頭部の髪と左の髪の房を切ることが続く。切られた髪は kuśa の若芽とともに、そのつど牛糞の上に投げられるか、あるいはまず母に渡され(Āśv. 1, 17, 11)、母がそれをそこに投げる。最後にそれらは一緒に運び去られ、牛舎のなか、水たまりのなか、水の近く、

欄外下:Indo-arische Philologie. III. 2. ―― 4

50 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

森のなか、udumbara の樹のそば、草木の茂った場所に埋められるか、darbha 草の上に置かれる。

小刀は拭われて置かれる。ある(あまり明瞭でない)Sūtra によれば、理髪師はそれを三日間用いてはならない(Hir. 2, 6, 10)。すべての所作は男児については呪句とともに、女児については呪句なしに行われる(Ś. 1, 28, 22;G. 2, 9, 23. 24)。

剃り終えたのち(Āp. 16, 11)、髪は家族の慣習に従って、あるいはまた yathārṣi に整えられる(H. 2, 6, 11;Āp. 16, 6;Vaikh. 3, 23)。注釈は後者の表現を、Pravara において挙げられる Ṛṣi の数だけ śikhā を作るという意味に説明している。すなわち、自らの祖先の列に一人の Ṛṣi を挙げる者には一つ、二人をもつ者には二つ、というようにである。

ある注釈は、その śikhā をどのように付けるべきかをも述べている。一つだけであるべき場合には頭の中央に、二つの場合には一つを中央に一つを前に、三つの場合には後ろ・中央・前に、あるいは右・中央・左に、というようにである。

儀式の終わりにバラモン(ācārya、P. 2, 1, 23)は任意の贈り物を受け、G. 2, 9, 29 によれば牝牛等を受ける。理髪師は Ś. 1, 28, 24 によれば種々の種子を入れた器を受け、Hir. 2, 6, 14 によればバターを添えた米を受ける。両親は(Kauś. によれば)互いに三度、男児を手渡す。

§§ 22. Karṇavedha(穿耳)

耳に孔を開けること(Speijer, Jātakarman 21 頁)は、Pār. の一写本にのみ付加されており、第三年または第五年に行われる。

§§ 23. Godāna、Keśānta(剃髭)

「髭を剃ること」は、Sūtra によって大きな一致をもって生涯の第16年に置かれている。Ś. はそれと並んでなお第18年を挙げ(28, 20)、P. 2, 1, 4 はさらに家族の慣習を参照させている。ある注釈は補足して Manu の規定を引用しており、それによれば Keśānta は rājanya については第22年に、vaiśya については第24年に行われる(2, 65)。

その他の点では儀軌は Cūḍākaraṇa の場合とほぼ同じである(Āśv. 1, 18, 1;Ś. 1, 28, 19;G. 3, 1, 2)。最も本質的な相違を Āśv. 1, 18, 3 以下(また Kauś. 54, 16 以下)がまとめている。

いくつかは事柄の性質上必然的なものであり、たとえば呪句における変更 ―― そこでは「髪」という語の代わりに当然「髭」を入れるべきである ―― がそうである。理髪師に与えられる命令は、髪・髭・体毛・爪の処理に及ぶ。Ś. 1, 28, 18 は、髭を剃る際に両腋を剃ることについて語っている。H. 2, 6, 16 によれば彼は śikhā をも剃り落とすが、ある者たちによれば(17)そうではない。

Gobh. 3, 1, 4 は、学生自らが髪と髭と体毛を剃らせると言う。通常の Dakṣiṇā はここでは牛である。牝牛一頭とするのは P. 2, 1, 24、牛一対とするのは Āśv. 1, 18, 8。より詳しいのは G. であり、彼は brāhmaṇa については牛一対、kṣatriya については馬一対、vaiśya については羊一対を与えるよう規定する。理髪師は牡山羊を受けるべきである(3, 1, 5–9)。

儀式には遵守事項が続く。P. によれば青年は一年間、あるいは十二日、六日、少なくとも三日、貞潔を保ち、髪を剃ってはならない(2, 1, 25;Āśv. 1, 18, 9 および 1, 22, 22 をも見よ)。髪と髭を剃ることは、後に samāvartana に際して再び言及される。

§§ 24. Upanayana ―― 「入学」ないし「師のもとへの受け入れ」

(Oldenberg, SBE. 29, 58 頁注1、および法典 Gaut. 1, 5 以下、Āp. 1, 1, 19 以下、Manu 2, 46 等を見よ。)

受け入れの時期。 バラモンにとって、教育への受け入れは受胎後の第八年に行われる。Ś. 2, 1, 3 は

22–24. Karṇavedha。Upanayana。 51

第十年をも許す。Vaikh. 2, 3 は brahmavarcasakāma については第五年をさえ挙げ、āyuṣkāma については第八年、śrīkāma については第九年を挙げる(受胎後)。

Āśv. 1, 19, 1. 2 と P. とは、生涯の第八年と受胎後の第八年との選択を許す。H. 1, 1, 2 は第七年を挙げる。彼と Vaikh. 2, 3、Āp. 10, 4 は、季節として春を挙げる。

生涯の、あるいは受胎後の第十一年に、kṣatriya は教育に入る。H. 1, 1, 4;Āp. 10, 4;Vaikh. 2, 3 によれば夏に。第十二年に vaiśya が入り、H.、Āp.、V. によれば秋に。

しかし受け入れは、家族の慣習に応じてより後に行われることもありうる(P. 2, 2, 4)。というのは、バラモンについてはその時期は第16年まで過ぎておらず、kṣatriya については第22年まで、vaiśya については第24年まで過ぎていないからである(Āśv.、G.、P.、Ś.、V.)。

それ以後は、彼らは Sāvitrī(Sāvitrī の学習)を、したがってまた受け入れを失う。人は彼らをもはや学生として受け入れてはならず、教えてもならず、供犠に参加させてもならず、彼らと交わって(vy-ava-har)もならず、あるいは G. 2, 10, 6 が言うように(vi-vah)彼らと姻戚関係を結んでもならない。

P. は 2, 5, 42 でさらに、Sāvitrī を失った者の子孫にも、第三代まで秘跡(Saṃskāra)と教育を与えてはならないという厳しい規定を付け加えている。そして彼らを清め、受け入れるためには、まず Vrātyastoma 供犠が必要である(Kāt. Śr. 22, 4, 2。Stenzler の P. への注を参照。V. は清めのために UddālakahomaAśvamedhabhṛtha、あるいは Vrātyastoma を規定している)。

受け入れの祝祭。 受け入れの日 ―― これは H. 1, 1, 5 によれば白分の、吉祥の星宿、とりわけ男性名をもつ星宿のもとにあるべきである(V. 2, 5 も同様)―― に、男児は剃髪され、沐浴し、飾りをつけ、また食を与えられ(G. 2, 10, 7;H. 1, 1, 7)、新しい衣をまとう。

バラモンたちも、H. 1, 1, 6 によれば偶数の人数で饗され(P.、H.、Āp.)、祝福の言葉を述べるよう促される。東・北または北東に傾いた、あるいは平らな場所に(H. 1, 1, 9。「小屋の前で」G. 2, 10, 15)火が燃える。それは摩擦によって生ぜしめられるか、通常の火から取られる(H.)。

Āp. 11, 20 によれば、この火は三日間保たれる。すなわち、いくつかの Sūtra によれば Upanayana の厳粛な期間が続くかぎり(Āp. 11, 20. 21. 26;H. 1, 8, 1. 7)である。

この火において、師と学生とがその背後に立ち、師は東を向き、学生は西を向いて(Āśv. 1, 20, 2;Ś. 2, 1, 28。いくらか異なるのは G. 2, 10, 17)、儀式は進行する。立っていることを Ś. 2, 1, 29 はさらに特に強調している。

きわめて詳細なのは H. の記述であり、彼はここで同時に Darvihoma の型を描き出している。儀式の順序は Sūtra において何度も異なる。本質的な点で H. に従えば足りるであろう。

火の南に、彼は brahman のための座に darbha 草を撒き、YV の二つの呪句(「われはまず Agni を自らのうちに取る」等、「いかなる Agni が、おお祖霊よ、われらの心に入りしか」等)をもって Agni を自らのうちに取る(Kāt. 17, 3, 27 を参照)。

火の北には必要な器具が置かれる。1)石(H. 1, 7, 17;3, 14;Āp.、V.、Kauś. にのみ)、2)新しい衣、3)皮、4)帯、5)杖、6)21 本の薪、あるいは献供の数だけの薪。ついで彼は Paridhi を置く。

〔小活字の補説〕衣と皮。 H.(1, 1, 16;4, 2)は「使用されていない」(ahata)衣についてのみ語る。Āp. 10, 10 は、同じ日に紡がれ織られたものについて語る。G.(2, 10, 8. 12)は「亜麻・大麻・木綿・羊毛の衣」について語り、そのうち最初の二つはバラモンのため、木綿のものは kṣatriya のため、羊毛のものは vaiśya のために定められている。Āśv. 1, 19, 9 は、バラモンについては赤褐色に染めた(kaṣāya)衣、kṣatriya については茜色(mañjiṣṭha)のもの、vaiśya については黄色(hāridra)のものについて語る ―― 彼らが衣をまとう場合には。

52 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

しかし注釈のある所見によれば ―― それは私にはテクストと一致しないように思われるが ―― 染めた衣は必ずしも必要ではないという(法典 Gaut. 1, 17 等をも参照)。

上衣をなすのは皮である。Āp. 10, 11 のみが一般に皮(ajina)について語り、他のすべては、より精密な区別を行って、バラモンには黒羚羊の皮(kṛṣṇājinaaiṇeya)を、kṣatriya には斑鹿(raurava)のものを、vaiśya には山羊または牛の皮を規定する。

望むものが手に入らない場合には、P.(2, 5, 20)によればすべての者について牛の皮を用いてよい。それは「すべてのもののうち最良のもの」だからである。あるいは G. によれば ―― 彼のもとではこの規定は衣・帯・杖にも妥当する(2, 10, 14)―― まったく任意のものでよい。

すべての Sūtra が二重の衣を規定するわけではない。Āśv. においては衣と皮のあいだで選択する(注釈 1, 19, 8 を参照。また私に思われるところでは Ś. 2, 1, 14 も)。

帯。 教本の大多数によれば、帯もまたカーストに応じて種々の材料から作られる。バラモンのためのものは muñja 草から、kṣatriya には弓の弦、あるいは(G. 2, 10, 10)kuśa 草、vaiśya には毛糸(ūrṇasūtra Ś. 2, 1, 17;avi Āśv. 1, 19, 12;avisūtra H. 1, 1, 17)あるいは麻(tāmbala G. 2, 10, 10;śaṇa V. 2, 3)、あるいは mūrvā(P. 2, 5, 23;Sansevieria Roxb.)が用いられる。

Āp. 10, 11 は muñja 草から成る三重の帯についてのみ語る。P. は、muñja 草がない場合のために、kuśa 草、また aśmantakabalbaja を(三カーストの)帯として規定している(Gaut. Dh. S. 1, 15;Manu 2, 43 等を参照)。帯が切れて再び作れない場合には、新しいものを作るべきであり、その際にいくつかの詩節を唱えるべきである。これは Ś. 2, 13, 4 に見いだされる。

杖。 バラモンについては palāśa 材から(G. は parṇa という名を用いる 2, 10, 11)、あるいは bilva 材から(Ś. 2, 1, 18;H. 1, 1, 17;V. 2, 3)。kṣatriya については nyagrodha から(Ś. 2, 1, 19;H. 1, 1, 17;V. 2, 3;Āp. 11, 16:「nyagrodha 樹の上方の枝の、下方に向いた部分から」)、あるいは udumbara から(Āśv. 1, 19, 13)、あるいは bilva から(P. 2, 5, 26;G. 2, 10, 11)。vaiśya については udumbara から(Ś. 2, 1, 20;P. 2, 5, 27;Hir. 1, 1, 17)、あるいは badara または udumbara から(Āp. 11, 16)、あるいは bilva から(Āśv. 1, 19, 13)。

しかし何人かの著者はすべてのカーストにすべての樹種を許しており(Āśv. 1, 20, 1;P. 2, 5, 28;Ś. 2, 1, 24)、Āp. はこの規定に明示的に「ある者たちの」として言及している(11, 17)。

Ś.、V. からはさらに長さについての一規定を記録しておくべきである(2, 1, 21–23 ないし 2, 3)。それによれば杖は、バラモンについては口まで(Old.〔= Oldenberg〕は「鼻まで」)、V. によれば髪まで届くべきである(Ś.、Old., SBE. 29, 60 注。Gaut. 1, 26;Manu 2, 46;Karmapr. 3, 8, 12 を参照)。

(補説おわり)

Ājya の献供ののち ―― そのあいだ学生は師に触れている ―― 、師は彼に「この石を踏め、石のごとく堅固であれ」等の呪句とともに石を踏ませる(a)。この儀式は H. のほかには Āp. 10, 9;V. 2, 5;Kauś. 54, 8 のみが知っている。

これに続いて(1, 4, 4)、常に所作の神秘性を認識させる呪句とともに、新しい衣と帯とをまとわせることが行われる(b)。帯は臍のところで三度、ある者たちによれば二度、左から右へと結ばれる。

Ś. 2, 2, 2 によれば、それは 1 本、3 本または 5 本の結び目をもつ(家族において呼びかけられる Ṛṣi の数に応じて。Stenzler の P. 2, 2, 8 への注)。供犠の紐もまた掛けられる(Ś. 2, 2, 3)。

ついで彼は彼に皮を着せ(c)、その授与を他の Sūtra は特に強調していない。そして彼を(1, 4, 8)「brahman に」引き渡す。その呪句はカーストに応じていくらか変えられ、śrotrarāṣṭra ないし poṣa という語を含む(d)。(他の Sūtra にはない。)

これに続いて男児への食事の供与(e)があり、その後に本来の入門が行われる。それは一つの対話をもって始まるが、その字句はすべての Sūtra において厳密に同一ではない。

ある者たちによれば、その前になお水の聖別(f)が行われる。Ś. 2, 2, 4 によれば、たとえば彼は自らと学生の añjali を水で満たす。Āp. 10, 12 によれば、彼は自らの手から一掬いの水を学生の手に注ぎ、学生はそれで自らに水を注ぐ。G.(2, 10, 18)においては、mantra に通じたバラモンが彼の南に立ち、彼と師の手を水で満たす。

24. Upanayana。25. Sāvitrī の誦唱。 53

受け入れ。 新参者が火をめぐり歩くあいだ、師は「われらのもとに来たる者と、われらは一つになる」等の呪句を唱える(H. 1, 5, 1;G. 2, 10, 20)。これに続いて両者は H. によれば次の対話を行う。

(g)学生「われは学業(brahmacaryam)のために来た。われを受け入れよ。神 Savitṛ に促されて、われは学生(brahmacārin)たらんとする」。師「汝の名は何か」。学生「某」。師「幸いにわれは、おお Savitṛ よ、この某とともに目標に達したい」。そしてそれによって彼は学生の二つの名を呼ぶ。

G.(2, 10, 23)は、師が彼に呼び名(abhivādanīya、§15 参照)を与えると言う。それは神格から、星宿から、ある者たちによれば gotra から導かれる。

対話において個々の学派のあいだに支配する相違については、すでに Weber(ISt. 10, 72)が論じている。ここではただ、学生の答え「われは某なり、師よ」ののちに Ś. 2, 2, 5 以下で続く部分を付け加えておこう。師「汝は同じ Ṛṣi の者か」。学生「同じ者より、師よ」。師「汝を学生と宣言せよ」。学生「われは学生なり、師よ」。

この最後の要求と答えは、見たところ Ś. においては、通常この対話に先行し、Ś. には欠けている brahmacaryam āgām の代わりに立っている。Ṛṣi への言及を、われわれは Kauś. S. 55, 12 にも見いだす。

これに続いて両者は身を洗う(h)。ついで一連の儀式が続き、それらは師と学生の霊的な共同を成し遂げるものであり、明らかに呪術的な力をもつべきものである。個々の著者における所作とその順序の多様な相違は、顧慮しえない。

彼は右手で学生の右肩に触れ、左手で左肩に触れ、男児の右腕を(字句はあまり明瞭でない)Vyāhṛti と Savitṛ への一詩節とともに自らのほうへ導く(upanayate)。「神 Savitṛ の命により、われは汝を導き入れる」等(i)。

Ś. は 2, 2, 13 以下で、追随者を望む者たちには別の呪句を、戦士たちには別のものを、病人には Vyāhṛti のみを唱えさせている。

ついで彼は(婚礼におけると同様に)右手で相手の右手を親指もろとも取る。「Agni が汝の手を取った、Soma が手を取った、Savitṛ が手を取った」等。「Agni は汝の師なり」(k)。重要でない相違は G. 2, 10, 26;Āśv. 1, 20, 4–6 等に見いだされよう。

ついで彼は、すべての Sūtra において本質的に同じ文言で繰り返される呪句をもって、彼にその義務を指示する。「神 Savitṛ の命により、Bṛhaspati の学生たれ、某よ、水を享けよ、薪をくべよ、汝の務めを行え、昼に眠るな」(l)。Ś. は(2, 4, 5)これに付け加える。「薪をくべるまで汝の言葉を控えよ」。Āśv. 1, 22, 2(そこではこの入門は Sāvitrī の教授の後に続く)。「汝の師に従い、ヴェーダを学べ」。

これに続いて心臓に触れることが行われ(m)、その際腕の運動が一定の仕方で規定されており(特に Ś. 2, 3, 2 を見よ)、次の呪術の句とともに行われる。「わが心に汝の心が住まわんことを、わが精神に汝の精神が従わんことを、わが言葉を一つ心に聞け」等。さらに臍に触れること(n)、多数の聖別の呪句、さらに彼が右と左の耳にささやく呪句(o)が続く。その後で彼は自らの口を男児の口に触れさせ、「Indra が汝に智慧を与えんことを」等とささやく(p)。

最後に彼は彼を Bhūta たちと神々に委ねる(kaṣakaantaka 等。Kauś. 56, 13 をも参照)(q)。Ś. 2, 3, 1 は神々のみを挙げる(Agni、Indra、Āditya、Viśve devāḥ)。P. には多くの相違がある。

§§ 25. Sāvitrī の誦唱

これらの準備的な、個々の Sūtra において強く改変された儀式ののち、師は学生に Sāvitrī を教える。

それが行われるまでの期間は、種々の師によって種々に挙げられる。Ś. 2, 5, 1–3 はそれを一年または三日と

54 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

定めるが、ただちに教えることも許している。P. 2, 3, 6 は一年、六月、24 日、12 日、六日または三日とするが、バラモンにはただちに Gāyatrī を唱えるべきであるとする(Stenzler の注を参照)。

H. は、すでに以前に入門した者と、まだ入門していない者とを区別する ―― 後者の場合はまず三日を経なければならない ―― が、しかしただちに誦唱することを規定する Puṣkarasādi の見解をも引用している。

火の北に師と学生とは座を占める。師は西を向き、学生は東を向いて、先端が北に向けられた darbha 草の上に座る(G.)。学生は膝を屈め(Āśv. 1, 21, 5;G. 2, 10, 36)、右手で師の右足を(Āp. 11, 8)、あるいは両足をつかんで言う。adhīhi bho sāvitrīṃ bho'nubrūhi(Āśv. 1, 21, 4;H. 1, 6, 10)、adhīhi bhoḥ sāvitrīṃ me bhavān anubravītu(G. 2, 10, 38)等(RV Prātiśākhya ed. M. Müller § 831 以下、および Gaut. 1, 46 のような法典をも参照)。

Sāvitrī として通用するのは、Ś. 2, 5, 4–7、P. 2, 3, 7–9 においては、バラモンについては Gāyatrī、kṣatriya については Triṣṭubh(RV 1, 35, 2)、vaiśya については Jagatī(RV 4, 40, 5 または 1, 35, 9)、あるいは他の詩節である(Stenzler と Oldenberg を見よ)。

(Hir. 1, 6, 11 が規定する)TS. 2, 3, 14, 3 の呪句の誦唱ののち、彼は Sāvitrī を先唱する。まず pāda ごとに、ついで半詩節ごとに、ついで切ることなく全体を。H. は Paddhati の流儀で、その様式を精密に示している。

Āp. 11, 10 以下は、pāda ないし半詩節の初めと終わりに Vyāhṛti を個別に挿入させ、最後のものは Sāvitrī 全体に挿入させる(G. 2, 10, 40 をも参照)。Āśv. 1, 21, 6 は、Sāvitrī を(学生に)「その力に応じて」誦唱させるよう定めている(Divyāvadāna 638 頁を参照)。

薪をくべることは H.(および Vaikh.)においては Sāvitrī の誦唱の後に初めて行われる。七本の新しい、一 pradeśa の長さの palāśa の薪 ―― その先端は折れていない ―― を、彼はバターに浸してくべる。しかもまず一本、ついで二本、ついで四本を、Mantra「Agni にわれは薪を運んだ」とともにくべる。

他の Sūtra においては、一本の薪をくべることが Sāvitrī の教授の前にすでに規定されている(Ś. 2, 4, 6;Āśv. 1, 20, 11)。それは静かに行ってよい。「ある者たち」によれば(Āśv. が言うように)H. も用いる呪句とともに行う。

杖の授与は、Sūtra の大多数によればここで行われる(Āśv. 1, 22, 1 ―― 彼はここで初めて帯をまとわせること(b)と義務への指示(l)を行わせる。Āp. 11, 15;H. 1, 7, 11;Ś. 2, 6, 2;G. 2, 10, 41)。ただ P. 2, 2, 11 のみがより早い時点を選ぶ。もう一つ別の時点を Ś. 2, 11, 4 が挙げている。(soma 供犠のための聖別に際して祭主が携える杖をも比較せよ。Kāt. 7, 4, 1. 2。)Ś. 2, 13, 3 は学生に、自分と杖とのあいだを通らせないよう規定している。

杖のほかに、彼は H. 1, 7, 11 において(乞食のための)器を受ける。

最後に師は供犠の報酬として愛の贈り物を受ける。H. によれば daṇḍapradāna の前になお受ける。そのほか彼には「学生が受け入れに際して身につけているもの」が帰する(Ś. 2, 1, 25;Āp. 11, 26)。

Āp. から私は記録しておく(11, 18)。師は愛の贈り物を受けたのち、彼に起立を命じ、学生は太陽を礼拝する。師が、彼が自分から疎遠にならぬことを望むならば、それに関わる呪句とともに彼の手を取る(Mp. 2, 5, 6)。H.(1, 7, 10)においては師は学生を太陽に委ね、自ら数個の呪句をもって太陽を礼拝する。

vrata は三日間続く。これは Āp.、Hir.、G. から明らかになる。Āp.(11, 20)によれば、彼らは Upanayana の火を三日間保つ。同じ期間、彼は塩を加えた食物も香辛料を加えた食物も食べない(G. 2, 10, 47;Āp. 11, 21;H. 1, 8, 2)。H. はさらに精密な規定を与えている。三日が過ぎたのち、バラモンたちに食が供され、祝辞を述べるよう促される。

26. 学生の義務。27. Adhyayana。 55

§§ 26. 学生の義務

学生の義務は、いま述べた入門の定型句から明らかになる。Ś. は 2, 6, 8 で、学生の恒常的な義務は、日々の薪をくべること(a)、托鉢(b)、地上に眠ること(c)、師への従順(d)に存すると言う。

G. 3, 1, 27 は、帯を着けること、托鉢、杖を携えること、薪をくべること、水に触れること(すなわち朝夕の洗浄)、朝の挨拶を「nityadharma」と呼んでいる。P. 2, 5, 11 をも参照。

§§ 27. Adhyayana(学習)

(Weber, ISt. 10, 131 以下を見よ。)

学習の範囲については、P. 2, 6, 5 以下に一規定が見いだされ、そこでは vidhividheyatarka が区別される。すなわち注釈によれば、規定(所作についての Brāhmaṇa の言明)、適用(呪句と

56 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

詩節)、論究(儀礼とテクストの意味の)である。「ある者たち」によれば、ヴェーダはその補助学(aṅga)とともに学ばれるべきである(6)。いずれにせよ Kalpa(儀軌)のみではない(7)。Vaikh. 2, 12 は vedānvedauvedaṃ vā sūtrasahitam と言う。

学習の仕方。 学習は日々、日の出ののちに始まる(Ś. 2, 9. 10, 1;Kh. 3, 2, 22 prātar)。Ś. は(Speyer によれば)挿入された章 2, 7 以下において、学習の仕方についてより詳しい情報を与えている。

各 Mantra がいずれの Ṛṣi に由来するか、その神格と韻律とを挙げつつ、彼は学生の求めがあるたびごとに、各呪句を誦すべきである(2, 7, 18)。彼らは火の北に座を占める。師は東を向き、学生は西を向いて(なお Ś. 4, 8, 2 と Āśv. 3, 5, 11 を参照)。

一定の規定された儀式を伴いつつ、学生は言う。「Sāvitrī を先唱してください、師よ」。師「Sāvitrī を汝に先唱しよう」(Ś. 54)。学生「Gāyatrī を先唱してください」「Viśvāmitra の詩節を先唱してください」。彼はその願いを「Ṛṣi たち」「神格」「韻律」「śruti」「smṛti」「śraddhāmedhe」に関して繰り返す。師が自ら Ṛṣi・神格・韻律を知らない場合には、彼は Sāvitrī を誦する。

このようにして彼は、1)個々の Ṛṣi ごとに、あるいは 2)85 の Anuvāka の各々を、Kṣudrasūkta(RV 10, 129–131)においては Anuvāka 全体と同じく、あるいは 3)guru の望むだけ、4. 5)あるいは望むままに各 Ṛṣi ないし Anuvāka の最初と最後の讃歌を、あるいは 6)讃歌の初めから一詩節ずつを教える。「讃歌の初めに師は、望むならば言う。これが始まりである、と。」

Ś. の規定は RV に関わる。他のヴェーダにおいては当然、教授の素材が変わる。P. 2, 10, 18 以下は、Bahvṛca 派については「Ṛṣi たち」の始まり、Chandoga 派については Parvan の始まり、Atharvan 派については Sūkta の始まりについて語り、他方「Adhyāya の始まり」(18)によっては、おそらく自らの学派の Śākhā を指している。

H. 1, 8, 16 からはなお記録しておくべきことがある。Kāṇḍa の始まりと終わりに、すなわち Kāṇḍavrata の(注釈を参照)始まりと終わりに、Sadasaspati への献供、すなわち Kāṇḍa の Ṛṣi にささげられる献供が行われ、それに続いて Varuṇa 等への他の献供が続く(なお Āp. 8, 1 を参照)。

Ś. 2, 7, 28 によれば、(師は)講義の終わりに kuśa の若芽を取り、その根のところに牛糞で穴を作り、各歌ごとに kuśa の茎に水を注ぐ。P. 3, 16 には、学習ののちに毎回(Kārikā によれば日ごとに)、忘却を防ぐために唱えるべき呪句が見いだされる。「わが口が巧みならんことを、わが舌が甘き言葉たらんことを」等。

§§ 28. 学習に際しての学生の作法

Ś. 4, 8, 5 以下によれば、彼は guru の近くで高い座に座ってはならず、同じ座に座ってもならず、足を伸ばしてはならない、等々。

学生は「adhīhi bho」と言う。ついで師は彼に「om」と言わせ、学習が続く。その終わりに学生は師の両足を抱いて「われらは終わりました、師よ」と言い、あるいは(ある者たちによれば)「解散」あるいは「いま休止」と言う。ついで彼は自らの用を足す。

学習のあいだ、誰も両者のあいだに立ち入ってはならない。彼が過失を犯した場合には、三日三夜あるいは24時間断食し、できるかぎり長く Sāvitrī を繰り返し、バラモンに何かを贈るべきであり、一日の休止ののちに学習は続けられる。

§§ 29. Vrata(誓戒)

個々の Gṛhyasūtra は、ヴェーダの種々の部分の学習を導入する種々の誓戒に言及している(Ś. 2, 11. 12;G. 3, 2;Oldenberg, Ind. Stud. 15, 139. 140;SBE. 29, 78. 79)。

そのそれぞれには、Sāvitrī の場合と同じく Upanayana が先行し、Uddīkṣaṇikā すなわち Dīkṣā の放棄が続く。その際、師は学生に種々の問いを

28. 学習に際しての学生の作法。29. Vrata。 57

遵守事項に関して〔問いを〕向ける。

Sāvitrī を導入する Sāvitravrata(上記 53 頁を見よ)―― その遵守は一年、あるいは三日続きうる ―― のほかに、Ś. はなお四つを知っている(2, 4, 2 以下への注釈を参照)。すなわち、Ṛgveda の学習を導入する Śukriyavrata、そして Mahānāmnī、Mahāvrata、Upaniṣad の学習にそれぞれ先立つ ŚākvaraVrātikaAupaniṣadavrata である。Śukriya は三日または十二日、あるいは一年、あるいは guru が適当と認めるかぎり続き、他の三つはそれぞれ一年続く。

太陽の北行のあいだ、白分において、ただし第十四日または第八日を除き、ある者たちによればさらに最初と最後の日をも除き、あるいは星によって命じられた他の日に、師は自ら24時間の禁欲を行ったのち、学生に Śukriya の誓戒のための brahmacarya を求めるべきである。

Sāmbavyagṛhya は問答を挙げている。「Śukriya の brahmacārin たれ」「われは Śukriya の brahmacārin たらんとする」。

期間が過ぎ、誓戒が果たされ、Ṛgveda の学習が終わると、Rahasya(Śākvara、Mahāvrata、Upaniṣad)が続く。Ś. にはこれについていくつかの規定があり(2, 12)、諸注釈によればそれは Śukriya についても妥当するが、Oldenberg は Sāmbavyagṛhya への注釈に従って、これを秘教のための Vrata のみに関係づけている。

師は Vrata の終わり(Uddīkṣaṇikā)に学生に問う。「汝は Agni、Indra、Āditya、Viśve devāḥ(Upanayana に際して彼が委ねられた神々。53 頁参照)の前で禁欲のうちに歩んだか」。「はい、師よ」。

ついで彼は学生の頭を三度、新しい衣で覆い、その縁を垂れ落ちないように整え、三日間、黙して、注意深く、森のなか、寺院あるいは agnihotra の場所で断食し、薪をくべず、托鉢せず、地に眠り、師に従順であるよう命ずる。ある者たちはこれらの制限を一夜のみについて規定する。師は肉食と性交を控える。

期間が過ぎたのち、学生は村から出て、学習を妨げる一定のもの(たとえば生肉、産婦、不具の者など)を見ることを避けねばならない。師は北東に出て、清らかな場所に座を占め、日の出ののち、頭布をまとって黙して座る学生に、学習について規定された仕方で(上記参照)秘教を先唱する。

これは Mahānāmnī の詩節(Ait. Ār. IV)について妥当し、他のテクストにおいては、師が自らのために読誦を行うときに、学生はただ聞くのみである。その報酬は頭布、器、牝牛である。

Āraṇyaka の学習に関するより精密な記載を(2, 12 ですでに述べられたことを部分的に繰り返しつつ)Ś. の第VI巻が含んでおり、これはおそらく後代の付加である。

Vrata については G. III, 1–2(および Khād. 2, 5, 17 以下)も詳しく論じている。G. は godānikavrātikaādityavrata(これはある者たちは行わない)、aupaniṣadajyaiṣṭhasāmikamahānāmnī の誓戒を挙げており、それらとヴェーダ・テクストとの関連については 3, 1, 28 への注釈を参照すべきである。

これらの誓戒は遵守事項において部分的に異なる。たとえば Ādityavrata を行う者たちは、太陽に対して樹木と小屋の下にのみ庇護を求め、他のいかなる場所にも求めず、また(guru に指示された場合を除いて)膝より深く水に入らない。

JyeṣṭhasāmanMahānāmnī の誓戒は一部同じであるが、前者の遵奉者は śūdra の女を避け、鳥肉を食べないことを強いられる。

最も詳細に G. は Mahānāmnī の誓戒を特徴づけている。他のものがそれぞれ一年を要するのに対し、これは 12 年、9 年、6 年、3 年続く。ただしある者たちによれば一年でも足りる。その場合、誓戒はより厳しくなり、また Mahānāmnī がすでに祖先によって学ばれている場合にのみ、この短期間が許される。

58 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

Mahānāmnī すなわち Śākvara の誓戒は、きわめて広く行われていたように見える。それを証するのが、G.(3, 2, 7)における Raurukibrāhmaṇa からの引用である。「母たちは乳を与えるとき、その男児に語りかける。『Śākvarī の誓戒を、おお息子よ、汝がいつか果たさんことを』と。」

この誓戒は水と雨季とに明瞭な関係をもつ。それは個々の呪句と、G. 3, 2, 10 以下に見える興味深い儀式とが示すとおりである。この誓戒の最初の三分の一が果たされると、彼は彼のために最初の Stotra 詩節を歌わせ、第二と最後の三分の一には第二ないし第三の詩節を、あるいは全体の終わりにすべてを歌わせる。学生はそのために断食し、目を閉じていなければならない。

Vaikh. は pārāyaṇavratāni に第2章9–11 節を割いており、そこで彼は sāvitrī-prājāpatya-saumya-āgneyavrata 等に言及している。Kauś. 42, 12 以下への Keśava は「veda-kalpa-mṛgāra-viṣāsahi-yama-śiro-aṅgirovrata 等」について語る。Atharva の Paddhati は vedavrata についての一章をもつ(Bloomfield の 57, 32 への注、および JAOS. 11, 376 を参照)。

誓戒を果たした学生の caritavrata についての一般的規定を Āśv. 1, 22, 20 が与えている。それによれば、それには「智慧の生成」が結びついている。それは禁じられていない方角で行われる。学生は根のついた palāśa の枝、あるいは kuśa の束を手に取り、三度、左から右へ水を注ぐ。その際、彼の能力に関わる呪句を唱えつつ、その周りを回る。(「汝が神々と供犠の宝の守護者であるように、われも人間とヴェーダの宝の守護者たらんことを」。)

§§ 30. Upākaraṇa、upākarman ―― 開講の祝祭

(Weber, Nakṣatra II, 322;Bühler, IA. 23, 238 以下。)

Ś. 4, 5, 15. 16 では、śloka において Upākarman が、Tapas の力によってそれを見た Ṛṣi たちの業として讃えられている。

学派はそれについて次の時期を挙げる。Āśv. 3, 5, 2:草木が現れ、月が Śravaṇa にあるとき、Śrāvaṇa 月において。3:あるいは月の第五日、Hasta 星宿において。この Upākaraṇa を人は vārṣika と呼ぶ(3, 5, 19)。

P. 2, 10, 2:草木が現れ、月が Śravaṇa にあるとき、Śrāvaṇa 月の満月の日に、あるいは Śrāvaṇa 月の第五日に Hasta 星宿のもとで(注釈の記載についての Stenzler の注を参照)。

Ś. 4, 5, 2:草木が現れるとき、Hasta または Śravaṇa のもとで。H. 2, 18, 2:Śrāvaṇa 月の白分に、草木が現れたとき、Hasta 星宿のもとで、あるいは満月の日に。

G. 3, 3, 1:Prauṣṭhapada 月の満月の日に、あるいは Hasta 星宿のもとで。ただし彼は 3, 3, 13 で、Śrāvaṇa の満月の日に始める「ある者たち」にも言及している(Kh. 3, 2, 16)。これらの者は Savitṛ の日まで学習を待つ。

Vaikh. 2, 12:athāṣāḍhopākarma kuryāt。Kauś. 141, 2:śrāvaṇī または prauṣṭhapadī に。

学期の初めには供犠が行われる。その際に遵守すべき細目については、同じ学派の内部でも師たちの見解が分かれる。

Ś. 4, 5, 3 以下の報告によれば、ある者たちによれば人は(挽いていない大麦と穀物から成り、酸乳と溶かしバターを混ぜた)供物を、ヴェーダの詩節ごとに供犠する。あるいは讃歌と Anuvāka の最初の詩節をもって供犠する。Māṇḍūkeya によれば Adhyāya の最初の詩節と Ṛṣi たちの(すなわち、種々の Ṛṣi に由来する歌群の)最初の詩節をもって。他方 Kauṣītakin によれば Maṇḍala の最初と最後の詩節をもって行う。

Kauṣītakin の挙げる仕方を Āśv. 3, 5, 6 以下も規定するが、ただ彼は Śākala 学派の最後の詩節と Bāṣkala 学派の最後の詩節との両方を挙げている点が異なる。

同じ Gṛhyasūtra は、まず二つの Ājyabhāga を供犠させ、ついで Sāvitrī、Brahman、Śraddhā、Medhā、Prajñā、Dhāraṇā、Sadasaspati、Anumati に、また韻律と Ṛṣi たちにバターの献供を行わせ、ついで上述の詩節に続けて酸乳のなかの大麦を供犠させる。

P. 2, 10, 3 以下によれば、二つの Ājyabhāga とバターの献供ののち、Ṛgveda においては大地と

30. Upākaraṇa、upākarman。31. 休暇その他。 59

Agni に供犠され、Yajurveda においてはエーテルと Vāyu に、Sāmaveda においては天と太陽に、Atharvaveda においては諸方位と月に供犠される。さらに各ヴェーダにおいて Brahman と韻律に、さらに Prajāpati、Deva たち、Ṛṣi たち、Śraddhā、Medhā、Sadasaspati、Anumati に供犠される。VS. 32, 13 の呪句 sadasaspatim をもって、師は三度、炒った穀粒を供犠し、一同がその呪句を復唱する。

Hir. 2, 18, 3 は、火を設け供犠が Vyāhṛti まで進んだのち、Kāṇḍa の Ṛṣi たちに(「Soma に、Kāṇḍa の Ṛṣi に」、Agni に、等々)供犠させるか、あるいは Kāṇḍa の名に、Sāvitrī、Ṛgveda、Yajurveda、Sāmaveda、Atharvaveda、Sadasaspati に供犠させる(Āp. 8, 1 への注釈は、Kāṇḍa のすべての Ṛṣi に供犠する Adhyāya の始まりと、その Ṛṣi に供犠すべき Kāṇḍa の始まりとを区別している)。

Ś. 4, 5, 10 によれば、彼らは RV 4, 39, 6 とともに供物を食し、身を横たえ、Mahāvyāhṛti 等をつぶやき、師に祝辞を述べるよう促す。

P. 2, 10, 13 以下によれば、学生たちは穀粒の供犠のたびごとに、なお葉のついた新鮮な、バターを塗った udumbara の薪を、Sāvitrī を誦しつつくべる。ただし彼らがなお brahmacārin である場合には、学生の Samidādhāna に際して通常の仕方で行う(53 頁参照)。

彼らは炒った穀粒と、Yajus の呪句とともに酸乳を食べ(G. 3, 3, 6. 7 をも参照)、その後で彼は向かい合って座る者たちに「Om!」と言い、三度 Sāvitrī と、各章すなわち Ṛṣi たち・Parvan・Sūkta の冒頭(56 頁参照)を唱え、一同が彼らの共同に関わる祝福の言葉をささやく(2, 10, 22)。(なお Gobhila 3, 3, 2 以下を参照。)

この Upākaraṇa ののち、学習が始まる前に三日の休止が入る(Ś. 4, 5, 17;P. 2, 10, 23;H. 2, 18, 7:一日または三日)。

学生の数は制限されていなかったように見える。Ś. 4, 8, 2 以下は、場所に応じて一人、二人あるいはそれ以上の学生について語り、P. 2, 10, 17 は、師は自らが望む学生の数だけの胡麻の粒を、Sāvitrī あるいは Anuvāka VS. 17, 80 以下を誦しつつ、賽盤とともに供犠すべきである、と言う。

§§ 31. 休暇と不定期の中断

a)学期の開始に際しての三日の休止のほかに、その終わりにも同様の中断が入る(Ś. 4, 5, 17;P. 2, 11, 13)。さらに Aṣṭakā と季節の最後の夜には24時間の休止がある(Ś. 4, 5, 17)。

学習の中断一般を扱う、きわめて決疑論的な Sūtra 4, 7(また Kauś. 141)においては、定期の休止として第14日、新月の日と Aṣṭakā の日が挙げられ、さらに「vāsareṣu nabhyeṣu」という確実には説明されていない時期規定がある。これは見たところ季節の境目に関わる。さらに夜、薄明の時、節目の日、日没が挙げられる(4, 7, 16–19)。

P. 2, 11, 1 は amāvāsyā と ṛtusandhi を定期の中断として挙げる。G. 3, 3, 20 は Aṣṭakā、amāvāsyā、Kārttika・Phālguna・Āṣāḍha の各月の満月の日を挙げる。Kauś. 139, 24 は Pauṣya の黒分における三日の休止について語る。

b)不定期の anadhyāyahetavaḥ は種々の機会に生ずる。たとえば死亡の場合、両親・師・親族・同学の者(G. は領主をも挙げる)の死などであり、これらは十二日までの中断を引き起こす(Ś. 4, 7, 6. 9. 10. 11. 13;Āśv. 4, 4, 17 以下;G. 3, 3, 24 以下;P. 2, 11, 7 以下)。さらに学生が随行した葬儀に際して(Ś. 4, 7, 14)、Śrāddha の食事に際して(Ś. 4, 7, 12;P. 2, 11, 2)。

同じく、望ましくない人物を見ることも休止を生ずる(śūdra:Ś. 4, 7, 20;悪評ある者やカーストを失った者:P. 2, 11, 5;犬・驢馬・梟・豺:Ś. 4, 7, 33;P. 2, 11, 6)。Sāman の響き(Ś. 4, 7, 21;P. 2, 11, 6)、人の悲鳴(P. 2, 11, 6)、琵琶の音(Ś. 4, 7, 31;G. 3, 3, 28;P. 2, 11, 6)等もそうである。さらに禁じられるのは

60 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

墓地での学習、村の森(?)での学習、村のなかに死体があるときの村での学習である(Ś. 4, 7, 22 以下;P. 2, 11, 4–6)。稲妻・雷・雨のとき(Ś. 4, 7, 4;G. 3, 3, 17)、地震のとき(P. 2, 11, 2)、その他の異常な現象や徴のとき(Ś. 4, 7, 1–3)、流星のとき(P. 2, 11, 2)、風のとき(Ś. 4, 7, 28;P. 2, 11, 9)、その他 Ś. 4, 7;P. 2, 11;G. 3, 3 に細かく特定された多くの機会においてもそうである。

これによってもなおすべての可能性が尽くされていないことは、G. 3, 3, 29 から明らかになる。そこでは他の場合について śiṣṭa たちの実践が参照されている。

学生の旅立ち。 学生が旅立とうとするとき、彼は師に(静かに)言う。「入る息と出る息のうちに(声高に)Om! われは住まわんとする」。師は(静かに)答える。「入る息と出る息のうちに……われは汝とともに入る。守護の神に汝を委ねる。おお神 Savitṛ よ」等(声高に)「om svasti」(Ś. 2, 18)。

同じ所作と(Oldenberg とともに)Āśv. 3, 10 をも結びつけるべきである。注釈はこれを学生の帰郷に関係づけているが、私には不当と思われる。

§§ 32. Utsarga(閉講)

学期の終わりの時期として、Ś. 4, 6, 1 は Māgha 月の白分の第一日を挙げ、G. 3, 3, 14 は Taiṣa 月の満月を挙げる。H. 2, 18, 8 は Taiṣa 月の白分で、月が Rohiṇī の星座にあるとき、あるいは満月の日そのものを挙げる。P. 2, 12, 1(Kauś. 141)は Pauṣa 月で月が Rohiṇī にあるとき、あるいは中間の Aṣṭakā に。この後者(Māgha 月)を Āśv. 3, 5, 20 は「水に入る」日として挙げている。

したがって学期は6か月続く(Āśv. 3, 5, 14)。Ś. 4, 6, 7. 8;P. 2, 11, 10. 11;Vaikh. 1, 12 によれば 6½ か月または 5½ か月である。Kauś. 139. 141 は 4 か月に 3 日欠ける、あるいは 4⅓ か月と言う。

閉会の祝祭についても細目において Sūtra は相違するが、神々・Ṛṣi 等への水の献供をささげる点では一致している。

Ś. 4, 6, 1 以下によれば、指定された日に北東の方角へ、草の多く生える場所へ行くべきである。そこで人は Sūrya の歌(1, 50. 115;10, 37. 158)をささやき、歌 10, 152 の各詩節ごとに各方位へ土塊を投げ、Ṛṣi たち、韻律、神格、Śraddhā と Medhā、祖霊たちに、一人ずつ水の献供をささげる。

Āśv. 3, 5, 22 はさらに ācārya たちを挙げ、P. 2, 12, 2 は「古い」ācārya たち、「他の」ācārya たち、その部分をもつ年、そして「自らの祖霊と ācārya たち」を挙げる。

四度すばやく Sāvitrī を誦したのち、彼らは言う。「われらは終わった」(12, 3)。なお記録しておくべきは、彼らが呪句「二人の Kavi よ」等を、「われらが友情を解くまで」までつぶやき、三日間ともに留まったのちに別れることである(11. 12. 13)。

より詳細に H. がこの対象を扱っている(2, 18, 8 以下)。師は学生たちとともに東または北へ、心地よく沐浴に適した水のある場所へ出かける。そこで彼らは水に潜り、RV X, 190(TĀr. 10, 1, 13)とともに三度息を止め、沐浴する。手には pavitra の茎を持ち、一定のヴェーダの一節を誦したのち、それを互いに手渡す。

これに続いて、明らかにきわめて古い祖霊祭祀の一部が来る。彼らは清らかな、東に傾いた場所に darbha 草で座を設ける。南から北へ、まず「devagaṇāḥ」すなわち Brahman、Prajāpati 等のために。ついで北に、7人の Ṛṣi(Viśvāmitra、Jamadagni、Bharadvāja 等)のために、西から東へ、北に傾いた場所に。その中央に、Vasiṣṭha と Kaśyapa のあいだに、Arundhatī のための座を。南には、東に傾いた場所に、Agastya のための座を。ついで多数の師たち、神々のために、ヴェーダとその作者たちのために、Padapāṭha の作者 Ātreya まで、注釈の作者 Kauṇḍinya、Sūtra の作者 Satyāṣāḍha 等のために座を設ける。さらに彼らは、父方の

32–35. Utsarga、閉講。Brahmacārin の卒業、その他。 61

および母方の祖先たちのために座を設ける。「某のために座を設ける、某のために座を設ける」という呪句とともに。

これに続いて、それぞれのために水・香・花・香煙・灯明・食物・果実を伴う水の献供が行われる。これらの献供の場の背後で、彼は火に薪をくべ、Upākaraṇa におけると同じく(59 頁参照)Kāṇḍa の Ṛṣi たちに、あるいは Kāṇḍa の名等に供犠する。

彼らは二つの詩節とともに岸に dūrvā 草を植え、水を波立たせ、息が続くかぎり、東または北へ競走を行う。彼らが帰ってくると(注釈は、競走からか Utsarga からかについて揺れている)、バラモンたちに施しをする。

ヴェーダの学習が終わったときには、同じ儀礼が行われる。ただし dūrvā を植えること、水を波立たせること、競走することを除く。

§§ 33. 第二学期

学習が 5½–6½ か月休むという、いくつかの Sūtra の上述の記載は、Pauṣa 月ののちに新たに学習期が始まったという想定を排除するように見える。しかし法典はこの utsarjana の後の学習の継続を知っており(Oldenberg, SBE. 30, 80 を見よ)、われわれはいくつかの Gṛhya にもそれへの示唆を見いだす。

Ś. 4, 6, 9 には、彼らが(なお)学習しようとするならば、24時間休止して、そののち学習を続ける、とある。G. 3, 3, 16 は pratyupākaraṇa について語り、注釈はこれを udagayanopākaraṇa すなわち冬至に始まる学期と説明している。Āśv. 3, 5, 23 への注釈によれば、ここでは Vedāṅga が学ばれる(Vaikh. 2, 12:ata ūrdhvaṃ śukleṣu kāmaṃ tu vedāṅgāni)。しかし G. への注釈からは、ヴェーダ自身も読まれうることが明らかになるであろう。

冬至の日そのものは祝われ、また、ある者たちによればその三日前と三日後も祝われる。

§§ 34. ヴェーダ学習の期間

brahmacarya の期間は、各ヴェーダについて 12 年、あるいは彼がそれを理解するまで続く(Āśv. 1, 22, 3;P. 2, 5, 14. 15;Hir. 1, 8, 14)。あるいはすべてのヴェーダについて 48 年である(P. 2, 5, 13。Manu 3, 1 をも参照)。H. 1, 8, 14 は(一つのヴェーダを学ぶか複数を学ぶかに応じて)48 年、24 年、12 年について語る。(なお Stenzler の P. 2, 5, 13–15 への注を参照。)

§§ 35. Brahmacārin の卒業。Snātaka

P. 2, 5, 31;G. 3, 5, 21 以下は三種の Snātaka を区別する。ヴェーダ学習の終了後、しかし誓戒の完遂前に Snātaka の儀式を行う者は vidyāsnātaka と呼ばれる。逆に、ヴェーダを終える前に誓戒を果たした者は vratasnātaka と呼ばれる。両者を終えて帰郷する者は vidyāvratasnātaka である。最後の者は三者のうち最高であり、他の二者は互いに等しい(G.)。

なお Stenzler の Āśv. 1, 22, 3 への注、Manu 4, 31、Gaut. 9 等を参照。Snātaka は、その名の言うとおり、修学期を終える沐浴を行った者を指す。Āśv. 3, 9, 6 は周知の言葉として引用している。「偉大なる存在は Snātaka である」(Gautama 9, 74 をも参照)。

「帰郷する者」(samāvartsyamānasamāvṛtta)のための沐浴の規定においては、Sūtra のあいだに大きな一致があるが、細目においてはそうではない。

時期として H. 1, 9, 3;Vaikh. 1, 13 は udagayana、白分を挙げ、星宿としては Rohiṇī、Mṛgaśiras、Tiṣya、Uttarā Phalgunī、Hasta、Citrā または Viśākhe を挙げる。

沐浴には Godānika の儀式、すなわち髪と爪を切ることが結びついている(Ś. 3, 1, 2;P. 2, 6, 17;Āśv. 3, 8, 6;H. 1, 9, 10 以下)。切り屑は H. によれば、親しい者によって牛舎のなか、udumbara のそば、あるいは darbha 草の束のなかに埋められる。歯を磨くことも規定されている。

その場所に火が設けられ、そのために Āśv. 3, 8, 4 によれば、乾いた、あるいは新鮮な

62 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

供犠に適した樹の木を、帰郷者の願い ―― 食物・富あるいは brahmavarcasa に向けられた ―― に応じて用いる。

Snāta がささげるべき献供、すなわち deva-pitṛtarpaṇa ―― Agni、Vāyu、Sūrya 等および祖霊たちへの水の献供から成る ―― を、Ś. 4, 9. 10 が規定している。

前置された表現 snātaḥ は、卒業の沐浴の後の時期を指している。そうでなければ、Sāmbavya Gṛ. S. および Oldenberg とともに(H. における祖霊供犠もそれを支持する)、この tarpaṇa を学期の終わりに置くこともできたであろう。

P. 2, 6, 9 は、それが pariṣṛtasyottarataḥ(G. 3, 4, 8 では parivṛte)行われると述べる。Āp. と H. においては、この所作のために牛舎が要求ないし許容されており、彼は日の出前にそこに入らねばならない。

戸口は内側に向けた皮で覆うべきである(Āp. 12, 1)。あるいはそのなかで四方から一つの場所が密に覆われる(H. 1, 10, 3)。太陽はその日、Snātaka を照らしてはならない(Āp. 12, 2。H. 1, 10, 3 では「ある者たち」)。

水はぬるくなければならず、G. 3, 4, 11 によればあらゆる供犠用の草の煎汁と香料を加える。他のすべてと異なるのが P. 2, 6, 9 の記載であり、それによれば学生は囲いの北側で八つの水瓶の前に立ち、そのうち五つから呪句とともに、三つから静かに自らに水を注ぐ。

第二の様式として Āp. 13, 1 は tīrtha を沐浴の場所として挙げている。杖・帯・皮・掛け布、すなわち学生の装いは水に投げ込まれる(Ś. 2, 13, 8;H. 1, 9, 10;Vaikh. 1, 13)。しかし他の Sūtrakāra たちは、そもそもこれに立ち入るかぎりで、他の慣習をも知っている。

Āp. 12, 4 は帯を一人の学生に手渡させ、その学生が呪句とともに udumbara 樹の根もとか darbha 草の束のなかに隠すか、あるいは単に置くだけとする(P. 2, 6, 15)。

Gṛhya は、沐浴した者の新しい装いの記述に大きな注意を払っており、これは所作全体の第二部分と見なしうる。Āśv. 3, 8, 1 はこれについて「装身具(maṇi)、耳環、一対の衣、日傘、靴、葦の杖、花冠(srajmālā という語は明示的に忌避される)、(塗るための)ekaklītaka の粉、軟膏(手・口等に塗るための anu-limp)、眼薬(añj)、そして頭布」を挙げ、しかも自らのためと師のため、あるいは師のためだけに、とする(Āśv. 3, 8, 1. 2;Ś. 3, 1, 18)。

これらの品々は呪句とともに一つずつ取られ、身につけられる。おそらく言及に値するのは、Āśv. 3, 8, 11 以下の記載である。すなわち、バラモンは頭に、rājanya は腕に、vaiśya は胴に、女は膝に、走ることで生計を立てる者は腿に膏を塗る、というものである。

P. 2, 6, 28;H. 1, 11, 16;Āp. 12, 11 はさらに鏡に言及している。H. 1, 10, 6 によれば、装身具は白檀あるいは badara の球を金で覆ったもので、耳環とともに糸に吊るされ、火の上にかざされる。彼はその上を越えて供犠し、最後にそれを装身具として身につける。

Āp. 12, 8 は、糸に吊るした、縁取りのある小さな金の球を取り、水中で洗い、呪句とともに首に巻き、その左側に静かに badara の球を結ぶ。耳環は衣の縁に結ばれ、Darvī の匙に置かれ、その上を越えて Ājya の献供が供犠される。

その日を彼は孤独のうちに過ごし(Ś. 3, 1, 12)、星が輝くまで沈黙する(Āp. 12, 12)。それから彼は東または北へ行き、呪句とともに諸方位・星・月を礼拝する(Āp. 12, 13)。

友人と語り合ったのち、彼は望むところへ行く。Āśv. 3, 9, 3;H. 1, 12, 5;Āp. 13, 2 は、彼を人が彼を敬うところへ行かせる。Āp.、Vaikh.、H. は学生の帰郷に関連して、客の受け入れについての規定を与えている。

Ś. 3, 1, 14 は、彼がまず、人が彼を牛一頭あるいは小家畜一頭をもって敬い饗する場所を訪れることを求める。あるいは彼は牛の群れから、あるいは

36. Snātaka の義務。37. 婚礼。 63

果実の垂れた樹から、帰路につくべきである。呪句とともに彼は(自らの車・象・馬から)乗り降りせねばならない。

§§ 36. Snātaka の義務

Snātaka の義務は、Āśv. 3, 5, 15;9, 6;G. 3, 5;P. 2, 7, 3 以下;Ś. 4, 11 が、ある者たちは詳細な決疑論をもって挙げている。しかしここでも śiṣṭa たちの見解が、さらなる場合についての規範をなす(G. 3, 5, 38)。

それらは、教養ある者にとって良き習俗と見なされたものの像を与え、ドイツ中世初期の「食卓作法(Tischzuchten)」を想起させる。

法典の規定(Gaut. 9;Āp. 1, 11 等)と一部一致し、また仏教の Vinaya の規定とも一部一致する(Oldenberg の P. 2, 7, 3 への注)多数のさらなる規定のうちから、Snātaka の生計についての Ś. 4, 11, 13 のものを取り上げよう。落穂拾い、乞わずして得た、あるいは敬虔な者から乞うて得た贈り物、あるいは祭祀の奉仕が、彼が生計を得る手段であり、しかも常に前のものが後のものより価値あるものとされる。それらのいずれも不可能な場合には、彼は vaiśya として生きることもできる(Bühler, SBE. II, 225 を見よ)。

これらの規定は、師のもとからの卒業の後、自らの家庭を構えるまでの沐浴者に妥当する(Stenzler の P. II, 8, 1 への注)。他のいくつかは卒業後の最初の数日間に妥当する。すなわち、肉を食べないこと、土器から飲まないこと、女・śūdra・死体・烏・犬を見たり話しかけたりしないこと等である(P. 2, 8)。

これらの規定の種々のものは道徳に関わる。たとえば、見も聞きもしなかったことについて、見たり聞いたりしたかのように語ってはならない。自らの学習を妨げるものを避けるべきである(G. 3, 5, 27)。そして同じ Gṛhyasūtra によれば、彼は自らを「油の器のように」保つべきである。

しかしある規定は俗信にその起源をもつように見える。たとえば「井戸をのぞき込むこと」が禁じられるときがそうである。ここに属するのが、Dharma にも知られた語の変換であり、Snātaka はそれを一部は吉兆のために行わねばならない。たとえば妊婦を「vijanyā」と呼び、鼬(nakula)を「sakula」、猿(kapi)を「bhagala」、虹(indradhanuḥ)を「maṇidhanuḥ」(P)と呼び、bhadra の代わりに mandra と言うべきである(G. 3, 5, 20)。

§§ 37. 婚礼

1. 法典に知られた八つの婚姻形式(Jolly 49 頁以下を見よ)を、Gṛhyasūtra のうちでは Āśv. 1, 6;Vaikh. 3, 1 が言及し定義している。すなわち BrāhmaDaivaPrājāpatyaĀrṣaGāndharvaĀsuraPaiśācaRākṣasa 婚である。したがって彼らは法典と同じく Svayaṃvara を除いている。

他の Gṛhya がそのような定義を提供しないことは、偶然にもとづくものではないように見える。というのは、彼らが記述する儀礼は婚姻の正当な形式を前提としており、Āśv. と Vaikh. の明らかに借用された記載は、本来 Gṛhya 儀軌のうちに場所をもたないからである。

それゆえまた、青年は両親の許可(H. 1, 19, 2)あるいは guru の許可(G. 3, 4, 3)をもって結婚すべきである、とも言われる。

何人の妻が許されるかを Gṛhya は述べていない。ただ Pāraskara のみが例外で、彼はバラモンに三人、rājanya に二人、vaiśya に一人を許し、さらに、ある師たちはすべての者に śūdra の妻をも許すが、その場合には儀式における Mantra が省かれる、と付け加えている(1, 4, 8–11)。まったく同じ数が、Divyāvadāna(625 頁、付録 A)に各カーストについて挙げられている。

2. 花嫁と花婿の資質の記述に、Gṛhya は大きな注意を払っている。Āp. の民主的な規定 ―― 彼の目と心を捉える女こそ彼に幸いをもたらすのであり、他のことを気にすべきではない ―― は孤立しており、しかも一部の師たちの見解としてのみ挙げられている(3, 20)。

外的な要件としては、彼女が男の gotra に属してはならないこと(G. 3, 4, 4;Vaikh. 3, 2 pitur asamānarṣigotrajātām;H. 19, 2)、母方の sapiṇḍa に属してはならないこと、しかし同じカーストで同じ地方の者であるべきこと(もし

64 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

注釈が sajātā をそう正しく説明しているならば)が強調される(H. 19, 2)。

名の性状もまた影響をもつ。星・河・樹の名のみをもつ女(rohiṇīgaṅgāśiṃśapā)、また名の最後から二番目の文字に r または l をもつ女(karākalāsuśīlā)は、Āp. 3, 12. 13 によれば不適格とされる。彼はそもそも多数の不適格の徴を挙げている。

求婚者たちの到着時に彼女が眠っていたり、泣いていたり、家から出ていた場合にも、彼女は退けられる(Āp. 3, 10)。

とりわけ重要なのは lakṣaṇa すなわち「身体の特徴」であり、その検査のために G. 2, 1, 1 は心得ある者を推奨している。しかしこれらは認識しがたく、また心得ある者が見つからないこともありうるので、8つないし9つの土塊を作り、少女にそこから一つを選ばせるという託宣を用いることができる。

これに必要な土は、二度の収穫をもたらす畑、牛舎、Vedi、干上がっていない池、遊び場、不毛の畑、十字路、墓地から取られる(Āśv. 1, 5, 4)。そして土塊の選択から彼は、彼女が食物に富む子孫をもつか家畜に富む子孫をもつか、彼女が敬虔になるか賭博好きになるか等を認識する(Jolly 59 頁および Winternitz)。

花婿の資質もまた検査されねばならない。まず家族を検査すべしという Āśv. の文は、花婿の家族についても花嫁の家族についても妥当する。良き家柄、性格、良き特徴、学識、健康を Āp. 3, 19 は彼に求める。

求婚者。 求婚者として彼は数人の友人を、Ś. 1, 6 への Nārāyaṇa によれば「(花婿の)父等と ācārya」を、ヴェーダを知る者たちを、ともに派遣すべきである。しかも Invakāḥ 星宿のもとで派遣される者たちが好まれる(Āp. 4, 1. 2;2, 16)。

到着に際して彼らは三度「ここにわれあり、主よ」という言葉を繰り返し、gotra の名を挙げて少女を求める。双方の合意が得られると、花や何かを入れた満杯の器に触れ、ācārya(注釈によれば求婚者の)が、子孫と家畜の富に関する祝福の言葉とともにそれを彼女の頭上に置く(Ś. 1, 11。より詳しくは Āśv. Gṛ. P. 1, 21)。

3. Indrāṇīkarman。 花嫁が迎え取られるべきとき、彼女は先立つ夜のいずれかに沐浴すべきであり(Ś. 1, 2)、しかも Gṛhyasaṃgraha 2, 15 によれば同じカーストに属し、非のうちどころのない女たちによる香水をもって行う。

液体が彼女の上に注がれるあいだ、彼女は G. によれば呪句「Kāma よ、われは汝の名を知る、―― 某を連れ来たれ」のうちで、未来の夫の名を挙げるべきである。

彼女は赤く染めた、あるいはまだ染めていない衣を受け(Ś.)、火の背後に座を占め、ācārya に触れる。そのあいだ ācārya は種々の神々、なかでも Indra と Indrāṇī のために献供を行う。同じ神々に花婿も供犠するが、ただ Vaiśravaṇa と Īśāna が加わる(Ś. 1, 11)。

Ś. からはさらに、彼らの供犠ののち、饗されるべき四人または八人の寡婦でない女たちが四度舞踏を行うべきこと、そしてバラモンへの食事の供与がこの前祝を締めくくることを取り上げるべきである。

4. 婚礼の時期として P. は udagayana、しかも白分の吉日を挙げる。適当な星宿としては、Uttara で始まる三つの群、すなわち Uttarā-Phalgunī、Hasta、Citrā、Uttarāṣāḍhā、Śravaṇa 等を挙げ、さらに Svāti、Mṛgaśiras、Rohiṇī を挙げる(Stenzler の当該箇所を参照)。

Āp. は、Śiśira の二か月と夏の最後の月を除くすべての季節と、吉兆とされるすべての星宿を有効とする(2, 12. 13)。H. 1, 19, 3 は、すべての所作のために吉日一般を推奨するにとどめる。Kauś. 75, 2 以下は Kārttikī と Vaiśākhī のあいだの時期を規定するが、Citrā を除いて任意の選択をも許している。

5. 花婿の到着。 寡婦でない

37. 婚礼。 65

幸いなる若い女たちが花婿を少女の家へ導く。花婿は沐浴し、吉をもたらす儀式を済ませていなければならない。禁じられた食物や違反に関わることでないかぎり、彼はいたるところで彼女たちに好意的にふるまわねばならない(Ś. 1, 12, 1. 2)。

花嫁を見たとき、彼は Āp. によれば一定の詩節を誦しつつ彼女を見つめ、その眉間を darbha の茎で拭い、その茎を西へ投げるべきである。

いくつかの Gṛhya によれば(Āp. 3, 5. 7;Ś. 1, 12, 10)、花婿は一頭の牝牛をもって饗される。他のもの(G. 2, 3, 16;Kh. 1, 4, 7)は Argha を婚姻の結合の後に、すなわち三日の貞潔の日の終わりに行わせるが、しかし最初の慣習も「ある者たちの」見解として挙げている。

第二の牝牛が後に花婿の家で屠られる。しかも Āp. 3, 8 によれば、彼のもとで尊敬される者(すなわち師・父等)に敬意を表して行う。これが二頭の Madhuparka の牝牛である。

6. 花嫁の装い。 彼を導いてきたあの女たちの許可を得て、花婿は花嫁に衣を贈り、彼女に膏を塗る。いずれも Sūrya の歌の詩節を誦しつつ行う。

彼女の右手に彼は(見たところ、受胎後に行われる分髪のために)豪猪の針等を与え、左手に鏡を与える。彼女の親族たちは、羊毛または麻から作られた黒赤色の紐に三つの護符をつけて彼女に結びつけ、花婿は madhūka の花を結びつける。すべて RV の呪句を用いて行う(Ś. 1, 12, 3–9)。

Kauś. 76, 8 によれば、護符を薬指に留める。P. 1, 4, 12 は二つの衣を着けることについてのみ語る。Āp. の記述は大きく異なり、彼は Mānava と同じく(Winternitz 45 頁を見よ)、〔衣を〕通す慣習を知っている。

7. その他の準備。 婚礼の火は、P. 1, 4, 4;Ś. 1, 5, 4 に挙げられた「ある者たちの」意見によれば摩擦によって生ぜしめられるべきものであり、通常の仕方で用意された場所、すなわち「外の広間に」(P. 1, 4, 2)、G. 2, 1, 12 によれば purastāc chālāyāḥ に置かれる。

さらに水を満たした壺、炒った穀粒、挽き石が必要である。G. によれば、花嫁の介添人の一人が壺に水を満たし、それを持って黙して衣にくるまって火の周りを回り、その南側に北を向いて立つ(G. 2, 1, 13;Kh. 1, 3, 5)。この水は stheyāḥ と呼ばれる(Bloomfield, ZDMG. 35, 574;Oldenberg, SBE. 30, 43)。

Āp. 4, 7 は、水を汲むために偶数の、mantra に通じたバラモンを派遣させる。Kauś. 75, 13 によれば、水汲みに際して矢をつがえた男が先に立ち、バラモンが後に続く。彼は水中で土塊を突き通す。逆の順序で彼らは戻ってくる。

Ś. 1, 13, 5 では、(師が)手を取ったのち新しい水瓶を満たし、樹液と葉をもつ、男性名をもつ樹の枝を kuśa 草とともに、「ある者たちによれば」黄金をも入れ、沈黙を守る一人の学生にそれを渡す。この水は北東に置かれ、左から右へと回られるべきである。Kauś. 75, 19 によれば、壺は Vedi の外の一つの枝の上に置かれる。

火の背後にはさらに、śamī の葉と混ぜた四握りの炒った穀粒を、一つの投げ器に入れて置き、より小さい挽き石を置く(G. 2, 1, 15. 16;Āśv. 1, 7, 3;Ś. 1, 13, 10)。

8. Kanyāpradāna。 父による花婿への少女の引き渡しは、P. 1, 4, 14. 15 が示唆するのみであり、より詳しくは Mānava(Winternitz 41)が扱っている。Āśv. Gṛ. P. 1, 22 がそれを詳細に記述しており、注釈者 Vāsudeva と Kāmadeva も同様である(ISt. 5, 309 以下;Oldenberg, SBE. 29, 34)。

所作の順序は種々である。P. 1, 5, 1 は明示的に、彼は「ある者たちによれば」一定の所作を pariṇayana の後に初めて行うべきである、と述べている。

9. 婚礼の供犠。 火の背後で、彼らは barhis まで届くべき筵の上に

欄外下:Indo-arische Philologie. III. 2. ―― 5

66 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

座を占める(G. 2, 1, 23)。ついでいくつかのバターの献供がささげられ、ある Sūtrakāra たちのもとでは、子孫や夫の生命等に関わる呪句とともに行われる。

取り上げるべきは、Ś. 1, 12, 12;13, 1 においては、四つの Ājya の供犠に、少女の父または兄弟による献供が続くことである。これは剣の先または匙をもって彼女の頭上で供犠され、その際彼女は座り、彼は立っている。RV から借りたこの呪句は、舅の家における彼女の主権に関わる。

これに続いて一連の儀式があり、それらは Sūtra において種々に配列されている(Stenzler の Āśv. 1, 7, 15 への注;Winternitz 18 頁)。

10. lājahomaaśmāropaṇaagniparikramaṇa。花婿は少女の背後を通り過ぎ、南側に立ち、彼女の合わせた両手を取る。少女の兄弟または母は炒った穀粒(lāja。Ś. 1, 13, 15;Kh. 1, 3, 18 によれば śamī の葉とともに一つの籠に入れて)を取り、花嫁に右の爪先で石を踏ませる。そのあいだ花婿はささやく。「この石に登れ」等。

兄弟または他の親族(Sūtra は揺れている)が、一度あるいは二度(Jāmadagnya 家では三度、Āśv. 1, 7, 9)炒った穀粒を取り、それを彼女の añjali に入れる。そして花嫁は añjali を解かずに(あたかも供犠の匙をもってするかのように、Āśv. 1, 7, 13)それを供犠する。H. 1, 20, 4;Āp. 5, 6 への注釈によれば、花婿が彼女の añjali とともに供犠する。

供犠ののち、花婿は以前の場所に戻り、自ら、あるいは mantra に通じたバラモンが花嫁を火の周りに(そして Āśv. によれば水瓶の周りに)導き、彼女がその右側を火に向けるようにする。呪句「祖先から離れて少女を」とともに。

自分の場所に戻ったのち、彼女は同じ仕方で歩み出て石に登り、この全過程が二度目、三度目と繰り返される(Āśv. 1, 7, 13 によれば、最初の供犠には Aryaman への一詩節、二度目には Varuṇa への、三度目には Pūṣan への詩節が唱えられる)。ついで穀粒の残りが火に注ぎ込まれる。

私が本質的に従った G. においては、次に 11. 七歩が続く。花嫁は北東へ歩み出るべきであり、右足を前に置き、左足をそれに引き寄せるが、その際に右足を追い越してはならない(G. 2, 2, 12. 13)。Kauś. 76, 21 以下によれば、この目的のために七本の線が引かれる。

呪句 ―― その最後のものは「七歩による」友情について語る ―― は、いたるところで同じか、ごくわずかに変えられているにすぎない。

H. によれば、第七の呪句ののち花婿は彼女の右足を自らの足で覆い、右手を彼女の右肩越しに下ろし、(学生の受け入れに際して師が行うのと同様に)呪句とともに心臓と臍に触れる(1, 21, 3. 4)。

彼女が歩を進めているあいだ、水を運ぶ者が彼らに従い、彼らの頭に水を注ぐ(G. 2, 2, 15)。P. 1, 8, 3 においては、一人の男が水瓶を肩に載せて黙して火の南に立ち、花婿が彼女に水を注ぐ。他の Sūtra も、一部改変された形でこの水の聖別を知っている。

Ś. 1, 14, 7 は、足跡を水で贖わせ、ついで RV 10, 9, 1–3 を誦しつつ stheyā の水で新郎新婦を湿らせる。

Kauś. 76, 25 によればここで妻が寝床に登る。彼女の足が洗われ、妻を縛っていた紐が解かれる。従者たちがそれをつかんで奪い合う(Kauś. 76, 30;ISt. 5, 384)。

G. においては、これに続いて初めて 12. Pāṇigrahaṇa が来る。これは Āśv.、Śāṅkh.、Pār. その他においては、より所作の初めのほうに置かれている(Winternitz 18 を参照)。

花嫁は東を向いて座り、花婿は西を向いて立つ。彼は「われは幸いのために汝の手を取る」(RV 10, 85, 36)という言葉とともに彼女の手を取る。しかも Āp. 4, 11, 30 によれば、彼の右手の掌が下を向き、彼女のそれが上を向くようにする。

俗信的な慣習がここに場を占めている。夫が男児のみを望むならば、彼は親指を取り、女児を望むならば

37. 婚礼。 67

指を取る。両方を望むならば、手を親指もろとも外側から取る(Āśv. 1, 7, 3–5;Āp. 4, 11–13 以下)。

これに続いて Āśv. においては、火と水瓶を三度めぐること、石を踏むこと等が来る。

婚礼には贈り物が続く。 ācārya に彼は贈り物をする。バラモンは牝牛を、rājanya は村を、vaiśya は馬を与える。娘をもつ者には 100 頭の牝牛と一台の車を贈り(duhitṛmate という語は翻訳者たちによって舅に関係づけられているが、私には文脈が ācārya すなわち祭司を指し示しているように思われる)、供犠に通じた者には馬を贈る。ほぼ逐語的に一致するのが Ś. 1, 14, 13–17;P. 1, 8, 15–18 である。

前者は、Sūrya の歌を知る者への別の贈り物として花嫁の襦袢を付け加えており(Āśv. 1, 8, 12 を参照)、それは Kauś. 79, 22 によれば柱に掛けられる。G. 2, 3, 23 は一頭の牝牛についてのみ語る。

13. 家からの出発。 Ś. 1, 15 は、若い妻の出発と新しい家郷への旅とをきわめて詳細に扱っている。

彼女が出発するとき(車・馬または象に乗って。H. 1, 22, 1 への注釈)、また彼女が泣くとき、詩節が唱えられる。彼女は車軸・車輪・牡牛に膏を塗り、車(śamyāgarteṣu)に果実をつける樹の枝を挿す。牡牛は呪句を誦しつつ繋がれる(Āp. 5, 20. 21 も同様)。

Āp. 5, 23 によれば、轍の上に二本の糸が置かれる。青い糸が右の轍に、赤い糸が左の轍に置かれ、呪句とともに彼は彼女をその上に導く。

種々のテクストは、旅における起こりうる事故・困難・前兆を予見し、細部において互いに異なる行動規則を定めている。十字路・墓地・凸凹・砂漠・河・Tīrtha(Kauś. 77, 8 によれば Tīrtha では土塊に向けて矢が射られる)・柱・乳をもつ樹あるいは標識として役立つ樹(Āp. 6, 5)・心地よい場所を通るときには、呪句が唱えられる。

河を渡るとき、船に乗るとき、深い場所でも同様である。Āp. 6, 2 は、渡し舟に乗るあいだ、妻が船頭を見つめることを禁じている。

車軸が折れたり、結わえたものが緩んだり、車が転覆したり、その他の事故があったときには、彼らは携行した火に薪をくべ、供犠し、他の材料を取り寄せ、残ったバターでそれに膏を塗る(G. 2, 4, 3. 4;Āp. 6, 4;Ś. 1, 15, 9 ―― 彼は車の事故の際に若い妻を āhitāgni の住居に連れて行かせる)。

Āśv. 1, 8, 7 によれば、彼は家ごとに見物人に、RV の詩節「この女は良き徴をそなえて」(もっとも他の者たちはこれを別の用途に用いる)をもって語りかけるべきである。

婚礼の火は器に入れられ、先に立てて、あるいは後から運ばれる(Āp. 5, 13;H. 1, 22, 2;G. 2, 4, 3)。それはそのときから絶えず保たれるべきである(後述参照)。

Āśv. は、最初の夜を、夫と子が生きている年老いたバラモンの女の家で過ごすことを規定する(1, 7, 21)。いくらか異なるのが G. 2, 3, 1 以下(Kh. 1, 4, 1)であり、彼は彼女を北東にある、彼女にふさわしいバラモンの家に連れて行かせる。

そこで火が設けられ、その背後に花嫁が、外側を向けた赤い牡牛の皮の上に座り、星が見えるようになるまで沈黙しなければならない。そうなるとただちに、夫は六つのバターの献供を行い、そのそれぞれの残りを彼女の頭上に注ぐ。ついで二人は立ち上がって外に出て、彼は彼女に北極星と Arundhatī を示す。前者に対して彼女は「汝は堅固なり」等と言い、後者に対しては「われは結ばれたり」と言い、いずれの場合にも夫の名と自らの名を挙げる。

H. 1, 22, 11 は、他の者たちより詳細に、諸方位・星・月・七 Ṛṣi・Arundhatī・北極星を、より長い呪句をもって礼拝させている。

14. 到着。 妻を家に迎える日を、彼は Āp. によれば記憶しておくべきである。同じ Sūtra によれば、彼は彼女に家を示し、まず二頭の牽き獣のうち右のものを外す。

G. においては、男と子が

欄外下:5*

68 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

なお生きている、行儀正しいバラモンの女たちが、彼女が車から降りるのを助ける。

一枚の皮が家の中央に(Āp.)、あるいは広間の、そこに設けられるべき火の背後に敷かれる。彼女は右足を先に、敷居に触れずに家に入らねばならない(Āp. 6, 9;H. 1, 22, 6)。P. 1, 8, 10 によれば、「力ある男」が彼女を抱き上げ、東または北の、囲われた部屋で赤い牡牛の皮の上に降ろす。

これに続いて多数の献供がささげられる。Ś. 1, 16, 8 は、「ある者たちによれば」彼女の膝に男児が座らされることに言及している。その手に果実が与えられ、バラモンたちが祝福の言葉を述べるよう促される。そうすれば彼女は息子たちを産むであろう。

この規定を、われわれは実際に Āp. 6, 11、Kauś. 78, 8(kalyāṇanāmānaṃ brāhmaṇāyanam)、および G. 2, 4, 7 に見いだす。後者は男児の手に śakalota(注釈によれば蓮の根、Weber によれば肥料の塊)あるいは果実を与えさせる。

いくつかの Sūtra は、到着の後に初めて、夫婦を星が輝くまで沈黙させ、座らせ、北極星と Arundhatī に関わる呪句を唱えさせている。

15. Caturthīkarman。 三夜のあいだ彼らは貞潔を保ち、地に臥し、香辛料を加えた食物も塩を加えた食物も食べてはならない。しかしより長い貞潔も許され、たとえば P. によれば六夜、十二夜、あるいは一年である。Āśv. 1, 8, 10 は、その場合には彼らに同一の Ṛṣi が授かるであろうと予言している。

三日のあいだ、二人の寝床のあいだには(Āp. 8, 9 によれば)香を塗り、衣または糸で覆った杖が置かれる。朝と夕に彼らは婚礼の火をめぐるべきである(Ś. 1, 17, 8)。

第四日をもって同衾の時期が始まる。第四日から第十六日まで、偶数の日はより良い子孫をもたらす(Āp.)。

第四夜の終わり頃に(P. 1, 11, 1 以下)、家の内部に火が設けられ、鍋料理が煮られる。それから Agni、Vāyu、Sūrya に贖罪の呪句とともに、さらに Aryaman、Varuṇa、Pūṣan、Prajāpati に、そして第八の位置に Sviṣṭakṛt に供犠される(Ś. 1, 18, 2 以下;P. 1, 11, 1 では Agni、Vāyu、Sūrya、Candra、Gandharva、Prajāpati に)。

adhyāṇḍā の根が搗かれ、月経の時に彼女の右の鼻孔に注がれる(Ś. 1, 19, 1。同様の慣習が P. 1, 13, 1 にもあるが、ただし妻が懐妊しない場合についてのみである。それによれば夫は、先立つ断食ののち、Puṣya の星座のもとで白花の Siṃhī 草の根を掘り、第四日に、沐浴ののち、妻の右の鼻孔にそれを搗いて注ぐべきである)。

同衾の前後に彼が行うべきこと、いかなる呪句を唱えるべきかも、同様に規定されている。とりわけ詳細なのは Śāṅkh. と H. であり、後者は多数の愛の呪句と呪術の呪句を挙げている(1, 24, 3 以下)。

16. 第五日には、Baudh. のみが記述する nāpitakarma が行われる。この際、夫婦は髪と爪を切らせ、その後で村を出て、udumbara 樹に礼拝をささげ、婚姻の祝福を乞う。また新しい衣で魚が捕られ、Baka(水鳥)のための Bali としてささげられる(Winternitz 101)。

§§ 38. 家庭の火 ―― 家長の義務

若い夫婦の後から、あるいはその先に立って(H. 1, 22, 2;Āp. 5, 13 ないし Āśv. 1, 8, 5)

38. 家庭の火。家長の義務。 69

彼らは婚礼の火を運ぶ。これは以後、絶えず保たれるべきものである。それは gṛhyaāvasathya あるいは aupāsana の火と呼ばれる(G. 1, 1, 21;Kh. 1, 5, 1;P. 1, 2, 1;9, 1;H. 1, 26, 1;Kauś. 69 以下、注釈)。この火を保つ者は aupāsanika と呼ばれ、三つの聖火を保つ vaitānika と対比される(Stenzler の P. 3, 1, 1 への注)。

しかし婚礼は、家庭の火を最初に設ける唯一の機会ではない。P. 1, 2, 1 は dārakāla のほかに、ある者たちの見解として遺産分割の時期(dāyādyakāla)をも挙げている。同じく Ś. 1, 1, 4 は、学生の帰郷の時期をさらなる場合として認めている。

第四の機会は家長の死であり、その際には長子(jyāyāṃs あるいは parameṣṭhin)が火を点ずべきである(とりわけ詳細なのは Kauś. 69。また G. 1, 1, 12 をも参照。彼は遺産分割に言及していない。これに対し Gṛhyasaṃgrahapariśiṣṭa 1, 76 は言及している)。

G.(Kh.)1, 1, 13 は、より精密な時点として、節目の日と一定の星辰(?)との合致を、あるいは一般に新月または満月の日を望んでいる。

婚礼の火は「ある者たちによれば」摩擦によって生ぜしめられる(P. 1, 4, 4;Ś. 1, 5, 4;G. 1, 1, 17;Kh. 1, 5, 3)。そのようにして得られた火は、Gobhila の一所見(18)によれば完全なものとは見なされないように見える。

摩擦によってそれを生ぜしめない者は、vaiśya の「家」あるいは「焙り鍋」からそれを取ってくる。これは Kāt. Śr. S. 4, 7, 15. 16 にも規定されている。あるいは「bahuyājin」からであり、それがバラモンであるか、rājanya であるか、vaiśya であるかは問わない(G. 1, 1, 15 以下;Kh. 1, 5, 3 は śūdra を明示的に除外している)。

P. 1, 2, 3 によれば、それは「富裕な」(bahupaśu)vaiśya でなければならない。彼のもとではさらに agnipradāna が言及されており、これを Oldenberg(SBE. 29, 265)は正しく「摩擦木を手渡すこと(handing over of the kindling sticks)」と訳している。ただしそれはおそらく、火を生ずるために摩擦木を用いた者たちのもとでのみ行われた慣習であろう。

木の種類と「araṇi」の性状については、Gṛhyasaṃgrahapariśiṣṭa 1, 78 以下と Karmapradīpa 1, 7, 1 がより詳しい規定を与えている。

Agnyādhāna は、Śrauta 儀軌においてもその位置をもつ事項に属し(Āp. 5, 1 以下;Āśv. 2, 1, 9;Kāt. 4, 7, 1 以下、後述参照)、Gṛhya の儀式にもしばしば補足的に現れる。

火の世話は家長に属する。しかし妻・息子・娘あるいは学生もそれを引き受けることができる(Āśv. 1, 9, 1)。しかし火が消えた場合には、摩擦によって、あるいは śrotriya の家から取ってきて、新たに点ずべきである(H. 1, 22, 4)。妻(Āśv. 1, 9, 2)あるいは夫(Āp. 5, 17;H. 1, 22, 5)は断食せねばならず、後者は Ś. 5, 1, 8 によれば「全贖罪(Allbussen)」の献供をささげねばならない。

家庭の火への奉仕が十二日間中断された場合には、火を新たに設けるか(H. 1, 26, 4)、あるいは省略されたすべての献供を数え上げて供犠すべきである。この punarādheya がいかなる仕方で行われるべきかを、H. 1, 26, 6 以下が詳しく述べている。他の場合、たとえば火が他の火と混ざった場合にも、H. 1, 26, 18 は再設置を規定している。

火の場所(agnisthaṇḍila)は、P. 1, 4, 2 がより詳しく述べる一定の場合には、家の外の広間にある(H. 1, 22, 7;Kh. 1, 2, 1 を参照)。この広間は Kāt. Śr. 7, 1, 24 への注釈によれば、長さ 20 aratni、幅 10 aratni であるべきである(Stenzler の P. への注)。

そのほか、家のなかにある火を用いないで供犠しようとする場合には、(Āśv. 1, 3, 1 によれば)四方すべてに少なくとも矢一本の寸法をもつ場所(Ś. 1, 7, 2 によれば caturasra)に牛糞を塗り、その上に一定の仕方で六本の線を(格子として)引く(Gobhila における図式は Bloomfield, ZDMG. 35, 557 注1。Ś. 1, 7, 6 以下によればいくらか異なる形になる。Oldenberg, SBE. 29, 23 注をも参照)。

いくつかの Sūtra によれば、炉は東・北東または北に傾いていても、平らであってもよい(H. 1, 1, 9;G. 1, 1, 9)。彼はその場所に水を注ぎ、その上に火を置き、薪を足し、火を寄せ集め、周囲に草を撒き、周りに水を注ぐ。これらの儀式は、

70 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

Gṛhya において概して同様に記述されているが、Stenzler が指摘したように、火を良く燃え立たせておくという実践的な目的をもっている。

いくつかのテクストでは、それらはやや異なる順序で挙げられている。たとえば P. は、床を掃くこと、牛糞を塗ること、線を引くこと、土を取り除くこと、床に水を注ぐことを規定する。これが五つの bhūsaṃskāra¹ すなわち lakṣaṇa(G. 1, 1, 10)である。その場所へ、人は呪句とともに、あるいは黙して火を運ぶ(Ś. 1, 7, 9. 10;G. 1, 1, 11)。

この agnipraṇayana の儀式は、Gobhilasaṃgrahap. I, 64ᵇ–69 に詳しく記述されている。それによれば、それは光沢のある器で行うべきであり、椀や、割れた、あるいは焼いていない器で行ってはならない。

火は供犠のたびごとに、一定の規定された仕方で kuśa の茎で周囲を撒かれる。ただし単なる Ājya の献供の場合にはそれは必要でなく、Māṇḍūkeya によれば立って行う献供の場合にも必要でない(Ś.)。kuśa 草がどのような性状でなければならないかは、G. 1, 5, 16. 17 が述べている。

Agnihotra について与えられた prāduṣkaraṇa についての規定(Āśv. Śr. 2, 2)は、ここでも妥当する。さらにある者たちは、火の周りに囲いの木すなわち paridhi を置く。これは śamī あるいは parṇa の木から成る(G. 1, 7, 16)。火を設ける際に規定される木の種類については G. 1, 5, 14 以下が論じている。

家長が旅に出ようとするときは、彼は火を自らのうちに、二本の摩擦木のうちに、あるいは一本の薪のうちに、「来たれ、わが息のうちに入れ」という呪句とともに収める。あるいは彼は RV 3, 29, 10 をもって二本の摩擦木または薪を温める。日没前に彼は再び火を取り出す。整えられた場所に彼は世俗の火を設け、「再び入れ」という言葉とともに、そこへ聖火を入らせる(Ś. 5, 1, 1 以下;H. 1, 26, 12 以下;Ś. Śr. S. 2, 17;Weber, ISt. 9, 311)。

旅から帰る者は、一つの詩節をもって自らの家に挨拶し、ついで家庭の火にその礼拝をささげる(Ś. 3, 7, 5)。息子や娘には、Sūtra が同様により詳しく、しかし互いに異なって記す形式をもって挨拶する。長子の頭を彼はまず抱き、いくつかの呪句を用いて接吻する。娘には(ある者たちによれば)ただ静かに頭に接吻する(G. がそうである。Āśv. 1, 15, 9;Āp. 15, 13;G. 2, 8, 21 以下;H. 2, 4, 16)。

§§ 39. 祭主の人格

Āp. 8, 3 によれば、神々は女の供犠、Upanayana によって聖別されていない者の供犠、また塩を加えた、香辛料を加えた、あるいは低級な食物を混ぜた供物を軽んずる。

家長が祭主として機能するが、彼はバラモンによって、また個々の場合には妻によって代理させることができる。たとえば朝夕の献供に際して(G. 1, 3, 15)、あるいは夕方の Bali に際して(1, 4, 19)妻によって代理させる。

家長のみが必要とされるのは āsyabali においてであり(G. 1, 4, 29)、おそらく Pākayajña においてもそうであるが、G. 1, 9, 8. 9 は議論の余地がある。さらに GSPariśiṣṭa 1, 92 によれば pitṛyajña ekāgni においてもそうである。

そのほかでは任意のバラモンを招くことができるが、Dhanvantari 供犠と串刺し牛供犠においては必要である(Āśv. 1, 3, 6)。brahman の座は南にある(Ś. 1, 8, 6;P. 1, 1, 2)。その挙措を G. 1, 6, 13 以下が記述している。

注目すべきは、同 Sūtra の規定(1, 6, 21)である。すなわち、家長が hotṛ と brahman の職を自ら行おうとする場合には、brahman の座に日傘・上衣・水瓶、あるいは darbha 草の人形を置くべきである、というものである。この藁の「バラモン」のより詳しい記述が Pariśiṣṭa 1, 87ᵇ 以下にある。

Pariśiṣṭa 2, 24 によれば、婚礼に際して花婿自身が呪句を唱えるべきであるが、それは彼がバラモンである場合であって、kṣatriya あるいは vaiśya の場合には祭司が唱える。

祭主は、Śrautasūtra にも規定され Taitt. Ār. 2, 1 が強調しているとおり、供犠の紐を着ける。しかも神々への供犠に際しては右に(左肩から右腋の下へ)、祖霊への供犠に際しては左に(右から左へ)着ける(G. 1, 2, 1 以下;Kh. 1, 1, 4 以下)。

39. 祭主の人格。40. 供犠。 71

(供犠の紐については Gobhilasaṃgrahap. II, 48 以下に詳しい記述がある。)さらに ācamana、すなわち三度水を啜り、感覚器官を水で湿らせることが必要である(G. 1, 2, 5 以下)。

§§ 40. 供犠

家長の最も本質的な義務の一つは、規定された供犠をささげることである。三つの火を必要とする Śrauta 供犠に対して、Gṛhya 儀軌の供犠には家庭の火(āvasathyavaivāhika agni)のみが要求される(Manu 3, 67;Yājñ. 1, 97)。

これらの供犠の叙述は、Gṛhya の本質的な内容をなす。それらは pākayajña あるいは gṛhyasthālīpāka すなわち「煮る供犠」と呼ばれる(Weber, ISt. X, 326 注1;Stenzler, Āśv. II, 2 頁 ―― そこに諸注釈の見解が記載されている;Oldenberg 30, XXIII 注1)。他方 Speijer(Jātakarma 27. 28)は、そこに「煮る供犠」の意味のほかに、totum genus gṛhyorum の呼称をも見ている。

インド人は明らかに、本来より狭い概念を一般化して、三種ないし四種の Pākayajña を区別する。すなわち hutaahutaprahutaprāśita である(Ś. 1, 5, 1;10, 7;P. 1, 4, 1)。huta は Agnihotra のような火の供犠であり、そこでは献供が火に注がれる。ahuta は単に置かれるだけの Bali の供物、prahuta は Ś. によれば祖霊供犠(Stenzler の P. 1, 4, 1 への注では別の解釈)、prāśita は「味わわれるもの」、すなわちバラモンのうちに(その饗応によって)供犠として置かれるものである。

インド人自身も細目においては揺れている。Āśv. 1, 1, 1 は hutaprahutabrāhmaṇi huta のみを挙げ、第二の群を「火のなかに供犠されないもの」に関係づけている。

Gṛhya においてほとんど通用していない第二の見解は、21 の yajñasaṃsthāḥ の下位区分として 7 つの「pākasaṃsthāḥ」を区別する(Ś. 1, 1, 15)。すなわち aṣṭakāpārvaṇaśrāddhaśrāvaṇīāgrahāyaṇīcaitrīāśvayujī である(前掲 41 頁参照)。すなわち、Kārttika、Mārgaśiras、Pauṣa、Māgha の各月の黒分の第八日の供犠、新月・満月の日の供犠、毎月の祖霊供犠、Śrāvaṇa 月の満月の日の供犠等である。

Āp. Śr. S. への注釈は、aupāsanahomavaiśvadevapārvaṇaaṣṭakāmāsiśrāddhasarpabaliīśānabali を七つの Pākayajña としている。Satyavrata Sāmāśramin は Uṣā において(SBE. 30, 358)、この一覧のほかに第二の一覧を与えており、それは sāyaṃhomaprātarhomasthālīpākanavayajñavaiśvadeva 等から成る。

両方の区分法の混合を、われわれは Baudh. に見いだす(SBE. 14, XXXI;Ait. Br. 3, 40, 2 Sāy.;SBE. 30, XXIV)。彼は hutaprahutaāhutaśūlagavabaliharaṇahomapratyavarohaṇaaṣṭakāhoma を七つの Pākayajña として数え上げている。また Baudhāyanaprayogamālā(fol. 1ᵃ)では、huta(「homamātrasādhya」)として vivāha-garbhādhāna-puṃsavana-sīmanta-viṣṇubalayaḥ が挙げられ、prahuta(homo baliś ca)として jātakarmanāmakaraṇa 等が、āhuta(homabaliprāśanāni)として upanayanasamāvartana 等が挙げられている。

われわれは、供犠を体系化しようとするこれらの試みを措いて、以下の叙述においては三つの供犠の群を区別する。すなわち、日々ささげられるものか、定められた時期にささげられるものか、特別な機会にささげられるものかに応じてである。

§§ 41. Gṛhya 供犠に用いられる材料

Gobhila 1, 3, 6 はこれを kṛta「調製されたもの」と akṛta「調製されていないもの」とに分ける(kṛta の代わりに Āśv. 1, 2, 1;Ś. 2, 14, 3 は siddha と言う)。前者はより多く液状のもの、後者は固形のものに関わる(Knauer の G. 1, 3, 6. 7 への注。いくらか異なるのは GSP. 1, 93)。

Āśv. Śr. S. 2, 3, 12 は、特別な願いをもたない者のための供物として payas を挙げ、他の者のためには yavāgū odana dadhi sarpiḥ を挙げる。Gṛhyasūtra 1, 9, 5 はこれに依拠しているが、他の Śrauta の師たちの規定への明らかに論争的な当てこすりをもって、肉の使用を排除している。

72 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

しかし任意に vrīhiyavatila を供犠することもできる。この点で個々の Gṛhya のあいだに本質的な相違は認められない(G. 1, 7, 20 ājyaṃ saṃskurute sarpis tailaṃ dadhi payo yavāgūṃ vā)。これらの材料に、特別な機会には犠牲獣が加わる。

§§ 42. 最も単純な供犠 ―― Ājya 供犠

Ś. Śr. S. は、juhoti と言われるところではどこでも、sarpis の献供が理解されるべきである、と言う。

Ait. Br. 1, 3, 5 は次のように区別する。ājyaṃ vai devānām, surabhi ghṛtaṃ manuṣyāṇām, āyutaṃ pitṝṇām, navanītaṃ garbhāṇām。そして注釈は、古い師たちは ājyaghṛta とを区別し、ājyasarpir vilīnaghṛtaghanībhūtaāyutaīṣad vilīnam である、と述べている。(さらなる記載は GSpariśiṣṭa 1, 105 以下。)

Sūtra は Ājya 供犠における過程の精密な記述を与えている。とりわけ詳細なのは H. 1, 1, 18 以下であり、彼はそれを Paddhati の仕方で叙述している。バター供犠の基本形はいたるところで同じである。

新月・満月供犠がすべての Iṣṭi の基本形であるように、Ājya 供犠は ―― H. によって Upanayana に結びつけて、Ś. その他によって婚礼に結びつけて規定されている ―― すべての bhūtikarmanājyāhutiśākhāpaśucarupākayajña の基本形である(Ś. 1, 16, 1 以下)。

供犠の主要構成部分として P. 1, 5, 3 は āghārauājyabhāgaumahāvyāhṛtisarvaprāyaścittaprājāpatyasviṣṭakṛt を数え上げる ―― これらが基本形をなし、他の供犠においては、そこに加わる献供が一定の箇所に組み込まれる。

各供犠に特徴的な、変動する献供のこの挿入を āvāpa と呼び、これについては Ś. Śr. S. 1, 16, 3 以下がより精密な指示を与えている。この挿入の場所は揺れている。SGS. 1, 9, 10 によればそれは Mahāvyāhṛti、Sarvaprāyaścitta と Prajāpati への献供のあいだにあり、P. 1, 5, 6 によれば後の二つのあいだ、H. 1, 2, 17 によれば二つの Ājyabhāga のあいだ等である。

これら二つの Ājyabhāga と Sviṣṭakṛt の献供は、いくつかの Sūtra の見解によれば Ājya 供犠には必要でなく(G. 1, 9, 26;Kh. 1, 3, 12–15)、Māṇḍūkeya によれば恒常的な献供の際にはそもそも必要でない(Ś. 1, 9, 11)。

この最も単純な形の Gṛhya 供犠に必要なのは、darvī の匙あるいは sruva、Ājya の壺、一定の品質をもつ二本または三本の kuśa の茎 ―― これは pavitra すなわち清め具として役立つ(Kāt. 2, 3, 31;Ś. G. S. 1, 8, 14)―― 、praṇītā 水のための器 ―― これは火の北にその場所をもち、pavitra 等を撒き清めるのに役立つ ―― 、そして最後に、火にくべるべき samidh すなわち薪と、火の周りに置くべき paridhi である。

単純なバター献供の進行は、Ś. 1, 8, 8 以下および H. 1, 1, 18 以下から知ることができる。きわめて簡潔に P. 1, 1 が、供犠をささげる前のすべての主要な段階を記している。

§§ 43. Pākayajña

Pākayajña は、Śrauta 儀軌のそれと次の点で異なる。すなわち、Prayāja も Anuyāja ももたず、Iḍā への呼びかけも、Nigada も Sāmidhenī の詩節ももたない(SGS. 1, 10, 5)。

穀粒を食物のために脱穀し搗くために、臼と杵が必要である。H. 1, 23, 3 によれば妻が搗き、他の者たちによれば夫が搗く。

Sūtra のうちでは、とりわけ Āśv. 1, 10, 6 以下;G. 1, 7 以下が、供犠の過程をあらゆる細目にわたって詳細に描いており、われわれは Pākayajña の進行について精密な像を得ることができる。

祭司家系を区別する慣習として、ここでは脂身から四度ないし五度切り取ることが際立っている。しかも Bhṛgu 家の者たちが、G. においては pañcāvattin として通用する。

供犠の叙述と、新月・満月の祝祭についての規定に続けて、G.(Kh.)は Yajñavāstu の儀式を記述する。これは、供犠の終わりに薪を足し、周囲に水を注ぎ、すでに用いた供犠の敷草から一握りの kuśa 草を取り、バターあるいは Havis の供物のなかで三度(先端・中央・根に)膏を塗ることから成る。その際、次の呪句を唱える。「舐めつつ鳥たちが

42–45. Ājya 供犠。Pākayajña。動物供犠。供犠の時刻。 73

享けんことを」。ついで彼はこの草に水を注ぎ、Rudra「獣たちの主」に向けられ、その恩寵を乞う呪句とともに、それを火に投じる。

§§ 44. 動物供犠

動物供犠は家庭儀軌において種々の機会に行われ、牛または山羊が供犠される。

Āp. は 3, 9 で、牝牛の供犠の機会として「客、祖霊、婚礼」を挙げている。Ś. 2, 16, 1 は Manu の一句を引用しており、それによれば Madhuparka、soma 供犠、祖霊供犠、神々への供犠に際して獣を殺してよく、他の場合には殺してはならない。

これに対応して、われわれは Argha の祝祭に際しての牛供犠(P. 1, 3, 26 その他)、第二の Aṣṭakā に際して(P. 3, 3, 8 その他)、婚礼に際して(65 頁参照)、そしていわゆる串刺し牛供犠に際しての牛供犠を見いだす。

Argha に際しては、牝牛の代わりに山羊、あるいは他のできるだけ相応の対象を立ててよい(Ś. 2, 15, 1)。しかし他の機会には、われわれは他の獣をも見いだす。たとえば P. 3, 12 は、貞潔を犯した者への贖罪として、十字路で驢馬を供犠することを規定している。

Śrauta 供犠において通例の柱の代わりに、ここでは「二つの火の前に」palāśa の枝を埋める(P. 3, 11)。それゆえこの供犠も、また獣そのものも śākhāpaśu と呼ばれる(Kāt. Śr. 6, 10, 33;Stenzler の P. への注)。

種々の機会における儀軌を伝える Sūtra(たとえば G. と H. 2, 15 は祖霊にささげられる牛供犠の機会に、P. 3, 8, 15 は串刺し牛供犠を一般的規範として通用させている)は、細目において記載が大きく異なる。ここでは、一例にもとづいて主要な段階を取り上げるにとどめよう。

Āśv. 1, 11 によれば、火の北に śamitṛ-agni すなわち屠りの火の場所があるべきである。獣は水を飲ませられ、洗われ、火の東に、顔を西に向けて立たされる。一つの献供ののち、祭司は新鮮な葉のついた枝でそれに触れ、ついで米と大麦の水を注ぎかけ、飲ませ、その残りを右の前足に注ぎ出す。

黙して paryagnikaraṇa が行われる。これはすべての供犠に通例の儀式であり(P. 1, 1, 2)、「Rakṣas を防ぐために」燃えさしを供物の周りにめぐらせるものである。獣は北へ導かれ、燃えさしがその前に置かれ、Śamitṛ 火として役立つ。

vapāśrapaṇī すなわち「網焼き具」―― kārṣmarya 材から作られた二本の木で、一方は枝分かれし、他方は枝がない(ISt. 10, 345)―― をもって、祭司は獣に触れ、祭主は祭司に触れる。

この掴むという所作は、しばしば繰り返される慣習であり、供犠から発する神秘的な力の伝達と関連するように見え、祭主あるいは祭主たちを、所作の遂行者および供物そのものとの神秘的な共同のうちに置く。同様に花嫁も、婚礼に際して花婿が献供をささげているあいだ、何度も彼に触れる。

Śamitṛ の西で獣は一定の仕方で横たえられ、屠られる。ついで臍の上で網が取り出され、切り取られ、網焼き具で掴まれ、水を注がれたのちにまず Śamitṛ で温められ、ついで家庭の火で焼かれる。さらに同じ場所で鍋料理が煮られる。

いくつかの Sūtra は avadāna を詳細に記述している。Āśv. によれば「すべての肢体から」11 の切片が作られる。すなわち心臓・舌・胸などであり、屠りの火で焼かれ、鍋料理の後に、あるいはそれとともに供犠される。

動物供犠の一変種が、いくつかのテクストにのみ規定されている śūlagava すなわち串刺し牛供犠であり、これは Rudra にささげられる(83 頁に記述する)。

§§ 45. 供犠の時刻

Ś. 1, 3, 3 は、「最も福をもたらす」供犠の時刻として朝を挙げる。「太陽が高い樹々の梢を照らすとき」である。ただし特別な規定が明示的に別のことを定める場合は別で、たとえば Vāstoṣpatya の儀式に際して、Agni

74 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

Sviṣṭakṛt への第十の献供が明示的に夜に置かれる場合がそうである(3, 4, 8)。同じことは当然 sāyaṃhoma 等にも妥当する。

H. 1, 19, 3 は、吉日における五つの時刻(早朝・午前・正午・午後・夕)を適当なものとして挙げている。さらなることは §46 において述べる。

§§ 46. 定期の供犠 ―― 日々の供犠

夕と朝に、彼は絶えず自らの手で(匙を用いずに)米または大麦から成る二つの献供を、ある者たちによれば酸乳あるいは炒った穀粒から成る二つの献供を、Agni と Prajāpati に(H. 1, 23, 8)、あるいは Agni ないし Agni Sviṣṭakṛt に(Āp. 7, 20)ささげる。

ある者たちによれば、朝の献供は Sūrya に帰する(H. 1, 23, 9;Āp. 7, 21)。あるいは朝は Sūrya と Prajāpati に、夕は Agni と Prajāpati に(P. 1, 9, 3. 4;Ś. 1, 3, 14. 15;Kauś. 73, 2)。あるいは朝に Sūrya のために二つ、夕に Agni のために二つ(G. 1, 3, 9. 10)。

P. はそのための時刻を日没後ないし日の出前と定める(1, 9, 2)。ほぼ同様なのが G. 1, 1, 27 以下である。Āśv. 1, 9, 4;Ś. 1, 1, 12 によれば、時刻は Agnihotra の場合と同じである。ただし G. においては一定の場合に、夕の献供までに朝の献供が怠られないこと、また逆に朝の献供までに夕の献供が怠られないこと、という規則が妥当する。

その規定の終わりに G. 1, 3, 13 以下はこう述べる。「このようにして彼は、その生命の終わりまで、家庭の火において供犠し、あるいは供犠させるべきである。」(これらの献供へのさらなる準備は G. 1, 1, 24 以下。)

定期の日々の献供としては、さらに朝夕に行われる pañca mahāyajñāḥ がある。これは Ś. Br. 11, 5, 6, 1 以下にも知られている。それは神々のための献供(devayajña)、生類のための献供(bhūtayajña)、祖霊のための献供(pitṛyajña)、ヴェーダの読誦(brahmayajña)、そして人々への贈り物である nṛyajña から成る。

Āśv. のみが供犠 a–c を sāyaṃprātarhomau と直接の連関のうちに規定しているため、(1, 2, 2)両者のあいだの明瞭な区別が認められず、それは他の Sūtra から初めて明らかになる。

Mahāyajña の最初の三つは、時として Vaiśvadeva 供犠の名でまとめられるが、Stenzler が Āśv. 1, 2, 1 に注記しているように、この名は他の、一部はより狭い、一部はより広い意味でも用いられる。

これらの供犠のうち、a)devayajña は火のなかで、静かに手をもって(G.)ささげられる。しかも G. によれば朝と夕、妻が食事の用意ができたと告げたときである(1, 3, 16)。

G.・Kh. によれば二つの献供が Prajāpati と Sviṣṭakṛt にささげられ、P. 2, 9, 2 によれば Brahman、Prajāpati、家の神々、Kaśyapa、Anumati のための献供が、Āśv. 1, 2 によれば Agnihotra の神々、Soma Vanaspati、Agni-Soma、Indra-Agni、Dyāvāpṛthivī、Dhanvantari、Indra、Viśve devāḥ、Brahman のための献供がささげられる。Vaikh. 3, 6;Ś. 2, 14, 1 では名の数はさらに多い。

これらの献供に続いて b)balikaraṇa すなわち「置く供犠」が来る。これはあらゆる種類の食物の贈り物から成り(G. 1, 4, 20)、彼はそれを家の外あるいは内の種々の場所に、大地を入念に清めたのちに置く。

第一のものは大地に帰し、第二は Vāyu に、第三は Viśve devāḥ に、第四は Prajāpati に帰する。さらに三つの Bali が、水槽・中央の柱・家の戸口に、水の神格のために、草木と樹木のために、第三にはエーテルのためにその場所を得る。第七のものは寝床または便所で Kāma ないし Manyu のために、第八は塵芥の山で Rakṣas のためにささげられる ―― これが G. による bhūtayajña である。

他の Sūtra は別の名を挙げる。Kauś. 74, 2 は Brahman、Vaiśravaṇa、Viśve devāḥ、Sarve devāḥ 等に、戸口の柱では Mṛtyu、Dharma、Adharma に、水瓶のところでは Dhanvantari、Samudra、Oṣadhi たち、Vanaspati たち、Dyāvāpṛthivī に、隅では Vāsuki、Citrasena、Citraratha、Takṣa、Upatakṣa 等に供犠させる。P. 2, 9, 3 以下その他では、水瓶のところで Parjanya、Āpas、Pṛthivī のために、二つの戸口の柱では Dhātṛ と Vidhātṛ のために、Vāyu と諸方位のためには方位に応じて、中央では Brahman、Antarikṣa、Sūrya 等のために供犠する(なお Āśv. 1, 2, 4 以下;Ś. 2, 14 を参照)。

家長が

46. 日々の供犠。47. 新月供犠と満月供犠。 75

旅に出ている場合には、息子・兄弟・妻、また学生も baliharaṇa を行うことができる(Ś. 2, 17, 3。G. は、夫と妻が Bali をささげ、前者は朝に、後者は夕に行うと述べる。§39)。

Bali の食物の残りに彼は水を注ぎ、南に注ぎ出す ―― これが c)pitṛyajña である(その細目については Caland, Totenverehrung 10)。

「Mahāyajña」の第四のものが d)brahmayajña(Bhandarkar, IA. 3, 132;Knauer, G. II, 139;Taitt. Ār., 序論 22)すなわちヴェーダの読誦である。Ś. Br. 11, 5, 6, 3 は Brahmayajña を svādhyāya と説明し、注釈は svaśākhādhyayana と説明している。

それは義務であり、たとえ一つの讃歌の誦唱に限られる場合でもそうである(Ś. 2, 17, 2;Nār. の Āśv. 3, 1, 4 への注)。すでにこのことから、この読誦の範囲がどこでも同じでないことが帰結する。

内容もまた同様であり、Ś. 1, 4 が与えるもの(一定数の RV の詩節と讃歌)は、Āśv. 3, 3, 1 以下が与えるものと本質的に異なる。後者は Ṛc、Yajus、Sāman、Atharvaveda、Brāhmaṇa 等、Purāṇa にまで及ぶ。そこから彼は「彼が良いと思うだけ」読む(4)。

Āśv. によれば、東または北へ村から出て、そこで清らかな場所で、視線を地平線に向けるか、目を閉じて読誦を行うべきである。

Mahāyajña の最後の(第五の)ものが e)nṛyajña あるいは manuṣyayajña であり、これは Smṛti の規定に従って客を饗することに存する。Sūtra のうちでは P. 2, 9, 11 が饗応をやや詳細に描いている。家長は、最初に食べるか、あるいは妻とともに最後に食べるかして、バラモンにその優先分を先に与え、ついで乞食と客が、さらに家人が老若を問わず、相応にその食事を受ける。

これらすべての供犠を行うことは、特別な義務とされている。P. 2, 9, 16;Ś. 2, 17, 2;Ś. Br. 11, 5, 6, 2 によれば、彼はいかなる場合にも日々 Svāhā の献供をささげるべきである。食物がない場合には他の何かをもって、たとえ神々のためには一本の薪、祖霊と人々のためには一壺の水、Brahmayajña としては一つの Sūkta(前掲)あるいは Anuvāka であってもよい。

散発的に他の贈り物も規定されている。たとえば G. 4, 7, 42 は(家屋の聖別に結びつけて)東方の神々、高きところの神々、深きところの神々に、日ごとに一つの献供をささげさせている。

§§ 47. 新月供犠と満月供犠

十四日ごとに、新月ないし満月に、鍋料理が ―― Śrauta 供犠の Puroḍāśa とは対照的に ―― ささげられる。

大多数の Sūtra がより精密な規定を省くか、Āśv. のように Śrautasūtra を参照させているのに対し、G. は時期についていくらか立ち入っている。太陽と月の最大の隔たりが満月の日であり、最大の接近が新月の日である。新月の日としては、月が見えない日を、あるいは時としてなお見える日を、すなわち注釈によれば第十四日を取るべきである。満月の日については彼は三つの時期規定を与えている。

そのほか彼は、それを教える「Adhyāya」あるいは心得ある者たちの教示を参照させ、それを求めるべきであるとする(1, 5)。

所作の最も詳細な記述は、G. のほかに Āśv. がもっており、彼にとっては Āp. 7, 17 と同じく、この供犠はすべての煮る供犠の基本形でもある。

食物がささげられる神々は、Śrauta 供犠の場合と同じであるが、ただ Tūṣṇīṃśaṃsa と Indra ないし Mahendra への供犠が省かれる。すなわち満月には Agni と Agni-Soma、新月には Agni と Indra-Agni である。特別な願いがある場合には、他の神格をこれに結びつけることもできる(Āśv. 1, 10, 5)。G. 1, 8, 22 によれば

76 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

聖火を保たない者の鍋料理は、両方の祭日において Agni のみに捧げられるべきであるが(H. 1, 23, 7)、āhitāgni のそれは満月の日には任意に Agni または Agni-Soma に、新月の日には Indra または Indra-Agni または Mahendra に、あるいは両方の場合とも単に Agni に捧げられる。

P. 1, 12, 1 においては、主要な献供に続いて他の献供が Brahman、Prajāpati 等にささげられる。見たところ、それに続く Viśve devāḥ のための Bali も、Mahāyajña に挙げられたものとは異なり、新月・満月供犠の付録と考えるべきである。

終わりに妻が家の外で、次の呪句とともに一つの Bali をささげる。「女への礼拝、男への礼拝、老いたる者・白き者・黒き歯の者への礼拝、悪しき女たちの主への礼拝」等(Speijer, Jātakarma 43)。

一般的な規定は、祭主は言葉少なくし、真実を語るよう努めるべきである、という方向にある。前日の午後に断食の食事を取ることは、特に功徳あることとされる。Mānatantavya がそれを推奨していることを G. 1, 6, 1 が引いている。

続く夜のあいだ、夫と妻は地上に臥し、部分的にのみ眠り、Itihāsa その他の敬虔な事柄を語り合わねばならない。Vrata に反するいかなる所作、たとえば同衾なども、当然控えねばならない(G.)。

奇異なのは G. の規定であり、それによれば家長はこの日、出かけてはならず、遠方からでも自ら家に帰るべきであり、他人から買ってもよいが自ら売ってはならない。

G. Ś. 1, 3, 7 によれば、満月の祭までは新月の祭の時期は過ぎておらず、逆もまた同様である。一つあるいは二つの pārvaṇa が省略された場合には、彼は Agni pathikṛt に、ないし Agni pathikṛt と Vaiśvānara に献供をささげねばならない。それ以上の場合には Punarādheya が行われねばならない(H. 1, 26, 22)。

これらの日々の、また十四日ごとの供犠に加えて、周期的な供犠が来る。これらは一定の月あるいは季節にその場所をもつ。

§§ 48. Caitra 祭

Ś. 4, 19(Vaikh. 4, 8?)にのみ Caitra 祭が見いだされる。これは春の月 Caitra の満月に行われる。Ś. における表現の不明瞭さは、より精密な叙述を許さない。それは春の祭であるように思われる。人は粉から動物の対(Cakravāka のような)の像を作り、Indra-Agni のためには臍の突き出た像を、Rudra のためには球を作る。その他は不明である。

§§ 49. Śrāvaṇa ないし Śravaṇākarman

雨季の初めに当たるのが Śrāvaṇa ないし Śravaṇākarman であり、これは Śrāvaṇa 月の満月の日に行われる。これは家のなかで行うべき供犠の所作と、蛇にささげるべき Bali とから成る。

Śrāvaṇī から Āgrahāyaṇī までは、蛇の危険のゆえに地上に眠らず、高くした寝床に登るべきである(Stenzler の Āśv. 2, 3, 1 への注;Oldenberg の Ś. 4, 15, 22 への注)。種々の所作と呪句は、ここで問題なのが Śravaṇa の時期に現れる蛇の危険の呪除であることを示している。

1) 三つの火を保つ者は、H. 2, 16 によれば Dakṣiṇāgni を選び、anāhitāgni は家庭の火を選ぶ。そして両者は夕の Agnihotra の後に火を設ける。家の外に火を設けるべしという規定もしばしば見いだされる(G. 3, 7, 3;Ś. 4, 15, 3)。

神々の名は揺れている。H. は Agni、Vāyu、Sūrya、Viṣṇu を挙げる。P. 2, 14, 6;Ś. 4, 15, 3 は Viṣṇu、Śravaṇa、Śrāvaṇī paurṇamāsī、varṣāḥ を挙げる。Āśv. は Agni のみ、Āp. は Śrāvaṇa の満月(?)のみ等である。Āśv.、P.、Mānava においては、acyutāya ないし dhruvāya bhaumāya すなわち地の霊にも供犠される。

P. においては、これらの献供に先立って、Sīta への二つの Āhuti の献供が行われる。Sīta は足をもって蛇を追い払うべきものである。

2) 供犠の第二の部分は、家の外での蛇への献供から成る。P. 2, 14, 9 によれば、彼は外に出る前にすでに一度、蛇にバターをもって供犠する

48–51. Caitra 祭。雨季の初め。Prauṣṭhapada。Āśvina。 77

膏を塗った粥をもって供犠するのに対し、G. と Ś. はこの供犠を家の外の火においてのみ行わせる。

儀式の性格は Ś. 4, 15, 5 以下からきわめて明瞭に現れる。火の北に新しい水器が置かれ、蛇を「身を洗う」ように招く呪句とともに、水がそこに注がれる(P. においては、粥の入った籠を持って外に出て、整えられた Sthaṇḍila の上で、燃えさしを上にかざしながら水を注ぎ出す)。

ついで「蛇の頭巾」(蛇の頭巾に似た小さな木片)が櫛として持ち込まれ、さらに化粧料・花・糸・軟膏・鏡が加えられる。すべては櫛梳ること、化粧することなどに関わる呪句とともに行われる。そして最後に Bali が置かれる。まず天の蛇のために、ついで空の蛇のために、諸方位の蛇と地の蛇のために。後のものは常に、先に挙げたものよりいくらか低い場所に置かれる。

日ごとに、炒った大麦の粥から成る Bali を、夜、黙して水とともにささげ、妻がそれを黙して置くべきである。

ある者たちは Āśv. 2, 1, 15 に従って、寝床を地上に戻す日(これは Mārgaśīrṣa 月の満月に行われる)までの日数を数え、日ごとに、なお残っている朝と夕の数だけの供物をささげるという慣習を守っている(注釈)。

Āśv. 2, 1, 10 以下と Mānava(Winternitz)においては、祭主は自らのすべての親族を順に、最後に自らを、蛇王の恩寵に委ねる。

献供のあいだ、誰もそのあいだに立ち入ってはならない(Āśv.、P.)。途切れない水の流れをもって、蛇が近づいてくるのを見たくないかぎりにおいて、家の周りを三度めぐる(P.、H. 2, 16, 8)。

匙と籠を祭主は最後に手放し、戸口で身を洗う(P.)。G. によれば人は家に戻り、家庭の火の西で両手を地面につき、大地にその礼拝をささげる。G. においてはここで初めて Śravaṇa、Viṣṇu 等のための供犠が入る。

§§ 50. Indrayajña

Prauṣṭhapada の満月に、P. 2, 15 は Indrayajña を規定している。人は Indra のために乳の料理と菓子を用意し、火の周りに菓子を撒き、Indra、Indrāṇī、Aja Ekapād、Ahir Budhnya、および Prauṣṭhapada たちにバターの献供をささげ、食事の終わりに Marut たちに aśvattha の葉の上で Bali をささげる。

§§ 51. Āśvayujī

Āśvina(Āśvayuja)の満月に Āśvayujī の所作、すなわち Pṛṣātaka の儀式が行われる。これは Āśv. 2, 2, 1 によれば、Paśupati、Śiva、Śaṅkara、Pṛṣātaka への鍋料理の献供と、Pṛṣātaka(乳または酸乳と溶かしバターとの混合物)の供犠とから成る。

Ś. 4, 16 では、二人の Aśvin、二つの Āśvayuj、Āśvayujī の満月、秋、Paśupati、Piṅgala が受け手であり、P. 2, 16 では Indra、Indrāṇī、Aśvin たち、Āśvina の満月、秋であって、これらに酸乳・蜜・溶かしバターを混ぜた乳の料理が供犠される。G. では Rudra である。

Paśupati ないし Rudra への呼びかけがすでに示すように、この供犠においては家畜の福利に関わる息災の儀式が問題である。Ś. 4, 16, 3 では、牛に向けられた歌 RV 6, 28 の詩節ごとに、酸乳と溶かしバターが供犠される。P. は家人に料理を見させ、Indra に向けられた Anuvāka VS. 20, 47 以下を誦させる。

特徴的なのは G. であり、彼のもとでは乳で煮た粥からの二つの献供に、九つの牛の名 Kāmyā 等を挙げつつ数個の献供が続く。それらは GSP. 2, 60 に記載されている。Pṛṣātaka が運ばれ、バラモンたちと祭主とがそれを眺め、

78 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

RV 7, 66, 16 が誦される。食事ののち、彼らはあらゆる種類の草木を混ぜた樹脂の護符を「福利のために」身につける(G.)。

夕方には彼らは牛に Pṛṣātaka を食べさせ、三つの Sūtra すべてによれば、夜には仔牛が牝牛とともに置かれる。

§§ 52. Āgrahāyaṇī、Pratyavarohaṇa

祭の時期として、Sūtra の大多数(Āp. 19, 3;P. 3, 2, 1;H. 2, 17, 1. 2)は Mārgaśīrṣa 月の満月の日を挙げ、Āśv. は満月の日そのものか第14日を挙げる。G. 3, 9, 1;Ś. 4, 17, 1 はそれを Āgrahāyaṇī と呼び、後者は星宿 Rohiṇī または Proṣṭhapadāḥ をも許している。

āgrahāyaṇa という名 ―― その第二の構成要素は「年」を意味する ―― が示すように、われわれはここで古い新年の祭を指し示されている(Weber, Nakṣatra 2, 332)。それはいくつかの Sūtra においては詩節の選択によっても表現されている。

それが特に現れるのは P. 3, 2 と H. 2, 17 においてであり、そこでは新年の夜すなわち「年の妻」に関わる呪句 yāṃ janāḥ pratinandanti 等が、AV と TS から供物のために引用されている。Ś.、G.、Āśv. にもその痕跡がある。

家は塗り替え、屋根を葺くなどして修繕される(Āśv. 2, 3)。G. はこの祭に家の聖別を結びつけている。それは、南ドイツで聖トマスの日・クリスマス・新年などに当たる「煙の夜」に、ゲルマンの家を守るために行われた燻蒸を想起させる。その際には九種の薬草に乳香とネズの実を混ぜる ―― 「魔女はその匂いに耐えられないから」である。

G. は六種の薬草を持って来させ、炒った大麦の粥を火のなかで供犠し、バラモンたちに祝福の言葉を述べさせる。ついで祭主はこれらの束をもって、炉から始めて住居を左から右へと巡り、それによって煙を撒き散らす。目的を果たしたのち、彼は束を投げ捨てる(3, 9, 4 以下)。

堅固な石の上に、彼は水桶を、二つの Sāman「おお家の主よ」と ṛc そのものとをもって置き、そこに二壺分の水を注ぎ入れる。これが(家の)大きな水槽の年ごとの聖別であり、G. においてはそこに日ごとに Bali も置かれる。

Ś. 4, 17 もまた薬草等の使用を知っている。彼は九種の種々の草木と枝を「一握り」取り、それを土塊とともに水瓶の上に置く。災厄の防除に関わる讃歌を誦しつつ、彼は繰り返しそれを水に浸し、それによって左から右へ(撒き散らすことによってか?)災厄を自らの被保護者から追い払い、水を北に注ぎ出す。したがって彼のもとでも問題なのは危険の防除である。

この時期には蛇の危険が過ぎ去り、寝床を再び地上に戻すことができるので、同時に蛇への Baliharaṇa も行われる。その儀軌は G. 3, 9, 1;P. 3, 2, 2. 4 によれば Śrāvaṇī の儀式のそれとほとんど同じである。Āśv. 2, 3, 3;Ś. 4, 18, 1 は、「śveta vaidārva」に向けられた詩節を誦しつつ乳の料理ないしバターを供犠するという規定にとどめている。Soma、Mṛgaśiras、Mārgaśīrṣa の満月、Hemanta のための鍋料理を P. 3, 2, 3 が規定している。

pratyavarohaṇa、あるいは Āp. 19, 8 が呼ぶところの hemantapratyavarohaṇa は、厳粛な形式のもとに行われる。床は palāśa の枝で掃かれ(Ś. 4, 18, 3)、火の西に敷草が広げられ、その上に家長が座り、ただちにそれに続いて年少者が年齢順に、そして子をもつ女たちが座る(G.)。

全員が座ると、家長は「大地がわれらに親しくあれ」という詩節とともに両手を敷草につき、それに応じて全員が三度、右脇を下にして横たわり、祝福の言葉あるいは一定の Sāman を唱える(G.)。

個々の Sūtra はここでも多くの相違を示す。しばしば呪句が

52. Āgrahāyaṇī。53. Argha。 79

用いられるが、それらは支配・王国における「確固たる地位」、ロシア〔=河?〕等に関わるものである。Āśv. 2, 3, 13 からは、起き上がったのち RV の Sūrya の歌と祝福の歌がつぶやかれることが言及に値すると思われる。(Mānava によれば、敷草を広げたのち、水釜のなかに石を投げ入れ、そこに米と大麦を加え、敷草に水を撒く。)

これ以後、彼らは四か月のあいだ、あるいは望むかぎり、また一夜だけでも、地上に眠ることができる(P. 3, 2, 16;Ś. 4, 18, 15)。

Nāgabali を Āśv. GP. 3, 16 が、蛇に傷つけられた者のために言及している。木または粘土から五つの頭をもつ蛇を作り、Bhādrapada 月あるいは他の月の白分の第五日から一年間、そこに詳しく規定された仕方でそれを礼拝する。

Āgrahāyaṇa 月の満月には Aṣṭakā が続くが、これについては後の「死と死者祭祀」の項で論ずる。

§§ 53. Argha(賓客の迎え入れ)

定期の供犠のほかに、家長には一定の機会にのみ行うべき、さらなる義務がある。とりわけ argha がそれである。

argha とは、賓客を厳粛に迎え入れることの名であり、その際にその者に敬意の水(arghya)と蜜の料理(madhuparka)とが差し出される」(Stenzler の P. 1, 3, 1 への注)。

これに対する義務を、Ś. は特に力を込めて、一部は Manu から借りた詩節をもって説いている。

Argha をもって迎えるべき人は六人である。1)ācārya、2)祭司、3)snātaka(卒業の日に来る者、あるいは求婚者として来る者。Āśv. 1, 24, 2 への注釈を参照)、4)姻戚の者、5)王、6)友人である。

「姻戚の者」は vaivāhya(G. 4, 10, 24 では vivāhya)と呼ばれる。P. 1, 3 への注釈その他は、これを jāmātṛ(婿)と説明している。Āśv. はその代わりに直接 śvaśurapitṛvyamātula を挙げる。Āp. 13, 19;ŚŚr. 4, 21, 1 は śvaśura を挙げる。「priya(友人)」は時に省かれるが、Ś. Śr. への注釈によれば、これは求婚者である。

これらすべてを、来訪の際に敬うべきであるが、年に一度のみである(P.、G.、Āp.)。これに対して、供犠に招かれた祭司は繰り返し敬うべきである。Āp. は 13, 20 でさらに、著名なヴェーダの教師(pravaktṛ citra)を一度 Argha をもって迎えるべきである、と付け加えている。

Argha の贈り物は六つある。座および足の下敷きとしての一つまたは二つの敷物(vistarakūrca)、足の水、Argha の水、うがいの水、Madhuparka、そして牝牛である。

H. は、これらの儀式を snātaka の帰郷と関連づけて記述しており、贈り物を差し出す際に交わすべき言葉を細部に至るまで定めている。

来訪者は、自分に敬意を表そうとする人のもとへ行き、次の言葉とともにその人を見つめる。「汝は栄光なり、栄光をわれは汝のもとで得たい」。主人が彼のために宿を整えたのち、主人は「argha!」と言い、客は「kuruta!」と答える。

品々は順に一つずつ差し出される。彼は敷物を受け取り、その上に座り、足を洗ってもらう。ついで(Āśv. 1, 24, 13 への注釈によれば)香辛料を加えた Arghya の水が差し出され、その一部は合わせた両手の上に注がれ、残りは注ぎ出される(P. 1, 3, 14;H. 1, 13, 3)。すべては絶えず呪句を用いつつ行われる。

これに続いてうがいの水と Madhuparka とが差し出される。後者は H. 1, 12, 10 によれば三つまたは五つの構成要素、すなわち dadhimadhughṛta から成り、これに āpaḥsaktu が加わりうる。ある者たちは dadhimadhu のみを取る。蜜が手に入らない場合には、Āśv. 1, 24, 6 によればその代わりにバターを用いる。酸乳は真鍮の器に注がれ(H.)、そこに他の物質が加えられる。

ここでもきわめて細部にわたる規定が見いだされる。客はすべてを食べるか、あるいは残りを残し、それをバラモンに(G.、Āśv.)、あるいは息子または学生に(P.)、あるいは自分に好意的な者に(H.)、あるいは anukampya に(Āp.)与える。しかし

80 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

残りを注ぎ捨てることもできる。王または首長(sthapati)は、贈り物をそもそも受け取るだけで、それを自らの Purohita に渡すべきである(Āp. 13, 14)。

最後に「牝牛」が贈られる。Argha は肉なしであってはならないということが、繰り返し規定されている(Āśv. 1, 24, 33;P. 1, 3, 29;Ś. 2, 15, 2;H. 1, 13, 14)。もっとも Ś. は、牛の代わりに山羊、あるいは彼が「最も類似したもの」と見なす食物をも許している(73 頁)。

同じ Sūtra によれば、獣は師のためには Agni に、祭司のためには Bṛhaspati に、姻戚の者のためには Prajāpati に、王のためには Indra に、snātaka のためには Indrāgnī に聖別される。

彼は屠刀を取り、客に三度「牝牛を!」と言う(P.)。G. 4, 10, 18 によれば ―― そこでは牝牛はすでに初めから北に繋がれ、呪句をもって挨拶されている ―― 理髪師(nāpita)が牝牛の到来を告げる。

客はそれを oṃ kuruta! をもって屠らせるか(Āśv. 1, 24, 31;G. 4, 10, 22)、oṃ sṛjata をもって放させることができる。両方の場合について特別な呪句が規定されているが、Sūtra は互いに大きく異なっており、P. 1, 3, 27. 28 は Āśv. 1, 24, 31. 32 とは呪句を逆に用いている。

放免の場合には、他の肉から食事を用意し、客に bhūtam! と言う(H. 1, 13, 14)。客はこれに「subhūtam」等と答え、バラモンたちに食事をさせる。彼自身は別の食物を持って来させ、残りを友人に与える。

§§ 54. 家屋、牧畜、農耕

§a)家屋の建築

家屋の建築に関わる讃歌 AV 3, 12 は、その宗教的形式の古さを示している。

家を建てようとする者のために、H. 1, 27, 1 は太陽の北行、満ちてゆく月、星宿 Rohiṇī または三つの Uttarā(Uttara-Phalgunī、U.-Āṣāḍhā、U.-Proṣṭhapadāḥ)を規定している。

建築用地の性状についての Āśv. と Gobh.(Khād.)の規定はきわめて詳細であり、おそらく vāstuvidyā の教本から採られたものである。

地面は塩分を含んでいてはならず、棘のある植物も乳を含む植物も生じてはならない。Āśv. によれば、そのようなものは根ごと掘り出して除去せねばならず、Apāmārga、Śāka、Tilvaka、Parivyādha と呼ばれる植物も残してはならない。

G. 4, 7, 22 によれば、彼は東に aśvattha を、南に plakṣa を、西に nyagrodha を、北に udumbara を許してはならず、その場所から除去して、これらの樹の神格を礼拝すべきである。というのは、Āditya に属する aśvattha は火災の危険を意味し、Yama の plakṣa は早死を、Varuṇa の nyagrodha は武器による危険を、Prajāpati の udumbara は眼病を意味するからである。

これに対して地面は他の樹木と草に富み、kuśa 草と vīraṇa 草を豊かに生ずるべきである(Āśv. 2, 7, 3. 4)。G. は草の性状のうちに、一定の願いの保証の徴をさえ見ている。

最も立ち入って建築地の選定を扱うのは Āśv. である。膝の深さの穴を掘り、同じ土で再び埋め戻す。土が穴を越えて余れば地盤は良く、ちょうどであれば中くらいであり、埋まらなければ建築地盤は悪い。

第二の検査手段は、日没時に行うべき穴への注水であり、水は一晩そのまま置かれる。水が失われれば地盤は悪い。

さらに地面は、バラモンのためには「白く」(Āśv. によればさらに甘い味で砂に富み)、kṣatriya のためには赤く、vaiśya のためには G.・Kh. によれば黒く、Āśv. によれば黄色であるべきである。

さらに G. は、水が東または北へ(Kh. によれば北西へ)流れ去ることを求める。Āśv. においては、水が四方から中央に

54. 家屋、牧畜、農耕。 81

集まり、寝室の周りを右回りに静かに東へ流れ去る場所が「まったく申し分ない」とされる。

こうして選ばれた建築地に、Āśv. 2, 8, 9. 10 によれば「千の畝」を引き、正方形または長方形を測り取る。G. はこれに煉瓦の形、あるいは円形の島の形を与える。第三の規定はあまり明瞭でない。

人は左から右へ三度その場所をめぐり、śamī または udumbara の枝でそれに水を撒き、Śamītātīya の讃歌を誦し(Āśv. 2, 8, 11)、三度、途切れない注水をもってその周りを囲む。

他の Sūtra は、この点に触れるかぎりで、いくらか異なる。たとえば Āp. 17, 1 以下は、その場所を掘り起こし、palāśa または śamī の箒で掃くと言う。Ś. 2, 1 は、udumbara の枝で三度その周りをめぐり、中央で供犠をささげさせる。

食料庫 bhaktaśaraṇa は、水が流れ去る方向に(多くの説では、注釈が言うように南東に)来る(Āśv. 2, 7, 8)。そうすればそれは食に富むことになる。

sabhā(parlour、居間。注釈によれば家長がその家族とともに過ごし、来客を迎える部屋)を、彼は「南に傾いた側に」、すなわち北に設ける。そうすればそれは「賭博から自由」となる。もっともこれについては種々の見解もある。というのは、まさにこの Sabhā の位置においては、(ある者たちによれば)若者たちが賭博者となり、争い好きとなり、早死するとも言われるからである(Āśv. 2, 7, 10)。

G.・Kh. は戸口の設置について精密な規定を与えている。西の戸口は禁じられている。名声または力を望む者は東に、家畜または子を望む者は北に、「すべて」を望む者は南に作る。

さらに、家長がその家庭の営み、たとえば供犠や食事などに際して見られないようにすることにも重きが置かれる。もっとも当該の Sūtra の解釈には疑いの余地がある(G. 4, 7, 19 以下)。

個々の部屋は葦の柱のあいだに置かれる(Āśv. 2, 8, 13)。H. 1, 27;Āp. 17, 4 では、バラモンたちへの食事の供与と祝辞、そして水に触れることののち、彼は鋤を取り、それで左から右へ三度輪郭を描き、そこに柱のための穴を掘らせる。その土は建築地に投げられる。まず南の、ついで北の戸口の柱が据えられ、その後に二本の主柱が据えられる(H.)。

柱の穴には avakā すなわち śīpāla と呼ばれる水草を入れるべきである。そうすれば火が出ないからである(Āśv. 2, 8, 14)。彼がそれを「中柱」の穴に入れたなら、kuśa の茎を撒き、米と大麦を混ぜた水をその上に注ぎ、「揺るがぬ地の神に svāhā!」と言う。

Ś. 3, 2, 4 は大麦の粘液(udamantha)を穴に注がせ、バターを塗った udumbara の枝を入れさせる。すべて呪句を用いて行う。

さらに膏を塗った石が(Ś. 3, 3, 10)RV 5, 47, 3 を用いて埋められる。この慣習は、シャムの仏教寺院における石の埋設と比較されている(Winternitz)。P. 3, 4, 4 への注釈によれば、柱の下の各穴に一つずつ石を置くべきである。

柱を立てるときも、葦を載せるときも、呪句が唱えられる。それらは、われわれの棟上げの唱えごとと同じく、家の幸福とその住人の福利に関わる。水甕(maṇikā)の設置を P. 3, 5 が扱っている(G. 3, 9, 6 を参照)。

家の完成後には vāstoṣpatīya karman すなわち vāstuśamana を行うべきであり、しかも H. 1, 27 によれば星宿 Anurādhāḥ のもとで行う。(同じ Gṛhya はこの儀式を年ごとに行わせ、したがって家の年ごとの聖別を催させる。ある師たちは各季節ごとに行わせる。G. 4, 7, 42. 43 によれば、年ごとに、日ごとに、あるいは初穂供犠の時期に、一定の神格に献供をささげねばならない。)

儀式は H. においてはきわめて単純に進む。内部に火を設け、さらに

欄外下:Indo-arische Philologie. III. 2. ―― 6

82 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

Vāstoṣpati への献供をささげ、彼に向けられた詩節を誦する。

他の者たち、たとえば Āśv. によれば、水器が置かれ、三度めぐり歩き Śamītātīya の歌を誦しつつ、水 ―― そこには米と大麦が、Āśv. と Mānava によれば黄金も混ぜられている ―― をもって家に撒く。(Āp. においては、水器を置く場所に米と大麦が撒かれる。)

これに続いて途切れない注水、家の中央での鍋料理の煮沸、そしてバラモンたちへの食事の供与が行われ、バラモンたちは śivaṃ vāstu(家が吉祥であること)を願うべきである(Āśv.)。

Āhuti と呪句が数多いのは P. 3, 4 であり、彼はまた、神像の座と立ち位置にも、一つの器に混ぜ合わせた種々の物質を撒かせている。Ś. は供犠に際して Sāman、すなわち Rathaṃtara 等を用いる。

興味深いのは Gobhila のいくつかの相違である。というのは、彼はとりわけ黒い牝牛あるいは白い牡山羊を供犠させるからである。獣の色は、Winternitz が Grimm を援用して述べたように、どうでもよいことではない。ギリシアにおいても、新しい建物の礎石の上で黒い雄鶏が屠られる。

人身供犠もまた行われていたことは、ここでは直接の規定は教えていないが、しかしメルヘンにおけるいくつかの特徴(Haberlandt)と、インドシナにおける建築供犠の広い分布とが、なおそれを指し示している。

さらに G. から言及すべきは、あの動物供犠と Vāstoṣpati へのいくつかの献供ののち、十の Bali が諸方位に向けて、東は Indra に、南東は Vāyu に等々、ささげられることである。

新しい家への入居を、家長は長子と妻を伴って行い、家の幸福に関わる呪句を唱える(Ś. 3, 4, 9)。彼らが穀物を携えるべきこと、あるいは家にそれを備えるべきこと(Ś. 3, 4, 9;Āśv. 2, 10, 2)は、そこに家の繁栄の前兆を見る俗信にもとづくものであろう。

Kauś. 23, 1 は、新しい住居(それが家であれ、炉であれ、牛舎であれ)においてバターと蜜の混合物を食べさせ、焼き菓子を火にかけ、それから供犠させる。

家と村を離れるときも、帰ってくるときも、彼はそれについて守護と祝福の呪句を唱える(Ś. 3, 5–7。前掲 §38 を参照)。H. 1, 29 は、帰宅した者にこの日いかなる争いも始めないよう命じ、また妻が横になったのちに、「水の流れを越えるように、あらゆる災いを汝とともに越えたい」という呪句とともに妻を見つめるよう命じている。

この対象は Śrautasūtra においても扱われており、Āśv. 2, 10, 1 は明示的にそこに与えられた規定を参照させている。

§b)林苑の聖別

Āśv. GP. 4, 10 においてやや詳しく記述されるこの儀式は、Ś. 5, 3 においてのみ短く言及されている。それは Viṣṇu と Indra-Agni のための鍋料理の用意に限られ、これは RV 3, 8, 6 以下を誦しつつ供犠される。供犠の報酬は黄金である。

§c)池・井戸の聖別

これについても Āśv. GP. 4, 9 は Ś. より詳細である。吉日に、あるいは月の白半に、彼は乳と大麦から粥を煮て、そこから Agni、Varuṇa に供犠し、ついで左から右へ、Varuṇa の方角から始めて諸方位に、最後に中央で乳をもって供犠する。牝牛一頭と一対の衣服が供犠の報酬である。

§d)牧畜

1. 牛を追い出すこと。 これに言及する Sūtra は、部分的に互いに異なる呪句を規定しており、それをもって

54. 家屋、牧畜、農耕。 83

牧場へ行く獣、あるいはそこから帰る獣に語りかけねばならない。G. 3, 6, 9 によれば、これは日ごとに行われるべきである。夕方には、帰ってきた牛に同じ Sūtra によれば香水が撒かれる。

いくつかの Sūtra は他の機会にも詩節を誦させる。たとえば牛が走り回るとき、牛舎に入れられるとき、あるいは牛舎にいるときである。Āśv. は、誰かが群れに近づく場合のために、師の牛がそのなかにいないかぎり、特別な呪句を規定している(2, 10, 8)。

2. 牛舎の慣習その他。 自らの家畜の繁栄を望む者は、G. 3, 6, 4;Kh. 3, 1, 48;H. 1, 18, 5(後者は saṃprajātāsu という限定を省く)によれば、分娩後の夜に牛舎で火を焚き、Agni のために vilayana、すなわち半分を酸乳と混ぜた液状の脂をもって供犠すべきである。

Ś. 3, 10, 4 は、最初に分娩する牝牛の初乳を供犠すること、また双子を産んだ場合には、供犠ののちにその牛を贈与することを規定している。

G. はなお別のこの種のことを報告している。繁栄を望む者は、最初に生まれた仔牛の額を、母牛がそれを舐めることができる前に、自分の舌で舐め、その粘液を飲み込むべきである(3, 6, 3;Kh. 3, 1, 47)。

さらに繁栄を望む者は、刀で一対の仔牛に印を付けるべきである。まず雄の仔牛に、ついで雌の仔牛に、常に呪句を用いて行う。仔牛を繋ぐ綱もまた呪言を唱えられるべきである。

なお言及すべきは「gayajña」であり、そこでは Agni、Pūṣan、Indra、Īśvara に、乳で煮た粥をもって供犠され、それに続いて「牡牛の礼拝」が行われる。その際、牡牛の首と角が飾られ、飼料が与えられる。

gayajña の型にならって、馬の所有者は aśvayajña を行い、そこでは前述の神々のほかになお Yama と Varuṇa にも供犠すべきである。

3. 富をもたらすより大きな供犠が、串刺し牛供犠 śūlagava である。これは(Āśv. 4, 8 によれば)春または秋に、星宿 Ārdrā のもとで、「串を持つ者」たる Rudra にささげられる牛から成る。(他の Sūtra はこれほど精密な時期規定を知らない。)

獣は同じ著者によれば群れの最良のものであるべきで、癩病でもなく斑でもなく、「ある者たち」によれば黒い斑のあるもの、あるいはまた黒くて銅色がかったものでもよい。他方 P. は、去勢されていてはならないという要求にとどめている。

Āśv. 4, 8, 35 と P. 3, 8, 2 によれば、この供犠は富・清浄・贖罪等をもたらす。

獣が成長したなら、村の視界の外で、供犠に適した東または北の方角において、真夜中ののちに、あるいは「ある者たち」の望むところによれば日の出後に、この所作が行われる。

木の椀(pātrī)あるいは葉をもって、彼は網を供犠すべきであり、juhū の匙を用いてはならない。またその際に Rudra の十二の名、Hara、Mṛḍa、Śarva 等を呼ぶか、あるいは最後の六つだけ、あるいは Rudra のみを呼ぶ。

四つずつの kuśa の輪の上に、彼は四つの方位に Rudra のための食物の贈り物(bali)を置き、「東に、おお R. よ、汝の軍勢あり、それらのためにこの Bali あり。汝に礼拝あれ、われを害するな!」という呪句をもって、方位に応じてそれを彼に指し示す。

これに続いて R. に向けられた四つの RV の歌が来て、それをもって祭主は四つの方位を礼拝する。皮・尾・毛皮(ただしこれは自分のために用いることもできる)等は火に入れられ、血は火の北側で darbha の敷物あるいは kuśa の輪の上に、蛇のために注ぎ出され、彼は呪句をもって蛇に呼びかける。

獣からは何一つ村に持ち込んではならない。「神が人を殺そうとするから」である。親族の者は誰も供犠の場所に近づいてはならず、命令があったときにのみ肉を食べるべきである(Āśv.)。

P. 3, 8, 3 は家庭の火を森に運ばせ、それをもって Śrauta 儀軌の他の二つの火を点じさせ、Rudra のために牛を屠らせる。網は Rudra に、脂は Antarikṣa に、肉の部分と

欄外下:6*

84 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

鍋料理からの切片は Agni、Rudra、Śarva、Paśupati および Rudra の他の名に供犠される。

Vanaspati と Agni Sviṣṭakṛt への献供ののち、諸方位に向けて撒水が行われ、その後で女たちが Indrāṇī、Rudrāṇī、Śarvāṇī、Bhavānī、Agni Gṛhapati に供犠する(P.)。血はここでは葉に入れて草の束の上で Rudra にささげられ、血にまみれた内臓は火に投げ入れられるか埋められる。獣は風に向けて置かれ、Rudra の讃歌を唱えられる(P.)。

H.(2, 8;また Āp. 19, 13 以下)がこの供犠を特徴づける諸特徴は、異なっており、また重要である。それによれば、火の西に二つの小屋を建て、śūlagava あるいは īśāna と呼ばれる獣 ―― これは明らかに神を代表する ―― を南寄りの小屋に、北寄りの小屋には mīḍhuṣī すなわち「恵み深き」牝牛 ―― 注釈によれば Śūlagava の妻 ―― を連れて来る。両者のあいだにはその仔牛 jayanta すなわち「勝利者」が来る。

炊いた米の三つの料理が用意され、獣たちは連れて来られた順に、呪句を用いてそれに触れさせられ、そののち供犠される。第一の料理は Rudra に、そのすべての名を挙げつつ(bhavāya devāya svāhā! rudrāya devāya svāhā, śarvāya d. sv. 等)、第二は「神 Bhava の妻に svāhā! 神 Rudra の妻に svāhā!」等をもって、中央のものは「jayantāya svāhā!」をもってささげられる。

火の周りに人は牝牛を立たせ、それらが供犠の香りを嗅ぐようにする。そしてすべて(火・三頭の獣・その他の牛)を左から右へめぐり、Rudra に向けられた TS. 4, 5 の十一の Anuvāka、あるいはその最初と最後のものをもって Śūlagava を礼拝する。

ここから帰結するのは、H. が Rudra のための牛供犠の代わりに、Śūlagava において Rudra 自身であるか彼によって代表される儀式を置き、その妻を Mīḍhuṣī 牛によって代表させているということである(きわめて簡略な Āp. のテクストも同様)。Haradatta は 20, 1 で、devadevījayanta から作られる像について語っている。G. は Śūlagava を知らないが、Ś. Śr. S. 4, 17 以下は知っている。

これに続いて H. は、同じく家畜の繁栄に関わる二つの他の儀式を記述している。まず bāndhyavihāra である。草の束はすでに P. 3, 8, 11 と Āśv. において Śūlagava に際して用いられており、そこでは犠牲獣の血が palāśa の葉に載せた草の束の上に、Āśv. では「Rudra とその軍勢のために」、蛇のために注ぎ出された。

しかしここで H. においては ―― 彼はいかなる獣も屠らせない ―― 「葉の儀式」は別の仕方で進行する。彼はまず四枚の葉を gṛhapāgṛhapī のために、dvārapādvārapī のために置く。ついで「声高き者」「箙をそなえた者」等のために、さらに十枚を devasenāḥ 等のために置く。その後、彼は葉で籠を作り、そこに一塊の米飯を入れ、自らの牛の通り道を越えて出て行き、次の言葉とともにそれを樹に掛ける。「箙をそなえた者よ! 触れよ! 箙をそなえた者に svāhā!」

ついで彼は次の呪句をもって礼拝を表す。「箙を担う、箙をそなえた者に、盗賊の主に礼拝あれ」。そして白檀の膏、Surā の水、炒った穀粒、牛糞、また牛の尾を取り、牛に、まず牡牛に撒きかける。「śivo bhava!(吉祥であれ)」(H. 2, 9, 7;Āp. 20, 11 を参照)。

これに続いて、乳で煮た鍋料理による Kṣetrapati のための供犠が行われ、これは牛の通り道の上で四枚または七枚の葉の上にささげられる。彼は Kṣetrapati を「Śūlagava のように」連れて来させ(したがってこの神もまた牡牛によって代表される)、それに供犠する。残りは、その家族の慣習に従った仕方で、すべての血縁者が食べる。

Āp. 20 はこの儀式の本質的な段階もすべて知っているが、H. よりも強く Śūlagava と一括して扱っている。

54. 家屋、牧畜、農耕。 85

4. 家畜への印付け。 Ś. 3, 10 はこれに適した時期として、Phālguna の満月に続く新月で、星宿 Revatī のもとにある日を挙げる。

印を押すことは一つの呪句と結びついており、その呪句は、この所作が翌年にはさらに多くの牛について行われるように、という願いをもって終わる。すなわち若い家畜が豊かに増えるようにという願いである。

この儀式は、G.(83 頁)における一対の仔牛への印付けの儀式と一定の関連にある。Ś. においてはこの習俗は一般化されたにすぎないように見える。

5. Vṛṣotsarga。 ここで問題なのは、若い種牡牛を共同体に献じることであり、おそらく古アーリヤの習俗の継続である(Stenzler の P. 3, 9 への注)。P.、Ś. および Kāṭhaka の規定のあいだの一致はここではきわめて大きく、この章は共通の源泉から流れ出たように見える(Jolly, das Dharmasūtra des Viṣṇu 39)。

儀式は Kārttika の満月の日、あるいは Āśvayuja(Āśvina)月の Revatī の日に行われる。牛のただ中で盛んな火が燃え、牛の健康と繁栄に関わる呪句とともに六つのバターの献供がささげられ、Pūṣan のための穀物の粥がささげられる。ついで Rudra に向けられた詩節を誦したのち、規定どおりに選ばれた牡牛と、そのほかに群れの最良の四頭の若い牝牛とが飾られる。

牡牛は呪句とともに解き放たれ、「牝牛たちに夫として引き渡され」る。そして、すべての牝牛の乳を用いた乳の料理によるバラモンたちの饗応が締めくくりをなす。ある者たちによればさらに動物供犠が、Kauś. 24, 22 によれば Indra のための動物供犠が行われる。老いた牡牛は連れ去られる(Kauś.)。

§e)農事に関するもの

1. Kṛṣikarman、lāṅgalayojana、halābhiyoga。 G. 4, 4, 27 以下によれば、犂を繋ぐ祭は吉日に行われる。P. 2, 13 によれば吉日に、あるいは Jyeṣṭhā のもとで、Ś. 4, 13 によれば Rohiṇī のもとで、Āśv. によれば Uttara-Proṣṭhapadāḥ、Uttarāḥ Phalgunī、あるいは Rohiṇī のもとで行われる。

Ś. 4, 13 では、耕す前に畑の東の境で天と地に Bali がささげられる。P. は Indra、Parjanya、Aśvin たち、Marut たち、Udalākāśyapa、Svātikārī、Sītā、Anumati に、酸乳・米・香料をもって供犠させる。G. は一部同じ神格に、一部他の神格に鍋料理をもって供犠させる。

牡牛には蜜とバターが与えられ、呪句とともに犂が繋がれ、犂の刃が(バラモンによって Ś.)触れられるか、あるいはそれで耕される(P.)。

詳細なのは Kauś. 20 であり、彼は畝から土を取り、妻に問わせる。「汝らは耕したか」「われらは耕した」「汝は何を取ったか」「所有、繁栄、花、子孫、家畜、食物を」。

同じ神格が、他の農事の供犠の中心をもなしており、そのうち G.(Kh.)は「畝の供犠」「脱穀場の供犠」、「籾すり・刈り取り・収穫に際しての供犠」を挙げ、また(おそらく害を防ぐために)塵芥の山にささげるべき鼠の王(ākhurāja)への供犠を挙げている。

2. 初穂供犠 ―― Āgrayaṇa、navaprāśana、navayajña。āgrayaṇa はより大きな供犠(haviryajña)に属し、それらは Śrautasūtra に記述されている」(Āśv. Śr. 2, 9;Kāt. Śr. 4, 6, 1–4 を参照)。

「ここに記述される同じものの形式は、Nārāyaṇa によれば、家長が困窮にあるとき(すなわち āpatkalpa、つまり完全な供犠を行う手段を欠くとき)に供犠を行うことができる形式である」(Stenzler の Āśv. 2, 2, 4 への注)。

しかし注釈者のこの限定は行き過ぎている。Śrauta 儀軌と Gṛhya 儀軌との区別から帰結するのは、われわれがここで anāhitāgni の儀式を相手にしているということであり、ある者たちはそれを明示的に名指してもいる(Āp. 19, 6;P. 3, 1, 1;Ś. 3, 8, 1)。他方 Āśv. は āhitāgni についても

86 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

anāhitāgni についても語っている。儀式は両者にとって同じであり、ただ後者は家庭の火においてのみ供犠する点が異なる。

ささげられるのは鍋料理、あるいはある者たちによれば pāyasa caru であり、三つの「āgrayaṇadevatāḥ」のためであって、これに第四のものとして Agni Sviṣṭakṛt が加わる。Kāt. Śr. S. 4, 6, 1–4 によれば、これらは Indra-Agni、Viśve devāḥ、Dyāvāpṛthivī であり、これらは Āśv. GS. 2, 2, 4 においても Ṛtu たち・Vidha たちと結びつけて挙げられている。

特別な特徴として際立つのは、Āp. 19, 7 が飯の団子を作らせ、それを家の棟に投げさせることである。

G. は米の供犠を記述しており、これは(3, 8, 21. 22 への注釈によれば)Āśvayuja 月に、すなわち秋に当たる(Knauer 195 頁をも参照)。これはまた、G. における儀軌の順序のなかでこの供犠が占める位置をも説明する。それは śrāvaṇapṛṣātakaāgrahāyaṇī とのあいだにあり、Āp. においては sarpabalipratyavarohaṇa とのあいだにある。

同じ図式に従い、ただ呪句に相応の ūha を施して、大麦(yava)の供犠と黍(śyāmāka)の供犠とが行われる。前者は春に、後者は(注釈が引用するある Brāhmaṇa の記載によれば)雨季に当たる。ただし後者は、森に住まう者たる Vaikhānasa についてのみ妥当する。(初穂供犠における食物については GSP. 2, 78. 79 が論じている。)

なお別の箇所で(Vāstuśamana の機会に)G. 4, 7, 43 は Navayajña について論じており、東方の神々、高きところの神々、深きところの神々(Indra、Brahman、Vāsuki)に、日ごとでも年ごとでもないならば、初穂供犠の時期に献供をささげるべきことを規定している(§54a)。

さらに 1, 4, 30 には āsyabali が言及されており、これは米の収穫までは大麦から成り、大麦の収穫までは米から成る。そしてこれは家長自身によってささげられねばならず、いかなる代理人によってもささげられてはならない(Zimmer, Altind. Leben 243;Oldenberg, SBE. 30, 24)。

3. Sītāyajña。 畝の供犠は G. 4, 4, 29 が短く言及するにとどまり、彼はそれに犂繋ぎの祭と同じ神格を規定している。これに対し P. 2, 17 はそれに一章全体を充てている。

それは米ないし大麦の鍋料理から成り、季節に応じて選ばれるように見えるが、この規則は例外を許す。畑の東または北の、清らかで、果実を傷めることなく耕された場所で、あるいは村のなかで、彼は火を設け、その周りに darbha 草 ―― これには米ないし大麦の茎が混ぜられている ―― を撒き、呪句とともに Ājyāhuti を Indra とその妻 Sītā ―― 「その本質に宗教的および世俗的な業の繁栄が基づく」―― に、また Urvarā ―― 「馬・牛・幸に富み、倦むことなく生ける者を担い、脱穀場に飾られ、堅固なる者」―― にささげる。ついで鍋料理から Sītā、Yajā、Śamā、Bhūti にささげる。

撒くのに用いて残った kuśa の茎の上に、彼は「畝の守護者」への Bali を置く。方位に応じて、「東に座す、弓と箙をもてる者」、「南に座す、注意深く鎧をつけたる者」、西には「乳に富み、卓越せる Bhūti、Bhūmi、Pārṣṇi、Suṣaṃkuri」、北には「恐るべき、風のごとく疾き者、北にありて汝を畑・脱穀場・家・道において警戒し、絶えず守るべき者」への Bali を置く。

女たちもまた、それが慣わしであるがゆえに、供犠すべきである。締めくくりはバラモンたちへの食事の供与である。

§§ 55. Caitya 供犠

これまで挙げたもののほかに、特別な機会と願いに際してささげられる多数の「所願供犠」がある(Āśv. 3, 6;Gobh. 4, 5 など)。それらは子と家畜の繁栄、健康、災厄の除去などに関わり、第IV部(俗信)において本質的にその場所を見いだすことになる。

これらの kāmyeṣṭi を別として、ここで特に取り上げるべきは Caitya 供犠であり、これを Āśv. 1, 12 が論じている。

ここでは Gṛhya 儀軌のうちに Caityavandana、すなわち師あるいは預言者を記念して建てられた墓碑たる Caitya の礼拝が入り込んでいるように見える。そのような供犠に際して、彼は Sviṣṭakṛt の前に

55. Caitya 供犠。56. 病、死、祖霊祭祀。 87

Caitya に一つの贈り物(bali)をささげる。しかし記念碑が遠方にある場合には、彼は二つの Piṇḍa を作り、担い棒に載せて使者に手渡さねばならない。使者は一つを自分のために受け取り、他方を Caitya へ運ぶ。道が危険であれば、彼はさらに武器を受け取る。舟で渡れる河が途中にあれば、渡るための何かを彼に与えるべきである。(祭主が「葉の使者」を用いるべきである、という規定は明瞭でない。上述 84 頁に記した bāndhyavihāra に似た儀式を考えることもできようか。)

P. 3, 11, 10 は何か類似のことを知っているが、Caitya 供犠についてではなく、ある神格への献供について語っており、その神格のために定められた分を使者が運ぶべきだとしている。

Āśv.(1, 3, 6;1, 12, 7)における Dhanvantari 供犠 ―― その遂行には brahman が必要である ―― の意味は明らかでない。

§§ 56. 病、死、祖霊祭祀

病に襲われた āhitāgni は、東・北または北東へ村から出るべきである。「火は村を愛する」と言われるからであり、火は彼が戻れるように、彼を再び健やかにするであろう。快癒ののち、彼は soma 供犠または動物供犠を、あるいは単に一つの Iṣṭi をささげて帰宅する(Āśv. 4, 1)。

死と火葬については、Vaikh. 第V巻が特に立ち入った規定(dahanavidhi)を、他の Gṛhya よりも詳細な決疑論をもって与えている。彼は種々の死者とその火葬とを、dantajāto kumāraḥkumārī rūḍhaścavīravidhavāsūtikāmūḍhagarbhiṇīpatighnīninditā ghorā 等に至るまで論じている。

たとえば彼は V, 9 で、sūtikāmūḍhagarbhiṇīṃ puṃścalīm anṛtavāṃ pāṣaṇḍamūkabadhirāṃ mantravarjitāṃ pāpabuddhiduḥśīlāṃ striyaṃ puruṣaṃ vā を、森林火災の火(dāvāgninā)をもって静かに焼くよう規定し、これを āpaddāhya と呼んでいる。

§1)死

自らの死が近いことを知る者は、Vaikh. 5, 1 によれば「五重の」親族を呼び寄せ、まず親しく語り、この世の喜びと来世の生の事どもとを自らのために分かつべきである(aihikaṃ sambhogaṃ pāralaukikaṃ cātmane vibhajet)。そしてその日が来たら、砂地の清らかな場所に座るか横たわるべきであり、adhvaryu が彼の耳に呪句を唱えるべきである。

Kāt. 22, 6, 1 以下は、死を望む者のための特別な供犠を知っている。

二歳未満の子が死んだ場合には、遺体を焼かずに埋葬する(P. 3, 10, 5;Vaikh. 5, 10)。二歳を超えていれば、すべての親族が墓地まで随行すべきである。故人がすでに学業に入っていた場合には、埋葬地の選定から沐浴に至るまでの諸儀礼が、āhitāgni についてと同様に行われる。

āhitāgni は家庭の火をもって焼き、他の者は静かに共同体の火をもって焼く(P.)。

葬儀の諸儀式を Kāt. 25, 7, 1 以下が、Prāyaścitta の項のなかで、祭主がその供犠の最中に死んだ場合に続けて記述している。Mantra は Taitt. Ār. VI に与えられており、それに対する注釈は Baudh. と Bhāradvāja の儀軌に従って Viniyoga を挙げている。

人は(Āśv. G. 4, 1, 6 以下;ĀGP. 3, 1 以下)南東または南西に、南・南東あるいは南西に傾いた場所を掘る。それは腕を伸ばした男の長さ、Vyāma(五 Elle)の幅、Vitasti(十二指)の深さをもつ。寸法については Kauś. 85 が詳しく扱っている。

さらにそれは四方から開けており、多くの植物が生えているが、家屋の建築地と同じく棘のある植物と乳を含む植物を欠いていなければならない。また水が四方へ流れ去るべきである。Āśv. Śr. 6, 10 に与えられた規定はここでも妥当する。

人は頭髪・髭・体毛・爪を切り、死者にナルドの香油を塗り、ナルドの花冠をその頭に載せる。Kauś. 80, 19 によれば壺が作られ、牛糞を塗るか、乾いた牛糞を満たす。

88 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

供犠の草とバターを豊富に用意し、溶かしたバター(sarpis)を酸乳に注ぐ。これが「祖霊のための斑のバター」pitrya pṛṣadājya である(Āśv.)。

ついで人々は火と供犠具を火葬の場所へ運び、その後から奇数の年長者たち(男か女のいずれかであって、両者を混ぜてはならない)が死者を運ぶ。「ある者たち」の規定によれば(Kauś. 80, 34;Kāt. 25, 7, 14 を参照)、牛に牽かせた、座席をそなえた車に載せて運ぶ(Āśv.)。

遺体の後には、ともに焼かれるべき獣が続く。それは左の前足を綱で結ばれており、anustaraṇī すなわち牝牛または山羊で、一色の、ある者たちによれば黒い色のものである。(もっともこのともに焼くことは、注釈によっても、また Kāt. 25, 7, 36 によっても必須ではない。)その肢体は後に、死者の肢体の上に順に置かれる。

髪を解き、供犠の紐を垂らして、会葬者たちが後に続く。年長者が先頭に立つ。

到着すると、儀式の執行者は śamī の枝を用いてその場所に水を撒く。その際、右から左へめぐりながら、RV 10, 14, 9 の詩節「ここより去れ、散り失せよ」を唱える。南東の、高くなった側に彼は Āhavanīya 火を、北西に Gārhapatya 火を、南西に Dakṣiṇa 火を据える。

ついで火のあいだに、心得ある者が薪の山を積み、その上に供犠の草と、毛を外に向けた黒羚羊の皮を敷く。その上に死者を、Gārhapatya 火のそばを通って運びつつ、その頭が Āhavanīya 火の方を向くように置く。

その北側に妻が座り、故人が kṣatriya であった場合には、そこに弓もその場所を占める。彼女の義兄弟、あるいは夫の代理をつとめる者、また夫の弟子や老僕が、RV 10, 18, 8 の呪句「生ける者の世へと立ち上がれ」―― その本来の意味はここでは失われている ―― をもって、彼女を再び立ち上がらせる。

死者の手からは弓が取られ(バラモンの手からは杖が、vaiśya の手からは追い棒が取られる。Kauś. 80, 48 以下)、弦を張ったまま折られて、薪の山に投げられる。これは、貴族の家系の最後の者が死んだとき、その紋章の盾を打ち砕いて墓に投げ入れるわれわれの慣習を想起させる。

ついで死者の供犠具 ―― 彼が最初の置火以来、生涯にわたって所有していたもの、juhū、摩擦木、乳鉢、乳棒など ―― が、一定の規定された仕方で(Ś. Śr. S. も同様)遺体の四肢に配分される。窪みのあるものには斑のバターが満たされる。

七つの prāṇāyatana(鼻など)の上には、さらに黄金片が置かれる(Kāt. 25, 7, 20)。二つの挽き石は息子が自分のものとすべきであり、銅・青銅・土でできたものも同様である。ただし他の規定もある(Kāt. 25, 7, 32 以下)。

獣の網は切り取られ、それで故人の頭と顔を覆い、心臓で心臓を、というように覆う。腎臓は彼の手に握らせる。獣の肢体を死者のそれに対応して配分し終えると、彼はすべてを皮で覆い、左膝を屈めて、Dakṣiṇa 火において Agni、Kāma、Loka、Anumati のための献供をささげ、最後に故人の胸の上で Agni への献供をささげる。Agni はいまや、かつてこの者が Agni から生まれたように、この者から生まれるべきものとされる。

これに続いて「火を点ぜよ」という命令が下される。これは Kauś. 81, 33 によれば最年少者が行う。遺体が燃えるあいだ、RV 10, 14, 7 の詩節「古き道を行け」が誦される。

Āhavanīya の北東に膝の深さの穴を掘り、そこに Avakā という水草を入れる。これは明らかに古い俗信であり、その根拠として śruti の一句が引かれ、それによれば死者はこの穴から出て、煙とともに天界へ行くのだという。ついで

56. 病、死、祖霊祭祀。 89

RV 10, 18, 3「生ける者は死者から離れた」が誦され、振り返ることなく人々は立ち去る。Kauś. 82, 2 によれば、各人の手に七つの小石を与え、帰路にそれを一つずつ手で撒く。

§2)Udakakarma(水の儀式)

帰路には、P.(ここでは彼に従う)がより精密に描く清めの儀式、すなわち udakakarma が行われる。そのために人は、死者の親族または姻戚の一人に、定められた定型句をもって許しを乞う。故人がまだ百歳に達していなかった場合には、その者は「行え、ただし再びこのような仕方でではなく」という言葉をもって許しを与え、他の場合には単に「行え」と言うにとどまる。

七親等ないし十親等までのすべての親族が水に入るべきであり、同じ村の住人のうちで血縁を思い起こす者はすべてそうすべきである。彼らは一枚の衣のみをまとい、供犠の紐を右肩にかける。左手の薬指で水を打ち払い、災厄の除去に関わる VS の詩節を唱える。顔を南に向けて水に潜る。

死者のために一掬いの水が注ぎ出される。「某よ、これは汝の水なり」。Āśv.(4, 4, 10)はここでその固有名と gotra 名を挙げさせる(「Devadatta よ、Kaśyapa の gotra の者よ、これは汝の水なり」)。

彼らは水から上がり、Āśv. によれば別の衣を着け、古い衣を絞り、それを裾を北に向けて置く。清らかな、草の生えた場所に彼らは腰を下ろし、そこで(古い物語によって)慰められる(P.)。星が昇るまでそこにとどまり(Ā.)、それから列をなして住居へ帰る。振り返ることなく、最年少者が先頭に立つ。

住居の戸口で彼らは picumanda の葉を噛み、口をすすぎ、水・火・牛糞に触れ(Kauś. 82, 20 によれば、さらに一定の木材の煙を吸い込む)、白芥子と油を噛み、石を踏んで中へ入る(P.)。

§3)Āśauca(不浄)

家族における死によって生ずる不浄の期間と、それに関わる家族員の範囲については、種々の規定がある。法典(G. 14, 1 以下;Y. 3, 18 以下;Manu V, 64. 65 など。上記 Jolly § 58 を見よ)を別としても、Gṛhya では Āśv. 4, 4, 14 以下と P. 3, 10, 38 以下がわれわれに詳しく伝えている。

まだ二歳にならない子の死に際しては、不浄は父と母のみに関わり、一夜または三夜続く(Stenzler の P. 3, 10, 4 への注)。そのほかは三夜、ある者たちによれば十夜である。P. 3, 10, 38 の、おそらく後に挿入された別の規定は、一ないし二の半月を定めている。Kauś. 82, 42 は「Yamavrata」について語る。

三日のあいだ親族は貞潔を保ち、地に眠る。彼らはその日に買ったか受け取った食物のみを食べ、肉は食べない(P. 3, 10, 26;Āśv. 4, 4, 15)。

死者に対しては、彼が死んだ夜に一つの団子をささげ、その前後に「彼が身を洗うために」水を注ぎ、そのたびごとに彼を名で呼ぶ。同じ夜、彼らは土器に乳と水を入れて戸外に置き、死者に呼びかける。「preta よ! ここで身を洗え」。

この期間中ずっと、彼らは「自らの読誦」を行ってはならない。

Āśv. 4, 4, 17 以下は、mahāguru(父・母・師)の死に際しては、献供と学習を丸十二日間休止すること、sapiṇḍa の死に際しては十日、場合によっては sapiṇḍa でない師の死や未婚の女性親族の死に際しても同様であることを規定している。

また P. によれば、この期間中は確定したすべての儀礼を ―― それが三つの火において、また(ある者たちによれば)家庭の火において行われるものでないかぎり ―― 中止すべきであり、あるいは他の者に行わせるべきである。

さらなる細目、また Āśv. 4, 6 の guru の死に際してのもの(Edwin W. Fay, American Journal of Philology XVI, 11 頁を参照)や、損失(注釈によれば「子・家畜・黄金の」)に際しての

90 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

新月に行うべき、詳細に描かれ俗信に満ちた śāntikarman については、ここでは省かねばならない。

§4)Samcayana(遺骨収集)

焼かれた者の遺骨の収集は、第十日ののち、黒分の奇数日に(すなわち第十一日、第十三日または第十五日に)行われるが、すでに第三日または第四日に行われることもある(Caland, Totenverehrung 24;Kauś. 82, 26 とその注;Kāt. 25, 8, 1 以下)。

それは、その名が一度しか現れない星座のもとで行われねばならない。すなわち Aṣāḍhā、Phalgunī、Proṣṭhapadā のもとであってはならない。もっとも Kāt. 21, 3, 3 では ekanakṣatra という表現は別様にも説明されている(Stenzler)。

そのために用いられるのは、男性の、装飾のない骨壺(注釈によれば「乳房のない」)であり、男の遺骨のためのものである。女のためには女性のもの(すなわち乳房のついたもの)が用いられる(Āśv.)。

ここでもまた、奇数の、同性の年長者たちがこの所作を行うべきことが規定されている。

執行者(kartā)は śamī の枝を用いて、また呪句 RV 10, 16, 14「涼しき者よ、涼しさに富む者よ」をもって、その場所に乳を混ぜた水を撒く。その際、右から左へ三度めぐる。Kauś. 82, 27 によれば、バラモンについては乳を混ぜ、kṣatriya については蜜を混ぜる。

親指と薬指で彼らは各々の骨を一つずつ取り、音を立てずに壺へ入れる。足を最初に、頭を最後に入れる。

骨を注意深く集め清めたのち、RV 10, 18, 10「母なる大地に近づけ」をもって、壺を穴に納める。この穴は火葬の場所と同じように整えられ、雨水以外の水の流入がないようにされている。

土が投げ入れられ、壺は蓋で閉じられ、(Āśv. への注釈によれば)穴は土で満たされて、壺がもはや見えないようにされる。Kauś. 82, 32 によれば、壺は樹の根の下に置かれる。Kāt. 25, 8, 7 は、墓碑を建てるべき場合にのみ遺骨をまず壺に集め、そうでなければただちに穴に納めるとしている。

振り返ることなく彼らは家に帰り、水に触れ、故人に Śrāddha をささげる。M. Müller(India 235)によれば、Nārāyaṇa にもとづき、śrāddha とは「śraddhā すなわち信をもって与えられるもの」、すなわち功徳ある人々、とりわけバラモンに施される慈善である。

§5)死者の魂

死者の魂はただちに祖霊の世界へ行くのではなく、しばらくのあいだ preta すなわち霊として、祖霊たちから離れてとどまる(Caland, Ahnenkult 22;Oldenberg, Relig. d. V. 555)。

この個別の死者に対して ekoddiṣṭaśrāddha がささげられる(eka uddiṣṭo yasmin śrāddhe tad ekoddiṣṭam)。Navaśrāddha、Pūrakapiṇḍa ―― 不浄の日々のあいだのもの ―― は、Dharma と後代の Gṛhya テクストにのみ知られているように見える。

法典は、Caland と Jolly から見て取れるように、Gṛhya よりも総じて詳しく報告している。Gṛhya のうちでは Ś. のみが ekoddiṣṭa について精密な規定を与えている。Āśv. 4, 5, 10;7, 1 はそれを示唆的に語るにとどまり、P. 3, 10, 51 以下は明瞭さを欠く。しかし彼は、死者のために一年間特別に供犠させる者たちに言及している。

これらの者のうちには Ś. 4, 2, 7 も属するが、彼は別の箇所(4, 3, 2. 3)でこの期間を三つの半月にまで短縮し、さらには幸運な出来事をも Sapiṇḍīkaraṇa の、すなわち ekoddiṣṭa の献供の終結の機縁として認めている。同様に Gobhila の Śrāddhakalpa 3, 12 以下(1024 頁)もそうである。

Dharma の規定は Caland が前掲書でまとめている。Ś. と G. が引用する著作によれば、この ekoddiṣṭa には清めの茎一本、Arghya の水一壺、粉の団子一つだけが必要である。ほかに通例のいくつかの儀式は省かれる。たとえば Pitaraḥ を招くこと、火のなかにささげること、Viśve devāḥ(招かれるべきバラモンの姿における)、満足したかどうかの問い(svaditam)。またいくつかの供犠の定型句も変えられる。

56. 病、死、祖霊祭祀。 91

§6)Sapiṇḍīkaraṇa

年の終わり、あるいは三つの半月の終わりに、あるいは前述の幸運な出来事の到来に際して、sapiṇḍīkaraṇa が行われる。すなわち死者を祖霊たちの列に迎え入れることであり、それ以後、彼は祖霊たちとともに通常の Pārvaṇaśrāddha すなわち団子の供犠に与ることになる。

三つの Piṇḍa しかささげてはならないので、最も古い祖先、すなわち死者の曾祖父は、いまや Sapiṇḍa の列から外れる(P. 3, 10, 53;Ś. 4, 2, 8)。Ś. はこの規定を二箇所(4, 3;5, 9)で述べており、そのためテクストのその箇所の本源性に疑いが生じている。

Caland(Altind. Ahnenkult 162)は、Ś. がその ekoddiṣṭa と Sapiṇḍīkaraṇa の儀礼を Vājasaneyin たちから借用したと考えている。

Ś. の叙述は、G. の Śrāddhakalpa 3, 12 以下(1024 頁)に与えられているものとほとんど逐語的に一致する。四つの水壺に胡麻・香料・水を満たすべきである。三つは祖霊たち(曾祖父・祖父・父)のために、一つは死者のためである。この第四の壺の中身を、彼は祖霊の世界と生者の世界に関わる二つの詩節をもって最初の三つに分ける。同様に、この供犠のために作られるべき四つの Piṇḍa の最後のものについても、それを他の三つに分ける。

同じ仕方で、死んだ母・兄弟・妻のための ekoddiṣṭa においても行う。

§7)Pitṛmedha

(Kauś. 83 以下;Kāt. 21, 3. 4;Taitt. Ār. 6, 6。)

死者のための、Śmaśāna と呼ばれる墓碑の建立は、Śat. Br. 13, 8, 1 以下によれば、早すぎてはならない。Kāt. 21, 3, 1 は言う。「死者の年数(あるいは死の年。注釈は揺れている)をもはや思い出さなくなったとき」、あるいは(多くの時が経ったにもかかわらずなお思い出す場合には)奇数の年に、と。Kauś. への Keśava は「一年の経過後」または「年の半ばに」と言う。

この儀式の先延ばしは、Śat. Br. によれば「新たな災い」が生ずるのを防ぐためであり、ekoddiṣṭa 供犠にその表現を見いだすのと同じ俗信にもとづくように見える。

死者のこの「埋葬」の時期は、夏・秋、あるいは Māgha 月であり、単一の星座のもとで、あるいは新月に行う。

参加者の数だけの壺と、不定の数の日傘(Kauś. によればさらに他の祭具)を用意し、遺骨を(以前に埋められていた壺のまま)取り出し、それを寝床に運ぶ。そこで遺骨は衣の裾で覆われ、太鼓の音と琵琶の響きのもとに、Amātya たち(息子・孫など)によって三度めぐられ、上衣あるいは扇で「扇がれる」。後者は女たちに任せてもよい。

この儀式は夜の第一部・中間部・最後の部分に行われる。「ある者たち」は死者に食物をもささげさせる。こうして始まる日は「viphalphānna」すなわち「食に富む」と呼ばれ(ある注釈によれば、その日には多くの食物が分配されるべきだからである)、舞踏・歌・音楽をもって祝われる。

早朝、日の出とともに人は遺骨を南へ運び、隠れた、しかし正午の太陽の光の当たる場所に墓碑を建てる。その場所は村の視界の外にあり、街道からも、nyagrodha その他の樹からも遠く離れており、なおさまざまな他の性質をそなえていなければならない。たとえば背景は「citra」であるべきであり(すなわち注釈によれば、多様な森・山・寺院をもつべきであり)、少なくとも水があるべきである。

村から一人が草の束を高く掲げて運び、儀式のあいだじゅうそれを持ち、最後にそれを家に立てる。

場所が測り出され、一定の木材または石の杭が打ち込まれ、左に撚った綱で囲まれ、掃き清められる。綱に沿ってその周りに(Agnicayana におけると同様に)石が積まれ、その場所に六頭立ての犂で畝が引かれ、その上に薬草が撒かれる。Adhvaryu が

92 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

遺骨を中央に投げ入れ、別の一人が静かに南へ行き、そこに壺を投げ捨てる。

遺骨は肢体ごとに整えられ、中央と四隅に煉瓦が置かれ(あるいは火の祭壇を積まなかった者のためには十三個の石が置かれ)、その上に土がかぶせられる。積み上げの高さは、バラモン・kṣatriya・vaiśya・女で異なりうるが、すべての者について一様に下腿の高さとすることもできる。

墓碑の南には二本の曲がった畝を掘って乳と水を満たし、北には七本を掘って水のみを満たす。参加者はそれぞれ三つの石を投げ入れ、RV 10, 53, 8 をもって畝を越えて立ち去る。彼らは沐浴し、新しい衣を着け、牡牛の尾をつかんで村の方へ歩む。村と Śmaśāna とのあいだには、境界として土塊を置く。

家では Aupāsana 火において一つの献供がささげられ、Adhvaryu が守護の祈りを唱え、この火(ある者たちによれば死者の火、他の者たちによれば執行者の火)の一部が、戸口を通らずに別の道から投げ捨てられる。Harisvāmin によれば、死者の Aupāsana 火は完全に取り除かれるべきである。

Dakṣiṇā としては古い品々が用いられる。古い座具と敷物、老いた牡牛、古い大麦粒である。

この、Kāt. にもとづき、関連のゆえにここで Gṛhya 儀軌のうちに挿入した叙述に対して、Taitt. Ār. への注釈における Kalpa の引用と Kauś. とは多くの点で異なるが、しかし全体像を本質的に変えるものではない。

しかし Kauś. からは、多くの興味深い細目を挙げることができる。たとえば祭具のうちには一艘の舟がある。儀式の終結後、彼は「七つの河の流れ」(nadīrūpāṇi)を作らせ(これは Kāt. における七本の畝に対応する)、水を満たし、黄金と大麦を積んだ舟に(おそらく参加者たちが)乗り込む。その際、いくつかの AV の詩節の一部(「Savitṛ の舟に乗れ」など)を誦する。

所作の第一部は、村に建てられた小屋のなかで行われる。遺骨は、それが埋葬されていた樹の根の下から、AV の言葉「返せ、おお森の主よ!」をもって取り出される。生者のための道は北にあり、「祖霊のための」道は小屋の南にある。

Kāt. では示唆されるにとどまる食事の供与が、より詳しく記述されている。広間の中央に置かれた空の壺を、人は古い靴で打つ。髪を解いた女たちが、右の腿を打ちながら三度めぐる。

儀式全体の終わりに、彼女たちは AV 12, 2, 30–36 を誦しつつ、草の束で Śmaśāna への足跡を消し、別の束で舟への足跡を消す。その束はついで南東へ投げ捨てられる。

なお言及に値するもう一つの点を、Kauś. はこの機会に、Kāt. 25, 8, 14(Prāyaścitta の項)、Śāṅkh. Śr. 4, 15, 9 以下、Āp. 9, 11, 23 は Samcayana に際して規定している。すなわち、埋められた遺骨が失われてしまった場合には、360 本の palāśa の茎を取り、それを黒い皮の上に人の形に並べる(40 本を頭の位置に、10 本を首に、など。Śāṅkh.)。それを羊毛で巻き、膏を塗り、火葬の儀式などを行う。Kauś. はなお別の代替策を知っている。壺が置かれていた場所から塵を取るか、あるいは岸辺に衣を広げ、某の名を呼んで、その上に降りてくる生き物を代わりとするのである。

§§ 57. 祖霊のための一般的供犠

§1)特別な機縁に際して(kāmyanaimittika)

幸運な機会、たとえば息子の誕生、Nāmakaraṇa、婚礼に際しては、祖霊に幸運の供犠がささげられる(Āśv. 2, 5, 13. 15;4, 7, 1;G. 4, 3, 35 以下;G. Śrāddhak.。Ś. については Speijer, Jātakarma 51 を参照)。しかもそれは満ちてゆく半月の吉日に行われる。それに先立って mātṛyāga、すなわち女性の祖先にささげられる供犠が行われ、これは Karmapradīpa 1, 1, 11 以下に詳しく記述されている(Caland, Todtenverehr. 36)。

この Ābhyudayika に際しては、午前中に

57. 祖霊のための一般的供犠。 93

偶数のバラモンが、神々と父祖たちの代表として招かれる。すべての所作は右回りに行われ、通常のように右から左へではない。胡麻の代わりに大麦が用いられる。粉の団子は酸乳と炒っていない穀粒とを混ぜて作られ、呪句にも幾度か変更が加えられる。そのうち最も特徴的なのは、祖霊たちが nāndīmukha すなわち「喜びの顔をもつ者」と呼ばれることであり、これは aśrumukha たちと対比される ―― 父・祖父・曾祖父は時にそう呼ばれる。

(Ābhyudayika のより精密な記述を、われわれは Prayogaratna 43ᵇ 頁に見いだす。Colebrooke, As. Res. VII, 270;Wilson, Viṣṇupur. 英訳 297 頁;Speijer, Jātakarma 52;Max Müller, India 239 頁;Caland, Todtenverehrung 36 をも参照。)

これらの Ābhyudayika が、いわゆる vṛddhiśrāddha をなす。同種のものが pūrtaśrāddha であり、これは井戸や池の建設に際してその場所をもつ(Nārāyaṇa の Āśv. 2, 5, 13 への注)。さらに Kāmyaśrāddha のような種々の変種があり、それについては Caland, Todtenverehr. 39 以下を参照されたい。

§2)定期のもの

これらの臨時の死者供犠のほかに、定期的に、日ごとに、あるいは一定の時期に行うべきものが多数ある。

まず日々の祖霊崇拝(§ 46)であり、これは Mahāyajña の一つとして Śrāddha とは見なされない。ついで新月の日の pārvaṇa、毎月の後半の奇数日に行われる māsika(Āśv. 2, 5, 10)、そして年の一定の日にささげられる Aṣṭakā と Anvaṣṭakya である。

(法典もこの対象を扱っており、それについては Caland, Todtenverehr. 8 頁以下;Jolly § 57 を参照。)

Pārvaṇaśrāddha は新月の日の午後に行われる。その儀軌は(Āśv. 4, 7)Kāmya-Ābhyudayika-Ekoddiṣṭa-Śrāddha のそれとほとんど同一である。

直系の祖先(父・祖父など)の代表として、彼は奇数のバラモンを選ぶ。Ś. 4, 1, 2 によれば少なくとも三人、Āśv. 4, 7, 2 によれば父祖の各々について一人、二人または三人である。多ければ多いほど功徳は大きい。ただし(Manu 3, 125 と異なり)一人に限ることは排除される。

これらの人々の選定はきわめて慎重に行われるべきである。彼らは Mantra を知り、敬虔な行いをなし、祭主の親族であってはならない、等々(Āśv. 4, 7, 2;Ś. 4, 1, 2;H. 2, 10, 2)。

これらのバラモンのほかに、いくつかのテクストによれば、全神の代表も選ばれる。

Sūtra における規定は互いに大きく異なる。Ś. はきわめて簡潔である。彼は奇数の水器に胡麻を撒かせ、「これは汝のものなり」という言葉とともにバラモンたちの手に水を注がせる。ついで彼らに膏が塗られ、火のなかへの献供ののち、食事が供される。

食事の前または後に、彼は kuśa 草を撒いた場所に三つの Piṇḍa を置き、その背後に、しかし何かで隔てて、妻たちのための Piṇḍa を置く。残りはバラモンたちに与える。

そのほか供犠は、Śrauta 儀軌の Piṇḍapitṛyajña と同じように進む。

より詳細なのが Āśv. の、同じ経過をたどる叙述である。金属・石・土でできた三つの器、あるいは同一材質の三つの器が水の儀式に用いられる。水を差し出すのは「左手の親指と人差し指のあいだの空間をもって」、あるいは右手をもって行い、右手は左手で握られていなければならない(4, 7, 13)。

水の残りは一つに合わせて注がれ、祭主が息子を望む場合には、顔を湿らせるのに用いられる。(注目すべきは Śaunaka の言葉であり、それによれば彼は最初の壺を祭儀の終わりまでその場所から動かしてはならない。「そのなかに父祖たちが隠れて宿る」からである。4, 7, 16。)

これに続いてバラモンたちに香料や花冠などが差し出される(4, 7, 17;Ś. 4, 1, 4)。彼らの許しを得て ―― それは一定の定型句をもって乞われ、与えられる ―― 、彼は火のなかに供犠し、

94 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

彼らに食物を指し示す。最後に、彼らが満足したかどうかの問いがあり、その退出は厳密に定められた言葉をもって行われる。

G. は、Anvaṣṭakya の儀式の sthālīpāka(95 頁を見よ)を、新月の日に行われる祖霊の団子供犠の規範として簡単に参照させている。この供犠は彼のもとでは(4, 4, 1)smārta に属する(G. 665 頁以下;M. Müller, India 232;Winternitz, WZKM. 4, 201)。ただし Havis は南の火で調理され、anāhitāgni については家庭の火で調理される。作るべき穴は一つだけであり、Anvaṣṭakya に際して規定されている種々の細目は省かれる。

G. にとって特徴的なのは、彼のもとで Śrāddha に続く、しかし Śrauta 儀軌におけるように分離された anvāhārya(「補遺」)であり、これは他学派の pārvaṇa と同一である(M. Müller 前掲;SBE. 30, 111。Caland, Ahnenkult 16 頁の所見を参照)。

§3)Māsikaśrāddha

pārvaṇa とは māsika śrāddha が区別されるように見える。H. 2, 10, 1(また Bhār. も)は、「新月の日の午後に(祖霊のための)月の供犠を、あるいは欠けてゆく半月の奇数日に」という言葉をもって、両者のあいだの選択を許している。

これに対して Āśv. は 4, 7, 1 で pārvaṇa の Śrāddha を(新月に)規定し、2, 5, 10 では「月ごとに祖霊に奇数日に」(すなわち後半の)ささげるべき供犠を規定しており、これについては Anvaṣṭakya が範型となる。

G. の Śrāddha 1, 2. 3 もまた両者を区別するが、第二のものは任意としている。

見解が揺れていたことは、法典 Gaut. 15, 2 以下;Āp. 2, 7, 16, 4 以下からも見て取れる(Caland, Ahnenkult 51;Winternitz, WZKM. 4, 202)。

H.(Āp.、Bhār.)においては、月ごとの Śrāddha の叙述が Aṣṭakā に先行している(2, 10–13)。それゆえ、われわれが他所では Aṣṭakā のもとに見いだす規定を、H. はすでにここで与えている。たとえば、H. がここで水の献供に際して規定するのと同じ呪句が、Ś. においては中間の Aṣṭakā に際して誦すべきもののうちにある(3, 13, 5)。

さらにわれわれは H. のこの箇所に、後に Anvaṣṭakya に際して出会うことになる規定、すなわち三掬いの水を注ぎ出すこと、三つの団子を置くこと、祖霊のために眼薬と衣を置くことを見いだす。

奇異なのは、Piṇḍapitṛyajña に際しても現れる彼の規定(Āśv. Ś. S. 2, 7, 6;Caland, Ahnenkult 9)であり、それによれば、人生の前半(五十歳未満)にある祭主は自らの衣の裾を祖霊に投げ与え、後半にある者は自らの体毛を投げ与える。

ついで彼は Piṇḍa のための粥が入っていた器を洗い、呪句とともに祖霊に向けて水を右から左へ撒き、器を倒し、両手を交差させて祖霊を礼拝する。その後、彼は水辺に行き、呪句とともに祖霊のために三掬いの水を注ぎ出す。

§4)Aṣṭakā

Aṣṭakā の祝祭は、本来は年の変わり目と関連していた(Oldenberg, ISt. 15, 145 以下;Jolly, Dharmasūtra des V. 42;Winternitz, WZKM. 4, 205)。

それは Āgrahāyaṇa 月の満月の後に行われる。Āśv. 2, 4, 1 がより精密に述べるところによれば、「hemanta と śiśira の四つの後半月の第八日に」、したがって Mārgaśīrṣa、Pauṣa、Māgha、Phālguna の各月の後半においてである。

しかしその数についての見解は揺れている。G. 3, 10, 4 は Kautsa の見解を引いて「冬は四つの Aṣṭakā をもつ」とするが、Audgāhamāni、Gautama、Vārkakhaṇḍin によれば三つしかないという。

われわれの Sūtra のうちでは Āśv. のみが最初に挙げた数を知っており、他のものは三つあるいはそれ以下しか知らない。

G. は三つの Aṣṭakā を、満月 Āgrahāyaṇī、Taiṣī、Māghī に続く黒分の第八日にささげさせる。Baudh.(Caland, Altind. Ahnenkult 167 頁)は Taiṣa、Māgha、Phālguna にささげさせるか、あるいは「三日すべてをまとめてよい」とし、三つの Aṣṭakā を一度に、すなわち黒分の第七・第八・第九日に祝い、さらには一日、すなわち第八日に祝うことさえできるとする。これは Āśv.

57. 祖霊のための一般的供犠。 95

2, 4, 2 も許すところである。この後者が H. における規則であり、彼は三日にわたって祝われる Ekāṣṭakā のみを知っている。それは Māgha 月の満月に続く黒分の第八日である。Āp.、Bhār. も同様(Caland 166;Weber, Nakṣatra II, 337. 341)。

細目において Sūtra は互いに大きく異なる。G. 3, 10, 3 は、神格が Agni であるか、祖霊であるか、Prajāpati であるか、Ṛtu たちであるか、全神であるかについて疑義が存すると述べる。しかし彼の最初の Sūtra は「A. は夜を神格とする」と説明しており、したがって種々の改訂が存在することになる。

Āśv. 2, 4, 12 は、ある者たちによれば全神が、他の者たちによれば Agni、Sūrya、Prajāpati、Rātri、Nakṣatra たち、Ṛtu たち、Pitṛ たち、あるいは「paśu」が Aṣṭakā の神格であると言う。P. 3, 3, 2 は Indra、全神、Prajāpati、祖霊を挙げる。

献供の仕方についても見解の相違が支配している。G. における Kautsa はすべてについて肉を規定しており、Āśv. 2, 4, 4. 5. 7 も同様である。彼は前日に父祖たちに「粥」、胡麻入りの米、乳の料理、あるいは四 Śarāva 分の菓子をささげさせ、Aṣṭakā を動物供犠と Sthālīpāka とをもって行わせる。Baudh. も同様(Caland)。

これに対して他の者たちは、第一の Aṣṭakā には菓子のみを(それゆえ「菓子の Aṣṭakā」)、第二には牝牛を、第三には野菜を規定している(G. 3, 10, 9. 18;4, 4, 17;P. 3, 3, 3. 8)。Ś. 3, 12, 2;13, 1;14, 1 は逆の順序である。

もっとも P. の規定とは、彼が 3, 3, 10 で与える指示、すなわち Anvaṣṭakya に際してすべての Aṣṭakā の獣の左の側面と腿から供犠すべきである、という指示は一致しない。これはすべての Aṣṭakā について肉の供犠を前提とするからである。

Kauśika は 19, 28 で「Aṣṭakā 牛の網から」と述べ、138, 2 で Aṣṭakā のための havis として dhānāḥkarambhaḥ などを、また場合によっては paśu を挙げている。

最後の Aṣṭakā の前夜の奇異な慣習を Mānava が規定している(WZKM. 4, 211)。それによれば祭主は十字路で牝牛を殺して切り分け、その肉をすべての通行人に分け与える。

§Anvaṣṭakya

Aṣṭakā に続くのが Anvaṣṭakya と呼ばれる祖霊供犠であり、その儀礼を Caland(Ahnenkult 115 頁)は本源的なものと見なしている。Āśv. 2, 5, 1;P. 3, 3, 10 は三つすべてに続かせ、Ś. 3, 13, 7;G. 4, 2, 2 は中間の Aṣṭakā のみに続かせる。

Ś. がそれを piṇḍapitṛyajñavat にささげるにとどめるのに対し、他の者たちはより詳細で注目すべき規定を与えている。

祝祭は囲われた場所で行われる。Āśv. 2, 5, 1 によれば、南に傾いた場所で火に薪をくべ、火の周りに幕を張り、その幕の北側に戸口を作る。

三度、揺すらずに、彼は供犠の敷草を根とともに右から左へ広げ、供犠の食物を置く。すなわち粥(odana)、胡麻入りの米(kṛsara)、乳粥(pāyasa)、酸乳の攪拌飲料(dadhimantha)、蜜の攪拌飲料(madhumantha)である。

Soma pitṛmat と Agni kavyavāhana への供犠(Ś. Ś. 2, 6, 10)、すなわち agnaukaraṇa ののち、彼は蜜の飲料を除いて、父祖たちと母たち(母・祖母・曾祖母)に献供する。母たちのためにはさらに特に surāācāma(炊いた米の泡)が規定されている。

P. 3, 3, 11 は膏と花冠を加え、また子孫を残さずに世を去った師と弟子のためにも献供をささげることを許している。

Āśv. は、ある者たちが二つまたは六つの穴において、しかも東側の穴で父祖たちのために(したがって西側の穴で母たちのために)供犠すると述べている。これは P. の場合であり、最も詳細なのは G. 4, 2, 16 以下である。

覆われた場所の南側に、彼は東から西へ穴を作る。それぞれ一 Spanne の長さ、四指の幅と深さである。東の穴の前に彼は炉を設け、穴の背後をまわって、そこへ火を運ぶ。

Soma pitṛmat と Agni kavyavāhana への献供ののち、所作は左に幕を張って、抑えた声で行われるべきである。

儀礼のうちから強調しておくべきは、左手で草の束をつかみ、南へ走る線を引きつつ、「Asura たちは打ち払われた」という言葉を唱えること、同じく

96 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

左手で燃えさしをつかみ、それを穴の南側に置くことである。

祖霊たちが呼び招かれ、水器が穴に置かれ、順に、穴の上に広げられた darbha の敷草の上に、左回りに「父祖たちの洗浄のために」注ぎ出される。さらにそこへ、食物の三分の一ずつを、父・祖父・曾祖父の名を挙げて呼びかけつつ供える。あるいはその名を知らない場合には、地上の、空中の、天上の祖霊たちに呼びかけて供える。

ついで彼は身を背け、息を止め、息を吸う前に再び向き直って、こうささやく。「祖霊たちが喜ばれた」等。

これに続いて、再び呼びかけを伴いつつ、順に Piṇḍa の上に膏、胡麻油などが置かれ、厳密に規定された手の位置をもって「詫び」が行われる。

呪句を唱えつつ、彼は次に自らの家を見やり、ついで Piṇḍa を見やり、順に穴のなかの Piṇḍa の上に、祖霊の各々のための「衣」として一本の糸を置く。

中央の Piṇḍa は、妻が息子を望む場合には妻が享ける。あるいはまた、居合わせたバラモンのうち、残余を受け取る者が享ける。他のものを彼は水中または火中に投じるか、あるいはそれでバラモンを饗するか、牝牛に与える。燃えさしは水で消される。

あの三つ、あるいは Āśv. によれば四つの Aṣṭakā のほかに、儀軌はなお第四ないし第五のものを知っている。これは madhyāvarṣa に当たり、Anvaṣṭakya の儀軌、あるいは月ごとの祖霊供犠の儀軌をもつ(P. 3, 3, 13;Ś. 3, 13, 1;H. 2, 13, 3)。それは Āśv. 2, 5, 9 によれば Prauṣṭhapada 月の欠けてゆく半月に祝われる。写本が示す Āśv. の読み māghyāvarṣa は、おそらく madhyāvarṣa に改めるべきではあるまい。

H. によればこの Aṣṭakā には肉を供犠すべきであり、肉がない場合にのみ野菜を供犠する。これと異なるのが P. 3, 3, 13 で、彼はこれを Śākāṣṭakā と呼んでいる。

Aṣṭakā の献供は義務である(Āśv. 2, 4, 11;G. 4, 1, 22;Ś. 3, 14, 6)。しかし資力のない者のためには種々の軽減が定められている。

Āśv. 2, 4, 2 は、規定された四日のうちの一日にのみ(しかも Māgha 月にのみ)Aṣṭakā をささげれば足りるとし、2, 4, 8–10 に貧しい者に関わる規定を与えている。これは G. と Ś. においてもほぼ同じ形で繰り返される。

G. 4, 1, 18 以下によれば、資力がない場合には牝牛の代わりに小家畜一頭あるいは鍋料理をもって供犠してもよく、また牝牛に飼料を投げ与えてもよく、あるいは森で灌木に火をつけて「これがわが Aṣṭakā である」と言ってもよい。

見たところ、これらの軽減は一つの Aṣṭakā についてのみでなく、すべての Aṣṭakā について妥当する。

Śrāddha 儀軌において古い構成要素と新しい構成要素とを分ける貴重な試みを、Caland(Ahnenkult 150 以下)が行っている。

Śrauta 儀軌は二種の定期的祖霊供犠を知っている。すなわち午後の Piṇḍapitṛyajña ―― これは新月供犠に先行する ―― と、Sākamedha すなわち Cāturmāsya の第三のものに結びついた Pitṛyajña(Weber, ISt. 10, 341)である。さらに Sautrāmaṇī における Surā 供犠がある。

58. Śrauta 供犠の特徴について。 97

§III. Śrautasūtra の内容概説

§§ 58. Śrauta 供犠の特徴について

Śrauta に規定される供犠 ―― Kāt. 1, 2, 2 はこれを dravyaṃ devatā tyāgaḥ(供物・神格・放棄)と定義する ―― は、Gṛhya 儀軌のそれとは、三つの火をもつことと、供犠の性格に応じた数の祭司 ―― もっぱらバラモンであり、遂行はこの者たちに委ねられる ―― の臨席とによって区別される。

Yajamāna の活動は本質的に、Tyāga(形式上の供犠)を行うこと、Dakṣiṇā を配分すること、自らの身に関わる Mantra を誦すること、そして Saṃskāra(地上に眠ることなど)に限られる。ほかの規定が現れるのは折々にすぎない(Kāt. 1, 7, 20 以下とその注釈を参照)。その他のすべては祭司たちに属する。

Agnihotra においては Adhvaryu のみが必要である。Agnyādheya にも新月・満月供犠にも四人が属する。すなわち Adhvaryu、Āgnīdhra、Hotṛ、Brahman である¹。Cāturmāsya 供犠には第五の者として Pratiprasthātṛ が加わり、Paśubandha においては Śamitṛ を別として第六の者として Maitrāvaruṇa が加わる。

Soma 供犠には16人の祭司が必要である。すなわち Hotṛ とその Maitrāvaruṇa、Acchāvāka、Grāvastut。Adhvaryu と Pratiprasthātṛ、Neṣṭṛ、Unnetṛ。Udgātṛ と Prastotṛ、Pratihartṛ、Subrahmaṇya。Brahman と Brāhmaṇācchaṃsin、Potṛ、Āgnīdhra² であり、これに第17番目として、Kauṣītakin たちのもとでは総監督として機能する Sadasya が加わる。

しかし実際上の配分はいくらか異なり、Brahman の三人の助手と、Adhvaryu の一人である Neṣṭṛ とが Hotṛ の側に立つ³。

本質的に(もっとも専らではないが)Adhvaryu に属する手作業と所作を別として、これらの祭司の義務は、規定された Mantra の朗誦を遂行することにある。

mantra」の名のもとに Kāt. 1, 3, 1 は、四つの群に分かれるテクスト、すなわち ṛcyajussāmannigada を包括している。RV の詩節と歌は Hotṛ とその助手たちに属し、Yajus の呪句は主として Adhvaryu たちに、詠唱は Udgātṛ たちに属する⁴。

Nigada とは Yajus の一種、すなわち Praiṣa であって、他者を呼びかけ促すことを目的とし、本来の Yajus とはその目的に応じて声高に発せられる点で区別される。他方 Yajurveda の呪句はただ低くつぶやかれるだけである⁵。

Sūtra は Mantra と所作との関係⁶、儀式の継起と衝突⁷ を詳しく論じ、また覚えるべき呪句・詩節などが多いために記憶が働かなくなる場合への備えをも講じている⁸。

全体の監督として機能するのが Brahman であり、彼は三ヴェーダすべてに通じ、供犠全体を熟慮すべきものとされる⁹。

祭司たちは報酬として Dakṣiṇā を受ける¹⁰。それは種類と価値においてきわめて多様であり、種々の例が示すように供犠の性格をも表現する。若干の贈り物は禁じられている(ISt. 10, 58. 384)。彼らは、神格を受け手として指し示す呪句をもって贈り物を受け取る(牝牛には Rudra、衣には Soma など。Āp. 14, 11, 1 以下)。

供犠の開始前に祭司は選ばれるべきである¹¹。すべてのバラモンがそれに適しているわけではなく、一定の精神的、また身体

欄外下:Indo-arische Philologie. III. 2. ―― 7

98 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

的な資質をそなえていなければならない¹²。同様に、誰もが Yajamāna として彼らに認められるわけではない。

Yajamāna は当然、上位三カーストに属していなければならない。それについての例外はわずかしか許されない¹³。しかし上位カーストの Yajamāna についても、祭司はこれを吟味し、種々の問いを向け、とりわけ、その供犠がすでに他の祭司たちによって部分的に遂行され、しかし不和のうちに放棄されたものではないかどうかを確かめねばならない。

供犠の果実、その「phala」は祭主に帰するが、祭司たちの故意または過失による誤り ―― 彼らは祭主を害し、あるいは破滅させることを手中にしている ―― もまた、同じく祭主の負担となる¹⁴。

誤った供犠の害を描く前代の例が挙げられ、儀軌における多様な相違が、あるいは推奨され、あるいは大なり小なりの強調をもって斥けられる。

儀軌全体を貫き、一般に承認されている、個々の祭司家系のあいだの区別は、髪型を別とすれば、pañcāvadāna ないし caturavadāna、すなわち供物から五つないし四つの切片を取ることにあり、それによって生ずる pañcāvattin(Jāmadagni 家、Bhṛgu 家その他)と caturavattin との区分にある¹⁵。

より重要なのは、Vasiṣṭha、Śaunaka その他のあいだの古い祭祀上の対立に遡る、Narāśaṃsa 詩節ないし Tanūnapāt 詩節の使用である。これは、各供犠において繰り返される 5–12 の Prayāja のうち、第二のものにおいて用いられる¹⁶。

供犠は PrakṛtiVikṛti とに分かれる。すなわち基本形と、この基本形からの派生形とである。前者は範型として通用し、その模範に従って他の供犠が遂行されるべきものである。

こうして新月・満月供犠は、他のすべての Iṣṭi と Paśubandha の Prakṛti をなし¹⁷、とりわけ Agnīṣomīya Paśu の Prakṛti をなす。この Agnīṣomīya Paśu 自身がまた Sāvanīya の範型であり、これがまた Aikādaśina の範型である、というようにである。

Agniṣṭoma は Dvādaśāha と Ekāha の基本形であり、Dvādaśāha は Ahīna(二日から十二日の供犠)と Sattra(十二日を超える供犠)の基本形である。

しかしこの区別は概略的なものにすぎない。というのは、後続の Prakṛti のいずれも、先行するものからまったく独立ではなく、かえってそれを前提としているからである¹⁸。

各供犠は主肢と副肢とから成る。すなわち pradhāna ―― これがその供犠に個性を与え、供犠ごとに変わる ―― と、aṅga ―― 供犠から供犠へと繰り返され、主要点においては変わらない補助行為 ―― とである。

こうして満月供犠においては、Agni のための aṣṭākapāla の Puroḍāśa、Agni-Soma のための ekādaśakapāla の Puroḍāśa、そして両者のあいだの、Viṣṇu ないし Agni-Soma のための Upāṃśuyāga などが pradhāna をなす。他方その他のすべて、たとえば Prayāja と Anuyāja は aṅga であり、それ自体としては意味をもたず、ただ主要行為を目指す補助行為である¹⁹。

それらは tantra をなし、これは場所と時が同じである場合には複数の Pradhāna のために同時に役立ちうる²⁰。

Vikṛti においては tantra は本質的に変わらず、ただ細部が揺れるにすぎない。たとえば Iṣṭi と Paśubandha において通常17である Sāmidhenī 詩節の数が、時に15のみと規定されることがある。

これに対して Pradhāna はまったく別のものに置き換えられる。たとえば満月供犠の前述の神格に代えて、Āgrayaṇeṣṭi においては Indrāgnī のための米ないし大麦の Puroḍāśa、Viśve devāḥ のための Caru、Dyāvāpṛthivī のための ekakapāla が現れる。

これに応じて、定型句においても、あるいはそのほか供犠の神々が言及されるところ(Havis の Nirvapaṇa や Sūktavāka のように)でも、その名が変えられねばならない。当然ながら Havis の供物も変わる。

その性状にはまた、必要な器具の準備が部分的に依存する。たとえば動物供犠に必要な供犠柱を取ってきて削ること、供犠の開始に際して据えられる多様な器具と容器の選択などである²¹。

かの Pradhāna は、Gṛhya 儀軌におけると同様に(前掲 72 頁)、Āvāpa をなし、それは二つの Ājyabhāga と

58. Śrauta 供犠の特徴について。 99

Agni Sviṣṭakṛt への献供とのあいだにその位置をもつ²²。

供犠慣行についての多くの一般的規定は Paribhāṣā(とりわけ Āp. と Kāt. 第1巻)にまとめられており、供犠の技術について十分な見通しを与えている。

ここでは、Kāt. 1, 2, 6. 7 が規定する二つの献供の主要種類、すなわち yajatijuhoti とを取り上げておこう(Āp. Paribh. 86. 95 とは異なる)。

すべての Homa は、明示的に別のことが言われていないかぎり、Āhavanīya 火において行われる。

yajati は Adhvaryu によって、立った姿勢で、先行する Puronuvākyā と Yājyā ののち、そして Yājyā を締めくくる Vauṣaṭ の呼び声をもってささげられる(Kāt. 1, 2, 6)²³。

Hotṛ が誦すべき Puronuvākyā ―― これは神格を呼ぶことを目的とする ―― に対して、Yājyā は献供そのものに関わる(Kāt. 1, 8, 9 注釈;Śat. Br. 1, 7, 2, 17;Ś. 1, 17, 13 以下)。それを誦せよという命令が先行し、これは Adhvaryu または Maitrāvaruṇa が与えるべきものである。

後者の場合には、まず Adhvaryu が Maitrāvaruṇa に Sampraiṣa を与える。「agnaye preṣya!」「somāya preṣya!」。そして Maitrāvaruṇa が Hotṛ に Praiṣa を与える。「agnaye 'nubrūhi!」(Kāt. 1, 9, 13. 14)。

Yājyā の前に Adhvaryu は Āgnīdhra に言う(ośrāvayati oṃ śrāvaya)。これに対し彼は答える(pratyāśrāvayati astu śrauṣaṭ)²⁴。ついで Adhvaryu は Hotṛ に「agniṃ(somaṃ など)yaja」をもって朗誦を促し、Hotṛ は Yājyā を、呼びかけの定型句 ye yajāmahe をもって始める²⁵。

これに対して、座ったまま、右膝を屈め、Svāhā の呼び声のみを伴って(Anuvākyā、Yājyā、Vaṣaṭ を伴わずに)ささげられるのが juhoti の献供である(それゆえ upāṃśuhoma とも呼ばれる)²⁶。

欄外下:7*

100 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

Ājyastotra である。

昼の搾りは Hotṛ の二つの Śastra(marutvatīyaniṣkevalya)と、Hotraka の三つとを含み、それに応じて五つの Stotra を含む。第一は mādhyandinapavamānastotra² であり、他の四つは pṛṣṭha-stotra(SV. I, 49)である。

夕の搾り³ は最後に、Hotṛ が唱える二つの Śastra(vaiśvadevaagnimāruta)と、二つの Stotra、すなわち ārbhavapavamānaagniṣṭomasāman(yajñāyajñīya)とを含むにとどまる。Agniṣṭoma では全体で190詩節となる⁴。

Stotra は詠唱にもとづき、Śastra は朗誦である。「apragītamantrasādhyā stutiḥ śastram, pragītamantrasādhyā stutiḥ stotram」⁵。

これらの詠唱の旋律を sāman と呼ぶ(gānagīti;gītiṣu sāmākhyā)⁶。それらに以前はもっと民衆的な他のテクストが結びついていたかどうかは、われわれには分からない⁷。現在それらの基礎をなすのは RV の詩節であり⁸、時として sāman という呼称はこれらのテクストにも及ぶ⁹。

同一の詩節は、ただ一つの旋律で歌われることも(ekasāmin)、種々の旋律で歌われることもあり(bahusāmin)¹⁰、逆に同一の旋律が種々の詩節に用いられることもある¹¹。

そこからしばしば、Ṛc を Sāman に合わせて整え、拡張し、変改する必要が生ずる。この stobhikā 形の作成は、一つの技術的文献の発展を導いた。それは Puṣpa- あるいは Phullasūtra のように、Ṛc の改造という目的に役立つものである¹²。

そのためには、詩節の音節自体の変改(girāirā に、āyirā に)¹³、すなわち akṣara- または varṇastobha¹⁴ で足りるか、あるいは音節全体ないし文を挿入する。すなわち pada- または vākyastobha であり、Sāyaṇa は前掲書でそれぞれ15と9とを区別している。それ自体としては無意味であり、ただ音に支えを与えるという目的をもつにすぎない¹⁵。

詠唱法はきわめて数が多く(sāmavede sahasraṃ gītyupāyāḥ)¹⁶、種々の名をもつ¹⁷。そのうち最もよく知られ重要な二つ、Bṛhat と Rathaṃtara はすでに RV に現れる¹⁸。

個々の旋律にこのように名を付けることは、ドイツ中世のマイスタージンガーたちの Weise や Ton、その「終わりなき音の連なり」や leges tabulaturae を想起させる。それらの名のいくつかは、Burnell が言うように「聖なる詠唱に適用されるものとしてはきわめて滑稽である」。

それらは kruṣṭādibhiḥ saptabhiḥ svaraiḥ(七つの音階)とその変改をもって歌われ¹⁹、インド音楽についてのわれわれの最古の、なお十分に利用も整理もされていない資料をなしている²⁰。Burnell はそれについて、Ārṣ. Br. に聖歌譜へ書き換えた一例を与えている。

詠唱には指の運動が伴い²¹、これに Chrysander は中世のソルミゼーションに一つの並行例を見いだしている(前掲書 30)。また、詠唱のより複雑な形式、すなわち Stoma 詩節を数えるのに役立つ小棒の配置も伴う²²。

各 Sāman は四つ、五つ、または七つの部分ないし区分に分かれ、通例は四つか五つである。すなわち prastāva(a)―― hum によって導入され、Prastotṛ が歌う ―― 、udgītha(b)―― om によって導入され、Udgātṛ が歌う ―― 、pratihāra(c)―― hum によって導入され、Pratihartṛ が歌う ―― 、そして nidhana(d)―― 全員が共同で歌う終結部 ―― である。

Hiṃkāra を特に数えるか、あるいは Pratihāra を Pratihāra と、Udgātṛ が歌うべき upadrava とに分けるならば、五つの部分が生ずる²³。Pañcavidha-Prastāva- その他の Sūtra が、この区分を扱っている²⁴。

Nidhana の選択もまた、祭主の特別な願いに依存させられる²⁵。

前述の Sāman 歌者たちに、さらに Upagātṛ たち ―― 下位の四人から六人の歌者で、ho をもって最低音域で詠唱に伴奏する ―― が加わる²⁶。

旋律が歌われるもととなる詩節(ṛci sāma gīyateṛcy adhyūḍhaṃ sāma g.)は、その yoni、その āśraya と呼ばれる²⁷。Brāhmaṇa はしばしばこの関係を論じている。Śat. Br. 8, 1, 3, 5 では Sāman は「ṛcaḥ patiḥ」と呼ばれ、4, 6, 7, 11 では「ṛṣyā sāma yayāṃ ṛcam-adhyeti」等とある。SVidh. Br. 1, 1, 10 では、Ṛc が「骨」に、音が「肉」に、Stobha が

58. Śrauta 供犠の特徴について。 101

「毛」になぞらえられている²⁸。

Sāman 歌者たちがなぜより低い評価を受けたのかは明らかでない。法典が彼らへの嫌悪を繰り返し表明するように、Kathāsaritsāgara 1, 6, 51 以下でも Chandoga が愚か者として揶揄されている。

Burnell は、RV と Yajus の徒の彼らに対する嫌悪を、「合唱団と楽団の一員」が今日も占めるより低い地位によって説明しようと試みた²⁹。私は別の可能性を指摘しておいた³⁰。

一つの旋律に複数の詩節が属する場合、これを stotra と呼び、それは通例 Tṛca または Pragātha 詩節から成る¹。

これらの Stotra が stoma(「Stotra を詠唱する形式」)の基礎をなし²、Stoma はたいてい、それらの Stotra を種々の仕方で反復することから成る。Stoma の大部分は種々の変種(viṣṭuti)をもつ。

Agniṣṭoma 供犠は trivṛt すなわち bahiṣpavamānastoma をもって始まる。これは soma 飲料の濾過のあいだ、供犠のために設けられた仮屋の外で歌われ、九つの詩節 SV. 2, 1–9 を基礎とする。

Trivṛt には三種の Viṣṭuti がある。すなわち udyatīparivartinīkulāyinī である。第一のものは三つの Paryāya、すなわち進行ないし文から成り、第一 Paryāya の第一詩節、第二の第二詩節、第三の第三詩節と Hiṃkāra が結びつけられる(hum a d g、b hum e h、c f hum i)。parivartinī viṣṭuti は abc、def、ghi の配列順序に従い、kulāyinī は abc、efd、igh に従う³³。

この Trivṛtstoma と異なり、pañcadaśastoma³⁴ は、Pragātha 詩節から作られる三つの詩節のみを基礎とする。これについても複数の Viṣṭuti がある。たとえば pañcapañcinī は、次の詩節の配列から成る。1)Paryāya:aaa + b + c。2)Paryāya:a + bbb + c。3)P.:a + b + ccc。Hiṃkāra は 3a、3b、3c の前に入る。同じ Stoma の別の Viṣṭuti は、Paryāya が aaa + b + c、a + b + c、a + bbb + ccc となる³⁵。3a のような Paryāya の個々の肢は viṣṭāva と呼ばれる³⁶。

同様の仕方で、昼には saptadaśa が、夕には ekaviṃśastoma が作られる。四つすべてを合わせて Agniṣṭoma の「光」であり、それゆえこの供犠は jyotiṣṭoma とも呼ばれる³⁷。

これらの Stoma のほかに、儀軌は他のものも知っている。そのうち最も重要なのは triṇavatrayastriṃśa と、chandoma の名をもつ三つ、すなわち caturviṃśa(24 = Gāyatrī)、catuścatvāriṃśa(44 = Triṣṭubh)、aṣṭācatvāriṃśa(48 = Jagatī)である³⁸。

Agniṣṭoma 以外の soma 供犠においては、時として二つの Sāmatṛca が次のように結合される。すなわち、一方が他方を Yoni が Garbha を囲むように囲み、前にも後にも歌われるのである³⁹。

通常そのために用いられるのは Bṛhat と Rathaṃtara である(すなわちまず Bṛhat ないし Rathaṃtara を歌い、次に第二の Sāman を、その後に再び Bṛhat ないし Rathaṃtara を歌う)。この二つのほかに、Vairūpa、Vairāja、Śākvara、Raivata の旋律があり、これらは前二者とともに pṛṣṭhastotra と呼ばれる。

より大きな供犠の六日間 ―― そこではこれら六つの Pṛṣṭha が順に Hotṛ の Pṛṣṭhastotra として用いられる ―― は、それゆえ pṛṣṭhyaṣaḍaha と呼ばれる⁴⁰。

すべての Stotra について、Udgātṛ たちは「brahman stoṣyāmaḥ praśāstar!」という言葉をもって⁴¹、Brahman と Maitrāvaruṇa の許しを乞わねばならない。両者は oṃ stuta で終わる呪句をもってそれを与える。

Brahman は Vasiṣṭha であるべきである(Āp. 14, 9, 7)か、そうでなければ「Stomabhāga の呪句」を知る者であるべきである⁴²。Brahman はこれら31の Stomabhāga のうちから、順に一つずつを答えとして選ぶ(Agniṣṭoma では12、Ukthya では15、Ṣoḍaśin では16)。

Udgātṛ たちの詠唱に続いて(Pavamāna の場合には直接にではない)、Hotṛ ないし Hotraka の Śastra が来る。最後の Pratihāra ののち、Stotrakārin は「eṣā」(「これが最後の Ṛc である」)という語をもって、彼らにその命令を与える⁴³。

Hotṛ は Adhvaryu に āhāva(śoṃsāvo!、昼は adhvaryo śoṃsāvo!、夕は a. śośoṃsāvo!)を向け⁴⁴、これに

102 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

対して Adhvaryu が答える(pratigṛṇītepratigara)。「śoṃsāmo daiva」あるいは「śoṃsā modaiva」⁴⁵。

Prātaḥsavana の最初の Śastra においては、この対話に先立って、いわゆる akṣarapaṅkti(sumatpadvāgde)と、Mātariśvan が Pada を、Kavi たちが Uktha を損なわずにあらんことを願う Japa とが置かれる。

この対話に続いて、三つないし六つの休止をもつ tūṣṇīṃjapa が来て、その後に puroruc(「前光」)が来る。

Śastra の初めに立つ Puroruc に代えて、昼と夕には Nivid の定型句(呼びかけ)が入り⁴⁶、当該讃歌の中央ないし末尾に置かれる(nividdhānīya)。

Ś. 8, 16, 1 への注釈によれば⁴⁷、すべての Nivid、Puroruc、Praiṣa は Viśvāmitra に遡る。Nivid が特別な Āhāva によって導入されるのに対し、Puroruc にはこれが欠けている。

Ājyaśastra 全体の姿は、(Śāṅkh. によれば)次のとおりである。

  • Hotṛ:[Akṣarapaṅkti]⁴⁸。Japa。Āhāva:「śoṃsāvo!
  • Adhvaryu:「śoṃsā modaiva!
  • Hotṛ:tūṣṇīṃśaṃsa⁴⁹。
  • puroruc⁵⁰。
  • Ājya-Sūkta 3, 13, 詩節 1–6(第1詩節は Āśv. によれば三度唱えられる。他の供犠においては他の讃歌)。
  • śoṃsāvo!
  • Adhvaryu:「śoṃsā modaiva!
  • Hotṛ:結尾詩節(paridhānīyā)3, 13, 7(Āśv. によれば三度)。
  • Āhāva。Pratigara。

Hotṛ は(Śastra ごとに変わる)ukthavīrya「Uktha の力」、すなわち śastravāpa を朗誦する(Āśv.)⁵¹。

Adhvaryu:「om ukthaśāḥ⁵² yaja somasya!

Hotṛ が Yājyā を唱える。「ye yajāmahe agne」―― (RV 3, 25, 4)―― 「devā vauṣaṭ」。そして Anuvaṣaṭkāra「somasyāgne vīhi vauṣaṭ」。これに続いて Graha の飲用が行われる。

この Ājya の誦唱は、音の高さ、個々の部分相互の結合などに関しても、細かく規定されている。とりわけ Āśv. からそれが見て取れる⁵³。

Ājya と異なるのは、他の Śastra が別の讃歌と詩節を選ぶ点であり、また多くの個別的な特徴による。しばしば形式はより技巧的な性格を帯びる。

朝の搾りの第二の Śastra である Pra-ugaśastra には、abhihiṃkāra(hiṃ bhūr bhuvaḥ svar om[Sabh. 11])が先行する。Āhāva と Pratigara によって導入されるその七つの Puroruc の各々に、Hotṛ の Tṛca が続く(Haug, Ait. Br. 2, 158)。

昼と夕の最初の Śastra の初めには pratipadanucarau、すなわち「入りの句」と「対句」が立ち、そのそれぞれは三つの詩節から成る⁵⁴。

こうして Mārutaśastra(昼の最初のもの)においては、RV 8, 57, 1–3 および 8, 2, 1–3 が Pratipad-Anucara の詩節であり、それぞれ Āhāva と Pratigara によって導入される。

これに続いて、再び Āhāva ののち、Pragātha 詩節 RV 8, 53, 5. 6(すべての Pragātha と同じく Kakubh または Bṛhatī と Satobṛhatī から成る)が来て、これは Indranihava と呼ばれる。

これについても、また他のものについても、Ś. 7, 25, 3 以下に規定される pragrathanadharma⁵⁵ が妥当する。これは詩節を互いに織り合わせることにあり、最後の Pāda を繰り返して次の詩節の最初のものと結びつけるのである。

二つの詩節 / 1)indra nediya ed ihi(a)mitamedhābhir ūtibhiḥ(b)/ ā śaṃtama śaṃtamābhir abhiṣṭibhiḥ(c)ā svāpe svāpibhiḥ(d)// 2)ājitūraṃ satpatiṃ viśvacarṣaṇim(e)kṛdhi prajāsv ābhagam(f)/ pra sū tirā śacībhir ye ta ukthinaḥ(g)kratuṃ punata ānuṣak(h)// は、これによって次の姿を得る⁵⁶。1)indra — ā svāpe svāpibho3m(abcd)。2)ā svāpe svāpibhir ājitūraṃ satpatiṃ viśvacarṣaṇim|kṛdhi prajāsv ābhage3m(d|ef)。kṛdhi prajāsv ābhagam pra sū tirā śacībhir ye ta ukthinaḥ|kratuṃ punata ānuṣo3m(fgh)。

こうして二つの詩節から三つ ―― 一つの Bṛhatī と二つの Kakubh ―― が作られる。

58. Śrauta 供犠の特徴について。 103

さらに大きな技巧は、vihāraṇa(vihar)と呼ばれる、種々の詩節ないし詩節の部分、種々の歌を互いに差し込むことである⁵⁷。これについては Roth がすでに RV に痕跡を見いだそうとした⁵⁸。

昼の搾りの Āpyāyana に際して、たとえば Grāvastut は三つの Āpyāyana 詩節を、その各詩節に Arbuda 歌(10, 94)の二つの詩節を続け、最後のものにこの歌の第五詩節を続けるという仕方で唱える。

さらに進んでいるのが Ṣoḍaśin における慣行であり⁵⁹、そこでは Gāyatrī が Paṅkti-Tṛca と、Uṣṇih-Tṛca が Bṛhatī と混ぜ合わされる。しかもそれは、最初の Gāyatrī-Pada に最初の Paṅkti-Pada が続くという仕方である。

類似の、いくらか変改された場合が、Haug が記述する Vālakhilya 詩節の vyatimarśaṃ vihāraṇa である。

(補説おわり)

Indranihava に続いて、同じ仕方で作られるべき Bṛhaspatipragātha が来て、次に dhāyyā(補充詩節)⁶⁰、Marutvatīyapragātha、Nivid 讃歌 1, 73 ―― これには第6詩節の後に Nivid の定型句が挿入される ―― 、Ukthavīrya、Yājyā 詩節と献酒が来る⁶¹。

昼と夕の Hotṛśastra の初めの Tṛca が pratipadanucarau と呼ばれるのに対して、続く Śastra の初めの Tṛca は stotriyaanurūpa の名をもつ。同様に、Hotraka のすべての Śastra の初めの Tṛca もそうである⁶²。

Anurūpa(対句)は韻律・音節数・神格・冒頭において Stotriya に対応し、「anurūpa」でなければならない⁶³。

たとえば Niṣkevalyaśastra における Stotriya は abhi tvā śūra nonumaḥ(RV 7, 32, 22. 23)であり、Anurūpa は abhi tvā pūrvapītaye(RV 8, 3, 7. 8)である。

Sāman 歌者たちの詠唱に続き、それにちなんで名づけられたこの Stotriya は、その Stotra と同じテクストを含む⁶⁴。その二つの詩節は(前述のように)一つの Tṛca へと変形されるべきであり、Anurūpa のそれも同様である。

この両者に続いて Dhāyyā、Sāmapragātha、Nividdhānīyasūkta 1, 32, 1–15(第9詩節の後に Nivid)、Ukthavīrya が来る。

Yajamāna は Stotra について「stotasya stutam asi」と、Śastra について「śastrasya śastram asi」と唱える。

なお指摘しておくべきは、朝・昼・夕の朗誦において選ばれる音の高さの相違である。低い声は Prātaḥsavana に規定されている。Pra-ugaśastra は Ājya より高く唱えるべきである。中間の音域(あるいは最高音域)が昼の Savana に選ばれ、最高音域(あるいはまた低音域か中音域)が夕の搾りに妥当する⁶⁵。Vaiśvadeva より高く Agnimāruta を唱えるべきである。

身体の姿勢もいくつかの書に規定されている。朝は「忍び寄るように」、昼は「傾けて」、夕は「直立して」進む⁶⁶。さらに最初の二つの Savana ではより緩やかに、第三の Savana では急いで行う⁶⁷。

Śrauta 供犠は、いま現にあるかぎりでは、硬直した、もはやほとんど変化にさらされない形で現れる。しかし Brāhmaṇa は、儀軌の歴史へのいくつかの洞察を許し、「かつて」(purā)と「いま」(etarhi)とを対置する言明を含んでいる⁶⁸。

以下の叙述は、供犠の一般的な進行を特徴づけることに限らねばならない。インドの供犠祭祀に対して種々の観点から向けうる多くの問いに対する十分な答えは、これらの大部のテクストの翻訳のみが与えうる。

種々の祭司家系、おそらくは種々の部族が、幾世紀にもわたってその形成に関与した。Śrotriya たちの世代が挿入し、整理し、また薄め、祭祀学の完全な集成を作り上げた。それは文化史的な浸透と生命の吹き込みとを待っている。

104 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

3 Eggeling 26, 325. 326。

4 Weber, ISt. 9, 229。Klemm, 前掲書。詩節の配分については Bergaigne, Recherches sur l'hist. lit. véd. 134。

5 Jaim. N. M. Vistara 60 頁、SV. 2, 1, 36。ここで Śabarasvāmin は viṣṭi vācid gītiḥ sāmety ucyate と述べている。

6 Mīm. Darś. 2, 1, 36。

7 Sonnwendfeste 36。

8 Burnell, Ārṣeyabr. XI 以下。これに加えて A. Barth の価値ある所見、Rev. crit. 1877, N. S. 4, 21 頁以下。Oldenberg, ZDMG. 38, 464 以下。さらに Barth, Rev. Hist. Rel. 11, 51 以下。Oertel, Jaim. Up. Br. 229;Eggeling, SBE. 41, XIII。

9 この拡張された語法は、すでに Mīmāṃsaka たちに論争の機縁を与えた。Mīm. Darś. 2, 189:eke manyante prajitaṃ mantravākyam

10 Burnell, Ārṣeyabr. XIV;Oldenberg, ZDMG. 38, 465。

11 一つの Yoni に属する Sāman ないしその複数を、Sāmavidhānabr.varga と呼ぶ(Sten Konow 11)。

12 Burnell, Cat. of a coll. 44 頁以下;Ārṣ. Br. XXIII, Saṃhitopaniṣad Br. VI 以下。Barth, Rev. crit. 前掲 22 頁;Weber, ISt. 1, 46 以下;LG. 90. 91;SPAW. 1868, 237 頁注。

13 SV. I, 14. 15。Fortunatov, Sāmaveda Āraṇyaka Saṃhitā 34 頁以下。

14 SV. I, 12 以下。Sten Konow, Sāmavidhānabr. 34 頁注。TĀr. 559 頁注釈;Lāṭ. 2, 9, 12 と注釈。

15 Colebrooke, Life and Ess. 2, 334;Nève, Études sur les hymnes du RV. 5;Barth, 前掲 23;Fortunatov, 前掲 30;Nyāya M. Vistara 356 をも参照。Ludwig は Stobha の知識をすでに RV について認めている(4, 50, 5;7, 103, 6 を参照)。

16 SV. I, 11;Mīm. Darś. 2, 212 頁。

17 Burnell, Ārṣ. Br. XXXVIII;Sten Konow, Sāma VBr. 26。

18 Eggeling, SBE. 12, 196 注2;Hillebrandt, Sonnwendfeste 前掲。 — SV. I, 10:svaridvireṣinuṣūrvimātrasvarūpaṃ ṛṣakaratyatiriktaṃ yad gānaṃ tad eva rathaṃtarataibārthakaḥ

19 SV. I, 10. 11。Haug, Ait. Br. 2, 267。Burnell, Ārṣ. XII, 注;XXXXI;Saṃh. Up. Br. VII 以下。Sten Konow, 前掲 33。

20 Chrysander, Vierteljahrschrift für Musikwissenschaft 1(1885)21–34(Haug の記載にもとづく)。Burnell, Catal. 44, Ārṣ. XVI。Barth, 前掲 20。Haug, Über Wesen und Wert des ved. Accents 35 以下。

21 Haug, Report of a tour in Gujarat(Burnell に引用);Burnell, Catalogue 45;Ārṣ. Br. XXVIII, Jaiminīyatext XV。

22 Lāṭ. 2, 6, 1 以下。Haug, Ait. Br. 2, 185 注;238 注;Burnell, Ārṣ. XXVIII, 105。Eggeling, SBE. 26, 309。

23 MHAL. 210 以下。Haug 2, 120. 198。Burnell, Ārṣ. XXV。Sabbathier, Agniṣṭoma 61 頁。Chāndogya Up., Rājendralāla Mitra 訳 9 頁。Jaim. Up. Brāhm., H. Oertel 校訂。SV. I, 54 注2;Ait. Br. 3, 23, 4 注釈。Eggeling, SBE. 26, 310. 311;Klemm, Ṣaḍviṃśa Br. 91, A. 82 その他。

24 Burnell, Ārṣ. Br. XXV。Saṃh. Up. Br. XIV 以下。

25 TMBr. 8, 8, 19 を参照。SV. I, 53 以下。Sten Konow, SāmaViBr. 23。

26 Eggeling, SBE. 26, 311。Lāṭ. 1, 11, 24 以下。

27 とりわけ Jaim. Ny. M. V, 64 頁;Ś. 7, 21, 2 注釈。Burnell, Ārṣ. XII。K. T. Telang, SBE. 8, 19;Jaim. Up. Br., Oertel 校訂 95. 234 頁;Kāt. 1, 3, 1 注釈。

28 さらに Chānd. Up. I, 6 をも参照。

29 Devatādhyāyabr. IX。Muir, OST III², 16 以下。

30 Sonnwendfeste 34 以下。

31 Ait. Br. 3, 23, 1 注釈。Oldenberg, ZDMG. 38, 465 以下。O. によって pragātha は正しく gai「歌う」に還元されている(446)。

32 Eggeling, SBE. 26, 308。

33 SV. I, 47。それほど明瞭でないのは TMBr. 2, 1, 1;2, 1;3, 1;SV. 3, 13。Eggeling 26, 310, Haug 2, 237 注を参照。後者の叙述はいくらか異なる。

34 Haug 2, 185. 238;Eggeling 26, 308;SV. 1, 49;TMBr. 1, 99 以下とその注釈。

35 TMBr. 1, 101。Eggeling 前掲。

36 Eggeling 前掲 309。

37 ISt. 9, 229 注2;10, 354;Klemm, Ṣaḍviṃśabr. 91;SV. 3, 2 頁。

38 ISt. 9, 276;Haug 2, 347。Eggeling, SBE. 26, 308;SV. 3, 2。

39 Haug 2, 139. 282。Eggeling, SBE. 12, 196 注2;26, 339;41, XX 以下。Sabbathier 前掲 83. 86。

40 Egg. 41, XX 以下;Pṛṣṭhastotra の複雑な形式については同書 XXIII 頁。

41 Āp. 14, 9, 7;10, 1 とその注釈;Ś. 6, 8, 5 以下。Āśv. 5, 2, 11;Haug 2, 377 注。Eggeling 26, 311。Adhvaryu による Stotra の導入(netram uśātaram)とその際の Yajamāna の呪句については Āp. 12, 28, 5 以下。

42 ISt. 9, 232;10, 34 以下。

43 Ś. 7, 10, 1. 2。Āśv. 5, 10, 2。Lāṭ. 2, 6, 11。

44 Ś. 7, 9, 1;19, 6;8, 3, 5。

45 Weber, ISt. 10, 37;Haug 2, 227;Eggeling, SBE. 26, 326。種々の Pratigara とその用法については Sabbathier 55. 56 頁および Āp. 12, 27, 14–17。私は athāmo daivaśoṃsāmo daiva という区分を正しいとは考えない。むしろ定型句を atha madeva!śaṃsa! madeva! と等置する。

46 Haug 1, 36 以下。Weber, ISt. 9, 265. 355;Ludwig 4, 14;Barth, Rev. hist. rel. 5, 106。

47 Weber, ISt. 9, 265。

48 Āśv. 5, 9, 1。Sabbathier 54。Eggeling 26, 326(そこにこの儀式の記述がある)。

49 Ś. 7, 9, 2。Āśv. 5, 9, 11。

50 Ś. 7, 9, 3。Āśv. 5, 9, 12。

51 ISt. 9, 260。Haug 2, 178;Eggeling 26, 327;Sabbathier 59。Ukthavīrya の音節数は献酒の特徴的な韻律に対応する。Eggel. 前掲 — Ś. 7, 9, 6。

52 Āp. 12, 27, 19 以下;Sabbathier 40。

53 Sabbathier 55 頁。

54 Ait. Br. 3, 15, 2 注釈;Sabbathier 58 頁。

55 Weber, ISt. 8, 25;Sabbathier 84 以下。「織り合わせ」には種々の種類がある。

56 Saptahautraprayoga(ミュンヘン Nr. 145。Haug 306)fol. 62ᵇ、Ś. 7, 25, 6 を参照。

57 Haug 2, 417. 258。

58 ZDMG. 37, 109。

59 Ś. 7,

59. Agnyādheya。 105

15, 4 以下。

60 Ś. 9, 5, 4 以下。

61 前掲。Āśv. 8, 2, 3 以下。Ś. 12, 11, 5 以下。

62 Haug 2, 614, 195. 213。Eggeling 12, 1121;Schwab 前掲 83。Āśv. 2, 1, 27。

63 Eggeling 26, 337。Vaiśvadeva と Agnimārutaśastra の分析は前掲 361. 369 にある。

64 Haug 2, 199 以下。Sabbathier 58。

65 Āśv. 5, 10, 26。Ait. Br. 6, 5, 1 注釈。

66 Ait. Br. 3, 23, 7;6, 5, 1 注釈。Haug, A contribution towards a right understanding of the hymns of the Ṛgveda, Times of India 1863(9月)8 頁以下(M. Müller の RV. の紹介)。

67 たとえば Paribhāṣā Ś. 8, 14。Lāṭ. 2, 2, 6 以下。Sabbathier 11. 12 頁。

68 Eggeling, SBE. 26, 300。

69 Āp. 12, 29, 12。

70 Weber, ISt. 10, 156 以下が集成している。

§1. Haviryajña

§§ 59. Agnyādheya

(Āp. 5, 1 以下、Kāt. 4, 7–10[Kauś. 69、家庭の火]、Vait. 5. 6、Āśv. 2, 1, 9 以下、Śāṅkh. 2, 1[Karmaprad. I, VII, 1 以下]、Lāṭ. 4, 9, 10 以下、12, 6 以下。)

二つ²、三つ、あるいは五つの聖火の設置の正しい時期については、一連の精密な ―― もっともすべてが義務的ではない(Kāt. 4, 10, 3 を参照)―― 規定があり、それらは選ぶべき季節に関して最もよく一致している。

バラモンには春が、kṣatriya には夏が、Kāt. によれば vaiśya と Rathakṛt³ には雨季が選ばれるべきである。Āp. によれば Rathakāra には雨季が、vaiśya には秋が選ばれる。Āśv. 2, 1, 12 は逆に、vaiśya には雨季を、「upakruṣṭa」には秋を定めている。Śiśira はすべてのカーストに適する(Āp. 5, 3, 20)。

より精密な時点の選択は、占星術的な観点のもとに行われる。ある者たちは新月を、他の者たちは新月または満月、あるいは月と Kṛttikā、Rohiṇī、Mṛgaśiras との合を推奨する。星宿 Hasta はバラモンに、Citrā は rājanya に、贈り物を得るのを助ける(この種のさらなる細目はとりわけ Āp. 5, 3, 2 以下と Kāt. Paddh. 354. 5)。

儀式は二つの火の小屋の建造をもって始まる。(Āp. によれば東に傾いた場所に。)一つは西にあって東と南に戸口をもち、一つは東にあって東と西に戸口をもつ。前者には Gārhapatya 火のための、後者には Āhavanīya 火のための場所を設けるべきである。前者は円形、後者は方形であり、両者は祭主のカーストに応じて 8、11 または 12 Prakrama 離れている(この数の配分は、他の箇所でもバラモン・kṣatriya・vaiśya の相違を表現するものである)⁴。

しかし Āp. 5, 4, 4 は、Gārhapatya の場所が小屋の「中央の梁」の前にある場合には、寸法の選択においてより大きな自由をも認めており、それはすべての者に無差別に妥当しうる。

Gārhapatya の南、Gārhapatya と Āhavanīya との距離の三分の一のところに(Baudh. によれば中央に)、半月形の Dakṣiṇāgnikhara がある。Gārhapatya と同じく円形なのが、Sabhya 火と Āvasathya 火のための Khara であり、前者は(Āp. によれば)Āhavanīya の前に、後者は Sabhya 火の東にある(Āp. 5, 4, 7 への注釈は sabhā を「遊技場」、āvasathaatithīnāṃ vasabhūmiḥ と説明している)。

Gārhapatya の場所には、暫定的な、摩擦によって生ぜしめられたか、vaiśya の家や古い供犠の火などから取ってきた火が設けられる。これは、四人の祭司に施されるべき Brahmaudana を煮るのに役立つ。

祭主はその食事を昼または夜に限り、沐浴などを行い、妻とともに新しい衣を着る。夕には彼は、Āhavanīya の東に

106 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

身を下ろし、神々と祖霊を呼び、供犠の場に入る。彼は Āhavanīya の東の門から、妻は Gārhapatya の南の門から入る。

ここで彼は Adhvaryu から(Āp. によれば翌朝早くになってはじめて)二本の Araṇi を受け取る。これは Āp. によれば火で温められ、種々の呪句をもって呼びかけられる(agnipradāna。前掲 69 頁を見よ)。

それは 24 Aṅguṣṭha の長さ、6 の幅、4 の高さであり、śamī の上に生えた aśvattha の木から取られる。Kāt. のより緩やかな規定によれば、規定どおりのものが見つからない場合には他の aśvattha からでもよい⁵。

Gārhapatya の小屋には、Āp. 5, 7, 17 によれば黒斑の牡山羊を繋いでよい。これは祭主の所有物である場合には、翌朝 Āgnīdhra に贈られるべきである。

Brahmaudana は四 Māṣa の米から成り、煮られて四人の祭司に施される。彼らは饗応ののちそれを賞め、自らの望むものを贈り物として受け取る。

食物の中央には窪みが作られ、バターが注ぎ入れられる。新鮮な aśvattha 材の三本の薪がそこに浸され、呪句を誦しつつ火に入れられる。(この Brahmaudana の儀式は、それに結びつく Varadāna と Samidādhāna とともに、Agnyādhāna の導入として、日ごとに丸一年にわたって行われうる。その場合、年の最初の日に小屋の建造が、最後の日に食事の制限と牡山羊の繋留が行われる。こうして三本の薪を絶えず加えることによって聖別された火から、そののち Agnyādhāna が行われる。)

儀式の前夜を、夫婦は火を見守り世話しながら過ごす。Āp. 5, 8, 2 によれば、琵琶と笛の演奏によって目覚めさせられる。

夜明けとともに火は消されるか、あるいはそれを用いようとする場合には、Anvāhārya を煮るために南へ移され、そこで Dakṣiṇa 火の設置の時まで大切に保管される。

消えた火の場所が整えられ、その上に金の薄片が置かれ、その下に塩を含んだ土と、モグラ塚から取った土くれとが投じられ、全体が丸く整えられて(一 Aratni の大きさの円形の面ができるように)、周囲に小石が置かれる。(Āp. 5, 1, 7;2, 4 は、五種から七種のそのような pārthiva saṃbhāra、すなわち砂利・塩土・モグラの土などを区別し、同数の木の種類 ―― aśvattha、udumbara など ―― を区別する。これらは相応の詩節をもって取ってこられ、積まれ、あるいは後に据えられる。)

ついで Bhūsaṃskāra が行われ、そののち他の Khara も同じ仕方で整えられる。

日の出前または日の出後 ―― Āp. によれば「光線が射し上がるとき」―― に、火の摩擦具をもって火の摩擦が始まる⁶。

これに属するのは、後代の資料によれば、最も下に置かれる adharāraṇi のほかに、Uttarāraṇi から作られるべき pramantha(摩擦棒)であり、これはその下端で adharāraṇi のなかを垂直に動き、上端は紡錘 cātra に差し込まれる。この紡錘自身は上方で一本の栓に終わり、それが横木 orīli のなかを走る。

紡錘には、麻と牛の毛から作られた綱 netra が巻きつけられ、これを女が引き、そのあいだ男が装置全体を支える。

この儀式で興味深いのは、一頭の若い馬の臨席である。それは Āp. によれば白か、あるいは黒い膝をもつ赤毛でなければならず、目やにを流していてはならない。それは、Āhavanīya との関係づけから明らかになるように象徴的意味をもち、確かに太陽の代表者である。新火の生成は太陽と関係するのである⁷。

インドの供犠の大多数と同じく、Agnyādheya もまたその自然的な根拠から切り離され、個々の祭主の願いと事情とに関係づけられるに至ったのであろう。

太陽の運行に関係する Sāman ―― Rathaṃtara、Vāmadevya、Bṛhat ―― の詠唱、賽子遊び ―― おそらくは新火と結びついた古い

59. Agnyādheya。 107

賽子の託宣の名残 ―― は、Agnyādheya の民衆的性格を指し示すように思われる。Tanūhavis がささげられるまでに12日が経過せねばならないこと、12日(ないし3日)にわたって火が保たれねばならないことも、それゆえ私には無意味ではないと思われる。

若い馬が手に入らない場合には、他の馬あるいは牡牛を選んでもよい。この馬が東に、西を向いて立てられると、Gārhapatya の背後で(Āp. によれば、Brahmaudanika 火が立っていて、その灰が運び去られた場所で)火の摩擦が行われる。しかも後代のテクストによれば、火が東側に噴き出すようにする。

Āp. は摩擦のあいだ Śakti Śāṅkṛti の Sāman を歌わせ、煙が立ち上るときには Gāthin Kauśika のそれを歌わせる。炎が現れるとただちに、Adhvaryu は自らの選ぶところに従って一つの贈り物を受ける(Āp. 5, 11, 4 がより精密に定めている)。

祭主は炎に息を吹きかけ、呪句とともにそれを吸い込む。それによって彼は「自らの息を不死なる者たちのうちに」置き、「不死なる者たちを自らの息のうちに」置くのである。

供犠に適した木と牛糞(Roth を参照)が、そのあいだに Gārhapatyakhara に据えられた火を燃え立たせる。(Vait. 5, 18 では火が車に載せて運ばれ、そのあいだ祭主は後ろから馬に触れ、この獣に若干の呪句を向ける。それらの呪句は「その蹄から Atharvan が最初に光を受けた」というこの獣の象徴的意味を特徴づけている。)

火を据えることは呪句を伴って行われ、それらは yathārṣi(祖仙に応じて)変化し、個々の祭主を火祭祀の祖先と関係づける。「Aṅgiras たちの Vrata に従って、おお Vrata の主よ、われは汝を据える」と Aṅgiras 家の者は言い、Bhṛgu 家の者は Bhṛgu たちを、他の者は Āditya たちを、rājanya は Indra を、kṣatriya は Varuṇa を、vaiśya は Manu Grāmaṇī を、Rathakṛt は Ṛbhu たちを引き合いに出す。

この火の据え付けには、いくつかの学派では Sāman の詠唱が結びついている。それは(Chandoga たちを別として。Lāṭ. 4, 9, 21;10, 7 以下を参照)Udgātṛ にではなく Adhvaryu に、あるいは Sautrāmaṇī や Vājapeya におけるように Brahman に属する。しかも Gārhapatya の据え付けに続いて Rathaṃtara の詠唱が行われる。

燃えている薪(Āp. によれば aśvattha の)が、そこから(Āp. によれば、太陽が半ば昇ったとき、あるいは brahmavarcasa を望む者の場合には完全に昇ったとき)Gārhapatya から取り出され、その下に土を入れた匙を差し出しつつ ―― 馬の耳に Yajamāna は Agnitānū の呪句をささやく(Āp.)―― Āhavanīyakhara へと運ばれる。

特別な願いがある場合には、Āp. 5, 14, 1 は火を他の場所から取ってこさせる。たとえば食物を望む者のためには焙り鍋から、brahmavarcasakāma のためには燃えている樹の梢から取ってくる。

馬は燃えさしの前を行き、その後ろに祭主が、煙が彼に吹きかかるようにして続く。道の三分の一は火が膝の高さで、次の三分の一は臍の高さで、最後の三分の一は口の高さで運ばれる。火と太陽とのあいだに歩み入ることは許されない。道の中ほどで祭主は一つの贈り物をする(Āp.)。

Brahman はそのあいだ Vāmadevyasāman を歌う。外で、Vihāra の外側で、Yajamāna は車あるいは車輪を動かし、それが三度、敵に対しては六度、円を描いて回るようにする(Āp.)。

その場所に着くと、馬にその右前足で黄金と、Khara の上にあるその他の Sambhāra とに触れさせ、頭を西に向けて Khara の上に立たせる。Bṛhat を歌えという命令が下され、足跡が一度あるいは数度、燃えさしで触れられ、ついで Gārhapatya におけると同じ呪句を誦しつつ、その上に火が据えられる。

馬の足跡に代えて、Āp. に挙げられる Bahvṛca たちによれば Kamaṇḍala と呼ばれる獣のそれを、Vājasaneyin たちによれば牡山羊のそれを用いることもできる。

祭主はこれに続いて東で火をめぐり歩き、とりわけ

108 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

蛇の女王 Kadrū の呪句(VS. 3, 5)「斑の牡牛が近づいた」をもって、これに敬意を表する。Āp. はその際、敵に対する呪詛をも発せさせている。

Āp. は Āhavanīya の据え付けのに(祭主がその呪句を馬の耳にささやいた直後に)、Yajñāyajñīya の詠唱のもとに Dakṣiṇāgni を据えさせ、これは彼にあっては Āgnīdhra から取ってきた通常の火から得られるか、摩擦によって生ぜしめられる。これに対し Kāt. においては、この所作はこの箇所で Āhavanīya の据え付けとまったく同じ仕方で行われる。

しかし祭主が最初の Gārhapatya 火を消さず、ただ南へ移しただけである場合には、それはいま Dakṣiṇakhara に据えられ、以後、祭主はこの Dakṣiṇa-agni ―― 肉を除くすべての食物の調理に用いられる ―― を絶えず保たねばならない。

摩擦によって生ぜしめるべきなのが(Vait. 6, 5 および Āp. 5, 17, 1 への注釈は別説)Sabhya 火であり、その据え付けは、ある注釈によれば kṣatriya にのみ関わる。

火の摩擦と据え付けとのあいだの時に(Āp. においてはより後の機会に)、牝牛が賽子で賭けられる。Paddhati によれば、Vihāra の北に皮が広げられ、その上に真鍮の器が伏せられ、五つの kapardaka(Āp. の注釈によれば vibhīdaka)ないし小棒をもって四度賽が投げられる。「偶数は勝ち、奇数は負け」である。

祭司がこれを行うべきか kṣatriya が行うべきかについて、注釈は揺れている。Āp. ―― 彼は rājanya についてのみ語る ―― は、Sabhā に賭博台を設けさせ、これに水を撒き、その上に賽子を投げさせ、Sabhā での一つの供犠と Āvasatha での一つの供犠ののち、Ādhāna を見物する集会のただ中で、この100個の賽子を祭主に手渡させる。その言葉は「米のために牝牛を賭けよ。肢体を傷つけることなく分けよ」である。

この牝牛のために米が買われ、調理されて、Sabhā の仲間たちに与えられ、彼らはそれを Āvasatha で食べる(Āp.)。それ以後、Sabhā 火は生涯にわたって敬われ、保たれるべきものである。(Sabhya と Āvasathya の恒常的な維持についての種々の見解を Āp. 6, 2, 16 への注釈が論じている。)

Kāt. においてはこれに続いて、Śyaita、Vāravantīya、Yajñāyajñīya の Sāman の詠唱(Āp. はこれをすでに以前、Bṛhat に続けて規定している)⁹、火をめぐり歩くこと、馬を北へ放つこと、そして pūrṇāhuti(いっぱいの Sruc からの一献供)が来る。その後、祭司たちにその望みに応じた贈り物がなされる。この時から祭主は沈黙の誓戒から解かれる。

この Pūrṇāhuti の後になってはじめて、Āp. 5, 18, 2 以下は Agni 供犠と結びついた賽子遊びを行わせ、その終わりに彼によって精密に指定された Dakṣiṇā が配分される(20, 6 以下)。

Lāṭ. 4, 12, 13 は、Pūrṇāhuti、Akṣābhihoma、あるいは一つの Iṣṭi をもって Agnyādheya を終えると述べている。

この Pūrṇāhuti から12日後、あるいはより短い期間ないしより長い期間の後に、三つの tanūhavis ないし paramānahati(Āp. 5, 21, 1)がささげられる。Kāt. によれば Agni Pavamāna のために、A. Pāvaka と Śuci のために、そして第三に Aditi のために。

Śāṅkh. 2, 3, 10 以下や Āp. のような他の Sūtra は、これらの献供をいくらか異なる仕方で規定している。たとえば Āp. はまず三つの Agni ないし soma 供犠の神々のために、その後に Indra-Agni、Aditi のためのものを規定する。

それらは新月・満月供犠の範型に従って進み、神々の名に応じて Puronuvākyā と Yājyā などが変更される。

Dakṣiṇā に関しても Sūtra には相違がある。Vait. は、馬、火を運ぶ車、牝牛、黄金を与えさせている。

Agnyādhāna の直後、祭主は12日、6日または3日、貞潔に生き、火を保ち、Agnihotra を乳をもって供犠し、火のかたわらの地上に臥さねばならない。

生涯を通じて彼は、虚偽と非歓待とを避け、湿った木や悪臭を放つ木を火にくべず、地熱によって(すなわち開いた火によってではなく隠れた火によって)調理されたものを食べず、

60. Punarādheya。61. Agnihotra。 109

船から水を飲まないなどのことを守るべきである(とりわけ Āp. 5, 25, 2 以下)。Gataśrī は生涯にわたって火を保たねばならない。

§§ 60. Punarādheya

(Āp. 5, 26;Kāt. 4, 11;Vait. 8, 3;Āśv. 2, 8, 4 以下;Śāṅkh. 2, 5, 1。)

新たに据えた火がその所有者にその年に幸をもたらさない場合、彼に災厄が降りかかった場合、あるいは一定の願いが成就すべき場合には、彼は punarādheya を行う。

古い火は、Āp. に規定される一連の献供ののち放棄され、最短で三夜、最長で一年の期間ののち(ある者たちによればただちに)、改めて三つの火が新たに据えられる。

Kāt. は星宿として Punarvasū を、Āp. はそのほかに Rohiṇī または Anurādhā を規定し、しかも雨季または秋にとする。Kāt. はそのために正午の時刻を許しており、これは注釈によれば雨季と同じ意味をもつ。

本質的にはこの所作は Ādhāna と同様に進む。ただ火は木ではなく kuśa 草で養われる。Tanūhavis に代えて、五つの Kapāla に載せた Agni のための Puroḍāśa と、その他の多くの ―― とりわけ Kāt. Paddh. 389 以下、Āp. 5, 27, 9 以下がまとめている ―― 相違が現れる。

その際、複数の Sūtra(たとえば Āśv. 2, 8, 6)が強調する慣習は注目に値する。すなわち Prayāja と Anuyāja において Agni という語の種々の格(vibhaktayaḥ)を用いることである(Eggeling, SBE. 12, 321)。

Dakṣiṇā として Āp. は、Ādheya に際して通例のものと Punarādheya に属するものとの両方を配分させ、これについて立ち入った規定を与えている。ここで特徴的なのは、供犠の性格をほのめかして、修繕された品々、たとえば修復された車などが含まれることである(同様に Ś. 2, 5, 27)。

Punarādheya の第二の種類は、Mitra-Varuṇa のための牝牛の供犠から成り、これは前日の午後に始められ、Paśupuroḍāśa の儀式まで続けられる。夜のあいだに牝牛は焼かれ、切り分けられ、翌日にささげられる。その後で Punarādheya が祝われる。

三度目に火を据える可能性を Āp. 5, 29, 11 が言及している。

§§ 61. Agnihotra

(Āp. 6;Kāt. 4, 12–15[Kauś. 72, 44–73, 19];Vait. 7;Āśv. 2, 2–5;Śāṅkh. 2, 7 以下[11. 12 Yajamāna]。)

āhitāgni の Agnihotra は、anāhitāgni のそれと同じく、日ごとに朝夕ささげられる。

時刻の精密な確定 ―― 朝は日の出に向かってか日の出後か、夕は日没後か最初の星の出現後か ―― については、Yājñika たちのあいだに種々の見解の相違が生じているが、ここではこれ以上立ち入らない¹。

火を絶えず保つ者は、それを清める(prāduṣkaraṇa)だけでよい。そうでない場合には、Gārhapatya から取り出してその Khara に運ばねばならない。まず Āhavanīya を運ぶが、これは夕にのみ取り出されて

110 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

朝の献供にも役立つか、あるいは Agnihotra ごとに新たに点じられる。

南の火を絶えず保つべきか、繰り返し、あるいは新月・満月の祝日にのみ新たに点ずべきかは、学派自身のあいだで論争があった(Kāt. 4, 13, 4 以下;Āśv. 2, 2, 1;Āp. 6, 2, 11 以下)。

火の周りに草が撒かれ、水が撒かれ、Āhavanīya から Gārhapatya まで一筋の水が注がれる。

Āśv. 2, 4, 2 は、節目の日には祭主自身が Agnihotra を行わねばならないと強調している。種々の規定を知る Āp. も、6, 15, 15 でこの可能性を挙げている。

供えられるのは通例は乳である。他の供物を Ś. 2, 7, 9 が挙げている。

Vihāra の南に Agnihotrī すなわち牝牛が立つ。これは雄の仔牛をもち、Ārya によって、Ārya が作った桶に搾られる。Āp. は搾る乳首の違いにさえ象徴的意味を与えている(6, 4, 1)。

Gārhapatya で乳が火にかけられ、草の茎で繰り返し照らされ、水と混ぜられる(煮えすぎても煮え足りなくてもならない。Āp. 6, 6, 1)。ついで Paryagni の遂行ののち、きわめて詳細に記述される儀礼をもって Gārh. と Āh. において供犠される。

象徴的な所作が多くそれに結びついている。息子たちが年齢順に繁栄することを望む者は、常に先の匙を後のものより満たして汲む(Āśv. 2, 3, 13;Āp. 6, 7, 8)。愛する息子のためには満杯の匙を取るべきである(Āśv. 14)。

より精密な時刻の選択、供犠がなされる場所(agnyavasthā)、そして物質の選択は、種々の願いを達成する手段として役立つ(Kāt. 4, 15, 12 以下;Āp. 6, 9, 1;10, 3)。

たとえば Svarga には、日没直後あるいは日の出頃に行われる Agnihotra が役立つ。家畜には、家畜が夕に帰っているとき、あるいは朝まだ家にいるときの献供が役立つ。Śrī には、まだすべてが眠っている朝の供犠が役立つ。

まだ煙っている火に献供を注ぐのは kṣatriya であり、彼は「あたかも自らの臣民を打ち倒したかのように、力ずくで食を得ようとする」。Brahmavarcasakāma はまったく赤熱した炭に注ぐ。

Svarga を得るには payas が、村々を得るには yavāgū が、Tejas には ghṛta が役立つ、等々。一年のあいだそのように供犠すべきであり、あるいは朝夕のみ供犠すべきである。

供犠の終わりに Yajamāna は食し、四つの水の献供を注ぎ出す。Kāt. によれば「devān jinva, pitṝn jinva, sapta ṛṣīn jinva」、そして最後に Agni pṛthivīkṣit のために注ぐ。他の存在を部分的に挙げるのは Āśv. 2, 4, 13. 14;とりわけ Āp. 6, 12, 4。

Dakṣiṇā 火は心のうちでのみ敬われ、Sabhya 火は朝、朝食の前に、その近くに短く身を下ろすことによって敬われる(Kāt. 4, 15, 32. 33;9, 22)。

prātaragnihotrasāyam のそれと異なるのは細目においてのみであり(Kāt. 4, 15, 6 以下;Ś. 2, 7, 13 以下、8, 4 以下、13 など)、当然ながら他の時刻と神々の名を挙げる点でも異なる。

Agnihotra の aṅga をなすのが、義務的ではない agnyupasthāna である。これは通例は夕にのみ行われ、ある者たちによれば朝にも行われ、その場合には prātaravaneka と呼ばれる(Āp. 6, 20, 1)。

その位置は、水の撒布と、それに続く薪の据え付けの後である(Kāt. 4, 14, 30 への注釈)。Vātsapra の歌(VS. 3, 11–36)² をもって、あるいは学派に応じて他の呪句をもって、彼はまず Āhavanīya 火を敬い、ついで Agnihotrī 牝牛またはその仔牛を、最後に Gārhapatya 火を、そして再び牝牛またはその仔牛を敬い、これに触れる。

終わりに彼は、愛する息子の名を挙げ、「その者が彼の業を続けんことを」と述べる。

āhitāgni が旅に出るときは、彼は(Gṛhya 儀軌におけると同じく)自らの火に別れを告げる。これについて支配する種々の見解を Āp. 6, 27 が論じている。

供犠の時にあたっては、彼は外にあっても、断食その他のことなど、自らに課された義務を守る。

帰宅するときは、彼は自らの故郷の境で(あるいは火の視界のうちで、Ś.)言葉を控え、誰かのもとへ行く前に、薪を手にし呪句を唱えつつ

62. 新月供犠と満月供犠。 111

火のもとへ赴き、そこで必要な奉仕を行う(この日の彼のふるまいについては § 38 と 54、82 頁を参照)。

10日を超えるより長期の不在、あるいは住居の恒常的な放棄に際しては、彼は(Ś. 2, 16, 1)Vāstoṣpati への一献供をささげる(これと異なるのは Āśv. 2, 5, 14 と Āp. 6, 26, 7;28, 1 であり、後者はより長期の外泊と、全家を挙げての出立とを区別している³)。それは、火のかたわらに立つ車に右の牡牛を繋ぎ、家財を積み込んだ後に行われる(他の変更は Āp. 6, 28, 7)。

火の samārohaṇa は Gṛhya におけると同様に Śrauta 儀軌にも見いだされる⁴。

新しい住居を彼は一つの献供と次の呪句とをもって挨拶する。「より良き住居がこれである、われが来たところの。天と地はわれに親しかった」等(Āp.)。

parivrājaka となる者にとっては、Agnihotra をささげる義務は消滅する⁵。

§§ 62. 新月供犠と満月供犠

(Āp. 1–3[3, 18–20 Brahman]、4 Yajamāna;Kāt. 2. 3. 4, 1–5;Vait. 1–4;Āśv. 1, 1, 4–1, 13;Śāṅkh. 1, 4–15。)

最初の周期的に回帰する祝祭は、Śrauta 儀軌においては Gṛhya におけるよりも豊かに設えられており、年のうちで最も自然な区切り、すなわち新月と満月の日にもとづいている。

それが遠く隔たった諸民族の月の祭に民族誌的な並行例をもつように、仏教僧の Uposatha 祭に弱められた表現を残してもいる。

Śrauta 儀軌においてはそれは個人のみに関わる。それがすべての Iṣṭi と Paśubandha の範型となったという点に、おそらくその意義と本来の性格の名残が表れている。もっとも原則として M. Müller に同意しうるのは、Prakṛti として役立つ供犠が必ずしも最も古いものであるとはかぎらないという点である¹。

Yājñika たちは、新月ないし満月の日を精密に定義することに多くの労を費やした²。両方の祭には二日が属する。すなわち一方の月半の第15日ないし最後の日と、他方の月半の Pratipad すなわち第一日である。ただし満月には一日でも足りる。

この供犠の型は私がそのすべての退屈な細目にわたって精密に記述したので³、ここではそのより重要な契機を強調するにとどめられる。

満月供犠の中心をなすのは 98 頁に挙げた献供である。新月供犠においては、Agni-Soma に属する Puroḍāśa に代えて、Indrāgnī のためのもの、あるいはまた Indra ないし Mahendra のための酸乳と甘い乳から成る Sāṃnāyya が現れる。これは Yājñika たちのあいだで論争の機縁を与えた。というのは、ある者たちによれば、この乳の供物は soma 供犠を行う者にのみ許されるからである。

目を引くのは、新月についても満月についてもそれ自身のための献供が規定されていないと思われることである。黒 Yajurveda の Sūtra において主要献供に続く pūrvaṇau homau は二次的な性格をもつ。

満月には Agni-Soma のための Puroḍāśa 献供が、新月には Indrāgnī のための P. が区別する特徴であるから、私には、Agni-Soma において満月が、Indrāgnī において新月が、その規範となった表現を見いだしたように思われる。

供犠の所作全体は二つの部分に分けうる。その第一の、準備的な部分は、本来の供犠に先立つ多くの細目に関わる。すなわち、各供犠の初めに必要な vaitānika 火の取り出し(vihāravitāna)と据え付け、および祭主の側での誓戒の引き受けである。

彼はこの日、

112 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

肉食と同衾とを控え、頭髪と髭を切り、午後に断食の食事をとり、その後 ―― 新月供犠の場合には枝を切ることがあればその後に ―― 、真実に即して語る義務にある自らの遵守を開始する。

Sāṃnāyya 供犠がささげられる場合、すなわち新月には、śamī または palāśa の樹の葉の茂った枝が切られ、それをもって仔牛に触れ、あの供物のための乳を出す牝牛から追いやる。

牝牛を搾ることは夕の Agnihotra に続き、儀式ばった仕方で進む。供犠の日へと移り渡る夜を、祭主は妻とともに地上に臥して過ごす。

新しい日は Agnihotra と Brahman の選定をもって始まる。続いて Praṇītā 水の用意、火の周りへの草撒き、器と材料の据え付け、そして Gārhapatya の背後に据えられた車からの Havis の取り出しが行われる。

kuśa の茎から二つの Pavitra が作られる。これは水を清めるのに役立つ。Havis と供犠具は撒水によって聖別される。

黒い皮の上、臼のなかで穀粒の脱穀が行われる。まず Adhvaryu が、次いで呼び寄せられた妻あるいは Āgnīdhra が搗く。

Āgnīdhra は、円形に配置されるべき⁴ 小板(Kapāla)―― その上で Puroḍāśa が焼かれる ―― を Gārhapatya の炉に据える。

同時に Adhvaryu が、次いで祭主の妻が穀粒を石のあいだで挽く。第三の者として Yajamāna が働き、彼は Ājya を取り出し、Veda⁵ ―― 儀式で多様に用いられる草の束 ―― を自らの願いに応じて形づくる。家畜を望むならば仔牛の膝に似せて、食物を望むならば編んだ籠の形に。

これに続いて粉が水と混ぜられ、Piṇḍa に加工され、それがあの Kapāla の上に、層と正確に一致するように転がされる。

これらの Puroḍāśa と、そのあいだに火にかけられた Ājyasthālī の周りには、悪霊を防ぐために paryagnikaraṇa⁶ が行われる。すなわち一つの炭ないし燃えさしを三度、左から右へ⁷ その周りにめぐらせ、火に投じるのである。

つねにそうであるように、Rakṣas、Asura、Rudra、Pitaras を挙げる呪句が唱えられたとき、あるいは呪縛を含む呪句が唱えられたときには、彼はこの火の呪術の終わりに水に触れねばならない。

Puroḍāśa が焼かれる。器と粉で汚れた指を清めるのに用いた水は、Vihāra の北に「三人の Āptya」のために注ぎ出され、Dakṣiṇa 火に Anvāhāryamus〔=米粥〕がかけられる。これは Pradhānahoma の終わりに、奉仕する祭司たちへの Dakṣiṇā として役立つ。

いまや Vedi の作製が行われる。これは長方形の、調理された食物を受ける、火のあいだの場所であり、その両側は弓形に切り取られている⁸。上は狭く、下は広く、中央が最も細いこの形は、女になぞらえられる。その腰が Vedi の Śroṇi に対応するのである。

Vedi を掘る際に生じた土くれから、Āhavanīya の北に Utkara ―― 廃棄物などを受けるのに用いられる ―― が形づくられる。

Vedi の上にはいま prokṣaṇī、すなわち撒くのに用いる水、薪、供犠の敷草が置かれ、匙が温められ清められる。

Āgnīdhra は、葦草から作った三重の紐で、結び目を作ることなく祭主の妻を巻く。彼女の前には Ājyasthālī を据えて、彼女がそれを眺めるようにする。その後で Sthālī は取り去られ、Vedi の上に置かれ、Pavitra によって清められる。それから後に匙が満たされる。

Brahman の許しを得て、薪と Barhis に水が撒かれ、この Barhis で ―― Prastara の束を選り分けたのち。この束は後に Vedi の上に置かれ、匙の下敷きとして役立つ⁹ ―― 、入念に清められた Vedi が覆われる。Āhavanīya の周りには

62. 新月供犠と満月供犠。 113

炎を集中させるために湿った Paridhi 木が置かれ、火は薪で養われる。焼き上がった Puroḍāś に膏が塗られ、Vedi の上に置かれる。

これをもって準備は終わり、第二の主要部分、すなわち供犠が始まる。

それは Samidh を据えることと、それに伴う Sāmidhenī 詩節 ―― ここでは15、他では16以上¹⁰ ―― の誦唱とをもって導入される。これらは互いに、休止が常に次の詩節の前半の終わりで初めて入るように(saṃtatam)織り合わされねばならない。

おそらく火を然るべく燃え立たせるために、ここで二つの āghāra、すなわちバターの注ぎがけ¹¹ が続く。その二つのあいだに、二つの重要な祭祀行為がその位置をもつ。

まず pravara¹² である。これは Hotṛ が Agni に向けられた定型句のうちに祭主の Ṛṣi 祖先を列挙し、それによって Yajamāna と火祭祀の古い家系との結合を打ち立てるものである。次に、Agni に乞い求める神々の名指しの招請、すなわち devatānām āvāhana であり、しかも供犠において饗される順序に従って行われる。

第二の Āghāra に続いて、Āgnīdhra の許しを得て、Adhvaryu の側からの Hotṛ の厳粛な選定が行われる。ここでも Pravara におけると同じく、祭主の祖先が挙げられ、Agni が Hotṛ としてこれらの祖先を、かつて神々を敬ったのと同じように助けんことが願われる。

Hotṛ は、Agni とその自らの Hotṛ 職に関わる種々の呪句を唱え、Adhvaryu と Āgnīdhra に触れ、再び自らの義務に関わる呪句とともに身を下ろす。

主要献供への導入をなすのが prayāja ―― ここでは五つ ―― 、すなわちバターによる前供犠である。これらは Samidh(1)、Tanūnapāt ないし Narāśaṃsa(2)、Iḍ(3)、Barhis(4)、そして Āvāhana に挙げられた供犠の神々 ―― Agni-Soma から Devā ājyapāḥ に至るまで(5)―― に捧げられる。

これらに Agni-Soma のための二つの Ājyabhāga が続く。新月には vṛdhanvantau と呼ばれる。Anuvākyā として用いられる詩節が vṛdh という語を含むからである。満月には vṛtrahaṇau と呼ばれる。そこに含まれる語 vṛtrahan のゆえである。

これらの Ājyabhāga と同じく、三つの Pradhānāhuti も Yajati 献供であり、Puronuvākyā と Yājyā の詩節を誦しつつ行われ、ここでは Puroḍāśa などの切片から成る。

バターのみでささげられる upāṃśuyāja においては、詩節と神名は低く、定型句と命令はいくらか高く誦される。

主要献供を締めくくるのが Agni Sviṣṭakṛt のための供犠である。これにはすべての Havis の贈り物から一部が用いられ、また Yājyā の呪句が唱えられて、先に敬われたすべての神々を定型句的に数え上げる。

これが供犠の食物を祭司たちに配分する時点である。

Brahman のための prāśitra ―― 大麦一粒ないし pippala の実ほどの大きさに切り取られる ―― と、Āgnīdhra のための ṣaḍavatta(「六切れ」)のほかに、iḍā を挙げるべきである。これはすべての供物から取られ、最低音から最高音の音域で、いわゆる iḍāhvāna をもって呼び招かれる。そのあいだ、すべての祭司が祭主とともにこれに触れる。

菓子が与えられ、祭司の各々が自らの分を食べ、その後で各々が自らの Iḍā の分を食べる。祖霊たちもまた喜ぶよう促される。

Dakṣiṇā が配分される。これは祭司への供犠の報酬であり、ここでは Dakṣiṇā 火にかけられた Anvāhāryamus に存する。

Pradhāna までは供犠儀式の上昇を語りうるとすれば、以下は所作の「下降」と称すべきものであり、そこでは Tantra が解かれ、残余が片づけられる。

Prayāja が導入するように、anuyāja、すなわち Barhis、Narāśaṃsa、Agni Sviṣṭakṛt のための三つのバター献供 ―― これらは Dakṣiṇā に続く ―― が締めくくる。

これに続くのが sūktavāka である。これは Hotṛ が唱える一種の頌辞であり、名を挙げて呼ばれる祭主のための祝福の願いと祈りとに流れ込み、その終わりに(祭主を代表する)Prastara が火に投げ入れられる。

続いて śaṃyuvāka が来る。これは śaṃyorsvasti を乞う願いであり、

欄外下:Indo-arische Philologie. III. 2. ―― 8

114 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

Adhvaryu と Āgnīdhra とのあいだの対話(「彼は入ったか」「はい、入った」)によって導入され、Paridhi を燃やすことを伴う。

残り滓は Viśve devāḥ に供犠され(saṃsrāvāhuti)、その後に四つの patnīsaṃyāja¹³ が、Soma、Tvaṣṭṛ、Devānāṃ patnyaḥ、Agni Gṛhapati のために、バターをもって Gārhapatya において、詩節を低く誦しつつささげられる。そのうち第三のものは覆いの背後で行われ、そのあいだ妻が Adhvaryu に触れる。

特別な願い ―― 富や子孫への願い ―― をもつ者は、ここでさらに献供を挿入することができる。

一連のより小さな献供が続く。それらは一部は、Barhis のように残余を火中に供犠するために、あるいは誤って生じたことを正すために定められている。たとえば sarvaprāyaścittayajñasamṛddhi、さらに samiṣṭayajus¹⁴ である。

Rakṣas たちもまたその分を受ける。すなわち Phalīkaraṇa から出た Kaṇa すなわち殻である。

紐は妻から解かれ、Gārhapatya の西に置かれる。

三つの viṣṇukrama ―― 祭主が、Viṣṇu の歩みを地から天へ、あるいは天から地へと模して、Vedi の南の Śroṇi から東へ歩む ―― と、Āhavanīya と Gārhapatya への礼拝、そして誓戒の放棄とをもって、所作は終わる。

この新月・満月供犠は生涯にわたって、あるいは三十年にわたってささげられる。しかし種々の変改のもとに両方の供犠を毎回まとめてささげるならば、15年に限ることもできる。日ごとにささげるならば、一年で足りることさえある。これが dākṣāyaṇa 供犠である¹⁵。

新月・満月供犠の最初の遂行に先立つのが anvārambhaṇīyā-iṣṭi である。これは Viṣṇu のための ekādaśakapāla-Puroḍāśa、Sarasvatī のための Caru、Sarasvat のための dvādaśakapāla から成り、最初の満月の日の朝、Agnyādhāna と Agnihotra ののち、独立の供犠としてささげられる。

各々の新月ないし満月供犠に続きうるのが、Aditi ないし Indra Vaimṛdha のための粥の供犠であり、これを祭主は一度ささげたなら、常に繰り返す義務を負う。

新月・満月供犠は soma をもってささげることもでき、同様に、先に記述した Haviryajña をもってささげることもできる(14 頁 2 以下;Lāṭ. 4, 9 以下)。

§§ 63. Piṇḍapitṛyajña¹

(Āp. 1, 7–10;Kāt. 4, 1;Āśv. 2, 6, 7;Śāṅkh. 4, 3–5。)

新月祭と密接に結びついているのが死者祭祀である。新月の日の午後、āhitāgni は祖霊のための供犠をささげねばならない。これは祖霊たちの領域、すなわち南の火において行われる。

ここでも、ほとんどすべての祖霊供犠におけると同じく、生者の世界と死者の世界との、神々と祖霊との対立を認識させる一定の規定が守られるべきである。

供犠の紐は、Gṛhya 儀軌におけると同じく、また祖霊が言及されるたびごとと同じく、左肩越しではなく右

63. Piṇḍapitṛyajña。64. Cāturmāsya。 115

肩越しに掛けられる。Parisamūhana のようなすべての運動と所作は apradakṣiṇam(左回りに)行われ、三度ではなく一度だけ行われる。たとえば Phalīkaraṇa がそうである。

器を据えるといった他のすべての作業が、通常は南または西に始まって東または北に終わるのに対し、ここでは北に始まり南に終わらねばならない²。同じ方角に、供犠を行う者の顔も向けられているべきである。

献供の際、手は外側を下に向ける。pitṛtīrtha、すなわち手の祖霊に聖別された部分(親指と人差し指のあいだの空間)を通して、献供が注がれる。祖霊が言及されるたびごとに水に触れる(112 頁)。

この供犠に特徴的なのが、Dakṣiṇā 火の南または西にある穴ないし畝であり、Asura と Rakṣas を追い払う呪句とともに大地に刻まれる。その前には、「種々の姿をとる Asura たち」を防ぐために、南の火から取った燃えさしが置かれる。

導入をなすのは、穀粒の粥ないし供犠のバターから成る二つの献供であり、Agni kavyavāhana と Soma pitṛmat のためのものである。

その後、祭主は亡き父祖たちに向かう。父祖たちは臨席していると考えられ、呼びかけられる。

畝の始め・中・終わりに、椀をもって(あるいは Āp. によれば Añjali をもって)水が注がれる。祖霊たちは身を洗うよう促される。

残りの米粥とバターとから三つ、ある者たちによれば四つの団子が作られ、そのあいだに darbha 草を撒いた畝の上、水が注がれたのと同じ場所に置かれる。そのたびごとに「これは汝のために、某よ、そして汝に従う者たちのために」という言葉が繰り返される。その際、父、祖父、曾祖父の名が ―― それを知っているならば ―― 挙げられる³(祭主の父がなお生きている場合には、その際に守るべき手続きについて、Sūtra のあいだに多くの見解の相違が生じている)。

父祖たちは喜ぶよう招かれる。供犠を行う者は身を背け、北に向かって、息が続かなくなるまで、あるいは(Āp. によれば)菓子が冷めるまでそうしている。

それから彼は向き直り、Piṇḍa に向かって「父祖たちが喜ばれた」という言葉をもって、Piṇḍa に水を注ぎ、膏を加え、最後に布ないし羊毛の切れ端を ―― あるいは供犠を行う者が五十歳を超えている場合には、腕または胸の毛を ―― 加え、身を洗い、膏を塗り、衣を着けるよう促す(前掲 § 57、94. 96 頁を参照)。

Āp. によれば、彼は壺に残った残余を、息子を求める父祖たちへの願いとともに嗅ぐ。

祖霊たちの Tarpaṇa に続いてその礼拝が行われる。個々の Sūtra が規定する RV 詩節のいくつかをもって、Adhvaryu は、南東を見やり、手で Piṇḍa を片づけつつ、祖霊たちを送り出す。「行け、おお父祖たちよ、汝らの古い深き道を ―― われらに富を与えよ ―― 」。

彼は Dakṣiṇa 火(Āśv.)と Gārhapatya 火とを敬う。これは天と地、父と母に対するすべての罪を解くべきものである。

祭主の妻が息子を望むならば、彼女は父祖たちに胎児を乞う呪句とともに、中央の団子を食べる。他のものは水中または火中に投じられるが、一定の人々によって食されることもできる。

§§ 64. Cāturmāsya(四か月祭)

(Āp. 8;Kāt. 5;Vait. 8, 8 以下;Āśv. 2, 15–20;Śāṅkh. 3, 13–18¹。)

これは三つの季節の祝祭である。Āp. 8, 4, 13 によれば、春に Vaiśvadeva 供犠が、雨季に Varuṇapraghāsa 供犠が、秋に Sākamedha 供犠が行われる。Kāt. への注釈が引用するある Śākhā によれば² 「常に各季節の初めに」行われる。

選ぶべき開始日についての見解は揺れている³。Jacobi が示したように⁴、それは年を秋から始めるか、冬から始めるか、雨季から始めるか

欄外下:8*

116 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

に応じて異なる。

季節への関係は、供犠の内部で個々の呪句のうちに現れる。たとえば Āp. 8, 4, 2;8, 21(yad gharmaḥ paryavartayad antān pṛthivyāḥ divaḥ);19, 9(yo asyāḥ pṛthivyās tvaci nivartayaty oṣadhīḥ);21, 1。また Parvan と結びついた厳粛な断髪に際して、また月名(madhu-mādhavanabhas-nabhasya など)と結びついた Abhijuhoti 献供に際して(Āp. 8, 2, 18;7, 2;12, 5;20, 8)、さらに Sūktavāka において ―― そこでは svasti の形容辞 saṃvatsarīṇaparivatsarīṇaidāvatsarīṇaanuvatsarīṇa が交替する ―― 現れる。

この供犠を初めてささげようとする者は、Agni Vaiśvānara と Parjanya にささげる一つの Iṣṭi、あるいは Anvārambhaṇīyeṣṭi をもって始める。

Kāt. においても Āp. においても、これらの供犠のあらゆる本質的要素が回帰するが、ただし同じ順序を保ってはいない。

すべての Cāturmāsya に共通なのは、Agni、Soma、Savitṛ、Sarasvatī、Pūṣan のための五つの導入献供である(Savitṛ のためには低く唱えつつささげるべき Puroḍāśa、Pūṣan のためには挽いた米粒の粥)。

Cāturmāsya の第一のものである Vaiśvadeva においては、これに続いて Marut Svatavas たちのための、あるいは Marut たちのみのための Puroḍāśa、Viśve devāḥ のための Pāyasyā、そして天と地のための Puroḍāśa が来る。

祭主と妻は新しい衣を着け、これは Varuṇapraghāsa 祭に際して再び着けるべきものである。

強調すべきは Kāt. の規定であり、それによれば供犠の敷草には kuśa の花が Prastara として結びつけられる。Āp. 8, 1, 10 によれば、供犠の敷草そのものも prasū から成り、薪は花咲く枝をもつ樹から取るべきである。

Agnimanthana とそれに続く火の儀式のための詩節は、Ś. 3, 13, 15 がより詳しく与えている。

Cāturmāsya を Phālguna に始める者は、その第二のものを Āṣāḍha 月の満月に祝う。Caitra に始める者は Śrāvaṇa に祝う。Āśv. 2, 17, 1 は「第五の満月」とのみ述べる。ここで注目すべきは、新月ではなく満月が時期を分けるということである。

Varuṇapraghāsāḥ」と呼ばれるこの第二の Cāturmāsya は、民衆的な祭を指し示す特徴を複数もっている。

挽いた生の穀粒から、妻は(Āp.)Karambha の椀を作る。しかもそれは、家にいる祭主の家族の人数より一つ多く、あるいは(一定の場合には)四つだけ作る。

これにも、他のすべての献供にも Yava が用いられる。あるいは Karambhapātra と Pūṣan の Caru とに Yava を用い、その他すべてには米を用いる(Āp.)。

この供犠の特徴をなすのが牡羊の対である。Varuṇa のためには牡山羊で、これは Adhvaryu が作り、Marut たちのためには羊で、これはここで職能に入る Pratiprasthātṛ が作る。

Pratiprasthātṛ には、二つの Vedi を用意したのち、南の Vedi において Marut たちのために、北の Vedi で Adhvaryu が行うすべてを模倣することが課される。ただし Adhvaryu は一定の事柄、たとえば Patnīsaṃnahana(Kāt. 5, 4, 33;Āp. 8, 5, 17 以下)を単独で遂行し、命令などを単独で唱える。

かの牡羊の対は、Eḍaka 羊のものであってはならない羊毛で覆われ、性徴(睾丸ないし乳房)を、Mānava によれば「できるかぎり多く」付けられる。

Āhavanīya 火の前に二つの Vedi が作られ、一つは北に、一つは南に、両者のあいだには種々に指定された幅の間隔が置かれる。

前者の上に Uttaravedi が盛られる。これは火の場所であり、供犠の穴を掘る際に得た土くれから作られ、Śamyā の大きさ、あるいは Vedi の三分の一、あるいは Yuga などの大きさをもつ。その中央には窪み、すなわち uttaranābhi⁵ が来る。これは一 Spanne、Āp. によれば(Kāt. では)牛または馬の蹄ほどの大きさである。

この Uttaravedi は、供犠の日へと移り渡る夜のあいだ、(darbha 草あるいは枝で)覆われたままである。

翌朝、両方の Vedi に火が据えられる。Āp. によれば Gārhapatya から(8, 5, 22)、Kāt.(注釈)によれば Āhavanīya から、あるいは Āhavanīya を二つに分けることによる。

こうして持ち出された二つの火に続いて

64. Cāturmāsya。 117

Pratiprasthātṛ が続く。彼は Sphya をもって、Āhavanīya から Vedi の Śroṇi まで、あるいは Uttaravedi まで一本の線を引く。

Nābhi は devadāru 材の Paridhi で縁取られ、芳香を放つ物質と、牡羊の毛 ―― 可能なかぎり頭の両角のあいだの箇所から取るべきもの ―― とで覆われる。

恒常的な五つの Havis のほかに、供犠は次のものから成る。Indra-Agni のための十二 Kapāla の Puroḍāśa、Varuṇa のための Payasyā ―― これは Adhvaryu がささげる ―― 、Marut たちのためのもの ―― これは Pratiprasthātṛ が供犠する ―― 、そして Ka のための、一つの Kapāla に載せた「静かな」Puroḍāśa である。

Kāt. 5, 5, 1 以下は、乳の献供に乳漿を注ぎ入れさせ、そのなかに śamī の葉を混ぜた karīra の実を入れさせ(Āp. 8, 6, 13 が引く śruti の一句によれば、それらは牡羊の「飼料」である)、その上に牡羊の対を、すなわち牡山羊を Marut たちの献供のなかに、羊を Varuṇa のためのそれのなかに入れさせる。

すべての Havis の贈り物は北の Vedi の上に来る。ただし Mārutī Payasyā と Karambha の椀は例外で、これらは南の Vedi にその場所を見いだす。

Agnisammārjana の命令とその遂行とのあいだに、祭主の妻は告白しなければならない。Pratiprasthātṛ は Gārhapatya の近くへ行き、彼女に、いかなる男とともに生きているか、あるいは夫のほかになお別の男とともに生きているかを問う。彼女は情夫の名ないし数を挙げるか(注釈)、あるいは何らかの理由(たとえば羞恥)からそれを言おうとしない場合には、情夫の数だけの草の茎を持ち上げる。

Mānava と Kāṭh. によれば、彼は彼女が名を挙げた者を「Varuṇa が捕らえんことを」と願う。彼女が偽りを言えば、それは彼女の親族にとっての不幸となるか(Kāt.)、あるいは彼女の最も愛する者が死ぬ(Mān.)。(情夫がいない場合には、彼女は「わが夫のほかには誰とも」と答える。注釈。)

Marut たちを呼んだのち、彼女は犯したすべての罪の除去を願いつつ、Dakṣiṇa 火において、顔を西に向けて Karambha の椀を供犠する。その椀を彼女はこの目的のために葦で編んだ箕に入れ、頭に載せる。

夫はこれに一つの呪句をもって加わるか、あるいは自ら共に供犠する。

Adhvaryu と Pratiprasthātṛ は牡羊を交換してささげる。Āp. によれば、後者は Mārutī Payasyā の第一の切片とともに羊を、第二の切片とともに karīra の実を取り、Adhvaryu は Vāruṇī Payasyā の第一の切片とともに牡山羊を、第二の切片とともに karīra を取る。

殻は soma における搾り滓と同じように扱われる(Āp. 8, 7, 15;8, 12)。

Varuṇa の献供の残余(niṣkāsa)をもって Varuṇa に供犠され、Agni Sviṣṭakṛt に代えて Agni-Varuṇa のための一献供が入る。

供犠全体の締めくくりをなすのは、soma 供犠におけると同じく沐浴である(Āp. 8, 7, 12;Ś. 3, 14, 19)。男と女は水に入るが、潜りはしない。互いの背を洗い、新しい衣を着け、古い衣 ―― すでに Vaiśvadeva に際して用いたもの ―― を一人の祭司に贈る。

Dakṣiṇā は Kāt. によれば仔牛つきの牝牛(Āp. はこれを「ある者たちの」意見と呼ぶ)、あるいは馬一頭、あるいは牛六頭ないし十二頭であり、Āp. によれば牡牛一頭またはそれ以上である。

第三の ParvanSākamedha 供犠であり、これは Kārttikī あるいは Mārgaśīrṣī ないし Pauṣī に祝われる。その名がどこから来るかは明らかでないが、Āp. 8, 9, 2. 3;11, 22(sākaṃ sūryeṇodyatā sākaṃ vā raśmibhiḥ pracaranti)を説明の可能な出発点として指摘しておくべきである。

これに充てるべき二日のうち第一日の午前に、Agni anīkavat のために Puroḍāśa が、正午に Marut sāntapana のために Caru が、夕に Marut gṛhamedhin のために乳で煮た Caru が供犠される。

この最後の献供の終わりに、彼は母牛を仔牛とともに一緒にし、自らの仔牛を失った一頭の牝牛 ―― 翌日の祖霊供犠のために搾るべきもの ―― に、その代用の仔牛を繋ぐ。

Āp. 8, 11, 10 によれば、夜のあいだ人々は十分に飽食して共に留まり、朝早く、Agnihotra の前に Darvihoma が行われる。これには一頭の牡牛が咆哮によって「促し」を与えねばならない。

118 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

牡牛が咆哮しない場合には、Brahman が供犠の命令を下す。Āśv. 2, 18, 11 によれば雷鳴の轟きも促しとして通用する。「ある者たちは Āgnīdhra に、彼を『バラモンの子よ!』と呼びかけて咆哮させる」(12)。

続く献供の神格は Marutaḥ krīḍinaḥ、Aditi である。これに mahāhavis が続く。これは恒常的な五つの供犠のほかに、Indra-Agni のための Puroḍāśa、Mahendra のための Caru、「ある者たち」によれば(Āp. 8, 12, 3)Indra Vṛtrahan のための ―― Āśv. 2, 18, 18 では Indra Vṛtrahan、Indra あるいは Mahendra のための ―― Caru、最後に Viśvakarman のための Puroḍāśa から成る。

午後には pitṛyajña、別名 mahāpitṛyajña が行われる。その受け手は Pitaraḥ somavantaḥ ないし Soma pitṛmat、Pitaraḥ barhiṣadaḥ、そして P. agniṣvāttāḥ であり、これにある者たちはなお Yama、Yama aṅgirasvat を加える。

Kāt. は P. somavantaḥ に Puroḍāśa をささげさせ、barhiṣadaḥ に Dhānāḥ を、agniṣvāttāḥ に Mantha ―― 上述のあの nivānyā 牝牛の乳のなかで一度かき混ぜて作ったもの ―― をささげさせる。

供犠は Dakṣiṇa 火の南に建てた小屋のなかで行われる。その中央には、四隅を中間方位に向けた Vedi が整えられ、その上に南の火が据えられる。

献供に際しては、oṃ śrāvayaastu śrauṣaṭvauṣaṭ などの呼び声に代えて、祖霊にふさわしい oṃ svadhāastu svadhāsvadhā namaḥ が入りうる(Ś. 3, 16, 15 をも参照)。

献供の締めくくりをなすのは、Sviṣṭakṛt に代えて Agni kavyavāhana のための供犠である。

以前と同じく、祖霊のために「洗い水」が注ぎ出され、食物として団子が Vedi の東・南・西の隅に置かれる。その際 Āp. によれば、最も近い祖霊ではなく「より遠い」(para)祖霊が挙げられる。すなわち第一の Piṇḍa には第六代が、第二には第五代が、第三には第四代が挙げられる。

北東側で彼は「ここで、おお父祖たちよ、喜べ」という呪句とともに手を拭い、一同は供犠の紐を左肩に掛けて小屋を去り、まず Indra への一つないし二つの詩節をもって Āhavanīya 火を敬い、Āp. によれば息が続かなくなるまでそうし、それから Gārhapatya に歩み寄る。Sūtra は呪句の選択においていくらか異なる。

その後、彼らは再び紐を右に掛けて小屋に戻り、祭主は「祖霊たちは喜ばれた」とささやき、祖霊の礼拝のために Añjali を、あるいは六度の Namaskāra を行う。

供犠のその後の経過は関心を引かない。

Sākamedha のさらなる構成部分をなすのが、Rudra にささげられる Traiyambakahoma である。その一つの特徴は、すべてを北に顔を向けて行うべきこと、供犠が行われる十字路、Ākhūtkara〔=モグラ塚〕などが北になければならないという規定である。

Rudra のために菓子が用意される。祭主の家族の成員の数より一つ多く、しかし少なくとも四つである。それらは一つの器に、Āp. によれば一つ、二つあるいはそれ以上の籠に入れられる。

南の火から燃えさしが取られて十字路に置かれ、そこで供犠の火として役立つ。そのなかへ、ほとんどすべての菓子の切片が、次の呪句を用いて palāśaparṇena〔palāśa の葉をもって〕ささげられる。「これは汝の分なり、おお Rudra よ。姉妹 Ambikā とともにこれを享けよ! svāhā!」

一つの菓子は、北にあるモグラ塚に、次の呪句とともに投げられる。「これは汝の分なり。モグラは汝の獣なり、おお Rudra よ!」(Āp. はいくらか異なり、十字路の火を設ける前に一つの菓子をモグラ塚の上に置かせる。)モグラに代えて、呪句のなかで自らの敵の名を挙げることもできる。

モグラ塚から戻ったのち、関与するすべての者、すなわち祭主、Brahman、Adhvaryu、Āgnīdhra が次の言葉をささやく。「われらは Rudra を、Tryambaka 神を遠ざけ願う ――」。

祖霊供犠の仕方にならって、彼らは右から左へ三度火をめぐり、左の腿を打ちつつ、「芳香を放つ者、食を増す者」たる Rudra に乞い願う。ついで三度、神々の仕方で(左から右へ)、右の腿を

64. Cāturmāsya。65. Āgrayaṇa。 119

打ちつつめぐる。

同じ仕方で、祭主の未婚の娘たちは、「芳香を放つ者、夫を授ける者」たる Rudra に祈りつつ、火を右から左へ、また左から右へとめぐる。

Rudra の菓子から残ったものを、祭主は手で高く ―― 「牛が届かないほど高く」―― 投げ上げ、落ちてくるところを再び受け止める。それに失敗した場合には、落ちたのちにそれに触れる。(いくらか異なって Āp. 8, 18, 4 は、火をめぐるすべての者が三度菓子を高く投げ上げ、再び受け止め、火をめぐる際に用いた呪句「Tryambaka をわれらは敬う」とともに祭主の手に投げ、そのたびごとに再び受け取るよう規定している。)

これらの菓子はついで二つの籠に入れられ、竹の棒あるいは担い棒に取り付けられ、北にある切り株、樹、蟻塚などに、牛が届かないほど高く吊るされる。その際の呪句は「これは、おお Rudra よ、汝の旅の糧なり。これをもって Mūjavat たちの彼方へ行け。弓を緩め、棍棒を携え、毛皮をまとって、われらを害することなく、われらに好意をもって過ぎ行け」である。Āp. によれば、これを三度唱え、そのたびごとに末尾で息を止めるべきである。

所作の参加者たちはついで、振り返ることなくその切り株から戻り、水に触れる。Dakṣiṇā は Āp. によれば白い馬、あるいは牡牛 ―― まったく白いか、白い斑のあるもの ―― である。

Sākamedha の直後、あるいは種々に指定された間隔をおいて(Āśv. 2, 20, 1 は第五の満月を言う)、満月供犠の規則に従う Śunāsīrīya 供犠⁶ が行われる。

これに固有の献供は、Sunāsīrau のための十二 Kapāla の Puroḍāśa(Āp. によれば Indra Śunāsīrīya のための十二 K.)、Vāyu のための通常の搾りたての乳の献供あるいは Yavāgū、そして Sūrya のための一 Kapāla の Puroḍāśa である。

この供犠の Dakṣiṇā は、六頭あるいは十二頭の牽き獣を繋いだ犂、あるいは二頭の牽き獣から成る。Sūrya への ekakapāla に対しては、白い馬、場合によっては白い牛が供犠の報酬である。

Kaṭha 派は Cāturmāsya をささげる特別な仕方、すなわち pañcāhikāni を知っている。これは Phālguna 月の白半の第十一日から満月の日まで、相継ぐ五日にわたって供犠されるもので、第十一日の Vaiśvadeva に始まり、満月の日の Śunāsīrīya に終わる(Kāt. への Paddhati 553 頁)。

Āp. 8, 22, 9 以下は pañcasāṃvatsarikāṇipañcadaśavārṣikāṇi を挙げる。これらは純粋に祭司的な性格の変改である。

なおここで、Cāturmāsya の遂行に結びつけられるいくつかの願いを強調しておこう(Āp. 8, 22, 2 以下)。家畜を望む者は、牝牛が最も多く乳を出す季節に Vaiśvadevacāturmāsya をもって供犠すべきである。grāmakāma は Śunāsīrīya を選び、それを雨水のある場所にささげ、そこから供犠の所作のためのすべての水を汲む、等々。

動物供犠および soma 供犠と、季節祭の遂行とを結びつけることもできる(Kāt. 5, 11, 20;22, 7, 1 以下;Ś. 14, 6 以下;Āśv. 9, 2)。後者の場合には、これらの Cāturmāsya の日々が合わさって一つの pṛṣṭhya ṣaḍaha をなし、その六日は三つの節目の日に、Vaiśvadeva に一日、Varuṇapraghāsa に二日、Sākamedha に三つの soma 日が当たるように配分される。

§§ 65. Āgrayaṇa(初穂供犠)¹

(Āp. 6, 29, 2 以下;Kāt. 4, 6;Vait. 8, 4;Āśv. 2, 9;Ś. 3, 12。前掲 § 54, e. 2 を見よ。)

Gṛhya 儀軌において家長が自らの畑の

120 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

初穂を供犠するのと同じく、āhitāgni もまた、Āgrayaṇa をもって供犠することなしに新しい実りを食してはならない。したがってこれは本来の感謝の供犠と見なすべきものである²。

それは 1)米(秋に。Āśv. によれば「雨が豊かに降ったとき」)と大麦(春に。Āp. 6, 30, 18 の注釈では Auḍulomi によって Yavāgrayaṇa が斥けられている)から成り、2)黍(秋または雨季に)から、3)竹の実(夏に)から成る。

後の二つは、見たところあまり用いられない。黍の供犠を Kāt. は森に住まう者のために規定している(注釈)。Veṇuyaveṣṭi はそもそもすべての者が言及しているわけではない。

米ないし大麦の初穂供犠の神々は Indrāgnī(Āp.、Śāṅkh. によれば Indrāgnī または Agnīndra)であり、これらが新しい実りから十一 Kapāla の Puroḍāśa を受ける。また Viśve devāḥ ―― これらには粥が低く唱えつつささげられる ―― 、そして天と地(一 Kapāla の Puroḍāśa)である。他の二つの供犠の神は Soma であるが、しかし第四のものに関しては異なる見解もある。

Dakṣiṇā として規定されているのは、Yava-Āgrayaṇa と Vrīhi-Āgrayaṇa においてはその年に生まれた最初の仔牛、黍と竹の供犠においては一着の衣あるいは修繕した車、また Madhuparka あるいは祭主が雨季に着ていた衣である(最も完全なのは Kāt. 18)。

この最も通常の形の供犠に代えて、他のより簡素な形をとることもできる。すなわち新月・満月供犠の遂行、あるいは Agnihotra を朝夕に新しい実りをもって行うことである。あるいは牝牛に大麦ないし米の束を食わせ、その乳をもって Agnihotra を供犠する、等々。これらの変改を選ぶ特別な理由を Kāt. が挙げている。

§§ 66. Kāmyeṣṭi(所願の祭)

定期的に回帰する供犠(nitya)のほかに、儀軌は、特別な機縁と出来事に際して ―― たとえば息子の誕生に際して ―― ささげられるもの、すなわち naimittika と、特別な願いがその原因をなす kāmya とを知っている。これらはきわめて数が多い。

Bhandarkar¹ は Hiraṇyakeśin の儀軌に従う一写本を挙げており、それは 134 のそのような Iṣṭi を知っている。

Śāṅkh. にはたとえば、不和になった親族がささげる和解の Iṣṭi(3, 6, 1)、友人を、あるいはまた Śrī、Rāṣṭra、Āyus を望む者のための「友獲得」(mitravindā、Kāt. 5, 12. 13;Āśv. 2, 11;Ś. 3, 7)がある。

そのような Iṣṭi の一連を Āśv. 2, 10, 1 以下が挙げている。たとえば putrakāmeṣṭi²、pavitreṣṭilokeṣṭi、誰かを従わせるための「嫁の Iṣṭi と舅の Iṣṭi」、雨を望むときの kārīrīṣṭi である。

惜しむらくは紙幅が足りず、また資料もまだ十分に整理されていないため、これら個々の Iṣṭi ―― その Prakṛti より興味深いもの ―― に立ち入ることができない。

雨乞いの呪術として現れるのが、たとえば最後に挙げた Iṣṭi である。黒い馬が東に、西を向いて立てられる。祭主は黒い衣でそれを擦り、いななかせる(abhihiṃsayaty abhikrandayati)。それがいななき、身を震わせ、糞または尿をしたなら、雨が降ることを知るべきである(Hir. 22, 13)。同じことを彼は、Utkara の上で水を満たした黒い素焼きの壺が割れることからも認識すべきである(Hir. 22, 14;Taitt. S. II, 509 頁)。

Kāmya としては Darśapūrṇamāsāyana をも用いることができる。すなわち新月・満月供犠の仕方による「遂行」であり、たとえば VasiṣṭhayajñaTurāyaṇaMunyayana³ がそれであって、これらは所願供犠である場合には各々一年続く⁴。

66. Kāmyeṣṭi。67. Paśvālambha、paśubandha。 121

§§ 67. Paśvālambha、paśubandha、動物供犠¹

(Āp. 7;11, 16(Soma);Kāt. 6;Vait. 10;Āśv. 3, 1–8;4, 11. 12;Ś. 5, 15 以下(soma 供犠に際して);6, 1, 18 以下。)

Sūtra は独立の動物供犠、すなわち nirūḍhapaśubandha と、soma 供犠に結びついた agnīṣomīya ―― Āśv. 3, 8, 3 では nirmita ないし saumya と呼ばれる ―― とを知っている。

Agnīṣomīya は理論上は他のすべての基本形であるが、実際には複数の Sūtra が動物供犠の規則を Nirūḍhapaśubandha において展開している²。

āhitāgni は、これをもって供犠する前に肉を食べてはならず(Ś. 2, 3, 26)、生涯にわたってこれをささげねばならない³。

それは年ごとに、あるいは半年ごとに行われうる。後者の場合には Ś. によれば Udagayana の初めと終わりに行われる。これに対し年ごとの供犠の場合には雨季に、秋に、あるいは春に行われる ―― 見解は揺れている⁴。

祭司の数は Maitrāvaruṇa の person が加わって増える。彼は供犠の場に入るとき(Hotṛ の選定ののち)一本の杖を受け取り、これを供犠の終わり近くまで携える。Hotṛ に Yājyā の朗誦を促す Praiṣa を唱える前に、彼は自らも他人もそれに触れてはならない(Schwab 88)。

一般に動物供犠は新月供犠の範型に従って進む。その Tantra においては Sāṃnāyya に代えてこれが入り、当然ながら一連の変更と付加とを呼び起こす。

Indra-Agni あるいは Sūrya あるいは Prajāpati のために牡山羊が供犠される。これは一連の精密に規定された性質をそなえていなければならず、とりわけ一定の欠陥 ―― 角や目の欠損など ―― がないものでなければならない。

これらの Nirūḍhapaśubandha 以外の場合には、われわれは他の神々と獣を見いだす。とりわけ牛と羊であり、Agnicayana、Aśva-、Puruṣamedha においてはきわめて多数かつ多様であって、そこでは飼い慣らされた獣と野生の獣とが数百も用いられる。

獣の種類と色もまた、時としてそれが供犠される神格の性格に依存する⁴。たとえば Sūrya のためには白い獣が、Bṛhaspati のためには一部明るい色の獣が、Indra のためには力強い獣が選ばれる。Mitra-Varuṇa のための anubandhyā 牝牛は二歳、Viśvedevāḥ のためのそれは多色、Bṛhaspati のためのそれは赤い。

Nirṛti には MSaṃh. III, 14, 19 が鳩、梟、兎を割り当て、Rakṣas たちには 14, 21 が tarakṣuśvan kṛṣṇakarṇa gardabha を割り当てる。

また別の獣は amedhya と呼ばれる⁵。たとえば Śat. Br. 12, 4, 1, 4 では durvarāhaeḍakaśvan である。

Nirūḍhapaśu⁶ は二日を含む。すなわち導入の儀式が本質的に片づけられる upavasatha と、本来の供犠の日である。あるいは一日に限ることもできる。

最初の所作の一つは供犠柱の作製である。そのために森のなかで、可能であれば palāśa 樹を選ぶ。それは種々の性質をそなえていなければならない。

共同で選び出した幹に、Adhvaryu と祭主とはその礼拝をささげ、下部に膏を塗り、切り倒させる。しかもその残った切り株を車の車軸が越えられないような仕方で行う(Schwab 5)。

その際に跳ね飛ぶ最初の削片は取っておかれ、Yūpa を据えるときに穴の底に投げ入れられる。この樹木崇拝の一片は、一つのバター献供をもって締めくくられる。それは「森の主が百の枝をもって再び生い育たんことを」という願いとともに、切り株に注がれる。

大工が枝と幹の上部を切り落とし、残った、Nirūḍhapaśu においては 3–4 Aratni の長さの杭を(他の供犠では別の規定が妥当する)、四角ないし八角に、上部が枘に終わるように削る。切り落としたあの部分から、彼は Yūpa の角の上にちょうど合う頭部(caṣāla)を作る。

供犠柱は後に、半ば Vedi の内側、半ば外側にある穴のなかに⁷、大麦水を撒かれて立てられる。

Yūpa には一本の綱が、その中央、あるいは祭主の臍の高さに巻かれ、祭主を害することなしには上へも下へもずらしてはならない。

122 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

しかし祭主が雨を少なく、あるいは多く望むならば、それをずっと下に、あるいはずっと上に付けることもできる。

端を結び留めることさえ意味をもつ。というのは、それが垂れ下がっていることは、Yajamāna にとって女の子孫のみを意味することになるからである(73 頁)。

綱の中ほどの位置には、2–4 Aṅgula の長さの削片、いわゆる svaru が差し込まれる。これは彼が先に Yūpa を作る際の削り屑から取っておいたものである(11. 74)。

paśukī vediḥ は、新月・満月供犠の Vedi のように火の西にあるのではなく、東にあり、Varuṇapraghāsa で用いられるいわゆる uttarā vedi の大きさをもつ。

その東の三分の一に、Cātvāla を掘る際に得た土から Uttaravedi「高い祭壇」が整えられ、その上に、Varuṇapraghāsa におけると同じく、火を受けるための Uttaranābhi⁸ が作られる。「Uttaravedi の火は動物供犠において Āhavanīya の位置を占め、この Āhavanīya は Gārhapatya の位置を占める」(37)。

動物供犠の特殊性は、新月・満月供犠には無縁の一連の器具を必要とする。Maitrāvaruṇa のための杖のほかに、とりわけ vapāśrapaṇī(そこで網が焼かれる)と、心臓を炙るのに用いる hṛdayaśūla とを挙げるべきである。

すべての祭具を整えたのち、獣は芳香を放つ水で洗われ、引いて来られる。それが恐れから鳴いたり、逃げようとしたり、その他の不都合を起こしたりした場合には、贖罪としてバター献供をささげねばならない。

Agnimanthana ののち、獣は綱で縛られるべきである。その綱は左の前足から首を通って左の角に巻かれ、杭に結びつけられる。そして水を撒かれ、最後にもう一度水を飲ませられる。

新月・満月供犠と同じく、Sāmidhenī、Hotṛpravara、Devatāvāhana、Āghāra、そして祭司の Pravara が続き、本来の供犠が始まる。

それは 11 の Prayāja によって導入される。これに対して、17 頁 16 に言及した学派の相違をもつ Āprī 歌が Yājyā を提供する⁹。

強調すべきは、祭主が唱えるべき Anumantraṇa のうちに季節への言及が見いだされることである。春を彼は Samidhprayāja に際して「元気づけ」、夏を Tanūnapāt ないし Narāśaṃsa のためのものに際して、雨季を Agni idaḥ のための第三のものに際して、というように。

第10の Prayāja ののち、Svaru と、両刃の刀の片面とがバターに浸される。その刀は屠り手に渡されるが、彼は聖別されていない刃でのみ獣を解体してよい。聖別された刃は Adhvaryu が供犠の部分を切り取るのに用いる。

Āgnīdhra は燃えさしを取り、Maitrāvaruṇa の朗誦のもとに、獣と屠りの火の場所などの周りを三度 paryagnikaraṇa を行う。

同じ時に apūyaspenden〔= Apyāya の献供〕も行われる。これはそれに伴う詩節からすると、神々のもとへ赴く獣に関わる。

もとの Gārhapatya から若干の炭が Śamitṛ 火の場所に置かれる。

paśusaṃjñapana、すなわち獣を窒息させることへの導入として、Adhvaryu は Maitrāvaruṇa を介して Hotṛ に Adhrigu の命令を下す。すなわち、古い、厳粛な、Avasāna に分けて唱えるべき屠りの定型句の朗誦であり、それは「神的および人間的な屠り手」に、「捉えよ、供犠獣を供犠場の門の前へ運べ」「一片として皮を剥ぎ取れ」等と促すものである¹⁰。

Āgnīdhra は再び燃えさしを取り、それを屠りの火の場所、すなわち供犠場の外に置く。その後から獣が引かれ、それに Pratiprasthātṛ、Adhvaryu、Yajamāna が続く。Kāt. によれば「pipīlikavat(蟻のように)」¹¹ 行進する。

Pratiprasthātṛ は炙り串で獣に触れ、Adhvaryu が Pr. をつかみ、Yaj. が Adhv. をつかむ。それによって呪力が供犠獣から祭司へ、祭司を通じて祭主へと移るのである¹²。

この箇所で Vait. 10, 17 は pramucyamānahoma を挿入している。

ついで獣は頭を西に、足を北に向けて置かれ、屠り手たちによって窒息させられるか、あるいは

67. Paśvālambha、paśubandha。 123

絞め縄で絞め殺される¹³。そのあいだ他のすべての者は身を背け、供犠場へ戻る。

死の前には、若干の定型句を除いて何も語ってはならない。屠り手からその死が告げられるとただちに、saṃjñaptahoma が続き、綱が解かれ、妻が呼ばれる。

自らの敵を滅ぼそうとする者は、その綱を枯れた切り株ないし草束の上に置き、これを呪う(Schwab 108)。

斃れた獣の口、鼻などに、Adhvaryu ないし祭主の妻が水を注ぎ、二人のうち他方が当該の肢体を洗う。

まず慎重に Vapā(網膜)が切り出され、Ekaśūla に掛けられる。最初の切り口から流れ出る血に、人は一本の草の切れ端を浸し、敵を最も深い闇へと呪いつつ、北西あるいは南西へ投げる(Schwab 112)。

屠りの火で温められた網膜は Uttaravedi へ運ばれ、そこで Pratiprasthātṛ が串の上でさらに炙り、Adhvaryu がその上にバター献供を注ぐ。滴り落ちる脂に Maitrāvaruṇa が Ṛgveda の詩節を伴わせる。

焼き上がった網膜は、Pañcahotṛ の定型句を唱えつつ Vedi の上にその場所を得る。

第11の Prayāja が続き、場合によっては二つの Ājyabhāga と、Vapā 全体の献供とが続き、これに金片とバターの注ぎがけが加えられる(Vapā、Puroḍāśa、Havis は Āśv. 3, 4, 4 によれば paśoḥ pradānāni である)。炙り串もまた火に投じるべきである。

この Vapāhoma の終わりに、複数の Sūtra においては祭司たちあるいは他のバラモンに Dakṣiṇā が配分される。すなわち三頭の乳牛あるいは三頭の孕んだ牝牛などである(Schwab 122)。

次の行為は、米から作る Paśupuroḍāśa の triṣphalīkaraṇa に至るまでの調製であり、その後で paśūllasana〔獣の解体〕が Adhrigu の定型句の指示に従って行われる。

大多数の Sūtra によれば、獣の18の部分が供犠に適するものと見なされる。心臓、舌、胸肉などであり、そのうち最初の八つが daivatāni として通用する¹⁴。

hṛdayaśūla で特別に炙られる心臓を除いて、それらは一つの鍋で煮られる。胃と排泄物、それに悪鬼たちのための血は、Śamitṛ 火の西、供犠場の外の穴のなかに、その取り分として入れられる。

Puroḍāśa 供犠がいまやその続きを進める。屠り手が三度、肉が「煮えた」と告げるとただちに、Adhvaryu はそれらの部分を心臓もろとも取り、バターを注ぎかけて Vedi の上に置き、それに肉汁の入った鍋を添える。

Maitrāvaruṇa が「切り取られるべき供犠の食物のために Manotā」を招くあいだ、祭司は daivatāni から、聖別された刀の刃で、親指の一節ほどの大きさの切片を切り取る。

Iḍā が用意され、煮汁の上に浮かぶ脂が vasāhomahavanī に汲み取られる(141 頁)。すべては精密に、細部に至るまで規律された仕方で行われる。

ついで主要献供の遂行が始まる。Maitrāvaruṇa が Anuvākyā を朗誦し¹⁵、Adhvaryu の促しにより Hotṛ に Yājyā を唱える命令を与える。その朗誦のあいだ、Pratiprasthātṛ は Vasā の大部分を、一つの呪句を誦しつつ火に注ぐ。

残余はやがて、あるいは後の機会に四つの方位に向けて撒かれる。

Hotṛ の Vauṣaṭ の呼び声が響くとただちに、Adhvaryu は Juhū をもって Indra-Agni のための献供を火に注ぐ。

Vanaspati すなわち paśusviṣṭakṛt のための pṛṣadājya 供犠が続く。これには tryaṅgāni と呼ばれる部分(左の後臀部から、右前足の上腿から、そして肛門の一部から)が属する。次いで Iḍā を食すること ―― 獣の分け前を祭司、祭主などに配ることを伴う ―― 、そして 11 の Anuyāja、すなわち「供犠の敷草」「神々の門」などへの後供犠が続く。

各 Anuyāja には upayāja¹⁶ が結びついており、その際 Pratiprasthātṛ は常に、残った guda の一片を添えて供犠する。(いくらか異なるのは Kāt.)

Svaru は火に投げ込まれる。その煙は

124 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

天空へ、その炎は空中へ入り、その灰は大地を満たすべきものとされる。

Prastara と Maitrāvaruṇa の杖もまた火へと向かう。Prastara からあらかじめ抜き取っておいた一本の茎は、Sūktavāka の朗誦ののち、敵に対する呪いとともに投げ入れられ、Āgnīdhra は三度、燃える茎を人差し指で指し示す(158 頁)。

Patnīsaṃyāja には獣の尾が用いられる。心臓の炙り串は、祭主・その妻・祭司たちの面前で、水を満たした穴あるいは類似の場所(水たまりなど)の縁に、敵を呪う詩節と、Varuṇa に罪の赦しを乞う詩節とを唱えつつ隠される。

串に触れることなく彼らは帰り、各人が途中で三本の枯れ枝を取って、Uttaravedi の火に入れる(163)。

新月・満月供犠と同じく、儀式は Saṃsthājapa をもって終わる。

これらの定期的な動物供犠のほかに、一定の原因ないし願いによって引き起こされる naimittikakāmya とがある(Taitt. Saṃh. II, 1, 1 以下;Taitt. Br. 2, 8, 1 以下などが示すとおり)。これらは bhūtigrāmaprajā などを得るために、Vāyu その他の神々にささげられる。

§2. Somasaṃsthā とその他の供犠

§§ 68. Agniṣṭoma¹

(Āp. 10–13[14, 8–12 Brahman];Kāt. 7–10[11, 1 brahmatva];Vait. 11–24;Āśv. 4. 5. 6. 11–14;Ś. 5–8. 14[15 Brahman;16 以下 Nivid];Lāṭ. 1, 2;5, 5 以下。以下の叙述は本質的に Āpastamba に依拠する。)

「soma 供犠」の名のもとに理解されるのは、種々の名をもち、期間も一様でない多数の供犠である。

そのすべての基本形をなすのが Agniṣṭoma ないし Jyotiragniṣṭoma であり、これは ekāha であって、儀礼テクストに列挙される七つの Somasaṃsthā の第一のものである(前掲 41 頁)。ekāha をもって指すのは、朝・昼・夕に行われる一日の soma 搾りをもつ供犠であるが、その導入の儀式は複数日にわたって及ぶ。

Agniṣṭoma がその名を得たのは、想定されるように²、その日の第12すなわち最後の Śastra、すなわち Agnimārutaśastra に先行する Sāman ないし歌(yajñāyajñīya SV. 2, 53. 54;RV 6, 48, 1. 2)からであり、それはまた agniṣṭomasaṃsthaḥ kratuḥ とも呼ばれる。

それは Ait. Br. 3, 43, 5 で rathacakram anantam(終わりなき車輪)と呼ばれ、3, 44 では太陽になぞらえられている。その運行に朗誦の仕方が従い、朝は弱く、昼は強く、夕は最も強い、というのである。

Āp. 10, 2, 5(8, 21, 3:phālgunyā udṛṣṭe somyā dīkṣate)、Kāt. 7, 1, 4 によれば、それは春に行われ、Śat. Br. 10, 1, 5, 4 によれば年ごとに行われる。

A. を春の供犠とするこれらの記載は、ほとんど無視しえない。というのは、一般に儀軌の傾向は、本来は固定していたが

68. Agniṣṭoma。 125

後には任意にささげられるようになった Atirātra、Mahāvrata、Viṣuvat、Dvādaśarātra の例に示されるように、供犠を一定の時期から解き放つ方向に向かい、それと結びつける方向には向かわないからである。

私の考えでは、Agniṣṭoma は新月ないし満月³ にささげられる春の祭、あるいは年初の祭であり、そこでは神々に月の神酒、すなわち「Soma 王」が供犠されるのである⁴。この祭の目的に役立つのが、RV 第IX巻の「Pavamāna 歌」であり、私はこれを「月祭の歌」と呼んだ。

これには三つの動物供犠が結びついている。1)Agni-Soma のための牡山羊、すなわち agnīṣomīya paśu。これは先行する Upasad の日の最後の日にささげられるべきものである。2)Sutyā の日全体にわたって配分される sāvanīya ないし kratupaśu。その神格は Agniṣṭoma では Agni、Ukthya では Indrāgnī、Ṣoḍaśin では Indra、Atirātra では Sarasvatī である⁵。

ある者たちによれば、これに続く各 Saṃsthā は常に先行するものの Kratupaśu をも含む。したがって Atirātra においては四頭すべての獣が必要となる。(一頭の獣に代えて十一頭を選ぶこともできる。§ 69。)

3)第三の動物供犠は、供犠の沐浴ののち、Udayanīyeṣṭi の前にささげられるべき anubandhyā、すなわち Mitra-Varuṇa のための若い不妊の牝牛から成る。ある者たちによれば三頭から成り、それぞれ M. V.、Viśve devāḥ、Bṛhaspati のために一頭ずつであって、最初の二頭は二歳、二番目は多色、三番目は赤である⁶。

その他の点では Agniṣṭoma は複雑な、個々には説明しがたい機構であり、その構築にはインドの生活の種々の領域が寄与したのであろう。

第一に必要なのは祭司の選定である。彼らには somapravāka「soma の使者」が供犠を告げ、招待をもたらす(10, 1, 2;ISt. 9, 308)。

次に必要なのは ―― 聖別の前か後か(Āp. 10, 19, 16)―― 供犠場の選定である。祭主はこれを王に乞い、王は、祭司たちの呪いを自らに招こうとしないならば、これを許さねばならない。

Ś. によればこの場所は東または北東に(すなわち日の出の方角に)傾いていなければならず、brahmavarcasakāma のためには、Hotṛ が朗誦の際に Āhavanīya 火・太陽・水を見わたせるように位置していなければならない。Lāṭ. 1, 1, 14 も同じく北東に向き、草が生え、流れる水・高い樹・幹線道路の西にあることを望んでいる。

供犠は dīkṣā⁷ すなわち soma の聖別によって導入され、祭主がこれを受ける。

この名を私は、本質的に tapasdīkṣā との密接な結合にもとづいて、語根 dah(希求形。気音のないものは adakṣam のごとし)に置き⁸、この儀式の本来の意味を、インドでよく知られた⁹ 自発的な火中死への聖別のうちに求めた。現在の儀軌ではこの意味は色あせ、儀式自体は soma 供犠に備える Yajamāna の単なる苦行へと低下していることになろう。

これと対立するのが Oldenberg の推測である。彼は dīkṣādāś「神に仕える」に置き¹⁰、そこに一つの呪術儀礼を見て、「最も多様な自然民族のもとに一致して現れる、恍惚状態の喚起によって神々ないし霊との交わりを招来することを目的とする諸儀礼のうちに置くべきもの」とし、「この聖別の遂行者は、飢え、目覚めつつ……悪鬼を追い払う呪術の火のかたわらに座る、民族学によく知られた野生の呪術師 ―― 苦行によって憑依に達しようとする者 ―― の型」に比している¹¹。

この聖別のために dīkṣitavimita、すなわち一定の寸法に建てるべき小屋が設けられる。前は高く、後ろは低く、全面が囲われ、そのすぐ後ろに妻のための小屋がある。小屋の隅は中間方位に位置し、扉の方位は祭主の一定の願いによって定まる。

didīkṣiṣamāṇa は髪と爪を切らせ、その妻も頭髪を除いて同様にし、沐浴し、

126 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

新しい大きな衣をまとい、食物・バター・Dadhi・蜜を享け、バターと膏 ―― 可能なかぎり「Trikakud 山産」のもの ―― を塗る。

彼は手を閉じ ―― 親指と人差し指のみを自由にしておき(Kāt.)¹² ―― 、小屋に入る。

その装いを完成するのが、葦ないし muñja 草の帯 ―― 妻の場合にはその代わりに一本の綱が入る ―― 、黒羚羊の角 ―― 痒いときに掻くのに用いられ¹³、Baudh. と Kāt. によれば衣の裾に結びつけられる ―― 、頭を覆うターバン(妻の場合には頭巾。これは衣の裾で代用することもできる)、さらに udumbara その他の適当な木で作った杖である。

Āhavanīya 火の前、南側に、内側を合わせた二枚の毛皮(Kāt.)が広げられ、聖別を受ける者の座として役立つ(Āp. 10, 15, 11)。

三度、Adhvaryu は静かに彼を聖別者として呼び上げる¹⁴。「adīkṣiṣṭāyaṃ brāhmaṇo nīlakaṇṭhaśarmā pārāśaragotro 'nantaśarmaṇaḥ putro rāmaśarmaṇaḥ pautro nṛsiṃhaśarmaṇo naptā tam indrāyendrāgnibhyāṃ vasubhyaḥ … brūmaḥ」と。そして(小屋の外へ歩み出て)三度声高に呼ぶ。これが dīkṣitavijñāpana あるいは dīkṣitavāda である。

一連の規定が、聖別された者の所作と態度とを制限する(Āp. 10, 12 以下)。供犠に不浄なものを見た場合、雨に濡れた場合、火に背を向けた場合には、贖罪の呪句を唱えねばならず、笑うときには手を前にかざさねばならない。

彼自ら誰かに語りかけるときは、バラモンに対しては名の終わりに「canasita」を、rājanya あるいは vaiśya に対しては「vicakṣaṇa」を挿入せねばならない(Devadatta canasita!)。

昇る太陽も沈む太陽も、彼を自らの小屋以外の場所で見いだしてはならない。杖と黒い毛皮とを手放してはならない。食物もまた制限される。彼の名を誰も口にしてはならず、彼に触れてもならない。彼は食物を運ばせるために使者を遣わす(saṃyācana)¹⁵。

この聖別の期間は種々に定められる。ある者たちによれば一日、三日または四日(Upasad は三日続き、第五日ないし第七日または第八日に搾りが行われる)、他の者たちによれば十二日、さらには一か月あるいは一年である¹⁶。

こう言われる。「聖別された者が痩せたなら、彼は供犠に清らかである。彼のうちにもはや何もなくなったなら、彼は供犠に清らかである。彼の皮が骨に貼りついたなら、彼は供犠に清らかである。彼の目の黒みが消えたなら、彼は供犠に清らかである。」

この期間が過ぎると、まだ供犠場を決めていない者は、そこへ向けて出立する。

供犠の最初のより大きな行為は soma の購入(somakraya)である。一人の Kautsa、場合によっては他のバラモンが soma 商人として機能する。

将来の Uttaravedi の場所、あるいは Śālādvārya の場所で、soma の茎が赤い牡牛の皮の上に広げられる。soma 商人はその北側に座し、証人なしに soma を並べ出す¹⁷。

一定の性質をもつ牝牛が買値として用意される。それを七歩前へ導いたときの最後の足跡は、一つの円で囲まれ、バターを供えて注ぎかけられる。そこから掘り出した土の三分の一は Gārhapatya の北に埋められ、三分の一は Āhavanīya の北に埋められ、三分の一は妻が受け取る。

soma の茎は量られ、値切り交渉のうえ商人から買い取られるが、しかし最後にこの商人からは買値全体が再び取り上げられる。

われわれはここに、Gandharva たちの手から神酒を獲得することについての、供犠に組み入れられた劇的な描写をもっている。そして「だまされ、打たれて追い返される śūdra は、われわれ自身の文学における愚かな悪魔である」。

買い取られた soma は車に載せられる。轅のあいだには Subrahmaṇya が、緑の枝を手にして進む。これは追い立てるのに用いられる(Lāṭ. 1, 2, 19)。

そして Adhvaryu は Hotṛ に、soma paryuhyamāṇa のための詩節を朗誦する命令を下す。Hotṛ はこれを轍のあいだに立って(……に従い)

68. Agniṣṭoma。 127

(Āśv. 4, 4, 2 によれば足の爪先で三度、南に向けて塵を投げつつ)朗誦する。

車が東へ動くあいだ、Subrahmaṇya は三度呼びかけ、西へ行くときは六度(Lāṭ.)、Subrahmaṇyā の定型句を呼ぶ。これは Indra への厳粛な招きであり、供犠のあいだ何度も繰り返され¹⁸、Indra を供犠の真の主として特徴づける。

〔Lāṭ. においてはここでは subrahmaṇyom とのみ呼ばれ、定型句全体は賓客への献供の終了後にはじめて響く。その際同時に、搾りが何日目に行われるかが告げられる。Agniṣṭut 供犠(Lāṭ. 1, 4, 1 以下)においては、その代わりに Agni に関わる定型句が入る。〕

Brāhmaṇa の種々の言明と、その呪句の解釈とが示すのは、これらが soma のうちにもはや植物ではなく、供犠場に近づく「Soma 王」(月)を見ているということである。

賓客に敬意を表して ātithyeṣṭi がささげられる。これに続くのが、私の考えでは古い文化史的連関において賓客供犠と結びつくものとして、tānūnaptra と呼ばれる盟友の儀式である。これによって祭司たちは祭主とともに、賓客供犠から取ったバターに触れつつ、互いに忠誠の契約を結ぶ。

Āgnīdhra が煮えた Madantī 水を運び、参加者全員がこれに触れる。そして祭主はより狭い聖別、すなわち avāntaradīkṣā に入る。そのために彼は帯をより固く締め、手をより固く閉じ、断食の食物としては温かい乳のみを享ける。

ここが pravargya の儀式(§ 68 を参照)と、少なくとも三日を含む upasad の祝いとの、場合による遂行の位置である。Upasad は午前と午後に、Ājya の献供と、Agni の鉱石の身体・銀の身体・金の身体に言及する呪句とをもって行われる。

Brāhmaṇa においてこれらは、包囲と敵の攻撃とを語る神話に関係づけられ、ayaḥśayarajataśaya、第三日には hariśaya と呼ばれる。Prayāja も Anuyāja ももたず、あるテクストによれば急いでささげられる。

ここでは、敵の場所の包囲に際して行われる儀式が soma 儀軌に取り込まれたかのように見える¹⁹。祭主が敵の都市を攻撃しようとする場合には、彼は Upasad に際して鉱石、銀ないし金を供犠の匙に入れる。

この三日の中間の日に、Mahāvedi の構築が行われる²⁰。その上に Havirdhāna の車が運び入れられ、天幕で覆われる。

Vedi の西端から東へ三歩のところに sadas、すなわち小屋がある。その中央には udumbara の幹を Yūpa の儀軌に従って、視界を妨げないように立てる。

ここでも、多くの儀式におけると同じく、Udgātṛ が関与する。たとえば彼は Adhvaryu が udumbara を立てるのを助け、これに呪句を伴わせる(Lāṭ. 1, 7, 3)。彼は筵が上に張られるまでこれを支え、Adhvaryu に続いて同じく自らの献供をささげる。

Sadas は筵で覆われ、その数は供犠によって変動する。この細目もまた入念に規定されている。

右の車の車軸の前に、四つの uparava、すなわち響孔が作られる。これは Bhūmidundubhi におけると同じく、soma を打ち出すことで生ずる音を強めるためである。

Rakṣas を祓う呪句とともに、当該の場所のまわりに円が描かれる。孔は、下では互いに通じ合い、上では分かれているように掘るべきである。この空洞の上に二枚の搾り板が来て、その上に、石の下敷きとして赤い皮が来る。

cātvāla(供犠の穴)を掘る際に得た瓦礫は、Sadas のなかにある六つの dhiṣṇya すなわち炉²¹ の作製に用いられる。これらは南から北へと連なり、Maitrāv.、Hotṛ、Brāhmaṇācchaṃsin、Potṛ、Neṣṭṛ、Acchāvāka のために定められている。

Sadas の外、Vedi の右側には、器を清めるのに用いる Mārjālīya 炉があり、その向かい、反対側には Āgnīdhrīya 火のための小屋がある。

供犠場の種々の場所、すなわち Āhavanīya、

128 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

Bahiṣpavamānāstāva(朝の搾りに際して、清められゆく soma のための Stotra が歌われる場所)などの聖別ののち、agnīṣomīya paśu の献供が始まる。

参加者の行列は、火ないし soma を先頭に立てて、東の Āgnīdhrīya と Āhavanīya へと進む。Brahman が soma を運び、他の者が石と器を運び、一人が妻を導き、その後ろから牡山羊が連れて来られる。

参加への招きを受けるのは、祭主の samaprivrataamātya あるいは jñāti、その妻、息子、孫、また兄弟である²²。Adhvaryu を祭主がつかみ、彼を妻が、妻を息子たちが、息子たちを孫たちが、孫たちを jñāti たちがつかむ²³。親族はみな新しい衣をまとっている。

ここには sacrum gentilicium の徴が明瞭に現れており、しかもここで問題なのが祖霊祭祀ではないという点で、いっそう価値がある。

Adhvaryu がいくつかの献供をささげ、Hotṛ が最初の詩節 agnīṣomābhyāṃ praṇīyamānābhyām を唱えると(これゆえこの儀式は agnīṣomapraṇayana と呼ばれる)、行列が動き出す。Udgātṛ もまたその Sāman をもって加わる(L. 1, 6, 39)。

火は Āgnīdhrīya に置かれ、soma は後ろの戸口から Havirdhānamaṇḍapa に運び込まれ、南の車の奥に黒い皮の上に置かれ、神々の保護に委ねられる。

これをもって Avāntaradīkṣā は終わり、祭主は握った拳を解き、帯を緩め、その誓戒は終わる。

牡山羊の供犠が始まり、Vapā の献供まで続けられる。その後、Subrahmaṇya に pilāputrīyā subrahmaṇyā を呼ぶ命令が下される(そこでは pitaraḥputrāḥ とが讃えられる)。これが以後、先の定型句に代わる²⁴。

Adhvaryu は山の泉から soma の調製に用いる水、すなわち vasatīvarī を汲む。彼はこれを、日が照りつけるときには雲・丘・樹の陰、あるいは自らの陰で汲み、Śālāmukhīya 火の背後に置く。それらは夜に Vedi のまわりを運ばれ、Āgnīdhrīya の背後にその場所を見いだす。

(翌日、それらから Hotṛcamasa が満たされ、祭主はそれらの上で定型句「nigrābhyāḥ」を唱え、それ以後それらは nigrābhyāḥ の名を帯びる²⁵。)

牝牛が搾られ、soma の混合のための種々の乳、すなわち Dadhigraha、Dadhigharma、Maitrāvaruṇa- および Ādityagraha のためのものが用意される。

祭主は Āgnīdhrīya あるいは Havirdhāna で目覚めたまま、soma を(敵・獣などから)守ってこの夜を過ごし、祭司たちは Āgnīdhrīya 火のもとにとどまる。

この Mahārātri ―― これが Sutyā の日へと渡らせる ―― の終わりに、器具の設置が始まる。多くの大小の容器と、種々の形・種々の素材の盃、soma の石などである。

そして霊的な一日の仕事が、「人あるいは鳥の声が聞こえる前に」、Hotṛ によって始められる。彼は轅のあいだに立って prātaranuvāka を唱える(SBE. 26, 229)。これは呪句と kratu から成る連禱であり、Bergaigne がすでに RV に痕跡を見いだした讃歌の連続である(前掲 16 頁参照)。Anuṣṭubh、Triṣṭubh などの詩節で、まず Agni に、次いで Uṣas と Aśvin たちに向けられ、全体で千の詩節が唱えられる。ある者たちによれば 360 のみを、一定の仕方で選び出して唱え、他の者たちによれば無制限の数を唱える²⁶。

Āśv. 4, 15, 9 によれば、朗誦は夜明けまで続き、最後の讃歌は闇が退くまで繰り返されるべきである。

Hotṛ にこの Prātaranuvāka を唱えるよう促すのと同時に、Adhvaryu は Pratiprasthātṛ に savanīya puroḍāśa を取り出す命令を、Subrahmaṇya にその定型句を呼ぶ命令を下す。

これらの savanīya p. は、Indra harivat のための dhānā、Indra-Pūṣan のための karambha(注釈によれば Saktu を水またはバターで練ったもの)、parivāpa(炒った穀粒で、

68. Agniṣṭoma。 129

その殻は爪で取り除く)であって Sarasvatī のためのもの、Bhāratī のための puroḍāś、Indra のための、Mitra-Varuṇa のための payasyā から成る。

Hotṛ が「輝く牛とともに Uṣas が現れた」という言葉を唱えるとただちに、歌者たちは一つの呪句とともに Vedi に入り(Lāṭ. 1, 9, 2)、南の Havirdhāna 車の背後に座を占め、Bahiṣpavamāna の詩節をささやく(1, 9, 19)。

Hotṛ のあの詩節はまた、Adhvaryu にとって aponaptrīya の儀式のための命令を下す合図でもある。「水を求めよ、おお Hotṛ よ! Maitrāvaruṇa の壺係よ、走り来たれ! Ekadhanin たちよ、走り来たれ! Neṣṭṛ よ、妻を導き出せ! Unnetṛ よ、Hotṛ の匙と Vasatīvarī とをもって穴に近づけ!」

朗誦する Hotṛ の声がなお聞こえる距離のところで、流れる水から ―― そこにはあらかじめ一つの献供がささげられる ―― ekadhanā 水²⁷ が汲まれる。これは飲料の混合に用いられる。Hotṛ は個々の所作に Aponaptrīya 歌 RV 10, 30 の詩節を伴わせる²⁸。

搾りは Āp. においては、特別な願いを満たす若干の Graha ―― Dadhi、Ājya あるいは soma から成る ―― をもって導入されうる。最後の場合には、一つの Graha に必要なだけの soma の茎が搾られる。

Vājapeya、Rājasūya その他²⁹ においてはなお Aṃśugraha と Adābhyagraha とが、個別に、あるいは合わせて加わる。後者は Āp. 12, 7, 18 によれば酸い乳・甘い乳あるいは Vasatīvarī 水から汲まれ、soma の茎(ādhavana)でかき混ぜられるだけである。前者は一つの Graha に必要なだけの soma の茎から搾られる。

それは一度だけ搾られるべきであり、心のうちに Vāmadevyasāman を歌いつつ、息を継がずに、顔を背けて汲むべきである。(Āśv. 5, 2, 1 以下では、名に応じて Upāṃśu と Antaryāma について呼吸の類似の制限が妥当する³⁰。)

本来の mahābhiṣava、すなわち主要な搾り(SBE. 26, 257)は、すべての搾りの範型として通用する upāṃśusavana によって導入される。これは Upāṃśugraha を提供する前搾りである³¹。

これについても、また以下のすべてについても、次の規定が妥当する。「指に金の環をはめて搾り、汲み、供犠すべし」(Āp. 12, 7, 12)。

mahābhiṣava は三つの paryāya、すなわち回ないし進行において、Adhvaryu、Pratiprasthātṛ、Neṣṭṛ、Unnetṛ によって遂行される。彼らは種々の方位に立つ。

得られた汁は、水を満たした Ādhavanīya の器に入り、その後、羊毛で作った濾し布によって清められる。濾し布は Droṇakalaśa と呼ばれる器の上に置かれ、これを Udgātṛ たちが、寄せ集めた搾り石の上に据えたものである。

彼らはその際、呪術の実践を行うこともできる。たとえばある王国を滅ぼすために、Udgātṛ は第五の、Upāṃśusavana と呼ばれる石を Droṇakalaśa の背後に置き、ある強力な隣接部族のことを念ずる(Lāṭ. 1, 10, 13)。

Unnetṛ(SBE. 26, 169. 238. 312)は汲み器を用いて Ādhavanīya から Hotṛ の匙へ注ぎ、これをもって Yajamāna が濾し布の上へ途切れることなく注ぐ。そのあいだ Udgātṛ は定型句 pra śukra をささやく(Lāṭ. 1, 10, 21)。

この注ぎ(dhārā)から、次の Graha(antaryāmaaindravāyavamaitrāvaruṇaśukramanthināgrayaṇaukthyadhruva)が汲まれる。それゆえこれらは dhārāgraha と呼ばれ、後の adhārāgraha ―― Pariplavā を用いて Droṇakalaśa から汲まれるもの ―― と対比される(Āp. 12, 18, 11)。廃れているのは vaiśvānara-Graha である³²。

残りの soma は、祭司の Camasa を満たすのに必要な分を除いて、pūtabhṛt の器に入る。

飛び散った soma の滴を贖うために vaipruṣahoma(SBE. 26, 305)がささげられ、その後に bahiṣpavamānastotra へと進む。

Pavamānastotra は三つの搾りすべてにおいて soma の清めに伴い、Prātaḥsavana のそれは bahiṣpavamāna と呼ばれる。Sadas の外、Cātvāla のところで行われるからである。

「(獣に)忍び寄る(狩人)のように」彼らは身をかがめて進み、一人が

欄外下:Indo-arische Philologie. III. 2. ―― 9

130 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

他の一人の後に続き、後ろの者は前の者をつかむ(Āp. 12, 17, 1 以下;Śpn. 346 頁)。

Adhvaryu は、すべての Pavamāna におけると同じく、Stotra を導き「駆り立てる」(upākaroti)。すなわち「Vāyu は Hiṃkartṛ なり」という言葉とともに、Prastotṛ に一握りの darbha 草(他の Stotra では二本の茎のみ。Āp. 12, 17, 9)を差し出す。Prastotṛ はこれを取り、Brahman に Stotra の許しを乞うたのち(§ 58、101 頁を参照)、Udgātṛ に渡す(Lāṭ. 1, 12, 1)。

Cātvāla における歌者たちの場所は、Adhvaryu の西にある。すべての Stotra において彼らは、視線を地平線に向けて座る。Prastotṛ は西へ、Udgātṛ は北へ、Pratihartṛ は Udgātṛ の後ろで南東へ向き、左の腿を組む(Lāṭ. 1, 11, 22)。その後ろに Upagā たちが、少なくとも三人(Lāṭ. 1, 11, 24)あるいは少なくとも四人(Āp.)いる。

Bahiṣpavamānāstāva へ向かう途上、彼らは左手に草の茎を持ち、それを一本ずつ呪句とともに南へ投げる(Lāṭ. 1, 11, 17)。

Prastotṛ から受け取ったあの束で、Udgātṛ は自らの右の腿を打ち、「Agni の輝きによって」という呪句とともに「Stoma を繋ぐ」(stomaṃ yuj Lāṭ. 1, 12, 2;2, 5, 20. 23;9, 7. 9;3, 5. 9;stomayoga 2, 1, 1。これは vimuc 2, 11, 1 と対比される)。

歌い手たちが始める前に、Yajamāna は一つの呪句をささやき、詠唱のあいだ Daśahotṛ を、中間の Stotriya 詩節に際して最初の Anvārohamantra をささやく。また彼は Upagātṛ たちと同じく ho ないし om をもって詠唱に加わり(Āp. 12, 17, 11 注釈)、これを他のすべての Stotra と同じく(103 頁参照)「stutasya stutam asi」等の言葉で締めくくる(12, 17, 17. 18)。

歌者たちは奇数の(3–9)歩をもって Bahiṣpavamāna の場所から戻り、Āgnīdhrīya で Bahiṣpavamāna の詩節を学び直す(Lāṭ. 2, 1, 8. 9)。

Adhvaryu は、火を広げ、Barhis を撒き、Puroḍāśa を用意せよという命令を下す。

Āśvinagraha が汲まれ、Kratupaśu ―― その古風な呪句については祭司選定に際して Weber が注意を促している ―― が Vapā の献供まで進められる。

その後、彼らは一緒になって Prātaḥsavana のために Sadas へ「忍び寄る」(samprasarp)。あらかじめ彼らは呪句(grahāvakāśaiḥ)とともに Graha その他の soma 容器を眺め(12, 18, 16;13, 2, 7)、Yajamāna は ṛtaṃkāra と呼ばれる呪句とともに、Graha、Kalaśa、Dhiṣṇya などに敬いつつ歩み寄る。

まず savanīya-Puroḍāś がささげられ(128 頁)、次いで dvidevatyagraha(Indra-Vāyu、Mitra-Varuṇa、Aśvin たちのため)の供犠と Yajati 献供が続く。これに対する対応物として Pratiprasthātṛ が Ādityagraha をもって pratinigrāhya を汲む。

Adhvaryu は最後に各 Graha を Hotṛ に手渡し、Hotṛ はそれを露わにした右の腿の上に置き、指を広げて覆う³³。

これに camasonnayana(Āp. 12, 21, 14 以下)、すなわち Hotṛ その他の九つの盃を満たすことが続き、さらに Śaṇḍa と Marka(cf. アヴェスタ語 mahrka)に献じられる śukrāmanthinau の供犠が、詳細な儀礼をもって続く。

供犠の次の部分をなすのが、「hotrāḥ」と呼ばれる savanamukhīyāś camasyāḥ である。これは Adhvaryu が Maitrāvaruṇa、Brāhmaṇācchaṃsin、Potṛ らの盃から供犠する献供であり、個々の祭司の Yājyā「prasthitaprayājyāḥ」を伴う。彼らは互いに呼びかけ合いながら、Camasa に残った残余を食する(prasthitabhakṣa)³⁴。

Dvidevatyagraha もいまや食される。空になった Camasa は再び満たされ(多くの者によれば触れられるだけで)、南の車の後部の下に置かれる。それらは以後 nārāśaṃsa の名を帯びる。祖霊たちに属するからである。すなわち早朝には ūmāḥ あるいは avamāḥ に、昼には ūrvāḥ に、夕には kāvyāḥ に属する³⁵。

いまや Acchāvāka が近づく。彼は Puroḍāś から自らの分を受け、vadasva yat te vādyam と促されて、その朗誦を始める。この祭司のいくらか蔑まれた地位は、SSS. 7, 6, 7 によれば Hotṛ が彼に Upahava を拒みうること、そして拒まれた者は歌

68. Agniṣṭoma。 131

RV X, 19 を、できるかぎり駆け抜けねばならないことに現れている。

12 ないし 14 の ṛtugraha が、Madhu と Mādhava、Śukra と Śuci などのために、Adhvaryu と Pratiprasthātṛ によって交互に汲まれ、12 の Ṛtupraiṣa ―― そこでは神々と祭司たちが、すでに RV に知られた仕方で群に結びつけられる ―― を用いて供犠される³⁶。

最後に indrāgni-Graha が汲まれ、据えられる。

Ṛtu の盃を手にして Adhvaryu は Sadas の入口に座り、Hotṛ に Śastra のための Āhāva に応答する用意をする(śastraṃ pratigariṣyan。前掲 102 頁参照)。そして Hotṛ の最初の Śastra(Ājya)が始まる(99 頁)。

Adhvaryu は自らの Pratigara ののち Graha を取り、Camasādhvaryu たちは盃を取る。前者は供犠し、後者は Vaṣaṭkāra ののちも Anuvaṣaṭkāra ののちも、供犠することなく、祖霊のために Nārāśaṃsa を動かす³⁷。次いで Graha と Nārāśaṃsa とを食することが続き、その後に彼らは Śukrapātra をもって vaiśvadevagraha を汲む。

Adhvaryu は二本の草の茎を Prastotṛ に渡すことによって Stotra を導く。祭主は再び、始まる前に自らの呪句を唱え、Stotra のあいだ Caturhotṛ などを唱える。そして Stotra の終わりに、Āhāva と Pratigara とをもって Hotṛ の Pra-ugaśastra(轅の Śastra)が始まる。

Graha の供犠、その食すること、および Nārāśaṃsa の食することは、先と同じ仕方で行われる。

次いで Ukthya の三分の一が Mitra-Varuṇa のために、三分の一が Indra のために、三分の一が Indrāgnī のために汲まれ、これら三つの Graha が、朝の搾りの最後の三つの Stotra と、それに続く Hotraka たち ―― Maitrāvaruṇa、Brāhmaṇācchaṃsin、Acchāvāka ―― の Śastra のための供物として役立つ。

Agni のための一献供ののち、彼らは Praśāstṛ の許しを得て(sarpata!)、来たときと同じように mṛgatīrtha³⁸(Āgnīdhrīya の背後)を通って供犠場を去る。

昼の搾り。 昼の搾りの儀軌は本質的に Prātaḥsavana のそれと同じである。ただ Dvidevatya-Graha と Ṛtugraha が、また Darvihoma も脱落し、祭司として grāvastut³⁹ が加わる。その任務は、その名の言うとおり、搾り石に向けられた讃歌と詩節とを朗誦することであり、頭と顔を、祭主から受け取り再び返すべき soma の布に包んでいる。

絶えず繰り返される呼び声 ihā3 iha(そして最後の Paryāya の中央では bṛhadbṛhat)をもって、彼らは soma を搾る。

Śukrāmanthinau、Āgrayaṇa(三度の注ぎから)、二つの Mārutvatīya ―― そのうち一方を Adhvaryu が Ṛtugraha とともに、他方を Pratiprasthātṛ が汲む ―― 、それらの後・前あるいは中間に Ukthya ―― これらが昼の献酒の Graha である。

Grahāvakāśa と Ṛtaṃkāra ののち、また Vipruḍhoma(129 頁)の遂行ののち、彼らは昼の Pavamāna へと忍び寄る。これは朝の搾りの Bahiṣpavamāna に対応する。Sarpaṇamantra、Yajamāna の Japa などは昼には異なる。また朝のように Stotra が外で響くのではなく、Sadas の内で響く。

Mādhyandinapavamāna の終わりに、Adhvaryu は再び命令を下す。agnīn vihara, barhi stṛṇīhi, puroḍāśām alaṃkuru! これに昼に特徴的な付加 dadhigharmeṇānūdehi! が加わる。すなわち酸い乳の飲料を用意せよという促しであり、これは Āgnīdhrīya で煮られ(朝に Pravargya がささげられた場合は § 68 参照)、すでに RV(10, 179)にも昼の Savana と結びつくものとして知られている。

これに続いて savanīya-Puroḍāś、Camasa を満たすこと(当然ながら定型句の変更を伴う)、Śukrāmanthinau の供犠、そして Nārāśaṃsa を据えるまでのさらなる儀式が続く。

sanneṣu nārāśaṃseṣu、Dakṣiṇā が配分される(これらは Vedi の南に立つか、あるいは他の者によれば別の場所に立つ)。

祭主は 7、21、60 ないし 1000 頭の牛を与えることができ、また長男にその相応の分を与えて償ったのちには、その全財産を与えることもできる。一千頭あるいは全財産を与える場合には、

欄外下:9*

132 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

騾馬を一頭加えることが必要である。他の対象は羊、馬、象、召使、衣服、また豆などである(詳しくは Lāṭ. 2, 7, 12 以下)。

牛の配分は Āp. においては、祭主が黒い皮でそれらを四つの部分に追い分けることによって行われる。四分の一を彼は Adhvaryu に与えるが、その際 Pratiprasthātṛ は Adhvaryu が受け取る分の半分を受け、Neṣṭṛ は三分の一を、Unnetṛ は四分の一を受ける(注釈 13, 5, 12)。他の祭司についても同様である。Āgnīdhra は Praecipuum を受ける。

Ātreya にはそのほかに特別な黄金の贈り物⁴⁰ が渡されるべきである。すべての贈り物から除外されるのは Kaṇva と Kaśyapa、および無知なバラモンである。値しない者に贈ろうとするならば、祭主の家畜は逃げ去るであろう。

祭司と祭主のふるまいを規制する多様な規定のうち、なお Āśv. 5, 13, 17 を強調しておくべきである。彼はこの機会に娘を与えることについて語っており、これについて注釈は daiva vivāhaprakāra を参照させている。

nītāsu dakṣiṇāsu、すなわち Dakṣiṇā の受領ののち、kṛṣṇaviṣāṇā が穴に投げられ、二つの Mārutvatīya の献供が行われる。

続いて第三の mārutvatīya graha(mahāmārutvatīya とも呼ばれる)を汲んで据えることが行われ、これに Hotṛ による mārutvatīyaśastra の朗誦が続く。

これに Śukrapātra による Māhendra の汲み取りが続き、これに Mahendra のための Stotra(第一の Pṛṣṭhastotra)が続く。これに対して Hotṛ の側から niṣkevalyaśastra が応ずる。

Māhendragraha の汲み取りと同時に、祭司たちは三つの atigrāhyapātra を汲む(Pratiprasthātṛ は Agni のためのもの、Neṣṭṛ は Indra のためのもの、Unnetṛ は Sūrya のためのもの)。そしてそれを同じ順序でささげる。

三つの ukthyavigrahāḥ あるいは ukthyasya paryāyāḥ は、朝の搾りのものと異ならない。ただ、汲み取りと据え置きに際しての奉献の呪句が、ここでは Indra のみに向けられている点が異なる。

各 Paryāya(Vigraha)には一つの Stotra(Pṛṣṭhastotra 2–4)が属し、これに Hotraka の一人(Maitrāvaruṇa、Brāhm. ないし Acchāvāka)の Śastra が続く。

夕の搾りは Ādityagraha によって導入されるが、これはすべての者が Tṛtīyasavana に属するものと見なしてはいない⁴¹。それは Dvidevatyagraha の残余から成り、これを Pratiprasthātṛ が早朝に Ādityasthālī に注いだものである。

Havirdhāna の両扉は閉じられ、多くの人々に囲まれた Vedi の上でそれが汲まれる。

居合わせる者のなかに恋敵がいる場合には、その者が Vedi の内側に立っているあいだに汲まねばならない。自ら恋敵の供犠に列席している場合には、Vedi の外に立つべきである。雨乞いその他の呪術もこれに結びつけうる。

汲まれた Graha は Upāṃśusavana の石でかき混ぜられる。

主要な搾りは本質的に朝のものと同様に進む。ただ以前の Savana の搾り滓が加わる点が異なる。

搾りに続いて Savanīya を取り出すこと、および Āgnīdhra の場所で妻が Āśir をかき混ぜることが行われ、これは複数の詩節を唱えつつ、篩を通して Pūtabhṛt の器に注がれる。

Āgrayaṇa は今回は四度の注ぎから(昼は三度から、朝は二度から)汲まれる。

Bahiṣpavamāna、Mādhyandinapavamāna に対応するのが、夕には ārbhava pavamāna である。祭主は再びこれを呪句をもって開き、Pañcahotṛ ないし Saptahotṛ などをささやきつつ伴わせる。

Stotra の終了後、Adhvaryu は先と同じく agnīd agnīn vihara 等の命令を下すが、その際 pratiprasthātaḥ paśau saṃvadasva という付加を伴う。すなわち、中断されていた動物供犠を続けよという促しであり、この供犠は Śamitṛ への問い śṛtaṃ haviḥ から Iḍā までさらに進められる。

savanīya-Puroḍāś の献供ののち、儀式は再び昼と同じように、Nārāśaṃsa を据えるまで進む。当然ながら Praiṣa などの変更を伴う。

sanneṣu nārāśaṃseṣu、祖霊たちに一つの献供が向けられ、各

68. Agniṣṭoma。 133

Camasin が自らの盃の後ろに Puroḍāśa の三片ずつを、すでに Piṇḍapitṛyajña(115 頁)で用いた呪句 etat te tatāsau 等とともに置き、Namaskāra「汝らの汁に礼拝あれ、おお祖霊たちよ」等をささやく。

Antaryāmapātra をもって彼は Āgrayaṇa から Sāvitragraha を汲み、これを据えることなく、また Anuvaṣaṭkāra を唱えることなく供犠する。

ついで彼は Pūtabhṛt から、その同じまだ完全には空になっていない Sāvitragraha をもって Vaiśvadevagraha を汲み、これには vaiśvadevaśastra が属する。

その Vāyu に関わる語のところで、Dvidevatya の器が取り去られ、Mārjālīya で清められる。

saumya caru が供犠され、再びバターで満たされて、Udgātṛ たちがこれを覗き込む。誰かが自らの像をそこに見いださない場合には、彼はさらにバターを注ぎ足して再び覗く。誰かが放心している(gatamanas)場合には、それに関わる呪句を唱える。

いま続く patnīvata graha は神秘的な意味をもつ。それは Sampraiṣa から明らかになる。agnīn neṣṭar upastham āsīda! neṣṭaḥ patnīm udānaya …

これらすべての儀式の遂行ののち、Adhvaryu によって yajñāyajñīyastotra が導かれる。Dhiṣṇya は明るい炎に燃え立たされ、Sāmaga たちは耳を覆って、あるいは耳のところまで覆って Yajñāyajñīya を歌い、Sadas に入ったすべての者が唱和する。

Yajamāna は Saptahotṛ を唱え、Hiṃkāra のたびごとに Neṣṭṛ は妻を Udgātṛ に見させる(Lāṭ. 2, 10, 15)。そのたびごとに妻は、すでに早朝に汲んでおいた pānnejanīḥ 水を取り、Nidhana に際して露わにした右の腿の上に注ぐ。

Adhvaryu はすばやく Pratigara を、Yajñāyajñīyasāman に属する agnimārutaśastra に対して与える。

Pratiprasthātṛ は早朝に脇に置いておいた Dhruva を見やり、Śastra のあいだにそれを Hotṛ の匙に注ぐ。その後で prasthitabhakṣa(130 頁)が行われる。

Stotra が終わり、Camasa が食し尽くされると、Udgātṛ たちは一つの呪句とともに Stoma を「解き」(vimuc)、右手で kuśa の小棒(100 頁)を寄せ集める(Lāṭ. 2, 11, 1. 2)。

祭主は太陽を敬い、動物供犠は Upayāja とともにその続きを進める。

Paridhi を燃やすことと Saṃsrāva の献供(§ 61、114 頁)に続いて、Unnetṛ による Hāriyojanagraha の汲み取りが行われる(これについては Lāṭ. 2, 11, 6. 10 を参照)。これは Dhānā を豊富に混ぜられ、供犠ののちには、穀粒を噛み砕かずにただ吸い出すという仕方で食される。

残りの Dhānā は Uttaravedi の上に投げられ、Ekadhanā 水は緑の Dūrvā で味つけされて配られ、その汁は「嗅ぐことによって」享けられる。

盟友の契約が解かれ、Patnīsaṃyāja と Samiṣṭayajus とがささげられる。Vājasaneyin たちによれば、ここではじめて帯と kṛṣṇaviṣāṇā とが穴に投げられる。

続いて avabhṛtha、すなわち「供犠終了の沐浴」が来る。これは Varuṇapraghāsa の沐浴(117 頁)と多くの点で一致し、とりわけ Varuṇa への Puroḍāśa の献供によって導入される。

祭主は Sadas に据えた udumbara の樹を引き抜き、これと搾り皮などを、Soma 王の udumbara の玉座あるいは Vedyaṃsa(?)の上に置き、黒い皮を穴に投じる(もっともこの皮は、沐浴を去るときに息子あるいは brahmacārin に与えることも、自ら保って将来の供犠に用いることもできる)。

いくつかの献供 ―― そのうち一つは Rudra に向けられる ―― をささげたのち、彼らは Vedi ないし Cātvāla から Varuṇa を讃えつつ前進する。これに Prastotṛ の詠唱が伴い、その終曲を、第一・第二・第三の Paryāya に際して(道の初め・中ほど・終わりに)、女たちもろとも全員が三度歌う。

soma を塗ったものすべて、帯、黒い皮などが水に投じられる。祭主と妻は潜ることなく沐浴し、互いの背を洗い、沐浴を去るときに新しい衣を着ける。soma を包んでいた二枚の布も同様である。

彼らは「闇より自由なる」という呪句をもって太陽を敬い、薪を手にして

134 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

Unnetṛ を先頭に、振り返ることなく戻る。その際「われらは soma を飲んだ」等と唱える。

Prāyaṇīyā が soma 供犠を導入するように、Udayanīyā がこれを締めくくる。これに続いて、Mitra-Varuṇa のための不妊の牝牛、すなわち Anūbandhyā の供犠が来る(125 頁)。これに代えて「Bahvṛca 派」は āmikṣā を用いる。

これに devikāhavis(soma の壺、Āgrayaṇa の鍋、Ukthyasthālī などで煮られるもの)が続き、これに代えて王あるいは王太子は devasū のためのものを用いる。

そして種々の終結儀式 ―― Vedi の上で Barhis を燃やすこと、犯した過誤を償うためにその上に投げられる Saktu、煙に呪句を唱えること ―― ののち、所作全体は udavasānīyā 供犠をもって終えられる。

§§ 69. Pravargya¹

(Āp. 11, 2, 5 以下;15;Kāt. 26;Vait. 13 以下;Āśv. 4, 6. 7;Ś. 5, 9 以下;Lāṭ. 1, 6。)

soma 供犠との連関のうちに Pravargya が置かれた。そこでは土器(mahāvīra)のなかで乳(gharma)が熱せられる(pra-varj)。これは古い、おそらく自立した乳

69. Pravargya。 135

祭祀であって、soma 供犠とのその緩やかな結びつきは、種々の教師がその最初の遂行をめぐって行う論争のうちに、なお表れているのであろう。ある者たちによればそれは soma 供犠の最初の遂行に際して行われるべきであり、他の者たちによればそうではない。

見解の相違の一つの像を、Āp. 11, 2, 5 以下が一連の矛盾に満ちた規定をもって与えている²。

それは Upasad の日にその場所を占め、一日に二度、朝と夕にささげられる。したがって soma の祝いが三つの Upasad の日を含む場合には、Pravargya は六度ささげられることになる。

Āhavanīya 火の東にある場所で掘り取った土 ―― そこへは一頭の馬を先頭に立てて赴く ―― から、Mahāvīra 壺が三つ、五つあるいはそれ以上の輪から作られる。中央がくびれ、一 Spanne の大きさである。そのほかにさらに二つの予備の壺と、一連の、一部は奇異な形の器 ―― たとえば二つの搾乳桶で、Āp. によれば「象の唇」の形をし、「柄のない、注ぎ口のついた匙のよう」なもの ―― が作られる。

完成した器は、火をつけた馬糞で燻され、穴のなかで焼かれ、山羊の乳を注がれる。

祭具の準備 ―― そのなかには Gharma の器のための muñja 草の縄で編んだ椅子(samrāḍāsandī)がある ―― ののち、次の促しが発せられる。「おお Brahman よ、われらは Pravargya を行おう。Hotṛ よ、Gharma を讃えよ。Āgnīdh よ、Rauhiṇa 菓子を火にかけよ。Prastotṛ よ、Sāman を歌え!」

Śukrasāman の始まりに際して、閉ざされた場所で進行する儀式を見てはならない妻は、その頭を覆わねばならない(Kāt. 26, 3, 2)。

Āhavanīya の東、Rājāsandī の前に Gharma の椅子が立ち、黒い山羊の皮で覆われ、その上に二つの予備の Mahāvīra 壺が立つ。土盛りの上の銀の板が、第一の、本来の Mahāvīra を担う。火がその周りに置かれる。呪句と Sāman とがこのきわめて込み入った儀礼に属する。

Āgnīdhra、Adhvaryu、Pratiprasthātṛ は、黄金の板で覆われた壺を、黒い山羊皮の扇で扇ぐ。それが赤熱するとただちに板は取り去られ、Hotṛ の呼び声のもとにバターが注ぎ入れられる(Kāt.)。さらに牝牛と山羊の乳が加えられる。呪句が蒸気の立ち上るのに伴う。

Mahāvīra 壺は、風の十の名を唱えつつ運び去られる。Pratiprasthātṛ は、朝には Rauhiṇa 菓子の一方を「昼に」、夕には他方を「夜に」供犠し、熱い乳(gharma)を Aśvin たちにささげる。

ついで Mahāvīra を煮た酸乳で満たし、種々の方位に向けて供犠する。南の Rauhiṇa 菓子と同じ仕方で、Pratiprasthātṛ は北のそれをささげる。

祭具が運び去られるとき、全員が、そのあいだに呼び寄せられた妻も含めて、囲いを去り、Prastotṛ の終曲に唱和する。その Sāman が道行きに伴う。

はじめ Gharma の椅子は、二本の足が Vedi の内側、二本が外側にあるように立てられていた。いま Adhvaryu はこれを北の Vedi の北に立て、Prastotṛ に Vārṣāhara(雨をもたらす)Sāman と Iṣṭāhotrīya Sāman とを歌うよう促す。後者の Nidhana に、再び会衆が唱和する。

Gharma の儀式の多くの特徴的な細目のうち、とりわけ注目すべきは、終わりに祭具を、それが一人の男の姿を表すように配置することである。Pravargya を「男」として描く Brāhmaṇa の見解は、これと関連するように思われる。

三つの Mahāvīra 壺が頭をなし、その上に Veda の草束が Śikhā として突き出る。搾乳桶が耳を代表し、二つの金片ないしバター匙が目を、二つの Rauhiṇa 菓子の皿が踵を代表する。全体の上に撒かれる菓子の粉の残りは骨髄を、酸乳と蜜の混合物は血を、というように示している。

一連の個別的な規定が、とりわけ

136 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

雨・食物その他への願いに役立つ。

贖罪の規定が扱うのは、Gharma が煮えるときに溢れた場合、儀式のあいだに稲妻が光った場合、牝牛が酸い乳あるいは血の混じった乳を出した場合である。

Pravargya をささげた祭主は、一年のあいだ肉を食べず、黒い女を訪れず、いかなる土器からも飲んではならない。その一年前から彼は遵守事項を守り、そのための聖なるテクストを学び、一連の規定を遵守せねばならない。

個々の所作、そしてそれ以上に呪句は、ここで問題なのが太陽に向けられた呪術であることを蓋然的にする。これは Oldenberg が述べたとおりであり、私はその見解と細部においてのみ異なる³。

供犠の中心をなす赤熱した Mahāvīra 壺は太陽の象徴である。それは soma 供犠において汁のみなぎる soma 草が月の象徴であるのと同じである。そしてその椅子は、ある者たちによれば soma の椅子より大きくなければならない(Āp. 15, 5, 7)。

この儀式は RV においても、他の詩節を別として、蛙の歌 7, 103 に言及されている。すなわち第8詩節(adhvaryavo gharmiṇaḥ siṣvidānāḥ)にも、第9詩節(saṃvatsare prāvṛṣy āgatāyāṃ taptā gharmā aśnuvate visargam)にもそうである。また第1詩節(saṃvatsaraṃ śaśayānā brāhmaṇā vratacāriṇaḥ)については、Āp. 15, 21, 1 の saṃvatsaraṃ tad vrataṃ caret; tasminn eva saṃvatsare 'dhīyīta を指摘してよいであろう。

§§ 70. Aikādaśina-kratupaśu

(Āp. 14, 5–7;Kāt. 8, 8, 6 以下;12, 6, 11 以下;Vait. 22, 20;Ś. 6, 9, 3. 4;10. 11。)

125 頁に記述した個々の Kratupaśu に代えて、十一頭の獣が供犠される場合、それが aikādaśinīyā であり、これは供犠に現れるすべての paśugaṇa の基本形である(Āp. 14, 5, 1 注釈)。またその際に用いられる獣の呼称が aikādaśina である。

この供犠においては、個々の獣に個別的に関わる所作のみが各々について繰り返され、他方より一般的な意義をもつもの(Prayāja など)は一度だけ遂行され、すべてについて効力をもつ。

獣は Agni、Sarasvatī、Soma、Pūṣan などに献じられる(Kāt. 8, 8, 26)。

十三本の Yūpa が切り出される。第十二のもの、upaśaya と呼ばれるもの(TS. 6, 6, 4, 4;ISt. 10, 348)は立てられず、まったく削られたまま、まず Yūpa の近くに横たえられる。第十三のもの、pātnīvata は、埋められたときに臍まで届くように切られる。

火に最も近く立つのが中央の供犠柱である。その南と北には、常に「車軸一つ分」の間隔をおいて他のものが立ち、南のものは常に、その前の北のものよりいくらか高い。

しかし特別な願いは、Yūpa の先端の別の段階づけをもたらす。北から南へそれらが下がっていくのは、「祖霊を望む」者のためである。均等に立てば堅固さを助ける。中央のものが等しく、他のものが交互になっていれば、それは家畜をもたらす。呪術を行う者は、中央の Yūpa を高くし、両側へ向けて段を下げる、等々。

upaśaya は二本の縄で巻かれ、南の Yūpa のところに、一人の敵の名を挙げ、これを呪いつつ横たえられる。

Agniṣṭha-Yūpa に Agni のための獣を繋ぐあいだ、その北に Sarasvatī のための羊を、反対側の南に Soma のための牡山羊を繋ぐ(こうして交互に、最後に南で Varuṇa のための獣が締めくくる)。そして人は Upaśaya に、心のうちで森の獣一頭、モグラ一匹、あるいは自らの敵を割り当てる(「NN よ、これが汝の獣なり」)。

Anūbandhyā 牝牛の Vapā が供犠されると、彼らは pātnīvata-Yūpa を(頭部なしで)Śālāmukhīya 火の前に立て、Tvaṣṭṛ のための動物供犠のために(……)

70. Aikādaśina-kratupaśu。71. Ukthya、Ṣoḍaśin その他。 137

(pātnīvata paśu)を、供犠の敷草のない穴に入れ、そこに切られていない、毛深い、赤褐色の犠牲獣を繋ぐ。この獣は Paryagni の遂行後に再び放され、バターで代用され、そのバターをもって動物供犠の規則に従って儀式が最後まで導かれる。しかしこの儀式は Paryagni で打ち切ることもできる。

この paśvekādaśinī の一変種が kāpeyī であり、これは Kāpeya 家の者たちが、一日を超える soma 供犠に際して「Atirātra の最後のもの」においてささげるものである(Āp. 14, 7, 19 以下)。

§§ 71. その他の Saṃsthā、すなわち Jyotiṣṭoma の基本形¹

(Āp. 14, 1–4;Kāt. 10, 9, 28 以下;12, 5;6, 1–10(Ṣoḍaśin 12, 5, 20 以下);Vait. 25 以下;Āśv. 6, 1–7;11, 1. 2;9, 11;Ś. 9, 1–21;Lāṭ. 2, 5, 23 以下;3, 1, 1 以下;5, 4, 24 以下。)

Agniṣṭoma は一連の他の Saṃsthā の Prakṛti である。すなわち atyagniṣṭomaukthyaṣoḍaśinvājapeyaatirātraaptoryāma であり、これらもまた jyotiṣṭoma の名を帯びうる²。そしてこれらと合わせて Jyotiṣṭoma の七つの Saṃsthā をなす。

これらのうち古いのは、いずれにせよすでに RV に名を知られている Atirātra である。Atyagniṣṭoma、Vājapeya、Aptoryāma は、TS. のようなより古いテクストにおいてはまだ Saṃsthā として通用していない。したがってわれわれは、見たところ、より古い時代については他の四つのみを基本形と見なしてよいことになる³。もっともそれによって、除外された供犠そのものの年代について何かが言われるわけではない。

これらの Saṃsthā を特徴づける徴の一つ、すなわち Kratupaśu の相違については、125 頁で指摘した。それらは各供犠の stomīyāna をなし、Agniṣṭoma においては一頭の獣から、Atirātra においては場合により四頭の獣から成る(Kāt. 9, 8, 7)。

さらに、細目を別として Āp. 14, 1, 5 がまとめているように、ukthya においては夕の Savana に三列の Camasa(camasagaṇāḥ)が加わる。これらには三つの Stotra(sākamaśvasaubharanārmedha?)が属し、これに対応して三人の Hotraka のための三つの Śastra が属する。したがって Ukthya は 15 の Stotra と 15 の Śastra を数え、Agniṣṭoma の 12 に対する。Sāman においても他の変更が生ずる⁴。

Ukthyagraha の三つの Paryāya(131 頁参照)は、Indra-Varuṇa、Indra-Bṛhaspati、Indra-Viṣṇu のために、しかもいくらか異なる箇所で汲まれる。

Ukthya という名は明瞭でない。uktha(異読 ukthya)とは、Tṛtīyasavana における Hotraka たちの Śastra の名である(Āśv. 5, 10, 24;8, 2, 1 注釈)。おそらくそこからこの供犠の呼称が来ているのであろう⁵。

Indra に献じられる ṣoḍaśin、すなわち 16 の、あるいは第16の Stotra をもつものは、より大きな相違を示す。soma の牝牛は小さな体をもち、きわめて赤い(?)耳をもつ(Āp. 10, 22, 6)。

Prātaḥsavana において、あるいは三つの Savana の各々において、Dhārāgraha の最後のものとして Ṣoḍaśin が汲まれる(14, 2, 4 以下)。これには khadira 材で作った特別な四角い器が定められている(12, 2, 6;Kāt. 12, 5, 2)。

しかしそれは他の機会にも挿入されうる。Paśu- あるいは brahmavarcasakāma はこれを場合により Atirātra に、rājanya は Agniṣṭoma に付け加えさせる。(rājanya を遂行者とし Ṣoḍaśin を「主」としてもつこの Agniṣṭoma は、atyagniṣṭoma と呼ばれる。Āp. 14, 2, 10 注釈⁶。)

Ṣoḍaśin は常に stutaśastra、すなわち Stotra と(ここでは人為的に絡み合わされた)Śastra とを伴う(したがって 12 + 3 Ukthya + 1 Ṣoḍaśin)。

一定の呪句が、それが Vedi の上に置かれるとただちに、それに向けられる(14, 2, 13)。その Stotra への導入は、太陽が半ば沈むとただちに、草の茎の代わりに黄金の一片(Kāt. 12, 6, 1 では tṛṇahiraṇya)を Udgātṛ に手渡すことによって行われる。

歌者たちの前には、白い、おそらく太陽を代表する馬(Kāt. では黒い)、あるいは赤褐色の馬が支えられる(なお Lāṭ. 3, 1, 4 以下を参照)。赤褐色の馬あるいは騾馬の牝が Dakṣiṇā をなす。

Anuṣṭubh 詩節のための Pratigara は特別な形をもつ(14, 3, 4)。Ukthya の三つの Camasagaṇa に第四のものが加わる。

138 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

atirātra は主として rātriparyāya、すなわち「三つの夜の巡り」によって特徴づけられる。13 の stutaśastra が加わる(Agniṣṭoma の 12 + 3 Ukthya + 1 Ṣoḍaśin + 13。もっとも多くの者によれば Ṣoḍaśin は Atirātra の必然的な構成部分ではない)。

三つの Paryāya の各々は、それぞれ一つの Stotra と Śastra とに結びついた四つの Camasagaṇa を含み、そのうち順に Hotṛ、Maitrāv.、Brāhmaṇācch.、Acchāvāka の盃が最初のものとなる。したがってここでは十二の、種々の旋律で歌われる Stotra と、一定の朗誦法に結びついた十二の Śastra とがある。

「規則正しい夜の饗宴という性格」を、すでに Eggeling が指摘している。比較すべきは RV 7, 103, 7 である。夜は Indra に属する。主要な盃に続くものは、そのつど「indrāya apisarvarāya」と唱えて汲まれる。

これらの盃の供犠と食し尽くしののち、Pratiprasthātṛ が Aśvin たちのための菓子を用意し、Unnetṛ が sandhicamasa(暁の盃)を満たす。これに、Rathaṃtara の旋律で歌われる九つの詩節から成る sandhistotra が属する(14, 4, 3;Kāt. 12, 6, 6)(13)。

Prātaranuvāka として朗誦されるべき次の Śastra⁷ は、千を超える Aśvin 詩節から成り、Hotṛ は Āśv. 6, 5, 4 によれば「飛び立つ鳥の姿勢で」朗誦すべきである。種々の韻律から人為的に作られた「Bṛhatī 千」について Ś. 9, 20, 29 が語っている。

Paridhānīya 詩節は日の出後に唱えられる。ついで Adhvaryu が Hotṛ の盃を取り、Camasādhvaryu たちが残りを取り、tiro'hnyānāṃ somānām から Aśvin たちに一つの Graha が供犠され、そのあいだ Pratiprasthātṛ が Puroḍāśa の献供をささげる。

Atirātra も Ukthya も Ṣoḍaśin も、しばしば数日にわたる供犠の構成部分として用いられる。

aptoryāma⁸ においては、Atirātra の Sandhicamasa になお四つの Camasagaṇa が加わる。その先頭には第一の Rātriparyāya におけると同じく Hotṛ の盃などが立つ。これらは Agni、Indra、Viśve devāḥ、Viṣṇu のために汲まれ(Āp. 14, 4, 14)、他の者たちによれば Sandhicamasa と同じ神々のために汲まれる(同 15 注釈)。

これに対応して、われわれは Āśvinaśastra に続いて四つのさらなる Stotra ないし Śastra を見いだす。これらは atiriktokthya と呼ばれ、したがって全体で各々 33 となる。

Aptoryāma が soma 供犠の基本形に数え入れられたのは、おそらくわれわれには近づきえない他の資料に遡るのであろう。われわれの教本においてそれは際立った役割を果たしていない。たとえば Āśv. 9, 11, 1 以下(Ś. 15, 5 をも参照)では、多くの他の Ekāha のうちに置かれている。

Vājapeya については § 72 を見よ。

§§ 72. その他の Ekāha

(Kāt. 22;Vait. 各所(索引参照);Āśv. 9, 5–10;10, 1, 1–10;Ś. 14. 15;Lāṭ. 8, 9, 1–4¹。)

Agniṣṭoma は、他のきわめて数多い一日 soma 供犠の範型でもある。それらは多様な目的と願いに役立ち、特別な規定が定められていないかぎり、儀礼技術・詩節・Sāman に関する一定の変更を伴って Agniṣṭoma として祝われる。

そのうちいくつかは文化史的な関心を提供する。たとえば Viśvajit であり、その Dakṣiṇā は千頭の牛と百頭の馬から、あるいは祭主の全財産から成る(Lāṭ. 8, 1, 28;2, 1;Kāt. 22, 1, 9 以下)。後者の場合(Kāt.)、彼は長男にその財産分を与える。ある者たちによれば土地と śūdra を除いてである。

供犠の沐浴ののち、祭主と妻は赤い

72. その他の Ekāha。 139

仔牛の皮を身にまとう。その皮は尾と耳をつけたまま剥がされたものである。

十二夜のあいだ彼は、葦または udumbara の鋤と頭布とを携えて、種々の場所に滞在する。最初の三夜は udumbara の茂った場所で。果実と根が彼の食物をなす。

次の三夜は Niṣāda たちのもとで²、彼らのもとで栽培される果実(米や大麦のような)を食べることなく(と Kāt. は言う)、あるいは土器から飲むことなく過ごす。さらに三夜は jane、最後の三夜は samāne jane で過ごす。これらの語は種々に説明されており(Lāṭ. を参照)³、Kāt. における śruti の引用によれば vaiśya ないし rājanya を意味するという。

他の Ekāha としては、六つの sādyaḥkra を挙げるべきである。これらにおいては、通常は先行する Dīkṣā と Upasad をも含めて、すべてを同じ日に遂行すべきである(22, 3, 26 以下)。第一のものの規則は、以下のものについても妥当する(Kāt. 12, 1, 2)。

祭司たちは種々の方位に住まうべきである。東に一 Yojana 離れて Hotṛ が、一呼び分だけ近く(なお三 Krośa)北に Udgātṛ が、二 Krośa の距離をおいて西に Adhvaryu が、南に一 Krośa で Brahman が住む。

祭主の人々によって、彼らはそれぞれ何 Krośa 離れて住むかに応じた数の馬を繋いだ種々の車で迎えに来られる。車の上には乳の入った革袋があり、その乳は同じ日に搾られたもので、揺すぶることによって原始的な仕方で供犠のバターを供する。

Vedi は種の畑、あるいは実った大麦ないし米の畑であり、Uttaravedi は脱穀場ないし塵の山である。Yūpa としては犂の轅が、Caṣāla としては穀物の束が役立つ。

Sādyaḥkra の第一のものは、天を、家畜を得るのに、また恋敵を除くのに役立つ。額に金の飾りをつけた白い馬が、なかんずく Udgātṛ に与えられるべきである(Kāt. 22, 2, 13;Lāṭ. 8, 3, 15)。第二のものは病を除き、堅固さと食物を与える。第三のもの(anukri)は、自らが短くされたと見る者がささげる。

第四のものは viśvajiccḥilpa と呼ばれ、そこではまず何よりも、その土地が提供しうるものを力に応じて Dakṣiṇā として与える。西では高貴な馬、東では象、北では騾馬の牝を繋いだ車を与える。

第五の Sādyaḥkra「śyena」は呪詛の呪術として用いられる。Kāt. 22, 3;Lāṭ. 8, 5;Āśv. 9, 7 に与えられたその儀軌は、Śāṅkh. による 10 頁に記述された供犠と多くの点で一致する。

Dakṣiṇā は、再び供犠の性格を映し出して、この Sādyaḥkra においては片目の、角と尾のない足萎えの牛から成り、熱病の牛が混じっている。引き渡しの時には、それらを棘で引っ掻かねばならない。

さらに興味深いのが四つの vrātyastoma⁴ である(Kāt. 22, 4;Lāṭ. 8, 6;TMBr. 17, 1–4)。ある注釈によれば Vrātya とは、第三代に至るまで Sāvitrī を失った者(前掲 51 頁参照)、いわゆる patitasāvitrīka である。

しかしおそらく問題なのは、Weber がすでに述べたように⁵、非バラモン的な部族の成員であり、また私の考えでは本質的に、そのような者のバラモン教への改宗である。

TMBr. 17, 1, 2. 9 によれば、Vrātya の生活を送る者は低く評価されている。「彼らは神学の研究も、農耕も、商業も営まないからである」(すなわち注釈によれば、規定されたことを行わず、禁じられたことを行う)。「毒を享けるのは、その土地のバラモンの食物を食べる者、良き言葉を悪しと呼ぶ者、罰せられざる者を杖で打つ者、聖別されていないのに聖別された者の言葉を語る者である。」

第一の Vrātyastoma は Kāt. によれば、舞踏・歌唱・琵琶の演奏などに通じ、その知識を Vrātya の一団に伝えようとする Vrātya のために定められている。第二は悪評ある者のため、第三は軽んじられた者(kaniṣṭha)のため、第四は「jyeṣṭha」のためであり、これはここでは「生殖力の衰えた老人」の呼称である。

「そのうち最も悪評ある者、最も富める者、あるいは最も知識ある者を、彼らは Gṛhapati として聖別すべきである。彼の後にはじめて彼らは食すべきである。」

Vrātya の装備は、横に結んだ

140 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

ターバン、追い棒、不適切な弓 ―― Lāṭ. によればそれで人を脅かすだけのもの ―― 、白いあるいは黒い衣 ―― 前者の場合には黒い縁飾りつき(?)―― から成る。

さらに、特別に仕立てられた、あるいは不揃いに馬を繋いだ、轍から外れて走る車 ―― Lāṭ. 8, 6, 9 によれば「東方の者たちの車」―― と、銀の飾りとが必要である。

Gṛhapati は二枚の牡羊の皮を、両側で互いに結び合わせて身につける。一方は白く、他方は黒い。「ある者たち」は(Lāṭ. 8, 6, 23 によれば Śāṇḍilya)「耳のついた」あるいは「耳の形をした」(?)黒い靴の使用を規定している。

これらの品々は Dakṣiṇā の時に、Magadha 出身のバラモンカーストの、値しない一員、「māgadhadeśīya brahmabandhu」⁶ に与えられるか、あるいは「まだ Vrātya の生活を終えていない」者に与えられる。この者に「拭い去る」ことによって彼らは清らかになる。

Vrātyastoma をささげることによって、彼らは Vrātya であることをやめ、通婚と交易とにふさわしく、供犠に適した者となる。あるいは Lāṭ. が言うように「traividyavṛttiṃ samātiṣṭheyuḥ」となる。

われわれのテクストにおいては、これらの供犠の叙述に際して、そのほかには用いられず、その正確な意味が Sūtra 作者の時代にすでに争われていた一連の語が用いられており、それらは東方の言語から借用されたものであろう。たとえば Lāṭ. 8, 6, 12 以下は kṛṣṇasaṃvāsa(TMBr. 17, 1, 14 を参照)について Śāṇḍilya、Gautama、Dhānaṃjayya の説明を挙げている。

これらおよび他の供犠日を儀軌に導入したことについては、Chandoga たちに本質的な役割が帰せられるように見える(前掲 27 頁参照)。Kāt. は 22, 5, 1;6, 25 で明示的に chāndogye viśeṣo yathākāmam と述べており、彼の規定の多くはここで Udgātṛ たちの実践から直接借用されたように見える。

そのような実践、とりわけ値しない人物を儀軌に導入したことが、Chandoga たちのより低い評価(101 頁)をも引き起こしたのであろう。

さらなる Ekāha として、なお bṛhaspatisava を挙げよう。これは Tejas、Brahmavarcasa、Purodhā を望む者のためのものである(22, 5, 11 以下. 29)。祭主はその際、敬うべき人物として扱われ、他の者から挨拶されるが、彼は挨拶を返さず、sthapati と呼びかけられる(143 頁参照)。

死を望む者のためにも、sarvasvāra と呼ばれる Ekāha がある(K. 22, 5, 31;6, 1 以下)。そこでは祭主は全身を覆い、頭を南に向けて黒い皮の上に身を横たえねばならない。

奇異なのは、Deva たちと Asura たちの争いに遡る upahavya であり、これも同じく Chāndogya 派にその起源をもつように見える(Āśv. 9, 7, 28 への注釈;Lāṭ. 8, 9;TMBr. 18, 1, 3 注釈)。

この供犠においては、神々の名はその位置では密かにのみ、これに対して他の箇所では公然と唱えられるべきであり、deva という語はまったく避けるべきである。Indra には śakra、Soma には indu、hotā devo には mahī mitrasya、hotā yakṣe(?)には mahī yajñasyasarva には viśva と言うべきである。

Ekāha の一群が sava の名のもとにまとめられる。TBr. 2, 7 の注釈はそのうち七つを挙げており、Bṛhaspatisava、Vaiśyasava その他である(Kauś. への Keśava によれば 22 ある。364 頁)。これらの Sava については BRW〔=ペテルスブルク辞典〕を参照。

儀軌の教師たちが、可能なかぎり供犠の内的性格に対応する Dakṣiṇā を規定していることは、すでに注意を促されている(97. 109. 139 頁)。ここでなおいくつかの例を挙げよう。

vaiśyastoma(Kāt. 22, 9, 7)においては、vaiśya あるいは何らかの paśukāma のための報酬は、五歳の種々の色の牡牛と、三歳のまだ交尾していない、五つの異なる色の若い牝牛(「蓮の花のような」斑、「新鮮なバターに似た」斑、赤みがかったものなど)から成る。

同じく paśukāma のためにささげられる二つの catuḥstoma のうち第一のもの(K. 22, 10, 18 以下)では、力に応じて奇蹄類(馬、騾馬、驢馬)を与え、第二のものでは奇蹄類と偶蹄類とを与える。

栄誉を望む者のための apaciti においては、四頭の馬を繋いだ車を一台ないし二台与え、その馬はそれぞれ 100 頭の牛の価値が

73. Vājapeya。 141

あるべきであり、さらに真鍮の防具を両側に添えて与える(K. 22, 10, 30;Lāṭ. 9, 4, 13)。

agnehstoma〔= agneḥ stoma〕においては Dakṣiṇā は穀物を満載した四台の車から成り、これらはこの供犠の第一のものでは六頭、第二のものでは四頭の牛を繋ぐべきである。

韻律の音節数もまた、Dakṣiṇā の数を定めるのに用いられた。Kāt. 22, 10, 27;11, 21. 22. 25 は gāyatrīsaṃpannā dakṣiṇā(jagatībṛhatī)について語り、その際 24、48 ないし 36 頭の牛が贈られる。

Dakṣiṇā 制度の発達 ―― その存立の物質的基礎 ―― には、バラモンたちによって明らかに常に大きな意義が置かれてきた。これを総括的に加工すれば、文化史的な成果なしにはすまないであろう。儀軌上重要な Nānāghāṭ 碑文が、ささげられた供犠とそれに対して支払われた Dakṣiṇā の一覧をもってそれを証しているとおりである⁷。

§§ 73. Vājapeya¹

(Āp. 18;Kāt. 14;Vait. 27;Āśv. 9, 9;Ś. 15, 1 以下;16, 17, 1 以下;Lāṭ. 8, 11. 12 および 5, 12, 8–25。)

Somasaṃsthā に数えられる Vājapeya は、一日供犠のうちで特に際立った自立的な地位を占める。それは Kāt.、Vait.、Hir.、Ś. によれば秋に祝われ、他の soma 供犠とは一連の特徴的な特色によって区別される。それらはこれに、より民衆的な刻印を与え、より広い層の参加を前提とさせるものである。

「Vājapeya(すなわち Soma)、勝利の飲料は、Aśvamedha や Mahāvrata と同じく、インドの、生活のあらゆる面に触れる儀軌のうちに、いかに民衆的な慣習の宝が保たれているかを示す祭である²。」Weber はこれを同様に「民衆的な勝利の祝い」³ と呼んでいる。

それは自立した供犠としてささげられるか、あるいは Sarvamedha 供犠の第六日をなしうる。そして一つの Sutyā の日から成り、13 あるいはそれ以上の Dīkṣā の日と、少なくとも三つの Upasad の日とがこれを導入する。したがって全体では少なくとも 17 日から成る。

ある者たちは、丸一年を要する前祝と後祝(pariyajña)をさえ認めている。

Ṣoḍaśin の 16 の Śastra と Stotra に、第17番目として Vājapeya の Śastra ないし Stotra が加わる。これが saptadaśastoma の基礎を与え、この供犠に固有の 17 という数は、先行する Sāman にも次のように働きかける。すなわち、たとえば 9 ないし 15 の詩節から成る Bahiṣpavamāna および Mādhyandinapavamāna の Stotra が、17 にまで高められるのである⁴。

Prātaḥsavana の Graha には、aṃśuadābhyagraha(129 頁参照)が先行する。前者は Āp. によれば(Kāt. 12, 5, 13 をも参照)bhrātṛvyatā(兄弟の敵意)をもって、後者は bubhūṣatā(繁栄への意欲)をもってささげられる。

Graha の数は五つの Vājapeya- ないし Aindragraha だけ増える。もっともここでは記載が揺れている。

Kratupaśu(125 頁)には、「勝利に富む」Marut たちのための rasā pṛśni と、Prajāpati に献じられた 17 頭の牡山羊 ―― 角がないが生殖力に富む ―― とが加わる。

黄金の花冠が祭主・その妻・祭司たちの頭を飾り、その花冠は終わりに報酬として彼らに残される。Hotṛ のそれは Āśv. によれば、金剛石の花糸をもつ百の黄金の蓮から成る花冠である。

この供犠の特色に属するのは、第一に昼の Savana に結びついた競走である。rājanya あるいは kṣatriya が 17 本の矢を射て競走路を測る。その最初の矢を彼は Cātvāla と Utkara のあいだに立って放つ。そして 17 番目の矢が落ちたところに、地中に埋めた udumbara の枝で目標を印す。

台から持ち上げられた祭主の戦車には三頭の馬を繋ぎ、第四のものは

142 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

轡をつけるが繋がない。速さと勝利に関わる呪句が所作に伴う。Bṛhaspati に敬意を表して野生の米で煮た粥を、馬に嗅がせる。

さらに 16 台の車が四頭立てで繋がれるが、呪句なしに、また Vedi の外で行われる。祭主の車には Adhvaryu の召使あるいは弟子が乗り込み、祭主に適切な時に、馬の走りに関わる呪句を唱えさせる。他の車の一つには rājanya あるいは vaiśya が乗り、この者は後に Madhugraha を受け取ることになる。

一本の柱に、udumbara 材の車輪(Lāṭ. によれば 17 本の輻をもつ)が取り付けられる。Brahman がこれに登り、競走のあいだ三度 vāgindraṃ sāman を歌う。Āśv. によれば、詠唱のあいだ車輪は右に回される。

Vedi に沿って取り付けられた 17 の太鼓が打たれ、祭主が最初に目標を通過する。

戻ると彼は再び馬にあの米粥を嗅がせ、いまや第四の馬をも繋ぎ、Adhvaryu に自らの馬車を、他の 16 を残りの Ṛtvij たちに贈る。

供犠の第二の特色をなすのが 17 の surāgraha である。この飲料、あるいはそれに必要な材料⁵ は、soma の購入と同時に「長髪の男」から鉛と引き換えに買われる(§ 81 参照)。

Graha を受けるために特別な Khara が作られ、清めには毛の篩が用いられる。常に soma の盃と交互に ―― その充填は Adhvaryu の務めである ―― 、Neṣṭṛ が Surāgraha を汲む。

これに続いて、黄金の椀に「蜜の盃」(madhugraha)を汲むことが行われる。これは認めうるいかなる目的にも役立たず、より古い時代からの、もはや理解されない遺物であるように見える。

これは競走ののち、車の一つに乗った rājanya ないし vaiśya ―― そのあいだに Vedi の上に座を占めた者 ―― に与えられ、その者から 17 の Surā の盃と引き換えに買い戻され、バラモンに贈り物として与えられる。

Vājapeya の第三の性格的特徴は、祭主の yūpārohaṇa である。彼を象徴的に十二の月と六つの Ṛtu の主とする呪句、そして献酒と結びついた十二の āpti と六つの kḷpti とが、この儀式に先行する。

Neṣṭṛ が妻を導き来たり、彼女に下着をつけさせる。「来たれ、おお女よ」と祭主は呼ぶ、「われらは天に登ろう」。妻「われらはそれに登った」。彼「われは二人して天に登りたい」。彼女「二人して天に登れ」(Hir. によればそうである)。

これに続いて彼は梯子を用いて、17 の衣で覆われた供犠柱に登る。その先端は座席に整えられている。そこから彼は一つの呪句とともに自らの家を、あるいは諸方位を見わたし、viśaḥ(注釈によればその子どもたちなど)から、Hir. によれば祭司たちから、aśvattha の葉で作った塩の袋を投げつけられる。

ついで彼は Yūpa の前に広げた皮の上に降り立ち、その上に置かれた黄金に足を置く。

玉座が据えられ、彼はそこに座を占めて聖別(abhiṣeka)を受ける。これは Caru bārhaspatya の Sviṣṭakṛt の前に行われる。

udumbara の器に水が注がれ、乳が加えられ、ある者たちによれば「十七」の食物、あるいは「思い出しうるかぎりの」食物が加えられる。ただ一つの食物を除いてであり、彼はそれを以後生涯にわたって断たねばならない。Oldenberg⁶ によれば「太古の『タブー』規定の最後の余韻」である。

この混合物から、vāja に関わる呪句を唱えつつ、まず七つの vājaprasavīya の献供が供犠され、残りは Sarasvatī Vāc あるいは Vāc あるいは Viśve devāḥ に呼びかけつつ abhiṣecana に用いられる⁷。

三度、祭主は samrāj として呼び上げられ、17 の ujjiti すなわち勝利の呪句 ―― これには献酒が伴いうる ―― をもって祝いは終わる。

この供犠の Dakṣiṇā ―― その細目については記載が揺れているが ―― は、

74. Rājasūya。 143

17 百頭の牛、17 着の衣、17 台の繋いだ車と戦車、象、黄金の飾り(Āśv.、Kāt. はとりわけ黄金の頸飾りをつけた女奴隷を挙げる)、太鼓から成る。七種の各々について 17 個を āpta vājapeya は要求し、他方 kuruvājapeya は「あらゆる年齢の」牛を 17 頭ずつ要求する(全体で 85)⁸。

供犠の本来の意味は認識しがたい。vāja という語はすでに Brāhmaṇa の時代には古語となっており、呪句のうちにのみ現れる。vājapeya という名は Śat. Br.、Śāṅkh. によれば「食物と飲料」、Oldenberg によれば「力の飲料」⁹、Weber によれば ―― 彼は peya「守る」から導く¹⁰ ―― 「力」の「保護」ないし「聖別」を意味する。

Sūtra の大多数がこの供犠を上位二カーストの成員にのみ規定するのに対し、Śāṅkh. は Sarvamedha に属する Vājapeya について、Vaiśya をも Yajamāna として語っている。

これと一致するのが、それが annādyakāmasya にささげられるという Śāṅkh. の記載であり、また豊穣と富を指し示す他のいくつかの契機である。たとえば Āsandī に座を占める祭主への呼びかけに際しての kṛṣi という語の選択、供犠柱を godhūmacaṣāla(Ś. 15, 1, 16)あるいは godhūmapiṣṭacaṣāla(Hir. 13, 1)で飾ること¹¹、おそらくは劣格の Surāgraha もそうである。

Vaiśya を供犠に参加させるよりもむしろ排除しようとする傾向からすれば、Ś. のかの記載には、Kāt. その他 ―― これらは brāhmaṇa と kṣatriya のみを挙げる ―― に対して、Weber によって正当にもより高い価値が置かれている。

したがって供犠の目的は、もっぱら Samrāj あるいはバラモンの位を得ることではなく、身分の上昇一般であろう。「roho vai vājapeyaḥ」と Śāṅkh. 15, 4, 1 は言う。上昇は Yūpārohaṇa によって、勝利は競走によって象徴される。

したがってもともとは、gataśrī(śuśruvān brāhmaṇaḥgrāmaṇīrājanya Ś. 2, 6, 5)のための、あるいはこれらの位の一つに達しようとする者のための供犠であったように思われる。

祭主が身分ある人物へと高められることは、これに結びつく Vrata の規定に表れている。それによれば祭主は kṣatriya の生活(kṣatravṛtti)を送るべきであり、Vājapeya をささげたことのない者に対しては起立と挨拶とを避け(pratyavarohaṇābhivādane)、そのような者の後ろを歩まず、彼らと共同の寝床をもってはならない(Lāṭ. 8, 12, 2)。

Vājapeya と対照的に、個々の身分のための特別な供犠があった。王位のためには Rājasūya、バラモンのためには Bṛhaspatisava(前掲 140 頁)、他の身分のためには散発的に現れる Sūta-、Sthapati-、Grāmaṇī-、Gosava である。

Vājapeya はすべての者にとって、yaṃ brāhmaṇā rājānaś ca puraskurvīran(Lāṭ. 8, 11, 1)適用されえたのに対し、これらは当該の位のためにのみ適用されえた。

そしてこのことから、Vājapeya をあるときは Rājasūya ないし Bṛhaspatisava に先行させ¹²(Āśv. 9, 9)、あるときはそれと同等とし、さらにはその上に置くという種々の見解が説明されよう。一般的な祝いは、より特殊なものを排除する必要がなかったからである。

§§ 74. Rājasūya¹

(Āp. 18;Kāt. 15;Kauś. 17;Vait. 36, 1–13;Āśv. 9, 3. 4;Śāṅkh. 15, 12–27;16, 18;Lāṭ. 9, 1–3。)

kṣatriya 家系出身の王のための聖別 ―― これはおそらく種々の AV の歌²の機縁となった ―― は、春に、Mānava 派によれば秋に行われる大規模な

144 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

供犠であり、多くの改変³ と学派内部での相違とを伴う。その前祝は丸一年前に始まり⁴、その中心をなすのが、一つの Sutyā の日を含み、Dīkṣā と Upasad の日によって導入される Abhiṣecanīya である。

この供犠は神話的には Indra に、あるいは Varuṇa 王の聖別に結びつけられ、それゆえ varuṇasava の名をも帯びる。また、おそらく Varuṇa と Bhṛgu との関係と密接な連関において、少なくともその重要な部分においては Bhārgava を Hotṛ とする。

歴史的にはそれは叙事詩時代の王家、すなわち Bharata あるいは Kuru と Pañcāla とに遡る。

われわれはここに、祭主と祭司たちのみならず、さらに広い層、とりわけ宮廷官吏が関与するのを見いだし、また種々のより民衆的な要素、古い呪術慣習、象徴的な出陣、賽子遊びが儀軌に取り込まれているのを見いだす。Brahman あるいは Adhvaryu の位置には、繰り返し Purohita が入る。

それは数日にわたる供犠、すなわち pavitra あるいは abhyārohaṇīya とも呼ばれるものによって開かれる。その第一の Dīkṣā の日は Phālguna 月の白半の第一日に当たる。

これに複数の献供が続く。まず Anumati と Nirṛti へのものであり、Nirṛti は粉と穀粒の残りを受け取る。これは南の、塩を含んだ、あるいはひび割れた地面の場所で行われる。黒 YV のテクストによれば、ここでの供犠の報酬は黒い縁飾りのついた黒い衣である。

導入の献供は Phālguna の第15日まで及び、その日に、一年を包含する ―― ある者たちには飛ばされる ―― Cāturmāsya が始まる。節目の日のあいだの期間は、Āśv. 9, 3, 5 が言うように cakrābhyām、すなわち新月・満月供犠によって、あるいはある者たちによれば太陽と月への献供によって満たされる。

それらは次の Phālguna の第一日に Śunāsīrīya をもって終わる。

これに続いて、同じ日あるいは新年の翌日に、諸方位の守護神への pañcavātīya- あるいは pañcadhanvīya-献供が来る。これに続いて、あるいは黒 YV によればこれに先立って、indraturīya、すなわち Agni、Varuṇa(大麦)、Rudra(gavedhukā)、Indra(荷牛の酸乳)への四つの献供が来る。

さらに、北における Rakṣas の防除のために、Traiyambaka におけると同じく燃えさしを用いて、palāśa または vikaṅkata 材の匙で穀粒を用いる Apāmārgahoma が行われる。これは Weber によれば民間信仰に由来し、Rājasūya の外でも対抗呪術として用いられる。

第二・第三の Phālguna の日は、三つの triṣaṃyukta 献供が占める。各々は Agni-Viṣṇu、Indra-Viṣṇu などのための個々の献供の三組から成り、供犠の報酬は矮小な、暗色ないし褐色の牛である。

第3日から第15日までの Phālguna の日々を満たすのが、十二の ratnahavis である。これらは順に、宮廷の最高位の人物 ―― 「Rāṣṭra を与え、また取る者たち」―― の家々で、すなわち軍司令官、Purohita、祭主自身、Mahiṣī、Sūta などの家で、当該の官職の性格と一定の連関に立つ神々のためにささげられる。

たとえば Senānī の家では Agni anīkavat のために、Mahiṣī の家では Aditi のために、「追われた妻」の家では Nirṛti のためにささげられる。最後の場合には、黒い、爪で割った米粒を一匙分用いる。

これに応じて Dakṣiṇā も変化する。いま挙げた三つの供犠については、順に黄金、乳を出す牛、そして老いた黒い「痩せこけた」牛である(Kāt. 15, 3, 34)。Dūta の家では弓、箙、赤いターバンが供犠の報酬である。

この十二の「宝の供犠」に続いて贖罪の儀式が来る。黒 YV によれば Indra sutrāman と aṃhomuc への献供、Kāt. によれば白い仔牛をもつ白い牝牛の乳のなかでの Soma-Rudra のための Caru、そして Mitra-Bṛhaspati のための Caru ―― 儀軌において両神を特徴的に区別しつつ ―― である。

これをもって準備は終わり、Caitra の第一日に Dīkṣā とともに聖別の祝い、すなわち abhiṣecanīya が始まる。これは Ukthya 供犠であり、Sutyā の日のほかに Dīkṣā の日と

74. Rājasūya。 145

三つの Upasad の日、したがって全体で五日を含む(Dīkṣā の数についての見解の相違は Lāṭ. 9, 1, 5 以下)。

この供犠のための供犠場と同時に、Daśapeya のための場所も整えられ、両者のために同時に soma が買われる。

Savitṛ satyaprasava、Agni gṛhapati らのための八つの devasūhavis ―― これは種々の米(「早く育った」「野生の」「赤い」米)、黍などから作られる ―― が、より狭い祝いを導き、その目的は、これらの神々の配慮に祭主 NN、NN の子を推薦し、この部族の支配者としてこれを立てさせることである。

いま塗油のための材料が調達される。17 種の液体、すなわち Sarasvatī の水、流れとともに流れる水、流れに逆らって流れる水、渦から取った水、ātapavarṣyāḥ(日照り雨の落下時に空中で受け止めた滴)、牝牛の胎から取った水などである。

正午、Marutvatīyagraha ののち、Māhendra の前に塗油が行われる。Pṛthi Vainya に遡る六つの Pārtha 献供がささげられ、注ぎ合わされた塗油水は二つの漉し器で清められ、palāśa、udumbara、nyagrodha、aśvattha 製の四つの器に注がれる。

Yajamāna は麻の衣をまとい、そこには供犠の器が刺繍されている。その上に別の、色あせた(注釈:赤い)色の衣、さらに上衣とターバンを着ける。

Adhvaryu の手から彼は厳粛な儀式のうちに、弦を張った弓と三本の矢とを受け取り、自ら唱えるべき七つの devasū の呪句によって、神々に「探り出された」者として宣言され、王として布告される。

悪霊は、Adhvaryu が Sadas の脇に座す「長髪の」人間の口に投げ入れる一片の銅によって祓われる。

祭主はついで呪句を唱えつつ諸方位へ歩み、東・西などを「登り」、塗油の器の近くに広げた虎の皮を踏む。その後ろ側には一片の鉛が置かれており、彼はそれを足で「Namuci の頭」として蹴り出す。

足の下に黄金の飾りを置き、頭に九重ないし百重に透かし彫りにした黄金の輪を戴いて、彼は塗油を受ける。それは前面からは Purohita あるいは Adhvaryu の palāśa の器から、その他は親族、親しい rājanya、および vaiśya が行う。

塗油に続いてさらに六つの Pārtha 献供がささげられ、ここで、あるいは他の者たちによればより後に、Śunaḥśepa の有名な ākhyāna⁵ が来る。これを Hotṛ は黄金の座布団に座って、塗油された王に語り聞かせる。これは、かつて Rājasūya が人身供犠と結びついていたかもしれないことを示す唯一の記憶である(Ait. Br. 7, 15, 8 を参照)。

王は皮の上で Viṣṇu の歩みを行い、残りの塗油材を palāśa の器に注ぎ、これを自らの最愛の息子に、「彼の業を、彼の力を継がんことを」という願いとともに手渡す。

父と子との共同を象徴するのが Adhvaryu の側からの一献供であり、その際 Adhvaryu は王の息子につかまれ、その呪句のうちで父と子の名をまず取り違え、ついで正しく言う。

供犠の性格的な特徴の一つが象徴的な掠奪の出陣である。Āhavanīya の北に 100 頭あるいはそれ以上の牛が立てられる。これらは王の親族に属する。

彼は台から持ち上げられ四頭の馬を繋いだ戦車に乗り、牛の群れのなかへ乗り入れ、そのうち一頭を弓の端で触れ、他のものもろとも自らの所有と宣言する。所有者たちには賠償が与えられる。

より教えるところが多いのは Lāṭ. 9, 1, 14 以下である。それによれば、王の弱い親族たちをその財産もろとも引き立ててくる。Dakṣiṇā の時に彼はこれを略奪し、彼らに矢を射かける。彼らはその矢を自ら彼に返し、彼が勝利せんことを願う。

彼らの財産の三分の一を祭司が受け、三分の一を Daśapeya の参加者が受け、残りは所有者たちが再び受け取り、さらに村が

欄外下:Indo-arische Philologie. III. 2. ―― 10

146 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

これに加わる。彼らは以後 rājanya として通用するが、王の塗油にはふさわしくない者とされる。

思うにここには、東方の宮廷における王位継承者の地位と親族の争いとが、象徴的に儀軌のうちに突き出ているのである。

Kauś. のより単純な儀軌においては、王は馬に乗り、「不敗の」方位に向かう。(興味深い類例が、ハンガリーの戴冠儀礼に見いだされる。そこでは王に四つの方位へ剣を振らせる。「短く伸ばした駈歩で王は戴冠の丘を駈け上がり、聖なる剣を四つの世界の方位へ十字に振り、そのつど馬をすばやく turn させた⁶。」)

より高位の者の塗油が問題である場合には、vaiśya がその財産をもって彼の前に進み出て、彼と言葉を交わす(Kauś.)。

車の轅を外すことに関わる複数の献供ののち、祭主は猪の皮で作った履物を履き、「大地に傷つけられず、また大地を傷つけない」ようにという願いとともに大地を見下ろし、降り立つ。

弓と矢を彼は弓持ちに渡し、ついで虎の皮の上に据えられた玉座に登る。そこで彼は Adhvaryu から五個の賽子を受け取り、伴う呪句のなかで「五つの世界の方位」と呼ばれる。そして祭司たちから、背後からゆっくりと静かに、供犠に清らかな樹から取った小枝で打たれる。

賽子遊びが始まる前に、Purohita あるいは Adhvaryu が王に一本の Sphya を渡す。王はこれを自らの兄弟に、兄弟は Sūta ないし Sthapati に、この者はさらに Sajāta(同郷の者?)に渡す。この者が Pratiprasthātṛ とともに、この Sphya を用いて家の火の近くに遊技場を画し、その上に小屋が建てられる。

黄金がその中央に置かれ、Adhvaryu がその上で供犠し、その上に賽子を投げる。彼は賽子に「太陽の光と競い合って、王を部族の堅固な中心たらしめよ」と促す。

ここでも Agnyādheya におけると同じく(107. 108 頁)、賽子は儀軌において一つの役割を果たす。ここで Tylor の言葉⁷ を想起するのは有益である。すなわち「占いの技と賭博とは、その根本的特徴においてきわめて似ているため、同じ対象が一方の用法から他方へと移り行く」。これは、宗教的契機と世俗的契機との相互作用の可能性を、ここでもまた眼前に思い浮かべるためである。

供犠ののち Adhvaryu は gāṃ divyadhvam「牛を賭けて遊べ」という言葉をもって遊びを促し、Kṛta であれ他のものであれ、賽子遊びが始まる。これに対する供犠の報酬として、祭司たちには家の火を積んだ車を牽く牛が与えられる。

ついで Ekāha は Māhendragraha(132 頁)から Udavasānīyā(134 頁)までのさらなる進行をとる。ここ Rājasūya においては、後者に代えて Indra-Viṣṇu のための traidhātavī ―― 米と大麦の三重の献供で、一定の比率で互いに混ぜられたもの ―― が入る。

これは供犠の沐浴に続き、その沐浴は特別な規定を守って遂行されるべきである。その後、所作は daśapeya と呼ばれる soma 供犠へと向かう。

Savitṛ、Sarasvatī らのための十の saṃsṛpāhavīṃṣi ―― これらは Dīkṣā の位置を代表する ―― は、そのそれぞれが、先に(145 頁)整えられた Daśapeya の供犠場へと常により近くささげられ、最後のものはついに Daśapeyaśālā そのもののなかで供犠される。

自然の、あるいは黄金の蓮の花 ―― そこから祭主は終わりに自らの首のための花冠を編む ―― が、これら十の献供に対する供犠の報酬をなす。

この Daśapeya は、もともとはおそらく戴冠の祝いとは独立した自立的な儀式であり、Caitra の白半の第七日に始まる。これは排他的な soma 供犠⁸ であって、その催行者は、名を挙げて列挙しうる十人の soma 飲用者の祖先の列を示さねばならない。もっともここでも祭司的実践は理論よりも寛容であったが。

十の盃の各々で十人が共に飲む。見解は

75. Ahīna。 147

揺れており、祭主の盃には彼の同身分の者が与るのか、それとも彼以外にはバラモンのみが飲んでよいのかについて相違がある(Ait. Br. 8, 8, 8 は、Punarabhiṣeka に際して王に Surā の盃を差し出させている)。

供犠の報酬として、Brahman は十二頭の孕んだ牝牛を、Udgātṛ は黄金の花冠を、二人の Adhvaryu は二枚の黄金の鏡を、Maitrāvaruṇa はなかんずく不妊の牝牛(vaśā)を受ける。

一定の期間、あるいは生涯にわたって続く種々の遵守事項が、この供犠に結びつく。その一つが、一年後に行われる大規模な Keśavapanīya の儀式まで頭髪を切ってはならないという禁令であり、Lāṭ. はこれを王国の住人のうちバラモンでない者にも、さらには馬にまで及ぼしている。

さらに献供をささげねばならない。すなわち五重の pañcabila caru、諸方位を探り当てるための diśām aveṣṭayaḥ、季節を得るための十二の prayugghavis ―― これらは月ごとの間隔をおいて、あるいは互いに空間的な距離をおいてささげられ、最初の六つは常に Śamyā 投げ一つ分ずつ遠くへ、次の六つは常に Āhavanīya へ近づけて、あるいはさらに別の仕方でささげられる ―― 、さらに孕んだ牝牛二頭の供犠、すなわち Āditya たちないし Aditi のための赤色の牝牛と、Viśve devāḥ ないし Marut たちのための斑の牝牛である。テクストは配列においても細目においても、いたるところで揺れている。

祭全体の締めくくりとしては、いま述べた、Atirātra として祝われるべき keśavapanīya、すなわち Jyaiṣṭha の満月における王の髪の厳粛な剪髪を見なしうる。これはテクストにおいてはきわめて短くしか扱われず、TS. ではまったく扱われていない。

さらなる後祝 ―― 支配権の維持のためのもので、義務的な種類ではない ―― は、二日にわたる vyuṣṭikṣatradhṛti であり、後者は Ś. が Kuru たちの追放についてのある伝説に結びつけて規定している。

同じく Rājasūya と関係づけられる Sautrāmaṇī については § 81 で論ずる⁹。

Rājasūya の広範な供犠に対する供犠の報酬は、途方もない高さに達する。Āśv. 9, 4 は Abhiṣecanīya と Daśapeya についてのみ特別な記載を与え、他の部分についての Dakṣiṇā を yadyatkḷpta と称している。Lāṭ. においては合わせて 24 万頭の牛となる(Weber 132 頁)。実際には、ここでの報酬はおそらく王の富と意志とに依存したのであろう。

§§ 75. Ahīna

(Kāt. 23;Vait.(索引参照);Āśv. 10, 1;11. 12;10, 1, 16–4, 6;Ś. 16, 19–30;Lāṭ. 9, 5–12。)

Ahīna とは、soma の搾りが二日から十二日続く供犠を指す。通例は十二の Upasad を伴い、全体としては一か月を超えない。

Āśv. は第7・8巻において、大多数の日々を記述ないし列挙している。それらは要素のように、Ahīna と Sattra との大多数を組み立てるものである。

1)Atirātra として祝われる Prāyaṇīya と Udayanīya。2)Caturviṃśa。3–14)Abhiplava と Pṛṣṭhyaṣaḍaha と呼ばれる二つの六日間の週祭 ―― テクストと朗誦法において多くの相違を伴う。15)Abhijit。16–18)三つの Svarasāman ―― 本質的には最初の三つの Abhiplava の日と同じで、正順あるいは逆順による。19)Viṣuvat。20)Viśvajit。21–23)Chandoma。24)*daśa-

欄外下:10*

148 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

mam ahar*。25)Mahāvrata(Āśv. には記述されていない)。したがって全体で 25 であり、そのうち複数は Ekāha としても通用する。

「限られた数の音が無限の表現法をもたらすように」と彼は 10, 5, 16 で言う、「限られた数の日々が無限の組み合わせを生ずる。」

他にも人為的な構成物が見いだされる。たとえば goāyuḥ とは、それぞれ三つの Abhiplava の日から次のように作りうる。すなわち go は第一日から朝の搾りを、第二日から昼の搾りを、第三日から夕の搾りを受け取り、同様に āyuḥ は第四日から第六日までから受け取る(Āśv. 8, 7, 15)。

Ahīna は常に Atirātra で終わらねばならない(Kāt. 12, 1, 6;Āśv. 10, 1, 17)。その他の日を構成するには、他の規定がないかぎり、Kāt. 23, 1, 5 によれば、Dvādaśāha に規定された Daśarātra の日々を常に一つずつ増やして選ぶ。したがって Dvyaha では第一日を、Tryaha では第一日と第二日を選ぶ。他方 Āśv. 10, 1, 16 は、私にはまったく明瞭でない Sūtra において、列挙された Ahīna については Ṣaḍaha に至るまで Abhiplava の日を規定し、他のものについては Pṛṣṭhya の日を規定している(9, 1, 4. 5 をも参照)。

Dvyaha から特に規定された Dvādaśāha に至るまで、これら十一の Ahīna のほとんどすべてが、特別な名で呼ばれる種々の改変をもつ。それらはおそらく、一定の家系ないし地方の実践から、Sūtra に見られる叙述へと合流したものであろう。

こうして、それぞれ二つの搾りの日をもつ三つの Ahīna、すなわち Dvyaha は、āṅgirasacaitrarathakāpivana の名を帯びる。Kāt. によれば、第一のものをもって供犠すべきなのは、その富にもかかわらず善行において後れをとっていると感ずる者であり、第二のものをもってするのは prajākāma、第三のものをもってするのは svarga- ないし paśukāma である。ただし他の Sūtra は他の目的を挙げている。

これらと同様に、他の Ahīna もまた一定の家系ないし人物に遡る。たとえば五つの Tryaha のうち ―― そこでは Dakṣiṇā の特別な配分が注目に値する¹ ―― gārgabaida が、Caturaha のうちでは atricāturātrajāmadagna その他がそうである。Daśarātra とは TS. 7, 4, 5, 4 が Udaṅka Śaulbāyana を結びつけている。

祭司による創案が、あるいは民衆的な供犠の利用が、個々の場合にどこまで存するかは認識しがたい。

古い民衆の財産がここでも儀礼的形式にもたらされたことがありうるのは、śabalihoma が証している。これは「春の森の託宣」² であり、Weber はこれをわれわれの郭公の託宣や、オーバープファルツで恋の託宣として用いられる犬の吠え声と比較している。

これは、自らの家畜の繁栄を望む者、千頭の家畜を望む者を助ける。Chāndogya 派のもとで詳しく規定される Gargatrirātra との連関において、あるいはそれとは独立に(テクストは揺れている)、それは Lāṭ. 9, 8, 4 によれば春の最初の日、白半において始まる。

祭主は髪と髭を剃らせ、まだ使っていない衣をまとう。この衣について TMBr. はなお特別な規定を与えている。彼は十二夜のあいだ、覆いのない、いくらか高くした場所に臥し、熱い乳を飲む。その住居の火は絶えず燃えていなければならない。Praiṣa を唱える友人以外は、誰も彼に従ってはならない。彼は言葉少なくし、遠くへ行ってはならない。

第十二日の朝方に、彼は Śabalī に向けられた呪句とともに蜜と酸乳の献供をささげる。人声が高くなる前に、彼は村から森へ出る。そこでは村にいる動物の声がもはや聞こえない。彼は草の束を取り、三度声を限りに「Śabali!」と叫ぶ。

これに対して犬や驢馬以外の動物が答えれば、供犠は成功する。答えがなければ、彼は翌年その叫びを繰り返すべきである。しかし三度目にも動物が答えないか、あるいは最初から犬か驢馬が答えたならば、家畜への彼の望みは潰える。

五つの Pañcāha のうちでは pañcaśāradīya³ を挙げておこう。これは五年にわたって(第七あるいは第八

76. Aśvamedha。 149

日、Āśvayuja 月の白半)Marut たちのために 34 頭の獣が繋がれるものである。

それらは半分が雄、半分が雌で、Vaiśyastoma で Dakṣiṇā に用いられる牛の、年ごとに変わる標識、すなわち「蓮の花のような斑」などをもつ(140 頁)。

17 頭の牡牛が繋がれるが、Paryagnikaraṇa ののち再び放され、その年の雌の獣だけで供犠が完了される。

こうして五年を経て、第六年に(Kārttika 月に)四日にわたって毎日三頭ずつ、第五日にこれらの牡牛のうち五頭が Indra-Marut のために供犠される。

この間に獣の一頭が斃れたり、事故に遭ったり、盗まれたりした場合には、その不幸の種類に応じて別の献供をささげるべきである。すなわち、逃げた場合には Vāyu に、溺れた場合には Apāṃ napāt に、といった具合である。

Ahīna のいくつかは、日々の特別な組み合わせによって際立つ。たとえば Daśarātra の Kusurubinda 形は、三倍の Stoma をもつ三つの Agniṣṭoma、十五倍の Stoma をもつ三つの Ukthya、十七倍の Stoma をもつ三つ、そして最後に二十一倍の Stoma をもつ一つの Atirātra という順序によって形づくられる。

同じ供犠の Pūr 形 ―― これは対抗呪術に用いられる ―― は、Agniṣṭoma、Ukthya、Agniṣṭoma、Go、Abhijit、Go、Viśvajit、Āyus、Viśvajit から成る。

特別な種類と意義をもつ Ahīna が、三つの soma 搾りの日を数える Aśvamedha である。

§§ 76. Aśvamedha¹

(Kāt. 20;Vait. 36, 14–37, 8;Āp. 20;Hir. 14;Āśv. 10, 6 以下;Śāṅkh. 16, 1 以下;16, 18, 10 以下;Lāṭ. 9, 9–11。)

馬祀祭はインドの典礼の最も古い構成部分の一つである。Ait. Br. 8, 21 は、厳粛な塗油ののち大地を巡り、それをもって供犠した古代の王たちを讃えている。

これは王の位の特権であり、王のみがこれをささげてよい。あらゆる願いを達成するため、より精確には自らの王国を増すためである。

彼がその際にささやく美しい呪句 Vāj. S. 22, 22 ―― 「おお Brahman よ、名声に富むバラモンが生まれんことを。国に王侯が、英雄が、矢に長けた、剛健な、戦車の戦士が生まれんことを。乳豊かなる牝牛、荷を牽く力ある牡牛、疾き馬、勤勉なる女が……」―― は、これらの願いの表現と見なしてよい。

供犠に選ばれる馬は特別な価値をもたねばならない(「千頭の牛に値する」)。三色あるいは多色、疾く、暗色の印を、あるいは車の印(kṛttikāṅji)を帯び、前は黒く後ろは白いか、あるいは黒斑である。教師たちの見解は細部において分かれていた²。

供犠は Phālguna の白半の第8日ないし第9日に、春に、あるいはある者たちによれば夏に始まる。Lāṭ. 9, 9, 6 以下は種々の見解を挙げている。

まず一定量の米が祭司のために Brahmaudana として煮られ、四千頭の牛と四百ミナの黄金とともに彼らに供される。

黄金の飾りをつけ沈黙を守る王のもとに、飾りをつけた四人の妃が加わる。それぞれその身分に応じて、種々の身分の百人の娘 ―― 王女、貴族(rājanya)の娘、高官(「厩舎頭と村長」)の娘、門番と御者の娘 ―― を従えている。

夕、Agnihotra の遂行ののち、彼は Gārhapatya の炉のもとで、頭を北に向けて、第二の妃の腿のあいだに、貞潔を犯すことなく身を横たえる。他の妃たちがその後に続く。

翌朝、種々の献供 ―― そのうち一つは Agni pathikṛt ないし mūrdhanvat(Āśv.)のためのもの ―― をささげ、Pūṣan のために祭司たちに豊かな贈り物をしたのち、Brahman の許しを得て、馬を 12 ないし 13

150 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

Elle の長さの、前日に Brahmaudana のバターで膏を塗った手綱ないし綱(raśanā)で「繋ぐ」ことが行われる。すべては呪句を伴う。

ついで馬は、流れのない水のほとりで水を撒かれる。低い出自の者(注釈によれば vaiśya の女から生まれた śūdra の子)、ある者たちによれば男娼が、「四つ目の」(目の上に斑のある)犬を取り、sidhraka 材の棍棒でこれを殺し、筵に載せて馬の下を泳ぎ渡らせる。「駿馬を殺そうとする者を」と祭主に言わせる、「Varuṇa が苦しめる。人を去らしめよ、犬を去らしめよ。」

馬が火のもとに戻ると、その乾燥に一連の stokīyā すなわち滴の献供が伴う。

これに続いて、日々繰り返される Puroḍāśa の献供が、Savitṛ prasavitṛ、S. āsavitṛ、S. satyaprasava にささげられ、そのために祭司たちにはそれぞれ百ミナの黄金ないし銀が支払われる。

Prayāja のあいだ、一人のバラモンが Uttaramandrā の調べに合わせて、自作の Gāthā を歌う。それは以前の供犠と Dakṣiṇā に関わるもの(ayajataadadāt)³ である。そして第三の Iṣṭi の終わりに、祭主と Adhvaryu とは馬の耳に、その解放のための呪句をささやく。「汝は母によって vibhū たり ―― Āditya たちの飛翔に従え。」

儀軌は、この馬を百頭の老いた ―― 注釈によれば二十四歳を超える ―― 馬のなかに交えて、北東へ放つよう規定している。

その護衛をなすのは、王妃たちの前述の侍女たちと同じ出自の、それぞれ百人の若者たちであり、鎧をつけ、剣・箙ないし棒で武装している。

神々に献じられた馬を守れという要求をもって、Adhvaryu は彼らにその義務を教える。彼らは一年のあいだ、まったく気ままに彷徨うこの馬⁴ を、危険(悪路、穴など。Lāṭ. 9, 9, 5 への注釈)から、牝馬との接触から、不適切な浴水から守らねばならない。

馬祀祭を知らないバラモンに出会ったところでは(「汝らは Aśvamedha がいかなる Yūpa をもつか知っているか」と Śat. Br. 13, 4, 2, 17 によれば彼らは問う)、彼らはその者から力ずくで食と飲みものとを調達し、すべてのバラモンから調理された食物(pakvānna)を取ってよい。Rathakāra⁵ のもとに彼らの宿があるべきである。

その業を幸いに全うする王子たちには、彼は王としての聖別を報酬として約束する。

馬に何らかの災いが降りかかったときは、これを献供をもって贖うべきである。たとえば鼻疽にかかったときは Pūṣan に、眼病になったときは Sūrya に、水に溺れたときは Varuṇa にささげる。

馬が死ぬか失われた場合には、別の馬を取り、これまでの儀式の一部をそれについて繰り返さねばならない。

馬の解放ののち、故郷では Vedi の南に黄金の座が設けられ、そこに Adhvaryu と Yajamāna ―― 息子と親族に囲まれて(Āśv. 10, 6, 10)―― 、さらに Hotṛ、Brahman、Udgātṛ が席を占める。

Hotṛ には pāriplava への促し、すなわち古い Ākhyāna の朗誦の促しが向けられる。これらは歴史と伝説における王の範型を指し示し、十一日周期で一年にわたって繰り返される。

講述の終わりに Adhvaryu はそのたびごとに、琵琶奏者たちに「祭主を王仙たちとともに讃えよ」と命ずる。

南の火において彼は、馬の動きに関わる prakramahoma をささげ、日没後 Āhavanīya において dhṛtihoma をささげる。そのあいだ rājanya の一員である琵琶奏者が、自作の三つの Gāthā を琵琶の調べに合わせて歌う。それらは以前の勝利への言及と、ayudhyata, amuṃ saṃgrāmam ajayat という語とを含んでいなければならない(Śat. Br. 13, 4, 3, 5)。

これらすべての経過 ―― Vāvātā の腿のあいだに横たわること、Savitṛ への献供、琵琶に合わせた歌唱、Pāriplava と Dhṛti 供犠 ―― は、馬の Utsarga から一年にわたって日々繰り返される。もっともある者たちはこの期間を6か月から半月にまで縮めている。

王はこれまで古代の王たちとともに

76. Aśvamedha。 151

讃えられてきたが、いまや Dīkṣā 以来は神々とともに、そして本来の三つの供犠の日には Prajāpati とともに讃えられる。

さらなる経過を、Kāt. 20, 4, 2 への注釈は次のようにまとめている。Caitra の満月に獣などの供犠が行われ、同じ月の黒半の第6日に Dīkṣaṇīyā が行われ、そこから 12 の Dīkṣā の日が始まる。Vaiśākha の白半の第3日に soma の購入、第14日に Agnīṣomīya-Paśu、満月に最初の搾りの日が来る。

供犠場は東に位置し、水が備わっていなければならない。21 本の供犠柱が立てられる。中央に rajjudāla 材の一本、その両側に devadāru 材の一本ずつ、bilva、khadira、palāśa 材のそれぞれ三本ずつである。これらに Agni-Soma のための 21 頭の獣が繋がれる。

三つの Sutyā の日における動物供犠(sāvanīya)は、それぞれ十一頭ずつ二列の獣から成る。第三日には多色の牛が選ばれる(Kāt. 20, 4, 26)。

搾りの日のより精確な規定については Sūtra が揺れている。Kāt. 20, 4, 22;5, 1;8, 12. 13 によれば、第一日は Agniṣṭoma、第二日は Ukthya、最後は Atirātra、あるいは任意の八つの日のうちの別のものである。Āśv. 10, 8, 2;9, 8 は第一日を Gotamastoma とし、第二日をいくらか改変した Vyūḍha-Pṛṣṭhyaṣaḍaha の第5日とし、第三日については複数の可能性のあいだの選択を許している。

これらの日のうち、第二のものがより一般的な関心を引く。Bahiṣpavamāna へは、馬の尾に触れつつ赴く。牝馬を見せられたときのそのいななきが、Stotra に代わる(Kāt. 20, 5, 4)。

より精確なのは Lāṭ.(9, 9, 19 以下)である。Bahiṣpavamāna への Sarpaṇa に際して、祭主は Udgātṛ に言う。「おお U. よ、われは汝を百頭の牛と黄金の飾りとで償う。この馬がわが Udgātṛ となるであろう。」

ついで人々は馬に Bahiṣpavamānāstāva を踏ませ、牝馬を見せる。それがいななくと、Yajamāna は Udgātṛ に言う。「おお U. よ、われは汝を百頭の牛と黄金の飾りとをもって招く。汝がわが Udgātṛ となるであろう。」

馬は北へ導き去られ、Udgātṛ はその場に身を下ろし、黄金の座の上で Aśvavratasāman(SV. V, 345 頁 abhi rājī)を歌う。これに Hotṛ への「aśvam abhiṣṭuhi」という促しと、RV 1, 163, 1–11 の朗誦とが続く。

同じく黄金で飾られた他の三頭の馬とともに、供犠の馬を金めっきした車に繋ぎ(RV 1, 6, 1;VS. 23, 5)、水辺へ行って水浴させる。

帰着後、王の最初の三人の妃が、その身分に応じてそれぞれ前部・中部・後部に膏を塗り、bhūrbhuvaḥsvar とともにそれぞれ 101 個の黄金の飾りを鬣と尾に編み込む。その際、ある者たちによれば彼女らの従者も加わりうる。

馬には、夜のうちにささげられた穀粒供犠の残りが供される。それが食べようとしない場合には、それは水に投げ込まれる。

ついで有名な Brahmodya⁶ の一つが始まる。そこでは Brahman が Hotṛ に、Hotṛ が Brahman に、われわれに一部伝わる謎かけを問うのが常である。

火に最も近く立つ供犠柱には、馬と、角のない牡山羊(tūpara)と Gomṛga とが繋がれる。馬には側面の獣が、その額には黒い首の牡山羊が、その顎には Sarasvatī のための牝羊が、というように繋がれ、全体で 17 頭となる。

他の Yūpa にはそれぞれ 15 頭の精密に規定された獣が来て、全体で 327 頭の grāmya-paśu となる(VS. 24, 19 注釈)。さらに Yūpa と Yūpa のあいだの空間には、それぞれ 13 頭の āraṇya-paśu、すなわち榛鶏などが来るが、これらは Paryagni の遂行後に再び放される。VS. 24, 40 の注釈によれば、全体で 609 頭の獣となる。

屠られる獣のこの大きな数は、儀礼上の作り話とは考えにくい。馬祀祭は民衆的な、そして確かに大規模な饗宴 ―― 犠牲獣は結局そのために役立った ―― と結びついた

152 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

出来事であった。すでに RV 1, 162, 12 は arvato māṃsabhikṣā について語っている(Āśv. 12, 9 における Sāvanīya-Paśu の配分を参照)。Aśoka の厨房では、第一磨崖詔勅の言明によれば、日々「数千の」獣が屠られたのである。

馬は衣で覆われて窒息させられる。妃たちは斃れた馬のまわりを、それぞれ三度、左から右へ、また右から左へと歩む。Āśv. 10, 8, 8 によれば「(衣で)これを扇ぎ、右の髪の編みを結い上げ、他のものをほどきつつ(?)、左の腿を打ちつつ」行う。

Mahiṣī がその傍らに赴き、二人は覆いで覆われ、女は馬の陰茎を自らの膝に置く。そのあいだ祭主はそれに関わる呪句を唱える。Adhvaryu、Brahman、Udgātṛ その他は、娘たちや女たちと ―― その従者も加わりうるし、単独で答えることもできる ―― 、VS. 23, 22 以下に挙げられる猥雑な言葉をもって語り合う。

Mahiṣī が立ち上がると、馬の解体へと進む。三人の妃はそれぞれ 101 本の針をもって ―― その身分に応じて銅、銀、黄金(あるいは銀、黄金、鉛)の針で ―― 刀の道筋を示す。その刀は馬については黄金で飾られ、側面の獣その他については銅ないし鉄でできていなければならない。

馬は Anuvāka VS. 23, 39 をもって解体される。その脂を彼らは Vapā の調製に用い、血は煮られる。

Vapā の献供の前に、改めて Hotṛ と Adhvaryu、Brahman と Udgātṛ、Yajamāna と Adhvaryu とのあいだで Brahmodya が行われる。

馬の残りの部分は焼かれ、血は Gomṛga の首、馬の蹄、そして鉄の器に分けられ、そのなかで Sviṣṭakṛt の終わりに、一部は他の機会にも供犠される。

Vanaspati の献供と Sviṣṭakṛt とのあいだには、串で焼いた肉を Prajāpati にささげることが行われる。

第二日の終了後、Śāṅkh. においては、Āhavanīya 火のまわりの諸方位に祭主の召使たちが桟敷(prāsāda)を建て、胸壁(prākāra)を設ける。祭司たちがこれに登り、夜のあいだ小窓を通してあらゆる種類の薬草を Prātaranuvāka の時まで供犠し、それ以後は召使たちが日の出までこの供犠を引き継ぐ(16, 18)。

各日はそれぞれ固有の沐浴をもちうるが、第三日のものだけでも足りる。

最終日の Avabhṛtheṣṭi の終わりに、Adhvaryu は、水に浸された「黄色い目をした、禿頭の」、さらに他の性質をも備えた男の頭上に「jumbakāya svāhā」と唱えて供犠する。

祭主が沐浴から上がると、通常は必要な Vrata をまず行うことなしに、重い罪を犯した者たちが水に入り、法典も知るとおり、Aśvamedha の沐浴の聖性によってその罪から清められる⁷。彼らは aśvamedhapūta と呼ばれる。

馬祀祭の Dakṣiṇā は、征服した土地の財貨から成る。それぞれ三分の一が配分されるが、土地そのもの、人々、バラモンの所有物は除かれる⁸。東は Hotṛ に、南は Brahman に、というように帰する(Kāt. 20, 4, 27. 28)。

さらに(20, 8, 24. 26)、Udavasānīyā の終わりに祭主は、その妃たちとその従者を、取り決めに応じて、あるいは後者のみを Dakṣiṇā として与えると規定されている(Śat. Br. 13, 5, 4, 27)。Adhvaryu は一人の娘を、注釈によれば祭主の娘、すなわちその第四の妃を受け取る。

Aśvamedha に続く年には、春から始めて季節ごとに 6 頭ずつの獣がささげられる。春には Agni に、夏には Indra に、雨季には Parjanya ないし Marut たちに、秋には Mitra-Varuṇa に、冬には Indra-Viṣṇu に、涼季には Indra-Bṛhaspati にささげる。

77. Puruṣamedha。 153

§§ 77. Puruṣamedha¹

(Āp. 20;Kāt. 21, 1;Hir. 14, 6;Vait. 37, 10 以下;Śāṅkh. 16, 10 以下。Āp. からの抜粋が Taitt. Br. III, 4 への注釈(校訂本 III, 346 頁)にある。)

人身供犠は Pañcarātra であり、Kāt. 21, 1, 2 によればバラモンと rājanya にのみ妥当し、伝えるところでは atiṣṭhākāma によってささげられる。Ś. によればそれは、Aśvamedha によって達成されないすべてを与える。

その儀軌は馬祀祭のそれと多くの点で一致する。かの供犠では馬、Gomṛga、Aja tūpara が Prajāpati のために供犠の中心をなすのに対し、ここでは Gomṛga と Aja とならんで人間が現れる。

Ś. によれば、それはバラモンあるいは kṣatriya であるべきで、百頭の馬と千頭の牛の値で買い取られ、馬と同じく一年間自由に放たれる。そこで彼は、不貞に関わるものを除いて、すべての望みを叶えられてよい。

Bahiṣpavamāna に際して彼はその場所を嗅がねばならず、その供犠死ののちには、Mahiṣī が馬に対するのと同じ仕方で彼のもとに横たわらねばならない。

私が ZDMG. 40, 708 で与えた説明によれば、RV 10, 18, 8;85, 21. 22 はもともとこの場面と関連していたことになる。

インドにおいてかつてこの野蛮な供犠が存在したと信じさせるものは、Ś. のような、その経過を他のあらゆる供犠と同じく冷静かつ簡潔精確に記述するテクストの、解釈しようのない字句のほかに、次の考量である。すなわち、バラモンたちは、自らの一員を供犠の死に委ねるようなこの種の習俗を、考え出すよりはむしろ除去したであろうし、Purāṇa においてもそれを抑圧したということである²。

そのような弱化を、私はすでに Kāt. 21, 1, 12 の規定に見る。それによれば Paryagni の遂行後、「brāhmaṇoddayaḥ」は、Aśvamedha における榛鶏その他の森の獣と同じく、放たれるべきものとされる。

Puruṣamedha はまさに、インドについても他の国々についても否定しえない野蛮な時代の遺物である。もっとも、Śat. Brāhm. が語る大量供犠(11 本の供犠柱に繋がれた 166 人の人間。Weber, 前掲書 68)が現実のものと信じてよいかどうかは、私には分からない。それを想定することに反する理由はない。この種の人間の屠殺は、民族誌的にその並行例をもち、またその説明をももつのである³。

Kāt. の一規定(21, 1, 17;Śat. Br. 13, 6, 2, 20)には特別な関心が宿る。彼は言う。祭主は供犠の終わりに火を自らのうちに入らしめ、Anuvāka VS. 31, 17 をもって太陽を礼拝し、二度と戻らないために森へ赴くべきである、と。注釈はこれを「別の Āśrama への入場」と呼んでいる。

この説明と一致するのが、王が土地と財貨を人々もろとも、バラモンがその全財産を Dakṣiṇā として贈与するということである〔Manu 6, 38 を参照〕。

この供犠をおそらくインドにおける parivrājya あるいは parivrājaka の最古の形とするこれらの規定の意義は、Śat. Br. 13, 6, 2, 20;Kāt. 21, 1, 18 の、祭主がなお村にとどまろうとする場合についての弱化された規定によっては、私の考えでは何ら変わらない。しばしばそうであるように、儀軌はここでも実践において厳格さを失ったのである(§ 77 を見よ)。

154 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

§§ 78. Sarvamedha

(Kāt. 21, 2;Hir. 14;Vait. 38, 10 以下;Śāṅkh. 16, 15. 16。)

人身供犠よりもさらに高く立つのが「全供犠」であり、これは Daśarātra である。

Śāṅkh. ―― 彼は Śat. Br. 13, 7, 1 とほとんど逐語的に一致する ―― によれば、それは Brahman Svayambhu の範型に従ってささげられる。この Brahman はこの供犠に際して自らをすべての存在のうちに、またすべての存在を自らのうちに供犠し、それによって優位・自律・至上権を得たのである。

Ś. は Kāt. のように Puruṣamedha とではなく、この供犠と、森へ赴くべしという規定とを結びつけている。それがここに本来の位置をもっていたように見える。

Kāt. とともに祭主がすでに Puruṣamedha において森へ赴くとすれば、より高位とされる Sarvamedha への上昇は残らないことになる。他方 Śāṅkh. においては上昇が存し、それは両テクストの Dakṣiṇā の段階づけにも表れている。すなわち Puruṣamedha においては王国が sahapuruṣam 与えられ、ここではさらに sahabhūmi 与えられるのである。

いずれの場合にも、生命の放棄と世界からの遁走とに結びつきうる大きな供犠の祝いが問題であって、それは後代の、また仏教的な見方が通用するようになるはるか以前のことであろう。

§§ 79. Dvādaśāha(1)と一年に至るまでの Sattra(2)

(1)Kāt. 1, 6, 13 以下;12;Āp. 21;Vait. 42, 14 以下;Āśv. 10, 5;Śāṅkh. 10–12;Lāṭ. 10, 1, 11 以下。(2)Kāt. 24;Vait. 前掲;Āśv. 4, 1, 8 以下;11;Ś. 13, 14–18;Lāṭ. 10。)

Dvādaśāha は複数の Vikalpa をもち、そのなかには Bharata 形もある¹。これは Ahīna と Sattra との境界に立ち、両様の仕方で祝われうる²。

儀軌は外面上、Ahīna と Sattra とを術語によって区別する。dvādaśāhena yājayet という表現は Ahīna を示し、dvādaśāham upeyuḥ あるいは āsīran は Sattra を示す。

Ahīna は ―― Dvādaśāha 自身を除いて ―― Atirātra をもってのみ終わるのに対し、Sattra は Atirātra(Prāyaṇīya)によって導入もされる。

両供犠種の最も本質的な相違は、期間を別とすれば、Sattra においては祭司から分離された祭主が存在せず、Ṛtvij の職能をも引き受けうる参加者のみが存在する、すなわちバラモンであるという点にある³。

しかも一定の例外を除いて、Sattra には同じ儀礼に従い、tantunapāt ないし narāśaṃsakalpa である者たちのみが結集すべきであり、あるいは多数派の慣行が妥当する⁴。

彼らのふるまいについては Āśv. 12, 8;Lāṭ. 3, 3 がより精確な規定を与えている。Śrauta 供犠も Smārta 供犠も、その期間中は止む。性交と女との戯れは禁じられ、同様に速く走ること、手をかざさずに笑うこと、怒り、虚偽、非 Ārya との交わりなどが禁じられる。

彼らのうち一人が祭主の職能を引き受け、いたるところで先んずる。一人によってのみ遂行されうる作業、たとえば Veda の草束を結ぶこと、Agnyanvādhāna に際しては、全員が彼につかまる。

Āhavanīya 火は一つであるが、Gārhapatya は複数でありうる。Savanīya-Puroḍāśa や Patnīsaṃyāja も同様である⁵。

Adhvaryu が Gṛhapati を聖別し、Gṛhapati が Brahman を、Brahman が Adhvaryu たちのうち Pratiprasthātṛ を、というように続いて、最後に Unnetṛ が一人の Brahmacārin、Snātaka あるいは別のバラモンを聖別する。この聖別には妻たちも、そのつど夫に続いて与る。

彼らが Agnicayana の火を摩擦する場合には、半分は Gṛhapati が中央で摩擦し、半分は他の者たちが南から北へ互いに並んで、あるいは Gṛhapati のまわりに座して摩擦する。あるいは聖別されたすべての者が、Gṛhapati の火を自らのものと宣言する⁶。その際、供犠の目的にとって興味深い呪句を唱える。「これより生ずる火が、われらに共通のものたらんことを。この供犠をもって、この動物供犠をもってわれらが得ようとするもの、それがわれらに共通のものたらんことを。共通なれ、われらの善き業。分かたれよ、悪しきもの……」。

祭主と祭司とが分かたれていないので、Dakṣiṇā も存在しない。他の場合であればそれが

78. Sarvamedha。79. Dvādaśāha と Sattra。 155

配分される時に、Sattra の仲間たちは日ごとに、黒い皮を振りながら Śālā と Sadas の南の道を歩み、こう唱える。「わが生命からここで減じたもの、それをわれは、おお Agada よ、汝に Dakṣiṇā としてもたらす……」(異なるのは Śāṅkh. 13, 14, 6)。

Sattra のいくつかが疑いなく構成されたものであるとはいえ、そのすべてを、あるいはより長期のものだけでも、Śrotriya たちの想像力に帰するのは正しくないように思われる。

それらは誓戒であって、その遂行のために幾人かの祭主が結び合い、一定の願いを達成するために集まった宗教的な同志団であったであろう。

そのような願いとして、われわれのテクストは通常のもの、すなわち食物・支え・子孫・家畜などの獲得を挙げている。

156 頁に言及する 49 日間の Sattra の Āñjanābhyañjanīya 形をもって供犠するのは、「ya ātmānaṃ naiva jānīran」、すなわちある注釈によれば「識者の集まりのなかで自らを認めさせることのできない者」(Kāt. 24, 3, 17 への注)であり、別の注釈によれば「自らの出自を知らない者」(Āśv. 11, 6, 4)である。

第二の Caturdaśarātra は、「婚礼、灌水、同衾」について疑いをもつ者のために妥当する(Kāt. 24, 1, 23;Āśv. 11, 2, 6;TMBr. 23, 4)。

1. これらの Sattra(および準ずる仕方で Ahīna)の基本形は dvādaśāha である。

開始日と終了日(prāyaṇīya ないし udayanīya atirātra)のほかに、それは一つの pṛṣṭhyaṣaḍaha(六日の週祭)、三つの chandoma、そして avivākya と呼ばれる daśamam ahar から成る(Āśv. 8, 7, 17 以下;Ś. 10, 1, 6 以下など)。あるいはまた一つの pṛṣṭhyaṣaḍaha と四つの chāndomika から成る(Kāt. 24, 1, 4 への注釈)。

このような週祭は、一つの Agniṣṭoma(第1日)、一つの Ṣoḍaśin(第4日)、そして四つの Ukthya(第2・3・5・6日)を含む⁷。これらのそれぞれは別の Pṛṣṭha をもつので、Pṛṣṭhyaṣaḍaha と呼ばれる。

第1日の Rathaṃtarapṛṣṭha は車を転がすことによって、第2日の Bṛhatpṛṣṭha は太鼓を打つことによって、第3日の Vairūpa は扇ぐことによって、第4日の Vairāja は Udgātṛ の腿の上で二本の Araṇi を用いて火を摩擦することによって導入される⁸。

この六日の終わりに、彼は多くを語らず、他人に何も問わず、蜜あるいはバターを食すべきである。

Chandoma は Ukthya の日である。第10日は avivākya と呼ばれるが、それはその日には儀式に際して犯された誤りについての争いがあってはならないからであり⁹、Atyagniṣṭoma である。

これらすべての日は、特別な詩節の朗誦をもって祝われるべきであり、相互に多様な借用を伴う。たとえば最初の Chāndomika の Pratipadānucara 詩節は、最初の Pṛṣṭhya の日から取られる(Ś.)。

これら十の日は daśarātra の名を帯びる。

Daśarātra(ないし Dvādaśarātra)およびその他の Ahīna の若干の日において、Graha が通常とは異なる順序で汲まれる場合 ―― 第4日と第9日にはまず Āgrayaṇa が、第6日と第7日にはまず Śukra が(Upāṃśu と Antaryāma の後に)汲まれる ―― 、それと関連して Stotra と Śastra の順序に変更が生じ、あるいはまた Graha の移動なしにこの変更のみが生ずる。これが vyūḍhacchandas の D. である¹⁰。

最終日を除くすべての日は Patnīsaṃyāja をもって終わる。soma は日ごとに、あるいは第10日にのみ(?)、一人が朝まで黙して守り、他の者たちはヴェーダを学び、薪を取り、また食事のために解放される。

水に触れることをもって、第10日に sattrotthāna、すなわち Sattra の解散が始まる。聖別された者たちは Patnīśālā に入り、戸口で供犠をささげる Gṛhapati に触れる¹¹。

彼らは Havirdhāna の天幕に赴き、北の車の向こう側の轅に触れ、「Sattra の福」(sattrasya ṛddhi)を歌う。「汝は Sattra の完成なり。われらは光に来たり、不死となれり……」。ついで彼らは南の車の車軸の下を通って東へ行き、Sadas に入り、その席に着く。

Prajāpati のための Graha は心のうちで汲まれ、それに関わるその後のすべての所作も、思念のうちにのみ遂行される¹²。

156 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

Śastra として Hotṛ は Caturhotṛ を唱え、これに対する Pratigara として次の言葉が用いられる。「これらの祭主は目標に達した。祭主たちに福あれ。」

Brahmodya は Aśvamedha におけるものと同じであるか、あるいは「無性質の」Prajāpati についての観想から成る¹³。

最終日のための一連の興味深い規定を、なお Śāṅkh. 10, 21;Āśv. 8, 13, 22 以下が与えている。

2. ここに記述した Sattra の基本形に、より大規模な「集会」においては、完成に必要な供犠の日が挿入される。

一日のみを挿入し、したがって trayodaśarātra¹⁴ を形づくるべき場合には、その三つの形の一つを作るために Mahāvrata の日が Dvādaśāha に付け加えられる。しかもその位置は常に Daśarātra の後である(Āśv. 11, 1, 9;Kāt. 24, 1, 5)。

二日を補うためには goāyuṣī が選ばれ(Abhiplava の第2日と第3日)、三日については jyotiḥgoāyuḥ(Abhiplava の第1–3日で、trikadruka と呼ばれる)、四日についてはこの三つと mahāvrata、五日については Abhiplavaṣaḍaha の最初の五日 ―― ただし第5日については夕の Savana を第6日から借りる ―― 、六日については Abhiplavaṣaḍaha 全体が選ばれる。

Daśarātra に常に続く Mahāvrata を例外として、挿入の位置は Daśarātra の前であり、しかもより大規模な Sattra のために複数の Āvāpa を結合すべき場合には、短いものが常に先行せねばならない。

したがってたとえば、「基本形に従って」形づくられた 22 日の Sattra においては、Dvādaśāha に加わる十日の Āvāpa が選ばれるべきであり、上記の叙述によれば三つの Trikadruka、一つの Mahāvrata、一つの Abhiplavaṣaḍaha が、次の配列で選ばれる。

prāyaṇīya1
trikadruka(jyotis 等)2–4
abhiplavaṣaḍaha5–10
daśarātra11–20
mahāvrata21
udayanīya22

しかし人はこの形に満足しない。Sattra の大多数はなお他の組み合わせをもつ。たとえば Trayodaśarātra はさらに二つをもち、一つは Pṛṣṭhyaṣaḍaha と Chandoma の日々とのあいだに sarvastoma-atirātra を挿入することによって作られ、他方は Āvāpika によってではなく、他の一定の規定された日々からの組み立て(saṃbhārya 形)によって作られる。すなわち 1. prāyaṇīya、2. caturviṃśam ahar、3. abhijit、4–6. svarasāmānaḥ、7. viṣuvat、8–10. svarasāmānaḥ、11. viśvajit、12. mahāvrata、13. udayanīya である。第3日から第11日までは navarātra の名をも帯びる¹⁵。

同様に caturdaśarātra は三つの形をもつ(Āśv. 11, 2, 4;Kāt. 24, 1, 19 以下)。第一のものは二つの Pṛṣṭhyaṣaḍaha から成り、その第二のものは日の順序を逆にして行われる。第二の形は Pṛṣṭhya の両側に三つの Trikadruka の日をもち、しかも前のものは上昇の、後のものは下降の順序をとる。

これらの組み合わせのうちいくつかは ―― そこにはバラモンの詭弁が特別な強みを求めた ―― 特別な名をもつ。たとえば chinnapañcāśadrātra の七つの変種は、vidhṛtiyamātirātraañjanābhyañjanīya(そこでは祭主は Savana のあいだ、日々三度、目と身体に膏を塗らねばならない。朝は Gulgulu で、昼は Sugandhitejana で、等々)、saṃvatsarasaṃmitasavituḥ kakubhaḥpadābhiplave と呼ばれる。

80. Gavāmayana とその他の Sattra。 157

§§ 80. Gavāmayana と、一年およびそれ以上の期間をもつその他の Sattra

(Kāt. 13;24, 4. 5;Āp. 22. 23;Vait. 31, 6–34;42, 11;Āśv. 11, 7;12;Śāṅkh. 13, 19 以下;Lāṭ. 3, 5–4, 5(4, 5–8 gavāmayanavikalpāḥ);10, 10, 7;11, 1 その他。)

Gavāmayana、すなわち「牛の歩み」ないし「星辰の歩み」は、新年の日 ―― Phālguna、Caitra の満月、あるいは Māgha、Phālguna ないし Caitra の満月の四日前 ―― における聖別をもって始まる。

それは二つの半年から成り、それらは順方向と逆方向に進行し、その中心として viṣuvat をもつ。両半年はこれを「二つの翼のように」取り巻く。図式は次のとおりである¹。

第1半年中央:Viṣuvat第2半年
1. Prāyaṇīya Atirātra第7月:3 Svarasāman
2. Caturviṃśam ahar(Agniṣṭoma または Ukthya)1 Viśvajit
1 Pṛṣṭhya
第1–5月:各月に 4 Abhiplava3 Abhiplava
1 Pṛṣṭhya第8–11月:各月に1 Pṛṣṭhya
第6月:3 Abhiplava4 Abhiplava
1 Pṛṣṭhya第12月:3 Abhiplava
1 Abhijid-agniṣṭoma1 Āyur
3 Svarasāman1 Go
これに開始の二日 1. 2. が加わる1 Daśarātra
さらに Mahāvrata と Udayanīya

個々の構成部分のうち、Pṛṣṭhyaṣaḍaha についてはすでに 155 頁で論じた。

しばしば言及される abhiplavaṣaḍaha はその改変であり、初めと終わりの Jyotir-Agniṣṭoma と、中間の四つの Ukthya とから成る。第一日と最終日は jyotiḥ の名を帯び、第2・4日は go、第3・5日は āyuḥ と呼ばれる。

Pṛṣṭhya では各日が別の Pṛṣṭha をもつのに対し、Abhiplava では Bṛhat と Rathaṃtara とが日ごとに交替する²。

この二つの Ṣaḍaha も、他の日々と同じく、147 頁の一覧 ―― そこから供犠が組み立てられる ―― のうちに再び見いだされる。すべてがそれぞれの特色をもち、Sāman 歌者の儀軌において、とりわけ Hotṛ のそれにおいて詳細に扱われている。

Vṛṣākapi の朗誦、Kuntāpa の歌、nyūṅkhaninarda と呼ばれる装飾音、dīrghāhaṇa と呼ばれる朗誦法が、ここで用いられる³。

この年間供犠の日々のうち、見て取れるかぎりで最も重要なのは Viṣuvat⁴ である。これは二十の厳粛な日々のただ中にあって、それらによって月々の祭がいわば満ち引きするようになっている。また Mahāvrata の日も重要である。この両者が、年の太陽運行における転換点である。

Viṣuvat には Sūrya のために一頭の獣が供犠され、Graha は Sūrya に向けられた詩節をもって汲まれる。

Viṣuvat よりもはるかに詳細に、テクストは Mahāvrata⁵ を描いている。その中心をなすのは Indra あるいは Prajāpati である。

われわれはそれが、明らかに古い民衆祭の性格を与える諸特徴を備えているのを見いだす。

Pṛṣṭha は、muñja で作った 100 本の弦をもつ琵琶の調べによって導入される⁶。人々は座布団に身を下ろし、Hotṛ は鞦韆(ぶらんこ)の上に、Adhvaryu は Phalaka の上に座って Pratigara を与え、Udgātṛ は soma の玉座の様式の椅子をもつ。

聖別された者たちは交互に讃められ、また罵られる。遊女と Brahmacārin とが罵り言葉をもって互いを追い、Ārya と śūdra とが円形の皮をめぐって争い、Ārya が勝つ。覆いの背後で同衾が行われる。武装した戦士たちが、吊るされた、あるいは広げられた不妊の牝牛の皮を矢で射抜く。

これらすべては、Mahāvrata の Stotra(13, 14, 2)が響きわたるあいだに行われる。あらゆる種類の音楽が奏される。Sadas の隅では太鼓が打たれる。女たちは琵琶の調べに合わせて Sattra の参加者を歌い讃え、侍女たちは

158 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

Stotra が終わるまで、あるいは少なくとも三度、Mārjālīya 火のまわりを、水瓶を頭に載せて歩みめぐり、歓びの歌を歌う。

Āśv. は、Āraṇyaka に留保された Mahāvrata を記述してはいないが、8, 14 において Mahānāmnī の誓戒を、Gṛhya の記載(58 頁)を補完する詳細な仕方で描いている。その一年後に Mahāvrata の教えが続くべきものとされる。

一年の期間をもつその他の Sattra は、ādityānām ayana⁷、aṅgirasām a.dṛtivātavator a.kuṇḍapāyinām a.sarpasattra などである。

そのうち第一のものでは、九か月のあいだ Pṛṣṭhyaṣaḍaha が、Gavāmayana におけるように末尾にではなく、二つの Abhiplava のあいだの中央に立つ。

Abhiplava は三倍と十五倍の Stoma をもち、しかも第一半年では奇数日に Trivṛtstoma を、偶数日に Pañcadaśastoma をもち、第二半年では逆になる(Kāt. 24, 4, 3 注釈)。

第六月の Abhijit の代わりに Bṛhaspatisava が入り、第七月の Viśvajit の代わりに Indrastoma が入る。これには一つの Abhiplava のみが続き、しかし三倍の Stoma をもつ十の Agniṣṭoma、一つの Udbhid、一つの Balabhid が続く。第十二月には、それを開く三つの Abhiplava の中間のものの代わりに Pṛṣṭhya が入り、Daśarātra の代わりに Chandomadaśāha が入る(Kāt. 24, 4, 10;Āśv. 12, 1, 5 以下など)。

十二年を超えて続く Sattra は mahāsattra と呼ばれ(Kāt. 24, 5, 15. 17 注釈)、ここで Yājñika たちの神話と空想とは、Sūktya たちの三十六年の供犠、Sādhya たちの百年の供犠、Viśvasṛj たちの千年の供犠へと登りつめる⁸。

§§ 81

文化史的な関心を引くと私に思われるのが yātsattra、すなわち行列ないし巡礼であり、sārasvata と呼ばれ、Sarasvatī の右岸を遡って進んだものである。

テクストは種々の形を挙げている。Śāṅkh. 13, 29, 22 以下(Āśv. 12, 6, 10 以下をも参照)は mitrāvaruṇayor ayanaindrāgnyoraryamṇa(Āśv. では aryamṇor)ayana を挙げる。

これらのためには Sadas、Havirdhāna、Āgnīdhrīya が運搬可能でなければならない。Yūpa は埋められず、ただ立てられるだけであり、その足は堅固に立つように臼の形をもつべきである。響孔は土を盛ることによって作られる(Kāt. 24, 5, 29)。

百頭の若い孕んだ雌牛が、一頭の牡牛とともに森へ追い出される。それらはそこで千頭にまで増えるべきものとされる。

(Caitra の)白半の第七日に、Sarasvatī が姿を消すところで聖別が行われる。同じ場所で導入の Atirātra と Sāṃnāyya の献供とが行われる。

供犠ののち Adhvaryu あるいは Brahman(Āśv.)が Āhavanīya の近くに歩み出て、道の方向へ Śamyā を投げる。棒が落ちたところが Gārhapatya 火の場所であり、それが同時に Āhavanīya の場所をも定める。

ただちに彼らは祭具をもってそこへ移り、翌朝に供犠ののち改めて Śamyā が投げられ、彼らに新しい供犠場を示すまで、そこに留まる(注釈)。

こうして彼らは、Śamyā 投げごとに一日ずつ留まりながら、Sarasvatī に沿って進む。節目の日のあいだには新月ないし満月供犠がささげられ、節目の日は Āyur ないし Go Ukthya として祝われる。

注釈によれば、この Sattra においては 30 日の月ではなく、太陰月を取るべきである。

Dṛṣadvatī の合流点では、彼らは(それを越えた過失を贖うために)Apāṃ napāt に供犠する。Sarasvatī が湧き出る場所、すなわち plakṣa prāsravaṇa ―― 巡礼の本来の目的地 ―― では、TMBr. 25, 10, 16 によれば

81. Yātsattra。82. Sautrāmaṇī。 159

Vinaśana から騎馬の者にとって 44 日行程の距離だけ離れて、Agni Kāma に一つの献供をささげる。

その際、一頭の牝馬と、いま出産したばかりの一人の女とを、その子孫もろとも、Prāsarpaka たち ―― 行列の参加者たち ―― のうちの一人の値する者に贈る。

供犠の終結の沐浴は、Kārapacava 地区の Yamunā で行われる。

三つの条件のもとで、供犠を本来の目的地の前に中断することが可能である。すなわち、千頭の牛の数がすでにそれ以前に達せられた場合、祭主が死んだ場合、あるいは送り出された牛が失われた場合である。第一の場合には Go Atirātra を供犠して牛を贈り去り、第二の場合には Āyuḥ を、第三の場合には Viśvajit を、あるいはすべての場合について Jyotiṣṭoma を供犠する。

供犠の沐浴は Sarasvatī の支流(川や池)で、あるいは Sarasvatī から汲んだ水で行われる(Kāt. 24, 6, 23. 24)。

この Sārasvata の一改変は、新月・満月供犠の代わりに Dṛtivātavatorayana の一定の日々を立たせ、別の改変は節目の日を Abhijit と Viśvajit をもって、Go と Āyuḥ のために祝う。

もう一つの供犠 ―― その参加者が同じ仕方で Agni のための Puroḍāśa 供犠を伴って Dṛṣadvatī の岸に沿って遍歴するもの ―― が、dārṣadvata ないし dārṣadvrata である(Kāt. 24, 6, 32 以下;Śāṅkh. 13, 29, 27 以下;Lāṭ. 10, 18, 12 以下;TMBr. 25, 13, 1 以下)。

その催行者は、一年のあいだ Ṛtvij あるいは Ācārya の牝牛を守り、二年目には Sarasvatī のほとりの水のない Naitaṃdhana(注釈によれば干上がった池)で通常の火を保ち、あるいは Āhitāgni であれば Agnihotra を供犠せねばならない。

三年目に彼は Kurukṣetra で「Pariṇaḥ と呼ばれる高み」に(注釈 pariṇanmāsthale。Lāṭ. 10, 19, 2 をも参照)Agnyādheya を行い、これを Anvārambhaṇīyeṣṭi ないし NVO(新月・満月供犠)をもって締めくくり、それから前述の仕方で川に沿って進む。沐浴は Yamunā の Triplakṣāvaharaṇa で行われる。

§§ 82. Sautrāmaṇī¹

(Kāt. 15, 9, 27 以下;19;Vait. 30;Āp. 19;Hir. 13, 24;23, 1 以下;Āśv. 3, 9;Śāṅkh. 15, 15(14, 12 を参照);Lāṭ. 5, 4, 11 以下。)

Sautrāmaṇī ―― 神々に助けを求められた Aśvin たちが、かつて soma によって病んだ Indra をこれによって癒したもの ―― は soma 供犠ではなく、Haviryajña に数え入れられる、Aśvin たち・Sarasvatī・Indra のための Surā の献供である。

それは kāmyā- および naimittikī-Iṣṭi であり、Agnicit、Somayājin、Somātipūta(鼻や耳などから soma が流れ出る者)、Somavāmin(それを吐き出す者)のために、また成功を望むバラモン、追われた王、完全な勝利を望む kṣatriya、富を望む vaiśya のために規定されている²。

区別すべきは kaukilī³ と carakā とであり、前者は自立的な「svatantrā」⁴、後者は他の供犠 ―― たとえば Rājasūya⁵、Agnicayana⁶ ―― への付属である。

Hir. は Rājasūya に続けてその一般的な形を規定し(13, 24 以下)、Kaukilī については別の箇所(23)で svargakāma のために規定している。

前者を私は前掲書において Caraka 派の医学派 ―― そこでは Surā が高い名誉を受けている ―― と結びつけようと試みた。Weber はこれを、Śat. Brāhm. にしばしば言及される黒 YV の Caraka 派と結びつけている。両見解は互いに排除しあわない。

Sautrāmaṇī の両形のあいだにはいくつかの相違があり⁷、そのうち Lāṭ. 5, 4, 21 は Kaukilī について、Brahman の側からの一定の Sāman の詠唱を強調している。

一般に、catūrātra と呼ばれるこの祝いは soma 供犠 ―― その主要な特徴を帯びている ―― を範型としたものであるように見えるが、細目においては多岐にわたって異なる。

私の考えでは、これは民衆的な、あるいは一定の部族に属する習俗であって、バラモン教に取り入れられ、それに応じて作り変えられたものである。その判定にとって重要と思われるのが Śāṅkh. の所見であり、それによれば一部の教師はすべての Praiṣa を変更するのが常であり、彼はこれを「Asura 的」と称している。

供犠の特徴は、すでに述べたように

160 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

Surā の献供にある(§ 73 Vājapeya を参照)。その調製のための材料 ―― śaṣpa(発芽した米、あるいは単に草)、tokman(発芽した大麦)、lāja(炒った穀粒)―― は、soma の場合と同様に、鉛・羊毛・糸と引き換えに、surāsomavikrayin と呼びかけられる長髪の男 ―― 「ある者たちによれば」宦官であるべきとされる ―― から買われる。

これらは挽かれ、酵母として役立つ植物の根も同様に挽かれ、四種の物質すべてが、米と Śyāmāka を水で煮た二つの Odana の煮汁と混ぜられる。この混合物は māsara と呼ばれる⁸。

別の部分の酵母と粉とが Odana に加えられ、これらを壺に入れ、煮汁・粉・Māsara を注ぎ入れて、全体を三日間置く。

第一日の朝、Aśvin たちのために一頭の牝牛から乳を取り、それで Surā を注ぎかけ、擂り砕いた Śaṣpa をその上に撒く。第二日には Sarasvatī のために二頭の牝牛から乳を取り、それで Surā を注ぎかけ、Tokman の粉をその上に注ぐ。第三日には Indra のために牝牛から乳を取り、炒った米の粉を注ぐ。

Varuṇapraghāsa におけると同じく、二つの Vedi が作られる。一つは北に、一つは南にあり、後者で Surā に関わる所作が行われる。

飲料は、南の Vedi の Khara の背後の穴に置かれた皮の上で、Kārotara と呼ばれる漉し器を用いて清められ、sata と呼ばれる palāśa 材の器に入って、牛と馬の毛で作った篩で澄まされる。

供犠を Somavāmin のためにささげるか Somātipūta のためにささげるかに応じて、詩節が選ばれる。

北の Vedi では、Vaitasa の器のなかで、羊と山羊の毛で作った漉し器を用いて乳が清められる。

壺に汲まれた Surā と交互に、Aśvin たち・Sarasvatī・Indra のための乳の Graha が満たされる。そのためには aśvattha、udumbara、nyagrodha の器が用いられる。

これらには種々の穀物の粉が、Graha ごとに別のものが加えられる。Surā には狼・虎・獅子の毛が混ぜられ、これらは伴う呪句によれば ojasmanyusahas の象徴である。

鷲の羽は祭主を清めるのに用いられる。すなわち臍の上を二度、下を一度撫でるのであり、soma 供犠においてはこれは darbha の茎をもってのみ行われる。

動物供犠は、Aśvin たちのための赤褐色の牡山羊、Sarasvatī のための牡羊⁹、Indra sutrāman のための牡牛から成る。

Vapā の清めの終わりに Graha をささげるためには(Schwab 112 頁 § 77)、Sthālī を選ばず、また土器も選ばず、Surā のためには palāśa の器を選ぶ。

その残りは、乳の Graha の残りと同じく食されるが、ただし南で、供犠の紐を右肩越しに掛けて食される。伴う呪句(VS. 19, 35)では Surā ではなく soma が名指されている。

ここだけに現れるのではないこの置き換えは、おそらく Surā を soma に変えるという目的をもち¹⁰、しかしまた、ここで問題なのがバラモン的目的のために適合された祭祀の受容であるという推測を裏づけている。

奇妙なのは、一部の教師は Prāṇabhakṣa のみを望み、他の者は誰かを雇うよう規定しており、その者は Surā を飲むべきであり、kṣatriya あるいは vaiśya であるべきだという記載である。

あるいはまた、三つの Surāgraha の残り¹¹ を、Paridhi の外の Āhavanīya の炭火の上に、三つの特別な場所で、Pitṛ・Pitāmaha・Prapitāmaha に向けた呪句とともに供犠し、Graha をすすいで、「父祖たちは食した……」という言葉とともにそのすすぎ水を注ぎかける。

これに続いて、異例の形でささげられる祖霊への供犠が行われる。すなわち somavatbarhiṣadagniṣvātta たちへの供犠である。

百の孔を穿つべき Surā の壺は、Surā の残りとともに Dakṣiṇa 火の上に吊るされる。Surā が下に置かれた漉し器と黄金の上に滴り落ちるあいだ、祭主は自らの清浄化に関わる幾つかの詩節と、前述の祖霊のための個々の Tṛca を唱える。

これに乳の献供と、穴のところでの祭主の清めとが続く。これに続いて

83. Agnicayana。 161

Indra・Savitṛ・Varuṇa のための Paśupuroḍāśa と、若干の特別な規則を備えた動物供犠の続行とが行われる。この動物供犠は、Puroḍāśa とは別の神々に属するものである。

Vanaspati の献供ののち、muñja で編んだ Āsandī が二つの Vedi のあいだに据えられ、その上に黒い皮が広げられて、祭主がその上に身を下ろす。

その足の下に彼は二枚の板を受ける。左足の下には銀の板を(「死から守れ!」)、右足の下、あるいは頭上には黄金の板を(「雷から守れ!」)。

牛の蹄の器を用いて、32 の脂の Graha が供犠される。残りは一定の器に入り、あらゆる種類の芳香を塗られた祭主に、呪句を誦しつつ、脂がその口まで流れ落ちるように注ぎかけるのに用いられる。

Adhvaryu が祭主に触れ、祭主は儀礼的な名で召使たち(Suśloka、Sumaṅgala、Satyarājan)を呼び寄せ、自ら呪句を唱えつつ自らの四肢すべてに触れる。すると彼らは彼を高く持ち上げる。まず膝まで、次いで臍まで、そして口までである。

祭主は「支配のうちにわれは自らを堅く据える……」という言葉とともに黒い皮の上に降り立つ。

第33の脂の Graha が続き、一つの Sāman の詠唱が続く。そのテクストとしては Indra に向けられた Bṛhatī 詩節が選ばれ、そして全員が共同で歌う終曲が続く。その言葉は祭主のカーストに応じて変わりうる。

供犠の沐浴もここで行われる。Mitra-Varuṇa のための乳の献供と、Indra Vayodhas のための一頭の獣とが締めくくりをなす。

§§ 83. Agnicayana¹

(Āp. 16 以下;Kāt. 16–18 および各所:2, 6, 28;7, 2, 3;8, 3, 3 など;Vait. 28 以下;Āśv. 4, 1, 21 以下;8, 18 以下など;Śāṅkh. 9, 22–28 および各所;Lāṭ. 1, 5, 5 以下;5, 7, 12 など。)

soma 供犠には、火の祭壇の積層を結びつけることができる。それが義務的であるのは Mahāvrata とその Vikṛti においてのみであり、しかもここでも一部の者の見解によるにすぎない。

積層の儀式は soma 供犠の個々の段階と結びつけられているとはいえ、私には両者のあいだの内的連関は認めがたく、Agnicayana は Pravargya と同じく、後になって人為的に soma 祭祀との結合へもたらされたように思われる。

また私には ―― この点はなお研究を要するが ―― Hautrasūtra はこの火の儀軌をあまり顧慮しておらず、Yajurveda においては用いられる詩節がしばしば所作に適合していないように思われる。

火の儀軌の教師・熟知者のうちで、伝承は Śāṇḍilya を筆頭に置いている(Weber)。Ś. は Śat. Brāhm. 第6–10巻において特別な権威として通用し、これは第1–5巻 ―― その最も傑出した教師は Yājñavalkya である ―― と対照をなす。

そのため Weber はこれを別の著者に帰し²、「その起源はおそらくインドの北西 ―― 実際そこでは北西の諸民族のみが言及されている ―― に求めるべきであり、そこではおそらくペルシア・アーリヤ人が近いために、聖なる火の祭壇の設置についての教えが、後者のそれといくらか異なるとはいえ、まさに特に純粋かつ生き生きと保たれたのであろう」と推測している(266)。

もう一人の影響力ある教師の名は Tura Kāvaṣeya³ であり、伝承は Kārotī における

欄外下:Indo-arische Philologie. III. 2. ―― 11

162 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

火の祭壇の建設を彼に帰している。さらに Nagnacit Gāndhāra の名があり、彼は北方および北西の他の人物とともに、Agnicayana についての一定の教説を述べた者として挙げられている(W. 281. 282)。

火の祭壇は種々の形と名をもちうる。Baudh. 21 はなかんずく sāvitra⁴-、nāciketa⁵-、druṇakatuka-積層⁶ を挙げる。Baudh. の Śulbasūtracaturasraśyenacitvakrapakṣaśyenacitkaṅkacitdroṇacit⁷ などを挙げる。TS. 5, 4, 11 は chandaścitśyenacitkaṅkacitalajacitpra-ugacitubhayataḥpra-ugarathacakracitdroṇacitsamūhya、さらに、祖霊の世界での成功を望む者のための śmaśānacit を挙げる⁸。

Phālguna の黒半の第一日、あるいは Māgha の最初の新月の日に始まるこの供犠の導入は、五頭の犠牲獣(前掲 9 頁を見よ)の供犠から成る。その頭は祭壇の最下層に塗り込められ、その体は水に投げ込まれ、その水から Ukhā(火の壺)と煉瓦の製作のための土が取られる。

その土は Āhavanīya の背後にある穴に、地面と等しくなるまで満たされる。その背後、Āhavanīya への道の半ばに、窪みをそなえた蟻塚の土が置かれる。Āhav. の右には、馬・驢馬・牡山羊が轡をつけて立つ。

Adhvaryu は一定の品質の、あらかじめ用意された掘り具を取り、獣たちを前へ追い立て、供犠の火が燃えているあいだに、Brahman と Yajamāna とともに、あの穴に置かれた土塊のもとへ進む。そのあいだ獣たちは右側を歩む。

anaddhāpuruṣa⁹、すなわち「神々・祖霊・人間にとって役立たぬ者」を、彼は一つの呪句をもって見つめる。蟻塚を彼は取り、その窪みを通して、Agni に向けられた呪句とともに土を見やる。

その場所に着くと、馬はその足を土の上に置かねばならない。Adhvaryu はその背の上に手をかざし、天をその背、地をその住まいと呼ぶ呪句を唱え、馬を再び後退させる。その後、馬の足跡の上で土に一つの献供がささげられる。

いま掘り出された土は、蓮の葉で覆った黒い羚羊の皮の上に載せられ、その端は合わせて巻かれる。彼はその塊を取り、腕を高く掲げて前へ差し出し、下ろし、臍の上にかざし、次いで三頭の獣それぞれの上にかざす。すべては呪句を伴う。

逆の順序で、牡山羊を先頭に、彼らは戻り、Āhav. の北にある囲いのなかに土が下ろされる。

牡山羊から毛が切り取られ、獣たちはすべて北東へ追い払われる。この毛は、砂利や石屑と同じく、土の塊を固めるのに用いられる。その土から、祭主の第一の妻が、夫の足に合わせて測って asāḍhā と呼ばれる煉瓦を作る。祭主自身は ukhā(前掲 8 頁)と、viśvajyotiḥ と呼ばれ標識を付した三個の煉瓦とを作り、これらは Asāḍhā とともに焼かれる。

この Ukhā のなかでは、あの動物供犠の 14 日後に行われる聖別の時から、火が保たれる。それは muñja と麻を満たした Ukhā のなかで、Āhavanīya において自然発火によって生じたものである。

21 個の瘤をそなえ、羚羊の皮の黒白の毛のなかに縫い込んだ黄金の円板を、祭主は瘤を外側に向けて、麻紐で自らの首に、臍の上に垂れるように結びつける。

Ukhā を彼は二つの取っ手でつかみ、特別に作られた玉座 ―― 担い紐をそなえたもの ―― の上に据え、その紐を自らの首にかける。担い紐とともに彼は Ukhā を、腕を高く伸ばして東方へ掲げ、次いで自らの臍の上にかざし、Viṣṇu の歩みを行い、そのそれぞれで火を高く掲げつつ、諸方位を

83. Agnicayana。 163

見わたし、Ukhā を再び北東へ向けて高く掲げ、下ろし、輪をほどき、南東へ向けて高く掲げ、下ろす。

火はついで椅子の上に据えられ、礼拝される(vātsapra)。

日没後と日の出後に、Ukhā の灰は器に入れられるか、葉の漏斗を用いて近くの水に注がれ(W. 232)、火には新しい薪が与えられる。

日ごとに、一年にわたって、Vātsapra の儀式と交互に Viṣṇu の歩みが繰り返される。しかしより短い期限も許される。

この期間中、任意に火の vanīvāhana を行うことができる。その際、火の壺は、壺に入れた Gārhapatya および Dakṣiṇa とともに荷車に載せられ、一定の場所へ運ばれ、下ろされ、新たに設けられ、そして再び運び戻される。

最後の Dīkṣā の日は、Vedi と、火を受けるべき煉瓦の祭壇の製作に充てられる。

場所の測定は、腕を高く掲げて立つ祭主の身丈の二倍の長さの縄を用いて行われる。Agnikṣetra は 95 の異なる大きさで作りうる。

区画された空間は 261 個ないし 394 個の石で囲まれる。これらは直立させて埋められ、他の石の支えとして役立つ(W. 240)。

最初の Upasad の日に(soma の購入などを別として)、火の炉の積み上げが行われる。Gārhapatya の底には塩土と砂が撒かれ、21 個の Pariśrit で囲まれる。

出来上がった炉の上に、Ukhā から火が運ばれる。Ukhā 自身は砂で満たされて据えられ、静かに乳を注ぎかけられる。

Adhvaryu は Nirṛti に献じられた、足の高さの、黒い、籾殻の火で焼いた煉瓦を三個取り、南西の、床が自ら裂けているか塩土で覆われている場所に置き、その背後に、Ukhā と黄金板を運ぶのに用いた紐を置き、振り返らずに戻る。

同じ日に Agnikṣetra が入念な仕方で耕され、あらゆる種類の穀物 ―― 「ただ一種を除く。それを彼は二度と食べてはならない」―― が播かれたのち、畑の直径の両端に lokaṃpṛṇā と呼ばれる煉瓦が据えられる。

Agnikṣetra の中央の kuśa 草の束の上に、Uttaravedi が建てられる。その各辺は 40 フィート、すなわち一 Yuga の長さである。

soma 供犠の儀式は Ātithyeṣṭi から Upasad まで進行し、午前と午後の Upasad のあいだに最初の積層が行われる。

そのために煉瓦は赤い牡牛の皮の上に置かれ、聖別され、一頭の馬を先導として Kṣetra の尾部へ運ばれ、その前で南に下ろされる。

馬は祭壇建築の平面図を踏み、畝に沿って歩み、最後に積層用の煉瓦を嗅ぎ、そののち北東へ追い払われる。

中央の草束の上に蓮の葉が置かれ、その上に黄金板が、その上に直立して hiraṇyapuruṣa¹⁰(W. 248)が置かれ、これを祭主が入念な儀礼をもって礼拝する。

その上に彼は多孔質の(svayamātṛṇṇā)煉瓦を置き、その前に順次、特別な名を帯びる幾つかの他の Iṣṭakā を置く。そのうち二つは ṛtavyā と呼ばれ、春(madhumādhava)に献じられる。最後に Asāḍhā が置かれる。

これより南に、黄金の男の方を向いて、生きた亀がその場所を占める。

Prastotṛ は、蓮の葉・Puruṣa などの据え置きに Vyāhṛtisāman を伴わせる。

かの Svayamātṛṇṇā の北には、杵をそなえた臼がある。その上に Ukhā が来て、その中央には人間の頭が、その両側には獣たちの頭が、さらにある者たちによれば蛇の頭が置かれる。そのそれぞれには七片の黄金が添えられる。

ついで他の煉瓦が一定の順序で据えられ(草束・Lokaṃpṛṇā などを含めて 98 個で、呪句を伴う)、全体が

欄外下:11*

164 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

lokaṃpṛṇā と呼ばれる種々の大きさの煉瓦(たとえば中央部分のためには四分の一 Pāda の大きさのものが 924 個)で埋められる。

最下層のための石の数は 1950 であり、五つの積層すべてのためには 10800 である。

出来上がった Citi は瓦礫で平らにされる。

建設の期間は Upasad の日数に依存する。それが Agniṣṭoma のように三日のみであれば、五つ(あるいはそれ以上)の積層は最初の二日に配分される。Upasad が十二日であれば、各積層は二日を得る。一日は積むために、一日は埋めるためにである。一年の期間であれば、最初の四つの積層に八か月が、最後のものに四か月が当たる。

第一の Citi におけると同じく、他の Citi においても、塗り込められる石の多くはその名をもつ。たとえば nakṣatra-iṣṭakāḥindratanū-iṣṭakāḥ などである。

第一のものが春に献じられたように、第二のものでは二つの Iṣṭakā が夏に、第三のものでは二つが秋に、というように献じられる。

正確な配置は、白 YV の第十 Pariśiṣṭa、すなわち Iṣṭakāpūraṇa(W. 263)が教えている。

多くの、一部は奇異な呪句をもって遂行されるこの建造に続く最初のより大きな供犠行為は、śatarudriyahoma である。これは Rudra および Rudra たちへの 425 の献供であり、そのために野生の胡麻と Gavedhukā の粉、あるいは他の野生の森の産物、場合によっては六頭の山羊の乳が用いられる。

これらは地・空・天における Rudra たちに帰し、左翼の後方の隅に嵌め込まれた不揃いの大きさの Pariśrit 石の上で、昇順・降順にささげられる。

Āgnīdhra は水瓶を取り、祭壇に注ぎかけ、その後に三度これをめぐる。

右翼と本体との接合部に置かれた石は、水瓶を下ろすのに役立ち、この儀式の終わりに水瓶に入れられ、それとともに敵への呪詛のもとに南へ投げられる。

奇異なのは、祭壇に冷却を与えるもう一つの儀式である。Adhvaryu は葦の先端 ―― そこには蛙、Vetasa の枝、Avakā 草¹¹ が結びつけられている ―― をもって、祭壇の種々の部分に線を引き、その後に葦を Utkara の上に投げる。

祭壇の種々の部分において種々の Sāman が歌われる¹²。その後、Adhvaryu が Hotṛ に Agnyuktha(9 頁, 25)の命令を下す。

個々の積層に際して、それらを季節と関係づける呪句が唱えられるように、年の転換点に関係するより重要な Sāman を祭壇の諸部分(rathaṃtara、bṛhat)において歌うことは、祭壇の象徴に幾らかの光を投げかけるように思われる。他所でも昼と夜などへの言及が現れる。

最後の Upasad の日に、Adhvaryu は供犠の匙と、Dadhi・Madhu・Ghṛta を入れた壺とを携えて建造物に登る。その右側には Brahman と Yajamāna が座る。彼は供犠し、壺から取った束を用いて祭壇全体に注ぎかける。

通常の Pravargya と Upasad の祝いの遂行ののち、Agnipraṇayana が続く。

Adhvaryu あるいは Pratiprasthātṛ が燃えさしを取り、Pratiprasthātṛ、Hotṛ、祭主、Brahman に導かれて ―― そのあいだ Brahman は Apratiratha の歌(8, 15, 10 頁)をつぶやく ―― 祭壇へ赴く。

彩り豊かな小さな丸石を、彼は Āgnīdhra 小屋の南に、祭壇の中心線に接して置く。Āgnīdhrīya-Dhiṣṇya の製作に際して、これは共に組み込まれる。

全員が祭壇に登る。白い仔牛をもつ黒い牝牛の乳が、桶に入れて、最後に据えられた Svayamātṛṇṇā 煉瓦の上に供犠され、燃えさしがその上に置かれ、特別な薪で養われる。

これに多数の献供が続く。Vaiśvānara のため、49 の風のため ―― それらは Indra に仕えたように祭主にも仕えるべきものとされる ―― のもの、すなわち vasor dhārā である。すなわち Agni のための 372 の献供、月の名のための 13、再び Agni のための 16、そして Pārtha 供犠 ―― Pṛthi Vainya がその王の聖別に際して

84. Catur-、pañca-、ṣaḍ-、sapta-、daśahotāraḥ。 165

導入したもの(145 頁)―― 、および 14 の Vājaprasavīya(§ 73, 142 頁)である。これらの残りは、乳と水を混ぜて、Vājapeya におけると同じく祭主の塗油に役立つ。

祭主がその際、祭壇に触れるか、座るか、立つかに応じて、黒い羚羊の皮あるいは牡山羊の皮が敷物として用いられ、彼に特別な願いが叶えられる。

塗油(abhiṣeka)に続いて、さらに六つの Pārtha 献供、十二の Rāṣṭrabhṛt、そしてなかんずく奇妙な三つの vātahoma が続く。これは「空気」の献供であって、Adhvaryu が東・北・南から窪めた手で受け止め、軛と帯をそなえた戦車の三つの部分に供犠するものである。「各々の空気の献供は、その奉献ののち、帯を当該の箇所のまわりに回すことによって、いわば馬のように繋がれる」(W.)。

Havirdhāna の小屋が作られ、Dhiṣṇya が煉瓦で築かれる。

ここから儀式は Paśupuroḍāśasviṣṭakṛt まで、Abhiṣecanīya(§ 74, 145 頁)の仕方で進行する。

第一の Sutyā の日は agniyojana、すなわち「火を繋ぐこと」をもって始まる。Prātaranuvāka が響く前に、一連の呪句を唱えつつ Paridhi の木々をつかんで行う。

この Yojana に対応するのが、夕の vimocana であり、Yajñāyajñīyasāman に従って行われる。

soma 供犠の規則的な進行には、いくつかの特別な献供が加わる。すなわち Udayanīyeṣṭi に際しての Anumati、Kuhū、Rākā、Sinīvālī、Dhātṛ のための devikāhavis と、終結の献供の終わりに、Dakṣiṇā として二頭の角のない牛あるいは山羊を伴う Mitra-Varuṇa のための乳の供犠である。

Agnyādheya で成功しなかった者が Punarādheya を供犠するように、Agnicayana が功を奏さなかった場合には Punaḥciti を積むことができる。これは一部の者に斥けられ、他の者によっては、これを考案した Manu を引き合いに出して擁護されている(TS. 5, 4, 10, 5)。

Agnicayana を遂行した者は、一定の Vrata に服する。それらは生涯にわたって、あるいは一年のみ妥当する。彼は雨のなかを歩んではならず、鳥肉を食べてはならず、同じカーストの女とのみ生活してよい(57 頁を見よ)。第二の積層ののちは自らの妻にのみ近づいてよく、第三の積層ののちはその妻にさえ近づいてはならない。

§§ 84. Catur-、pañca-、ṣaḍ-、sapta-、daśahotāraḥ¹

儀軌はこの名のもとに、一定の定型句を理解している。それらはその名を、そのそれぞれのなかで神秘的な仕方で言及される祭司ないし Hotṛ(この語はここでは一般的な意味で取られる)の数に従って帯びている(たとえば「Agni が Hotṛ なり、Aśvin たちが Adhvaryu なり……」)。

それらはその起源を種々の神々に遡らせ、それらの神々は一定の機会にこれらの「yajñakratu」を見たとされる。

それらは yajñakratu と呼ばれ、また iṣṭi(Āp. 14, 13, 2 を参照)、yajña(Ś. 10, 14, 1 注釈を参照)とも呼ばれる。なぜなら、Agnihotra(daśahotṛ)から新月・満月供犠(caturhotṛ)を経て soma 供犠に至るまで、種々の供犠を代表するからである²。

われわれはそれらを、Śrauta 供犠のただ中で、その参加者たちによって祭祀行為に伴うものとして

166 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

朗誦されるのを見いだす。Bahiṣpavamāna におけるように、それらを静かに唱えるよう規定されているところでは、特別な指示がなければ、これは Yajamāna の務めである(Āp. 14, 15, 4。前掲 130 頁などを参照)。

これを別としても、それらは自立した適用を見いだしうる。一部は単独で一定の願いを達成するために、一部は kāmya ないし naimittika の供犠として、Graha と Svāhā の呼び声とに結びついて用いられる。

たとえば、自らにふさわしい名声を得られない学識あるバラモンは、森へ行き、darbha の束を結び、右に座す一人のバラモンの面前で Caturhotṛ を唱える(Āp. 14, 13, 7)。

この自立した使用は、大部分は俗信の領域に属し、āhitāgni にのみ限られるものではない(Āp. 14, 13, 2;15, 5)。

子孫あるいは家畜を得ようとする者は、十二日のあいだ熱い湯を飲み、一定の衣を着け、地上に眠るべきである。最後の夜の早朝に、彼は東へ赴き、一息を吸い、Daśahotṛ を唱え、Caturhotṛ をバターなどをもって供犠する(14, 13, 3 以下)。

Daśahotṛ をもって呪術を行う者は、塩を含んだ場所か、地の裂け目に供犠する。Vauṣaṭ の呼び声に代えて、彼は擬音的に「言葉の硬いもの」を選ぶ。すなわち脅しを暗示する khaṭphaṭ などである(Āp. 14, 14, 1;TĀr. 4, 27)。

しかしテクストのこの用法には、その内容が矛盾する。というのも、それらは呪術の定型句のようにではなく、Upaniṣad のように読めるからである(cittiḥ srukcittam ājyamvāg vediḥ など)。

それらの各々が一つの供犠全体を代表するのであるから、それらは精神のうちで素早く思念された、もはや現実にささげられることのない供犠、すなわち Agnihotra や Darśapūrṇamāsau などの精髄である、と言うこともできよう。

これに適合するのが、それらが特別な Vrata と結びついていること(Āp. 14, 13, 1)、また Dvādaśāha におけるそれらの位置が Tanūvadana と Prajāpati のための Mānasa Graha の前にあること(§ 79, 注 12. 13)である。

言い換えれば、儀軌はここで Upaniṣad へと流れ込むのである。

一定の願いを達成するためのこれらの定型句の使用、すなわち呪術については、私はこれを後代のものと見なしたい。それはその神智学的内容と矛盾するからである。

Mantra が呪術の呪句へと降下したのと同じことが、これら「精神的供犠」にも起こったのであり、人はそれらに特別な内的な力を帰したのであろう。

§§ 85. Prāyaścitta(贖罪法)¹

(Āp. 9;14, 16 以下;Kāt. 25;Āśv. 3, 10–14;6, 6–10;Śāṅkh. 3, 19–21;13, 2–12 および各所。)

細部に至るまで作り上げられた供犠奉仕の豊かな形成は、見通しがたいほど多様な誤りを可能な帰結としてもった。それゆえ Sarvaprāyaścitta は、すでに単純な新月・満月供犠に際してささげられる。

正しい時が失われることもあり、供犠の火が他の火と混じったり消えたりすることもある。犠牲獣が屠殺の際に吼えることもあり、Āhitāgni が心配のあまり泣くこともある。神名が取り違えられることもあり、soma が盗まれたり傷んだりすることもある。Agnihotra の牝牛が搾乳の際に座り込んだり血を出したりすることもある。烏が供犠柱に止まることもある。祭主が病になったり死んだりすることもある。

Anūbandhyā が孕んでいることもありうる ―― 胎児はどう扱うべきか。soma 供犠が恋敵のそれと競合することもありうる(saṃsava²)―― これにはどう対処すべきか。

Yājñika たちはこれらの、またその他の多くの点を詳細な決疑論をもって論じ、個々の場合に適用すべき手段を指示している。

その個々をここで論ずる必要はないと思われる。それらが関心を引くのは、Stenzler が前掲書で示唆したような、一般的観点からの考察によってのみであろう。

より大きな意義をもつ Prāyaścitta としては、なおここに、より重い罪の清めに役立つ Kūṣmāṇḍa を記しておいてよいであろう(TĀr. 2, 7. 8)。

85. Prāyaścitta。86. 俗信と他の供犠との関係。 167

§IV. ヴェーダの呪術¹

§§ 86. 俗信と他の供犠との関係

ヴェーダの供犠は、それと気づかれぬうちに俗信の領域へと移り行く。供犠と呪術との区別は、近代のいくらか人為的な概念規定によってさえ実行しがたいものであるが、インドに伝えられた資料の前では通用せず、インド自身の見方のうちにも根拠をもたない。

このことは、家庭儀軌においても Śrauta 儀軌においても、あらゆる供犠のただ中に現れ、特別な願いの成就 ―― 富その他の財の獲得であれ、恋敵の滅亡であれ ―― を目指す数多くの慣習によって認めることができる。

Udgātṛ は Upāṃśusavana の石に、規則どおりとは異なる位置を与え、有力な隣人のことを念ずることによって、王の王国を破壊する(前掲 129 頁)。Veda の草束は、祭主が家畜を望むか食物を望むかに応じて、膝の形あるいは籠の形を得る(112 頁)。Yūpa に巻かれた綱の移動は祭主を害し、高く、あるいは低く付けられることによって、豊かな雨を妨げ、あるいはもたらす(121 頁)。Aikādaśinakratu における供犠柱の配置は、祭主の種々の願いを満たす呪術の手段である(136 頁)。Agnihotra をささげるより精確な時点、供犠に選ばれる炎の種類は、祭主の意図によって左右される(110 頁)。

Rājasūya の儀軌には、呪術儀軌と民間医術とから借りた所作が取り込まれている²。śyena と呼ばれる呪詛の供犠は、きわめて多様な目的に役立つ五つの Sādyaḥkra の一つにすぎず、種々の組み合わせを示す Daśarātra の pur 形は、対抗呪術に用いられる。

Śrauta の所作と同じく、Gṛhya の所作においてもそうである。悪鬼が子と母の生命を脅かす出生の時から、埋葬と Śmaśāna の建立 ―― 石あるいは土くれによって生者の世界から隔てられる ―― に至るまで、個人の生涯は、通常の言葉づかいでは俗信の領域に属するであろう儀式に取り囲まれている。

両領域のあいだの区別の欠如を明瞭に示すのが、多くの kāmya および naimittika の供犠の性格である。それらは富の獲得、戦における勝利、雨の獲得(雨乞いの呪術)、敵の防禦ないし滅亡のためにささげられ³、通常の供犠形式とはただ変改によってのみ区別される。

信仰と俗信との境界づけは、私の考えでは、純粋に歴史的にのみ、あるいはまったく個人的にのみなしうる。俗信とされねばならないのは、より進んだ立場から見て、後れた者たちの信仰および儀礼的実践と映るものである。

Ahuramazda の祭祀は、その Kavi や Karapan をもつ Daēva たちの上に立つ。キリスト教は異教時代からの一定の遺習の上に立つ。仏教にとってバラモンの信仰は religio paganorum と映るように思われる。しかしバラモン教そのものの内部では、われわれは種々の層をいまだ区別することができない。

なるほどここでも、進展する発展が多くの古い実践、Mahāvrata の慣習、Puruṣamedha その他を後退させたことは紛れもない。すでに RV において一人の歌者が、Yātudhāna すなわち魔法使いであるという疑いから誓いによって身を清めている(7, 104, 15)。Manu は(同じく Gaut. その他も)9, 290 で abhicāramūlakarman などに罰を科している。

しかし見たところ、そのような潮流はまったくは貫徹せず、またそれは、ヴェーダ時代にすでに

168 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

Vrātyastoma 供犠(139 頁)を用い、今日もなお続けている実践 ―― 種々の民族とその神々を、本質的に改革することなく自らのうちに取り込むという実践 ―― においては、貫徹しえなかったのである。

したがってわれわれはバラモン教に対して、そのうちで信仰と俗信とを分かちうるような歴史的立場を得ることができない⁴。われわれはその祭祀全体を、一方か他方に数え入れるか、あるいは一定の主観性をもって自ら境界を引くほかない。

§§ 87. 俗信の範囲と分類

Gotama と Vāseṭṭha との対話 ―― そこではバラモンの似非知識の種々の形態、tiracchānavijjā が(ここでもまた儀礼と俗信との区別なしに)列挙されている¹ ―― は、バラモンの技芸の範囲と多様な形態とを示している。

われわれはそこになかんずく次のものを見いだす。aṅga(寿命・名声などに関する肢体からの予言)²、nimitta(徴から。たとえば誰かが雄鶏の三度の鳴き声から、自分にとってちょうど必要な数の三を言い当てる場合)、uppāda(落雷のような前兆から)、supina(夢から)、lakkhaṇa(身体の特徴から、ある者がいつか Rājan あるいは Uparāja となるかどうか)、mūsikācchinna(鼠が衣を噛み切ったことからの予言など)、aggi-dabbi- その他の Homa(18 頁)、aṅgavijjāvatthuvijjāsivavijjā(墓地における滞在の贖罪、あるいはまた豺の叫びの解釈)、bhūtavijjā、蛇や蠍の咬傷に対する治療薬の知識、毒物の知識、sakuṇa-vāyasavijjāsaraparittāna(矢の祝福呪)など。

さらに、宝石・杖・衣服・剣など、また女・少年・少女・種々の動物のもつ、良き、あるいはその所持者に害をなす性質の理解。王たちが出征するかしないか、自国あるいは他国の王が包囲され、あるいは打ち破られるかどうかの予知。日食・月食・惑星食・合・衝の予言と解釈、火の現象の落下や地震などの予言、雨の多寡、豊作か飢饉か、平和・騒乱・疾病の予言。婚姻、友好条約あるいは抗争、金銭の請求あるいは貸付に有利な時期の判定。

87. 俗信の範囲と分類。88. 呪術の手段。 169

胎児の流出に対する手段の知識、舌・顎・耳を麻痺させる呪句(相手が自分の言うことを聞けないようにするため)、手相見、鏡・少女・神を用いた託宣の伺い、そして最後に、バラモン医術の領域からの催吐剤・下剤などの適用。

その多くはヴェーダの儀軌のうちに再び現れ、さらに多くは後代の文献に現れる。Varāhamihira の Bṛhat-Saṃhitā がその一例である。

Lyall³ とともに伝統的な典拠および祭司的秩序と、民衆的な見方とを対立させ、前者を後者の背後に退けることは必要でない。民衆大衆の宗教はなるほど Crooke が言うように⁴ 大きな程度でバラモン教から独立している。しかしバラモン教は古い時代においてすでに民衆大衆から独立してはいなかった。そしてその儀礼的な Sūtra が⁵、第一には AV とともに Kauśika が、また Vidhāna(Sāmavidhānabrāhmaṇa その他)が、そのことを証している。

われわれはバラモン文献の古い分類を、Pāriplava の機会における種々のヴェーダと Vidyā の列挙のうちにもっている⁶。そこでは Hotṛ が種々の民衆階級を、それらにふさわしいヴェーダとともに挙げ、そのそれぞれから一節を誦する。RV からは一つの Sūkta を、YV からは一つの yājuṣa anuvāka を、Atharvaveda からは一つの bheṣaja を、Āṅgirasa-veda からは一つの ghora を、Sarpavidyā からは一つの sarpavidyā を、Rakṣovidyā からは一つの rakṣovidyā を。Asuravidyā からは彼は māyāṃ kāṃcit を行うべきである。

ghora を Śāṅkh. への注釈は ātharvaṇa grantha と説明し(Āśv. 790 頁では abhicārādipratipādaka)、Taitt. Brāhm. 2, 4, 2, 2(524 頁)への注釈は abhicārarūpaṃ karma … ghoraṃ kartanam adṛṣṭarūpeṇa akārṣīt と説明する。rakṣovidyā⁷ を kuhukavidyā⁸、māyāaṅgulinyāsarūpā⁹ と説明する。

したがってわれわれは、Sarpavidyā などを別として、Bhaiṣajya(AV)、Abhicāra(Āṅgirasa-V.)¹⁰、呪術(Asuravidyā)を古い技芸と見なすことができる。

それらの内的分類についてはなお何も精確なことが知られていないので、以下では私は、ヴェーダの資料を別の、Atharvapaddhati に与えられた区分に従って¹¹ 整理しようと思う。すなわち ābhicārikāṇiśāntikāni(対抗呪術と転移)、pauṣṭikāni(幸運の呪術)である。

§§ 88. 呪術の手段

呪術には言葉あるいは所作が属する。両者は結合しうるが、言葉のみ、あるいは思念を伴う所作のみでも足りる。

1. 言葉。 厳粛な形式において呪詛あるいは祝福となりうる言葉¹ は、他の呪術儀軌におけると同じく、インドにおいてもその役割を演ずる。

A. Kuhn が最初に、インドとゲルマンの祝福呪の密接な親縁性を認めた²。Schönbach が古ドイツ語のために³、Weinhold がゲルマンの呪詛定型句のために⁴ 行ったのと同様のインドの祝福呪の集成と加工は、なお欠けている。

ここでもまた、厳粛な、高揚した、力強い語り方があり、それは priya の場合にも dveṣya-kalpa の場合にも用いられ、反復、強調的な語順などによって、呪詛の言葉のうちに現れる。

ヴェーダの儀軌にも欠けていなかった美しい祝福の言葉の一例は、

170 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

Sūktavāka の呪句(新月・満月供犠 143 頁)であり、その字句は TS. 2, 6, 9, 4 が精確に守るよう教えている。

病を追い払うある定型句では、nyag vāto 'va vāti, nyak tapati sūryaḥ; nīcīnam aghnyā duhe, nyag bhavatu te rapaḥ(RV 10, 60, 11)と言う。ある和解の呪術は、前置詞 sam を強調的に繰り返す。saṃ vo manāṃsi saṃvratā sam ākūtīr namāmasi(AV 6, 94)。

敵の牛舎に埋められた薬草には、こう呼びかける。「ut tuda … talpeṣe talpa ut tuda、山々のなかへそれを逃れさせよ。(森林火災の)炎をそれに向けよ(upa saṃ nuda)。東からそこに太陽が昇る前に、それを消え失せさせよ」(TĀr. 4, 39;Āp. 15, 19, 8)。

傷を癒す植物 Arundhatī(あるいは傷の水、Kauś. 28, 5)には、rohaṇy asi rohaṇī, asthnaś chinnasya rohaṇī, rohayedam ―― (AV 4, 12)という言葉で呼びかける。

逃れる女を引き止める呪句(185 頁を見よ)では、語根 sthā からの派生語が用いられる。asthād dyaur asthāt pṛthivy asthād viśvam idaṃ jagat〔訳注:原本の綴りに従えば asthāne parvatā asthur asthāmny asyāham atiṣṭhipam〕。

bhrātṛvyavat あるいは abhicarat は、rugṇa(「砕かれた」の語)を含む詩節をもって Graha を汲むべきである(Āp. 12, 15, 5. 6)⁵。

現実の象徴にまで高まりうる比喩が、呪詛に力を与える。「風が大地から草を引きちぎるように」とある恋の呪術は言う ―― そこではなかんずく風に引きちぎられた草が用いられる(Kauś. 35, 21;AV 2, 30, 1)―― 「わたしはあなたの心を引きちぎる、あなたがわたしを愛するように」。

「わたしは弓から弦を張るように、あなたの心から怒りを解く」「わたしたちは石の下にあなたの怒りを投げる」「わたしはあなたの怒りを踏む」と、ある和解の呪句は言う。それには石を置くことと、弓を用いた儀式とが象徴的に伴う(Kauś. 36, 28 以下;AV 6, 42)。

「Dākṣāyaṇa たちが Śatānīka に結んだ護符を、わたしはあなたに結ぶ……」(AV 1, 35)。神々が Sūrya を闇から解き放ったように、病者は世襲の禍などから解き放たれるべきである(TBr. 2, 5, 6, 3 詩節 7)。

神々はしばしば助けに呼ばれる。敵の軍勢を Indra は混乱させ、Agni の、また風の速さをもって消え失せさせるべきであり、Agni は彼らからその目を奪うべきである(AV 3, 1, 5. 6)。Indra は狼が羊を絞めるように絞めるべきである(AV 5, 8, 4)。

Sūrya が闇を圧する光線は……あらゆる供犠の欠如を……追い払い、あらゆる病と悪しき夢を追い払うべきである(apa-apa-svapna)RV 10, 37, 4。

brahmaṇaḥ parimara(Ait. Br. 8, 28)は、太陽・月などの昇りと沈みに関係づけることによって効力をもつ。

呼びかけのうちに幸をもたらす力がある。「生ける息子たちの母よ」「生ける夫の妻よ」と、女たちは Sīmantonnayana に際して未来の母を呼ぶ。同様に対話においても⁶、妻が「男児の生成」を飲むとき(42 頁)、「子孫を見る」と言うときなどにそうである⁷。

敵対的な呪詛に際して重要なのが vācaḥ krūrāṇi である。親しい挨拶において吉兆のために Kapāla に bhagāla などと言われ(63 頁)、祖霊供犠において vauṣaṭ に代えて yajāmahesvadhāsvadhāmahe と言われるように、ここでは時として「言葉の粗いもの」が用いられる。yad vācaḥ krūraṃ tena vaṣaṭkaroti⁸。

そのような言葉として TĀr. 前掲は khaṭphaṭ⁹、jahichindhibhindhihandhikaṭ を挙げる。37 では khaṭ phaṭ mrasi¹⁰。

そのような vācaḥ krūrāṇi への言及が、私の考えでは対抗呪詛 RV 10, 87, 13 のうちにある。yad agne adya mithunā śapāto yad vācas tṛṣṭaṃ janayanta rebhāḥ 等、詩節 15¹¹。

他の諸民族¹² によく知られた、呪句を逆から唱えるという実践に、私はただ散発的にしか出会わなかった。ある供犠祭司が Yajamāna の召使たちによってその仕事から引き離された場合には、彼は Daśahotṛ を供犠し、言葉を後ろから前へと区切りごとに唱えるべきであり、それによって祭主を滅ぼすことになる(Āp. 14, 15, 1)¹³。

呪詛においては名が重要である。「わたしは NN を突き放す」あるいはこれに類する言葉が呪詛の定型句である。それゆえ少年は

89. 所作、とりわけ象徴的な種類のもの。 171

秘密の名を受ける(46 頁)。呪術から守られるためである¹⁴。

誓いの条件つき自己呪詛(Jolly § 51)については、われわれは Tānūnaptra の儀式に儀礼的な一例をもつ。その参加者は Tanūnapāt の前で互いに忠誠の契約を結び、誓いを破る者が「滅び去る」ことを願うのである。

すべての呪句が、それが役立つ所作にもはや適合しているわけではない(19 頁)。しばしばそれらは、まったく外面的な連関のゆえに用いられ¹⁵、単なる incantamenta へと堕している。

その一例を、上に「精神的供犠」として特徴づけられ、通常の呪詛に用いられる Caturhotṛ が提供している(165. 6 頁)。さらに仏教文献の paritta があり、これはそれ自体としては何ら祓魔的なものをもたないが¹⁶、守護の定型句として用いられる。

Chandoga たちが呪術のために多く用いる Sāman においては、旋律が主要事であって、テクストではない¹⁷。その基礎にある Mantra は「呪術の定型句として、すなわちそれを構成する語の意味をあまり顧慮せずに」通用する。

同じ語をしばしば繰り返すことによる後代の呪術的効果もまた、ヴェーダ文献にすでにその例を見いだす¹⁸。

mantra という語は、霊的な意味から呪句の意味へと堕した。brahman が本来「呪句」の意味をもっていたのか、それとも後になってはじめてそれを得たのかは、確実には認識されていない¹⁹。tabu という語を Weber は AV 5, 13, 10 のうちに見いだそうと試みたが²⁰、対立する困難を克服してはいない。

§§ 89. 2. 所作、とりわけ象徴的な種類のもの

インド人は、他者の心情・健康・生命に関わり、あるいはあらゆる種類の財の獲得を目指す手段の適用において、きわめて発明に富んでいた。

まず第一に、多くの個々の所作の象徴的意味を強調せねばならない。それらは供犠のただ中で祭主の願いを表現し、おそらくそれを暗示するのみならず、呪術的に成就せしめるべきものである。

Rājasūya において Yajamāna は「諸方位を登り」、Vājapeya においては Yūpa を登る。Veda の草束の形は祭主の願いを表現する(112. 167 頁)。

雨を必要とする者は、Yūpa のまわりの綱を低く付け(129 頁)、あるいは供犠の器の内側を拭い、その残りを、手を下に向けて Paridhi の内側に塗る。逆を望むならば、手を上に向け、外側を

172 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

選ぶ(Āp. 12, 11, 3. 4)。あるいは soma 供犠に際して、tṛṣṭikāma のためには小屋を低く、avṛṣṭikāma のためには高く建てる。

献供に際して、彼は好意的な意図では直立し、敵意ある意図では傾いて、あるいは前かがみに立つ(12, 11, 2. 9;13, 18, 5)。

誰かを友としたいと望む者は、搾り石を互いに向け合わせ、そうでなければ互いに背かせる(TMBr. 6, 6, 2. 3)。

自らの畑に、自らの家に Vedi を半分だけ盛り、Barhis と薪を半分だけ取るならば、自らの領域に恋敵を作り出すことになる(TS. 2, 2, 10, 5;注釈 238 頁)。

soma を量るのに、毛のある面の代わりに皮の禿げた内側を選ぶならば、祭主に家畜は与えられない(Āp. 10, 24, 6)。

自らの息子たちに順に繁栄をもたらすには、長男のために満杯の匙で汲み、他の者たちのためには匙を次第に少なく満たして汲む。末子に最も繁栄を望むならば、逆に常に匙をより満たして汲ませる(Āp. 6, 7, 8)。

他の者が自分に先んじた場合 ―― 祭主としてであれ、他の仕方であれ ―― 、彼は Homa の前に、この恋敵が自分より若いか年上かに応じて、指を親指で押し下げるか、親指を指で押し下げる(12, 21, 1)。

誰かを逃走から妨げようとするときは、これを象徴的に固定する(185 頁を見よ)。

再び支配を得させようとする王のためには、aśvattha 樹の七本の枝を Havirdhāna の車に、「ここにわたしは Āditya たちを縛る、NN が再びその一族 NN に来るまで」という言葉とともに結びつける(TS. 2, 3, 1, 5)。

重要な呪術の手段がである¹。Vedi、響孔などの製作に際して、Rakṣas に向けられた呪句を唱えつつ囲繞線が引かれる。逃亡する下僕は尿の円によって呪縛される。

王の妃 Ādityaprabhā は、裸で、髪を逆立て、額に鉛丹の厚い Tilaka を付け、唇をささやきつつ動かして、種々の色を撒いた大きな円のなかに立ち、血と Surā と人肉との灌奠をささげる²。

尿閉に苦しむ病者には、一本の矢を射させる(Kauś. 25, 14 Keś.)。

植物・供犠の薪・動物の選択は、願いの方向によって左右され、願いの対象との観念的な親縁性を顧慮して行われる。

呪詛する者は、たとえば Vibhīdaka(TS. 2, 1, 7, 7)あるいは Bādhaka 樹(前掲 10 頁)³ から薪を取る。追われた王の供犠のためには Mandhūka 材を選ぶ。その炭は敵の軍勢に呪術を及ぼす(TS. 3, 4, 8, 3;第III巻 273. 4 頁)。

狂人、すなわち Gandharva と Apsaras に憑かれた者の治癒のためには、Nyagrodha、Udumbara、Aśvattha、Plakṣa の材を用いる。te vai gandharvāpsarasāṃ gṛhāḥ, svena evainaṃ dhāmnā śamayati(TS. 3, 4, 8, 4)。

あらゆる雨の儀式には、黒い牝牛のバターと乳、黒い米粒などが必要である(Kauś. 41 への Keś.;343 頁)。prājāpatyaṃ kṛṣṇam ā labheta tṛṣṭikāmaḥ TS. 2, 1, 8, 5 など。

古い靴、犬と Eḍaka の頭、人間の髪が葦に結びつけられ、雨を起こすために空中に向けて打たれる(Kauś. 41, 6 注釈)。

呪詛しようとする者は、Rudra に赤い獣を供犠する(TS. 2, 1, 7, 7)⁴。

Surā には狼・虎・獅子の毛が加えられる。これは ojasmanyusahas の象徴である(160 頁)。

水草 Avakā、蛙は、湿った要素の象徴として、冷却を与え呪術を働かせることができる。両者は Agnicayana に際して Vetasa の枝に結びつけられ、それをもって祭壇に線が引かれる(164 頁)。この植物は家屋建築に際して(81 頁)、火が出ないように置かれ、火葬に際して(88 頁)、熾火を冷やすために穴のなかに置かれる。

川に属する他のものと合わせて、川草などとともに、それらは川に望みの流れを与えることができる⁵。

89. 所作、とりわけ象徴的な種類のもの。 173

藪草が蟻塚に覆われているところでは、雨を望む者のために Pravargya の器を運ぶ(TĀr. 5, 1, 4;10, 6;Āp. 15, 16, 5;ISt. 13, 139)。

植物 varṣāhū は雨をもたらす(TS. 2, 4, 10, 3)。孕んだ牝牛が放尿する場所に生える balbaja という植物の部分を(TS. I, 1063)、軍勢の力を強めるために、戦の供犠に際して薪に結びつける。

Agnyādheya に際しての火は、vaiśya の家あるいは焙り鍋から取られ(69 頁)、あるいは bahuyājin の家から取られる。Ukhā の火は、annādyakāma のためには焙り鍋から、brahmavarcasakāma のためには燃えている樹の梢から取られる(Hir. 11, 7)。

この手段あるいはあの手段の選択に決定的に働いた動機と観念とを認識することは、常に可能とはかぎらない。

「われわれはそこに」と Barth は SVBr. の論評においてまとめて言う、「われわれの古い魔法使いたちの道具立てのかなりの部分を見いだす。種々の植物、ほとんど常に乳汁を含み有毒なもの、奇妙な軟膏、掃き寄せたもの、鳥の舌、女の乳で作ったバター、心臓の血、屍体から取った品々など。護符は一般に首飾りから成るが、しかし種々の、特定された金属から成る輪も用いられる……。」

種々の例は § 91 以下で叙述する。ここではなお短く、獲得すべき⁶、あるいは呪詛すべき人物 ―― さらには敵の軍勢の動物や兵士 ―― の、土・練り粉などから作ったにおいて行われる呪術を示唆しておこう。

象徴的な関係を超えて出るのが、ある人物の足跡において行われる呪術であり、これはその人物に呪術的な影響を及ぼす。

祭主の足に合わせて、妻は Agnicayana に際して自ら作った煉瓦を測る。場所の区画は、祭主の身丈の二倍の長さの縄で行われる ―― これは確かに同時に、祭主をその業に神秘的に結びつけるものである。神明裁判に際しては、円が被告人の足に合わせて測られる⁷。

少女を強いるためには、Sāman を歌いつつ、その足の塵を供犠する(SVBr. 2, 6, 8)。包囲された王の足跡は風に撒き散らす⁸。

南(祖霊の方角)へ行く敵の足跡を、斧の刃で切り取り、その塵を鍋に投げる。それがぱちぱちと音を立てれば、敵は倒れたのである(Kauś. 47, 25)。

馬の足跡は Āhavanīya 火の場所を聖別する。soma の購入に用いられる soma 牝牛の第七の足跡は掘り出され、まず祭主に「汝のうちに富がある」という言葉とともに、次いで妻に ―― 彼女はそれによって自らの家における支えを受ける ―― 手渡される(Śat. Br. 3, 3, 1, 8. 10)。

尿もまた呪術的な作用をもつ。下僕を逃走から妨げるために円を描くとき、それは尿をもって行われ、その尿は生きた動物の角に入れられる(185 頁)⁹。

供犠に対してと同じく、自立した呪術の所作に対しても、一定の遵守事項、とりわけ貞潔と断食の遵守が必要である。

たとえば Āp. 15, 19, 8 によれば、呪詛しようとする者は少なくとも三日間、禁欲を行うべきである。Yakṣma に罹った女は、貞潔を守った者が癒すべきである(Āp. GS. 9, 10)。

他の指示がない場合には、三日が規範とされる(SVBr. 2, 1, 2)¹⁰。しかしそれ以上の場合も頻繁に生ずる。

老いと死を追い払う一定の Sāman を用いる前には、一か月のあいだ森で断食し、根と果実のみを享け、織った衣を着けず、沈黙を守るべきである(SVBr. 2, 4, 9)。雨を望む者は、十二日のあいだ一定の儀礼において断食せねばならない(anuśuyet Kauś. 41, 1)。

裸体の規定 ―― その儀礼的意味を Weinhold¹¹ が明らかにした ―― については、私は二箇所を書き留めた。ある dies ater を追い払うには、裸で

174 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

額を擦る(Kauś. 38, 4)。185 頁の恋の呪術は裸で行う。

§§ 90. 場所

多くの敵対的な所作の時は夜である。その他のものの時は、その事情と目的に左右される。

より限定されているのは、私の見るかぎり、場所である。Lāṭ. 3, 5, 20 以下は、Avakā を置くのに供犠の目的に応じて別の場所を指定している。

ここでもまた、あらゆる供犠所作の内的統一性が示される。それは細部に至るまで、また Dakṣiṇā(140 頁を見よ)に至るまで、それによって達成されるべき願いの性格によって左右される。khadiṣi varṣakāma, goṣṭhe paśukāma, sabhāyāṃ yaśaskāma, śmaśāne 'bhicaran

墓地 ―― 人肉を食らう Rakṣas と Vetāla の座であり、そこでは禿鷲と烏の叫びが魔女たちの金切り声によって強められる(KSS. 18, 詩節 147)―― は、呪詛にとりわけ適した場所である¹²。

しかしわれわれは、そのためにも他の呪術儀礼のためにも、他の場所を見いだす。森のなかの孤独な場所、十字路(たとえば Vināyaka に憑かれた者のための供犠に際して)¹³、畑あるいは家。王のためには、śāntipuṇyāhasvastyayanaāyuṣyamaṅgalavidveṣaṇasaṃvananaabhicāradviṣadvyṛddhi に関わる所作は、広間の火において行われる¹⁴。

呪詛にとってとりわけ重要なのは方位である。

世界は生者と死者の領域、神々と Rakṣas の領域とに分かれる。後者には Nirṛti、Piśāca などが属する。祖霊、Rakṣas、Piśāca、また Rudra も、儀軌において同じ段階に立つ。

祖霊あるいは Rakṣas のための呪句を唱えた者、あるいは彼らに関わる所作を行った者は、贖罪として清めの水に触れねばならない。

南は Rakṣas と祖霊の故郷である(114. 115. 118 頁)。TBr. 2, 1, 3, 4(174 頁および 377)は、Havis を南へ運ぶことを禁じている。yad dakṣiṇā (udvāsayet) pitṛdevatyaṃ syāt

Nirṛti には、塩を含む、あるいは裂けた地面の場所で供犠される¹⁵。

呪詛する者はそれゆえ、荒れた場所を選ぶか(Āp. 10, 20, 6:nirvrāska;Kauś. 47, 6 dakṣiṇapravaṇa tīrtha)、その所作のために南を選ぶ。彼がそれによって自らの敵を Nirṛti あるいは祖霊に献じ、暗い力を自らの側につけようとしているのは明らかである。

死をもたらす儀式以外のものが問題である場合には、他の方位が考慮に入る¹⁶。

§§ 91. abhicāraābhicārikāṇi karmāṇi。呪詛

神々と生者の世界と、Rakṣas と祖霊の世界とのあいだの区別は、他の点にも現れる。

祖霊祭祀におけると同じく、Abhicāra における所作は、左から右へではなく、右から左へ行われる(Kauś. 47, 4)。それらは北から南へ進行し、供犠者は南へ向かうべきである(Kauś. 前掲)。

これと

90. 場所。91. 呪詛。 175

無関係でないのが、儀式を逆向きに、あるいは反対向きに行うべしという規定である ―― 正しい仕方で行えば富や健康などを助けるはずの儀式についてである。

TS. 3, 4, 8, 5:abhicaratā pratilomaṃ hotavyāḥ¹、prāṇān evāsya pratīcaḥ prati yanti。Lāṭ. 1, 1, 19:viparyasyābhicaraṇīyeṣu ―― ;1, 10, 9;Āp. 10, 7, 9。

妻の情夫に向けられた呪術では、焼いていない器のなかに火を点じ、葦の Barhis を逆方向に撒き、葦の先端を逆方向に供犠する、等々(Śat. Br. 14, 9, 4, 11)。

儀礼の技術は、この、所作の効力をその反対へと転ずる一般的な手続きに、なお同じ原理から生ずる個々の事柄を付け加える。たとえば儀軌の人為的な混乱であり、Indra のための供犠の食物をささげる際に、Indra のためには Anuvākyā を、これに対して Marut たちのためには Yājyā を唱えさせ、Marut 供犠においても同様に逆にさせるのである(TS. 2, 2, 11, 2)³。これによって王国に不和をもたらすのである。

ここでも象徴的な所作は数多い。§89 で述べたことの補足として、私は次のことを付け加える。すなわち、敵を滅ぼすために、供犠に際して彼に向かって Sphya⁴ あるいは Upaveṣa⁵ を雷霆として投げつけること。

足の指で大地を押し下げつつ、当然ながら名を挙げて呼ばれる敵への呪詛を発すること(NVO. 79)。「熱い水」を彼に向かって注ぎ出すこと(Śat. Br. 3, 5, 2, 8)。敵の住む方向に Gharma の器を udumbara の枝の上に据え、次の言葉をもってその敵を呪うこと。「Udumbara は爽やかさ、息の食物、Gharma の熱。ここにわたしは熱によって NN、NN の子の息を焼く。」

一本の茎を折り、それによって敵の軍勢の征服を暗示する(Ait. Br. 3, 22, 7)。呪詛の供犠の食器を打ち砕くphaṭ dhataḥ NN(Kauś. 47, 22)。石を入れた壺を南へ投げる(164 頁)。牛舎の扉の左の柱を緩める(Āp. 15, 19, 10;TĀr. 4, 39 注釈)。船に水を満たし、aśvattha の枝でそれを押し流す。「これらが、露から解き放たれた船のように、下流へ押し流されんことを」(Kauś. 48, 6)⁶。

Arāyī と呼ばれる魔女は、川岸に漂う木片をつかみ(神明裁判か)、それに乗って遠くへ去るべきものとされる(RV 10, 155, 3)。

呪詛者は火の背後で十二夜のあいだ、Badarī を撒いた穴のなかに、身を返すことなく横たわり、日に三度立ち上がり、敵に向かって水の流れ、すなわち「水の雷霆」を投げつける(Kauś. 47, 31)。

彼は一定の仕方で十二日にわたって、殻を取らない穀粒 Saktu を数握り食べ、第十二日の朝に敵に乳で煮た粥を与え、その残りを魚の多い水域に投げる。魚が集まってくれば、敵は倒れたのである(47, 33 以下)。

鉄錆、蜥蜴の頭などを取り、擂り砕き、布に包んで、敵の食物あるいは装身具のなかに置く(Kauś. 47, 22;8, 18)。

犠牲獣を縛っていた綱を、枯れた切り株あるいは草束の上に置き、敵を呪う(123 頁)。一定の機会に贈られた牛のうち最後のものを繋いで追い立てるのに用いた綱を、恋敵に向かって投げ、それによって彼に Nirṛti を投げつける(TS. 2, 2, 6, 5)。

三本の釘の上に座って、彼は恐ろしい姿で、髪を解いて供犠する(Ṛgvidhāna 3, 18, 2)。

詳細に Kauś. 47 以下が呪詛を扱っている。Āṅgirasa の祭具を南から取ってきて、(Keśava によれば)南に旗と門アーチをそなえた小屋を建てる。供犠の敷草は、Śyena におけると同じく(10 頁)両側を折った葦から成る。特別な種類のバター、Bādhaka 材、敵を指し示すテクストが用いられる。

規定されているのは呪術の杖であり、これは「Bharadvāja 切り」⁷ と呼ばれる讃歌 AV 2, 12 を唱えつつ切り出すべきもので、「恋敵を打つ雷霆」

176 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

として通用する。敵に対する重い呪詛のもとに、呪詛者はそのたびごとにその先端で地面を突く。

供犠の帯は特徴的な呪句をもって結び留められ、食物の残りを塗られる。

SVBr. 2, 6, 14 は、十字路に設けた火 ―― そのために火葬の炭と Bādhaka 材が用いられる ―― によって、敵を村から追い払う。そのなかへ呪術者は一匹の魚と一羽の鷓鴣を供犠し、焼けた体を擂り砕き、それを牝牛の心臓の血などと混ぜ、灰を敵の寝床と家に撒く。

敵の軍勢と戦うためには、Kauś. 16, 10 は腐った綱を(炉に置いて)用いる。Aśvattha と Bādhaka 材から火が摩擦され、煙と火の上で、敵を驚かせることに関わる一定の呪句が唱えられる。

あるいは森のなかで呪術者は、Aśvattha、Bādhaka などの一定の樹の薪を置く。彼は敵の道に麻と muñja の網を、Aśvattha の罠を投げる⁸。

友には Svāhā をもって供犠し、敵には Iṅgida をもって、左手で、Bādhaka 材を用い、durāhā の呼び声とともに供犠する。

火の北には赤い aśvattha の枝が打ち込まれ、暗色と赤色の糸で、呪術の定型句「わたしは暗色と赤色をもって NN を張りわたす」を唱えつつ巻かれる。

白い足をもつ牝山羊が、敵の軍勢に向けて放たれる(Kauś. 14, 22)。多くの例を SVBr. 3, 6 が提供している。

当然ながら、自らの武器と他者の武器の呪法も知られており(AV 5, 21;RV 6, 75)、また戦のための特別な供犠もある。たとえば TS. 2, 2, 2, 4 ないし 8, 2 では、Agni kṣāmavat、Indra manyumat、manasvat への供犠である。AV 11, 10, 1 は Sarpa、Itarajana、Rakṣas を敵に向けて送る。

呪詛の手段の一つがである。ここでもわれわれは、Rakṣas 信仰と呪術儀礼との近い関係に出会う。

悪鬼の取り分は犠牲獣の血から成る(123 頁)⁹。asnā rakṣaḥ saṃsṛjatāt と Adhrigu の定型句は言う。Rakṣas は Rām. 1, 19, 6 で Vedi に血を注ぎかける。

そのように TĀr. 4, 37;Āp. 15, 19, 7 では、一匙の血が供犠され、敵 NN が「Yama の顎(jambhayoḥ)のうちに」置かれる。血をもって Śat. Br. 13, 3, 4, 2(975)では Agni たちが Asura たちを克服する。

血に浸した茎の一片を、動物供犠に際して北西あるいは南西へ投げ、悪鬼と敵を最も深い闇へと呪う(Schwab 112)。自らの血が Ṛgvidhāna 3, 18, 3 によれば用いられる。

赤い頭布を Śyena 供犠に際して呪詛者は着ける(10 頁)。Rudra のための赤い牝牛が TS. 2, 1, 7, 7 では呪詛の供犠のために規定されている。

血は胃と排泄物とともに、悪鬼のために穴に注ぎ出される。畝あるいは穴が、祖霊のための団子と水の献供を受ける(123. 95 頁):pitṛdevatyam … yan nikhātam¹⁰。

Asura たちは神々を克服するために呪術を地中に埋めた。それゆえ人間もそうする¹¹。しかしその呪術は、掘り出されれば無害となる。

Rakṣas や Nirṛti は屑物によって遠ざけられる。前者は落ちた籾殻を受け取り(114 頁)、Nirṛti は穀粒と粉の屑、あるいは爪で清めた、あるいは割った黒い米粒の粥を受け取る¹²(144 頁)。

Rakṣas 供犠と呪詛呪術とのあいだの近い類似に対応して、骨・爪・髪 ―― 周知のように他の諸民族の俗信においても役割を果たすもの ―― を古い襤褸に包んで埋める。mṛtā vā eṣā tvag amedhyā yat keśaśmaśru¹³。

他のもの、たとえば Iṅgida を塗った罠も、恋敵の数だけ用いられ(Kauś. 48, 4)、それに用いられる。ある女は花冠、髪、埋葬に用いた牝牛の部分、その他の忌まわしい物質を取る¹⁴。

井戸と墓地は AV 5, 31, 8 によれば埋めるのに適した場所である。AV 10,

92. Śānti。1. 対抗呪術その他。 177

1, 18 は次のように言う。yāṃ te barhiṣi yāṃ śmaśāne kṣetre kṛtyāṃ valagaṃ vā nicakhnuḥ

Kṛtyā の多様性については、AV 10, 1、とりわけ詩節 2. 8 から像を得ることができる。Ludwig が言うように、まるごとの技巧品、呪術の人形などが作られていたように見える。

Ārjīka たちに付された形容辞 kṛtvan は、すでに RV 9, 65, 23 で「呪術的な」を意味するのであろう。私の VMyth. 1, 136 に与えた解釈が正しければ、われわれはすでに RV に、呪術に長けたカシミール人 ―― その地は後代においても俗信の故郷であり続けた ―― への言及をもつことになる¹⁵。

敵の象徴的な埋葬が Kauś. 47, 39 以下で行われる。赤い頭の蜥蜴を殺し(「NN をわたしは殺す」)、これを麻の寝床に載せ、血を塗り、黒く包んで焼く。もう一匹の蜥蜴は肢体ごとに供犠される。火の背後に葦の小片を置き、汗を塗ってこれを供犠する。一つの器に蜥蜴の胸と頭を入れ、それに足跡の塵などを加える。

その全体を呪術者は取り(「NN をわたしは取る」)、khadira の匙で掘り、葦で焼いた穴のなかに置き、その上に土を注ぎ、土くれを載せる。

あるいは土から作った像の心臓に、棘の鏃と梟の羽をつけた矢を射込む。あるいは敵の影を射抜く(Kauś. 35, 28;47, 55)。

蝋の像を火の上で溶かすことも、その者の死をもたらす¹⁶。

敵の軍勢の象・車・馬・兵士までもが練り粉で模造され、肢体ごとに供犠される(SVBr. 3, 6, 11)¹⁷。

私の見るかぎり稀な、十字路で行われるべき降霊術の例が SVBr. 3, 6, 12 に見いだされる。そこでは一定の儀式ののち、一人の男が槍を手にして現れ、これに NN を殺すよう求めるのである¹⁸。

§§ 92. Śānti

§1. 対抗呪術と敵の呪術の解除

有害な物質の作用は、人間を取り巻く自然と同じように多様である。それらは見える敵からも見えない敵からも、Rakṣas・祖霊・Nirṛti の世界からも、RV 1, 191;10, 87 のような魔女からも、他の人間からも、さらには花嫁 ―― その婚礼行列に Yakṣma たちが従う ―― からさえも生じうる。

AV 4, 9 は、守護の護符に向けられた歌の詩節 5. 6 において、śapathakṛtyāabhiśocanaviṣkandhaasanmantraduṣvapnyaduṣkṛtadurhārdaś cakṣur ghoram を挙げている¹。

呪詛そのものは、恋敵から、親族から、怒ったバラモンから発しうる(AV 2, 7, 2)。目・精神・言葉・brahman(呪句)の射出について TBr. 2, 4, 2, 1 が語っている²。

呪詛の効力については § 88 で述べた。それがすでにヴェーダの見方によれば、Tapas の力に満ちた苦行者の口から発するときには強大な破壊力をもつことは、

欄外下:Indo-arische Philologie. III. 2. ―― 12

178 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

Cyavana が Śāryāta たちに向けて投げつけた呪詛が証している³。

劣らず効力をもつのがである。「われらは肋骨を折る、cakṣurmantrasya durhārdaḥ」と、すでに挙げた歌 AV 2, 7, 5 は言う。andhā apaśyā na dabhann abhikhyā RV 1, 148, 5⁴。

若い妻は aghoracakṣuḥ apatighnī であり、悪しき特徴なしに夫の家に入るべきである(RV 10, 85, 43. 44)。

あらゆる種類の呪術に対しては、神々、Agni その他への呼びかけが助けとなる⁵。

しかし他の手段も用いられる。その最も単純なものは、呪術をその発動者へ引き返させることである。pratyag enaṃ śapathā yantu tṛṣṭāḥ RV 10, 87, 15。aghaṃ astv aghakṛte śapathaḥ śapathīyate | pratyak pratiprahiṇmo yathā kṛtyākṛtaṃ hanat AV 10, 1, 5 以下。

敵対的な Purohita には、Indra を「足の下に」投げつける(AV 5, 8, 5)。

「NN が精神をもって、言葉をもって、供犠をもって、Yajus と Havis をもって供犠するものは何であれ、Mṛtyu が Nirṛti と結んで、その Āhuti が目標に達する前に滅ぼすべし。……わたしはあなたの用意した供犠の食物を殺す、あなたはわたしに悪しきこと(ghoram)をなしたのだから……」(TBr. 2, 4, 2, 1 以下)。

神々は manyusāvin を通り過ぎるべきものとされる⁶(RV 8, 32, 21)。

abhicaryamāṇaabhiśasyamāna ―― その悪臭について MS. 2, 5, 2(49 頁 12 行)が語っている ―― は、対抗供犠によって身を守る。devatābhir eva devatāḥ pratīcarati, yajñena yajñaṃ, vācā vācam, brahmaṇā brahma⁷ TS. 2, 2, 9, 2。

例としては、Rājasūya に規定される Apāmārga⁸、あるいは TS. 2, 2, 9(II, 228 頁)に規定される供犠 ―― 早朝、誰かが語る前に始められ、三つの搾りに三つの Iṣṭi を対置するもの ―― がある。

一定の供犠はそもそも呪術から守る。rājasūyeneṣṭvā nābhicaritavai(TBr. 1, 7, 7, 5)。

また、一定の Sāman を用いつつ黒胡麻の献供をささげることによって、あるいは銅・銀・金・鉄の指輪を右手に着けることによって、あらかじめ呪術から身を守ることもできる(SVBr. 3, 5, 5 以下)。

とりわけ重要なのが植物と、それらから、あるいは根・樹脂・黄金から作られる護符である。

植物 ―― その広範な使用については Āsurī 草の祭祀が観念を与える⁹ ―― は、敵対的な呪術に対して効力をもつのみならず¹⁰、病から守り、富をもたらし、隠されたもの、Piśāca、Yātudhāna を見えさせ、隠されたものを殺す。

蜜草を噛みながら、人は北東から、恋敵に対する勝利を望む集会へと入る¹¹。

Brāhmī 草を、八日間の断食ののち一定の旋律を用いて食べれば、聞いたことを再現する能力を得る(SVBr. 2, 7, 4)。

Tilaka 樹から作られた Srāktya 護符 ―― これについては AV 8, 5 が扱っている¹² ―― は、あらゆる種類の呪術を追い払う。kṛtyā āṅgirasīḥ — āsurīḥ — svayaṃkṛtāḥ; — anyebhir ābhṛtāḥ

同じものが、興味深い、細部において必ずしも明瞭でない対抗呪術 Kauś. 39 にも用いられる。これについて Keśava は、対抗呪詛にはいたるところで護符(maṇi)を結ぶ、と述べている。

赤褐色の牡牛、赤い牡山羊が屠られ、一定の材料から贖罪の水が作られる。夜、ターバンを着け、靴を履いて(異読:脱いで)、呪術の場所へ行く。呪術の動物(梟か)が問題であるように見える。

杭で毛皮が固定され、呪術者は鉄の鋏で呪術の縛めを解き、これを横向きに毛皮の上に載せ、その上でこれに水を撒き、肉汁と肉片を与え、膏を塗る。

綱でこれを縛り、「起き上がれ」と命じ、一同は歩み出す。呪術者が先頭に立ち、左手に松明を、右手に水の入った器を持ち、黙して、牛の足跡も水の流れもない場所へ向かう。そこで彼は裂けた、あるいはその他適当な場所に呪術を置き、かの器で松明に水を注ぎ、次の呪句とともに戻る。「太陽が闇から解き放たれ、夜を去るように……わたしはすべての悪しき呪術を去る……。」

marmāṇi、すなわち弱い、呪術にさらされた箇所、

92. Śānti。2. 有害な影響の転移。 179

Gārhapatya、Sabhā、井戸、焼いていない器には、水が撒かれる。黒い牡牛を繋いだ犂で、呪術の場所のまわりに線が引かれる。

§2. 有害な影響の転移

劣格の物質の供犠によって、また血の供犠によって、Rakṣas、Piśāca、Nirṛti の有害な影響が予防される(176 頁)。彼らを見つけ出すために、一片の銅を長髪の人間の口に投げる(145 頁)。

祖霊は、115 頁に記した献供のほかに、祭主が50歳を超えている場合には毛髪を受ける(94. 115 頁)。

Kauś. 18, 1 以下は一連の特別な nirṛtikarmāṇi を知っており、そこでは主として古いもの、黒いものが用いられる。古い vīraṇa 草の上に火を点じ、古い容器から砂利を混ぜた米を撒き、古い靴を運ぶ、等々。

ここには有害な物質を注ぎ捨てることも属するであろう。屑物は、掘り返した蟻塚のなかに供犠され、「世襲の禍」を追い払うために覆いをかけられる¹。Surā の残りは蟻塚に注がれる²。

あるいは祖霊供犠ののち手を拭う(118 頁)。「拭い去られたのは Śaṇḍa」「拭い去られたのは Marka」と、祭司たちは Śukra- と Manthin-Graha に際して言う。この両者を追い払うために、彼らは Yūpa の削片で拭うのである(Śat. Br. 4, 2, 1, 14)。

Apāmārgahoma をもって、彼らは滅ぼす Rakṣas を拭い去る(Śat. Br. 5, 2, 4, 14)。Apāmārga 草は、Saṃcayana から戻る者たちが手を清めるのに役立つ³。

悪しき夢を見た者は、口を拭う(Kauś. 46, 9)。世襲の病と呪詛は拭い去る(AV 4, 18, 7)。

有害な物質を他人に移すこともできる。Vrātya たちはその祭具を他人に渡し(140 頁)、そうして彼らに「拭いつけて」清らかになる。

婚礼に際して花嫁を頭から足まで清める。「悪しくなされたもの、婚礼と行列における汚点を……われらは求婚者の布に拭いつける」(AV 14, 2, 66)。そしてその衣を少女の保護者に渡し(Kauś. 76, 1)、その者はそれを森に掛けるか、(Keś. によれば)牛舎に投げる。

彼女の花嫁衣裳には呪術が潜んでいることがあり、それは夫を破滅させ、他方その親族は栄えることになる(RV 10, 85, 27 以下;AV 14, 1, 25 以下)。それゆえ一人のバラモンがそれを受け取り、樹の幹に掛ける(Kauś. 79, 22)⁴。

搾乳の際に座り込む Agnihotra の牝牛は、行きたくない相手のバラモンに贈る⁵。Dakṣiṇā として拒まれた牝牛は敵に贈る(Āp. 13, 7, 11)。

黒い鳥の左足に鉤を留め、そこに菓子をつけ、次の呪句とともに鳥を飛ばせる(Kauś. 18, 16)。「飛び去れ……。鉄の留め金でわれらは汝を敵に掛ける」(AV 7, 115, 1)。同じ歌の第二詩節によれば、悪しき前兆の除去が問題である。

悪しき夢も敵に送る。RV 8, 47, 17 によれば duṣvapnya は Trita Āptya に送られ、AV 6, 46, 3 によれば dviṣate に送られる。

共通の敵意を第三者に逸らすこともできる。二人の敵(Abhicāra などによって互いを殺そうとする者)の食物を食べる者は、Agni Vaiśvānara に一つの供犠をささげ、それによって両者が自らの罪を彼に「拭いつける」ことを妨げる(TS. 1, 5, 11;I, 845 頁)。

水と火は、あらゆる種類の呪術的・悪しき影響を防ぎ、あるいは滅ぼす重要な手段である。

180 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

供犠の草を刈る鎌は、「焼き払われたのは Rakṣas……」という呪句とともに赤熱される。

祖霊への献供に際しては、Asura たちの防禦のために燃えさしが役立つ(115. 96 頁)。Paryagni の儀式(112. 114 頁⁷)は同じ目的を果たす。

水(ただし雨水ではない)には、Rakṣas あるいは祖霊に献じられたあらゆる所作ののち、またあらゆる呪句ののち、清めのために触れねばならない(112 頁)。

埋葬の儀式は udakakarma をもって終わる(89 頁)。帰宅後、家のまわりに水の流れが引かれる(Āśv. GS. 4, 6, 7)。

花嫁は Kṛtyā の除去のために沐浴させられる(Kauś. 75, 26;AV 14, 2, 65)。guptyai vā etāḥ (apaḥ) parikriyante と、別の機会に Śat. Br. 3, 9, 2, 16 は言う。

鳩などが降り立った場所には、水を撒く(Kauś. 46, 7)。

dies ater には、詩節ごとに投げつけられる水の流れをもって、また剣・棍棒・燃えさしをもって立ち向かう(Kauś. 38, 1 以下)。

牝牛もまた、悪しき影響に見舞われた場所を清める。それゆえ鳩が現れた場所では、牝牛が引きまわされる(RV 10, 165, 5)⁶。埋葬の後にも、ある者たちは牡牛を引きまわす(Āśv. GS. 4, 6, 15)。

防禦のもう一つの手段が騒音である。soma を搾る石の響きは Rakṣas を追い払うべきものとされる。それらは rakṣohanvalagahan と呼ばれる(Āp. 12, 2, 15)。それらは病をも追い散らす(Āp. 12, 3, 2)。

Mahāvrata では太鼓が打たれる。少年が Śvagraha 病に襲われた場合には、敬虔な男が銅鑼を打たせ、あるいは鈴を鳴らさせる(Āp. GS. 18, 1)。

あるいはをもって敵を防ぐ⁷。学生は自らと自らの杖とのあいだを通らせてはならない。Gobh. 4, 9, 17 によれば、Snātaka は横になるとき、その竹の杖を「守れ、汝強き者よ!」という言葉とともに自らの近くに置く。「彼が福を得るように」。

一定の仕方で聖別された杖は、どこへ行っても幸をもたらす⁸。それをもって円を描き、その際に町・市場・村などを念ずるならば、望ましからぬ人物はそこに入り込めない(SVBr. 2, 4, 1. 2)。

udumbara 材あるいは他の果樹の杖を、soma の供犠者は携える。彼はこれを自らの「守護者」として、厳粛な問答のうちに祭司から受け取り、手放してはならない(Āp. 10, 10, 6)。Maitrāvaruṇa も供犠に際して杖を携える。

呪詛に際してと同じく、防禦のためにも種々のものを埋める。たとえば虎などの危険が迫るときは khadira の釘を埋める。一定の動物が引き起こす田畑の被害に対しては、Tarda と呼ばれる昆虫を頭なしで畑の中央に埋める(Kauś. 51, 18)。

転移の呪術としては、偽りの告発からの清めも見なしてよい。abhiśasyamāna は Āp. 10, 20, 8 によれば、森のなかの高みで隠れて供犠し、Pṛṣṭha をその詩節に合わせて歌わせず(parokṣa)、すべてを静かに行うべきである⁹。

最もよく知られた清めの手段は、法学文献に属する神明裁判である(Jolly § 52)。ここでそれに言及するのは、もっとも難解な詩節 RV 3, 53, 22(paraśuṃ cid vi tapati … ukhā cid indra yeṣantī prayastā phenam asyati)に注意を促すためのみである。これは RV について二つの形の神明裁判を証しているように見える。

意図した罪に対する保証の例は、散発的にしか見いださない。TS. 2, 2, 6, 2(I, 846 頁)によれば、Vaiśvānara のために一つの献供をささげ、最初に誓いを破る者を罰する Varuṇa の怒りから身を守る。羊や馬などを盗もうとする者は、同じ神への献供によって、aśya と呼ばれる病から身を守る。

92. Śānti。3. 病の治癒。 181

はヴェーダにはまだ知られていないように見える。これについては Tawney, Kathāsaritsāgara I, 149 注を見よ。Steinschneider, Virchow's Archiv f. path. Anat. 52, 347;一般的には W. Hertz『毒少女の伝説』Abh. BAW. ミュンヘン 1893。

5 Kāt. 25, 1, 15;ISt. 10, 64。

6 10, 155, 5 を参照。

7 Oldenberg 前掲書 ―― 彼は杖の意義を正しく評価している。

8 これに加えて、古ドイツの杖の祝福呪(benedictio ad capsellas et baculos ad iter agentes)、ザンクト・ガレン修道院図書館写本 395、Scheffel, Ekkehard I, 92 による、を参照。

9 Kauś. 46, 1 以下からの他の例は Bloomfield, contrib. 2, 17 頁。

§3. 病の治癒

有害な物質の転移と連関するのが病の治癒である。

医術の始まりは、いたるところで俗信と経験との、悪鬼信仰と、植物その他の手段の治癒作用への現実の洞察との混合を示している。

ヴェーダ全体、すなわち RV も、とりわけ AV も、呪句の誦唱、植物や護符などの適用によって癒される多くの病を知っている¹。われわれは頭痛・咳・肺病・眼病・熱病²に対する手段を、さらには仮死状態³ に対する手段を、また蛇咬・骨折・出血のような外傷に対する手段を、さらに歯・毛髪の呪術その他を見いだす。

より大きな供犠のただ中にさえ、治癒力をもつ儀式がある。たとえば Rājasūya における traidhātavī、Soma-Rudra のための Caru ―― これは癩病にも効く ―― などであり、これらは Weber⁴ によれば民間医術から取り入れられたものである。

インドのある分類によれば、病は āhāranimittaanyajananapāpanimitta とに分かれる⁵。

病が悪鬼から発し、憑かれた身体から悪鬼とともに退くという信仰、あるいは敵対的な呪術によって生ぜしめられるという信仰は、ヴェーダにおいて多様に認められる。それは、時に媚びるように呼びかけられる⁶ 悪鬼 ―― Hir. のような一定のテクストはきわめて多くを名指しで挙げている ―― の呪詛のうちに、あるいは病をその作者へ引き返させることのうちに現れる。その作者には、自らの名を名乗り、自らを現すことが強いられる⁷。

病の治癒のための神々への供犠も、それゆえ排除されていない⁸。

インド医術の始まりは私の課題の外にあるので、私は、呪術者の活動が医者のそれを凌駕し、あるいは単独で現れるいくつかの場合を強調するにとどめよう。

第一に、精神錯乱が悪鬼の影響という考えを呼び起こす。Trapusa、Khadira などの木で火を点じ、その背後に、地面と同じ高さになるよう不揃いの数の khadira の杭を打ち込み、Piśāca に向けて次の呪句を発する。「目のなかへ、心臓のなかへ入り込め……」。同様に鉄と銅の杭を用いる(Kauś. 25, 23 以下)。

赤熱した小石で、彼は寝床と穀物の袋(?)のまわりを撒く。あるいは大麦から成る供犠ののち、悪鬼が来るとき、麻縄で舌を擦り、「家から跳び出よ」と言う(Kauś. 25, 28)⁹。

家に Piśāca がいるかどうか分からない場合には、家に薪と供犠の敷草を掛ける。翌朝それらが変わっていれば、Piśāca に用心せねばならず、palāśa の柄杓に vīraṇa 草の穂を添えて Iṅgida の供犠をささげる(Kauś. 25, 34)。

あるいは火に供犠されたものの煙を押し下げ、病者にそれを吸い込ませる¹⁰か、あるいはこの手段を Piśāca の危険一般に対して用いる。

野獣の洞窟の土、Bdellium などのもの、芥子油、さらに米・肉・魚・白と赤の花冠・種々の色の衣の贈り物 ―― これらは十字路で種々の存在にささげられる ―― が、Vināyaka に憑かれた者の治癒に必要である¹¹。

とりわけ特徴的なのが、「犬の悪鬼」に襲われた子どもの治療である。そこでは婚礼儀軌¹² から知られる引き通しの手段と賽子とが用いられる。

新しい器で呪術者は水を汲み、Sabhā に賭博場を

182 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

設え、その上に賽子を投げ、それらを諸方位に配分するなどして、上で押し広げた藁屋根を通して少年を引き通し、賽子の上に長々と横たえ、酸乳と塩水を注ぎかける。そのあいだ南で銅鑼が鳴る。

一部は理解しがたい一連の呪詛の定型句ののち、呪術者は(少年の父あるいは兄弟に)言う。「選べ!」「わたしは少年を選ぶ」。

このようにして彼らは、発作が来るときに日に三度行うべきである(Hir. 2, 7;Āp. 18, 1)。

子どもが出生後に Kumāra と呼ばれる病に襲われた場合、父はこれを網あるいは上衣で覆い、膝に取り、ささやく。「Kūrkura!、Sukūrkura!、Kūrkura!、子どもを縛る者よ、Cet! Cet! Sunaka! 放て」等。最後に彼は別の呪句をもってこれに触れる(Pār. 1, 16, 24)。

肺病に襲われた女は、貞潔な男が新鮮な蓮の花弁と根の玉をもって肢体ごとに擦り、これらの植物部分を西へ投げるべきである(Āp. 9, 10)。

遺伝性の病に苦しむ者には、Kauś. 27, 1 は、頭の上に(牛を繋いだ)犂をかざしつつ、頭に水を注ぐことを定めている¹³。

続く詩節をもって彼は、空の家のなかで残りを水に注ぎ、他の残りを、自らの家の葦を撒いた古い穴のなかに注ぐ。そこで患者は場所を占め、沐浴し、その水で口をすすがねばならない。

下痢に対しては、muñja の束を縄で縛り、畑の土くれと蟻塚の土くれとを砕き、それを病者に飲ませる¹⁴。

子が早く死ぬ者は、Ficus Indica の花の蕾と葦の根から三重の護符を作る(SVBr. 2, 2, 1)、等々。

獣の医術も、その原理において、いま述べた種類の医術と異ならない。病んだ牝牛には、たとえば塩水を飲ませる(Kauś. 19, 1)。Khād. 4, 3, 13 によれば牛舎で pāyasa 供犠をささげる。Gharmaduh 牛の虫を、TĀr. 4, 36 の呪句が殺す。

したがってわれわれは、医術と俗信とが並び立つのを見いだす。

§4. 特定の行為の回避。Omina

多数の規定が、一定の行為を控えること、あるいは偶発事の贖罪を命じている。その不利益は、部分的には俗信的な、われわれには見通しがたい観念のうちにあるのであろう。

学生や Snātaka に対して定められた多くのことが、ここに属する。

法典と一致して Sūtra は、道の上、灰の上、牛舎のなか、蟻塚の上に放尿すべきでないと定める(Manu 4, 45. 46. 56)。乳を出している牝牛を他人に見せてはならない(Gaut. 9, 23)。仔牛が繋がれている綱をまたいではならない(9, 52)。一定の日は、Aśoka 詔勅5によれば、牛や馬に烙印を押すことを避けるべきである。

供犠柱に触れてはならない。さもなければ供犠において失敗したことを自らに結びつけることになる(H. 1, 16, 16)。

供犠のバターを、目を閉じずに見る者は、盲目になりうる(TBr. 3, 3, 5, 2)。

雨のあいだ、走ってはならず、覆いなしに歩んではならない。とりわけ Agnicit はそうである(ISt. 13, 291)。雨には不浄の要素が宿る。雨に濡れた供犠の食物はささげるのに適さない(TBr. 3, 7, 2, 3)。

92. Śānti。4. 特定の行為の回避。5. 前兆。 183

晴れた空から滴に当たった者は、これを贖わねばならない(Kauś. 46, 41)。空中から落ちた滴は、呪術に用いられる(Kauś. 13, 11)。

とりわけ重要なのが、死に関わるすべてのものを遠ざけることである。獣の死を見てはならない。その供犠ののち、心臓の炙り串は隠され、それに触れることなく人は戻る(123. 124 頁)。祖霊への献供に際しては、息をすることと後ろを見ることを避ける(115 頁)。古い衣は埋葬の後に脱ぎ捨てる、等々。これは、境に置く土くれや小石を撒くことなどによって死者を遠ざけるという積極的な措置とは別である。

§5. 前兆

ここで簡単に前兆¹ にも言及しておこう。これは差し迫った幸あるいは不幸を告げ、後者の場合には防禦のために贖罪を要求する。

Jaina の Kalpasūtra(§ 211)における72の学問のうち、Omina の学は最後のものである。

Adbhuta に際しては、G. 3, 3, 30 によれば家長と主婦が贖罪の献供を行うべきである。

予兆の担い手は動物、自然現象でありうる。自らの身体においてさえ、未来は前兆のうちに現れる。

Mallinātha は Meghadūta 92. 93 に Nimittanidāna からの詩節を引いており、それによれば頭のひきつりは日傘の獲得を、額のそれは頭布のそれを、目の上のそれは望むものの獲得を、目尻のそれはその喪失を意味する。

供犠柱に右から左へ赤い線が現れれば、その供犠は望みの Dakṣiṇā をもたらさず、逆に白い線は成功を意味する(Āp. 9, 20, 9)。

まばたきや耳鳴りに際しては、一定の詩節を唱えるべきである(Kauś. 58, 1 以下;Āśv. GS. 3, 6, 7;G. 3, 3, 34)。くしゃみ²、あくびの際も同様であり、供犠柱にぶつかったとき(Āśv. 3, 6, 7;H. 1, 16, 2 以下)、あるいは衣の(汚す)裾に当たったときも同様である。

特別な意味を動物に置く。RV 1, 29, 5 では驢馬について saṃ Indra gardabhaṃ mṛṇa nuvantaṃ pāpayāmuyā と言う。

家のなかに蟻塚が現れたとき(H. 1, 17, 5. 6;Ś. 5, 11;Kauś. 116)、あるいは蜜蜂がそのなかに蜜を作ったとき(Ś. 5, 10)、が吠えたとき(H. 1, 16, 19 以下)、牝牛が他の牝牛の乳を飲むとき(H. 1, 17, 6)、牝牛が血を出すとき(Kauś. 112)には、一定の Prāyaścitta を行うべきである。

すでに RV は³ を Nirṛti と死の使者として知っており、とりわけ梟と鳩がそうである。それらが降り立った場所あるいは家のまわりに牝牛を引きまわすことによって、その出現は贖われるべきである(RV 10, 165, 4. 5;Kauś. 46, 8)。

炉の上に鳩の足跡を見たとき、その他の徴があるときは、新月の夜に、水の音が聞こえない場所で供犠すべきである(Āp. 23, 9)。

一部は、その叫びあるいは姿が悪しき前兆をもつのは特定の鳥のみである。たとえば ulūkakapotagṛdhradīrghamukhī、あるいは黒いもの、あるいは鳥が描く円が右から左へ進む場合である⁴。

しかし鳥一般についても語られる。Ait. Br. 2, 15, 14 は鳥を nirṛter mukham と呼ぶ。この見方は Baudh. Dh. S. 2, 8, 14, 9. 10 にその説明を見いだす。vayasāṃ piṇḍaṃ dadyāt, vayasāṃ hi pitaraḥ pratimayā carantīti。すなわち鳥は祖霊の像なのである。

ここで、他の動物にも ―― 私の見るかぎり散発的にではあるが ―― 予言の賜物が帰せられていることに触れておこう。

Agnicayana のために土が掘られるとき、先を行く馬から、どこを掘るべきかの徴が期待される⁵。

馬祀祭の第二日に、馬が Bahiṣpavamānāstāva の場所を嗅ぐならば、それは yajñasamṛddhi、すなわち幸いなる完成を意味する。そのいななきは Stotra とされる(151 頁)。

Grimm, DMyth.⁴ 3, 442 § 239 によれば、馬のいななきは幸を意味する。雨の予言者は黒い馬である(120 頁)。牡牛が Darvihoma への徴を与える(118 頁)。

184 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献、その他

他の前兆は多様である。

悪しきことを Rāghava は Lakṣmaṇa に告げる。風が荒く吹き、大地が震え、山頂が揺らぎ、山々が轟く。猛獣に似た恐ろしい雲が、血の滴を混ぜた雨を送る⁶。

Yudhiṣṭhira は旋風、石の雨、太陽と月のまわりの恐ろしい暈などから未来を知る(Mbhār. 16, 1)。

不吉なのは時として稲妻と隕石である(Gaut. 16, 25 以下)。黄色い稲妻は雨を、白いものは飢饉を意味する、等々 ―― Kāś. Vṛtti 2, 3, 13 の引用による。

特別な重要性が死を告げる前兆に宿る。太陽が月のように輝くとき、空が茜色になるとき、鏡あるいは水のなかに自らの像を頭が傾いた姿で見るとき、頭のまわりに烏の巣のような匂いが広がるときなどは、死が迫っている(Ait. Ār. 3, 2, 4)⁷。

供犠に際して黒い煙が南へ向かうとき、あるいは風が煙を左へ回すとき、祭主は死ぬであろう(Āp. 9, 20, 10)。

Sattra の参加者を聖別に許す前に、彼らは鏡、水の入った器、Arundhatī、北極星、「目のなかの人」を見なければならない。星辰を見ない者、すなわち自らの反射像を見ない者は、死に定められており、聖別してはならない(Lāṭ. 3, 3, 6 以下)⁸。

これらが pratyakṣadarśanāni である。

これらに対立するのがである。

すでに RV は悪しき夢を Trita Āptya に願い(8, 47, 14 以下)、夢のなかで首飾りや花冠を作ることのうちに悪しき前兆を見る⁹。

Jaina の Kalpasūtra における夢解きたちは、42 の大きな夢と 30 の他の夢を知っている(§ 74)。

死を意味する十の夢の姿を Ait. Ār. 3, 2, 4 が数え上げる¹⁰。夢のなかで黒い歯をもつ黒い人間を見て、その者が自分を殺すとき、猪が自分を殺すとき、山猫が跳びかかるとき、黄金を食べて再び吐き出すとき、蜜や蓮の根を食べるとき、驢馬や猪とともに村へ向かうとき、ナルドの花冠を頭に着けて黒い仔牛をもつ黒い牝牛を南へ追うときなどは、死が迫っている。

聖別された者が悪しき夢を見た場合(すなわち注釈における Svapnādhyāya からの引用によれば、深く水に潜る、あるいは剃り上げた頭の男たちを見る場合)には、一つの呪句を唱えねばならない(Kāt. 25, 11, 20)。

Gṛhya¹¹ は悪しき夢の防禦のために一定の献供と朗誦を規定している。Kauś. 46, 9 以下もこの章を扱っている。

夢を見た者(死んだ、あるいは裸の男や女¹² ―― 注釈)は、AV の夢の歌をもって口を拭うべきである。

きわめて恐ろしいものを見た者は、種々の穀粒から作った菓子を別の方位(?)に、あるいは敵の畑に置く(注釈)。AV の詩節をもって彼は、夢を見たときに横たわっていたのとは別の側に横たわる。

悪しき前兆は星辰からも発する¹³。誕生の星座は生涯にとっての前兆である。不吉な星辰は贖罪を要求する(Kauś. 46, 25)。

Mūla のもとに生まれた子は、最初の Aṃśa においては父に、第二においては母に、第三においては財産に禍をもたらすであろう、等々 ―― たとえそれ自体は幸いなものに与っていてもである。

93. Pauṣṭikāni。 185

§§ 93. Pauṣṭikāni(幸運の呪術)

あらゆる害と有害な影響の防禦に向けられた呪術に対して、幸いをもたらす儀式が立つ。これは富の獲得、子孫、家畜の増加、雨¹、名望、人望、戦あるいは評議会における勝利、友情の獲得ないし維持、愛と忠誠、和解などを目的とする。

哲学と俗信との奇異な混合として、そのうちには「再び生まれないように」という願いを叶えるべきものさえある(SVBr. 3, 8)。

この短い例示に先立って、吉兆のために(boni ominis causa)行われるいくつかの所作を挙げておこう。

道に踏み出すときは右足からにする。家と畑に不定数の小石を撒く(Kauś. 50, 1 以下)。あるいは軛の穴に草を編み通し、それを戸口などに取り付ける。牛糞を戸口あるいは畑に埋める。虎の危険があるときは、家畜のために khadira の釘を埋める、等々。

人望を得ようとする者は、一定の木の楊枝を用い、唾を吐かず、Sāman を用いて一年のあいだ行う(SVBr. 2, 6, 3)。

名声を得るには、一定の軟膏を身に塗る(同 2, 6, 16)。

妻の不貞に対しては、夫が一定の動物を挽き砕き、Indra に向けられた呪句とともにその性器に撒く(H. 1, 14, 7;Āp. 23, 3)。

下僕の忠誠を確保するには、所有者が、生きた動物の角に入れた尿を、これに関わる呪句を唱えつつ、右から左へ三度その者に振りかける(Pār. 3, 7, 2)²。Hir. 1, 14, 2;Āp. 23, 6 はこの規定を、忠誠を保たせたい他の家人・学生にも及ぼしている。夜のこの振りかけののち、角は空き地に置かれる。

下僕が逃げ回るようであれば、燃えている茂みから木を取り、そのなかへバターを塗った kuśa の輪を、「Indra の縛め」と呼ばれる呪句を用いて供犠する(P. 3, 7, 3)。

他人を自らに仕えさせようとするならば、砂その他の材料で作ったその人物の像に、一定の儀式を行う(SVBr. 2, 5)。

他人の好意は、呪句をかけた大きな樹の果実を贈ることによって得られる(G.)。

恋の呪術はきわめて数が多い³。Kauś. 36 は、女を眠らせる手段、逃れる女を引き止める手段、男と女を和合させる手段、幸福あるいは不幸にする手段、嫉妬を打ち砕く手段を知っている。

女を眠らせるには、裸で、AV 4, 5 を用いつつ、水と供犠の残り(?)を満たした器から小屋に撒きかけ、後ろの戸の扉のところでその器を倒す。臼、寝室の北の隅、寝台の右の柱、紐に向かって呪句を唱える。

女が逃れようとするならば、これを象徴的に固定する。AV 6, 77 ―― その第一詩節は語根 sthā からの派生語を含む ―― を用いつつ、葦(家の?)の先端に縄を巻き、これを寝台の中央の柱に結びつける。寝台の足を蓮と図形に結ぶ。火掻き棒で胡麻粒を供犠する(36, 5–9)。

誰かを友にしようと望む者は、Sthagara から

186 III. 宗教、世俗の学問および芸術。2. 儀軌文献 ―― 94. 託宣。

軟膏を作り、Hotṛ の定型句のいくつかを唱えて、Anuvāka TĀr. 3, 8. 9 を誦しつつ自らの顔、あるいは望む相手の顔を飾る(Āp. 14, 15, 2;TBr. 2, 3, 10, 2)。

長寿を得るには、満月の夜に 100 本の khadira の釘を供犠する(G. 4, 8, 10)。鉄の釘を選べば、敵を殺すことになる⁴。

家畜を得るには、一対の仔牛の糞から千の献供をささげることが助けとなる。小家畜を望むならば羊の糞からささげる(G. 4, 9, 13. 14)。

月が暈をもつときに供犠された胡麻粒は小家畜に繁栄をもたらし、太陽が暈をもつときに供犠された炒った穀粒は大家畜に繁栄をもたらす(G. 4, 5, 32)。

あらゆる願いを叶えるのが、斑の牝牛の一定の肢体・舌・心臓から作った攪拌飲料である。それらは古い衣に包み、三日間、腐蝕性の液体に浸し、それから擂り砕き、種々の穀粒と混ぜ、酸乳と蜜に入れて食する(Kauś. 11, 15)。

あるいは、同じ色の仔牛をもつ牝牛の乳で粥を煮て、これに人の形を与え、12 日にわたって供犠の残り(sampāta)と混ぜ、顔を背けてこれを食する。

尽きることのない富さえも、悪鬼によって手に入れることができる。悪鬼を現れさせ、五つの Kārṣāpaṇa を与えるよう強いるのであり、それらは、すべてを使い切らないかぎり、繰り返し戻ってくる(SVBr. 3, 7, 9)。

§§ 94. 託宣

前兆への信仰から託宣を伺うことまでは、わずか一歩である。

花嫁の資質を探る手段は 64 頁に、予言する馬は 183 頁に述べた。

Kauś. 37 は、利得・勝利・幸運などについて情報を得るための種々の可能性を伝えている¹。

竹の杖を水平に保つか、Kāmpīla の枝を頭に載せる。それが望みの方向に倒れれば、願いは成就する。

穀粒を火に投げて炎が右に回るならば、それも幸いなる結末の徴である(37, 3 Keś.)。

糞の玉、Guggulu、塩を牝牛の乳に入れて火の背後に埋め、第四日の朝に匂いと味に変化が現れれば、成功するであろう(19, 19)。

どちらの軍勢が勝つかを知るには、呪詛の火(注釈によれば Cāṇḍāla あるいは産婦の火)で草を燃やし、煙の方向から、どちらに勝利が傾くかを予言する(14, 31)。

三本の弓弦を炭火の上に置く。中央のものは死を、外側の二本は両軍を表す。中央のものがどちらの上に回り去るか、その軍が敗れる。「死」を越えて弦が去った側が勝利を得る(15, 15 以下)。

旅に出る商人は、親しいバラモンの肢体に糞の玉を置き、「今日はどんな日か」と問う。「良い、幸いな日だ」とその者は答える²(Kauś. 50, 15)。

新年の夜には、森の茂みに火をつけ、そこから来たるべき年を予言する(6 頁)。

きわめて特徴的なのが SVBr. 3, 4 の一連の規定である。それらは、まだ成人しない少女と鏡(あるいはその代わりに水を満たした鉢)を用いて、あるいは二人のバラモンの学生 ―― 二本の小棒を持たねばならず、その曲がり方から企てが成功するかどうかを認識する ―― を用いて行われる、未来の伺いを扱っている。

同じ章の他の内容からは、なお寿命についての託宣を挙げておこう。赤熱した炭の小山を、女の乳から取った新鮮なバターで炎に燃え立たせる。そのあいだ Sāman を歌う。その小山が最後に消える者が、長く生きる。

§略号(ABKÜRZUNGEN)

(訳者注:この略号表は、本書冒頭の巻頭部分に訳出済みである。内容は同一であるため、ここでは重複を避けて所在の指示にとどめる。)

§目次(INHALT)

(訳者注:この目次も、本書冒頭の巻頭部分に訳出済みである。I. 儀軌の価値、その前史と資料(§1–8、1–41頁)、II. Gṛhyasūtra の内容概説(§9–57、41–97頁)、III. Śrautasūtra の内容概説(§58–85、97–166頁)、IV. ヴェーダの呪術(§86–94、167–186頁)という四部構成である。)

§I. 語彙索引(WORTINDEX)

数字は頁を示す。

(訳者注:この索引は、本文中に現れるサンスクリット語彙・書名・人名を字母順に並べ、頁数を付したものである。見出し語はすべてサンスクリット(原本の転写、本訳の方針では IAST に相当)であり、訳出すべきドイツ語はない。したがって内容は原本のまま参照されたい。aṃśugraha から hvā まで、およそ千数百項目を収める。)

索引の構成についての覚え書き。 見出しは字母順で、まず a- 音の項(aṃśugraha, akṛta, akṣarapaṅkti …)、続いて ā- 音の項(āgur, āgnimārutaśastra, āgnīdhra …)というように、短母音の項と長母音の項とを分けて配列する。人名・書名(Agnisvāmin, Anantadeva, Āpastamba, Hemādri など)も同じ配列のうちに含まれる。最終ページは ś-、-、s-、h- の項(śikṣāhvā)で終わる。

§II. 事項索引(SACHINDEX)

(訳者注:見出しがドイツ語であるため、以下に全項目を訳出する。「日本語(原語)頁」の形式で示し、原本の字母順の配列を保った。)

[198 頁]

  • 像の呪術(Abbildzauber)173. 185
  • 夕の搾り(Abendpressung)15. 100. 132
  • 俗信(定義)(Aberglaube, definiert)167
  • 屑物(その使用)(Abfälle)176
  • 鷲の羽(Adlerfedern)160
  • Āgur の定型句(Āgurformel)99
  • 全供犠(Allopfer)154
  • 蟻塚(Ameisenhaufen)162
  • 護符(Amulet)178
  • 羚羊の角(Antilopenhorn)126
  • 四月の歌(Aprīlieder)16
  • Āptya たち(Āptya's)112
  • 髭剃り(Bartscheren)50
  • 建築供犠(Bauopfer)9
  • 建築用地(Baustelle)81
  • 官吏(Beamte)144. 149
  • 埋葬(Begraben)87
  • 告白(Beichte)117
  • 人望(Beliebtheit)185
  • 呪詛(Beschwörungen)172. 174
  • 葬礼(Bestattungsfeiern)22. 87
  • 托鉢(Bettelgang)55
  • 掠奪の出陣(象徴的)(Beutezug, symbolisch)145
  • 呪詛における血(Blut bei Beschwörungen)176
  • 牡山羊(Bock)15. 16. 106. 107
  • kṣatriya の弓(Bogen des Kṣatriya)88
  • Brahman の座(Brahmans Sitz)70
  • 花嫁、その資質(Braut, ihre Eigenschaften)63
  • 花嫁の装い(Brautschmuck)65
  • 求婚者(Brautwerber)64
  • 新生児への乳房の授与(Brust, Darreichung an den Neugeborenen)46
  • 悪鬼(穴のなかの)(Dämonen in der Grube)176
  • 引き通し(Durchziehen)65. 181
  • Agniṣṭoma における婚姻(Ehe beim Agniṣṭoma)132
  • 婚姻の形式(Eheformen)63
  • 誓い(Eid)171
  • 炎の吸い込み(Einatmen der Flamme)107;子の頭上における 45
  • 分娩(Entbindung)44
  • 土くれ(Erdscholle)64. 67. 92
  • 初穂供犠(Erstlingsopfer)85
  • 色(Farbe)67. 80. 82. 172. 176. 183
  • 流産(Fehlgeburt)43
  • 皮(Fell)108. 112. 155
  • 学習の休暇(Ferien beim Studium)59
  • 火、摩擦による(Feuer, durch Reiben)5. 14. 106
  • 火、自然発火による(Feuer durch Selbstentzündung)162
  • 火の祭壇(Feueraltar)9. 161
  • 炉(Feuerherd)14. 69. 127
  • RV における火(Feuer im RV.)14
  • 呪術における火(Feuer beim Zauber)176
  • Gṛhya 供犠における肉(Fleisch bei Gṛhyaopfern)71
  • 呪詛(Fluch)171. 177
  • 河の名(Flussnamen)29. 43;死者祭祀における河 92
  • 祭主の妻(Frau des Opferers)84. 86. 91. 117. 154;王の妻 149. 152 以下;バラモンの女たち 44. 67
  • 歓びの歌(Freudenlied)158
  • 友情の獲得(Freundesgewinnung)185
  • 畝の供犠(Furchenopfer)86
  • 馬の足跡(Fussstapfe des Pferdes)107. 162
  • 足の呪術(Fusszauber)173
  • 客の迎え入れ(Gastaufnahme)22
  • 賓客供犠(Gastopfer)79. 127
  • 誕生日の祝い(Geburtstagsfest)48
  • 対抗呪術(Gegenbeschwörung)177
  • 対抗供犠(Gegenopfer)178
  • 呪術の手段としての騒音(Geräusche als Zaubermittel)5. 180
  • 大麦の供犠(Gerstenopfer)86
  • 詠唱(Gesang)44. 91. 100. 158
  • 黄金(Gold)46. 62. 92
  • 墓碑(Grabmal)91
  • 穴・畝(Gruben, Furchen)90 以下. 115;呪術における 176
  • Gṛhya 供犠の基本形(Grundform der Gṛhyaopfer)72
  • 学生の帯(Gürtel des Schülers)52;祭主の帯 126
  • 好意の獲得(Gunsterlangung)185
  • 献供としての髪(Haare als Spende)179;呪術における 172. 176;牡山羊の毛 162;獅子・虎・狼の毛 160;牡牛の毛 45
  • 髪型(Haartracht)7. 49
  • 言葉の粗さ(Härten der Sprache)166
  • 家屋建築(Hausbau)80
  • 幸いをもたらす儀式(Heilszeremonien)185
  • 呪術における方位(Himmelsrichtung beim Zauber)174
  • 黍(Hirse)86
  • 婚礼の慣習(Hochzeitsgebräuche)3. 63 以下
  • 宮廷官吏(Hofbeamte)144
  • 蜜(Honig)15. 45. 48. 79. 82. 95;madhugraha をも参照
  • Dīkṣita の小屋(Hütte des Dīkṣita)125
  • 「四つ目の」犬(Hund, „vieräugig")150
  • インド・イランの儀軌(Indoiranisches Ritual)11
  • 儀軌における季節(Jahreszeit im Ritual)105. 164
  • 糞の供犠(Kotopfer)186
  • 病(Krankheit)87. 181
  • 十字路(Kreuzweg)95
  • 冷却をもたらす儀式・植物(Kühlung verschaffende Ceremonien, Pflanzen)164. 172(I の avakā を参照)
  • 祭祀上の対立(Kultgegensätze)98
  • 音(Laute)43. 91. 157
  • 恋の呪術(Liebeszauber)185
  • 空気の献供(Luftspenden)165
  • 祖霊供犠(Manenopfer)8. 60. 92. 133. 160
  • モグラ塚(Maulwurfshaufen)106. 118
  • Ṛc における Sāmaveda の旋律(Melodien des Sāmaveda im Ṛk)13
  • 人身供犠(Menschenopfer)15. 145. 153
  • 乳の飲料(Milchtrank)131
  • 昼の搾り(Mittagpressung)15. 100. 131
  • 朝の搾り(Morgenpressung)15. 99
  • 後産(Nachgeburt)44
  • 裸体(Nacktheit)173
  • 釘(木の)など(Nägel von Holz etc.)175. 186
  • 名(Name)53;命名 46;星宿名 47;秘密の名 47;花嫁の名 69;呪詛における名 170;供犠に際して変えられる名 161. 170
  • 網焼き(Netzbraten)73
  • 網膜(Netzhaut)123
  • 新しい火(Neufeuer)106
  • 新生児(Neugeborener)―― 授食を見よ 6. 48
  • 新年(Neujahr)6. 78. 94
  • 基本形としての新月・満月供犠(Neu- und Vollmondsopfer als Grundform)98
  • くしゃみ(Niesen)184 注2
  • インドの北東(Nordosten Indiens)161
  • 遵守事項(Observanz)―― vrata を見よ
  • RV における供犠(Opfer im RV.)14

[199 頁]

  • 供犠の沐浴(Opferbad)117. 161
  • 供犠は古い習俗を保つ(Opfer bewahrt alte Sitten)5
  • Ṛc における供犠の定型句(Opferformeln im Ṛk)13. 171
  • Ṛc における供犠の贈り物(Opfergaben im Ṛk)14
  • 供犠の草(Opfergras)14
  • 供犠の穴(Opfergrube)127
  • Ṛc における供犠の秩序(Opferordnungen im Ṛk)15
  • 供犠柱(Opferpfosten)121. 136. 151
  • 供犠柱の削片(Opferpfosten-Span)121
  • 犠牲獣(Opfertiere)14. 18. 121. 140. 160. 162
  • 祭主、その人格の資質(Opferer, Beschaffenheit seiner Person)70. 98
  • 祭主は祭司と区別されない(Opferer vom Priester nicht unterschieden)154
  • 祭主の活動(Opferer, Tätigkeit)97
  • RV における供犠場(Opferplatz im RV.)14
  • soma 供犠における供犠場 125
  • 呪術における供犠場 172. 174
  • 託宣(Orakel)64. 148. 183. 186
  • 神明裁判(Ordale)180
  • 供犠所作の方位づけ(Orientierung der Opferhandlungen)174
  • Agnicayana における馬(Pferd beim Agnicayana)163
  • Agnyādheya における馬 106
  • 馬祀祭(Pferdeopfer)15. 149
  • 呪術における植物(Pflanzen beim Zauber)172. 178
  • 北極星(Polarstern)67
  • Prajāpati:「無性質の」156;彼のための Graha は精神のうちで汲まれる 155
  • RV の時代の祭司(Priester zur Zeit des RV.)12
  • 祭司の選定(Priesterwahl)12. 13. 22. 97. 125
  • 行列(Prozessionen)158
  • Rathakāra 150
  • 燻蒸(Räucherungen)45. 78. 89
  • Ṛbhu たち(Ṛbhu's)107
  • 雨乞いの呪術(Regenzauber)120. 172. 182
  • 清めの沐浴(Reinigungsbad)45
  • 朗誦法(Rezitationsweise)103
  • Kaṇva 家・Vāmadeva 家・Viśvāmitra 家の儀軌(Ritual der Kaṇva's, Vāmadeva's, Viśvāmitra's)16
  • 儀軌、人為的に混乱させられる 175
  • 儀軌、神々・人間・祖霊などにおける相違 174
  • 儀軌、厳格さを失った 153. 154
  • 逆から唱えること(Rückwärtssagen)170
  • sacrum gentilicium 128
  • 塗油と塗油の油(Salbung und Salböl)145
  • Sāman 歌者(Sāmasänger)12. 99. 100. 130
  • Sattra(Sattrās)158
  • Savitṛ への献供(Savitṛspenden)150
  • 鞦韆(Schaukel)157
  • 亀(Schildkröte)42. 163
  • 蛇(Schlangen)76 以下
  • 七歩(Schritte, sieben)66
  • Vājapeya における十七の数(Siebzehnzahl beim Vājapeya)141
  • 民衆的な習俗(Sitte, volkstümliche)159
  • soma 供犠(Somaopfer)15. 99 以下
  • 太陽の運行(Sonnenlauf)5 以下. 106
  • 学生の杖(Stab des Schülers)52;祭主の杖 126;Maitrāvaruṇa の杖 121;呪術の手段としての杖 180
  • Sūrya の歌(Sūryālied)65. 67
  • 象徴的所作(Symbolische Handlungen)173. 175
  • 共感呪術(Sympathiezauber)10
  • 供犠の時刻(Tageszeit für Opfer)73
  • Tanūnapāt の詩節(Tanūnapātverse)98
  • 舞踏(Tanz)5. 64. 91. 139
  • 動物、そのための幸いの儀式(Tiere, Heilsceremonie für sie)77. 83
  • 焼き菓子の動物像(Tierfiguren aus Backwerk)76. 116
  • 動物託宣(Tierorakel)183
  • 呪術における動物(Tiere beim Zauber)172
  • 土器(製作、装飾)(Tongefässe)8
  • 学生の装い(Tracht des Schülers)51 以下;Snātaka の装い 62
  • 夢(Träume)179. 184
  • 忠誠の確保(Treue sichern)185
  • 装飾音(Triller)157
  • ターバン(Turban)10. 126
  • 不浄(Unreinheit)89
  • 不貞(Untreue)185
  • 遺骨の壺のまわりを歩むこと(Umgang um die Totenurne)91. 92
  • Mārjālīya 火のまわりを 158
  • Upanayana における火のまわりを 53;婚礼における 66
  • 祭壇の場所の耕起(Umpflügung der Altarstätte)9
  • 呪術の手段としての尿(Urin als Zaubermittel)173
  • 骨壺(Urne)90. 92
  • 一人の男によって表される Varuṇa(Varuṇa, repräsentiert durch einen Mann)52
  • 呪術の手段としての比喩(Vergleiche als Zaubermittel)170
  • soma 供犠における婚姻(Verheiratung beim Somaopfer)132
  • 行為の回避(Vermeiden von Handlungen)182
  • 学生の旅立ち(Verreisen des Schülers)60;家長の 70;Āhitāgni の 110
  • 牧畜(Viehzucht)82(仔牛の追い出し 5)
  • 民衆的なもの(Volkstümliches)2. 19. 100. 148. 157
  • 車輪を転がすこと(Wagenrad gerollt)107;車輪に登ること 142
  • 炎・煙などからの予言(Wahrsagen aus Flamme, Rauch etc.)186
  • 森への隠棲(Waldeinsiedlung)153. 154
  • 森の託宣(Waldorakel)148
  • 巡礼(Wallfahrten)158
  • 呪術における水(Wasser beim Zauber)179
  • 婚礼における水の聖別(Wasserweihe bei der Hochzeit)66
  • 林苑・井戸・池などの聖別(Weihe von Hainen, Brunnen, Teichen etc.)82
  • 競走(Wettfahren)141
  • 牡羊の対(Widderpaar)116
  • 馬のいななき(Wiehern des Pferdes)151
  • 呪術の手段としての言葉(Wort als Zaubermittel)169
  • 賽子(Würfel)106–108. 146. 181
  • 所願の供犠(Wunschopfer)86
  • 呪術の所作(Zauberhandlungen):
    • 屑物を用いる 176
    • 像において 173. 177
    • 火 175. 176
    • 円 172
    • 釘を用いる 175. 186
    • 杖 175
    • 象徴 170
    • 転移 178
    • 埋めること 176. 180
    • 引き返させること 179
  • 家畜への印付け(Zeichnen des Viehes)85
  • 煉瓦(Ziegelsteine)163 以下
  • 種牡牛の献納(Zuchtstierstiftung)85
  • 十二夜(Zwölften)5 以下. 107

(索引ここまで。本書はこれをもって終わる。)

§付録

§Hillebrandt 宗教用語対照表 ―― 独和・原語対応と読解の手引

本表は、Alfred Hillebrandt, Rituallitteratur. Vedische Opfer und Zauber(1897)全199頁の訳出作業で実際に現れた宗教・祭式関係のドイツ語を、意味領域ごとにOpus5が整理したものである。

表の読み方

  • 「原語」欄は、Hillebrandt がそのドイツ語で訳し、あるいは言い換えているサンスクリット語(まれにアヴェスタ語・パーリ語)。空欄は特定の原語に一対一で対応しない記述語であることを示す。
  • 「注」欄には、類義語との使い分け、19世紀学術ドイツ語特有の語義、訳語選択の根拠を記した。
  • ★ は、意味の取り違えが本文の論旨の誤読に直結しやすい要注意語である。

§1. 供犠・祭祀の総称

ドイツ語和訳原語
Opfer供犠yajña, yāga, iṣṭi, homa本書の中心語。「犠牲」と訳すと動物供犠に限定されて読めるが、実際には菓子・乳・バター・soma の献供をすべて含む上位概念。複合語 Somaopfer, Tieropfer, Manenopfer などの後部要素としても頻出
Opferhandlung供犠の所作karman個々の動作。Spruch(唱えごと)と対をなす
Opferwerk供犠の業供犠全体を一個の事業として捉える語
Kult祭祀制度・体系としての礼拝。Manenkult(祖霊祭祀)、Schlangenkult(蛇祭祀)など
Ritual儀軌/儀礼kalpa書物としての規定体系を指すときは「儀軌」、行為の総体を指すときは「儀礼」と訳し分けた
Ritus儀礼個別の儀式行為
Ceremonie儀式原本の綴りは Ceremonie(現代 Zeremonie)
Feier / Fest祭・祝祭utsava, parvanSonnwendfest(至点の祭)、Caitrafest(Caitra 祭)など
Weihe聖別dīkṣā, saṃskāra, abhiṣeka三義。①soma 供犠の dīkṣā ②人生儀礼の saṃskāra ③王の灌頂 abhiṣeka。文脈で判別が要る
Sakralaltertümer祭祀的古代事象比較宗教学の対象領域を指す当時の術語
Opferkunde / Opferkenntnis供犠に関する知識祭官の専門知

§2. 供犠の構造・技術

ドイツ語和訳原語
Grundform基本形prakṛti他の供犠の範型となる供犠。§58 の中心概念
Vorbild範型prakṛtiGrundform とほぼ同義で交替使用
Abart / Abwandlung派生形vikṛtiGrundform の対概念
Haupthandlung主要行為pradhānaその供犠に個性を与える中心の献供
Nebenhandlung / Hilfshandlung補助行為aṅga供犠から供犠へ繰り返される付属部分
Einschub / Einschaltung挿入āvāpa基本形の一定箇所に差し込まれる可変部分
Spende献供āhuti, homaOpfer より小さい単位。「一つの献供をささげる」の形で頻出
Guss / Übergiessung注ぎ・注ぎかけāghāra, abhiṣekaバターや水を注ぐ動作
Darbringung奉献ささげる行為一般
Gabe贈り物・供物bali, dāna神格や霊への贈与物
Havis / Opferspeise供物・供犠の食物havis調理された供物
Opferlohn供犠の報酬dakṣiṇā祭官への謝礼。本書では原語 Dakṣiṇā のまま出ることも多い
Voropfer / Nachopfer前供犠・後供犠prayāja, anuyāja主要献供を挟む定型部分
Vollziehung / Vollzug挙行・遂行供犠を実際に行うこと
Anordnung配列儀式の順序
Vorschrift規定vidhiSūtra が定める規則
Paribhāṣā-Regel通則paribhāṣā全体に妥当する一般規定
Sühne / Sühnung贖罪prāyaścitta儀式上の過誤を償う手続き。道徳的な罪の赦しとは別
Reinigung清めśuddhi, mārjana
Läuterung浄化pavamāna(soma の清め)

§3. 祭官と関与者

ドイツ語和訳原語
Priester祭司・祭官ṛtvij
Opferer祭主yajamāna「供犠を行う者」の意だが、実際に手を動かすのは祭官であり、Opferer は依頼主・果報の帰属者。「供犠者」と訳すと誤解を招く
Opferherr祭主yajamānaOpferer と同義
Hausherr / Hausvater家長gṛhapatiGṛhya 儀軌の主体
Hausfrau / Gattin主婦・妻patnī, jāyā供犠に不可欠の参加者
Schüler学生brahmacārin「生徒」ではなくヴェーダ学習期にある者
Lehrerācārya, guru
Sänger歌者udgātṛ, sāmaga
Rezitator朗誦者hotṛ
Schlächter / Schamitṛ屠り手śamitṛ
Hausgeistlicher / Hofpriester家司祭・宮廷祭司purohita
Büsser苦行者tapasvin
Zauberer / Beschwörer呪術者・呪詛者ābhicārika
Nebenbuhler恋敵bhrātṛvya, sapatna恋愛の競争相手に限らず「政敵・同族の対抗者」を広く含む。文脈では「敵手」に近い

§4. 言葉・唱えごと

ドイツ語和訳原語
Spruch呪句/祭句mantra, yajus本書の鍵語。祭式で唱える定型句一般。呪術文脈では「呪句」、供犠文脈では「祭句」と訳し分けた
Formel定型句nigada, praiṣa決まり文句としての性格を強調する語
Vers詩節ṛc, gāthā
Lied / Hymne歌・讃歌sūkta
Rezitation朗誦śastra, uktha歌わずに唱えるもの
Gesang詠唱stotra, sāman旋律をつけて歌うもの
Melodie旋律sāmansāman は「旋律」であってテクストではない。§58 の重要論点
Anrufung呼びかけ・招請āvāhana, nivid
Segen祝福呪ドイツ民俗学の Segen(祝いの唱えごと)に重ね合わせた語。単なる「祝福」ではない
Fluch / Verwünschung呪詛śapatha, abhiśāpa言葉による攻撃
Beschwörung呪詛/呪法abhicāra敵対的な文脈では「呪詛」、防禦的な文脈では「呪法」
Gegenbeschwörung対抗呪術敵の呪術を打ち消すもの
Zwiegespräch対話・問答祭官どうしの儀礼的やりとり
Praiṣa / Aufforderung促し・命令praiṣa他の祭官に朗誦を命ずる句
Ruf呼び声vaṣaṭ, svāhā, svadhā献供を締めくくる叫び
Incantamentum呪言ラテン語のまま用い、意味を失った呪句を指す

§5. 呪術・俗信

ドイツ語和訳原語
Zauber呪術māyā, kṛtyā, abhicāra書名 Vedische Opfer und Zauber の後半。Opfer と連続するものとして扱われる点が本書の主張
Aberglaube俗信「迷信」と訳すと価値判断が強く出る。§86 で著者自身が「より進んだ立場から見て後れた者たちの信仰と映るもの」と相対化しているため「俗信」を採った
Abwehrzauber防禦呪術śānti
Sympathiezauber共感呪術類似・接触による感応
Abbildzauber像の呪術人形・像を用いる
Fusszauber足の呪術足跡を用いる
Liebeszauber恋の呪術vaśīkaraṇa
Glückszauber幸運の呪術pauṣṭika
Regenzauber雨乞いの呪術
Ableitung転移有害な影響を他者・他物に移す技法。§92-2 の主題。「導出」ではない
Übertragung移し・伝達Ableitung と近いが、呪力を移す一般的な語としても使う
Zurücklenkung引き返し呪術をその発動者に返すこと
Bann / bannen呪縛・呪縛する円などで動きを封じる
Vorzeichen前兆nimitta, śakuna
Omen / Omina前兆ラテン語のまま。Weber の術語を踏襲
Orakel託宣意図的に問うもの。受動的な Vorzeichen と対
Traumdeutung夢解きsvapnādhyāya
Überlebsel遺習Tylor の survival の独訳。「生き残った古い慣習」。比較宗教学の鍵語
Rest / Nachklang名残・余韻Überlebsel と同趣旨のより文学的な語

§6. 神格・霊的存在

ドイツ語和訳原語
Gottheit神格devatā供犠の受け手としての神。個別の神名より抽象的
Götter神々devāḥ
Manen祖霊pitaraḥローマ宗教の manes を借りた語。「亡霊」ではなく祭祀の対象となる祖先
Geistpreta, bhūta
Dämon悪鬼rakṣas, piśāca, asura
Hexe魔女yātudhānī, arāyī
Unhold妖魔
die dunklen Mächte暗い力Nirṛti・祖霊など南方に属する存在の総称
Naturvölker自然民族19世紀民族学の術語。現代では用いない語だが、当時の比較の枠組みを示すため直訳した

§7. 場所・器具・材料

ドイツ語和訳原語
Opferplatz祭場・供犠の場所devayajana
Opferstätte祭場
VediVedi(祭壇)vedi「祭壇」と訳すと Uttaravedi や Śroṇi(腰)の説明が通らないため原語のままとした
Herddhiṣṇya, khara
Feueraltar火の祭壇citiAgnicayana で積む煉瓦の構築物
Hütte / Schuppen小屋śālā, maṇḍapa
Grubecātvāla, karta
Furche祖霊供犠で水と団子を受ける溝
Opferpfosten供犠柱yūpa犠獣を繋ぐ柱
Opferstreu供犠の敷草barhis
Opfergras供犠の草darbha, kuśa
Löffeljuhū, sruva, darvi
Gefässpātra, kalaśa
Bechercamasa, grahaGraha は「盃」であり同時に「そこに汲まれた献供」でもある
Reibhölzer摩擦木araṇi火を摩擦で得る二本の木
Amulet護符maṇi
Butter / Schmelzbutterバター・溶かしバターājya, ghṛta, sarpis三語の区別は §42 で論じられる
Mus / Breicaru, odana
Kuchen菓子puroḍāśa, apūpa
Rührtrank攪拌飲料mantha

§8. 時・周期

ドイツ語和訳原語
Neumond / Vollmond新月・満月amāvāsyā, paurṇamāsī
Neu- und Vollmondsopfer新月供犠と満月供犠darśapūrṇamāsau略号 NVO. で頻出
Parvan / Parvatag節目の日parvan月の変わり目
Jahreszeit季節ṛtu
Sonnwende / Sonnwendfest至点・至点の祭viṣuvat, mahāvrata著者の Sonnwendfeste(1889)の主題
die Zwölften十二夜dvādaśāha, dvādaśarātraドイツ民俗のクリスマス〜公現祭の期間。インドの十二日祭と重ねる比較の要
Pressungstag / Sutyā-Tag搾りの日sutyāsoma を搾る日
Pressung搾りsavana朝・昼・夕の三度
Upasad-TageUpasad の日upasad導入の日々
Semester学期ヴェーダ学習期を大学用語で言い換えたもの

§9. 状態・観念

ドイツ語和訳原語
heilig聖なる
rein / unrein清らか/不浄śuci / amedhya
Unreinheit不浄āśauca死や出産による期間限定の状態
Gelübde誓戒vrata期間を定めて守る行動制限。「誓願」より「戒」に近い
Observanz遵守事項vrataGelübde の内容をなす個々の禁忌
Enthaltsamkeit / Keuschheit禁欲・貞潔brahmacarya
Fasten断食upavāsa
Buße苦行tapas
Heil / Segen福・幸いsvasti, śam
Gedeihen繁栄puṣṭi, ṛddhi
Wunsch願いkāmakāmya(所願の)供犠の基礎概念。「願望」より制度化された「願い」
Frucht des Opfers供犠の果実phala祭主に帰属する果報
Tabuタブー一箇所のみ、Weber の推定に触れて用いられる

§10. 記述・議論のための語(読解上とくに重要)

ドイツ語和訳
Brauch慣習個々の具体的なならわし。最も頻出
Sitte習俗Brauch より広く、共同体の生活様式全体に及ぶ。両語は本書で意識的に使い分けられる
Gebrauch用法・慣行物や語の使い方を指すことが多い
Anschauung見方・観念「直観」ではない。ある文化の物の見方
Auffassung理解・捉え方
Angabe記載テクストが与える情報
Stelle箇所引用元の一節
Litteratur文献原本の綴り(現代 Literatur)
Recension校訂本テクストの伝本
Leitfaden綱要書Sūtra を指す言い換え
Lehrbuch教本同上
Sūtrakāra / SūtraverfasserSūtra 作者
volkstümlich民衆的なバラモン的(brahmanisch)の対概念。本書全体の対立軸
brahmanischバラモン的な
Brahmanisirungバラモン化民間の儀礼を正統体系に取り込むこと
Systematik体系化バラモンが加えた唯一の独創とされるもの(§1)
Symbolik象徴性
Parallele並行例比較宗教学の基本操作
Deutung意味づけ・解釈
Erklärung説明
Kasuistik決疑論個別事例を細分して規定する叙述法。Prāyaścitta 章の特徴
Spekulation思弁祭官の空論を批判的に指す語
Zusatz / Interpolation付加・挿入テクスト批判の術語
Schicht文献や信仰の歴史的地層

§11. 読解のための注意点(まとめ)

① Opfer と Zauber は連続する。 著者は §86 で、両者の区別が「近代のいくらか人為的な概念規定によってさえ実行しがたい」と明言する。したがって Opfer の章に呪術的所作が、Zauber の章に正規の供犠が現れても矛盾ではない。

② Spruch と Handlung の対が全巻を貫く。 §5 の表題がそのまま「Handlung und Spruch」であり、両者の適合・不適合が儀軌の歴史を読む鍵とされる。Spruch が Handlung に合わなくなった例は、古い慣習が後からバラモン化された痕跡と解釈される。

③ volkstümlich / brahmanisch の対立軸。 著者の基本主張は「バラモンは体系化以外ほとんど何も創案しなかった」(§1)である。volkstümlich と形容される要素(Mahāvrata の諸慣習、Vrātyastoma、Sautrāmaṇī の Surā など)は、この主張の証拠として提示される。

④ Brauch / Sitte / Überlebsel の三語で歴史が語られる。 現存する Brauch のうち、意味を失って形だけ残ったものが Überlebsel と呼ばれ、それを比較によって復元するのが本書の方法である。

⑤ 訳語を固定した語。 Opfer =「供犠」、yajña =「祭」、Spruch =「呪句/祭句」、Aberglaube =「俗信」、Manen =「祖霊」、Gelübde =「誓戒」、Schüler =「学生」。Vedi・Graha・Stotra・Śastra・Sattra・Dakṣiṇā など、ドイツ語訳を当てると原文の議論が追えなくなる祭式用語は原語のまま保持した。

Alfred Hillebrandt, Rituallitteratur. Vedische Opfer und Zauber(Strassburg 1897)日本語全訳
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